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2019/10/10

小泉八雲 果心居士  (田部隆次譯) 附・原拠


[やぶちゃん注:本篇(原題“ The story of Kwashin Koji ”。「果心居士の話」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の「奇談」の第四話に置かれたものである。本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。 【2025年4月5日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 ウィキの「果心居士」によれば、果心居士(生没年不詳)は『室町時代末期に登場した幻術師。七宝行者とも呼ばれる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀らの前で幻術を披露したと記録されているが、実在を疑問視する向きもある』。『安土桃山時代末期のものとされる愚軒による雑話集『義残後覚』には、筑後の生まれとある。大和の興福寺に僧籍を置きながら、外法による幻術に長じたために興福寺を破門されたという。その後、織田信長の家臣を志す思惑があったらしく、信長の前で幻術を披露して信長から絶賛されたが、仕官は許されなかったと言われている。居士の操る幻術は、見る者を例外なく惑わせるほどだったという』。『また、江戸時代の柏崎永以の随筆『古老茶話』によると』、慶長一七(一六一二)年七月に、『因心居士というものが駿府で徳川家康の御前に出たという。家康は既知の相手で、「いくつになるぞ」と尋ねたところ、居士は』八十八『歳と答えた』とあり、『また』、天正一二(一五八四)年六月に、『その存在を危険視した豊臣秀吉に殺害されたという説もある』とある。以下、彼の幻術エピソードも続くが、本篇のネタバレになるので、後で読まれた方がよろしいかと存ずるので、引用しない。

 なお、私は既に『柴田宵曲 妖異博物館 「果心居士」』を電子化注しており、柴田氏の詳細な紹介(小泉八雲の本篇にも触れてある)が面白いので、是非、本篇読後に参照されたいが、実はその注で私は本作の原拠である、近代最後の正統的漢学者の一人で画もよくした石川鴻斎(こうさい 天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年:)の漢文体の重厚な怪奇談集「夜窓鬼談」の「果心居士 黃昏艸(くわうこんさう)」を電子化している。但し、それは国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して訓読したもので、今回は、小泉八雲旧蔵本を視認してゼロから作り直したものを最後に配した。

 

  果 心 居 士

 

 天正年間[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日(天正十年九月十二日相当)から施行された。]、京都の北の方の町に、果心居士と云ふ老人がゐた。長い白い鬚をはやして、いつも神官のやうな服裝をしてゐたが、實は佛書を見せて佛敎を說いて生活を營んでゐたのであつた。晴天の日にはいつも祇園の祠の境內で、木に大きな掛物をかけるのが習慣であつた、それは地獄變相の圖であつた。この掛物はそれに描いてある物が悉く眞に迫つて巧妙にできてゐた。そして老人はそれを見に集まつて居る人々に見せて、携へてゐた如意をもつて色々の責苦を詳しく說き示し、凡ての人に佛の敎に從ふやうに勸めて、因果應報の理を說いてゐた。その繪を見て、それについて老人の說敎するのを聞くために、人が群をなして集まつた、そして喜捨を受けるためにその前に敷いてあるむしろは、そこへ投げられた貨幣の山で、表面が見えない程であつた。

 その當時、織田信長が畿內を治めてゐた。彼の侍臣荒川某、祇園の祠へ參詣の途中、偶然そこでその掛物を見て、あとで殿中に歸つてその話をした。信長は荒川の話を聞いて興味を感じ、直ちに果心居士に幅を携へて參上するやうに命じた。

 掛物を見た時、信長はその繪のあざやかさに驚いた事を隱す事はできなかつた、鬼卒及び罪人は實際彼の眼前に動くやうであつた、そして彼は繪の中から叫號の聲を聞いた、そしてそこに猫いてある鮮血は實際流れて居るやうであつた、――それで彼は、その繪が濡れて居るのではないかと指を觸れて見ないわけに行かなかつた。しかし指は汚れなかつた、――卽ち紙は全く乾いて居るからであつた。益々驚いて信長はこの不思議な繪の筆者を尋ねた。果心居士はそれに對して、それは名高い小栗宗丹が、――靈威を得んがために淸水の觀世音に熱心に祈り、百日の間每日齋戒を行つたあとで、――描いた事を答へた。

[やぶちゃん注:「荒川某」後に弟で「荒川武一」も出るが、不詳。織田信長家臣では馬廻衆の荒川頼季(~天正二(一五七四)年:「伊勢長島一向一揆征伐」に参陣して討死)や荒川与十郎等がいる。

「小栗宗丹」小栗宗湛(そうたん 応永二〇(一四一三)年~文明一三(一四八一)年)は室町中期の画僧。「宗丹」とも書く。字は小二郎又は小三郎。「自牧」と号した。小栗満重の子。ウィキの「宗湛」によれば、『鎌倉府(鎌倉公方)の管轄国内の武士でありながら』、『室町幕府の征夷大将軍と直接主従関係を結ぶ京都扶持衆の一つである常陸小栗氏の出身であり、初めは小栗 助重(おぐり すけしげ)という名(俗名)の武将であった。この頃の常陸小栗氏は』、応永三〇(一四二三)年)に『小栗満重が鎌倉公方・足利持氏に対し』、『反乱(小栗満重の乱)を起こして没落していた。その持氏が永享の乱を起こして自害すると、結城氏朝がその遺児(足利春王丸・足利安王丸)を擁して挙兵するが(結城合戦)、満重の子または弟(前者が有力)である助重がこの戦いで武功を立てたことにより、旧領への復帰を許され、家督を継承。しかし』、後の康正元(一四五五)年に『享徳の乱の最中』、『持氏の遺児(春王丸・安王丸の弟)である足利成氏の攻撃を受けて本貫地である小栗御厨荘(現在の茨城県筑西市)を失ってしまい、まもなく出家し』、『宗湛入道と号』した。『出家した宗湛は相国寺に入り、同寺で画僧周文に水墨画を学んだ』、寛正三(一四六二)年、『京都相国寺松泉軒の襖絵を描いて室町幕府』第八『代将軍足利義政に認められ、翌』年に『周文の跡を継いで』、『足利将軍家の御用絵師となった。その後、中央漢画界の権威として高倉御所・雲沢軒・石山寺などで襖絵を作成している』。文明五(一四七三)年『頃までの作画の記録は残っているが、宗湛作の遺品は発見されておらず、宗湛の書き残したものを』、『子の宗継が完成させた旧大徳寺養徳院の襖絵である「芦雁図」六面の内二面のみである。周文が高遠山水を得意としたのに対し、伝宗湛作品は平遠山水を特色としている』とある。

 以下、二行空き。]

 

 

 その掛物をたしかに信長が所望して居る事を見て、荒川はその時果心居士にその幅を信長公に献上してはどうかと尋ねた、しかし老人は大膽に答へた、――『この繪は私のもつて居る唯一の寶で、それを人に見せて少し金を儲ける事ができるのです。今この繪を信長公に献上すれば、私の生計の唯一の方法がなくなります。しかし、信任公が是非お望みとあれば、黃金壹百兩を頂きたい。それだけのお金で、私は何か利益のある商賣でも始めませう。さうでないと、繪はさし上げられません』

 信長はこの答を聞いて、喜ばないやうであつた、そして默つてゐた。荒川はやがて何か公の耳にささやいたが、公は承諾したやうにうなづいた、それから果心居士は少しのお金を賜はつて、御前から引き下がつた。

 

 しかし、老人が屋敷を離れると、荒川はひそかに跡を追つた、――奸計をもつてその繪を奪ひ取るべき機會を得ようとしたのであつた。その機會は來た、果心居士は郊外の山の方へ直ちに通ずる途に偶然さしかかつたからであつた。彼が山の麓の或淋しい場所に達した時、彼は荒川に捕へられた。荒川は彼に云つた、――『その幅に對して黃金百兩を貪るのは何と云ふ慾張りだらう。黃金百兩の代りに、三尺の鐡の一片をやる』それから荒川は劔を拔いて老人を殺して、幅を奪つた。

 

 翌日荒川は掛物を――果心居士が信長の邸を退出する前に包んだ通りに包んだままで、信長に献上した、信長は直ちにそれを展いて掛ける事を命じた。しかし展いて見ると、信長も彼の侍も二人とも、繪は全く無い、ただ白紙だけである事を見て驚くばかりであつた。荒川はどうして、もとの繪が消え失せたか說明ができなかつた、そして彼は――知つてか或は知らないでか――主人を欺いた事について罪があるので、處罸されるときまつた。それで彼は長い間閉門蟄居を命ぜられた。

 

 荒川の閉門の時期が終るか終らないうちに、果心居士が北野の祠の境內にその名高い繪を見せて居ると云ふ通知があつた。荒川は殆んどその耳を信ずる事ができなかつた。しかしその通知を得て、彼の心にどうにかしてその掛物を奪つて、それで先頃の失策を償ふ事ができさうな望みが湧いて來た。そこで彼は急いで從者の幾人かを集めて、寺に急いだ、しかし彼がそこに達した時に、彼は果心居士が去つてしまつたと云はれた。

 幾日か後に、果心居士がその繪を淸水堂で見せて、大きな群集に對して、それについて說敎して居る事が知れて來た。荒川は大急ぎで淸水へ行つた、しかし、そこに着いた時、群集は丁度散つて居るところであつた、――卽ち果心居士は再び消えて、ゐなかつたのであつた。

 たうとう或日の事、荒川は思ひがけなく或酒店で果心居士を認めてそこで彼を捕へた。老人は自分の捕へられたのを見て、機嫌よくただ笑ふだけであつた、そして云つた、――『一緖に行つて上げるが、少し酒を飮むまでお待ちなさい』この要求には、荒川は異存はなかつた、そこで果心居士は十二の大盃を飮みつくして、觀て居る人々を驚かした。十二盃目を飮んでから少し滿足したと云つた、それから荒川は命じて彼を繩でしばつて信長の邸へ連れて行つた。

 邸の取調所で、果心居士は、直ちに奉行の取調を受けた、そして嚴しく責められた。最後に奉行は彼に云つた、――『お前は魔術で人を欺いてゐた事はたしかだ、その犯罪だけで、お前はひどい罸を受ける資格がある。しかしもしお前がその繪を信長公に恭しく献上すれば、今度はお前の罪は大目に見てやる。さもなければ、甚だ重い罸を必ず課する事にする』

 このおどかしを聞いて果心居士は困つたやうな笑方をした、――『人を欺くやうな罪を犯したのは私ではない』それから、荒川に向つて、彼は叫んだ、――『お前こそうそつきだ。お前は繪をさし上げて信長公に諂はうとした[やぶちゃん注:「へつらはうとした」。]、そしてそれを盜むために私を殺さうとした。罪と云つたら、これ程の罪はどこにあるか。幸にして、お前は私を殺す事はできなかつた、しかし、お前の望み通りにできたらその行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]に對してどんな辯解ができるか。とにかく、繪を盜んだのはお前だ。私のもつて居る繪はただの寫しだ。お前が繪を盜んでから、信長公に献上する事がいやになつたので、その祕密の行[やぶちゃん注:「ぎやう」。]や心をかくすために、その罪を私に着せて、私が本物の繪を白紙の掛物と取替へたと云つて居るのだ。どこに本物の繪があるか私は知らない。多分お前は知つて居るのだらう』

 かう云はれて、荒川は怒りの餘り、驅け寄つて、果心居士を打たうとしたが、番人等に遮ぎられて果せなかつた。しかしこの不意の怒りの破裂は、奉行に荒川が全く無罪ではあるまいと思はせる事になつた。暫らく、果心居士を獄に下してから、奉行は荒川を嚴しく調べにかかつた。ところで荒川は元來訥辯であつたが、この場合、殊に興奮の餘り、殆ど云ふ事ができないで、吃つたり、撞着[やぶちゃん注:「どうちやく」。前後が相い矛盾すること。辻褄が合わないこと。]したりして、どうしても罪のありさうな形跡を表はした。そこで奉行は、荒川を打つて白狀させるやうに命じた。しかし事實の白狀らしい事も彼にはできさうになかつた。そこで彼は鞭で打たれて、感覺を失つて、死人のやうになつて倒れた。

 

 果心居士は獄にゐて、荒川の事を聞いて笑つた。しかし少ししてから、彼は獄吏に向つて云つた、――『あの荒川と云ふ奴(やつ)は全く姦邪[やぶちゃん注:「かんじや」。心が曲がっていて、よこしまなこと。]の振舞したので、私は態とこの罸を與へて、彼の惡い心根を懲らしてやらうとしたのだ。しかし、荒川は事實を知らないに相違ないから、それで私はよく分るやうに一切の事を說明したいから、それで私はよく分るやうに一切の事を說明しますと今奉行に傳へてくれ給へ』

 それから果心居士は再び奉行の前に連れられて、つぎのやうな宣言をした、――『本當に優れた繪なら、どんな繪にも魂がある、そして、そんな繪には自分の意志があるから、自分に生命を與へてくれた人から、或は又正しい所有者から、離れる事を好まない事がある。眞の畫には魂がある事を證明するやうな話が澤山ある。昔、法眼元信が襖に描いた雀が何羽か飛んで行つて、そのあとが空になつた事はよく知られて居る。掛物に描いてある馬が每夜草を喰ひに出かけた事もよく知られて居る。ところで、今の場合では、事實はかうだと私は信ずる、卽ち信長公は私の掛物の正當の所有者ではなかつたから、繪が信長公の面前で展かれた時、紙の上から自分で消えたのであらう。しかし、もし私が始めに云つた通りの價段、――卽ち黃金壹百兩、――をお出しになれば、その時は私の考では、繪はひとりで今白紙になつて居るところへ現れませう。とにかく、やつて見てはどうです。少しも危い事はない、――繪が現れなければ、金は直ちに返すまでの事だから』

[やぶちゃん注:「法眼元信」室町時代の絵師で狩野派の祖狩野正信の子(長男又は次男)で、狩野派二代目の狩野元信(かのうもとのぶ 文明八(一四七六)年~永禄二(一五五九)年)のこと。京都出身。大炊助、越前守、さらに法眼(ほうげん)に叙せられ、後世、「古法眼(こほうげん)」と通称された。父正信の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理しつつ、大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる)、狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた人物(ウィキの「狩野元信」に拠った)。

「掛物に描いてある馬が每夜草を喰ひに出かけた事」掛物ではないが、よく知られた話では、九世紀後半の伝説的な名絵師巨勢金岡(こせのかなおか 生没年未詳:宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んで、道真の「菅家文草」によれば、造園にも才能を発揮し、貞観一〇(八六八)年から同一四(八七二)年にかけては、神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない)が仁和寺御室で壁画に馬を描いたが、夜な夜な、その馬が壁から抜け出て、田の稲を食い荒らすと噂され、事実、朝になると壁画の馬の足が汚れていた。そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わる。]

 

 こんな妙な斷言を聞いたので、信長は百兩を拂ふ事を命じて、その結果を見るために親しく臨席した。それから掛物は彼の前で展かれた、そして列席者一同の驚いた事には、その繪は、悉く詳細に現れた。しかし色が少しさめて、亡者と鬼卒の形が、前のやうに生きて居るやうでなかつた。この相違を見て、信長公は果心居士に向つて、その理由を說明するやうに求めた、そこで果心居士は答へた、――「始めて御覽になつた繪の價値は、どんな價もつけられない繪の價値でした。しかし御覽になつて居る繪の價値は、正にお拂になつた物――卽ち黃金壹百兩――を表はして居ります。……外に仕方がございません』この答を聞いて列席の人々は、もうこれ以上この老人に反對する事は到底無效である事を感じた。彼は直ちに赦された、そして荒川も亦赦された、彼の受けた罸によつて彼の罪は十二分に償はれたからであつた。

 

 ところで、荒川に武一と云ふ弟がゐたが、――やはり信長の侍であつた。武一は荒川が打たれて獄に入れられたのを非常に怒つて、果心居士を殺さうと決心した。果心居士は再び放免されるや否や、酒屋へ行つて酒を命じた。武一はそのあとから店に入つて、彼を斬り倒し、首を切り落した。それから老人に拂はれた百兩を取つて、武一は首と金とを一緖に風呂敷に包んで、荒川に見せるために家に急いだ。しかし彼が包みを解いて見ると首と思つたのは空(から)の酒德利で、黃金は土塊[やぶちゃん注:「つちくれ」。]であつた。……それから間もなく、首のない體は酒屋から步き出して、――どこへだか、いつだか誰も知らないが、――消え失せた事を聞いて、この兄弟は益々驚くばかりであつた。

 

 一月ばかり後まで、果心居士の事は知られなかつた、その頃になつて、信長公の邸前で、遠雷のやうな大鼾[やぶちゃん注:「おほいびき」。]をして寢て居る一人の泥醉者があつた。一人の侍が、その泥醉者卽ち果心居士である事を發見した。この無禮な犯罪のために、老人は直ちに捕へられて牢に入れられた。それでも眼をさまさない、そして牢で彼は十日十晩間斷なく眠り續けた、――その間たえずその高鼾が餘程遠くまで聞えた。

 

 この頃に、信長公は部下の一人である明智光秀の反逆のために死ぬやうになつたので、光秀がそれから政[やぶちゃん注:「まつりごと」。]を取つた。しかし光秀の權力は十二日しか續かなかつた。

 ところで、光秀が京都の主人になつた時、彼は果心居士の事を聞いた、それから命じて、その囚人を彼の前に出させた。そこで果心居士は新しい君主の面前に呼ばれた、しかし光秀は彼に丁寧な言葉をかけて、賓客として待遇し、そして立派な饗應するやうに命じた[やぶちゃん注:ママ。「を」の脱字かも知れない。]。老人に御馳走をしてから、光秀は彼に云つた、――『聞くところによれば、先生は大層お酒が好きださうです、――一度にどれ程めし上がりますか』果心房士は答へた、――『量はよくは知らんが、醉へば止めます」そこで光秀公は果心居士の前に大盃を置いて、侍臣に命じて老人の飮めるだけ、幾度となく、酒を注がせた、そこで果心居士は、頂いて十度大盃を飮み干して、さらに求めたが、下來は酒が盡きた事を答へた。列席の人々で、この强酒ぶりに驚かない者はなかつた、そこで光秀公は果心居士に尋ねた、『先生、未だ不足ですか』 『はい、少し滿足しました』果心居士は答へた、――『ところで御親切の御返禮として、私の技(わざ)を少し御覽に入れませう。どうかその屛風を見てゐて下さい』彼は大きな八曲屛風を指した、それには近江八景が描いてあつた、そのうちの一つに、湖上遙かに舟を漕いで居る人があつた、――その舟は、屛風の表面では、長さ一寸にも足りなかつた。果心居士は舟の方へ手をあげて招いた、すると舟が突然向き直つて、繪の前面の方へ動き出すのが見えた。近づくに隨つて段々大きくなつた、そして船頭の顏つきが、はつきり認められるやうになつて來た。やはり段々近くなつて來た。――いつまでも大きくなつて、――たうとうそれが近くに見えて來た。それから突然、湖水が溢れて來るやうであつた、――繪から、部屋へ、――そして部屋は洪水になつた、そして水が膝の上まで達したので見物人は急いで着物をかかげた。同時に舟が、――本當の漁船が、――屛風の中から、滑り出すやうであつた、――そして一丁の艪の軋る音が聞えた。やはり部屋の中の洪水は增す一方であつたので、見物人は帶まで水に浸つて立つてゐた。それから舟は果心居士のところへ近づいて來た、そして果心居士はその舟に上つた、そこで船頭はふりかへつて、甚だ速かに漕ぎ去らうとした。それから舟が退いた時、部屋の水は急に低くなつて、――屛風の中へ退却するやうであつた。舟が繪の前面と思はれるところを通過するや否や、部屋は再び乾いた。しかし、やはり繪の中の舟は、繪の中の水の上を滑るやうであつた、――段々遠くへ退いて、段々小さくなつて行つて、たうとう最後に沖の中の一點となつて小さくなつた。それから、それは全く見えなくなつた、そして果心居士はそれと共に消えた。彼は再び日本には現れなかつた。

[やぶちゃん注:本篇の原拠は石川鴻斎(こうさい 天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年:)の漢文体の重厚な怪奇談集「夜窓鬼談」の「下卷」の第五話目の「果心居士 黃昏艸(くわうこんさう)」である。富山大学の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本のそれを用いて、訓読文(原文は訓点附記の漢文。一部で推定で送り仮名を入れた)を以下に示す。一部の難読と判断されるものには私が推定で〔 〕で歴史的仮名遣で読みを振り(丸括弧は石川の附したもの。左ルビのものがあり、それは意味注で、文としては続かないものがあることを断っておく)、句読点や記号・濁点を加え、段落を成形して読み易くしておいた。下線は原本では右に附されてある。

   *

     果心居士 黃昏艸

 天正年間、洛北に、果心居士なる者、有り。年六十餘、葛巾〔かつきん〕道服、鬚髯〔しゆぜん〕、雪のごとし。祇園の祠〔やしろ〕に在りて、樹下に地獄變相〔ぢごくへんさう〕の圖を揭げ、舂(つ)く・磨(ひ)く・割(さ)く・烹(に)る、慘酷の諸刑、歷々として、眞に迫る。人をして戰慄(をのき)に勝〔た〕へざらしむ。居士、自〔みづか〕ら、鈎(によい)を把〔と〕つて、之れを諭示し、因果應報の理〔ことわり〕を說く。善を勸め、惡を懲し、以つて佛道に誘導す。老若〔らうにやく〕の羣集〔ぐんじゆ〕、錢を擲〔なげう〕つこと、山のごとし。

 時に織田信長、畿內を治む。其の臣荒川某、覩〔み〕て之れを奇とし、還りて右府〔うふ〕[やぶちゃん注:信長の称。彼は天正五(一五七七)年十一月十六日に従二位、同月二十日には右大臣兼右近衛大将となった。但し翌六年天正六年一月六日に正二位となるも、同年四月九日には右大臣・右近衛大将の両官を辞任している。これに拘るなら、この五ヶ月間を本話のロケーション時制と採ることも可能である。]に告ぐ。右府、人をして之れを召さしめ、幅を座傍に展〔てん〕す。彩繪、精密、閣魔・羅卒・諸罪人等、殆んど活動するがごとく、觀ること、之れを久しうして、鮮血、迸〔ほとばし〕り出で、呌號、幽かに聞ゆ。試みに手を以つて之れを拭へば、傅着〔ふちやく〕する者なし。右府、大いに怪しみ、乃ち、其の筆者を問へば、曰はく、

「小栗宗丹、淸水觀世音に祈りて、齋戒百日、遂に之れを作る。」

と。右府、之れを欲す。荒川氏をして意を達せしむ。居士曰はく、

「我れ、是の幅を以つて續命〔しよくみやう〕の寶〔たから〕となす。若〔も〕し、之れを亡〔ばう〕せば、簞瓢〔たんへう〕罄(れい/つき[やぶちゃん注:前が右ルビ、後が左ルビ。本字は「虚(むな)しい」の意ある。])空〔くう〕[やぶちゃん注:米を入れる瓢簞が忽ちのうちに空となること。オマンマの食い上げ。])、生を全くすること能はざるなり。」

と。然れども、强いて之れを欲す。

「請ふ、百金を賜へ。以つて、養老の資となさん。然らずんば、愛を割くこと能はず。」[やぶちゃん注:この「愛」はママ。しかしこれ、「爰」の誤字ではあるまいか?

と。右府、喜ばず。荒川、其の貪を怒り、且つ、右府に諂〔へつ〕らひ、將に圖(はか)る所、有らんとし、竊かに其の意を告ぐ。右府、之れを頷〔ぐわん〕す[やぶちゃん注:首を縦に振って許諾した。]。乃〔すなは〕ち、錢を賜ひて之を反〔か〕へす。居士、去る。

 荒川、居士を追ひて往く。日、將に昏れなんとす。漸く山麓に遇ひ、前後二人無き時に、居士を捕へて曰はく、

「汝、一畫を恡(おし)み、百金を貪ぼる。我れ、三尺の鐵、有り。以つて汝に與ふべし。」

と、言(げん)、いまだ竟〔をは〕らざるに、刀を拔きて、路傍に斃(たふ)す。幅を奪ひて還る。

 明日〔みやうじつ〕、右府に進む。右府、喜ぶ。之れを展ずれば、則ち、白紙のみ。荒川、愕然、流汗、衣に透〔とほ〕る。主を欺くの罪を以つて、門を閉ぢて蟄居す。

 居ること、十日、一友人來たり告げて曰はく、

「昨(きのふ)、北野の祠を過ぐ。老樹の下、一道士、幅を揭げ、捨財を集む。容貌・衣服、居士と異ることなし。居士に非ざるを得んや。」

と。

 荒川、大いに怪しみ、前罪を贖〔あがな〕はんと欲し、卒を率て北野に到る。到れば、則ち、渺たり[やぶちゃん注:姿が見えぬ。]。荒川、益々、怒る。然れども、之れを如何ともすること莫し。

 既にして孟蘭盆會〔うらぼんゑ〕に及び、諸寺、佛會〔ぶつゑ〕を修す。或る人、曰はく、

「居士、淸水寺に在りて、塲を設け、俗を誘ふ。」

と。

 荒川、喜ぶ。

 急〔いそぎ〕、徒を從へて到る。往來、紛雜、憧々〔しようしよう〕[やぶちゃん注:うろつくこと。])、織るがごとし。而して其の在る所を見ず。馳驅〔ちく〕索搜するも、相ひ似たる者なし。悒鬱〔いふうつ〕[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じい。])として望みを失ふ。歸路、八坂〔やさか〕を過ぐ。居士、一酒肆〔しゆし〕に在りて、榻〔しじ〕[やぶちゃん注:腰掛け。]に坐して飮む。卒、之れを認めて荒川に告ぐ。荒川、之れを窺ふに、果して居士なり。輙〔すなは〕ち、肆に入りて居士を捕ふ。居士、曰はく、

「暫く待て。飮み了りて將に往かんとす。」

と。數十碗を傾け、餐𩟖(むさぼりくら)ひて漸く盡く。曰はく、

「足れり。」

と。卽ち、縛に就きて去る。直ちに廳前〔てうぜん〕に坐す。之れを誚〔せ〕めて曰はく、

「汝、幻術を以つて人を欺く。罪、大惡、極る。若し、眞物を以つて上〔かみ〕に獻ぜば、其の罪を免るべし。若し、匿〔かく〕して譌〔いつは〕らば、應に以つて重刑に處すべし。」

と。居士、呵々大笑して、荒川に謂ひて曰はく、

「我れ、本〔もと〕、罪、無し。汝、主に媚び、我れを殺して幅を奪ふ。其の罪、至重〔しちやう〕なり。我れ、幸ひに傷つかず、今日、有るを致す。我れ、若し、死せば、汝、何を以つてか、罪を贖〔あがな〕ふ。幅のごときは、汝が奪掠〔だつりやく〕に任〔まか〕す。我が有る所は其の稿本〔こうほん〕のみ。汝、反〔かへ〕りて之れを匿し、主を欺くに白紙を以つてす。而して其の罪を掩〔おほ〕はんとす。我れを捕へて幅を求む。我れ、安〔いづく〕んぞ之れを知らんや。」

と。荒川、奮怒〔ふんぬ〕して拷掠〔かうりやう〕[やぶちゃん注:打ち叩いて罪を責めたり、白状させたりすること。]して實(じつ)を得んと欲す。上官、荒川を疑ふ。因つて荒川を詰責(きつせき)す。兩人、紛爭して、判ずること、能はず。乃ち、居士を一室に囚〔しう〕す。嚴に荒川を鞠訊〔きくじん〕[やぶちゃん注:罪を調べ問い糺すこと。]す。荒川、口〔くち〕訥〔とつ〕にして[やぶちゃん注:訥辨。話し方が滑らかでないこと。言葉による主張が苦手なこと。]、冤〔ゑん〕を辯ずること能はず。頗る苦楚〔くそ〕[やぶちゃん注:楚(しもと:鞭)などによる激しい拷問。]を受く。肉、爛れ、骨、折る。殆んど、死に垂〔た〕らんとす。居士、囚に在りて之れを聞き、獄吏に謂ひて曰はく、

「荒川は姦邪の小人たり。我れ、之れを懲さんと欲す。故に一時、酷刑を與ふ。子、上官に告げよ。實は、荒川の知る所に非ず。我れ、明らかに之れを告げん。」

と。

 上官、居士を召して之れを訊〔と〕ふ。

 居士、曰はく、

「名畫、靈、有り。其の主に非ざれば、則ち、留まらず。昔、法眼元信、群雀を畫く。一、二、脫し去る。襖、その痕〔あと〕を遺す。馬を畫けば、馬、夜、出でて艸を喰〔くら〕ふ。是れ、皆、衆人、知る所なり。顧〔かんが〕ふに、右府は其の主に非らず。故に、脫し去るのみ。然れども、初め、百金を以て價を約す。若し、百金を賜へば、或いは原形に復することあらんか。請ふ、試みに我れに百金を賜へ。若し、復せずんば、速やかに返し奉らん。」

と。

 右府、其の言を奇とし、則ち、百金を賜ふ。幅を展ずれば、畫圖、現然たり。然れども、諸〔もろもろ〕を前畫に比すれば、筆勢、神〔しん〕無く、彩澤、太〔はなは〕だ拙なり。仍つて、居士を詰〔なぢ〕る。居士、曰はく、

「前畫は則ち、無價の寶なり。後畫は百金に價する者。安んぞ相ひ同じきを得んや。」

と。

 上官・諸吏、對(こた)ふること能はず。遂に二人を免ず。

 荒川の弟武一は、兄の苛責に遇ひ、筋骨摧折〔さいせつ〕するを悲しみ、居士を讎視〔しうし〕して之れを殺さんと欲し、密かに跡を追ひて往く。

 又、一酒肆に飮むを見る。躍り入つて之れを斫〔き〕る。衆、皆、驚き、散ず。居士、牀下に朴〔たふ〕る。乃ち、其の首を斷じて帛〔きん〕に裹〔つつ〕み、併せて金を奪ひて去り、家に還りて兄に示す。兄、喜ぶ。帛を解へば、則ち、一〔いつ〕の酒壜(さかどつくり)のみ。二人、愕然たり。其の金を見れば、則ち、土塊〔つちくれ〕のみ。武一、切齒して右府に告ぐ。物色して之れを索〔もと〕む。渺〔べう〕として知るべからず。

 之れを久しうして、門側に、一醉人、有り。橫臥して、鼾、雷のごとし。諦觀すれば、則ち、居士なり。急(すみや)かに之れを捕へて獄中に投ず。醒めず。𪖙々(こうこう)[やぶちゃん注:鼾のオノマトペイア。]と四隣を驚かす。十餘日に至るも猶、未だ覺めず。時に、右府、安土(あづち)に在りて將に西征せんとし、軍を率ゐて本能寺に館〔やかた〕す。

 光秀、反し、右府を弑〔しい〕して洛政を執る。居士の仙術有るを聞き、獄を開〔かい〕して之れを召す。

 居士、漸く覺〔さ〕む。乃ち、光秀の館に至る。光秀、酒を勸め、之れを饗して曰はく、

「先生、酒を好む。飮むこと、幾何(いくばく)ぞ。」

と。

 曰はく、

「量、無く、亂〔みだ〕るるに及ばず。」

と。

 光秀、巨盃を出だして、侍をして酒を盛らしめ、隨ひて飮み、隨ひて盛る。數十盃を傾く。缾〔かめ〕[やぶちゃん注:大きな酒壺であろう。]、已に罄〔つ〕きたり。一坐、大いに駭〔おどろ〕く。

 光秀、曰はく、

「先生、未だ足らざるか。」

と。曰はく、

「少實する[やぶちゃん注:少しばかり滿足する。]を覺ゆ。請ふ、一技を呈せん。」

 屛に近江八景を畫ける有り。舟、大いさ寸餘り。居士、手を揚げて之れを招く。舟、搖蕩〔えうたう〕[やぶちゃん注:揺れ動くこと。]として屛を出で、大いさ、數尺に及ぶ。

 而して坐中、水、溢〔あふ〕る。衆、僉〔み〕な、惶駭〔こうがい〕して、袴を褰〔かか〕げて偕立〔かいりつ〕す[やぶちゃん注:一斉に立ち上がった。])。俄然として股を沒す。居士、舟中に在り。偕工〔かいこう〕[やぶちゃん注:「偕」は棹(さお)を指し、ここは「船頭」のこと。]、槳(かぢ)を盪〔うごか〕し、悠然として去り、之(ゆ)く所を知らず。

[やぶちゃん注:以下、原典では全體が一字下げ。]

嘗て曰はく、「西陣に片岡壽安なる者あり。醫を業とし、頗る仙術を好む。一道士、有り。壽菴[やぶちゃん注:ママ。]を見て曰く、

「子、仙骨、有り。宜〔よろ〕しく道を修むべし。」

と。仍(すなは)ち一仙藥を授く。大いさ、棗核(なつめのみ)のごとし。之れを服すれば、身、輕く、神〔しん〕、爽〔さう〕なり。復た、穀食を念〔おも〕はず[やぶちゃん注:空腹にならず。]。一日(いちじつ)、奴〔ど〕[やぶちゃん注:下僕。]と爭ふ。怒り、甚し。杖を以つて之れを擊つ。忽ち、道士あり。

「汝、俗心、未だ脫せず。道に入ること能はず。乃〔すなは〕ち、鉤〔によい〕を擧げて、背を打つ。服する所の仙藥、口より、出づ。道士、取りて去る。是れより復た、食を貪ること、常のごとし。或いは曰く、道士は則ち、果心居士なり、と。

   *

 私は、この屏風中の湖面へと消えて行く果心居士の映像が、すこぶる附きで好きである。私の『柴田宵曲 妖異博物館 「果心居士」』にそのシーンの原拠の挿絵も挿入してある。ご覧あれ。底本であるハーンのそれは「下巻」の「13」である。

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