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2019/10/22

小泉八雲 お大の例  (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ The Cace of Odai ”(「橋の上にて」))は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“ Strange Stories ”(「奇談」・全六話)・第二パート“ Folklore Gleanings ”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“ Studies Here and There ”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第二話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから。ここでは本文ページではなく、添辞の附くその前の標題ページで示した)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した【2025年4月11日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、田部氏は冒頭添辞(聖書の二つの引用。キリスト教嫌い小泉八雲にして一見、特異点に見えるが、話を読めば、その提示は皮肉としてよく判るものである)を標題の添辞ではなく、以下の通り、本文の前書のように、本文と同ポイントで一字下げ二行で掲げているのも特異点である。

 一箇所ある「譯者註」は最後に字下げポイント落ちであるが、当該段落末に同ポイント引き上げで移した。

 なお、底本の田部隆次氏の「あとがき」によれば、これは主人公の名を変えてあるが、松江であった事実談であるとある。実は、「あとがき」には、もっと詳しい記載があるが、★ネタバレになるので、★後でリンクを見られんことを、★強く望む。

 

 

   お 大 の 例

 

 『汝の父母を敬へ』――申命記五章十六節

 『我が子よ、汝の父の敎をきけ、汝の母の法(おきて)を棄ることなかれ』――箴言一章八節

[やぶちゃん注:「申命記」(しんめいき)は旧約聖書中の一書。「モーセ五書」の一書として最後の五番目に配されてきている。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば(コンマを句点に代えた)、『書名の』「申命記」は『ギリシア語からつけたもので,語源が示すところによると「第』二『の律法」』、『というよりは』、『律法の「写し」,あるいは「繰返し」という意味がある』。「申命記」の『起源については』、『ユダの王ヨシヤによる宗教改革』(紀元前六二一年)に関する「列王紀 下」(二十二章と二十三章)の『物語との関係が早くから論じられていたが、デ・ウュッテらの研究によって、改革の基準とされた』「律法の書」は「申命記」であると確認されている。『したがって、その起源は異論もあるが、ほぼ』起原前八世紀末乃至起原前七世紀に『求められる』という。「申命記」は『モーセの説教という形式をとるが,内容的には大きく』三『部に分れ』、まず、一~十一章で『十戒と唯一の神ヤハウェへの絶対的服従が説かれ』、十二~二十六章で『モアブでの契約律法が』、二十七~三十二章では『律法を果すべき動機とその遵守に対する応報が、そして最後に』三十二『章ではモーセの歌が記されている』。「申命記」の『神学は、唯一神ヤハウェのまったき恵みによって選ばれた「神の民」の神学であり、それはシェマ・イスラエル』、則ち、『「イスラエルよ』、『聞け。我らの神、主は唯一人の主なり。汝心を尽し』、『精神を尽し』、『力を尽して』、『汝の神、主を愛すべし」』 (六章の四と五)と『いう言葉に代表される』。「申命記」は『王国の制度が部族の自由を脅かし、アッシリアの圧迫が増大するという新しい状況のもとで、一つの神、一つの民族、唯一の祭儀という古いアンフィクティオニー(宗教を中心とする種族連合)の理念を』、『再び』、『力強く掲げたものであった』とある。小泉八雲の原文では引用は“"Honor thy father and thy mother." — Deut. v. 16.”。「Deut.」は「Deuteronomy」は「申命記」の英訳。

「箴言」(しんげん/英語:Mishle/Proverbs)は旧約聖書の一書で、旧約聖書内でも「知恵文学」の代表的一書である。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば(コンマを句点に代えた)、『マソラ本文では諸書の真理と呼ばれるものの一書、セプトゥアギンタでは文学の一書。箴言の原語メシャーリームは「比喩」あるいは「格言」の意。第』一『章の表題から』、『古来』、「箴言」の『著者はソロモン』(イスラエル統一王国第三代目の王(在位紀元前九六一年~紀元前九二二年))『とされていたが、実際はいくつかの箴言集の集成であり、ソロモン自身がそれとどのような関係に立つかは不明である。内容は』①『知恵の賛美』(一~九章)、②『ソロモンの箴言』、③『知恵ある者の言』、④『ソロモンの箴言』、⑤』マッサの人ヤケの子アグルの言』、⑥『マッサの王レムエルの言』、⑦『賢い妻をたたえたアクロスティックの詩(アルファベット詩歌)二『大別される』。「箴言」の成立した時代は』、恐らく『バビロン捕囚』(紀元前五九七年から紀元前五三八年に亙ってイスラエルのユダヤの人々がバビロニア王ネブカドネザルによってバビロニアに捕囚となった事件)『後で、内外ともに悲観すべき状況にあり』、『伝統的信仰は動揺し』、『道徳的退廃も著しかった。この危機にあたり,預言者に代る教師たち(知恵ある者)は、神を恐れる以上の知恵はない』、『という伝統的信仰に立脚しながら』、『実際的処世訓を説き、若いユダヤ人を指導した』とある。小泉八雲の原文は“"Hear the instruction of thy father, and forsake not the law of thy mother." ―Proverbs 1. 8.”。]

 

 

       

 

 お大は佛壇の燈明と香爐と水入れをわきへやつて、そのうしろの小さい御厨子を開いた。そのうちに、彼女の一族の位牌があつた。――合せて五つの位牌があつた、それから觀音菩薩の黃金の姿がそのうしろに微笑しながら立つてゐた、祖父母の位牌が左の方、兩親のが右の方にあつた、そしてその間に皆幸福であつた時分に一緖に遊んだり喧嘩したり笑つたり泣いたりした小さい弟の戒名のある小さい位牌があつた。それから、又その御厨子には多くの祖先の戒名の書いてある卷物もあつた。お大はその御厨子の前で、幼少の時から合掌をする事になれてゐた。

 この位牌と卷物は、以前は父の愛情と母の撫育よりも、――彼女の幼少の時代を養育し、彼女を脊負うて祭と云ふ祭につれて行き、彼女を喜ばせる事を工夫し、彼女の色々の小さい悲しみを慰め、歌をうたつて彼女の不機嫌を直してくれて、いつも愛情にみちた、いつも辛抱强い、いつもにこにこした老人達のどの記憶よりも、――可愛いいたづらの弟の笑と淚、やさしい呼び聲、高い呼び聲、走る音よりも、――祖先の凡ての傳說よりも、お大の信仰にとつては、大きな、遙かに大きな意味をもつてゐたのである。

 その理由は、それ等の物は過去の人々が目に見えないでも實際に存在する事、――目に見えない同情とやさしさの現れ、――生者の悅びと悲しみに應ずる死者の悅びと憂を意味したからである。これまで夕方の薄暗がりの時、其位牌の前に燈明をともす事をつねとしてゐた時、いかに度々その小さい焰が、それ自身の力によらないで動くのを見たであらう。

 

 しかし位牌は信心深い想像に取つてはただの表象以上の物ででもある。變質、變態の不思議な可能性がそれに存して居る。死から生へうつる間、魂の一時の宿ともなる、香の浸み込んで居る木の纎緯[やぶちゃん注:ママ。「せんい」。原文“fibre”(ファイバー)で、これは木材の木質繊維のことを指す。]の一つ一つは、見えない潜在の生命を、もつて生きて居る。靈の意志はそれに生命を與へる事もある。愛の力によつて位牌は肉と血とにかはる事もある。位牌の助けにより、葬られた母が暗夜にそのみどり子に乳を與へるために歸つて來る。位牌の助けによつて、火葬の薪で消えた女が、その許嫁の夫と結婚するために歸つて來る事がある、――更に有難くも、男の兒を與へる事さへもある譯者註。位牌の力によつて、死んだ家來が零落から主人な救ふために永眠の墳墓から歸つて來る事もある。それから愛や忠がその意志を果してから、その人は消える、――その肉體は再び見たところただの位牌となる。

譯者註 「知られぬ日本の面影」第二十五章第七章參照。

[やぶちゃん注:私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十五章 幽靈と化け物について(七)』を参照されたい。]

 

 凡てこの事をお大は知つて覺えてゐた筈である。恐らく覺えてゐた、彼女が御厨子から位牌と卷物を取り出して、窓から下の河へ落した時に泣いたからである。流れがそれを運び去つた時、彼女はそのあとを貝送るに忍びなかつた。

 

 

       

 

 お大は二人の英國の女宣敎師の命によつてかうしたのであつた、その人々は色々親切を裝うて彼女を基督敎徒としようと說いたのであつた。(改宗者は祖先の位階を埋めるか棄てるやうにいつでも命ぜられた)それ等の宣敎師にこの地方で始めて發見した唯一人の改宗者のお大に、助手として一ケ月三圓の給料をやる約束をした、お大は讀み書きができたからであつた。彼女の手の働きでは一ケ月二圓以上を儲ける事が到底できなかつた、そしてその中から小さい古道具屋の二階を借りて二十五錢の間代を拂はねばならなかつた。そこへ兩親の死後、彼女は家財と祖先の位牌を携へて行つた。生きる爲めには彼女は全く一所懸命に働かねばならなかつた、しかし一ケ月三圓あれば甚だ安樂に暮す事ができた、そして女の宣敎師は彼女のために部屋を與へた。彼女は人が自分の改宗を氣にかけるとは考へなかつた。

[やぶちゃん注:「三圓」以前に示したが、明治三〇(一八九七)年頃の小学校訓導(教員)や巡査の初任給は月八円から九円ほどで、一人前の大工や熟練した工場技師で月二十円位だったとし、そこから庶民にとっての一円を現在の二万円程度の価値はあったとする信頼出来る推定換算値によれば、六万円相当となる。]

 實際彼等は餘り頓着しなかつた。彼等は基督敎については何も知らなかつた、そして知らうともしなかつた、彼等はお大が外國婦人の眞似をする程愚かである事を嘲り笑つただけであつた。彼等は彼女を馬鹿と考へて惡意のない嘲りをした。そして彼女が河に位牌を投げるのを見られたその日までは、彼等は引續きただ面白半分に彼女を嘲つてゐた。その日から彼等は笑ふのを止めた、彼等はその動機や論じないで、その行爲それ自身を判斷した。彼等の判斷は卽座の、一致の、無言の物であつた。彼等はお大に一言の非難をも云はなかつた。彼等は彼女の存在を無視しただけであつた。

 

 日本の社會の道德的憤怒はいつも烈しい憤怒、――それ自身をすぐに燃やしてしまうやうな種類の憤怒とはきまらない。冷たい事もある。お大の場合では、それは氷の厚くなる時のやうに冷たい、無言の重い物であつた。何人も[やぶちゃん注:「なんぴとも」。]口には云はなかつた。全く自發的、本能的であつた。しかし一般の感情は、こんな風に言葉に譯する事ができたであらう、――

 

 『この極東に於て、人間社會は、太古より、過去に對する現在の感謝、死者に對する生者の尊敬、祖先に對する子孫の愛情を要求するその信條の力によつて結合されて居る。この目に見える世界のあなたまで、親に對する子の義務、主人に對する從者の義務、君主に對する臣下の義務が及んで居る。かるが故に家庭の相談に於て、國體の會議に於て、裁判の高き座席に於て、都會の支配に於て、國の政治に於て、死者は座長となるのである。

 

 『孝行と云ふ至高の德に反し、――祖先の宗敎に反し、――凡ての信仰と感謝と尊敬と義務とに反し、――彼女の種族の凡ての道德的經驗に反して、――お大は赦すべからざる罪を犯した。それ故人は彼女を見て汚れたる者、……――往來の犬、屋根の上の猫よりも親切を施す價値のない者――と見なすべきである、卽ちこれ等の物も、その低い程度に於て義務愛情の道を守るが故である。

 『お大は彼女の死者に對して感謝の言葉、愛のささやき、娘としての尊敬を拒絕した。それ故今後永久、生者は彼女に挨拶の言葉、普通の會釋、やさしい答を拒絕せねばならない。

 『お大は彼女を生んだ父の記念、彼女がその乳を飮んだ母の記念、彼女の幼年時代を撫育したおとな達、彼女を姉と呼んだ小さき者の記念を嘲つた。彼女は愛情を嘲つた。それ故凡ての愛、凡ての情あるつとめは彼女には與へられない。

 『彼女を生んだ父の魂、彼女を生んだ母の魂に、。お大は屋根の蔭、食物の氣、水の捧物を拒ん與へなかつた。丁度その通り彼女には屋根の蔭、食物の授與、氣分を爽快ならしむる一杯の物も與へられない。

 『そして丁度彼女が死者を投げ捨てたと同じく生者は彼女を投げ捨てるべきである。殘骸の如く邪魔物にさるべきである、――何人も顧みない、何人も葬らない、何人も憐まない、何人も神や佛にそのために祈らない小さい腐肉の如く。餓鬼の如く彼女はあるべきである、――塵塚の中をあさつて食物を求むる少食(せうじき)餓鬼の如く。生きながら地獄のうちに入るべきである、――しかも彼女の地獄は唯一人の地獄、淋しい地獄、火の淋しさに呪はれたる魂を圍む孤獨の地獄であるべきである。――

[やぶちゃん注:「少食(せうじき)餓鬼」原文“ Shōjiki-Gaki ”。これは餓鬼の三大分類の内の一つである、穢れた血や膿、人間の糞尿や嘔吐物、人の死体などの不浄なごく僅かなもののみを食うことが許されている餓鬼とされる「少財(しょうざい)餓鬼」のことであろう(他は無財餓鬼(飲食しようとするとその対象が炎などになって、食べることが全くできない餓鬼)と多財餓鬼(人の遺した余り物や人から施されたものを食べることができる餓鬼)。]

 

 

       

 

 思ひがけなく宣敎師の女達はお大に自活すべき事を通知して來た。恐らく彼女は最善をつくしたらう、しかしたしかに彼女は彼等に何の役にも立たなかつた、そして彼等は有能な助手を要した。その上彼等は暫らくその地を去らうとしてゐた、そして彼女を一緖につれて行く事はできなかつた。たしかに彼女は單に基督敎徒であるために一ケ月三圓貰へると思ふ程愚かである筈はなかつた。……

 お大は泣いた、それで彼等は彼女に勇敢であれ、正しき道を蹈めと敎へた。彼女は職を求むる事はできないと云つた、彼等は勤勉にして正直な人はこの忙しい世界に於て、就職難に苦しむに及ばないと告げた。それから絕望的恐怖の餘り、彼女は彼等に彼等の理解する事のできない、そして頑强に信じようとしない事實を告げた。彼女は危難のさし迫つて居る事を告げた、そこで彼等は彼女が全然堕落した事を告白したと信じて、彼等のできる限りの冷酷さを以て答へた。これは彼等の誤解であつた。この少女に惡德の分子は一點もない、愛すべき弱點と小兒らしい輕信とは彼女の最も惡い缺點であつた。實際彼女は助力を要した、早くそれを要した、甚しくそれ要した。しかし彼等は只彼女が金錢をほしがるとのみ考へた、そしてその金錢を得られない時には、罪を犯すとおどかしたとのみ考へた。彼女にはいつも前金で拂つてあるから、彼等は彼女に何にも負うてゐない、そして彼等はこれ以上何等の種類の助けをも與へない理由が立派にあると想像した。

 そこで彼等は彼女を外に出してしまつた。すでに彼女はその家財を賣つた。もう何(なん)にも賣る物はない、ただ着て居る一枚の着物及び役に立たない足袋の數足あるだけ、その足袋は宣敎師の女達が若い女が素足で居るのを見られるのは不作法であると思つて、彼女に買はせたのであつた。(彼等は又日本風に髮を結ふことが不信心に見えるので、忌まはしき束髮に結ふ事を餘儀なくもさせた)

 

 孝行の道に反した行があつたと公然判定された日本の少女はどうなるだらう。不貞と公然判ぜられた英國の少女はどうなるだらう。……

 

 勿論お大は强かつたら、袂に石を入れて河に投じたかも知れない、――そのやうな境遇では、さうするのが立派なやりかたであつたらう。或は喉を切つたかも知れない、――その方がもつと立派だ、それには勇氣と熟練と兩方要るから。しかし彼女の階級の改宗者の多數の如く、お大は弱かつた、この人種の勇氣は彼女には缺乏してゐた。彼女は未だ生きてゐたかつた、そしてその生きる權利を主張するために、世の中と爭ふ事のできる强い型の人ではなかつた。彼女の過失を充分誓つて改めた後でも、彼女には取るべき道が只一つしかなかつた。

 

 願はれた値段の三分の一で、お大の肉體を買つた人は云つた、――

 『私の商賣はこの上もなく恥づべき商賣です。しかしこんな商賣へも、お前さんがしたやうな事をした女は入れられません。私のうちへお前さんを入れたら、お客は來なくなります、そして事が色々面倒になります。だから大阪へお前さんをやりませう、そこへ行けば分らないから、そして大阪のうちでお金を拂つてくれます。……』

 

 そんなにしてお大は、都會の肉欲の坩堝(るつぼ)の中に投げられて永久に消えた。……多分彼女はどの外國宣敎師でも皆理解するやうに試むべき事實の一例を示すために存在したのである。

 

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