小泉八雲 化け物の歌 「二 リコンビヤウ」 (大谷正信譯)
[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信譯)』の私の冒頭注を参照されたい。]
二 リコンビヤウ
リコンビヤウといふ言葉は『亡靈』、『幽靈』、『妖怪』といふ意味のリコンといふ語と、『やまひ』、『病氣』といふ意味のビヤウといふ語から成つて居る。殆んど文字通りに譯すれば『幽靈やまひ』であらう。和英字書にはリコンビヤウの意味は『ヒポコンドリア』であると載せであるであらう。そしてこの語をこの近代的意義に實際使用して居る。然し古昔の意味は軀の外の魂をつくる心のやまひであつて、この不氣味な病氣についての奇異な文獻がうんとある。支那でも日本でも、戀が起こした烈しい悲哀か熱望かの力によつて、それに惱まされて居る人の靈が、肉體外の魂を造ることがあると想像されて居たものである。だから、リコンビヤウに罹つて居る者は、丁度、同じな身體を二つ有つて[やぶちゃん注:「もつて」。]居るやうに見えるのである。そしてその二つのうちの一つは家に殘つて居るのに、片方の一つが其家には居ない戀人に會ひに出て行くとされてゐた。多分、離魂や亡魂の原始的信仰は何かの形式で世界到る處に存在するのであらう。然しこの極東の一種は、離魂は戀が起こすもの、その煩ひに罹るものは女だ、と想はれて居るから特別の興味がある。……リコンビヤウといふ言葉は、幽靈を造るとされて居るその心の病にも使用されて居るが、その幽靈にもまた使用されて居るやうである。『靈魂(ゴースト)の病氣(デジイズ)』を意味すると共に『身を離れての魂(ドツペルゲンガア)』を意味するものである。
〔自分の『異國情趣と懷古のことども』のうちに、「禪の一問」と題したこの問題を取扱つた典型的な支那物語――倩といふ少女の物語――があるのを讀者は見らるるであらう〕
[やぶちゃん注:【2025年4月2日追記】実は底本では、以下の注は段落途中に、突如、挿入されているのだが、私は底本全集にしばしば見られる、この方式が、厭でしょうがない。そこで、今回は、総て、段落終了の後に移すこととした。
「リコンビヤウ」言わずもがな、漢字表記は「離魂病」である。所謂、古来からのあくがれ出でづる「いきすだま」「生霊」、心霊学上の「幽体離脱」から、現代の精神疾患の「解離性同一性障害」(Dissociative Identity Disorder)、則ち、旧名称「多重人格障害」に相当するとも言える、通常は人間に発生する怪(疾患)である。
「ヒポコンドリア」原文“hypochondria”。かつては狭義の疾患としての「心気症」(心身症のようには身体的物理的変成疾患を見出すことが出来ない「思い込み」の心因性の精神疾患)や旧「憂鬱症」(双極性障害の鬱期)、及び、広義の「気病み」を指した語で、「ヒポコンデリー」とも呼んだ(これを大昔、小学六年生の私に、「男性のヒステリーを指す語なんだよ」と伯父が言ったが、考えて見ると、全くの嘘なわけだが、私は二、三年の間、それを信じていたのを思い出す)。
「病氣(デジイズ)」ルビの“disease”は、病因や病態が明確で、医学的に定義された疾患を指す。多くの場合、疾患名が付けられており、治療法や診断基準が確立されている狭義の医学的定義語である。
「異國情趣と懷古のことども」明治三一(一八九八)年十月刊の“ Exotics and Retrospectives ”(「異国風物と回想」)。
「禪の一問」原文“A Question in the Zen Texts”。前掲書の第三話。訳は「禪に於ける公案」がよかろう。そこでは、宋代の僧無門慧開(一一八三年~一二六〇年)が編んだ公案集「無門関」の「三十五 倩女離魂(せんぢよりこん)」を枕に、唐代伝奇の名作の一つである中唐に陳玄祐(ちんげんゆう)の「離魂記」の話を小泉八雲は語っている。実はすこぶる幸いなことに、私は「無門関」を「淵藪野狐禅師訳注版」としてトンデモないブットビ訳で全電子化注しており(前のリンク先はブログ分割版だが、サイト一括版もある)、特異的にその注の中で、陳玄祐撰「離魂記」の電子化注もオリジナルにしてある。是非、ご覧あれ!【追記】まず、後に「小泉八雲 禪の一問 (田部隆次譯)」として電子化注した。さらに、ブラッシュ・アップした「無門關 三十五 倩女離魂」のブログ版もあるので、容量が大きいサイト版がキツい方は、そちらで見られたい。]
「身を離れての魂(ドツペルゲンガア)」原文の“doppelgänger”はドイツ語で、「二重の歩く者」「二重身」の意。自分自身の姿を現実の外部に於いて自分で見る(見たように感ずる)幻覚。「自己像幻視」である。但し、他者がそれを見る場合でも、かく呼ぶ。【追記】私は、このドッペルゲンガー現象が好きで、かなりの作品を電子化しているが、まず、他では、まず、読めない珍しいものでは、『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』がお薦めである。]
必須な如上の證明があれば、次記の狂歌の味は了解が出來る。狂歌百物語に載つて居る或る繪には、自分の主人――『離魂病』に罹つて居る女――にお茶を一椀侑めようとして居る[やぶちゃん注:「すすめようとしてゐる」。]下女が描いてある。その下女には自分の前に見えて居る本來の姿と變化(へんげ)の姿との見分けがつかぬ。そこの困却が自分が飜譯した狂歌の初めに暗示されて居る。
こやそれとあやめもわかぬ離魂病
いづれをつまと引きぞわづらふ
[やぶちゃん注:「狂歌歌百物語」原拠の「離魂病」の部に(絵は「中編」の「2」)、
こやそれとあやめもわかぬりこん病いつれをつまと引きそ煩ふ 館林 美通歌垣
とある(以上の狂歌は同「9」の右丁最終行にある)。]
二つ無きいのちながらもかけがへの
からだの見ゆるかげのわづらひ
[やぶちゃん注:同前で「9」の右丁四行目で、
ふたつなき命ながらもかけかへのからたの見ゆる影のわつらひ 弓の屋
とある。]
長旅のをとをしたひて身二つに
なるは女のさるりこんびやう
[やぶちゃん注:最終句は原本は“Sāru rikombyō”となっている。同前で「離魂病」本文狂歌の冒頭に配されてあり(「9」)、
長旅の夫をしたひて身ふたつになるは女のさるりこん病 松の門□子
とある(□は判読出来なかった)。この「さる」は連体詞「然(さ)る」で「当然の如くその通りであるところの」の意であろう。平井呈一氏は長音符を意識されて、恒文社版で、ここの句を「さある離魂病」としておられるが、これでは確実な字余りになるし、原本自体に、そうは書いていない。]
見るかげもなきわづらひのりこんびやう
おもひのほかに二つ見るかげ
〔病氣で非常に瘦せて居る人のことを日本人はミルカゲモナイ卽ち「その人の人眼に見える影さへ無い」と言ふ。同じ言葉を『見ゐに堪へぬ』といふ意味に使ふ事實からして、今一つの飜譯も可能である。卽ち『この魂の病を煩つて居るあの人の顏は見るに堪へぬが、(今一人の男を)慕ふその内心の戀慕のために、その女の顏が二つ見られる』オモヒノホカといふ句は「期待に反して」といふ意味である。然し、心ひそかに思ひ慕ふといふ戀をも暗示するやう巧に出來て居る〕
[やぶちゃん注:原拠には(同「9」の左丁二行目)、
見る影もなき煩ひのりこん病思ひのほかにふたつ見る影 夜光
と出る。]
離魂病人に隱して奧座敷
今おもてへ出さぬかげのわづらひ
〔四句目に妙な言葉の戲れがある。『前』といふ意味のオモテといふ語は、讀むをり、オモツテ卽ち思つてとやうに發音が出來る。だからしてこの文句はかうもまた反譯[やぶちゃん注:「ほんやく」。]してもよからう。『あの女は自分の本當の思ひは家の後ろに隱して置いて、決して家の表では見られぬやうにして居る――(戀の)「影の病」をわづらつて居るのだから』〕
[やぶちゃん注:原拠には(同「9」の右丁五行目)、
りこん病人に隱して奧座敷今おもてへ出さぬ影のわづらひ 尙丸
と出る。]
身は此處にたまは男に添ひ寢する
こころもしらが母が介抱
〔四句目に、言ひ現してゐるといふより、ほのめかしてある二重の意味がある。シラガ(「白髮」)はシラヌ(「知らぬ」)をほのめかせて居る〕
[やぶちゃん注:原拠には(同「9」の右丁終りから三行目)、
身はこゝに魂は男に添寐する心もしらが母が介抱 伊勢大屋浦 實の門松也
とある。]
たまくしげ二つのすがた見せぬるは
合せ鏡のかげのわづらひ
〔この歌には飜譯の不可能な複雜な暗示がある。日本の女は化粧する時二つ鏡(アハセカガミ)を使用する――その一つは手鏡で、その髮の後ろの方の恰好を、それを大きい方の坐つて居る鏡に反映させて、見せる役をする。然しこの離魂病の場合では、大きな方の鏡に、自分の顏と自分の頭の後ろとよりももつと多くのものを見る。卽ち自分の離れ出て居る魂を見る。この歌は、その二つ鏡の一つが影の病に罹つて二つになつたのかも知れぬといふことを述べて居る。それからまた、鏡とその持主の靈との間に在ると言はれて居る、心靈的同情をもほのめかせて居る〕
[やぶちゃん注:原拠では(同「9」の右丁六行目)、
玉くしけふたつの姿見せぬるはあはせ鏡の影のわつらひ 江戶崎 有文
この「江戶崎」とは、現在の茨城県稲敷郡江戸崎町(いなしきぐんえどさきまち:グーグル・マップ・データ)。]
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