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2019/10/12

小泉八雲 僧興義  (田部隆次譯)

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Story of Kōgi the Priest”。「僧興義の話」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の巻頭の「奇談」パートの掉尾である第六話目として置かれたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した実は、私は既に、『柴田宵曲 續妖異博物館 「首なし」(その1) 附 上田秋成「夢應の鯉魚」+小泉八雲「僧興義の話」(英文原文+田部隆次譯)』で、原文と田部氏の訳を電子化している。しかし、今回は、ゼロからやり直してある。 【2025年4月5日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は知られた上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年板行であるが、執筆は十年前の明和五(一七六八)年であった)の「夢應の鯉魚」(構成としては明末の小説家馮夢龍(ふうむりゅう/ふうぼうりょう 一五七四年~一六四六年)の書いた白話小説「醒世恒言」第二十六の 「薛錄事魚服證仙」(「薛(せつ)錄事、魚服(ぎよふく)して仙を證すること」。録事は主任書記官。「魚服」は魚に化すること。中國哲學書電子化計劃」のここで原文が電子化されてある)、さらに溯る明代の白話小説「古今」の「淵」の辰巻三十五にある「魚服記」(「維基文庫」のこちらで縦書で電子化されてある)、「太平廣記」の「水族類」所収の「薛偉」の三種を勘案して典拠としたもの)を原拠としている(同じくること。中國哲學書電子化計劃」のここで原文が電子化されてある)。「雨月物語」のそれは、サイト「日本古典文学摘集」の原文(新字歴史的仮名遣。現代語訳もある)をお薦めする。私は、「雨月物語」は、恐らく、五種を超える諸本を所持するが、どれも、安易には電子化注出来ないサイト版の「靑頭巾」は例外)ほど、優れたものである。今回も、残念ながら、見送る。

 

 

  僧 興 義

 

 殆んど一千年前、近江の國の名高い三井寺に、興義と云ふ博學の僧がゐた。繪の大家であつた。佛像、山水、花鳥を殆んど同じ程度に巧みに描いたが、魚を描く事が最も得意であつた。天氣の好い日で、佛事の暇のある時には、彼はいつも漁師を雇うて琵琶湖に行き、魚を痛めないやうに捕へさせて大きな盥に放ち、その游ぎ𢌞るのを見て寫生した。繪を描いてから、勞りながら食物を與へて再び、――自分で湖水までもつて行つて、――放つてやるのがつねであつた。彼の魚の繪はたうとう名高くなつたので、人はそれを見に遠くから旅をして來た。しかし彼の凡ての魚の繪のうちで、最も不思議なのは、寫生ではなくて、夢の記憶から描いた物であつた。そのわけは、或日の事、彼が魚の游ぐのを見るために、湖岸に坐つて居るうちに思はずまどろんで、水中の魚と遊んだ夢を見た。眼をさましてから、その夢の記憶が餘りに鮮明であつたので、彼はそれを描く事ができた、そしてお寺の自分の部屋の床の間にかけて置いたこの繪を、彼は『夢應の鯉魚』と呼んだ。

[やぶちゃん注:「殆んど一千年前」小泉八雲の本作品集は明治三四(一九〇一)年の刊行であるが、原拠の上田秋成の「夢應の鯉魚」では「むかし、延長の頃」と始まる。延長は九二三年から九三一年で、醍醐天皇・朱雀天皇の治世、というか、藤原忠平の全盛期である。

「三井寺」現在の滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗総本山長等山園城寺(おんじょうじ)の別名(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。園城寺は七世紀に大友氏の氏寺として草創され、九世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された寺である。「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが、転じて三井寺となったとされる。

「興義」昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊の高田衛・稲田篤信編著「大学古典叢書1 新注 雨月物語」の注に、『僧興義曾つて江州三井寺に住み画名有り」(本朝画史)。また』、上田秋成(享保一九(一七三四)年~文化六(一八〇九)年))同じ『の頃の人で、鯉の絵にたくみであつた蛇玉・※史明がモデル』(「※」=「葛」-「人」+「ヒ」)とある。前者は生没年未詳の平安中期の僧で、藤原実範(さねのり)の子で天台僧。康平(一〇五八年~一〇六五年)頃の人。園城寺で学び、京の道澄寺(どうちょうじ)の別当を務め、画をよくしたという人物で(講談社「日本人名大辞典」に拠る)、後者は葛蛇玉(かつじゃぎょく 享保二〇(一七三五)年~安永九(一七八〇)年のことである。ウィキの「葛蛇玉」によれば、葛は江戸中期の絵師で、『大坂の人。名は徹、のち季原。字は子明。洞郭とも号した。鯉の絵を得意としたため「鯉翁」と呼ばれ、上田秋成著『雨月物語』にある「夢応の鯉魚」のモデルと言われる』。『蛇玉の人となりは片山北海による墓碑銘』『によって知られる。木村宗訓の子孫が代々住職を務める浄土真宗の寺・玉泉寺の四代目・宗琳の次男として生まれる。後に長嶋喜右衛門なる者の婿養子となった。長嶋氏の祖は谷八(やつ)氏で、長嶋家の宗家は小早川隆景の子孫であることから、小早川谷八と称した。葛の姓は、この谷八の音「KOZU YATSU」を、葛「KATSU」としたと推測される』(私が馬鹿なのか、この説明、よく分らない。「KOZU」ではなく、「KOKU」なら判るんだけど)『画をはじめ橘守国、および鶴亭に学ぶ。後に宋元の古画を模して一家を成した』。明和三(一七六六)年二月二十二日の『晩、蛇が玉を咥えて来る夢を見て、目覚めると』、『そこに玉があった。これが何の吉祥か分からなかったが、この事件から自ら「蛇玉」と称するようになったという。この逸話を裏付けるように、「蛇玉図」の賛文に木版でこの逸話が記されており、同様の作品が他にもあることから、蛇玉は同図を名刺がわりに相当数』、『描いて配り、自らを売り込もうとしたとも考えられる』。『人柄は風流閑雅で、有閑公子の風があった。晩年には南木綿町に住み、当時の人名録にも名前が記載されている。享年』四十六。『墓所は、下寺町大蓮寺だが、墓石は残っていない。息子の蛇含(じゃがん)も絵師となったというが、その作品は全く知られていない。蛇玉の方も現在確認されている作品は極めて少なく』、たった六『点しかない』とある。リンク元にリストが出るが、その内の二枚は「鯉魚図」である。]

 興義は、彼の魚の繪を一枚も賣る事を喜ばなかつた。山水の繪、鳥の繪、花の繪は喜んで、手放したが、彼はいつも、魚を殺したり、喰べたりするやうな殘酷な者には、生きた魚の繪は賣りたくないと云つてゐた。そして彼の繪を買ひたがる人々は皆魚食の人々であつたから、彼等が如何程金を積んでも、彼はそれには迷はされなかつた。

 

 或夏の事、興義は病氣になつた、それから一週間物言ふ事も、動く事もできなくなつたので、彼は死んだと思はれた。しかし讀經など行はれたあとで、弟子達は體に幾分の溫み[やぶちゃん注:「あたたかみ」。原拠『暖(あたゝか)なるにぞ』。]のある事を發見して、暫らく埋葬を見合す事にして、その死骸らしく思はれる物のわきで、見張をする事に決した。同じ日の午後に、彼は突然蘇生した、そして見張の人々にかう云つて尋ねた、――

 『私が人事不省になつてから、幾日になりますか』

 『三日以上になります』一人の弟子が答へた。『いのちがお絕えになつたと思ひました、それで今朝日頃のお友達、檀家の人々がお寺に集まつておとむらひをいたしました。私達が式を行ひましたが、お體が全く冷たくないから、埋葬は見合せました、それで今さうした事を甚だ喜んでゐます』

 興義は成程とうなづいてから、云つた、

 『誰でもよいから、すぐに平(たひら)の助(すけ)のうちに行つて貰ひたい、そこでは今、若い人達が宴會を開いて居る――(魚を喰べて、酒を飮んで居る)――それで、云つて貰ひたい、――「あるじは蘇生しました、どうか宴會を止めて、卽刻來て下さいませんか、あなた方に珍らしい話をいたしますから」……同時に』――興義は續けて云つた――『助と兄弟達が、何をして居るか、見て來て貰ひたい、――宴會をしてゐないかどうか』

[やぶちゃん注:「助」原拠は『平(たひら)の助の殿』。先の高田・稲田編著「新注 雨月物語」の「助の殿」の注に、『国司の次官』とある。]

 それから一人の弟子が直ちに平の助の家に行つて、助と弟の十郞が、家の子掃守(かもり)[やぶちゃん注:ここは名前。]と一緖に、丁度興義が云つた通り、宴を開いて居る事を見て驚いた。しかし、その使命を聞いて三人は、直ちに酒肴をそのままにして、寺へ急いだ。興義は床から座蒲團に移つてゐたが、三人を見て歡迎の微笑を浮ベた、それから、暫らくお祝と御禮の言葉を交換したあとで、興義は助に云つた、

 『これから二三と尋ねする事があるが、どうか聞かせて下さい。第一に、今日あなたは漁師の文四[やぶちゃん注:「ぶんし」。]から魚を買ひませんでしたか』

 『はい、買ひました』助は答へた――『しかしどうして御存じですか』

 『少し待つて下さい』僧は云つた。……『その漁師の文四が今日、籠の中に三尺程の長さの魚を入れて、お宅の門へ入つた。午後の未だ早い時分でしたが、丁度あなたと十郞樣が碁を始めたところでした、――それから掃守が桃を喰べでゐながらその碁を見てゐました――さうでしたらう』

 『その通りです』助と掃守は益〻驚いて、一緖に叫んだ。

 『それから掃守がその大かな魚を見て』興義は續いて云つた、『すぐにそれを買ふ事にした、それから代を拂ふ時に、文四に皿に入れた桃をいくつか與へて、酒を三盃飮ませてやりました。それから料理人を呼んだら、その人は魚を見て感心しました、それからあなたの命令で、それを膾(なます)にして、御馳走の用意をしました。……私の云つた通りぢやありませんか』

 『さうです』助は答へた、「しかしあなたが、今日私のうちであつた事をどうして御存じですか、實に驚きます。どうかこんな事がどうして分りましたか聞かして下さい』

 『さあ、これからが私の話です』僧は云つた。[御承知の通り殆んど皆の人達は私を死んだと思ひました、――あなたも私のとむらひに來てくれましたね。しかし、三日前に私はそんなにひどく惡いとは思はなかつた、ただ弱つて、非常に熱いと思つたので、外へ出て少し涼まうと思つた。それから骨を折つて床から起き上つて、――杖にすがつて、――出かけたやうです。……事によればこれは想像かも知れない、しかしやがてその事は皆さん御自分で判斷ができませう、私はただあつた事を何でもその通りに述べるつもりです。私がうちからあかるい外へ出ると、全く輕くなつたやうな、――籠や網から逃げ出した鳥のやうに輕くなつたやうな氣がした。私は段々行くうちに湖水に達した、水は靑くて綺麗だつたから、しきりに游いで見たくなつた。着物を脫いで跳び込んで、そこら邊泳ぎ出した、それから、私は非常に早く、非常に巧みに游げるので驚いた――ところが實は、病氣の前は游ぐ事はいつも非常に下手であつた。……皆さんは馬鹿な夢物語だと思はれるだらうが――聽いて下さい。……私がこんなに新しい力が出て來たので不思議に思つて居るうちに、氣がついて見ると、私の下にも𢌞りにも綺麗な魚が澤山游いでゐた、私は不意に幸福な魚が羨しくなつて來た、――どんなに人がよく游げると云つたところで、魚のやうに、水の下で面白くは遊ばれないと思つた。丁度その時、甚だ大きな魚が私の目の前の水面に頭を上げて、人間の聲で私にかう云つて話しかけた、――「あなたの願は何でもなく叶ひます、暫らくそこでお待ち下さい」それから、その魚は下の方へ行つて見えなくなつた、そこで私は待つてゐた。暫らくして湖水の底から、――私に物を云つたあの大きな魚の背中に乘つて、――王公のやうな冠と禮服を着けた人が浮かび上つて來て、私に云つた、――『暫らく魚の境遇になつて見たいとの御身の願を知しめされた[やぶちゃん注:「しろし召(め)された」。]龍宮王から使をもつて來た。御身は多くの魚の生命を救つて、生物への同情をいつも示して居るから、神は今御身に水界の樂み[やぶちゃん注:「たのしみ」。]を得させるために黃金の鯉の服を授け下さる。しかし御身は魚を喰ベたり、又魚でつくつた食物を喰べたりしないやうに注意せねばならない、――どんなによい香がしても、――それから漁師へ捕へられないやうに、又どうかして體(からだ)を害をする事のないやうにやはり注意せねばならない』かう云つて、その使者と魚は下の方へ行つて、深い水の中に消え失せた。私は自分を顧みると、私の全身が金のやうに輝く鱗で包まれてゐた、――私には鰭があつた、――私は實際黃金の鯉と化して居る事に氣がついた。それから、私の好きなところ、どこへでも游げる事が分つた。

 『それから、私が游いで、澤山の各所を訪れたらしい。〔ここで、原文には、近江八景を說明した歌のやうな文句が入れてある[やぶちゃん注:近江八景は「石山秋月」(いしやまのしゅうげつ:以下「の」を入れて読む)・「勢多(瀬田)夕照」・「粟津晴嵐」・「矢橋(やばせの)帰帆」・「三井晩鐘」・「唐崎夜雨」・「堅田(かたたの)落雁」・「比良暮雪」の名数。ウィキの「近江八景」で江戸後期の浮世絵師歌川広重の代表作である、錦絵名所絵揃物「近江八景」が見られる。]〕時々私は靑い水の面で躍る日光を見たり、或は風から遮ぎられた靜かな水面に反映する山や木の美しい影を見たりしただけで滿足した。……私は殊に島の岸――沖津島か竹生島か、どちらかの[やぶちゃん注:「沖津島」現在の滋賀県近江八幡市沖島町(おきしまちょう)の沖島。「竹生島」滋賀県長浜市早崎町にある竹生島(ちくぶしま)(ともにグーグル・マップ・データ)。]――岸が赤い壁のやうに水の中に映つてゐたのを覺えて居る。……時々私は岸に餘り近づいたので、通つて行く人の顏を見たり聲を聞いたりする事ができた、時々私は水の上に眠つてゐて、近づいて來る櫂[やぶちゃん注:「かい」。]の音に驚かされた事もある。夜になれば、美しい月の眺めがあつた、しかし私は片瀨[やぶちゃん注:有意に水深の浅い潟瀬の一般名詞でとっておく。]の漁舟のかがり火の近づいて來るのには幾度か驚かされた。天氣の惡い時には、下の方へ、――ずつと下の方へ、――一千尺も、[やぶちゃん注:三百三メートルであるが、残念ながら現在の琵琶湖の最深部は北湖の西側の安曇川沖付近で百四メートルである。]――行つて湖の底で遊ぶ事にした。しかしこんな風に二三日面白く遊び𢌞つてゐたあとで、私は非常に空腹になつて來た、それで私は何か喰べる物をさがさうと思つて、この近所へ歸つて來た。丁度その時漁師の文四が釣をしてゐた、そして私は水の中に垂れてゐた鉤[やぶちゃん注:「はり」。]に近づいた。それには何か餌がついてゐて、よい香がした。私は同時に龍宮王の警告を想ひ出して、獨り言[やぶちゃん注:「ひとりごと」。]を云ひながら、游ぎ去つた、――「どうあつても魚の入れてある食物は喰べてはならない」それでも私の飢は非常に烈しくなつて來たので、私は誘惑に勝つ事ができなくなつた、それで又鉤のところへ游ぎかへつて、考へた、――「たとへ、文四が私を捕へても、私に害を加へる事はあるまい、――古い友達だから」私は鉤から餌を外す事はできなかつた、しかし餌の好い香は到底私が辛抱できない程であつた、それで私はがぶりと全部を一呑みにした。さうするとすぐに、文四は糸を引いて、私を捕へた。私は彼に向つて叫んだ、――「何をするんだ、――痛いぢやないか」――しかし彼には聞えなかつたらしい、直ちに私の顎に糸を通した。それから籠の中へ私を投げ入れて、お宅へ持つて行つたのです。そこで籠を開いた時、あなたと十郞樣が南の部屋で碁を打つてゐて、それを掃守が――桃を喰べながら――見物して居るのが見えた。そのうちに皆さんが私を見に椽側へ出て來て、そんな大きな魚を見て喜びましたね。私はできるだけ大聲で皆さんに、――「私は魚ぢやない、――興義だ、――僧興義だ、どうか寺へかへしてくれ」と叫んだが、皆さんが喜んで手をたたいて私の言葉には頓着しなかつた。それから料理人は臺所へもつて行つて、荒々しく俎板(まないた)の上に私を投げ出したが、そこには恐ろしく銳い庖丁が置いてあつた。左の手で、彼は私を押へて、右の手で庖丁を取り上げた、――そして私は彼に叫んだ、――「どうしてそんなに殘酷に私を殺すのだ。私は佛の弟子だ、――助けてくれ」しかし同時に私はその庖丁で二つに割られるのを――非常な痛さとともに――覺えた、――そしてその時突然眠がさめた、そしてここの寺に歸つてゐた』

 

 僧がこの通り話を終つた時、兄弟は不思議に思つた、そして助は云つた――『今から思へば、なる程私達が見て居る間、魚の顎が始終動いてゐた、しかし聲は聞えなかつた。……それではあの魚の殘りは湖水に捨てるやうに、家へ使を出さねばならない』

 

 興義はすぐに病氣が直つた、そしてそれから又澤山の繪を描いた。死後餘程たつてから、彼の魚の繪が或時湖水に偶然落ちた事があつた、すると魚の形がその地の絹や紙から直ちに離れて游ぎ去つたと傳へられて居る。

[やぶちゃん注:この田部氏の訳は、興義の台詞がすこぶる良い。逐語訳的なのが――この場合は――実は非常に良いのだ。何故か? まるで小泉八雲が、たどたどしい日本語を喋るように感じられるからだ。この興義は――実は――小泉八雲自身なのだ。小泉八雲が水泳が大好きだったことはご存じの通り。「荘周、夢に胡蝶となる」張りに、ここでは「八雲、夢に鯉魚(りぎょ)となる」の気持ちで書いたに相違ないからなのである。]

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