ブログ1270000アクセス突破記念 小泉八雲 日本からの手紙 (大谷正信譯) / 作品集「天の河緣起そのほか」全オリジナル電子化注~完遂
[やぶちゃん注:本篇(原題“ A LETTER FROM JAPAN ”は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“ THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES ”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の掉尾に配されたものである。但し、底本最後の大谷氏の「あとがき」(後に電子化する)では本篇は附録と認識されてある。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。
底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年4月4日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。
訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。
傍点「﹅」は太字に代えた。標題に添えられたクレジットは底本ではポイント落ちであるが、同ポイントで示した。
なお、本篇は本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログがつい先ほど、1270000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年10月8日 藪野直史】]
日本からの手紙
東京、千九百四年、八月一日。
綠の平和を破るものは、ただ、遊んで居る子供等の聲と、蟬の銳い啼き聲だけの、この閉靜な町外づれの此處に居ては、總計五十萬人以上の軍隊の間に、近代の最もすさまじい戰爭の一つが、三四百哩[やぶちゃん注:一マイルは約千六百九メートル。四百八十三~六百四十四キロメートル。]離れた處で、今、進行中であること、或は、彼我兩土の間なる海上で一百の戰艦が戰つたといふことを想像するのは困難である。西洋列國中、その最も强大なものと、今なほ精力旺盛な人の多くが懷ひ出せる頃に、やつと西洋の科學を硏究し始めた一國民との間のこの爭鬪は、少くとも一方にとつては、國家の存亡にかかはる爭鬪である。已むを得ぬものであつた、此戰鬪は。或は延期は出來たかも知れぬが、確かに避けることの出來ぬものであつた。東洋と西洋との兩文明を同時に脅やかし得る帝國に――力弱くこれを阻まなければスカンデイナビアを幷呑し、支那を左右する將來を有つて居るやうに思へる、中世建設の一强國に――日本は大膽にも挑戰した。あらゆる工業的文明に對して、この爭鬪は非常に重大なものである。――日本にとつては、恐らくは、その國民的生命の無上の危機である。ところが、日本の艦隊、日本の陸軍が何をして居るか、これは世界は十分に報道に接して居るが、その國民が內に在つて何をして居るかに就いては、筆に上つて居るものは甚だ少い。
[やぶちゃん注:添えられたクレジットは「日露戦争」(明治三七(一九〇四)年二月八日から翌年九月五日まで)の最中で、「旅順攻囲戦」(同年八月十九日から翌年一月一日まで)の直前である。また、執筆当時に住んでいて、小泉八雲の終焉の地となったは、東京都新宿区大久保(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)である。以前に述べたが、再掲すると、「新宿観光振興協会」公式サイト内の「小泉八雲旧居跡」によれば、小泉八雲は明治二九(一八九六)年に『日本に帰化し』、『同年、東京帝国大学(東京大学)で英語・英文学を講ずることなって上京。この地に、約』五『年間住み』、『樹木の多い自証院一帯の風景を好んだ八雲は、あたりの開発が進んで住宅が多くなると、西大久保に転居し』たとある。東京都新宿区富久町に自證院はあり、現在の「小泉八雲旧居跡」の碑(成女学園内)はそこから北北東に百三十二メートルである。この孰れかであろう。小泉八雲は必ずしも同時時制で作品を書いていないことは、他の作品でも見られることで、奇異なことでも何でもない。寧ろ、熊本での出来事を松江に移して書いたりもしていることもあるので、ここを事実に照らして実地を孰れかに限定することは、微妙に難しさがあり、まさに小泉八雲こそ「文学的真実」という技巧を、しばしば用いる作家なのである。但し、後で園芸師が多く居住しており、季節になると、躑躅園に大勢の客が来るとある点からは、終焉の地となった西大久保である可能性が。すこぶる高い。何故なら、昔からよく訪れるサイト「綺堂事物」の「大久保の躑躅(つつじ)」に、江戸時代後期から、『大久保の躑躅、亀戸天神の藤、堀切の菖蒲』は『江戸の三大花の名所となってい』たとあり、しかも大久保には、明治になってからも明治一六(一八八三)年に『元躑躅園、数年後に、南躑躅園ができた』。明治三六(一九〇三)年には七園にも『増え、花の種類』七千種、『株数は一万を越えるといわれた』とあるからである。このページ、嬉しいことに、最後に、「小泉八雲の西大久保」という短章があり、そこに、小泉八雲が『西大久保に居を構えた』のは明治三五(一九〇二)年三月十九日とする(但し、記載は自證院裏手とあってこれは移転前の位置である)。「西大久保の八雲邸」の写真(第一書房「小泉八雲全集 別巻」(昭和二(一九二七)年版より転載)もある。必見!]
經驗に乏しい人の觀察には、日本人は何時もと異つたことは、何一つして居らぬやうに見えるであらう。ところが、この不思議な平穩は記錄に値ひするのである。對敵行爲の開始に當つて、非戰鬪員は凡て平常通りその職業に從事するやう、また外部の事件には出來得る限り心を勞しないやうにとの敕語が發せられた。そしてこの命令は一語もそむかれずに遵奉されて居る。或はかく想像する人があらう。此戰爭の犧牲と悲劇と不確實とが、殊に首府の生活にその陰影を投じたのである、と。かく想像するのは當然ではあるが、心配或は意氣沮喪の情態を示すものとては實際に全く何一つ無いのである。それどころか、國民一般の自信が喜ばしげな調子なのを見、また幾度の捷報[やぶちゃん注:「せうほう(しょうほう)」。勝ったという報知。「勝報」に同じ。]に接しても、國民の自負心が感心なほど制御されて居るのを見て誰れしも驚く。西からの海流が、日本人の屍體を其海岸に撒き散らしたことがある。鐡條網の防備のある陣地を襲擊して幾聯隊の兵士が絕滅したことがある。幾艘の戰鬪艦が沈沒したことがある。だが、如何な瞬間に於ても、國民的興奮は徵塵だもこれまでに見ない。人々は正(まさ)しく戰前どほりに、日日のその職業に從事して居る。物事の樂しさうな樣子は、正しく戰前と同じである。芝居や花の展覽は戰前に劣らず、贔屓を有つて居る。市外の生活は何の影響を蒙らず、他の年の夏同樣に、花は咲き、蟬は舞うて居るが、外見では、東京の生活はそれと同樣に、殆んど戰爭の事件の影響を蒙つて居ない。或る大勝利の報道に接した時――その時は花火を揚げ、提燈行列をして祝ふが――その時を除いては、國民的感情の何んの形跡も無い。そして、鈴をリンリン鳴らして走る男が、屢〻新聞號外を配つてあるくことが無ければ、この戰爭の話は凡て惡夢だと思ひ込ひことが出來る位である。
それでも莫大な苦痛が、必然、あつた、――日本の宗敎たる社會的愛國的義務といふその念が抑制して居る眼に見えず、聲にきこえぬ苦痛があつた。最近の或る十七字詩が語つて居るやうに、勝利の報道は一度一度歡喜と共に苦痛を齎らすに相違無いのである。
號外の度(たび)敵味方後家が殖え
[やぶちゃん注:この川柳(内容と無季語から俳句ではない)の作者は不詳。]
この大靜肅と嬉嬉たる淚無さは、この人種のスパルタ以上の鍛練を證明して居るのである。古昔、この國民は、その情緖を隱す計りでは無く、精神的苦痛の如何なる壓迫の下に在つても、楽しさうな聲で物を云ひ、愉快さうな顏を人に見せるやうに訓練されたのであつた。そして彼等は今日もその敎訓を守つて居る。陛下の爲め、祖國の爲めに死ぬる者共を亡くした個人的悲哀を現すのは、今なほ、恥辱と考へられて居るのである。一般公衆は、恰も人氣のあろ芝居の舞臺面を看るやうに、戰爭の事件を觀て居るやうに思へる。興奮はせずして興味を感じて居る。そして、彼等の異常な自制心は『遊戲衝動』の種種な表現に特に示されて居る。到る處劇場は戰爭芝居(實際の事實に基いた)を興行して居り、新聞雜誌は戰爭物語、戰爭小說を載せて居り、活動寫眞は近代の戰爭の驚くべき仕方を見せ、また無數の工藝は、日本の勝利を記念する意匠の藝術品、或は實用品を製造して居る。
然し現時の心理的情態は――國民的感情の樂しげに見え、面白がつて居るやうにすら見える調子は――どんな一般的敍述によるよりか、尋常普通な事實の記述――自分の日記に書き留めてある日常の事柄の記述――によつてよく示すことが出來る。
寫眞屋が今度ほど多忙なことは、これまで一度も無かつた。受けた注文の半分も應ずることが出來なかつたといふはなしである。戰場へと送り出される幾百千の人は、寫眞を家族の者へ殘して置かう、また、親や子や愛して居る他の人達の寫眞を携へて行かうと思つたのである。過去六箇月の間、國民全體が寫眞を撮りつつあつたのである。
社會學的に見て興味のある事は、寫眞といふ事が家庭の信仰の詩美に新しき、或る物を加へたといふことである。それが始めて輸入されたときから、寫眞は日本では流行になつた。文明の日本に劣る人種には、寫眞機に恐慌の念を抱かせる迷信が多くあるが、そんな迷信のどんなものも、一新工藝の迅速な發達に何等の障害を提供しなかつた。尤も寫眞に就いて二三の奇妙な民衆信仰があるにはある、――寫眞と寫眞に寫つた人との間に、不可思議な關係があるといふ思想があるにはある。一例を云へば、多人數が一團となつて寫した寫眞の中で、一人が不明瞭にまたは、ぼんやりと撮れて居ると、それは病氣に罹るか、死ねるかする前兆だと考へられて居る。だが、この迷信は、工藝上の價値を有つて居る。といふのは、寫眞屋をして是非とも、その仕事に注意せざるを得ざらしむるからで――特にこの戰爭の場合、寫眞帖に保存して置くといふ目的とは異つた或る目的に、寫眞が必要になるかも知れぬので、誰れも彼もはつきりした立派な寫眞を有ちたい[やぶちゃん注:「もちたい」。]と思ふ場合、殊にさうである。
過去二十年の間に、死んだ親や兄弟や夫や子供の寫眞を、佛壇の中にある位牌の橫へ立てて置くといふ習慣が次第に出來て來た。それでこの理由の爲めにも、出て行く軍人は、自分の立派な寫眞を殘して置きたいと思ふのである、
古いさむらひの家庭に在つて、一家の者共の情愛を現す儀式は、死者に奉仕することに限られて居るのではない。或る場合には、家に居ない親や兄弟や夫や許嫁の寫眞を客間の床の上へ置いて、その前へ御馳走を供へる。かかる場合には、寫眞は小さな臺の上に据ゑて置く。そして、その人が現(げん)に、其處に居るかのやうにして、その御馳走をささげる。不在者に食事を供へるといふこの美はしい習慣は多分、肖像を描くどんな藝術よりか古いものであらう。が、この近代の寫眞は、この儀式の人間的詩味を增して居る。封建時代には、不在なその人が出て行つた方角へ向けて――北とか南とか東とか西とかへ向けて――食事を供へるが規則であつた。供へてから間少し置いて、料理した食物の入つて居る器の蓋を揚げて儉べて見る。漆塗りの内側に湯氣の露が濃く附いて居れば、誠に以て結構である。が、若しかその表面が乾いて居ると、それは、その人が死んだ兆[やぶちゃん注:「きざし」。]、肉體を離れた靈が供ヘ物の精氣を吸ひに歸つて來た印(しるし)であると思はれて居た。
恐らく世界の他の何處に見るよりか、『遊戲衝動』が一層强い國にあつて、誰れしもこれを期待したらん如くに、時代精神が其年の花の展覽に發露された。自分の家の附近は、園藝師の居住區であるが、其處の花の陳列を自分は見物に行つた。この區域はその躑躅で有名で、每春その躑躅園は幾千といふ人の足を惹きつける。その時其處で陳列する灌木の、隙き間の無い花の塊(かたまり)と見ゆるものの(それも雪と白いものからして、あらゆる濃淡の度を異にした淡紅色を經て、焰と燃ゆる紫に至るまでの)驚くべき展覽をするからばかりでは無く、人形の陳列が――生きた葉と花とで巧妙に造りなした幾群れの人物の陳列が――あるからである。實物大のこの人形は普通は歷史、或は戲曲の中の有名な事實を象(かたど)つたものである。多くの場合――全體では無いが――人形の身體と衣裳は、或る骨組みのあたりに育ち茂るやうに造り仕立てた枝葉と花とから成つて居る。そして、顏と手足とは何か肉色の造り物で表してあるのである。
ところが今年は見世物の大多數は、戰爭の場面を象つたものであつた。日本の步兵と馬上のコサツク兵士との戰鬪とか、水雷艇の夜襲とか、戰鬪艦の沈沒とか。此最後に述べた見世物では、露西亞の水兵が荒海の中で一所懸命に泳いで居る處が見せてあつて、板紙づくりの波と泳いで居る人物とは、一本の綱を引張つて上がつたり、下がつたりするやうにしてあり、速射砲のパチパチいふ音は亞鉛の板で、工夫した機械仕掛けで眞似をして居た。
[やぶちゃん注:「速射砲」ここは単装艦載砲のそれ。通常は中口径の砲で、現行では毎分十~四十発以上を発射可能なものを指す。所謂、「アームストロング速射砲」で、これを最初に導入したのはまさに日本海軍で、イギリス海軍よりも早く、日本最初の速射砲搭載艦は装甲巡洋艦「千代田」で、既に日清戦争に於ける「黄海海戦」の勝利に大きく寄与したとされている(ウィキの「速射砲」に拠った)。]
聞くところに捺ると、東鄕提督は、その職責の爲めに、櫻や梅の花をその季節に見る機會がないので、鉢植ゑの花木を幾つか東京へ注文されたさうで、園藝師は義俠すぎる程これに應じたさうである。
對敵行動の始つた殆んど直ぐ後に、幾千といふ「戰爭畫」――大抵は廉い[やぶちゃん注:「やすい」。]石版畫――が出版された。圖も著色も支那との戰爭の折に發行されたのよりよかつたが、細かしい[やぶちゃん注:ママ。]處は餘程想像的なもので――露西亞の艦隊の樣子なんか全く想像的なものであつた。露西亞の艦隊との交戰の圖は、恐ろしく誇張的なものであつたが、感銘的なものであつた。最も驚くべき物は、一度も戰鬪をしない前に出來た露西亞軍の朝鮮での敗北の多くの繪で、これは畫家が「熱し過ぎて場面を見越して」書いたものであつた。そんな繪には、露軍がその士官を――甚だ立派な顏をして居る士官を――戰場に死んだままに遺棄して、大潰亂を爲して敗走して居る處が描いてあつて、一方、日本の步兵はと見ると、恐ろしく思ひ込んだ顏附きをして、速步で迫つて居る。こんな風に繪で以て勝利を豫言するの當不當、また賢不賢は疑ひを容れ得ることであらう。だが、聞けばかくする習慣は舊い習慣で、誰れもが共同に抱いて居る希望を、かく想像的に實現するのは目出度い事と思はれて居るのであると。兎に角、こんな繪に別に人を欺かうといふ計畫があるのでは無いので、繪はただ、人民一般の勇氣を支へる役に立つので、神も快よく見そなはせ給ふものなのである。
初めのほど出た繪のうちで、それが今や氣味の惡るい位、實現せられて居るのがある。支那での幾多の戰勝も同樣に豫表されたのであつた。その戰勝は繪師の信念を十分に是認した。……今日戰繪は引き續いて增加して居るが、特性は變つて居る。寫眞の假借無き眞實と戰爭通信員のスケツチとが事實の鮮かさ、烈しさを齎らして藝術家の想像力を助けて居る。見越して書いた繪にはあどけ無い、そして、芝居じみた處があつたが、刻下[やぶちゃん注:「こくか(こっか)」。今現在。目下。]の繪には非常に悲劇的な現實が――一日一日、層一層、悲慘となりつつある現實が――現されて居る。今、この文を書いて居るまでに、日本はただの一度の戰役にも敗北をして居らぬ。が、その戰勝のうち高價な犧牲を拂つて得られたものが少からぬのである。
戰爭が鼓吹した意匠の裝飾を有つた種種樣樣な品物――櫛、衿止、扇、胸針[やぶちゃん注:原文“brooches”。ブローチ。]、名刺入、財布といつたやうな品物――これをその十が一を數へ立てるのに一卷の書物が要るであらう。麪包菓子[やぶちゃん注:「パンがし」。]や砂糖菓子にも海軍か陸軍かの模樣が捺してあり、商店の硝子窻[やぶちゃん注:「窻」は「窓」の異体字。]又は紙貼り窻には――看板は云ふに及ばずで――日本の勝利の繪がそれに描いてある。夜になると商店の提燈が、その艦隊と陸軍とに對する國民の自負心を聲明する。そして、透し繪や玩具提鐙の新奇な模樣に就いて書けば一章全體を容易に充たすことが出來よう。その燈籠自らの炎が生ずる氣流で𢌞はる、新しい𢌞り燈籠が大變に流行つて來た。その𢌞り燈籠には露軍の防禦陣地を、日本の步兵隊が襲擊して居る處が描いてあつて、燈籠の透し繪が𢌞はる時に絕えず鮮かな閃きをさすやうに、その色紙に開けてあるたが、砲丸の炒裂と機關銃の一齊射擊とを思はせる。
戰爭が鼓吹した藝術衝動が、西洋人の經驗には全然馴染みの無い方面に、――例を舉ぐれば、婦人の髮飾や衣服の材料の製造に――少々示現されて居る。戰爭畫の裝飾のある反物は實際流行になつて居るのである、――殊に下著にする縮緬と、羽織や袖用の紋模樣の絹の裏地がさうである。それよりももつと注目すべきは新奇な髮留めである。髭留めと私のいふのは、屈り易い金屬で造つた、日本でカンザシと云うて居る二叉の長い飾り物で、これにはそれを頭にする人の年齡に應じて多少飾りがしてあるのである。(若い娘が著ける簪は非常に裝飾的なもので、年老けた[やぶちゃん注:「としたけた」。]女の著けるのは無裝飾か、又は裝飾があつても珊瑚か寶石の珠一つだけである)其新奇な簪は記念用のものだと謂つてもよからう。交叉した日英國旗がその飾りとなつて居るのは日英同盟を祝したものである。もう一つは士官の帽と劒とが飾りになつて居る。一番いいのは戰鬪艦の小さな小さな金屬の模型が上に載つてゐるものである。此戰鬪艦簪は單に、風變りな品といふのでは無い。實際に美しい!
豫想されたであらうやうに、今年の手拭の模樣の中で、陸海軍に關した題目が主要な位置を占めて居る。海軍の勝利を祝した手拭模樣は特に上出來であつた。模樣は大抵紺地に白でか、白地に黑でかである。一番いいものの一つは――これは紺と白とのであるが――沈沒した鋼鐡艦の檣頭[やぶちゃん注:「しやうとう(しょうとう)」帆柱の先。]を飛び𢌞つて居る、一群の海鷗が現してあるだけで、遙か遠くに水平線に沈まんとして居る日本の軍艦の橫面の輪廓が見せてある、……この圖案で、また他の多くの圖案で、殊に自分が感心したことは、日本の藝術家が、近代の戰艦の特徵を――その恰好の力强い意地惡るげな線を――甲蟲か蝦かの特殊な性質を我我の爲めに捉へたであらうと同樣に、巧に捉へて居る其斬新な方法であつた。かかる鐡の怪物の容貌が與へる眞の印象を――通常普通な描寫手段では現すに甚だ困難な、大いさと力と威嚇との漠たる印象を――一瞥して傳へるだけの誇張が、その線には爲されて居るのである。
この種の藝術的素畫で飾られて居る手拭のほかに、滑稽な戰爭繪――見てをかしくはあるが惡意は無いポンチ畫或は諷刺畫――のあるいろんな種類の手拭が賣り物とされて居る。放順口の艦隊を始めて攻擊した時に、露軍の士官が幾人か、日本がその先手の攻擊を敢てしようとは夢にも思はずに、大連の芝居を見に行つて居たが、これは世人は記憶して居るであらう。この事件が手拭の圖案の題目とされて居る。手拭の一方の端には、舞曲の踊子のクルクル舞を愉快さうに見入つて居る露西亞人數名の顏の滑稽な素畫がある。他の一端には、港へ歸つて來て、自分達の戰艦の帆柱だけが、水面に見えて居るのを見て居るその司今官共の顏の素畫があるのである。もう一つの手拭を見ると、――外科醫者の家の前で銘銘の喉に剌さつて居る種種な銃劒や、軍刀や、ピストルや、小銃を取つて貰はうといふので順番を待つて居る――魚の行列が描いてある。今一つの手拭の繪は、魚形水雷が與へた、沈沒してゐる巡洋艦の船腹の大穴を、素敵に大きな蟲眼鏡で檢べて居る露西亞の潛水夫を現して居る。こんな繪の橫には、滑稽な歌か物語かが、簡潔な文句で、刷つてあるのである。
[やぶちゃん注:「ポンチ畫」「畫」は「ゑ」。ウィキの「ポンチ絵」によれば、『日本の明治時代に描かれた浮世絵の一種で、滑稽、諷刺的な絵を指した。後の漫画の原点といえる』。『文明開化期に日常使用されるようになった「ポンチ」という言葉は』文久二(一八六二)年に、『横浜でイギリス人』記者『チャールズ・ワーグマン』(Charles Wirgman 一八三二年~一八九一年)『によって創刊された漫画雑誌『ジャパン・パンチ』』(‘ The Japan Punch ’:この「パンチ」とは、恐らく人形劇の「パンチ」で、太っていて背が低く、鍵鼻で背中が曲がっており、乱暴で執念深く、権威に反抗する道化として描かれるイギリスの人形劇にトリック・スターとして登場する人物由来であろう(知られた『ジャパン・パンチ』のトレード・マークに日本人風のそれらしき人物が描かれてある)。イタリアの人形劇の「Pulcinella」(プルチネラ)の影響を受けて「Punchinello」(プルチネッロ)が作られ、十七世紀には「Punch」と名前が短くされたという)『に由来する。この『ジャパン・パンチ』は』明治二〇(一八八七)年まで、実に二十五年間の永きに亙って、『木版刷りで刊行が続いており、幕末刊行号の幾つかに「パンチ」が訛ったカタカナ表記の「ポンチ」という言葉がみられる』という。但し、明治一七(一八八四)年からは『石版刷りとなった。毎号、在日外国人を似顔絵を多用して諷刺して、情報誌としても役立つため』、『居留地在住の外国人に人気を博し、仮名垣魯文ら日本人も関心を持ってみていた』。明治七(一八七四)年、『魯文と河鍋暁斎は『ジャパン・パンチ』に似せた『絵新聞日本地(えしんぶんにっポンチ)』と題した漫画を売り物とした定期刊行物を出版したころには、大多数の日本人がポンチの意味を知っていたに違いなく』、明治一四(一八八一)年に『小林清親が戯画錦絵の『清親ポンチ』シリーズを版行したころには』、「ポンチ」『というのは日常語となっていたといわれる。また』、明治一五(一八八二)年八月からは、『清親が本多錦吉郎の後を継いで常連の投稿家として『團團珍聞』』(まるまるちんぶん)『に風刺画を投稿し始めた。明治の前半期にはポンチは時局風刺画あるいは世相漫画の意味を有しており、それらは『ジャパン・パンチ』の作品を見て影響を受けたものが多数であった。暁斎、清親は『ジャパン・パンチ』を熱心に研究したことが知られ、ポンチの用語は、人民が主導で新国家体制を創ろうとしていた自由民権期に輝いた用語であった。しかし』、明治二二(一八八九)年に『大日本帝国憲法が発布されたことにより』、『自由民権運動は終息を迎え、その後のポンチは次第に諷刺のエネルギーを喪失してゆく。清親はコマ漫画やふき出し入りの漫画を試みたりしたが、諷刺の鋭い漫画は少なく』、明治二十年代末から三十年代に『かけて、子供だましの絵と化したポンチは』、『今泉一瓢、北沢楽天により「漫画」という新しい言葉に代わられていった』とある。]
あの三井大商店は、こんな圖案の一番いいのを市場へ出したが、その上またフクサといふ、戰爭の美しい記念品を製造した。(フクサといふは或る特別な祝ひ事の折に友人へ送る贈り物へ掛ける裝飾的な絹の蔽ひ物、若しくは包み物で、受けた人はその贈り物だけ受取つてこれは返却するのである)これは最も重い最も高價な絹で出來て居て、適切な裝飾のある包みの中に收められて居る。或る袱紗には全速力を出して居る、日進、春日兩巡洋艦の著色畫がある。それから、もう一つの袱紗には、美しい漢字で、宣戰の詔勅の全文が刷つてある。
[やぶちゃん注:「日進」(にっしん)「春日」(かすが)は、孰れも日露戦争で活躍した旧日本海軍の春日型装甲巡洋艦の二番艦と一番艦。]
だが此方面の製品のうちで見た一番奇妙な物は女の赤ん坊用の絹著物であつた。紋模樣が織り出してある品物で、少し離れて眺めると、種種な色合が、また同じ色でも濃淡の度を異にした種種な色合が、巧妙に竝置されて居るが爲めに、何んとも言へぬほどに綺麗である。それをよく近寄つて眺めて見るといふと、この巧妙な圖案は全部戰爭畫を組み合せて造り爲してあることが判るのである。否、むしろ、繪の斷片を交ぜ合せて一つの驚歎すべき合成物を爲して居るといつた方がよからう。卽ち海戰とか、燃えて居る戰艦とか、爆發して居る敷設水雷とか、攻擊に向ふ水雷艇とか、日本步兵隊に擊退せられるコサツク兵の襲擊とか、陣地に突入する砲兵隊とか、要塞の强襲とか、霧の中を進軍する兵隊の長い行列とかがあるのである。卽ち血の色、焰の色もあれば、朝靄の色合、夕燒けの色合もあり、眞晝の空の靑もあれば、星のきらめく夜の紫もあり、海の灰色と、野畠の綠とがあり――實に驚歎すべき! 物である。……陸海軍士官の子供なら、こんな著物を著せたとても、さして不都合なことはあるまいと想ふ。でも――何とも云ひやうの無い、物の哀れさ! を感ずることである。
戰爭の玩具は無數である。他に比して一層注目すべきもの三四だけ自分は記載を企て得られよう。
日本の子供は種種な骨牌[やぶちゃん注:「かるた」。]遊びをする。古いのもあり、餘程新しいのもある。例を舉ぐれば、歌の骨牌[やぶちゃん注:「かるた」。]遊びがある。これは牌一枚一枚に、一つの歌の本文または一つの歌の一部分が、書いである一組の骨牌でする遊戲で、遊戲者は其一組の歌のどんな引用句でも、その作者の名前を記憶して居ることが出來なければならぬ。それから地理に關した骨牌の競技がある。牌一枚一枚に、有名な古蹟や町やお寺の名前が、或はまたそんな處の一寸した繪が、書いてあるが、遊戲者はそれに書いてある場處が何處の縣、何處の國にあるか記憶して居ることが出來なければならぬ。此方面での最近の斬新な品は、露西亞の戰艦の繪のある一組の骨牌で、遊戲者は、書いてある名前の軍艦一艘一艘に就いて、それがどうなつたか――沈沒したか、戰鬪力を失つたか、或は旅順口に閉ぢこめられて居るか――言ふことが出來なければならぬ。
も一つ別な骨牌遊戲で、その骨牌に日露兩國の戰鬪艦、巡洋艦及び水雷艇が書き現してあるのがある。この勝負に勝つた方は、自分の方へ取つた骨牌を引き裂いて、その『捕獲艦』を破壞してしまふ。然し店にはあらゆる種類の軍艦を幾包みも仕入れて有つて居る。それで一方の國の水雷、驅逐艦或は巡洋艦が悉く戰鬪力を失つた場合には、敗けた方は新艦を外國[やぶちゃん注:対戦相手或いは別な友人。無論、玩具屋も含まれる。]から買ひ求めることが出來るのである。水雷艇一艘約四分の一ペニイなら五艘買へる。
玩具店は戰鬪艦の模型――木で造つたの、土で造つたの、陶器の、鉛の、錫の――色んな大いさの、色んな値段の――で一杯である。ゼンマイ仕掛けで動く大きいのの中に、敷島だの、富士だの、三笠だのと、日本の戰鬪艦の名の附いたのがある。日本の水雷艇が露西亞の軍艦を沈沒させるやうに出來で居る機械仕掛けの玩具がある。此種類の玩具の廉價なもののうちに、海軍の戰爭を現すに使ふ色砂入りの箱がある。子供は波に似るやうにその砂を敷きならべる。そして砂箱一つ每に鉛で造つた小さな船での二艦隊を買つて吳れる。日本の船は白で、露西亞の船は黑である。水雷の爆發は、小さく切つた朱色の紙片を、その砂の中ヘたてて象どることにしてある。
[やぶちゃん注:「敷島」敷島型戦艦一番艦。第一艦隊第一戦隊所属で日露戦争に参加し、二月九日から「旅順口攻撃」及び「旅順港閉塞作戦」に参加し、八月十日には黄海海戦に、翌明治三八(一九〇五)年五月二十七~二十八日の「日本海海戦」にも参加した。日露戦争では主力戦艦として、「旅順口攻撃」・「旅順港閉塞作戦」・「黄海海戦」・「日本海海戦」と、主な作戦総てに参加している。
「富士」富士型戦艦一番艦。日本海軍が初めて保有した近代的戦艦の一隻で、日本海軍軍艦の中でも最高厚の舷側装甲を持つ(最高四百五十七ミリメートル。後の大和型戦艦でも最大四百十ミリメートルであった)。
「三笠」日露戦争の「日本海海戦」で連合艦隊旗艦を務めた。神奈川県横須賀市に現存し、公開されている。]
非常に貧乏な階級の子供等は手製で玩具を造る。子供に與ふべき玩具の價段と性質とを極めたあの古昔の封建時代の法律(ヰグモア敎授の飜譯がある)が、今此子供等が現すその小器用さを發達せしめるに、與つて[やぶちゃん注:「あづかつて」。]力があつたのではなからうかと、自分は怪しんで居る次第である。つい此間自分の近處で、一群れの子供が、木切れと古釘とで卽製した艦隊でもつて、旅順口の包圍の眞似遊びをして居るのを見た。水のはつてある盥が旅順口になつて居るのであつた。戰鬪艦は、帆柱のつもりに箸が突きたててあり、煙突のつもりに紙を卷いたものがたててある、板切れで象どつてあつた。適當に色で染めてある小さな旗が糊でその帆柱にくつつけてあつた。幾つかの小さな細い木片、その一一に短かい太い釘をたてて煙突と見せてあるのが、水雷艇と想像されて居た。定置の敷設水雷は、各〻長い釘が差し込んである、小さな四角な木切れで現してあつて、この小さな物を、釘の頭を下にして水の中へ落すと、長い間妙なピヨコピヨコした運動を續けるのである。他の四角な木で、短かい釘がかたまつて突きさしてあるのが、浮游水雷になつて居つて、模擬の小さな幾艘かの戰鬪艦が、絲で、浮游水雷を搜索するやうになつて居つた。日本の新聞の插繪が、戰爭の事件を可なり正確に、子供に想像させるのに役立つたのであるといふことは疑ふベくも無い。
[やぶちゃん注:「ヰグモア敎授」アメリカの法学者で証拠法の専門家であったジョン・ヘンリー・ウィグモア(John Henry Wigmore 一八六三年~一九四三年)。ウィキの「ジョン・ヘンリー・ウィグモア」によれば、『カリフォルニア州サンフランシスコ出身。ハーバード大学で学び』、『ボストンで二年間弁護士として働いた後、慶應義塾大学でアメリカ法の教授として大学部法律科の開設に尽力した。慶應義塾大学では比較法や日本法を、特に江戸時代の法を研究しその成果を著わした』。その後、一八九三年に『ノースウェスタン大学法学部に招聘され』、一九〇一年から一九二九年にかけて同大学法学部長を務めた。『他に、アメリカ大学教授協会二代目会長、米国法曹協会の有力会員、同協会国際比較法部会の初代座長等も務め』、一九〇九年には『刑法学および犯罪学に関する国内会議を組織し、アメリカ刑法学犯罪学会を立ち上げ』ている。『その他、ノースウェスタン大学の航空法研究所やシカゴの科学捜査研究所の設立に』も参画している。一九〇四年に彼は“ A Treatise on the Anglo-American System of Evidence in Trials at Common Law ”(「アングロ・アメリカに於ける慣習法裁判での証拠の機序に関する論文」(邦訳は私))を著しているが、『この研究は、証拠法の進展について広範に扱うもので、一般に「ウィグモアの証拠法」として知られている。このウィグモアの証拠法は、今なおコロンビア特別区連邦地方裁判所を含むアメリカの多く裁判所で採用されている上に、日本の刑事手続にも影響を及ぼし』たものである、とある。彼が訳したという「子供に與ふべき玩具の價段と性質とを極めたあの古昔の封建時代の法律」というのは不詳。識者の御教授を乞う。]
子供の海軍帽は固よりのこと、戰前よりか餘計に流行つて來た。光つた金屬の漢字で、戰鬪艦の名や、或はニツポンテイコク(日本帝國)といふ語を――水兵の帽に附いてゐる文字のやうに列べて――著けてある帽もある。處が、或る帽子には、船の名が英字で出て居る――YASHIMA とか、FUJI とかいつた風に。
殆んど云ひ忘れさうであつたが、戰線へ召し寄せられる兵卒の大部分は、生きて歸る期待は抱いて居ないのであるが、その兵卒も亦遊戲衝動を有つて居るのである。彼等の願ふのは陛下の爲め、國家の爲めに死ぬる者は凡て、其處へ寄り集まるものと信ぜられて居る、セウコソシヤ(招魂社)で記憶せられること、ただそれだけである。戰場への途中、此處の町外づれへ臨時滯在して居た兵士どもは、近處の子供達と戰爭ごつこをする閑[やぶちゃん注:「ひま」。]があつた。(どんな時でも日本の兵卒は子供に甚だ深切で、この邊の子供は、兵卒と一緖に行進をし、一緖に軍歌を歌ひ、そしてどんな眞面目な士官でも子供の敬禮に應ずるものと確信して正式に敬禮する)滯在して居た最終の聯隊が出て行く時に、お別れの喝采を停車場でしに集つた子供等へ玩具を兵隊が分配して吳れた。女の子へは、飾りに陸軍の徽號の附いて居る簪を、男の子へは木造の步兵や錫製の砲兵を吳れた。一番奇妙な贈り物は、『歸つて來れば本當のを持つて來て上げませう』といふ、冗談半分の約束をして吳れた、土細工の小さな、露西亞兵の首であつた。頭の頂きに絲金(いとがね)の小さな輪があつて、それへ護謨[やぶちゃん注:「ゴム」。]の絲をくつつけることの出來るものである。日淸戰爭の時分には、非常に長い辮髮のある土細工の小さな、支那人の頭の模型が流行のおもちやであつた。
今度の戰爭はまた、トコニハといふあの美妙な品物の種種樣樣な新意匠を思ひつかせた。我が讀者のうちには、トコニハ卽ち『床庭』とはどんなものか知つて居らるる人は多くはない。これは庭園を極はめて縮小したもので――二尺平方以內位のもので――瀨戶物又は他の材料の裝飾的な淺い鉢の中にしつらへ、裝飾のつもりで客間の床の上に置くものである。それには小さな池があり、支那型の、背の曲つた橋の架かつた小流があり、森を爲して神社の模型を覆ひかげらして居る、一寸法師的な木が植わつて居り、土燒きの石燈籠の模造があり、草葺き田舍屋の小村の觀すらもあらう。床庭が餘りに小さくない場合には、その池に本當の魚が泳いで居たり、築山の間を手飼ひの龜が這つて居たりするのを見ることも出來よう。時に、その床庭が蓬萊と龍宮とを現して居ることがある。
[やぶちゃん注:私は「床庭」という語では知らない。「盆景」ならよく知っている。古い明治期に作られたいろいろなミニチュア・セットが好きで、小学生の頃、それを一式持っていた祖母にねだってよく拵えたからである。地引網のセットが圧巻だった。]
今、流行つて來て居る新奇な種類が二つある。一つはその港と要塞とを示した旅順口の模型で、それを見せるのに使ふ材料と一緖に、閉ぢこめられて居る艦隊と、封鎖して居る艦隊とを現す小さな小さな軍艦を、どういふ風に置いたらいいか、その小さな圖面を賣つて吳れるのである。も一つの床庭は、山脈や川や森のある朝鮮か支那かの風景で、澤山の玩具の兵卒――騎兵だの、步兵だの、砲兵だの――あらゆる攻擊防禦の姿勢の兵卒で、戰爭をして居るといふ風に見えるやうに造つてある。小さな留針ほどの大いさの大砲が密(みつ)に置かれて居る土燒きの微小な要塞が高みの陣地を占めて居る。適當に排列すると、見る眼にはパノラマの觀を呈する。前景の兵卒は長さ一寸位、少し遠くのはその半分位の長さ、山の上のは蠅より大きくは無い。
だが、これまで造られた此種のもので目立つて最も斬新なのは、銀座の或る有名な店で近頃陳列した一種のトコニハである。カイテイノイツケン(海底の一見)といふ題の書いてある貼り札で十分其意匠は判つた。此展覽物のはいつて居るスイボン卽ち『水盆』は海底に似るやうに半ば岩と砂とで充たされて居つて、前景に小さな魚が泳いで居るやうに見せてあつた。少し後ろの方に、高みの上に、龍王の娘の乙姬が多勢の御供の少女に取り圍まれて、海軍の軍服を著て互に握手して居る二人の男――戰爭で死んだ二人の勇士――マカロフ提督と廣瀨中佐――を、幽かな微笑を顏に浮かべて、じつと見て居るのであつた。……此兩人は生前互に尊敬し合つて居たのであるから、靈界での二人の會合をかく現すといふのは面白い思ひ付きであつたのである。
[やぶちゃん注:「マカロフ提督」ロシア帝国海軍中将で海洋学者でもあったスチパーン・オースィパヴィチュ・マカーラフ(Степа́н О́сипович Мака́ров 一八四九年~一九〇四年)。「第二回旅順口閉塞戦」攻防の最中の四月十三日、戦艦「ペトロパブロフスク」で日本艦隊の攻撃に向かったが、主力艦隊を認めるたために旅順港に引き返す途中、日本軍の敷設した機雷に触雷して爆沈、マカロフは将兵五百人とともに戦死した。
「廣瀨中佐」廣瀨武夫(慶応四(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年)は旧竹田藩士で裁判官広瀬重武の次男。海軍兵学校卒。横須賀水雷隊艇長(大尉)から軍令部出仕後、ロシアへ留学、「朝日」水雷長(少佐)などを歴任したが、「旅順港閉塞作戦」を実務執行することとなり、自沈船「福井丸」指揮官として砲火をおかして目的位置に達した。しかし、途中、姿が見えなくなった部下の杉野孫七兵曹長(前年に軍艦「朝日」乗組員として、水雷長海軍少佐広瀬と出逢い、意気投合して非常に親しくなっていた。但し、以下に小泉八雲が言う「以前に氏の死を救つたことのある」という事実は私は知らない)を捜すうちに退避が遅れ、頭部にロシア軍の砲弾を受け、ばらばらになって即死した。死後、中佐に進級し、「軍神」に祭り上げられた。]
海軍中佐廣瀨武夫といふ名は、恐らく英米の讀者には馴染みが無からうが、氏は日本の國民的勇士の一人に當然になつて居る。三月の二十七日、旅順港口第二囘閉塞企畫の際、同僚を――以前に氏の死を救つたことのある同僚を――助けんとして居る間に殺された。廣瀨は五年間公使館附海軍武官としてセント・ピイタアスブルグに居て、露西亞の陸海軍社會に幾多の友人を作つて居たのであつた。子供の時分からして其生涯は勉强と義務とに委ねられてあつて、氏の性質には一點利己的な處が無かつたと一般に云はれて居る。その同僚士官の多數の人と違つて、いつ何ん時國家の爲めに生命を棄てよ、と云はれるかも知れぬ者は結婚する道德的權利が無い、といふ意見を持して結婚せずに居た。それに耽つたとして知られて居る唯一の娛楽は身體の鍊磨で、日本中で一番上手な柔術家の一人と認められて居つた。氏の靈に對して人の拂ふ尊敬は、三十六歲で遂げたその勇壯な死の爲めといふよりも、寧ろその一生の勇壯な克己の爲めであつたのである。
[やぶちゃん注:「セント・ピイタアスブルグ」原文“St. Petersburg”。現在のサンクトペテルブルク(Санкт-Петербург:旧レニングラード)のこと。]
今や氏の肖像畫は數千の家庭に揭げられ、その名は如何なる田舍村でも口にせられて居る。その名はまた萬千といふ數で賣られ行く樣樣な記念品の製造で披露されて居る。例を舉ぐれば、キネンボタン卽ち『記念釦』といふカウス・ボタンに新奇流行のがある。其ボタンは兩方とも、シチシヤウハウコク(七生報國)といふ銘と共に、中佐の微小の肖像畫がついて居るのである。廣瀨は、義務に對するその禁慾的な獻身を非議[やぶちゃん注:論じて非難すること。誹(そし)ること。]した友人に向つて、後醍醐帝の爲めに生命を棄てる前に、七たび生れ代つて君公の爲めに死にたいと述べた楠正成のあの有名な言葉を每度引用したと記されて居る。
然し廣潮の靈に對して拂はれて居る最高の榮譽は、嘗ては西洋でも、希臘或は羅馬の愛國的勇士がその國人一般の愛を受けて不朽の地位へ高められ得た時は、有り得たが、今では東洋に於てのみ可能なる榮譽である。……氏の肖像が飾りになつて居る瀨戶物の盃が出來て居て、その肖像の下に金の表意文字で、グンシンヒロセチユウサといふ記名がしてある。グンといふ字は戰といふ意味、シンといふ字は――場合によつて『デイヴス』といふ意にも『デウス』といふ意にも用ひられるが――神(ゴツド)といふ意味である。この漢字の句を日本風に讀むと、イクサノカミである。勇敢な精神は絕滅はせぬ、立派に費やした生涯は無駄にはすたらぬ、勇敢な行爲は空[やぶちゃん注:「くう」。]にはならぬ、かう信じて居る幾千萬の人達に、中佐の此嚴正勇壯な靈が眞に神と拜まれて居るかどうか、これは私は分らぬ。然し、兎も角も、人間の愛情と感恩とはこれ以上に進むことは出來ぬので、舊日本は、その爲めに死ぬる甲斐のある榮譽をば、今もなほ與へ得るのであると承認しなければならぬのである。
[やぶちゃん注:『デイヴス』“ divus ”(ディーヴス)。ラテン語で「男の神」。
『デウス』“ deus ”(デウス)はラテン語で、古代ローマでは「神」の一般名称であったが、キリスト教勃興とともに「唯一神」としての意味が強くなった語である。]
子供の學校はどの學校でも、其處の男女兒童は、行進曲になつて居る廣瀨中佐の歌を今歌つて居る。歌の文句と譜とは小さな本で出版になつて居て、その本の表紙にこの死んだ中佐の肖像畫が載つて居る。到る處で、そして日のうちのどんな時刻にも、其歌を人が歌つて居るのがきこえる。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]
一言一行潔よく、日本帝國軍人の、鑑を人に示したる、廣瀨中佐は死したるか?
死すとも死せぬ魂は、七たび此世に生れ來て、國の惠に報いんと、歌ひし中佐は死したるか?
我等は神州男兒なり、汚れし露兵の彈丸に、あたるものかと壯語せし、ますら武夫は死したるか?
名譽の戰死、不朽の名、赤心とどめて千歲に、軍の神と仰がるる、廣潮中佐はなほ死せず。
[やぶちゃん注:よく知られているのは文部省唱歌の「廣瀨中佐」で、明治四五(一九一二)年の「尋常小学唱歌 第四学年用」に初出したもの(作詞・作曲不詳)であるが、この軍歌「廣瀨中佐」は大和田健樹作詞・納所弁次郎作曲のもの。ブログ「陸・海軍礼式歌」のこちらで全篇が読める。曲はこちらでMIDIでダウン・ロード出来る。老婆心乍ら、「武夫」は「もののふ」と読む。]
西洋の最も强大な一國を相手として、自國の存亡に關する戰爭をしながら、この不思議な人民の嬉嬉たる自信を見――その指導者の智とその軍隊の勇とに對するその至上の信賴を見――刻下の過失を嘲弄するに當つての、その上機嫌な諷刺を見――刻下の世界震盪的なる事件のうちにあつて、歌舞を見て感ずると同一樣な樂しみを感じ得る。その不思議な度量を見ると――誰れしもかう訊ねたくなる。『國民的敗北をしたなら、その精神上の結果はどうであらう』と。……思ふに、それは事情如何によることであらう。クロパトキンが日本に侵入するといふ、その輕卒な威嚇を實行し得るなら、日本國民は恐らく舉つて[やぶちゃん注:「こぞつて」。]起つであらう。然しさうで無いなら、どんな大不幸を知つても雄雄しく堪へ忍ぶであらう。いつからと知れぬ太古からして、日本は異變の頻繁な國であつた。一瞬時にして幾多の都市を破壞する地震があり、海岸地方の人口悉くを一掃し去る長さ二百哩[やぶちゃん注:三百二十二キロメートル弱。]の海嘯[やぶちゃん注:「かいせう(かいしょう)」。津波。]があり、立派に耕作された田畠の幾百里を浸す洪水があり、幾州を埋沒する噴火があつた。こんな災害が此人種を鍛鍊して甘從[やぶちゃん注:「かんじゆう」。甘んじて従うこと。]と忍耐とを養ひ來たつて居る。そしてまた戰爭のあらゆる不幸を勇ましく堪へ忍ぶ訓練も亦十分に爲し來たつて居る。これまで日本と最も近く接觸し來たつて居る外國國民にすらも、日本の度量は推量されないままで居た。攻擊を耐へ忍ぶその力は、攻擊に反抗するその力よりも或は遙か勝さつて居るのかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「クロパトキン」アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン(Алексей Николаевич Куропаткин 一八四八年~一九二五年)は帝政ロシアの陸軍大臣。日露戦争時のロシア満州軍総司令官を歴任した人物である。
以上を以って底本である第一書房昭和六(一九三一)年一月刊の「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻本文は終わっている。]
« 小泉八雲 小說よりも奇 (田部隆次譯) | トップページ | 昭和六(一九三一)年一月第一書房刊「學生版 小泉八雲全集」(全十二巻)第七卷の田部隆次氏の「あとがき」 »