小泉八雲 橋の上 (田部隆次譯)
[やぶちゃん注:本篇(原題“ On a Bridge ”(「橋の上にて」))は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“ Strange Stories ”(「奇談」・全六話)・第二パート“ Folklore Gleanings ”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“ Studies Here and There ”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第一話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月11日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。 底本では、中パート標題は以下の通り、「隨筆ここかしこ」と訳してある。
田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。
なお、底本の田部氏の「あとがき」に、『「橋の上」は熊本見聞談の一つ、車夫平七はヘルン家でいつも雇うた實在の人物、話も事實談』とある。]
隨筆ここかしこ
橋の上
私の老車夫、平七が熊本近傍の或名高い寺へ私をのせて行くところであつた。
白川にかかつて居る駱駝の背のやうに曲つた、ものさびた橋へ來た、そこで私は暫らくそこの風景を樂しむために橋の上で止まる事を平七に命じた。夏の空の下で、電光のやうに白い溢れるやうな日光に浸された土の色は、殆んどまぼろしのやうに綺麗に見えた。橋の下には淺い川が、色々の綠の蔭になつた灰色の石の河底を、からからざわざわ、音をたてて流れた。前方には赤白い道が、肥後の大平野をとり卷いて居る高い靑い山脈の方へ、森を通つたり、村を通つたりして、うねつて居るのが交々[やぶちゃん注:「こもごも」。]見えたり消えたりしてゐた。うしろには澤山の屋根が遙かに靑く入り交つて居る熊本があつた、――ただ遙かの森の山の綠に對して城の綺麗な白い輪廓がはつきり現れてゐた。……中で見て居ると、熊本はきたないところだが、その夏の日に私が見たやうに見ると、霞と夢でできたまぼろしの都である。……
[やぶちゃん注:小泉八雲(当時は未だLafcadio Hearn。彼の帰化手続きの完了と小泉八雲への改名は明治二九(一八九六)年二月十日)は明治二四(一八九一)年四十一歳の時、島根尋常中学校英語教師の職を辞し、妻セツとその家族を伴い、熊本の第五高等学校へ赴任するため、十一月十九日に熊本に着き、同月二十五日に熊本市手取本町の借家に入った。現在の熊本市中央区安政町(ごく北直近で手取本町と接する)に彼の住んだ「小泉八雲熊本旧居」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)がある。白川はその南東のすぐ近くを貫流する川である。本篇のロケーションとそれらの位置関係を考慮するなら、「熊本近傍の或名高い寺」で、当時もそうであった寺とすれば、木原不動(尊)の通称で親しまれている、熊本市南区富合町木原にある天台宗長寿寺が一つの候補とはなろう(ここだとする根拠はない)。そうした場合、このロケーションの「橋」は白川のどこの橋かと推理するに、県道二十ニ号が白川に架橋するこの橋から、下流の熊本駅東直近の白川橋、或いは、その上流で旧居により近い、七つほどの橋の孰れかと、まずは考えられようか(ここと後のシーンから、熊本城とその市街・周囲の山地が眺望出来る橋でなくてはならぬが、私は行ったことがないので判らぬ)。但し、ノンフィクション風の随筆であっても、小泉八雲は実景を見た通りには描かないこともあり、作品によっては、ロケーションをとんでもない別な場所(例えば、嘗つていた松江)に移して語っている場合もあるから、私の推理自体は馬鹿正直に過ぎるかも知れぬ。ただ、「白川にかかつて居る駱駝の背のやうに曲つた、ものさびた橋」は、実景と考えてよい。ここで熊本城や山地が見えるとすると、白川橋が、地図上からはしっくりはくるのである。しかし、旧のそれらの橋の画像を見られぬので、やはり、特定は出来ない。識者の御教授を乞うのもである。]
額をふきながら平七は云つた。『二十二年前、いや二十三年前、私はここに立つて町の燃えるのを見ました』
『夜ですか』私は尋ねた。
『い〻え』老人は云つた『午後でした、雨の日でした。戰爭中で、町は燃えて居りました』
『誰が戰爭してゐたのです』
『城の兵隊が薩摩の人達と戰爭をしてゐました。私共は玉をよけるために、地面に穴を掘つて、その中にゐました。薩摩の人達は山の上に大砲を据ゑました、それから城內の兵隊がそれを打つたので、玉は私共の頭の上を通つて行きました、町は皆燒けました』
『ところで君はどうしてここへ來合せたのか』
『私は逃げて來たのです。私は獨りでこの橋まで走つて來ました。ここから三里程ある私の兄の農場へ行けると思つたのです。ところがここで止められました』
『誰が止めたのです』
『薩摩の人達です、――誰だか分りません。橋へ參りますと三人の農夫がゐました、――私は農夫だと思つたのです、――それが欄干によりかかつてゐました、大きな笠と蓑をつけて草鞋をはいてゐました。私は丁寧に言葉をかけました、すると一人は頭をぐるりと𢌞して、私に「ここに止まつてゐろ」と申しました。それだけでした、外の人は何も申しません。それから私はその人達は農夫でない事が分つて恐ろしくなりました』
『どうして農夫でない事が分つたのです』
『蓑の下に長い刀を――大層長い刀をかくしてゐました。大層背の高い人達でした。橋によりかかつて川を見下してゐました。私もそばに立つてゐました、丁度そこの左の方の三番目の柱のわきで、その人達と同じ事をしてゐました。誰も物を云ひません。そして長い間欄干によりかかつて立つてゐました』
『どれ程』
『はつきり分りませんが――長かつたに相違ありません。私は町が燃えて居るのを見ました。その間私に物を云ふ者も、亦私を見る者もありませんでした。皆水を見つめてゐました、すると速足で騎兵の將校が來ました、ずつとあたりを見ながら。……』
『町から?』
『はい、そのうしろの道をずつと。……その三人の人達は笠の下から見てゐましたが頭は動かしませんでした、川を見下して居るふりをしてゐました。ところが馬が橋にかかるその時、三人がふり向いて躍りかかりました、そして一人は馬の轡をつかむ、一人はその將校の腕を押へる、一人はその首を斬り落す、ほんのちよつとの間に。……』
『その將校の首を?』
『はい、聲を出す間もないうちに首は落ちました。……そんな早業を見た事はありません。三人とも一言も發しませんでした』
『それから』
『それからその死骸を欄干の上から川へほうりました。そして一人が馬をなぐりました、ひどく、そこで馬は馳け出しました。……』
『町の方へ?』
『い〻え、馬は橋向うの村の方へずつと追ひやられました。首は川へ投げ棄てないで、一人の薩摩の人はこれを蓑の下へ入れてもつてゐました。……それから皆、前の通り欄干によりかかつて見下してゐました。私の膝はふるへました。三人の武士は一言も物を云ひませんでした。私にはその息も聞えませんでした。私は顏を見るのを恐ろしく思ひました、私は川を見續けてゐました。……少したつて又馬が聞えました、そして私の胸が騷いで氣もちが惡くなりました、――それから見上げると、大層速く又一人の騎兵が往來をずつとやつて來ました。それが橋にかかるまで誰も動きません、すると忽ちのうちに首が落ちました、死骸は川にほうり込まれ、馬は追ひやられました事は、全く前の通りでした。そんな風にして三人殺されました。それから武士は橋を立ち去りました』
『君も一緖に行きましたか』
『い〻え、その人達は三人目を殺すとすぐに出かけました、――首を携へて、――私には目もくれませんでした。私はその人達がずつと遠くなるまで、動く事もできないで、橋の上に立ちすくんでゐました。それから私は燃えて居る町へ走つて歸りました、私は一所懸命に走りました。そこで薩摩の軍勢が退却中と云ふ事を聞きました。すぐあとで東京から軍隊が參りました。それで私も何か仕事が手につきました、私は兵隊のために草鞋を運びました』
『橋の上で殺されたのを君が見たと云ふ、その人達は誰でしたか』
『存じません』
『君は尋ねて見ようとした事はないのかね』
『ありません』再び額をふきながら、平七は云つた『戰爭がすんで餘程になるまで、その事をちつとも云ひませんでした』
『そりやどうして?』私は追究した。
平七は驚いた顏をして、分らない氣の毒な人だと云ふ風ににつこりして答へた。
『と申しますのは、さうするのが、まちがつてゐたでせう、――恩知らずのやうな事になりましたでせうからね』
私は當然叱られたやうな氣がした。
そして私共は旅行を續けた。
[やぶちゃん注:西南戦争に於ける熊本城攻防戦は明治一〇(一八七七)年、薩摩軍の急襲直前の二月十九日に、熊本鎮台が守る熊本城内で謎の火災が起こり(現在に至るまで原因不明)、烈風の中、櫓に延焼、天守までも焼失した後、翌々日の二十一日の夜半から二十二日の早暁にかけて、薩軍の大隊が順次、熊本に向けて発し、熊本城を包囲している。二十二日の夜明け前、鎮台側が砲撃を以って開始されて、各地で無数の遊撃戦・白兵戦が繰り広げられた。三月一日から三月三十一日までは、かの田原坂・吉次峠の激戦が続いたが、四月十七日、官軍が熊本城を開放、薩摩軍は熊本から敗走した(以上はウィキの「西南戦争」を参考にした)。平七の体験は事実に即するならば、このまさに四月半ばのことと考えられる。平七は開口一番、「二十二年前、いや二十三年前」と言っているが、これ自体が既に小泉八雲による時制補正がなされている。本作品集刊行は明治三四(一九〇一)年十月であり、その二十三年前は数えで本書刊行年から戻って、明治十年に合うようになっているからである。小泉八雲は熊本五高を既に明治二七(一八九四)年十月に辞め、神戸のクロニクル社に転職している。その後、僅か三ヶ月後の翌年一月には過労から眼を患い、同社を退社した。同年十二月に東京帝国大学文科大学の外山正一学長から英文学講師としての招聘を伝えられ、翌明治二十九年九月七日に当該職に就くために東京に着いており、本書刊行時も現職であった。]
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