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2019/10/27

小泉八雲 鮫人(さめびと)の感謝  (田部隆次訳) 附・原拠 曲亭馬琴「鮫人(かうじん)」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Gratitude of the Samébito ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“STORIES FROM STRANGE BOOKS”最終の第六話に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから。原拠を記した添書のある標題ページで示した。そこには“The original of this story may be found in the book called Kibun-Anbaiyoshi”(「この原話は「奇聞 塩梅余史」の中に見出されたものである」。「奇聞」は「綺聞」でもいいか)とある。但し、正確な書名は曲亭馬琴著の「戲聞鹽槑餘史(おとしばなしあんばいよし)」である。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、本篇の原拠は、以上に示した通り、曲亭馬琴の戯作集「戲聞鹽槑餘史(おとしばなしあんばいよし)」の「鮫人(かうじん)」である(その原拠同定は平井呈一氏の恒文社版「日本雑記 他」の「参考資料」に拠った)。末尾にそれを国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認して附した。]

 

 

   鮫人の感謝

 

 昔、近江の國に俵屋藤太郞と云ふ人があつた。家は名高い石山寺に遠くない、琵琶湖の岸にあつた。彼には相應の財產もあつて、安樂に暮らしてゐたが、二十九歲にもなつて未だ獨身であつた。彼の大野心は絕世の美人を娶る事であつたから、氣に入る少女を見出す事ができなかつた。

[やぶちゃん注:「鮫人」(普通は「かうじん(こうじん)」の音読みが一般的で、原拠もそれであるから、小泉八雲の「さめびと」は彼のオリジナルな読みである)についてはネタバレになるので、後に回す。

「俵屋藤太郞」藤原俵藤太秀郷(寛平三(八九一)年?~天徳二(九五八)年又は正暦二(九九一)年)に引っ掛けたネーミング。秀郷には知られた「百足退治」の伝説があるが、この話(原話)はその内容の各所をパロディ化したものと言える。ウィキの「藤原秀郷」によれば、室町期に原話が成立したと思われる御伽草子「俵藤太物語」(絵入り刊本は寛永(一六二四年~一六四四年)頃の板行)に『みえる百足退治伝説は』、『琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した』という筋書きである。『俵藤太の百足退治の説話の初出は』「太平記」『十五巻といわれる』が、やはり室町時代に成立したと思われる「俵藤太物語」の『古絵巻のほうが早期に成立した可能性もあるという意見もある』。『御伽草子系の絵巻や版本所収の「俵藤太物語」に伝わり、説話はさらに広まった』。『御伽草子では、助けをもとめた大蛇は、琵琶湖に通じる竜宮に棲む者で、女性の姿に化身して藤太の前に現れる。そして百足退治が成就したのちに藤太を竜宮に招待する』。ところが、「太平記」では、『大蛇は小男の姿でまみえて』、『早々に藤太を竜宮に連れていき、そこで百足が出現すると』、『藤太が退治するという展開になっている』。「俵藤太物語」では、百足を退治した後、『竜女から無尽の絹・俵・鍋を賜ったのち、竜宮に連れていかれ、そこでさらに金札(こがねざね)』『の鎧や太刀を授か』っている。勢田唐橋(せたからはし:本文に出る「瀨多の長橋」は古異名)を東詰の南直近にある勢田橋龍宮秀郷社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)は彼を祭神としている。

「石山寺」滋賀県大津市石山寺(いしやまでら:瀬田唐橋の一キロメートルほど南)の真言宗石光山石山寺。]

 或日、瀨多の長橋を通ると、欄干に近く蹲つて居る妙な物を見た。その物は體は人間のやうだが、墨のやうに黑く、顏は鬼のやうであつた、眼は碧玉の如く綠で、鬚は龍の鬚のやうであつた。藤太郞は初めは餘程驚いた。しかし彼を見るその綠の眼は餘程やさしかつたので、彼は少しためらつたあとで、その動物に問を發して見た。そこで、それが彼に答へて云つた、『私は鮫人(さめびと)です、ついこの間まで、八大龍王に仕へて龍宮の小役人を務めてゐましたが、私の犯した小さい過ちのために、龍宮から放逐され、それから又海からも追放される事になりました。それ以來私はこの邊に、――食物を得る事も、臥すべき場所さへもなく、――漂泊して居ります。どうか哀れと思召して、住居を見出せるやうに助けて下さい、それから何か喰べる物を頂かして下さい、御願です』

 この懇願は如何にも悲しい調子と、如何にも卑下した樣子で云はれたので、藤太郞の心は動いた。『一緖に來い』彼は云つた。『庭に大きい深い池があるから、そこに好きな程いつまでもゐたらよい、食物は澤山あげる』

 鮫人は藤太郞について、その家に行つて、池が餘程氣に入つたらしかつた。

 それから、殆んで半年程、この奇妙な客は池に棲んで、藤太郞から海の動物の好きさうな食物を每日貰つてゐた。

[やぶちゃん注:以下の割注は底本では四字下げポイント落ちである。]

 

〔もとの話のこの點から見ると、鮫人は怪物ではなく、同情のある男性の人間のやうに書いてある〕

 

 ところでその年の七月に、近くの大津の町の三井寺と云ふ大きな寺に女人詣があつた、藤太郞はその佛事を見物に大津に出かけた。そこに集まつた大勢の女や娘のうちに、彼は非常に美しい人を見つけた。十七歲ばかりに見えた、顏は雪のやうに白くて淸かつた。口のやさしさは見る者をして、その聲は『梅の木に囀る鶯のやうに美し』からうと思はせた。藤太郞は見ると共に戀に陷つた。彼女が寺を離れた時、彼は適當な距離で彼女のあとをつけて行つて見ると、彼女は母と共に、近所の瀨田村の或家に數日の間逗留して居る事を發見した。村人の或者に問うて、彼は彼女の名が珠名(たまな)である事、獨身である事、それから彼女の家族は彼女が普通の人と結婚する事を喜ばない事、――そのわけは一萬の珠玉を入れた箱を結納として要求してゐたから、――を知る事ができた。

[やぶちゃん注:「三井寺」現在の滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗総本山長等山園城寺(おんじょうじ)の別名。唐橋の北西六キロメートル強。七世紀に大友氏の氏寺として草創され、九世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された寺。「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから、「御井」(みい)の寺と言われていたものが、転じて三井寺となったとされる。

「女人詣」女性はどれほど功徳・修行を積んでも男性に生まれ変わった後でなくては往生出来ないとする変生男子(へんじょうなんし)説に見るように、仏教には草創当時から男尊女卑に強い宗教であり、女人結界は勿論、大寺や名刹では永く女人の通常の参詣を禁じていたところも多かった。「女人詣(にょにんもうで)」(小泉八雲のは原文でそう訓じている。原拠は「をんなもふで」(ママ))はそうした特に礼拝が女性にも許された特異日を指す。

「瀨田村」、滋賀県栗太郡にあった旧瀬田町附近。現在の大津市南東部の瀬田附近。琵琶湖の南西端沿岸・瀬田川左岸に当たる。]

 

 この事を聞いて藤太郞は大層落膽して家に歸つた。娘の兩親が要求する妙な結納の事を考へれば考へる程、彼は彼女を妻にする事は決して望まれないやうに感じた。たとへ全國中に一萬の珠玉があるとしても、大きな大名ででもまければそれを集める事は望まれなかつた。

 しかしただ一時間も藤太郞は、その美しい人の面影を彼の心から忘れる事ができなかつた。喰べる事も眠る事もできない程、その面影が彼を惱ました、日が立つに隨つて益〻はつきりするやうであつた。そしてたうとう彼は病氣になつた、――枕から頭が上らない程の病氣になつた。それから彼は醫者を迎へた。

 丁寧に診察してから、醫師は驚きの叫びをあげた。『どんな病氣でもそれぞれ適當な處方はあるが、戀の病だけは別です。あなたの病氣はたしかに戀煩ひです。直しやうはない。昔、瑯※王伯與[やぶちゃん注:「※」=「王」+「耶」。]はこの病で死んだが、あなたもその人のやうに、死ぬ用意をせねばならない』さう云つて醫者は、藤太郞に何の藥も與へないで、去つた。

[やぶちゃん注:「瑯※王伯與」「※」(=「王」+「耶」)は不審。中国で秦代から唐代にかけて現在の山東省東南部と江蘇省東北部に跨る地域(この中央辺り)に置かれた琅邪郡は、「琅琊」「瑯邪」「瑯琊」「琅」等と書くが、「瑯※」は知らない。或いは誤植かも知れない。また、実は「與」も不審である。確かに原文は“Rōya-Ō Hakuyo”であるが、調べて見ると、これは「與」ではなく「輿」が正しい(平井呈一氏は恒文社版の「鮫人の恩返し」で正しく『伯輿』と訳されておられる。これも或いは誤植の可能性が高いか)。「世説新語」の「任誕第二十三」の掉尾に(所持する明治書院「新釈漢文大系」第七十八巻「世説新語」に拠る)、

王長史登茅山、大慟哭曰、「琅邪王伯輿終當爲情死」。

(王長史、茅山(ばうざん)に登り、大いに慟哭して曰はく、「琅邪(らうや)の王伯輿(わうはくよ)は、終(つひ)に當に情の爲めに死すべし。」と。)

がそれである。しかも困ったことに原話の馬琴は「情死」の意味を全く取り違えているのである。まず、「王長史」は、ここで叫んでいる本人、則ち、「琅邪の王伯輿」で、彼は東晋(三一七年~四二〇年)末期の、太子中庶子や司徒左長史を歴任した琅邪出身の官人にして武将であった王廞(おうきん:丞相王導の孫)であり、中文ウィキの「王廞」に経緯が語られてあるが、晋の政権内抗争の中で、王恭が義兵を起こそうとして、母の喪中にあった王廞を無理に挙兵させたのであったが、敵が亡くなったために、兵をおさめ、再び王廞を喪に服させようとした。それに激しく怒った王廞が死を賭して王恭に戦いを挑んだ。その折りの覚悟の叫びがこれで、同書の注釈書「世説解捃拾」にも『情死、鈔曰、猶ㇾ言憤死』とあって、「情死」は怒りの激「情」の中で「死」ぬぞ! という決死の開戦への台詞なのである。因みに、王廞は破れて、行方知れずとなった模様である。馬琴にして激しくイタい誤認に見えるが、博覧強記の戯作者馬琴なれば、それを知っていた上でやらかした半可通の医師の大ボケ描写で、ちょっとインク臭いいやらしいパロディとするべきだろう。

 

 この時、庭の池に棲んでゐた鮫人は主人の病氣を聞いて、藤太郞の看護をしに、家に入つて來た。そして彼は夜となく晝となくこの上もない愛情をもつて看護した。しかし彼はその病氣の原因も重大な事も知らなかつたが、一週間ばかりして、藤太郞は自分の命數ももうつきたと思つて、こんな永訣の言葉を發した、――

 『こんなに長くお前の世話をする事になつたのも、前世からの不思議の緣であらう。しかし私の病氣は今餘程惡い、そして每日惡くなるばかり、私の生命は夕を待たぬ間に消ゆる朝の露のやうだ。それでお前のために、私は心配して居る。これまでお前を養つて來たが、私が死んだあと誰も世話して養つてくれる者はなからう。……氣の毒だ。……あ〻、この世ではいつでも思ふ事がままにならぬ』

 藤太郞がかう云ふや否や、鮫人は妙な苦しみの叫びを發して烈しく泣き出した。そして泣き出すと共に、大きな血の淚が綠の眼から流れて出て、彼の黑い頰を傳うて床の上に落ちた。落ちる時は血であつたが、落ちてからは固く輝いて綺麗になつた、――貴い價の珠玉、眞赤な火のやうなすばらしい紅玉(ルビー)になつた。卽ち海の人が泣く時には、その淚は寶石になるのであつた。

 その時、藤太郞はこの不思議を見て、元氣が囘復したやうに、驚きかつ喜んだ。彼は床から跳び起きて、鮫人の淚を拾つて數へ始めた、同時に『病氣は直つた。もう死なぬ、死なぬ』と叫びながら。

[やぶちゃん注:鮫人は国の伝説では、南海に棲むとされる人魚に似た想像上の生き物(男女いる)で、常に機 (はた) を織り、しばしば泣き、その涙が落ちて玉になるとされる。]

 そこで鮫人は非常に驚いて、泣くを止めて藤太郞にこの不思議に直つた理由を說明して貰ふやうに願つた、そこで藤太郞は三井寺で見た若い女の事、その女の家族によつて要求された異常な結納の事を話した。藤太郞は加へた、『私の望みは到底逹せられないと思つた。しかし今、お前が泣いてくれたので、私は澤山の寶石を得る事ができた、それで私はあの女を娶る事ができると思ふ。ただ――未だ寶石が足りない、それで賴むからもう少し泣いて貰ひたい、必要な數だけにしたいから』

 しかしこの要求に對して鮫人は頭を振つて、驚きと非難の調子で答へた、――

 『私は賣女[やぶちゃん注:「ばいた」。原文“harlot”。「遊女・売春婦」の意。]のやうに、――何時でも好きな時に泣く事ができるとお考になるのですか。いや、違ひます。賣女は人をだますために淚を流します、しかし海の者は本當の悲しみを感じないで泣く事はできません。あなたが亡くなられると思つて、心に本當の悲しみを感じたので泣きました。しかし病が直つたと云はれたので、もう泣く事ができません』

 『それぢやどうしたらいゝだらう』藤太郞は悲しさうに問うた。『一萬の珠玉がなければ、あの女を娶る事はできない』

 鮫人は暫らく默つて考へてゐた。それから云つた、――

 『聞いて下さい。今日はどうしても、もう泣けません。しかし明日一緖に酒と肴をもつて瀨田の長橋に參りませう。暫らく一緖に橋の上に休んで、酒を飮みながら、はるかに龍宮の方を望んで、そこで樂しい月日を送つた事を考へて、故鄕を慕ふ心が出て來れば――私は泣けます』

 藤太郞は喜んで承諾した。

 翌朝二人は酒肴を澤山携へて、瀨田の橋に行つた、そしてそこに休んで宴を開いた。酒を澤山飮んでから、鮫人は龍宮の方を眺めて、過去の事を想ひ出した。そして次第に心を弱くする酒の力で、過ぎ去つた樂しい日の記憶が彼の胸に一杯になつた、そして彼は盛んに泣く事ができた。そして彼の流した大きな赤い淚は、紅玉(ルビー)の雨となつて橋の上に落ちた。そして藤太郞は落ちるに隨つてそれを拾つて箱の中に入れた、そして數へて見たら、正に一萬の數に逹した。その時彼は喜びの叫びを發した。

 殆んど同時に、はるかの湖上から、樂しい音樂が聞えた、そして沖の方に、湖上から、何か雲の形のやうな、落日の色の宮殿が浮んだ。

 直ちに鮫人は橋の欄干の上に跳び上つて、眺めて、喜んで笑つた。それから藤太郞の方に向つて、云つた、――

 『龍宮國に大赦があつたに相違ありません、王樣逹は私を呼んでゐます。それで今お別れをいたします。御高恩に報ゆる事が少しできたので嬉しく思ひます』

 かう云つて彼は橋から跳び下りた、そして再び彼を見た人はなかつた。しかし藤太郞は珠名(たまな)の兩親に紅玉の箱を贈つて彼女を娶つた。

 

[やぶちゃん注:以下、原拠である曲亭馬琴の寛政一一(一七九九)年板行の戯作集「戲聞鹽槑餘史(おとぎばなしあんばいよし)」の「鮫人(かうじん)」である(但し、馬琴は「こうじん」と読みを振っている)。それを国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像(活字本ではなく、版本)で視認して附す。読み易くするため、一部の句点を読点に代え、句読点も増やし、記号等も追加し、段落を成形した。読みは振れると判断したもののみとした。約物(やくもの)及び踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤り(非常に多い)は総てママである。■は判読不能字。

   *

  ○鮫人(こうじん)

 むかし、俵屋藤太郞といふものあり。常に美婦を娶(めと)らんことをねがひしも、いまだ、その鳳(あいて)を得ず。

 ある日、瀨田の橋をわたりけるに、かたはらなる砂のうへに、一個(ひとり)の漢子(おとこ)、眠(ねむり)居たり。

 その形狀(かたち)みるに、碧(みどり)の眼(まなこ)、蟒(うはゞみ)の鬚、滿身、墨のごとく黑くして、鬼に似たり。

 喚起(よびおこ)して、

「何者ぞ。」

と問へば、そのもの、對(こたへ)て、

「我は海中の鮫人(こうじん)なり。八大龍王につかへて、龍宮の小吏(やくにん)なりしが、いさゝか、罪あつて龍宮を所放(おひださ)れ、今、漂泊して、此ところに吟來(さまよひきた)りたり。あはれ、一扁の慈悲心をたれて救ひ給へかし。」

と、手を合(あはせ)て賴(たのみ)ければ、藤太郞も了得(さすが)不便(ふびん)にや思ひけん。遂に鮫人を伴ひ、わが家(や)へ立(たち)かへり、幸ひ、庭に些(すこし)ばかりの泉水ありければ、そのうちへ入れ、養(かひ)おきけり。

 却說(かくて)、その秋七月のことなりしが、藤太郞、三井寺の女人詣(をんなもふで)を見物に行たりしに、參詣おほきその中(なか)に、一個(ひとり)の美女、としは二八ばかり[やぶちゃん注:十六歳。]とみへ、山は西施が破瓜(はくわ)[やぶちゃん注:女性の十六歳の異称。]のごとしと、白樂天が口遊(くちずさみ)たるおもかげにて、滿身(すがた)、淸らななる雪かと疑ひ、言語(ものいふこへ)は鶯の、梅(むめ)の木傳ふ風情なれば、藤太郞、看一(ひとめ)看(みる)より、眼中、忽ち、春を生じ、迹(あと)をつけて行(ゆき)てみれば、八早瀨(やばせ)[やぶちゃん注:矢橋(やばし)。最後にそれで出る。滋賀県南西部、草津市西部の琵琶湖の南端の東岸にある地区。昔の琵琶湖の港で、江戸時代には東海道の近道となった大津-矢橋間の渡船場として栄えた。近江八景の「矢橋帰帆」で知られる。]あたりに、よしありげなる廬(いをり)をむすびて、母子(おやこ)二口(ふたりぐらし)とみへたれば、密(ひそか)に合壁(となり)の老媼(ばゞ)に便(たより)て、その思ひを通(かよは)せけるに、渠(かれ)、元(もと)より、對(むこ)を撰(えら)みて、いまだ、嫁(よめら)ず。女児(むすめ)の名を「珠名(たまな)」といへば、只(たゞ)のぞむところは、萬顆(まんりう)[やぶちゃん注:一万粒。]の明玉(めいぎよく)を納聘(ぢさん)にする人あらば、壻(むこ)にせんとの難題。鳴乎(あゝ)、藤太郞、假令(たとへ)產を破りて千金をつむとも、萬粒の明玉、いかで容易(たやすく)求得(もとめゑ)んやうあらざれば、■悶(うれひもだへ)[やぶちゃん注: ここの右頁の三行目最下部。恒文社版参考資料では『憂悶』とするが、「憂」には見えない。]て、ついに相思病(きやみ)となり、枕も、さらに、あがらねば、さつそく、医師(いしや)をまねきて、容子を問ふに、醫師、脉(みやく)を診(とつ)て、大きに駭(おどろ)き、

「雜症(ざつせう)は医(なをる)べし、相思病(さうしびやう)は活(き)がたし。むかし、瑯琊(ろうや)王伯輿(わうはくよ)、情(じやう)のために、死す。君が病ひ、唯(たゞ)、空手(てをむなしく)して■死を俟(また)んのみ。」[やぶちゃん注:判読不能字(ここの右頁の最終行中央部)はなくても意味は分かる。恒文社版はここに字はない。]

と、袖をはらつて立かへる。

 却說(かくて)、藤太郞が泉水にいたりし鮫人(かうじん)は、主人の疾(やまひ)重しときゝ、昼夜、枕にそふて、看病すれば、藤太郞もその志(こゝろざし)を感じ、

「誠(まこと)に不思議の緣によつて、汝をやしなふこと、既に半歲(はんねん)におよべり。しかるに、わが病、日々に重く、旦露(あさつゆ)夕(ゆふべ)をまたぬ、牽牛花(あさがほ)の杖とたのみしかひもなく、われ亡後(なきあと)は、誰(たれ)あつて汝を養ふものも、なし。実(げ)にまゝならぬ世なりけり。」

[やぶちゃん注:「牽牛花(あさがほ)」中国の古医書「名医別録」によれば、昔、ある農夫が朝顔の種を服用して病気が治ったことから、自分の水牛を牽き連れて朝顔の生えていた畑にお礼を言いに行ったことによる異名とする。確かに朝顔(ナス目ヒルガオ科    ヒルガオ亜科 Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil)の種子は「牽牛子」(けにごし/けんごし)と呼ぶ生薬として用いられ、「日本薬局方」にも収録されており、粉末にして、下剤や利尿剤として薬用にするが、主成分のファルビチンやコンボルブリンは毒性が強く、熱を加えても変化せず、嘔吐・下痢・腹痛・血圧低下を引き起こすので素人処方は厳に慎むべきものである。]

と、かきくどきて申すにそ、鮫人、この言(ことば)を聞よりも、失聲(わつとばかり)、泣出(なきいだ)し、鬼燈(ほうづき)ほどの血の淚、蘓々(はらはら)と落せしが、たちまち、光輝(きかりかゞやき)て、粒々(りうりう)、みな、珠(たま)となる。

 藤太郞、これをみるよりも、襖(よぎ)はねのけて、「岸破(がば)」[やぶちゃん注:オノマトペイア。]と起(おき)、

「わが病、既に愈(いへ)たり。」

 鮫人、よろこんで、その譯をきくに、藤太郞、ありし事ども、說話(ものがたり)、

「万粒(りう)のたまなければ、想ふ女、家にそふことならず。夫(それ)ゆへにこそ、右(かく)は愁(うれひ)にしづみしに、今、憶(おもは)ずも、汝が淚、珠となりしゆへ、吾願(わがねがひ)、既に成就せり。然共[やぶちゃん注:「しかれども」。]、恨むらくは、珠の数(かず)、いまだそろはず。爲(ため)に、今、一たび、哭(ない)て、積日(ひごろ)の※悶[やぶちゃん注:ここの左頁二行目下部。「※」は恐らく「グリフウィキ」のこれで「鬱」の異体字である。]をはらさせくれよ。」

と、たのめば、鮫人、不肯((かむりをふり)、

「君、古人の書を、みたまはずや。『海中に鮫人あり、哭則(なくときは)、淚、珠(たま)となる』。かゝる一奇事(ふしぎ)ありといへども、その、實情より出たる悲しみにあらされば、一滴の淚も、こぼしがたし。かの娼妓(けいせい)の漂蝶(きやく)を騙(だま)す作獒(てくだ)を以て泣(なく)がごときは、小的們(わがともがら)、かりそめにも、なすことあたわず。しかれども、大恩ある花主(ごしゆじん)の、月老(なかだち)となるなみだなれば、われに一ツの通風(くふう)あり。明日、酒殽(さけさかな)を携へ、瀨田の橋にゆき、はるかに海上(かいしやう)を眺望(のぞみ)なば、古鄕(こきやう)をしたふ實情のかなしみ出て、淚の落(おつ)る事、あるべし。」

と、いひければ、藤太郞、大きに歡び、早旦(さつそく)、酒肉(さけさかな)を携へ、瀨田の橋の眞中(まんなか)にて、鮫人とさし向ひ、海上を眺望す。鮫人、盃(さかづき)をあげて、杳(はるか)の澳(をき)を打ながめ、

「煙波(えんぱ)、汨沒(べきぼつ)[やぶちゃん注:水中に沈むこと。]して、わが家、いつくにかある[やぶちゃん注:「何處(いづく)にか在る」。]。鳴呼(あら)、なつかしの龍都(ふるさと)や。」

と、歸思(きし)、しきりに箭(や)のごとく、泫然(げんぜん)として[やぶちゃん注:涙がはらはらと零(こぼ)れるさま。さめざめと泣くさま。]一たび實働(なげけ)ば、紅淚(なんだ)おちて、蘓々々(はらはらはら)、忽(たちまち)化(け)して、珠となる。

 藤太郞、よろこび、珠をとつて玉盤(きよくはん)に盛り、數(かず)をみるに、既に万顆(まんりう)に充(みち)たり。

 かゝる所に、海上(かいせう)、赤城(せきじやう)霞(かすみ)起(おこつ)て[やぶちゃん注:赤くなった山(龍宮世界のそれ)に霞がかかって。]、蜃氣樓、珊瑚嶌(さんごとう)[やぶちゃん注:龍宮世界の珊瑚で出来た空想の島であろう。]をめぐり、音樂、しきりに聞へければ。鮫人、欄干に躍騰(おどりあがり)、

「有がたや。『龍宮に吉事あつて、龍王の赦免ありて、われを召す』と。君が半年の高恩、今、報じたり。歸去來(さらば)、歸去來。」

と、いひ捨(すて)て、海中に飛入(とびいり)ツヽ、行衞もしらずなりければ、藤太郞、いそぎ、彼(かの)万顆(まんりう)の珠(たま)を携へ、矢橋(やばし)[やぶちゃん注:「へ」が「と」のルビのようにあるように見える。「へ」を入れて読む。]と急ぎけるが、さるにても、万粒の珠を聘(ぢさん)にのそむ[やぶちゃん注:「のぞむ」。望む。]といふも不解(がてんゆかず)。かの女児母子(むすめおやこ)が世業(せうばい)は何であらふと、珠を入(いれ)た盆を引(ひつ)かゝへ、廓(みせ)のほうを私(そつと)のぞけば、商賣は、かんろふ糖。

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最後のサゲの「かんろふ糖」は不詳。「甘露糖」という砂糖か菓子か飴の製造業か販売業か。何か洒落が掛かけてあるのであろうが、判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]

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