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2019/10/09

小泉八雲 作品集「日本雜錄」始動 / 奇談 / 「約束」(田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Of a Promise Kept ”。「守られた約束」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の巻頭に置かれたパート「奇談」(原題“ Strange Stories ”)の第一話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされてあり、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全電子活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、画像データをPDFで落として視認した【2025年4月4日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。
なお、上記対訳サイトのそれは、原文以外は、全く、参考にも加工用にも使用していないことをお断りしておく。その程度の自己拘束を私は私自身にかけて小泉八雲と向き合っている。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は知られた上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年板行であるが、執筆は十年前の明和五(一七六八)年であった)の「菊花の約(ちぎり)」(構成としては明代の馮夢龍(ふうむりゅう/ふうぼうりょう 一五七四年~一六四六年)の白話小説集「古今小說」の第十六話「范巨卿鷄黍死生交」(范巨卿(はんきよけい)鷄黍(けいしよ)死生(しせい)の交(まじは)り)を原拠としている)の話の短縮された翻案であるが、原作のくだくだしいデーティルが大胆に除去されており、究極の男気を鮮やかに浮き彫りにした名掌品怪談となっている。同原作は私自身、同作品集の「靑頭巾」(私はサイト版で原文及び私の現代語訳(但し、雰囲気を保持するために正字正仮名遣である)と、高校教師時代のオリジナル授業ノートを公開している。言っておくが、「靑頭巾」は、その内容(稚児愛・カニバリズム)から高校の古文の教科書には絶対に載らない作品であり、私のそれは独自に教材化したものである)に次いで偏愛するもので、さればこそ、ここに単に安易に原拠として掲げるのには、激しい躊躇を感ずる。近い将来、オリジナルに独立させて電子化して示したい。それまで待てないというお方は、サイト「日本古典文学摘集」の原文現代語訳もある)をお薦めする。 なお、本篇については川澄亜岐子氏の論文『ラフカディオ・ハーン「守られた約束」について―原話と再話の比較から見えるもの―』(PDF)が緻密な解析をされており、必見である。それによれば、『ハーンが自分で原話を読んだ可能性は低く、日本人の家族や知人を通してこの物語を知ったと思われる』とある。その簡略性から見ても至当であろう。

 なお、献辞にある「ヱリザベス・ビスランド・ウヱットモア夫人」とは小泉八雲の親友でアメリカの女性ジャーナリストで新聞・雑誌の編集者でもあったエリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)である。詳しくは、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十四章 魂について(全)』の挿入注(「昔、ここを平井呈一氏の訳で読んだ若き日の私は、……」で始まるもの)を参照されたい。

 本文内に禁欲的に注を挿入した。]

 

 

  日 本 雜 錄

 

 

  ヱリザベス・ビスランド・ウヱットモア夫人へ

 

 

  奇 談

 

 

  約 束

 

 『この秋早々歸ります』と、數百年前、赤穴(あかな)宗右衞門がその義弟丈部(はせべ)左門と別れる時、云つた。時は春、場所は播磨國加古村。赤穴は出雲の武士であつた、それで彼は鄕里を訪れようと思つた。

[やぶちゃん注:「數百年前」原拠と同じで、本篇でも最後の方で、戦国大名で出雲守護代であった尼子「經久」(あまごつねひさ 長禄二(一四五八)年~天文一〇(一五四一)年)の名と、それに滅ぼされた「以前の君主𪉹冶殿」の名が登場する。「雨月物語」の学術注釈は、その旧主を塩冶掃部介(えんやかもんのすけ ?~文明一八(一四八六)年)、室町から戦国にかけての武将で、通称、荒法師、出雲国守護代で京極氏の家臣であった人物とする。ウィキの「塩冶掃部介」によれば、『出雲の国人』で、文明一六(一四八四)年、『出雲の守護代尼子経久が主君京極政経によって追放された。掃部介は新たな守護代として月山富田城に入城』した。文明十八年の『元旦、毎年恒例の万歳が行われた。しかし、浪人となりながら』、『富田城奪回を狙っていた経久の策で、城で毎年芸能を披露する鉢屋衆は経久と密かに手を組んでおり、尼子軍に夜討ちを仕掛けられた。これにより、掃部介は妻子を殺害した後、自害した。富田城脇に彼の墓が残っている』とある。本作品集の刊行は明治三四(一九〇一)年であるから、四百十五年前後以前の話となる。間違え易いのは、後の「塩冶興久(えんやおきひさ)の乱」で、注意が必要であろうから、一言述べておく。ウィキの「尼子経久によれば、享禄三(一五三〇)年、経久の三男である塩冶興久(えんやおきひさ)『が、反尼子派であることを鮮明にして内紛が勃発した。この時に興久は出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けており、大規模な反乱であったことが伺える。また、同時期には興久は大内氏に援助を求めており、経久も同じ時期に文を持って伝えている。結局の所、消極的ながら大内氏は経久側を支援する立場になっている。当時の大内氏家臣・陶興房が享禄』三年五月二十八日に『記した書状を見るにしても、興久は経久と真っ向から対立しており、更には経久の攻撃を何度も退けていることが伺える。また、大内氏は両者から支援を求められるも、最終的には経久側を支援しており、尼子氏と和睦している』。『だが、この反乱は』天文三(一五三四)年に『鎮圧され、興久は備後山内氏の甲立城に逃れた後、甥である詮久の攻撃等もあり』、『自害した』とある事件である。

「播磨國加古村」兵庫県加古郡稲美町の大字加古(かこ)附近(グーグル・マップ・データ)。]

 丈部は云つた、――

『あなたの出雲、八雲立つ出雲の國は甚だ遠い。それ故恐らく或定(き)まつたお歸りの日を約束なさる事はむづかしいでせうが、もしその日が分つたら私共は幸に思ひます。さうしたら、私共は歡迎の宴の用意ができます。そしてお出でになるのを門に出て見張つて居られます』

 『さあ、その事については』赤穴は答へた、『私は旅にはよく慣れて居るから、或場所に着くにはどれ程かかるか豫め云ふ事ができます、それで定まつた日にここへ着く事は安心して云へます。重陽の佳節ときめて置いてどうでせう』

 『それは九月九日ですね』丈部は云つた、――『その頃は菊の花も咲くから、一緖に菊見もできます。愉快愉快。……それぢやお歸りは九月九日と約束して下さいますね』

 『九月九日』赤穴は別れの微笑を見せながら、くりかへした。それから彼は播磨の國加古村から、大胯[やぶちゃん注:「おほまた」。]に步き出した、――そして丈部左門とその母は、眼に淚を浮べてそのあとを見送つた。

 

 『月日に關守なし』と古い日本の諺は云ふ。速かに幾月か過ぎ去つた、そして秋――菊花の季節――が來た。そこで九月九日の早朝から、丈部は彼の義兄を歡迎する用意をした。品々の肴を調へ、酒を買ひ、客間を飾り、床の間の花瓶には二色の菊花を插した。その時、これを見てゐた母は云つた、――『出雲の國はここから百里以上もあります。山を越えてそこから來る旅は苦しくて疲れませう、赤穴が今日來る事ができるかどうかは、あてにならない。そんなに骨を折らないで、來るのを待つてからにしてはどうかね』 『いいえ、母樣』丈部は答へた――『赤穴は今日ここへ來ると約束しました、約束を破るやうな人ぢやありません。到着してから用意を始めるのを見たら、私達はあの人の言葉を疑つたと思ひませう、それが恥づかしい』

 

 その日は美はしく、空には一點の雲もなく、空氣は澄み渡つて世界はいつもより千里も廣くなつたやうに思はれた。朝のうち、多くの旅人は村を通つた――武士も幾人かあつた、そして一人一人の通るのを見守つてゐる丈部は、度々赤穴が近づくのを見たやうに思つた。しかし寺の鐘が正午を知らせたが、赤穴は見えなかつた。午後も續いて丈部は見張つて待つて見たが無駄であつた。日は沈んだ、しかしやはり赤穴の來るやうすはなかつた。それでも丈部は門に立つて往來を眺めてゐた。やがて母は來て云つた、――『諺に云ふ通り――男の心は秋の空のやうに早く變る事もあらう。しかし菊の花は明日も未だ鮮かであらうから、もう床についてはどうか、明朝になつてから、又赤穴を待ちたければ、待つ事にしては』 『母樣、お休みなさい』丈部は答へた、――『しかし私はやはり來るとしか信じられません』それから母は寢室に行つて、丈部は門にためらつてゐた。

[やぶちゃん注:「ためらつてゐた」原文は“lingered”。“linger”は「何かが気にかかっ居残る・いつまでも留まろうとする・後に残っている・なかなか去ろうとしない」の意。「躊躇(ためら)ふ」には漢字表記通り、「躊躇(ちゅうちょ)して一つ所をぶらぶらする・うろつく」の意がある。]

 

 夜は晝のやうに澄んでゐた、空には一面に星が動いて、銀河は異樣の光をもつて輝いてゐた、――靜けさを破る物は、ただ小川の音とはるかに吠える犬の聲だけであつた。丈部はやはり待つた、――細い月が近くの山のうしろに沈むのを見るまで待つた。その時やうやく彼は疑ひ恐れ始めた。丁度家に戾らうとした時、彼は遠くからたけの高い人が――甚だ輕く、かつ速く、――近づいて來るのを見た、そして直ちにそれが赤穴である事を認めた。

 『やあ』丈部は彼を迎へるために、跳び出して叫んだ、――『朝から今まで待つてゐました。……やはり約束を守つて下さつたね。……しかし兄樣、あなたはきつと疲れたでせう、――入つて下さい、――何でも用意してあります』彼は客間の正座へ赤穴を案内して、急いで細くなりかけて居るあかりを直した。丈部は續けて云つた、『母は今晚少し疲れて居るので、もう寢ました。しかし、やがて起しませう』赤穴は頭を振つて、不承諾の身振をちよつと示した。『兄樣、それではあなたの好きなやうに致しませう』と丈部は云つて、この旅客の前に暖い酒肴を置いた。赤穴は酒にも肴にも手を觸れないで、暫らく動かないで、默つてゐた。それから、母を起す事を恐れるかのやうに、――ささやきの聲になつて、云つた、――

 『こんなにおそく來るやうになつたわけを、これから云はねばならない。私が出雲へ歸ると、人々は以前の君主𪉹冶殿の厚恩を忘れて、あの冨田城を取つた謀叛人の經久(つねひさ)に媚を呈して居るのを見た。從弟の赤穴丹治[やぶちゃん注:「あかなたんぢ」。]が經久に仕へて、その家臣として富田の城内に住居して居るのを訪れねばならなかつた。彼は私に經久の前に出るやうに勸めた、私は新しい君主の顏を見た事がないから、重にその人の性格を見るためにその勸めに應じた。經久は熟練なる軍師で、非常な勇氣があるが、狡猾で殘忍である。溫は乙の人に仕へる事は決してできない事を知らして置く事を必要と思つた、その面前を下ると、稜は私の從弟に命じて私を留めた、――家の中から私を出さないやうにした。私は九月九日に播磨へ歸る約束のある事を云ひ張つたが、出る事を許してくれなかつた。それで私は夜城から逃げ出さうと思つたが、たえず見張りがついてゐたので、たうとう今日まで約束を果す方法は見出せなかつた。……』

 『今日まで!』丈部は驚いて叫んだ、――『城はここから百里以上もある』

 『さうです』赤穴は答へた、『人は一日に百里を行く事はできない。しかし、約束を守らなければ私はよくは思はれない事を思うた、それから私は「魂よく一日に千里を行く」と云ふ古い諺を思ひ出した。幸にして私は刀を携ふる事を許されてゐた、――それでやうやく私は歸つて來る事ができた。……母上を大事にして下さい』

 かう云つて、彼は立ち上つて同時に消えた。

 その時丈部は赤穴が約束を果すために自殺した事を知つた。

 

 未明に丈部左門は出雲の國富田城に向つて出發した。松江に着いて彼はそこで九月九日に赤穴宗右衞門は城内の赤澤丹治の家で切腹した事を聞いた。それから丈部は赤澤丹治の家に行つて、丹治の信義のない事を責めて、家族の面前で彼を殺して、自分は怪我もしないで逃れた。それから經久がこの話を開いた時、丈部を追はせないやうに命令を出した。卽ち經久自らは亂暴な殘忍な人ではあつたが、外の人の信を愛する事を尊敬して、丈部左門の友情と勇氣を感嘆する事ができたからであつた。

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