小泉八雲 「蜻蛉」のその「五」 (大谷正信譯) / 「蜻蛉」~了
[やぶちゃん注:本篇については、「蜻蛉」のその「一」の私の冒頭注を参照されたい。]
五
蜻蛉を捕ることは幾百年の間、日本の兒童の好きな娯樂となつて居る。時候が暑くなると始つて、秋の大部分の間續く。それに就いての――小さな狩手どもの無思慮を述べた、古い詩が澤山にある。今日も、他の數世紀間と同じに、その追跡の面白さが、兒童を色々な難儀な目に會はす。棘や泥穴や沼を顧みずに――暑さもものともせずに――飯時すら思はずに――土手を轉がり落ちたり、溝へはまつたり、引搔いたり、非常に身體を汚ごしたりする。
飯時も戾り忘れてとんぼつり 樂遊
裸子の蜻蛉釣りけり晝の辻 闌更
[やぶちゃん注:「樂遊」不詳。
「闌更」高桑闌更(享保一一(一七二六)年~寛政一〇(一七九八)年)は加賀金沢の商家の生まれ。蕉風の復興に努め、天明の俳諧中興に貢献した。編著「芭蕉翁消息集」「俳諧世説」・句集「半化坊発句集」など。彼は芭蕉の高雅を慕い、粉飾なき平明達意の、「ありのまま」を詠むことを節とした。本句はまさにそのモットーを強く感じさせる写生句として、映像が確かに見える佳品である。]
然し此の遊びに關しての最も有名な句は人を感動せしめる性質のものである。これは加賀の有名な女俳人千代がその小さな子を亡くしてから作りたものである。
とんぼつり今日は何處まで行つたやら
此句は母の感情を言明はせずに、暗示するやうにしたものである。蜻蛉を追ひ走つて居る多勢の子を見て、常にその遊びを一緖にした自分の死んだ子のことを思ひ、――無限無窮の神祕へ出て行つたあの子の靈はどうなつたのか知らと怪しむ。何處へ行つたのであらう。あの世でどんな遊びをして樂しんで居るのであらうか今は。
[やぶちゃん注:加賀千代女(元禄一六(一七〇三)年~安永四(一七七五)年)は加賀の松任(まっとう)の表具屋福増屋六左衛門(一説に六兵衛)の娘。美人の誉れが高かった。五十一歳頃に剃髪して千代尼と呼ばれた。半睡・支考・廬元坊らの教えを受けた。通説では十八歳の頃に金沢藩の足軽福岡弥八に嫁し、一子をもうけたが、夫や子に死別して松任に帰ったとも、結婚しなかったという説もある。としても、小泉八雲の鑑賞はまさに哀切々たるものがある。瞼の(瞼にさえ空ろな)母ローザと自身とを転換して美事である。なお、竹内玄玄一編「俳家奇人談」(文化一三(一八一六)年板行)の「巻下」の「千代女」では、
蜻蛉釣今日はどこまで行つたやら
の表記で載る。]
蜻蛉は時には網で捕り、時にはその先きへ鳥黐[やぶちゃん注:「とりもち」。]を塗つた竹竿で捕り、時には輕い杖か棒でた〻き落としても捕る。棒切れを使ふ事は、然し、普通善いとはされて居らぬ。蟲の身體に傷がつくからで、不必要に傷める事は、多分死者に緣のあるものと想像されて居るが爲め、不吉な事だと考へられて居るからである。蜻蛉捕りの――主として西部諸國で行はれて居る――頗る有效な方法は、捕つた雌の蜻蛉を囮に使ふ法である。長い糸の一端に雌の尾を結び附け、その糸の他の一端を曲り易い竿の先きへ結びつける。その竿を或る特別な振りやうをして振り𢌞はすと、糸一パイの長さで羽を立てていつも其雌を飛び𢌞はらせて置く事が出來る。すると雄が直ぐと惹き寄せられる。それが雌へつかまるや否や、すぐその竿を輕くしやくると、二匹とも釣手の手中へはいる。雌一匹を囮にして續けさまに八匹十匹の雄を捕るは容易な事である。
[やぶちゃん注:「鳥黐」バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra や、マンサク亜綱ヤマグルマ目ヤマグルマ科ヤマグルマ属ヤマグルマ Trochodendron aralioides などの樹皮から抽出した粘着性物質。前者から得たものは、白いので「シロモチ」或いは「ホンモチ」、後者からのそれは、赤いので「アカモチ」と呼称する。ウィキの「鳥黐」によれば、『鳥がとまる木の枝などに塗っておいて脚がくっついて飛べなくなったところを捕まえたり、黐竿(もちざお)と呼ばれる長い竿の先に塗りつけて獲物を直接くっつけたりする。古くから洋の東西を問わず植物の樹皮や果実などを原料に作られてきた』。『日本においても鳥黐は古くから使われており、もともと日本語で「もち」という言葉は』この「鳥黐」の『ことを指していたが、派生した用法である食品の餅の方が主流になってからは』、「鳥取黐」又は「鳥黐」と『呼ばれるようになったといわれている』とある。]
この蜻蛉狩をして居る間に子供は蜻蛉を呼ぴ寄せの短い歌を普通歌ふ。そんな歌は隨分にあつて、地方によつて異ふ[やぶちゃん注:「ちがふ」。]。此種類の歌で出雲で歌ふのは、第三世紀に、神功皇后の軍勢が朝鮮を征服したといふ傳說に奇妙にも關係のあるものである。雄の蜻蛉を斯う呼びかけるのである。――
[やぶちゃん注:以下、引用・註(ポイント落ち)は四字下げであるが、完全に上に引き上げた。]
『こな、男將高麗(をんじよかうらい)――東(あづま)の女頭(めとう)に――負けて逃げるは――恥ぢや無いかや』註
註 此歌は『知られぬ日本の面影』第二卷に引用。
[やぶちゃん注:私の原文附きのオリジナル注の「小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一一)」を参照されたい。]
東京では現今蜻蛉の小獵者は普通次の歌をうたふ。
とんぼ! とんぼ!
お泊り!
明日(あした)の市に
しほから買うて
ねぶらしよ!
[やぶちゃん注:私は前の唄も、これも、知らないが、秦恒平氏が「梁塵秘抄 信仰と愛欲の歌謡」の一節で、四三八番の歌(以下は『新潮日本古典集成』のそれを参考に、漢字を恣意的に正字化して示した。秦氏の引用とは一部が異なる)、
*
ゐよ ゐよ 蜻蛉(とんばう)よ
堅鹽(かたしほ)參らむ
さてゐたれ はたらかで
簾篠(すだれしの)の先に
馬の尾縒(よ)り合はせて
かい付けて
童(わらはべ) 冠者(くわじや)ばらに繰(く)らせて
遊ばせん
*
を挙げられ、『蜻蛉に呼びかけている「うた」です。とんぼと塩との縁は、私も知りませんでしたが、「塩買うてねぶらしよ」とか「塩焼いて食わそ」とか、蜻蛉に歌いかける童謡が高知県や兵庫県などに残っているそうです』とあり、『じっとしてろよ蜻蛉。塩をやるからじっとしてろよ、動くなよ。お前を、簾の、あの細い篠竹の先に 馬の尾を糸によって、くくりつけて、子どもたちにくる くる回して遊ばせてやるんだからな』と訳された後、『なんとも無邪気なはなしです』と述べておられる。「塩」が登場するのは、既にこの平安末期頃には「しおからとんぼ」(種としてのシオカラトンボ Orthetrum albistylum speciosum を指していたかどうかは判らぬが)の呼称が存在したことを物語るものかも知れない。]
子供はまた蜻蛉の幼蟲を捕へて面白がる。この幼蟲の普通名は澤山にあるが、東京では通常タイコムシ卽ち太鼓蟲と呼んで居る。水の中でその前足を動かす有樣が人間が太鼓をた〻く折の腕の動かしやうに似て居るからである。
[やぶちゃん注:「タイコムシ」ヤゴ(水蠆)蜻蛉(トンボ)目Odonata の、特に不均翅(トンボ)亜目 Anisoptera に属するトンボ類の幼虫を指す通称俗称。肉食性の水生昆虫として知られる。「ヤゴ」の語源は、成虫であるトンボを表す「ヤンマの子」を略して「ヤゴ」と称された。その別名(異名和名)が「タイコムシ」なのであるが、これは、肉食性の水棲昆虫である正式和名「タイコウチ」、則ち、半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目 タイコウチ上科タイコウチ科タイコウチ属タイコウチ Laccotrephes japonensis とは関係がない(脱線だが、正統なタイコウチは別名を「ワラジムシ」とも呼ぶが、これも甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目 Isopoda のワラジムシ類とも無関係である)。ウィキの「ヤゴ」によれば、『様々な形のものがあるが、共通する特徴としては』、①『下唇が折り畳み式になっており、先端にある鋏状の牙で獲物を捕らえることができる。ヤゴはすべて肉食で、普段は折り畳まれている下唇を瞬時に伸ばすことで、離れた距離から獲物を捕食する。そのスピードと精度は日本国内の水生昆虫の中では屈指であり、狩りのスケールを度外視すれば非常に獰猛な捕食者と言って差し支えない』という点と、②多くは『鰓があり、呼吸のために空気に触れる必要がない(鰓を体内に持つ種類もいる)』という点である。]
蜻蛉を捕る頗る珍らしい工夫は紀伊の國の子供がやる方法である。長い髮毛を――女の髮毛を――一本貰つ來て、其兩端へ非常に小さな小石をくつつけて、小さな小さなボーラスのやうなものを造る。そして之を空高く投げ上げる。蜻蛉は自分の前をすいと通つて行く此物へ飛びかかつて來る、が、それを摑むが早いか、その髮毛が身體へ倦きついて、小石の重さで地上へ落ちる。蜻蛉をボーラスで捕る此手段を日本外の何處かで用ひて居るかどうか自分は怪しむ。
[やぶちゃん注:「ボーラス」原文“bolas”。“bola”の複数形。ウィキの「ボーラ(武器)」によれば、『ボーラ(bola)は、複数のロープの先端に球状のおもりを取り付けた狩猟用アイテム、もしくは投擲武器』で、二個或いは三個の『丸石または金属球またはゴムや木の錘を、革紐やロープや鎖やワイヤーなどで繋ぎ』、三『個の場合は同じ長さの紐で三つ又になるように作る。おもりが石の場合は、皮でくるんで紐を結びつけることもある』。『東南アジアが発祥とされるが、エスキモーや南米パンパス地帯のインディオもダチョウ狩り等の狩猟目的で使用していた。また、スペイン人がヨーロッパから持ち込んだ馬が野馬となって数が増えると』、『それらを狩る際にもに石』三『個のボーラが用いられるようになった他、スペイン人と先住民の子孫で牧畜に従事したガウチョ達は先住民との戦いや』、『内戦の際も武器として使用した』。『イヌイットのボーラは主に野鳥を捕獲することを目的としている。小形動物の狩猟用はケラウイタウティンと呼ばれる』。『南米では』二『つ球のボーラをソマイ』、三『つ球のボーラをアチコと呼んでいる。インカ帝国では遠戦の主力武器だった』。『ボーラに相当する、日本の伝統的な分銅鎖系武器は』「微塵(みじん)」と『呼ばれている。直径』四センチメートル『ほどの中央の輪に、長さ』三十五センチメートル『ほどの』三『本の分銅鎖が付いた、主に忍者が用いた隠し武器(神社に奉納されて、実物・技ともに伝承)で、先端の錘は』二・五センチメートル『程度のものがある。扱い方次第では』、『敵の骨を木っ端微塵に打ち砕く威力をも発揮しうるため、この名が付けられたとされる』とある。これは注なしには意味が解らぬから、これは不親切である。平井呈一氏は『投げなわのようなもの』と意訳されているが、この方が遙かに判りがいい。
以上で、「蜻蛉」は全篇を終わっている。]
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