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2019/10/30

小泉八雲 夜光蟲 (岡田哲藏譯) / これより作品集「影」の最終パート標題「幻想」に入る

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Noctilucæ ”(ノクティルセウェーイ)。Noctiluca(ノクティルゥーカ)の複数形。なお、「æ」は「a」と「e」の合字。古典ラテン語には二重母音「ae」があったが、紀元前からすでに単一の母音になる傾向が見られ、後期ラテン語になると単母音[ɛː]と発音されることが一般的になった。古典期に置いても、現代に置いても、ラテン語の「ae」は二文字として分けて綴られるが、中世ヨーロッパにおいては単母音化した「ae」を合字「æ」 で表記することが行われ、現在でも、詩語や古語的雰囲気を出すために使用されることが、しばしばある。「夜光虫」。夜光虫については、本冒頭注末に記す)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”・第二パート“ JAPANESE STUDIES ”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“ FANTASIES ”の巻頭に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(添辞のあるパート標題“FANTASIES”はここで、本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月15日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者岡田哲藏氏は明治二(一八六九)年生まれで昭和二〇(一九四五)年十月没の英文学者。千葉県佐倉市生まれで、東京帝国大学文科大学哲学科選科卒。通訳官として明治三七(一九〇四)年の日露戦争に従軍し、その後、陸軍大学校教官や青山学院・早稲田大学講師などを務めた。英詩文をよくし、昭和一〇(一九三五)年に出版された最初の「万葉集」の英訳として有名な‘ Three Handred Manyo Poems ’ などの著書がある。

 傍点「○」(これのみ)は太字に代えた。

 英語の「Noctilucæ」は、アルベオラータ渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属 Noctiluca に属するヤコウチュウ類、及び、近縁属(ヤコウチュウ科Noctilucaceae には他にLeptophyllus 属と Pronoctiluca 属の全三属が含まれる。但し、他属の発光機序は不明のようである)の総称である。本邦の近海で大発生する和名ヤコウチュウは Noctiluca scintillans である。属名はラテン語の「noctis」(夜)と「lucens」(光る)の合成語。ウィキの「ヤコウチュウ」によれば、『原生生物としては非常に大きく、巨大な液胞』『で満たされた細胞は直径』一~二ミリメートル『に達する。外形はほぼ球形で』、一『ヶ所』、『くぼんだ部分がある。くぼんだ部分の近くには細胞質が集中していて、むしろ』、『それ以外の丸い部分が細胞としては膨張した姿と見ていい。くぼんだ部分の細胞質からは、放射状に原形質の糸が伸び、網目状に周辺に広がるのが見える。くぼんだ部分からは』一『本の触手が伸びる。細胞内に共生藻として緑藻の仲間を保持している場合もあるが、緑藻の葉緑体は消滅しており、光合成産物の宿主への還流は無い。細胞は触手(tentacle)を備え、それを用いて他の原生生物や藻類を捕食する。触手とは別に』、二『本の鞭毛を持つが』、こちらは殆んど『目立たない』。『特異な点としては、他の渦鞭毛藻と異なり、細胞核が渦鞭毛藻核ではない(間期に染色体が凝集しない)普通の真核であるとともに、通常の細胞は核相が2nである。複相の細胞が特徴的である一方、単相の細胞はごく一般的な渦鞭毛藻の形である』。『他の生物発光と同様、発光は』ホタルと同じく「ルシフェリン(luciferin)―ルシフェラーゼ(luciferase)反応」(後者の酵素によって酸化されて発光。因みに、この名は「堕天使・悪魔」である「ルシファー」(Lucifer:原義は「光りをもたらす者」である)に由来する)によるが、『ヤコウチュウは物理的な刺激に』反応して『光る特徴があるため、波打ち際で特に明るく光る様子を見る事ができる。または、ヤコウチュウのいる水面に石を投げても発光を促すことが可能である』。『海産で沿岸域に普通』に棲息する『代表的な赤潮形成種である。大発生時には海水を鉄錆色に変え、時にトマトジュースと形容されるほど濃く毒々しい赤茶色を呈する。春~夏の水温上昇期に大発生するが、海水中の栄養塩濃度との因果関係は小さく、ヤコウチュウの赤潮発生が』、『即ち』、『富栄養化を意味する訳ではない。比較的頻繁に見られるが、規模も小さく毒性もないため』、昼間の見た目の強烈さの割りには、『被害はあまり問題にならないことが多い』。『ヤコウチュウは大型で軽く、海水面付近に多く分布する。そのため』、『風の影響を受けやすく、湾や沿岸部に容易に吹き溜まる。この特徴が海水面の局所的な変色を促すと共に、夜間に見られる発光を強く美しいものにしている。発光は、細胞内に散在する脂質性の顆粒によるものであるが、なんらかの適応的意義が論じられたことはなく、単なる代謝産物とも言われる』。『通常は二分裂による無性生殖を行う。有性生殖時には遊走細胞が放出されるが、これは一般的な渦鞭毛藻の形態をしており、核も渦鞭毛藻核である』とある(引用部の下線は私が附した)。海を泳ぐことの好きだった(「燒津にて」では、無謀にも夜の沖の精霊流しにまで達している)小泉八雲にとって、夜光虫は我々などよりも遙かに親しい身近なものであったはずである。但し、本篇は夜光虫の博物誌ではない例によって、八雲独特の深遠な霊的にして哲学的な生命と宇宙に就いての随想である。なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三二(一八九)年八月の焼津での夜の水泳中に見た夜光虫の体験に基づくものであるらしい。

 

 

  幻 想

     人々各〻流を下り

     空しく想ひまた夢む

     時の川が

     その水面に彼の生る〻前に過ぎ

     彼の目閉づる後に達すならん

     國土を

         マシウ・アァノルド (『未來』より)

[やぶちゃん注:添辞は底本ではポイント落ち。

「マシウ・アァノルド」マシュー・アーノルド(Matthew Arnold 一八二二年~一八八八年)はイギリスの耽美派詩人の代表にして文明批評家。本引用元(但し、引用元は原本には記されていない。岡田氏のサーヴィスである)である詩篇“ The Future ”は、英文サイト「POETRY FOUNDATION」のこちらで全篇が読める。引用は第三連の冒頭部であるが、八雲の原本では、

   . . . Vainly does each, as he glides,
   Fable and dream
   Of the lands which the River of Time
   Had left ere he woke on its breast,
   Or shall reach when his eyes have
     been closed.

となっており、「時の川」の“river”が大文字となって、全体が固有名詞化されてあることが判る。思うに小泉八雲の確信犯であろう。]

 

 

   夜 光 蟲

 

 月いまだ昇らず、夜の大空に星湧くが如く、いとも明かるき銀河の橋を渡し、風立たず、見渡す限り海は火の漣波立てて駛る[やぶちゃん注:「はせる」。]、幽冥の美の幻覺。波頭のみ輝き、その間は全く黑く、しかも照明は驚くばかり。波動は槪ね燭の熖のごとく黃なれど、紅に射る光もまたあり、――しかして蒼、また橙黃[やぶちゃん注:音なら「たうくわう(とうこう)」だが、個人的には「だいだい」と当て訓したい。]、また鮮綠。一切の蜒々たる[やぶちゃん注:「えんえんたる」。「蜿蜒(ゑんえん)」に同じい。]煌き[やぶちゃん注:「きらめき」。]は、多量の水の脈搏ならで、多數の意志の努力かと思はれ――意識ある怪しき物の疾き移ろひ――冥界の深淵に龍の生の限りなく踠き[やぶちゃん注:「もがき」。]且つ群れ動くかと疑はる。

 實に生命がその光景の奇怪な光彩を呈して居るのであつた――それは無數の生命、しかも幽靈の如く纎細のもの――限りなき生命、しかも蜉蝣[やぶちゃん注:「かげろふ」。]のそれ、空の線までも水の全面に亘り絕え間あらぬ變遷のうちに燃えては消ゆる、なほその上なる更に廣き深淵には異る無數の光が異る分光の色に鼓動して居た。

 

 見守りつ〻私は驚きまた夢みた。私はとの巨大なる燦爛[やぶちゃん注:「さんらん」。美しく煌(きら)めき輝くさま。]のうちに表現された究極の靈を想ふた――それが我が上には、分解せる過去の恐ろしき融合によりて輝く諸〻の系統となり、再生すべき生命の濛氣[やぶちゃん注:「もうき」。霧や霞のようなものがもうもうと立ち籠めるさま。]を包んで蘇り、また我れの下には、流星の迸り[やぶちゃん注:「ほとばしり」。]、星座、またそれより冷たき光の星雲の質となつて動くを想ひ――遂には私は大陽星の千萬年にも、不斷の分解の流にあつては、消えゆく一の夜光蟲の瞬時の閃光に勝さる何者ありやと疑ふにいたつた。

 この疑と共にすら幻覺は變つた。私はもはや火の振動する昔の東洋の海を見ずに、永遠の夜と廣さ、深さ、高さを一にするかの潮流を見た――のの岸邊なく時間なき海。億萬の太陽の光の靄――銀河の穹窿[やぶちゃん注:「きゆうりゆう」。弓形に見える宇宙の天空。]――それは無限の潮の流に於ける單一の燻ぶる[やぶちゃん注:「ふすぶる」或いは「くすぶる」。私は前者で読みたい。]波動であつた。

 

 また起こる一の變化、私はもはや諸〻の太陽の濛氣の如き波動を見ず、私の周りに無限の閃光を放つて流れ且つ震へる生ける暗を見た、そして閃光の一つ一つが心臟の如く鼓動し、――海の火の彩りの如き色を打ち出して居た。そして一切の物の射る如き光は照明の振動する絲の如く無限の神祕のうちに流れ去つた。

 それで私は自己もまた燐の一點――測られぬ流に浮かぶ泡沫[やぶちゃん注:「うたかた」。]の如き閃きであることを知つた、――そして我がものたりし光は思想の變化每に色の移ろへることを見た。時には紅玉と輝き、時には靑玉、忽ちそれが黃玉の熖となるかと見れば、また碧玉の火となる、そして變化の理由は十分に悟れなかつた。然し地上の生命を思へば光は赤く燃ゆるかと見え、天上の存在――靈の美と靈の幸[やぶちゃん注:「さひはひ」と訓読したい。]との存在――を思へば蒼と紫の不滅のリズムと燃ゆるかと思はれた。

 

 然し凡ての視界に白光[やぶちゃん注:「びやくかう」と読んでおく。]は全く無かつた。そして私は不思議に思つた。

 そのとき一のが私にいうた――

 『白は高位のもの、億萬の混合によりて成る。その燃ゆるを助成するは汝の役目。汝の燃ゆる色と汝の價値と正に相同じ。汝の生くる間は瞬時のみ、されど汝の脈搏の光は生き續く、その光明の時の汝の思により、汝は神々るものとなる』

 

[やぶちゃん注:「神々」と「造」のみに傍点「○」がある。原文は“Maker of Gods”であるから、岡田氏の確信犯(小泉八雲の力点を押さえたもの)であろうことが判る。]

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