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« 「今昔物語集」卷第二十七 人妻死後會舊夫語第二十四 | トップページ | 小泉八雲 普賢菩薩の話  (田部隆次訳) »

2019/10/24

小泉八雲作品集「影」 始動 / 献辞及び「珍しい書物からの話」の「和解」 附・原拠

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Reconciliation”は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”の最初に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットと献辞の入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから。附言のついた標題ページを示した。なお、この添辞では“The original story is to be found in the curious volume entitled Konséki-Monogatari”「この原話は奇妙な(好奇心をそそる)「今昔(こんせき)物語」という名の大冊の物語に発見したものである。」となっている。無論、「こんじゃくものがたり」が正しい。原拠は後述する)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本作品集の電子化では、一部の「!」の後に字空けがない場合、特異的に一字空けを施した箇所がある。これはここでのみ述べ、以下の諸篇では繰り返さない。

 なお、本篇はその原々拠を『「今昔物語集」卷第二十七 人妻死後會舊夫語 第二十四』(人の妻(め)死にて後(のち)、舊(もと)の夫(をうと)に會ふ語(こと) 第二十四)に拠っている。それは本篇公開に先立って、こちらで原文・語注及び私のオリジナル現代語訳附きで公開しておいたので、未読の方は、小泉八雲の本篇を読まれた後に読まれんことをお勧めするものであるが、さても、何故に「原々拠」と述べたかというと、小泉八雲が本篇を書くに際して参考にしたものが、当該作の非常に杜撰な簡略型再話版に拠るものだからである。一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村(ぬのむら)弘氏の解説によれば、本篇の直接の参考原拠は江戸前期の神道家・国学者で考証随筆「広益俗説弁」で知られる井沢長秀(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)の考訂纂註になる「今昔物語」(但し、刊本は東京書肆明治三〇(一八九七)年刊の第二版と近代の出版物)の『上巻「怪異伝」の中の』「凶妻靈値鷹夫話」(これはトンデモなく致命的な誤植だらけで、本文には「亡妻靈値舊夫語」(亡妻の靈、舊夫に値(あ)ふ語(こと))とあるとする)とし、同書は『本話の題名に見られるように誤植が多い』と述べておられる。なお、「朝日日本歴史人物事典」の井沢の記載には、『肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子』で、『山崎闇斎の門人に神道を学んだ』。宝永三(一七〇六)年の「本朝俗説弁」の出版以後、旺盛な著述活動に入り、「神道天瓊矛記(しんとうあめのぬほこのき)」などの神道書は、「菊池佐々軍記」などの軍記物、「武士訓」などの教訓書、「本朝俚諺」などの辞書、「肥後地志略」などの地誌と、幅広く活躍した。また、「今昔物語」を出版しており、これは校訂の杜撰さをしばしば非難されるが(調べて見ると、同時代から後代にかけて批判された具体的記載が見出せる)、それまで極めて狭い範囲でしか流布していなかった「今昔物語集」を江戸前期以降の読書界に提供した功績は決して小さくないともあった。当初、小泉八雲が実際に原拠としたそれを見ようと調べたが、残念ながら、小泉八雲旧蔵の現物を所有している富山大学の「ヘルン文庫」でも、国立国会図書館デジタルコレクションでもネットに公開されていないことが判った。そこで、「ヘルン文庫」版のそれに従って、新字体で活字化されてある、上記講談社学術文庫版の中のそれを、恣意的に漢字を概ね正字化して、本篇の末に掲げておいた。まず、先に掲げた私の『「今昔物語集」卷第二十七 人妻死後會舊夫語 第二十四』と比較して戴ければ、そのヒドさはお判り戴けるものと思う。いや! 正直言うと、それは読まないで、「今昔物語集」の原々拠を読むほうがよいとさえ私は思うぐらい下劣なシロモノである。

 さても以上のような状況なので、ここで言っておくが、小泉八雲は杜撰な圧縮版の再話原拠を想像で美事に復元したばかりでなく、原々拠になかった男と女の感情面での追慕や表白表現の機微を驚くべき正確さで、映像を見るように、優れた脚本家のように、生の声で再現することに成功している。私は全体の整序性と展開の無駄の無さ(しかも勘所をオリジナルに押さえてある)に於いて、その話柄の完成度と美しさは、「今昔物語集」の原話を凌駕していると言ってさえよいと感じるものである。また、小泉八雲が京に向かうに先立って後妻を実家へ戻す際に、後妻との間には「(子供はなかつた)」(原文“(she had given him no children)”)とわざわざオリジナルに割注を入れていることにも着目せねばならない。これは――小泉八雲自身が身に染みて感じているところの「男」としての、否、「人間」としての絶対の道徳であり、厳守されねばならない規範であり、何をさておいてその子の魂の平穏のために守られねばならないものであるから――に他ならないからある。

 

 

   

 

 

 捧 呈

  ミッチヱル・マックドーナルド主計監(米軍海軍)へ

 

   マックドナルド樣

   ここに私は「珍しい日本の話をもう

   少し」と云ふ御註文に應ずるやうに

   試みました。作者の親愛の又一つ

   の記念として、どうぞこの書物を受

   けて下さい。

      ラフカディオ・ヘルン

           (小泉八雲)

      日本、東京、 一九〇〇年一月一日

[やぶちゃん注:以上の献辞部分はブログ・ブラウザでの不具合を考え、一部の改行及び開始位置を再現していない。

「ミッチヱル・マックドーナルド主計監」原本原文の綴りは“MITCHELL McDONALD”(ここ)。ミッチェル・マクドナルド(一八五三年~大正一二(一九二三)年)はアメリカ海軍でハーンの親友。関田かおる氏の論文「小泉八雲のチェンバレン宛未発表書簡 ―翻刻および解説―」(PDFでダウン・ロード可能)の注によれば(そこでは彼の名前の綴りは「Mitchel Macdonald」となっている)、アメリカ合衆国海軍主計大佐として日本に駐在し(明治二一(一八八八)年から一八九一年、明治三〇(一八九七)年から一九〇〇年、明治三五(一九〇二)年から一九〇五年、明治四四(一九一一)年から大正三(一九一四)年の四期間)、『退職後は日本に永住を決意して』、大正九(一九二〇)年に『横浜「グランド・ホテル」の社長に』就任したが、大正十二年九月一日の「関東大震災」で『ホテルの建物と運命を共にし』、『歿している。彼は』、『八雲にチェンバレンを紹介して以来,八雲の生涯を通じて最大の友人にな』った。『八雲の生存中は勿論』、『彼の死後も八雲の家族に対して物心ともに援助』した。『八雲は彼の好意に謝して』、作品集『『知られぬ日本の面影』と『影』を献呈している。二冊も献呈されているのはマクドナルド』ただ『一人である』とあるとあった。また、サイト「熊本アイルランド協会」の小泉八雲熊本旧居館長宮崎啓子氏の「ハーン雑話」に、彼は『ハーンが来日した時、エリザベス・ビスランド』(小泉八雲の親友でアメリカの女性ジャーナリスト、新聞・雑誌の編集者でもあったエリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年:詳しくは、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十四章 魂について(全)』の挿入注(「昔、ここを平井呈一氏の訳で読んだ若き日の私は、……」で始まるもの)を参照されたい)『の紹介状をもって横浜海軍病院勤務のマクドナルドを訪問して以来の友人です。ハーンが帝国大学講師となって上京してからは,東京と横浜とをお互いに行き来し』、『信頼関係を深めていきました。マクドナルドは雨森』信成(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年:『昭和一二(一九三七)年一月第一書房刊「家庭版 小泉八雲全集」(全十二巻)第八巻の大谷正信氏の「あとがき」』の私の注を参照されたい)『とも親しく、二人はハーン一家と一緒に海水浴に行き、皆で楽しく一日を過ごしたこともありました。ハーンは子供のように喜んで、得意の泳ぎを披露したそうです』。『ハーンの没後は、小泉家の遺産管理人として遺族を支えました。ハーンの帝大講義録も彼の尽力で出版が実現しました』。大正九(一九二〇)年に『横浜グランドホテルの社長に就任。生涯を独身で通したマクドナルドは、ハーンの長男・一雄を我が子のように可愛がりました』とある。]

 

 

   珍らしい書物からの話

        心の爐の中に、昔、彼は不思

        議な石の燃ゆるのを見た……

            ヱミール・ヴヱルハーレン

[やぶちゃん注:以上の添辞は原本では以下の通り、フランス語表記である。

   Il avait vu brûler d'étranges pierres,

   Jadis, dans les brasiers de la pensée . . .

                    ÉMILE VERHAEREN

「ヱミール・ヴヱルハーレン」はベルギーの詩人(文筆ではフランス語を用いた)エミール・ヴェルハーレン(一八五五年~一九一六年)。高踏派の影響を受け、故郷の素朴で美しい田園を写実的に歌った「フランドルの女たち」(Les Flamandes:一八八三年)、病による苦悩や絶望を歌った「黒い炬火」(Les Flambeaux noirs:一八九〇年)を発表、その後、社会に目を向け、「錯覚の村々」(Les Villages illusoires:一八九五年)や「触手ある都」(Les Villes tentaculaires:一八九五年)で自然を破壊する近代化に対する田園の悲哀を歌ったが、以後、人間の行動とエネルギーを賛美するようになり、「騒然たる力」(Les Forces tumultueuses:一九〇二年)、「至上律」(Les Rythmes souverains:一九一〇年)などを発表し、アメリカのホイットマンに比せられた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。以上の引用は“Celui de la fatigue”(「疲れたその人」か)の第四連の冒頭。フランス語サイト“Les Grands classiques”のこちらで原文詩篇全体が読める。]

 

 

   和 解

 

 昔、京都に、若い武士があつた、主家の沒落のために貧しくなつたので、遠國の守[やぶちゃん注:「かみ」。]になつて下る人に仕へる事になつた。都を去る時、この武士は妻を離別した、――善良にして綺麗な女であつた、――實は立身のために別の緣組をしようと思つたのであつた。それから或家柄の娘と結婚して、自分の任地へ連れて行つた。

 しかしこの武士が、愛情の價値を充分理解しないでそれ程無造作に捨て去つたのは、無分別な靑年時代で、苦しい貧乏を經驗して居る時であつた。彼の第二の結婚は幸福ではなかつた。彼の新しい妻は冷酷で我儘であつた、そして彼は京都時代の事を考へて名殘惜しさにたへなかつた。それから彼はやはり第一の妻を愛して居る事――第二の妻を愛する事のできる以上に彼女を愛して居る事を發見した、そして自分が如何に義理知らずで、又恩知らずであるかを感じて來た。彼の後悔は次第に悔恨となつて、彼に心の平和を與へなかつた。彼がつれなくした女の記憶――彼女の物靜かな言葉、彼女の微笑、彼女のやさしい美はしい振舞、彼女の非難の打ちどころない忍耐、――それがたえず彼を惱ました。時々彼は彼女があの困窮の時分に夜晝働いて彼を助けた時のやうに、彼女が機を織つて居るのを夢に見た、もつと度々見たのは、彼女が哀れな破れた袖で淚をかくしながら、彼が彼女を捨てて來たあの淋しい小さい部屋にただ獨りで坐つて居る姿であつた。公務の間にも、彼の心は彼女の方へさまようて行つた、それから彼は彼女がどうして暮らして居るだらう、何をして居るだらうと考へて見た。再緣はしてゐないだらう、それからどうしても自分を赦さないと云ふ事もなからうと何となしに思つた。それから彼はひそかにできるだけ早く京都に歸つて彼女をさがして見よう、――そして彼女に赦しを願つて、つれ戾して、償ひのために何でもできるだけの事をしようと決心した。しかし歲月は過ぎた。

 たうとう守の任期も滿ちたので、この武士の役目も一先づ終つた。『さあこれから自分の愛する者のところへ歸る』彼は自分で誓つた。『あれを離別した事は何と云ふ殘酷な――何と云ふ馬鹿な事であつたらう』彼は第二の妻(子供はなかつた)をその親許へ歸して、京都へ急いだ、それから、旅裝束を取り換へる暇も惜んで――直ちに昔の妻をさがしに出かけた。

 彼女の昔、住んでゐた町に着いた時は、夜は深くなつてゐた、――九月十日の夜であつた、――そして都は墓地のやうに靜かであつた。しかし明月が一切の物をあかるくした、そして造作なく家が見つかつた。住む人がないやうであつた、屋根には高草が生えてゐた。彼は雨戶をたたいたが、誰も答へる者はなかつた。それから、戶は内から締りはしてない事が分つたので、彼は押しあけて入つた。入口の間には疊も何もなかつた、寒い風が板の間の隙から吹いて來た、月の光は床の間の壁の粗い割目から洩れて來た。外の部屋は皆同じやうに荒れ果ててゐた。この家はどう見ても住む人はないやうであつた。それでも武士はその家のずつと奥にあるもう一つの部屋、――彼の妻のいつも休急所であつた甚だ小さい部屋へ行つて見ようと決心した。その境になつて居るふすまに近づくと、彼はその中にあかりの見えたので驚いた。彼はふすまを開いて驚きの叫びを上げた。卽ち彼はそこに彼女が――行燈のあかりのわきで針仕事をして居るのを見たのであつた。彼女の眼は同時に彼の眼と合つた、そして嬉しさうな微笑をもつて、彼女は彼に挨拶した、――ただこれだけ聞いた――『いつ京都へお歸りになつて? こんな暗いところを通つてどうして道が分りましたか』こんなに歲月はたつたが少しも彼女は變つてゐなかつた。やはり彼に取つて最もなつかしい彼女の記憶の通り、美しく又若く見えた、――しかし、どの記億よりもなつかしい彼女の音樂のやうな聲が、嬉しさの驚きで震ひを帶びて彼の耳に達した。

 それから喜んで彼は彼女のわきに坐つて、彼女に一切の事、――どんなに深く彼の我儘で後悔して居るか、――彼女がゐないで彼はどんなに不幸であつたか、――どんなにたえず彼女と別れた事を殘念に思つたか、――どんなに長い間償ひをしようと思つて色々工夫してゐたか――を話した。――その間彼女を抱でさすつて、くりかへしくりかへし彼女の容政を願つた。彼女はそれに答へて、彼が心で願つた通り、愛のこもつたやさしさで、――そんなに自分を責める事を止めるやうに賴んだ。彼女のためにそんなに苦むのはいけないと彼女は云つた。彼女はいつでも彼の妻となる資格はないと感じて居ると云つた。それでも彼が彼女と別れたのは、ただ貧乏のためである事を知つてゐた、彼が彼女一緖にゐた間は彼はいつでも親切であつた、それから彼女は彼の幸福を祈る事を決して忘れた事はない、もし償ひをすると云はれるやうな理由が假りにあるとしても、かうして來て貰つた事が何よりの償ひになるのであつた、――たとへほんの暫らくでもかうして又會はれる事が何よりも嬉しいと彼女は云つた。彼は喜びの笑をもつて云つた、『ほんの暫らく! ――いや七生の間と云つて貰ひたい[やぶちゃん注:「!」の後のダッシュとの間の字空けは底本のママ。]。お前の方でいやでなければ、いつまでも――いつまでも、一緖にゐようと思つで歸つて來たのだ。どんな事があつても、もう別れない。今では金もある、友達もある、貧乏を恐れるに及ばない。明日荷物がここへ來る、家來達もここへ來てお前の世話をしてくれる、そしたらこの家を綺麗にしよう。……今夜は』彼は云ひわけのやうにつけ加へた、『着物も着換へないで、――實はただお前に會つて、この事を云ひたいばかりに――こんなにおそく來た』彼女はかう云はれて大層喜んだやうであつた、そして今度は彼女の方で、彼が去つてから京都にあつた事を色々話した、――ただ自分の悲しかつた事は避けて、それについて語る事はやさしく拒んだ。二人は夜ずつとおそくまで話し込んだ、それから彼女は、南に面した暖い部屋、――それは以前彼等の新婚の部屋であつた部屋へ彼を案内した。『この家には誰も世話をする人はないのかね』彼女が彼のために床をのべるのを見て、彼は尋ねた。『い〻え』[やぶちゃん注:英語の否定疑問文へのそれを馬鹿正直に訳したもの。「はい」とすべきところである。]彼女は快活に笑ひながら答へた、『女中など置くわけに參りません、――それで全く一人で暮らしてゐます』『明日から女中を澤山置いて上げる』彼は云つた、――『よい女中、――それから何でもお前の要(い)る物』彼等は休むために橫になつたが、――眠るためではなかつた、彼等は眠られない程お互に澤山話す事があり餘つてゐた、――それで彼等は過去現在將來の事を語つた、遂にあかつきの白むやうになつた、それから我知らず武士は眼を閉ぢて眠つた。

 

 眼が覺めた時、日光は雨戶のすき間から流れ込んでゐた、非常に驚いた事は、彼は落ちかかつて居る床板の上に敷物もなく寢てゐた事であつた。……彼はただ夢を見たのであらうか。いや、彼女はそこにゐた。彼女は眠つてゐた。……彼は彼女の上に屈んだ、――そして見た、――そして叫んだ、――そのわけは、その眠つて居る人に顏がなかつたからであつた。……彼の前に、經かたびらだけに包まれた女の屍、――骨と長い黑い絡(から)んだ髮の外、殆んど何も殘つてゐない程乾枯(ひから)びた屍が橫になつてゐた。

       *         *

            *

 次第に、――彼があかるいところに、ぞつとして胸が惡くなるやうな氣もちで立つて居るうちに、――氷のやうな恐怖がたへ難き絕望、烈しい苦痛となつたので、彼は自分を嘲弄して居る疑惑の影をつかまうとした。その近所を知らない風を裝うて、彼は妻の住んでゐた家へ行く道を尋ねて見た。

[やぶちゃん注:「氷のやうな恐怖が」は底本では「氷のやう恐怖が」。脱字と断じて特異的に補った。]

 尋ねられた人は云つた、『その家には誰もゐません。何年か前に都を去つた或武士の妻の家でした。その武士が出かける前に、外の女を娶るために、その女を離別しました、女は大層惱んて病氣になりました。女は京都に親戚もなく、世話する人もなかつたやうです、それでその年の秋、――九月の十日に亡くなりました。……』

 

[やぶちゃん注:冒頭注で述べた通りの仕儀で、井沢長秀考訂纂註になる「今昔物語」(東京書肆明治三〇(一八九七)年刊の第二版)の上巻「怪異伝」中の「亡妻靈値舊夫語」(亡妻の靈、舊夫に値(あ)ふ語(こと))を以下に示す。句点のみはママ。踊り字「〱」は正字化した。読み易さを、一応、考えて、段落を成形し記号等も附した。読みは総てを附してある。

   *

 今はむかし。京にありける侍(さふらひ)身まづしくて有つくかたもなかりしが。知たる人ある國の守になりてくだるを賴みて。某國にくだらんとしけるが。これまで具(ぐ)したりける妻は若くて。かたち心ばえもらうたかりしかども。まづしさのあまりにかれを去て。たよりある侍のむすめを要(めと)りて。それを相具して國にくだりけり。

 かくて月日たつにしたがひて。京に捨てくだりにしもとの妻が事。わりなく戀しくて。にはかに見まほしくおぼえければ。

『疾(とく)のぼりてかれを見はや。いかにしてかあるらん』

と身をそぐごとくなりしかば。よろづ心すごくて過しける程に。月日も過て任(にん)もおはりぬれば。守の供としてのぼりけり。

 おとこ思ひけるは。

『我よしなくもとの妻を去けり。京にかへりのぼらば。やがて行てすまん』

と思ひて。上(のぼ)るやおそきと。後の妻をは家にやりて。その身は旅裝束(たびしやうぞく)のまゝにて。舊妻がもとに行ぬ。

 家の門は閉(とぢ)たれば這(はい)入て見るに。ありしにかはりて家もあやしくあれて。人住たる氣色もなし。是を見るにいよいよ物あはれに。心ぼそき事かきりなし。

 頃は九月中の十日の事なれば。月もあかく夜ひやゝかに心ぐるしき程なり。

 家の内に入て見れば。常に居たりし所に妻ひとり居て又人なし。

 妻男を見て。うらみたる氣色もなく。うれしげにて。

「こは何とておはしつるぞ。いつ上り給ひたるぞ」

といへば。男國にて年比思ひつる事どもをいひて。

「今はかくてすむべし。固より持のぼりたる物は明日とりよせん。從者などをもよぶべし。今夜まづ此由申さんとて參りつるなり」

といへば。妻よろこびて。年比の物語どもして。夜も更(ふけ)ぬれば南面の方に行てともにふしたり。

 男

「爰には人はなきか」

と問ば。女

「わりなき有樣にて過しつれば。さかはるゝ[やぶちゃん注:底本にママ注記あり。「つかはるゝ」の誤植であろう。]者もなし」

と答(こたへ)つゝ。

 こしかた行末のことを終夜(よもすがら)かたる程に。曉(あかつき)になりて。ともに寢(ね)入ぬ。

 間もなく夜明て。日のさし入たるに男おどろきて。妻を見るに。

 枯々(かれがれ)としたる死人なり。

「こはいかに」

とおそろしければ。起走つて躍り下(をり)て。

「僻目(ひがめ)か」

と見れ共うたがひなき死人なり。

 其時に水干袴(すいかんばかま)を着て。隣(となり)の小家に行て。今はじめて尋るやうにて。

「此隣の人はいかゞ成しぞ。家に人はなきや」

と問ければ。

「其人は年比の男の去て。遠國にくたりしを思ひ入てなげきし程に。病つきてありけれども。いらふ人もなくて。此夏うせ侍りぬ。死骸(しがい)をを[やぶちゃん注:ママ。衍字。]取て捨るものもなければ。いまだ有なり」

といひしかば。男いよいよおそれてにげ歸けり。

 實になにおそろしかりなん。年此の思ひにたゝずして。魂(たましひ)のとゞまりて逢(あい[やぶちゃん注:ママ。])たりけむ。あはれなる事なりとかたり傳へたると也。

   *]

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