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2019/10/22

小泉八雲 海のほとりにて (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Beside the Sea ”)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の第一パート“ Strange Stories ”(「奇談」・全六話)・第二パート“ Folklore Gleanings ”(「民俗伝承拾遺集」・全三篇)に次ぎ、最後の三番目に配された“ Studies Here and There ”(「ここかしこに関わる研究」。底本では「隨筆ここかしこ」)の第三話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(同前の“Internet Archive”には本作品集のフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した【2025年4月11日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 また、本篇には本文に語られる、基本、小泉八雲が原画を描き、後に友人に補正して貰ったと記す“THE FEAST OF THE GHOSTS”(「霊たちの餐(さん)・霊たちへの馳走」)とキャプションする絵が原本には挿入されてある(旧底本・新底本ともに所収しない)。先の“Internet Archive”のPDFから画像を取り込み、やや見難いので、補正を加えたものを、「一」の適切と思われる位置に挿入しておいた。

 

   海のほとりにて

 

        

 燒津の溺死者全體の爲めに、午後の二時に、濱邊でセガキ法要を營むと僧侶が豫告して居たのであつた。燒津は――(日本最古の歷史に『ヤキヅ』といふ名で記載されて居る)舊い處である――それで燒津の漁夫共は、幾千年の間、その大海へ人身御供を几帳面に捧げ來たつて居るのである。で僧侶の此の豫告が、佛敎よりも遙かに古い或る物を――溺死者の靈魂は波と共に永久に動いて居るといふ想像を――自分に懷ひ[やぶちゃん注:「おもひ」。]出させた。この信仰に據ると、燒津沖の海は精靈で一杯になつて居るに相違無い。……

[やぶちゃん注:本ロケーションに就いては、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」の私の冒頭注、及び、そのリンク先を参照して戴ければ、納得されるものと存ずる。また、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三三(一九〇〇)年八月十日の体験に基づくものであるらしい

「日本最古の歷史に『ヤキヅ』といふ名で記載されて居る」「古事記」の景行天皇の「倭建命の東征」の下りの、草薙の剣の霊験譚として知られる箇所に出る。

   *

故爾到相武國之時。其國造詐白。於此野中。有大沼。住是沼中之神。甚道速振神也。於是看行其神。入坐其野。爾其國造。火著其野。故知見欺而。解開其姨倭比賣命之所給嚢口而見者。火打有其囊。於是先以其御刀苅撥草。以其火打而。打出火。著向火而。燒退。還出。皆切滅。其國造等。卽著火燒。故其地者。於今謂燒津也。

   *

 故(かれ)、爾(ここ)に相武國(さがむのくに)に到りましし時、その國造(くにのみやつこ)、詐(いつは)りて白(まう)さく、

「この野の中に、大きなる沼、有り。この沼の中に住める神、甚(いと)道速振(ちはやぶ)る神なり。」

と。

 是(ここ)に其の神を看行(みそな)はしに、其の野に入り坐(ま)しき。

 爾(ここ)に其の國造、火を其の野に著けぬ。

 故(かれ)、欺(あざむ)かえぬと知らして、その姨(みをば)倭比賣命(やまとひめのみこと)の給ひし囊(ふくろ)の口を解き開けて見たまへば、火打(ひうち)、その裏(うち)に有り。

 是に、先づ、その御刀(みはかし)もちて、草を苅り撥(はら)ひ、その火打もちて、火を打ち出で、向火(むかへび)を著(つ)けて、燒き退(そ)けて、還り出でまして、皆、其の國造(くにのみやつこ)等を切り滅ぼし、卽ち、火、著けて、燒きたまひき。

 故(かれ)、今に「燒津(やきづ)」と謂ふ。

   *

但し、ここには「相武」(後の相模国)とするので、現在の焼津と同定するにはやや疑問がある。但し、「日本書紀」では「駿河」とあり、それならば、問題はない。]

 自分は準備を見に午後早く海岸へ行つた。見ると大勢の人がはや既に集つて居た。それは燒けるやうな七月の日で――一點の雲も見えず、岸の傾斜面の荒い砂利は赫々たる日の光の下に、爐から搔き出したばかりの鑛滓(かなくそ)のやうな熱を放射して居つた。だが唐金[やぶちゃん注:「からかね」。]のあらゆる色合に焦げて居るその漁夫共は、日光を何とも思つて居なかつた。燒け焦げるやうな石の上に坐つて待つて居るのであつた。海は退潮[やぶちゃん注:「ひきしほ」。]で、――緩い、長い、のろい漣[やぶちゃん注:「さざなみ」。]に動いて――穩かであつた。

 

 海邊には、高さ四呎[やぶちゃん注:「フィート」。約一メートル二十一センチメートル。]許りの、粗末な祭壇樣のものが建つて居て、その上に、白木の馬鹿に大きなヰハイ卽ち葬禮用の牌札が、――その背面を海に向けて――置いてあつた。その位牌には、大きな支那文字で、三界の萬の(無數の)靈に位する處(座處)といふ意味のサンガイバンレイヰといふ字が書いてあつた。種々な食物のお供へ物がその位牌の前に置いてあつた、――その中には、椀に盛つた飯、餅、茄子、梨があり、新しい蓮の葉の上へ盛り上げて、所謂ヒヤクミノオンジキが一と山あつた。これは名は百種の異つた滋味といふ意味ではあるが、實際は飯と薄く刻んだ茄子と交ぜ合はせたものである。飯の椀には小さな箸が突き刺してあつて、それへ色紙の切つたのが附けてあつた。それからまた蠟燭、香爐、幾把かの線香、水の入つた器、シキミといふ聖木の小枝が揷してある一對の竹筒、のあるのも見えた。そして水の入つて居る器の橫に、この法要の規程に從つてお供物へ水を撒き散らす爲めの、ミソハギ一束置いてあるのであつた。

[やぶちゃん注:「サンガイバンレイヰ」「三界萬靈位」。

「ヒヤクミノオンジキ」「百味の飮食」。

「シキミ」樒。常緑木本のマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum 。仏前に供えることで知られる。ウィキの「シキミ」によれば、その由来は、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』というが、『なにより』、『年中』、『継続して美しく、手に入れやすい』ことから、『日本では』民俗社会で『古来より』、『この枝葉を仏前墓前に供えている』とある。なお、本種はその全植物体が危険な有毒植物でもあることはあまり知られていない。リンク先を見られたい。

「ミソハギ」禊萩。フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps ウィキの「ミソハギ」によれば、『お盆の』頃、『紅紫色』の六『弁の小さい花を先端部の葉腋に多数つける』。『盆花としてよく使われ、ボンバナ、ショウリョウバナ(精霊花)などの名もある。ミソハギの和名の由来はハギに似て』いて、『禊(みそぎ)に使ったことから禊萩、または溝に生えることから溝萩によるといわれる』とある。]

 祭壇を支へて居る四本柱の一本一本へ、伐りたての竹が一本づつ結びつけてあり、此の祭壇の右と左とに、他の何本かの竹が濱へ、立ててあり、その竹のどれにも支那文字が書き記してある旗が結び附けてあつた。祭壇の四隅の竹の旗には、四天王――西方の守護神增長天王、東方の守護神持國天王、北方の守護神多聞天王、南方の守護神廣目天王――の名とその屬性とが書いてあつた。

 祭壇の正面には、長さ二十呎幅十五呎[やぶちゃん注:六・九メートル×四・五七メートル。]許りの濱の地面を蔽ふやうに莚が敷いてあつて、此の莚敷の地面の上には、僧侶に日が當たらぬやうに、紺木綿の日覆が絹で吊り上げてあつた。自分は此の祭壇とお供物の略圖(これは後で日本の或る友人に訂して貰ひ緻密にして貰つた)を書く爲めに、その日覆の下にしばらくしやがんで居た。

 

The-feast-of-the-ghosts

 

 法要は定刻には始まらなかつた。僧侶がその姿を現はしたのは三時近くであつたに相違無い。全體で七人、いづれも大儀式の法衣で、そして鐘、經卷、床几、經臺、その他の必要什器を手にして居る小僧が附き隨つて居つた。僧侶と小僧とは紺の日覆の下に座を取り、見物人は、日を浴びて、外に立つて居た。僧侶のうち、たつた一人――主僧――が祭壇に面して坐つて、小僧をつれた他の者共は、――互に向かひ合つて、二列になるやう――主僧の左右に坐つた。

 

 

       

 祭壇の上のお供物を置きなほしたり、線香に火をつけたりする序開きが濟んでから、本當の儀式は佛敎の讃歌卽ち伽陀で始つた。これはヒヤクシギと鐘の音に連れて合唱するの

[やぶちゃん注:「伽陀」サンスクリット語のラテン文字転写で「gāthā」の漢音写。「偈(げ)」「諷頌(ふじゅ)」と訳す。本来は「詩句からなる経文で十二分経の一つ」を指す他、広く「法会などで唱えられる、仏徳を賛嘆し、教理を述べる韻文で、旋律をつけたもの」を言う(小学館「大辞泉」に拠る)。

 以下の文中挿入注は底本では、四字下げポイント落ちである。上に引き上げ、ポイントは少し下げ、途中で改行した。]

ヒヤウシギといふは堅い水の小さな切れで、それを
早く打ち合せて鋭い涸れた音を續けさまに出して、
合圖にも音樂的な目的にも使ふもの。

である。鐘は二つで、一つは深い音を出す大きな鐘、今一つは頗る美しい音を出す小さな鐘で、これは小さな男の子が受け持つて居つた。大きな鐘はゆつくり敲き、小さな鐘は早く響かす。そして拍子木は殆どカスタネトの如くにカチカチと早く打つのであつた。そして此の異常な器樂につれて、同音で役僧總てが唱へる伽陀の感銘は、奇異でもあつたが、それに劣らず印象的でもあつた。――

 

    ビクビクニ

    ホッシンホウヂ

    イッキジヤウジキ

    フセジッバウ

    キウジンコクウ

    シウヘンホフカイ

    ミヂンセッチウ

    イッサイコクド

    イッサイガキ

    センバウキウメツ

    サンセンチシユ

    ナイシクソウヤ

    シヨキシントウ

    シヤウライシフシ

    ……………………

[やぶちゃん注:中文サイトの「CBETA 漢文大藏經」の「施諸餓鬼飲食及水法」の「第一卷」に拠れば、漢字表記は以下(一部の漢字を通常の正字表記に改めた)。本訳ではカットされてうるが、小泉八雲は、後の訳で、この伽陀全文を訳しているので、小泉八雲が示した後の部分に相当する部分も添えたが、そこでは、一字空けで改行せずに繋げた。

 比丘比丘尼

 發心奉持

 一器淨食

 普施十方

 窮盡虛空

 周遍法界

 微塵刹中

 所有國土

 一切餓鬼

 先亡久遠

[やぶちゃん注:小泉八雲の表記に従えば「久滅」か。]

 山川地主

 乃至曠野

 諸鬼神等

 請來集此

 我今悲愍 普施汝食 願汝各各 受我此食 轉將供養 盡虛空界 以佛及聖 一切有情 汝與有情 普皆飽滿 亦願汝身 乘此呪食 離苦解脫 生天受樂 十方淨土 隨意遊往 發菩提心 行菩提道 當來作佛 永莫退轉 前得道者 誓相度脫 又願汝等 晝夜恒常 擁護於我 滿我所願 願施此食 所生功德 普將𢌞施 法界有情 與諸有情 平等共有 共諸有情 同將此福 盡將𢌞向 眞如法界 無上菩提 一切智智 願速成佛 勿招餘果 願乘此法 疾得成佛

   *]

 

 此の朗々たる短い音律は、神佛招致祈願の若しくは呪文の合唱には、殊に能く適應して居るやうに自分に思はれた。實際が施餓鬼供養の此の伽陀は、次記の自由譯で明白に知れるやうに、正銘[やぶちゃん注:「しやうめい」。正真正銘。]な呪文であつた。――

[やぶちゃん注:以下、底本では、訳は全体が三字下げのポイント落ちである。「!」の後に字空けがないが、特異的に補った。]

 

『我等比丘比丘尼共、淸淨な食物を盛つた此の器を忝しく[やぶちゃん注:「忝」はママ。「うやうやしく」と読んでいようから、「恭」とあるべきところである。]捧げて十萬世界に住み給ふ、又その周圍の法界に住み給ふ、且つ又大地の――寺院のうちの微塵をも除くこと無く――あらゆる處に住み給ふ、誰れをも除かで、一切の餓鬼達に之をお供へ申す。また死に去つて久しきを經たる者共の靈にも、――且つは又山の、河の、土地の、また曠野の大靈にも、お供へ申す。かるが故に、願はくは、諸餓鬼よ。近づき來たつて此處に集ひ給はんことを! 我等は、我等の憐憫同情の餘り、卿等[やぶちゃん注:「けいら」。餓鬼を含む自然界の迷う霊や鬼神ら(後でそれよりもより拡大して諸仏諸神や有情(うじょう)の対象を含んで呼び掛けている)に敬意を表して呼んだもの。]に食物を供へんことを願ふ。卿等の各〻が此の我等の食物の捧げ物を味はひ給はんことを欲するなり。且つ又我等は、虛空界に住み給ふ一切の諸佛及び一切の諸聖に歸敬し奉りて、卿等並びに一切の有情の者共が滿足を得んやう祈願すべし。卿等の總てが、陀羅尼吟唱の功德によりて、且つは此の捧げまつる食物を味はひ給ふ功德によりて、より高き智慧を獲[やぶちゃん注:「え」。]、あらゆる苦を免れ、直に天界に生を得給ひ――其處に於てあらゆる至福を知り、隨意に十萬界に遊住し、到る處に歡喜を見出し給はんやう、我等は祈願すべし。菩提心を發し給へ! 開悟の道を踏み給へ! 佛果を得給へ! 再び退轉し給ふこと勿れ! 中途に躊躇し給ふこと勿れ! 卿等のうち先づ斯の道に入り給ふ者をして各〻殘れる者を導き、かくて解脫するやう誓はしめ給へ! 尙ほまた我等卿等に懇願す、卿等日夜に我等を擁護し給はんことを。また今とても我等を助けて、此の食物を卿等に與へんとの我等の願望を達せしめ給へ、――此行爲のもたらす功德が、法界に住み給ふ一切の者に及ばんやう、且つ又、此の功德の力が、その一切法界眞理を擴むる[やぶちゃん注:「ひろむる」。]に效あらんやう、また其處なる一切の者に無上菩提を得しめ、一切智を得しむるに效あらんやう。――斯くて我等は、今後卿等のあらゆる行爲が卿等に佛果を得しむる功德を卿等に與へんやう、今や祈願すなり。斯くて我等は卿等が疾かに[やぶちゃん注:「すみやかに」。]成佛し給はんことを願望すなり』

 

 それから此法要のうちで一番奇妙な部分が始つた、――それは、或る陀羅尼、卽ち呪文的な梵語で出來て居る威力のある詩句、の吟誦と共に、お供物に水を振り撒いて之を捧げる儀式である。式の此部分は短かつた。が、その委細を詳述するには多大な紙面を要する、――主僧の唱へる言葉や身振りが一々法式に據つて爲されるからである。例を舉ぐれば、その僧の手と指とは、どんな陀羅尼を唱へる時でも、その間その特殊な陀羅尼に對して規定されて居る成る位置に保たれて居なければならぬのである。だがこの複雜な儀式の主要な事實は大略次記の如くである。

 

 先づ第一に、精靈を『十方世界』から呼び出す『召請の陀羅尼』を七遍唱へる。これを誦する間は、主僧はその右手を差出して、拇指の尖と中指の尖とをくつつけて、餘の指三本は伸ばして居なければならぬ。それから、前とは異つて居るが、同じく不思議な身振りをして、『開地獄門』の陀羅尼を唱へる。次にセカンロ文卽ち『甘露施與』の陀羅尼を繰り返す。此の經文の力によつて、お供への食物が、精靈共の爲めに、上天的甘露飮食に變ずるものと想像されて居るのである。そして、その後で、『五種如來』に招致祈願を三度唱へる。

 

    曩謨寶勝如來――除慳貪業福德圓滿!

    曩謨妙色身如來――破醜陋形相好圓滿!

    曩謨甘露王如來――灌法身心令受快樂!

    曩謨廣博身如來――咽喉寬大受妙味!

    曩謨離怖畏如來――恐怖悉除離餓鬼趣!

 

[やぶちゃん注:『甘露施與』は一般には「施甘露」と呼ぶ。

「『五種如來』に招致祈願を三度唱へる」は、一部推定(一部は信頼出来る仏教サイトを参考にした)で現代仮名遣で読みを振っておく(ダッシュは字空けにし、「!」は除去した)

 

曩謨(のうまく)寶勝如來(ほうしょうにょらい) 除慳貪業福智圓滿(じょけんとんごうふくちえんまん)

曩謨妙色身如來(みょうしきしんにょらい) 破醜陋形相好圓滿(はしゅるぎょうそうごうえんまん)

曩謨甘露王如來(かんろおうにょらい) 灌法身心令受快樂(かんぽうしんじんりょうじゅけらく)

曩謨廣博身如來(こうばくしんにょらい) 咽喉寬大飮食受用(いんこうかんだいおんじきじゅゆう)

曩謨離怖畏如來(りふいにょらい) 恐怖悉除離餓鬼趣(くふしつじょりがきしゅ)

 

なお、頭にある「のうまく」は、サンスクリット語で「お辞儀する、敬礼する、崇拝する」の意の漢訳。]

 

 『梵行餓鬼問辯』といふ書に、

 『衆僧斯く五種如來の御名を唱へ了はれば、佛の威力によりて、一切の餓鬼は前生の罪業を脫し、無量の福德を享け、妙色廣博を得、一切の怖畏を免れ、美妙の甘露と變じたる供物を味ひ得、直に淨土に生る〻ことを得べし』とある。

[やぶちゃん注:「梵行餓鬼問辯」不詳だが、思うに、これは真言僧で高野山真言宗第五世で、戒律や浄土教にも通じた空華子雲蓮社妙龍諦忍(宝永二(一七〇五)年~天明六(一七八六)年)の著である「盆供施餓鬼問辯」(明和六(一七六九)年成立)のことではあるまいか?]

 

 五種如來の招致訴願をしてから又別な法句を唱へる。そしてその吟誦中にお供物を一つづつ退(さ)げる。(祭壇から取り下ろしてからは、之を柳の木、桃の木、若しくは柘榴の木の下へ置いてはならぬといふ神祕的な規則がある)最後に『退散指令』の陀羅尼を七たび唱へる。その時主僧は、勝手に歸つて宜いといふ精靈への合圖に、一度一度爪彈きをする。之をハツケン卽ち『撥遣』と呼んで居る。

[やぶちゃん注:「若しくは」の箇所は、底本では、「若しく 」と空欄になっているが、脱字と断じ、「は」を補った。次の注を参照のこと。

なお、底本の大谷氏の「あとがき」に、ここで小泉八雲は『『之を柳の木、桃の水、若しくは拓榴の木の下へ置いてはならぬといふ神祕的な規則がある』と書いて居るが、『施餓鬼通覽』には『地を拂ひ棚を造る。長さ三尺に過ぐべからず。但桃樹柘榴の外用ふることなかれ。鬼神おそれてこれを食ふことを得ず』とある。原著者の思ひ誤り乎』とある。]

 

 

       

 勾配の急な此處の海岸では海は遠くは退かぬ。尤も恐ろしく高上りして、町內へ溢れ込むことが屢〻あつて、そのより穩かな氣分には信用が置けぬ。で、用心の爲め、位牌臺の脚は深く濱へ突きさしてあつたのである。事實は此の警戒の無駄でなかつたことを證明した。といふのは、僧侶達の遲刻の爲めに、潮が變はる頃にやつとのこと儀式が始つたからである。伽陀を合唱して居る頃にさへ、海は早暗澹として荒れ模樣を見せて來て、やがて――外の大海が應答をするかのやう――岸打つ大浪の雷音が、誦文者の聲と鏗鏘[やぶちゃん注:「かうさう(こうそう)」と読み、鐘や石或いは琴などの楽器が鳴り響くさま。]たる鐘の音とを突然推しつぶした。直ぐと別な大浪が海岸に沿うてドドンと碎けた――と、また別なのがぶつかつた。それで陀羅尼を唱へて居る間は、法要は波の碎ける間々にだけきこえるので、碎けた波の白泡は傾斜面を一面に蔽うて、祭壇數步のうちへ迄もサツと迫つて來るのであつた。……

 

 自分は又しても死者と海との漠たる關係の舊い信仰を考へて居るのであつた。その瞬間には、その原始的な想像の方が、餓鬼界の存在を說く佛說――怖ろしい困苦の三十六階段があるといふ、飢渴に苦み[やぶちゃん注:「くるしみ」。]火炎に惱む餓鬼の群集があるといふ――その凄い傳說よりも、遙かに道理に適つた且つ又人情に適したものに思はれた。……否、不憫な死者共!――何が故に彼等は人間の判斷によつて斯く醜陋なものとされ、そんな境涯に置かれるのであるか。死者は水や風や雲に混じつて居るのであると夢み――或は花の心に生命を與へて居るのであると思ひ――或は果物の頰の色を染めて居るのであると考ヘ――或は寂しい森の中で蟬と共に鳴き叫んで居るのであると懷ひ――或は夏の黃昏に蚊の群と共に幽かに唸つて居るのであると想ふ方が、この方が一層賢い又親切な考へ方である。……自分は飢渴に苦む靈魂が在ることを信じない――いや、信ずることを欲せぬ。……靈魂は、死が手を觸れる刹那に、碎けて靈魂の微塵となつてしまふものと自分は思つて居る。尤もその微分子は、疑も無く、其後他の微塵と結合して他の靈魂と成りはするであらう。……でも自分は、此世から消え去つた物のより粗雜な物質すらも、それがどんなに分解し或は飛散しても、或は强風に疾走し、或は雲霧に漂蕩[やぶちゃん注:「へうたう(ひょうとう)」。彷徨うこと。流離(さすら)うこと。]し、或は木の葉に震慄し、或は海の光に明滅し、或はヂヤラヂヤラ響く砂利に漂白し悶えもがいて雷なす大浪に何處かの荒凉たる海岸で飜弄されて居るのであつて――全然死滅してしまふものとは思ひ込むことは自分にはどうしても出來ないのである。……

 

 儀式が濟むと、或る一人の漁夫が輕々と日覆の柱のうちの一本の頂上へ登つた。そして其處で輕業師のやうに旨く身體の釣合を取つて、群集に向つて澤山の頗る小さな餅を雨と投げ出した。それを子供等は笑ひ聲高く立てながら奪ひ合つた。あの儀式のあんな氣味のわるいに嚴肅の後でのことだから、この突然の歡喜の大聲は殆どびつくりする程であつた。だが自分は之をも極めて自然な、愉快な、また人情に適つたことだと思つた。そんなことを考へて居る間に、かの七人の僧は紅紫の色うつくしい行列をして去り、――小僧共は、その後から、臺や床几や鐘の重さに大儀さうに足をひきずつて行つた。直ぐと群集は――餅は分配されてそれぞれ懷のものとなつたから――散つてしまつた。――それから、祭壇、日覆、莚、いづれも取り去られた。――そして驚く許りの短時間に、此の不思議な儀式のあらゆる痕跡が消えてしまつたのであつた。……自分はあたりを見𢌞はした。――濱に居る者は自分一人であつた。……歸つて來る潮の音のほかには――平和で居たのを、覺まされて無限の苦痛を覺ゆる、名のつけやうのない或る『生き物』が發するやうな、偉大なぞつとするやうな、唸り聲のほかには――何の音もきこえなかつた。

 

[やぶちゃん注:私は……最後には……遂に浜辺の実景が……小泉八雲自身の――死生観の感傷の心象風景――へと……スライドして行く本篇に――妙に――惹かれるのである…………

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