小泉八雲 鏡の少女 (大谷正信譯) 附・原拠「當日奇觀」卷之第五の「松村兵庫古井の妖鏡」(原本底本オリジナル版)
[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“ THE MIRROR MAIDEN ”(「鏡の処女」)は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“ THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES ”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の四番目に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。
底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。★【2025年4月3日底本変更・前注変更】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和六(一九三一)年一月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「學生版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『學生版 【第二囘豫約】』とあり、『昭和六年一月十日 發行』とあることが確認出来る)、 これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、之よりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。
訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。
傍点「﹅」は太字に代えた。挿入原注は四字下げポイント落ちであるが、本文と同ポイントで、頭から示した。
実は本篇は、既に、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「井の底の鏡」 附 小泉八雲「鏡の少女」原文+大谷正信譯』で、英文原文と、同じ大谷正信氏の後の出版のもの(新潮文庫昭和二五(一九五〇)年古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」所収)、及び、原拠をも示してあるのであるが、私はこの付喪神の「彌生」が好きだから、今回は、また、独立記事として、全くのゼロから総てをやり直した。最後に掲げる原拠も小泉八雲旧蔵本のそれに拠った。但し、英文原文はそちらを見られたい。]
鏡の少女
足利將軍時代に南伊勢の大河內明神の神社が頽廢したところ、其國の大名北畠公は戰爭や他の事情の爲めに、其建物の修繕を圖ることが出來なかつた。そこで、其社を預つて居た神官の松村兵庫といふが京都へ行つて、將軍に信用されて居ると知られてゐた、大大名の細川公に助力を求めた。紬川公は其神官を懇切にもてなし、大河內明神の有樣を將軍に言上しようと約束した。然し、兎に角、社殿修理の許可は相當な取調べをし、又、可也手間を取らねば與へられまいと云つて、事が取極められる間、都に止まつて居るやうにと松村に勸めた。其處で松村は家族の者を京都へ呼び寄せて、昔の京極の處に家を一軒借りた。
[やぶちゃん注:「大河内明神」現在の三重県伊勢市辻久留(つじくる)にある、伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の摂社志等美神社(しとみじんじゃ)と同じ社地内にある外宮摂社大河内神社(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「志等美神社」によれば、『社殿は別であるが、志等美神社と同じ玉垣の中に鎮座している』。『外宮の摂社』十六『社のうち第』八『位である』。本話柄時制より後の『戦国時代に大河内神社が』再び(?)『荒廃した後、上社の境内社であった山神社となった』とあり、さらに、『現在の社名の読みは「おおこうち」であるが、古文書では「オホカハチ」、「オホガフチ」などのフリガナが付されている』ともある。『柴田宵曲 續妖異博物館 「井の底の鏡」 附 小泉八雲「鏡の少女」原文+大谷正信譯』では、大河内城跡近くの大河内神社を比定したが、伊勢神宮の見解をよく考えると、転地されて、ここが後裔と考えるべきと認識した。そちらの記載は弄らずにそのままにしておく。
「北畠公」次注に出現する時制設定であるならば、室町中期の公卿で権大納言・正二位で、伊勢国司北畠家第四代当主にして伊勢国守護大名であった北畠教具(のりとも 応永三〇(一四二三)年~文明三(一四七一)年)となる。ウィキの「北畠教具」によれば、『父が戦死した時は』七『歳とまだ幼少であった為、叔父の大河内顕雅が政務を代行していた』が、嘉吉元(一四四一)年、十九歳で伊勢国司となった。その際、『将軍の足利義教から一字を賜って教具と名乗った。同年、義教が暗殺される事件(嘉吉の乱)が起こると、その首謀者の一人で伊勢国に逃亡してきた赤松教康』『の保護を拒否して自殺に追い込み、幕府に恭順を誓った』。文安五(一四四八)年には『長野氏と所領を巡り』、『合戦を行っている』とあって、設定と合致する。
「松村兵庫」「斎宮歴史博物館」公式サイト内の学芸普及課課長榎村寛之氏の「第17話 伊勢と斎院を結ぶちょっと面白い話」に、本篇の最後に掲げる原拠に基づきつつ、以下のようにある。『三重県の松阪市内、といってもかなり郊外に、大河内城という城跡があります。室町時代に伊勢国司と守護を兼ね、織田信長に滅ぼされるまで伊勢の支配者として栄えた北畠氏の本城だったこともある所です。この国府、つまり大河内城の西南に大河内明神という社があり、北畠家の尊崇厚かったのですが、ご多分に漏れず、戦乱続く室町時代半ば頃には衰微著しく、嘉吉文安の頃』(一四四一年~一四四九年)『には修理もおぼつかないありさまとなっていました』。その頃、『この神社の神主に松村兵庫なる者がおり、室町幕府管領細川家につてがあったので、京に上って窮状を訴えたのですが、嘉吉の乱で六代将軍足利義教が赤松満祐に殺されたり、ほどなく八代将軍として足利義政が就任したりと物情騒然の折からなかなかよい回答も得られず、ただ待つばかりでした。しかし兵庫はもともと風流人でしたので、この際和歌の道を究めようと、京極今出川に寓居したのです』とある。
「細川公」以上の時制設定から、これは若き日の細川勝元(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)と考えてよいように思われる。彼は文安二(一四四五)年に畠山持国(徳本)に代わって十六歳で管領に就任しているが、それ以前に摂津・丹波・讃岐・土佐の守護であったから、「將軍に信用されて居ると知られてゐた、大大名」に矛盾しないからである。]
この家は、綺麗で廣かつたが、長い間、人が住まずに居たのであつた。不吉な家だと世間で言つて居つた。その京極側に井戶が一つあつた。そして、何んとも原因知れずに、その井戶で溺死した前の借家人が幾人もあつたからである、然し松村は、神官のことだから、惡靈など更に恐れず、直ぐと、この新居で居心地よく暮した。
その年の夏大旱魃があつた。幾月も一滴の雨も五畿內に降らなかつたので、川床は涸れ、井戶は干て[やぶちゃん注:「からびて」と訓じておく。]、この都にさへ水の拂底を見た。ところが、松村の庭の井戶は相違らず水が殆んど一杯で、その――非常に冷たく淸く、微かに靑味帶びて居た――水は泉が供給するらしく思はれた。暑い季節の間、町の方方から水貰ひに多勢人が來たが、松村は欲しいだけいくらでも人に汲ませた。それでも水の供給は減るやうには見えなかつた。
ところが、或る朝、近處の家から水汲みに來た、年若い下男の死骸が、其井戶に浮んで居るのが見つかつた。自殺の原因は何一つ想像出來なかつたので、松村は、其井戶に就いての面白からぬ話を數數想ひ出して、何か眼に見えぬ怨恨の業ではないか知らと疑ひ始めた。そこで、其まはりに垣を造らせようと思つて、其井戶を調べに行つた。すると、獨りで其處に立つて居る間に、水の中で、何か生きて居る物がするやうに、突然、物が動くので驚いた。其動きがやがて歇むと[やぶちゃん注:「やむと」。]、見た處十九か二十歲ぐらゐの若い女の姿が、其靜かな水面に明らかに映つて居るのが見えた。切りと[やぶちゃん注:「きりと」。しっかりと。「切」は当て字。]お化粧をして居るやうで、脣へ紅(べに)をさすのが判然(はつきり)見えた。初めは其顏は橫顏だけ見えてゐたが、やがてのこと、その女は松村の方を向いてにこりと笑つた。直ぐに其心臟に異常な衝動を感じ、酒に醉つたやうに眩暈[やぶちゃん注:「めまひ」。]がして、――月の光りの如く白くまた美しく、いつも次第に美しさを增すやう思はれ、また闇黑ヘ彼を引き下ろさう、下ろさうとするやう思はれる、そのにこりとした顏だけが殘つて、一切の物が暗くなつた。だが、彼は一所懸命に意志を取り戾して眼を閉ぢた。それから眼を開けて見たら、その顏は消えて居り、世は明かるくなつて居た。そして自分は井桁から下へうつむいて居ることを知つた。あの眩暈(めまひ)がもう一秒續いたなら――あののまぶしい誘惑がもう一秒續いたなら、二度と日の目を見ることは出來なかつたことであらう。……
家へ歸ると、皆の者にどんな事があらうと、その井戶へ近寄らぬやう、どんな人にもその水を汲ませぬやう命じた。そして、その翌日、丈夫な垣をその井戶のまはりに造らせた。
垣が出來てから一週間許りすると、その長の[やぶちゃん注:「ながの」。]旱天(ひでり)が風と稻光りと雷――全市が、その轟きで地震で顫へるやうに、ふるへたほどの恐ろしい雷――との伴うた大風雨で絕えた。三日三晚その土砂降りと電光と雷鳴とが續き、鴨河は未だ嘗て見ぬほど水嵩が增して、多くの橋を流し去つた。その風雨の三日目の夜、丑の刻に、その神官の家の戶を敲くものがあつて、內へ入れて吳れと賴む女の聲が聞えた。が、松村は井戶での事を思ひ出して、あぶないと思つたから、その哀願に應ずることを召使の者共に禁じた。自分で入口の處へ行つて、かう訊ねた。
『誰れだ』
すると女の聲が返事した、
『御免下さい! 私で御座います――あの彌生で御座います!………松村樣に申し上げたい事が――大切な事が御座いまして、何卒(どうぞ)、開けて下さいませ!』……
松村は用心して戶を半分開けた。すると井戶から自分を見てにこにこと笑つた、あの美しい顏が見えた。しかし今度はにこにこしては居ないで、大變悲しさうな顏をして居つた。
『私の家へは、はいらせぬ』と神官は呶鳴つた。『お前は人間では無い。井戶の者だ。……何故、お前はあんなに意地惡るく人を騙して殺さうとするのだ?』
その井戶の者は珠のちりんちりん、いふやうな調子のいい聲(タマヲコロガス)で返事した。
『私の申し上げたいと思ひますのは、その事に就いてで御座います。……私は決して人を害ね[やぶちゃん注:「そこね」。]ようとは思つて居りません。が、古昔(むかし)から毒龍があの井戶に住んで居りました。それがあの井戶の主で御座いました。それであの井戶には水がいつも一杯にあるので御座います。ずつと前に、私はあの水の中へ落ちまして、それであれに仕へることになつたので御座います。自分がその血を飮むやうにと、私に、人を騙して死なせるやうにさせたので御座います。が、今後は信州の鳥井ノ池といふ池に棲むやう神樣が、今度[やぶちゃん注:「このたび」。]、御云ひ付けになりまして、神樣はあれをこの町へ二度と歸らせてはやらぬと御極めになりました。で、御座いますから今夜、あれが去(い)つてしまつてから、あなた樣のお助けを御願ひに、出て來ることが出來たので御座います。その龍が去(い)つてしまひましたから、今、井戶には水が少ししか御座いません。云ひ付けで探させて下されば、私の身體(からだ)が見つかるで御座いませう。どうか、御願ひで御座います、早く私の身體(からだ)を井戶から出して下さいませ。屹度、御恩返しは致しますから』……
かう言つてその女は闇へ消えた。
[やぶちゃん注:「信州の鳥井ノ池」不詳。識者の御教授を乞う。]
夜明けまでに風雨は過ぎ去つた。日が出た時には澄んだ靑空に雲の痕も無かつた。松村は早朝、井戶掃除屋を呼びに遣つて、井戶の中を搜させた。すると誰れもが驚いたことには井戶は殆んど干涸らびてゐた。容易(たやす)く掃除された。そして其底に頗る古風な髮飾りと妙な恰好の金屬の鏡とが見付かつたが――身體は動物のも人間のも、何んの痕跡も無かつた。
だが、松村は此鏡が、その神祕の證明を與へはせねか知らと想つた。そんな鏡はいづれも己の魂を有つて居る不思議な品物で――鏡の魂は女性だからである。その鏡は餘程古いもののやうで、錆が厚く著いて居つた。が、神官の命で丁寧に、それを掃除させて見ると、稀なそして高價な細工だといふことが判り、その裏に奇妙な模樣があり、文字も數數あることが知れた。その文字には見分けられなくなつて居るものもあつたが、日附の一部分と、『三月三日』といふ意味の表意文字とは見極はめることが出來た。ところで、三月は昔は彌生(いや增すといふ意味)と云つたもので、祭り日となつて居る三月の三日は、今なほ彌生の節句と呼んで居る。あの井戶の者が自分の名を『彌生』と云つたことを想ひ起こして松村は、自分を訪ねた靈の客は、この鏡の魂に他ならぬ、と殆んど確信した。
だから、その鏡は靈に對して拂ふべき顧慮を以て、鄭重に取り扱はうと決心した。丁寧に磨きなほさせ、銀を著けなほさせてから、貴重な木でそれを容れる箱を造らせ、その箱を仕舞つて置く別室を家の中に用意させた。すると、その箱を恭しくその部屋へ置いた、丁度その日の晚に、神官が獨りで書齋に坐つて居ると忽然、その彌生が、その前へ姿を現した。前よりも、もつと美しいぐらゐであつたが、その美はしさの光りは、今度は淸い白雲を透して輝く夏の月の光りの如く軟かいものであつた。頭低く、松村に辭儀をしてから、玉のやうな美くしい聲でかう言つた。
『あなたが、私の獨り住居を救ひ、私の悲しみを除(と)つて下さいましたから、御禮に上りました。……私は、實は、御察しの通り、鏡の魂なので御座います。齊明天皇の御世で御座いました。私は百濟から始めてこちらへ連れて來られたので御座いまして、嵯峨天皇の時まで、御屋敷に住まつて居たので御座いますが、天皇は私を皇居の加茂內親王に御與ヘになつたので御座います。その後、私は藤原家の寶物になりまして、保元時代までさうで
〔齊明天皇の治世は六五五年(紀元)から六六二年まで。嵯峨天皇は八一〇年から八四二年まで。百濟は朝鮮の西南部にあつた古の王國で、初期の日本史によくその名が出て居る。內親王は皇室の血統の方。昔の宮廷階級には高貴な婦人に二十五階級あつて、內親王は席次では第七階であつた〕
[やぶちゃん注:割注が段落途中で入るのは、ママ。以下、同じ。
「保元時代」一一五六年から一一五八年まで。
「加茂內親王」は一般名詞で「賀茂斎院」のことであろうと思われる。賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した皇女を指し、伊勢神宮の「斎宮」と併せて「斎王」とも称した。さても嵯峨天皇の多くの内親王の内には、実に初代賀茂斎院と成った第八皇女有智子(うちこ)内親王(大同二(八〇七)年~承和一四(八四七)年)がいるので、彼女である。大同四(八〇九)年に父の嵯峨天皇が即位すると、翌弘仁元(八一〇)年に僅か四歳で賀茂斎院に卜定されている。ウィキの「有智子内親王」によれば、同九年、斎院司が開設され、同一四(八二三)年二月には、三品に叙され、封百戸を賜る(同年四月に嵯峨天皇が譲位)。天長八(八三二)年十二月に病により、退下し、同一〇(八三三)年、二品に昇叙。承和十四年十月二十六日(八四七年十二月七日))に薨去した。享年四十一であった。『有智子内親王は』弘仁元(八一〇)年に起こった「薬子の変」を契機として、『初代賀茂斎院に定められたと言われる。嵯峨天皇の皇子女の中でも豊かな文才に恵まれた皇女で』、弘仁一四(八二三)年、『嵯峨天皇が斎院へ行幸した際に優れた漢詩をものしたことから、感嘆した天皇は内親王を三品に叙したという。その詩作は』「經國集」『などに合計』十『首が遺されており、日本史上数少ない女性漢詩人の一人である』とある。或いは、この「彌生」、才媛にして、どこか、政争の被害者であったかも知れない有智子内親王の魂をも、暗示させているのではなかろうか?]
ゐましたが、その時にあの井戶へ落とされたので御座います。あの大戰爭の幾年の間私は
〔幾世紀の間、天皇の好配と宮廷の貴女とは藤原家から選まれた。保元時代は一五六年から一一五九年まで。ここに云ふ戰爭は平家源氏間の、あの有名な戰爭〕
其處に置かれたまま人に忘れられて居たので御座います。その井戶の主は、元は此邊一帶
〔昔の信仰では湖水や泉にはいづれも眼には見えぬ守護者があつて、時に蛇又は龍の姿を取ると想はれて居た。湖水や池の靈は普通イケノヌシ卽ち『池の主』と云つて居た。此處には『主(ぬし)』といふ名を井戶に棲む龍に與へてあるが、本當は井戶の守護者は水神といふ神である〕
にあつた大池に棲んでゐた毒龍で御座いました。その大池が、お上(かみ)の命令で、家を其處ヘ建てる爲めに、埋められましてから、その龍はあの井戶を我が物にしたので御座います。私はあの井戶へ落ちてから、それへ仕へることになりまして、あれが無理に私に人を多く死なせるやうにしたので御座います。だが、神樣があれを永久に追ひ拂ひになりました。……あの、私に、も一つ御願ひが御座います。私の前の持主と家柄が續いて居りますから、將軍義政公へ私を獻上して下さいませんでせうか、御願ひ致します。最後のこの御深切さへして戴けますれば、私はあなた樣に幸福を持つて參りませう。……が、その上にあなた樣の身に危ういことがあることを御知らせ致します。この家には、明日から、おいでになつてはいけません。この家は壞れますから』……
そしてかう警戒の言葉を述べると共に、彌生は姿を消した。
[やぶちゃん注:ここで「將軍義政公」と言っていることから、先の注で示した通りの限定期間である嘉吉・文安の頃(一四四一年から一四四九年まで)の内、少なくともこの彌生の懇請のシークエンスは、足利義政が将軍宣下を受けて第八代足利幕府将軍に就任した文安六(一四四九)年四月二十九日よりも後となり、しかも文安六年は七月二十八日(ユリウス暦一四四九年八月十六日)宝徳に改元されるから、物謂いに拘るなら、その僅か三ヶ月に限定することも可能となり、この全体の出来事が「夏」に設定されている以上、この話はまさにその限定期間に合致すると言っても差し支えないとも思われるのである。【2020年10月22日追記】本日、原作の初版に基づき、「都賀庭鐘 席上奇觀 垣根草 巻之五 松村兵庫古井の妖鏡を得たる事」を零から再々電子化注した。その結果として考えるに、この限定は無理があると、今は感じている。詳しくは、その決定版の私の注の時代考証を参照されたい。]
松村はこの豫戒によつて利益を享けることが出來た。翌日、自分の家の者共と品物とを別な町へ移した。すると殆んどその直ぐ後に、初めのよりかもつと猛烈なくらゐの暴風が起こつて、その爲めの洪水で、それまで住まつてゐた家は流されてしまつた。
その後暫くして松村は、細川公の厚意によつて將軍義改に謁見するを得て、その不思議な來歷を紙に書いたものと一緖に、かの鏡を獻上した。そして、その時鏡の魂の豫言が實行された。將軍はこの珍らしい贈り物を大いに喜ばれて、松村へ高價な賜物を與へられたばかりで無く、大河內明神の神殿再建に澤山の寄附金をされたからである。
[やぶちゃん注:本篇の原拠は、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村(ぬのむら)弘氏の「解説」によれば、江戸末期の弘化五(一八四八)年一月に板行された、大坂の戯作者で名所図会作者として有名な暁鐘成(あかつきかねなり 寛政五(一七九三)年~万延元(一八六一)年:姓は木村、名は明啓)編の、「當日奇觀」巻之第五巻頭に配された「松村兵庫(まつむらひやうこ)古井(こせい)の妖鏡(ようきやう)」である。但し、実は当該原拠自体が、その序文の記載から、それよりもかなり以前に出版された、江戸中期の読本作家で儒学者・医師でもあった文人都賀庭鐘(つがていしょう 享保三(一七一八)年~寛政六(一七九四)年?:大坂の文人。上田秋成は都賀の「古今奇談繁野話(しげしげやわ)」(明和三(一七六六)年板行)に触発されて「雨月物語」を書いたことは有名)著とされる(署名は「草官散人」)「席上奇觀垣根草」を外題を変えただけで、再版・改題したものである。私は「席上奇觀垣根草」を、昭和二(一九二七)年刊の「日本名著全集」第十巻「怪談名作集」(活字版)を所持しており、比較して見たが、特に大きな異同は見当たらぬので、小泉八雲が実際に原拠とした以下で電子化することとした。
ここでは富山大学「ヘルン文庫」の旧小泉八雲蔵本の(こちらからダウン・ロード出来る)「當日奇觀」巻之第五を底本として電子化した。但し、読みは五月蠅いので、振れると思われる一部に留めた。歴史的仮名遣の誤り(かなり激しい)はママである。読み易さを考えて、私が句読点・記号を附加し、段落も成形した。一部に濁音を附した。なお、原拠には悪龍が去るその瞬間を描いたと思しい挿絵がある。【2025年4月3日追記】私は後に「都賀庭鐘 席上奇觀 垣根草 卷之五 松村兵庫古井の妖鏡を得たる事」を電子化注し、そこで、出来る限り、正字正仮名となるように、総てを、ブラッシュ・アップし、さらに最新の注も附してある(例えば、ここでは不詳とした「信州の鳥井ノ池」も候補対象を示してある)ので、そちらが、最終決定版となるから、必ず、最後に読まれたい。そちらも、今回に合わせて、先ほど、特別に再補訂しておいた。
*
松村兵庫古井の妖鏡
南勢(なんせい)大河內(をゝかわち)の鄕は、そのかみ、國司の府にて、南朝の頃までは、北畠殿こゝにおはして、一方を領(りやう)じたまふ國府の西南に大河內明神(をゝかはちめうじん)の社(やしろ)あり。國司より宮宇(きうう/やしろ[やぶちゃん注:前が右ルビ、後が意味添え風の左ルビ。以下同じ。])も修理(しゆり)したまひ、神領もあまた寄(よせ)られしが、漸(やうや)く衰廢(すいはい/あれはて)して、嘉吉・文安の頃にいたりては、社頭も雨露(うろ)におかされたまふ風情なりしかば、祠官(しくはん/かんぬし)[やぶちゃん注:神主と同義。]松村兵庫(まつむらへうご)なるもの、都に登りて、時の管領(くはんれい)細川家に由緖あるにたよりて、修造(しゆざう)の事を訴ふるといへども、前(さきのさきの)將軍義教公、赤松がために弑(しい)られたまひ、後嗣(こうし/よつぎ)も、ほどなく、早世(さうせい)ありて、義政公、將軍の職を繼(つぎ)たまふ。打續(うちつゞき)て公(をゝやけ)の事(こと)、繁きに、其事(そのこと)となく、すぎ侍(はんべ)れば、兵庫は、もとより文才もかしこく和哥の道なども幼(いとけなき)より嗜(たしみ/すき[やぶちゃん注:右ルビは「たしなみ」の脱字。])たりしかバ幸(さいはひ)に滯留して、其奧儀(おうぎ)をもきはめんと、京極(きやうごく/てらまち)今出川の北に、寓居(ぐうきよ/かりずみ)して公(をゝやけ)の沙汰を待居(まちゐ)たり。
旅舘の東北(ひがしきた)にあたりて、一(ひとつ)の古井(こせい/ふるゐ)ありて、むかしより、時々、よく人を溺(をぼ/とる)らすときゝたれども、宅眷(たくけん/かない)とてもなく、從者(じうしや)一人のみなれば、心にも挾(さしはさ)まず、暮しけり。
其頃、畿內、大(をゝゐ)に旱(ひでり)して、洛中も水に乏しき折(をり)にも、かの古井は涸(かる)ることなく、水(みづ)、藍(あい)のごとくみちたれば、近隣より汲(くみ)とる者、多し。されども、人々、心して汲(くむ)ゆへにや、溺るゝ者もなかりしに、或日(あるひ)、暮(くれ)の頃、隣家(りんか)の婢(ひ)、例のごとく汲(くま)んとして、久しく井中(いちう)を窺ひ居たるを、「あやし」と見るうちに、忽(たちまち)墜(をち)いりて、溺れ死したり。井水(いすい)きわめて深ければ、數日(すじつ)を經て、漸くその死骸をもとめ得たり。
是より、兵庫、あやまちあらん事を怖れて、垣など、嚴しくしつらひたりしが、去(さる)にても、あやしとおもふより、たちよりて、竊(ひそか)に窺ふに、中(なか)に、年の頃、廿(はたち)ばかりと覺しき女の、なまめけるが、粧飾(さうしよく)、いとうるはしく粧(よそほ)ひて、あり。兵庫をみて、すこし、顏そむけて笑ふ風情(ふぜい)、その艷(えん)なる事、世のたぐひにあらず、魂(たましい)、飛(とび)、こゝろ、動(うごき)て、やがて[やぶちゃん注:そのまま。]、ちかよらんとせしが、おもひあたりて、
『扨は。かくして人を溺らす古井の妖(よう/ぬし)なるべし。あな、をそろし。』
と、急に立(たち)さりて、從者にも、此よし、かたく制して、近付(ちかづか)しめず。
或夜(よ)、二更[やぶちゃん注:現在の午後九時又は午後十時から二時間を指す。亥の刻。]の頃より、風雨、はなはだ烈しく、樹木を倒(たを)し、屋瓦(をくぐは/やねのかはら)を飛(とば)せ、雨は盆を傾(かたぶ)くるごとく、閃電(せんでん/いなづま)、晝のごとく霹靂(へきれき/はたゝがみ)、をびたゝしく震ひ、天柱(てんちう)も折(くじ)け、地維(ちゆい)[やぶちゃん注:普通は「ちゐ(ちい)」と読み、大地を支えていると考えられた綱を指し、転じて「大地」の意。「天柱」の対語。]も崩るゝかとおもふうちに、天(そら)晴(はれ)て夜も明(あけ)たるに、兵庫、とく起(をき)て、窓を開(あけ)て外面(そとも)を窺ふところ、表に、女の聲して案內を乞ふ。
「誰(たそ)。」
と、とヘば、
「彌生(やよひ)。」
と、答ふ。
兵庫、あやしみながら、裝束(しやうぞく)して戶をひらき、一間に請(しやう)じて、これを見れば、先に井中にありし女なり。
兵庫が云(いはく)、
「女郎(ぢよらう)は井中の人にあらずや。何ぞ、みだりに人を惑して殺すや。」
女、云(いはく)、
「妾(せう)は人をころす者にあらず。此井、毒龍(どくりやう)ありて、むかしより、こゝにすむ。ゆへに大旱(たいかん/をゝひでり)といへども、水、かるゝ事、なし。妾(せう)は中昔(なかむかし)、井に墜(をち)て、遂に龍(りやう)のために役便(えきし/せめつかはる)せられ、やむことを得ずして、色(いろ)を以て、人を惑し、或は、衣裝・粧具(さうぐ/くしかうがい)の類(るい)を以(も)て、欺(あざむ)き、すかして、龍(りやう)の食(くら)ふところに供するのみ。龍(りやう)、人血(にんけつ/ひとのち)をこのみて、妾(せう)をして、これを弁(べん)ぜしむる[やぶちゃん注:処理させる。]。其辛苦、堪(たへ)がたし。昨夜、天帝の命ありて、こゝをさりて、信州鳥居(とりゐ)の池にうつらしむ。今(いま)、井中(ゐちう)、主(ぬし)、なし。此時、君(きみ)、人をして妾(せう)を拯(すくふ)て、井を脱(だつ/のがれ)せしめ給へ。もし、脱することを得ば、おもく、報ひ奉るべし。」
と、いひ終りて、行方(ゆきがた)をしらず。
兵庫、數人(すにん)をやとひて、井をあばかしむるに、水、涸(かれ)て、一滴も、なし。
されども、井中、他(た)のものなく、唯(たゞ)筓簪(けんさん/かうがいかんざし)のるいのみなり。
漸(やうや)く、底に至りて、一枚の古鏡(こきやう)あり。
よくよくあらひ淸めて、是をみるに、背に、
「姑洗之鏡(こせんのかゞみ)」
といふ四字の款識(あふしき)[やぶちゃん注:普通は「くわんしき(かんしき)」と読む。「款」は陰刻の銘、「識」は陽刻の銘で、鐘・鼎・鏡などの鋳造部に刻した銘・銘文を指す。]ありて、
「さては『彌生』といひしは、此ゆへなり。」
と、香(かう)を以て其穢汚(ゑを)を清め、匣中(かうちう)[やぶちゃん注:小箱の内。]に安(あん)じ、一間(ひとま)なる所を淸くしつらひて置(をき)たりしに、其夜、女、又、來りて云(いふ)やう、
「君(きみ)の力によりて數(す)百年の苦(くるし)みをのがれて、世に出る[やぶちゃん注:「いづる」。]ことを得侍(えはんべ)るうへ、不淨を淸めて、穢(けがれ)をさりたまひしゆへ、とし月の腥穢れ(せいえ/なまくさきけがれ)をわすれ侍(はんべ)り。そも、此井は、むかし、大(をゝゐ)なる池なりしを、遷都の時、埋(うづ)めたまひ、漸(やうやう)形ばかりをのこしたまふ。都を遷(うつ)したまふときは、八百神(やをよろづ)の神々、きたりたすけ給ふゆへ、其(その)むかしよりすみたりし毒龍(どくりう)も、せんすべなくして、井中(せいちう)をしめて、すまひ侍(はべ)り。妾(せう)は、齊明天皇の時、百濟國(くだらこく)よりわたされて、久しく宮中に祕め置(おか)れしが、嵯峨天皇のときに、皇女賀茂の內親王にたまはり、夫(それ)より後(のち)、兼明(かねあきら)親王[やぶちゃん注:延喜一四(九一四)年生まれで永延元(九八七)年没。醍醐天皇の第十六皇子で、朱雀天皇・村上天皇・源高明の異母兄弟に当たる。一時、臣籍降下して源兼明(かねあきら)と名乗ったが、晩年になって皇籍に復帰し、中務卿となったことから「中書王(ちゅうしょおう)」などと呼ばれた。博学多才で書もよくしたという。]の許(もと)に侍(はんべ)り。遂に藤原家に傳はり、御堂殿(みどうどの)[やぶちゃん注:藤原道長。]、ことに祕藏したまひしが、其後(のち)、保元(ほうげん)の亂に、誤りて、此(この)井に墜(をち)てより、長く毒龍(どくりう)に責(せめ)つかはれて今日(こんにち)にいたる。十二律(りつ)[やぶちゃん注:中国及び日本の古くからの音名。一オクターブ内に半音刻みに十二の音がある。]にかたどりて鑄(ゐ)さしめらるゝ中(うち)、妾(せう)は、『三月三日』に鑄る所の物なり。君(きみ)、妾(せう)を將軍家にすゝめたまはゞ、大(をゝゐ)なる祥(さいわい)を得給ふべし。其上、此所(このところ)、久しくすみたまふ所にあらず。とく、外(ほか)に移り給へ。」
と、懇(ねんごろ)にかたり終りて、かきけすごとくにして、其形をみず。
兵庫、その詞(ことば)のごとく、翌日、外(ほか)に移りて、事のやうを窺ふに、次の日、故(ゆへ)なくして、地、をちいり、家(いへ)も崩(くずれ)たり。
ますます、鏡(かゞみ)の靈(れい)にして報ゆるところなるをさとりて、これを將軍家に奉るに、そのころ、義政公、古翫(こぐはん/ふるきどうぐ)を愛したまふ折(をり)なれば、はなはだ賞(しやう)したまひ、傳來するところまであきらかに侍(はんべ)るにぞ、第一の奇寶(きほう)としたまひ、兵庫には、其賞として南勢(なんせい)にて一ケの庄(せう)を神領(じんりやう)によせられ、猶も、社頭再建は公(をゝやけ)より沙汰すべきよしの嚴命をかうむりて、兵庫は本意(ほゐ)のごとく、多年の愁眉(しうび)をひらきぬ。
其後(のち)、此(この)鏡、故(ゆへ)ありて、大內(をゝち)の家に賜りしが、義隆、戰死の後は、その所在をしらずとぞ、いひつたへ侍(はんべ)る。
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大内義隆の戦死は天文二〇(一五五一)年。さても、既に私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「井の底の鏡」 附 小泉八雲「鏡の少女」原文+大谷正信譯』の注の最後でも述べたが、講談社学術文庫版の「解説」で布村氏も述べておられる通り、小泉八雲は原拠の展開順序を少し入れ替えた上、細部に手を加えて整合性を出している。最初に発生する不審な井戸での溺死者を「隣家の婢」から「近所の下男」へと変更しているのは、誘惑する「彌生」が女形であるからして八雲の処理の方が腑に落ちるし、彌生の最初の訪問も、原話では嵐の晴れた中であるが、八雲は嵐の中に設定しており、これが、まさに彌生の話中の毒龍移動の最中とマッチして、やはり共時的でダイナミックである。また、エンディングも、原話が大陥没による崩落で家が倒壊するというシークエンスを、龍との絡みを駄目押しに考えたものであろう、激しい大暴風の洪水で、完膚までに押し流されてしまうという、泉鏡花ばりのカタストロフ処理を施しているのも、これまた、小気味よいではないか。]
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