小泉八雲 破約 (田部隆次訳)
[やぶちゃん注:本篇(原題“Of A Promise Broken”。「破られた約束」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(原題“Strange Stories ”)の第二話に置かれたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。
本篇は小泉八雲の怪談作品の中で、私が第一に挙げる名篇で(小学校五年の正月に読んだ角川文庫版「怪談・奇談」(田代三千稔(みちとし)氏訳)での本篇の衝撃は今でも忘れられない)、私は既に二〇一二年に私のサイト「鬼火」の「心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、
OF A PROMISE BROKEN BY LAFCADIO HEARN(英語原文)
「破られし約束」 小泉八雲原作 藪野直史現代語訳(別に縦書版も作製してある)
を公開しているので、是非、参照されたい(個人的にはこの訳には秘かに自信を持っている)。なお、この優れた戦慄の真正怪談は、不思議なことに原拠が現在まで明らかにされていないようである。どなたかご存じの方は是非とも御教授願いたい。
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。
通常傍点「ヽ」は太字に代えた。一部に「◦」傍点があるが、そこは下線太字とした。
田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。]
破 約
一
『私死ぬ事かまひません』死にかけて居る妻が云つた、――『ただ一つ氣にかかる事があります。私の代りにこのうちへ誰が來るでせう、それが知りたい』
『愛する妻』悲しんで居る夫は答へた、『誰も代りなどは入れない。もう決して、決して再婚はしない』
かう云つた時は、彼は心から云つたのであつた、今失ひかけて居る女を愛してゐたからである。
『武士の誓にかけて?』かすかな微笑をもつて彼女は尋ねた。
『武士の誓にかけて』彼は答へた、――彼女の靑白いやせた顏を撫でながら。
『それなら、あなた』彼女は云つた 『あなたは私を庭に埋めて下さいね、――い〻でせう、――あの向うの隅に、私達が植ゑたあの梅の林の近くに。私は先から[やぶちゃん注:「せんから」。]この事を賴みたかつたのですが、もしあなたが再婚なさると、そんな近いところに墓のあるのがおいやでせうと思つたのです。今あなたが再婚しないと約束なさつたから、――それで私遠慮しないで私の願を申します。……私お庭に埋めて欲しい、時々あなたの聲が聞かれるでせうし、又春になつたら花が見られるでせうから』
『好きなやうにして上げる』彼は答へた、『しかし今からそんな葬式の話は止めよう、もう駄目と云ふ程重いわけでもないのだから』
『駄目ですよ』彼女は答へた、――『今日朝のうちに死にます。……しかし庭に埋めて下さいますね』
『宜しい』彼は云つた、――『私共が植ゑた梅の木の影の下に、――そしてそこに立派な墓をたてて上げる』
『それから小さい鈴を一つ下さいませんか』
『鈴――?』
『はい、棺の中へ小さい鈴を入れて下さい、――巡禮のもつて居るやうなあんな小さい鈴。あんなのを下さいませんか』
『上げよう、そんな小さい鈴を、――それから何か外に欲しい物は』
『外に何もありません』彼女は云つた、……『あなたいつでもあなたは私に大變親切にして下さいました。もう安心して死なれます』
それから妻は瞑目して死んだ、――丁度疲れた子供が寢込むやうに無造作に。死んだ時美しい顏をしてゐた、そして頰に微笑があつた。
彼女は庭園に、愛した樹の影の下に埋葬された、そして小さい鈴は一緖に埋められた。墓の上に家の定紋の飾りのある、そして「慈海院梅花明影大姉」と云ふ戒名のある立派な石碑がたてられた。
[やぶちゃん注:「慈海院梅花明影大姉」原文は、
"Great Elder Sister, Luminous-Shadow-of-the-Plum-Flower-Chamber, dwelling in the Mansion of the Great Sea of Compassion."
である。過去の殆んどの訳は、
慈海院梅花明影大姉
とし、昭和三一(一九五六)年角川文庫刊の田代三千稔氏では、
慈海院梅花照影大姉
とする。しかし、私はこれを先の現代語訳では、
慈海院梅花庵照光大姉(正字表記「慈海院梅花庵照光大姊」)
と訳した。私は過去の諸家の邦訳には二箇所の問題点があると考えている。一つは“Plum-Flower-Chamber”の“Chamber”が訳されていない点、今一つは戒名である“Luminous-Shadow”を果たして『明影』と漢訳することが正当かどうかという点である。私はいずれの問題も従来の訳では納得出来ないのである。前者は、院殿居士の「殿」は江戸時代の普通の武士階級の妻の戒名としてはあり得ないから、「庵」ではないかという判断である。更に、従来の『影』という文字が戒名としては私には如何にも字の座りが悪いのである(無論、「影」に「光」の意があることは百も承知でである)。更に“Luminous-Shadow”を凝っと見つめていると、ハーンは「影」という字を一辺倒に「物の影」「陰影」と解釈してしまい、古語としての「影」=「光」の意をここでは失念していたのではないか? とも思ったのである。そこから、私は「影を照らす」ではなく、「遍く仏光が照らし尽くす」というイメージを連想し(言っておくが、田中氏の訳の影響ではなく、全くの私の生理的印象である)、「照光」の訳を導き出したものである。「明光」でも悪くないが、全くの私の趣味からは「照光」のほうがピンとくるのである。私の漢訳戒名が致命的に誤りである(戒名としてはあり得ない)とされる方は、その証左をお示し戴いた上で、御教授願えると幸いである。]
* *
*
しかし妻の死後一年たたぬうちに、その武士の親戚や友人は、彼に再婚を迫り出した。『未だ若い』彼等は云つた、『そして一人息(むすこ)だ、子供がない。武士は結婚すべき義務がある。子供がなくて死んだら、祖先を祭つたり、供物をしたりする事を誰がするか』
澤山のそんな申し立てによつて、彼はたうとう再婚するやうに說破された。花嫁は僅か十八であつた、そして庭にある墓の沈默の非難があつたが、深く彼女を愛する事のできる事が分つて來た。
[やぶちゃん注:最終の一文の原文は、
The bride was only seventeen years old; and he found that he could love her dearly, notwithstanding the dumb reproach of the tomb in the garden.
である。私は、先の現代語訳では、
この度(たび)の嫁ごは、やっと十七になったばかりであったが、彼はこの新しい若き妻を、心より愛し得るという実感を、確かに、持ち得てもいたのであった。……庭の……かの墓からの……無言の呵責を……何処かに感じながらも……。
と訳した。田部氏の訳は如何にも生硬に過ぎる。]
二
結婚後七日目までは、若い妻の幸福の邪魔が起らなかつた、――七日目になつて、夫は夜、城につめて居る事の必要な或役を命ぜられた。獨り留守居をせねばならなかつた第一夜に、妻は說明のできないやうな不安を感じた、――理由は分らないが、何だか妙に恐ろしかつた。床についても眠られなかつた。何となしにあたりは重苦しかつた、――嵐の前に時としてあるやうな一種名狀し難い重苦しさであつた。
丑の刻に、彼女は夜外の方で鈴の鳴る音を聞いた、――巡禮の鈴であつた、――そして彼女は今頃何の巡禮が士族屋敷を通るのかと不思議に思つた。やがて、暫らく休んでから、鈴がもつと近くひびいた。明らかに巡禮はこの家に近づいて來るのであつた、――しかし何故道もない裏から近づいて來るのであらうか。……突然犬が妙な恐ろしさうな風に吠え泣きをし出した、――そして夢の恐怖のやうな恐怖が彼女を襲うた[やぶちゃん注:ママ。]。……その鈴の音はたしかに庭であつた。……女中を起しに起きようとした。しかし起きる事もできない、――動く事もできない、――聲をあげる事もできない事が分つた。……そして近く、段々近く、鈴の音が聞えて來た、――そしてあ〻、その犬の吠えやうはどんなであつたらう。……それから影がそつと忍んで來るやうに、その部屋ヘ一人の女がそつと入つて來た、――戶と云ふ戶は皆固く閉ざされたまま、それから、ふすまが動きもしないで、――經かたびらを着て、巡禮の鈴をもつた女が。死んでから餘程になるから、眼はない、――そしてほどいた髮の毛は顏の𢌞りに長く垂れてゐた、――そして彼女はその亂れた髮の毛の中から眼なくして見、舌なくして語つた、
『いけない、このうちにゐてはいけない。未だ私はこのうちの主婦だ。出て行け、そして出て行く理由を誰にも云つてはいけない。もしあの人にあつたら、八つ裂きにする』
さう云つて、その幽靈は消えた。花嫁は恐怖のために正氣を失つた。あけ方まで彼女はそのままになつてゐた。
それでも、樂しい日の光を見ると彼女は見たり聞いたりした物の事實を疑つた。云つてはならないと云はれた事の記憶は未だ彼女をそんなにひどく惱ましてゐたので、彼女は夫にも誰にも、その幽靈の事を話す氣にはなれなかつた。しかし彼女はただ恐ろしい夢を見て病氣になつたのだと自分で納得する事が大方できた。
しかし、翌晚は疑ふ事はできなかつた。再び丑の刻に犬が吠え泣きを始めた、――再び鈴がひびいた、――庭の方から徐ろに近づいて、――再び、聞いて居る彼女は起きて呼ばうとしたが駄目であつた、――再び死者は部屋に來て、小聲で叱つた、――
『出て行け、その理由は誰にも云つてはならない。もしあの人にあつたら、八つ裂きにする』
今度は幽靈は床の近くまで來た、――そして床の上で屈んで、つぶやいて、變な顏をして見せた。……
翌朝武士が城から歸つた時、彼の若い妻は彼の前に平伏して歎願した、――
『お願です』彼女は云つた、『こんな事を申上げるのは恩知らずで、失禮ですが、赦して下さい、しかし私を里へ歸して下さい、――今すぐ歸して下さい』
『ここに何か面白くない事があるかね』夫は心から驚いて尋ねた。『誰か留守中に何か意地の惡い事でもしたかね』
『そんな事ぢやありません――』彼女はすすり泣きをしながら答へた。『誰でも皆、ここでは私に大變親切にして下さいます。……けれども、私は續いてあなたの妻になつて居られません、――私出て行かねばなりません。……』
『困つたね』彼は非常に驚いて叫んだ、『このうちで何か面白くない事があるのは甚だ殘念だ。しかし出て行きたい理由が分らない、――誰か大變不親切な事でもしない以上は。……本當に離緣してくれと云ふつもりでないだらうね』
彼女は震へながら、泣きながら答へた、
『離緣して下さらなければ、私は死にます』
彼は暫らく默つてゐた、――どうしてこんな驚くべき事を云ひ出したのであらう。その理由を考へて見ても駄目であつた。それから何の感情をも面に表はさないで答へた、――
『何も缺點のないお前を兩親の方へ送りかへすのは恥づかしい行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]であらう。何かさうして貰ひたい相應な理由を云つてくれたら、――どんな理由でも、わけの分る理由なら宜しいから、――私は離緣狀を書く事ができる。しかし、理由、――相圖な理由がなければ、離緣するわけには行かない、――私共の家の一譽は世間の人の口の端にかかつてはならないから』
そこで彼女は云はずには居られなくなつて來た、そして彼女は一切の事を告げた――恐怖の苦痛のうちにつぎのやうに云ひ足した、――
『もうあなたに話しましたから、私は殺されます、――殺されます。……』
勇敢な人であり、又お化けなどを信ずる人ではないが、武士は一時非常に驚いた。しかしその事の簡單な自然の解決が心に浮んで來た。
『お前は』彼は云つた、『お前は今大層神經を起して居る、誰かつまらない話をした者があるのぢやないか。ただこのうちで、變な夢を見たと云ふわけで、離緣するわけには行かない。しかし留守中にこんな風に苦しんでゐるのは、本當に氣の毒だ。今夜又城へ行かねばならないが、お前一人にしては置かない。お前の部屋にゐて、寢ず番をしてくれる武士を二人云ひつける、そしたら、安心して寢られるだらう。二人ともよい人だから、できるだけの注意をしてくれる』
それから、夫がそれ程思ひやり深く、又それ程情け深く話してくれたので、妻は自分の恐怖が殆ど恥づかしく恐怖が殆どなくなつて來た程であるた、そしてこの家に止つてゐようと決心した。
三
若い妻の保護を托された二人の武士は、大きな、强い、心の單純な人達であつた、――女や子供の保護者として經驗のある人々であつた。彼女の氣を引立てるために、花嫁に面白い話を聞かせた。彼女はこの人達と長い間話した。彼等の面白いおどけで笑つた、そして殆ど彼女の恐怖を忘れた。いよいよ眠るために床についた時、二人の武士はその部屋の一方で屛風のうしろに陣取つて碁を始めた、――彼女の邪魔にならないやうに。小聲で話してゐた。彼女は赤兒のやうに眠つた。
しかし又、丑の刻に彼女は恐怖のうめきをもつて眼をさました、――例の鈴を聞いたのであつた。……それはもう近くに來てゐた、そして段々近くなつてて來た。彼女は飛び上つた、彼女は叫んだ、――しかしその部屋に動く物はない、――ただ死の如き沈默、――段々と增して行く沈默、――段々と濃くなつて行く沈默、――があるだけであつた。彼女は武士のところへ飛んで行つら、彼等は碁盤の前に、――動かないで、――銘々相手を坐つた目附でにらんでゐた。彼女は彼等に叫んだ、彼等をゆり動かした、彼等は凍りついたやうになつてゐた。……
あとで彼等の云つたところでは、彼等は鈴を聞いた、――花嫁の叫びも聞いた、――起さうとして彼女がゆり動かしたのさへも知つてゐた、――そしてそれにも拘らず動く事も、物云ふ事もでもなかつた。その時から彼等は聞く事も、見る事もできなくなつた、黑い眠りが彼等を捉へたのであつた。
* *
*
夜明けになつて、主人は花嫁の部屋に入つて、消えかかつた燈火の光で、血の溜りの中に寢て居る若い妻の首のない死骸を見た。やはり未だ打ちかけの碁を前にして坐りながら二人の武士は眠つてゐた。主人の叫びを聞いて彼等は飛び上つた、そしてぼんやり床の上の恐怖すべき物を見つめてゐた。……
首はどこにも見當らなかつた、――そしてその物すごい疵は、それが斬り取られたのでなく、もぎ取られた事を示した。血のしたたりはその部屋から椽側の角まで續いて、そこで雨戶は引裂かれたやうであつた。三人はその跡をたどつて庭に出た、――草地を通つて、――砂場を超えて、――𢌞りに花菖蒲のある池の岸に沿うて、――杉と竹との暗い蔭の下へ。そして不意に曲つたところで、彼等は蝙蝠のやうに嘲る[やぶちゃん注:「あざける」。]魔物と面と向つて立つて居る事に氣がついた、卽ち長く埋められた女の姿が、墓の前に棒立ちになつて、――一方の手に鈴をつかみ、他方に血の滴る首をもつて居るのであつた。……暫らくの間、三人は痺れたやうになつて立つてゐた。それから三人の武士は念佛を唱へながら、刀を拔いて、その姿を打つた。直ちにそれは――經かたびら、骨、及び髮の空しい散亂となつて、――地上に崩れた、――そして鈴はその崩壞のうちから、チリンと鳴つて轉がり出た。しかし筋肉のない右の手は、手首から離れながら、なほ放たないで、――その指はやはり血の滴る首をつかんで、――そして黃色の蟹の鋏が落ちた果物をつかんで放たないやうに――爪をたてて、さいなんでゐた。……
*
*
*
〔『これはひどい話だ』私はそれを物語つた友人に云つた。『一體復讐をしたければ、その死人は、男に對してすべきであつた』
『男はさう考へます』彼は答へた。『しかし、それは女の感じ方ぢやありません、……』
彼の云ふところは正しかつた。
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