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2019/10/31

小泉八雲 ゴシック建築の恐怖  (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Gothic Horror ”)は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”・第二パート“ JAPANESE STUDIES ”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“ FANTASIES ”の第三話目に配された作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月15日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者岡田哲藏氏については先行する「小泉八雲 夜光蟲(岡田哲蔵訳)」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に、傍点「○」(最後に一箇所ある)は太字下線に代えた。

 なお、小泉八雲の大のキリスト教嫌いは夙に知られるが、ウィキの「小泉八雲」から引いておくと、一八五〇年、当時イギリス保護領(現在はギリシャ)であったレフカダ島で生まれた彼は、翌年、『父の西インド転属のため、この年末より』、『母と通訳代わりの女中に伴われ、父の実家へ向かうべく出立。途中パリを経て』一八五二年八月、『両親とともに父の家があるダブリンに到着』し、ここに『移住し、幼少時代を同地で過ご』した。父チャールス・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearnn 一八一八年~一八六六年:アイルランド人で英国陸軍軍医補)が『西インドに赴任中の』一八五四年(彼は僅か四歳であった)、『精神を病んだ母』ローザ・カシマティ(Rosa Antonia Cassimati 一八二三年~一八八二年)『がギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナン』Sarah Brenane『に厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになった』とある。しかし、本篇を読むに、彼のキリスト教への生理的拒否感は――実は――教会建築や、その荘厳(しょうごん)が幼少期に彼に与えた――グロテスクな感性的トラウマにこそ――その淵源の核心の一つを持つ――と考えてよいように思われるのである。]

 

 

   ゴシック建築の恐怖

 

 

       

 敎義問答(カテキズムス)で所謂理性年齡に達せしよりずつと以前に私は、いやいやながら屢〻敎堂に連れて行かれた。その敎堂は頗る古くて、私にはその內部が四十年前に惡夢の樣に見えた通り明瞭に今も目に見える。其處ではじめて私はゴシック建築の或る形式が誘起する特殊の恐怖を知つた……私は horror(恐怖)といふ語を古典的の意に用ゐる、卽ち幽靈の恐ろしさといふその昔の意味である。

[やぶちゃん注:「ゴシック建築」“Gothic”は、本来は「野蛮・未開」の意を表わす中世イタリア人の語に由来するもので、美術史では、ロマネスクに続くヨーロッパ中世美術の様式を指す。聖堂建築が最も典型的で、交差肋骨で支えられた穹窿(きゅうりゅう:vault(ボールト))や、高く空に向かって尖って伸びる尖塔(アーチ)など、垂直線から生じる上昇効果の強調を特色とする。

「敎義問答(カテキズムス)」“catechisms”。キリスト教信仰を洗礼、又は、堅信礼志願者、或いは、子どもたちに教えるための書物を指し、ここは、まさにその類を指すのである。もともと口頭で教えたところから、文書となっても問答体の形式をとったものが多い。但し、この語はギリシア語の「カテェケイン」に由来し、「問答」の意味はなく、「響く」「聞かせる」を意味する。

「理性年齡」“the age of reason”。但し、特定の若年齢を指すものではない。それはキリスト教の教義を信に理解出来る「魂の年齢」を指すからである。]

 私の子供心の想像は、此經驗の一番はじめの日に、恐怖の根源を置くことが出來た。窓の枯凋[やぶちゃん注:「こてう(こちょう)」。枯れて凋(しぼ)むこと。凋落。]して尖れる形が直に私を怖れさせた。その輪廓に私が眠るときに私を苦しめるお化けの形が見えた、そして直に怪物とゴシック敎堂との間に或る恐ろしい類似を想像する樣になつた。すると高い戶口にも通廊の穹窿形にも、屋根の肋骨形にも交會線にも、私は外のもつと手荒い恐怖の暗示を見出した。𢌞廊の上に影の如く高く聳ゆる、オルガンの前面さへも恐ろしい物と思はれた。『御前は何が恐ろしいのか』と突然訊かれて答へなければならぬとしたら、私は『あの尖つてるところ』と囁いたであらう。それより外に說明が出來た筈は無い、私はただあの尖頭が恐ろしかつたことを知る。

[やぶちゃん注:これは、所謂、「先端恐怖症」が、最初の小泉八雲の精神疾患であったことを如実に示す。私の大学時代の先輩は、かなり、重いそれで、こっそりと鉛筆を削って鋭くしたものを隠しておいて、彼の目の前にすっと出した瞬間、顔が真っ青になったのを思い出す。調べたところ、重度のそれでは、東京タワーを見ただけで気持ちが悪くなることがあるとあった。ただ、私は、その発症機序には、何らかの別な体験が関わっているのではないかと考えている。「乙吉の達磨」で既に述べたが、小泉八雲は左目を十五歳の時、就学していたダラム大学セント・カスバーツ・カレッジ(St. Cuthbert's College。後のアショウ(Ushaw)・カレッジ)の回転ブランコで遊んでいる最中、ロープの結び目が左眼に当たって失明した。以後、左眼の色が右眼とは異なるようになったため、写真は右側からのみ撮らせるようになったのであるが、体験が前後するものの、この失明経験が、少なくとも幼少期の尖ったものに対する恐怖が、後出しのトラウマとして駄目出しで固執化させたとも言えるのではないかと考えている。それは、次の段落の彼の語りが、如実にそうしたフィード・バックを惹起したことを証明していると感ずるのである。

 其の敎堂で私の感じたことは私が化物を信じて居る間は勿論、それが私の心に眞の謎とはなり得なかつた。然るに迷信的恐怖の年を過ぎて久しき後、他のゴシック的經驗が子供の感情を別に復活させ、それは子供の想像でこの感情を說明し去ることは出來ぬと思はせて私を驚かした。それから私の好奇心が起こつた、そして私は恐怖の何等かの合理的原因を發見しようと試みた。私は多くの書を讀み、多く質問したが、神祕はただ深くなるのみであつた。

 建築に關する書は全く失望であつた。その中で見たことよりも、ゴシック建築の恐ろしさに言及した純然たる小說の方が私に印象を殘した、――特に或る作者がゴシック敎堂の內面を夜間に見ると或る巨大な動物の骸骨の内部に居る樣な觀念を抱くといつた告白、及び敎堂の窓を目に比し、その戶を『人を喰ふ』大きな口に比した、よく評判になつて居る比較を尤もと思つた。此等の想像は餘り說明にはならぬ、それらは漠然たる暗示以上に開展されぬ、然しそれらは感情に訴ふるところがあつて、慥に[やぶちゃん注:「たしかに」。]或る眞に觸れて居ると感じた。眞にゴシック伽藍の建築は骨の構造と不思議に似て居る。そしてそれが心に與へる一般の印象は生命の印象である。然しこの生命の印象または感覺は定義を下しかねる、――何等有機的な生命の感覺でなくて、隱れたる魔の生命のそれである。そしてその生命の表現は構造の尖頭部にあると私は感じた。

[やぶちゃん注:「ゴシック建築の恐ろしさに言及した純然たる小說」以下に小泉八雲が挙げる二例の具体的な作品や作家を不学な私は言い当てることが出来ない。識者の御教授を切に乞うものである。]

 高さ、暗さ、大いさの影響で感情を解說しようとする企ては、私には何の價値も無かつた、何故ならば何れのゴシックの伽藍よりも高く大きく、且つ暗くて、建築の別種に屬する、例へば埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]建築の如きものは同樣の印象を生ぜぬからである。故に恐怖はゴシック作りに全く特有の或るものに因るのであつて、この或るものが穹窿の頂上に徨つて[やぶちゃん注:「さまよつて」。]居るのであることは確實だと私は感じた。

 或る宗敎家なる友人が云ふた、『左樣、ゴシック建築は恐ろしい。それは基督敎の信仰の示現である爲めである。他の何れの宗敎的建築も精神の憧憬を象徵するものは無い。ただゴシックがそれを具象して居る。各部盡く攀ぢまた跳る[やぶちゃん注:「はねあがる」。]、上の方はすべて翔り[やぶちゃん注:「かけり」。]また火の如く光つて居る……』と。私は答へた、『君の言には餘程眞があるかも知れぬ、然しそれは私を惑はす謎には觸れない。何故に精神の憧憬を象徵する形が恐怖を生ずるのであらう。何故に基督敎の法悅の表現が驚愕を覺えさすのであらう』と。

 

 尙ほ外の多くの假說を試みても無効であつた。それで私は恐怖の祕密は何となく穹窿の尖頭部に屬すると思はる〻單純にして粗野な悟りに返つた。然し幾年もそれが判からないで居た。終に、終に[やぶちゃん注:強調形として、孰れも「つひに」と読みたい。]或る熱帶地の早朝に、私が椰子樹の堂々たる一群を眺めて居たとき、思ひがけなくそれが現はれて來た。それでもつと前にどうして謎を解けなかつたかと我が愚さに驚いた。

 

 

       

 多くの椰子の種類の特徵は繪や寫眞で見慣れて居た。然しアメリカの熱帶地の巨大な椰子は、今の繪で示す方法では適切に現はし得ぬ、それは實物を見ねばならぬ。高さ二百呎[やぶちゃん注:「フィート。約六十一メートル。]もある椰子を描くことも寫眞に撮ることも出來ぬ。

[やぶちゃん注:通常の単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceae のヤシ類は高いもので三十メートルほどが標準であるが、調べたところ、コロンビアのココラ渓谷(Valle de Cocora:標高二千四百メートル)に植生するコロンビアの国樹でもあるヤシ科 Ceroxylon 属ワックス・パーム Ceroxylon quindiuense の高さは六十メートルにまで達することがあると、英文ウィキの同種の記載にあった。但し、同種はコロンビアやペール―北部のアンデス山脈に植生するので、小泉八雲が見たものは本種ではないから、別種ではある。二百フィートはやや誇張があるのかも知れぬ。]

 か〻る樹の群を熱帶森林の自然の環境ではじめて見るのは偉大な驚異であつて、驚いて物が言へなくなる。溫帶で見る何物も――カリフオリニヤの斜面地のもつと巨大な生長すらも[やぶちゃん注:「巨大に成長する別な植物すらも」の意。]――あの偉大な柱列の魔の如き嚴肅さに接する爲めに我々の想像を準備させ難い。その石に似た灰色の幹は一本每に完全な柱である、――但しその柱の洪大な優美は人間の作物に比すべきものが無い。この巨大な柱の天に冲する[やぶちゃん注:「ちゆうする」。空高く上がている。]を仰ぐには、頭をづつと背ろに引いて、綠の薄明りの深淵を通して上へ上へと見上げ、終に森の屋根たる枝や攀援莖の無限の交錯の中の切れ目を超えて遙に――柱頭をわづかに眩視する、それは蒼空の電氣の觀念を暗示する程に目映ゆい空に擴げられた綠の羽の傘。

[やぶちゃん注:『カリフオリニヤの斜面地のもつと巨大な生長すらも[やぶちゃん注:「巨大に成長する別な植物すらも」の意。]』これは高さ百メートル近くにもなる世界有数の大高木でアメリカ合衆国西海岸の海岸山脈に自生する裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科セコイア属セコイアSequoia sempervirens を指していよう。

「攀援莖」「はんゑんけい」。巻き髭や不定根などによって他の物に絡み付いて伸びる茎。葡萄・葛(かずら)・木蔦などに見られるような蔓状の延伸する茎の一部。朝顔の茎などのように茎自体が他物に巻きついて伸びるものをも指す。]

 

 か〻る視覺が刺戟する感情、それは驚異と呼ぶには餘りに强く、享樂と呼ぶには餘りに氣味惡るい、この感情は何であらう。その最初の衝動が過ぎて――その中に籠められた種種の要素が差の廣い諸〻の觀念の群を動かし出すときに、はじめてそれが如何に複雜であつたかを覺える。個人の經驗に屬する多くの印象は、疑も無くそのうちに甦る、但しそれと共にもつと影の如き感覺の群、――有機的記憶の集積も立ち返る、――何となればこの感情を惹き起こす熱帶地の形態は人類よりももつと古き歷史を有つて居る故に。

 明らかに辨別さる〻樣になる感情の第二要素の一は美的である。そしてこれはその總體として恐るべく美の感覺と名づけ得よう。たしかにその見慣れぬ生命の光景、――沈默にして莫大に、太陽に向つて巨大な渴仰をもて延び上がり、巨人(タイタンス)と爭つて光を求め、下の薄暗いところに這ふ甲蟲に對すると同じく、人間などは見向きもせぬその光景は、一見して覺えられ、永久に忘れられぬ或る簡單な驚くべき詩句のリズムの樣に心魂に徹する。然しその享樂は、その最も生き活きしたときですら、奇妙な不安に掩はれる。怪奇、蒼白、裸形で、滑かに擴がる柱の姿は蛇の生の如く、意識ある生を暗示する。我々がその形の冲天の線を眺めて――忍び行く波動の或る徵候、波動のある起原を見附けはせぬかとの漠然たる恐れを覺ゆ。その疑を視覺と理性とが、力を合はせて修正する。然り、そこに運動はある、そして非凡な生命もある、――但し太陽のみを求むる生命――巨大なる日に向つて眞直に、噴泉の吹き出る如く迸る[やぶちゃん注:「ほとばしる」。]生命。

[やぶちゃん注:「巨人(タイタンス)」“Titans”。ティーターン(ラテン文字転写:Tītān)はギリシア・ローマ神話に登場する神々で、ウーラノス(天)の王権を簒奪したクロノスを始め、オリュンポスの神々に先行する古えの神々である。巨大な体を持つとされる。]

 

 

       

 私自らの經驗の間に享樂の波に混ずる或る感情、――それは力と莊嚴と勝利の觀念に關はる感情――が宗敎的敬畏の微かな感覺を伴なふことを認めた。思ふに近代の美感は宗敎的感情主義の種々の遺傳的元素と入れ交つて居るので、敬畏の感情と離れて美の認識は起こり得ぬ程である。それは何れにしても、私が眺めて居るうちにか〻る感情が自ら判然となつた、――そして直に大なる灰色の幹が通廊の巨大な柱と變じ、夢の高所から突然、私の上にゴシック的恐怖の古い暗い戰慄が降つた[やぶちゃん注:「くだつた」。]。

 それが消え去る前に、私はそれは薄暗がりに立ち上る、それ等の巨大の幹を見た爲めに昔の伽藍の或る記憶が甦つた爲めであることを認めた。然し高さも、暗がりも、記憶を越えた何物をも說明し得なかつた。それ等の椰子程に高く、しかし上に古典的な圓柱上部を支へた柱はゴシック的恐怖に似たる不安の感覺を呼び起こし得ぬ。このことは慥だと私は思つた、――何故なら私は何等の困難無く直にか〻る建築の表面を想像し得たからである。然るに忽ち心の中の畫が亂れた。私は圓柱の間の各〻の空處に軒緣が上方に腕を差し出し、そしてそれがまた圓くなりまた、尖りて巨大な穹窿の列になると見た、――すると再び暗い戰慄が私の上に降つた。同時に私の心に神祕の解釋が閃めき出た。私はゴシック建築の恐怖は奇怪な運動の恐怖なることを了解した、――そして恐ろしさは穹窿の尖頭に有ると思つたのは、か〻る運動の觀念は主として穹窿の弧線が相觸る〻非凡の角[やぶちゃん注:「かく」。角度。]によつて暗示される爲めであることを知つた。

 

 熟練せる眼にはゴシックの穹窿の弧線は植物生長の或る弧識線と著しき類似あることが判かる、――恐らく梅が枝の弧線が特に暗示されやう。然し建築形式は何等の植物の比較が說明するより以上のことを暗示することに注意せよ。二條の梅の梢の相違ふは實にゴシック穹窿の一種を作るらしい、けれどそんな短い穹窿の效果は著しく無い。眞のゴシック穹窿の不可思議なる印象を自然が反復せんとせば相觸る〻冠部の枝は、弧線の長さに於ても、彈力性の力に於ても、植物界に存する其種の何れよりも遙に超過することを要す。ゴジック穹窿の見映[やぶちゃん注:「みばえ」。]は全く勢力の暗示に賴る。二つの短き芽生[やぶちゃん注:「めばえ」。]の線の交叉はただ發育の微弱なる力を暗示し得るのみ、然るに中世の高き穹窿は直に自然のそれに超過する發揚力を示すと見ゆ。而してゴシック建築の恐怖は發成する生命の暗示にのみ存せずして、超自然的なる莫大なる勢力の暗示に存す。

 

 いふ迄もなくゴシック形式の不思議さに壓迫された子供は、未だ受けたる印象を解剖することは出來ぬ。彼は了解することなくして嚇かされる。彼は尖頭や弧線が植物生長の本則の甚だしき誇張を表はす故に恐ろしいのであることなどを察し得ぬ。彼れは形が生きて居る如く見ゆる故に恐る、されどこの恐怖を如何に表示すべきかを知らぬ。何故かと思ふことなく、彼れはこの無言なる力の表現が到るところに上方を指し、且つ貫いて居るのが自然で無いことを感ず。彼れの驚かされし想像力には建築物は睡眠の幻影の如く擴がりて見え、人を嚇す目的を以て高く高く上るかと思はる。人の手に造らると雖、それは死せる石の集塊たるに止まらず、思考し威嚇する或る者、そのうちに交じり、それは暗影ある惡意、多樣の怪物、巨大な崇拜物體となつたのである。

 

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