フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »

2019/11/30

小泉八雲 大阪にて (落合貞三郞譯) / その「四」・「五」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」・「三」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 舊日本がどしどし亡くなりつつあるといふのは、事實ではない。少くとも、今後百年以内に、亡くなる譯には行かない。恐らくは、全然滅亡することは、決してないだらう。幾多の珍らしい美しいものが消え失せたけれども、舊日本は依然として藝術の中に、信仰の中に、風俗習慣の中に、國民の心と家庭の中に、今猶ほ生き殘つてゐて、苟も具眼の士は、隨處にそれを見出しうるのである。しかも造船、時計製造、麥酒釀造、紡績などが行はれてゐる、この大都會ほど容易にそれを見出しうる處は、他にあるまい。實を申せば、私が大阪へ行つたのは、主もに寺院を見るためで、特に名高い天王寺を見るためであつた。

[やぶちゃん注:「天王寺」大阪市天王寺区四天王寺にある聖徳太子建立七大寺の一つとされている荒陵山(あらはかさん)四天王寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は救世(ぐぜ)観音。もともと特定の宗派に属さない八宗兼学で(本書刊行当時は天台宗であったと思われる)、現在は単立の「和宗」の総本山。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、造営は推古元(五九三)年と伝えられ、「荒陵寺(あらはかでら)」ともいう。主要伽藍は南北中軸線上に、南から南大門・中門・塔・金堂・講堂の順に配され、塔と金堂を包む回廊がめぐっている。この種の配置を一般に「四天王寺式」と呼んでいる。寺は建立後、幾度か罹災しているが、その都度、ほぼ旧規に則して復興され(現在の伽藍は第二次大戦後に復興されたもの)、国宝の「扇面法華経冊子」を始めとして、長い寺史を物語る多くの寺宝が伝わる、とある。]

 天王寺、もつと正確に云へば、卽ち四天王寺は、日本中で最古の佛寺の一つである。西曆第七世記の昔、用明帝の皇子で、推古女帝(西曆五七二年~六二一年)[やぶちゃん注:現在、推古天皇の生没年は欽明天皇一五(五五四)年から推古天皇三六(六二八)年、在位は崇峻天皇五(五九三)年から没年までで、小泉八雲が示す西暦とは孰れも一致しないので注意されたい。]の世の攝政であつて、今は聖德太子と呼ばれる厩戶皇子によつて建立された。太子は日本の佛敎に取つてのコンスタンタイン大帝譯者註と呼ばれるのは尤もな事である。初めは父、用明天皇の世に於け

 

註 四天王は、持國(ドリタラーシトラ)增長(ヴイルードハカ)廣日(ヴイルーバクシヤ)毘沙門(ヴアイシユマナ)である。彼等は世界の四方を防禦する。

譯者註 コンスタンタイン大帝(二七四――三三七年)は、始めて基督敎を羅馬の國敎とした初代敎會の恩人。

[やぶちゃん注:原注の原文を示すと、“They defend the four quarters of the world. In Japanese their names are Jikoku, Komoku, Zocho, Bishamon (or Tamon);—in Sanscrit, Dhritarashtra, Virupaksha, Virudhaka, and Vaisravana,—the Kuvera of, Brahmanism.”

「コンスタンタイン大帝」ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語表記:Gaius Flavius Valerius Constantinus 二七〇年代前半~三三七年)はローマ帝国コンスタンティヌス朝第一代皇帝コンスタンティヌスⅠ世(在位:三〇六年~三三七年)。『複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院からマクシムス(Maximus、偉大な/大帝)の称号を与えられた』。『ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上特に重要な人物の』一『人であり、ローマカトリック、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会など、主要な宗派において聖人とされている。また、彼『自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープル(現:イスタンブル)は、その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした』と彼のウィキにある。]

 

る大爭鬪によつて、それから後には律令の制定と佛敎の學問の保護によつて、日本帝國に於ける佛敎の運命を決定したからである。その前の敏達[やぶちゃん注:「びだつ」。]天皇は、朝鮮の僧侶に佛敎を說くことを許し、また二個の寺院を建立したのであつた。しかし用明帝の御代には、物部守屋といふ有力な貴族で、且つ外來宗敎の猛烈なる反對者が、かかる寬容に對して反抗し、寺院を燒き、僧侶を追放し、天皇の軍隊に向つて戰を挑んだ。傳說によれば、皇軍が擊退されつつあつた際に、皇子――當時僅に十六歲――は、もし勝利を得たならば、四天王に對して寺院を建立することを誓つた。すると、立ちどころに、彼の軍勢の方に一個の巨大な姿がぬつと現はれ、守屋の軍勢はこれに睨まられて、散亂遁走した。佛敎の敵は全然ひどい敗北を蒙つた。して、その後聖德太子と呼ばれた若い皇子は、彼の誓願を守つた。天王寺が建てられた。して、叛賊守屋の富は、その維持に利用された。太子は寺の金堂と稱する部分に、日本に渡來した最初の佛像を安置した――如意輪觀音の像――して、その像は或る祭日には、今猶ほ一般へ示される。戰鬪中に出現した巨大の姿は、四天王の一つなる毘沙門であつたと云はれてゐる。今日に至るまで、毘沙門は勝利の授與者として崇拜されてゐる。

[やぶちゃん注:「敏達天皇は、朝鮮の僧侶に佛敎を說くことを許し、また二個の寺院を建立した」不審。ウィキの「敏達天皇」によれば、『敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立するという構図になっていた。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇』十四年(五八五年?)に『物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。その年の』八月十五日、『病が重くなり崩御』(但し、「古事記」では没年は五八四年とされてある)し、『仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された』とある。

「天皇の軍隊に向つて戰を挑んだ」用明天皇二(五八七)年七月に発生した「丁未(ていび)の乱」=「物部守屋の変」。仏教の礼拝を巡って大臣蘇我馬子と対立した大連(おおむらじ)物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。これから先、物部氏は衰退した。詳しくはウィキの「丁未の乱」を参照されたい。]

 店肆の並んだ、陽氣な狹い賑やかな町から、天王寺の廢朽せる境內へ移つて行つたときの感は、何とも云ひにくい。日本人に取つてさへも、千二百年前日本に於ける最初の佛敎傳道事業の頃の生活狀態へ、記憶の上では後戾りをすることとなつて、一種超自然的の感じがあるに相違ないだらう。他の場所では、私の眼には紋切形で見慣れきつた信仰の象徵も、ここで見ると、まだよく見慣れない、異國的な、原始的形式のやうに映ずる。それから、私が未だ嘗て見たことのないものは、現實世界を離れた時處の感を與へて私を驚かした。實は元の建築は、あまり殘つてゐない。燒けてしまつた個所もあれば、修繕された個所もある。しかしその印象は矢張り一種特異である。それは改築されたり、修繕されたりしても、どこまでも韓唐[やぶちゃん注:「から・とう」。原文は“some great Korean or Chinese architect”であるから、朝鮮と中国。]の偉大なる建築家の作つた原型が保存もれてゐるからだ。此境内の古色蒼然たる光景、異樣な淋しげな美を筆で述べようとしても駄目である。天王寺がどんなものであるかを知るには、その凄いやうな頽廢を見ねばならない――古い木材の美しい漠然たる色合、消え行く幽靈のやうな灰色や黃色の壁面、風變はりな不順序、檐[やぶちゃん注:「ひさし」。]の下の異常なる彫刻――波や雪や龍や鬼の彫刻の、嘗ては漆と黃金を塗つて華麗であつたのが、今は歲月のため褪せて煙の如き色になつて、煙と共に渦を卷いて消え去らんとするやうである。彫刻で最も目醒ましいのは、奇想を凝らした五重の塔のものである。塔は今荒廢して、屋根の諸層の角から吊るした靑銅の風鐸は、殆ど落ちてしまつてゐる。塔と本堂は、四角形な庭の中に立つてゐて、庭の周圍には、開いた𢌞廊が連つてゐる。更に向うには、他の中庭、佛敎の學校、及び嚴疊な石橋を架せる、數多の龜の住んでゐる大きな池がある。石像や石燈籠や唐獅子や巨大な太鼓がある――玩具や珍奇な物品を賣る小屋もある――休憩のための茶店もある――それから、龜や鹿のために菓子を買ふことのできる菓子賣店もある。飼ひ馴らされた鹿は、餌を求めるため、そのつやつやした頭を屈めて、參詣者に近寄つてくる。二階作りの樓門があつて、大きな仁王の像が鎭護してゐる。仁王の手足は、アツシリヤの彫刻に於ける王の四肢の如き筋肉を有し、胴體には、信心深き人々が唾をつけて投じた白紙の小球が、滿面に點々してゐる。今一つの櫓門は、堂內が空虛である。多分昔は四天王の像があつたのであらう。珍らしいものが、なかなか夥しいのであるが、私はただ二つ三つの、最も異樣な經驗を書いてみよう。

[やぶちゃん注:「アツシリヤの彫刻」“Assyrian sculptures”。ウィキの「アッシリア」によれば、『アッシリア(Assyria)は現在のイラク北部を占める地域、またはそこに興った王国。アッシュール市を中核とし、帝国期にはニネヴェやニムルドが都として機能した。歴史地理的名称としてのアッシリアはチグリス川とユーフラテス川の上流域、つまりメソポタミアの北部を指し、メソポタミア南部は一般にバビロニアと呼ばれる。最終的にメソポタミア・シリア・エジプトを含む世界帝国を築』いたとある。グーグル画像検索「アッシリア 彫刻 王」をリンクさせておく。

「胴體には、信心深き人々が唾をつけて投じた白紙の小球が、滿面に點々してゐる」私は小さな頃に、見かけてよく知っているのだが、最近はまず見かけなくなったから、若い読者には意味が解らぬ方も多かろう。個人ブログ「秘境100選 Ver2」の「仁王像」(北海道札幌市東区にある曹洞宗金龍山大覚寺山門の仁王像と思われる)の写真を見られたい。そこに『仁王の赤い身体に白いものが張り付いていて、最初鳥の糞かと思った。案内役の僧に聞いてみると、これは唾や水で濡らした紙つぶてが乾いたものだそうである。自分の身体の悪いところに対応する仁王の身体に、濡らした紙つぶてを投げて当て、直るように祈願する。こうなると』、『仁王も医者の役目を果たしている』とあるので納得がいかれよう。]

 先づ第一に發見したことは、私が境内に入つたとき念頭に浮かんだ一個の臆測が、實際に確められたことである――ここの建築が特異である如く、禮拜の形式もまた特異ではないか知らんと思はれたのであつた。どういふ譯で、こんな感じが起こつたかわからない。ただ外門を入つてから直ぐに、建築に於けると同樣に、宗敎に於ても異常なものを見るやうな豫感を覺えたと云ひうるのみである。すると、私はやがてそれを鐘樓に於て發見した。これは二階作りの支那風建築で、そこに『引導の鐘』と呼ばれる鐘がある。何故といふに、その鐘の昔が、子供の靈魂を冥途に於て案內するからである。鐘樓の階下の室は、禮拜堂の設備がしてある。一見した時、ただ佛敎の禮拜が營まれつつあるのが眼についた。蠟燭が燃えて、厨子は金色に輝き、香煙が騰つて、一人の僧は祈を捧げ、女や子供は跪づいてゐた。しかし厨子の中の像をよく見ようと思つて、一寸入口の前に立ち止まると、私は忽ち見慣れぬ驚くべきものに氣がついた。厨子の兩側の棚の上、臺の上、厨子の上方下方、それから向うの方に、何百といふ數の子供の位牌が並んでゐて、それから、位牌と共に數千の玩具が並んでゐる。小さな犬、馬、牛、武者、太鼓、喇叭、厚紙製の甲冑、木刀、人形、紙鳶[やぶちゃん注:「たこ」。凧。]、假面、猿、船の型、小型の茶器一式、小型の家具、獨樂、滑稽な福神の像――近代の玩具や、いつ頃流行したのか分からぬ玩具――數世紀に亙つて集つたもので、昔から今まで代々の死んだ子供全部の玩具がある。天井から人目の近邊へ、鐘を鳴らす一本の大きな綱が垂れてゐる。直徑約四吋[やぶちゃん注:「インチ」。約十センチメートル。]、種々の色を帶びてゐる。それは引導の鐘の綱である。しかもその綱は死んだ子供の涎掛で作られたもので、黃、靑、赤、紫や種々の中間の色合を帶びてゐる。天井は見えない。それは數百枚の死兒の小さな着物で遮ぎられてゐる。僧侶の側で、疊の上に坐つたり遊んだりしてゐる男女の子供達は、彼等の亡くなつた兄弟とか姉妹とかの位牌の前に納めるため、玩具を持つて來たのである。子を矢つた父とか母が、絕えず戶口ヘ來て、鐘の綱を引き、疊の上へ銅錢を投げては祈をさ〻げる。鐘の鳴る度每に、亡兒の靈魂がそれを聞きつけるのだと信ぜらてゐる――もう一度、好いた玩具や親の顏を見るために、歸つてくるのだとさへ信ぜられてゐる。南無阿彌陀佛といふ哀れげな小聲、鐘の響[やぶちゃん注:底本は「鏡の響」となっているが、相当箇所は“clanging of the bell”であるから、誤植と断じ、特異的に訂した。]、僧の讀經の深い唸り聲、貨幣の落ちる音、心地よい重げな[やぶちゃん注:「おもたげな」。]抹香の薰り[やぶちゃん注:「かほり」。]、厨子の冷靜な黃金色に輝いた美しい佛陀、玩具の華麗な光、子供の着物の暗影、種々の色をした涎掛の驚くべき鐘の綱、座敷の上で遊んでゐる子供の樂げな笑聲――すべてこれは私に取つては、またと忘れられない凄いやうな哀れさの經驗であつた。

[やぶちゃん注:公式サイトの「境内案内」の「北鐘堂」の解説によれば、『正式には、黄鐘楼(おうしょうろう)といい』、『北の引導鐘・鐘つき堂とも呼ばれ』、『春秋の彼岸にはお参りの人でごったがえ』し、『このお堂の鐘の音は遠く極楽までも響くといわれ、先祖供養のための鐘の音が絶え』ないとあり、『当堂の鐘は天井裏にあり、綱を引いてつく形式のため』、『鐘は見ることができ』ないとある。ネット上で複数の堂内の写真を見たが、最早、小泉八雲が激しい感動を覚えたそれは、残念ながら最早、過去のものとなっているようである。

 なお、以下は原本では一行空けで「Ⅳ」に続いている。しかし、原本を見ると、異様に長くこの「Ⅳ」が続き、やっとここで「Ⅴ」になるものの、その後が「Ⅵ」ではなく、「Ⅶ」となって終わっている。これは、原本の誤りであり、落合氏はそれを考慮して、以下を「五」として後を「六」「七」と繋げたものであると読める。

 

       

 鐘樓から遠からぬ所に、貴い泉を蔽へる珍らしい建物がある。床の中央が開いて、長さ十尺幅八尺位で、欄干が繞らしてある[やぶちゃん注:「めぐらしてある」。]。欄干から見おろすと、下の暗い中に大きな石の水盤がある。古くなつて色黑く、唯だ半分しか見えない大きな石の龜の口から、その中へ水が注いでゐる。龜の後部は床の下の暗い所へまで入つてゐる。この水を龜井水(かめのゐすゐ)といふ。この水の注ぐ盤は、半分以上白紙で充ちてゐる――無數の白紙の片に、一つ一つ漢字で戒名、卽ち人が死んでから附ける佛敎的の名が書いてある。堂の一隅の疊を敷いた處に、僅の料金で戒名を書いてくれる僧がゐて、死人の親類とか友人が、戒名を書いた紙片の一端を、長い棹の先きに直角に附けた竹の窩[やぶちゃん注:「あな」。]、と云はんよりは寧ろ竹の接ぎ目の口ヘ挾んで、字を書いた面を上に向けて龜の口へ紙を下げ、始終佛敎の呪文を唱へ乍ら、迸る水の下へやつてゐると、水盤の中へ洗ひ流される。私が泉へ行つて見た折、人が山をなして、五六人が戒名を龜の口の下へ持つて行つて、その間夥多の信心深い人々は、手に紙片を持つたま〻棹を用ひる機會を待つてゐた。南無阿彌陀佛のつぶやきが激流の音のやうであつた。水盤は數日每に一杯になつて、それから中を開けて、紙を燃してしまうのだと、私は告げられた。これを眞實とすれば、この繁忙な商業的都會に於ける佛敎の力の顯著なる證據である。こんな紙片が數千枚もなくては、水盤は一杯にならないからである。この水は死んだ人の名と、生きた人の祈とを齎して、聖德太子の許へ行き、太子は信者のために阿彌陀に向つて執り成しの力を用ひ玉ふのだといふことである。

[やぶちゃん注:公式サイトの「境内案内」の「亀井堂」の解説によれば、『亀井堂は戦火で焼失後、昭和』三〇(一九五五)『年に再建され』『た。亀井堂の霊水は』、『金堂の地下より、湧き』出『ずる白石玉出の水であり、 回向(供養)を済ませた経木を流せば』、『極楽往生が叶うといわれてい』る。堂の『東西桁行は四間』(七メートル二十七センチ)『あり、西側を亀井の間と』呼でおり、『東側は影向』(ようごう)『の間と呼ばれ、左右に馬頭観音と地蔵菩薩があり』、『中央には、その昔』、『聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されてい』るとある。]

 太子堂といふ堂には、聖德太子と侍者どもの像がある。高貴の人の用ひる椅子に坐せる太子の像は、實物大で、且つ彩色を施してあつて、千二百年前の服裝に、華麗なる帽を被つて、その支那式或は朝鮮式の靴は爪先きが反つてゐる。極めて古い陶器や、襖模樣などに、これと同樣の服裝を見ることがある。しかし顏は、その髭が支那風に垂れてゐるにも拘らず、典型的日本人の顏であつて、品位が備はり、親切らしく、冷靜である。私は像の顏から振り返つて、私のぐるりの人々の顏を見た時、矢張り太子と同一の型であつて、同じく落ち着いた半ば好奇心のある、不可思議な凝視の眼に出逢つた。

 

 天王寺の古代建築に對して、强大なる對照を呈するものは、大きな東西兩本願寺である。これは東京の兩本願寺に殆どそつくり似てゐる。大抵日本の大都會には、かやうな一對の本願寺がある――それぞれ十三世紀に創立された、大きな眞宗の東西兩派の一つに屬してゐる。その建築は地方の富及び崇敬的に重きをなす程度如何に從つて、大いさを異にするけれども、大抵同一の形式であつて、それは佛敎建築中、最も近代的且つ最も純日本的な形式を現はしてゐるといふことができる――大きく、莊嚴[やぶちゃん注:これは意味から「さう(そう)ごん」と読む。]で、華麗である。

 

註 この宗旨が、十七世紀に二派に分かれたことは、宗敎上でなく、政治上の原因を有つてゐた。だから、同派は宗敎的には一致してゐる。その法主は皇族の血續を承けてゐる。因つて御門跡といふ稱號がある。この宗旨の寺の境內を繞る塀は、皇居の塀と同樣の裝飾的剜形を有することを、旅人は注目するだらう。

[やぶちゃん注:私は二十歳の頃に唯円の「歎異抄」に嵌まった。その際、この二派の後の分立には痛く鼻白んだもんだ。浄土真宗の二大分立についてご存じない方は、ウィキの「本願寺の歴史」を参照されたい。説明する気も起らんわ。

「剜形」「わんけい」或いは「ふちくりがた」とも読むようだ。“Travelers may observe that the walls inclosing the temple grounds of this sect bear the same decorative mouldings as those of the walls of the Imperial residences.”「抉り取った、削り取ったような装飾様式であること」のようだが、単に門跡寺院だから同じような成形の装飾様式を持つで別にいいんじゃなかろうか?]

 

 しかし兩寺院は、共に象徵、偶像、及び外部の儀式については、殆ど新敎的嚴肅を示してゐる。その質素にして、どつしりした門は、決して巨人の仁王によつて護衞されてゐない――その大きな檐の下には、龍や惡魔の群像はない――佛や菩薩の黃金色の群が、列を重ね、光背を積んで、聖殿の薄明裡に聳えてもゐない――隨喜渇仰のしるしの珍らしい殊勝なものを、高い天井から吊るしたり、佛壇の前へ懸けたり、玄關の格子に結んだりしたのもない――繪馬もなく、祈を書いた紙を結んだものもない。唯だ一つの外、象徵はない――それも大抵小さい。それは阿彌陀の像である。多分讀者は、佛敎に於て本願寺派は、ユニテリアン派譯者註が自由派基督敎に於て代表するのと、敢て異らざる運動を代表するものだといふ事を知つてゐるだらう。その獨身生活とすべて禁欲的修行を排斥する點、その呪符、卜筮、奉納物を禁じ、また救ひのための祈りの外、一切の祈りを禁ずる點、勤勉なる努力を人生の努力として强調する點、結婚の神聖を宗敎的束縛として維持する點、唯一永遠の佛陀を父とし救主として仰ぐ敎義、善い生活の直接の報酬として、死後に於ける樂園の約束、また就中、その敎育に熱心なる點――すべてこれらの諸點に於て、淨土の宗敎は、西洋の基督敎の進步的形式のものと多大の共通せるものを有つと云つても妥當であらう。して、それは滅多に傳道團や布敎隊へ足を向けないやうな、敎養ある人士から、たしかに尊敬を博してゐるその富、その尊嚴、その佛敎的迷信の低級な形式に對する反抗から判斷すれば、すべての佛敎宗派の中で、最も感情的分子の少いものと思はれるだらう。しかし或る點に於ては、多分最も感情的といふべきであらう。いかなる他の佛敎宗派も、

 

譯者註 所謂正統派基督敎の諸派が、三位一體說を信奉してゐるのに對して、ユニテリアンは、ただ一位の天父を信じ、基督をただ至高の人格と認め、その神性を認めないで、最も自由なる信仰を有し、儀式最も簡單である。

[やぶちゃん注:「ユニテリアン派が自由派基督敎に於て代表する」原文“Unitarianism represents in Liberal Christianity”。ユニテリアン(Unitarian)はキリスト教正統派の中心教義である父と子と聖霊の三位一体(トリニティ:Trinity)の信条に反対して「神の単一性(Unity)」を主張し、「イエスは神ではない」とする一派の人々を指す。厳密な意味での、「ユニテリアニズム(Unitarianism)」は宗教改革後、約半世紀経って現れており、十七世紀以後、イギリスに於ける著名なユニテリアンとしては。ビドル John Biddle・クラーク Samuel Clarke・プリーストリー Joseph Priestly・マーティノー James Martineau などが挙げられる。アメリカでは、イギリスから移住したプリーストリーによってフィラデルフィアに初めて「ユニテリアン教会」が建てられ、チャニング William Ellery Channingが一八二五年に「アメリカ・ユニテリアン協会」を設立した。一九六一年には「ユニバーサリスト教会」と合同して「ユニテリアン・ユニバーサリスト協会」が組織された。日本にユニテリアンが初めて紹介されたのは、明治二〇(一八八七)年、矢野文雄によってである(同年七月『郵便報知新聞』紙上)。明治四二(一九〇九)年頃には神田佐一郎・三並良)(みつなみりょう)・岸本能武太(のぶた)・安部磯雄らが機関誌『ゆにてりあん』の編集・執筆を行い、同誌は後に『宗教』に改題し、さらに日本最古のキリスト教雑誌である『六合(りくごう)雑誌』と合併したが、大正一〇(一九二一)年に終刊した。昭和二三(一九四八)年、「日本ユニテリアン協会」の創立総会が開かれ、ユニテリアンに関連する教会として「東京帰一(きいつ)教会」(初代会長今岡信一良(しんいちろう))が作られた。翌年、「日本ユニテリアン協会」は「日本自由宗教協会」と改称し、協会機関誌『創造』を刊行している。機関誌は、その後、『自由宗教』『まほろば』『創造』と誌名を変えながら発行され続け、昭和二七(一九五二)年には「自由宗教連盟」と改称、国際自由宗教連盟(IARF)に加盟した(IARFは明治三三(一九〇〇)年に創設され、三年に一度、大会を開催しているが、一九九九年には「地球共同体の創造 宗教者の使命」というテーマのもと、カナダのバンクーバーで第三十回大会が開かれた)。しかし、この一九九九年、宗教法人「東京帰一教会」は初代会長今岡氏の没後、後継者に適当な人材がなく、また、会員の老齢化などによって解散している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。「Liberal Christianity」はその英文ウィキの、日本語版相応の「自由主義神学」に「Liberal theology」「Theological liberalism」「リベラル」「リベラリズム」は、『キリスト教のプロテスタントの神学的立場の一つ。その発生以来、プロテスタント教会の主流エキュメニカル派』(Ecumenism:キリスト教の教派を超えた結束を目指す主義、キリスト教の教会一致促進運動のこと。世界教会主義とも呼ぶが、そこから転じて、キリスト教相互のみならず、より幅広くキリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動のことを指す場合もある)『の多くが採用する立場』。『「自由主義」の語は社会学・政治学用語からの仮借であり、神学分野では「歴史的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って再解釈する」の意である。教義・教理の批判的研究である教義史を確立させた』。『かつては新神学(New Theology)とも呼ばれ、日本のキリスト教界にも大きな影響を与えた』とある。詳しくはリンク先を読まれたい。]

 

京都の東本願寺を實現せしめたやうに、强く普通人民の信仰と愛情を動かすことはできない。しかも本願寺派獨得の宗旨宣布法によつて、最も質樸無學な人々に手を伸ばしうると共に、一方またその學問によつて、知的階級をも動かす事ができる。この派の僧侶で、西洋の主もなる大學を卒業したものも少くはない。して、佛敎硏究の種々の方面に於て、聲譽を歐洲に馳せたものもある。古い方の佛敎の宗派が、絕えず隆盛に赴きつつある眞宗の勢力に壓倒されて、衰微に陷るべきか否かは、少くとも興味ある問題である。たしかに後者は一切のものが好都合である――皇室の御思召、富、學殖及び堅固なる敎團組織などが、さうである。これと同時に、眞宗よりも更に幾世紀も古い思想感情の習性を向うへ𢌞はして戰ふ場合、かかる便宜が果たして有効であるか否かは、疑問とならざるを得ない。恐らくは西洋の宗敎界は、此問題に關して預言の根據を置くべき先例を提供するだらう。羅馬舊敎が今日も依然、どんなに强大なまで存在してゐるか、ルーサー[やぶちゃん注:“Luther”。マルティン・ルター。]の時代以來、どんなにあまり變化しないでゐるか、今日の進步的信仰箇條が、どんなに或る具體的崇拜物に對する古い靈的飢渇――何かに觸れ、何かを胸に押しつけようとする欲求――を滿足させる力に缺乏してゐるか、――これらの事實を思ひ浮かべてみると、もつと古い佛敎諸派の偶像崇拜が、今後數百年、矢張り民衆の愛情裡に廣やかな領域を占めて行かぬとは限らない。それから、また眞宗の擴張に對する一つの珍らしい障害は、自己の犧牲といふ問題に關して、頗る深く根ざせる民族感情に存するといふことは、注目に値する。たとひ多くの腐敗が、疑もなく古い諸宗派に存するにせよ――たとひ食物及び獨身生活に關する誓と守らうともしない僧侶が、幾多あるにせよ――古い理想は決して未だ亡びてゐない。して、日本の佛敎徒の多數は、まだ眞宗僧侶の比較的愉快な生活に不賛成を表はしてゐる。僻陬[やぶちゃん注:「へきすう」。「僻地」に同じい。]に於て、眞宗が特に嫌惡の眼を以て見られてゐる處では、子供達がいたづらな歌をうたつてゐのを聞くこともある――

 

    眞宗坊主よいものだ。

    女房持つて、子持つて、

    うまい魚(さかな)をたべてゐる。

 

 これは私をして佛陀在世の時、佛敎徒に關する世間一般の批評を想起せしめた。これは屢〻『毘那耶』[やぶちゃん注:原文“Vinaya”。「律」。サンスクリット語「ヴィナヤ」の漢音訳。仏教に於いて僧集団(僧伽(そうが):サンガ)に属する出家修行者が守らなければならない規則のこと、及びそれを記した仏典の総称。]の經文に記され、殆ど歌尾の疊句の觀を呈してゐる――

 『そこで、民衆は不快を感じた。して、呟いて不平を訴へた。「これらの人々は、依然としてこの世の愉快を樂んでゐるやうな行動をしてゐる!」それから、彼等はこのことを佛尊に告げた』

[やぶちゃん注:以上は「四分律」( Dharmagupta-vinaya :仏教の上座部の一派である法蔵部(曇無徳部)に伝承されてきた律。ウィキの「四分律」によれば、中国及び『日本に伝来した諸律の中では、最も影響力を持ったものであり、中国・日本で律宗の名で総称される律研究の宗派は、ほとんどがこの四分律に依拠している』とある)に繰り返し現われる類似のシークエンスでの語句を繋げたものある。平井呈一氏は恒文社版「大阪」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『‥‥時(とき)に諸(もろもろ)の居士有り、‥‥に詣(いた)りて観看(くわんかん)す。‥‥を見(み)、見已(みをは)りて皆(みな)譏嫌(きげん)』(仏教用語で「世間の人が謗(そし)り嫌うこと」)『して言(い)わく』(ママ)、『「‥‥諸(もろもろ)の比丘(びく)これを聞(き)いて、世尊(せそん)の所(みもと)に往(ゆ)き‥‥此(この)因縁(いんねん)を以(もつ)て具(つぶさ)に世尊(せそん)に白(まを)す。」』と訳しておられる。]

 

註 僧侶の妻帶を禁ずる民法が撤廢されてから、特にさうである。眞宗以外の宗派の梵妻[やぶちゃん注:僧侶の妻を指す語。]は、滑稽で、且つあまり敬意を含まない名稱で呼ばれてゐる。

[やぶちゃん注:「民法」は誤り。明治五(一八七二)年四月二十五日の太政官布告百三十三号の「自今、僧侶肉食妻帶畜髮等可爲勝手事」に拠る。また、諸記事を見るに、本書が刊行された明治三〇(一八九七)年には、仏教界自体が(親鸞が妻帯して教義として許しているので浄土真宗以外。これは江戸時代もそうであった)、戒律に反する妻帯を認める方向へ既に傾いていたらしい。]

 

 天王寺以外、大阪には頗る古い歷史を有つた幾多の神社佛閣がある。高津の宮は、その一つである。そこでは、人々が日本のあらゆる天皇の內で、最も愛慕さる〻仁德天皇の靈に對して祈りを捧げるのである。現今天皇の社祠が立つてゐる場處に、天皇の宮殿があつた。して、市の眺望を恣にし得られる、この場處こそは、『古事記』に保存さる〻樂い傳說の舞台である――

[やぶちゃん注:「高津の宮」現在の大阪市中央区高津(こうづ)にある神社高津宮(こうづぐう)。難波高津宮に遷都した第十六代仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇・祖母の神功皇后・父の応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の履中天皇を右座に祀る。貞観八(八六六)年、第五十六代清和天皇の勅命により、難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて、仁徳天皇を祀ったのに始まる。天正一一(一五八三)年、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽(ひめこそ)神社を当社の地主神として摂社とした(ウィキの「高津宮」に拠った)。

 以下引用は全体が四字下げ同ポイントである。字間に半角の空けがあるが、再現しなかった。頭の「﹅」は単なる省略記号である。]

 

﹅﹅﹅於ㇾ是天皇登高山、見四方之國。詔ㇾ之、於國中煙不ㇾ發、國皆貧窮、故自ㇾ今至三年、悉除人民之課役、是以大殿破壞、悉雖雨漏、都勿修理、以ㇾ椷受其漏雨、遷避于不ㇾ漏處、後見國中、於國滿煙、故爲人民富、今科課役、是以三百姓之榮、不ㇾ苦役使、故稱其世、謂聖帝世也。

[やぶちゃん注:「古事記」「下卷(しもつまき)」の仁徳天皇の条の初めの方にある一節(既に「日本書紀」のそれは、本篇冒頭の添え辞である伝仁徳天皇の歌の注で示した)。正確には「故稱其世」は「故稱其御世」。訓読しておく。

   *

……是(ここ)於いて、天皇(すめらみこと)、高山(たかやま)に登りまして、四方(よも)の國を見たまひて、之れに詔(の)たまひしく、

「國中(くぬち)に、煙(けぶり)、發(た)たず。國、皆、貧-窮(まづ)し。故(かれ)[やぶちゃん注:されば故に。だから。]、今より三年(みとせ)に、悉(ことごと)に人民(おほみたから)の課役(みつきえだち)[やぶちゃん注:「みつき」は「貢」で奉物、「えだち」は労役。]を除(ゆる)せ。」

と。

 是を以(も)ちて、大殿、破(や)れ壞(こぼ)れて、悉に、雨、漏れども、都(かつ)て修-理(をさ)めたまはず、椷(ひ)[やぶちゃん注:水を流す「樋(とい/ひ)」の意か。]を以ちて其の漏るる雨を受けて、漏らざる處に遷(うつ)り避(さ)りましき。

 後に國中を見たまへば、國に、煙、滿てり。故(かれ)、

「人民、富めり。」

と爲したまひて、今は課役を科(おほ)せたまひき。是れ、百姓(おほみたから)の榮えて、役使(えだち)に苦まざるを以つてす。故(かれ)、其の御世を稱へて、「聖帝(ひじりのみかど)の世」と謂(まを)す。

   *]

 

 それは千五百年前であつた。今もしこの善い天皇が、かの高津の宮から――多くの人々が信ずる如く――現代大阪の煙を見そなはし玉ふならば、天皇は當然『朕の民はあまりに富すぎてきた』と考へ玉ふことであらう。

 市外に、神功皇后の三韓征伐を助けた海神を祀れる、もつと有名な住吉神社がある。住吉には綺麗な巫女、美しい境內、大きな池などがある。池に架せる橋は非常に灣曲してゐるので、靴を脫がずに、そこを渡るには、胸墻[やぶちゃん注:「きやうしやう(きょうしょう)」。胸の高さほどに築き上げた盛り土。原文は“parapet”。これって、「橋の欄干」でいいんじゃないの? 所謂、「太鼓橋」である。]にすがりつかねばならぬ。堺には妙國寺がある。その庭には數株の頗る古い蘇鐡の樹がある。その一本は十六世紀に信長によつて移されてから、泣き悲しんだので、また寺へ戾されたといはれてゐる。これらの蘇鐡の下の土地は、滿面厚い、光つた、亂雜になつたた毛皮の塊のやうなもので蔽はれてゐる――半ば赤味を帶び、半ば銀灰色である。それは毛皮ではない。幾百萬の針の堆積である。これらの樹は鐡を好み、その錆を吸つて强くなるとといふので、巡禮者が『蘇鐡に食はせるため』そこへ投じたのである。

[やぶちゃん注:「住吉神社」大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社。詳しくはウィキの「住吉大社」を見られたい。

「妙國寺」大阪府堺市堺区材木町東にある日蓮宗広普山(こうふさん)妙国寺。ウィキの「妙国寺」によれば、永禄五(一五六二)年、『阿波国より兵を起こして畿内を支配していた三好長慶の弟・三好実休(じっきゅう)が日珖(にっこう)に帰依し、『大蘇鉄』(裸子植物上綱ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta )『を含む東西三丁南北五丁の土地と寺領』五百『石を寄進し、日珖を開山とする当寺が設立された』。「霊木・大蘇鉄の伝説」に、樹齢千百年余と『云い、次のような伝説が残っている』。『織田信長はその権力を以って』天正七(一五七九)年に『この蘇鉄を安土城に移植させた。あるとき、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は』。『庭先で妙な声を聞き、森成利』(なりとし)『に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し』、『士卒に命じ』、『蘇鉄の切り倒しを命じた。しかし』、『家来が刀や斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな』、『血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ』、『即座に妙國寺に返還した。しかし、もとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。哀れに思った日珖が蘇生のための法華経一千部を読誦したところ、満願の日に蘇鉄から宇賀徳正龍神が現れ、「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。これにより』、『徳正殿を建て、寺の守護神として宇賀徳正龍神を祀ることとした。爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えないという』とある。今も天然記念物としてある蘇鉄の写真は、こちら。]

 樹木の話の序に、私は難波屋[やぶちゃん注:「なにはや」。]の傘松のことを舉げねばならぬ。それが巨大な木であるといふことよりも、それが境街道に小さな茶店を開いてゐる大家族を養つて行くことにためである。この木の枝は、柱を組み合はせた枠の上で、外方と下方へ向けて伸びるやう馴らしてあるため、全體は百姓が被る笠といふ種類の、すばらしい綠色の帽子の觀を呈してゐる。松の高さは六尺にも足りないが、恐らくは二十方碼[やぶちゃん注:「ヤード」。十八強平方メートル。]に廣がつてゐる――其幹は、枝を支へてゐる枠の外部からは、無論毫も見えない。多くの人が茶屋へ來て松を見物する。して、一椀の茶を飮む。それから大抵誰れも或る記念品を買ふ――恐らくはその樹の木版畫、その樹を賞めて詠んだ歌を刷つたもの、少女の簪などである。簪はこの松――柱の枠をも含めた――全體の、綠色の立派な小模型で、一羽の小さな鶴が止まつてゐる。茶店難波屋の一家は、この樹を人に見せたり、かかる土產品を賣つたりして、ただ立派に暮らして行けるばかりでなく、その子供達をも敎育することができる。

[やぶちゃん注:「大阪あそ歩(ぼ)マップ集」のこちら(PDF)に、「難波屋の笠松跡」として地図入りで以下の記事がある。『江戸時代には難波屋という茶屋があり、その庭には枝ぶりがすばらしい松があって、紀州街道の名物でした。見物料の代わりに団子を売っていて「笠松は低いが団子は高い」と風刺されたといいます。昭和初期まで団子を売っていましたが、残念なことに戦後の食糧難で土地を開墾して芋などを植えたことから』、『土に栄養がなくなり、笠松は枯死しました。しかし』、『安立小学校にて安立笠松会が松を植樹し、大きく育てて笠松の復活、伝承を試みています』とある。]

 

 私は大阪の他の有名な社寺――非常に古くて、頗る珍異なる傳說の纏はつてゐるのが、幾つもある――のことを述べて、讀者の忍耐を煩はさうと欲するものではない。しかし私は敢て一心寺の墓地について數語を試みよう。そこの墓石は、私が見たものの中では、頗る奇拔なものである。本門の近くに、朝日五郞八郞といふ力士の墓がある。彼の名は、多分重量一噸[やぶちゃん注:「トン」。]もありさうな、圓盤狀の大石の面に彫つてある。して、この圓盤は力士の石像の背上に載せてある――力士は怪奇な形姿を呈し、金泥を施せる眼は、眼窩から飛び出でて、容貌は努力のため、いかにも扭れてゐる[やぶちゃん注:「ねぢれてゐる」。]。それは半ば滑稽的で、半ば猛惡な光景である。その近くに、平山半兵衞といふ者の墓がある。これは瓢簞の恰好をした石碑である。瓢簞は旅人が酒を運ぶために使用するもので、最も普通の形は沙時計に似てゐて、ただ下部が上部よりも、や〻大きなだけである。して、その器は、酒が滿ちてゐるか、または一部分滿ちてゐる場合にのみ眞直ぐに立つことができる――だから日本の或る歌の中に、酒好きの人が、その瓢簞に向つて、『お前と一緖に倒れる』といつてゐる。たしかに酒豪連中が、この墓地の一區を占領してゐる。何故なら、同じ列にこれと類似せる形の墓が、他に數個もあるからである また、一個の墓は一升德利の形をしてゐて、碑面には經文から取つたものではない句が刻んである。しかしすべての中で最も奇異な碑石は、眞直ぐに坐つて、前肢を以て腹つづみを打つてゐるらしい大きな石の狸である。その腹の面に井上傳之助といふ名と共に、次の句が刻してある――

 

    月 夜 よ し 念 佛 唱 へ て 腹 鼓

 

 この墓の花瓶は、酒瓶の形をしてゐる。墓石の臺は、岩を積んだもので、處々岩の間に、狸坊主の像が散見してゐる。私の著書の讀者は、日本の狸が、人間の形に化け、腹を打つて太鼓のやうな音を出す力を有つものと信ぜられてゐることを、多分知つてゐるでせう。それは惡戲をするため、屢〻佛僧の姿に化け、また甚だ酒が好きだといはれてゐる。無論、墓地に於ける、かやうな像は、ただ奇僻[やぶちゃん注:「きへき」。他のものと異なり、変わっていること。ひどく偏っているさま。]を現はすに過ぎないので、且つ惡趣味だと判斷されてゐる。希臘や羅馬の墓にも、死に關して――否、寧ろ人生に關して――現代人の感情に取つて嫌惡不快の感を催させるやうな情操、または情操めいたものを現はせる可笑げな繪畫及び彫刻のあつたことが思ひ出された。

 

註 狸は通常 badger と英譯してあるが、狸といふ名の獸は、眞正の badger ではなく、一種の食果狐である。それは「浣熊(あらひぐま)の顏をした犬」とも呼ばれてゐる。しかし眞正の badger も日本に棲んで居る。

[やぶちゃん注:「一心寺」大阪府大阪市天王寺区逢阪(おうさか)にある浄土宗坂松山(ばんしょうざん)一心寺(いっしんじ)。「骨仏(こつぼとけ)」の寺としてよく知られている(詳しくはウィキの「一心寺」を参照されたい)。

「この圓盤は力士の石像の背上に載せてある」恐らく、一部の読者は、この大きさを誤解していると私は思う。松岡永子氏のブログ「にわたずみ」の「小泉八雲の見た大阪(1) 一心寺」を見られたい。その他の酒豪の墓や発句などを一応、検索してみたが、ネット上に画像は見当たらない。

「badger」(ベージャー)はアナグマ、本邦産種では食肉(ネコ)目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマMeles anakuma を指す。食肉目イヌ型亜目イヌ下目イヌ科タヌキ属ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus であって、混同されることが多いが、全くの別種である。なお、「浣熊(あらひぐま)」はイヌ亜目クマ下目イタチ小目アライグマ科アライグマ亜科アライグマ属アライグマ Procyon lotor で、アメリカ合衆国・カナダ南部・中央アメリカ(メキシコなど)を原産地とする外来種であり、本邦の個体は外来種として定着した問題種であるが、本邦での確認は敗戦後のことである。

「食果狐」不審。原文は確かに“fruit-fox”であるが、これは現在、哺乳綱翼手(コウモリ)目大翼手(オオコウモリ)亜目オオコウモリ上科オオコウモリ科 Pteropodidae の果実食をするコウモリのことを指す(彼らは顔がキツネに似ている)ので、前後から考えても、おかしな謂いとしかとれない。そもそもがホンドタヌキは果実も食すものの、完全な雑食性(肉食もする)であり、通称としても全く相応しくない。

2019/11/28

小泉八雲 大阪にて (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」・「三」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ IN ŌSAKA ”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“ Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST ”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第七話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 なお、この前に配すべき「人形の墓(田部隆次譯)」(原題も“ NINGYŌ-NO-HAKA ”)は既に電子化注済みである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月5日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本篇の大標題はここ、本篇本文はここから。

 訳者落合貞三郎については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郞譯)」の冒頭注を参照されたい。

 冒頭の和歌の添え辞は上に引き上げた。短歌本文には字空けが半角あるが、再現しなかった。傍点「﹅」は太字に代えた。注は四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「!」「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。全七章と長いので、分割して示す。]

 

      第七章  大阪にて

 

 たかきやに上りて見れは煙立つ

    民のかまとはにきはひにけり ――仁 德 天 皇

[やぶちゃん注:「新古今和歌集」の「卷第七 賀歌」の巻頭に配された、確かに「仁德天皇御歌」とする以下であるが(七〇七番)、

   みつきもの許されて國富めるを御覽じて

 たかき屋に登りて見れば煙(けぶり)たつ

    民の竈(かまど)はにぎはひにけり

である。「新古今和歌集」以前の「和漢朗詠集」の「勅史」には作者不明として見え、岩波書店の『新日本古典文学大系』「新古今和歌集」(田中裕・赤瀬信吾校注。一九九二年刊)の脚注によれば、実際には誤伝で、もとは延喜六(九〇六)年に成された「日本紀竟宴和歌」の一つで、藤原時平が既に聖帝とされていた仁徳天皇を題にして詠じた、

 高殿に登りて見れば天の下よもに煙りて今ぞ富みぬる

が変形されて誤って伝えられたものであるとし、『平安末期には仁徳天皇御歌とされた(古来風身体抄・上ほか』とある(『ほか』とは「水鏡」か)。歌のシチュエーションは『仁徳天皇四年』(西暦機械換算三一六年)『春、天皇が高台(たかどの)に登り烟気(けぶり)が立たないのを見て、課役をとどめ、七年夏四月、烟気の多いのを見て、后に「朕、既に富めり」と述べた故事(日本書紀による)』とし、『四方拝に通づるか』とある。「日本書紀」の原文は以下。

   *

四年春二月己未朔甲子。詔群臣曰。朕登高臺以遠望之。煙氣不起於域中。以爲百姓既貧。而家無炊者。朕聞。古聖王之世。人人誦詠德之音。家家有康哉之歌。今朕臨億兆。於茲三年。頌音不聆。炊煙轉踈。卽知。五穀不登。百姓窮乏也。封畿之內。尙有不給者。況乎畿外諸國耶。

三月己丑朔己酉。詔曰。自今以後。至于三年。悉除課役。以息百姓之苦。是日始之。[やぶちゃん注:中略。]

七年夏四月辛未朔。天皇居臺上、而遠望之。煙氣多起。是日、語皇后曰。朕既富矣。豈有愁乎。皇后對諮。何謂富焉。天皇曰。煙氣滿國。百姓自富歟。皇后且言。宮垣壤而不得脩。殿屋破之衣・被露。何謂富乎。天皇曰。其天之立君。是爲百姓。然則君以百姓爲本。是以古聖王者。一人飢寒、顧之責身。今百姓貧之。則朕貧也。百姓富之。則朕富也。未之有百姓富之君貧矣。

   *]

 

       

 約三百年前、東印度商會の任務を帶びて日本を訪問した船長ヂヨン・セーリス譯者註は、大阪の都會について書いた――

 

譯者註 ヂョン・セーリスは平戶に於ける英國商館の創立者。三隻より成る商船隊に船長として、リチヤード・コツクスと共に東洋に航し、千六百十三年六月十一日、平戶に着し、領主に歡迎され、更に安針アダムスの斡旋により、江戶及び駿府に赴き、家康より通商の許可を受けた。

[やぶちゃん注:ジョン・セーリス(John Saris 一五七九年或いは一五八〇年~一六四三年)はイギリス船として初めて日本に来航したイギリスの「東インド会社」(East India Company)の貿易船「クローブ号」(Clove)の指揮官。肥前国平戸に到着したのは慶長十八年五月四日(グレゴリオ暦一六一三年六月二十一日(但し、当時のイギリスはユリウス暦を用いており、それでは六月十一日となる。落合氏はユリウス暦に従っている。開幕から十年後で家康は慶長一〇(一六〇五)年四月に将軍職を辞し、秀忠に譲って大御所となっており、また、慶長一二(一六〇七)年には駿府城に移っていた)。イギリス商館は、同年九月一日に、家康によってイギリスとの通商許可が出された後に建設された。これが日英の国交の始まりとなった。

「三隻」セーリスは一六一一年四月十八日(ユリウス暦)にイギリス国王ジェームズⅠ世から将軍徳川家康に宛てた親書と献上品を載せ、イギリスを三隻で出航したが、他の二隻は別地で任務し、先に帰国している。

「リチヤード・コツクス」ステュアート朝イングランドの貿易商人で江戸初期に平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めたリチャード・コックス(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)。ウィキの「リチャード・コックス」によれば、『スタフォードシャー州・ストールブロックの人』で、『在任中に記した詳細な公務日記「イギリス商館長日記」』(“ Diary kept by the Head of the English Factory in Japan :  Diary of Richard Cocks ”:一六一五年(慶長二十年・元和元年)~一六二二年(元和八年))は、『イギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級の史料である』。慶長一八(一六一三)年、『コックスは東インド会社によって日本に派遣され』、『江戸幕府の大御所・徳川家康の外交顧問であったイングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介によって家康に謁見して貿易の許可を得て、平戸に商館を建てて初代の商館長に就任した』。元和元(一六一五)年には、『平戸において、三浦按針が琉球から持ち帰ったサツマイモを九州以北で最初に栽培したといわれている』。一六一五年六月五日(元和元年五月九日)の『日記に、「豊臣秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず。皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。」と書いている』。元和二(一六一六)年には、『征夷大将軍・秀忠に朱印状更新を求めるため江戸に参府し』、翌年には英国王ジェームズⅠ世の『家康宛ての親書を献上するため』、『伏見で秀忠に謁見したが、返書は得られなかった。この頃から』、『オランダによるイギリス船隊への攻撃が激しくなり、その非法を訴えるため』、元和四~五年(一六一八年~一六一九年)の間に、二度目の『江戸参府を行』い、一六一九年にも『伏見滞在中の秀忠を訪問した』。元和六(一六二〇)年の「平山常陳(ひらやまじょうちん)事件」(平山常陳なる人物が船長をつとめる朱印船が、二名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海で、イギリス及びオランダの船隊によって拿捕された事件。江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、「元和の大殉教」といわれる激しい弾圧の引き金となった。ここはウィキの「平山常陳事件」に拠る)では、『その積荷と密航宣教師スーニガ及びフローレスの国際法上の扱いをめぐり』、『幕府に貢献した』。しかし、元和九(一六二三)年の「アンボン虐殺事件」(「アンボイナ事件」とも称する。オランダ領東インド(現在のインドネシア)モルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあったイングランド商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件。これによってイングランドの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。東南アジアから撤退したイングランドは、インドへ矛先を向けることとなった。ここはウィキの「アンボイナ事件」に拠った)を『機にイギリス商館の閉鎖が決まったため』、『日本を出国、翌年帰国の船中で病死した』とある。

「安針アダムス」徳川家康に外交顧問として仕え、「三浦按針(あんじん)」(一般には彼の日本名のそれは、「安」ではなく「按」である)の日本名で知られる、イングランド人の元航海士であったウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六年四月二十四日(一六二〇年五月十六日))。日本に最初に来たイギリス人とされる。少年期、造船所に勤め、やがて水先案内人となった。イギリス艦隊に船長として従事した後、オランダに渡り、一五九八年、司令官ヤコブ・マフの率いる東洋遠征船隊に水先案内として乗船、五隻からなる同船隊は途中で四散したが、彼の乗船したリーフデ号は太平洋を横断し、一六〇〇年四月十九日(慶長五年三月十六日)、豊後臼杵湾の佐志生(さしう:現在の大分県臼杵市)と推定される地点に漂着した。彼は船長の代理として大坂に赴き、徳川家康と会い、家康の命令を受け、船を堺より関東の浦賀に回航した。かねてより、関東貿易の開始を熱望する家康はアダムズとの会談を通じ、彼にその期待をかけ、日本橋の近くに屋敷を与え、また、浦賀の近くの三浦半島の逸見(へみ:現在の神奈川県横須賀市)に知行地を給した。「三浦按針」の名はこのようにして生まれた(按針は「パイロット=水先案内」の意味)。アダムズは、同僚のヤン・ヨーステン(ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン Jan Joosten van Lodensteyn(Lodensteijn) 一五五六年~一六二三年:オランダの航海士で朱印船貿易家。「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」。オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに漂着、徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲附近で、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来し、「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子(やようす)」と呼ばれるようになり、これが後に「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる。やがて、東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが、帰国交渉が捗らず、結局、諦めて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した)とともに、まさに家康の外交顧問的存在となり、家康に数学・幾何学の初歩を教授するほか、外交の諸問題に関与し、反カトリックのオランダ・イギリスの対日通商開始を側面より促進したばかりか、朱印状を受けて東南アジアに渡航した。また、伊豆の伊東でイギリス型帆船を建造したことでも知られる。彼はイギリス人ながら、イギリスの対日通商政策とは意見を異にするなど、国際人として家康外交の展開に重要な役割を演じた。日本人を妻としたが、五十五歳で肥前平戸で病死した。妻は馬籠勘解由(まごめかげゆ)の娘といわれ、夫妻の墓は按針塚と名づけられて、逸見に近い塚山公園に現存する(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

 『我々は大阪の頗る大都會たることを見出した。その大いさは郭內の倫敦[やぶちゃん注:「ロンドン」。]に比すべきほどで、幾多の壯麗な、高い、木造の橋を、倫敎に於けるテムズ河ほどの幅を有する河に架けて、交通の便が圖つてある。我々は若干の立派な家屋をそこに見た。しかし、多くではなかつた。それは日本全國の主要港の一つである。驚くばかり大きく、且つ堅固な城がある……』

[やぶちゃん注:「郭內の倫敦」旧ロンドン・ウォール(London Wall:紀元後二世紀頃からローマ人によりロンディニウム(ラテン語:Londinium) の周辺に作られた防御壁であり、その後十八世紀まで維持された。ロンディニウムは現在のロンドンを流れるテムズ川沿岸にあり、ローマ人にとって戦略的に重要な港町であった)、現在の歴史的に古い金融地域に当たるCity of London(グーグル・マップ・データ)があるが、そうだとするとセーリスは目測を誤っている。実際の大阪は二倍は有にあったはずである。]

 西曆十七世紀の大阪について船長セーリスがいつたことは、今日の大阪についても殆ど同樣に眞實である。それは今猶ほ頗る大都會であつて、また日本全國の主要港の一つである。それは西洋人の見解に從へば、『若干の立派な家屋』を有し、『テムズ河程の幅を有する河』――淀川――に架せる『幾多の壯麗な木造の橋』(並びに鐡材及び石材を用ひたる橋をも)を有してゐる。それから、漢時代の支那に於ける城塞の樣式に基づいて、秀吉によつて、且つ堅固な』城は、數層の高さある櫓[やぶちゃん注:「やぐら」。]が失せ、また(一八六八年に)立派な宮殿が破壞されたのにも關らず、依然として工兵技師[やぶちゃん注:“military engineers”。]を驚嘆せしむるものがある。

[やぶちゃん注:「一八六八年」慶応四年。慶応三年十二月九日(一八六八年一月三日)に発せられた「王政復古」の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移って居城していたが、慶応四年一月三日(一八六八年一月二十七日)、旧幕府軍の「鳥羽・伏見の戦い」での敗北によって、慶喜は、船で江戸へ退却、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱の中で、大阪城は出火、御殿・外堀の四・五・七番櫓など、城内建造物の殆んどが焼失してしまった(ウィキの「大阪城」に拠った)。]

 大阪は二千五百年よりもつと古い。だから日本の最古の都會の一つである――尤も現今の名は、大きな川の高い土地といふ意味の『大江の阪』を略したので、それは僅々十五世紀に始つたものと信ぜられてゐるが、それより以前は浪速(なには)と呼ばれてゐた。歐洲人が日本の存在を知つたよりも數世紀前に、大阪は帝國の經濟と商業の大中心であつた。して、現今に於てもさうである。すべて封建時代を通じて、大阪の商人は日本の諸侯に對する銀行家と債權者であつた。彼等は米穀の租稅を金銀に兩替をした――彼等はその數哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約一・六キロメートル。]に亙る防火の倉庫內に、全國用の穀類、綿、絹を貯藏した――して、彼等は諸大名に軍資金を供給した。秀吉は大阪を彼の軍事上の首府とした――嫉妬的で、且つ慧眼なる家康は、この大都會を恐れた。して、その大資本家輩が有する財政的勢力に鑑みて、彼等の富を殺ぐことを必要と考へた。

 今日の大阪――一八九六年[やぶちゃん注:本書刊行(一八九七(明治三〇)年九月)の前年。]の大阪――は、廣大なる面積を占め、約六十七萬の人口を有つてゐる[やぶちゃん注:大阪府単位では同年で既に倍以上の百三十七万七千六百人に達している。]。廣袤[やぶちゃん注:「くわうぼう(こうぼう)」の「広」は東西の、「袤」は南北の長さを指す。幅と長さで「広さ・面積」のこと。]と人口に關しては、現今ただ帝國第二の都會たるに過ぎないが、大隈伯[やぶちゃん注:大隈重信。]が最近の演說に述べた如く、財政、產業、及び商業の上では、東京に優つてゐる。堺、兵庫、及び神戶は、實際ただその外港である。しかも、後者はめきめきと橫濱を凌駕しつつある。內外人共に、神戶が外國貿易の最要港となるだらうと、確信を以て豫言してゐる。何故なら、大阪が全國で最も優秀なる商業的手腕あるものを牽引しうるからである。現今大阪の外周貿易に於ける輸出入高は、一箇年約一億二千萬弗を示してゐる。して、その內地と沿海の商業は莫大なものである。殆どすべての人のすべての需用品が大阪で製造される。して、帝國のいづれの地方に於ても、苟も愉快に暮らしてゐる家庭の用具調度に對し、大阪の工業が幾分の貢獻をしないものは殆ど無い。これは東京がまだ存在しなかつた餘程以前にも、多分さうであつた。今猶ほ殘つてゐる一つの古謠には、『出船千艘、入船千艘』といふ繰り返しの文句がある。その語の作られた頃には、和船だけであつた。今日は汽船もあれば、種々の裝具を備へた大洋航海の船もある。埠頭に沿つて數哩の間、帆檣や煙筒が一見殆ど限りなく列つてゐる。尤も太平洋航路及び歐洲郵便線路の巨舶は、吃水の深いため入港ができないから、大阪の荷物を神戶で取扱つてゐる。しかしこの元氣旺盛なる都會は、數個の汽船會社を有し、今や千六萬弗の費用を投じて、その港灣改良の工事を企ててゐる。二百萬の人口と、少くとも三億弗の外國貿易額を誇るべき大阪は、次の半世紀に實現し難き夢ではない。大阪は各種の大なる商業組合の中心であり、また紡績會社の本場であるといふことを、私は殆どいふに及ぶまい。その紡績機械は一晝夜の中に、職工の交代がただ一囘に止まり、二十三時間運轉を續け、その製造糸量は、英國の工場に比すれば、一錘[やぶちゃん注:「いつすい/ひとつむ」。紡錘を数える単位。]に就いて二倍に達し、印度ボンベー市[やぶちゃん注:“Bombay”。インドのボンベイ。]の工場を凌ぐこと三割乃至四割に及んでゐる。

 

註 大阪には四百個以上の商業會社がある。

[やぶちゃん注:「一億二千萬弗」明治二八(一八九五)年の為替レートで一ドルは一・九八円でほぼ二円であるから、二億四千万円に相当し、明治三十年代の一円を現在の二万円相当とする推定に則れば、四百八十兆円に相当する。明治二十八年の日本の通貨流通高は二億六千万円、同年の日本の国家予算は八千五百万円であったから、実にその三倍に当たる。]

 

 世界の各大都市は、その市民に或る特質を與へるものと信ぜられてゐる。して、日本では大阪人は殆ど一見してわかるといはれてゐる。私は東京人の性格は、大阪人の性格ほどに顯著でないといひうると思ふ――丁度米國に於てシカゴの人は、紐育[やぶちゃん注:「ニュー・ヨーク」。]或はボストンの人よりも一層早く認め得られるのと同樣である。大阪人は一種の機敏な理解と輕快なる元氣を有し、且つ一般に最新式流行に通曉し、或は更に少々それよりも先だつてゐるやうな風がある。これは工業上及び商業上、相互の競爭の烈しい結果を示してゐる。要するに、大阪の商人或は製造業者は、政治上の首府なる東京に於ける、その競爭者よりは商業上、遙かに長い經驗の遺產を有つてゐる。恐らくはこのことが、大阪の旅商人の世間に認められたる優秀なる手腕を幾分說明するだらう。この旅商人は、現代化されたる階級であつて、目醒ましい型の人物を提供してゐる。汽車或は汽船で旅行の際、諸君は一寸談話を交じへた後にも、その何國人であるかを確に決定し難いやうな紳士と、偶然知り合ひになる事があるかも知れない、彼は最新式で、且つ最上型の衣服を着け、服裝に申し分なき趣味を示してゐる。彼は佛獨英のいづれの國語にても、同樣によく諸君と語ることができる。彼はいかにも慇懃である。しかし極めて種々の人物と調子を合はせて行くことができる。彼は歐洲を知つてゐる。して彼は諸君が極東で行つたことのある地方と、また諸君が地名さへ知らぬ場處についても、諸君に非常なる知識を與へることができる。日本に關しては、各地方の特產物とその比較的價値及び沿革に精通してゐる。彼の顏は愉快である――鼻は眞直であるか、またはや〻彎曲してゐる――口は黑い繁つた鬚で蔽はれてゐる。眼瞼だけが、幾分諸君をして、東洋人と會話をしてゐるのだと想像することを得しめるのである。これが今日の大阪の旅商人の一典型である――日本の尋常の小官吏に優さる[やぶちゃん注:「まさる」。]ことは、恰も王公が從僕に於けるが如くである。若し諸君が大阪の都會で逢ふ場合には、諸君は多分彼が日本服を着用してゐるのを見出すであらう――立派な趣味の人ならでは、なかなかできないやうな服裝をしてゐて、且つ日本人よりは寧ろ假裝せる西班牙人[やぶちゃん注:「スペインじん」。]或は伊太利人のやうに見えるだらう。

 

       

 生產及び分配の中心として大阪が名を馳せてゐるため、日本全國の都會中、最も近代化した、最も純日本的特徵の乏しい都會と、大阪を想像する人があるだらう。しかし大阪は、その反對である。日本の他の大都會に於けるよりも大阪に於ては、西洋服を見受けることがもつと稀である。この大市場の群集ほど、華美な服裝をしたものはなく、またこれほど綺麗な町もない。

 大阪は種々の流行を作りだす處だと思はれてゐる。して、目下の流行は色が多樣へ向つて行く、愉快なる趨勢を示してゐる。私が日本に來た時、男子の衣服の主色は黑であつた特に暗靑色であつた。いかなる男子の群集も、この色合の團塊を呈するのが普通であつた。今日はもつと色調が輕快である。して、種々の灰色――濃い灰色、鋼鐡色の灰色、靑がかつた灰色、紫がかつた灰色――が、優勢を占めてゐるやうに見える。しかしまた幾多の心地よい變色もある――例へば、靑銅色、金褐色、『茶色』[やぶちゃん注:原文では、ここのみ“"tea-colors,"”とクォーテーション・マークが附いているせいである。英語の「brown」を日本の如何にも日本語らしい色名に英訳したのである。]などである。婦人の衣服は、無論もつと變化に富んでゐる。しかし男女いづれも、成人に對する流行の性質は、嚴格なる良風美趣の法則を放擲するやうな傾向を示してゐない――はでやかな色彩は、ただ子供と藝妓の衣裳にのみ現はれてゐる――藝妓には永遠の若さの特權が與へられてある。最近流行の藝妓の絹羽織は、燃ゆるが如き靑空色であることを、私はここに述べておく――熱帶のやうな色で、それを着てゐる人の職業が、遠方から見てもすぐわかる。しかし高級の藝妓は、服裝の好尙が地味である。私はまた寒氣の節、戶外で男女の着ける長い外套のことを話さねばならぬ。男子のは、西洋のアルスター型長外套[やぶちゃん注:“ulster”。アルスター外套。ゆったりとした長い厚めの男女のコートで、防水処理が施され、ベルトがついていることもある。もともとアイルランドのアルスター地方産の羊毛で作られたので、この名がつけられた。アルスター・コートはトレンチ・コートの原型で、本来はダブルである。オーダー専門店「BOTTONE公式サイト内のこちらが歴史と変遷をよく教えてくれる。]を適當に修飾したもののやうである。して、小さな肩被[やぶちゃん注:「かたおほひ」と訓じておく。原文は“cape”。肩と背を覆う袖なしのマント状部分。所謂、シャロック・ホームズの着ているあれを想起すればよい。]が附いてゐる。地質は羊毛で、色は淡褐色或は灰色が普通である。婦人のには、肩被がなく、大抵黑無地の大幅羅紗を用ひ、澤山に絹の緣がついて、前の襟が低く裁つてある。それは咽喉から足までボタンでとめてあつて、全く上品に見える。尤も下に結んでゐる、太く重い絹の帶の蝶形を容れるため、背部では餘程廣くゆるやかにしてある。

[やぶちゃん注:最後の部分は“though left very wide and loose at the back to accommodate the bow of the great heavy silk girdle beneath.”で、帯を「蝶」型に結んでその下に「容れる」=「収める」ことになるため、の謂いだろう。平井呈一氏は恒文社版「大阪」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で『ただし、背中は、下へお太鼓をしめた帯がはいるから、背幅を広くゆっくり取ってある』と訳しておられ、私のような無粋な男でも全く躓かずに意味が判る。]

 

 風習の點に劣らず建築に於ても、大阪は依然殆ど理想的に日本風になつてゐる。廣い大通もあるが、大抵町幅は甚だ狹い――京都の町よりも狹い位である。三階の家屋や二階の家屋の町もあるが、平家造りのものが數方哩[やぶちゃん注:“square miles”。平方マイル。]にも及んでゐる。市の全部は、瓦葺屋根を有する低い木造建築の聚團である。しかし東京の町よりも、その看板や看板の繪に於ては、一層面白く、活氣を帶び、珍異である。また市全體が、その多くの水路のために、東京より更に景色がよい。日本のヴエニス[やぶちゃん注:“Venice”。]と呼ばる〻のも過稱ではない。何故なら、淀川の諸支流によつて、數個の大きな部分に分劃[やぶちゃん注:「ぶんかく」。「区画」に同じい。]されてゐる外に、運河が東西南北に通つてゐるからである。淀川に面した町よりも狹い運河の方が、もつと興趣に富んでゐる。

 これらの水路の一筋を見通す眺めは、街路の通景のやうなものとして、これほど珍らしいものが殆ど日本にあるまい。運河は鏡の面の如く靜かに、兩岸の家屋を支へてゐる高い石造の堤壁の間を流れて行く――二階乃至三階の家屋が、すべて丸太を施して石垣の外へのばされ、正面はそつくり水上に張り出してゐる。それは後方からの壓迫を暗示するやうに、ごちやごちやに集つてゐる。して、この押し合ひ、詰め込んでゐる趣は、意匠の整齊[やぶちゃん注:「せいせい」。整い揃えること。整い揃っていること。]が缺けてゐるため、更に增加してゐる――いづれの家も他の家と全然似てゐるといふことはなく、悉皆[やぶちゃん注:「しつかい(しっかい)」。悉(ことごと)く皆(みな)。残るくまなく総て。]或る名狀し難き極東風の奇異さ――一種の民族的特性――を有してゐるので、時も場處も非常に遠いといふ感じが起こる。欄干の附いた可笑げな[やぶちゃん注:「をかしげな」。]小さな緣側が、張り出してゐる。格子のついた、玻璃をはめない出窓の下に、鬼子のやうな小さな露臺があつて、[やぶちゃん注:ここは“glassless windows with elfish balconies under them, and rootlets over them like eyebrows; tiers of tiled and tilted awnings;”という原文を見ても、よく意味も分からぬし、情景も見えて来ない。平井呈一氏は『格子を打った、ガラス戸のない出窓の下には、箱庭みたいな露台があり、』と訳しておられる。]上方には眉毛のやうな小屋根がある。瓦を葺いた彎曲した庇が出でてゐる。また大きな檐[やぶちゃん注:「のき」。]は、或る時刻には、土臺へまで影を投ずる。木材の造作が大抵黑い――星霜を經たためか、または汚れたために――ので、影は實際よりも一層深いやうに見える。影の內部の方に、露臺の柱や、緣側から緣側への竹梯子や、磨いた指物細工の隅角[やぶちゃん注:「すみかど」。]など、いろいろの突出したものが、ちらつと見える。時には莚蓆[やぶちゃん注:二字で「むしろ」と訓んじおく。]や、竹を割いて作つた幕、卽ち簾や、大きな表意文字を書いた木綿の暖簾が吊つてある。して、すべてこれが忠實に水中に倒さに[やぶちゃん注:「さかさに」。]映つてゐる。種々雜多の色彩は、畫家を欣ばすべき筈だ――磨いた古い材木の黃焦茶色、チヨコレート色、栗色の褐色。莚蓆や簾の濃い黃色。漆喰を塗つた面の淺黃白色。瓦の落ちついた灰色など。……私が最近に運河を見た時、かやうな見通しの光景は、春靄の魅惑に鎖ざされてゐた。それは早朝であつた。私が立つてゐた橋から二百碼[やぶちゃん注:「ヤード」。約百八十三メートル。]先きでは、家々の前面が靑くなり始めた。もつと向うでは、透明な蒸氣のやうであつた。それから更に遠方では、明かるい光の中へ突然溶けて消えるやうに見えた。宛然[やぶちゃん注:「ゑんぜん」。まさにその(ここは「夢」)通りと思われるさま。(ここは「夢」に)そっくりであるさま。]夢の行列であつた。私は笠と簑をつけた百姓が棹さしてゐる小舟の進行を注視した――それは昔の繪本にある百姓のやうであつた。小舟と人間が、輝いた靑色に變はり、それから灰色に變はり、それから、私の眼前で――滑るが如くに涅槃裡[やぶちゃん注:「ねはんり」。“glided into Nirvana.”。]に沒入した。その輝いた春靄によつて、かやうに作られたる無形といふ觀念は、音響の無いために更に强められた。何故なら、これらの掘割の町は、商店の町が騷々しいと同じほどに靜かだから。

 

 日本で大阪ほど數多の橋を有する都會は、他にない。市區の名は橋に基づいてつけられ、距離も橋を標點としてある――いつも高麗橋[やぶちゃん注:「こうらいばし」。原文“Koraibashi, the Bridge of the Koreans,”。ここ(グーグル・マップ・データ)。]から計算される。大阪の人は何處へ行くにも、その場處へ最も接近した橋の名を思ひ起こして、すぐに道筋を知るのである。しかし主要なる橋の數が百八十九個もあるから、かかる見當の定め方は、他國の人に取つては、あまり役に立たぬ。若し商人であれば、橋の名を覺えなくても、仕入れをしようと思ふどんな品でも見出すことが出來る。大阪は帝國に於て商賣上、最も整頓せる都會である。また、世界中で最も秩序整然たる都會の一つである。それは昔から同業組合の都會であつて、種種の商業及び製造業は、昔の習慣に基づいて、今猶ほ特別な區や町に集つてゐる。だから、すべての兩替屋は北濱に店を持つてゐる――これは日本のロンバード街譯者註である。反物商は本町を獨占してゐる。材木商はすべて長堀と西橫堀にゐる。玩具製造者は南久寳寺町と北御堂前にゐる。金物商は安藤寺橋通を占有してゐる。藥品商は道修町にゐる。また指物師は八幡筋にゐる。その他多くの商賣も、それから娛樂の場處も、そんな風になつてゐる。劇場は道頓堀にあつて、手品師、歌ひ手、踊りの藝人、輕業師及び賣卜者[やぶちゃん注:「ばいぼくしや」。占い師。]は、すぐその附近の千日前にゐる。

 

譯者註 佛敎の商業區に於ける銀行通。

[やぶちゃん注:私は大阪に今まで三度しか行ったことがない。しかもその内の一度は中学の修学旅行であり、二度目は某高等学校に於ける人権委員会委員長としての「全同協全国大会」への参加であり、三度目は国立文楽劇場での「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言の全観覧のためであって、凡そ殆んど散策したこともなく、地理的知識も皆無に近い。されば、以上の場所を地図で示すのは私自身にとってはただ部外者としての地図上の各地の関係性以外の属性を示すのみであり、注しても、判る人には無用の長物で、大阪を知らぬ人には「地図を見てもねぇ」という人も多かろうと思い、当初は一切注さないことにして公開したが、一日経って、やはり最低の地図上の相当位置は示すことに考えを変えた。

「北濱」現在の大阪府大阪市中央区北浜(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の一部。現在も「大阪取引所」を中心とした金融街で、ウィキの「北浜」によれば、『東京の金融街である兜町が「シマ」と呼ばれるのに対し、北浜は「ハマ」と呼称される』とある。

「ロンバード街」Lombard Street は先に示した旧ロンドン・ウォールの中のシティ・オブ・ロンドンの、「イングランド銀行」から東に走る三百メートルほどの通りの名称。多くの銀行や保険会社が軒を連ねているため、「ロンドン金融市場」の別名として慣用されている。イギリスでは十三世紀末にエドワードⅠ世がユダヤ系金融業者を追放したが、この前後から北イタリアのロンバルディア(Lombardia)出身の商人たち(ロンバルディア人。これが名の由来)が来住し、貿易と絡めて、両替・為替業を営み、銀行業者の地位を確立した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。ここ

「本町」中央区本町(ほんまち)。江戸時代以来、ここは繊維・衣料関係の町として栄え、北隣の安土町と同様、近江商人の多い町であった。

「長堀と西橫堀」ここの中央東西が前者の名を残す「長堀通り」、Pマークの南北の部分が後者(西横堀川があったが、埋め立てられた)。

「南久寳寺町」「みなみきゅうほうじまち」(現代仮名遣。以下同じ)は大阪府大阪市中央区南久宝寺町

「北御堂前」中央区本町にある北御堂、本願寺津村別院附近。

「安藤寺橋通」中央区南船場にある安藤寺橋を中心とした東西の通り。

「道修町」中央区道修町(どうしゅうまち)

「八幡筋」道頓堀の北側の、三つ目の東西の通りの通称。このレッド・マーク附近

「千日前」中央区千日前。]

 

 大阪の中央部には、幾多の頗る大きな建築がある一一劇場、料理屋、それから全國に有名な旅館など。しかし西洋風の建物の數は、目立つて少い。尤も八百乃至九百本の工場の煙突がある。しかし工場の建築は、槪して西洋式の設計でない。眞正の『外國』式建築は、一軒のホテル、二重勾配屋根を有する府廰、花崗石の柱の古典式玄關を有する市役所、立派な近代風の郵便局、造幣局、造兵廠、數種の製造所及び釀造所である。しかしこれらのものは、非常に散在してゐるので、實際、此都會の極東的性質と反せる、特異な印象を與へない。だが、一つ全然外國風な一小區域がある――これは古い居留地で、まだ神戶が存在しなかつた時代に起こつたものである。その街路は立派に作られ、建物は堅固に出來てゐるが、いろいろの理由で、宣敎師の住居に委ねてある――ただ一軒の古くから殘つてゐる商會と、多分一軒か二軒の代理店が開店してゐる。この荒唐したる居留地は、大なる商業上の荒野に於ける靜けさの沃地(オーエーシス)[やぶちゃん注:“oasis”。オアシス。]である。大阪の商人間に、この建築風を模倣しようとの試みもない。實際、日本の都會で大阪ほど、西洋建築へ對して好意を示さないものはない。これは鑑識が足りないからではなく、經濟上の經驗によるのである。大阪は西洋風に――石材、煉瓦及び鐡を以て――建築するのが、その利益疑ふべからざる時と場處に於てのみさうするであらう。東京に行はれてゐるやうに、かかる建築を投機的に企てるといふことはないだらう。大阪の遣り方は、じりじり進む方であつて、また確實なものに投資する。確實な見込みのある場合には、大阪商人は盛んなる提案をする――二年前、或る鐡道の買収と復興のために五千六萬弗を政府へ提供したのは、その一例である。大阪のすべての家屋の內で、朝日新聞社が最も私を驚かした。朝日新聞は日本の新聞紙中、最大なものである――恐らくはいかなる東洋語で發行せらる〻新聞も、その右に出づるものはあるまい。それは日刊繪入新聞で、その編輯法は頗る巴里の新聞に似てゐる――文藝欄があつて、外國小說の飜譯や、時事に關する輕妙奇警な閑話などが載せてある。人氣の高い作家に多額の金を拂ひ、また通信と電報に莫大の費用を投じてゐる。その插畫――現今或る婦人の手に成る――は、丁度佛敎のポンチ雜誌が、英國の生活に於ける如くに、新舊あらゆる日本の生活を充分に寫し出してゐる。それは兩面印刷機を使用し、特別な列車を契傭[やぶちゃん注:「けいよう」。長期に雇い入れる契約をすることであろう。]し、して、その配布は帝國の大抵の場處へ及んでゐる。だから朝日新聞社は、大阪に於ける最も綺麗な建築の一つであらうと、私は確に期待してゐた。しかしそれは昔の武士屋敷であつた――その邊では、殆ど最も靜かで、また質素な趣のある場處であつた。

[やぶちゃん注:このオチは凄い! 「株式会社 朝日プリンテック」公式サイトのこちらに画像が小さいが、中之島の武家屋敷時代の写真が二枚ある。平井呈一訳一九七五年刊恒文社版「仏の畑の落穂 他」の冒頭に、ここで小泉八雲が訪れた当時とする朝日新聞社本社写真があるが、廂を除いて殆んど変わらない。これはビックリだ!

「一軒のホテル」不詳。それが判りそうな出版物はあるようだ。旧位置とホテル名をお教え願えれば幸いである。

「二重勾配屋根を有する府廰」これは西大組江之子島上之町(現在の西区江之子島二丁目)にあった二代目庁舎のこと。修飾の原文は“mansard roof”(マンサード・ルーフ)で「腰折れ屋根」のこと。切妻屋根の変形で、屋根の勾配が上部がゆるく、下部が急な二段構造になっているもの。十六世紀の中頃にイギリス・イタリアで用いられルーブル宮殿にも採用された。十九世紀中頃、特にフランスやアメリカで一般的となり、アメリカでは「ギャンブレル屋根」(gambrel roof)とも称する。屋根裏部屋の天井を高くし、広い空間を確保出来る利点がある。北海道地方で家畜飼料用倉庫(サイロ)に採用されているのも、この利点からである。名称はフランスの建築家 F.マンサールに因むとされる。ウィキの「大阪府庁舎」のこの画像が当時のそれ。マンサード・ルーフだと言われれば、そうも見えなくはないが、この写真ではよく判らぬ。

「花崗石の柱の古典式玄關を有する市役所」当時は上記の大阪府旧庁舎の北側に建っていた。画像は見当たらない。

「二年前、或る鐡道の買収と復興のために五千六萬弗を政府へ提供した」不詳。識者の御教授を乞う。]

 すべてこの地味で、且つ賢い保守主義は、私を欣ばせたといふことを、私は告白せねばならぬ。日本の競爭力は、今後永く昔の質朴な生活を維持して行く力に存するに相違ない。

 

註 外國領事館は、一八六八年の內亂に際して、大阪を去つて神戶に避難した。それは大阪では本國の軍艦を以て、よく領事館を保護することができなかつたからである。一たび神戶へ移つてから後、その深い灣が與へる便宜は、大阪居留地の運命を終はらしめた。

 

       

 大阪は帝國の大商業學校である。日本のあらゆる地方から、靑年が工業或は商業の特殊な部門を學ぶために、ここへ送られる。いかなる缺員の地位へ對しても、澤山の志望者がある。だから商人はその丁稚を選擇するのに、頗る用心深いといふことである。志望者に關して、當人の人物と、身許をよく注意して調べる。丁稚の親、または親戚は、一文も金を拂はない。奉公の期限は、商工業の性質によつて異る。しかし普通歐洲に於ける徒弟奉公期間と全く同じほどに長い。して、或る種の商業では、十二年乃至十四年に及ぶのもある。かやうなのは反物商の場合に、普通要求せらる〻奉公期限であると私は聞いてゐる。しかも反物商の丁稚は、一箇月にただ一日の休みしかなくて、一日に十五時間も働かねばならない。徒弟の全期間を通じて、彼は何等の賃銀を受けない――ただ寢食と絕對に必要な被服を受けるだけである。主人は彼に一箇年に二枚の衣服を與へ、下駄を給することになつてゐる。恐らくは盛大な祝祭などの日に、少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の小遣錢を惠まれることがある――しかしこれは契約には規定してない。しかし彼の奉公年限が終はると、主人は彼が獨立して、小規模な商賣を始めるに足るだけの資本を與へるか、若しくは何か他の方法によつて、實際有力なる援助を與へる――例へば、商品或は金員について、信用貸の便宜を計つてやる。多くの丁稚は、その主人の娘を娶る。その場合には、若夫婦が世の中へ乘り出すに當つて、大抵必らず好都合である。

 これらの長い徒弟勤務の訓練は、品性の嚴格な試驗であると考へることができる。假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]丁稚は決して荒々しい挨拶を受けないけれども、彼はいかなる歐洲の事務員も堪へないやうなことを堪へねばならぬ。彼は毫も閑暇を有たない――睡眠に必要な時間を除いては、自分の時間と稱すべきものを有たない。彼は昧爽[やぶちゃん注:「まいさう(まいそう)」。「昧」は「ほの暗い」、「爽」は「明らか」の意で、「夜の明け方・暁・未明」。]から夜遲くまで、おとなしく、また着實に働かねばならぬ。最も質素な食物で滿足せねばならぬ。さつぱりした身嗜み[やぶちゃん注:「みだしなみ」。]をせねばならぬ。して、決して不機嫌を見せてはならぬ。放蕩な性質を有つてゐるものとは思はれてゐない。またかかる過失に陷る機會も與へられてゐない。數箇月も引き續いて、晝夜その店を離れないやうな丁稚もある――營業時間に坐つてゐるのと、同一の疊の上で寢に就く。絹布類の大商店の店員は、特に室內にばかり居るので、彼等の不健康らしい蒼白色は、世間に知れ互つた事實である。年々歲々、彼等は每日十二時間乃至十五時間も同一の場所に坐つてゐる。だから、どうして彼等の脚が、達磨のやうに落ちてしまはないかと不思議に思はれる。

 

註 日本の通俗的傳說によれぱ、佛敎の偉大なる長老で、且つ修道者なる達磨は、九年間の絕えざる冥想のため、兩脚を失つたと云はれてゐる。達磨の可笑げな[やぶちゃん注:「をかしげな」。]人形が、普通の子供の玩具となつてゐる。それは脚がなくて、また內部に重量[やぶちゃん注:「おもり」。]を入れて、いくら投げても、いつも眞直ぐな態度を保つやうに仕組んである。

 

 時としては道德上の失敗者もある。恐らくは丁稚が店の金員を幾らか濫用して、放蕩に費消してしまうこともあるだらう。恐らくはもつと惡るいことを行ふ場合もあるだらう。しかしどんな事件であらうとも、彼は滅多に逃亡しようとは考へない。もし彼が饗宴に浮かれたならば、それから一兩日身を隱してゐても、やがて自分から戾つてきて白狀し、詫びを入れる。彼は二三囘、或は多分四囘位までも、その放縱の過失を宥される[やぶちゃん注:「ゆるされる」。]だらう――もし眞に內心が姦惡であるといふ證據がない限りは――して、彼の前途、彼の家族の感情、彼の祖先の名譽、それから一般商人の資格などの諸點に照らして、彼の缺點について、懇懇と說諭されるだらう。彼の境遇の困難は、親切な思ひやりを以て考へられ、決して小過失のために解傭[やぶちゃん注:「かいよう」。契約雇用解除。]されることはない。解傭は多分彼の一生を破滅させることになるだらうから、その明白な危險に對して彼の蒙を啓くため、あらゆる注意が加へられる。大阪は實際馬鹿な行爲を演ずるのには、日本中で最も不安な場處である――大阪の危險で、且つ邪惡な階級は、東京のそれよりも更に怖ろしい。して、この大きな都會の日々の新聞は、正しく丁稚が學ばねばならぬ義務の一部である、行政上の法則に背いたために、或は貧窮に陷つたり、或は餘儀なく自殺をしたりする人々の恐るべき實例を與へてゐる。

 丁稚が極めて幼年の頃、奉公に入つて、その商店に於て殆ど養子のやうに育て上げられた場合には、主人と丁稚の間に頗る强い愛情關係が生じてくる。主人へ對し、或は主家の人々へ對して、非常な獻身的な美談が、屢〻傳へられる。時としては、破產した商人が、昔の番頭によつて、その高貴を復興されることもある。また、丁稚の愛情が奇異なる極端となつて現はれることもある。昨年一つの珍事があつた。或る商人の一人息子――十二歲の少年――が、惡疫流行の際、虎列剌[やぶちゃん注:「コレラ」。]病で殪れた[やぶちゃん注:「たふれた」(音は「エイ」)。死んだ。]。亡くなつた子供と非常に親密であつた十四歲の丁稚は、葬式の後、間もなく汽車の前へ身を投げて自殺した。彼は一通の手紙を殘した――

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本でも本文と同ポイントで全体が二字下げである。引き上げ、前後を一行空けた。少年の署名は底本では下インデント三字上げ。]

   

 長い間、御世話樣に相成り、御高恩は言葉に申し述べ難く候。只今これ限り相果て候こと、不義理の至りに存じ侯へ共、再び生まれ變はつて御恩を報じ可申上候。ただ妹おのと[やぶちゃん注:“O-Noto”。彼の妹の名前。]のことのみ心配に候。何卒同人へ宜しく御目をかけ下され度願上候。

              間 野 由 松

    御 主 人 樣

 

[やぶちゃん注:小泉八雲は遺作となってしまった「神國日本」の「家族の宗敎」にも、この話を紹介している。『「恐らく尤も異樣なのは、十四歲の少年が、その主人の小さい子息なる子供の靈に侍するために、自殺したといふ事である』(私の「小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(4) 家族の宗敎(Ⅰ)」を見られたい。また、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二八(一八九五)年の十月の記事に、『この頃、主人の幼い子供の死のあとを追って鉄道自殺した少年のことを知る』とある。]

小泉八雲 日本美術に於ける顏について (落合貞三郞譯) / その「五」・「六」 / 日本美術に於ける顏について~了

 

 [やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本美術に於ける顏について (落合貞三郞譯) / その「一」』を参照されたい。]

 

       

 私は今頃外國の繪入新聞或は雜誌を眺める時、その彫刻畫にあまり愉快を見出さないといつた。大抵それは私に嫌惡を催させる事が多い。その畫は私に取つて粗末で醜く、またその寫實的な觀念は、淺薄と思はれる。かやうな作品は何ものをも想像力に委ねるといふ事がない。して、いつも折角の骨折りを無駄に歸せしめる。普通の日本畫は多くのものを想像力に殘しておく――否、强く想像力を刺激せずには止まぬ――して、決して努力を裏切らない。歐洲の普通の彫刻畫に於ては、一切のものが細密で、且つ個性化されてゐる。日本畫に於ては、一切のものが非人格的で、且つ暗示的である。前者は何等の法則を示さない。それは特殊性の硏究である。後者は常に法則について幾らか敎へる處がある。して、法則と關係のない限りは、特殊性を抑制して現はさない。

 西洋美術は餘りに寫實的だと日本人がいふのを耳にすることが屢〻ある。して、その判斷は眞理を含んでゐる。しかしその日本人の趣味に反する寫實主義、特に顏面表情の點に於ける寫實主義は、單に細部の緻密のために咎むべきではない。細部そのものはいかなる美術に於ても非難されてゐない。また最高の美術は、細部が最も精巧に描寫されたものなのである。神性を發見し、自然の粹を超越し、動物及び花卉に對する出世間[やぶちゃん注:「しゆつせけん」。世間の俗事から離れて超然としていること。]的理想を發見した美術は、細部のできうる限り銳い完全を特徵としてゐた。して、希臘美術に於ける如く、日本美術に於ても、細部を用ひて、憧憬の目的に反するよりは、寧ろ輔助[やぶちゃん注:「ほじよ(ほじょ)」。「補助」に同じい。]となしてゐる。西洋現代の插畫の寫實主義に於て、最も多く不愉快を與へるのは、細部の夥多[やぶちゃん注:「くわた(かた)」。物事が多過ぎるほどにあること。夥(おびただ)しいさま。]でなく、私共がやがて悟るであらう如くに、細部が表徵となることである。

 日本美術に於て、人相上の細部を抑制したことに關して、最も奇異なる事實は、私共がこの抑制を見ようとは、最も期待しない方面、卽ち浮世繪と稱する作品に、最も明らかに現はれてゐる事である。何故なら、たとひ[やぶちゃん注:この「たとひ」という訳語は呼応もなく、原文を見ても、明らかに不要で、判り難くさせているだけである。]この派の畫家は、實際甚だ美しく幸福な世界の畫を描いたのであるが、彼等は眞實を反映すると公言してゐたからである。或る形式の眞理を彼等はたしかに示したのであつた。しかしその趣は私共の普通の寫實觀念とは異つたものであつた。浮世繪畫家は現實を描いたけれども、嫌惡すべき或は無意味の現實を描いたのではなかつた。題材の選擇によつてよりは、寧ろ彼の拒斥[やぶちゃん注:「きよせき(きょせき)」。原文“refusal”。拒絶。]の點によつて、一層彼の地位を證明した。彼は對照と色のことを支配する法則、自然の聯結の一般性、昔の美と今の美に對する秩序を探求した。その他の點に於ては、彼の美術は決して憧憬的ではなかつた。それはありのま〻の事物を廣く網羅した美術であつた。だからたとひ彼の寫實主義はただ不易性、一般性、及び類型の硏究にのみ現はれてゐるにも關はらず、彼は正しく寫實主義者であつた。して、普遍的事實の綜合を示し、自然を法則の體系化したるものとして、この日本畫はその手法上、眞正の意味に於て科學的である。これに反して、一層高尙な美術、憧憬的な美術(日本美術にまれ、また古代希臘美術にまれ)は、その手法上主もに宗敎的である。

 美術の科學的と憧憬的の兩極端が相觸れる處に、兩者によつて認めらる〻或る普遍的な審美上の眞理が見出されるだらう。兩者はその沒人格的に於て一致する。兩者は個性化することを拒否する。して、これまで存在したうちで最も高尙な美術が與へる敎訓には、この兩者共通の拒否に對する眞正の理由が暗示されてゐる。

 大理石、寳玉、或は壁畫を問はず、古代の頭の美は、何を表現してゐるか?――例へば、ウィンケルマンの著書の卷頭を飾れる、かのリューコセーアの驚嘆すべき頭の美は何を示すか? 單なる美術批評家の著作から答を求めるのは無用である。科學のみがそれを與へ得るのだ。讀者はそれをハーバート・スペンサーの人物美に關する論文のうちに見出すであらう。かかる頭の美は知的材能の超人的完全なる發達と均衡を意味してゐる。私共が『表情』と稱するものを構成する、一切容貌の變差は、それが所謂『性格』なるものを現はすに比例して、ますます完全なる類型からの分離を現はす――して、かかる完全型からの分離は多少不愉快、若しくは苦痛なものである。或はさうあるべきである。何故なら、『吾人を欣ばす容貌は、內部的完全の外面に於ける相關であつて、吾人をして嫌惡を催さしむる容貌は、內部的不完全の外面に於ける相關である』からである。スペンサー氏は更に進んでいつてゐる。たとひ平凡な顏面の背後に偉大な人格があつたり、また、立派な容貌が、貧弱な精神を隱してゐることが往々あるにしても、『これらの例外は、惑星の攝動か、その軌道の一般的楕圓形を破壞しないのと同じく、この法則の一般的眞理を破壞することはない』

[やぶちゃん注:最後に句点がないのは、ママ。

「ウィンケルマン」は「二」で既出既注。但し、彼「の著書の卷頭を飾れる」「リューコセーアのの驚嘆すべき頭」とある書は不明。処女作の「ギリシア美術模倣論」( Gedanken über die Nachahmung der griechischen Werke in der Malerei und Bildhauerkunst :一七五五年)かと思い、調べたが、私はそれらしい絵を見出すことが出来なかった(「これかなぁ」と思うものも、キャプションが読めないので諦めた。新しい英訳本では、この表紙っぽい気もした(グーグルブックスの“Winckelmann's Images from the Ancient World: Greek, Roman, Etruscan and Egyptian”))。私が調べたのは、“Internet Archive”の彼の著作画像である。何方か、お調べ戴き、これだと指定願えると、恩幸、これに過ぎたるはない。【2019年11月30日:追記】いつも全テクスト作業に貴重な情報を頂戴するT氏が発見して下さった!

   《引用開始》

 「ウィンケルマンの著書の卷頭を飾れる、かのリューコセーアの驚嘆すべき頭」は”Internet Archive”の、

"The history of ancient art among the Greeks 1850”のこの口絵

と思われます。この口絵の説明がありません。しかし、藪野様の引用された google book の図版説明を見ると[やぶちゃん注:ずっと下げて行くと、画像が見える。]、Fig54, 55, 56が”Leucotha”と書かれ、特にFig55が”Head of statue of Laucothea in the Museo Capitolino”と書かれています[やぶちゃん注:画像の前の方の数字を打った画像解説リスト内。]。google bookの最初には、

This Dover edition, first in 2010, contains all copperplateengrave illustrations from Monumenti antichi inesiti, by Johan Joachim Winckelmann, originally published by the author in Rome in 1767.

とあるので、元本は”Monumenti antichi inesiti”であることがわかります。これも”Internet Archive”の(但し、イタリア語)、

 ”Monumenti antichi inesiti”(挿絵のあるp178)

で、Fig55と全く同一のものを見ることができます。この図(google Bookの表紙)が ”Head of statue of Laucothea”であるとすると(イタリア語はチンプンカンプンですので)、同じ図が卷頭に現れる本は、最初に書いた”The history of ancient art among the Greeks 1850”になります。 "The history of ancient art among the Greeks”は複数の版が archive には有りますが、卷頭 (その近くも含め)に在るのは、上記版のようです。

   《引用終了》

T氏に感謝申し上げるとともに、「リューコセーア」(イーノー。次注参照)の美しさに打たれた。“The history of ancient art among the Greeks 1850”の全部をPDFで落とし、当該画像をソフトでトリミング、周囲の黄変部や絵内部の汚損を可能な限り、除去し、ここに掲げることとした。

 

Leucothea

 

「リューコセーア」“Leucothea”。ギリシア神話に登場する女性(死後に女神)イーノー(ラテン文字転写:Īnō)。テーバイの王女として生まれ、後にボイオーティアの王妃となった。死後、ゼウスによって女神とされ、海の女神レウコテアー(Leukothea)或いはレウコトエー(Leukothoe)として信仰された。レウコテアーとは「白い女神」の意。詳しくは参照したウィキの「イーノー」を見られたい。

「攝動」恒星の引力を受けて楕円軌道上を動くその恒星系の恒星が、他の惑星の引力を受けて楕円軌道からズレること。]

 希臘美術も日本美術も、スペンサー氏が『表情は形成中の容貌である』譯者註と、簡單な形式に云ひ現はした人相上の眞理を認めた。最高の美術、卽ち神聖界に到達するため現實を超越した希臘美術は、完成された容貌の夢を私共に與へる。今猶ほ誤解を受けるほど、西洋美術よりも廣大なる日本の寫實主義は、ただ『形成中の容貌』、或は寧ろ形成中の容貌の一般法則を私共に與へるのである。

 

譯者註 これは「完成された容貌」に對していつたものである。希臘美術は理想的完成の容貌に對すゐ憧憬の夢を示してゐる。日本の寫實主義も亦殆ど理想主義と稱すべきほど、廣く一般的な趣を見せてゐるといふ趣意が、この一段に述べてある。

[やぶちゃん注:「スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戶川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。小泉八雲の引用元は捜し得なかった。【2019年11月40日:追記】先のT氏より、“ Essays Scientific, Political, and Speculative II”の“Personal Beauty (リンク先は“Internet Archive”の同書画像の当該ページ。左ページの中央)の以下の一節である旨、お教え戴いた。

In brief, may we not say that expression is feature in the making ; and that if expression means something, the form of feature produced by it means something?

 

これも感謝申し上げるものである。

 

       

 かやうにして私共は希臘美術と日本美術が、兩者同樣に認識した共通の眞理に到達した。卽ち個人的表情の無道德的意義である。して、私共が人格を反映する美術に對する歎賞は、無論無道德である。何故なら、個人的不完全の描寫は、倫理的意義に於ては、歎賞に値する題材でないから。

 眞に私共を惹きつける顏容は、內部の完全或は完全に近いものの外形に於ける相關と考へられるけれども、私共は槪して內部の道德的完全を少しも現はさないで、寧ろその反對の種類の完全を暗示するやうな人相に興味を認めてゐる。この事實は日常生活にさへも明白である。私共が秀でた蓬々[やぶちゃん注:「ほうほう」。伸びて乱れているさま。]たる眉、銳い鼻、深く据わつた[やぶちゃん注:「すわつた」。]眼、どつしりした顎を備ヘた顏を見て、『何といふ力!』と叫ぶ場合、私共は實際に力の認識を表白してゐるのである。しかしそれはただ進擊と殘忍の本能の基をなすやうな種類の力である。私共が鷲の嘴の如く彎曲した强い顏、所謂羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]人風の橫顏を有する人物を賞賛する時、私共は實際掠奪人種の特徵を賞讚してゐるのである[やぶちゃん注:「賛」と「讚」の混在はママ。]。實際私共は單に獸性、殘酷、或は狡猾の特徵のみ存する顏を歎賞するのではない。しかしまた私共は、或る聰明の徵候と結合せる場合には、頑固、進擊性、及び苛酷の徴候を歎賞するのも事實である。私共は男らしい人格といふ觀念を、いかなる他の力の觀念よりも優さつて、進擊的の力と共に聯想するとさへ云へるだらう。この力が肉體的であらうと、或は知力的であらうとも、少くとも普通の選擇では、私共はそれを心の眞に優等なる諸能力よりも以上に評價してゐる。して、聰明なる狡猾を呼ぶのに、『明敏』といふ誇飾語[やぶちゃん注:「こしよくご」。原文は“euphemism”(ユーフォメィズム)で「婉曲法・婉曲語句」の意。但し、漢語の「誇飾」は「華麗な美文体」を意味する。ここ本邦の前者。]を以てしてゐる。恐らくは希臘の男性美の理想が、或る現代人に發揮された時、それは寧ろ崇高とは正反對の特徵の烈しい發達を示せる顏よりも、普通の看者[やぶちゃん注:「みるもの」と訓じておく。]に興味を與へることが少いだらう――何故なら、完全なる美の知的意義は、人間の最高なる諸能力の完全なる均衡といふ奇蹟を、鑑賞しうる人にして、始めて悟られうるからである。近代美術に於ては、私共は性の感情に訴へる婦人美を求めたり、またはかの父母の本能に訴へる兒童美を求めたりしてゐる。して、私共は男性の描寫に於ける眞正の美を目して、只單に不自然と呼ぶのみでなく、猶ほまた柔弱だと評するに相違ない。戰爭と戀愛は、近代生活を反映する嚴肅なる美術に於ては、依然として二つの基調をなしてゐる。しかし美術家が美或は德の理想を示さうと欲する時は、矢張り古代の知識から借用せざるを得ないといふことが認められるだらう。借用者として、彼は決して全然立派な成功を舉げることはできない。何故なら、彼は幾多の點に於て、古代希職人の程度よりも遙かに劣等人種に屬してゐるからである。或る獨逸の哲學者は、旨くいつた。『希臘人がもし現代に蘇生したならば、彼等は現代の藝術品を評して――それは全く眞を穿つた評言である――一切の部門に亙つて皆全く野蠻的であると公言するだらう』創造したり保存したりするたのためよりも、寧ろその撲滅したり、破壞したりする力のために、正々堂々と聰明と崇拜するやうな時代では、何うして藝術品が、さうならないで居られよう?

[やぶちゃん注:「或る獨逸の哲學者」不詳。識者の御教授を乞う。]

 私共自身に對しては、たしかに發揮されたくないやうな能力を、何故このやうに崇拜するのか? 疑ひもなく、その主もな理由は、私共は自身に所有したいと望むものを崇拜し、また現今文明の競爭的大戰鬪に於ては、進擊力、特に知的進擊力の大價値を知つてゐるからである。

 西洋生活の瑣々たる現實と個人的感情主義の兩者を反映するものとして、西洋美術は倫理的には只單に希臘美術の下位に列するのみでなく、また日本美術にさへも劣つてゐることが見出されるだらう。希臘美術は神聖に美しいものと神聖に賢いものに對する、民族の憧憬を表はした。日本美術は人生の簡素淳朴なる快樂、形と色に於ける自然律の認識、變化に於ける自然律の認識、それから社會的秩序と自己抑制によつて調和を得たる生活といふ感じを反映してゐる。近代西洋美術は快樂の飢渴、享樂の權利に對する戰場としての人生といふ觀念、それから競爭的奮鬪に於ける成功に缺くべからざる無愛想な諸性質を反映してゐる。

 

 西洋文明の歷史は、西洋人の人相に書かれてゐると、いはれてゐる。東洋人の眼によつて西洋人の顏面表情を硏究するのは、少くとも興味がある。私は屢〻日本の子供に歐米の挿畫を見せて、そこに描いてある顏に關する彼等の無邪氣な批評を聞いて、自分で面白がつたことがある。これらの批評の完全な記錄は、興味と共に價値をも有するだらう。しかし今囘の目的のために、私はただ二囘の實驗の結果を提供するにとどめよう。

 第一囘は九歲の兒童に對する實驗であつた。或る夜、私はこの兒童の前へ數册の繪入雜誌を並べた。數頁をめくつてから後、彼は叫んだ。『何故外國の畫家は怖はいものを描くのが好きですか?』

 『どんな怖はいもの?』と、私は尋ねた。

 『これです』といつて、彼は投票場に於ける選舉人の一團を指した。

 『これは何も怖はくない』と、私は答へた。『これは西洋では、皆立派な繪なのだから』

 『でも、この顏! こんな顏は世界にある筈はありません』

 『西洋では當たり前の人物なのだよ。實際怖はい顏は、滅多に描かないから』

 彼は私が眞面目でゐないと思つたらしく、愕きの眼を圓くした。

 十一歲の少女に、私は有名な歐洲美人を現はせる彫刻畫を見せた。

 『惡るくはありませんね』といふのが、彼女の批評であつた。『でも、大層男のやうですわ。それから、眼の大きいこと!……口は綺麗ですね』

 口は日本人の人相に於ては、餘程大切である。して、この少女はその點について鑑賞の語を吐いた。私はそれから紐育[やぶちゃん注:「ニュー・ヨーク」。]の一雜誌所載の或る實景描寫の畫を彼女に示した。彼女は質問を發した。『この繪にあるやうな人達が、ほんたうにゐますか?』

 『澤山ゐる』と、私はいつた。『これは善い普通の顏で――大抵田舍者で百姓なのだ』

 『お百姓ですつて! 地獄から出た鬼のやうです』

 『何もこんな顏が惡るいことはない。西洋にはもつと非常にわるい顏があるから』と、私は答へた。

 『こんな人なら、實際見るだけでも、わたしなど死んでしまひますでせうよ』と、彼女は叫んだ。『わたしこの御本は嫌ひです』

 私は彼女の前へ日本の繪本――東海道の風景畫――を置いた。彼女は嬉しさうに手を拍いて[やぶちゃん注:「たたいて」。]、半ば見かけた私の外國雜誌を押しのけた。

 

2019/11/27

小泉八雲 日本美術に於ける顏について (落合貞三郞譯) / その「二」・「三」・「四」

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本美術に於ける顏について (落合貞三郞譯) / その「一」』を参照されたい。]

 

      

 ストレーヂ氏の論文によつで挑發された批評は、日本美術に對して正鵠を失つてゐたけれども、それは當然であつて、またその美術に對する無知とその目的の誤解を示せるものに外ならない。それは一見してその意義が讀まれるやうな美術ではない。それを正當に理解するためには多年の硏究が必要なのである。私は敢て恰も文典に於ける法及び時制のやうな該美術に於ける詳細に通曉し得たと揚言する事はできないが、しかし古い繪雙紙や、今日の安い版畫、特に繪入新聞にある顏は、私に取つて毫も非現實なものと思はれないし、況して[やぶちゃん注:「まして」。]『絕對に狂氣』じみてゐるとは思はれないと、私は附言し得るのである。それが實際私に取つて奇怪に思はれた時代もあつた。今ではいつもそれが面白く、また折々は美麗だと思ふことがある。もし他のいかなる歐洲人も、かかることを云ふものはないと、私に告げられるならば、その時、私はすべての他の歐洲人が過つてゐるのだと公言せざるを得ない。もしこれらの顏が、大部分の西洋人に取つて荒唐不稽[やぶちゃん注:「荒唐無稽」に同じい。]なものと思はれたり、或は精神のないものと見えたりするならば、それは大部分の西洋人がそれを理解しないからである。して、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]英國駐剳[やぶちゃん注:「ちゆうさつ」。外交官などが任務のために暫く外国に滞在すること。「駐在」に同じい。]日本公使閣下が、いかなる日本婦人も未だ嘗て日本の繪雙紙と安い版畫の婦人に似たことはないといふ說を欣んで承認するにしても、私は依然として承認を拒まざるを得ない。私は主張するが、それらの畫は眞實であつて、聰明、優雅、美麗を示してゐる。私は日本の繪雙紙の婦人を、あらゆる日本の街頭に見る。私は日本の繪雙紙に見出さる〻殆どあらゆる普通型の顏――子供と娘、花嫁と母、刀自[やぶちゃん注:「とじ」。もとは「戸主(とぬし)」の意で、「刀自」は当て字。年輩の女性を敬愛の気持ちを込めて呼ぶ古称。原文“matron”は「品位ある年長の既婚婦人・夫人」を指す。]と祖父、貧民と富者、美しいのや、平凡なのや、賤しげなのや――を、實地に見てゐる。もし日本に住んだことのある熟練なる美術批評家輩が、この附言を嘲笑するといふことを私に告げられるならば、彼等は最も普通の日本畫さへも理解し得るだけに、充分長く日本に住まなかつたか、または充分日本人の生活に親炙[やぶちゃん注:「しんしや(しんしゃ)」。親しく接してその感化を受けること。]しなかつたか、または充分公平にその美術を硏究しなかつたに相違ないと、私は答へる。

 

註 日本美術が理想的顏面表情に於て偉大なる成績を舉げうることは、その佛畫によつて充分に證明される。普通の版畫に於て、畫が小規模の場合には、顏の故意らしい紋切形が滅多に目につかない。して、こんな場合には、美の暗示が一層容易に認識される。しかし畫が稍〻大きくて、例へば、顏の卵形が直徑一寸以上の場合などには、緻密な細部に馴れた眼には、同一の畫法も不可解に映ずることもあるだらう。

 

 日本へまだ來ない前には、私は或る日本畫に於ける顏面表情の缺乏に對して困惑を感ずるのが常であつた。私は告白するが、その顏は當時に於てさヘ一種の不思議な魅力を有たない[やぶちゃん注:「もたない」。]ことはなかつたけれども、私から見ると、ありさうもないやうに思はれた。その後、極東に於ける經驗の最初の二年間――丁度その時期に於ては、いかなる西洋人も決して眞に悟ることのできぬ人民に關して、自分は一切のことを知りつ〻あるのだと外人は想像し易い――私は或る形狀の優雅と眞實を認め、且つ日本の版畫に於ける强烈なる色彩美を幾分感ずることができた。しかし私はその美術の一層深い意義については、何等悟得する處がなかつた。その色彩の充分なる意義さへも、私は知らなかつた。全然眞實であつた多くのことも、私は當時珍奇異風と考へてゐた。幾多の美しさを意識しつ〻も、私はその美の理由を揣摩[やぶちゃん注:「しま」。「揣」も「摩」もともに「おしはかる」意で、「他人の気持ちなどを推量すること」。忖度揣摩。]することさへもできなかつた。顏面が外見上因襲主義である場合には、さもなかつたならば驚くべき藝術的材能[やぶちゃん注:「才能」の別表記。]も、可惜[やぶちゃん注:「あたら」。古い形容詞「可惜(あたら)し」の語幹から出来た副詞。「惜しくも・残念なことに」。]發達を抑へられてゐることを示すものと私は想像した。その因襲主義は、一たび意味を闡明[やぶちゃん注:「せんめい」。明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。]すれば、普通の西洋畫が現はす以上のものを示す象徴の意味たるに過ぎないといふことが、私の念頭に決して浮かばなかつた。しかし、それは私がまだ古い野蠻的な影響の下に留つてゐたからであつた。その影響が私をして日本畫の意義に盲目ならしめたのであつた。して、今や遂に少々わかつてきてからは、私に取つて因襲的で、未だ發達を遂げざる、半野蠻なものと見えるのは、西洋の揷畫術である。英國の週報や米國の雜誌に於ける人氣の多い繪畫は、今では無味、下品、拙劣なものとして私に印象を與へる。けれども、この問題に於ける私の意見は、普通の日本の版畫と普通の西洋の揷畫とを比較した場合に限る。

 恐らくは次の如くいふ人もあるだらう。假令一步を讓つて、私の主張を承認するとしても、苟も眞正の美術は何等の解釋を要すべきでない。また、日本の作品の性質が劣つてゐるのは、その意味が一般的に認識され得ないことを是認してゐるのでも證明される。誰れでも上のやうな批評をする人は、西洋美術は何れの處に於ても同樣に理解され得るものと想像せねばならぬ。西洋美術の或るもの――その精粹のもの――は、多分さうであらう。して、日本美術の或るものも亦さうであらう。しかし私は讀者に附言し得るのであるが、普通の西洋の書籍の揷畫或は雜誌の彫刻畫は、丁度日本畫が日本を見たことのない歐洲人に於けると同樣、日本人に對してわかりにくい。日本人が普通の西洋彫刻畫を理解するには、西洋に住んでゐたことがなくてはいけない。西洋人が日本畫の眞と美と面白い氣分を悟るには、その畫の反映する生活を知らねばならぬ。

 日本協會の席上、一人の批評家は日本畫に顏面表情の缺けてあるのを因襲主義だといつて非難した。彼はこの理由に基づいて、日本美術を古代埃及人[やぶちゃん注:「エジプトじん」。]の美術と比較し、して、因襲主義の手法によつて制限を蒙つてゐるから、兩者共に劣等なものであると見倣した。しかしラオコロン譯者註を模範的美術として崇拜する現代は、希臘[やぶちゃん注:「ギリシヤ」。]美術さへ因襲主義の手法を脫してゐなかつたことを正しく認めねばならない。それは私共が殆ど企及[やぶちゃん注:「ききふ(ききゅう)」。「計画を立てて努力して到達すること」。また、「肩を並べること・匹敵すること」。ここは後者。]し得べくもない美術であつた。しかもそれは如何なる形式の現存美術よりも更に因襲的であつた。して、その神々しい美術さへ、藝術的因襲手法の制限內に發展を遂げ得たことが證明さる〻からには、形式主義といふ非難は日本美術に蒙らせるのに適はしき[やぶちゃん注:「ふさはしき」。]非難ではない。或る人は希臘の因襲手法は、美のそれであつたが、日本畫のそれには、美もなければ、意義もないと答へるかも知れない。しかしかかる說が出るのは、希臘美術は幾多近代の批評家と敎師の努力によつて、私共に取つては、私共の野蠻的先祖達に取つてよりも、稍〻一層わかり易いものとされてゐるに反し、日本美術はまだそのウンケルマン譯者註一をも、レツシング譯者註二をも見出してゐないからに過ぎない。希臘の因襲的顏面は實際生活に於ては見られない。いかなる生きた人の頭も、かほどに廣い顏面角を呈するものはない。しかし日本の因襲的顏面は、一たび美術上に於けるその象徴の眞價値が適當に了解された曉には、到る處に見受けられる。希臘美術の顏は不可能なる完全、超人的進化を示してゐる。日本畫家の描ける一見無表情な顏は、生けるもの、實在せるもの、日常のものを現はしてゐる。前者は夢である。後者は普通の事實である。

 

譯者註 ラオコオンはトロイの神官であつたが、海神の祭式を営んでゐる際、二匹の蛇が海から現はれ、始めに彼の二子に捲きつき、更にそれを助けんとした彼をも捲いて、父子三人を殺した。この苦悶を表はせる有名なる群像の彫刻は、十六世紀の初、羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]に於て發見され、今は法皇宮殿に藏してある。

譯者註一 ウンケルマン(一七一七――一七六八年)は獨逸の美術批評家。希臘美術の理想的特性を闡明した彼の大著「古代美術史」は、偉大なる影響を及ぼした。

譯者註二 レツシング(一七二九――一七八一年)は獨逸の評論家且つ戲曲家。希臘藝術に關する立派な著書及び論文がある。

[やぶちゃん注:「ラオコオン」原本“ Laocoön ”。ギリシア伝説に出る、トロイアのアポロンの神官。トロイア戦争の十年目に、撤退を装うギリシア軍が、勇士たちを、その腹中に潜ませた巨大な木馬を残して戦場を去った際、それが女神アテナへの奉納品どころか、敵の姦計に他ならないと見抜いた彼は、木馬を城内に引き入れることに反対したが、その時、海から現れた二匹の大蛇に二人の息子ともども、締め殺された。この大蛇は、彼が神官の身にも拘わらず、結婚し、子どもをもうけた罰として、アポロンが送ったとも、アテナが木馬の城内引入れに反対した彼を罰するために送ったとも言われる(平凡社「世界大百科事典」に拠る。以下は、同じ平凡社の「百科事典マイペディア」から)。その三人が襲われる姿を表わした大理石彫刻「ラオコオンと息子たち」は、一五〇六年、ローマのティトゥス帝浴場跡で発見され、現在、バチカン美術館が蔵している(これ。リンク先はウィキの「ラオコオン論争」にある現物写真)。この彫刻は紀元前一世紀のロードス島の彫刻家たちによって製作されたもので、そのローマ的に過剰な悲劇性は後代に影響を与え、以下に述べるレッシングらの「ラオコオン論争」を起こした。

「ウンケルマン」ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(Johann Joachim Winckelmann 一七一七年~一七六八年)はドイツの考古学者・美術史家。貧しい靴屋の家に生れた。高等学校時代よりギリシア・ラテン語に惹かれ、一七三八年、ハレ大学に入学して神学を、一七四一年よりイエナ大学で医学を学んだ。一七四八年から一七五四年までビュナウ伯爵家の司書を務める。画家エーゼルとの交遊によってギリシア美術・文学への興味を深める。カトリックに改宗した彼は、一七五五年、国王奨学金を得、ローマへ留学、一七六三年からはバチカン図書館の古代遺物・文書の責任者となった。古代美術を讃えた処女作「ギリシア美術模倣論」( Gedanken über die Nachahmung der griechischen Werke in der Malerei und Bildhauerkunst :一七五五年)を始め、優れた研究書を発表し、古代美術史研究の創始者となったばかりでなく、古典美術を規範とするその姿勢は、同時代に於ける新古典主義の潮流を導いた。ほかに「古代美術史」( Geschichte der Kunst des Altertums :一七六四年)がある(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ウィキの「ラオコオン論争」によれば、『ヴィンケルマンは自著を通して、当時の美術の主流に対して異を唱えた。ヴィンケルマンは精密な観察に基づいた記述を重視し、そこから得た知覚的印象から実質的及び帰納的に美の法則を打ち立てようとした』。『その際彼が基準としたのは古典、特に古代ギリシア美術の模倣であった』とある。

「レツシング」ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing 一七二九年~一七八一年)はドイツの劇作家・批評家。彼のウィキによれば、『ドイツ啓蒙思想の代表的な人物であり、フランス古典主義からの解放を目指し、ドイツ文学のその後のあり方を決めた人物である。その活動は、ゲーテ』・シラー・カント・ヤコービ・メンデルスゾーンなどの当時のドイツ文学者・思想家に『多大な影響を及ぼした。西洋近代の転生説を最初に明記した人物と言われており、この転生思想は現代日本への影響も大きい』とある。彼には、まさに「ラオコオン」(“ Laokoon ”)と題した芸術論があり(一七六六年発表)、これは先のヴィンケルマンの、一七五五年の「ギリシャ美術模倣論」でのラオコーン像賛美に挑んだものであった。トロイアの神官ラオコオンの非業の死を表わした例の大理石群像と、この出来事を歌ったウェルギリウスの詩句との比較を手がかりとして、〈絵画(美術一般)と文学との限界〉に就いて説いたもので、両者は、古来、謂い慣わされてきた近親関係にも拘わらず、模倣の対象・媒体材料・技法を異にし、「絵画」は〈空間に並存する物体を形と色に依って〉、「文学」は〈時間とともに継起する「行為」を分節音(言語)に依って〉描くものだと規定した。それ故に、「絵画」が〈行為〉を、「文学」が〈物体〉を描いて美的効果をあげるためには、それぞれに特殊な工夫を必要とする、とするものであった(以上は平凡社「世界大百科事典」その他に拠った)。]

 

       

 日本畫に、一見した處、人相上の因襲主義があるのは、個性を類型に、個人の人格を一般的人道に、細部を全體の感情に從屬せしめるといふ法則で、一部分を說明する事ができる。エドワード・スレーンヂ氏は、この法則について幾分日本協會に敎へようと試みたが、誤解されて無效に歸したのであつた。日本畫家は、例へば一匹の昆蟲を描くとして、そのやうにはいかなる歐洲畫家も描き得ない。彼はそれを生かしてみせる。彼はその獨得の運動、その性質、すべてそれによつて一目類型として識別さる〻ものを見せる――しかも筆を揮ふこと僅に數囘にして一切これを成就する。けれども彼は、その一枚一枚の翅面に、一本一本の翅脈を現はしたり、その觸角の各關節を示したりすることはない。彼は細密に硏究したやうにではなく、實際一目で見たま〻のやうに描き出す。私共は蟋蟀[やぶちゃん注:「こほろぎ」。]や蝶や蜂が何處かに止まつてゐるのを見る瞬間に、一切その身體の細部を決して見るものではない。私共はただいかなる種類の動物であるかを、決定するに足りるだけのことを觀察する。私共は類型的のものを見て、決して各個的特異の點を見ない。だから日本の畫家はただ類型だけを描く。一々の細部を再現するのは、典型的の性質を各個的特異に從屬させることになるであらう。極めて綿密な細部は、細部の認識によつて、類型を卽時に認識することが助けられる場合の外は、滅多に現はされてゐない。例へば、一本の光線がたまたま蟋蟀

 

註 彫刻の場合は、これに異つてゐる。骨や角や象牙に刻まれ、また適當に賦彩されたる昆蟲の作品は、これを手に取つて見るとき、重量以外の點では、眞正の昆蟲と殆ど區別のできぬことも往々ある。しかし絕對的寫實主義はただ骨董的で、美術的ではない。

 

の脚の關節に當つたり、或は蜻蛉[やぶちゃん注:「とんぼ」。]の甲から複色の金屬的閃光を反射したりする場合である。これと同樣に、花を描くに際して、畫家は一個特殊の花でなく、類型的の花を描く。彼は種族の形態學的法則、卽ち象徵的に云へば、形狀の裏面に潜める自然の思想を示すのである。此手法の結果は、科學者をも驚嘆せしめることがある。アルフレツド・ラツスル・ウオラス氏は日本畫家の描いた植物寫生集を、氏が從來見たもののうちで、『最も優秀だ』といつてゐる。『一莖、一枝、一葉、悉く一氣呵成に一と筆でできてゐる。極めて複雜なる植物の性質と配景が、天晴れ巧みに描かれ、また莖と葉の關節は最も科學的に示されてゐる』(圈點は私が施したものである)ここに注意すべきことは、その作品は『一と筆でできて』ゐて、簡單そのものであり乍ら、しかも現存最大博物學者譯者註の一人の意見によれば、『最も科學的だ』といふことである。して、その故は如何? それは類型の性質と類型の法則を示すからである。それから、また岩石と絕壁、丘陵と原野を描くに當つて、日本畫家は一般的性質を示すのみで、人に倦怠を與ふるやうな塊團の細部を寫さない。しかも細部は大要の法則の完全なる硏究によつて、うまく暗示されてゐる。更に日本畫家の日沒及び日出の描寫に於ける色彩硏究を見るがよい。彼は決して視界內のあらゆる緻密なる事實を現はさうと試みないで、私共に與へるのに、ただかの偉大な明かるい色調と彩色の混和を以てする。それは他の幾多の些々たることどもが忘れられた後にも、依然として記憶裡に徘徊し、して、見たものの感じをその裡に再び作るのである。

 

譯者註 ウオラス氏を指す。ダーウヰンとは全然獨立に、しかも暗合的に、自然淘汰說を發見した人(一八二二――一九一三年)

[やぶちゃん注:譯者註の最後に句点がないのは、ママ。

「アルフレツド・ラツスル・ウオラス」アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)は、『イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を行った。また』、『自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした』十九世紀の『主要な進化理論家の一人である。その中には』、『自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる』。『心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人』捏造『事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともなった』。『イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は』「マレー諸島」(“ The Malay Archipelago ”)として一八六九年に出版され、十九世紀の『科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった』(ウィキの「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」の冒頭概要のみ)。彼に就いては、『ナショナルジオグラフィック』(二〇〇八年十二月号)の「特集:ダーウィンになれなかった男」が詳細にして核心を突いており、お薦めである。ダーゥインとの関係については、私の「進化論講話 丘淺次郞 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(5) 五 ダーウィン(種の起源)」を参照されたいが、私の注はかなり長い(私は、実は、ダーウィン以上にウォレスが大好きである)。なお、小泉八雲の引用は、彼の「マレー諸島」の二十章「アンボイナ」(ⅩⅩ:AMBOYNA)の一節である。

 

 さて、美術のこの一般的法則は、日本の人身描寫と、また(この場合には他の諸法則も亦働くのであるが)人面描寫にも適合する。一般的の型が描かれ、しかも最も巧妙な佛國の[やぶちゃん注:「フランスの」。]寫生家でさへ、往々殆ど競爭し難きほど力强く描かれてゐる。個人的特異は示されてゐない。諷刺畫の滑稽氣分や演劇の描寫に於て、顏面的表情が强烈に現はれてゐる場合にさへ、それは個人的特徵によつてでなく、一般的類型性によつて現はされてゐる。恰も古代の舞臺上で希臘の俳優によつて、形式的假面を用ひて現はされたやうに。

 

       

 普通の日本畫に於ける顏の描寫法について、二三の槪說を試みたなら、その描寫法の敎へることを理解するに助けとなるだらう。

 人物の若さは主要な筆觸[やぶちゃん注:「ひつしよく(ひっしょく)」。「絵画などに於いて筆捌きによって生じた色調やリズム感などの効果」だが、これはもう英語原単語の方がよい。“touches”。「タッチ」である。]數本だけで濟まして、顏と頸のさつぱりした滑らかな曲線を以て現はしてある。眼と鼻と口を暗示する筆觸の外には、何等の線もない。曲線が充分に肉のたつぷりした豐富さと滑らかさと圓熟を語つてゐる。物語の揷繪としては、年齡または境遇は、髮の結び方と衣服の樣式で示されてゐるから、容貌を細密に現はすに及ばない。女の姿に於ては、眉毛のないことが、妻または寡婦たることを示し、亂れ髮は悲みを見せ、惱める思ひは、まがふ方なき姿勢と手振りに現はれてゐる。實際髮と衣裳と態度が殆ど一切のことを說明するに足つてゐる[やぶちゃん注:「たつてゐる」。足りている。]。しかし日本畫家は容貌を示す五六本の筆觸の方向と、位置に於ける極めて微妙なる變化によつて、性格の同情的皮は非同情的なるかをほのめかす方法を知つてゐる。して、この暗示は日本人の眼では決して看過されることはない。また、これらの筆觸を殆ど目につかぬほど堅くしたり、柔らかくしたりすることは、精神的意味を有してゐる。それでも、これは決して個人的でなく、ただ人相上の法則の暗示に過ぎない。未成年の場合(男兒や女兒の顏)には、單に柔らかさと溫和さの一般的表示がある――幼兒の具體的愛嬌よりは、寧ろ抽象的魅力が現はれてゐる。

 

註 日本の現今の新聞祇の挿繪に於ては(私は特に「大阪朝日新聞」の小說欄に揷める[やぶちゃん注:「はさめる」。]立派な木版畫を指すのである)、これらの暗示は馴れた西洋人の眼にさへも全然よくわかる。[やぶちゃん注:改行はママ。]

私はここに一つの珍らしい事實を想起する。私にそれが日本に關する如何なる書物にも書いてあつたのを讀んだ記憶を有たない。新來の西洋人は往々日本人について、その甲乙を區別し難いことをこぼしてゐる。して、この困難を日本人種に於ける人相の强き特徵の缺乏に歸してゐる。彼は私共西洋人の一層銳い特徵ある人相が日本人に取つては全然同樣な結果を呈することを想像してゐない。幾多の日本人が私に云つた。「長い間、私は西洋の甲乙を區別するのが、非常に困難でした。いづれの西洋人も皆私には一樣に見えました」

 

 今一層成人となつた型の描寫に於ては、線が一層數多く、また一層强められてゐる――これは性格が中年に於ては、顏面筋肉の現はれ始まるに從つて、必然更に顯著になつてくるといふ事實を證してゐる。しかしここには單にこの變化の暗示があるだけで、何等個性の硏究は現はれてゐない。

 老人を現はす場合には、日本畫家はすべての皺、窪み、組織の萎縮、目尻の皺、白髮、齒が拔けた後に生ずる顏の輪線の變化を描く。男女老人に性格が現はれてゐる。一種のやつれた美はしさを有する表情、情深い諦めの顏つきによつて私共を欣ばすやうなのもあれば、また殘忍な狡猾、貪欲或は嫉妬の面色によつて私共に嫌惡の感を起こさせるのもある。老年の型は澤山ある。しかしそれは人生の狀態の諸型であつて、個人のそれではない。その畫は或る標本から描かれたのでなく、個人存在の反映ではない。その價値は、その畫が一般的人相上或は生物學上の法則について示せる認識から生ずるのである。

 顏面表情の點に於て、日本美術が遠慮勝ちであるのは、東洋社會の倫理と一致するといふことを、この場合注意する價値がある。出來得る限りあらゆる個人的感情を隱し、外面には微笑を含んだ愛嬌や平然たる諦めの風を見せつつ、苦痛と激情をかくすのが、長い年代の間、行爲の法則であつた。日本美術の謎に對する一つの關鍵[やぶちゃん注:「くわんけん(かんけん)」。もと「閂(かんぬき)と鍵」で「戸締り」の意、更に転じて「物事の最も重要なところ・要点」。]は、佛敎である。

 

小泉八雲 日本美術に於ける顏について (落合貞三郞譯) / その「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ ABOUT FACES IN JAPANESE ART ”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“ Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST ”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第五話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月5日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本篇の大標題はここ、本篇本文はここから。

 訳者落合貞三郎については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郞譯)」の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。注は四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「!」「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。全六章であり、冒頭から底本の訳者の誤りが多く、注が増えたので、分割して示す。]

 

     第五章 日本美術に於ける顏について

 

       

 國民文庫(ナシヨナル・ライブラリー)に於ける日本美術蒐集品に關する頗る興味ある論文が、昨年倫敦[やぶちゃん注:「ロンドン」。]に催されたる日本協會(ジヤパン・ソサイテイー)の席上で、エドワード・ストレーンヂ氏によつて朗讀された。ストレーンヂ氏は日本美術に對する同氏の鑑賞を證明するのに、日本美術の諸原理――細部の描寫を或る一つの感覺、または觀念の表現に隷屬せしむること、特殊を全般に隷屬せしむること――の解說を以てした。氏は特に、日本美術に於ける裝飾的要素及び彩色印刷の浮世繪派について述べた。一部僅に數錢を値する小册子に示さる〻日本の紋章學さへも、『普通の形式的裝飾の意匠に於ける敎育』を含んでゐると、氏は說いた。氏は日本の形板(かたいた)版意匠の非常なる工業的價値に論及した。氏は日本の手法の周到なる硏究によつて、書物の挿畫法の上に得らるべき利益の性質を說明しようと試みた。して、氏はオーブリ・ビアズリー譯者註一、エドガア・ヰルスン、スタインレン・イベルス、ホツスラー譯者註二、グラッセット・シユレー、及びラントレックのやうな諸美術家の作品に於ける、これらの手法の影響を舉げた。最後に、氏は或る日本の原理と印象主義の現代西洋に於ける一派の主張の一致を指摘した。

 

譯者註一 ビアズリー(一八七四――一八九八年)は、千九百年代に於ける、英國の世紀末文藝潮流の一つなる、耽美主義頽廢派の作家と提携し、書籍雜誌の挿繪に鬼才を發揮した人。

譯者註二 ホツスラー(一八三四――一九〇三年)は、米國に生まれ、巴里[やぶちゃん注:「パリ」。]に學び、英國に定住した色彩畫家。銅版印刷術に最も妙を得た。

[やぶちゃん注:「國民文庫(ナシヨナル・ライブラリー)」“the National Library”。これは複数あるイギリスの国立の美術館群“the National Art Library”や博物館・図書館のことを総称的に指すのではなかろうか。大英博物館以来、近現代に特に、複数の箇所のイギリスの国立の美術館に日本美術のコレクションがあって、例えば、「日文研」の「外像」データベースのこちらに、ここに出る絵画研究者ストレンジ氏の一八九七年の論文「日本の挿絵:日本における木版画と色摺り版画(浮世絵版画)の歴史」の「勝川春章『おだまき』を演じる女形の役者」の画像に、「サウス・ケンジントン博物館国立美術図書館所蔵の版画より」(Katsugawa Shunsho. Actor in the principal female part of the play "Udamaki." From a print in the National Art Library. South Kensington Museum.)とあることなどから、そう推測した。平井呈一氏も恒文社版「日本美術における顔について」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、ただ『国立美術館』と訳されており、特定の単立の美術館を指していないように読めるからでもある。

「昨年」本書刊行の前年であるなら、一八九六年。

「日本協會(ジヤパン・ソサイテイー)」“The Japan Society”。イギリス・ロンドンに本部を置く日英の交流促進に携わる非営利組織「ロンドン日本協会」。一八九一年(明治二十四年)に創設された、ヨーロッパと日本とを結ぶ協会としては、最も古い組織である。

「エドワード・ストレーンヂ」エドワード・フェアブラザー・ストレンジ(Edward Fairbrother Strange 一八六二年~一九二九年)。英文のこちらの彼の論文リストを見ると、多岐に亙る美術品批評研究を行っている人物であることが判る。

「オーブリ・ビアズリー」イギリスのイラストレーターで、オスカー・ワイルドの「サロメ」の挿絵で知られる、詩人・小説家でもあった、オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley 一八七二年~一八九八年)。『ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する存在。悪魔的な鋭さを持つ白黒のペン画で鬼才とうたわれたが、病弱』で二十五歳の若さで亡くなった(ウィキの「オーブリー・ビアズリー」に拠る)。

「エドガア・ヰルスン」今は忘れられているイギリスのイラストレーターであるエドガー・ウィルソン(Edgar Wilson 一八六一年~一九一八年)。英文ブログ「WormwoodianaLost Artists - Edgar Wilsonを参照されたい。小泉八雲の本篇についても触れられてある

「スタインレン・イベルス」「スタインレン・イベルス」なる画家は、いない。これは原本から見て(単語の字空けが他の作家の姓名のそれと異なって有意に空いている)、“Steinlen,  Ibels”のコンマの脱落で、二人の画家名である。前者は、フランス出身のイラストレーターであるセオフィル=アレクサンドル・スティンレンThéophile-Alexandre Steinlen 一八五九年~一九二三年)であろう。フランス語サイトのこちらに年譜がある。一方、後者は、フランスの画家・イラストレーターで、十九世紀末のパリで活動した前衛的芸術家集団「ナビ派」(Les Nabis:ヘブライ語で「預言者」の意)の画家の一人であるアンリ=ガブリエル・イベルスHenri-Gabriel Ibels 一八六七年~一九一四年)である。平井呈一氏も恒文社版では無批判に『スタンレン・イベルス』とフルネームでとってしまわれておられる。

「ホヰツスラー」アメリカの画家・版画家ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler  一八三四年~一九〇三年)である。彼は主にロンドンで活動し、彼のウィキによれば、『印象派の画家たちと同世代であるが、その色調や画面構成などには浮世絵をはじめとする日本美術の影響が濃く、印象派とも伝統的アカデミズムとも一線を画した独自の絵画世界を展開した』とある。そこにある、彼の知られた Symphony in White no 1 (The White Girl) (一八六二年:「白のシンフォニー第一番(白の少女)」)をリンクさせておく。

「グラッセット・シユレー」ここは、原文が、ちゃんとGrasset,  Cheret,となっているのを、落合氏が見落として誤訳したか、誤植でこうなってしまった誤りである。前者は、スイスの装飾芸術家ウジェーヌ・グラッセEugène Grasset 一八四五年~一九一七年)で、「ベル・エポック」Belle Époque:フランス語で「良き時代」。概ね、十九世紀末から「第一次世界大戦」勃発(一九一四年)までの、パリが繁栄した華やかな時代、及び、その文化を回顧して用いられる後代の呼称の期間、パリで様々なデザイン分野に於いて活躍し、「アール・ヌーヴォー」Art nouveau:十九世紀末から二十世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に活発化した国際的美術運動。フランス語で「新しい芸術」の意)の先駆者とされる芸術家である。一方、後者は、フランスの画家で、リトグラフ作家・イラストレーターであったジュール・シェレJules Chéret 一八三六年~一九三二年)で、特にポスター分野では大変な人気作家となった。彼も「アール・ヌーヴォー」の先駆者の一人とされる。平井呈一氏は恒文社版で『グラッセ、シュレ』と。ちゃんと正しく別人として示しておられる。

「ラントレック」言わずと知れたフランスの画家アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ―ロートレック―モンファ(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa 一八六四年~一九〇一年)。]

 

 かかる講演は英國に於ては、大抵反對の批評を挑發しないでは止まないだらう。何故なら、それは一種の新しい思想を暗示したからである。英國の輿論は思想の輸入を禁じはしない。もし新鮮なる思想が始終提供されないならば、一般社會は不平を訴へることさへもある。しかしその新思想の要求は攻勢的である。社會はそれらの思想に向つて知的戰鬪を試みようと欲する。新しい信仰或は思想を、鵜呑みに受け容れしめようと勸說したり、一躍直に結論に達するやう賺かす[やぶちゃん注:「すかす」。]のは、山岳をして牡羊の如く跳躍せしめようとするに異らない。もし『道德的に危險』と思はれない思想ならば、社會は欣んで說得さる〻ことを欲するが、しかし劈頭第一に、その斬新なる結論に到達せる心的徑路の一步一步が、絕對的に正確なることを認めねば承知しないのである。日本美術に對するストレーンヂ氏の正當ではあるが、しかし殆ど熱情橫溢の槪[やぶちゃん注:「おほむね」。]ある賞讃が、論諍なくして通過するといふことは、固より有りうべくもなかつた。それにしても、日本協會の連中から異議が起こらうとは、誰れ人も豫期しなかつたであらう。しかし協會の報告によつて見れば、ストレーンヂ氏の意見は、該協會によつてさへも、いつもの英國流の態度を以て迎へられたことがわかる。英國の美術家が日本人の手法を硏究して、或る重要なことを學びうるだらうといふ考は、實際に嘲笑を浴びせられた。それから、會員諸氏が加へた批評は、その論文の哲學的部分が誤解されたか、或は注意を惹かなかつたかといふことを示した。或る一紳士は、無邪氣に不平を洩らして、彼は『何故に日本美術は、全然顏面の表情を缺いてゐるか』を想像し得ないといつた。また他の一紳士は、日本の浮世繪にあるやうな婦人が、決してこの世にありうべくもないと斷言し、して、彼はそれに描かれた顏は、『絕對に狂氣』であると說いた。

 それから當夜の最も奇々怪々な事件がつづいて起こつた――それは日本の公使閣下が、それらの反對說に確證を與へ、且つこれらの版畫は『日本に於てはただ通常なものと見倣されてゐる』と、辨解的言說を添へた事であつた。通常なもの! 昔の人々の判斷では、恐らく通常であつたらうが、今日に於ては審美的贅澤品なのだ。論文に舉げられた美術家は、北齋、豐國、廣重、國芳、國貞などの珍重すべき人々であつた。しかし公使閣下は、この問題を瑣末なものと考へたらしい。その證據には、彼は機に乘じて愛國的ではあるが、突然にも話頭を轉じて會員の注意を戰爭の方に向かはしめた。此點に於て彼は日本の時代精神を忠實に反映してゐる。現今日本の時代精神は、外國人が日本の美術を賞めるのを殆ど我慢が出來ないのである。不幸にも、目下のいかにも正當にして且つ自然なる軍事的自負心に支配されてゐる人々は、大軍備の擴張と維持は――最大の經濟的用心を以て行はれない限り――早晚國家的破產を促すと共に、國家將來の產業的繁榮は、國民的美術感の保存と養成によること尠からぬといふことを反省してゐない。否、日本が用ひてその最近の戰勝を得た手段材料は、公使閣下が何等の價値をも附することなかつたらしい美術感そのものの通商的結果によつて、主もに購はれたのであつた。日本はいつまでも續いて、その美術觀念にたよらねばならぬ。かの花莚の製造の如き、平凡な產業方面に於てさへもさうである。何故なら、單なる低廉製品の點に於ては、日本は支那よりも安く賣ることは決してできないだらうから。

[やぶちゃん注:「日本の公使」明治二九(一八九六)年当時のイギリス公使は青木周蔵(天保一五(一八四四)年~大正三(一九一四)年)で、ドイツ公使兼任であった。ウィキの「青木周蔵」によれば、『外交官としての青木の半生は条約改正交渉に長く深く関わり、外交政略としては早くから強硬な討露主義と朝鮮半島進出を主張し、日露戦争後は大陸への進出を推進した』とある。

「彼は機に乘じて愛國的ではあるが、突然にも話頭を轉じて會員の注意を戰爭の方に向かはしめた。此點に於て彼は日本の時代精神を忠實に反映してゐる。現今日本の時代精神は、外國人が日本の美術を賞めるのを殆ど我慢が出來ないのである。不幸にも、目下のいかにも正當にして且つ自然なる軍事的自負心に支配されてゐる人々は、大軍備の擴張と維持は――最大の經濟的用心を以て行はれない限り――早晚國家的破產を促すと共に、國家將來の產業的繁榮は、同民的美術感の保存と養成によること尠からぬといふことを反省してゐない」一八九六年直近の「戰爭」は「日清戦争」で、明治二八(一八九五)年四月十七日に終わったが、台湾割譲を受けて、その平定を終えた一八九五年十一月三十日を広義の終結と見るならば、話しとしておかしくない。この頃、日本はアジアの近代国家として認められ、国際的地位が向上し、巨額の賠償金は国内産業の発展に活用されて、日本はまさに本格的な工業化の第一歩を踏み出した頃であったからである。

「花莚」(はなむしろ)。麻糸、又は、綿糸の撚(よ)り合せ糸を経(たて)糸とし、緯(よこ)糸には、畳表に用いるイグサを各種の色に染めて、模様を織り込んだ織り物。製品の殆んどは敷物用で、「花茣蓙」(はなござ)とも呼ぶ。岡山・広島・福岡県を名産地とする。]

 

小泉八雲 塵 (落合貞三郞譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ DUST ”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“ Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST ”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第四話である。この底本の邦訳では殊更に「第〇章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月5日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本篇の大標題はここ、本篇本文はここから。


 訳者落合貞三郞については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郞譯)」の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。標題の添え辞は三字下げポイント落ちであるが、ブラウザの不具合を考えて行頭まで引き上げてポイントを落とした。一部の「!」「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。また、途中に漢字の書き方が画像で入るが、上記の“Project Gutenberg”版にある画像を使用して、当該部に挿入した。]

 

      第四章 塵

 

『菩薩は、一切のものを空間の性質を有すると見做すべきである――永遠に空間に等しきものとして。本質なく、實體なく』――『サッダアールマ・ブンダリーカ』經句

[やぶちゃん注:「サッダアールマ・ブンダリーカ」原文“SADDHARMA-PUNDARÎKA.”。「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」(現行のサンスクリット語ラテン文字転写は「Saddharma Puṇḍarīka Sūtra」)は「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意味の漢訳での総称で、サンスクリット語原題の『意味は、「サッ」(sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」だけが省略されて、例えば鳩摩羅什』(くらまじゅう)『訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である』と、ウィキの「法華経」にある。引用の漢訳原文は「序品第一」の一節で、「或見菩薩 觀諸法性 無有二相 猶如虛空」(或いは、菩薩の諸法の性は、二相有ること無し。猶ほ虛空のごとしと觀ずるを見る。)である。]

 

 私は町はづれまでぶらぶら散步した。私の通つて行つた町は、でこぼこになつて田舍街道となつた。それから、山の麓の小部落の方へ向つて、田圃の中を經て曲つてゐた。町と田圃の間に、建物のない廣漠たる地面があつて、子供の好きな遊び場所となつてゐる。そこには樹木があり、ごろごろ轉がり遊ぶによい草地があり、小石も澤山ある。私は立ち止つて子供達を眺めた。

 路傍で、濕つた粘土を弄つて[やぶちゃん注:「いぢつて」。]面白がつてゐるのがある。小規模の山や川や田の形、小さな村落、百姓の小屋、小さな寺、池や彎曲した橋や石燈籠のある庭、それから、石の破片を碑石とした小さな墓地――こんなものを粘土で作つてゐる。彼等はまた葬式の眞似をする――蝶や蟬の死骸を土に埋めて、塚の上で經文を讀む風をする。彼等も明日はこんなことを敢てしないだらう。何故なら、明日は死人の祭の初日だからである。盆の祭の間は、昆蟲類をいぢめることは嚴禁されてゐる。特に蟬を苦しめてはいけない。或る蟬の頭上には、小さな赤い文字があつて、亡靈のもだといはれてゐる。

[やぶちゃん注:後の『小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「一」』でもこれを小泉八雲は註で述べているのであるが、私はそれがどの種を指し、どのような模様をそのように見、その文字は何を意味するのか、不学にして知らない(平井呈一氏は恒文社版「塵」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『戒名』と訳しておられる。これは想像だが、しかし多様な模様とは思われないから、私は梵字の種子(しゅじ)を指すのではないかと秘かに思ってはいる)。識者の御教授を乞うものである。「赤い」と言うならヒグラシであるが……。]

 どこの國の子供も、死の眞似ごとをして遊ぶ。人格的個性の念が起こつてこないうちは、死といふことを眞面目に考へることはできない。して、この點に於ては、子供の考へ方が、自意識を有する成人よりも、恐らくは一層正鵠を得てゐるだらう。無論、もし或る晴天の日、これらの子供達が、遊び仲間の一人は永久に去つてしまつた――他の場所で再生するために去つて行つたと告げられるならば、漠然ながらも眞實に損失の念を感じ、はでやかな袖を以て、幾たびも目を拭ふこととなるだらう。しかし間もなく、損失は忘れられ、遊戲は復た開始されるだらう。物の存在がなくなるといふ觀念は、子供心にはなかなかわかりかねる。蝶や鳥や花や葉や樂しい夏そのものも、ただ死ぬる事の眞似をやつてゐるのだ――彼等は去つてしまつたやうでも、雪が消えてから、すべてまた皆歸つてくる。死に對する眞の悲哀と恐怖は、疑惑及び苦痛に對する經驗を徐々に積んだ後、始めて私共の心中に起こつてくるのである。して、これらの男兒や女子は日本人であり、また佛敎徒であるから、死について、讀者諸君や私が感ずるやうには、將來決して感ずることはないだらう。彼等は誰れか他人のためには、それを恐怖すべき理由を見出すだらうが、彼等自身のためには決して見出さないだらう。何故なら、彼等は既に幾百萬遍も死んできてゐるので、丁度誰れでも引き續いた齒痛の苦を忘れる通り、その苦痛を忘れてゐるだらうからである。花崗岩にまれ、蛛網[やぶちゃん注:「くものす」と当て訓しておく。]の絲にまれ、すべての物質は、幽靈のやうなものだと敎へる彼等の信條のあやしくも透徹せる先に照らしてみれば――恰も最近發見されたエックス光線が、筋肉組織の不思議界を照明する如くに――この現在の世界は、彼等が子供時代に作つた粘土の風景に於けるよりは、一層大きな山や川や田はあつても、彼等に取つて更に一層現實なものと思はれることはないだらう。して、恐らくは更に一層現實なものではあるまい。

[やぶちゃん注:「最近發見されたエックス光線」X線はドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲン(Wilhelm Conrad Röntgen 一八四五年~一九二三年)が本書刊行の二年前の、一八九五年十一月八日に発見した特定の波長域(0.01~数百Å)を持つ電磁波。彼はこの功績によって一九〇一年の第1回ノーベル物理学賞を受賞している。「X」という呼称の由来は数学の「未知数」を表わす「X」で、レントゲンの命名に由る。]

 この考が浮かぶと共に、私は不意に輕い打擊を覺えた。これは私のよく馴れてゐる打擊である。して、私は物質非實在の思想に襲はれたのだと知つた。

 

 この萬物空虛の念は、ただ大氣の溫度が、生命の温度と頗る均等なる關係狀態を呈して[やぶちゃん注:「溫」「温」の混在はママ。]、私が肉體を有してゐることを忘れるやうな場合にのみ起こつてくる。寒氣は堅强といふ苦しい觀念を促す。寒氣は個人性といふ迷想を銳くする。寒氣は主我慾を盛んならしめる。寒氣は思想を麻痺させる。して、夢の小さな翼を縮めてしまう。

 今日は溫かい、靜かな天氣で、一切のものをありのま〻に考へることのできるやうな日だ――海も山も野も、その上を蔽へる靑い空虛の穹窿に劣らず現實らしくない。すべてのものが蜃氣樓だ――私の肉體的自我も、日光にてらされた道路も、眠さうな風のもとにゆるく漣波[やぶちゃん注:「さざなみ」。]をうつてゐる穀物も。稻田の靄氣[やぶちゃん注:「あいき」だが、「もや」と当て訓しておく。]の向うにある草葺の屋根も、それから遠く一切のものの後にある、山骨[やぶちゃん注:「さんこつ」。山の土砂が崩れ落ちて岩石の露出した部分。ガレ場。]の露はれた丘陵の靑い皺も。私は私自身が幽靈であるといふ感じと、また幽靈に襲はれてゐるといふ感じの、二重の感じを有つてゐる――世界といふすばらしく明かるい幽靈に襲はれて。

 

 その野原には男や女が働いてゐる。彼等は色彩を帶びたる動く影だ。して、彼等の足の下の土――それから彼等は出でたのだ、して、またそれへ歸つて行くだらう――も同樣に影だ。ただ彼等の背後に潜める、生殺の力こそ眞實なのだ――隨つて見えないのだ。

 夜がすべての更に小さな影を呑み込んでしまう如く、この幻像的な上は畢竟私共を呑み込んで、それからそのま〻消滅してしまうであらう。しかし小さな影も、その影を喰べたものも、その消えたのと同樣確實に、また現はれるにきまつてゐる――何處かで、何とかして、復た物質化するに相違ない。私の足の下のこの土地は、天(あま)の河と同じほどに古い。それを何と呼ばうとも――粘土といひ、土壤といひ、塵土といつても――その名は單に何等それとは共通性なき人間の感覺の象徵に過ぎない。實際それは名がなく、また名を附することもできない。ただ勢力、傾向、無限の可能性の團塊である。何故なら、それはかの際涯なき生死の海が打ちよせて作つたものだからである――生死の海の巨濤は、永遠の夜から密かに波を打ち乍ら、碎けて星の泡沫[やぶちゃん注:「しぶき」或いは「うたかた」。]と散つてゐるのだ。それは無生命ではない。それは生命によつて自らを養ひ、また有形の生命がそれから生ずる。それは業報の塵土であつて、新しい結合に入らうと待ちかまへてゐる――佛者が中有[やぶちゃん注:「ちゆうう」。]と稱する、生と生の中間狀態に於ける、祖先の塵土である。それは全く活力から作られてゐる。して、活力以外の如何なるものからも作られてゐない。しかもそれらの活力は、單にこの地球だけのものでなく、數へきれぬほどの既に消滅し去つた世界の活力を含んでゐる。

[やぶちゃん注:「中有」は「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「陰(いん)」・「有(う)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。若い諸君は、まず、芥川龍之介の「藪の中」で初見するものであろう。]

 

 苟も目に見えるもの、手に觸れうるもの、量りうべきもので、嘗て感性の混じたことのないものがあるか――快樂或は苦痛につれて振動したことのない原子、叫び或は聲でなかつた空氣、淚でなかつた點滴があるか。たしかにこの塵土は感じたことがある。それは私共が知つてゐる一切のものであつた。また幾多私共が知り得ないものでもあつた。それは星雲や恒星であつたり、惑星や月であつたことが、幾たびであつたか云ひつくせない。それはまた神でもあつた――太陽の神であつて、邈乎[やぶちゃん注:「ばくこ(ばっこ)」。遙かに遠いさま。年代の遠く隔たるさま。]たる昔の時代に於て、多くの世界がそれをめぐつて拜んだのであつた。『人よ、汝はただ塵に過ぎざることを記憶せよ』――この語はただ物質主義說としては深遠であるが、その見解未だ皮相の域を脫してゐない。何故といふに、塵はどんなものか。『塵よ、汝は太陽たりしことを記憶せよ。また再び太陽となるべきことをも記憶せよ……汝は光明、生命、愛たりしなり。而して今後また、永劫不斷の宇宙的魔法により、必らず幾たびも斯く變化せん』

 

 何故なら、この宇宙といふ大幻像は、單に發展と滅亡の交替以上のものであるからである。それは無限の輪𢌞である。それは果てしなき轉生である。かの古昔の肉體復活の預言は、虛僞ではなかつた。それは寧ろあらゆる神話よりも大きく、あらゆる宗敎よりも深い眞理の豫表であつた。

 幾多の太陽は、彼等の炎の生命を失つてしまう。しかし火の消えた彼等の墓から、また新しい幾多の太陽が元氣よく現はれてくる。幾多の滅んだ世界の死骸は、すべて或る太陽の作用による火葬壇へ移つてゆく。しかし彼等自身の灰燼から、彼等はまた生まれる。この地球の世界も滅びるにきまつてゐる。その海洋は悉く幾多サハラの沙漠を現出することとなるだらう。しかしそれらの海洋は、嘗ては太陽のうちに存してゐたのである。して、その枯死した潮流は、火によつて生き返されて、また別世界の海岸に轟々たる波を打ち寄せるであらう。轉生と變形――これらは寓話ではないのだ! どんなことが不可能だらう? 鍊金術者と詩人の夢は、決して不可能ではない――實際鐡渣[やぶちゃん注:鉄の滓(おり)・沈殿物。]を黃金に、寶玉を生ける眼に、花を肉に變化することができる。どんなことが不可能だらうか? もし海洋が世界から太陽へ、太陽からまた世界へと移つて行くことができるならば、死滅した個性の塵土――記憶と思想の塵土は、どうなるだらうか? 復活は存在する――しかし西洋の信仰で夢想されてゐるいかなるものよりも、一層偉大なる復活だ。死んだ感情は、消滅した太陽や月と同じく確實に復活するであらう。ただ私共が現今認知しうる限りでは、全然同一個性の復歸といふものはないだらう。再現はいつも以前存在してゐたのを再び結合したもの、類緣のものを整理したもの、前世の經驗の滲みこんだ生命が更に完成されたものであるだらう。宇宙は業報である。

 自身は無常だといふ觀念から私共が畏縮するのは、單に迷妄と痴愚のためである。何故なら、元來私共の個性とは何であるか。極めて明白に、それは毫も個性ではない。それは數へ盡くされぬほどの複雜性である。人間の身體はどんなものか。幾萬億の生ける實體から作られた形態、細胞と呼ばる〻個體の一時的の聚團である。それから、人間の靈魂はどんなものか。幾億兆の靈魂の複合物である。私共は一人殘らず悉くみな、以前に生きてゐた生命の斷片の、限りなき複合物である。して、絕えず人格を分解させては、また構成する宇宙的作用は、私共一人一人の上に恆久に行はれ、また現在の瞬間にも行はれてゐる。いかなる人でも、嘗て全然新しい感情、絕對に新しい思想を有したことがあるか。私共の一切の感情と思想と希望は、いかに人生の移り行く季節を通して變化し生長するにしても、ただ他の人々――大部分は死滅した人々、幾億兆の過去の人々――の感覺と觀念と欲望の集合と再度の集合に過ぎない。細胞と靈魂はそれら自身、再度の集合であつて、過去に於てさまざまの力の編まれたのが、更に現在に於て聚結せるものである――それらの力に就いては、それは宇宙間一切の幻影を作る造物主のものだといふことを除いては、何事もわかつてゐない。

 諸君が(私が諸君といふのは、靈魂の他の聚團――私のよりも外の聚團を意味する)果たして眞に一個の聚團として不滅を願ふか否か、私は斷言する事ができない。しかし私は告白するが、『わが心はわれに取つて一王國なり』ではない。寧ろそれは奇怪なる共和國である。それは南米諸共和國に頻發する革命騷動によるよりも、一層多く日々惱まされてゐる。して、合理的と想像せられてゐる名目上の政府は、かかる紊亂[やぶちゃん注:「ぶんらん・びんらん(後者は慣用音)」。秩序・風紀などが乱れること。また、乱すこと。]の永續は望ましくないと宣言してゐる。私の心には、空高く翔らうと欲する靈魂もあれば、水の中(海水だと私は思ふ)を游泳しようと欲する靈魂もある。また、森林の中或は山の絕頂に住まうと欲する靈魂もある。それから、大都會の喧囂[やぶちゃん注:「喧囂」は「けんがう(けんごう)」で、喧喧囂囂。がやがやとやかましいこと、そうすること、また、そのさま。]雜沓をあこがれる靈魂や、熱帶地方の孤獨な場所に住まうと願ふ靈魂もある。更にまた、裸體的野蠻のいろいろな程度にあるもの――租稅を納める必要なき遊牧的自由を要求するもの――保守的且つ纎麗優雅で、帝國と封建的傳統に對して忠良なるもの――虛無主義で、サイベリヤ[やぶちゃん注:“Siberia”。シベリア。]の流刑に値するやうなもの――袖手[やぶちゃん注:「しうしゆ(しゅうしゅ)」。懐手(ふところで)。労を惜しんで、自分からは手を下さないこと。]、無爲を嫌つてぢつと落ち著いて居られぬもの――非常な默想的孤立に安住してゐて、ただ多年を隔てて折々そのうごめくのを私が感じうるやうな仙人じみたもの――呪物崇拜の信仰を有するもの――多神敎的なるもの――囘々敎[やぶちゃん注:イスラム教。]を主張するもの――僧院の蔭と抹香の薰り、蠟燭の幽かな光とゴシック建築の暗影と崇高を愛する中世的なもの――さまざまの靈魂が私の中に入つてゐる。これらの一切の間に於ける協同一致は思ひもよらぬことである。いつも惱みがある――反抗、紛擾、內亂が起こる。大多數のものは、かかる狀態を嫌つてゐる。欣んで他へ移住しようとするものも多くある。して、少數の賢明なものは現存組織の全滅後でなくては、一層よい狀態を望んでも結局駄目だと感じてゐる。

 

 私が一個人――一個の靈魂! 否、私は一つの群衆である――幾萬兆といふ、考も及ばないほど夥しい群衆なのだ。私は時代に時代を重ね、劫億に劫億を積んだものだ。今私を作つてゐる集合は、數へきれぬほどたびたび解散しては、また他の散らばつたものとまじり合つたのである。だから、次囘の消散分解を何の懸念すべきことがあらうか? 恐らくは、太陽のさまざまの時代、燃燒の幾億萬年を經た後に、私を組織する最上の要素が、再び集合することがあるかも知れない。

 

 『何故』といふ理由の說明を想像しさへも得らる〻ならば! 『何處から』と『何處へ』の問題に、それよりも遙かに困難が少い。その譯は、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]漠然ながらも、現在が未來と過去を私共に確保するからである。しかし『何故』は!

 

 少女のやさしい聲が、私の空想を醒ました。彼女は『人』といふ漢字の書き方を幼弟に敎へようとしてゐる。初め彼女は砂の中へ、右から左へ向けで、下方へ傾斜する一畫[やぶちゃん注:「いつかく」。]を引く――

 

Img_001

 

 それから、彼女は左から右へ向けて、下方へ曲線をなす一畫を引く――

 

Img_002

 

 この二つを結合して、完全な一字を成すやうに書いたのが『人』である。男女の性如何を問はず人を意味する。または人類を意味する――

 

Img_003

 

 次に彼女は、この字形の意義を實際的說明によつて、幼兒の記憶に印しようと試みた――この說明法は多分學校で學んだのだらう。彼女は一つの木片を二つに割つて、それから、文字の二畫が成すと殆ど同じ角度に、木の二小片を互に釣り合はせるやうにした。『さあ、御覽なさい』と、彼女はいつた。『一方は片一方の助けがあればこそこんなに立つてゐるのよ。一方だけでは立てませんわね。だから、この字は「人」です。人は助けがなくては、この世に生きて行かれません。助けられたり助けたりして、誰れも生きてゆけるのですよ。もしみんながほかの人を助けなければ、みんな悉く倒れて、死んでしまうのです』

 この說明は言語學的には正確ではない。左右の兩畫は、進化論によれば、一對の足を現はしてゐる――原始時代の畫文字[やぶちゃん注:「ゑもじ」。]に現はれた人間の身體全部の形が、現代の表意文字には兩肢だけ遺存して表はれてゐるのだ。しかし美はしい敎訓的空想の方が、科學的事實よりも一層多く重要である。それはまたあらゆる形狀、あらゆる出來事に賦與するに倫理的意義を以てする、古風な敎授法の一つの面白い實例である。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]、單に道德的知識の一條項としても、それはすべての世俗的宗敎の心髓と、すべての世俗的哲學の最良部分を含んでゐる。この鳩のやうなやさしい聲を有し、ただ一つの文字の無邪氣な福音を說く可愛らしい乙女は、實に世界的尼僧である! 眞にその福音のうちにこそ、究竟の問題に對する唯一の可能なる現在の答が存してゐる。もしその完全なる意義が世界一般に感ぜられ――愛と助けの精神的並びに物質的法則の完全なる暗示が、普く[やぶちゃん注:「あまねく」。]遵奉さる〻に至らば、理想主義者の說に從へぱ、忽然此一見堅牢な具象世界は煙と消えてしまうであらう! 何故なら、いかなる時にも、苟も一切人間の心が、思惟と意志に於て大敎主の心に一致する場合は、『一塊土一粒塵と雖も佛道を成就せざるものは莫からむ[やぶちゃん注:「なからむ」。]』と、書いてあるから。

[やぶちゃん注:「人」の解字は小泉八雲が語る如く、ヒトを横から見た象形で、一画目は「頭から手まで」を表わし、二画目は「胴体から足まで」を表わしたものである。サイト「JapanKnowledge」の「第10 人の形から生まれた文字〔1〕」が甲骨文も表示されていて、よい。しかし、小泉八雲の少女への讃辞には心から完全に同意するものである。

 なお、意味は腑に落ちるものの、最後の引用仏典は私には不明である。識者の御教授を乞う。

「書いてあるから。」の「る」は、底本では、脱字空白である。補った。]

 

2019/11/26

大和本草卷之十三 魚之下 龍涎 (龍涎香)

 

龍涎 本草綱目龍條下有之曰是羣龍所吐涎沫

浮出畨人採得貨之亦有大魚腹中剖得者能收

腦麝不散入諸香亦詳于潛確類書九十四巻○

典籍便覧云龍涎嶼在大食國春間群龍交戯於

上而遺涎沫於洋水國人駕舟採之其涎初若脂

膠黃黑色頗作魚腥氣久則成大塊或魚腹中取

出如斗大焚之亦淸香倭俗クシラノ糞ト云如

蠟而游者也眞僞ヲ知ントセハ燒テ烟ノ直ナルハ眞ナ

リ斜ナルハ偽也浦ニテ拾得ル事マレ也其價貴キナルハ黃

金ニ倍レリ或云是馬ノ鮓答ノ類海鰌ノ腹ヨリ生ス

ル者歟但其中ニ烏章魚ノ骨交ハレハ若ハ海鰌ノ

吐カ或海鰌潮ヲノム時偶龍涎アツテ浮ヘル

ヲノミテ糞中ニマシハリ出ルカ今案ニ典籍

便覧ノ說可用畨人諸香ニ和ス其香久シテ散セス

又ニホヒノ玉トス此物蠻語ニアンペラト云長崎ニ蕃客持來

○やぶちゃんの書き下し文

龍涎〔(りゆうぜん)〕 「本草綱目」、「龍」の條下、之れ、有り。曰はく、『是れ、羣龍の吐く所〔の〕涎〔(よだれ)の〕沫〔(しぶき)〕、浮〔き〕出〔づ〕。畨人〔(ばんじん)〕、採り得て、之れを貨〔(くわ)〕にす。亦、大魚の腹中、剖〔(き)り〕得る者、有り。能く腦〔(なう)〕・麝〔(じや)〕を收めて、散ぜず。諸香に入る。亦、「潛確類書」九十四巻に詳かなり』〔と〕。

○「典籍便覧」に云はく、『「龍涎嶼〔りゆうぜんしよ)〕」は大食國に在り。春の間、群龍、上に交はり戯れて、涎〔の〕沫を洋水に遺〔(のこ)〕す。國人、舟に駕〔(が)〕して、之れを採る。其の涎、初め、脂膠〔(あぶらにかは)〕のごとく黃黑色、頗る魚腥〔(ぎよせい)〕の氣を作〔(な)〕す。久しければ、則ち、大塊と成る。或いは、魚の腹の中〔より〕取り出〔だす〕。斗〔(ます)〕の大〔なるが〕ごとし。之れを焚〔(た)〕けば、亦、淸香〔あり〕』〔と〕』云云。倭俗、『「くじら」の糞』と云ふ。『蠟のごとくして、游(うか)ぶ者なり。眞僞を知らんとせば、燒きて烟の直〔(すぐ)〕なるは、眞なり。斜めなるは偽なり。浦にて拾ひ得る事、まれなり。其の價、貴きなるは、黃金に倍れり[やぶちゃん注:「倍せり」の誤記か。]』〔と〕。或いは云はく、『是れ、馬の鮓答〔(さとう)〕の類。海鰌〔(くじら)〕の腹より生ずる者か。但し、其の中に、烏〔(いか)〕・章魚〔(たこ)〕の骨、交はれば、若(も)し〔く〕は、海鰌の吐くか。或いは、海鰌、潮をのむ時、偶〔(たまたま)〕、龍涎あつて、浮べるをのみて、糞中にまじはり出づるか。今、案ずるに、「典籍便覧」の說、用ふべし。畨人、諸香に和す。其の香、久しくして散ぜず。又、「にほひの玉」とす。此の物、蠻語に「アンペラ」と云ふ。長崎に蕃客、持ち來たる。

[やぶちゃん注:生物ではない特異点の記載。所謂、マッコウクジラ(ハクジラ小目マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter microcephalus)の腸内に発生する結石で、香料の一種として珍重される「龍涎香(りゅうぜんこう)」「アンバーグリス」(英語:Ambergrisである。ウィキの「龍涎香」によれば、『灰色、琥珀色、黒色などの様々な色をした大理石状の模様を持つ蝋状の固体であり芳香がある。龍涎香にはマッコウクジラの主な食料である、タコやイカの硬い嘴(顎板:いわゆるカラストンビ)が含まれていることが多い。そのため、龍涎香は消化できなかったエサを消化分泌物により結石化させ、排泄したものとも考えられているが、その生理的機構や意義に関しては不明な点が多い。イカなどの嘴は龍涎香の塊の表層にあるものは原形を保っているが、中心部の古いものは基質と溶け合ったようになっている。マッコウクジラから排泄された龍涎香は、水より比重が軽いため』、『海面に浮き上がり海岸まで流れ着く。商業捕鯨が行われる以前はこのような偶然によってしか入手ができなかったため』、『非常に貴重な天然香料であった。商業捕鯨が行われている間は鯨の解体時に入手することができ、高価ではあったが』、『商業的な供給がなされていた。1986年以降、商業捕鯨が禁止されたため、現在は商業捕鯨開始以前と同様に』、『偶然によってしか入手できなくなっている』。英語のそれは『「灰色の琥珀」を意味するフランス語』ambre gris(アンブル・グリ)に由来する。『龍涎香がはじめて香料として使用されたのは7世紀ごろのアラビアにおいてと考えられている』。『また、龍涎香という呼び名は』、『良い香りと』、『他の自然物には無い色と形から』、『『龍のよだれが固まったもの』であると中国で考えられたためである。日本では、室町時代の文書にこの語の記述が残っているため』、本『香料が伝来したのはこの頃ではないかと推測されている』。『香料として使用する場合にはエタノールに溶解させたチンキとして使用され、香水などの香りを持続させる効果がある保留剤として高級香水に広く使用されていた』。『また、神経や心臓に効果のある漢方薬としても使用されていた』。『龍涎香の構成成分の大部分はステロイドの一種であるコプロスタノールとトリテルペンの一種であるアンブレイン』(Ambrein)『である。このうち』、『アンブレインの含量が高いものほど品質が高いとされる。このアンブレインが』、『龍涎香が海上を浮遊する間に日光と酸素によって酸化分解をうけ、各種の香りを持つ化合物を生成すると考えられて』おり、『これらの化合物は合成香料として製造されており、龍涎香の代替品として使用されている』。『また』、『龍涎香には含まれていないが』、『龍涎香と類似した香りを持つ化合物も多く知られており、それらも龍涎香の代替品として使用されている』とある。かのアメリカの作家ハーマン・メルヴィル(Herman Melville 一八一九年~一八九一年)の名作「白鯨」(Moby-Dick; or, The Whale)の第九十二章は、『章題がAmbergrisとあり、その内容もマッコウクジラの解体時に龍涎香を入手する様子を詳しく描写している』。『中国、明代の趣味人向け道具』の『解説には、「スマトラ国にある竜涎嶼(小島)では、たくさんの龍がざこねしていて、その垂らしたよだれが採集された香』とし、『海面に浮かんでいたものが最上品、岸に漂着し』て『埋まっていたものが次、魚がよだれを食べ糞となり、腹から取り出したものが次の品」という説明がある』(引用書名を「長物志」と注する)という。

『「本草綱目」、「龍」の條下……』巻四十三の「鱗之一」の「龍」の条の最後に、

   *

龍涎 機曰、「龍吐涎沫、可制香。」。時珍曰、「龍涎、方藥鮮用、惟入諸香、云能收腦・麝數十年不散。又言焚之則翠烟浮空。出西南海洋中。云是春間羣龍所吐涎沫浮出。畨人採得貨之、毎兩千錢。亦大有魚腹中剖得者。其狀初若脂膠、黃白色、乾則成塊、黃黑色、如百藥煎而膩理。久則紫黑、如五靈脂而光澤。其體輕飄、似浮石而腥臊。

   *

とある。

「畨人」これは「畨」の音通で「蕃」で、中国人が異民族を誹って言う「野蛮人」の意の「蕃人(ばんじん)」の謂いであろうと踏んでおく。

「貨」非常な価値を持つ財宝の意。

「腦・麝」龍脳と麝香。前者は「ボルネオール」(borneol:C10H18O:「ボルネオショウノウ」とも呼ばれる二環式モノテルペン(Monoterpene:C10H16:テルペンの分類の一つで、二つのイソプレン単位からなり、環を持つタイプ。テルペン(terpene)とはイソプレン(isoprene:二重結合を二つ持つ炭化水素を構成単位とする炭化水素)を構成単位とする炭化水素で、植物・昆虫・菌類などによって作り出される生体物質の一つ)。ウィキの「ボルネオール」によれば、『歴史的には紀元前後にインド人が』、六~七『世紀には中国人が』、マレーや『スマトラとの交易で、天然カンフォルの取引を行っていたという。竜脳樹はスマトラ島北西部のバルス(ファンスル)とマレー半島南東のチューマ島に産した。香気は樟脳に勝り』、『価格も高く、樟脳は竜脳の代用品的な地位だったという。その後』、『イスラム商人も加わって、大航海時代前から香料貿易の重要な商品であった。アラビア人は香りのほか』、『冷気を楽しみ、葡萄・桑の実・ザクロなどの果物に混ぜ、水で冷やして食したようである』とある。後者は鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus に属するジャコウジカ類の♂の麝香腺から得られる香料と薬の原料とされた「ムスク」(musk)。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」に詳しい述べてあるので参照されたい。

「を收めて、散ぜず」これは急速な香りの減衰を抑えて、永くそれらの香りを保持する持続薬としての効用を言っているようである。

「潛確類書」「潜確居類書」とも。明代の学者陳仁錫(一五八一年~一六三六年)が編纂した事典。

「典籍便覧」明代の范泓(はんおう)撰になる本草物産名の類纂書。

「龍涎嶼〔りゆうぜんしよ)〕」先の引用によればスマトラにある島(「嶼」は小島の意)の名前とするが、伝説上の架空の島であろう。

「大食國」不審。これはイスラム帝国の旧称である。

「魚腥の氣を作す」魚の生臭い匂いを発する。

『「くじら」の糞』寺島良安も「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」(リンク先は私の古い電子化注)の「鯨」の項でそう書いている。

「眞僞を知らんとせば、燒きて烟の直〔(すぐ)〕なるは、眞なり。斜めなるは偽なり」之と全く同じことを、どこかで電子化したのだが、思い出せない。発見し次第、追記する。

「馬の鮓答の類」「鮓答」(さとう)とは、馬に限らず、各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するものと私は認識している。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」で詳しく論じているので参照されたい。

「アンペラ」上記リンク先で考証したが、「鮓答」なるものは、もともと日本語ではなく、ポルトガル語の「pedra」(「石」の意。ネイティヴの発音をカタカナ音写すると「ペェードラ」)+「bezoar」(「結石」ブラジルの方の発音では「ベッゾア」)の転であろう。また、古い時代から、一種の解毒剤として用いられており、ペルシア語で「pādzahr」、「pad (expelling) + zahr (poison) 」(「毒を駆逐する」の意)を語源とする、という記載も見られる。牛馬類から出る赤黒色を呈した塊状の結石で、古くは解毒剤として用いたともある。別名を当該の獣類の名に繋げて「~のたま」と呼び、「鮓答(さとう)」とも書いた。但し、例えば大修館書店「廣漢和辭典」の「鮓」を引いても、この物質に関わる意味も熟語示されていない。現代中国音では「鮓荅」は「zhǎ dā」(ヂァー・ダァー)で、やや「ペェードラ」に近い発音のように思われるから、それを漢音写したものかも知れない。益軒のは「アンバーグリス」と「ペェードラ」を組み合わせたキマイラのように感ずる。 しかし、「アンペラ」(莚)はないだろ!? 一説にポルトガル 「amparo」(日覆い)からとする例のやつ、烏賊の「エンペラ」で連関するってかあッツ!?! 

ブログ・アクセス1290000突破記念 梅崎春生 行路

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二二(一九四七)年十月号『不同調』に初出で、昭和二三(一九四八)年八月講談社刊の第三作品集「飢ゑの季節」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 途中に二箇所だけ、その昔のシークエンス時制と梅崎春生の事蹟を確認・比較するため、私のオリジナルな注を挟んでおいとた。

 文中終わりで出る「碌々(ろくろく)と」とは「平々凡々と」の意である。若い読者のために言い添えておく。

 梅崎春生の絶妙な仕掛けが――最後に――ある。お味わいあれ。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが本日、午前中、1290000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年11月26日 藪野直史】]

 

   行  路

 

 針金ほどの細い鰻(うなぎ)である。それをブツ切りに切って皿に盛り、板台に幾皿も並べてあるのだが、切断された部分部分がまだ生きていて、ピンピン皿の外に飛び出そうとするのを指でつまんで皿に戻しながら、

「さあ、一皿十円。さあ十円ですよ」

 一間[やぶちゃん注:約一メートル八十二センチメートル。]ほどのよしず張の店で、店先にむらがったお客達の肩越しに聞えて来るのは、そんな甲(かん)高い女の声で、あった。梅雨の合間のぬかるみ道を歩き悩みながら、その張りのある女声にふと耳をとめた私は、何だかそれに聞き覚えがあるような気がしたから、洋傘を支えにして何気なく客の肩越しに斜にのぞきこむと、丁度(ちょうど)顔をこちらにむけた声の女の視線が偶然私の姿をとらえたらしく、日を輝かせながら、まあ、と驚いた時の眼をパチパチさせるその癖でも、まぎれもない栄子の姿であった。

「お栄さんじゃないか」

 私も少からず驚いて口走った。暫(しばら)く見ないうちに少し肥った色白の頰に栄子は驚きの色をかくせない陰影のある笑みを浮べて、裏の方へ、と手振りで私に示しながら、

「ケイちゃん。店の方たのんだわよ」

 へい、と答えて奥から出て来た若者は、復員服を着て二十四五らしいが、眉の形の良い端正な横顔を、よしずにそって裏に廻りながらちらと眺めた印象が、

 ――似てるじゃないか。――

 私は栄子と相知って此の十年余の歳月を、その感じだけで胸苦しくよみがえらせていた。

「暫くだったわね」

 裏の木戸から出て来て、何か感慨深そうに栄子はしげしげと私を眺めながら、

「でも貴方はかわらないわね。私はとても変ったでしょう」

「いや。綺麗(きれい)になったよ」

「へえ。口が旨くなったわね。これでもあたし、此の間までは上野の地下道に寝泊りしてたんだから」

 こんな事で私に嘘を言う女ではないから、その事も本当に違いない。私が黙っていると、

「驚いた。驚いたでしょう」

「驚きもしないが、大変だったろう」

 うふん、と含み笑いをしながら、私の手の弁当箱に眼を走らせ、

「相変らず腰弁というところね。それは空なの」

 一寸待ちなさいと、ためらう私から弁当箱を取上げて木戸へ入って行ったが、暫くして出て来て、

「お土産。商売物だけど」

 こだわりのない明るい調子であつた。受取ると弁当箱の中に、先刻見た切れ切れの鰻(うなぎ)が詰っているらしく、アルミの蓋にはねあたる幽(かす)かな感じと妙な重量感が手に伝わって来た。

「此処じゃお話も出来ないから、一寸そこまで出ましょう」

「店の方はいいのかい」

「いいの。任せてあるから」

 よしずの向うで先刻の若者の声らしく、ええ一皿十円、たったの十円と呼ぶのが聞えて来た。

 此の前逢った時から三年程も経つが、その歳月を一足飛びに越えて隔りを感じさせないのも、栄子という女の持つ性格ゆえには違いなかったが、また私と栄子の交情が特殊のものであるせいでもあった。栄子に言われるまま歩き出し、露地を廻るとそこらはやくざなマアケット地帯で、両側の屋台屋台に栄子はあるきながら挨拶を交したり交されたりするところからみれば、栄子は既にここでも相当な顔らしく、私は恰幅(かっぷく)の好い栄子の後姿を追いながら、此の女のこんな強さはどんな処から来るのかといぶかる思いでもあった。泥のはねを気にして立ち悩む私に、栄子はふと振返ってまぶしそうな眼を向けたが、身体を反(そ)らして飛込んだのがやはり屋台の一軒で、

「おばさん。つけてくれない」

 棚に並んだ瓶を見るまでもなく飲屋と知れるが、昼酒でもあるまいとためらう私に栄子ほはげしく手まねきした。

 すわりの悪い腰掛けで、曇天の光が青ぐらく落ちて来て、私は盃に注がれた変に黄色い洒に口をつけた。酒を口に入れるのも久し振りで、そのせいか薬品じみた抵抗がふと舌にさからうのだが、栄子は鮮やかな飲みぶりで、盃を持つ手ももの慣れた風情であった。此の女も何時からこんなに酒に慣れたのかと、記憶の空白を確め廻していると、

「あれからどの位経ったかしら」

「そう。あれが十九年の三月だったから」

「もう三年あまりね」

 その時は栄子は着のみ着のままで、険しく暗い顔をして私を訪ねて来たのであった。しかしどんなに暗く栄子が絶望していても、今までの例ではまた不死鳥のように此の女は立ち上って来た。その事を私は言いたくて、

「でもお栄さんはどうにかして生き抜けるたちらしいね」

「どうにかなる。どうにかなるものよ」

 栄子は盃を乾しながら、かわいた笑い声を立てた。私と始めて相知った頃の栄子は、こんな笑い方はしなかった。淋しそうな笑いを片頰に一寸浮べるような女であつた。今のように肥ってはいなくて、すらりとした形の良い少女であった。

 それは確か私が大学に入った年のことで、同じ高等学校から来た古田という私の友達がいて、それから栄子を紹介されたのだ。古田の話では従妹だということであったが、その頃栄子は何処か私立の音楽学校に通っているとの話で、一寸しゃれたスウツなど着てその癖髪はおさげのままであった。不調和がそのまま此の少女には調和となっていて、それが変な魅力となっていた。手を膝にあてて丁寧にお辞儀するような少女であった。全体の感じが稚ない様子だったから少女と書いたが、歳はもう十八九になっていたと思う。

 古田という男はきりっとした顔立ちの男であったし、それに仲々の漁色家だという評判だったから、勿論(もちろん)従妹だなどという彼の口舌を私は信じていなかった。また信ずるにしても信じないにしても、それは私にかかわりあることではなかった。しかしこんな稚なさを不幸におとし入れることは、何か無惨な気もしなくはなかった。私の知る限りでは古田の今までの相手は、女給とかダンサアとかそんな種類の女に限られていたから、そんな女たちと同列に栄子を置くことがふと傷ましく思われたのだ。

 古田とはもとから私は知っているが、漁色家といっても悪どいやり方ではなく、ただ責任のない愛情を楽しもうとする、言わば単純なエピキュリアンに過ぎなかったから、あるいはなおのこと栄子は愛情の方途に迷ったのかも知れない。とにかく若い栄子が古田に愛情を打ち込んでいることは、他処目(よそめ)の私にも判る位であった。そんな無計算な愛情の吐露が、遊びのつもりでいた古田には重苦しくなって来たのであろう。私の下宿にある時やって来て、あの女にもかなわん、と私に洩(mら)したことがある。

「だってあれは君の従妹だろう」

 古田はそれを聞いて首をちぢめて苦笑しながら、しつこい従妹だよ、とはき出すように言った。

 その言葉を聞いた時、私はふと古田に微かな憎悪を感じていた。

 その頃既に古田は栄子と肉体的関係があったのだと思う。ただの精神的な恋情なら、古田ほどの男が身をかわせない筈がないからだ。私がその時古田を憎む気持が起ったというのも、彼の無責任な生活態度に対してではなく、純な女に不幸を植えつけたという点であったに相違ない。三人でいる時、栄子がときどき古田を眺めるあの熱っぽい眼を私は思い出していたのだ。古田はその頃栄子と二人になることを嫌ってか、よく私を誘いこんで同座させていた。

 ある夜日比谷公会堂で音楽会があって、待ち合せて行く約束になっていたのだが、約束の場所でいくら待っても古田が来ず、やむなく私は栄子と二人で聴きに行ったことがある。もともと私は音楽に趣味があるわけではなく、ほんのつきあいに過ぎなかったが、栄子は音楽学校に通っていただけあってその夜も譜本をたずさえて来ているほどであった。約束の時間が過ぎた時私はすぐ、古田がすっぽかしたと思ったが、栄子は、も少し、も少し、と少しずつ時間を伸ばして、背伸びなどして遠くを眺め、仲々あきらめ切れぬ風情であった。そこを離れて公会堂に行くときも、栄子は何度も振返って探し求める眼付になったりした。

 その夜の演奏曲目は何であったか覚えていない。終って外に出ると空は一面の星で、私達はぶらぶらと公園の中を日比谷停車所の方に歩いた。音楽の後感がまだ身体に残っていて、風爽かな初夏の夜であった。

 演奏中からも栄子は何か沈んだ風(ふう)であったが、歩いている時も言葉少く顔色が冴えない模様で、話しかける私の言葉にもはっきりしない受け答えぶりであった。丁度(ちょうど)噴水のところまで来た時栄子は何か思い詰めたように身体ごと私を押して来た。

「ねえ田代さん。何故今日古田さんは来なかったの。何故来なかったんでしょう」

 突然のことなのでふと私が気押されて黙ると、栄子は急に甲(かん)高い声になって独語のように叫んだ。

「でも私はあの人を信じてるわ。あの人は人を偽るような人じゃないわ」

 声音が乱れたので私が驚いて栄子を見ると、月の光の加減か栄子の顔は真蒼であった。陶器のような冷たい頰に、ふと涙のいろを見たような気もしたが、栄子は両掌で顔をおおって、つと私に背を向けた。お下髪(さげ)が大きく揺れて、その間から細い頸(くび)筋が見えた。月の光はそこにも落ちていた。堪え難い程の哀憐の情がその時私の胸を衝き上げて来たのである。私はしかし何故かはげしい狼狽を感じながら身体を硬くして、花々の香しるい夜の径を急ぎ足に歩き出していた。

 しかし栄子と古田の交情も、間もなくあっけなく終った。古田が召集されて支那に渡ったかと思うと、すぐ戦死してしまったのである。戦死の場所は上海戦線であった。

 古田の母親からそんな報(しら)せがあって一遇間ほど経った夜、私の下宿に栄子が訪ねて来た。玄関に出て見ると暗い土間に栄子は影のように立っていて、私の姿を見るとキラキラ光る眼で私をじっと見た。憔悴(しょうすい)の色が濃くかぶさり、何か別人にも見えた。とりあえず部屋に通しながら、古田の戦死を何時知ったのかという私の問いにも答えず、部屋のすみに斜にすわり、私の視線を避けるような物ごしで、

「田代さん酒を飲みたいわ。飲まして」

 激しい口調であった。

 栄子が心に受けた打撃は私にも良く判るのだから、こんな場合、場あたりの慰めも無意味だと思い、女中を呼んで私は酒を注文した。この頃(昭和十二三年頃)は酒が飲みたければ下宿の帳場に注文して、つけでいくらでも飲むことが出来たのだ。

 その夜栄子はかなり酒を飲んだ。

 その話によると、栄子は古田と結婚する約束をしていたそうで、古田の戦死を知って彼女が古田の実家を訪ねてみると、母親が出て来て、古田には内縁だけれども既に妻があるということを、冷たい顔で栄子に話したという事であった。古田が自分と約束をしておきながら、家に内縁の妻を持っていたことが栄子に惑乱する程の打撃を与えたのだ。

「古田が東京を立つ時、何故駅まで来なかったんだね」

「そんな感傷的なことは厭だとあの人は言うんですもの」

 駅には古田の母親とその内縁の妻らしい女が来ていた。その女は人目もはばからず手巾(ハンカチ)を眼にあてていたが、古田は明るい顔で見送人と挨拶を交していた。私は栄子が来てはいないかと時々気になって四辺を見廻したりしたが、汽車が出るまで栄子は見当らなかった。やがて万歳の声と共に、窓から古田が振る帽子がだんだん小さく消えて行った。

「死んじやったもの仕方が無いさ」

 私も少し酔って栄子にそんな事を言った。

「死んじやったからいけないのよ」

 栄子は濁った眼で私を見っめたが、

「他に女の人がいるなんて、男ってそんなものかしら、そんなものなの」

「ああ、そんなものだよ」

 そのうちに夜が更けて電車も無くなったようだから、私は下宿に頼んで寝床をとってもらった。栄子は酔っていて、少からず乱れていたから、独り戻すのは危険な気もした。それにまた別の気持もあった。

 いよいよ寝る段になって酔った栄子が着換えしようとする時、手が乱れて裸の胸が見えた。乳首がちらりとのぞかれたが、それは桑の実のような黒さであった。栄子はばたんばたんと乱暴にふるまいながら、床に入った。

「あなたは良い人ね。ほんとに良い人ね」

 良い訳がないさと、私は胸の中で呟いたが、栄子はその時眼を閉じて幽かな寝息を立てていた。電燈の光線が栄子の顔に隈(くま)をっくって、いつもの稚ない表情から急に大人びた暗さであった。

 その夜挑んだのが私であったということを私は書いておかねばならぬ。不幸に陥ちた女をそんな風(ふう)に取扱うことは、何か弱みにつけこむようで後ろめたくないこともなかったが、境遇から来る不幸というものは、私には本質的なものでなく、人間にとっては意匠にすぎないと思われた。不幸という点からすれは、栄子よりその夜の私の方が遙か不幸であるのかも知れなかった。

 しかし私の挑みに対して、栄子はもっと激しい情熱で応じて来た。それはほとんど自棄じみた烈しさで、それは私を愛しているためでは絶対になく、ただただ自分を満たすためであることを、私はその瞬間に本能的に感じ取っていた。悦楽の頂上にあって栄子は唇を私の耳に寄せ、

「――憎い。憎いわ」

 歯ぎしりするような調子でそう呻いた。

 翌朝私達はぼんやり起き上っていた。昨夜のことを悔ゆる気持は勿論(もちろん)私にはなかった。私は貧しい朝膳に向いながら、昨夜栄子が憎いと叫んだ言葉は、誰にむけられていたのだろうと考えた。古田に対してか、それとも私に対してか。或いは栄子は自分自身にその瞬間そんな憎悪を感じているのかも知れなかった。私が探り得た身体の感触では、栄子は明かにみごもっていた。

 しかしその朝、栄子は意外なほど明るくなっていて、朝食を食べながら声を立てて笑ったりした。昨夜までの苦しみをすっかり置き忘れた風(ふう)であった。

「で、これからどうするんだね。故郷に帰るのか」

 栄子の故郷は九州で、小地主の父親だけがいるということを私は聞き知っていた。

「帰らないわ」

「学校に戻るのか」

「学校はもう止めよ」栄子はそう言って笑った。「私は看護婦になるの。そして従軍するの」

 その日一緒に外に出て、銀座で映画を見て別れた。それは喜劇映画だったが、栄子は笑う処になると人一倍笑ったりした。そんな栄子の心理を私はふと解しかねていた。

 それから栄子は長い間私を訪ねて来なかった。

 看護婦になると言っていたがどうしたのか、腹の子供はどうしたのか、そんな事を私は時折気にかけていたが、やがて私も卒業期が迫って論文作製などに忙しくなったから、そんな心配も次第に心からうすれ始めていた。ある初冬の日私が図書館の大階段を降りて来ると、その下に黒っぽい看護婦の服を着た女がいて、それが栄子であった。驚く私に栄子はにこやかに笑いかけながら、淡々とした口調で言った。

「明日出発して支那に行くのよ」

 へええ、と思わず私は声に出しながら栄子の容姿を上から下まで眺めた。

「今下宿にお訪ねしたんだけれど、図書館にいらっしゃると聞いたから、先刻から待っていたのよ」

 看護服は良く栄子に似合った。以前より少し肉付きが良くなって、顔の辺も成熟した表情であった。それと私の関心をひいたのは、態度に何か自信が出来ていて、それが一層栄子を美しく見せた。

 立話も出来ないので私達は建物を廻って歩き出した。

「何故今まで連絡しなかったの」

「何故って、私にも判らないのよ」と栄子は一寸顔を染めた。「貴方のことをあまり思い出さなかったのよ。ところがいよいよ遠くに行く段になって、とっても貴方に会いたくなったのよ。もう御卒業ですってね」

 葉の枯れ落ちた銀杏(いちょう)並木の彼方、青色の冬空を背景にして安田講堂が茶褐色にそそり立っていた。そこを歩きながら栄子が言った。

「あの建物は何。厭な形ね。お墓の形をしてるじゃないの」

 まことそれは墓石の形であった。朝夕それを眺めていて、その時始めて私は気が付いていた。

 子供はどうしたのかとうとう聞かなかったが、栄子の話では看護婦の教習所のような処に暫く通って、そして従軍を志願したという話であった。それを話す口調があまり淡淡としていたから、子供を産んだにしても流したにしても、そんな一身上の大事が表情に陰影を落さない筈はないと私は思った。しかし栄子はそんなこだわりをいささかも見せていなかったのだ。不幸をてんで受付けないような強い資質を此の女は始めから持っていたのではないか。思い立っていきなり従軍看護婦になるというのも、思えば私には理解出来ないことであった。私はその頃召集が来はしないかと毎日ビクビクしていたのだ。

 別れ際に私が、

「もう古田のことなど忘れてしまっただろうね」と冗談めかして言うと、栄子は急に淋しそうな顔をした。

「ええ、近頃は忘れちゃったけどね、あの時はほんとに辛かったわ。あんなに深く絶望したことって無いわ。あんな気持は男には判らないでしょうね」

「判らないことはないさ。しかしその傷のなおり方は男よりは早いようだね」

「そんな事を言う」栄子は口辺にふしぎな笑みをちょっと浮べたが、直ぐしみじみした調子になって、「貴方にも又そのうち、御厄介になることがあるかも知れないわ。住所が変ってももとの処に言い残しといてね」

 そして私達は別れた。

 その夜私は遅くまで眠れなかった。栄子と今日出逢い、そしてみすみす遠くへ手離したということ、それが実感として私に来た。私は長い間栄子のことを思いつづけていたような気分におちていた。実際としては近頃私は栄子の事を忘却し勝ちであったが、逆に言えは苦しいから私は私の意識を眠らせようと努力しているのかも知れなかった。何だかそんな感じを突きつめて行けば、私は栄子と最初出会った時から、栄子に切ない気持を抱いて来たようであった。あの一夜のことが今なお私に罪業感を残さぬのは、私のエゴイズムではなくて、そんな気持の責任を私が持っているからに違いなかった。しかし現実には私は栄子と距離をへだてている。それは何の故だろうと私は思うのであった。

 二箇月程経って栄子から手紙が来た。上海の陸軍病院からであった。私は古田が上海で戦死した事を咄嗟(とっさ)に思い起していた。現実のありかたからすればそれは偶然というものかも知れないが、私には何だか栄子の成意が働いているように思えた。その手紙には、近く奥地へ出発するという意味のことが、検閲を考慮してか廻りくどく書かれてあった。

 その翌年の春、私は学校を卒業した。学校の教師にもなりたくなかったし、それと言ってもどんな仕事にも情熱を感じなかった。すすめる人があって、私はある役所に入った。仕事は面白い筈もなかったが、月給を貰えないとなるとすぐ生活に困る身上であった。新体制ということが叫ばれ、誠に住みにくい世であった。栄子の消息はそれ切りなかった。

 私は長年住み慣れた本郷の下宿を引払って郊外のアパアトに移った。結婚をすすめる人もあったが、大てい私は笑って断った。しかしその時栄子の事を考えていたわけではない。なるほど栄子は私の心の中に住んでいたけれども、現実的な像としてではなく、小さな額縁に入った絵のような具合に残っているだけであった。それが私の生活を乱すということはあり得なかった。ただ何となく私はすべての女に興味をなくしていた。結婚生活というものに対しても、私はいささかも魅力を感じていなかった。気持がはっきり踏切りっかぬまま私はその役所に一年余通っていた。

 大陸から戻って来た栄子が私のアパアトを探して訪ねて来たのも、そんな沈滞したひと日のことであった。私が夕食の菜をぶら下げてアパアトに戻って来ると、管理人のお内儀が玄関で私を呼び止めて、

「女の方が部屋にいらっしゃいますよ」

 と言った。誰だろうと私はいぶかしく思ったが、次の瞬間に栄子ではないかということを直ぐ考えた。その外(ほか)に私の部屋に訪ねて来る女人など居る訳は無かったからである。

 扉をあけると栄子は私の机の前にすわって私のアルバムを拡げていたが、私の姿を見るとバタンとそれを閉じて居ずまいを正した。

「今夜泊めてね。お願い」

 栄子は看護婦の服装ではなくて、草臥(くたび)れたスウツを着ていた。部屋のすみに小さなトランクが置いてあったが、その金具も脱(はず)れかかっていた。身体全体に疲労のいろが深く、眉目のあたりがきわ立って荒れた感じであった。

「もう看護婦は止めたのかい」

 私のその言葉に答えず、背広を脱ぐ私をしげしげと眺めながら、

「田代さんも背広を着るようになったのね」

 そんなことをポツンと言ったりした。

 近所の知合いの酒屋に少しばかり都合してもらって、その夜は飲んだ。栄子は大変酒が強くなった感じで、小気味良く盃をあけていたが、それでもそのうちに好い色になった。何か大陸での生活を話したがらない風なので、私も強いてそこに触れなかったが、酔うにつれて栄子の険しい眉も少しずつ晴れて行くようだった。そんな時に、ふと音楽学校時代の栄子の清純な俤(おもかげ)がよみがえって来たりした。そして私も少し酔った。

 日米関係が険悪になりかけていて野村大使が渡米している時のことだったから、私達の話も自然に其処に落ちて、私も何時かは戦いに引っぱり出されるだろうというようなことを私が言ったら、栄子は眉を寄せいやな顔をして言った。

[やぶちゃん注:「野村大使」海軍軍人で外交官であった野村吉三郎(明治一〇(一八七七)年~昭和三九(一九六四)年)は第二次近衛内閣の時、昭和一六(一九四一)年一月に駐米大使に任命され、ぎりぎりまで日米交渉に努めた.同年十二月七日(日本時間十二月八日)のマレー作戦と真珠湾作戦で米・英・蘭と開戦したが、針の莚に座るような思いで、その後の半年をワシントンD.C.で過ごし、抑留者交換船で日本に戻ったのは翌年八月中頃であた(以上はウィキの「野村吉三郎」に拠った)。則ち、このシークエンスの時制は昭和十六年一月以降、開戦前夜までということになる(実は、後で昭和十六年十月末か、十一月であろうことが判る)。なお、この頃、梅崎春生は昭和十五年三月に東京帝国大学文学部国文科を卒業、東京都教育局に勤務していたから、この主人公田代の経歴とそれは一致していると言ってよい。]

「戦争。戦争って厭なものよ。あんな厭なものはない。兵隊ってけものよ。おお厭だ」

 嚙んではき出すような口調だった。そして最後の一句と共に、栄子は肩をすくめて身ぶるいした。

「だって君は進んで志願したのだろ」

「言わないで。そんな事言わないで」

 栄子は掌を上げて私をさえぎる風な手付をしたが、急に身体をくずし、声を忍ばせて突然泣き出した。掌で顔をおおい首を深く垂れているので、頚筋が斜に見えた。あの昔の細く脆(もろ)そうな頸とはちがって、何か筋肉質のものを思わせる妙な逞しさがそこにはあった。

 栄子は直ぐに泣き止んだ。そしてキラキラ濡れた眼で、また何杯も盃をほした。

 その夜眠っている私に、栄子は荒い呼吸使いで抱きついて来た。酒の匂いが鼻に来て、私は眠りからはっきり覚めていた。栄子は着ているものを全部脱ぎすてていた。暗闇の底でそれは感じですぐ判った。

 それは娼婦よりももっと荒くれた仕草だった。私は数年間禁欲を続けていたので、失敗するかも知れない予感が胸をかすめたが、そんなものを圧倒するような激しい情熱であった。そしてその情熱は盲目的なものでなく、私を誘導しようとする巧みなものを秘めていた。私は意識的にそれに呼応して行った。私はその時自分がかなり努力していることを感じていた。そして何故だかは判らないが、その瞬間でも栄子との距離をはっきり感知していた。栄子があえいでいるのも、自分の空白を満たすためなので、私とは全然関係ないような気がした。そして営みは終った。

 疲れ果てて私達は横たわっていた。部屋の床から秋の虫が低く鳴き出していた。

「私は故郷に帰りたいわ」と栄子が暫(しばら)く経って言った。郷愁めいたものが、やはりその時私の胸にも湧いていたのである。

「私戦場にいる時、ほんとに一度でも良いから内地に戻って、音楽を聞きたいと、そればかり考えてたわ。それはほんとに辛かったわ。貴方には判らない事よ」

 暫くして私が、君はいくつになる、と聞いたら低い声で、二十五よ、と答えた。

 翌朝起きて見たら栄子は既に起きていて、驚いたことにはちやんと朝食も拵(こしら)えてあった。卓をはさんで食事をとりながら、栄子がこんな事を言った。

「今まで私は何をやっても失敗してばかりいるんだけれど、此度はしっかりやるわ。私東京で何処か職を探そうと思うの」

「故郷へ帰った方が良いんじゃないか」

「何故よ。何故いいの」

 一晩休んだせいか栄子はすっかり生気を取戻していて、私の言葉をあざわらうような表情をした。

「職探すって大変だぜ」

「どうにかなるわよ」自信に満ちた声であった。

 役所に出るために私は出かけ、栄子とは駅で別れた。別れる時栄子は私に、アルバムから写真を一枚貰ったわよ、と私にささやいた。

 それから一箇月位して手紙が来た。それによると栄子は或る芸能社に入り、その専属になって芸の道にいそしんでいるということであった。芸の道とは何か。私には判断がつかなかった。しかし文面の感じから言えば、栄子は非常に現状に満足しているらしく思えた。しかしそんな栄子を私はもはや想像出来なくなっていた。私が漠然と慕っている栄子は、もはや現実の栄子ではなかった。その食い違いは何かいらいらと私の心に触れて来た。私がもっと積極的な立場を執れば、栄子は今と違った方向をたどったかもしれない。しかしそんな事を考えることは、無意味と言えば無意味極まる事であった。

 ついに私が触知し得なかった部分が栄子の心にひそんでいて、それが栄子の方向を決定したのではないか。栄子は絶望するたびに新しい脱皮を敢行するらしかった。ふしぎな事には、古田を通じて男というものに絶望した時も、戦争の実体にふれて絶望した時も、栄子は私の処にやって来た。そして肉体的に私と結合を敢てした。

 脱皮のためのカタルシスのような役割を、私は栄子の為に引き受けているのかも知れなかった。そう考えると、私は言いようもない荒涼たるものが胸の中に吹き荒れて来るような気がした。戦争の傷痕を重ねることによって栄子は成長して行くが、私はその間にむなしく青春を終えるらしい。私はカタルシスの座を持ち得ないまま、老い朽ちて行くらしかった。私は栄子との二度の結合も、肉体的な問題は別として、精神的にはますます空白を深めて行っただけであった。

 あるいは栄子は私を通じて、古田への思慕を郷愁の如くよみがえらしているのかも知れなかった。栄子がアルバムから剝いで行った写真は、学生の私と古田が肩を組んで写った写真である。

 一箇月程経って日本はあの無謀な太平洋戦争に突入した。

 ある日私の役所で演芸慰問会があって、私も何となくそれを見に行った時、番組に音楽漫才というのがあって、その名に栄子という字が書かれてあった。もともとそんな演芸方面にうとい私ではあったけれども、ふとそれはあの栄子ではないかと思った。何とか芸能社というのもそんな芸人の団体らしかったし、此の前の手紙も何だかそんな意味のことが書かれていたような気がする。しかし音楽漫才とはどんな事をするのか知れないけれども、音楽会に本譜をたずさえて来たような栄子が、そんな処に落ちるということは想像だけでも私の堪えられないことであった。私は厭な胸騒ぎを暫く味った末、まだ演技が始まらないうちにと、楽屋の方に廻ってみた。

 そしてそれは、あの栄子であった。

 強い化粧をほどこして仮面じみた風貌の栄子と、私は楽屋口で暫く話をした。ごく短い会話であったけれども、私はなじる気持が自然に口に出たにちがいない。栄子は弁解するような口調で言った。

「こんなことやっていて、本当に惨めだと思うわ。しかし仕方がないのよ。生きて行かなくちゃならないもの」

「それにしても本名で出なくっても――」

「いえ、それが本名で出るのよ。私はもう身体をはって生きて行こうと思うの。生きて行くにはそれ以外に道はないわ」

 出番だというので栄子は一寸私を振返って奥の方に入って行った。観客席の方に私は戻ったが、席の方にはどうしても入る気がしなかった。私は廊下に立ちすくみ、観客席から流れて来る笑声を聞きながら、ふとあふれて来る涙を押えかねていた。その束の間の感傷の中で、栄子がどこまでも堕ちるのなら私も一緒におちてやろうかという兇暴な思念にとらわれていた。――

 それから私は栄子の消息を聞かなかった。戦争の状態は段々悪くなって、島々を次々に取戻されて行った。重苦しい日々がっづいた。そして昭和二十年に入った。

 三月、ついに私がおそれていた召集令状が来た。

 三月十五日の入隊だというので、私がその用意をしている時であった。三月十日に本所深川が炎上し、その煙は私のアパアトからも見えた。私は別段感慨なくそれを眺めていた。

[やぶちゃん注:梅崎春生の本格的招集(実際には昭和十七年一月に一度召集されて対馬重兵隊に入隊したが、肺疾患のために即日帰郷している)は昭和十九年の六月である(佐世保相ノ裏海兵団配属)。従って、ここは時制的には梅崎春生の事蹟からは虚構である。なお、終戦時、梅崎春生は満三十歳であった。]

 翌日私のアパアトに栄子が訪ねて来た時、私は始めて栄子が本所に住んでいたことを思い出していた。栄子は着のみ着のままという姿で、肩の所の着物が裂けていたが、どこにも怪我はしていなかった。剝き出した肩の肉が少しよごれて、変に動物的な感じをそそった。栄子の顔は表情がすっかり無い感じでその癖眼ばかりぎらぎらと光っていた。何か気持がうわずっているらしく、部屋に入るなり両手を拡げて、

「死骸がこんなよ。ぞろぞろよ」

 そして両掌で顔をおおうと、暫くじっとしていた。頰がげっそりこけて髪はばらばらに乱れていた。

 しかし暫くしているうちに、少し落着いて来たらしく、私の外套をまとって火鉢にかぶさっていた。眼を上げてあたりを見廻した。

「何故荷物をまとめてるの。疎開するの」

「召集が来たのだよ」

 栄子は私を見て蒼い顔をしたが、何とも言わなかった。

 その夜私は栄子と同じ床に寝た、燈を消してからも栄子は身ぶるいしている感じで、しきりに顔を私の胸にすりよせて来た。うわごとのように何かしゃべっていた。

「皆死んじやったのよ。皆、一人残らず」

「死んだって良いよ」と慰める心算(つもり)で私も答えた。「お栄さんだけ生き残ればそれで沢山だよ」

「皆死んじゃった。あの子も死んじゃったよ」

 栄子は私の言う事も聞えぬ風(ふう)でうたうような調子でそう言った。あの子って誰だい、と笑いながら私が問い返そうとしたとたん、私の胸をかすめたのは、あの最初の夜身ごもっていた栄子の身体のことであった。私は口をつぐんだ。あるいは栄子は子供を産んだのかも知れなかった。栄子のその後のがむしゃらな生き方も、そんな事実を支えとしていたのかも知れないと思い当った時、私は錐(きり)を胸に刺されたようで、思わず栄子を抱く手に力をこめていた。栄子はじっとしていた。暫くして、

「貴方も戦争に行くのね。可笑(おか)しいわ」

 ぽつんとそう言った。

 翌朝早く私は起きた。出発の時間であった。栄子はやや元気を取戻していて、昨日のような錯乱の徴(しるし)はなかった。もし行く処がなければ私の部屋を使えるように管理人に話しても良いと思ったが、栄子はそれを断った。ただ写真を焼いたから、もう一枚呉れと言うだけであった。私は荷物をほぐして、アルバムをそっくりやった。生きて再び栄子と会える事もないと思うと、私の青春に栄子がどんな重大な意味を持っていたかが、悔恨に似た情と共に判然して来るのであった。

 駅まで送ろうかと栄子は言ったが、私は断った。そんなの感傷的だと思っているんでしょう、と栄子はその時始めて声を出して笑ったが、その眼は何か遥かなものを見つめているような具合であった。――

 その日から三年経つ。

 もはや栄子とも逢えぬと思いこんでいたのが、今この青ぐらい屋台店で一緒に酒を汲み交しているということが妙に可笑しくて、私はその気持を栄子に伝えたく、

「お互に此の十年間、何だかバラバラの生き方をして来て、そしてこんな処で又会ったりして本当におかしいな」

 酔いが少し廻って来たらしい。復員後私も又平凡な役人として碌々(ろくろく)とつとめているが、此の十年間自分の青春について考えて来たことが、何かことごとく虚しい妄想にすぎない気がするのも、ようやく私の気持が老い始めて来たせいに違いない。もはや現在の栄子に対しては、気持の食違いもなく淡々と面接出来るようであった。

「お栄さんが鰻(うなぎ)屋などとは思いもつかないね。もう音楽は止めたの」

「ああ。忘れてしまったわよ」

 栄子も盃をほしながら

「あたしも燈取虫みたいに、あっちへぶっつかりこっちへぶっつかりして生きて来たけれど、結局悲しかっただけで、何にも残っていなかった」

「そうかも知れないな」

 栄子の言葉はしみじみと私の胸にも落ちた。身体がばらばらになるような眼にあっても、此の女は強く生きて来た。

「終戦後は地下道に寝泊りさ。身寄りも皆消息がなくなってね。それからどうにかしなくちゃいけないと思って茨城に行ってさ、漫才をやってた頃の相棒がいてね、鰻が沢山とれるのよ、あそこらは」

「でケイちゃんというのは?」

「ああ、あの子は地下道で知合いになったのさ。一寸良い子でしょう」

 私はよしず越しに見たその若者の横顔を思い出していた。肩のきりっとした良い顔であった。そしてその顔は、あの古田の顔の感じにそっくりだった。一目見た時、それは私の胸に来ていたのである。肉付きがよくなって年増らしい落着きの出来た今の栄子の顔を私はふとぬすみ見ながら、その事が妙にかなしく心に沈みこんで来た。古田を嫉妬する気持から、今は私は遠く隔たっていたが、何か気持の感傷に私は落ちていた。

 台に置いた弁当箱が幽(かす)かに鳴った。手を伸ばして押えると、鈍く動きが手につたわって来た。箱の中で鰻はまだ生きて、はねかえっているらしかった。

 酔いが掌の尖まで届くのを覚えながら、私はその感触を暫く確めつづけていた。

 

 

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「八」 / 京都紀行~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 私はこれまで見たことのない方面を經て、別の道を辿つて歸つた。そこは寺ばかりであつた。非常に大きな美しい宅地の多い場所で、また魔法のために鎭められたやうに靜かであつた。住宅も店もない。ただ兩側に道路から後へ傾斜した淡黃色の塀があるのみであつた。塀は城壁のやうであるが、笠石や靑瓦の小さな屋根で蔽つてある。して、この黃色の傾斜せる塀(長い間隔を置いて一寸法師のやうな小門が穿つてある)の上に、杉と松と竹の柔らかな大きな茂林があつて、その中を貫いて天晴れ立派な彎曲を見せた屋根が聳えてゐる。これらの靜かな寺院の町が、秋の午後の光線で黃金を浴びた見返しの光景は、多年吐露しようと試みても駄目であつた思想のいかにも完全なる表現を、たまたま或る詩中に見出したやうな愉快の竦動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。「三」に出た「悚動」に同じ。ここは「慎み畏まること」の意か。というより、原文は“a thrill of pleasure”で、所謂、「衝動」「スリル」「ぞくぞくする感じ」の方が正しいだろう。]を私に與へた。

 しかもその魅力は何を以てできてゐたか。立派な塀はただ泥土を塗つたもの、山門や寺院は木材を組み合はせて瓦を載せたもの、叢林、石細工、蓮池は單なる造園に過ぎない。何等の堅牢なもの、何等の永續的なものはない。しかし線と色と影の、いかにも美麗なる聯結であつて、どんな言葉を用ひても、それを描寫する事はできない程である。否、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]その土塀は檸檬色の大理石に、その瓦は紫水晶に、寺院の材料は大光明王の經文に說いてある宮殿のそれの如き貴重なものに變はつたにしても、それでも此光明の美的暗示、夢のやうな安靜、渾然圓熟せる愛らしさと柔らかさを秋毫も[やぶちゃん注:「しうがう(しゅうごう)も」。熟語原義は「秋に抜け替わった獣の極めて細い毛」の意から「極めて小さいこと・微細なこと・わずかなこと」で、「聊(いささ)かも」の意。]增す事はないだらう。恐らくはこの藝術がかくまでに驚嘆すべき所以は、まさしくその作り上げたものの材料が、かくまでに脆弱だからである。最も驚くべき建築、卽ちかの最も人を恍惚たらしむる風景は、最も輕い材料で作られてゐる――雲の材料で。

[やぶちゃん注:「金光明經」四世紀頃に成立したと見られる大乗経典で、本邦では「法華經」・「仁王經」とともに「護國三部經」の一つとされる。当該ウィキによれば、『主な内容としては、空の思想を基調とし、この経を広め』、『また』、『読誦して』、『正法をもって国王が施政すれば』、『国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる』とある。]

 しかし美をただ高價とか、堅固とか、『しつかりした實在』と聯結させてのみ考へる人人は、決してそれをこの國に求めてはいけない――この國を稱して日出の國[やぶちゃん注:「ひいづるのくに」。]といふのは、まことに當を得てゐる。何故なら、日出は幻迷の時だからである。山間や海邊にある日本の村落を――春曙秋晨[やぶちゃん注:「しゆんしよしうしん」。原文“a spring or autumn morning”。そっちの方が今の日本人には遙かに判る。]、恰も徐々ともちあがつて行く霧や霞を通して――日出後に眺めた光景ほど美はしいものはない――しかし實際的な觀察者に取つては、魅惑は霧や霞と共に消えてしまう。生硬な白光[やぶちゃん注:「はくくわう」と読んでおく。]の下に、彼は紫水晶の宮殿も、黃金の帆も見出すことができぬ。ただ脆い木造草葺の小舍と、素木[やぶちゃん注:せめても「しらき」と訓じておく。]のま〻の奇異なる日本型船を見るのみだ。

 恐らくはいづれの國に於ても人生を美化する一切のものは、この通りであらう。人間界や自然界を面白く眺めるためには、私共は主我的或は客觀的の幻影を通してそれを見ねばならない。どんな風にそれが私共に映ずるかは、私共の內部に存する精神的狀態如何による。それにも關はらず眞なるものも眞ならざるものも、ひとしく其本體に於ては幻影的である。俗惡なもの、珍貴なもの、一見はかなく思はれるもの、永久的に見ゆるもの、すべて一樣に幽靈のやうなものに過ぎない。生まれてから死ぬるまで、いつも心の美麗なる靄を通して眺めてゐる人こそ最も幸福なのである――就中[やぶちゃん注:「なかんづく」。]、愛の靄を通して眺めるにまさつたものはない。それはこの東洋の輝ける日光の如く、平凡なものを黃金に化するのである。

 

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「七」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 京都を立つ前に、私は畠山勇子譯者註の墓を訪ねようと思つた。彼女の葬られてゐる場所を數人に尋ねても、わからなかつたので、丁度檀家を訪問のため私の宿へ來た僧侶に聞いてみようと思ひついた。彼はすぐに答ヘた。『末慶寺の墓地です』末慶寺といふのは、案內書にはしるしてなく、またどこか市の外づれに建てられた寺であつた。私は直に車を雇つて、約半時間の後、その門へ達した。

 

譯者註 畠山勇子は千葉縣安房國長狹郡鴨川町の女。明治二十四年[やぶちゃん注:一八九一年。]五月近江國大津に於て、露國皇太子が巡査津田三藏のため負傷するや、上下ために震駭す。この報千葉縣下に傳はるや、當時某家に雇はれ居たる勇子は、大に憂ひ、主家に請ひて直ちに京都に赴き、五月二十日夕景、京都府廰の門前に到り、露國大臣と日本政府に宛てたる二通の書面を車夫をして門番所に差出さしめ、やがて懷中より鋭利なる剃刀を取出し、自殺を遂ぐ。遺骸は京都大宮松原なる末慶寺に埋葬せらる。(「大日本人名辭書」)

[やぶちゃん注:憂国の烈女として知られる畠山勇子(慶応元一月二日(一八六五年一月二八日)~明治二四(一八九一)年五月二十日)は、「大津事件」でロシアとの国交が悪化するのを憂慮し、自らの死をもって国の危急を訴えた人物。安房国長狭(ながさ)郡(千葉県)生まれ。父治兵衛の没後、家運が傾き、十七歳で若松吉蔵に嫁いだが、二十三歳で離婚。勤王の侠商として知られた伯父榎本六兵衛を頼って上京した。万里小路家、横浜の実業家原六郎家、日本橋区室町の魚商の奉公人となったが、国政に関心を寄せ、国史や政治小説を愛読、周囲からは変人と目された。明治二四(一八九一)年五月に「大津事件」が勃発すると、悲憤慷慨し、「急用で故郷に帰らねばならない」といって暇をとり、伯父を訪ね、翌朝、新橋発二番列車に乗った。同月二十日、京都に着くと、本願寺などを詣で、同日午後七時過ぎ、京都府庁の門前で国を憂慮する気持ちを認(したた)めた遺書を残して、腹(以下のウィキでは『胸』とある)と喉を切って自殺した。満二十六歳であった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。より詳しい事蹟や写真はウィキの「畠山勇子」を見られたい)。「大津事件」は同年五月十一日、来日したロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(当時二十二歳)が、大津において、警備の巡査津田三蔵に斬られて負傷した事件。その裁判を巡って、政府側と大審院長児島惟謙(いけん)との見解が対立、紛糾した。別名「湖南事件」とも呼ぶ。皇太子一行が人力車で京町筋を通行中、路上の警備にあたっていた津田巡査が,突然、抜剣して皇太子の頭部に切りつけた。その動機は、皇太子の来遊が日本侵略の準備であるという噂を信じたためであった。旧刑法では謀殺未遂は死刑にならなかったが、政府側はロシアの報復を恐れ、不敬罪を適用して死刑にすることを企図し、裁判に強力に干渉した。しかし、大審院の臨時法廷は、大津地方裁判所で同月二十七日に開かれ、犯人は謀殺未遂に立件され、無期徒刑を宣告された(津田は七月二日に北海道標茶町(しべちゃちょう)にあった釧路集治監に移送・収監されたものの、身体衰弱につき、普通の労役ではなく藁工に従事したが、同年九月二十九日に急性肺炎を発症、翌三十日未明に獄死した)。この裁決は、司法権の独立を守ったものとして広く知られている(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。なお、このロシア皇太子は後にロマノフ王朝最後の皇帝ニコライⅡ世となったが、ソビエト連邦の成立後、退位して幽閉され、一九一八年七月十七日に妻や子どもとともに処刑された)。小泉八雲(Lafcadio Hearn)は先行する来日後の第二作品集「東の国から」( Out of the EastReveries And Studies In New Japan :副題は「新しい日本に就いての夢想と研究」。明治二八(一八九五)年三月刊。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この時は未だ「Lafcadio Hearn」である)の“ XI YUKO: A REMINISCENCE ”」(「勇子――一つの追想」)を既に書いて居る。同作品集は、近い将来、電子化注に取り掛かる予定である。また、それにもさらに先行する彼の来日後の最初の大作である“ Glimpses of Unfamiliar Japan ”(一八九四年刊)にも、既に『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の內の宮 (二)』(リンク先は私の古い全電子化の一篇)で畠山勇子のことを記しているのである。【追記】後日、「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 勇子――追憶談 (戶澤正保譯)」で電子化注した。

「末慶寺」(まつけいじ)は下京区中堂寺西寺町(ちゅうどうじにしでらちょう)にある浄土宗の寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルのここで、彼女の墓を視認出来る。

 

 私が來意を告げた僧は、墓地――頗る大きい――に私を案內し、墓を示してくれた。からりと晴れた秋の日は、一切のものに光を浴びせ、墓面に幽靈のやうな黃金色を加味してゐた。そこに立派な大きな文字を深く彫つて、『烈女』といふ佛敎の尊稱接頭語を加へて、少女の名がしるしてあつた――

 

    烈 女 畠 山 勇 子 墓

 

 墓は手入れがよく行う屆いて、草は最近きちんと刈つてあつた。碑前に建てられた小さな木造の庇が、供へられた花、樒[やぶちゃん注:「しきみ」。]の枝、及び一個の淸水を入れた茶椀を蔽うてゐた。私は勇壯で犧牲的な靈魂に向つて心から敬意を表し、慣例の文句を唱へた[やぶちゃん注:本寺は浄土宗であるから「南無阿弥陀仏」であろう。]。他の參詣者の中には、神道の式によつて拜禮をするのも見受けられた。その邊には澤山の墓石が輻輳[やぶちゃん注:「ふくそう」。車の「輻(や)が轂(こしき)に集まる」意で、対象物が一ヶ所に集まること。込み合うこと。]してゐたので、碑背を見るために、私は塚域を踏む無禮を冒さねばならないことを知つた。しかし私は彼女が宥恕[やぶちゃん注:「いうじよ(ゆうじょ)」。寛大な心で許すこと。見逃してやること。]してくれるだらうと確信したから、恭しく踏み乍ら、背後へ𢌞つて行つて、碑文を寫した。

[やぶちゃん注:以下は、底本では、全体が四字下げで、しかも、ここの碑本文は、字間が半角空けてあるが、行頭へ引き上げ、字間は再現していない。]

 

勇子安房長狹郡鴨川町人天性好義明治二十四年五月二十日

有憂國事來訴京都府廰自斷喉死年二十七

            谷   鐡 臣 誌

            府 下 有 志 建 石

 

戒名は『義勇院頓室妙敬大姉』と讀まれた。

[やぶちゃん注:訓読を要しないと思うが、一応、示しておく。幾つかの読みを追加しておいた。

勇子、安房長狹(ながさ)郡鴨川町(かもがはまち)の人。天性、義を好む。明治二十四年五月二十日、憂國の事、有り、京都府廰に來り訴へ、自(みづか)ら喉(のど)を斷ちて死す。年、二十七。

碑文を書いた谷鉄臣(たに てつおみ 文政五(一八二二)年~明治三八(一九〇五)年)は元武士で官吏。近江彦根の町医者の長男として生まれ、江戸・長崎で経学、蘭方医学を学び、家業を継いだ。文久三(一八六三)年、彦根藩士にとりたてられ、藩の外交を担当。維新後は新政府の左院一等議官を務めた。

 なお、ここに示された戒名は墓の裏の墓誌に書かれているように見えるが、ネット上で複数の写真を確認しても、碑の表裏にはこの戒名は見当たらない。不審。或いは、位牌が寺内にあり、それを記したものか。識者の御教授を乞うものである。後で小泉八雲が彼女の葬儀が『神官によつて營まれた』以下の事実と関係があるものかも知れない。また、畠山勇子辞世の歌とされるものを見つけたので、以下に電子化しておく。

 

 今日來る

   ちなみも深き

      知恩寺の

  景色のよさに

     憂ひも忘るる

 

サイト「京都観光文化を考える会・都草」のこちらの画像にあるものをもとに、一部に手を加えて示した。]

 

 寺で僧は私に悲劇の遺物と紀念品を見せてくれた。小さな日本の剃刀は血が皮となつて、嘗て白く柔らかな紙を厚く其柄にまきつけたのが、固まつて一個の堅い赤色の塊となつてゐるもの――安價な財布――血で硬くなつた帶と衣類(着物の外は、すべて寺へ寄進するに先だち、警察の命令により洗濯された)――手紙及び控へ帳――勇子及びその墓の寫眞(私はこれを買ひ求めた)――墓地に於て葬式が神官によつて營まれた折の集會の寫眞などであつた。此神葬祭の事實は私に興味を與へた。何故なら、自殺は佛敎によつては宥されても、神佛兩信仰が同一の見地から考へる事は出來なかつたであらうから。衣類は粗末で安價のものであつた。彼女は旅費と埋葬の費用に當てるため、最上の所持品を質に入れたのであつた。私は彼女の傳記、死の物語、最後の手紙數通、種々の人が彼女のことを詠んだ歌――頗る高位の人の作歌もあつた――及び拙い[やぶちゃん注:「つたない」。]肖像畫を載せた小册子を買つた。勇子とその親戚達の寫眞には、何も目立つたことはなかつた。かかる型の人々は、日常日本のいづこに於ても見ることができる。その册子の興味は、ただ著者とその主題の人物に關する心理的方面のみであつた。勇子の手紙は、日本人のかの奇異なる興奮狀態を示してゐた。恐ろしい目的は一刻の油斷なく緊張しながらも、しかも心は最も些々たる事實問題にも、あらゆる注意を與へ得るやうになつてゐる。控へ帳もまた同樣の證據を示した――

[やぶちゃん注:以下、底本では、全体が四字下げであるが、行頭へ引き上げた。行空けは、それなりに似せておいた。]

 

   明治二十四年五月十八日

金五錢    日本橋より上野へ車代

 

   同    十九日

金五錢    淺草馬町へ車代

金一錢五厘  下谷の髮結さんへ磨ぎ代として

金十圓    馬場の質屋佐野より受け取る

金二十錢   新町へ汽車代

金一圓二錢  橫濱より靜岡へ汽車代

 

   同    二十日

金二圓九錢  靜岡より橫濱へ汽車代

金六錢    手紙二通の切手代

金十四錢   淸水にて

金十二錢五厘 傘のため車屋へ

[やぶちゃん注:「新町」。原文は確かにそうなっているが、これは「新橋」ではあるまいか?

 何より、ここで彼女が自死に際して静岡の清水へ向かったのか、私には不明である(親族がそこにいたのであろうか)。識者の御教授を乞うものだが、……私はそこで――静岡――義憤――自死――で……ふと、思い出すことがあるのだ……私のミクシィの古い友人で、私に、その未明に遺書をメールし、静岡空港建設に抗議して静岡県庁前で焼身自殺(二〇〇七年六日午前三時五十分頃)した静岡の――井上英作氏――のことである。こちらの私の記事(遺書も電子化してある)を見られたい……

……

 

 しかしここに現はれた整然たる規律的才能に對して、珍らしい對照を呈するのは、暇乞ひの手紙の詩趣であつた。それは次のやうな感想を含んでゐた――

 

 『八十八夜も夢の如く過ぎて、氷は淸けき滴りと變はり、雪は雨となりぬ。やがて櫻の花咲きいでて人の心をよろこばす。されど未だ風さへ觸れぬほどに、早くも散り始めるこそ哀れなれ。しばらくして、風は落花を吹き上げて、晴れ渡りたる春の空に舞はしむ。しかも妾[やぶちゃん注:「わらは」。]を愛し玉ふ方々の心は晴れやらで、春の愉快をも感じ玉はざるならん。續いて梅雨の季節となれば、皆樣の御心の中には一つの樂みもなからん………[やぶちゃん注:九点リーダはママ。以下同じ。]あはれ如何にかせまし。一刻として皆樣を思ひ奉らぬ時はなし………されどすべて氷も雪も遂には、とけて水となり、菊の香ばしき蕾は霜の中に咲く。何卒後日このことを御考へ下されたし………今は妾に取つて霜の時、菊の蕾の時と申すべきならむ。いよいよ花を開きさへせば、いとも皆樣をよろこばし奉ることならん。浮世にながらへ得ざるは、すべての人の運命、詮方なし。吳々も[やぶちゃん注:「くれぐれも」。]妾を不孝者と思召し玉はざるやう願ひ奉る。また妾を陰府へ失ひ玉ひしものと御考へ下さることなく、ただ將來の幸福を待ち玉はんことを』

 

 この小册子の編者は、この典型的婦人に豐かなる讃辭を浴びせ乍らも、しかもあまりに東洋流の婦人批評法に墮してゐた。官廰へ宛てた勇子の手紙に於て、彼女は家族的要求を述べてゐる。して、これを編者は婦人の弱點として批評を加へ、彼女は實際肉體的利己心の絕滅を成就したもの〻、彼女の家族について述べるのは『甚だ愚か』であつたと書いてゐる。もつと他の點に於ても、その册子はつまらぬものであつた。その平凡なる事實の曝露といふ、生硬强烈なる光の下に照らしてみると、一八九四年に書いた私の『勇子』と題する小品文譯者註は[やぶちゃん注:既注の第二作品集「東の国から」(“ Out of the EastReveries And Studies In New Japan ”)の「勇子――一つの追想」(“ XI YUKO: A REMINISCENCE ”)のこと。刊行は明治二八(一八九五)年三月刊であるが、「書いた」のは前年であるから、おかしくない。]、あまりにも空想的に思はれた。しかし、それにも關はらず其事實の眞の詩味――單に國民の忠愛の情を表明せんがために、若い婦人をして自ら生命を捨つるに至らしめた純なる理想――は、依然として減ずることはない。取るに足らざる些細な乾燥なる事實を取り上げて、その大事實にけちをつけることは決して出來ない。

 

譯者註 本全集第四卷『東の國から』の最後の一篇である。

[やぶちゃん注:「第四卷」は「第五卷」の誤り私の電子化が待ちきれない方は、 Internet Archive”のこちらから画像で視認出来る(戶澤正保氏の訳になる「勇子――追憶談」)。]

 

 この犧牲の行爲は、私を感動せしめたよりも、更に多く國民の感情を激勵した。勇子の寫眞と彼女に關する小册子は幾千となく賣れた。幾多の人が彼女の墓に詣つて[やぶちゃん注:「まゐつて」。]、供物を獻げ、また末慶寺にある遺物を眺めて敬慕の情に打たれた。して、凡てこれは誠に尤もなことと私は思つた。もし平凡な事實が、西洋で人々が好んで『上品な感情』と稱するものに取つて、不快の感を催さしめるとすれば、その上品は不自然で、その感情は淺薄であることの證據である。其の美は內的生命に存することを認めてゐる日本人に取つては、平凡些細な事柄は、貴重なものである。それらは勇壯義烈の感を更に强め、且つ眞實ならしめる功能がある。あの血に汚れた、貧弱な物品類――粗末で地味な着物と帶、安價な小財布、質屋へ行つたことの覺え書き、手紙や寫眞や緻密な警察記錄に現はれたる赤裸々の尋常一樣な人間味の面影――すべてこれらは、恰もそれだけ眼に訴へる證據となつて、この事實を作つた感情に對する理解を充分完全ならしめる助けとなる。もし男子が日本一の美人であつて、彼女の家族は最も高い地位の人々であつたならば、彼女の犧牲の意義が身に浸みて感ぜられることは、遙かに少かつたであらう。實際の場合に於て、高尙なことを行ふものは、槪して普通の人であつて、非凡の人ではない。して、一般人民はこの尋常な事實のお蔭で、自分達の仲間の一人に於ける勇壯な特質を最もよく見ることを得て、自分達の光榮を感じてくる。西洋の多數の人は、普通人民から彼等の倫理學を今一度改めて習はねばならないだらう。西洋の敎養ある階級は、あまりに長く似て非なる理想主義、單なる因襲的肩書の雰圍氣のうちに生活してきたので、純眞正直な溫かい感情は、彼等の眼には卑劣俗惡に映ずるのである。して、その當然避け難き罰として、彼等は見ること、聞くこと、感ずること、考へることができなくなつてくる。哀れなる勇子が、彼女の鏡の裏に書いた小さな歌詞の中には、西洋の月並的理想主義の大部分に於けるよりも、一層多くの眞理が含まれてゐる――

[やぶちゃん注:以下の短歌は底本では四字下げ。]

 

くもりなくこころの鏡みがきてぞよしあしともにあきらかにみむ

 

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「六」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 翌朝私が大行列を見るため外出すると、街上は群集充滿、誰れも動けないやうに見えた。けれども、すべての人々が動いてゐた。或は寧ろ𢌞流してゐた。丁度魚が群れをなしてゐるやうに、一般的にいつか知らぬ間にじりじりと滑るやうに進んでゐた。一見すると、人の頭と肩が堅固に押し合つてゐるやうな雜沓の中を通つて、私は苦もなく、約半哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは千六百九・三四メートルであるから、約八百五メートル。]ほどの距離にある親切な商人の家へ達した。どうしてこんなに人がぎつしり集つて、しかもそれがこのやうに安易に進み得るかといふ疑問は、日本人の性格のみが解釋を與へうるのである。私は一度も亂暴に推しのけられなかつた。しかし日本の群集は必らずしもすべて一樣ではない。その中を通過しようとすると、不快な結果を蒙るやうな場合もある。無論群集の靡くやうな流動性は、その性質の溫和に比例する。しかし日本に於けるその溫和の背景は、地方に隨つて大いに差異がある。中央部及び東國地方では、群集の親切さはその新文明に對する未經驗に比例するやうに見える。この多分百萬人にも及ぶ莫大の群集は、驚くほど優しく、また上機嫌であつた、その譯は、大部分の人々は、質樸な田舍者であつたからである。巡査がいよいよ行列のために通路を開くやうにしたとき、群集は我が儘勝手をいひ張らないで直に最も從順に列を作つた――小さな子供は前面に並び、大人は後方に控へて。

 九時といふ豫告であつたが、行列は殆ど十一時までも現はれなかつた。して、そのぎつしり詰まつた町の中で長く待つことは、辛抱づよい佛敎信者に取つてさへ窮屈であつたに相違ない。私は商人の家の表座敷で親切にも座布團を與へられた。しかし座布團は頗る柔らかで、待遇は慇懃を極めたものであつたけれども、私は遂にぢつとしてゐる姿勢に倦いてきたから外の群集の中へ出て行つて、初めは一方の足で立ち、それから他の片足で立つてゐて、待つ事の經驗に變化を與へた。けれども、かやうに私の場所を去るに先だち、幸にも私は商人の家に於ける客の中で、數名の頗る美しい京都の貴婦人を見ることができた。そのうちには一人の公爵夫人[やぶちゃん注:原文は“a princess”。「とある未婚の皇女」、昔風に言えば「ある宮家のお姫さま」か。但し、英語のプリンセスは「英国以外の公爵夫人」の意もある。但し、「公爵」のその「夫人」となると、皇族に限定されず、元公家及び勲功を認められた旧武家などを中心とした広汎な人物のその夫人となる。因みに、平井呈一氏も恒文社版「京都旅行」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では『さる宮家の姫君』と訳しておられる。これが誰なのか判らぬので、二様の訳を示しておく。]もあつた。京都はその婦人の美で有名である。して、私がこれまで見たうちで最も美しい日本婦人がそこにゐた――それは公爵夫人ではなく、商人の長男の内氣な若い花嫁であつた。美はただ皮相にとどまるといふ諺は、『皮相の見解に過ぎない』といふことは、ハーバート・スペンサーが生理學の法則によつて充分に證明してゐる。して、同一の法則は、舉止品位の優美は容色の美よりも更に一層深長なる意義を有することを示してゐる。花嫁の美は、まさしくかの體骼全部に亙つて力の最も有效に現はれてゐる種類の、世にも稀なる優美な形姿であつた――初めて見たとき人をびつくりさせ、更に見るたび每にますます驚嘆止まざらしむる優美であつた。日本の綺麗な女が、固有の美麗なる衣服でなく、他國の服裝をした場合にも、同樣綺麗に見えるのは頗る稀である。私共が普通日本婦人に於て優美と稱するものは、希臘人が優美と呼んだと思はれるものよりは、寧ろ形狀と姿勢の上品さである。この場合に於ては、その長い、輕い、細い、恰好のよい、申し分のないやうに緊まつた姿は、いかなる服裝をも品よく見せるであらう。そこには風の吹くときに若竹が示すやうな、たをやかな優美さが偲ばれた。

[やぶちゃん注:「ハーバート・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戶川明三譯。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。「皮相の見解に過ぎない」という引用は、一八九一年刊の「科学的・政治的・思索的エッセイ集」( Essays: Scientific, Political, and Speculative )の第二巻十四章「個人的美」(Vol. 2, Ch. XIV, Personal Beauty)にある以下である。

   *

The saying that beauty is but skin deep is but a skin-deep saying.

   *

このパラドキシャルな明言は実に素敵だ!]

 

 

 行列のことを詳しく述べるのは、無暗に讀者を倦怠せしめるに過ぎないから、私はただ二三の槪說を試みるだけにしよう。行列の趣旨は、第八世紀に於ける京都の奠都の時から明治の今日に至るまで、京都の歷史上、諸時代に行はれたさまざまの文武の服裝を示し、また該歷史の中に活躍した主もなる武將の人物を現はすといふことであつた。少くとも二千名の人が大名、公卿、旗本、武士、家來、雲助[やぶちゃん注:原文は“carriers”であるから判らぬではないが、せめても「中間」(ちゅうげん)の方がいいように思う。]、樂師、白拍子に扮して、行列をなして進んで行つた。白拍子の役は藝者が勤めた。その中には大きな華でな[やぶちゃん注:「はでな」。]翼ある蝶々のやうな服裝をしたのもあつた。甲冑武器、古い頭飾りや衣裳は、實際過去の遺物であつて、舊家や職業的骨董家や私人の蒐集家からこの催のため出品されたのであつた。優秀れた武將――織田信長、加藤淸正、家康、秀吉――は、傳說に基づいて表現されてゐた。實際に猿のやうな顏の人が、有名な秀吉の役を演じてゐるのを見受けた。

 これらの過去の時代の光景が、人々の側を通つて行くとき、彼等はぢつと沈默を守つてゐた――西洋の讀者に取つては、不思議に思はれるかも知れないが、實はこの無言靜肅といふ事實は、非常な愉快を示してゐるのだ。實際、騷々しい表現によつて賞讃を示すといふこと一一例へば拍手喝采の如き――は、國民的情操と一致してゐない。軍隊の歡呼さへも、輸入されたものである。して、東京に於ける示威運動じみた喧囂[やぶちゃん注:「けんがう(けんごう)」。喧(やかま)しく騒がしいさま。]も、多分近頃から始つたもので、且つまた不自然の性質を帶びてゐる。私は千八百九十五年[やぶちゃん注:明治二十八年。本篇時制と同年。]に、その年のうちに神戶で二囘までも人を感動させるやうな、鎭まりかへつた光景を記憶してゐる。第一囘は行幸の場合であつた[やぶちゃん注:当時の神戸には御用邸があった。明治一九(一八八六)年に宇治川河口の弁天町西側の海岸沿いにあり、三千九百七十坪の広大な敷地を擁した。明治四〇(一九〇七)年、東京倉庫が買い取っている。明治天皇の神戸への行幸は全二十四回で、この御用邸への行幸は九回という。思うにこれは、この「平安遷都千百年紀念祭」は開催が遅れたことは既に述べたが、同年五月二十三日に明治天皇が二条城本丸に行幸していることが確認出来たので、或いは、この時に神戸御用邸に立ち寄ったものかも知れない。]。非常な群集で、前方の數列は車駕通過の折跪坐したが、一つの囁き聲さへも聞こえなかつた。第二囘の目ざましい鎭靜は、出征軍が支那から凱旋の折であつた。その軍隊が歡迎のために建てられたる凱旋門の下を進行するに當つて、人民は一言の聲をも發しなかつた。私がその譯をきくと、『我々日本人は無言の方が一層よく政情を表はしうると考へる』といふ返事を受けた[やぶちゃん注:銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、日清戦争が終わり、日清講和条約が調印(四月十七日)され、同年『五月五日(日)、凱旋する兵士』の『出迎えの行列』『をセツ、一雄とともに『加わ』って見たことが記されてあり、また、凡そその一ヶ月後の六月九日(日)の条にも『帰還する兵士が神戸駅から「楠公さん」まで行進するのを、万右衛門と見に行く』(セツの養祖父稲垣万右衛門)とある。]。私はまたここに述べてもよいと思ふが、最近の日淸戰爭中、日本軍の戰鬪前に於ける氣味わるい靜肅は、いよいよ砲門を開くのよりも一層多く喧騷な支那人を恐怖せしめたのであつた。例外はあるけれども、一般的事實として次の如く述べ得ると思ふ。日本では感情がその苦樂いづれを問はず、深ければ深いほど、また場合が莊嚴或は悲壯であればあるほど、感じたり、行動したりする人々は、自然とますます多く無言になつてくる。

 或る外國の見物人はこの時代行列を評して活氣がないといつた。して、燒きつけるやうな日光の下で着馴れぬ甲胃の重さのため壓迫された勇將の勇ましくない態度や、部下の隱しきれぬ疲勞について、兎角の批判を加へた。しかし日本人に取つては、すべてかやうな點は却つて一層その行列を現實化したのであつた。して、私は全くそれに同意であつた。事實、軍國史上の英雄豪傑は、ただ特異の場合に於てのみ天晴れ凛々しく見えたのだ。百戰鍛鍊の剛の[やぶちゃん注:「かうの(こうの)」。]者さへも、疲憊[やぶちゃん注:「ひはい」。疲れ果てて弱ること。疲労困憊(ひろうこんぱい)。]の經驗を嘗めてゐる。して、たしかに信長や秀吉や加藤淸正も、この京都の時代行列に於ける彼等の代表人物のやうに、幾たびか塵埃にまみれたり、疲れ果てた足を曳きずつたり、力なげに馬に乘つたりしてゐたことがあるに相違ない。苟も敎育ある日本人に對しては、いかに芝居じみた理想主義も、日本の豪傑輩の人間味といふ感を沒却させることはできない。これに反して、その人並な人間味の史的證據こそ、最も民衆の心に彼等を懷かしく感ぜしめ、その人並でなかつた一切精神的方面を、對照のためにいよいよ立派な、卓越なものとするのである。

 

 行列を見た扱、私は大極殿へ行つた。これは政府によつて建てられた壯麗なる紀念の神殿で、私の前囘の著書譯者註に述べてある。私は記念章を示してから、桓武天皇の宮を拜することを許された。して、可愛らしい巫女が差し出した淸淨潔白な粘土製の新しい杯から、天皇の紀念を祝する少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の酒をいただいた。神酒を飮んでから、小さな巫女はさつぱりした木箱にその白い杯を收め、紀念品として私に持つて歸らせた。このやうに、紀念章を買つてゐた人には、一個づつ新しい杯が與へられたのである。

 

譯者註 本全集第四卷「心」の第四章『旅日記から』參照。

[やぶちゃん注:小泉八雲が明治二九(一八九六)年三月に刊行した(この前月二月十日に帰化手続きが終わり、Lafcadio Hearnは小泉八雲に改名している)、来日後の第三作品集「心」(Kokoro:小説や随想など十五編から成る短編集)の“ IV. FROM A TRAVELING DIARY ”を指す。同作品集は、本作品集が終わった後、近日、電子化注に取り掛かる予定である。【追記】後に電子化注したので、本文註の方にリンクを張っておいた。]

 

 かかる小さな財物や紀念品が、日本旅行の獨得な愉快の大部分をつくる。殆どいかなる町や村でも、ただその一個所に於てのみ作られ、他の場所では見出されない美しいものや、珍らしいものを土產として買ふことができる。それから、內地の諸地方では少しばかり寬濶[やぶちゃん注:「くわんくわつ(かんかつ)」は、この場合は、派手で贅沢なさま。平井呈一氏は恒文社版「京都旅行」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『すこし祝儀をはずむと』と美事に訳しておられる。]に振る舞ふ場合、屹度進物の謝禮を受ける。その品物は幾ら安價であつても、殆ど必らず驚異且つ愉快でないことはない。日本各地漫遊の際、私があちらこちらで手に入れた種種の品のうちで、最も綺麗なもの、また最も私が愛するものは、かやうにして得た奇異な小さな進物である。

 

2019/11/25

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「三」・「四」・「五」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 すべての繪畫を見てから、私は最近公開されたばかりの御所の大きな庭園を訪ねた。それは仙洞御所の庭と呼ばれてゐる(仙人といふ語に眞に適當する英語がないから、少くとも genii といふ語が、飜譯に當つて、用ひ得らる〻唯一の語である[やぶちゃん注:“genii”(ジンライ)は「童話で人間の姿になって願い事を叶えて呉れる精霊」を指す「genie」(ジンニィ)の複数形。]。仙人は不滅の生命を有し、森林洞窟に住むものと思はれてゐる。印度の Rishi が日本に於て、或は寧ろ支那に於て神話的變化を經たのである[やぶちゃん注:“Rishi”。「リシ」(元はサンスクリット語)。ウィキの「リシ」によれば、本来、古代インドに於いて『ヴェーダ聖典を感得したという神話・伝説上の聖者』或いは『賢者達のこと。漢訳仏典などでは「仙人」などとも訳され、インド学では「聖賢」などと訳され』、『インド神話に於いては、ヨーガの修行を積んだ苦行者であり、その結果として神々さえも服さざるをえない超能力(「苦行力」と呼ばれる)を体得した超人として描かれることが多い。また、神秘的霊感を以て宗教詩を感得し詠むという。俗界を離れた山林などに住み、樹木の皮などでできた粗末な衣をまとい、長髪であるという』。『一般には温厚であるが、一度』、『怒りを発すると手がつけられなくなり、その超能力で、条件付きの死の宣告(「〜をしたら死ぬ」など)をしたり、雨を降らせないなどの災いを引き起こしたりするという』とある。])。その庭園は名にふさはしいものであつた。私は實際神仙の幽境へ入つたやうに感じた。

 それは山水の景を模した庭園である。――佛敎のために創造されたものである。昔は世俗的虛榮に倦いた帝王や、皇子達のために宗敎的隱遁所として建てられたる僧院が、今は單に御所となつてゐるのである。この庭園はそれに附屬してゐる。門と入つてから受ける印象は、大きな古い英國の公園といふ印象である。巨大なる樹木、短く刈られた芝生、廣い步道、靑々たる草木の新鮮で心地よい香りは、すべて英國の思ひ出を與へる。しかし、もつと進んで行くにつれて、これらの思ひ出は次第に消されて、眞正の東洋風な印象が判然としてくる。それらの巍然たる[やぶちゃん注:「ぎぜんたる」。高くそびえたっているさま。また、抜きん出て偉大なさま。]喬木は、歐洲のものでないことが認められ、さまざまの驚くべき異國的な細部が現はれてくる。すると、一面の池が眼下にひらけて、高い岩と小さな島がその中に浮かんで、頗る奇異な形の橋で連結されてゐる。徐々と――ただ徐々とこの境地の無限なる魅力、怪奇なる佛敎的魅力が身に迫つてくる。して、その非常に古いといふ感じは、遂にかの畏怖の悚動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。「竦動」とも書く。「悚」は「恐れる」、「竦」は「慎む・身が竦(すく)む」の意で、「動きを慎むこと」・「慎み畏まること」・「恐怖のために身が縮まること」を謂う。]を齎す審美感の琴線に觸れた。

 單に人間の仕事として考へただけでも、この庭は驚異である。その設計に於ける巨岩の骨骼だけを結合するのにも、數千人の熟練なる勞働を俟つて、始めて成つたのであらう。この庭は一たび形が作られ、土を盛られ、樹木を栽培されてから、その後は自然がその奇蹟を完成するま〻に委せてあつた。千年の間を通じて、働いた自然は、藝術家の夢想を超越した――否、言語を絕するほどに、その夢想を擴大したのであつた。日本の造園術の法則と趣意に通じてゐない外國人は、正確に敎へられない限りは、すべてこれが數千年前、人間の設計者によつたものだと想像することはできないだらう。初めから人の手に觸る〻ことなく自然のま〻で保護されて、しかも舊都の中心に世間から隔絕してゐる原始林の一部といふ趣を呈してゐる。岩石の表面、大きな怪異な樹根、林間の幽徑、幾つかの古い一本石の碑など、すべて長い年代の苔を帶びてゐる。して、攀蔓[やぶちゃん注:「はんまん」と音読みしておく。蔓性植物類のこと。]植物は一尺も厚さのある莖となつて、巨蛇の如く梢隙[やぶちゃん注:「しやうげき(しょうげき)」梢(こずえ)の隙間。]に懸かつてゐる。此庭の或る部分は、鮮かにアングティルズ群島譯者註に於ける熱帶的性質の光景を想起させる――尤もここには棕櫚や、驚くべき蛛網[やぶちゃん注:「くものす」と訓じておく。]狀を成せる攀援莖[やぶちゃん注:「はんゑんけい」と音読みしておく。茎でつかまって攀じ登る性質の植物。蔓性植物だけではなく、もっと広義である。]植物や、爬行動物[やぶちゃん注:「爬行」(はかう(はこう))は這って歩くこと。ここは爬虫類に同じい。]や、西印度森林の凄い日中の靜けさはない。空に賑はしく鳥が騷いでゐるのには驚かされる。それはこの僧院の極樂に棲む野生動物は、未だ嘗て人間によつて危害や脅威を加へられたことがないといふことを、嬉しがつて聲明してゐるのだ。私は戀々[やぶちゃん注:「れんれん」。「思い切れずに執着すること」・「恋い慕って思い切れないさま」・「執着して未練がましいさま」。]去るに忍び難くも、遂に出口に達したとき、この庭の番人を羨望するの念に堪へなかつた。かやうな庭の奉公人となるだけでも、充分に羨ましい特權といふべきであらう。

譯者註 墨其古灣[やぶちゃん注:「メキシコ湾」。現行では「墨西哥」が一般的。]の東南に羅列せる西印度諸島の一群。そこで二箇年間滯在せられたヘルン先生の眼底には、熱帶風物の驚異が浸染してゐたので、先生の文章の中には、よく比較の材料になつてゐる。

[やぶちゃん注:「アングティルズ群島」“Antilles”。アンティル諸島は、中央アメリカに位置し、西インド諸島の主要部を構成する諸島。フロリダ南方から南米大陸近海まで三千二百キロメートルに亙って伸び、カリブ海を大西洋・メキシコ湾から分けている。位置は参照したウィキの「アンティル諸島」を参照されたいが、その中の、南東の小アンティル諸島に属するウィンドワード諸島にあるフランス領アンティルのマルティニーク島に、小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて旅している。]

 

       

 空腹を感じたので、私の宿は甚だ遠かつたから、私は車夫に料理屋へ行くことを命じた。すると、車夫は私を裏町へ運んで行つて、入口の上に綴りの違つた英語をペンキで書いた、あぶなさうな建物の前でとまつた。私はただ Forign [やぶちゃん注:「外国の・外国人の」の意の「foreign」をスペル・ミスした看板字。]といふ文字だけを覺えてゐる。靴を股いでから私は勾配の急な階段、或は寧ろ梯子を登つて行くと、三階には西洋風に裝飾された室がつづいてゐた。窓には玻璃を用ひてあつた。リンネル類も申し分がなかつた。唯一の日本風のものは疊と煙草盆であつた。米同型の着色石版畫が壁を飾つてゐた。しかし私はここへ入つた西洋人は殆ど無いだらうと思つた。此家は洋食を辨當箱に入れて、宿屋へ仕出しをするのであつた。して、室は日本人の客のために設備したものに相違なかつた。

 私はここの皿、コツプ其他の器具は、開港場の一つに存在してゐたが、今では疾くの昔になくなつた英國ホテルの名の組み合はせ文字を帶びてゐる事に目が留つた。食事は綺麗な娘達によつて運ばれた。彼等はたしかに西洋式給仕法に通じた人から仕込まれたのである。しかし彼等の無邪氣な好奇心と非常な内氣は、彼等が未だ嘗て眞の西洋客に接したことのないのを私に信ぜしめた。突然私は室の一方の卓上に自動奏樂機のやうなものを一枚の釣針編み[やぶちゃん注:レース。]で覆つたのを發見した! 私はそこへ行つて、癈物の奏樂機[やぶちゃん注:箱型の手回しオルガン。]を發見した。そこには澤山の穿孔式樂譜があつた。私は曲柄[やぶちゃん注:「きよくへい」と音読みしておく。原文を見ると、この部分は“I fixed the crank in place”とあるから、手回しオルガンのクランク(ハンドル)であることが判る。]をその場所にはめて、『五十萬の惡魔』と題する獨逸の歌を出さうと試みた。その機械はごろごろと鳴つて、呻つて、しばらく怒號し、嗚咽し、また怒號し、それから默つてしまつた。私は『コタヌヴィエの時計』など、他の數曲を試みたが、その發音の喧騷囂々[やぶちゃん注:「けんさうがうがう(けんそうごうごう)」。喧(やか)しく騒がしいさま。]は皆同一であつた。明らかにこの機械は開港場の外國人居留地に於ける競賣で、頭字入り和蘭燒[やぶちゃん注:原文は“monogram-bearing delft”で、これは「特定の製作者・窯元名が明記されたオランダの陶器のデルフト焼」の謂いであろう。デルフト陶器(Delfts blauw)はオランダのデルフト、及び、その近辺で十六世紀から生産されている陶器で、白色の釉薬を下地にして、スズ釉薬を用いて彩色・絵付けされるものを指す。]及び英國燒の陶器と共に買はれたものである。これらのものを見るとき、何とも云ひやうのない一種の奇異なる憂鬱を感ずる。何故それがかやうに遠謫[やぶちゃん注:「ゑんたく」。遠く流されてくること。]された光景を呈し、かくまで哀れにも場所外づれて見え、かくも全然誤解されたさまに映ずるかを理解することは、自身日本に住んだ人でなくては不可能である。西洋の和絃的音樂[やぶちゃん注:“harmonized Western music”。西洋音階で和声化された西洋音楽。]は、普通日本人の耳には、單にそれだけの騷音となつて聞こえる。して、私はたしかにこの機械の內部構造は、その東洋の所有者には不明となつてゐるだらうと感じた。

[やぶちゃん注:「!」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。

「奏樂機」原文は“herophone”とあるが、この単語、辞書に載っておらず、調べるのに手こずった。サイト「小さなオルゴールの博物館」のこちらでやっと判明した。これはドイツ製の手回しオルガン(オルゴール)である「オルガネット」「アモレット」と呼ばれたものの前身型のようである。そこに(数字は半角にした、『アモレットは1897年から発売。当初は44から72リードの大きなサイズのものが発表され、後に16リードから108リードまでのモデルが製造された。16ノートのフリー・リードを使用したこの機種は様々なケースに入れられ製造された家庭用オルガンのひとつ。直径22.5』センチメートルの『金属のディスクに音符を記憶させ、ディスクの突起がリードのレバーの上にくると、レバーがもちあがりバルブが開く、そこに空気が通り奏鳴する。ハンドルを回転させるとフイゴに空気が送られ、ディスクが回転する。また同時に、ケースの正面にセットされた二人の踊り子も曲にあわせて回転する。1905年当時、30マルクで販売されていた』とあり、さらに、『ユーフォニカ(ドイツ ライプチッヒ)』の項に、『ユーフォニカ(Euphonika Musikwerke)はドイツ、ライプチッヒのオルガネットのメーカー。1890年頃から表れ、19世紀後半から20世紀にかけて、その他のヨーロッパのメーカー達とオルガネットを販売した。ユーフォニカブランドの中には以下のものがある』として、ブランド名が以下のように載る。

   《引用開始》

Amorette,Atlas,Dolcine,Favorite,Hamonicon,Herophone,Iris,Libelle,Lucca,Lux,Mandolinata,Manopan

   《引用終了》

『様々なブランドがあるが、ケースが異なるだけでメカニズムは簡単なもの、共通のものも多かった』とあるのだが、そのブランド名の六番目に、まさにこの「Herophone」が載っているのである。小泉八雲の以下の説明からも、以上と同型のものと考えられる。但し、小泉八雲がこれ(しかも明治初年の舶来で古物とする)を見たのは明治二八(一八九五)年で、「アモレット」の製造はその二年後であることから、前身型と言い添えておいた。なお、リンク先では動画で実物の演奏も視聴出来る

「五十萬の惡魔」原文“Five Hundred Thousand Devils”。歌曲の一つらしいが、詳細不祥。識者の御教授を乞う。【2025年5月3日追記】英文サイトのこれらしい。作曲家はJoseph Melvilleとある。

「コタヌヴィエの時計」原文“Les Cloches de Corneville”。「コルヌヴィルの鐘」。フランスの作曲家ロベール・プランケット(Robert Planquette 一八四八年~一九〇三年)作曲他で創られた全三幕のオペラ。一八七二年パリ初演。]

 

 同じやうに珍らしいが、しかしもつと愉快な經驗が、宿へ歸る道中に私を待ち受けてゐた。私は少し許り骨董品を眺めるために古道具屋へ立ち寄つた。して、夥しい古本の內に、非常に汚れた金文字で、『大西洋月刊雜誌(アトランチツク・マンスリー)』と題せる大册を認めた。更に近寄つて見ると、私は『第五卷、ボストン市ティクナー・エンド・フールズ書店發行、一八六〇年』とあるのを讀んだ。一八六〇年の『大西洋月刊雜誌』は何處にもあまり普通あるものではない。私は値段を尋ねた。すると、日本人の店主は、それは『非常な大册ですから』といつて、五十錢と答へた。私は頗る嬉しかつたので、彼と値段の懸け合ひをしようとは考へないで、直に其掘り出し物を手に入れた。私は其汚れたペーヂを通覽して昔馴染の作家を探してみると、それを發見した――一八六五年にはすべて無名であつたのが、一八九五年の今日に於ては世界的に有名なのが多い。そのうちには『敎授の話』といふ題の下に『エルジー・ヴェナー』譯者註一の續稿が載つてゐた。『ロバ・デイ・ロマ』の數章もあつた。『ピサゴラス』と題する詩があつた。これは後に『輪𢌞』と改題されたことは、トマス・ベーリー・オールドリッチ譯者註二の愛讀者が屹度知つてゐる通りである。ニカラグアに於てウオーカー譯者註三と共に劫

 

譯者註一 オリヴァア・ウエンデル・ホームズ(一八〇九――一二八九四年)の著はせる小說。

譯者註二 オールドリッチ(一八三六――一九〇七年)は『アトランチツク・マンスリー』の主筆をした人。

譯者註三 ヰリヤム・ウオーカー(一八二四――一八六〇年)は米國の冒險家で、ニカラグアに於て自ら大統領と稱したが追放された。

 

掠[やぶちゃん注:「ごふりやく(ごうりゃく)」。脅して奪い取ること。]を行つた兵士の追放談、ヂヤマイカ及びサリナム[やぶちゃん注:南アメリカの北東部に位置するスリナム。旧「オランダ領ギアナ」。現在のスリナム共和国(オランダ語:Republiek Suriname)。]の脫走黑人に關する立派な論文、それから猶ほ他の貴重な諸資料の一つに、日本に關する論文があつた。その劈頭の文句は、次の如き意義の深いものであつた。『日本から使節がこの國に到着したこと、かの寡默にして嫉妬深き國民によつて、外國へ送られたる初めての政治的派遣員の渡來は、今や世間一般に取つて興味ある問題となつてゐる』少し進んでから、當時の通俗的誤解が、次の如く矯正してある。『今では全然別個のものとわかつてゐるが、支那人と日本人は久しく同種族と考へられ、且つ一樣に尊敬されてゐた………[やぶちゃん注:九点リーダはママ。]詳細に調べてみると、支那について想像されたる魅惑的性質が消えると共に、日本については、それが一層明白になつてくることを我々は見出す』この自我主張的な明治二十八年譯者註のいかなる日本人も、三十五年前に於ける『大西洋月刊雜誌』の日本に對する、次の如き評論に向つては、非難を加へることができないだらう。『その優れたる位置、その富、その通商的資源、及びその國民の敏捷なる智力――智力は當然その發展に於ては局限せらる〻處があつても、毫も西洋人に劣つてゐない――これらの諸要素は、日本に與ふるに、いかなる他の東洋諸國よりも遙かに超越的重要を以てする』この寬大な評論の唯一の誤謬は、數世紀の昔からの古い誤謬、卽ち日本の富といふ迷妄であつた。私をして少々昔風に感ぜしめたのは、現今一般に知れ渡つてゐる將軍、大君[やぶちゃん注:「たいくん」。原文“Taikun”。]、神道、九州、秀吉及び信長といふ名に對して、昔の和蘭及びゼズイット學者の奇妙なる綴字―― Ziogoon, Tycoon, Sintoo, Kiusiu, Fide-yosi, Nobanunga ――を見出したことであつた。

 

譯者註 日淸戰爭に連戦連勝のため、日本人の國民的自覺の勃興した時期である。

[やぶちゃん注:「大西洋月刊雜誌(アトランチツク・マンスリー)」原文“ATLANTIC MONTHLY”。この月刊雑誌は一八五七年にアメリカのボストンでジェームス・ラッセル・ローエル(James Russell Lowell  一八一九年 ~一八九一年)編集で創刊された月刊誌で、誌名をつけた定期寄稿者であったオリヴァー・ウェンデル・ホームズ・シニア(Oliver Wendell Holmes Sr. 一八〇九年~一八九四年:アメリカの作家で医学者。しばしば十九世紀の最も優れた作家の一人と称され、著名な医学改革者ともされている)のエッセー・シリーズ『朝食のテーブルの独裁者』(The Autocrat of the Breakfast-Table:一八五八年)その他が好評を博した。当初はニューイングランドを中心とした文芸雑誌の性格が強かったが,南北戦争の頃から政治・時事問題を扱い始め、戦後はオハイオ生れのW.D.ハウエルズが主筆(一八七一年~一八八一年在任)となり、文化的広がりを与えた。二十世紀に入ってからは文学的個性は少なくなり、時局ものに重きを置いている。現在も総合月刊誌“ The Atlantic ”として発行されている(ここは平凡社「世界大百科事典」及び英文ウィキの「 The Atlantic 、及び、そのリンク先の英文ウィキ等に拠った)。新潮文庫上田和夫訳「小泉八雲集」年譜の明治二四(一八九〇)年の条に、『秋、「アトランティック・マンスリー」誌に日本印象記を連載、好評を博する』とある。

「第五卷、ボストン市ティクナー・エンド・フヰールズ書店發行、一八六〇年」“Vol. V. Boston: Ticknor & Fields.  1860”。日本は万延元年相当。

「『敎授の話』といふ題の下に『エルジー・ヴェナー』の續稿が載つてゐた」“There were installments of "Elsie Venner," under the title of "The Professor's Story;"”。作者「オリヴァア・ウエンデル・ホームズ」は前注参照。「エルジー・ヴェナー」は彼の最初の小説で、そのオリジナルは一八五九年十二月に「教授の物語」(‘ The Professor's Story ’)として『アトランティック・マンスリー』で連載された。英文ウィキに独立解説ページがある。

『ロバ・デイ・ロマ』“ Roba di Roma ”は、アメリカの彫刻家・詩人で美術評論家・編集者でもあったウィリアム・ウェットモア・ストーリー(William Wetmore Story 一八一九年~一八九五年)の現代のローマの美術研究や詩・随想からなるものらしく、刊本は一八六二年にロンドンで出版され、多くの文化人に読まれたという。書名はイタリア語で「ローマというもの」の謂いか。

「『ピサゴラス』と題する詩があつた。これは後に『輪𢌞』と改題されたことは、トマス・ベーリー・オールドリッチの愛讀者が屹度知つてゐる通りである」原文は“a poem called "Pythagoras," but since renamed "Metempsychosis," as lovers of Thomas Bailey Aldrich are doubtless aware;”。トーマス・ベイリー・オールドリッチ(Thomas Bailey Aldrich 一八三六 年~一九〇七年)はアメリカの作家・詩人・評論家及び編集者で、『アトランティック・マンスリー』の編集者を一八八一年から一八九〇年まで務めている。「ピサゴラス」はピタゴラスのこと。ネィテイヴの発音は「ピィサィゴラス」に近いから誤字・誤植ではあるまい。「Metempsychosis」(メテンプサィキィシィス)は「霊魂の再生・転生」「輪廻」と訳される。この奇妙に改題された詩篇の内容は私は不明だが、オールドリッチの詩の中でも最も野心的な作品であることが、彼についての英文の評伝中に確認出来た。

「ゼズイット學者」“Jesuit writers”。「Jesuit」はジェスイット(ジェズイット)教団で、カトリック教会の男子修道会「イエズス会」(ラテン語: Societatis Iesu)のこと。一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、世界各地への宣教に務め、日本に初めてキリスト教を齎したことで本邦ではよく知られる。イエス(・キリスト)を表わす「Jesus」が形容詞した「Jesuitic」 が語源。カトリック教学の学者。

「Ziogoon, Tycoon, Sintoo, Kiusiu, Fide-yosi, Nobanunga」面白いので漢字(新字)とひらがなに直しておく。「将軍(ずぃおぐぅーん)」・「大君(ちぃこーん)」・「神道(しんとぅー)」・「九州(きうしう)」・「秀吉(ふぃで よし)」・「信長(のばんぬんが)」。]

 

 私は照明された街頭をぶらついて夜を過ごし、また澤山の見世物のうち、二三を觀覽した。私は一靑年が佛敎の經文を書き、また足で馬を描くのを見た[やぶちゃん注:原文を見たところ、“ I saw a young man writing Buddhist texts and drawing horses with his feet; ”で、私は、「足で」は「靑年が」の後に引き上げて訳すべきところであると考える。平井氏の訳もそうなっている。]。この技倆について特異な事は、經文の文字が逆さまに後方へと書かれ――丁度普通の書家が行の上から下へ書いて行くのと同じく、行の下から上へ向つて書かれ……また、馬の畫はいつも尾から描き始められたことであつた。私は一種の圓戲場[やぶちゃん注:原文“amphitheatre”。「円形劇場」を意味するラテン語アンフィテアトルム(amphitheatrum)の英語化。古代ローマに於ける剣闘士競技などが行われた、あれである。]を見た。そこでは鬪場[やぶちゃん注:闘技場。]の代はりに水族館があつて、人魚が泳いで日本の歌を歌つてゐた。私は日本の菊花栽培者によつて、『花から魔法で作られた乙女』[やぶちゃん注:菊人形のこと。]を見た。それから、折々私は玩具店を覗いてみると、珍奇なものが充滿してゐた。そこで特に私を感服させたのは、日本の發明家が非常に僅少な費用を以て、西洋の高價な機械仕掛の玩具に於けるのと同一の結果に達しうる、驚くべき巧妙の發揮であつた。一群の紙製の鷄が、竹の彈機[やぶちゃん注:「バネ」と当て訓しておく。]の壓力によつて籃の中から假想的の穀粒を啄き[やぶちゃん注:「つつき」。]出すやうにしたのがあつた。代價は僅に五厘であつた。人工品の鼠が走り𢌞つて、疊の下や孔隙[やぶちゃん注:「あなすき」と訓じておく。]の中へにげ込まうとするかの如く、後戾りしたり、疾走したりした。その代價はただ一錢で、一片の色紙、粘土燒の糸卷枠、及び一本の長い糸で作られ、ただ糸を引きさへすれば、鼠は走りだすのであつた。紙製の蝶が同じやうに簡單な工夫で動いて、空中へ投げると、飛び始めた。模造の烏賊の頭の下へ附けてある藺[やぶちゃん注:「ゐ」。原文“rush”。単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ属イグサ Juncus effusus var. decipens 。]の小管を吹くと、それはすべてその觸手をうごめかし始めた。

 

 私が歸らうと決心した時には、燈火は消え、店は閉鎖され始めてゐた。して、私が宿に達しない內に、既に私の通路の町は暗くなつた。照明の非常な輝き、妖術のやうな見世物、賑やかな雜沓、下駄の海の如き輝き、この急に變はつた空漠と沈默――これらのものは私をして恰も以前の經驗は眞實でなかつたかのやうに、妖狐の物語に於ける如く、まさしく人を騙すために作られた光と色と昔の迷妄であつたやうに感ぜしめた。しかし日本の祭りの夕を成す一切のものが、急速に消滅するのは、實際記憶の快感を一層痛切ならしめる。この變幻極まりなき光景は、徐々と消えてゆくといふことはない。かくて、その記憶は毫も憂鬱の色を帶びないやうになる。

 

       

 私が日本の娛樂について、その妙趣が散り易いことを考へてゐた時、すべての快樂の痛切さは、その消散し易さに比例するではないかといふ疑問が私の心に起こつた。これを肯定する證據は、快樂の性質に關する佛敎の說に對して、有力なる援助を與へることとなるだらう。もともと精神的の娛樂は、それを作る思想感情の複雜さに比例して力を增すものである。隨つて最も複雜なる感情は、必然最も時間の短いものであらねばならぬと思はれる。要するに、日本の通俗的娛樂は、消散し易いことと、複雜なことの二重の特徵を有つてゐる。その譯は、單にそれが纎麗[やぶちゃん注:「せんれい」。ほっそりとして美しいこと。しなやかで美しいさま。]優美で且つ細部が夥多[やぶちゃん注:「くわた(かた)」。物事が多過ぎるほどにあること。夥(おびただ)しいさま。]だからばかりではなく、この纎麗と夥多は、一時的狀況と結合に基づいて、偶發的だからである。かかる狀況といふのは、開花と衰萎の季節、日光の時や、滿月の折[やぶちゃん注:「をり」。]、場所の變化、明暗の移動などである。また結合といふのは、民族的天才の祝祭に於ける刹那的發露、幻影を作るために利用されたる脆弱な諸材料、夢を具體化したもの、象徵、肖像、表意文字、彩色の筆觸及び旋律の斷片などの中に復活せられたる記憶、個人の經驗並びに國民的情操に訴へる無數の微妙なる方法を指すのである。して、その情緖的結果は、西洋人の心へは通じないで終つてしまう。何故といふに、その結果を生ずる數限りなき細部と暗示は、多年親灸熟達の効を積んだ後でなくては到底不可解なる別世界――西洋人が一般にすこしも知らない傳統、信仰、迷信、感情、思想の世界――のものだからである。その世界を知つてゐる少數の人々によつてさへ、日本人の享樂の光景によつて惹き起こされる、名狀し難く、優雅な感じの、茫漠たる浪は、ただ『日本の感じ』として述べられうるに過ぎない。

 

 これらの娛樂の驚くばかり安價なことによつて、一つの興味ある社會學的事實が暗示される。日本人の生活の妙味は、貧乏が美的情操の發達に於ける一勢力である――或は少くともその發達の方向と擴張を決定する一要素である――といふすばらしい現象を私共に見せてゐる。もし貧乏でなかつたら、この國民が夙に快樂を最も高價贅澤な經驗としないで、極めて普通容易なものとする祕訣を發見するといふことはなかつたであらう――それは實に無から美を創造する天工神技なのだ。

 この安價低廉の一つの理由は、國民が一切の自然物に――山水、雲霧、日沒の光景に――鳥や昆蟲や花卉の風姿に――西洋人よりも遙かに多くの愉快を發見する能力を有することである。それは彼等が視覺上の經驗を藝術に表現したものの鮮明によつてわかる。今一つの理由は、國民的宗敎と古風な敎育が想像力を養成して、その結果、苟も昔の物語や傳說を暗示しうるものならば、いかに些々たるものでも、想像力を鼓舞して、愉快に活動せしめることである。

 恐らくは日本の安價な娛樂は、自然によつて與へられた季節と場所に人力を加へたものと、自然の暗示によつて人間の作れる季節と場所のものとに、大別することができるだらう。前者の種類は、あらゆる國々に見出され、また年々增加してゆく。山上、海岸、湖畔、河邊の或る地方を選定し、庭園を作り、樹木を植ゑ、最も見晴らしのよい地點に茶亭を設ける。すると、荒涼たる土地が間もなく娛樂を趁ふ[やぶちゃん注:「おふ」。追い求める。]人のため行樂の境と變はつてくる。或る場所は櫻の名所、他の場所は紅葉の勝地、更に他の場所は藤の名所である。して、四季ははそれぞれ――雪降る冬さへも――或る土地に特別の美觀を與へる。だから、最も有名な社寺或は少くともその大部分は、いつも自然の美が宗敎的建築家に感激を起こさせ、幾多の人をして今猶ほ佛僧又は神官たることを願はせるやうな路地を選んで建てられてゐる。實際日本に於ては到る處宗敎が有名な風景と相伴なつてゐて、山水、瀑布、峯、岩、島とか、或は花の咲いたのや、秋の月が水を照らしたのや、夏の夕べ螢の群れが燦めくのを眺めるによい絕勝佳景と聯結されてゐる。

 裝飾、飾燈、あらゆる種類の街頭の盛觀、特に祝祭日の壯景は、すべての人が樂み得る都會生活の娛樂の大部分を成してゐる。かやうにして祭日祝節に於て審美的趣向に訴へることは、多分數千人の手と頭腦の働きを示すものであるが、公共的努力に對する各個の貢獻者は、昔からの規則を遵守しながら、しかも自己獨得の考案と趣味に隨つて働く。だから、その綜合の結果は驚くばかりに案外不思議なる多種多樣を現はす。かかる場合に當つては、誰れでも助力することができるし、また誰れも助力を惜まない。それは最も低廉な材料が用ひられるからである。紙でも、藁でも、または石でも何等實際の差異を呈する事はない。藝術感は天晴れ材料の如何を超越してゐる。その材料に形を與へるものは。自然物、または實物に對する完全なる理解力である。鷄の羽毛で作つた花であらうと、粘土の龜や家鴨や雀であらうと、または厚紙製の蟋蟀、蟷螂、或は蛙であらうと、その原物に對する觀念は充分よく考へられ、正確に實現されてゐる。泥土の蜘蛛が糸を吐き、網を作りつつあるやうに見え、紙の蝶は人の目を欺く。何等の原型は要らない一――或は寧ろ、いづれの場合に於ける原型も、原物または生きたる事實の精密なる記憶に外ならない。私は人形屋に二十個の小さな紙製人形を依賴した――それぞれ異つた髮の結び方をして、全部で京都の女の髮の主もなる形を示すやうにと求めた。一人の娘が白紙、繪具、糊、松材の薄片を用ひて仕事を始めた。すると、それらの人形は畫家が同數のかやうな姿を描くに要するだらうのと殆ど同じ時間にでき上がつた。實際にかかつた時間は、ただ手指の動作に要つただけで[やぶちゃん注:「かかつただけで」。]、直したり、比較したり、改良したりするためではなかつた――腦中の幻像は、彼女の纎手の動くのと同速力を以て實現したのであつた。緣日の夜の珍奇な品は大抵そんな風にして作られたものである――指頭で扭つて[やぶちゃん注:「ねぢつて」或は「ひねつて」。]すぐ出來あがつた玩具、古い布片に數囘毛筆を揮つて綾模樣の反物に變へたもの、砂で描いた畫。このやうな妖魔的伎倆は、また人間の姿態をも利用する。平常目立たない子供に、繪具と白粉[やぶちゃん注:「おしろひ」。]を巧みに塗抹すること二三囘、それから、飾光に對して工夫せられたる衣裳を着せると、忽然それが化して小妖精となる。線と色に對する豐富な藝術感は、いかなる變幻の術をも行ふことができる。裝飾の調子は決して出鱈目に委せないで、知識に基づいてゐる。飾燈はこの事實を證明してゐる。ただ或る種類の色合のみ取り合はせてある。しかし全體の光景は、驚異であると共に、また果敢ないものである。それはあまりにも早く消え失せて、缺點を見つける遑[やぶちゃん注:「いとま」。]もない。それを見た後一箇月の間も、不思議に思はせ、夢に見させるやうな蜃氣樓である。

 

 恐らくは日本人の日常生活に伴なふ滿足と質素なる幸福の無盡藏なる源泉の一つは、此快樂の一般的安價の中に見出さるべきであらう。眼の慰みは、誰れ人[やぶちゃん注:「たれぴと」。]も恣ま〻にする事ができる。ただ季節や祝祭が娛樂を與へるばかりではなく、殆どいかなる奇異な町でも、いかなる眞の日本內地でも、賃銀なくして働くやうな極貧の僕婢にさへ、眞正の快樂を供しうるのである。美人或は美を暗示するものは空氣の如く無代價である。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]、いかなる男女もあまりに貧乏のため、何か綺麗なものを所有し得ないといふことがない。どんな子供も面白い玩具が持てないといふことはない。西洋ではこれと狀態を異にしてゐる。西洋の大都會では、美は富有階級のために存在してゐる。飾りのない障壁や、汚い步道や、煤煙に曇つた空や、怖ろしい機械の喧騷――不幸であつたり、弱かつたり、愚鈍であつたり、または同胞の道德を信任し過ぎたりするといふ、ひどい罪惡を罰せんがために、西洋文明によつて發明せられたる永遠的醜惡と不快の地獄――は、貧民のためのものである。

 

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ NOTES OF A TRIP TO KYŌTO ”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“ Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST ”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第三話である。この底本の邦訳では殊更に「第〇章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。原文電子テクストは“Project Gutenberg”のここで視認出来る。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月3日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本篇の大標題はここ、本篇本文はここから。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郞譯)」の冒頭注を参照されたい。

 途中に挟まれる注(全く突然に文が切断されて入るのはママである。あまりよい挿入法とは思われない)はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示し、前後を一行空けた。一部の引用は底本では四字下げであるが、同前の理由から一字下げに改めた。本篇は全「八」章節から成る少し長いものなので、分割して示す。]

 

      第三章  京都紀行

 

       

 京都の奠都紀念千百年祭は、この春舉行される筈であつたが、惡疫勃發のため、秋季に延ばされることとなつた。そこで、その祝祭は十月十五日から始つた。軍隊の勳章のやうな、胸に挿すやうにできたニツケル製の小さな記念祭徽章が一個五十錢づつで發賣された。その徽章を帶びたものは、すべて日本の汽車汽船に對する特別賃金や、宮殿庭園神社佛閣の拜觀自由の如き望ましき特權に浴することができた。十月二十三日譯者註、私は一個の徽章を求め、朝の一番汽車で、京都へ旅立つた。二十四日及び二十五日に舉行豫定の、盛大なる時代行列を見ようと熱中せる人々で、汽車は溢れてゐた。立つたま〻の乘客も澤山であつ

 

譯者註 これは明治二十八年のこと。先生は神戶から京都見物に上られたのである。

 

たが、群集はやさしくて、快活であつた。私と同じ車中には、大阪藝妓の祭典に出かけて行くのが幾名かゐた。彼等は退屈まぎらしのため、歌をうたつたり、また彼等の知り合ひの男達と拳を打つたりした。して、彼等のお轉婆の惡戲とをかしげな叫び聲は、一同を面白がらせた。一人の女は非常に珍らしい聲を有つてゐて、雀のやうに囀ることができた。

[やぶちゃん注:「京都の奠都紀念千百年祭」落合氏の示す通り、明治二八(一八九五)年は平安京に都が移って、桓武天皇が大極殿(だいごくでん)で初めて正月の拝賀を受けた延暦一五(七九六)年から千百年目に当っていた。参照した京都市の作成になる『情報提供システム「フィールド・ミュージアム京都」』の「平安遷都千百年紀念祭」によれば、これを記念して企画されたのが、桓武天皇を顕彰する祭典「平安遷都千百年紀念祭」であった。先立つ三年前の明治二十五年五月頃から、京都実業協会が立案し、京都市は参事会から三人、市会から四人の紀念祭委員を選出して、紀念祭開催と「第四回内国勧業博覧会」の誘致に向けて、国に協力を求めた。その結果、有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王(後に小松宮彰仁親王に交代)を総裁に迎え、会長に近衛篤麿、副会長に佐野常民が就任し、「平安遷都千百年紀念祭協賛会」を設立。国務大臣も関与する国家的な行事となった。まず、平安宮朝堂院正殿である大極殿を模した神殿などが岡崎(現在の左京区)の地に造営され、桓武天皇を奉祀する平安神宮が明治二十八年三月に完成、官幣大社に列せられた。紀念祭は勧業博覧会開催中の四月三十日に明治天皇を迎えて催される予定であったが、諸事情で延期され、十月二十二日から三日間、挙行された。十月二十二日は、延暦一三(七九四)年に桓武天皇が新京平安京に入った日であった、とある。この「諸事情」の内容を調べたが、小泉八雲が言うような「惡疫」流行のためとする記載は見当たらなかった。しかし、気になって調べてみたところ、この明治二十八年にコレラが大流行し、全国で患者五万人、死亡者四万人を超えたという記事を「横浜検疫所」公式サイト内の「横浜検疫所の出来事変遷表」に見出せた。なお、「奠都」(てんと)とは「新たに都をある地に定めること」を言い、「都を遷すこと」を意味する「遷都」とは実際には違う語である。則ち、「奠都」とは古い都とは別に「新たに都につくる」、則ち、元の都も残っていることを含意する語である。例えば、そのため、京都では現在でも、『天皇が東京へ行ったのは「奠都」であって「遷都」ではない』とする見方があるようだ。

「五十錢」明治二十八年の東京での米の小売価格は十キログラム八十銭、大卒初任給は二十円であった。

「十月二十三日」「朝の一番汽車で、京都へ旅立つた」銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば(★以下は本篇の内容に基づくものなので、ネタバレの箇所があるから、本篇を読まれた後に改めて見た方がよい★)

   《引用開始》

 十月二十三日(水)、京都遷都千百年祭の見物に行く。御室御所[やぶちゃん注:「おむろごしょ」。仁和寺の別称。]で掛物の展覧会を見、金の許す限り買う。また幼い子供の書を見て感嘆し、遺伝的記憶のことを思う。帰りにレストランで古い手まわし風琴[やぶちゃん注:手回しの箱型オルガン。]を見、古本屋で「アトランティック・マンスリー」一八六〇年版を買って夜店をまわった。そして常宿の日光屋旅館に帰る。[やぶちゃん注:この旅館、どこに所在していたのか不詳。識者の御教授を乞うものである。]

 十月二十四日(木)、時代行列を見て、大極殿にまわる。

 十月二十五日(金)、午前中末慶寺を訪ね、畠山勇子[やぶちゃん注:本篇で後述されるので、そこで注する。]の墓に詣で、神戸に帰る[やぶちゃん注:下略。]。

   《引用終了》

「拳を打つたりした」拳遊(けんあそ)び。二人で手の開閉又は指の屈伸などによって勝負を争う遊戯の一つ。後に、三人以上であったり、手だけでなく体全体を用いたりするものも現れたが、基本的に形によって勝敗を決める遊びで、本来は大人の男が酒宴で同輩や芸妓らと行う遊びであった。詳しくは参照したウィキの「拳遊び」を見られたい。後の「二つ」とか「三つ」というのはその時の合いの手の掛け声であろう。]

 

 何處でも――例へば宿屋で――女達が話し合つてゐるうちに、藝者がまじつてゐる時は、いつでもそれがわかる。何故なら、職業的練習によつて帶びた特殊の音色は、すぐに認めることができるからである。しかしその訓練の驚くべき特質は、眞に職業的の音調が用ひらる〻場合にのみ明白である――それは假聲[やぶちゃん注:「かせい」。「意図的に地声を変えた作り声」或いは「裏声」のこと。]の音調で、決して人に感動を與へるものではないが、往々不思議にうるはしい。さて、ただ自然の聲で小唄をうたふ街頭の歌ひ手は、淚を催すやうな音調を用ひる。その聲は通常强い中音部である。して、その深い音調は人に感動を與へるものである。藝妓の假聲の音調は、大人の聲の自然の高さを越えて、鳥の聲の如く銳い甲聲(かんごゑ)に昇つて行く。客の一杯に滿ちた宴會場で、太鼓や三味線の音、喋々嬉嬉の聲を凌いで、明白に――

 

    二つ、二つ、二つ

 

と、藝妓が拳を打つときの細いうるはしい聲を聞くことができる。一方――

 

    三つ、三つ、三つ

 

と、その相手の男が絕叫する答は、全く聞こえないことがある。

 

       

 京都へ着いてから最初に旅客の眼を驚かしたのは、祝典裝飾の美麗なことであつた。すべての町には飾光の準備がしてあつた。一軒一軒の家の前には、白木の新しい提燈柱が立てられて、或る適當な意匠を現はせる提燈が吊るしてあつた。またいづれの戶口の上にも、國旗と松の枝があつた。しかし提燈が裝飾の美をなしてゐた。町の區分每に、それが同一の形で、また正しく同一の高さに置いてあつて、萬一の天候を慮つて同一種類の覆ひ物を以て保護してあつた。しかし町を異にするに從つて、提燈は異つてゐた。或る廣い大通では、非常に大きなものであつた。して、小さな木造の天幕で蔽つた町もあつたが、或る町では紙製の日本傘をひろげて、その上方に結びつけてあつた。

 私が到着した日の朝には、行列がなかつたので、私は御室御所といふ帝室の夏の宮殿に於ける掛物の展覽を見て、愉快に二時間を費やした。此春、私が見た專門家の藝術展覽會と異つて、これは主もに學生の作品を陳列したものであつた。して、私はこれが遙かに一層獨創的で、且つ興味多い物と思つた。幾千點の繪畫が大抵三圓乃至五十圓の價格で賣品となつてゐて、財布の許す限り買はずには居られなかつた。明らかに實際その境地で描かれたらしい風景畫があつた。例へば、靄を帶びた秋の田の、垂れた穗の上を蜻蛉が飛んでゐる有樣、深い峽谷の上に眞赤になつてゐる紅葉、朝霧に罩められた[やぶちゃん注:「こめられた」。]巡禮、それから山間の目も眩まんばかりの崖端に立つ百姓の小屋などの光景であつた。また鼠が佛壇の供物を盜まうとするのを、猫が捉へる圖の如き、立派な寫實主義の小品もあつた。

 しかし私は繪畫の說明を以て讀者の忍耐を惱さうといふ考では決してない。私が展覽會見物のことを述べたのは、全く如何なる繪畫よりももつと興味あるものを、そこで見たからである。大玄關に近い處に、和歌をかいた一枚の書幅があつた。これは後に表裝を施して掛物にするので、今は假りに長三尺幅一尺八寸程の板に張つてあつた。これは臨池[やぶちゃん注:「りんち」。書法・書道の意。「墨池」ともいう。後漢の草聖(草書の名人でその書体を一新したことに拠る尊称)張芝(ちょうし)が池に臨んで書を学んでいると、池の水が真っ黒になったという話が、西晋の衞恒の「四體書勢」その他に見え、これから転じたもの。]の技に於ける驚異であつた。普通日本の書家が作品の落款に用ひる朱印の代はりに、私は細い手の赤い痕跡を見た――實際の手に捺印用の朱肉を塗つて、巧妙に紙面へ押したのであつた。私はガートン氏が特殊の意義を說いてゐる、あの小さな指紋を識別することができた。

 

譯者註 サー・フランシス・ガートン(一八二二――一九一一年)は、英國の人類學者、且つ氣象學者。また優生學の開拓者で、それから指紋法の創案者である。進化論の發見者ダーウヰンの從弟に當たる。

[やぶちゃん注:イギリスの人類学者で統計学者・探検家にして初期の遺伝学者でもあったフランシス・ゴルトンの事蹟と指紋研究については「小泉八雲 身震ひ (岡田哲藏譯)」の私の注を参照されたい。]

 

 その書は六歲――西洋風に誕生日から年齡を起算すれば五歲――の子供が、天皇陛下の御前に於て揮毫したものであつた。總理大臣伊藤伯がその奇蹟を見て、その子供を養子にした。だから彼は今では伊藤明瑞といふ名である。

[やぶちゃん注:伊藤明瑞(めいずい 明治二二(一八八九)年~昭和二三(一九四八)年)は日本の書家。本名は宮本正雄門(まさおと)。ウィキの「伊藤明瑞」によれば、『和歌山県和歌山市に生まれる』。明治二四(一八九一)年、二歳で漢学者南海鐵山に入門し、翌年には『元堺県知事に揮毫を披露する。早くから神童・天才書家と呼ばれ、幼くして古典を暗記するなど博覧強記な人物であったという』。五『歳で王羲之の書法を体得し、免許皆伝書を授与され』、明治二八(一八九五)年二月十三日(満六歳になる直前)、未だ五『歳の時明治天皇の御前で腕前を披露し、「日本明瑞」(明治の明と瑞祥の瑞)の名を賜る。後に伊藤博文の書生となり、「伊藤明瑞」を名乗るようになった』。『青年期から没するまで』、『明石市に居住する傍ら、皇族・華族や全国の官公庁・寺院・学校などを回って、実演を披露した』とある。]

 日本人の觀覽者達でさへ、殆ど彼等の肉眼の證據を信ずることができなかつた。大人の書家でもその書に及び得るものは少いだらう。たしかにいかなる西洋の藝術家も、たとひ多年の硏究を以てしても、その兒童が陛下の御前で揮つたのと同じ腕前を見せることは不可能であらう。無論かやうな子供は、ただ千年に一たび生まれることができる――神の靈感を蒙つた書家といふ、支那の古い傳說を實現し、或は殆ど實現したのである。

[やぶちゃん注:「神の靈感を蒙つた書家といふ、支那の古い傳說」「書聖」と称される東普の王羲之(三〇三年~三六一年)のことか。]

 

 それにしても、私を感動させたのは、作品の美そのものでなくて、その作品が、殆ど前世の思ひ出にひとしいほど鮮明な遺傳的記憶について、怪奇異常、且つ爭ふべからざる證據を與へる點であつた。代々の死んだ書家が、その纎細な手の指のうちに復活してゐた。それは決して眇たる[やぶちゃん注:「べうたる(びょうたる)」。ここは単に「小さな」(幼い)の意。]五歲の兒童一個人の作品ではなく、疑もなく複合的祖先の靈魂となつてゐる無數の亡靈の作品なのだ。それは神道の祖先崇拜の敎義と、佛敎の前世の敎義を二つともに肯定する、心理的並びに生理的不思議の明々白々、實在的な證據であつた。

 

2019/11/24

小泉八雲 街頭より (落合貞三郞譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ OUT OF THE STREET ”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“ Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST ”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第二話である。この底本の邦訳では殊更に「第〇章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月3日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本篇の大標題はここ、本篇本文はここから。


 訳者落合貞三郞(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で、郷里島根県の松江中学、及び、後に進学した東京帝国大学に於いて、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)/小泉八雲(帰化と改名は明治二九(一八九六)年二月十日。但し、著作では一貫して Lafcadio Hearn と署名している)に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は第六高等学校、学習院教授を勤めた。謂わば、小泉八雲の直弟子の一人である。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。歌詞の引用部分は底本では四字下げであるが、同前の理由から一字下げに改めた。]

 

      第二章 街 頭 よ り

 

       

 萬右衞門譯者注は、立派に筆寫せる日本字の卷物を私の机上に置きながらいつた。『これは俗謠で御座います。もし御本にお書きになる場合は、西洋人が誤解しないやうに、俗謠だとお斷りになつた方がよろしいでせう』

 

譯者註 これば、實は小泉夫人を指したのである。

 

 私の家の隣りに空地があつて、洗濯屋がそこで舊式な方法で仕事をしてゐる――働きながら歌をうたつて、大きな平らな石の上で、濕れた[やぶちゃん注:「ぬれた」と訓じておく。]衣類を打つのである。每朝昧爽[やぶちゃん注:「まいさう(まいそう)」。明け方のほの暗い時刻を指す。]、彼等

 

譯者註 本書は先生の神戶時代の著作である。神戶では、三回轉居せられたが、いつも下山手通、または中山手通であつた。

[やぶちゃん注:小泉八雲は熊本五高を明治二七(一八九四)年十月に辞め、神戸のクロニクル社に転職している(神戸着は十月十日前後。始めは下山手通り四丁目に居住した)。しかし、僅か三ヶ月後の翌明治二十八年一月には過労から眼を患い、同月三十日に同社を退社した。この間、七月に日本国籍を得る決心をしている(銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)には実際の『具体的な手続き』に入ったの『は、八月に入ってからと推測される』とある)。同年七月、山手通り六丁目に移転した。同年十二月に東京帝国大学文科大学の外山正一学長から英文学講師としての招聘を伝えられ(この十二月下旬に中山手通り七丁目に移転している)、翌明治二十九年九月七日に当該職に就くために東京に着いており、本書刊行時も現職であった。従って、神戸には一年六ヶ月ほど住んだことになる。なお、正確には本篇執筆時は「Lafcadio Hearn」であり、本刊行時は「小泉八雲」となる。彼の帰化手続が完了して「小泉八雲」と改名したのは、本書刊行の前年である明治二九(一八九六)年二月十日のことであった(但し、実際には生前に刊行された英文著作は改名以降も総て「Lafcadio Hearn」名義ではある)。]

 

の歌が私の眼を醒ます。して、私は往々文句を聽き取ることは出來ないが、それを聽くのは好きだ。それは長い、奇異な、哀れな抑揚に滿ちてゐる。昨日その洗濯屋の十五歲の小僧と主人が、互に答へ合つてゐるかのやうに、代はり番こに歌つてゐた。貝殼を透して響き渡るやうな朗かな大人の聲と、少年の嚠喨たる[やぶちゃん注:「りうりやう(りゅうりょう)」。楽器や音声が冴えてよく響くさま。]中音部(アルト)の聲の對照は、頗る聽き心地がよかつた。そこで私は萬右衞門を呼んで、何のことを歌つてゐるのか、尋ねてみた。

 彼はいつた。『少年の歌は、

 

 神代(かみよ)このかた、變はらぬものは、水の流と戀の道。

 

といふ古い歌で御座います。私の小さな時代に每度聞いたことがあみます』

 『それから今一つの歌は?』

 『今一つのは、多分新しいもので御座いませう。

 

 三年思つて、五年焦がれて、たつたひと晚だきしめた。

 

極[やぶちゃん注:「ごく」。]馬鹿らしい歌でございますよ』

 『それはどうか分からない』と、私はいつた。『西洋で有名な物語といつた處で、別段これよりえらいことを含んではゐない。それから、其歌のあとの部分は何の事だらう?』

 『もうあとはありませぬ。それがあの歌の全部でございます。もし御所望なら、私は洗濯屋の歌や、それからこの町內で、鍛冶屋や、大工や、竹細工師や、米搗きなどが歌つてゐますのを寫してあげませう。尤も大抵似よつたものでございます』

 さういふ譯で、萬右衞門は私のために俗謠集を作つてくれたのであつた。

 

 俗といふことは、萬右衞門の考では、一般民衆の言葉で書いたものといふ意味であつた。彼自身古典的の歌に巧みで、當世の流行歌を輕蔑してゐるから、餘程高尙優雅なものでなくては、彼の氣に入らない。して、彼の氣に入るものに關しては、私は書く資格がない。何故なら、日本の詩歌の優れた種類について喙を容れるためには、頗る立派な日本語の學者でなくてはならぬからである。もし讀者が、この問題のいかに困難なるかを知らうと思ふならば、アストン氏著『日本文語文典』“Grammar of the Japanese Written Language”の作詩學の章と、チエンバレン敎授著『日本古典詩』“Classical Poetry of the Japanese”の序論を一寸硏究するがよい。和歌は、日本がたしかに支那からも、またいかなる他の國からも藉りなかつた唯一の獨創的藝術である。して、その絕妙絕美は取りも直さず國語の花そのものの粹香[やぶちゃん注:“the very flower of the language itself”。精華。]なので、模造し得られないものである。だから、いかなる西洋語に於ても、よしや一部分でさへ、その情緖、暗示、色彩の幽趣微韵[やぶちゃん注:「いうしゆびゐん」。奥深く静かな風情と微かな響き。]を表現することは困難である。しかし民衆の作品を理解するためには、何等博學の必要はない。それはあらん限りの單純、直截、及び誠實といふ特徵を帶びてゐる。結局、その眞の妙處は、絕對に巧妙を弄しない點に存してゐる。だから私は民衆の歌を要求したのであつた。國民の永遠に若々しい心から直に湧きいでたる、これらの小さな歌の迸りは、あらゆる四民の原始的無飾不文の詩と同じく、局限されたる一階級、または一時代の生活に屬せずして、寧ろ一切の人生經驗に屬するものを吐露してゐる。して、その曲調のうちにさへ、矢張りその源泉たる、民衆の胸裡から發する新鮮潑剌として力强い鼓動が響いてゐる。

[やぶちゃん注:「アストン氏著『日本文語文典』“Grammar of the Japanese Written Language”」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年:十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい)が一八七二年に初版を、一八七七年に二版を出した、それ。

「チエンバレン敎授著『日本古典詩』“Classical Poetry of the Japanese”」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年:ハーンとは同い年であった。彼については私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 序/(一)』の私の注を参照されたい)が、一八八〇年に刊行したもの。]

 萬右衞門は四十七首を寫してゐた。して、彼の助力によつて、私はその中に就いて、秀逸なものの自由譯を試みた。それは甚だ短いもので、十七文字乃至三十一文字であつた。大槪日本の歌の韻律は、五字句と七字句の簡單なる交互から成つてゐる。俗曲で折々この規則に外れてゐる部分は、單に歌ひ手が、或る母音を滑唱したり、または延ばしたりして[やぶちゃん注:“by slurring or by prolonging certain vowel sounds”。特定の母音を滑らかに切らずに総て繋げて歌ったり(文字通り、音楽用語の「スラー」である)、或いは意図的に伸ばして歌うこと、であろう。]、繕つて行くことのできるやうな不齊[やぶちゃん注:「ふせい」。定格にそろわないこと。破格表現。]に過ぎない。萬右衞門が蒐集した歌の大部分は、ただ二十六文字であつた。七字句が三句連續して、それから五字句が一句附いてゐた。次の例の如くに――

[やぶちゃん注:この歌型自体は「都々逸」(どどいつ:江戸末期に初代都々逸坊扇歌(文化元(一八〇四)年(寛政八(一七九六)年とも)~嘉永五(一八五二)年)によって大成された当時の口語による定型歌。七・七・七・五)である。]

 

 かみよこのかた     七

 かはらぬものは     七

 みづのながれと     七

 こひのみち       五

 

 この構造から外れたものに、七一七―七―七―五、五一七一七一七―五、七―五一七―五、また五一七―五などの諸種があつた。しかし五―七―五―七―七で示さる〻古典的五句の短歌形式は全く見られなかつた。

[やぶちゃん注:都々逸の場合、他に「五字冠り」と呼ばれる「五・七・七・七・五」形式もある。]

 性を指示する言葉が歌詞の上に現はれてゐなかつた。『私』及び『汝』に對する語句は、滅多に用ひてない。また『愛人』といふ意味の言葉は、男に向つても、女に向つても、一樣に適用されてゐる。ただ或る比喩の慣習的意義によつたり、特別な感情的調子の使用によつたり、または服裝の或る細目が舉げてあるのによつて詠み人の性が暗示されてゐる。たとへば次の歌で――

 

 わたしや水萍(みづくさ)、根もない身の上、どこのいづくで、いつ花が咲く。

 

 詠み人は明らかに戀人を求めてゐる娘である。もし日本人がこのやうな比喩を男性の口から聞いた日には、丁度男が自らを菫や薔薇に喩へたのが、英人の耳に響くのと同じであらう。同一の理由で、次の歌に於ては詠み人は女でないといふことがわかる――

 

 梅と櫻を兩手に持つて、どれが實のなる花だやら。

 

 女の美は樓の花にも、また梅の花にも譬へられる。しかし梅の花の象徵する性質は、いつも有形的よりは察ろ精神的である。此歌では、或る男が、二人の娘に强い執着を感じてゐる。一人の娘は、容色が非常に綺麗である。多分藝者であらう。今一人の方は、性質が美はしい。いづれを一生の伴侶として、彼は選擇すべきであらうか。

 

註 「知られぬ日本の面影」下卷四四二頁參照。

[やぶちゃん注:落合のページ数は第一書房版全集の第三巻の当該ページを指している(原注は三百五十七ページとなっている)。私の電子化注では『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (五)』の以下であろう(原文に即した表記・配置に一部を戻して示す。注・引用は前後を一行空け、引き上げて同ポイントとした。なお、そちらの注で述べているが、「ケシユリ」は底本では「キシユリ」となっているものの、誤字か誤植であるので特異的に訂してある)。

   *

 梅の花は美に於て、確かに櫻の花の敵手であるのに、日本人は婦人の美をば――肉體美をば――櫻の花に較(たと)へて、決して梅の花には較へぬ。然しまた、之に反して、婦人の貞節と深切とは梅の花に例へて、決して櫻の花には例(たと)へぬ。或る著者が斷言したやうに、日本人は女を木や花に例へることを考へぬと斷言するのは大なる誤である。優しさには、少女はほつそりした柳に註一、若盛りの色香には、花の盛りの櫻に、心の麗はしさには、花の咲い

 

註一。『ヤナギゴシ』」といふ言葉は、ほつそりした美しさを柳の木に例へる、普通使用されて居る多くの言葉の一つである。

 

て居る梅の木に例へられて居る。それどころか、日本の昔の詩人は女をあらゆる美しい物に例へて居る。次記の歌に見るが如くに、その種々な姿勢に對し、その動作に對して、彼等は花から比喩を求めさへしてゐるのである。

 

 タテバ  シヤクヤク註二

 スワレバ  ボタン

 アルク  スガタハ

 ヒメユリ  ノ  ハナ

 

註二。學名ピオニア・アルビフロラ。此名は優美なといふ意味を含んで居る。ボタン(英語のツリイ・ピオニイ)への比喩は、この日本の花を知つて居る人だけが、充分に鑑賞が出來る。

註三。ヒメユリと言はずにケシユリ(英語のポピイ)と言ふ人もある。前者は優美な一種の百合で、學名リリウム・カロスムである。

 

 實際、身分の非常に賤しい田舍娘の名でさへ、往々敬語の『お』を前に附けた美しい木又は花の名のことがある。舞子やヂヨラウの職業的な華名は、言ふまでも無いとして、オマツ(松)、オタケ(竹)、オムメ(梅)、オハナ(花)、オイネ(稻)の如きそれである。ところが、娘が有つて居る木の名のうち、その或る者の起原は、木そのものの美しさについての、どんな民衆觀念にも求むべきでは無くして、寧ろ長命とか幸福とか幸運とかの徽號としての、その木の民間思想に求めなければならぬ、と可なり有力に議論され來つて居る。が、それはどうあらうとも、日本人が女を木や花にたとへる、その比喩が美的感念に於て少しも、我々西洋人の比喩に劣つて居ないことを、今日の諺、詩、歌、並びに日常の言葉が充分に證明して居るのである。

 

註。今は日本の社會のより高等な階級では、『お』を、槪して言つて、娘の名の前に用ひず、また派手な稱呼は息女の名には附けぬ。貧しい可なりな階級のうちに在つてすら、藝者なんかの名に似た名は嫌はれて居る。上に記載した名は立派な正しい、日常の名である。

   *]

 

 もう一つの例――

 

 筆を手に持ち、思案にくれて、銀の簪(かんざし)、疊算(たたみざん)。

 

 こ〻に簪を舉げてあるので、詠み人は女だといふことがわかる。またその女は藝者だといふことも想像される。疊算と稱する一種の占ひは、特に藝者仲間に流行するからである。細い絲の枠の上に編んだ疊表の面には、一吋の約四分の三位[やぶちゃん注:「吋」は「インチ」。一インチは二・五四センチメートルだから、約二センチ弱。]づつ間隔を置いて、規則正しく筋が並んでゐる。女は疊の上へ簪を投げて、その觸れた筋の數をかぞへる。その數によつて吉凶を判斷する。時としては、小さな煙管――藝者の煙管は普通銀製である――が、簪の代はりに使はれる。

[やぶちゃん注:「疊算」小学館「大辞泉」に、占いの一種で、簪や煙管(キセル)を畳の上に投げ、その向いたところ、又は、落ちた所から、畳の端までの編み目の数をかぞえ、その丁・半によって吉凶を占うもので、主に遊里で行われた、とある。]

 

 すべて集められた歌の題材は、戀愛であつた。實際日本の俗謠の大多數はさうである。名所を詠める歌でさへ、大抵或る戀愛的暗示を含んでゐる。戀愛の最初の蕾から最後の成熟に到るまで、あらゆる單純な情趣が、その蒐集に現はれてゐた。そこで、私はそれらの歌を發情的自然の順序に從つて配列してみた。その結果は、幾らか劇的暗示を有するものとなつた。

 

      

 これらの歌は、實際三つの異れる集團を成して、それぞれこれら一切の歌の主題である戀愛の情的經驗の特殊な時期に對應してゐる。第一團の七首に於ては、情熱の不意打ちの驚愕や、苦さや、弱さが現はれて、咎め立てをする悲しげな泣聲に始つて、信賴の囁きに終はつてゐる。

[やぶちゃん注:以下の唄の前の数字はポイント落ちだが、同ポイントで示した。]

     一

 世間誰れもが嫌うたあなた、なぜにこのやうに好きだやら。

     二

 人には云はれぬこの苦勞、たれが作つたと思召す。

     三

 いつも闇(やみ)夜と戀てふ路は、踏んで迷はぬ人はない。

     四

 あかるい洋燈(らんぷ)や、電燈さへも、戀路の暗(やみ)は照らしやせぬ。

     五

 惚れりや惚れるほどいひにくい、最初にききたい主(ぬし)の聲。

     六

 惚れたわいなとすこしのことが、何故にこのやうにいひにくい。

  註 これは眞似の出來ないほど簡潔な句である。

     七

 ぴんと心に錠前むろし、鍵はたがひの胸にある。

 

 このやうに相互に信じ合つた後で、迷妄は自然に深くなつてくる。苦勞は隱しきれない歡喜に移つて行つて、心の鍵は棄てられてしまう。これが第二の階段である。

 

     一

 逢うた昔は嫌つた生命(いのち)、添うた今では長命(ながいき)祈る。

     二

 主とわたしは谷間の百合よ、今が花時(どき)誰れもしらぬ。

     三

 思ふ人から杯差され、飮まぬうちにも顏赧らめる。

     四

 胸につ〻めぬ嬉しいことは、口どめしながらふれあるく。

     五

 どこの烏もみな黑い、ひとの好(す)く人なぜわしや好かぬ。

     六

 逢ひに行くときや千里も一里、逢はで歸るときや一里も千里。

     七

 惚れて通へば泥田(どろた)の水も、飮めば甘露の味がする。

     八

 お前百までわしや九十九まで、ともに白髮(しらが)が生えるまで。

     九

 云ひたい愚痴さへ顏みりや消えて、兎角淚がさきに出る。

 註 『兎角』といふ文句を使つてあるのが、この歌に一種の哀れを與へる。

     十

 嬉し淚にわが袖ぬらし、袖は乾いても乾かぬ心。

[やぶちゃん注:底本には「十」の前の行空けがあるが、これは「註」があるためと思われるので(原本に行空けはない)、省略した。]

     十一

 歸さぬやうにと祈願をこめりや、うれしや降り出す足止めの雨。

 

 かやうにして迷妄の時期は過ぎてしまう。そのあとは疑ひと苦み[やぶちゃん注:「くるしみ」。]である。ただ戀のみは永遠に殘つて、死を何とも思はない。

 

     一

 君と別れて松原ゆけば、松の露やら淚やら。

     二

 空とぶ氣樂な鳥見てさへも、わたしや悲しくなるばかり。

     三

 來るか來ぬかと川下(しも)ながめ、川には蓬(よもぎ)の影ばかり。

     四

 文(ふみ)は郵便、姿は寫眞、とても得られぬもの二つ。

     五

 顏は見ないでただ文ながめ、夢でみる方が猶ほましだ。

     六

 身はくだくだに、骨を磯邊にさらさうとま〻よ、拾ひ集めて添うてみせう。

 

[やぶちゃん注:後半のものは、「四」の「郵便」と「寫眞」から明治になってからの作品であることが判る。]

 

       

 そこで日本に於ける種々の時代に、また種々の地方で、さまざまの人によつて作られたこれらの小さな歌は、私に取つては一つの物語のやうなのであつた。――すべての時代、すべての場所に於て永遠に同一だから、時代とか、場所とか、人物の名の要らぬ、物語のやうな形を帶びてきたのであつた。

 

 『どの歌が一番お氣に入りですか』と。萬右衞門が質ねた[やぶちゃん注:「たづねた」。]。そこで、私は取捨選擇ができるかと思つて、彼の寫したものをめくつて見た。戶外では、輝いだ[やぶちゃん注:「かがやいだ」。]春の日和に、洗濯屋が働いてゐる。すると、心臟の鼓動の如く規則正しく、濡れた衣類をぽんぽんとた〻く重げな[やぶちゃん注:「おもたげな」。]音が聞こえる。私が思案してゐると、不意に少年の聲が一本のすばらしい狼煙[やぶちゃん注:「のろし」。]を打上げたやうな、長い、朗かな、銳い調子で、翔け上がつた――それから、跡切れて――またきれぎれの音が、ぴかつぴかつと閃光を發するやうに顫へ乍ら、靜かに消えた――萬右衞門が若い頃に聞いたことのある歌を、少年はうたつてゐるのであつた――

 

 神代このかた、變はらぬものは、水の流と戀の道。

 

 『あれが最上だと思ふ』と、私はいつた。『あれがすべての歌の心髓なのだ』

 『貧の盜人(ぬすびと)、戀の歌』と、萬右衞門は解釋をするやうな風に囁いた。『貧乏故に、盜人が出來て參ります通り、戀愛から歌が湧き出る譯で御座います』

 

2019/11/23

小泉八雲 生神 (田部隆次譯) / 作品集「佛の畠の落穗」電子化注始動

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ A LIVING GOD )は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“ Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST ”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の巻頭に置かれた作品である(この底本の邦訳では殊更に「第〇章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う)。但し、諸資料によれば、本篇はそれに先立つ前年の明治二九(一八九六)年六月十五日午後七時に発生し、死者・行方不明者二万千九百五十九人という甚大な被害を齎した「明治三陸地震」(岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖二百キロメートルの三陸沖が震源とし、マグニチュードは推定7.6から8.6とされる)のニュースを聴き、本作を同年中に書き上げているようである。則ち、本篇は少なくとも、その執筆動機に於いては、企画としての本作品集への所収を、予め、念頭に置いて書いた作品ではない可能性があるということであり、ウィキの「小泉八雲」の「来日後の著作」でも、特異的に本篇のみを独立させて記しているのである(しかし、現行、最新の詳細な小泉八雲年譜と思われる、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の同年の記事には、そうした創作事蹟を見出すことは出来なかった。ただ、書簡中(友人エルウッド・ヘンドリック宛)に恐らく本地震の津波に言及した記載はある)。また、『平成29年度静岡福祉大学附属図書館企画展~教育紙芝居創始者・「いなむらの火」原作者~「2人の開拓者:高橋五山と小泉八雲の世界」』(プレゼンテーション版画像)には、はっきりと同一八九六年十二月号の英文雑誌『太西洋評論』( Atlantic Monthly )に初出とあった。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月2日及び5月3日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本篇の大標題はここ、本篇本文はここから。

 本篇は嘉永七年十一月五日(グレゴリオ暦一八五四年十二月二十四日。この二十五日後の十一月二十七日(一八五五年一月十五日に「安政」に改元された)午後四時半頃に発生し、死者約三千人とされる「安政南海地震」(紀伊半島から四国沖を震源とし、マグニチュードは推定8.4とされる)とする巨大地震)の津波災害をもとにした物語で、ウィキの「稲むらの火」によれば(梗概が載り、ネタバレとなるのでリンク先全文は本篇読後に読まれたい)、『地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説』いたもので、小泉八雲は『西洋と日本との「神」の考え方の違いについて触れた文章であり、この中で人並はずれた偉業を行ったことによって「生き神様」として慕われている紀州有田の農村の長「浜口五兵衛」の物語を紹介した』。『小泉八雲は作中にも触れられている明治三陸地震津波の情報を聞き、この作品を記したと推測されている』が、『地震の揺れ方や津波の襲来回数など、史実と異なる部分も多』く、また、『「地震から復興を遂げたのち、五兵衛が存命中にもかかわらず』、『神社が建てられた」とする点は誤りである』とある(太字は私が附した)。則ち、原題の「A LIVING GOD」は事実ではない(実話では梧陵』(浜口五兵衛の雅号)『は確かに祀られそうになったらしいが、彼自身がそれを固辞した。現在、彼を顕彰した感恩碑はあるが、これは昭和八(一九三三)年の建立である。但し、村民たちが終生、濱口に深い尊崇の念を持ち続けたことは確かである)のである。さて、この『小泉八雲の英語による作品を、中井常蔵』(明治四〇(一九〇七)年~平成六(一九九四)年:和歌山師範学校専攻科卒業後、小学校訓導を務めていた(後に校長となった))が『翻訳・再話したもの』が、「稲むらの火」という作品で、昭和九(一九三四)年九月に『文部省の教材公募に入選し』、昭和一二(一九三七)年から十年もの『間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された』(以下に示すサイトでそれも読めるが、やはり本篇を読んでからにして戴きたい)。『防災教材として高く評価されている』。『もとになったのは紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)での出来事で、主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)』(濱口儀兵衞(梧陵):はまぐちぎへい(ごりょう):歴史的仮名遣「はまぐちぎへゑ(ごりやう)『である』とある。

 濱口梧陵(文政三(一八二〇)年~明治一八(一八八五)年)は、ウィキの「濱口梧陵」によれば(これも同前で読後に読まれたい)、紀伊国有田郡広村(現在の和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。駅逓頭(後の郵政大臣に相当)や、初代和歌山県議会議長を務めた。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語「稲むらの火」『のモデルとしても知られる』とある。

 彼や「稲むらの火」については、やはり本篇読後に読まれたいが、詳細を記した複数のサイトやページが存在する。中でも、

サイト「稲むらの火」

が勝れ、他に、

「気象庁」公式サイト内の「稲むらの火」のサイト

もあり、また、

「ヤマサ醤油」公式サイト内の『戦前の国定教科書にものった「稲むらの火」』

のページも、よい。電子化されたのものでは、

サイト「小さな資料室」の『資料161 「稲むらの火」(『初等科国語 六』所収)』

がある。
特に上の二つのサイトでは、事実と創作の相違点や誤りが細かく検証されている。従って、そうした事実との齟齬部分については、原則、私は注を附さないこととした。但し、素人目で見て奇異な箇所は、數箇所、小泉八雲の創作上の虚構を指摘してはおいた。無論、語注については今まで通りに附した。さらに、三成清香氏の論文『「生神」A Living God とハーン  史実と「稲むらの火」との比較から』(『下関市立大学論集』第六十二巻第三号・二〇一九年一月発行・「山口県大学共同リポジトリ」のこちらからPDFでダウン・ロード可能)が詳細を極め、とどめを刺すものと思う。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字とし、途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。また、終わりの方のブレイク・マークに二点リーダの縦線があるが、これは底本ではもっと長く、底本の本文一行(字空けとペアで二十個分)みっちり打たれたものである。原文も確かに普通でない感じで、打ってある。]

 

  佛の畠の落穗

    極東に於ける手と魂の硏究

 

   第一章 生 神

 

       

 その大きさ如何に拘らず、純粹の神道の堂や社は悉く同じ古風な樣式で建ててある。標本的の神社は、極めて急な勾配の、張り出したやうな屋根のある白木造りの窓のない長方形の建築である、前面は破風造り[やぶちゃん注:「はふづくり」。]である。氷久に閉ざしてある戶の上の方は木の格子造りで、――大槪格子の縱橫(たてよこ)が細かに組んであつて、互に直角に交叉して居る。大槪、建物は木の柱で地面から少し高く上つて居る。そして眉庇(まびさし)のやうな孔[やぶちゃん注:「眉庇」は「帽子の庇」、或いは、「窓の上の小さい庇」を指すが、原文は“visor-like apertures”とあるから、「庇(バイザー)風になった(その下方の)開口部」の意。]や、破風造りの上の梁(はり)の不思議な凸出物のある妙な尖つた前面は、歐洲の旅客に、屋根窓の或古いゴート式[やぶちゃん注:“old Gothic forms”。「実物の古いゴシック様式」。]の形を想ひ出させる事もあらう。人工でつけた色はない。飾りのない材木はやがて、雨と日のために自然に灰色になる、それも晒らされる度合によつて、樺木(かばのき)[やぶちゃん注:“birch”。「バーチ」。ブナ目カバノキ科カバノキ属 Betula 。タイプ種はヨーロッパダケカンバ Betula pubescens 。種が多く、日本の通称のカバノキ類とは欧米の読者が想起するものとは、種が異なる。]の皮の銀がかつた調子から、玄武岩の薄暗い灰色まで色々の變化がある。そんな形のそんな色であるから、淋しい田舍の社(やしろ)は大工の造つた物と云ふよりも、むしろ風景の一特徵――岩石や樹木と同じく、自然に密接に關係した田舍の或姿、――大地(おほつち)の神の現れとしてのみ存在するやうになつた或物、――と云つた方がよい。

[やぶちゃん注:「大地(おほつち)の神」「國學院大學」の「古典文化学事業」の「神名データベース」の「大土神」に、「別名」として「土之御祖神」を掲げ、「登場箇所」に「上・大年神の系譜」、「旧 大土神」として「地祇本紀」に、「土之御祖神」として「地祇本紀」に出るとする。
『大年神の系譜中に見える。大年神が天知迦流美豆比売を娶って生んだ神々(奥津日子神・奥津比売命・大山咋神・庭津日神・阿須波神・波比岐神・香山戸臣神・羽山戸神・庭高津日神・大土神)の内の一神』で、『またの名を土之御祖神という』とし、『大年神の子孫には土地や耕作に関わる神が多く、この神もその同類と考えられる。大土神の名義について、「大」は美称とされる。「土」は土地の意味とする説もあるが、土地一般でなく土壌を指すと捉えて、作物の生育にまつわる土壌・田地の神とする説もある。また、別名を土之御祖神というが、「御祖」は母親を指すことが通例であることから、大地もしくは土壌の母神と捉える説もある』。『別名の土之御祖神に類似する神社名として』「延喜式」の『神名帳の伊勢国度会郡に「大土御祖神社」(伊勢神宮内宮の摂社)が見え、関連付ける説もあるが、当社の祭神は、平安時代初期成立の』「皇大神宮儀式帳」の「大土神社」の記載によれば、大国玉命・水佐々良比古命・佐々良比売命の三柱であり、大土神や土之御祖神との共通性は見出しがたい』「古語拾遺」に『登場する「大地主神」と同神かとする推測もされているが、定かではない』とあった。しかし、小泉八雲が言っているのは、恐らく古神道の根っこにある「産土神」(うぶすながみ)のことと思う。]

 或建築の形が、何故見る人に一種物すごい感情を起させるかの問題は、私はいつか解釋しようと思ふ物である、今はただ村社はさう云ふ感情を起させるとだけ敢て云つて置く。慣れるに隨つて、それが薄らぐ事はなく、かへつて增加する、そして一般信仰の事を知つて居る事が、それを强くする傾きがある。私共はこの不思議な形の物を適當に說明する英語の言葉をもたない、――まして、それから受ける特異の印象を傳へる事のできる言葉はさらにない。私共が『テムプル』[やぶちゃん注:“temple”。中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会「テンプル騎士団」(Knights Templar)でも判る通り、広汎な「宗教及び精神的神霊的儀式、また、生贄や祈禱などの諸活動のための祭祀施設としての礼拝堂・聖堂・神殿」を指す。]とか、『シユライン』[やぶちゃん注:“shrine”。英語のそれも決して日本の「神社」を固有に指すものではなく、広汎な宗教的な「人の遺骨・遺物・像などを祭った聖堂・廟」を指す。]とか云ふ言葉で、よい加減に譯して居るそれ等神道の言葉は實は飜譯ができない、――卽ち、それ等の言葉に日本人がつけて居る思想は、飜譯で傳へる事はできない。所謂神の『みや』は古典的の意味で云ふ殿堂よりも、むしろ魂の出入する部屋、精靈の室、心靈の家である、多くの小さい神は事實心靈、數百年或は數千年以前に生きて働いて死んだ偉大なる戰士、英雄、爲政者、敎師の心靈、――である。私は西洋の人には『心靈の家』と云ふ言葉の方が、『神社』や『殿堂』のやうな言葉よりも、神道の宮(みや)や社(やしろ)、――そこにはその永久に薄暗いところに、象徵或はしるし、多分紙でできたしるし[やぶちゃん注:御幣のことであろう。]以外には何等實質的な物のない、その不思議な性質を多少おぼろげなりにも傳へるだらうと想像する。

 その眉庇(まびさし)の正面のうしろの空虛は、如何なる實質的な物よりも、遙かに暗示的である、そして諸君が數百萬の人が數千年の間に、こんな社(やしろ)の前で、彼等の偉大なる死者を禮拜した事、――全民族が今もなほその建築は意識のある人格を有せる見えない神の住むところと信じて居る事を思へば、――諸君は又この信仰の不合理な事を證明する事は如何に困難であるかを考へるやうになる。否、西洋の人が如何に澁つても、――その經驗について、諸君があとで何と云ふ方が或は云はない方が好都合だと思ふにしても、――讀者は多分一時はあり得べき物に對する敬虔の態度を執らざるを得ないであらう。ただ冷たい推論だけでは、反對の方向へ諸君をつれて行く助けにはならない。感覺の證據は餘り役に立たない、見る事も聞く事も觸れる事もできない非常に多くの實在が存して、しかも力、――恐るべき力として存する事を讀者は知る。それから讀者は又、その信念が空氣のやうに讀者の周圍に普く動いて居る間は、――空氣が讀者の肉體をとりまくと丁度同じやうに、その信念が讀者の精神をとりまく間は、――四千萬[やぶちゃん注:本書の刊行された明治三〇(一八九七)年の日本の本籍人口は既に四千三百二十三万人近かった。]の信念を嘲る事はできない。私自身について云へば、いつでも私が獨りで神社の前に出ると、私は何かにとりつかれたやうな感じになる、そしてとりつく物を自覺する事のできる事を考へざるを得ない。それからこれが私を誘惑して、もし私自身が神であつたら、――石の獅子[やぶちゃん注:狛犬を指す。]にまもられ、尊い森に圍まれた岡の上のどこか古い出雲の神社に鎭座するとしたら、――どんな氣がするだらうと考へるやうになる。

 私の住所は魑魅(ちみ)の住むやうに小さいだらうが、私は形も姿もないから、決して小さい事はない。私はただ顫動に過ぎない、――ヱーテルや磁氣のやうに見えない運動に過ぎない、しかし私が出現したい時には、私の昔の見える姿に似た影の體を取る事が時々できる。

[やぶちゃん注:「ヱーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次譯)」の私の注を参照されたい。]

 鳥が空氣を、魚が水を通るやうに、私の靈は凡ての物質を通りぬけるだらう。私は私の家の壁を自由に通過して日光の長い黃金浴に游ぐ事も、花の心(しん)で動く事も、蜻蛉の頸に乘る事もできる。

 生命に勝る力、死に勝る力、――それから自分を擴げる力、自分を何倍にもする力、そして凡ての場所に同時に遍在する力、――が私にある。一百の家庭に於て同時に私が禮拜されるのを聞く、一百の供物の氣を吸ふ。每晚、一百の家々の神棚にある私の場所から、赤い粘土の燈明[やぶちゃん注:「とうみやう」。素焼きの燈明台のこと。]、眞鍮の燈明に、私のためにとともしてある聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]光、最も淸淨なる油をついで、最も淸澄なる火をもやしてある聖い光が見られる。

 しかし岡の上の私の社で、私は最大の尊敬を受ける、そこで私は速かに私の無數の分身を集める、そして哀願に答へるために、私の力を統一する。

 私の靈屋[やぶちゃん注:「みたまや」と訓じておく。]のほの暗いところから。私は草履をはいた足の近づくのを待つて居る、そして誓の文句を書いた紙をひねつて、鳶色の柔軟なる指で私の格子に結びつけるのを見て居る、そして私の禮拜者の口が動いて、祈をするのを見て居る、――

 

 『拂ひ給へ、淸め給へ。……私共は太鼓を鳴らし、火をともしましたが、田地が乾いて、稻が育ちません。哀れと思召して雨をふらして下さい、大明神樣』

 

 『拂ひ給へ淸め給へ。……私は野原で働いて、餘り日に當つたので、色が黑くて、餘り黑くて困ります。……どうか、私を白く、精々白く、――町の女の人達のやうに白くして下さい、大明神樣』

 

 『拂ひ給へ淸め給へ。……私共の忰で、二十九になる兵隊の塚本元吉が、早く、――至急、大至急、――凱旋して私共のところへ參りますやう、恐れながらお願いたします、大明神樣』

 

 時々或少女が來て、心の中を悉く私にささやく事がある、『十九になる女でごごいます、私は二十一になる男に慕はれてゐます。善い眞面目な人ですが、貧乏なので私達の前途は眞暗でございます、哀れと思召してお助けを願ひます、――どうか一緖になれるやうにお助け下さい、大明神樣』それから、柔らかな濃い髮の一房、――元結で結んである鳥の翼のやうに光澤のある黑い彼女自身の髮を、私の社の格子に掛ける。そしてその捧げた物の香、――その若い農婦の質素な香にひかれて、――神であり靈である私は、人間であつた頃の感情を再び感ずるやうになる。

 母達は子供等を私の社前に連れて來て、私を尊敬する事を敎へて云ふ、『この有難い尊い神樣の前で頭を下げなさい、大明樣にお辭儀をなさい』それから、私は小さい手の鮮かな柔らかな拍手を聞いて、神であり靈である私も昔、父であつた事を想ひ出すだらう。

 每日、私のために淸い冷い水の注がれる音、ばらばらと降る雨の音のやうに、私の木の箱に米のばらばらと落ちる音、賽錢のちりんと鳴る音を私は聞く、そして水の精で力がつき、米の精で元氣を囘復するだらう。

 私を尊ぶために、祭禮が行はれよう。黑冠白衣の神官達は、――私の食物に息をかけないやうに、白紙で鼻と口を掩うて、果物、魚、海草、餅、酒の供物を私に捧げるだらう。それから彼等の娘である巫女(みこ)達、眞紅の袴と純白のころもをつけた巫女達は、小さい鈴の音につれて、絹の扇のなびきと共に、踊るために來る、それは私が彼等の若い花やかさを見て喜び、彼等の優美な魅力によつて樂む[やぶちゃん注:「たのしむ」。]ためである。それから、何千年前の音樂、――太鼓と笛の不思議な音樂、――それからもはや使はれない言葉の歌がある、同時に、神々の祕藏娘の巫女達は、私の前で姿美はしく列ぶ[やぶちゃん注:「ならぶ」。]、――

 

 ……

 『神の御前に花のやうに立つ巫女等、――誰の子であらう。それは大神の子等である。

 『聖い御神樂[やぶちゃん注:「おかぐら」。]、巫女等の舞、――神は聞いて喜び、見て樂む。

 『大神の御前で乙女等は舞ひ踊る、――新たに開いた花のやうな乙女等』……

 

 色々の種類の奉納の品を私は受ける、私の聖い名を書いた繪提灯、奉納者の年齡をすり込んだ色々の色の手拭や、病氣平癒、船の救助、鎭火、男子出生の祈願がかなつた記念の繪の額を奉納される。

 それから又、私の番をする獅子唐獅子も崇められる。巡禮が來て、頸や足に草履を結びつけて、强い足を授かるやう、唐獅子に祈るのを私は見るだらう。

 私は、碧玉色の毛皮のやうな綺麗な苔がその獅子の背中に徐ろに、徐ろに生えて來るのを見るだらう、――私は、その脇腹と肩の上に、光のない銀色の斑[やぶちゃん注:「まだら」。]となつて、光のない金色の點となつて、地衣(こけ)の發生するのを見るだらう、――私は數代を經るうちに、その土臺が霜と雨に掘られて行つて、最後に私の獅子が釣合を失つて、倒れて、その苔蒸した首が取れるのを見るやうになるだらう。そのあとで人々は又別の形の新しい獅子、――金の齒と金の眼と、苛責の火のやうな尾をもつた花崗石か唐金[やぶちゃん注:「からかね」。青銅。]の獅子を私に與へるだらう。

 杉と松の幹の間から、竹藪の間から、私は季節每に、谷の色の變化するのを見るであらう、冬の雪の降る事、櫻の花の雪のやうに降る事、都花の廣い藤色、菜の花の燃ゆるやうな黃色、水の漲ぎつて居る低地に映ゆる靑空、――私を愛してくれる働く人達の月の形の笠の斑點のある低地、それから最後に生長する稻の淸い柔かな綠色。

[やぶちゃん注:「都花の廣い藤色」これはちょっと困った。原文は“ the lilac spread of the miyakobana ”であるが、まず「都花」という和名は、双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科ミヤコグサ連ミヤコグサ属ミヤコグサ Lotus japonicus で春に花が咲くが、その色は黄色である(黄色から赤くなる品種ニシキミヤコグサ Lotus japonicus forma versicolor もある)。されば私は、“the lilac spreadとは「ライラックのような紫色をむらなく広げた薄い色」の謂いだと思う。しかも順列から見て、ここには春の花が入らねばなるまい(「ライラック」は花の名を出さずともその色名として明るい紫を指す「ライラック」(因みに同色の近似色は藤色・葡萄色・マゼンタ・紅色である)でよいのだが、因みにライラック(=モクセイ目モクセイ科ハシドイ属ムラサキハシドイ(紫丁香花)Syringa vulgarisの花は、春、咲くのだ)。小学館「日本国語大辞典」で「みやこぐさ」を引くと、本文はミヤコグサのこととするのだが、後の「方言」の欄に興味深い記載を見つけた。「れんげそう」(蓮華草)として採取地を鳥取県の一部及び出雲とあるのだ。これをミヤコグサをそこで「れんげそう」と呼んでいるの意味ではなしに、レンゲソウのことを、そこでは「みやこぐさ」と呼んでいるという意味に採れないだろうか? 私の言うレンゲソウは私の好きなマメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus のことだ。ゲンゲの花色は紅紫色だ。遠くから野や田に群れ咲くゲンゲの花の色を「薄く延ばした明るい紫色」と言って私は少しも違和感がないのだ。私はこの「都花」とは「ゲンゲ」の花のことだと思う。大方の御叱正を俟つ。

 椋鳥と鶯は、樣々の好いさへづりで私の暗い森を滿たすであらう、――鈴蟲、きりぎりす、それから夏の七種の驚くべき蟬は、その嵐のやうな音樂をもつて私の靈屋の悉くの森を震はせるであらう。速かに、私は大恐悅のやうに、彼等の極めて小さい生命のうちに入つて、彼の叫びの喜びを勵まし、彼等の歌の好音[やぶちゃん注:「よきおと」と訓じておく。]を大きくするであらう。

[やぶちゃん注:「七種の驚くべき蟬」私の労作注の一つである『小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「二」』を見られたいが、夏の六種は即座に挙げられる(各学名や生態はリンク先を見られたい)。小泉八雲がそこで挙げている順に現在の標準和名で示すと、クマゼミ・アブラゼミ・ニイニイゼミ・ヒグラシ・ミンミンゼミ・ツツツクボウシである。七種目? そりゃもう、最後の八番目(一番目のハルゼミは夏という条件に合わないので外した)に挙げておられる「ツリガネゼミ」なんでしょうねぇ、八雲先生?]

 

 しかし私は決して神にはなれない、――今は十九世紀であるからである、そして――肉體をもつた神でなければ――何人も神の感覺の性質を本當に知る事はできない。そんな神はあるだらうか。事によれば――非常に邊鄙な地方に――一人二人はある。生神は昔からあつた。

 昔は、どんなにその境遇は賤しくても、特別に大きな或は善良な或は賢い或は勇敢な事を何かした人は、その死後、神と宣言される事があつた。大きな殘忍不正に苦しんだ善人も亦神に祀られる事もある、それから今でも、特別な境遇の下に進んで死を選ぶ人の魂、――たとへば、不幸な愛人の魂に、死後の名譽を與へて、祈をするやうな一般の傾向が存して居る。(多分、こんな傾向を作つた古い習慣は、惱んだ魂を慰めたいと云ふ願から起つて居る、しかし今日では大きな惱みの經驗があれば、その人は聖い境遇に入る資格があると考へられるらしい、――そしてこんな考のうちには何等馬鹿らしいところはない)しかしもつと著しい神化もあつた。未だ存命中の或人々は、その人々の魂を祀る神社を建てて貰つて、神として取扱はれた、實際國家の神としてではないが、もつと低い程度の神として、――事によれば守護の神として、或は村の神として。たとへば、紀州有田郡の農夫、濱口五兵衞は、生前神にされた。私はそれだけの價値があると思ふ。

[やぶちゃん注:私はこの「一」の小泉八雲が自ら神霊となったとしたら――という空想のシークエンスがすこぶる好きだ。これから語られる濱口氏のそれとは関係はないけれども、私は小泉八雲が、その空想に耽るのが、眼前に――実際に――見たかのように――見えるのだ。その空想が描く映像も――見えるのだ。因みに、都合が悪いから、小泉八雲が敢えて言わなかった、ブラック・マジック、怨霊を祀ることで、それを逆に守護神とする本邦の非常に重大な神霊潮流の一つである「御霊(ごりょう)信仰」もあることは、忘れてはならない。]

 

      

 濱口五兵衞の話をする前に、私は明治以前の時代に、多くの村々を支配してゐた或法律――或はもつと正しく云へば、法律の力を悉く有する習慣――について少し云はねばならない。この習慣は數代の社會的經驗に基づいてゐた、そして國や郡によつて小さい點は違つてゐたが、その重なる意味は殆んど到るところ同じであつた。倫理的な物も、產業的な物も、宗敎的な物もあつた、そして一切の事は、――個人の行儀までも、――それに支配されてゐた。それによつて平和が保たれ、相互の助力、相互の親切が行はれた。時々他村との間に、重大な爭鬪――水爭[やぶちゃん注:「みづあらそひ」。]や境界爭に關する小さい百姓の戰[やぶちゃん注:「いくさ」。]――の起る事があらう、しかし同じ村同志の間の爭は復讐の時代には許容されなかつた、そして村全體は徒らに內部の平和を破る事を嫌つた。或程度までこの狀態はどこか古風な地方では今もなほ存在して居る、人々は戰は勿論爭もしないで暮らす事を知つて居る。一般の規則として、どこででも日本人の戰ふ場合は命のやりとりである、それで自分から進んで本氣に手出しをするやうな人は、その團體の保護を事實上受けない事になる、そして自分の生命は自分の手だけで守る事になるから、どうしてもそれを失ひさうである。

 女性の行爲は全然不文律を離れた或著しい制裁によつて支配されてゐた。結婚前の農夫の娘は、都會の娘よりも遙かに多くの自由を許されてゐた。彼女に愛人のある事が知られても差支はない、それから兩親が甚だしく反對しない以上、彼女に對してそれ程非難は加へられない、それは――少くともその意志については、――正直なる結合と見なされてゐた。しかし一旦選擇をした以上、彼女はその選擇によつて束縛されてゐた。もし彼女は祕密に別の愛人に會つた事が發見されたら、人々は彼女を裸にして、棕櫚の葉を一枚前に當てる事を許すだけで、村の往來や小路を步かせて嘲弄する事にした。娘の兩親は、娘がこの通り公然侮辱を加へられて居る間、外へ顏を出す事もできない、娘の恥を共に受けて、雨戶をしめて家の中に蟄居すべききまりになつてゐた。そのあとで娘は五年間追放の宣告を受けた。しかしそれだけの期限が終れば、彼女はその過失を償つた事と考へられて、それ以上の非難を受ける心配は少しもなく、家へ歸る事ができた。

[やぶちゃん注:私は以前から、ここで小泉八雲が記している、村落共同体の中での不倫を成した女性の懲罰と村八分の五年追放、その赦しについて、若き日より、その原資料を探して求めているのだが、未だ嘗つて発見することが出来ない。識者の御教授を是非とも乞うものである。

  災難や危險の時に、相互に助力すべき義務は、凡ての國體の義務のうちの、最も重大な物であつた。殊に火事の場合には、誰でも、男でも女でもできるだけの事をして直ちに助力せねばならなかつた。子供でもこの義務は免れなかつた。勿論都市では違つた制度になつてゐた、しかし小さい田舍の村ではどこでも、一般の義務は甚だ明白で簡單であつた、それでその義務を怠る事は許し難い事と考へられた。

 この相互の助力の義務は宗敎上の事にまで及んでゐた事は珍らしい事實である、誰でも賴まれた時には、病人や不幸な人のために神佛に祈る事になつてゐた。たとへば、非常に重い病人のために、千度參り原註をするやうにとその村の人が命ぜられる事がある。そんな場合には、組長(銘々の組長は五六軒の家の行爲について責任があつた)は、家から家へと走り𢌞つて、『かうかうした人が病氣でひどく惡い、どうか皆で急いで千度參りをして貰ひたい』と叫ぶ。そこでその時どんなに忙しくても、その村の人々は殘らず寺なり神社なりへ急ぐ事になつてゐた、――途中で躓いたり、轉んだりしないやうに注意せねばならない、千度參りを行ふ間に少しでも間違があれば、それは病人に取つて不幸になると信ぜられてゐたからである。……

 註 千度參りと云ふのは、寺なり神社なりへ千度參詣して神佛へ千度の祈禱をする事である。しかし門なり鳥居なりから、祈禱の場所までその度每に祈をくりかへして往復すればよい事になつて居る、そしてこの仕事に數人で分配しても宜しい、――たとへば、百人で十度づつ參詣する事に、ただ一人で千度參詣するのと全く同じ効果がある。

 

       

 これから濱口に關して。

 有史以前から日本の海岸は、數世紀の不規則なる間を隔てて非常に大きな海嘯[やぶちゃん注:「かいしやう(かいしょう)」。津波。]――地震、或は海底の火山の働きのために起る海嘯のために掃き去られて居る。この恐ろしい海の不意の膨脹を日本人は津浪と云つて居る。最後の津浪は一八九六年(明治二十九年)六月十七日の夕方に起つた、その時には殆んど二百哩[やぶちゃん注:「マイル」。三百二十二キロメートル。長さはしかとは判らない。機械的に宮城県南端から青森県尻屋崎(しりやざき:グーグル・マップ・データ)まで概測すると、四百五十キロメートルあるから、誇張な数値ではない。因みに、津波の高さは当時の観測最高値である海抜三十八・二メートルを記録している。かの東日本大震災の津波の遡上高は岩手県大船渡市の綾里湾(りょうりわん:国土地理院図)の四十・一メートルが最大とされる。]程の長さの津浪は宮城、岩手及び靑森の東北の諸縣を襲うて數百の都市と村落とを破壞し、いくつかの地方を全滅させ、そして殆んど三萬の人命を亡ぼした。濱口五兵衞の話は日本の他の地方の海岸に於て明治時代より遙か以前に起つた同じやうな災害の話である。

 彼を有名にした事件の起つた時、彼は老人であつた。彼はその村の最も有力なる住民であつた、長い間村長であつた、そして尊敬され又愛されてゐた。人々はいつも彼をおぢいさんと呼んだ、しかし、その土地の最も富んだ人であつたので、時に公けに長者と呼ぱれてゐた彼は小さい農夫に爲めになるやうな事を云つてきかせ、喧嘩の仲裁をし、必要な時には金をたて替へ、そして最もよい條件で彼等のために米を賣捌いてやるやうな事をいつもしてゐた。

[やぶちゃん注:小泉八雲は老人と言っているが、冒頭注で生没年を示したから言っておくと、事件当時、濱口五兵衛は、未だ数えで三十五歳であった。小泉八雲の確信犯の創作部分(生き神とするのに相応しいと彼が考えたバイアスをかけたもの)である。

 濱口の大きな草葺きの母屋(おもや)は、灣を見下す小さい高臺の端に建つてゐた。重に[やぶちゃん注:「おもに」。]米をつくつてあるこの高臺は、森のしげつた山に三方圍まれてゐた。この土地は外に向いた端の方から、水際までゑぐれ取つたやうに大きな綠の凹面になつて傾斜してゐた、そして二哩の四分の三[やぶちゃん注:二・三四七キロメートル。]程のこの傾斜の全部は、海面から見ると狹い白いうねりくねつた道、一條の山道によつて中央を分けられた綠の大きな階段のやうに見えた。本當の村になつて居る九十の草葺きの家と一つの神社が屈曲した灣に洽うて立つてゐた、そして外の家は長者の家へ通ずるその狹い坂路の兩側にしばらく續いて散在してゐた。

[やぶちゃん注:流石に、この舞台となったところは示さねばなるまい。紀伊國廣村(現在の和歌山県有田郡広川町(ひろがわちょう))である。ここ(グーグル・マップ・データ。顕彰資料館「稲むらの火の館」をドットした)。]

 

 秋の或夕方、濱口五兵衞は下の村でお祭の用意をして居るのを、自分の家の緣側から眺めてゐた。稻の收穫は大層好かつた、そこで村人は氏神の社の境內で踊を催して豐作を祝しよう[やぶちゃん注:「しゆくしよう」。]としてゐた。老人は淋しい町の屋根の上にひるがへつて居る幟[やぶちゃん注:「のぼり」。]や、竹の竿の間に飾つてある提灯の列や、神社の裝飾や、派手な色のなりをした若い人々のむれを見る事ができた。その夕方老人と一緖にゐたのは小さい十歲の孫だけであつた、その他の人々は早くから村の方へ行つてゐた。いつもより少しからだの加減が惡くなかつたら、老人も一緖に出かけるところであつた。

 その日はむしあつかつた、そして微風が起つて來たが、未だ何だか重苦しい暑さが殘つてゐた、それが日本の農夫の經驗によると、ある季節には地震の前兆である。そして間もなく地震が來た、人を驚かす程の强さではなかつた、しかしこれまで數百囘の地震を感じて來た濱口は變に思つた、――長い、のろい、ふわふわとしたゆれ樣であつた。多分極めて遠方の或大きな地震のほんの餘波であつたらう。家はめきめきと云つて幾度かおだやかにゆれた、それから又靜かになつた。

 その地震が終ると、濱口の銳い思慮深い眼は、氣遣はしさうに村の方へ向いた。或一定の場所や物を見つめて居る人の注意が、全く自覺して見てゐない方へ――明かな視野以外にある無意識な知覺の朦朧たる範圍に於てただ少し變な感じのする方へ、不意に氣を取られる事がよくある。そんな風に濱口は沖の方に何かつねならぬ事のあるのに氣がついた。立ち上つて海を見た。海は全く不意に暗くなつてそして變であつた。風と逆行して居るやうであつた。陸から向うへ退いて[やぶちゃん注:「しりぞいて」と読んでおく。]走つてゐた

 忽ちのうちに全村がその稀有の出來事に氣がついた。明らかに先程の地震を感じた人はなかつた。しかし潮の運動にはたしかに驚いた。一同が浪際へ、そして浪際のもつとさきへ、それを見に走つて行つた。人の記憶ではこんなに潮の引いた事はこの海岸であつたためしはない。見た事のないものが現れ出した、これまで知られなかつた肋骨のやうな畦(うね)のある砂の廣場や、海草のからんで居る岩の區域が、濱口の見て居る間に現れて來た。そして下の方の人はその巨大なる引潮は何を意味するかを考へる者はないやうであつた。

 濱口五兵衞彼自身もこんな物を見た事はかつてなかつた、しかし彼は父の父から幼少の折に聞いた事を覺えてゐた、そして彼は海岸の凡ての傳說を知つてゐた。彼には海がどうなるか分つてゐた。多分彼は村へ使[やぶちゃん注:「つかひ」。]をやるのに要る時間、山のお寺の僧に大きな釣鐘を鳴らして貰ふために要る時間を考へてゐたのであらう。……しかし濱口の考へたらしい事を話す方が、濱口の考へた時間よりもはるかに長くかかるであらう。彼は只孫に向つて云つた。

 『忠(ただ)、すぐ大急ぎだ……たいまつをつけて來い』

 たいまつは嵐の夜に使ふために、そして又或神事の祭禮に使ふために多くの海邊の家にしまつてある。子供はすぐにたいまつをつけた、そして老人はそれをもつて野原に急いだ、そこには彼の大部分の投資とも云ふべき數百の稻叢[やぶちゃん注:「いなむら」。]があつて運ばれるばかりになつてゐた。坂の端に一番近い稻叢に近づいて老いた足で急げるだけ急いで交る交るたいまつをつけ始めた。日に乾いた藁はほくちのやうに燃えた、火勢をあほる[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「あふる」が正しい。]海風はその熖を岡の方へ吹き上げた、そしてまもなく一又一叢、藁は炎になつて天に冲する[やぶちゃん注:「ちゆうする」。高く上がる。]烟の幾條かを上げたが、それが相集り交つて一つの大きな雲の渦となつた。忠は驚きかつ恐れて祖父のあとから叫びながら走つた。

[やぶちゃん注:ウィキの「稲むらの火」によれば(前に言った通り、ネタバレになるので、ここでは、写真以外はリンクはしない)、『「稲むら」(稲叢)とは積み重ねられた稲の束のこと。稲は刈り取りのあと天日で干してから脱穀するが、上のように稲架(はさ)に架けられた状態を「稲むら」と呼ぶ』。但し、『脱穀後の藁の山も「稲むら」と言うことがあり、史実で燃やされたのは脱穀後の藁である』と言うキャプションで前者の稲叢の写真が添えられてある。]

 『お祖父さん[やぶちゃん注:「おじいさん」。]、どうして、お祖父さん。どうして、――どうして』

 しかし濱口は答へなかつた、說明して居る暇がなかつた、ただ危難に瀕して居る四百人の生命の事ばかり考へてゐた。子供はしばらく稻の燃えて居るのを興奮して見てゐたが、突然泣き出した、そして祖父さんは氣が狂つたと信じてうちへ驅け込んだ。濱口は稻叢の一つ一つに火をつけて遂に自分の田地のはてまで來た、それからたいまつをなげ出して、待つてゐた。その熖を見て山寺の小僧は大きな鐘をゴーンとならした、そこで村人はこの二重の訴へに答へた。濱口は村人の、砂から渚をこえて、村の方から蟻のむれのやうに急いで登つて來るのを見たが、彼の待遠い[やぶちゃん注:「まちどほい」。]眼から見れば蟻よりも早いとは思はれなかつた。それ程時刻は彼に取つては非常に長く見えたのであつた。日は沈みかかつてゐた、灣の皺[やぶちゃん注:「しわ」。]のある底、それから遙か向うの斑[やぶちゃん注:「まだら」。]のある土色[やぶちゃん注:「つちいろ」。]の大きな廣がりが最後の橙色[やぶちゃん注:「だいだいいろ」。]のあかりに[やぶちゃん注:「(色の)明るさに」の意。]露出してゐた、そして續いて海が地平線の方へ走つてゐた。

 しかし、實際は濱口がそれ程甚だ長く待たないうちに、第一の救助隊が到着したのであつた、それは二十人程の敏速なる若い農夫達で、直ちに消火に赴かうとした。しかし長者は兩手を以てそれを止めた。

 『もやして置け』彼は命じた、『うつちやつて置け、村中の人に、ここへ來て貰うんだ、――大變だ』

 村中の人が追々來た、そこで濱口が敎へた。若い男や男の子供はすぐにそこへ來た、そして元氣な女や娘も大分來た、それから老人の大方は來た、それから赤ん坊を脊負つた母親、それから子供までも來た、――子供でも水を渡す手傳[やぶちゃん注:「てつだひ」。言わずもがな、消火のためのである。]ができるからである、そして眞先きにかけつけた人々と一緖について來られなかつた年長の人々が急な坂を上つて來るのがよく見えて來た。次第に集つて來た人々は、やはり何(なん)にも知らないで悲しげに不思議相に[やぶちゃん注:「さうに」。]、燃えて居る野原と長者[やぶちゃん注:「ちやうじや」。]の自若たる顏とを交る交る眺めてゐた。そして日は沈んだ。

 『お祖父さんは氣ちがひだ、僕は恐い』と澤山の質問に答へて忠(ただ)はすすり泣いた、『お祖父さんは氣ちがいだ、わざと稻に火をつけたんだ、僕はそれを見たんだ』

 『稻の事は子供の云ふ通りだ』濱口は叫んだ、『わしは稻に火をつけたんだ。……皆ここへ來たか』

 組長と家々のあるじ達はあたりを見𢌞し、坂を見下して答へた、『皆居ります、でなくともすぐに參ります。……私共にはこの事が分りません』

 『來た』老人は沖の方を指さし、力一杯の聲で叫んだ、『わしは氣ちがいか今云つて見ろ』

 たそがれの薄明りをすかして東の方を一同は見た、そして薄暗い地平線の端の海岸のなかつたところに、海岸の影のやうな長い細い薄い線が見えた、その線は見て居るうちにふとくなつた、海岸に近づく人の眼に海岸線が廣くなるやうに、その線は廣くなつた、しかし比べ物にもならぬ程ずつと早く廣くなつた。卽ちその長い暗がりは、絕壁のやうに聳えて、鳶の飛ぶよりももつと早く進んで來る、押しかへしの海であつた。

 『津浪』と人々は叫んだ、そしてその巨大なる海の膨脹が山々をとどろかす程の重さを以て、又赫々[やぶちゃん注:「かくかく」。]たる幕電[やぶちゃん注:「まくでん」。電光(雷(かみなり))の一種。遠雷によって夜空の一部が明るく見える現象。また、雲内放電により、電光は雲に隠れて雲全体が光って見える現象。]のやうな泡沫[やぶちゃん注:「しぶき」或いは「うたかた」。前者で読みたい。]の破裂を以て海岸にぶつかつた時、どんな雷より重い、名狀し難い衝動によつて、凡ての叫び聲と凡ての音をきく力とはなくなつた。それから一時は雲のやうに坂の上を突進して來た水烟[やぶちゃん注:「みづけむり」。]のあらしの外何物も見えなかつた、そして人々は、ただそれにおびえて狽狽してうしろへ散つた。再び見直した時彼等は彼等の居宅の上を荒れて通つた白い恐ろしい海を見た。うなりながら退く時、土地の五臟六腑をひきちぎりながら退いた[やぶちゃん注:「ひいた」或いは「しりぞいた」。前者で読みたい。]。再び、三たび、五たび、海は進み又退いた、しかしその度每に波は小さくなつた、それからもとの床にかへつて靜止した、大風[やぶちゃん注:「たいふう」。]のあとのやうに荒れながら。

 高臺の上には暫らく何の話聲もなかつた。一同は下の方の荒廢を無言で見つめてゐた、投げ出された岩や裂けて骨の出た絕壁の物すごさ、住宅や社寺の空しいあとへ海底からゑぐり取つて來て放り出してある藻や砂利の狼藉さ。村落はなくなつた、田畠の大部分はなくなつた、高段[やぶちゃん注:原文“the terraces”。丘や山の傾斜面に作った段々畑。]さへも存在しなくなつた、そして灣に沿うてゐた家のうち殘つて居るものは一つもない、ただ沖の方に物狂はしく浮沈して居る二つの藁屋根だけであつた。死を逃れたあとの恐ろしさ、凡ての人の損害のための茫然たる自失は凡ての口を啞にした、そのあげく濱口の聲で再び穩に[やぶちゃん注:「おだやかに」。]云ふのが聞えた。

 『あれが稻に火をつけたわけだ

 彼等の長者なる彼は今最も貧しき人と殆んど同じ程の貧しさになつて立つてゐた、彼の財產はなくなつたからであつた、しかし彼はその犧牲によつて四百の生命を救つたのであつた。小さい忠(ただ)は走つて來て手にすがつて愚かな事を云つた事の赦しを願うた。そこで人々は彼等の生存して居る理由に氣がついた。そして彼等を救うたその單純なる、おのれを忘れた先見の明に感服し始めた、そして頭立つた[やぶちゃん注:「かしらだつた」。相応の纏め役に当たるような有力者を指す。]人々は濱口五兵衞の前に土下座をした、それから人々はそれにならつた。

 それから老人は少し泣いた、一つは嬉しかつたから、一つは自分が老年で衰弱してゐて、ひどく苦しんだからであつた。

 『家が殘つて居る』物が云へるやうになると直ぐに忠の頰を機械的になでながら、彼は云つた、『そして大勢の入る場所はある。それから山の上のお寺もある、外の人はそこにもはひれる』

 それから彼は案內してうちに入つた、人々は叫んだり、ときの聲を上げたりした。

 

 困難の時期は長かつた、その當時一地方と他の地方との間に敏速な交通の方法はなく、そして必要な助けは遠くから送らねばならなかつたからである。しかしもつと時節がよくなるに隨つて人々は濱口五兵衞に對する彼等の負債を忘れなかつた。彼等は彼を富有にする事はできなかつた、たとへできても濱口は彼等にさうする事を許さなかつたであらう。その上物品を贈る事は彼に對する彼等の崇敬の念を表はすには不足であつたらう、彼の心中の靈魂は神のやうであると信じたからであつた。そこで彼等は彼を神と宣言してその後彼を濱口大明神と呼んだ、それよりも偉大なる名譽は與へられないと考へたからである、――又事實如何なる國にあつてももつと偉大なる名譽を人間に與へる事はできないのである。そして彼等が村を再び建てた時、彼等の彼の靈魂のために神社を建てた、そしてその前面の上部に金の漢字で彼の名を書いた札をかかげた、そして祈と供物を以てそこに彼を禮拜した。それについて彼はどんな感じがしたか私には分らない、私の只知つて居る事は下の方で彼の靈魂は神社に祭られてゐたが、彼は子供及び子供の子供と共に、以前の通り人間らしく又質素に山の上の古い草葺きの家に引續き住した事である。彼が死んでから百年以上にもなる[やぶちゃん注:創作上の虚構。実際の濱口五兵衛は明治一八(一八八五)年没で、本作品集刊行時は明治三〇(一八九七)年であるから、亡くなって未だ十二年しか経っていない。]、しかし彼の神社はやはり存在して居る、そして人々は恐怖又は困厄の時に彼等を助けてくれるやうに、善い老農夫の靈魂に今も祈を捧げると云ふ事である。

‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥

[やぶちゃん注:「‥」は実際には、二十個、打たれている。ブラウザの不具合を考えて減らした。]

 私は濱口の肉體が一方にあつて魂が又別の方にある事をどうして農夫達が合理的に想像するのであらうか、それを私に說明してくれるやうに、友人の或日本の哲學者に賴んだ。それから私は、濱口の生前に農夫達が禮拜したのは、彼の靈魂の一つであつたか、それとも彼等は禮拜を受けるために或特別の魂がそれ以外の魂と離れて出ると想像したのであらうかと尋ねた。

 『農夫達は』私の友人は答ヘた、『人の心や魂は、生前でも、同時に澤山の場所に居られる物と考へて居る。……勿論こんな考は、魂に關する西洋の考と全く違つて居る』

 『その方がもつと合理的でせうか』私はいたづらに尋ねて見た。

 『さうですね』彼は佛敎徒らしい微笑を以て答へた、『もし私共が凡ての心の統一と云ふ說を正しいとして見れば、日本の農夫の考には、少くとも或かすかな眞理を含んで居るらしい。あなたの西洋風の魂に關する考については、さうは云へませんね』

 

小泉八雲 ちん・ちん・こばかま (稻垣巖譯) / 底本「日本お伽噺」~了

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Chin Chin Kobakama 。「小(ち)ん小(ち)ん小袴(こばかま)」で「小(ち)い小(ちい)い小袴」の音変化であろう)は日本で長谷川武次郎によって刊行された「ちりめん本」の欧文和装の日本の御伽話の叢書“ Japanese fairy tale series の中の一篇である。同シリーズの第一期(英語で言うなら「First (Original) Series」)の№25(明治三六(一九〇三)年三月十五日刊)で(但し、同シリーズは第一期を完結せずに続けつつ、別に第二期を開始しているために、第二期の一部よりも後の刊行になる作品が出てきており、本編もその一つである)、編集・発行者は「長谷川武次郞」。小泉八雲は当該シリーズに五作品が寄せている。以下、同シリーズや長谷川武次郎氏及び訳者稲垣巌氏については『小泉八雲 化け蜘蛛 (稻垣巖譯)/「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動』の私の冒頭注を参照されたいが、そこで書いたように、今一篇の、同シリーズに載った“ The Fountain of Youth ”(「若返りの泉」)は以下の底本には載らない。何故これが除かれているかは不明である(一部のネット記載を見ると、これは小泉八雲の創作とされているとあり、それと関係するものか? にしても、解せない)サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらで“ The Fountain of Youth ”の「ちりめん本」の画像と活字化されたそれを読むことが出来る。なお、これは後日、私自身が和訳を試みたいと考えている。従って、以上で底本の「日本お伽噺」は終了している。

 本篇は、サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが画像と活字化した本文を併置していて、接続も容易で、使い勝手もよい。“Internet Archive”のこちらでも、全篇を視認出来る。また、アメリカのアラモゴードの蒐集家George C. Baxley氏のサイト内のこちら(長谷川武次郎の「ちりめん本」の強力な書誌を附した現物リスト)の、Chin Chin Kobakama Japanese Fairy Tale No. 25 1903も必見である。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年3月15日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の標題はここ。本作はここから。 但し、同底本の「あとがき」の田部隆次のそれには、『『日本お伽噺』一九〇二年東京、長谷川の出版にかかる繪入りの日本お伽噺叢書の第二十二册から第二十五册までになつて居る物である』とあって、初版のクレジットと異なるのが、不審である。

 本篇冒頭にはかなり長い小泉八雲自身による読者への解説がある。底本(原本でもポイント落ち)ではポイント落ちで全体が四字下げで示されているが、ブラウザの不具合が生じるので字下げをやめ、本文と同ポイントで示した。本文前にはアスタリクスが入るので、誤読することはない。傍点「ヽ」は太字に代えた。また、最後の展開部で、繋がっている文章を恣意的に切断して、行を変えた箇所がある。たまたま前行がしっかり詰っていたのが幸いしているのであるが、これは底本自体がそのような効果を狙うように、字配から印刷元に支持した可能性が極めて高いと判断したからである。最後の方に入る区切り用の長いリーダはもう少し長いが、ブラウザの不具合を考えて下をカットした。

 本篇は「ちいちい袴(ばかま)」又は「ちいちい小袴(こばかま)」として新潟県佐渡島に伝わる民話(岡山県・大分県にも同様の民話があるという)が原拠と思われる。展開の一部が異なること、民俗学的な分析が示されていることなどから、本篇の読後にウィキの「ちいちい袴」を見られんことをお勧めする。恐らく、小泉八雲のこの『ちりめん本』の御伽話五篇の中では、これが最もよく複数、邦訳され、知られているのではないかと私は思う。【2025年5月2日追記】再度、全体を点検して修正し、読みの一部を挿入した。]

 

  ちん・ちん・こばかま

 

 日本の部屋の床(ゆか)には藺[やぶちゃん注:「ゐ」。単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ属イグサ Juncus effusus var. decipens 原本では、畳を作る職人の絵と、藺の莚の絵が添えられてあって(“Internet Archive”の当該ページ)、藺草の香りがしてくるようだ。必見!]を織り疊んだ美しくて厚くて柔かい筵[やぶちゃん注:「むしろ」。]が幾枚も敷き詰めてあります。疊と疊とは非常にキチンと合はしてあるので、其の間にはやつと小刀の刄(は)が押し込める位の事です。疊は每年一度取り替へられ、いつも隨分綺麗にしてあります。日本人は家の中で決して靴を穿きませんし、英國人のやうに椅子や家具を使つたりしません。彼等は坐るのも、眠るのも、食事するのも、時としては書き物まで床[やぶちゃん注:「ゆか」。]の上でするのです。それですから成程疊は隨分綺麗にして置かなくてはならない譯で、日本の子供達はやつと口が利けるやうになるが早いか、疊を傷(いた)めたり汚したりしないやうにと敎へ込まれるのです。

 さて日本の子供はといふと本當のところ極めて善良です。旅に來た人で、日本に關する面白い本を著した人は誰でも皆かう述べてゐます、日本の子供は英國の子供よりはるかに素直で惡戲氣(いたづらぎ)ははるかに尠い[やぶちゃん注:「すくない」。]と。彼等は物を傷めたり汚したりしません、自分の玩具でさへ毀さない[やぶちゃん注:「こはさない」。]のです。小さい日本の女の子も自分の人形を毀しはしません。いいえそれどころか、大層大切にして、自分が一人前の女になりお嫁入りした後までそれを持つてゐるのです。お母さんになつて、出來たのが女の子の時は、其の人形を其の小さい娘にやるのです。すると其の子はお母さんがした通りに其の人形を大切にして、自分が大きくなるまで保存(もつ)て置いて、やがては自分の子供達にやります、子供達は丁度自分のお祖母さんがしたやうに行儀よく其の人形を相手に遊ぶのです。さういふ譯ですから私は――此の短いお話を皆さんの爲めに書いてゐる者ですが――日本で幾つも人形を見ましたが、百年以上も經つてゐるのに見た所はまるで新らしかつた時のやうに綺麗なのです。日本の子供達がどんなに善良であるかといふ事はこれで說明がつくでせう。又日本の部屋の床がどうしていつも大方綺麗になつてゐるか――惡戲(わるさ)の爲めに裂けたり汚れたりしないかといふ事もお解りになるでせう。

 みんなさうなのか。日本の子供はみんながみんなそんなに善良なのかとあなた方はお尋ねになるかも知れませんね。いいえ――みんながみんなといふ譯ではありません、少しばかり、ほんの少しばかり碌で無し[やぶちゃん注:「ろくでなし」。]がゐるのです。それではかういふ碌で無しの子供のゐる家の疊はどんな事になるのか。別に大してひどい事にはなりません――何故かといふと疊を大切にする小さい妖精(おばけ)がゐるからです。かういふ妖精共は疊を汚したり傷めたりする子供達をからかつたりおどかしたりするのです。少くとも――こんな惡戲兒(いたづらつこ)をからかつたりおどかしたりする事に大體きめてゐるのです。私はかうした小さい妖精共が今でもまだ日本に住んでゐるかどうか確かな事は解りません――新らしい知識や電信柱が非常に澤山の妖精共をおどかして追ひ拂つて仕舞つたのですから。

 それは兎も角として茲に[やぶちゃん注:「ここに」。]一つ彼等に就いての短いお話を致しませう―― 

       *         *

            *

 昔或る所に一人の小さい女の子がありました。隨分綺麗でしたが、無精な[やぶちゃん注:「ぶしやうな」。]事も隨分無精でした。兩親は金持で大層多勢の召使を雇つて[やぶちゃん注:「やとつて」。]ゐましたが、其の召使達が大變小娘を可愛がつて、其の子が自分でしなければならない事を何でもかでもしてやつたのです。多分かういふ事が娘をそんな無精者にしたのでせう。やがて娘は成長して一人前の美しい女になりましたが、相變らず無精でした。けれども召使達がいつも着物を着せたり脫がせたり、髮を結つてやつたりするので、人目には全く惚れぼれするやうに見え、誰一人として娘に缺點があらうなどとは考へなかつたのです。

 たうとう其の女は或る立派な武士(さむらひ)と結婚しました、そして彼に連れられてよその家に行き其處[やぶちゃん注:「そこ」。]で暮す事になりましたが其の家にはほんの僅か[やぶちゃん注:「わづか」。]しか召使がゐませんでした。嫁さんは自分の家で使つてゐた程多勢の召使がゐないのを心許なく[やぶちゃん注:「こころもとなく」。]思ひました。お里の人達がいつもしてくれた事を、一切自分でしなければならなくなつたからです。自分で着付けをしたり、自分の着物に氣を配つたりして、旦那さんの氣に入るやうに小綺麗に美しく見えるやうにするのは、嫁さんに取つて中々むづかしい事でした。然し[やぶちゃん注:「しかし」。]旦那さんは武士の事ですし度々[やぶちゃん注:「たびたび」。]家を後にして遠く軍(いくさ)に出かけなければならなかつたものですから、嫁さんもたまには思ふ存分懶ける[やぶちゃん注:「なまける」。]事が出來たのです。旦那さんの兩親は大分年も取つてゐるしそれにお人好しで、ちつとも嫁を叱る事はありませんでした。

 所が、或る晚の事旦那さんは軍[やぶちゃん注:「いくさ」。]に出かけて留守の時、部屋の中で怪しげな小さな物音がしたので嫁さんは眼を覺ましました。大きな行燈[やぶちゃん注:「あんどん」。]の明りで嫁さんははつきり見る事が出來ました、不思議なものを見たのです。何でせう。

 日本の武士(さむらひ)そつくりの身なりをした、其のくせ脊の高さは僅かに一寸そこそこの小男共が何百も、嫁さんの枕をすつかり圍んで踊つてゐるのです。彼等は嫁さんの旦那さんが祭日に着るのと同じやうな着物を着て、――裃(かみしも)と言つて、肩先の四角になつてゐる長い上着です、――髮は束ねて結ひ上げ、銘々二本づつちつぽけな刀を差してゐました。彼等は踊りながらみんなして嫁さんを見て笑ふのです、そしてみんなで同じ歌を何遍も何遍も繰り返して歌ひました――

 

    『ちん・ちん こばかま、

        よも ふけ さふらふ、――

       おしづまれ、ひめ・ぎみ、――

             や とん とん』

 

 それはかういふ意味です――

 『私等はちん・ちん こばかまです――時も晚う[やぶちゃん注:「おそう」。]御座います――お眠(やす)みなさい 御立派な氣高いお孃樣』

 其の言葉は大層丁寧なものに思はれましたが、嫁さんは小男共が自分をいぢめるつもりでいたづらしてゐるのだといふ事をぢきに悟りました。彼等は嫁さんに向つて意地の惡い顏付もしたのです。

 嫁さんは幾つか捕まへようとしました、けれども彼等は隨分すばしこく其處(そこ)らを飛び𢌞るので捉まへる[やぶちゃん注:「つかまへる」。]事は出來ませんでした。そこで今度は追ひ拂はうとしました、けれども彼等は逃げようとしません、そして『ちん・ちん こばかま……』を歌つたり、あざ笑つたりするのをどうしてもやめませんでした。そこで嫁さんは彼等が小さい妖精(おばけ)だといふ事が解りました。さあ恐くなつたのならないのつてもう聲を立てる事も出來ない程でした。彼等は朝まで嫁さんの周りを踊りました――朝になると不意にみんな消えて失くなりました。

 嫁さんは恥かしくてどんな出來事があつたかを誰にも話しませんでした――何故かといふと、自分は武士の妻ですから、恐い目に會つた事など誰にも知らせたくなかつたのです。

 翌晚、再び小男共はやつて來て踊りました、其の次の晚にも又來ました、それから每晚です――來るのはいつも同じ時刻でした、それは日本の年寄がよくいふ『丑[やぶちゃん注:「うし」。]の時』つまり吾々の時間でいふと朝の二時頃なのです。たうとう嫁さんは重い病氣に罹ました[やぶちゃん注:「かかりました」。]、碌に眠らないからでもあり恐いからでもあります。けれども小男共は嫁さんを獨でだけにしてかまはずに置かうとはしませんでした。

 旦那さんが家に歸つて來て見ると、妻が病氣で床に就いて居るので大層心配しました。始めの內嫁さんは病氣になつた始末を旦那さんに話すのを恐がりました、彼が自分をあざ笑ふだらうと思つたからです。けれども旦那さんは隨分親切でしたし、隨分優しくいたはつてくれたので、やがて嫁さんは每晚の出來事を彼に話したのです。

 旦那さんはちつともあざ笑つたりなどしませんでした、それどころか暫くの間極くまじめな顏付をしました。それからかう尋ねました――

 『何時頃其奴共はやつて參るのぢや』

 嫁さんは答へました――『いつも同じ刻限――「丑の時」で御座います』

 『左樣か』と旦那さんは言ひました――『今宵拙者は身を潜めて其奴共を見屆けると致さう。恐る〻事無用ぢや』

 そこで其の晚武士は寢間の押入に隱れて、襖の隙間からぢつと窺つて[やぶちゃん注:「うかがつて」。]ゐました。

 彼が待ち構へて見張つてゐる內たうとう『丑の時』になりました。すると、忽ち、小男共が疊の中から飛び上つて、例の踊りを始め例の歌を始めたのです、

 

   『ちん・ちん こばかま

       よも ふけ さふらふ……』

 

其の樣子といつたら奇妙奇的烈[やぶちゃん注:「きてれつ」。]で、踊るのが又隨分とをかしな恰好だつたものですから、武士は危なく笑ふところでした。けれども彼は自分の若い妻の脅えた[やぶちゃん注:「おびえた」。]顏を見ました、そして其の時、日本の幽靈や化物は殆どみんな刀を恐がるものだといふ事を思ひ出したので、彼は刀の身を引き拔き、パッと押入から飛び出して、小さな踊子共に斬り付けたのです。忽ち彼等は――に成つて仕舞ひました。何と皆さんは思ひますか

      爪楊枝

 

 もう其處には小さい武士共はゐませんでした――只一摑みの古い爪楊枝が疊の上に散らばつてゐたばかりです。

 若い妻は大變に無精だつたので自分の爪楊枝を當り前には捨てなかつたのです。每日、新らしい爪楊枝を使ひ果たすと、それを片付けて仕舞ふ爲めに、いつも疊と疊の間に突つ込んで置くのでした。それだものだから疊を大切にする小さい妖精共が腹を立てて、嫁さんを苦しめたのです。

 旦那さんは嫁さんを叱りました、嫁さんは大層恥ぢ入つてどうしたらい〻のか解らない程でした。一人の召使が呼ばれました、そして爪楊枝は向うへ持つて行つて燒かれたのです。それから後といふもの例の小男共は決して二度と戾つて來ませんでした。

 

        …………………………………

 

 無精な小娘の事を述べた話がもう一つあります、其の娘はいつも梅干を食べては、後で種子[やぶちゃん注:「たね」。]を疊の間に隱してゐたのです。長い間こんな眞似をして人に見つけられずにすんでゐました。けれどもたうとう妖精(おばけ)共が腹を立て〻娘を懲らしました[やぶちゃん注:「こらしました」。]。

 每晚のやうに、ちつぽけな、ちつぽけな女が――みんな大層長い振袖の附いた眞赤な着物を着て――同じ時刻に疊から出て來て、踊つたり、娘をヂロヂロ見詰めたりして娘を眠らせませんでした。

 或る晚娘のお母さんが寢ず番をしました、そして彼等を見て、叩きました、――するとみんなすつかり梅の種子になつて仕舞つたのです。そこで其の小娘の不しだらが解つて仕舞ひました。それからは其の子は本當に大層善い娘になりました。

 

[やぶちゃん注:冒頭で述べた恣意的操作とは、文章としては前に続いている「忽ち彼等は――に成つて仕舞ひました。何と皆さんは思ひますか」を恣意的に改行したこと、そのダッシュ部分が、次の四字も下げた「爪楊枝!」と、底本では、一致しているからである。『ちりめん本』原本では中央だが、底本では明らかに確信犯の配置となっているからなのである。

 さても、私はこの話が好んで邦訳されてきたことに、やや奇異の感を持ってきた。

 そもそもが、小泉八雲は、ちゃんと説明することをせずに、前のメインの話を終わっているのであるが、まず、今の若者でも、この若いお嫁さんが「爪楊枝」は何に使うのか判らない者が大半なのではないかと思うからである。これは、日常の既婚女性が行う鉄漿(おはぐろ:お歯黒:かねつけ)をする「必需品」だったからである。歯や歯間が汚れていると、鉄漿(かねつ)けが上手くいかないことから、爪楊枝を用いて綺麗にしなくてはならなかったのである。それを知らずに読めば、生意気に爪楊枝で「シー! ハー!」するいけ好かない女をイメージしてしまうし、欧米の読者も、そう捉えたのではないか? という疑問が一つ。

 さらに、既に日本でも、その辺りを説明しないと判らなくなっている本話が、何故、一番、邦訳されているのか?(少なくとも私はこれを小学生(一九六〇年代)の時に邦訳で読み、はっきり記憶しているのである)という疑問である。それは明らかに、★ちょっと昔の大人たちが、これが躾(しつけ)の大事さを子どもらに感じさせるに、ウッテツケのお伽話だと安易に考えたからに他ならない! しかも、見たこともない鉄漿の説明を抜きにして、という杜撰な仕儀でだ! そうした――中途半端な――いい加減なやり方こそが、まさに――大人の「道義に悖る」(ちゃんと状況を説明することをせずに道徳を子どもにかますのは、私は頗る道義的でないと思う)愚劣さ――なのではないか? という疑義である。

【2025年3月15日追記】★本篇の原文は、私の『柴田宵曲 妖異博物館 「小さな妖精」』(正字不全補正済)の注で電子化してあるので、見られたい。

小泉八雲 團子を失くしたお婆さん (稻垣巖譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ The old woman who lost her dumpling 。「dumpling」(ダンプリング)はウィキの「ダンプリング」によれば、『小麦粉をねってゆでただんご、果物入り焼き団子のこと』、乃至『は卵・牛乳で練り、団子状にしてゆでたものでシチューやスープに浮かす』『もの。あるいはゆでたじゃがいも、小麦粉、米、または両方に塩と水を加えて練り上げ、丸型に整えてから茹でたり、蒸したりしたもの。また、小麦粉などの生地で肉、野菜、果物などを包んだ料理もダンプリングと呼ばれる』。従がって『日本のすいとんや蕎麦がき、中国の餃子・粽子、イタリアのニョッキなども英語ではダンプリングに分類される。世界各地で多様なダンプリング料理が作られている』。『小麦粉のダンプリングを薄く伸ばして細く切れば』、それは『麺となるため、麺料理とも関連がある。dump は』、『動詞「ぐちゃぐちゃに(混ぜる・捨てる)」「どさっと(投げる・捨てる)」、dump-y は』、『形容詞「ずんぐりした」』で、『 dump-ing は(動)名詞「投げ捨てること、ダンピング」』であるとある)は、日本で長谷川武次郞によって刊行された『ちりめん本』の欧文和装の日本の御伽話の叢書“ Japanese fairy tale series ”の中の一篇である。同シリーズの第一期(英語で言うなら“First (Original) Series”)の№24(明治三五(一九〇二)年六月一日刊)で(但し、同シリーズは第一期を完結せずに続けつつ、別に第二期を開始しているために、第二期の一部よりも後の刊行になる作品が出てきており、本編も、その一つである)、編集・発行者は長谷川武次郞。小泉八雲は当該シリーズに五作品を寄せている。以下、同シリーズや長谷川武次郞氏及び訳者稻垣巖氏については『小泉八雲 化け蜘蛛 (稻垣巖譯)/「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動』の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は、サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが画像と活字化した本文を併置していて、接続も容易で、使い勝手もよい。“Internet Archive”のこちらでも、全篇を視認出来る。また、アメリカのアラモゴードの蒐集家George C. Baxley氏のサイト内のこちら(長谷川武次郎の「ちりめん本」の強力な書誌を附した現物リスト)の、The Old Woman Who Lost Her Dumpling Japanese Fairy Tale No. 24 ca 1902も必見である。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月2日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の標題はここ。本作はここから。 但し、同底本の「あとがき」の田部隆次のそれには、『『日本お伽噺』一九〇二年東京、長谷川の出版にかかる繪入りの日本お伽噺叢書の第二十二册から第二十五册までになつて居る物である』とあって、初版のクレジットと異なるのが、不審である。

 なお、一読、本篇は所謂、「おむすびころりん」(「鼠の餅つき」「鼠浄土」「団子浄土」などとも標題される)で知られる話譚の類型の一ヴァージョンであることが判る。その濫觴は、やはり、室町時代の「御伽草子」に溯ると考えられる。詳しくは、本篇読後に(別に知られたものであるし、小泉八雲のそれはかなり展開が異なるので、今、読まれても問題ない)ウィキの「おむすびころりん」を読まれたい。]

 

  團子を失くしたお婆さん

 

 昔々或る所に一人の面白いお婆さんがありました、笑ふのと米の粉(こ)團子を拵へるのが好きだつたのです。

 或る日、お婆さんはお晝ごはんにしようとお團子を拵へ[やぶちゃん注:「こしらへ」。]に掛つてゐましたが、一つ取り落して仕舞ひました、其の團子は小さい臺所の土間にあつた穴の中に轉がり込んで見えなくなつたのです。お婆さんは穴に手を突つ込んで拾はうとしました、すると忽ち土が崩れて、お婆さんは落ち込んで仕舞ひました。

 隨分深い所まで落ちたのですが、ちつとも怪我はしませんでした。再び起き上つた時、お婆さんは自分が道路(みち)に立つてゐるのに氣が付きました、自分の家の前のと同じやうな路なのです。其處は大層明るくて、お婆さんの眼には稻田が一面に見えました、でも何(ど)の田にも人つ子一人居ないのです。こんな事になつたのは全體どうした譯か、私には解りません[やぶちゃん注:この「私」は筆者小泉八雲を指す。]、然しどうもお婆さんは他所(よそ)の國に落ち込んで仕舞つたらしいのです。

 お婆さんの落ちた路は大分急な坂でした。それで、團子を探しても見付からなかつたものですから、お婆さんはきつと團子が坂の下の方へ轉がつて行つたに違ひないと思ひました。

 お婆さんは、

 ――『團子や團子。私の團子は何處[やぶちゃん注:「どこ」。]行つた』

と言ひながら、路を駈け下りて[やぶちゃん注:「かけおりて」。]探しに行きました。

 間もなくお婆さんは石地藏が一つ路端に立つてゐるのを見て、聲を掛けました――

 ――『これはこれはお地藏樣、私の團子をお見掛けになりましたか』

 地藏は答へました――

 ――うむ、團子が私の側(そば)を通つて下の方へ轉がつて行くのを見たよ。だがお前はもう先へ行かない方がい〻、其處を下りた所には、人を食べる惡い鬼が住んでゐるのだから』

 然し[やぶちゃん注:「しかし」。]お婆さんは唯笑つたばかり、――『團子や團子。私の團子は何處行つた』と言ひながら先へ馳け下りて行きました。やがてお婆さんは別の地藏が立つてゐる所にやつて來て、尋ねました――

 ――『これはこれはお優しいお地藏樣。私の團子をお見掛けになりましたか』

 すると地藏さんは言ひました――

 『うむ、團子がほんの今さつき轉がつて行くのを見たよ。だがお前はもう先へ行つてはいけない、其處を下りた所には、人を食べる惡い鬼が住んでゐるのだから』

 然しお婆さんは唯笑つたばかり、相變らず――『團子や團子。私の團子は何處行つた』と言ひながら駈け下りて行きました。やがてお婆さんは三つ目の地藏の所に來て尋ねました――

 『これはこれはおなつかしいお地藏樣。私の團子をお見掛けになりましたか』

 所が地藏は言ひました――

 『團子の事など言つてゐる場合ではない。今鬼が來る所だ。さあ此處へ來て私の袖の蔭に蹲(しやが)んでおいで、少しも音を立て〻はいけないよ』

 間もなく鬼が直ぐ近く迄やつて來ましたが、立ち止つて地藏にお辭儀をして、かう言ひました――

 『今日は、地藏さん』

 地藏も『今日は』を大層丁寧に言ひました。

 さうすると鬼は俄に空氣を二三遍不思議さうな樣子をして嗅ぎましたが、大きな聲で言ひました――

 ――『地藏さん、地藏さん。何處かに人間の臭ひがしますね』

 ――『いや』と地藏は言ひました――『それは多分お前の思ひ違ひだよ』

 ――『いえ、いえ』と鬼は又も空氣を嗅いでから言ひました、『人間の臭ひがしますよ』

 其の時お婆さんはもう堪へ切れなくなつて――

 『テ、ヘ、ヘ』とと笑ひました――さうすると鬼は直ぐに大きな毛むくじやらの手を地藏の袖の後ろに伸ばして、尙も『て へ、へ』と笑ひ續けてゐるお婆さんを、引つ張り出しました。

 ――『あー、はー』と鬼は大聲を出しました。

 其の時地藏はかう言ひました――

 ――『お前は其のよいお婆さんをどうしようとするのだ。いぢめてはならんぞ』

 ――『いぢめやしません』と鬼は言ひました。『唯家へ連れて行つて私等のおさんどんをして貰はうと思ふのです』

 ――『テ、へ、へ』とお婆さんは笑ひました。

 ――『それならよろしい』と地藏は言ひました――『だが本當にお婆さんに優しくしなくてはならんぞ。もししなかつたら、私はひどく腹を立てるよ』

 ――『決していぢめは致しません』と鬼は約束しました、『お婆さんは每日ちよつと許り私等の爲めに働いてくれさへすればよいのです。さよなら、地藏さん』

 それから鬼はお婆さんを連れてはるばる路を下つて行きましたが、やがて二人は廣い深い川の所まで來ました、其處には一艘の小舟があつたのです。鬼はお婆さんを其の小舟に乘せて、川を漕ぎ渡つて自分の家に連れて行きました。大層大きな家でした。鬼は直ぐお婆さんを臺所に案內して、自分や自分と一緖に住んでゐる他の鬼共に食べさせる御飯の拵へ方を敎へたのです。それから小さな木で出來た杓文子(しやもじ)を渡してかう言ひました――

 『お前はいつでもお米を一粒だけ鍋に入れるんだよ、其の一粒の米を水に浸(つ)けて此の杓文子で搔き𢌞せば、粒はどんどん殖えて終ひには鍋一杯になるからね』

 そこでお婆さんは鬼の言つた通りに、たつた一つの米粒を鍋に入れて、其の杓文子で搔き𢌞し始めましたが、搔き𢌞すにつれて、一粒は二つになり――それから四つ――それから八つ――それから十六、三十二、六十四といつた調子でどんどん出來上つて行きました。いつでもお婆さんが杓文子を動かす度每に米の分量は殖えるのです、それで僅かの間に大きな鍋は一杯になりました。

 それからといふもの、其の面白いお婆さんは長い間鬼の家に留つて[やぶちゃん注:「とどまつて」。]、每日鬼や其の仲間達みんなに御飯拵へをしてやりました。鬼は決してお婆さんをひどい目に會はしりおどかしたりしませんし、お婆さんの仕事は例の摩訶不思議な杓文子のお蔭で大層樂に捗取りました[やぶちゃん注:「はかどりました」。]――尤もお婆さんはそれはそれは隨分澤山のお米を炊かなければなりませんでした、何しろ鬼の食べる事といつたらどんな人間の食べるのよりずつと澤山なのですから。

 けれどもお婆さんは淋しかつたのです、そしていつも自分の小さい家に歸りたくて、團子が拵へたくてたまりませんでした。それで或る日、鬼共が殘らず何處かへ出掛けた時、お婆さんは逃げて見ようと考へました。

 お婆さんは先づあの魔法の杓文子を取つて、それを帶の下に挾みました、それから川まで下りて行きました。誰も見てゐません、小舟も其處にりました。お婆さんはそれに乘つてせつせと漕ぎ出しましたが、漕ぐのは中々上手でしたから、直きに岸から遠く離れて行つたのです。

 けれども川は大變廣くて、未だ四分の一も漕ぎ渡らない頃、鬼は、みんな揃つて、家に歸つて來ました。さあおさんどんがゐなくなつた、魔法の杓文子も無くなつたといふ始末です。みんなは直ぐ川まで駈け下りました、見るとお婆さんが大急ぎで向うへ漕いで行くところです。

[やぶちゃん注:「おさんどん」台所仕事、或いは、台所仕事をする下女を指す。語源には諸説あって定めにくいが、江戸時代、町家の台所仕事をする下女に「お三」とよばれる者が多く、名前の下に添える丁寧語「どん」をつけて、「お三どん」と呼び習わされていたことから、転じて、台所仕事をいうとするのが通説である。また「お三」については、大奥の居間「御三の間」の略とも、竃(かまど)を言う「御爨」(おさん)の洒落とも、下司(げす)の老女の意、「長女」(をさめ)の転訛ともされる(以上は「日本大百科全書」に拠った)。]

 多分鬼共は泳げなかつたのでせう。何しろ舟はありません。だからあの面白いお婆さんが向う岸に着かない內に捕まへるには川の水をすつかり呑み乾すより外に方法はないだらうと考へたのです。そこで鬼共は膝を突いて、大急ぎで呑み始めたのでお婆さんが未だ半分も渡り越さない內に、水嵩はずつと減つて仕舞ひました。

 然しお婆さんはどんどん漕ぎ續けてゐたのです、其の內水が大變に淺くなつたので鬼は呑むのをやめて、踏込んで[やぶちゃん注:「ふみこんで」或いは「ふんごんで」。私は後者で読みたい人種である。]渡り始めました。するとお婆さんは橈[やぶちゃん注:「かひ」。]を下ろし、帶から魔法の杓文子を取つて、鬼共に向つて打ち振りながら、それはそれはをかしな顏付をしたので鬼共はみんな吹き出しました。

 所が鬼共は、笑つた拍子に、こらへ切れなくて呑み込んだ水をすつかり吐き出して仕舞つたのです、そこで川はもとの通り充滿(いつぱい)になりました。鬼共はもう渡れません、それでお婆さんは無事に向う岸に着き、それから出來るだけ路を急いで逃げて行きました。お婆さんは息もつかずに走り續けてたうとう又自分の家に戾つて來ました。

 それから後、お婆さんは大層仕合せになりました、自分の思ふま〻にいつでも、團子が拵へられたからです。おまけに、お米の出來る魔法の杓文子を持つてゐたのです。お婆さんは近所の人達や通り掛りの人達にお團子を賣つて、ほんの僅かの間にお金持になりました。

 

2019/11/22

小泉八雲 猫を畫いた子供 (稻垣巖譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ The boy who drew cats 。但し、英文ウィキの「The boy who drew cats」によれば、小泉八雲の原タイトルは“ The Artist of Cats ”(「猫の芸術家」であったとある)は日本で長谷川武次郞によって刊行された『ちりめん本』の欧文和装の日本の御伽話の叢書“ Japanese fairy tale series の中の一篇である。同シリーズの第一期(英語で言うなら「First (Original) Series」)の№23(明治三一(一八九八)年八月一日刊)で、編集・発行者は長谷川武次郞。小泉八雲は当該シリーズに五作品が寄せている。以下、同シリーズや長谷川武次郞氏及び訳者稻垣巖氏については『小泉八雲 化け蜘蛛 (稻垣巖譯)/「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動』の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は、サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが画像と活字化した本文を併置していて、接続も容易で、使い勝手もよい。また、アメリカのアラモゴードの蒐集家George C. Baxley氏のサイト内のこちら(長谷川武次郎の「ちりめん本」の強力な書誌を附した現物リスト)の、The Boy Who Drew Cats Japanese Fairy Tale Rendered into English by Lafcadio Hearnも必見である。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月2日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の標題はここ。本作はここから。 但し、同底本の「あとがき」の田部隆次のそれには、『『日本お伽噺』一九〇二年東京、長谷川の出版にかかる繪入りの日本お伽噺叢書の第二十二册から第二十五册までになつて居る物である』とあって、初版のクレジットと異なるのが、不審である。

 

 なお、「京都外国語大学創立60周年記念稀覯書展示会 文明開化期のちりめん本と浮世絵」の本篇についての解説によれば、『「絵猫と鼠」として東北から中国・四国地方に知られる昔話を、ハーンが生き生きとした妖怪描写で訳述したものである。昔話では小僧がその後、その寺の住職になったとされるが、ハーンは小僧は高名な絵描きになったとしている。屏風』(猫を描いている小僧の絵の手前左にある大輪の花を描いた衝立屏風の右下であろう)『の絵に』「華邨(かそん)」『と書かれているため、絵師は鈴木華邨だとわかる』とある。「まんが日本昔ばなし~データベース~」に青森県採取として「絵ねことねずみ」が載る。これと類似した話は「猫寺」伝説として各地にあるらしい。鈴木華邨(安政七(一八六〇)年~大正八(一九一九)年)は日本画家。江戸生まれで名は惣太郎、別号に忍青。初め、円山派を中島享斎に師事し、菊池容斎の画風を学んだ。内国勧業博覧会で花紋賞牌を受賞するなど、各種博覧会・共進会で受賞を重ね、「日本画会」設立にも参加した。花鳥山水画で一家を成し、図案や挿絵にも画才を発揮した、と思文閣「美術人名辞典」にある。]

 

  猫を畫いた子供

 

 昔々、日本の小さい田舍村に、一人の貧乏な百姓と其の女房が住んでゐました、夫婦共極く良い人達でした。二人の間には子供が大勢あつて、それを皆育てて行くのは隨分骨の折れる事でした。年上の息子は中々丈夫な子で僅か十四の時立派にお父さんの手助けが出來ました、それから小さい女の子達はやつと步けるやうになるが早いかもうお母さんに手傳する事を覺えたのです。

 所が一番の年下の子供は、小さい男の子でしたが、どうも力仕事が適ひさうには思はれませんでした。大層賢い子で兄さん達や姉さん達誰よりも賢かつたのですが、至つて身體が弱くて小さかつたので、大して大きな男には迚も[やぶちゃん注:「とても」。]なれまいと言ふ評判でした。そこで兩親は、百姓になるより坊主になつた方があの子の爲めに良いだらうと考へたのです。或る日兩親は其の子を村の寺に連れて行つて、其處に住んでゐる親切な年取つた和尙に、もしお願ひが出來たら此の小伜[やぶちゃん注:「こせがれ」。]をお弟子として置いて下さるやうに、そして坊さんの心得をすつかり敎へてやつて下さるやうに、と賴みました。

 年寄は此の小童にやさしく言葉を掛けて、それから二つ三つむづかしい事を訊き質しました。其の答へが中々巧者だつたものですから和尙は小さい小僧を弟子として寺に引取り、坊さんになるやうに敎へ込んでやるといふ事を承知したのです。

 子供は老和尙の言ふ事は直ぐに覺えましたし、大槪の事はよく言付を守りました。けれども一つ惡い事がありました。勉强の時間中に好んで猫の畫を畫くのです、それに猫なぞ決して畫いてはならない所にまで好んで猫を畫くのです。

 どんな時であらうと自分獨りぎりになつたが最後、猫を畫きます。お經の本の緣[やぶちゃん注:「ふち」。]にも畫くし、寺の屛風衝立[やぶちゃん注:「ついたて」。]殘らずに畫く、さては壁といはず柱といはず幾つも幾つも猫を畫くのです。和尙は何遍となく良くない事だと言ひ聞かせましたが、どうしても畫くのを止めません。彼が猫を畫くのは本當のところ畫かずにはゐられないからでした。彼は『畫工(ゑかき)の天才』と言はれるものを持つてゐたので、全く其の爲めに寺の小坊主にはあまり向かなかつたのです、――良い小坊主といふものはお經本を習はなければならないものですから。

 或る日彼が唐紙の上にまことに上手な畫を畫いて仕舞つた後で、老和尙は嚴しく言ひ渡しました。『小僧よ、お前は直ぐに此の寺を出て行かねばならぬぞ。お前は決して良い和尙になるまいが、大方立派な畫工にはなる事ぢやらう。さて俺(わし)は最後に一言忠告をして進ぜる、堅く心に留めて忘るまいぞ。「夜は廣き所を避けよ、――狹きに留(とど)まれ」』

 其の子供は和尙が『廣き所を避けよ、――狹きに留まれ』と言つたのはどういう意味だか解りませんでした。彼は自分の着物を入れた小さい包を、出て行く爲めに括り[やぶちゃん注:「くくり」。]ながら、考へて考へ拔いたのですが、さう言つた言葉に合點が行きませんでした、けれども和尙にもうかれこれ口を利くのは恐いので、只左樣ならとだけ言つたのです。

 子供はしみじみ悲しく思ひながら寺を後にしましたが、さて自分はどうしたらいいのかと迷ひ始めました。もし其の儘家に歸れば察する所お父さんは和尙さんの言ふ事を聞かなかつたからと言つて自分を叱るにきまつてゐる、だから家に行くのは恐いと思つたのです。其の時不圖思ひ出したのは、十二哩[やぶちゃん注:「マイル」。十九・三一二キロメートル。]離れた隣村に、大層大きな寺があるといふ事でした。其の寺には大勢坊さんがゐると前から聞いてゐたのです、そこで其の坊さん達の所へ行つてお弟子入りを賴まうと彼は心を決めたのでした。

 さて其の大きな寺はもう閉め切つてあつたのですが、子供は其の事を知らなかつたのです。寺が閉された譯は、化物が坊さん達やおどかして追ひ出して仕舞ひ、自分が其處に住み込んで仕舞つたからです。幾人か氣の强い侍達が其後化物を退治に夜其の寺に出かけた事もありました、けれども其の人達の生きた姿は二度と見られませんでした。さういふ事を誰も其の子供に話した者は無かつたのです。――そこで彼は村を指して遠い路を步いて行きました、坊さん達にやさしく扱はれればいいがと思ひながら。

 村に着いた頃はもう暗くなつて、人は皆寢てゐましたが、目貫[やぶちゃん注:「めぬき」。「目抜き通り」の略異形。]の通りを外れた場末の丘にある大きな寺が彼の眼に止りました、それに寺の中に一つ明りが點いて[やぶちゃん注:「ついて」。]ゐるのも見たのです。かういふ話をする人達の言ふ事ですが、化物はよく明りをとぼして、賴り少い旅人共が泊りに來るやうに誘(をび[やぶちゃん注:ママ。「おび」が正しい。])き寄せるのださうです。子供は直ぐに寺に行つて、戶を叩きました。中には何の音もしません。それから何遍もトントン叩きましたが、矢張り誰も出て來ないのです。しまひにそーつと戶を押して見ました、すると其處は締まつてはゐない事が解つたので彼は大喜びしました。そこで中に入つて行きました、見ると明りがとぼつてゐるのです、――でも坊さんは居りません。

 彼は坊さんが直ぐ今にもやつて來るだらうと思つて、坐つて待つてゐました。其の時氣を付けて見るとどこもかしこも寺の中は埃で薄黑くなつてゐて、而も蜘蛛網[やぶちゃん注:「くものす」。]が一杯懸つてゐました。そこで彼はかう考へました、坊さん達は部屋を綺麗にして置かうと思つて、きつと喜んで小坊主の一人は置くに違ひないと。何故坊さん達が何でもかでも埃だらけの儘にして置くのか彼には不思議に思へました。けれども、何より氣に入つたのは、猫を畫くのに手頃の白い大屛風が幾つかあつた事です。疲れてはゐたのですが、彼は早速硯箱を探して、一つ見つけ出し、墨を磨つて、猫を畫き始めました。

 彼は屛風の上にそれはそれは隨分澤山の猫を畫きました、畫いて仕舞ふと眠くて眠くてたまらなくなつて來ました、眠らうと思つて屛風の傍に橫になりかけた丁度其時です、不圖彼は『廣き所を避けよ、――狹きに留まれ』といふあの言葉を思ひ出しました。

 寺は大變廣かつたのです、彼は全く獨りぼつちです、それで今此の言葉を思ひ出した時――言葉の意味はよく解らなかつたけれど――始めて少し恐くなつて來たのです。そこで『狹い所』を探して眠らうといふ事に決めました。彼は滑戶の附いてゐる小さい部屋を見つけ、其處へ行つて、自分を閉め込んで仕舞つたのです。それから橫になつてグツスリ寢込みました。

[やぶちゃん注:「滑戶」ママ。原文“sliding door”。「すべりど」としか読めないが、所持する小学館「日本国語大辞典」にも、「言海」にも所収しない。しかし、まあ、板戸か襖であろうが、小泉八雲は襖(唐紙)は“sliding screen”と英訳することが多いように思う。また、板戸では狭くはあろうが、シチュエーションとして真っ暗ら過ぎるし、展開に強い閉塞感が出てしまう(小泉八雲が想起したのは、それなのかも知れぬが)。挿絵(十七枚目)では障子のある小部屋である(板戸の戸袋では、絵にし難いからかも知れぬが)。私もここは障子のある、ごく狭い部屋としたい。それなら最初に点いていた妖しい灯火も効果的にも理解出来るし、何より、次の段落の内容と齟齬がないからである。

 夜も大分更けた頃太變な凄じい音――鬪つたり叫んだりする音――がして彼の眼を覺ましました。其の音は隨分激しかつたので彼は小部屋の𨻶間から覗く事さへ恐がつたのです[やぶちゃん注:「こはがつたのです」と読んでおく。]。恐ろしさに息を殺したまま、ぢつと寢てゐました。

 寺に點いてゐた明りは消えました、けれども物凄い音は續いて、而も段々物凄くなつて、寺中が搖れたのです。長い事經つてからひつそりしました、けれども子供は未だ動くのが恐かつたのです。彼は朝日の光が小さい戶の𨻶間から射し込んで來るまで身動きしませんでした。

 それから彼は隱れてゐた所からそつと拔け出して、あたりを見𢌞しました。眞先に眼に付いたのは寺の床がどこもかしこも血で一杯になつてゐる事でした。次に彼の見たのは、其の眞中に死んで橫たはつてゐる、途方もなく大きな、恐ろしい鼠――牛よりも大きな、化け鼠だつたのです。

 然し何人(だれ)が、それとも何物がそれを退治する事が出來たのでせう。其處には人も居らねば他の動物もゐませんでした。不圖子供は眼を留めました、自分が前の晚に畫いた猫といふ猫は皆其の口が血で赤く濡れてゐるのです。さては自分の畫いた猫共が此の化物を殺したのだなと彼は其の時悟りました。又、あの智惠のある老和尙が何故自分に、『夜は廣き所を避けよ、――狹きに留まれ』と言つて聞かせたかといふ事も、其の時始めて解つたのです。

 其の後其の子供は大層名高い畫工(ゑかき)になりました。日本に來る旅人達は今でも彼の畫いた猫がいくつか見られます。

 

小泉八雲 化け蜘蛛 (稻垣巖譯) / 「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ The Goblin Spider ”)は日本で「長谷川武次郞」によって刊行された『ちりめん本』の欧文和装の日本の御伽話の叢書“ Japanese fairy tale series ”の中の一篇である。同シリーズの「second series №1」(明治三二(一八九九)年四月十日刊)で、編集・発行者は長谷川武次郎。小泉八雲は当該シリーズに五作品が寄せている(以下の底本では“ The Fountain of Youth ”(「若返りの泉」)を除く四作が邦訳されている。“ The Fountain of Youth ”が何故、底本では除かれているかは不明である(一部のネット記載を見ると、これは小泉八雲の創作とされているとあり、それと関係するものか? よく判らない)サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらで“ The Fountain of Youth ”の「ちりめん本」の画像と活字化されたそれを読むことが出来る。なお、これは後日、私自身が和訳を試みたいと考えている)

 当該叢書の出版者で長谷川弘文社社主であった長谷川武次郎(嘉永六(一八五三)年~昭和一三(一九三八)年)は、「関西大学図書館 電子展示室」の「ちりめん本」の解説によれば、江戸日本橋の西宮家に生まれたが、二十五歳から母方の長谷川姓を名乗るようになった。『クリストファー・カロザースのミッションスクール(後の明治学院)やウィリアム・ホイットニー校長時代の銀座の商法講習所(後の一橋高商)に通ったことから、在日宣教師、知識人、外交官等との交友を広げ、国際的感覚を養った』。明治一七(一八八四)年に『長谷川弘文社として出版活動を始め』、翌明治十八年から、『ちりめん本の中でも最も有名な Japanese fairytale series の刊行を始める。これがちりめん本の流通の始まりである。当初』、『ちりめん本は、「童蒙に洋語を習熟せしむるため」という絵入自由新聞での広告文にもあるように、日本国内の人々、特に子どもの語学教育のため、というのが』、『その販売の第一義であったようだが、その意図からは外れて、外国人の日本滞在の土産物として重宝された』。『この Japanese fairy tale series は』、『ちりめん本の代名詞といってもよい存在で、内容は日本の昔噺が外国語訳されたものである』。『訳者には』小泉八雲が親しかった(但し、晩年は、小泉八雲の方が、距離をおいたようである)バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)の『名もあり、シリーズのほとんどの挿絵を担当した小林永濯』(えいたく 天保一四(一八四三)年~明治二三(一八九〇)年:浮世絵師・日本画家。但し、没年から小泉八雲の英訳の挿絵画家ではない)『の挿絵の美しさもあってか、今や Japanese fairy tale series イコールちりめん本と捉えられているというのが実際である』とある。

 また、「放送大学図書館」公式サイト内の「ちりめん本」には、以下のような説明がある。『明治時代に新しい絵本が生まれました。それは江戸赤本の伝統を汲むものでしたが、和紙を使用し、木版多色刷りで挿絵を入れ、文章を活版で印刷し、縮緬布』(ちりめんぬの)『のような風合を持った絵入り本で、ちりめん本と呼ばれる欧文和装本でした』。『ちりめん本の生みの親、長谷川武次郎は』『当時の日本では英語を取得することが学問や商売にとって必須と考え』、明治二(一八六九)年十六歳で早くも『英語を学び始めました。彼は近代商業についても学び、貿易や出版に関する知識も習得していきました。商人としてばかりでなく、彼はちりめん本を作る職人達を取りまとめる才にも長け、英語を駆使して翻訳者と交渉し、国際出版の礎を築いていったのです』。『こうして』、明治一八(一八八五)年『初秋、武次郎の努力によって「桃太郎」や「舌切雀」等を筆頭に、英文による「昔噺集」が生まれ、日本の出版業界が新しい時代への一歩を踏み出したのです』。『ちりめん本「日本昔噺集」では英語版の他にフランス語版、スペイン語版、ポルトガル語版及びドイツ語版などが出版されました。表紙を比べると、各版とも同じ絵柄に見えますが、細部や刷り色などは微妙に違っています』とある。

 なお、この「ちりめん本」というのは「縮緬本」で、和紙に多色摺りしたものを縮緬状にしたもの(英語「クレープ・ペーパー」(crepe paper))で、手触りも実際の絹の縮緬の風合いに近い、ふっくらとした暖かみのある本である。

 本篇は画像としては、複数の箇所で視認出来る。個人的には原本の感じを味わうなら、

「ヘルン文庫」のこちらの「単頁」のPDFファイルのダウン・ロードがお勧め

である。他に、

サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちら

が画像活字化した本文を併置していて、接続も容易で、使い勝手もよかろう。また、今までも、お世話になってきている、

“Internet Archive”のこちら

でも全篇視認できる(ただ気になることがある。この奥付では、上記のクレジットと同じであるにも拘わらず『再版第一號』とあることである。何らかの理由があって、その日のうちに初版分を打ち切り、再版を、また、印刷したということらしい)。また、

アメリカのアラモゴードの蒐集家 George C. Baxley 氏のサイト内のこちら(長谷川武次郎の「ちりめん本」の強力な書誌を附した現物リスト)の、

The Goblin Spider Japanese Fairy Tales Second Series, No. 1, c1910 Reprint

も必見である。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月2日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の標題はここ。本作はここから。 但し、同底本の「あとがき」の田部隆次のそれには、『『日本お伽噺』一九〇二年東京、長谷川の出版にかかる繪入りの日本お伽噺叢書の第二十二册から第二十五册までになつて居る物である』とあって、初版のクレジットと異なるのが、不審である。

 訳者稻垣巖(いながきいわお 明治三〇(一八九七)年二月十五日~昭和一二(一九三七)年:パブリック・ドメイン)は小泉八雲の次男で、元京都府立桃山中学校英語科教員。明治三四(一九〇一)年九月に母セツの養家であった稲垣家へ養子縁組されて稲垣姓となった。大正九(一九二〇)年六月、岡山第六高等学校第二部甲類卒業後、翌七月に京都帝国大学工学部電気工学科入学、その後、転部したか、昭和二(一九二七)年三月に京都帝国大学文学部英文科選科を修了し、昭和三(一九二八)年四月、京都府立桃山中学校(現在の京都府立桃山高等学校)へ英語教師として赴任している。「青空文庫」で「父八雲を語る」(新字正仮名。初出はラジオ放送「父八雲を語る」で昭和九(一九三四)年十一月十五日とする)が読める。

 年経た蜘蛛が、化け物と化する話は、枚挙に暇がない。私の「怪奇談集」「怪奇談集Ⅱ」にも、そうした話は、幾つもある。また、本篇も紹介してある私の『柴田宵曲 妖異博物館 「蜘蛛の網」』も参照されたいが、実は本篇の原拠となるものと思われる、展開の酷似した江戸期の怪談を、私は確かに読んだ記憶があるのだが、思い出せない(怪奇談に博覧強記であった柴田氏も原拠を挙げていない)。見出したら、追記する。

 なお、本『日本お伽噺』に限っては、小学生高学年の読者を想定して、特異的に本文の彼らには難読であろうと判断した語には、注で読みを添えた。]

 

 

   日本お伽噺

 

 

  化け蜘蛛

 

 舊い舊い本に書いてありますが日本には澤山化け蜘蛛[やぶちゃん注:「ばけぐも」。]がゐたものだといふ事です。

 人によつては化け蜘蛛が今でもいくらか居ると言ひきる者もあります。晝間は見たところ普通の蜘蛛そつくりですが、然し夜も大分更けて、人々は寢靜まり、何の音もしなくなると、それはそれは隨分大きくなり、色々恐ろしい事を爲(し)でかすのです。化け蜘蛛は又、人間の姿になるといふ――人を魅(ばか)す爲めにですが――不思議な力を具へてゐるとも考へられてゐます。さてかういふ蜘蛛に就いて一つ名高い日本の話があるのです。

 昔、或る田舍の淋しい所に一軒の化物寺がありました。其處を巢にしてゐる化物の爲めに誰一人として其の家に住む事は出來ませんでした。氣の强い侍達が大勢化物を退治するつもりで何遍も何遍も其處へ出かけました。けれども寺に足を踏み入れたら最後二度と音沙汰はなかつたのです。

 たうとう一人、度胸があつて拔目がないといふので人に知られてゐた侍が、寺に出かけて夜の間窺つて[やぶちゃん注:「うかがつて」。]見ようといふ事になりました。侍は其處[やぶちゃん注:「そこ」。]へ自分を連れて來た人達に向つて言ひました。『萬一拙者[やぶちゃん注:「せつしや」。]が明朝に至るも猶ほ生存致すに於ては、寺の太鼓を打鳴らして告げ參らすで御座らう』それから侍は一人後に殘つて、手燭の光をたよりに見張りをしてゐました。

 夜が更けて來ると侍は、埃[やぶちゃん注:「ほこり」。]だらけの佛像の置いてある須彌壇の下にぢつと蹲りました。何も變つたものも見えず何の物音も聞えぬままやがて眞夜中は過ぎたのです。すると其處へ化物がやつて來ました、身體は半分で眼は一つしかありません、それが『人臭い』と言ふのです。けれども侍は身動きしませんでした。化物は行つて仕舞ひました。

[やぶちゃん注:「須彌壇」(しゆみだん(しゅみだん))は仏像を安置する台座のこと。須弥山(サンスクリット語ラテン文字転写「Sumeru」)の漢音写。「妙高山」(みょうこうせん)と意漢訳したりもする。古代インドの世界観が仏教に取り入れられたもので、世界の中心に聳えるという高山。この山を中心に、七重に山が取り巻き、山と山との間に七つの海があり、一番外側の海を「鐵圍山」(てっちせん)が囲む。この外海の四方に「四大州」が広がり、その南の「閻浮提」(えんぶだい:同前の「Jambu-dvīpa」の漢音写。「閻浮樹」が生えているとされ、本来はインドを指した。「閻浮洲」 (えんぶしゅう) ・「南閻浮提」・「南贍部洲」 (なんせんぶしゅう) とも言う。人間はこの平地に生きているとされ、その頂上は帝釈天の地で、四天王や諸天が階層を異にして住み分け、日月が周囲を回転するとする)を象ったものとされる。一般には四角形で重層式である。]

 すると今度は一人の坊主がやつて來て三味線を彈き[やぶちゃん注:「ひき」。]ましたが其の手際は全く驚くばかりなのでこれは人間の業ではないと侍は確かに見て取つたのです。そこで侍は刀を拔いて飛び起きました。坊主は、侍を見ながら、カラカラと笑つて、かう言ひました。『さては愚僧を妖怪と思召されたか。いやいや。愚僧は此の寺の和尙に過ぎんのぢや。妖怪共を近づけぬ爲め彈かねばならぬが喃。どうぢやな此の三味線は美事な音が致すであらうが。どれ所望ぢやほんの一曲彈いて御覽ぢやれ』

[やぶちゃん注:「喃」は「のう」。感動詞で呼びかけの語。「もし」。但し、訳文としては「……ならぬが、のう、どうじやな……」とする方がよかろうか。]

  さう言つて坊主は其の鳴物を差し出しましたが、侍は極く用心深く左の手でそれを摑んだ[やぶちゃん注:「つかんだ」。]のです。所が忽ち[やぶちゃん注:「たちまち」。]三味線は恐ろしく大きな蜘蛛網(くものす)に變り、坊主は化け蜘蛛に變りました。そして侍は自分の力の手が緊く[やぶちゃん注:「きつく」。]蜘蛛網に絡まれたのに氣が付きました。彼は雄々しく立ち向つて、蜘蛛を刀で切り付け、手傷を負はしたのです、けれども直きに網の中に後から後からと卷き付けられて仕舞つて、身動きも出來なくなりました。

 然し、手傷を負つた蜘蛛は這ひ[やぶちゃん注:「はひ」。]去りました、そして日は昇つたのです。間もなく人々がやつて來て恐ろしい網に卷かれてゐる侍を見つけ、無事に助け出しました。皆は床の上に幾つも落ちてゐる血の滴りが眼に付いたので、其の跡を隨(つ)けて寺から出て行き荒れ果てた庭に在る穴の所まで來ました。其の穴からは身の毛のよだつやうな呻き[やぶちゃん注:「うめき」。]聲が聞えて來るのです。皆は穴の中に手傷を負つた蜘蛛を見付けて、それを退治しました。

 

小泉八雲 永遠の執着者 (岡田哲藏譯) / 作品集「異國情趣と囘顧」~電子化注完遂

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ The Eternal Haunter ”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第二パート“ RETROSPECTIVES ”の最終の第十話(作品集の掉尾)である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月2日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲藏訳)/作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「﹅」は太字に、傍点「○」は太字下線に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   永遠の執着者

 

 今年の東京の彩色版畫――錦繪――は異常の興味あるものと私に思はれる。それ等の畫は初期の大版刷の色彩の魅力を再現する、または殆ど再現する、そして線描に於ては著しい進步を示す。たしかに今の季節の最も良い版畫より綺麗な何物も望み難い。

[やぶちゃん注:「錦繪」浮世絵版画の版様式の一つ。明和二(一七六五)年に江戸で大流行した絵暦(えごよみ)交換会を機に、飛躍的に進歩した多色摺り木版画を指し、初期の三色程度の多色摺りは「紅摺り絵」とよんで区別する。「錦のように美麗な絵」の意であるが、当時おもに上方で「押し絵」(布細工による貼り絵の一種。下絵を描いた厚紙(主に板目紙を用いる)を細かい部分に分けて切り抜き、それぞれの部位に適した色質の布片で包(くる)み(ときに綿を入れて膨らみを持たせる)、それらを元の図柄に合わせて再編成して製作する。布や綿の質感によって薄肉のレリーフのような立体感が生まれる)を「錦絵」と呼んでいたことから、それと区別して対抗する意図から「東(あずま:吾妻)錦絵」と命名されたらしい。まもなく単に「錦絵」とも呼ばれるようになった。錦絵は、下絵を描く絵師と、彫師・摺師・版元・さらに好事家の協力による世界でも稀に見る紙製の総合芸術であるが、絵師では鈴木春信が最も深く関与し、貢献したため、彼を創始者とすることもある。以後、その優れた色彩美と表現力によって急速に発展普及し、安永九(一七八〇)年頃以降は錦絵以外の浮世絵版画は殆んど制作されなくなり、江戸後期から明治期に於いては、浮世絵版画と錦絵はほぼ同意語となった。技法上も種々の改良や工夫が加えられて、十九世紀に入ると数十色もの色版を使ったものも現れて、幕末にはその極限に達した(ここまでは小学館「日本大百科全書」に拠る。ここより以下近世末から近代部分はウィキの「錦絵」を使用した)。春信は明和七(一七七〇)年)に『急死するが、その後、美人画では北尾重政のよりリアルな表現が後の浮世絵師たちに多くの影響を与え、役者絵では、勝川春章や一筆斎文調らが、従来の鳥居派のものとは異なる独自の作品を描いていった。安永後期から天明の頃には役者絵は勝川派が独占、春章を始め、彼の門人の勝川春英や勝川春好らが活躍している。また、寛政期になると、美人画においては喜多川歌麿を輩出、世間は歌麿風美人画の全盛期となるが』、寛政二(一七九〇)年に『浮世絵の表現内容を検閲する改印制度ができ』、『その出版に様々な禁令が出た。同じ時期、旗本出身の鳥文斎栄之は高雅で気品の溢れる清楚な美人画をえがいて歌麿に拮抗、門人の栄昌、栄里、栄水、栄深らは歌麿の影響を受けた美人画で、また栄松斎長喜も独自の個性によって時代を謳歌した。役者絵においては東洲斎写楽らを輩出、大首絵が流行している。この写楽の真に迫る役者絵は歌川豊国、歌川国政らに影響を及ぼしている』。文化三(一八〇六)年、『歌麿が急死したが、大衆は未だ歌麿の美人画を求めており、そこに菊川英山が歌麿晩年風の美人画で登場、若干弱くはかなげな女性を描いて人気を得たが、文政になると、大衆は歌川国貞、渓斎英泉の描く粋で婀娜っぽい美人画を好むようになっていった。一方、文政末期には歌川国芳が『水滸伝』の登場人物をシリーズで描き、空前の水滸伝ブームを巻き起こしたほか、武者絵、美人画、戯画など多方面に活躍したほか、葛飾北斎や歌川広重らによって従来の浮絵とは異なる風景画が描かれるようになった。また』、安政六(一八五九)年に『横浜が開港されると、歌川貞秀らは横浜絵を制作、明治初期にかけて一大ブームとなった』。『明治期になると、文明開化に応じて楊洲周延、落合芳幾』(よしいく)、三『代目歌川広重』、二『代目歌川国輝らが赤を強調した開化絵を描いたほか、具足屋を版元とし、芳幾が絵を描いた』明治七(一八七四)年『発刊の『東京日々新聞』や』、明治八(一八七五)年に『月岡芳年が絵を描いた錦昇堂による『郵便報知新聞』などにおいて新聞錦絵に筆をとったが、この流行は長続きせず、数年で衰退していった。また』、明治九(一八七六)年に『小林清親がモノトーンで叙情性のある光線画を発表すると、井上安治や小倉柳村、大阪の野村芳圀に影響を与えたが、折からの国粋主義台頭により、その流行も』明治一三(一八八〇)年には『消滅した。そのほか』、明治二七(一八九四)年に『勃発した日清戦争や』、明治三七(一九〇四)年に『起こった日露戦争に応じて清親のほか、水野年方、右田年英らが報道画としての戦争絵を残しているが、この日露戦争のころが錦絵最後のブームであった』(☜小泉八雲は明治三七(一九〇四)年九月二十六日没である)。一方、明治三三(一九〇〇)年十月に『私製の絵葉書の発行が許可されると』、『まずは雑誌の付録として石版の絵葉書が制作されるようになり、日露戦争の頃には彩色木版による絵葉書も多数発行されるようになり、木版画の一枚物を代表する商品となっていった。木版画による絵葉書では山本昇雲、小原古邨の花鳥画、坂巻耕漁の風景画などが制作された。当時、流行の石版画家として知られていた山本昇雲が』明治三九(一九〇六)年から明治四二(一九〇九)年に『かけて歌川派のものと異なる美人画「今すがた」シリーズを発表しても、時勢の流れに逆らえず、錦絵は衰退していった。このような中、職を失いつつあった彫師や摺師ら職人の生活維持のために新しい仕事の開拓が急務となっており、そこで活路を見出したのが文芸書の雑誌、単行本出版との提携であり、即ち、活字文化との提携であった。具体的には口絵や挿絵、表紙絵に伝統木版画を使用することが特に活発化していった』。『大正初期の主要な絵師には前述の山本昇雲、小原古邨、坂巻耕漁らが挙げられるが、錦絵全体の出版点数は大幅に減っており、相撲絵や能楽絵以外の出版物では絵葉書などが一枚物を代表するようになっていった。ほかには歌川国松らが千社札を描いたり、笠井鳳斎が大正大礼の錦絵を描いている。また』、大正一〇(一九二一)年には『右田年英』(みぎたとしひで)『が年英随筆刊行会を結成し、『年英随筆』という画集を出版している』しかし、大正一二(一九二三)年九月一日に『起こった関東大震災によって大半の版元が全滅となり、それと同時に錦絵は終焉を迎えた』とある。]

 最近に私が買ひ求めたのは怪異の硏究の一組であつて、――極東で知られた各種の怪を含み、西洋にまだ知られぬ變種もあつた。或るものは極度に不快であるが、少數のものは眞に人を魅する。例へばここに、いま出たばかりで僅か三錢といふ特價で賣られる『ちかのぶ』作のうまいのが一つある。

 

譯者註 『ちかのぶ』は明治時代の浮世繪師揚州周延ならむ。

[やぶちゃん注:浮世絵師楊洲周延(ようしゅうちかのぶ(歴史的仮名遣「やうしうちかのぶ」) 天保九(一八三八)年~大正元(一九一二)年)はウィキの「楊洲周延」によれば、『作画期は幕末動乱期の混乱を挟みつつも』文久頃(一八六一年~一八六四年)から明治四〇(一九〇七)年頃までの約四十五年に及び、美人画に優れ、三枚続きの風俗画を得意とした。『歌川国芳、三代歌川豊国及び豊原国周の門人。姓は橋本、通称は作太郎、諱は直義。楊洲、楊洲斎、一鶴斎と号す』。『越後国高田藩(現新潟県上越市)江戸詰の下級藩士橋本弥八郎直恕(なおひろ』『)の長男として生まれる。ただし、出身地が高田と江戸のどちらかは不明』。『弥八郎は中間頭を務め、徒目付を兼任した』。文久二(一八六二)年の『記録によれば』、二十五『歳の周延も「帳付」』『という役職についている』。『周延は、幼い頃に天然痘にかかり』、『あばた顔だったため写真嫌いで、亡くなった時も写真は』一『枚も無かったという』。『幼少時は狩野派を学んだようだが、その後浮世絵に転じて渓斎英泉の門人(誰かは不明)につき』、嘉永五(一八五二)年十五歳で『国芳に絵を学んで、芳鶴(』二『代目)を名乗る』『(有署名作品は未確認)』。文久元(一八六一)年に『国芳が没すると』、『三代目豊国につき』、『二代目歌川芳鶴、一鶴斎芳鶴と称して』『浮世絵師となった。さらに豊国が』元治元(一八六四)年十二月に『亡くなると、豊国門下の豊原国周』(くにちか)門『に転じて』、『周延と号した』。慶応元(一八六五)年、『幕府の第二次長州征討に従軍し、行軍する藩士らの様子を「長州征討行軍図」で色彩豊かに描いている』。慶応三年、『橋本家の家督を相続した』。同年五月六日、『国周が日本橋音羽町に建てた新宅開きの日に、酔った河鍋暁斎が国周の顔に墨を塗りたくって大騒ぎとなった。この時、怒った周延が刀を抜いて暁斎に切ってしまうぞと飛びかかり、暁斎は垣根を破って逃げ、中橋の紅葉川の跡に落ちてドブネズミのようになったという』。『錦絵では慶応』三『年正月刊の豊原国周の「肩入人気くらべ」(大判』三『枚続)中に人物を補筆したのが早いものであろう』。『幕末の動乱期には高田藩江戸詰藩士が結成した神木隊』(しんぼくたい)『に属し、慶応四(一八六八)年五月、『上野彰義隊に加わる』も、八月、『朝日丸で品川沖を脱走、すぐに長鯨丸』(ちょうげいまる)『に乗り換え』、十一月、『北海道の福島に上陸、陸路で箱館を目指し』、翌一月五日、『亀田村に到着。榎本武揚麾下の滝川具綏』(たきがわともやす)『指揮第一大隊四番小隊のもとで官軍と戦ったが』、三『月の宮古湾海戦において回天丸に乗り込んで戦い』、『重傷を負う。戊辰戦争終結後に降服、未だ傷が癒えていなかったため』、『鳳凰丸で』明治二(一八六九)年八月に『東京へ送られ、高田藩預かりとなった。故郷の高田で兵部省よりの禁錮』五十『日、高田藩から家禄半知または降格、あるいは隠居廃人の処分を受けた。この時、高田の絵師・青木昆山らと交流を深めている』。『その後、いつ頃かは不明だが東京に戻』り、明治一〇(一八七七)年から明治一三(一八八〇)年には『上野北大門町におり』、『以降は作画に精励した。当初は武者絵や「征韓論之図」、「鹿児島城激戦之図」などといった西南戦争の絵を描いて評判を取る。明治』十『年代からは宮廷画を多く描いており、晩年にかけて大判』三『枚続の「皇后宮還幸宮御渡海図」、「皇子御降誕之図」、「今様振園の遊」などを残』している。明治一五(一八八二)年には『橋本周延として第』一『回内国絵画共進会に出品した作品が褒状を受けている。なお、』同年には、『明治天皇及びその家族を錦絵化することは禁止された。また』、明治十七年に催された第二回『内国絵画共進会では「人物」、「景色」が銅章を受けている。同年から明治』二十四『年には湯島天神町』『に住んでいた』。明治二八(一八九五)年から明治三〇(一八九七)年に『かけて、江戸っ子が知らない江戸城の「御表」と「大奥」を』三『枚続の豪華版の錦絵で発行、江戸城大奥の風俗画や明治開化期の婦人風俗画などを描き、江戸浮世絵の再来と大変な人気を博した。代表作として「真美人」大判』三十六『図、「時代かがみ」、「大川渡し舟」などの他、「千代田の大奥」』百七『枚、「千代田の御表」』百十五枚(三枚続き、五枚続き、六枚続きもある)、「温故東之花(おんこあずまのはな)」などの、『江戸時代には描くことができなかった徳川大奥や幕府の行事を記録したシリーズ物は貴重な作品として挙げられ、特に「千代田の大奥」は当時ベストセラーとなった。なお「千代田の大奥」には種本が存在する。永島今四郎・太田義雄』作に成る「朝屋叢書 千代田城大奥 上下」(朝野新聞社・明治二五(一八九二)年)が『それで、「千代田の大奥」の個々の錦絵に付けられた画題と、『千代田城大奥』の項目が一致する』。明治三十年に開催された『第一回日本絵画協会共進会に出品し、三等褒状を受けている』。『また明治維新後は、「外国と対等に付き合うには女性も洋服を着なければならない」と公の場では華族や新政府の高官の夫人、令嬢は華やかなロングドレスを身に纏うようになった』が、『周延は、女性の注目を集めたこのニューファッションを取上げて錦絵に描いた。例として「チャリネ大曲馬御遊覧ノ図」や「倭錦春乃寿」、「女官洋服裁縫之図」などといった宮廷貴顕の図があげられ、周延はこれらも多く描いている。これにより、周延は明治期で人気一番の美人画絵師となっている。ただし』、『この文明開化の新時代に浮世絵に描かれた女性たちは、その髪型や着るものは新しいデザインであっても、その容貌は未だ江戸美人のままであった。美人画以外にも子供絵、歴史画、国周の流れをくむ役者絵、挿絵などの作品があり、周延の錦絵の作品数は錦絵』八百二十『点、版本』三十種と『と多数に上り、数少ない優れた明治浮世絵師の中においても屈指の人であった。周延が生涯を通して最も力を注いだのは宮廷官女、大奥風俗を含む美人風俗であり、時代を反映した優れた作品群があった』。なお、逝去から二ヶ月後、『池袋の本立寺に「神木隊戊辰戦争之碑」が建立された。その建設者名の冒頭に』は、『本名である橋本直義』の名が『刻まれており、周延が最後に成そうとしたのは』、『先に亡くなった神木隊同士たちの慰霊だった事がわかる』とある。彼の作品は「山田書店」公式サイト内のこちらで三百三十七点に及ぶ多くのそれを視認することが出来る但し、以下に示す幽霊画は残念ながら見当たらない。他にも画像で検索して見たが、発見出来なかった。題名を御存じの方は御教授願いたい。

 諸君はそれは何を描いて居るのか推察されるか……左樣、一人の娘、――然し何等の娘。[やぶちゃん注:原文“but what kind of a girl?”。「しかし、如何なる娘であるか?」。]少しそれを硏究せられよ。……下を向いた眼元に内氣の愛嬌がこぼれ、――羽をやすめて居る蝶の樣な、あの輕さうなそして好ましい優美を具へた彼女はほんとに愛らしいではないか。……否、彼女は、諸君がいふ樣な意味での、最も東のはてのサイケ[やぶちゃん注:原文“Psyche”。ギリシア神話に登場する人間の娘プシューケー(ラテン文字転写:Psȳchē:古代ギリシア語では「気息・心・魂・蝶」を意味する)。愛の神エロス(キューピッド)の妻。女神アフロディテによってさまざまの苦難に遇わされたが、ゼウスの力で幸福を得た。後世、画題として好まれた美女である。英語の「psychology」(心理学)などはこれに由来する。英語では「サイキ」とも発音する。]の樣なものでは無くて――彼女は一の魂である。上の枝から落ち散る櫻花は、彼女の姿の中を通り過ぎて居るのを見よ。又下の方の彼女の衣裳の襞は、靑い微かな霞に消えて居るのを見よ。全體が如何に微妙で煙霧の樣である事ぞ。それが人に春の感じを起こさせる、そして凡てそれ等の仙境の樣な色は日本の春の曙の色である……否、彼女は何れの季節の人格化でも無い。寧ろ彼女は夢である――極東の若人の眠につき纏ふ樣な夢である、然し畫家は彼女に夢を現はさせ樣としたのではない……諸君は推察されぬか。さあ、彼女は樹の精である、――櫻木の精。曙または、夕暮の薄光のうちにのみ、彼女は木を脫け出でて現はれる、――そして彼女を見た人は誰れでも彼女を愛せずには居られぬ。然し近く寄ると、彼女は吸はれた霧の樣に幹のうちに消ゆる。樹の精が或る男を慕つて、彼の爲めに一人の男の子を生んだ談があるが、かかる行ひは彼女の種族の內氣な習ひに頗る外づれたものであつた……

[やぶちゃん注:最も知られた芸能物では、私も大好きな浄瑠璃「卅三間堂棟由來」(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)であろう(文政八(一八二五)年・大坂御霊境内初演。若竹笛躬(ふえみ)・中邑阿契(なかむらあけい)の合作。但し、宝暦一〇(一七六〇)年月豊竹座初演の「祇園女御九重錦(ぎおんにょうごここのえにしき)」(全五段)の内、三段目「平太郞住家」「木遣音頭」(きやりおんど)を独立させて改題したもの。通称「柳」(やなぎ)」。横曽根(よこそね)平太郎と契り、一子緑丸(みどりまる)をもうけた妻お柳(りゅう)は、実は柳の古木の精であったが、白河法皇の病気の原因を除くため、その柳を切って三十三間堂の棟木にすることになったことから、夫と子に別れを告げて去る。切り倒された柳の大木は運ばれる途中で、お柳の思いが残って動かなくなるが、平太郎父子の木遣音頭によって、静かに引かれてゆくという話である。小泉八雲には同じく柳の精と契る「靑柳の話」(私の『小泉八雲 靑柳のはなし (田部隆次譯) 附・「多滿寸太禮」の「柳情靈妖」』を参照)があるが、そこでは子はもうけていないので、違う。]

 諸君は不可能を描く要は何處にあると問はる〻か。さる問を發するのは諸君が若さのこの幻、――春のこの夢の能力を感ぜぬことを證する。私は不可能は[やぶちゃん注:底本の傍点「ヽ」はママ。前の「不可能を」に徵するに、「不可能は」に打ったものが誤植された可能性が疑われる。]我々が現實及び平凡と呼ぶものの多數よりも、もつと事實に密接な關係を有つと主張する。不可能は赤裸の眞理で無いかも知れぬ、然し私はそれは通常、假面や面被を冠つて居るとしても[やぶちゃん注:「面被」は「めんぴ」と読んでおくが、ここは“masked and veiled”であるから、「ヴェール」と読みたいのが私の本心である。平井先生も『ヴェール』である。]、永遠の眞理であると思ふ。さて私にはこの日本の夢は眞である、――少くとも人間愛が眞である如く眞である。精靈として考へてすらそれは眞である。何等の精靈を信ぜぬと稱する人は己が心に僞をいうて居る。誰れでも精靈に憑かれる。そしてこの彩色版畫は、我々が皆知つて居る精靈を我々に思はせる、――たとひ我々の多數(詩人を除く)はその知己[やぶちゃん注:原文“acquaintance”。「知り合い」(がいること)。]を告白することを欲せぬけれども。

 

 恐らくは――それが我々の多數にさうなるのであるから――諸君はこの執着者を、小兒の時なりと、夜の夢に見たかも知れぬ。勿論、その時、諸君の息んで[やぶちゃん注:「やすんで」。]居る上に、身を屈める美しい姿を諸君は知り得なかつた、恐らく諸君は彼女を天使であるか、または死せる姉妹の魂であると思つたであらう。然し生の目覺めの時に、我々は初めて彼女の存在を注意する樣になる。それは小兒が靑年に成熟し始める頃である。

 この初めての彼女の出現は歡喜の衝動、息もとまる悅樂である、然し驚異と快樂との後には直に名狀し難い悲哀、――以前に感じた何れの悲哀とも全く異る――が迫り來る、たとひ彼女の目にはただ愛撫があり、彼女の脣には最も微妙の笑[やぶちゃん注:「ゑみ」。]があるけれども。そして諸君は彼女の誰れなるかを知るまでは、――それを知るは容易では無いが――その感情の理由を想像し得ぬ。

 彼女は唯だ一瞬時止まる、然しその光彩の瞬時の間に、我々の存在の一切の潮が立つて、何の言にも云はれぬ憧憬を以て彼女の方に流れかかる。そしてその時――突如――彼女は居なくなる、そして我々は日が影になり、世界の色は灰色になつたのを知る。

 それから後、魅力は我々と我々が以前に愛したもの、――人間又は物又は場所、――との間に殘る。それ等の何物もまたそのかみの如くもう近くさう親しくは見えぬであらう。

  度々彼女は還つて來よう。我々が一度彼女を見た上は、彼女は決して尋ねて來る事を止めぬであらう。そして此執着、――言にいひ難い程甘美で、現はされぬ程悲哀なる――が我々に彼女に似たる誰れかを求めて世界を遍歷したいといふ輕忽[やぶちゃん注:「けいこつ/きやうこつ(きょうこつ)。「輕率」に同じい。]な願を抱かすかも知れぬ。然し如何に長く如何に遠く我々は徨うても、その誰れかを決して見出さぬであらう。

 後には彼女の訪ひ來るのが恐ろしくなるかもしれぬ、それは苦痛、――了解の出來ぬ不思議な苦痛、――を伴なふからである。然し地帶を距て[やぶちゃん注:「へだて」。]、海を越えても我々は彼女から離れ得ぬ、絕壁も彼女を阻まぬ[やぶちゃん注:「はばまぬ」。]。彼女の動作はエーテルの振動の如く音無く且つ微妙である。

[やぶちゃん注:「エーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次譯)」の私の注を参照されたい。]

 彼女の美は人の心の如く昔のもの、――されどいつも美しく成り勝さり、永遠に若さを保つ。人間は秋の霜に草の枯る〻如くのうちに凋む、然しのみが彼女の無終の若さの輝きと花とを照らす。

 凡ての男は彼女を愛した、――凡てが彼女を愛し續けねばならぬ。然し何人もその脣を彼女の衣の裾にだに觸れぬであらう。

 凡ての男が彼女を崇む、然し凡てを彼女は欺き、そして彼女の誑かし方は多端[やぶちゃん注:「たたん」。複雑で多方面に亙っていること。]である。最も屢〻彼女は己を慕ふものを或る地上の少女の前に誘ひ、そして判からぬ樣に彼女自らをその少女の體に混じ、そして全然人間の目視が神聖になり、――人の四肢がその衣を徹つて[やぶちゃん注:「とほつて」。]輝く樣な光彩を生ぜしめる。然し直ぐとまた光輝ある執着者は人間から彼女自らを離し、彼女に瞞された[やぶちゃん注:「だまされた」。]男をして感覺の嘲笑に驚かしむる。

 殆ど凡ての男が試みたけれども、何人も彼女を描き得ぬ。彼女は繪にならぬ、――彼女の美その物は不斷の變移、無限の多種で、光の流に押さる〻如く、永久の生氣で振動して居る爲めに。

 實は、數千年前に或る驚くべき彫刻家があつて、彼女の單一の似姿を石に刻み得たといふ談がある。然しこの業は多くの人の爲めに至上の悲哀の因となつた、そして神は、慈悲心から、他の如何なる人にも同じ驚異を成就する力を決して與ヘぬと宣告せられた。近頃我々は唯だ崇拜し得る、――我々は描くことは出來ぬ。

[やぶちゃん注:ギリシア神話の人物であるキュプロス島の王ピュグマリオン(ラテン文字転写:Pygmaliōn)は、自分の手で彫刻した象牙の女人像に恋し、アフロディテに、この像とそっくりの妻を与えたまえと祈ったところ、日に日に思慕のために衰弱してゆく彼を見かねたアフロディテが、命を吹き込み、生きた女性にガラテアに変っていた。彼は彼女と結婚し、パフォスという娘をもうけたとされ、また、彼は生涯をかけて神殿に祀るアフロディテ像を彫り続けたとされるが、小泉八雲が言っている話は、ちょっと違う。こういう伝承があるか、或いは、本篇のために創作したものか。識者の御教授を乞う。]

 然し彼女は誰れ、彼女は何。……あ〻、私はそれを諸君に尋ねようと思つた。彼女は名を有たなかつた、然し私は彼女を樹の精と呼ばう。

 日本人は我々が彼女を攘ひ[やぶちゃん注:「はらひ」。]除け得るといふ、――若し我々が殘酷なれば――唯だ彼女の樹を切り倒しさへすれば。

 然し私が云ふ[やぶちゃん注:底本は傍点「○」。]は攘ひ除けられぬ、――また彼女の樹を切り倒すことも出來ぬ。

 何故なれば彼女の樹は量も無く、時も無く、億萬の枝ある生命の樹、――正に世界の樹、イグドラシル、その根は夜と死のうちにあり、その頭は神々の上にある。

 

譯者註 イグドラシル(Yggdrasil)は北歐神話にある大木。その根は地獄にあり、梢は天に達し、枝は全地を掩ふ、ノルナと名附くる運命の三神その下に坐し人世の事件を編むといふ。

[やぶちゃん注:ユグドラシル(古ノルド語:Yggdrasill)は北欧神話に登場する一本の架空の木。「ユッグドラシル」「イグドラシル」とも表記する。ウィキの「ユグドラシル」によれば、『世界を体現する巨大な木であり、アースガルズ、ミズガルズ、ヨトゥンヘイム、ヘルヘイムなどの九つの世界を内包する存在とされる。そのような本質を捉えて英語では “World tree”、日本語では』「世界樹」「宇宙樹」等『と呼ばれる』。『ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」の「神々の黄昏(楽劇)」の冒頭「ワルキューレの岩」で第一のノルン(運命の女神)が「一人の大胆な神が水を飲みに泉にやって来て 永遠の叡智を得た代償に片方の目を差し出しました そして世界樹のトネリコの木から枝を一本折り その枝から槍の柄(つか)を作りました 長い年月とともに その枝の傷は 森のような大樹を弱らせました 葉が黄ばんで落ち 木はついに枯れてしまいました」と歌う』(シソ目モクセイ科トネリコ属 Fraxinus は実在する樹種で、しばしば、「ユグドラシルはトネリコである」とされるが、本邦のトネリコ Fraxinus japonica は本邦固有種であり、モデルではない)。『Yggdrasill という名前の由来には諸説あるが、最も有力な説ではその原義を“Ygg's horse”(恐るべき者の馬)とする。“Yggr”および“Ygg”は主神オーディンの数ある異名の一つで』、『三つの根が幹を支えている』。「グリームニルの言葉」(古ノルド語:Grímnismál:十七世紀に発見された北欧神話について語られた写本の中の「詩のエッダ」にある神話詩の一編)の第三十一『節によると、それぞれの下にヘルヘイム、霜の巨人、人間が住んでいる』。また、別な記載の『説明では、根はアースガルズ、霜の巨人の住む世界、ニヴルヘイムの上へと通じている』とし、『アースガルズに向かう根のすぐ下には神聖なウルズの泉があり』、『霜の巨人の元へ向かう根のすぐ下にはミーミルの泉がある』とする。『この木に棲む栗鼠』(リス)『のラタトスクが』、『各々の世界間に情報を伝えるメッセンジャーとなっている。木の頂きには一羽の鷲(フレースヴェルグとされる)が留まっており、その眼の間にヴェズルフェルニルと呼ばれる鷹が止まっているという』。『ユグドラシルの根は、蛇のニーズヘッグによって齧られている。また、ダーインとドヴァリン、ドゥネイルとドゥラスロール』『という四頭の牡鹿がユグドラシルの樹皮を食料としている』などとある。]

 

 彼女を慕はんとすれば――彼女は反響[やぶちゃん注:原文は“Echo”。岡田先生、最後の最後に、また、文句を言わさせて戴きます。ここはどう考えても――「木靈(こだま)」――と訳すべきところですよ! 平井先生も『木魂』と訳しておられます!]。彼女を抱かんとすれば――彼女は影。されど彼女の笑は我々が分散して彼の[やぶちゃん注:「かの」。]世に行く時までも、――來るべき無數の生命を通じて執着するであらう。

 そして我々は決して彼女の笑に笑み交はすことはあるまい、――決してあるまい。何故ならば、その笑は我々のうちに、我々が了解し得ぬ苦痛を覺まし來る故に。

 そして決して、決して我々は彼女に克ち得まい、――何となれば、彼女は久しき以前に消えた太陽の幻の光である故に、――何となれば彼女は塵に還れる無慮幾百萬の心の鼓動によりて作られたるが故に、――何となれば、彼女の魔術は、我等自らの數へ切れぬ過去の無數の忘られし循環を通じて、若きものの幻と望との無終の滿干によりて、作られたるが故に。

 

2019/11/21

小泉八雲 夕暗の認識 (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Vespertina Cognitio ”。「ヴェスペルティーナ・コグニティオー」。ラテン語で「黄昏(たそがれ)の認識」(語は順列)の意)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第二パート“ RETROSPECTIVES ”の第九話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月30日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲藏譯)/作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 標題は「ゆふやみのにんしき」であろう。傍点「﹅」は太字に、傍点「○」は太字下線に、傍線「◎」は太字下線斜体に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   夕 暗 の 認 識

 

       

 超自然の恐怖、――尙ほさら特に夢に見る超自然の恐怖、――これに近いとさへ思はれる程の他の恐怖の形式が世にあるかを私は疑ふ。小兒は夜にても晝にても共に此恐怖を知る、然し成人は眠の中または病が生じた最も常ならぬ心の狀態に於ての外、これに惱まされる樣に見えぬ。健康で覺醒して居る時間には、理性が、恐怖の原始的の形が棲んで居る遺傳された情緖のそれ等の深みにある境域よりもずつと上の方に、觀念の働きを保持する。然し成人には夢に於てのみ知らる〻とはいへ、この恐怖に比すべき覺醒時の恐れはない。――これ程深く、これ程漠然として、これ程いふに云はれぬ恐れは無い。この恐怖の不明確なことがそれを言語に現はし難くする、然し苦惱は頗る强烈で、若し數秒時以上に引き延べられると死に至る程である。そしてその理由はかかる恐怖は個人の生命のものでは無いといふことに存す、それは如何なる個人の經驗が說明し得るよりも無限に巨大である、――それは出生前の祖先以來の恐怖である。當然それは漠然として居る、何故なればそれは遺傳された恐怖の無慮幾百萬の朧げなものから成る爲めである。然し同上の理由でその深さは底知れぬ淵の如くである。

 文明の下に人心の訓練は一般に恐怖の征服の方に向けられ、そして――宗敎に屬する感情の倫理的性質を除いては――特に超自然の恐怖を除くこととなつた。この恐怖は我々の多くに潜勢的[やぶちゃん注:「せんせいてき」。表面に現われないが、実際には力を持っているさま。「潜在的」に同じい。]に存在して居るが、然しその根源はよく護られて居て、眠の時の外はそれは何れの强固な心の人をも亂すことは殆ど出來ぬ、但し理性が驚異に抵抗することの出來る前に想像力が捉へられてしまふ程に、それ位凡ての關係的經驗に緣故の無い事實が現存するときは別である。

 小兒の時期以後、唯だ一度、私は强い形式をとつた此情緖を知つた。それは夢の恐れを覺醒中の意識に生き活きと投げ出したことを示すものとして顯著なものであつた、そしてその經驗は特に熱帶的であつた。熱帶の國では、空氣の狀況に基づいて、夢の壓迫が我々の國に於てよりはもつと重大な苦惱である、そして恐らく晝寢(シエスタ)[やぶちゃん注:“siesta”。スペイン語で長い「昼休み」を指し、午後一時から四時くらいまでを目安とする。必ずしも本格的な「昼寝」の意味ではないが、実際に現行では「昼寝」の意味で世界的に使われている。]の時に最も通常である。凡て爲し得る人は夜を田舍で過ごすが、植民の多くは、明白な理由で、都市で晝寢をしてその結果に甘んぜねばならぬ。

 西印度の晝寢は、我々が北の國の夏にする夢の無い日中の眠の樣に心を爽快にしない。それは眠よりは寧ろ感覺の麻痺である、――それは腦の基脚に重量をおかれた樣な憐れな感情からはじまる、そして精神と身體の全存在が光と熱との壓迫に力なく屈伏するのである。それが屢〻醜い幻に取り憑かれる、そして激烈な心臟の鼓動で覺まされる。折々は他の時には毫も氣が附かぬ響で擾される[やぶちゃん注:「みだされる」。]。都市が全く太陽に曝されて橫たはる時、眞晝中に一の影だに無く、道行く人も絕えて、沈默は驚くばかりになる。その沈默の中に椰子の葉が紙の樣に擦れ、または海岸に氣が拔けた樣な小波の音が突然に響く、――渴いた舌の音する如く――、それが非常に大きくなつて耳に來る。そしてこの奇怪にも沈靜した眞晝は黑人にとりては幽靈の時である。生きて居る物は何れも光に醉うて無感覺である、――森さへも攀援葉の植物に纏はれて、日に醉うて、居眠りして下に垂れる……

[やぶちゃん注:小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて、フランス領西インド諸島マルティニーク島を旅している。

「攀援葉」(はんゑんば)。「攀援」は「つかまって攀(よ)じ登ること」の意。原文は“their wrapping of lianas”。「liana」(リアナ)は広汎な意味での「蔓性植物」を指す。その蔓に纏われくるみ込まれた樹木の謂い。]

 私は幾度も晝寢から、音では無く、或る思ひの突然の衝突としか云はれぬ或るものに驚き起こされるのを とした[やぶちゃん注:スレた脱字。原文から察するに、「常」「恆」「恒」(つね)と思われるが、左上方の残っている痕跡からは、まず、「常」と推定される。]。これは肺に及ぼす熱の或る不制規な影響で起こされた一の特別の內部の擾亂から起こるのであると私は思つた。除々として遲い噎せ返る樣な感覺が半意識と實眠との間のほの暗い域に割り込んで、そして其處で奇怪極まる想像を煽る、――それは生き埋めにされる空想と恐怖である。これに伴なつて嘲弄したり叱責したりする聲、または寧ろ聲の觀念がある、――『眞に光は快い日を見るは目に樂い』……外面は晝、――熱帶の晝、――原始の晝。それで人は眠る。「人は多くの年生きてその年々を樂めどされど――」……眠りつづけよ――凡てこの光榮は、人の目が塵になる時も同じであらう……「されど彼に暗の日を覺えさせよ――その日は多くあるべければ

 

譯者註 ここに圈點[やぶちゃん注:三種総て。というより、符号(鍵括弧及び二重鍵括弧とも)により示された箇所総てである。]を附したるところは「舊約聖書傳道の書」第十一章七八節、「夫れ光明は快き者なり。目に日を見るは樂し、人多くの年生ながらへてその內凡て幸福なるもなほ幽暗の火を憶ふべきなり。其はその數も多かるべければなり」〔邦譯〕を引いたのである。

[やぶちゃん注:本文の鍵括弧と丸括弧の使い分けはママ。原文後半部を示しておく。

   *

These would be accompanied by a voice, or rather the idea of a voice, mocking and reproaching: —“‘Truly the light is sweet, and a pleasant thing it is for the eyes to behold the sun.’. . . Outside it is day,— tropical day,— primeval day! And you sleep!! . . . ‘Though a man live many years and rejoice in them all, yet —’ . . . Sleep on! — all this splendor will be the same when your eyes are dust! . . . ‘Yet let him remember the days of darkness;FOR THEY SHALL BE MANY!’”

   *

岡田氏の訳のそれは、「明治元譯聖書」(めいじもとやくせいしょ:旧約聖書部分は明治二〇(一八八七)年完成。「傳道の書」全篇はこちらがよい。総ルビ版もある)のそれをもとにしている。以下に両節総てを示す。私の判断で句読点を補った。

   *

第十一章七節 夫(それ)、光明(ひかり)は快き者なり。目に日(ひ)を見るは樂し。

第十一章八節 人、多くの年、生(いき)ながらへて、その中(うち)、凡て幸福(さいはひ)なるも、なほ、幽暗(くらき)[やぶちゃん注:「いうあん(ゆうあん)」は「奥深く暗いこと」。]の日(ひ)を憶ふべきなり。其(そ)は、その數(かず)も多かるべければなり。凡て來(きた)らんところの事は、皆、空(くう)なり。

   *

「聲、または寧ろ聲の觀念がある」これは、「声そのものが聴こえるというよりも、脳内である種の声が観念となっているように響いてくる」という感じを表現しているように思われる。]

 

 私の耳にその幻の末高(クレセンド)[やぶちゃん注:“crescendo”。]の音を聞いて、幾度か私は恐れて暑い床から飛び下りて割り板の鎧戶を通して、沈默させ催眠させる樣な外面の恐ろしい光を覗いて見た、――それから頭に冷水を注ぎかけて、燒ける樣な褥[やぶちゃん注:「しとね」。]に戾つてまたうつらうつらとすると、またも同じ聲で、或は自分の汗の滴り下るので――百足(むかで)に這はれるのと區別のつかぬ樣な感じで醒まされる。そして如何に私は南天の十字星の出づる夜を冀しことぞ[やぶちゃん注:「こひねがひしことぞ」。]。それは夜はいつも町が涼しくなる爲めではなくて、夜はあの無慈悲な日光の重さからの救をもち來る爲めであつた、何故ならばかかる光の感じは何か重量のある物の洪水の樣な感じであつた、――それは同時に凡てのものを溺らせ、眩惑し、燒き、麻痺する物、そして液體化した電氣の觀念を暗示する或るものの感じであつた。

 

 然し熱帶の暑さが日沒の後、重苦しくなるばかりだと思はる〻時もある。山の上では年中槪ね夜は愉快である。貿易風に面する海岸では夜が一層樂しい、そしてそこでは我々は暖かい强い風、――それは疾風とか突風とかいふものでなくて、絕え間なく續けて吹く風、――世界囘轉の大きな煽る風の流れ、――に撫でられて、海に面した室で眠れる。然し反對側の町は――殆ど凡てが貿易風を遮斷する森で掩はれた山脈の麓にあるので――濕つた空氣が夜は折々名狀しがたきものとなる、――それは暖め過ぎた溫室の空氣よりも惡るい。かかる仲介物の中で眠る時は最も猛烈な夢魔に魘はれ[やぶちゃん注:「おそはれ」。]勝ちである。

 私の個人の經驗としては次の如くであつた、――

 

       

 私は一人の混血兒の案內で島週り[やぶちゃん注:「しまめぐり」と訓じておく。]をして居た、そして我々は風下の海岸の二の小さな植民地で一夜を過ごさねばならなかつた、其處に我々は一人の老寡婦が所有する宿屋に類する設備を見出した。其家には人は七人のみであつた、――卽ち老婦とその二人の娘、二人の有色の婢、私と私の案內者であつた。我々は窓一つある室を與へられた、それは稍〻小さいが――其他の點では模範的のクリーオール族の寢室で、敷物なき淸い床があり、古風の重い或る家具、それに二三の搖椅子があつた。一方の隅には家內の祠[やぶちゃん注:「ほこら」と訓じておく。「やしろ」でもよいが、私はそのように訓ずる習慣がない。ルビがない以上は私は「ほこら」としか読まない。但し、原文は“household shrine”であるから、寧ろ、「神棚」「聖壇」の方がしっくりくる。事実、平井呈一氏は恒文社版「薄明の認識」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で『神棚とおぼしい棚がつってあった』と訳しておられる。]の樣なもの――卽ちクリーオールが chapelle といふて居るもの――を支へる棚承けがあつた。祠にはマリアの白い像があつて、その前には小さな燈火が油の杯の中に浮いて居た。植民地の習慣で僕[やぶちゃん注:「ぼく」。下僕。ここはガイドの雇い人である混血児の少年を指す。]は我々と共に旅する時は、同室か、又は閾[やぶちゃん注:「しきい」。]の前に寢る。そして私の男は私に與へられた巨きな四本柱のある床の傍の莚の上に橫になつて、直に鼾[やぶちゃん注:「いびき」。]しはじめた。私は床に就く前に戶が確に締めてあるのを見定めて寢た。

譯者註 クリーオールは全集第一卷四七五頁に出づ。

[やぶちゃん注:「クリーオール」“Creole”。「クレオール」「クリオール」。植民地で生まれたネイティヴ以外の人々を指す語。本来はスペイン語で「クリオーリョ」(Criollo)といい、当初は「新大陸生まれのスペイン系の人々」を指す呼称であったが、後、「植民地生まれの白人」を指すようになり、やがては混血やアフリカ系をも含むように意味が広がった。フランス語は「Créole」(クゥレオォル)で、「宗主国フランス生まれ」に対する「フランスの植民地及び属国」生まれの白人(辞書では「白人」に限定している)の用法が強い。但し、差別用語ではなく、文化人類学でも用語として使われ、「クレオール語」(西インド諸島で現地の土民が交易相手の欧米人に向かって使うフランス語・スペイン語・英語等の崩れた混成言語)の意でも用いられる。

chapelle原本では斜体(左ページの下から三行目)。フランス語(マルティニークは、今も昔もフランス領(海外県)で、公用語はフランス語である)の「チャペル」で「教会」「礼拝堂」のこと。

 岡田氏の注は、本第一書房版「小泉八雲全集」のそれを指し、国立国会図書館デジタルコレクションの「第一卷」(家庭版・昭和一二(一九三七)年四月刊)の当該開始ページリンク先は“Internet Archive”の同和訳書の当該ページ画像【2025年5月1日削除・リンク変更】の「ユーマ」(‘ Youma, the Story of a West-Indian Slave ’:「ユーマ、西インドの奴隷の物語」:一八九〇年雑誌分載初出で同年刊。「ユーマ」は主人公の黒人女性の名前である)の冒頭で「クリーオール」の注があるからである。但し、訳者は岡田氏ではなく、落合貞三郎氏である。その注を電子化しておく。

   *

譯者註 クリーオール人は、主として西印度に移住した歐洲人(大抵西班牙人[やぶちゃん注:「スペインじん」。]及び佛國人)の子孫を指す。しかしこの語の使用法は漠然としてゐて、往々西印度地方の混血種(白人と黒人との)或は時として黑人を指すこともある。

   *]

 

 その夜は蒸し暑かつた、――空氣が凝結してゐるかと思はれた。庭を見下す唯一の大窓は明け放してあつた、――然しその空氣に微動だも無い。蝙蝠――隨分大きな蝙蝠――が音無く飛び入りまた飛び出して居た、――一匹は床の上を旋囘しながら、實にその翼で私の顏を煽いだ。熟果の重い香――胸惡るくなる程甘さうな――が庭から上つて來た、其處には椰子とプランテイン樹[やぶちゃん注:「晩歌」で既出既注。]が金屬製であるかの如く靜かに立つて居た。町の上の方の森から雨蛙、蟲、夜の鳥の例の夜の合唱がわめいて、――それは何の譬[やぶちゃん注:「たとへ」。]を以てしても精細に記述し難い擾ぎ[やぶちゃん注:「さはぎ」。]であるが、然し無數の銳い鈴の樣な音で、碎けた玻璃が廣い遲い瀧にでもなつて居るかとの想像を暗示する。私は暑い堅い床で幾度か寢返りした、どこかにいくらか冷たい一箇所でもあるかと空しく求めながら。それから私は起きて搖椅子を窓のところに引きずつて行き、葉卷を燻らした。煙は動かずに居据わるので、一吸ひ每に吹き拂はねばならなかつた。私の男は鼾を止めた。彼の裸の胸の銅色――祠のラムプの微かな光の下に混じつて輝く――が呼吸の運動を示して居らぬ。彼は屍であつたかも知れぬ。重苦しい暑さが益〻暑くなる樣に思はれた。終に、全く疲れて、私は床の上に戾つて、眠つた。

 

 眞夜中もずつと過ぎた頃と思ふ、私は初の漠とした不安、――疑念――夢魔に先だち來るそれを感じた。私は半意識、現實の夢の意識、――その室に居ることを知つて居る、――で起き上がりたいと思つた。直に不安は恐怖になつた、それは自分は動かうとしても動かれぬことを知つたから。空氣中の名狀し難い或る物が意志を抑へ附けて居た。私は叫ばうと試みた、そして私の最上の努力も誰れにも聞こえぬ樣な囁きになつたばかり、同時に階[やぶちゃん注:「きざはし」と訓じておく。]を上り來る跫音がわかつた、――包んだ樣な重さ、そしてまぎれもない夢魔がはじまつた、――聲も手足も抑へ附ける奇怪な磁氣の恐怖、――啞と無力に逆らふ無望の意志の苦鬪。忍びの跫音は近づいた、――然し惡意ありげに、測られた遲さで、――遲く、遲く階一哩[やぶちゃん注:「マイル」。約千六百九メートル。]も深さがあると思ふばかり。遂に閾に到る、――待つ。それから除々と、しかも音無く、錠を卸した戶が開いた、そしてが入つて來た、身を屈めながら來る、――衣を纒うた物、――女性、屋根に屆くばかり、――面を向けられぬ。それが床に近寄ると床板はキイキイ音がする、――そしてそれから――狂氣の樣な努力で――私は覺めた、全身の汗、私の心臟は破裂しさうに鼓動して居る。祠の燈は消えて居た、暗中何も見えぬ、然しが退いて行くのが聞こえると私は思つた。たしかに床板がまた鳴るのを聞いた。まだ恐慌に捉はれて居て、私は實に身動きが出來なかつた。マツチを擦つて見る智慧もついたが、まだ起きようとは思へぬ。直ぐに、私が聽かうとしで息を凝らすと、黑い恐怖の新たな波が私の身に滲みた、それは呻く聲を聞いたから、――夢魔の長い呻き、――下の二の別室で互に答ふるかと思はる〻呻き。それから、私の近くで、私の案內者が呻きはじめた――嗄れ[やぶちゃん注:「しやがれ」。]聲で、嫌はしい[やぶちゃん注:「いとはしい」。]。私は彼を呼んだ、――

 『ルイス、ルイス』

 我々二人は直ぐに起きて坐つた。私は彼が喘いで[やぶちゃん注:「あへいで」。]居るのを聞いた、そして彼が暗中で彼の曲り刀[やぶちゃん注:「そりがたな」と読んでおく。原文は“cutlass”。海賊がよく持っているところの、あの湾曲した刃を持った比較的短い反りの入った剣で、「舶刀」とも称するように、船などの狭い場所での使用に適しており、船乗りが好んで使った。参照したウィキの「カットラス」によれば、これはまた、『武器であるとともに、農業用の道具でもあり』、まさにこのシークエンスに相応しいことに『カリブ海や』、『中米の熱帯雨林や』、『サトウキビ畑の収穫時にも使用される。同じ用途で、中南米の原住民が使うマチェーテ』(machete)『という鉈もある』とある。個人的にはマチューテではないかと感じている。]を探つて居るのがわかつた。それから恐怖で嗄れた聲で彼は尋ねた、――

 『旦那、聞きなすつたか』

 下では呻く者共は呻きつづけて居た、――聲はいつも末高(クレセンド)になる、『マダム』、『孃[やぶちゃん注:「むすめ」。]や』――それから裸足で走る、ラムプの灯さる〻[やぶちゃん注:「ともさるる」。]音、そして、終に、脅嚇された聲の一般の叫び。私は起きてマツチを探つた。呻きと叫びは息んだ[やぶちゃん注:「やんだ」。]。

 私の男がまた尋ねた、『旦那、御覽だつたか』

 私は惑ひながら、指にマツチ箱を摑んで答へた、『御前何を云ふのかえ』

 彼は答へた、『あの女のことですか』

 この問は私を驚かして全動けなくした。それから私は自分は了解したのかどうかと思ひ惑うた。然し彼は彼の土言[やぶちゃん注:「どげん」。土地の言葉。クレオール語。]で獨り語りする樣に云ひ續けた、――

『脊の高い、高い、此部屋位高い、あのゾムビ[やぶちゃん注:“Zombi”。]。あの女が來たとき、床がキイキイいつた。わしは聞いた――わしは見た』

 

譚者註 ゾムビは全集第一卷五〇三頁に出づ。

[やぶちゃん注:この会話は、原文ではクレオール語(フランス語訛り)が示され、後に正しいフランス語が示されるという、なかなかに戦慄の臨場感のある、しかも素敵に面白い筆致となっている。是非、見られたい。

 訳者注のそれは、前と同じく本第一書房版「小泉八雲全集」のそれを指、当該ページ(リンク先は同前の当該ページ画像)は、やはり「ユーマ」(‘ Youma, the Story of a West-Indian Slave ’)の一節で「ゾムビ」についての本文での解説が載るところを指している。訳者は先に述べた通り、落合貞三郎氏。その本文箇所(左ページ八行目)を電子化しておく。

   *

――羽毛に幽冥界の色彩を帶び、食べた人の胃のなかで歌をうたひ、それからまた完全な鳥に化すゾンビといふ鳥の話――

   *

但し、ここで言っている「ゾンビ」は今の世間で認識されている生ける死体のそれとは異なるし、ここで作者とガイドと一家を襲った怪異現象の説明としても全く無効であって、参考にならない注である。ウィキの「ゾンビ」によれば、『「生ける死体」として知られており、ブードゥー教のルーツであるヴォドゥンを信仰するアフリカ人は霊魂の存在を信じている。こちらについては「目に見えないもの」として捉えている。「ゾンビ」は、元はコンゴで信仰されている神「ンザンビ(Nzambi)」に由来する。「不思議な力を持つもの」はンザンビと呼ばれており、その対象は人や動物、物などにも及ぶ。これがコンゴ出身の奴隷達によって中米・西インド諸島に伝わる過程で「ゾンビ」へ変わっていった』。『この術はブードゥーの司祭の一つであるボコにより行われる。ボコの生業は依頼を受けて人をおとしめることである。ボコは死体が腐り始める前に墓から掘り出し、幾度も死体の名前を呼び続ける。やがて死体が墓から起き上がったところを、両手を縛り、使用人として農園に売り出す。死体の魂は壷の中に封じ込まれ、以後ゾンビは永久に奴隷として働き続ける。死人の家族は死人をゾンビにさせまいと、埋葬後』三十六『時間見張る、死体に毒薬を施す、死体を切り裂くなどの方策を採る。死体に刃物を握らせ、死体が起き出したら』、『ボコを一刺しできるようにする場合もあるという』。『もちろん、名前を呼ばれて死体が蘇るはずもなく、農民達による言い伝えに過ぎない。現在でも、ブードゥーを信仰しているハイチなどでは、未だに「マーケットでゾンビを見た」などの話が多い。また、知的・精神的障害者の様子がたまたま死者に似ていたケースを取り上げ、「死亡した人がゾンビ化される事例がある」などとされることもある』。『イギリス人の人類学者、ローランド・リトルウッド』『はハイチに渡って詳細なるデータを取り、ゾンビの存在を全否定している』。一九九七『年に、「マーケットに死んだはずの息子がゾンビとなって歩いていた」と言ってふらふら歩いている人物を自宅に連れ帰った父親の報告があり、その息子とされた人物を医学的に検査したところ、死んだ形跡が全くなかった。また、その人物には知的障害があり、DNA検査によって父親と親子関係のない他人の空似だったことが判明した。その他も同様に、他人の空似のケースばかりであったことが報告されている』とある。引用では省略したが、ゾンビを作り出す「ゾンビ・パウダー」なる薬物をブードゥーの呪術者は実際に持っており、それを分析してテトロドトキシンを検出した日本人科学者の著作も読んだことがある(但し、後に読んだ本では、別な研究者が別なところで、検査したところ、析出されなかったとあった)。また、ブードゥーの呪法も非常に興味深いもので、若き日にかなり入れ込んで調べた経験もある。ある種の薬物を用いて心拍数を極度に落させ、仮死状態で性急に埋葬させ、葬儀が終わった直後に掘り返して、奥地の農園に連行して無償で働かせるという労働力収集のための犯罪が横行していて、それをドキュメンタリーにした外国作品を見たこともある。言っておくが、私はゾンビ映画は如何なる作品も馬鹿馬鹿しくて一律大嫌いだが、ブードゥーの呪法は、今もすこぶる興味深く感じている人間ではある。

 

 暫くして、私はやつと蠟燭を灯した、そして戶のところに行つた。戶は依然締つて居る、二重に錠が下りて居る。高窓からは人が入れる筈は無い。

 自ら云ふことを信ぜずに、私はいうた、

 『ルイス、御前は夢を見て居たんだらう』

 彼は答へた、『旦那、夢じやないんでさ、あの女はどの部屋へも入つて來て、皆に觸はつたのでさ』

 私は云うた、『そりや馬鹿らしい、御覽、――戶は二重に錠が下りてるから』

 ルイスは戶の方へ見向きもしなかつた、然し答へた、『戶が締つてたつて開いてたつて、ゾムビは出入りしまさ……わしは此家は嫌ひだ……旦那……その蠟燭をつけておきなさい』

 彼は終の句を命令的に云つて、『どうぞ』といふ敬語を加へなかつた、――殆ど案內者が共通の危險の場合に語るが如くに、そして彼の調子は彼の恐怖を私にも傳染させた。蠟燭はついて居ても、私は一時は眠らずに居て夢魔の感覺を知つた。暗合が理性を壓伏した、そして厭はしい原始的の空想が、確實なるものの如く、因果の說明に當て篏つた[やぶちゃん注:「あてはまつた」。]。私の幻覺とルイスの幻覺の同じきこと、二人共聞いた床の鳴る音、夢魔が室から室へと巡囘したこと、――此等は證據の不快な連合以上のものを形成した。私は或る姿を見たと思つた邊りで私の足で床の板張を履んで[やぶちゃん注:「ふんで」。]見た、それが私が前に聞いたと同じキイキイといふ高い音を出した。ルイスは『夢じや無い』と云つた。ほんとにそれは夢でないらしい。私は蠟燭をつけておいた。そして床に戾つた――眠る爲めではない、考へる爲めに。ルイスもまた橫になつた、彼の手を曲り刀の柄にかけて。

 

 私は長い時考へた。下の方も今は全く靜かである。暑さもつひに薄らいで、庭から吹き入る冷かな空氣の折々の息は、陸風が目覺めたことを知らせた。ルイスはたつた今の恐怖に關らず間もなくまた鼾しはじめた。すると私は板張が――隨分音高く――鳴るのを聞いて驚かされた、――それは私が足で履んで試みた同じ板張であつた。今度はルイスはそれを聞いたらしくない。そこに何も無かつた。音がもう二度鳴つた、――それで私はわかつた。はじめにきびしい暑さ、後に溫度の變化が木材を連續して、歪めたり戾したりして、その音を出したのであつた。眠の不完全な、夢の中にそれを聞くと、昔は想像に强く影響する程に聞こえて、――歪んだ空想の長い行列を動かし[やぶちゃん注:「か」の箇所は、底本では完全な脱字。特異的に補った。]來ることがある。同時に別々の室に於ける夢魔の殆ど同時に來る經驗は、その時刻の病を催す樣な空氣の壓迫で十分に說明が出來ると私は思つた。

 まだ二の夢のいやな類似が說明をまつて殘つて居た、そしてまた此謎の自然の解釋を私はも少し反省した後に見出し得た。暗合はたしかに驚くべきものであつた[やぶちゃん注:「あ」の箇所は、底本では完全な脱字。特異的に補った。]、然し同じ點は部分的のみであつた。私の案內者がその夢魔に見たものは、西印度人の迷信の通常の創造であつた――恐らくアフリカの起原であらう。然るに私が夢に見た形は、小兒の時に、私の眼を惱ましたもので、――或る恐ろしいケルト族の談[やぶちゃん注:「はなし」。]の印象で、私に造られたものである、かかる談は想像を以て惠まれて居る、或は詛れて居る[やぶちゃん注:「のろはれてゐる」。]、何れの小兒にも語られてはならぬものであつた。

[やぶちゃん注:私は以上を読むと同時に、幾つかの可能性を想起していた(私は小学校五年の時にフロイトの「夢判断」を完読してハマった、本当は心理学を専攻したかった輩なのである)。

 一つは、暑苦しい上に、全くの初回の現地人の宿屋風の家で、しかも階下に寝ているのは老女将と二人の娘に、二人の下女の、総て女性の五人である。明らかに筆者(当時は三十七から三十九歳の間である)には精神的に過剰な無意識の性的バイアスがかかっていることは容易に気づく。寝つけない中では、所謂、「入眠時幻覚」(hypnagogic hallucinations:やや興奮状態で床に入って暫くすると自覚的には「目が覚めている」と認識しているにも拘わらず、生々しい現実感を伴った鮮明な夢を見る現象を指し、「睡眠開始時レム(Rapid eye movement:REM)睡眠期」に一致して起こる。怪しい人間や動物、得体の知れない怪物などが、今、寝ようとしている部屋の中に入り込んできて、襲いかかってきたりする幻視・幻触・身体運動感覚などを主とするもので、強い現実感と恐怖感を伴う)が起こり易く、彼もそれに嵌まった状態にあることが叙述から明白であることが――第一。

 次に、その「入眠時幻覚」の怪異体験開始の直前(直後というべきか)に、彼が典型的な「金縛り」状態となって身動き出来なくなっているのは、通常、「入眠時幻覚」による不安・幻覚体験に極めてよく附帯する状態である「睡眠麻痺」(sleep paralysis:入眠時に全身の脱力状態が起こること)によって完全に説明し得るのが――第二。

 ガイドのルイス少年、及び、宿の階下の女性たち総ては、ブードゥーのゾンビを完全に信じている現地の民俗社会世界の人間なのであり、ここはまさにその霊的なフィールドなのであるからして、その空気は、異邦人で、キリスト教はおろか、ブードゥーの忌まわしい呪法をまるで信じない筆者であっても――肉体的精神的に安定感情がなく、心が落ち着かないその瞬間の若い彼にして――甚だ簡単に、その呪的空気は――たとえそれが非論理的であっても――容易に――無意識的に否応なく――感染するに違いないという確信的推論が――第三。

 その三つに加えて、床板の軋み(本邦の心霊現象で言うところの「ラップ音」だ)や、階下でも、女たちが何か感じて、騒擾を起こしているような感じが描写されていることが、私には非常に興味深いのである。

 筆者は「ラップ音」については合理的な仮説を立て、実際に試してみて、それが「怪異」ではあり得ないことを証明し、また、温度変化による古い家屋の素材の軋み音であるという、美事に科学的な解明しているから全く問題にせずしてよいのだが、しかし、階下の女たちの異変らしきものの原因については、筆者は結局、何も後に説明を添えずに誤魔化しているのである。

 さても――筆者は三十代後半だ。――左目の色はちょっと変わっているけれど――スマートな、かっこいい白人――なんである。ガイドの混血の少年だって――若くてカットラスをシャッと抜きそうな、果敢な――かなりいい感じ、じゃないか?!……

 二人の娘は幾つぐらいだろう?……二人の下女だって、これ、かなり若いんじゃないか?……

 そこに、二人のちょっと気になる男たちが、泊まってるんだぜ?!……気にならない方が、これ、おかしいんじゃないかねぇ?!……

 所謂、思春期の女性が「霊感を持っている」と主張したり、そうした女のいるところの周囲でだけ、強力な不可思議な怪異現象が起こるというのは、古今東西を問わず、ごくごく当たり前の、かなり古くから現在まで続くところの、古くて新しい現象なのである(私の中学時代の同級生に「毎日、家に帰ると狐の子の霊と遊んでいる」と言っていた風変わりな妖艶な女子がいた(但し、後に二十を過ぎた彼女に再度、確かめたところが、「あんなの嘘に決まってるじゃない」と軽くいなされたのだが)。処女はシャーマンであり、神憑りや依代(よりしろ)になるのは、えらく昔からの常識だ。そこまで溯らずとも、江戸から明治に長く生き続けた都市伝説に「池尻の女」「池袋の女」などと称した怪異譚がある。屋敷内に異様な怪異現象が頻発する(化け物が出るというのもあるが、概ね、物が動いたり、投げられたり、激しい音がする「ボルタ―ガイスト現象」(ドイツ語:Poltergeist:騒霊。本邦では「天狗の石礫」等とも呼ぶものが、それに最も該当するであろう)であることが多い)。しかもだ、調べて見ると、そこには――必ず――奉公人の中に若い女がいる――のだ。それが、池尻村などの特定の村の出身であったことから、そこの氏神が嫉妬して「村に返せ」と怪奇現象を起こすという解釈なのだ。私の「耳囊 卷之二 池尻村の女召使ふ間敷事」や、「北越奇談 巻之四 怪談 其三(少女絡みのポルターガイスト二例)」、また、「反古のうらがき 卷之一 狐狸字を知る」を見られよ。西洋でも、男の霊の声を腹部から発するとされた姉妹や、コナン・ドイルが、まんまと騙され続けた「コティングリー妖精事件」(イギリスのブラッドフォード近くのコティングリー(Cottingley)村に住む二人の従姉妹フランシス・グリフィス(七歳)とエルシー・ライト(十五歳)の二人の少女が一九一六年七月に撮ったと主張した妖精写真の真偽をめぐって起きた論争や騒動。詳しくはウィキの「コティングリー妖精事件」グーグル画像検索「TheCase of the Cottingley Fairiesをどうぞ)と、枚挙に暇がない(孰れも後に少女たちが意識的に成した詐欺であったことを告白している)。当初、私は筆者が科学的説明をつける以前の部分では、「キイキイ」という音は階下の女性たちのうちの誰かが、意識的、或いは、半ば無意識的に立てた擬似的詐欺による人工の怪奇音なのではないかと疑っていたぐらいである。それは彼女たちの名誉のために、まずは、撤回するとしても、仮に、この階下の女性たちの中に若い娘がいれば、不思議な白人と少年の滞在に秘かに昂奮してしまって、階上の二人と全く同様に、「入眠時幻覚」を起こしてしまって叫んだのだとしても、何の不思議があろうかと思うのである。

 

       

 此經驗を思ひめぐらして其後私は、我々が『暗の恐れ』と呼んで居るが、實は暗の恐れでは無い其の恐れの意味を考へることになつた。單なる條件としての暗はこの感情、――幽靈の何等かの定まれる觀念より幾千代も先きにあつた感情――を起こし得なかつた。小兒が示す如き遺傳せる、本能的の恐怖は暗そのものの恐れでなくて、暗と聯想される[やぶちゃん注:「闇というものに関連して連想されるところの」の意。どうして岡田氏はこんな短縮した無理な日本語を使うのだろう? 正直、ほんに、気が知れないのである。]定義し難い危險の恐れである。進化論的に說明すれば、この漠然たる、然し容量のある恐怖は、その原始的要素として實際的經驗――暗に働く或る者の經驗――によつて造られた印象を有つのであらう、そして超自然の恐れはそれよりずつと後の情緖的發達としてのみ、其うちに加はるのであらう。夜に光る目に照らされた洞窟の原始的暗[やぶちゃん注:原文を見ると、“The primeval cavern-gloom lighted by nocturnal eyes”であるが、これは「夜行性の肉食獣の眼によって照らされた太古の洞窟の中の闇」じゃあないかなぁ? この洞窟の中に原始人がいたんだよ、彼らが外を見て、その光る眼に戦いていると読んだ方が判りがいいんだけどなぁ。でも……平井呈一氏も『夜の目に照らし出された大古[やぶちゃん注:ママ。]の洞窟のなかの闇』と訳してはおられるなぁ。]、――川邊の森の切れ目の黑さ、其處には渴いて水を求めにくるものを捉へんとして破滅の待てる、――畏怖を隱す錯綜した岸の陰影――蟒蛇[やぶちゃん注:「うはばみ」。]の巢穴の暗、――餓ゑたる野獸と絕望の人間の激情を反響する急場の隱れ所、――埋葬の場、及び洞窟に出入するものと埋められたものとの恐ろしい同類感の想像、――凡て此等、及び暗と死との關係の無數の外の印象は、小兒の想像を累はし[やぶちゃん注:「かさねあはし」?]、今猶ほ文明の保障の下に眠る成人をも捉へる祖先以來の暗の恐怖を造つたに相違ない。

 夢の凡ての恐怖が記憶されぬものの恐れではあり得ぬ。然し遠距離からかけた見えぬ力に捉へらる〻その不思議の夢魔の感覺は――睡眠間に單に意志が停止することのみで十分に說明されやうか。またはそれは捉へられたことの無數の記憶の複成的遺傳であり得ようか。恐らく其の說明は奇怪な催眠術やまたは奇怪な網[やぶちゃん注:“webs”。これは、岡田先生、「罠」と訳しましょうよ!]の生前の經驗を暗示するのではあるまい、――人間は彼の發達の進路に於て、彼の背後に現に存在する何れのものより比較にならぬ程に惡しき恐怖の條件を殘したといふ進化的確實よりもつと驚くべき何物も暗示はしまい。然し夢魔の心理的謎の多くが、人間の有機的記憶は苦痛――かつて或る忌まはしき消滅した生命によつて行はれた不思議な力に關係ある苦痛――消滅したる形の何かの記錄を保つや否やの問題を誘ふに足るだけ殘つて居る。

 

小泉八雲 身震ひ (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Frisson ”。「フリィッソン」。「恐怖・歓喜・興奮などに伴う身震い」・「戦慄」・「スリル」の意。綴りと発音から判る通り、もともとフランス語である)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第二パート“ RETROSPECTIVES ”の第八話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月30日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲藏譯)/作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   身震ひ

 人間に觸れられていまだ嘗て身震ひを感じたことの無い人々もあるかもしれぬが、たしかに少數である。我々の多くはずつと幼い頃に身體の接觸に不思議な差別のあることを覺えて居る、――或る人が撫でさするのは柔らかで、他の人のは苛立たせる、その結果として我々は種々の不道理な好き嫌ひを定める。靑年の成熟と共に我々はこれ等の區別を層一層と銳く感ずると思はれる、――つひに運命の日が來て、そのとき我々は或る女性の接觸は悅びのいふに云はれぬ身震ひを通はせ、――それを我々は玄妙や超自然の理論で說明せんと試みる程の魔術をかけることを覺るのである。老年はこれ等の靑年の魔法的空想を笑ふこともあらう、然し多くの科學あるに係らず、戀人の想像は幻滅を見た人の智慧よりも、恐らく眞理に近からう。

[やぶちゃん注:最後の一文、

Age may smile at these magical fancies of youth; and nevertheless, in spite of much science, the imagination of the lover is probably nearer to truth than is the wisdom of the disillusioned.

は確かに逐語訳なら、そうだ。しかし、これ、朗読されたものを一聴し、即座にすんなり日本語として受け入れられる一般的日本人はそう多くあるまい。平井呈一氏は恒文社版(「仏の畑の落穂 他」(一九七五年刊)所収の「身震い」)で、

   《引用開始》

老人は、とかくこうした若人たちの神秘的な空想を笑うかもしれないが、しかしいくら科学が氾濫しても、恋人の想像力というものは、幻滅をした老人の知恵よりも、おそらく真理に近いものだろう。

   《引用終了》

と、総ての日本語に音楽記号の「スラー」を附したように躓かずに素敵に訳しておられる。私が、『小泉八雲 初の諸印象 (岡田哲藏譯)』の注で掟破りに岡田氏の訳を批判した通り、「一部は学術論文のように訳されてあり、決して文学として訳されていない嫌いがある」と言った意味がお分かり戴けるものと存ずる。本作のパート標題は「回顧・回想・追懐」という、天馬空を翔くるが如き自由自在な、生死や霊魂やを含めた、博物学的な小泉八雲自身の体験に基づく観想のエッセイの謂いなのであって、その十篇の一篇たりとも、心理学や哲学のインク臭い論文なんぞでは、ないのである。]

 我々は成人の生活に於てかかる經驗に就いて頗る眞面目に考へることは稀である。我々はそれ等の經驗を否定はせぬ、然し我々は神經の特異質と、それ等を認めることに傾く。我々は男子または女子と、日常握手する行爲に於てすら、心理學が說明の出來ぬ感覺を受けることのあることを殆ど注意せぬ。

 私は多くの手の接觸、――それぞれの握手の質、起こされら身體的同感又は反感の感覺を覺えて居る。いかにも私は幾千の握手を忘れて居る、――それは多分、それ等の接觸が特に何物をも私に語らなかつた爲めであらう、然し强い經驗は十分に思ひ出せる。それ等の快い、または不快な性質は全く道德的關係から離れて居たことは度々であることを私は知つた、然し私の思ひ出し得る最も法外の場合――(詩人、軍人、避難民の如き最も不思議の經歷を有つた不思議に魅惑的な人格)――に道德的及び身體的の魅力は等しく有力で且つ等しく稀有である。或る人の力に魅せられた多くの人々の一人が私に云うた、『何時でも私が彼の人と握手する時に、夏の光の樣に、暖かい衝動が私の全身に傳はるを覺える』と。現在の瞬間に於てすら、私は彼の死せる手を思へば、その手が二十年の間と數千里の距たりを越えて私に差し出される樣に感ずる。それでそれはヽヽヽを殺した手であつた。

[やぶちゃん注:末文の原文は“Yet it was a hand that had killed....”で「しかも、それは、…を殺したことのある手なのであった……」である。目的語はないのだが、しかし、「人、或いは、動物を」ではない。「人」以外には、ない。平井氏のはっきりと「人を」と訳しておられるのである。]

 

 これ等は、外の記憶と反省と共に私に來た、それはベイン氏[やぶちゃん注:後に訳者注有り。]が嘗て人間の皮膚の接觸によつて與へられた快樂の身震ひを進化的に說明したものの批評を私が讀んだ後であつた。この批評家は何故に約九十八度の溫度にせられた繻子[やぶちゃん注:「しゆす(しゅす)」。繻子織(しゅすおり)。経(たて)糸・緯(よこ)糸それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方。密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。]のクッシヨンは同じ身震ひを與へぬかと問うた、そして此質問は穩當で無いと私は思つた、何故なれば批評されたその文句のうちに、ベイン氏は十分に理由を暗示したからである。彼はその身震ひは暖かさと柔らかさの何れの種類に因つてでも與へらる〻のではなく、唯だ特殊[やぶちゃん注:底本では二字に傍点「﹅」があるものの、「特 」で下の字が脱字してしまっている。原文は“ peculiar ”(ピキュリァ)で、辞書では「不快な感じに妙な・変な・異常な」・「気の狂った」・「特定の対象にのみ属する意味での特有の・固有の」であるから、岡田氏は「特別」としたのかも知れぬが、平井呈一氏の恒文社版の訳に従った。]の暖かさと柔らかさによりてのみ與へらると云ふつもりであつたと思へば、――彼はそのつもりであつたに相違ない樣に、――彼の解釋は嘲笑を以て爭はるべきものでは無い。約九十八度の溫度にされた繻子のクツシヨンはベイン氏が意味したより餘程單純な理由で人間の皮膚の接觸によつて與へらる〻と同樣の感覺を與ふる事は出來ぬ、――それは實質に於て、組織に於て、またそれが生きて居らず、死して居るといふ全く重要な事實に於て、人間の皮膚と全然異つて居る爲めである。勿論暖かさと柔らかさだけでは、ベイン氏が考へた快樂の身震ひを起こすに足らぬ、容易に想像し得る狀況に於て、此二つが反對の或るものを生ずる事もある。滑らかさは柔らかさ又は暖かさが有つと殆ど同じ程に接觸の快感との關係を有つ、然し濕つたり又は餘り乾いて居る滑らかさは不快であり得る。また人間の皮膚でも冷たい滑らかさは暖かい滑らかさより一層快いものであらう。然しもつと劣等の生命の形に共通な冷たい滑らかさで戰慄を起こさせるものもある。例として手の接觸を快くするそれ等の性質は何であらうとも、それ等は恐らく多くのものの結合から成り、それ等はたしかに生きて居る接觸に特有のものである。暖かさと滑らかさと柔らかさを如何に人工的に結合しても、人間の接觸が與へる樣な快樂と同じ性質のものを起こすことは出來まい、――たとへ、ベイン氏以外の心理學者が云へる如く、快樂のもつと微かな一種を起こす事ありとしても。

 

譯者註 ベイン氏はスコツトランドの心理學者 Alcxander Bain18181903

[やぶちゃん注:イギリスの心理学者で、哲学者・言語学者でもあったアレクサンダー・ベイン(Alexander Bain 一八一八年~一九〇三年)。アバディーン大学卒業後、J. S.ミルらと交友関係を結んだ。一八六〇年から一八八〇年まで同大学教授。心理学的には連想心理学の立場に立ち、倫理学的にはミルの功利主義に近い立場に立った。一八七六年に哲学誌“ Mind ”(『心』)を弟子のロバートソンとともに発刊した。また、スコットランドの教育制度の改革にも貢献した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。本書刊行時(明治三一(一八九八)年十二月)は存命している。【★以下の注は、2025年4月30日に追加したものである。】

 さて、ここで、小泉八雲が反論している部分の全体の意味が、今一つ、西洋人にも、日本人にも、全く反対の構造で、疑問を感じさせるに違いないことが想起される。それは――温度表記――にある。実は、原本では二箇所とも、“98°” と記されてあるのであるが(原本のここ)、小泉八雲の著作を読んだ当時の絶対多数の英語圏では、概ね、華氏=ファーレンハイト度(degree Fahrenheit)が使われていたから、彼らは、

98°F=36.667°C

で認識したはずであり、八雲が示したのも、「それは、違和感を感じる華氏温度ではないのではないか?」という真っ当な疑義なのである。

ところが、現代の日本人の場合は、逆に、『これって、摂氏(セルシウス度(degree Celsius)だよね。』と――勝手に合点――して、

98°C

で、一回目では普通に読む(★但し、当時の日本人は、違和感を持つ者が、殆んど違和感を持ったはずである。何故か? 正確な記録によるものではないが、ネット上の「Q&A」の回答に、日本に於いて、法律によって温度に関し、摂氏(℃)を使用ように規定されたのは、大正八(一九一九)年とあったからである)。

因みに、調べて見たが、絹は300°C~400°Cが着火温度で、今の化学繊維であっても200°Cであるから、98°Cでは、全く、燃えない。しかし、触れれば、違和感どころか、「しっかり、熱いじゃん!」と感ずるはずである。

でもって、普通に読んでゆく。

ところが、八雲の「物言い」を聴いて――「いやいや! どこが、普通なの? 熱いでしょうが!?!」と躓く――のである。

しかし、英語圏の人々は、逆なのだ! 彼らは、最初の方で、躓くのだ!

98°Fはヒトの平熱である。それでは、違和感は、誰も、感じないのではないか!?」

と。そうして、八雲の「物言い」を聴いて――「そうだよ! おかしいよ! ベインの言い方がね。」――と納得するのである。

則ち、

一貫して、小泉八雲は華氏で温度を書いている

と考えて、初めて、矛盾がなくなるのである。

実は、私は、二十代の時に初めて読んだ初回の平井氏の訳に、孰れも、『摂氏九十八度』と訳されてしまってあるのに、何ら、注意することなく、しかも、疑問も抱かずに、読み過していた――無意識の内に記載全体を勝手に読み変えていたのだ!――のだから、最も低能であったことを自白しておく。

 ただ、ここで疑問なのは、スコットランド出身のアレクサンダー・ベインが、何故に、“98°”と書いたのかが、小泉八雲と同じく、私にも判らないのである。記載原本まで探し得なかったのが、悔しい。一つ、考えたのは、彼が心理学でもあったことである。当時の新しい心理学は、ドイツ及びフランスが主流であった。或いは、そうした摂氏記載で示した非英語圏の論文なり、記事の中に、そうした感覚実験の記載を読んで、うっかり、華氏に変換するのを忘れて、転写してしまった可能性である。ただ、これは、思いつきに過ぎない。大方の識者の御斧正を俟つものである。

  特別の感覺は特別の條件によりてのみ說明される。或る哲學者はこの快い身震ひを生ずる條件を主として主觀的と說明せんとし、他の哲學者は主として客觀的と見る。何れの說も眞理を有つことは眞實でありさうでは無いか、――身體的の原因は特別の接觸に附隨する、定義し得る又は定義し得ぬ、或る性質に求めねばならぬこと、及びそれと同時に起こる情的現象の原因は、個人ので無くて、種族の經驗に求めらるべきこともまたさうではあるまいか。

 

 二つの觸れ得べきもの、――草の葉二枚、水二滴、砂二粒、――にして全く同じものの無きを思へば、一人の接觸が或る他の人の接觸によりて生ずる何れの感覺とも異る感覺を與ふる力を有つことは信じ難いとは思はれぬ筈である。かかる差別が測定し難く、また性質を明らかにし難いといふ理由で、それを不必要また薄弱なものとすら必らずしも考へ難い。此世界に於ける人類の幾億人の聲のうちに全然同じ二つの聲は無い、――然し妻または母、子または戀人たるものの耳と心とにとりて、億萬の聲の間に存する、云ふに云はれぬ精妙な差別が如何に多く意義あることぞ。思想に於てかかる差別は特徵を示しがたく、況んや言語に於ては尙ほ現はし難い、然しこの事實と、その莫大な關係的重要性とをよく知らぬものが何處にあらう。

 何れか二人の皮膚が全然同じことは可能で無い。肉眼にすら知覺し得る個々の差異がある、――ゴールトン氏[やぶちゃん注:後に訳者注有り。]は何れの二人の指紋も、同じに見えぬことを我々に敎へたではないか。然し肉眼なり、また顯微鏡下に於てのみなり、それに見ゆる差別に加ふるに、身體の强さ、神經及び腺の活動、生體組織の化學的成分に因る他の性質上の差別があるに相違無い。觸覺が果たしてかかる差別を識別するに足るほど精妙な感覺であるや否やは、精神物理學が決定すべき問題、――單に感覺の量のみならず質の問題である。我々が耳によりて百萬の聲の質的差別を區別し得る如く、觸覺によりても殆ど同じく、精妙な表面の質的差別を區別し得ると想像することは、未だ恐らくは正當ではあるまい。然し聲の或る質によりて我我に起こさる〻快感の刺激は、時には手の接觸によりて與へらる〻身震ひとよく似たることはここに注意するの價がある。生きた皮膚の特性に我々が人を魅する聲と呼ぶところのものの名狀し難い魅力と殆ど同じく、獨得的に人を惹きつける或る者が認めらる〻ことは可能ではあるまいか。

 

譯者註 ゴールトンは英國の人類學者 Sir Francis Galton 18221911)にて遺傳硏究の名著あり、優生學の創始者となる。

[やぶちゃん注:イギリスの人類学者で統計学者・探検家にして初期の遺伝学者でもあったフランシス・ゴルトン(Sir Francis Galton 一八二二年~一九一一年)。母方の祖父は医者・博物学者のエラズマス・ダーウィンで、進化論で知られるチャールズ・ダーウィンは従兄に当たる。ウィキの「フランシス・ゴルトン」によれば、『ダーウィンの進化論の影響を受け、心的遺伝への興味から出発し、人間能力の研究、優生学(eugenics)、相関研究を含む統計的研究法を発達させ、今日の個人』『心理学の基礎をつくった』。彼は、一八八三年に「優生学」という『言葉を初めて用いたことで知られている』。一八六九年の著書「遺伝的天才」(‘ ereditary Genius ’)の中で『彼は人の才能がほぼ遺伝によって受け継がれるものであると主張した。そして家畜の品種改良と同じように、人間にも人為選択を適用すれば』、『より良い社会ができると論じた。当時のイギリスでは産業革命からしばらく過ぎ、社会主義思想の広まりとともに』、『労働者の環境も改善されつつあったが、ゴルトンは社会の発展のためには』、『環境の改善よりも生物学的な改良が有意義だと信じていた』。『統計学における貢献としては、平均への回帰と呼ばれる現象についての記述を初めて行ったことや、相関係数の概念の提唱などが挙げられる』。『ゴルトンは』ヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt 一八三二年~一九二〇年:ドイツの生理学者・哲学者・心理学者。「実験心理学の父」と称される)『同様』、『内観に優れた人物で、心像(image)の研究は有名である』。一八七五年には、異父従兄弟であった『ダーウィンのパンゲン説』(pangenesis:パンゲネシス:動植物の体の各部・各器官の細胞には自己増殖性の粒子であるジェミュール(gemmule)が含まれているとし、この粒子が各部に於いて獲得した形質の情報を内部に溜め、その後に血管や道管を通して生殖細胞に集まり、それが子孫に伝えられ、子孫の体の各器官に再び分散してゆき、親の特徴・形質が伝わるとする説)『をウサギの輸血実験から確かめようとし、パンゲン説を否定してスタープ説』(stirp:一世代から次世代へ形質の特徴を伝える潜在的物質によって遺伝が支配されているとする考え。この物質を「スタープ」と名づけた。「スタープ」は「起源」「家系」を意味するラテン語由来)『を提唱した。これは獲得形質が遺伝しないことを主張した初期の研究である。指紋についての論文の発表や本の出版も行っており、指紋を利用して犯罪者の特定を行う捜査方法の確立にも貢献している』(下線太字は私が附した)。『「祈り」の効果を科学的に検証しようと試み、毎週国民から健康を祈願されている英国王族も、ほかの裕福な貴族と平均寿命は変わらないことを発見した。他にも気象の研究など、幅広い分野で研究を残している』とある。]

 

 恐らくそれは不可能であるまい。然し身震ひそのものの性質に於てそれを起こす接觸の魅力は、滑らかさ、暖かさ、柔らかさの如き身體的結合よりももつと深く生命的な或る物、――ベイン氏が示した如く、電氣的又は磁氣的の或る物に基づくならんとの暗示がある。人間電氣といふものは窓想では無い、すべて生ける體は――、植物でも、――或る度まで電氣的である、そしていかなる二つの有機體の電氣的條件も全然同一ではあるまい。身震ひは一面にそれ等の條件の或る個々の特性によりて說明されやうか。精妙な神經系統によつて認めらるべき接觸の電氣的差別、――百萬の聲の各〻が凡ての他の聲と區別さる〻音色の無限小の差異と同じ程に精妙なる差別、があるのではあるまいか。

 例へば或る特別の婦人が極めて少しく觸れても、それが他のもつと美しい婦人の愛撫に毫しも[やぶちゃん注:「すこしも」。]動かされぬ男に、快感の衝動を起こす事實の說明の爲めにかかる理論が呈出され得る。然しそれは何故に同一の接觸が或る人には歡喜を生じ、他の人には何の影響も無いかの理由を說明し得ぬ。いかなる純然身體的の理論も身震ひの神祕の全體を說明し得ぬ。もつと深い說明の要がある、――そして私は『初見の戀』の現象で、その一の說明が暗示されると想像する。

[やぶちゃん注:「初見の戀」“ love at first sight ”。言わずもがなだが、「一目惚れ」だ。正直、「解體新書」の初訳を読んでいるのかなという錯覚にさえ私は陥る。]

 初見の戀を起こさせる女の力は、通常の目に見ゆる或る牽引力に因らぬ。それは一部は唯だ或る目のみが見得る客觀的の或る物に因る、そしてまた一部は何れの人間も見得ぬもの、――情熱の主格の心理的組織に因る。何人も初戀の謎の全體を細かく說明すると稱し難い。然し一般的說明は進化論哲學によつて暗示さる〻、――卽ち、牽引力は女の力の特別の性質に對する遺傳せられたる個人の感受性に基因し、そしてそれは主觀的には超個人的なる認識の一種を表示する、――通例に『感情的類同』といはる〻遺傳せられたる複合記憶が急に目覺めるのである。たしかに初戀は進化的に說明し得べしとすれば、それは愛する人は凡ての外の女と異る或る物を愛せらる人に認めることの意である、――卽ち彼のうちにある遺傳的理想に應ずる或る物が、以前には潜在したるが、急にその視覺印象の結果によつて照らされて明らかになつたのを認めたのである。

 我々の外の感覺も、それほど深くはあるまいが、視覺と同じ樣に埋もれた過去に達するメロディの單調子、一の聲の快さ――その何れもが祖先以來の記憶の測り知られぬ眠のうちに何といふ測り知られぬ身震ひを起こすのであらう。また、魅力ある、然し定義しがたい――空氣中の或る香が、或る稀な輝きの日に我々にあの云ふにいはれぬ樂みを起こすのを誰れが知らぬものがあらう。春のはじめの息、吹き渡る山風、海からくる南風がこの情緖を來たらし得る、――それは壓倒的な、然しその原因としての名の無い情緖、――空氣の樣に形無く且つ透明の歡喜。精靈となるまでに稀薄にされて、この樂みを起こす、その香は何であるとしても、樂みそのものは奇怪に容積があつて唯だ一個人の經驗の何等かの記憶復活を以て說明しきれぬ。恐らくそれは人間の生命よりも古くて、――死せる快苦の無限盲目の底に深く達するであらう。

 我々のうちにあつて生きた接觸に答ふる身震ひは、それも精靈の深淵から來るに相違ない、――それは心に尋ぬる、男の電氣的接觸、――久しき前に塵に朽ちた無數の纎弱な愛の手で與へられた愛撫の記憶を喚び返す、女の魔術的接觸。それを疑ふな。――我々のうちに身震ひを起こす接觸は我々が以前に感じた接觸である、――多くの覺えられぬ生命に於ける忘られたる親密の感覺の反響である。

 

2019/11/20

小泉八雲 赤い夕日 (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ A Red Sunset ”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第二パート“ RETROSPECTIVES ”の第七話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月29日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲藏譯)/作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「○」は太字下線に、傍点「﹅」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   赤 い 夕 日

 

       

 いままで私が見たうち最も驚倒的な赤色の出現は、或る熱帶地の雲無き空の夕照であつた、それは空氣の異例の狀態に於てのみ見ゆる夕照。それが地平線から頂天まで先づ橙黃色の焰と燃え、忽ちそれが熱烈な朱染めの色濃くなり、其中に眞紅の圓盤が燃え切つた星の餘燼の樣に閃いた。海や峯や椰子樹が冥界の輝きに染まり、私は我がうちに漠然たる不思議の恐怖を覺ゆる樣になつた、――それは夢魔に魘はれる[やぶちゃん注:「おそはれる」。]前の銷魂[やぶちゃん注:「せうこん(しょうこん)」。驚きや悲しみのために気力が失せること。]の感じであつた。其時私は其感じを說明し得なかつた、――私はただ色が其感じを起こしたことを知つて居た。

[やぶちゃん注:小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて、フランス領西インド諸島マルティニーク(Martinique)島(現在もフランスの海外県で公用語はフランス語。小泉八雲はフランス語が得意であった)を旅しており、ここはその折りの体験に基づくもの。]

 然し如何してそれを起こしたのか、――その後私は自らに尋ねた。輝く赤は不快な感じを起こすといふ一般說では、その經驗の怪異を私の爲めに說明するに足らなかつた。其色と血との聯想は殆ど私のこの場合の說明にならぬ、何故ならばこれまで血を見ても私の神經は毫も影響を感じなかつた。心理的遺傳の說は或る說明を與へるかと私は思つた。――が、大人が耐へられぬと思ふ色が、小兒にはいつも娛く[やぶちゃん注:「たのしく」。]思はれる事實を如何にその說で解き得ようか。

 然し凡ての赤い色調が精練された感性に不快であるのでは無い、或るものは全く反對である、例へば石竹色[やぶちゃん注:「せきちくいろ」。ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis の花のような淡い赤色のこと。色見本サイトのこれ。]、または薔薇色などいふ種々のやさしい色がそれである。それ等は頗る快い感覺經驗に訴へ、優雅と柔らかさを暗示し、朱や緋に刺激されたとは全く異つた性質の感覺を生ずる。石竹色は咲ける花、若さの咲き出でた色、――萬物の成熟と、肉の成熟の色で、芳香と甘美との印象及び美しい脣と頰との記憶といつも聯想される。

 いな、氣味惡るい感じを起こすのは、唯だ純粹に輝いた赤、熱烈な赤色である。此色の經驗は我々西洋の歷史の條件と全く異る條件の下に潑展しカ社會にても同樣であつたらしく見ゆる、――日本はその顯著な一例である。文明が益〻精練され、人間らしくなるに連れ、赤色を見ることは修養ある社會に容さる〻[やぶちゃん注:「ゆるさるる」。]ことが愈〻少くなる。然るにその色を嫌ふ人民の小兒が、尙ほその輝く赤色を好む理由は如何に說明さるべきであるか。

 

       

 小兒の時に我々を樂ませた多くの感覺が成人になると無味になり又は厭はしくなる、それは何故か。その理由は、我々が生長すると共に、今はそれに關係を有つて居るが、小兒の時は眠つて居た感じ、今はそれ等と聯想されるが小兒の時は發達しなかつた觀念、それ等と連結して居るが、小兒の時は想像されなかつた經驗が成長した爲めである。

 我々の生れた時は、心は體より更に發育が足らず、その十分な成熟は身體が完全に成長するに要するよりは餘程多くの時間を要す。小兒はその過失に於ても蠻人に似て居る、それは原始人の本能と情緖とが先づ小兒のうちに熟しはじめる爲めである、――然してそれ等の本能と情緖は自己保存に最も必要なので、種族の歷史に於て先づ發展する故に、個人に於ても先づそれ等が成熟する。後に成人となれば此等の本能や情緖は頗る劣等の位地に下る、それはもつと尊い心理的及び道德的の性質それは比較的に近時に社會上の規律と文明の習慣から生じたのである――が漸く重みがついて正規の狀態にあつては本能や情緖を壓倒する、――それが有たな新たな感覺の樣になつて、原始的情緖的性質はその指導を仰がねばならなくなつた爲めである。

 凡て情緖は遺傳である、然し高等の情緖は進化の順序に於て最後のものであるので、頭腦が完全に發展してはじめて成長する。倫理的に考へて甚だ崇高な情緖は老年に於てのみ發達すると云はる、それで老年は特に魅力を賦與される。高等なる外の能力、主として美的能力は、平均を取ると中年に熟すと見られやう。然して個人發達の中年頃に色彩美の一層立派な感覺は屬して居る、――それはよく知られぬ方法でそれに關係しては居るらしき倫理的感覺よりは餘程單純な能力である。

 生き活きした色は蠻人の美感に訴ふるごとく、我々の小兒の根本的美感に訴へる、然し文明の成人は生き活きした色は大槪好まぬ、それ等の色は廉價な管絃樂演奏の金鼓[やぶちゃん注:これは「きんこ」で鉦(かね)と太鼓のことである。しかし、原文は“an excessive crash of brass and drums”“brass”は「管絃樂演奏」(原文“orchestral performance”)なら、間違いなく「金管楽器」のことであるから、この訳はおかし過ぎる。なお、「brass」には真鍮で出来た楽器の意味もあるから、例えば、これを「シンバル」とし、後を「ドラム」或いは「ティンパニ」などに意訳した方が遙かに日本人読者に親切である。どうも岡田氏の翻訳のセンスには私には今一つ素直に受け容れられない部分がある。]の過度の響の如く彼の神經を苛立たせる。修養ある視覺は强く燃ゆる赤色には特に畏縮する。小兒のみが朱や緋を喜ぶ。成長すれば漸次に我々が所謂『高音の赤(ラウド・レツド)』[やぶちゃん注:“loud red”。「loud」には「音が高い」以外に「騒々しい」「五月蠅い」「派手な」「けばけばしい」の意がある。]と呼ぶ色を俗惡と思ひ、それほど優雅でなかつた前世紀先人達が好まなかつた以上にそれを好まなくなる。敎育は何故に彼がそれを俗惡と思ふかの說明を助けるが、それが彼の眼を疲らすや否やの問題から離れて――何故に彼がそれを不快に感ずるかの說明は助けない。

 

       

 それで今私はあの熱帶地の夕日の問題に歸る。

 何れかの美はしい夕日の光景に刺激された通常の美的情緖に於てすら、人類とひとしく昔なる感情の要素がある、――卽ち日沒がいつも悲哀と豫覺を以て見守らる〻時、幾代をかけて遺傳した暗い幽鬱[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じ。]。暗い恐怖がそれである。あの偉大な光明の後に、原始的恐怖の幾時間、――暗黑の恐れ、夜の敵の恐れ、幽靈の恐れ。此等及び其他の氣味惡るい感情は、日光が退去した後に續く身體の銷沈[やぶちゃん注:「しやうちん(しょうちん)」。「消沈」に同じい。]から離れて、――遺傳によつて情緖的に日沒の光景に關係する樣になつたのであらう、而して原始的恐怖は遂に近代の壯美の感の元素的調子に進化的に變質するのであらう。而し巨大な緋の色の日沒の光景は壯美の感よりも、もつと漠然で無い感情卽ち明白に凶兆の感情の一種を目覺ますであらう。その色自らが、單にそれと恐ろしい光景との關係の爲めに遺傳せる感情の特殊の種類に訴へるであらう、――卽ち、噴火山の頂の輝き、熔岩の激しい朱の色、森の火の暴(あら)び、戰亂の途に當たりて燒くる都市を掩ふ照明、壞敗の燻り、葬送の薪の燃ゆるなど。そして北人の想像せる『掠奪の精靈(レーヴエング・ゴスト)』の如き破壞者としての火に關する物凄き種族の記憶に、そこに苦痛との關係に於ける緋色の熱についての祖先以來の經驗を通じて發展した漠然たる悲痛、――卽ち有機的な恐怖が混ずるであらう。然して天の現象に於ける、それに似たる洪大な色は、古來凶兆と神怒の觀念に關係ある遺傳的恐怖をまた復活させるのであらう。

[やぶちゃん注:「北人の想像せる『掠奪の精靈(レーヴエング・ゴスト)』」原文は“the “ravening ghost” of Northern fancy”。「ravening ghost」はよく判らない。北欧神話のトロール(妖精とされるが、古くは幽霊とも考えられたようである)の内の、性質(たち)の悪い連中(人を略奪したり、捕えて食ったりする輩もいる)を指すか。それにしても意味は分かるが、殆んど造語に近い「北人」の訳は漢文じゃあるまいし、もう、げんなり、不快だ。「北方(の)民族」なり「欧州北方の人々」と訳そうと何故、岡田氏は考えなかったのだろう? 不思議でならない。

 

 蓋しこの憤怒の色が人間に起こさせる不快感の最大元素は火に對する種族の經驗から成つたのである。然し最も生き活きした赤に於てすら、いつも情熱の暗示、血の色の或る暗示がある。死の光景に關係ある遺傳的情緖は色によつて刺激さる〻氣味惡るい感情の要素のうちに敎へられねばならぬ。疑もなく人に取りても、牛に於ける如く激しい赤色の現はれによつて喚起さる〻情緖の波は、主として種族の莫大な全生命を通じて集められた諸〻の印象と傾向の創造である、そして歌人トマスの昔話の如く、我々は我々の唯一眞實の仙境、卽ち精靈的の過去に就いて、

 

    ﹅﹅﹅大地の上に流れた血汐

    それなる國の泉を洗ふ

 

と云ひ得よう。

譯者註 歌人トマス Thomas the Rhymer は第十三世紀のスコツトランドの歌人、また魔術者にて今尙ほ死せず、或る仙境に住むと思はれて居る。

[やぶちゃん注:「歌人」はママ。トーマス・ザ・ライマーについて、平井呈一氏は恒文社版「赤い夕日」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で割注され、『Thomas the Rhymer1200――97?)は、文学史上十三世紀のスコットランドの詩人ということになっているが、伝え残っている「トリストレム」』(Tristrem:トリスタン伝説を扱った中世語で書かれた現存唯一の詩篇とされっる)『の詩だけが有名だが、果たしてその作者であるかどうかも不明だといわれている。予言をする魔法家で、その霊は、今日なお仙境に生きていると言われている』とある。英文ウィキ「Thomas the Rhymer」はあるが、邦語で書かれたものは、サイト「バルバロイ!」のこれぐらいしか見当たらない。引用は、この詩篇ロシア人の方のサイトであるが、恐らくは元の中世語に近い英語で書かれたものが、全篇、示されてある。英語サイトを調べたところ、単語の一部が現代の英語に書き変えられているものがあったが、小泉八雲の引用と一致するこのサイトを採った)で、「Part First」の第十六連の後半二行である。]

 

 然し燃ゆる赤色を近代人の神經に耐へられぬものとする、それ等の聯想そのものは、それがはじめて華奢の色となつた時に既に非常に古いものであつたに相違ない。さらば如何にしてかかる聯想が今我々に不快な影響を及ぼすのであらうか。

 私はこの色の情緖的暗示が、それが現今よりも、もつと漠然で且つ容積がずつと少かつた時に於てのみ、今尙ほ小兒に取りて然る如く、成人に取りて快感たるを失はなかつたと答へ樣と思ふ。近代人の頭腦の中で、それが强くなると次第に快感たるを失つたので、――それは暖かさが熱の度に[やぶちゃん注:「たびに」。]昂まつて快感を失ふと略ぼ同じであらう。更に後になると、それが苦痛となり、そしてその實際の苦痛は、その色が嘗て起こさせた光景と力の感覺の本來野蠻なる性質を暴露する。そして赤色によつて起こされた感情の强くなるのは感情的印象の其後の集積に因るのみならず、本質的に强暴と苦痛の觀念と反對で、しかもそれと離れられぬ情緖の成長發達にも因るのである。我々の祖先の幾多の娛樂を、昔の野蠻の影の世界へ追放した時代の道德的感性、――文字通りの火の地獄を信じなくなり、一切の殘酷な競技を禁じ、動物の愛護を强ゆる[やぶちゃん注:ママ。「强(し)ひる」。]時代の人道、それが赤色の殘酷な暗示を嫌ふのである。然し成長徐々たる小兒の頭腦にあつては、この近代的感性はまだ發展しきらず、――それが經驗と敎育の助によつて發展するまでは、生き活きした緋色によつて起こさる〻感情は自然に苦痛よりは快感として繼續するであらう。

 

       

 かくの如く他の世紀に於ては帝王らしき威嚴のあつた色が、現世紀に於ては厭はしくなつた理由を說明せんと試みるうちに、私は我々の今の品位あるものの多くも、將來の時代に同じ樣に俗化しはせぬかと思ふ樣になつた。我々の趣味の標準、我々の美の理想は恆に變化しつつある條件に關係してのみ價値を有ち[やぶちゃん注:「もち」。]得る。現實と理想とは共に變遷する、――それ等は永遠の轉生の波動に於ける表面上の動搖に過ぎぬ。蓋し今日の最も倫理的または美的なる感情は他の時代には或る例外なる心理的隔世遺傳(アタヴイズム)[やぶちゃん注:“atavism”。私は「先祖返り」の訳の方が判りがいいと思う。]、――野蠻の過去の狀態への或る個人的復歸に過ぎぬと見らる〻であらう。

 其間に今、現に耐へられなくなりつつある感覺の運命は、何となるのであらうか。如何なる精神上または身體上の能力でも、それが以前に進化的必要によつて發達したとしても、それが有用でも快樂でもなくなつた瞬間から、縮少し消滅する傾向を有つのであらう。赤を認める力の繼續はその力が種族にとりて、將來有用であり得るや否やによつて定まるであらう。なほそれが色を生ずるエーテル[やぶちゃん注:「エーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次譯)」の私の注を参照されたい。]の振動の最低程度を代表する事實も、これに聯關して暗示することが無いことはなからう。蓋し我々が益〻それを好まなくなれば、その色を辨別する力が結局は消滅し――色の階段の低い端に於てのダルトニズム[やぶちゃん注:“Daltonism”。後に訳者注有り。]の一種になつて消滅するのであらう。蓋しかかる視覺的消滅は網膜の感性がそれと共に優等なる分化を行ふによりて償つて餘りあるのであらう。更に高等に組織せられた時世の人々は、今日想像されぬ色彩の驚異を樂むことが出來て、しかも決して赤色を認め得られぬかも知れぬ、――少くとも我々の進化上の過去の苦悶と激怒との幽靈のやうな餘燻の感覺を生ずる赤色、――名づく可からず、測る可からざる畏怖の執着的出現、――死滅せる人間苦の巨大なる幻の威嚇たる赤色は認められぬかも知れぬ。

譯者註 ダルトニズムは色盲のこと、英國化学者John Dalton17661844)の說による名。

[やぶちゃん注:イギリスの化学者・物理学者・気象学者ジョン・ドルトン(John Dalton 一七六六年~一八四四年)。「原子説」の提唱者として、また、理想気体の混合物の圧力が各成分の分圧の和に等しいことを示す「ドルトンの法則」(「分圧の法則」とも呼び、一八〇一年に発見)で知られる、幽霊染みた肖像画にみんな落書きをしたであろう、あのドルトンである。彼は自分自身と親族の色覚を研究し、自らが先天色覚異常であることを発見し、所謂、「色覚異常」を意味する英語「ドルトニズム(Daltonism)」の語源となったのである。]

小泉八雲 晩歌 (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ A Serenade ”。「一つの小夜曲」)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第二パート“ RETROSPECTIVES ”の第六話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月29日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲藏譯)/作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   晚 歌

 

       

 『破られた』といふと餘りに唐突な語であつた。私の眠は破られたのでは無い、が急に外の夜からの音樂の流で溶かされて一掃された、――その優雅な最初の音で私に歡喜の豫期を充たした音樂、晚歌、――笛とマンドリンの演奏。

 笛は鳩の鳴く調子で、それがククと鳴き、悲しさうに鳴き、また水の渦卷く樣に鳴いた、――そしてマンドリンは心臟の鼓動する如くに、笛の流る〻音の中で震るへて居た。奏樂者は見えぬ、彼等は熱帶の月が街路に投げた重い影のうちに立つて居た、――それはプランティン樹とタマリンド樹の影。

[やぶちゃん注:「プランティン樹」“plantain”。単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属交雑種プランティン(通称。表記は英語のネイティヴの聴き取りに最も近いと判断したもので示した。和名通称はリョウリバショウ・クッキングバナナなど)Musa × paradisiaca (具体的にはゲノム分析によってマレーヤマバショウ Musa acuminata とリュウキュウバショウ Musa balbisiana の交雑種であることが判明している)交配種 Musa acuminata × Musa balbisiana。実はバナナと異なり、一般的には料理に用いられる果物で、バナナよりも固く、糖分が少ない。熱帯地方の主食であり、主食としては世界第十位に位置する。バショウ属は全てマレー諸島(インドネシア・フィリピン・マレーシア)を含む東南アジアと北オーストラリアを含むオセアニアの熱帯地方に由来するが、本種は広く熱帯域に移植されており、中央アメリカやカリブ海の諸国にも植生している(以上はウィキの「プランテン」等に拠った。リンク先に果実の写真有り)。小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて、フランス領西インド諸島マルティニーク(Martinique)島(現在もフランスの海外県で公用語はフランス語。小泉八雲はフランス語が得意であった)を旅しており、ここはその折りの体験に基づくものか。

「タマリンド樹」“tamarind”。双子葉植物綱マメ目マメ科ジャケツイバラ(蛇結茨)亜科タマリンド属タマリンド Tamarindus indica。アフリカの熱帯が原産で、インド・東南アジア・南北アメリカ大陸などの亜熱帯・熱帯地方で栽培されている。樹高二十メートル以上になる常緑高木。葉は長さ十五~二十センチメートルの羽状複葉で、小葉は十~二十片で長楕円形を呈する。花は総状花序をなし、五弁で直径三センチメートルで、黄色に橙色又は赤色の筋が入る。果実は長さ七~十五センチメートル、幅二センチメートルどのやや湾曲した肉厚な円筒形の莢(さや)で、黄褐色の最外皮は薄く脆い。一個乃至十個の黒褐色の扁平な卵円形種子で、その間隙にペースト状の黒褐色の果肉が満たされてある。この果肉は柔らかく、酸味があり、食用とされる(以上はウィキの「タマリンド」に拠った。リンク先に写真有り)。]

 すべて菫色のほの暗さの中に動いて居たのはその音樂と螢ばかり、――螢は橙黃と鮮綠の大きな輝いた遲い火花であつた。暖かな空氣が呼吸を止めて居た、椰子の葉は靜かであつた、そして海のいつも目につく輪は、月下に於てすら靑く、音も無く煙霧の輪の如く橫たはつて居た。

[やぶちゃん注:「海の輪」確かに“the haunting circle of the sea”である。この場合、「haunting」は恐らく「いつもそこに姿を見せている」という常在感覚の表現であろうが、問題は「circle」で、「輪」では意味がとりにくい。平井呈一氏は恒文社版「小夜曲」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では、『いつもと変わらぬ紺碧の海は、大きな夜霧の輪となって、音一つたてずにひろがっていた。』と訳しておられるが、そこでは後の“a circle of vapor”「輪」を訳しながら、前のこちらの「輪」をカットしてしまっている。思うにこの「circle」は「圏」「気圏」の意ではあるまいか? 敢えて訳そうなら、さしずめ、「海圏」(かいけん)であろうかと私は思っている。

 

 笛とマンドリン――西班牙[やぶちゃん注:「スペイン」。マルティニーク島の周辺島嶼国は孰れもスペイン人が定住し、スペイン文化の影響力が強いから、奇異ではない。]のメロディ――外に何も無い。それでも夜自らが語つて居るかと思はれた、または、久しき以前に自然の神祕のうちに溶け去つたが、猶ほも日の照るうちは眠り、星にのみ目を覺ます、その不思議な世界の生溫い、芳しい、燦めく暗を徨ひ續けて居る或る感情的な生命が、その夜のうちから語つて居るかと思はれた。そしてその言[やぶちゃん注:「いひ」と訓読しておく。]は、嘗て有りて今は再び有り得ぬ歡喜と、精靈の如く反覆して居るのであつた、――それは無限のやさしさと不測の悔恨を語るのであつた。

 いとも單純な音樂が他の藝術のとても暗示し得むものを表現し得ることは私はいまだ嘗て感じなかつた、――飾も無く、技巧も無いが、それで希臘人[やぶちゃん注:「ギリシヤじん」。]の最上の優美の認識の樣に、それほど蠱惑的で不可解な感興を有つて居るメロディの驚く可き可能性を嘗て知らなかつた。

 さて完全な藝術に於ては何物もただ逸樂的ではあり得ぬ、そしてこの音樂はその愛撫的なるに關らず、測られぬ程に、拭ひ難い程に悲しかつた。そしてそれ程單純な動機に於て幽鬱[やぶちゃん注:「憂鬱」と同じ。]と流動との精妙な混合、――鳩の叫ぶ如くククと鳴く一の低い長い音の再三の反覆、――それが消滅した時間の音樂的なる思[やぶちゃん注:「おもひ」。]の如き美の不思議を有つて居た、――我々自らの時代よりも、もつと溫かい人間的な時代からの生存、――或る失はれたるメロディの術からの一の稀有なる生存を有つて居た。

 

       

 音樂が靜まつた、そして私は夢みながら殘された、そしてその樂が起こした情緖を說明せんと試みても効がなかつた。ただ一の事は慥であると思つた、――卽ちその神祕は自分の存在以外の諸〻の存在のものであるといふこと。

 私は反省した、生きて居る現在の爲めに死せる過去の全體があることを。我々の快樂と我々の苦痛と共にただ進化の所產である、――巨萬の海の砂よりももつと數へ難い失せたる存在者の經驗によつて創造された感性の巨大な複雜である、凡ての人格は結合を重ねたものである、そして凡ての情緖は死者のものである。それでも或る者は他の者よりもつと精靈らしく我々に見ゆる、――それは一つには、それ等の一層大なる關係的神祕の爲めで、一つにはそれ等を組成する幻の波の無限の力の爲めである。快い形のうちで、最も精靈らしいのは初戀の情緖、自然に於ける壯美――恐ろしい美の知覺に續いて起こる情緖、――そして音樂の情緖である。それ等は何故に然るか。思ふにそれ等を起こす勢力は我々の忘れられた過去に最も遠く振動を及ぼす爲めである。一の思考する生命の深さは空間の深淵の深さの如く恐ろしく――何百萬の時代を以てしても測り難い、――そして或る人格に於ては如何に深くその神祕が動かされ得るかを誰れか明らめ得よう。我々は唯だ振動が深い程、反應する波は重く、そして結果はいよいよ怪異で、――遂には單一の波動が卽死を來たし、または思想の纎弱な構成を永久に零落させる樣な、それ等の深遠なるところに達するに到ることを知るのみである。 

 さて如何なる音樂にても、我々のうちなる過去の隱れたる感情を醒まして、愛の情緖に强く訴ふるものは、是非とも死せる快樂と等しく死せる苦痛を呼び起こさざるを得ぬ。抵抗し難いそして無慈悲な神祕によつて意志を征服された苦痛、疑惑の苦悶、競爭の苦艱[やぶちゃん注:「くげん」或いは「くかん」。苦悩に同じ。]、非永久性の恐怖、――此等及び多くの他の悲哀の影は、同時に愛の喜びと愛の苦を生じ、永久に誕生より誕生に成長する、その心理的遺傳の調べを作るにも參與したのである。

[やぶちゃん注:「此等及び多くの他の悲哀の影は、同時に愛の喜びと愛の苦を生じ、永久に誕生より誕生に成長する、その心理的遺傳の調べを作るにも參與したのである。」原文は“shadows of these and many another sorrow have had their part in the toning of that psychical inheritance which makes at once love’s joy and love’s anguish, and grows forever from birth to birth. ”である。逐語的には、その通りだが、この部分を一読で意味を採れる日本人は少なかろう。平井氏は、ここを『こういうものの影や、そのほかの多くの歎きが、愛の苦しみを同時にうむ霊的な遺伝に同調して、そして永遠に生々流転していくのである。』とされており、何の躓きもなく読み終わることが出来る。

 かくして小兒が情熱や其の苦痛を知らざるに、なほよくその何れかを談る音樂によつて淚を催すまでに感動もせらる〻ことが起こり得る。知らずして彼はその音樂が無數の消えたる生命の悲哀の影を談ることを感ずる。

 

       

 然しあの熱帶地のメロディによつて醒まされた非常な情緖は以上試みた說明よりも一層性質的の說明を認する樣に私は思つた。慥に音樂が訴へた死せる過去は或る特別の過去であつたに相違ないと私は感じた、――或る情緖的記憶の特別の階級または集團に觸れたのだと感じた。然し何の階級か、――何の集團か、――暫くの間は私は想像を試みることも出來なかつた。

 然るに久しき後、或る偶然の事が驚くべく明らかに晚歌の記憶を復活した、――そして同時に、默示の如く、そのメロディの全魅力――その一切の悲しさとその一切の快さとは――最上にまた獨得に女性的のものであつたことが確實であるとの思が現はれた。

 新しい悟りが私に現はれると共に私は反省した。『慥に一切の人間のやさしさの原始的根元は永遠の女性であつた……然し如何にして唯だ女性の魂を談るメロディが男性に作曲され、そして男性のうちに此の名狀し難い情緖的記憶の生命を起こすのであらうか』

 その答は直に形を成した、――

 『あらゆる男は幾百萬度も女であつたのだ

 

 疑もなく兩性の何れにも、兩性の感情と記憶の全量が存して居る。然し或る稀なる經驗は時には人格の女性的要素、――卽ち自我の幻の世界の一半にのみ訴へて、他の半分を眠りで光無きに任すことがある。そしてかかる經驗は、私が聽いた晚歌の驚くべきメロディのうちに具體的に存したのであつた。

 あの打震ふ快さは決して男性的で無かつた、あの感情的悲哀は決して男のもので無かつた、――何れも單性的で調べの美の單一の奇蹟のうちに混和して離れぬものであつた。私自らの過去の神祕のうちに遠く反響しつつ、その調の魅力は幾代の眠から無數の埋れた愛を呼び出して、纎弱な群を殘らず或る薄膜の樣な復活の苦痛のうちに羽搏きさせ、――時の夜を通じて流動させ、――ダンテの見た幻の薄明りの中を永久に渦卷きゆく巨萬のものの如くにしたのであつた。

[やぶちゃん注:イタリアの詩人で政治家でもあったダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri 一二六五年~一三二一年)の代表作である「神曲」( La Divina Commedia )で、ダンテが古代ローマの詩人ウェルギリウスとともに地獄と煉獄へ下降してゆくさまを指している。]

 

 彼等は音樂と月と共に消えた、――然し全くさうでは無い。何時でも夢にあのメロディの記憶が還るとき、私は再度死者の長い柔らかい振動を感ずる、――再度私はあの幽靈の樣な笛のククと鳴る音に答へ、あの影の樣なマンドリンの振動に答へつつ、微かな翼が張られて震るふのを感ずる。そして彼等の群居の魔の樣な歡喜が私を目覺ます、然し、何時も私の目覺めると共に快樂は去つて、暗の中に悲哀のみが彷徨する、――名狀し難い――無限なる……!

 

小泉八雲 蒼の心理 (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Azure Psychology ”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第二パート“ RETROSPECTIVES ”の第五話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月29日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲藏譯)/作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 なお、本文内の原注にも示されているように、本篇は非常に珍しいことに、初出が本作品集ではなく、同じ年の明治三一(一八九八)年一月発行の雑誌『帝國文學』(第四巻第一号)に発表された、その再録である。但し、以下に見る通り、『數年前に書いた』と小泉八雲は言っており、そこで『一八九七年の間に』という年を示しているから、執筆は、その頃か。

 傍点「﹅」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   蒼 の 心 理

 

       

 自然が鳥と蟲と花とに與へた最も稀な色は、輝く純な靑である。靑い花の咲く植物は他の何れの原色の花が暗示するよりも停滯しなかつた發達のより長い歷史を保有するものと信ぜられる、此色の高價なことは園藝家が靑い薔薇または靑い菊を造ることが不能であつたことで凡そ暗示されて居る。生き活きした靑は或る驚くべき鳥の羽や、或る珍らしい蝶――特に熱帶地の蝶の翼に現はれる、――然しそれは通常進化的分化の莫大な時代を思はせる條件の下に於てである。要するに靑は花と鱗と羽の進化に於て發達した最後の純な色であつたと思はれる。そして靑を認識する力は赤と綠と黃とを辨別する力が既に得られた後に漸く得られたと信ずべき理由がある。

 この假說の眞僞はさてきき、諸原色のうちで靑のみが現代までも高等文明の人種の視覺にも、その最純な强さに於て、快い色として殘されたことはたしかに注意に價する。輝く赤、輝く綠、輝く橙黃色、黃、または紫色[やぶちゃん注:底本は「黃色」であるが、原文は“or violet”であるので、誤植と断じて特異的に訂した。]は我々の第十九世紀の衣服や裝飾に稀に用ゐらる〻のみである。此等の色はそれが與ふる感覺の激烈な爲めにその分光的の純粹性に於て嫌はしい[やぶちゃん注:「いとはしい」。]ものとなつた、――此等は小兒や、全く未敎化の者や、蠻人の原始的美感にのみ受納されて殘つて居る。現代の美人で緋の衣を着たり、また華美な綠の衣を纒ふたりするものが何處にあらう。我々は我々の室を黃色や蕃紅花(サフラン)の色に塗ることは出來ぬ――その樣な考ばかりでも我々の神經は攪される[やぶちゃん注:「かきみだされる」と訓じておく。]。然し天の色は今も我々を喜ばすことを止めぬ。空の靑はなほ我々の最も美しい人が衣の色としてもよい、そして蒼の天井と蒼の壁の表の光彩ある魅力は――光明と面積の或る條件の下に――今猶ほ認められて居る。

[やぶちゃん注:「蕃紅花(サフラン)」“saffron”。ここは上質の単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科クロッカス属サフラン Crocus sativus の雌蕊を乾燥させた生薬・香辛料であるそれの紅い色を指していよう。但し、当該のサフランは、水に溶かすと、鮮やかな黄色になる。

「蒼い天井」ここで小泉八雲は始めて“azure”という単語を用いており、岡田氏が前で「靑」と訳しているのは総て“blue”である。英語の「azure」(アジュア)(アズール(ポルトガル語「azul」・スペイン語(azur)など)やフランス語の「azur」(アジュール)の語源はペルシャ語の「ラジュワード」が語源で、この語はもとは現在のトルキスタンにある地名であったが、その地で産出する青色の宝石「ラピスラズリ」(lapis lazuli)を意味するようになり、さらに色名となったもので、「ラピスラズリ」はラテン語で「lazhwardの石(lapis)」の意である。「azure」はブルー(青)の中でも特に「明るく鮮やかな青」を表わし、「海の色」「空の色」と表現されることも多い(以上はウィキの「アジュールに拠った)。サイト「原色大事典」のこれが「アジュール」で、これが「ブルー」である。]

 或る人は云ふであらう、『それでも我々は建物の外面を空の靑色に塗りはせぬ、そして空の靑色の家の正面(フアサアド)は橙黃色や紅の正面よりももつと不快であらう』と。それはさうだ、然しその色の大きな表面に及ぼす効果が必らずしも不快である爲めでは無い。唯だ生き活きした靑は、外の輝く色と異つて、我々の自然の經驗に於て決して大きな不透明な立體と連想せられぬ爲めにのみそれは眞である。山々が我々に靑く見ゆる時、それはまた精靈の如くなりそして半透明になる。その色を家の正面にすれば、それは怪異に思はれる、何となれば不自然の觀念、――巨大な靑い死せる立體が手の觸れられる程近くにあるといふ觀念を與へるからである。然し靑い天井、靑い穹窿、靑い廊下の壁はその色と深さ及び透明性との關係を暗示して、空間と夏の光との爽快な幻覺を我々に生ぜしめる。之に反して黃は家の正面にふさはしい色である、何故なればそれは蒼白い廣き表面の上に暮れ行く日の美しい効果と記憶に於て連想されるからである。

 然し靑の次には黃が諸原色中の最も快い色として殘るが、それは靑の如くその凡ての光彩ある力に於て藝術的目的の爲めに度々用ゐられぬ。黃の蒼白な調、――特にクリーム色の調は、――藝術的使用の百般の變種を可能にする、然し輝きて燃ゆる黃にさうはならぬ。唯だ靑のみがその最も生き活きした純粹さに於て何時も快い――但しそれは靑の堅さ及び靑の不透明の如き變則を暗示する樣な塊狀の表現に用ゐられぬことを條件とする。

 

註 靑い寶石、靑い目、靑い花は我々を娛ます[やぶちゃん注:「たのします」。]。然しこれ等に於てその色は透明若しくは柔らかく見ゆることを伴なふ。空の靑色の表裝をした書籍が見るに耐へられぬのは堅い不透明と靑との不釣合な爲めであるらしい。私はそれより非道いものを想像し得ぬ。

 

 西洋の影響に基づく不調和が一時出現して居るに係らず、――今も尙ほ色彩學の完全な良趣味の國といふべき日本に於ては、殆ど何れの通例の街路の通景(ヴイスタ)[やぶちゃん注:原文は“street-vista”。両側に並木や丘陵・山などのある細長い長く延びた見通しの利いた街路風景。]も色に對する種族の經驗を談る。その通景の一般調子は上の方は靑みがかつた灰色で、下は暗い靑で、それが白や冷たい黃の多くの小さな物件で鋭く浮き上がらせてある。この透明に於て靑みがかつた灰色は屋根の瓦と幕張りを示し、暗い靑は店の暖簾で、輝く白は漆喰を塗つた表面の狹い切れ[やぶちゃん注:原文は“the bright whites, narrow strips of plastered surface;”。この「strip」には「商業地」の意があるから、「輝く白は表面を漆喰で塗った商家の長く続く壁」の謂いではあるまいか?]、蒼白い黃は主として滑らかな木地と疊表の微かに見ゆるのである。諸〻の色の廣い幅が更に暖簾や看板に書いた白地に黑(時には赤)、靑地に白又は金色の無數の文字の點點で浮き上がらせられまた柔らげられる。强い黃、綠、橙黃、紫は見られない。衣服にもまた灰色と冷たい色が多い、若し小兒または若い娘が着けて居る、すべて輝く色の衣裳または袴を見ることあらば、その色は空の靑か、または菫

色で、それに蒼を燃え立たすに足るだけの赤が混じて居て、精妙な光彩の虹の菫色と見ゆるのである。

 

註 此論文は數年前に書いたのであつた。一八九七年の間に私は日本到着以來初めて、季節の流行に暗い綠と薄い黃の散らしてあるのを注目した、然し衣服の一般調子にそんな古趣味にとりての例外の爲めに殆ど影響されない。薄い黃は唯だ小兒の或る帶にのみ見られた。

 

       

 然し私は美術や工藝に關しての靑の美的價値を談り、または光のエーテルの一秒に六千五百億囘振動の產としての靑の視覺的意義を語らうと欲するのでは無い。私は唯だ其色の心理に就いて、――その主我的進化の歷史に就いて何か云はうと思ふ。

[やぶちゃん注:「エーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次譯)」の私の注を参照されたい。]

 慥に同じ靑の現はれで、異る人々の心に感情の異れる程度を生じ、そして不同の經驗の記憶再現から全く異れる空想を活動させることがある。然しかかる主として個人的で且つ皮相的なる心理的變化は別として、此色が一般の人の心に快感の共通性を喚び起こすことは疑が無い、――それは活潑な身震ひ、――感受性と想像の一層高い地帶と誤無く關係しある情的活動の調である。

 

 私自らの場合には生き活きした靑を見るといつも漠然とした喜びの情が伴なつた、――その强さは其色の光の度で多くもなり少くもなつた。そして旅行中の一の經驗、――アメリカの熱帶地への航行、――の時に此旅情は歡喜となつた。それは私がはじめて此世界に於ける靑の最も壯大な光景――メキシコ灣流の光榮――を見た時であつた、その魔術的莊嚴が私の感覺を疑はしめた、――百萬の夏の空がそれを作る爲めに純粹な流動の色に凝結したかと思はるばかりの燃ゆる蒼であつた。その船の船長が私と共に欄干に倚りかかり、我々は共に默して長い間驚くべき海を眺めて居た。それから彼は云ふた、

 『十五年前に私は此旅路に妻を連れて居ました――私達が結婚したすぐ後、さうでした――そして妻はこの水に驚きました。妻は此水と同じ樣な色の絹の衣を買つてくれといひました。私は隨分方々で探しましたが、とても見附かりませんでした。或る時偶然に廣東に行きましたが、日々支那人の絹店を周つて、其色を探しましても中々見附からず、それで、たうとう手に入れました。家に持つて歸りましたとき、妻の喜びは一方で無かつたのです……妻はまだそれを有つて居ます……』

[やぶちゃん注:小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて、フランス領西インド諸島マルティニーク島を旅している。]

 

 今も猶ほ、時々、眠の中に、私は再度あの目眩く波立つ蒼の驚異の上を南に航行する――そのうちに夢は急に世界を橫斷して變じ、私は船長と、灣流の靑の絹を尋ねあぐんで、狹い暗い奇妙な支那街を共に行く。そして靑色が喚び起こす悅びの理由を先づ私に考へさせたのは此の熱帶の日の記憶であつた。

 

       

 思ふに靑の光輝ある視覺に刺激された快き情緖の波は、何れか他の純粹な色の巨きな現はれによつて起こされた感情に比して、一層複雜なものではあるまい、――然しその複雜の質に於てそれが高等である。何故なれば、その容積の中に混じた觀念的元素は、最も尊いものを少からず含有して居る、――宇宙的情緖の作成にも入り來るものを少からず有つ。

 我々の地球の精靈の色、――世界の生の息の色、――と思はれて、――靑はまた日の巨大と夜の深淵とを現はす色である、故にその感覺は高度洪大深遠の諸觀念に訴ふ。

 なほまた時間に於ける空間の觀念にも。何となれば靑は距離と漠然との色なる故に。

 運動の觀念にもまた。何となれば靑は消滅出現の色なる故に。峯と谷、灣と岬は我々が遠ざかるに從つて靑くなる、我々が家路に還れば靑の中から此等のものは現はれ出でて再び定かな姿になる。

 それ故に靑の感覺が我々に起こす感情の容積の中に變化の經驗、――卽ち數へがたき祖先の別離の悲、――と連合する情緖の或る者が有るべきである。然し何か、かかる朧げなるものが殘るとしても、それはかの暖かさとに關係せる、――また雲なき日の光の中なる過去の人類の喜悅に關係せる、――凡て照り亘る情緖的遺傳のうちに全く陷沒して失はれて居る。

 なほ一層有意義なるは、靑は神聖の色ではあるが、それが起こす感情の主調は喜びとやさしさであることである。靑は我々に死者と神々のことを語る、然し決して彼等の畏ろしさを語らぬ。

 

 また我々が、靑は神明の觀念の色、汎神觀の色、倫理の色であつて、――我々の敬畏と正義、義務と渴仰の情操が附屬する思想の組織にまで最も深く浸徹する色であることを思へば、我々は何故にそれが喚び起こす情緖が至上の喜悅であるかを不思議に感ずることもあらう。それは靑空の感覺的人種經驗、――有機的記憶に於て我々各自に傳へられた、光明と溫暖とに對する死者の無限の喜び――は宗敎觀念よりも遙かに古く、それ故に、その色彩感覺に間接に關係せる何れの倫理感情をも溺らすに足る程に、容積がある爲めではあるまいか。一面は疑も無くさうである、――然し私はも一つ別の、甚だ單純な說明を試みよう、――

 

 靑の印象に應ずる遺傳感情の波に於ける一切の道徳的脈搏は唯だ信仰の美はしきやさしき光景にのみ屬す

 

 ここまで試みられたので、私はも少し先きまで進んで見よう。

 我々の多くのものにとつりて、靑の視覺で喚び起こされる快感の此波に於ける最有力なる要素の一は、其語の十分倫理的な意義に於ての靈的であると私は想像する、――卽ち其色と經驗的に連合する個人的情緖の移り去る表面の叢の下に、敎へられぬ諸〻の時代を傳へたる宗敎的情緖が波の如く脈搏して居ると思ふ、――そして美としての靑の遺傳感覺を勵まし生かしつつ、神祕的光榮として、――永久の平和の色として、――の靑の遺傳されたる光輝の歡喜があると思ふ。これまで想像された一切のパラダイスに對する凡ての人間の渴望の或る者、――死後再會の約束に對する凡ての前存したる信賴の或る者、――終わりなき若さと祝福の凡て消えたる夢の或る者――が、いくらか微かにこの蒼の悅びの身震ひのうちに我々の爲めに復活せられやう。熱帶地の潮流の寳玉の輝きの下に、更に大なる海よりの波動が、――その鳴咽と囁語[やぶちゃん注:「ささやき」と訓じておく。]と、その逃ぐる如き漂流と泡沫[やぶちゃん注:岡田氏は音読みしているであろうが、「しぶき」或いは「うたかた」と訓じたい。]を以て、――通ずる如く、その如く、輝く靑の視覺によりて喚起された情緖を通じて、無限のうちより、――(一瞬の靑の感覺を作る億萬のエーテルの振動の如く多樣なる)――昔の信仰の一切の渴仰と、消滅した神々の力と、人間の口に唱へられた一切の祈禱の情熱と美とが、如何にかして我我に搖れ還るのであらう。

 [やぶちゃん注:「――終わりなき若さと祝福の凡て消えたる夢の或る者――」これは、日本語として意味が採れない。原文は“—of all expired dreams of unending youth and bliss,— ”である。訳すなら、「――—永遠の若さと幸福という消え去った夢の中で、――」であろう。しかし、文脈に即して訳すなら、平井呈一氏の『――尽きせぬ若さと歓びをたのむ夢――』が素敵で、全く躓かない。

小泉八雲 若さの香 (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Parfum de Jeunesse ”。「パルファン・ドゥ・ジュネッス」(私なら、「青春の香り」と訳す)はフランス語。小泉八雲はフランス語が得意だった)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第二パート“ RETROSPECTIVES ”の第四話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月29日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲藏譯)/作品集「異國情趣と囘顧」の「改顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注は、ポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   若 さ の 香

 

 一人の舊友が彼の若き日のロマンスを私に談りていふ[やぶちゃん注:「かたりていふ」。]、『彼女が家に歸るときになれば、私は燈無き外套の室(クロオク・ルウム)でも彼女の外套をいつも採ることが出來た。私は暗でもそれが判かつた、それには甘い新しい乳の香があつたから……』と。

 このことが何としてか私に英國の曉、乾草の野の香、ホオソオンの咲く日の香を思ひ起こさせた、――すると我が友の終の語が私の耳に尙ほ殘るうちに、私の半生の上に閃いた記憶の大きな弧線を通じて思ひ出の房また房が連續して輝き出でた。そして追想が燻つて夢想になつた、――若さの香の謎に就いての夢想に。

[やぶちゃん注:「ホオソオン」“hawthorn”。バラ目バラ科ナシ亜科サンザシ(山査子)属セイヨウサンザシ Crataegus oxyacantha 。但し、実際に特定種に比定出来ていないため、現在はこの学名は学会では除去されているとされる(但し、今でもしばしば使用されるともある。その辺りは、英文の同種のウィキを見られたい)。同旧種についてのネット上の記載によれば、落葉低木で、ヨーロッパ中部・イギリス・北アフリカから中央アジアに分布する。高さは凡そ四~九メートル。五月に白色又は淡い紅色の五弁花を咲かせ、実は鮮やかな紅を呈する。花は、干し葡萄・アニス(西洋茴香(ういきょう))・フェンネルなどの香りを合わせ持った独特の香りがする。一六二〇年にイギリスから清教徒を乗せてアメリカに渡った「メイフラワー号」(Mayflower)にはこの花が描かれていたことから、「メイフラワー」とも呼ばれる。花・葉・果実は血管を刺激して血行を良くにする作用があるとされ、また心不全に狭心症などの冠動脈疾患にも用いられる、とある。]

 私の友が述べた若さの香(パアフム・ドウ・ジユネツス)のその性質は稀なものでは無い、――但し私はこれが南方よりは寧ろ北方の種族に屬すると思ふ。それは完全な健康と立派な强壯とを意味す。然しそれには人を牽く力のもつと纖弱な變種がある。時にはそれが人をして赤道直下の地より來たれる貴重な護謨[やぶちゃん注:「ゴム」。]または香料を思はせ、時には薄い快さで、――麝香の精靈の如くである。それは個人的では無い(身體的人格はたしかに香があるが)、それは季節の香である、――人生の春の香である。然し春の香は、何處でも移ろひゆく悅びであるが、それさへ國土や氣候によつて異る如く、若さの香にも變化がある。

 それが一の性のものたる以上に他の性のものであるかは言ひ難い。[やぶちゃん注:原文“Whether it be of one sex more than of another were difficult to say.”。どうも岡田の訳はこれに限らず、全体に生硬に過ぎ、意味が難解になっている憾みがある。これは平井呈一氏の恒文社版「青春のかおり」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)での、『それが、ほかの異性のものにもまして、ひとりの異性のものであるかどうかは、言いがたい。』という訳が躓かずに華麗にすっきりと読める。]我々は主としてそれを女子及び長髮の小兒に於て認めるのは、思ふに香は特に髮の中にある爲めであらう。然しそれは白百合の快さが然あるが如く、何時も技巧から離れてある。それは文明人の靑年に戀人の靑年にも等しくあり、王子の成年期にも農民のそれにも同じくある。ただし病弱者には無くて、完全に快活な健康にのみある。思ふに美と同じく、それは倫理的の條件と或る漠たる一般關係を有して居るものかも知れぬ。個人の香はたしかにこり條件を有つ、――犬の識別が證據を示す如くに。

 我々が花の香にて受ける快感は、永劫の遠き昔よりの情緖的反射であらうといふことを進化論者等は暗示して居る、卽ちその昔にはかかる香は人間より遙かに低き祖先的生命のものには美味の食物の存在を知らせたといふのである。同一の假說によれば我々の若さの香の快感は連想の何等の有機的記憶に基するのであらうか。

 思ふに其香が現今我々がそれに附帶せしめ得る何れの意義よりも一層明確でまた特殊なる意義を有つた時代があつたのであらう。花の香にて生ずる快感の如く、若き身體の健全なる香によつて與へらる〻快感は、少くとも一部分は、香の印象が生命保存の最單純なる衝動に直接訴ふるものありし或る時代から存續せるものであらう。かかるあり得べき原始的關係より久しき以前に分離したれば、花の香と若さの香は今は共に我々にとりては高等なる感情生活の刺激者、――漠然たる、されど容積廣きそして極めて精妙なる美感の刺激者となつた。

 美によりて起こさる〻感情の如く、香の快感は追憶の快感である、――無數の生命の數の記憶への感情の魔術的の訴である。そして花の香が記錄されぬ春の億萬に於て經驗されたる感情の精靈を呼び起こす如く、――若さの香も亦我等の中に我等の背後に消滅したる一切の人間存在の各〻の春の環と連想さる〻感覺の靈の如き存續を搔き起こすのである。

 そして新たなる存在者の此の香もまた、理想的感情を喚起す、――それは愛のやさしさと殆ど同じく親たるもののやさしさを喚起するのである、其故はそれが測られぬ時を通じて子供の愛嬌と美とを連合させた爲めである。夜と死とのうちより、その死者との交感(ネクロマンシー)により、喚び起さる〻ものは、滅びたる感情の歡喜より出る影の如き身震ひ以上のもの、――無數の生命の婚儀の喜びから來る幻影の反射以上のもの、――初生兒の絹の如き頭髮へ愛撫の唇を押す歡喜の或るもの、埋められし母達の億萬の忘られし喜びからの微かなる反流。

[やぶちゃん注:「その死者との交感(ネクロマンシー)」“necromancy”は、辞書的には、「死者との交霊による占い・魔術」、特に「邪悪な魔術」を指すが、民俗社会でのそれは、もっと根が深い。当該ウィキによれば、『死者や霊を介して行われる魔術である。ネクロマンシーを行う術者をネクロマンサー』(necromancer)『という』。『ネクロマンシーは、死体による占い全般を指す通俗的な呼称で、未来や過去を知るために死者を呼び出し、また情報を得るために一時的な生命を与えることを含む。なお、この場合の死者だが、死んだ肉体(死体)を扱うもので、死者の影だけ(あるいは霊魂?)を呼び出して聞き出す技術は「影占い」(いわゆる』「口寄せ」『の類)として別とされる。古代ギリシアのホメーロスの記述中にネクロマンシーは描かれているが、それは影占いが』、『常習的に行われている地域で行われた』。『手法としては、「程ほどに鮮度の良い死体」を使うもので、呼び出した霊魂にその死体を宛がって活をいれ、仮初めの生命を与えて情報を得ようとしたのである。この場合、死体に入る霊は死者の生前のそれではなく、しばしば低級な精霊(エレメンタル)やデーモン(死霊・悪霊の類)であったという』。『ただ、この方法は倫理的に問題視される黒魔術の一種であったため、その当時から批判される行為であった』ギリシャの哲学者『イアンブリコスやポルピュリオスなどは弾劾する文章を残している』。『近年のフィクションでは、ネクロマンシーは「死霊魔術」、ネクロマンサーは「死霊魔術師」とも訳され、死体からゾンビやスケルトンを作り出す魔法使いであるとされる』。『これは、ブードゥー教などの死霊崇拝がモチーフになっていると考えられる。ファンタジー小説などに多く登場するが、生命と死を弄ぶ悪役として登場するのが一般的である。ゾンビを使役するだけでなく、自らの死後もアンデッド』(Undead:嘗つては生命体であったものが、すでに生命が失われているにも拘わらず活動する、死体に魔法で仮の生命を吹き込んだ存在の総称。Living Dead(生ける屍)とも呼ぶ)『として復活するものと描かれることがしばしばある』とある。] 

小泉八雲 美のうちの悲哀 (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Sadness in Beauty ”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第二パート“ RETROSPECTIVES ”の第三話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月28日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲藏譯)/作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   美のうちの悲哀

 

 美しき物は悲哀を生ずと歌ひし詩人が、美しき物としで舉げたのは音樂、日沒、夜、晴れた空、および透明の水。それ等の悲哀を彼は樂園(パラダイス)の漠たる魂の記憶にて說明せんとした。この說明は甚だ舊式、されどそれは眞理の影を有つ[やぶちゃん注:「もつ」。]。何となれば美感と連想さる〻神祕感はたしかに此世の存在のものならで、多數前生の存在のもの、――故に追憶の悲哀であるから。

[やぶちゃん注:「美しき物は悲哀を生ずと歌ひし詩人が、美しき物としで舉げたのは音樂、日沒、夜 晴れた空、および透明の水」アイルランドのダブリン生まれで、英国国教会大司教・ダブリン大主教となった詩人で言語研究家でもあったリチャード・チェネヴィックス・トレンチ (Richard Chenevix Trench 一八〇七年~一八八六年)の「ソネット」(‘ Sonnet ’)である。作品集「ソネット集とエレジー集」(“ Sonnets and Elegiacs ”。死後の一九一〇年刊)所収で、英文サイト“ All Poetry ”のこちらで読める。冒頭“All beautiful things bring sadness, nor alone”(改行)“Music,……”で始まり、小泉八雲が挙げたアイテムが総て語られてある。]

 別のところで私は何故に音樂の或る性質や日沒の或る光景が悲哀を生ずるか、悲哀以上のものさへも生ずるかを說明せんと試むる。然し夜の印象に就いては、この第十九世紀に於て夜が呼び起こす感情は、美がもち來る悲哀と同列におかるべきかを私は疑ふ。一の驚くべき夜、――例へば熱帶の一夜、――輝き且つ生溫く、熟せるバナナの如く曲りて黃なる新月空に懸かる夜、――それが他の小さき諸〻の感情のうちに、やさしさの感じを吹き込む事がある、然し光景の莊嚴に喚び起こさる〻主も[やぶちゃん注:「おも」。]なる情緖は悲哀では無い。天を最高度まで打割りて、晝は面を掩ふ無限が見ゆるために、生死の限りを思ふ現代の想を夜が濶くする[やぶちゃん注:「ひろくする」。]。夜はまた我々の紲[やぶちゃん注:「きづな」或いは「つなぎ」。]の神祕、――卽ちこの小なる憐れな世界へ我等を縛る見られぬ力の記憶を强ゆる[やぶちゃん注:「しゆる」。強いる。]。而してその結果は宇宙感情である、――それは崇高の何れの感覺よりも大で、――一切の他の情緖を溺れしむる、――が、美が起こし來る悲哀とは決して同類でない。昔は夜の情緖は比較し難き程、容量が少かつたに相違無い。天窓をば固定せる穹窿と信ぜし人々は、とても我々が感ずる如く暗の[やぶちゃん注:「やみの」。]洪大なる盛觀を感じ得なかつた。而して我々が『ヨブ記』にある畏懼[やぶちゃん注:「いく」。]すべき星の大疑問譯者註を益〻感嘆するに至るは、科學の進步と共に、かかる疑問が、とてもヨブの心に入ることのなかつた思想と感情の形式に益〻大なる訴へを爲しつづける爲めである。

譚者註 「舊約聖書」ヨブ記第三十八章第三十一、二節「なんぢ昴宿の鏈索を結びうるや、參宿の繋繩を解うるや、なんぢ十二宮をその時にしたがひて引出しうるや。また北斗とその子星を導き得るや」(邦譯)

[やぶちゃん注:「紲」原文は“our tether”。「我々をこの世に縛り付けているもの」の謂いであろう。“tether”には「限界・範囲」の意があり、平井呈一氏は恒文社版「美の中の悲哀」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では、ここの前後を、『夜はまた、この世の限界の謎をおもいださせ、――この微小な球形の穢土にわれわれを縛りつけている、目に見えない力を思いださせる。』と訳しておられる。しかし、「限界」では半可通と思われ、そもそもそれでは「our」が妙だ。岡田氏の訳の方がしっくりくる。但し、こんな「紲」なんて漢字は今時、誰も使わんだろうなあ。

 岡田氏が引用しているのは「文語訳舊約聖書」(「大英国聖書会社」・「米国聖書会社」・「北英国聖書会社」の各日本支社の共同事業。明治二二(一八八七)年完成)のそれ。私が偏愛する「ヨブ記」の殆んど終わりの部分(「ヨブ記」は全四十二章)である。こちらで正字正仮名の全篇が読める。整序して読みを振っておく。

   *

なんぢ、昴宿(はうしゆく)の鏈索(くさり)を結びうるや。參宿(しんしゆく)の繋繩(つなぎ)を解(とき)うるや。

なんぢ十二宮(きう)をその時にしたがひて引出(ひきいだ)しうるや。また北斗(ほくと)とその子星(こぼし)を導き得るや。

   *

「ウィキソース」の日本聖書協会(一九五五年)「ヨブ記(口語訳)」の当該節を以下に示す。

   *

あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。

あなたは十二宮をその時にしたがって引き出すことができるか。北斗とその子星を導くことができるか。

   *

誠実であり続けたヨブの神への挑戦に対して、万能のヤハゥエがおぞましくも(私が特異的に「ヨブ記」を愛する理由は、ヨブが既にして、その神を超えている存在だと大真面目に感じているからである)挑戦して弁論を挑む(?)一節なのである!!!

 

 然し完全なる日の美より、または自然の最も光榮ある樣式の感興により刺戟さる〻悲哀は別種の事實であつて、別種の說明を要する。其感情は遺傳せるに相違なけれど、――それは祖先以來の苦痛の何等の集積によるのか。曇らぬ空のやさしさ、夏の日の谷の柔らかき綠の眠[やぶちゃん注:「ねむり」。]、日の班點の影の囁く平和、それ等は何故に悲哀の感を催させるか。美的知覺に續く何れかの遺傳せる情緖が何故、喜悅よりは寧ろ幽鬱[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じ。]なのであるか、……私は勿論海を見て、または海に似たる空間を見て、または巨大なる山脈の莊嚴によりて起こさる〻洪大、永續、また力量の感覺には言及せぬ。それは崇高の感情で、――いつも恐怖と關係あるものである。美的悲哀は寧ろ欲望と關係がある。

 

 『凡て美しきものは悲哀を來たらす』とは、多くの一般的提言の如く眞理に近き提言である、然し悲哀とその進化の歷史とは場合に應じて變ぜざるを得ぬ。美しき顏を見て起こる幽鬱は、風景を眺め、音樂を聞き、または詩を讀みて起こるそれと同じきを得ぬ。然し美的悲哀に共通なる或る一の感情要素、――卽ち自然美を見て感ずる幽鬱の謎を解くの助となる感情の一般的の種類が無ければならぬ。かかる共通要素は遺傳せる憧憬、――物を喪ひたりとの漠たる遺傳の感覺、それが相關の諸感情によりて種々に掩影[やぶちゃん注:「えんえい」。はっきりしないこと。形象上に示唆されること。]せられ、また賦性[やぶちゃん注:「ふせい」。生まれつきの性質。アプリオリな、それ。]せられたのであると、私は信ず。此遺傳の異れる諸形式は、異れる美の諸印象によりて覺まされるであらう。人間美の場合に、美的認識は、極めて古き苦痛の遺傳により調節されまた掩影さる〻ことがある、――この苦痛は憧憬の苦痛、無數の忘られたる愛人との別離の苦痛である。色彩、メロデイ、日光または月明の効果の場合には、美感に訴ふる感覺印象は、同樣に種々の祖先以來の苦痛の記憶に訴ふることがあらう。美しき風景を見て感ずる幽欝はたしかに憧憬の幽欝である、――卽ち我々の死者の幾百萬の經驗によりて或るが故に、漠然たると共に容積の大なる悲哀である。

 サリイ譯者註曰く、『自然に對する美感の純粹なるものは近代に發達したるものにて――自然の荒涼たる寂漠に對する感情は殆どルソオより古くはあらず』と。蓋し多くの人々は西洋の諸人種に關してこの言は寧ろ强きに過ぐと思ふであらう。――それは極東の諸人種にとりては眞で無い、彼等の藝術と詩とが反對に古き證據を示して居る。然し自然美の愛が文明を通じて發達したること、及び現にその中に含まる〻多くの抽象的感情は頗る近代に起これるものなることを否む進化論者はあるまい。故に美はしき風景を見て我々が覺ゆる悲哀の多くは比較的近代に生長したるものである、但しそれはその情緖に伴なふ美的快樂の高等なる性質の或るものより新しくは無い。私は思ふにそれは主として圍壁ある都市の建設と共に人間が自然と離別の苦を忍び之を遺傳したるものであらう。或はそれと共に比較し難き程古き悲哀の或るもの、――例へば夏の過ぎ去るを悲む極めて古き哀感の如きが混

 

譯者註 英國心理学者 James Sully(1842―1923)。ルソオは J.J. Rousseau

[やぶちゃん注:訳注最後に句点がないのはママ。ジェームス・サリーは児童画の研究で知られる。引用元は捜し得なかった。【2025年4月28日削除・改稿】原本を見ると、小泉八雲は、“ “The æsthetic feeling for nature in its purity,” declares Sully, “is a modern growth ... the feeling for nature’s wild solitudes is hardly older than Rousseau.” ”とブツ切りで引用していたことから、幾つかのフレーズで検索した結果、“Internet archive”の1896年刊(新版:それでも、小泉八雲の本作品集刊行の二年前)の‘ STUDIES OF CHILDHOOD ’(「幼年時代の研究」)の「序章」(ここから)の冒頭三段落の内容を元にして、作文したことが判明した。“Project Gutenberg”の1903年版の電子化物を見つけたので、以下に引用しておく。

   *


INTRODUCTORY.

   Man has always had the child with him, and one might be sure that since he became gentle and alive to the beauty of things he must have come under the spell of the baby. We have evidence beyond the oft-quoted departure of Hector and other pictures of childish grace in early literature that baby-worship and baby-subjection are not wholly things of modern times. There is a pretty story taken down by Mr. Leland from the lips of an old Indian woman, which relates how Glooskap the hero-god, after conquering all his enemies, rashly tried his hand at managing a certain mighty baby, Wasis by name, and how he got punished for his rashness

   Yet there is good reason to suppose that it is only within comparatively recent times that the more subtle charm and the deeper significance of infancy have been discerned. We have come to appreciate babyhood as we have come to appreciate the finer lineaments of nature as a whole. This applies, of course, more especially to the ruder sex. The man has in him much of the boy’s contempt for small things, and he needed ages of education at the hands of the better-informed woman before he could perceive the charm of infantile ways.

   One of the first males to do justice to this attractive subject was Rousseau. He made short work with the 2theological dogma that the child is born morally depraved, and can only be made good by miraculous appliances. His watchword, return to nature, included a reversion to the infant as coming virginal and unspoilt by man’s tinkering from the hands of its Maker. To gain a glimpse of this primordial beauty before it was marred by man’s awkward touch was something, and so Rousseau set men in the way of sitting reverently at the feet of infancy, watching and learning.

   *

長いので、「Google翻訳」のものを、以下に示しておく。

   *

 人間は常に子供を伴ってきた。そして、優しくなり、物事の美しさに敏感になって以来、赤ん坊の魔法にかかってきたに違いない。しばしば引用されるヘクトールの死や、初期の文学における子供の優美さを描いた他の例以外にも、赤ん坊崇拝や赤ん坊への服従が、完全に近代に始まったものではないことを示す証拠がある。リーランド氏がインディアンの老女の口から書き記した美しい物語がある。それは、英雄神グルースカップがすべての敵を征服した後、ワシスという名の力強い赤ん坊を軽率に育てようとしたこと、そしてその軽率さゆえに罰せられたことを物語っている。

 しかし、幼児期のより繊細な魅力とより深い意味が認識されるようになったのは、比較的近年になってからであると考えるに足る十分な理由がある。私たちは、自然全体のより繊細な様相を理解するようになったように、幼児期を理解するようになった。もちろん、これは特に粗野な性に当てはまる。男の心の中には少年のような些細なことへの軽蔑が多分に残っており、幼児的な振る舞いの魅力に気づくには、より知識のある女性による長年の教育が必要だった。

この魅力的な主題に正当な評価を与えた最初の人物の一人がルソーだった。彼は、子供は道徳的に堕落した状態で生まれ、奇跡的な手段によってのみ善良にされるという神学的教義をあっさりと否定した。彼のモットーである自然への回帰には、創造主の手から生まれた、人間の手による改変を受けていない処女の幼児への回帰が含まれていた。人間のぎこちない接触によって損なわれる前のこの根源的な美を垣間見ることは大きな意味を持ち、ルソーは人々に幼児の足元に敬虔に座り、観察し、学ぶという道を開いた。

   *]

 

じて居るであらう、然しこれと其他流浪の時代より傳へたる感情は、我々が尙ほ我々の魂と呼ぶところのものが秋の大なる漠然たる幽欝を感ずるとき特に甦るのであらう。

 

 智慧を增す世界はまたその悲哀を增すと正に同じく、天高く築ける都市に住む我等は人類の幼稚時代の喜悅、――森、峯、原の昔の自由、山の水の輝[やぶちゃん注:「かがやき」。]、海の息の冷かなる銳さ、及びその永遠の叙事詩の雷の如き轟、などの喪失を悔ゆ。而して凡てこの忘られて歸らぬ自然に對する文明の悔恨は、風景の美が我々に感ぜしむる大なる柔らかき漠たる 哀のうちに何としてか甦ることがある。[やぶちゃん注:「哀」の前は、底本では(右ページ七行目(空行を数えた)下から二文字目)微かに、左下に印字片のようなものがあるが、裏が透けたものかも知れない脱字である。読点とは思われない。相当原文は“a sadness massive as vague, ”であり、平井呈一氏は『あの茫洋とした哀感』と訳しておられる。印字片は「悲」のそれと推定されるので、「悲哀」と断じて、特異的に補った。

 光景の愛らしさが眼に淚をさそふといへば、一の意味にてはそれは慥に誤である。それは光景の愛らしさではあり得ぬ、――それは我々の心に湧き起こる過去幾代の憧憬である。我々の語る其美は眞の存在を有せず、死者の情緖のみがそれを在るが如く思はせる、――卽ち何れの美感よりも頗る單純でまた古き理由の爲めに自然を愛した男女の既に久しく埋もれる幾百萬人の情緖がさう思はせる。生命の家の窓に彼等死者の幻影は群り來ること、恰も囚人が彼等の鐡窓の外なる輝く空、飛ぶ鳥、自由なる丘、閃く流を見んとして集まる如くである。彼等は舊時の彼等の望を見る、――世界の廣き光と空間、蒼穹の風に吹かる淸美、曠野の百態の綠、遙かに見る山頂の精靈の約束を見る。彼等は幸なる羽翼あるものの空を切る音、蟬や鳥の合唱、水の波打ち笑ふ聲、風そよぐ木葉の低調を聞く。彼等は季節の香を知る、――すべての樹液の銳き甘き香、花と果との香も。彼等は生ける空氣の刺激を感ず、――大なる靑き精靈の身震ひも。

 されど凡てこれは彼等の再生の隔障と被幕とを通じ、望無き追放者には家鄕の夢として、――荒廢の老齡には幼時の幸福の夢として、盲者には記憶に殘る視覺の夢としてのみ、彼等に來る。

 

2019/11/19

小泉八雲 美は記憶 (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Beauty is Memory ”。「美は記憶である」)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第二パート“ RETROSPECTIVES ”の第二話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月28日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲藏譯)/作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「﹅」は太字に、「○」は太字下線に代えた。一部の「?」の後に字空けを特異的に入れた。]

 

   美 は 記 憶

 

       

 あなたがはじめて彼女を見たとき、あなたの心は躍り、血管中に電氣が突然傳つた樣な刺戟を覺え、同時に一切の感覺は變化し、その後も久しく變つたま〻でしたらう。

 その突然の鼓動はあなたのうちにある死者の覺醒であつた、――そしてその身顫ひはその死者達の群集するので覺えたのであつた、――そして其感覺の變化は彼等の多數の願によつてのみ行はれたのであつた、――その理由の爲めにそれが一のなものとなつたと思はれた。彼等死者は、彼女にや〻似たる多くの若き人々を愛した事を覺えて居た。然し何處で、また何時といふ事はもう知らぬ。彼等――(この彼等は勿論あなたである)――はそのときより以來幾度か物忘れの川の水を飮んで居る。

 物忘れの川の異名は死の川である――但しそのことは古典辭書には典據が見えまいが。然しその川の水が疲れた魂に過去の事を忘れさすといふ希臘[やぶちゃん注:「ギリシヤ」。]の談は全く眞實であるとはいはれぬ。いかにも一掬[やぶちゃん注:「いちきく」。一掬(すく)い。]の水は記憶の或る形を麻痺し、又曇らす事もあらう――時日や名や其他細事の記憶を拭ひ消す事もあらう、――然し百萬掬の水を以てしても全く忘却させる事は出來ぬ。世界を破壞してもその樣な結果を生ぜぬ。不要のの外何物も全然忘却されぬ。要點は、最上限に於て、物忘れの川水を飮んで唯だ朧にされるのみである。

[やぶちゃん注:「その川の水が疲れた魂に過去の事を忘れさすといふ希臘の談」ギリシャ神話の冥界「ハデス」には複数の川があるが、その中の「レーテー」(英語:Lethe)がここで言うそれ。古代ギリシア語では「忘却」あるいは「隠匿」を意味し、古代ギリシア人の一部は、魂は転生の前に、この「レーテー」の川の水を飲まされるために、前世の記憶をなくすのだ、と信じていたという。]

 或る一人が日よりも美はしく思はる〻のは、幾億萬の生命を通じて集められ、我が內に混じて或る一の漠たる優美な姿となれる幾億萬の記憶が存する爲めであつた。迷想が彼女はこの複合に偶然似て居ると思はせた――この複合、それは我が數へがたき過去の生の愛に關りしすべての死せる女の記憶の影であつた。そして我々が了解し得なかつた時、――我々は愛するものが魔女であると思ひ、そしてその魔術が精靈の業であり得る事を夢にも想はなかつた時、――その時の我々の經驗のこの初の部分は、それは驚異の時代であつた。

 

       

 何に對する驚異? 美の力と神祕とに對して。(何となれば我々の內に於てのみなりと、又は一部は我々の內、一部は外に於てなりと、我々が見て、驚かされたのは美であつた)。然し愛されたるものは人間の女が實に愛らしくあり得るよりも、愛らしく見えた事を我々は覺えて居る、――さう見えたのは如何にして、また何故、それが興味ある問題である。

 

 我々は美を見る力をもつて生れる――それは全然では無いが幾分か、色を識別する力をもつて生れると似て居る。大槪の人間は美の或るものを辨ずる、または少くも美に近いものを辨ずる――但し能力の容積が異る人によつて異ることは、山の容積が沙粒のそれと異るより以上である。生れながらの盲人もあるが、通常の人は何かの美の理想を相續して居る。それは生き活きとしたのも、漠然としたのもあるが、何れの場合にも、それは種族が受けた無數の印象の集積、――卽ち出生以前の記念の無數の斷片が有機的記憶のうちに入り結晶して一の重複せる映像となれるものを代表する、そこにその有機的記憶はいまだ現像されぬ寫眞の乾板上の見えざる映像の如く、しばらく全然暗黑のうちに止まるのである。そしてそれは個人牽引の無數の人種記憶の複合であるが故に、此理想は必然に、卓越せる人の心に於ては、現存する何物より以上の或るもの――決して人類の現狀に於て實現されず、況んや超越されぬ或るものを代表する。

 そしてこの人間の可能より美はしき、此複合と愛の幻覺との關係は如何。若し想像し難きものの想像を語ることを容さるべくば、私はここに敢て一の理論を立てて見たい。靑年成熟の時に方つて[やぶちゃん注:「あたつて」。]、遺傳せる理想の姿の或る輪郭と略ぼ似たる、或る客觀的の美しきものが認めらるヽ時は、直に祖先以來の感情の波が久しく暗くされてあつた姿を濡ほし[やぶちゃん注:「うるほし」。]、之を明らかにし、之を輝かし、――そして感覺を迷はすのである。――何となれば生きた對象の感覺反射は一時的に主觀の幻影と混じ、――記憶の億兆より成る美はしき光明の精靈と混ずるのである。かくて戀人には平凡も忽ちにして不可能者となる、何となれば彼は實に超個人及び超人間のものが之に混ずるを見る故に。彼は何等の理解によりても、その幻覺を覺らせらる〻には[やぶちゃん注:「さまらせらるるには」。]、餘りに深くその超自然に迷はされて居る。彼の意志に勝つものは何等の生けるもの又は觸れ得べきものの魔術で無くて、火の如く迂曲し、逃げ𢌞はり、且つ明かるき魅力である、――それは考へられぬ程夥しき代々の死者によつて彼の爲めに備へられたる精靈的の罠である。

 

 謎の如何にしてに關して私が試みる理論はこれだけを限りとする。然し何故に就いては如何、――測られねぬ過去のうちより甦れる此精靈的の美によりて成れる情緖の理由は如何。美は一切の美的感情よりも古き超個人の歡喜と何の關係があるか。美の魅惑の進化的祕密は何であるか。

 一の答が與へられ得ると私は思ふ。然しそれは此眞理を十分に承諾せねばならぬ、曰く、美それ自らなるものは存せず

 我々の美學の諸系統の一切の謎と矛盾とは、美が絕對なる或るもの、先驗的實在、永遠の事實であるとする迷想の自然の結果である。我々が美と呼ぶ現象は一の事實の象徵であること、――それは平凡を超えた一の發展の目に見ゆる表現であること、――存在する平均のものより以上に進步せる具體的進化であること、それは確實である。これと似たる樣にて優雅(グレース)といふものも勢力の經濟の眞實なる表現である。然し進化的可能性には何の宇宙的限界もなき理[やぶちゃん注:「ことはり」。]なる故に、關係的にして且つ本來變遷的ならぬ優雅又は美の何等かの標準はあり得ぬ、また身體上の理想も――希臘の理想すらも――人間の進化または超人間進化の過程に於て實現の度を過ぎて俗化せざるべきものは無い。美の究竟は不可考、また不可能である、美學の如何なる辭も永久變遷の一階段てふ觀念、卽ち比較的進化に於ける一時的關係より以上を代表することは出來ぬ。美それ自らは客觀性と誤られたる唯だの感覺又は感覺の複合の名に過ぎぬ、――それは恰も音、光、色がかつて實在と思はれたるに同じである。

 然し心を牽くところのものは何か、――我々が美感と呼ぶ抑制しがたき感情の意味如何。

 光、色、または、香を感覺すると同じく、美の認識は事實の認識である。然しその事實は呼び起こされたる感情に對して、一秒間に五百萬億囘のエーテルの振動の實在が橙黃色の感覺に對して有するより以上の類似を持たぬ。それでも何れの場合にも事實は力の表現である。高等の進化を代表する美と呼ばる〻現象はまた生命に對し比較的に優等なる適合、卽ち存在の諸條件を充たすべき高等の能力を示す、そしてそれは魅惑を生ずる此の表現の無意識的知覺である。起こされたる願望は何等の單なる抽象の爲めで無くして、自然の目的への手段としての能力のより大なる完成の爲である。各人のうちに存する死者にとりては、美は彼等の最も必要とするもの、卽ちの現在を意味す。物忘れの川あるに關らず、彼等は、彼等が風采良き身體に住みし時は、生命が槪して彼等にとりて安易且つ幸福なりし事、及び虛弱または醜惡なる身體に籠りし時は、彼等の生命は賤劣又は困難なりし事を知つて居る。彼等は幾度も健全なる若き身體にまた住まんことを願ふ、――卽ち勢力と健康と喜悅と、生命の爭鬪の最良の賞與を獲得する速さと、それを保持する勢力を保證する形態を希望する。彼等は爲し得れば、過去の何れよりも良き條件を要し、如何なることあるも、より惡るき條件を要せぬ。

[やぶちゃん注:「エーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次譯)」の私の注を参照されたい。]

 

       

 かくて記憶として見ればは解かれる、――それは生の目的の爲めの一切の身體的適合の測り難き記憶である。疑もなくこれまでかかる適應と連合したことのある、一切の消滅したる喜悅の、同じ測り難き遺傳せる感覺により、光榮あるものと爲されたる複合である。

 この複合――これを無限とは云はれまいか。さう云うてよからう、但し之を作る死せる記憶の多數が語り難き爲めのみで無い。時間の無邊を通じてのかかる記憶の範圍の廣さまた深さもまた同じく語り難い……お〻戀人よ、汝の精靈中の精靈たる、美はしき魔女は如何に纎弱なることぞ。然もその精靈の深さはを橫斷する星雲帶の深さである、――埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]が昔時太陽及び諸神の母として見られ、世界の上に彼女の長き白き體を橫たへしときの輝きの影である。燐の煙霧の如く、または夜に於ける船の過ぎし跡の如く、唯だその如く我我は肉眼を以てそれを見得る。然れども望遠的視覺に貫かれて、それは宇宙の環の先方側として表現さる、――卽ち或る生體の細胞の如く集合して見ゆる、然しその恐るべく遠き爲めにのみ然か[やぶちゃん注:「しか」。]見ゆる、幾千萬の太陽の暗き帶として表現さる。時の夜の恐ろしさの中に、――幾世紀の無言の深奧により、年の幾千幾萬の距て[やぶちゃん注:「へだて」。]により、――若きものの爲めに美の光輝ある夢を作る此等の千萬の群る[やぶちゃん注:「むらがる」。]記憶は各自相離れて存し、ただ愛の望の爲めに唯一の暗き柔らかき甘き幻影として集合的の形を取る。

 

小泉八雲 初の諸印象 (岡田哲藏譯) / 作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ First Impressions ”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第二パート“ RETROSPECTIVES ”の第一話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(パート標題(添え辞有り)はここ本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月27日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 本「囘顧」パートは総てが岡田哲藏氏の訳である。岡田哲藏(明治二(一八六九)年~昭和二〇(一九四五)年)は英文学者。千葉県佐倉市生まれで、東京帝国大学文科大学哲学科選科卒。通訳官として明治三七(一九〇四)年の日露戦争に従軍し、その後、陸軍大学校教官や青山学院・早稲田大学講師などを務めた。英詩文をよくし、昭和一〇(一九三五)年に出版された最初の「万葉集」の英訳として有名な‘ Three Handred Manyo Poems ’」などの著書がある。

 標題の「初の」は「はじめの」であろう。傍点「○」は太字下線、「﹅」は太字に代えた。但し、この区別は岡田氏の独自のものであり、原本では孰れも斜体である。

 

 

   囘  顧

     『無限の海の囁きと香ひと』

           マシウ・アァノルドの「未來」より

 

[やぶちゃん注:「マシウ・アァノルド」マシュー・アーノルド(Matthew Arnold 一八二二年~一八八八年)はイギリスの耽美派詩人の代表にして文明批評家。本引用元(但し、引用元は原本には記されていない。岡田氏のサーヴィスである)である詩篇“ The Future ”は英文サイト「POETRY FOUNDATION」のこちらで全篇が読める。引用は同詩篇の最終行である。但し、最後の「無限の海」の二単語が、標題ページでは、以下のように大文字になって固有名詞化されている。小泉八雲の宇宙観からの確信犯であろうか。“Murmurs and scents of the Infinite Sea.”。なお、この詩篇は二年後に刊行される作品集「影」“ SHADOWINGS ”の最終第三パート「幻想」(“ FANTASIES ”)の巻頭の添え辞にも一部が引用されてある。私の『小泉八雲 夜光蟲 (岡田哲藏譯) / これより作品集「影」の最終パート標題「幻想」に入る』を参照されたい。]

 

 

   初の諸印象

 

 

       

 重複寫眞(コムポジツト・フオトグラフ)の表號的意義が進化論の哲學者達に考へらるる事のかく少きは何故ぞと私は不思議に思ふ。それを作成する幾個の影の混化合體するは、無數の生の混合によりて人格の組織を結成するかの原生質化學(バイオプラズミツク・ケミストリ)を暗示するでは無いか。感光板の上に形影を重複するのは遺傳の限り無き重複から各個體の形を成すと似ては居らぬか。……たしかにこの重複寫眞は頗る不思議なもの、――更に不思議なる諸物の暗示。

[やぶちゃん注:「重複寫眞(コムポジツト・フオトグラフ)」“Composite Photograph”。人工的に造られた合成写真・モンタージュ写真のこと。

「原生質化學(バイオプラズミツク・ケミストリ)」“bioplasmic chemistry”。「生物学上の形質に関わる生化学」のことであろう。所謂、現在の――「遺伝的形質」――広義の「遺伝子」(現在では必ずしも染色体上のそれに限らない)によって――「受け継がれる形質」――の謂いと、言い換えてよかろう。本作品集の刊行は明治三一(一八九八)年であるが、ウィキの「遺伝子」の「歴史」の項の前期部分を参考に記しておく。何より、この時は、未だ「遺伝子」という概念も言葉も生まれてはいなかったことを留意しなくてはならない。

   *

1865年 グレゴール・ヨハン・メンデルが豌豆の交雑実験の結果を発表(所謂、後の「メンデルの法則」に相当する研究)。

1869年 フリードリッヒ・ミーシェルが膿(うみ)の細胞抽出液からDNAを発見。

【★本篇が書かれたのは、この間。】

1900年 メンデルの投稿した論文が、ユーゴー・ド・フリース(オランダ)、カール・エーリヒ・コレンス(ドイツ)、エーリヒ・フォン・チェルマク(オーストリア)によって再発見される。この再発見者の一人フリースは「パンゲン説」を推し、細胞内で形質を伝達する物質を「パンゲン」(Pangen)と仮定した。

1903年 ウォルター・S・サットンが遺伝子が染色体上にあることを提唱した(所謂、「染色体説」の始まり)。

1909年 ウィルヘルム・ヨハンセンはメンデルの指摘した因子をフリースの名づけた「パンゲン」 から「ジーン」(gene:遺伝子)と呼び変えることを提案。

1910年 トーマス・ハント・モーガンがショウジョウバエの交雑実験を開始。

1921年 DNAのテトラヌクレオチド・モデルを解説した論文が発表される。この当時は遺伝物質は多様性に富んだポリペプチド(タンパク質)であり、テトラヌクレオチドはその保護の役割を果たしていると考えられていた。

1922年 モーガンらのグループによってショウジョウバエの四つの染色体上に座している五十個の遺伝子の相対位置が決定されて発表される。

1934年 カスパーソンがDNAは生体高分子であることを示し、テトラヌクレオチド・モデルが誤りであることが証明される。

1935年 マックス・デルブリュックらは、遺伝子は物質的単位であることを提案した。

1944年 フレデリック・グリフィスの肺炎双球菌の形質転換実験(「グリフィスの実験」)を元にした、オズワルド・アベリーらの「DNAが遺伝物質であることの実験的証明」を収めた論文が掲載される(この論文はDNA=遺伝物質であることが確実な今、矛盾のないものだが、当時は評価を全く受けなかった)。

1950年 エルヴィン・シャルガフがペーパー・クロマトグラフィーを用いて塩基存在比に数学的関連があることを明らかにした。則ち、A(アデニン)とT(チミン)、G(グアニン)とC(シトシン)はそれぞれ数が等しいことを示したのである。

1952年 アルフレッド・ハーシーとマーサ・チェイスによる『ハーシーとチェイスの実験』結果が論文に掲載され、この論文によって、「ファージの遺伝物質がDNAである」ことが確実視されたとされる。同年、ロザリンド・フランクリンが、DNAが二重螺旋構造であることを証明するX線回折像写真を撮影する。

1953年 ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによってDNAB型二重螺旋構造のモデルが示され、DNAは生体内で『二重螺旋構造』をとっていることを示す論文が発表される。

   *]

 

 各人の顏は無數の顏の生ける重複である、――それは大宇宙發展の過程の爲め、の感光フィルムの上に重ねられし幾代また幾代の顏を含む。而して如何なる生ける人の顏も、或は愛し或は憎みて、よくそれを見守ればこの事實を表現する。友人又は戀人の顏は異れる百の面相を有つ[やぶちゃん注:「もつ」。]、そして我々は彼又は彼女の『似姿』が寫されるとき、此等諸相のうち最もなつかしい相が反影してあらねばならぬと要請することを知る。我々の敵の顏は、――如何なる敵意をそれが刺戟するとしても、――それ自ら不變に憎らしいのでは無い、我我は少くとも我々自らにとりて、その顏が價なきにあらざりし表現をなせし瞬間を見たことあると承認せざるを得まい。

[やぶちゃん注:「太字下線。則ち、底本では傍点「○」である。冒頭で示してあるが、「生」に下線なので、機器やブラウザによっては、判読し難いかも知れぬと思い、注しておいた。読みは「せい」である。【★2025年4月27日追記】しかし、この訳、私は初回電子化した折り、ちょっと『うん?……ああ、そうか……』と理解出来たが、初っ端から岡田氏には悪いが、あまり親切ではない、そう言うのが適切でないとするならば――万人の日本人に対しての訳としては――この箇所の訳は――達意の訳とは言えない――と言えると私は思うのである(これに就いては、初回に最後の方でも私は物言いを記している)。この段落の原文全文を以下に示す。原本はここである。字空け等、その通りに打った。

   *

   Every human face is a living composite of countless faces,—generations and generations of faces superimposed upon the sensitive film of Life for the great cosmic developing process.   And any living face, well watched by love or by hate, will reveal the fact.   The face of friend or sweetheart has a hundred different aspects; and you know that you want, when his or her “likeness” is taken, to insist upon the reflection of the dearest of these.   The face of your enemy,—no matter what antipathy it may excite,—is not invariably hateful in itself: you must acknowledge, to yourself at least, having observed in it moments of an expression the reverse of unworthy.

   *

ネットのGoogle翻訳のもの(最近はかなり自然に訳すようになった)を参考に、私が大幅に手を加えたものを、以下に示す。

   *

 人間の顔はどれも、無数の顔の生きた複合体であり、偉大な宇宙の発展過程に於ける生命という感光したフィルムの上に、何世代にも亙る顔が重ね合わされている。そして、生きた顔は、愛によって、或いは、憎しみによって、よく観察するならば、その事実が明らかになる。友人や恋人の顔には、百もの異なった様相がある。そして、あなたは、その人の「肖像」を捉える際、その中でも最も愛しい人の姿を映し出したいと望むであろう。しかし、憎しみを感ずる敵の顔であっても、それがどのような反感を抱かせようとも、それ自体が常に憎むべき顔であるわけでは、ない。あなたは、少なくとも自分自身の中で、その顔に価値のないものとは、これ、正反対の表情を見たことがあることを、認めなければならないのである。

   *
而して、岡田氏の訳の『の感光フィルムの上に重ねられし幾代また幾代の顏を含む。』という箇所が、少なくとも、現代の若いの読者たちは、確実に――多重に躓く――のである。後も、生硬に――いや――佶屈聱牙に過ぎるのである。因みに、尊敬する平井呈一氏の訳(恒文社版「第一印象」・一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)を引用させていただく。

   *

 人間ひとりのひとりの顔は、無数の顔の生きている組み合わせだ。――大宇宙の発展作用で、生命という感光膜の上に、いくえにもいくえにも重ねて焼きつけられた、無慮幾代もの顔である。生きている人間のどんな顔でも、これを愛情、もしくは憎悪の眼をもってよく見まもってみると、この事実がはっきり表われてくる。たとえば、友人、あるいは愛人の顔、これは百の異なった相貌をもっている。相手がはっきり現われてくる。たとえば、友人、あるいは愛人の顔、これは百の異なった相貌をもっている。相手が男にしろ女にしろ、その人の写真を撮(と)るばあいには、誰しもぜひいちばんいとしい顔を写したがるものだ。憎い相手の顔だって、――それがどんなに虫を好かないにしても――顔そのものが、いつみても憎らしいというわけではあるまい。ときには、まんざら捨てたものでもない顔つきを見受ける時もあることを、内々認めなければならないだろう。

   *

これこそ、まず、誰もが、すらすらと読め、腑に落ちる訳である。どうしても硬くなりそうな箇所、判り難くなりそうな部分を、平井先生は、見事に意訳されてもいるのである。言わずもがなであるが、岡田氏の訳も、私の訳も、平井先生のものも、現代に、全く、そぐわなくなっている致命的な箇所として、「感光フィルム」「感光したフイルム」「感光膜」があるのは仕方がない。年少の読者には、銀塩写真そのものが死語だからである。私は、平井先生より後の小泉八雲先生の翻訳を読む気にはさらさらならないのだが(よく言われる「翻訳には賞味期限がある」という謂いは、根本的には、私は否定するものである。特に語学に堪能でも、作家の才能を持たない人の訳は、数行読んで、やめてしまうことがしばしばある)、ここで、『さても、ここを、新しい訳者は、どう訳すのかね?』と、意地悪い笑みを浮かべて、独りごちたことを告白しておく。

 思ふに祖先以來の諸〻の模型のうちで顏面表現の變調のうちに現はれんと試むるものは槪していつも比較的に近代のものである、――極めて古いのは重複の下に壓されて、漠然たる下層に變形し了はり、ほんの原形質的(プロトプラズミツク)[やぶちゃん注:“protoplasmic”。]背景に過ぎぬものとなり、それからは稀なる奇怪なる場合に於ての外は、輪郭が分離して出て來る事が無くなつたのである。然しすべて規範的の顏には種々の模型の諸時代が盡く[やぶちゃん注:「ことごとく」。]、氣分の變化に應じて、臨機の出現をするのである。母たる人は誰れでもこの事を知る。彼女は己が子の姿を日々注目し居りて單に生長によつて說明されぬ變化をそこに見る。時には親の一方に又は祖父母の一人に似ると見え、時には他の、また更に遠い親類に似て、また稀には家族の何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]にも似てもつかぬ特徴を見ることがある。(かくして、今よりも暗かりし昔の代には、魔の取換兒(チエンジリング)[やぶちゃん注:“changeling”。後注参照。]といふ畏ろしい迷信もあり得たのみならず、或る意味ではそれが當然であつた)。靑年と大人の時を通じて遙か老年に至るまでも此等の變遷が繼續する、――但しいつも、もつと徐々として、且つ微かに[やぶちゃん注:「かすかに」。]――その間、一般的特徵は確實に增して來る、而して死そのものが生の中に嘗て認められなかつた或る不思議な表情を容貌に現はすことがある。

[やぶちゃん注:「魔の取換兒(チエンジリング)」ウィキの「取り替え子」によれば、『取り替え子 (とりかえこ、英語:Changeling)とは、ヨーロッパの伝承で、人間の子どもが』、『ひそかに連れ去られたとき、その子のかわりに置き去りにされる』ところの、妖精(フェアリー)、エルフ(ゲルマン神話に起源を持つ北ヨーロッパの民間伝承に登場する妖精族。本来の神話では自然と豊かさを司る小神族で、しばしばとても美しく若々しい外見を持ち、森・泉・井戸や地下などに住むとされ、また、彼らは不死或いは長命で魔法の力を持っているとされる)、トロール(北欧、特にノルウェーの伝承に登場する妖精の一種)『などの子のことを指す。時には連れ去られた子どものことも指す。また』、『ストック(stock)あるいはフェッチ(fetch「そっくりさん」)と呼ばれる、魔法をかけられた木のかけらが残され、それは』、『たちまち弱って死んでしまうこともあったと言う。このようなことをする動機は、人間の子を召使いにしたい、人間の子を可愛がりたいという望み、また悪意であるとされた』。『取り替え子は、彼らのしなびた外観、旺盛な食欲、手のつけられないかんしゃく、歩行できないこと、不愉快な性格によって識別された』。『中世の年代記は、フェアリーについての民俗伝承の断片として知られる最古のものの一つを、この例として記載している』。『一部の伝承によると、取り替え子は人間の子供より知能がはるかに優れていた』(これは、実は、その子がサヴァン症候群(savant syndrome:当該ウィキを参照されたい)であった可能性が強く疑われるように私には感ぜられる)『ことから、見破ることは可能であった。ある時』、『取り替え子であることが見破られると、その子の両親が子供を連れ戻しにやってきた。グリム兄弟の民話の一つでは、我が子が取り替え子にすり替えられたのでは』、『と疑った女が、木の実の殻の中でビールを醸し始めた。取り替え子はうなった。『おいらは森の中のオークの木と同じくらいの年だけれど、木の実の殻の中でビールを醸すなんて見たことがない。』そういうと、彼はたちまち消え失せた』とある。『一部の人々は、トロールは洗礼前の幼い子供をさらうと信じていた。また、人間の中でも美しい子供と若い女性、特に金髪の持ち主は、フェアリーに好まれるとされた』。『スコットランドの民俗伝承では、子供は地獄へ十分の一税として献上される妖精の子の身代わりに取り替えられたという』。これは、『タム・リン』(Tam Lin)というバラッドによって『よく知られている』(ウィキの「タム・リン」を参照されたい)。『一部の民俗学者はフェアリーが多神教時代のヨーロッパの住人で、侵略を受けて地下へ隠れたと信じている。それによると、実際に取り替え子を引き起こした人々は、自分たちのひ弱な子供の代わりに、侵略者である人間の健康な子と取り替えたと』考えるのである。『スカンディナヴィア民俗伝承によると』。『妖精は鋼』(はがね)『を恐れるので、スカンディナヴィア諸国の親たちは』、『しばしば洗礼前の子供の揺りかごの上に』、『一対のハサミやナイフをそっとしのばせていた。もしそのような手だてにもかかわらず』、『子供がさらわれてしまった場合、両親が取り替え子を冷酷に扱うことで』、『子供を取り返すことが出来ると信じられており、そのために、鞭で打ったり』、『熱いオーブンの中に入れたりするような方法が取られた。少なくとも一つの例では、ある女がオーヴンの中で実子を焼死させてしまい裁判沙汰になっ』ている、とある。以下、リンク先には、各地方の伝承や実際の不幸な事件が記されてあるので、参照されたいが、「現代の取り替え子」の項には、『多くの取り替え子の伝説の陰には、現実にはしばしば奇形児や知的障害児の誕生があった。多種多様な取り替え子の記述は、多くの病の症状、二分脊椎症、嚢胞性線維症、フェニルケトン尿症、プロジェリア症候群、ウィリアムズ症候群、ハーラー症候群、ハンター症候群、脳性麻痺と合致する。男児の出生欠陥の大半の傾向は、男の赤ん坊の方がより連れ去られそうに思われていたという迷信と関連づけられる』。『記載があるように、取り替え子伝承は正常に成長しない子供たちの特異性を説明するために、発展し、少なくとも用いられてきたと仮説されてきた。おそらく、成長の遅れや異常のある症状も多種に含まれていただろう。特に、自閉症児は取り替え子や、その不可思議さや時に説明しがたい振る舞いから、エルフの子というレッテルを貼られがちであった。これは自閉症文化で見受けられる。一部の高い知能を持つ自閉症の大人』(先に私が言った「サヴァン症候群」である)『は、取り替え子と同一視されてきた(またはエイリアンのような交換者)。この理由からと、自分の世界の中で彼ら自身の感情が、周りの普通の生き物には自分たちは属せず、実質的に同じようになれないのだ、と感じるようになった』のだ、ともある。]

 

       

 槪ね我々が顏を認識するのは、何か確實な線[やぶちゃん注:“lines”。ここは「輪郭」のこと。]の記憶によるよりは、寧ろ居常[やぶちゃん注:「きよじやう(きょじょう)」。「常日頃・普段」平生」の意。]その帶ぶる表情の樣式により、それが通常示す性質の調子によるのである。然し如何なる顏も凡ての時、全然一樣では無い、而して例外の變化の場合には表情は認識の爲めに十分ならず、我我は或る定まれる特徵を求め、容貌から獨立せる或る細密なる表面上の特徴を捉へねばならぬ。一切の表情は唯だ關係的永久性を有するのみ、最も强き印ある顏に於てすら、其變化は測定を難からしむることがある。思ふに、移動性は、或る制限內に於て、容貌の不規則なることと直接に比例しありて、――理想の美への接近はまた關係的不動性への接近である。何れにしても、我々が何れかの普通の顏と親熟するに從ひ、我々がそれに見る變形の多樣なる事が益〻驚くべく、――其表情の定まりなき精微は益〻記述を難くし且つ人を迷はすに至る。そして此等は祖先以來の生命の滿干に外ならず、――魂の流れたる人格の測るべからざる泉に立てる底波に過ぎぬ。肉の流動組織の下には絕えず死者達が型に入り來りては動いて居る――それは單一にてでは無い(如何なる現象のうちにも何等の單一なるものは無い)、諸〻の潮流のうちに、また諸〻の波動によりてである。時には愛の精靈の渦卷くことあり、そして旭がそれを輝かせる如くに顏に夜が明ける。時には憎の精靈の波立ち擾ぐ[やぶちゃん注:「さはぐ」。]ことあり、そして顏は惡夢の如く暗くなり且つ歪む、――そして我々はその顏その裏にある心に對していふ、『汝は今汝のより良き自我で無い』と。然し我々が自我と呼ぶところのものは、それがより良きにもより惡るきにもせよ、その諸〻の連合の順序を永久に變化しつつある複雜性のものである。希望又は恐怖、喜悅又は苦痛の刺戟に應じて、各人のうちに、異れるリズムに於て、變化ある遷移をなしつつ、祖先以來の生命の數ふべからざる振動があらねばならぬ。最も靜穩なる制規の存在に於て、過去一切の心理の調子は眠つて居る、――原始的感覺衝動の鮮かなる赤色から精神的渴仰の紫に至るまで――恰も白光のうちに凡ての知られたる色の眠るが如くに。而して感受的なる生ける假面の上に、心的潮流の强き交代每に、死せる表情の影の如き復活が閃く。

[やぶちゃん注:「思ふに、移動性は、或る制限內に於て、容貌の不規則なることと直接に比例しありて、――理想の美への接近はまた關係的不動性への接近である。」ここは、何だか、日本語として、異様に意味が取りづらい。原文は、

Perhaps the mobility is, within certain limits, in direct ratio to irregularity of feature;—any approach to ideal beauty being also an approach to relative fixity. 

で、原文自体が、何だか、訳しにくい感じがするのであるが、因みに、平井呈一先生は恒文社版「第一印象」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では、

『おそらく、顔の移り気は、ある程度、目鼻立ちの不揃いなことに正比例するものらしい。理想的な美しさに近づくということは、釣合のとれた各固不動なものに近づくことなのだから。』

と訳しておられる。かなり、こなれた訳である。しかし、それでも何か、ちょっと、喉につっかえるような箇所があるのだ。

 これ、英語の苦手な私が言うのもなんだが、「mobility」の訳の問題と、小泉八雲が、やや差別的な内容であるのを遠慮してか、或いは、話が判り易くはなるにしても通俗に堕することを警戒してか、ひどく迂遠な言い方しているところに起因するものなのではなかろうか? この「mobility」というのは、

《顔の持っている、他者から見た際の認識の時間上の、或いは、感覚・感性上の、或いは感情印象上の――流動性――流動的な変化・傾向を示す印象認識の感じ》のこと

を示唆しているのではあるまいか? 私はそのような意味で採って初めて腑に落ちるのである。平井氏の訳を一部参考にして判り易く解説し直すと、ここは、

《我々は時に、ある人の顔を――経年的変化ではなくして――ちょっと前よりも――いや、ついさっきよりも――ひどく変わって、別人のように見えて感じたり、或いは、『異様なまでに顔の感じが変化する人だなあ』と、内心、呆れながら感ずることがよくあるものだが、そうした現象は――ある程度まで――失礼ながら――その対象たる人物の――〈目鼻立ちがあまり良くない〉点――と正比例する現象であるように感じられるのである。「圧倒的多数の人にとっての理想的な美しさへのアプローチ」とは、取りも直さず、「最大多数が支持するところの親和性に富んだ固定的でゆるぎないものへのアプローチ」であるからである。》

というような意味なのではあるまいか? 大方の御叱正を俟つものである。ただ、この岡田氏の訳語を見つめていると、小泉八雲が「日本人には難語崇拝癖がある」(但し、これは小泉八雲が、英語を学ぶ日本人が、知られた既習の平易な単語の熟語や連句・フレーズで組み合わせて、幾らも表現出来ることを、滅多にネイティヴが使わない小難しい英単語を覚えて使うことを好む、そうした難解な語を多く覚えていることが英語力だと勘違いしていることを戒めた言葉であったと思う。中学生の時、買って面白かった英語の参考書で見た)と警鐘を鳴らしておられたという話を、図らずも、思い出してしまうのである。

 序でに、正直、はっきり言ってしまうと、本パートを縦覧するに、岡田氏には異様なまでに「造語か」と思わせるような難解な漢字熟語表現を殊更に好んで使用される傾向がある。言い換えると――《ぐだぐだ言葉を添えて判り易く訳すことを英文和訳としては拒否されており、そうすることを恐らくは軽蔑されておられ、漢語熟語こそ品位を保つ絶対性を持っていると考えておられる》――ように感ずるのである。さらに言えば――《日本語の助詞の用法や、助動詞の接続法や、それに接続する動詞の活用形に適切でない用法や誤りが認められ、修辞法にも甚だ佶屈聱牙な部分が多い》――のである。いや、歯に物着せずに言うなら――《一部は明らかに「甚だ読み難い」し、なによりも「凡そ音読には耐え得ない訳」「聴いて判る訳」では決してない》――と私は思う。ズバり言うなら、失礼乍ら、その一部は――《一部は「学術論文」のように訳されてあり、決して小泉八雲の「文学」として訳されていない嫌いがある》――と言ってよい、と私は強く感じていることを、ここに表明しておくものである。

「汝は今汝のより良き自我で無い」原文は“ You are not now your better self”で、傍点は岡田氏によるものである。因みに、平井氏は『「おまえもこの頃芽が出ないな」』と訳しておられる。平井氏のそれは一見、判りは良いのだが、逆に過剰に口語的・直接話法的で、心内印象の倫理的道徳的批評を含んだ謂いとしての鋭角感のそれが、殺がれてしまっている憾みがあるようには見える。

 諸〻の顏とその變化とを見て、我々は直覺的に、我々に對抗する諸我と我々の自我との關係を知る。極めて少數の場合に、如何にして此知識が來るか、――如何にして普通の談に於て『第一印象』と呼ぱる〻結論に達するかを、我々は說明せんと試みることさへある。顏はまれぬ。顏の與ふる印象は唯だぜらる〻のみ、そして音の印象と等しく漠然たる性質の多くを有し、――我々の內に快き又は不快なる、又は兩者の幾分宛[やぶちゃん注:「づつ」。]を具ふる精神狀態を作り、――忽ち危險の感覺を呼び起こすかと思へば、また溶くる如き同情を生じ、折折はやさしき悲哀を招く。そしてかかる印象は、誤りに陷ることは稀なれど、よく言語を以て說明されぬ。それが正確なる理由は同時にそれが神祕の理由であり、――それは我々個人の經驗の狹隘[やぶちゃん注:「きやうあい」。]なる範圍に求めがたき理由、――我々よりもずつとずつと古き理由である。我々が我々の前生を記憶し得れば、我々の好みと惡み[やぶちゃん注:「にくみ」。]の意味をもつと正確に知る筈である。何となればかかる好惡は超個人的のものであるから。一の顏に認めらる〻あらゆるものを認むるのは個人の眼では無い。死者こそ眞の見者である。然るに死者等は心の快苦の絃に觸る〻以外に我々を指導し得ざる故に、諸〻の顏の關係的意味を力あれども漠たる方法に於てのみ感じ得るのである。

 少くとも直覺的に、超個人性は普通に認識せらる〻。故に『性格の力』、『道德力』、『個人的魅力』、『個人的磁氣』などの成句があり、其他個人が個人に及ぼす影響は單なる身體的條件から獨立せるものと知らる〻ことを示す句がある。極めて云ふに足らぬ體が、恐るべき體を制し導く力を內に蓄ふることがある。血肉の人間は無限の過去より現在の瞬間に達する力の見えざる柱の見ゆる端末たるに過ぎぬ、――卽ち非物質的なる大群の物質的象徴たるのみである。二つの意志の爭鬪すらも幻影たる兩軍の爭鬪である。唯だ一人の意志によりて多くの人格の征服せらる〻ことは、――强制者の背後にある優等なる見えざる力を被强制者が認むることを暗示するのであつて――それは魂を平等と見る舊說を以てしては決して解すべくも無い。科學的心理學によりてのみ或る恐るべき性格の神祕を一部なりと說明し得る。然し何らかの說明は、或る形式又は他の形式に於て、心理的遺傳の莫大なる進化的事實を承認する上に存す。而して心理的遺傳は超個人的を意味す、――卽ち前生の存在が重複せる人格に甦るの意である。

 然るに、我々の倫理的見地より見れば、その超個人性なるものは我々がその用ゆる言語に於て、無意識的に心理的征服を現はすと思ひ居れど、實はそれは低級なる表現である。善の爲めに働くことも屢〻あれど、力それ自らは惡のものである。而して被征服者がそれを承認するのは高等の道德力を承認するのでなくて、惡のより大なる進化的經驗、侵略的巧妙のより深き蓄積、苦痛を與ふる爲めのより重き能力を意味する、高等なる力を承認するのである。如何なる美名を以て之を呼ぶとも、かかる力はその起原は動物的であつて、人間と、より下等の食肉の動物とに、共通なる惡意と獰猛とに猶ほ連絡あるものである。然し超個人の美は、死者が信用を得ん爲めに、理想を鼓吹せん爲めに、愛を創造せん爲めに、光と音樂の言語に於ての外は決して記述されぬ人格の愛嬌と驚異を以て存在の全圓を輝かす爲めに、生者に貸與するその稀なる力のうちに表現さる〻。

 

       

 若し重複寫眞を分解し順序を飜して[やぶちゃん注:「ひるがへして」。]そのうちに混合しありし凡ての印象を分離することを得れば、かかる過程は、見知らぬ顏の姿が生者の網膜から遺傳せる記憶の神祕なる局處へ――警察寫眞(ポリス・フオトグラフ)の如く――遠方より寫し還さる〻時に起こることを、粗笨[やぶちゃん注:「そほん」。「麁笨」とも書く。大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。「粗雑」に同じい。]ながら代表し得よう。そこに電光の閃く如く速かに、影の顏はそのうちに結合されたる一切の祖先的模型に分解され、その結果たる死者の判決は、ただ明言しがたき感覺によりて爲さるとも、なほいかなる性格の筆記證文が信ずべきよりも一層信ずべきものである。然しその信賴性は、見る個人の見らる〻個人に對する可能性關係に限らる。人格の纎細なる平均に應じ、觀察者の心理的作成に於ける遺傳せる經驗の質的の量に應じ――異れる人心の上に同一の姿は差別の大なる印象を殘すであらう。一人には强く反撥的なる顏も、他の人には同じ位に强く愛着的なることあり、感情的に同類の性質の人々の群に於てのみ、略ぼ[やぶちゃん注:「ほぼ」。]同じき印象を生ずるのであらう、此の能力が顏の成分のうちに、或は歡迎し、或は警戒する明言し難き或る物を認むるの事實はたしかに、倫理的觀相學の或る法則を決するの可能なることを暗示する、然しかかる法則は必然に極めて一般的にして單純なるものたるべく、その關係的價値は敎育されざる個人の直覺と決して同じきを得ざるものである。

[やぶちゃん注:「警察寫眞(ポリス・フオトグラフ)」“police-photograph”。この場合、現行の警察が作成する狭義の犯人の顔をパーツで合成した「モンタージュ写真」を、つい想起しがちだが、そもそも本書が刊行された明治三一(一八九一)年に狭義の「モンタージュ写真」は未だなかったのである。岡田氏の訳は、厳密には文法が適切でなく、「分離することを得れば」よりは、「分離することを得ば」であってこそ躓かないのである。閑話休題。それでは、これは何かと言えば、逮捕された犯人、或いは、被疑者が、警察署で強制撮影(前面と横顔)される例の、如何にも根っからの悪党(小泉八雲風に謂うならば「前生からの悪党」)だと言わんばかりの冷たい無表情な顔で写されるところの、通常、「マグショット」(mug shotmugshot)のことであろう。ウィキの「マグショット」によれば、『犯罪者の写真の撮影は写真の発明から数年後の』一八四〇『年代に始まったが、一八八八『年になってからフランスの警察官アルフォンス・ベルティヨンによってこの手順が標準化された』とあり、しかもそこの最初の注に、『非公式には police photograph booking photograph とも呼ばれるよう』である。その意味でこそ、ここの話は、ちゃんと通るのである

 實に、如何にしてかくあらぬことを得よう。何の科學がよく心理的結合の無限の可能性を測定することを企て得るものぞ。而して各人の容貌に於ける現在は過去の複合である、――生者はいつも死者の復活である。顏を見て起こす同情と恐怖、希望と反撥とはすべて再生と反覆である、――不可測の時を通じて働ける不可測の經驗によつて幾百萬の心のうちに創造せられたる感受性の反響である。現時の我が一友は、彼の祖先達と異ること、恰も一の流[やぶちゃん注:「ながれ」。]の單一なる漣波[やぶちゃん注:「さざなみ」。]がそれより先きに存せし一切の漣波と同じからぬと一樣であるが、それに關らず彼は魂の複合によつて、他鄕に在りて、他の生命のうちに、――記錄されし時間に、また忘られし時間に、――今尙ほ殘る都市に、また存在せざる都市に、――我が失せたる幾千の自我によつて、知られ且つ愛されたる巨萬のものと一である。

 [やぶちゃん注:――「顔」と「写真」――である。言わずもがなであるが――小泉八雲は、一八六六年(慶応二年相当)十六歳の時、イギリスの聖職教育を目的とした寄宿学校聖カスバート校(St. Cuthbert's College)に在学していたが(なお、この年に彼は同校の三年生への進級に失敗しており、翌年には大叔母ブレナンの破産により、中退している)、「ジャイアント・ストライド」(giant stride:「回転塔」「回転ブランコ」のこと。英文サイト“Heroes, Heroines, and History”のここに写真がある)で遊んでいる最中、ロープの結び目が左眼に当たって予後悪く失明し(一説には友達の拳が当たったともされる)、以後、他者からは、左目の光彩の色が右目とは異なって見えるようになって、彼自身、コンプレクスを抱くようになり、その後は、終生、写真を撮る際には左を向くか(これはまさに「三」に出る「マグショット」に実は似ているではないか!!)、瞼を殆んど閉じるように下を見下ろしたポーズでしか、撮らなかったことを思い出すのである。]

小泉八雲 月の願 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Of Moon-Desire ”。「月が欲しいということ」)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第一パート“ EXOTICS ”の第六番目、最終話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月27日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 訳標題は本文から見て「つきのねがひ」のようである(ちょっと擬人的に誤認するが)。

 傍点「﹅」は太字に代えた。]

 

 

   月 の 願

 

       

 三歲になつた時――永遠のくりかへしの法則で定められた通り――月が欲しいと私に云つた。

 愚かにも私はさからつた、――

 『お月樣は餘り高いから上げられない。どうしても屆かない』

 彼は答へた、――

 『長い長い竹竿なら屆くでせう、そしてそれでたたき落せばいゝ』

 私は云つた、――

 『そんな長い竹竿はありません』

 彼は思ひついた、――

 『屋根へ上つたら、竹竿が大槪屆くでせう』

 ――そこで私は月の性質と位置についてなるべく本當の話をしなければならなくなつて來た。

[やぶちゃん注:ここで「私」である小泉八雲との問答をしているのは、長男の小泉一雄(明治二六(一八九三)年十一月十七日(熊本)~昭和四〇(一九六五)年:早稲田大学卒。拓殖大教務部や横浜グランドホテルに勤務。後に父小泉八雲の遺稿の整理・書簡集の編集などに携わった)である。この年齢(満年齢)通りならば、明治二十九年となる。本書は明治三一(一八九一)年十二月刊行で、その時には五歳になっている。因みに、次男の巌(明治三〇(一八九七)年二月十五日~昭和一二(一九三七)年:後に京都府立桃山中学校英語科教員)は生れて数ヶ月であった。]

 それが私を考へさせた。私はあかるさが一般の生類――昆蟲類と魚類と哺乳類――に及ぼす不思議な魅力について考へた、――そしてあかるさと食物、水、及び自由と關係した何か道德的の記憶によつて、それを說明しようと試みた。私は月を取つてくれとせがむ數へきれぬ代々の子供とその願を嘲笑する代々の親の事を考へた。それから私はつぎのやうな冥想に耽つた、――

 

 私共は子供の月の願を嘲笑する資格があらうか。これ程自然の願はあるまい、それからその不合理な點について云へば、大きな子供である私共は、全く同じ程度の無邪氣な願、たとへば月をおもちやにして遊びたいと云ふやうな迷を昔起したり、それからはもつと無邪氣でない迷を色々起したりしたその感覺生活、個性を死後も續けたいと云ふ願のやうな、――もし實現されたら私共の不幸になるばかりの願を大槪抱いて居るではないか。

 ただ經驗的推理から見て、子供の月の願が愚かに見えるかも知れないが、私は思ふに、最高の智慧は私共に月よりも遙かに多くを、――太陽と明けの明星と凡て天の星の群よりもさらにもつと多くを顧ふ事を命じて居る。 

 

       

 私は子供の時分に草の上に寢轉んで、夏の靑い空を見つめながら、その中に融けて行きたい、――空の一部分になりたいと思つた事を覺えて居る。そんな空想に對しては、私の信ずるところでは、私の宗敎の先生が無意識に責任がある、私が何か夢のやうな質問をしたので、先生は先生の所謂『汎神論の愚と惡』を私に說明しようとした、――その結果私は未だ十六の未熟な年に直ちに汎神論者になつた。そして私の想像はやがて私に遊び場所として空をほしがらせたばかりでなく、空になりたいと願はせるやうにした。

 今私は考へるに、その當時私は大きな眞理に全く近づいて、――實はその存在を少しも知らないでそれに觸れてゐたのであつた。卽ちなりたいと云ふ願はその願の大きさに正比例して合理的である、――云ひ換へれば、願が大きければ大きい程願ふ人が賢いのである、しかるに所有したいと云ふ願はその大きさの割合に愚である事が多いと云ふ眞理を私は意味する。宇宙の法則は、私共の所有したいと思ふ無數の物のうち極めて少數をしか私共に與へないが、私共が或はなれるかも知れない物になる助けはしてくれる。有限で、又それ程弱いのは所有の願であるが、その力に於て無限なのはなりたい願である、そして人間のなりたい願の方は結局滿足を見出すに相違ない。ありたい願から、單元が象になり鷲になり或は人間になつた。恐らくただ第十等の黃色の太陽に照されるこの小さな地球では、神になるだけの時間をもたない、しかしその願がもつと巨大な太陽に照される系統へ投入して、彼に神の形と力を與へる事にならないとも限らないではないか。その願が形體の限度以外に彼をひろげて全能と一になるとも云へるではないか。そして全能は、賴まないで、月よりももつと輝いたそしてもつと大きなおもちやをもつ事ができる。

[やぶちゃん注:「第十等の黃色の太陽」これは実際の科学的な謂いではない。現在、最新の科学技術による測定では太陽より明るい恒星はない(観測出来ない)ことになっているようである(ごく最近その存在可能性があることを論じた記事を見たことはある)。小泉八雲の言っているそれは、或いはここで彼が述べているところの宇宙的天文学的な意味での時空間(ビック・バンから収縮して点に戻るまでのそれ。しかも小泉八雲は、そこに小泉八雲と言う個体を構成していたものが、小泉八雲の死後も塵のような原子体となって永遠にあるのだ、と考えているのである。彼は先行する作品の中で、そうした持論を披瀝している)の中にあっては、寧ろ当然、太陽より数等、或いは、数百倍明るい星は存在するという、科学的な確率上確度の極めて高い推理事実を踏まえて、漠然と『そうした全史的時空間としての宇宙にあっては、あんな黄色いしょぼくれた太陽などというのは、その輝き(明度)は最上級のそれから十位ぐらい下なもんだろう』と踏んだものであろう。後文にそうした小泉八雲の死生・宇宙観が語られる中にも『我が生死の大海に於て數十億の太陽の燃燒』という表現も出てくるからである。]

 私共が所有したいでなく、ありたいと願ふとすれば、――多分一切の事はただ願の問題である。人生の悲哀の大槪は、たしかに誤つた種類の願のため、及び賤しむべくつまらない願のために存在するやうになる。全地球を所有して絕對君主となると云ふ願でも、或は憐むべく小さい賤しい願であらう。私共はそれより遙かに大きい願を抱くやうにしなければならない。私共は數十億の世界のある全宇宙、――そして宇宙或は無數の宇宙以上、――そして時間空間以上になる事を願はねばならないと云ふのが私の信仰である。

 

       

 こんな願の力は必ずや本體の精靈を會得する事によらねばならない。昔は人は石と金に、草と木に、雲と風に、――天の光、葉と水のささやき、山の反響、海の騷がしき言葉に、――凡て自然の形と運動と發言とに、心靈を與へた。それから段々賢くなつたと自慢して、同時に信仰が少くなつた、そして彼等は『無生物』だの『不活動物』だのと云ふ、――實はそれは存在しない、――そして物質勢力とを區別し、心意をその兩方と區別するやうになつた。私共は今日原始的想像の方が結局眞理らしい物に近かつた事を發見する。實際私共は今日私共の祖先が考へた通りに自然を考へない、しかし私共は遙かにもつと不思議な風に[やぶちゃん注:「ふうに」。]自然を考へるやうに餘議なくなつて居る、その後の私共の科學の啓示は原始的思想を少からず復興して、それに新しいそしていかめしい美を注入して居る。そしてその間に、――いつでも私共の生長と共に生長し、私共の力と共に强くなり、私共の高尙な感受性の進化とともに段々發展して行く――私共の存在の最も深い源から生ずる野蠻な自然に對する古い野蠻な同情は、最後に無窮まで開展し反應して行く宇宙的情緖の形に高まつて行く運命をもつて居るやうである。

 

 讀者はそれ等のいつからとも分らない古い感情について考へた事はないだらうか。……どこか大きな火事を眺めて居る時、その火の勝利と壯觀とを見て何等良心の呵責を感じないで歡喜して居る事に氣がついた事はないだらうか、――その非常に輕い接觸の、粉碎する分裂する鐡を扭(ねぢ)る花崗岩を割る力を、無意識に羨んだ事はないだらうか、その大幻燈の怒つた恐ろしい光彩、――その龍の如き貪食と哮吼[やぶちゃん注:「かうこう(現代仮名遣:こうこう)」。猛り吠えること。「咆哮」に同じ。]、――その弓狀の畸形、――その尖端の物すごい冲天と動搖を喜んだ事はないだらうか。讀者は山の風が讀者の耳に鳴つた時、幽靈のやうにその風に乘つて、――それと一緖に方々の峯を吹𢌞つて、――それと一緖に世界の面[やぶちゃん注:「おもて」。]を掃いて見る事を願つた事はないか。或は大波の高く上り、押し寄せる、つぶやく突進と雷の如き破裂を熟視して、その巨大な運動と似たやうな衝動、――その烈しい白い跳躍と共に眺び、その强大なる叫號に加はらうと云ふ願を抱いた事はないか。……凡てこんな自然のありふれた力に對するこんな昔からの情緖的同情――これが現代の美學的發達と共に、非常に微妙な力に對する珍らしい同情、及び私共の知る力によつてのみ限られる願の將來の發達を豫想して居るのではないか。星から星へと戰慄するヱーテルを知れ、――その感受性を會得せよ、――さうすれば精氣のやうな同情が進化して來るであらう。數多の太陽を𢌞轉させる力を知れ、――さうすればその太陽と一緖になる道はすでに達せられたのである。

[やぶちゃん注:「ヱーテル」古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、実に永く想定され続けた、全世界・全宇宙を満たす一種の不可視の元素或いは物質の仮称。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地・水・火・風に加えて「エーテル」(「輝く空気の上層」を表わす言葉)を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では「全宇宙を満たす希薄な物質」とされ、ニュートン力学では「エーテル」に対して「静止する絶対空間」の存在が前提とされた。また、「光や電磁波の媒質」とも考えられた。しかし、十九世紀末に「マイケルソン=モーリーの実験」で、「エーテル」に対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経、遂に一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱するに至って、漸く「エーテル」の存在は否定された(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」に拠った。なお、言っておくと、小泉八雲の死は一九〇四年九月二十六日である)。但し、小泉八雲は、この「エーテル」を、彼自身の生命や宇宙の在り方の時空間的認識の中での、一種の形而上学的な解説の方途として、好んで、他の著作でも何度も用いている。彼の「エーテル」には、怪しい疑似科学の胡散臭さは、微塵も、ない。蛇足をしておくと、私は、――科学史に於いてエーテルが仮定されたのは、真の何も存在するものがない<絶対の虚ろな空間>という措定を人間の感情が許さなかったからである――と考えている。判り易く言うなら、――地球外知的生命体がいると思っている人は、この宇宙で人間は独りぼっちだという事実を認めることが恐ろしいからである――という今現在の私の考え(私は二十歳になるまで「無確認飛行物体研究調査会」というのを組織していた宇宙人信望者であった)と同義である。]

 それからさらに、數世紀に渡る世界大の僧侶や詩人の思想の堅固な擴がりのうちに、――昔の子供らしい個體的生命の意義を併呑する或は變形する統一としての生命と云ふもつと後の意義に、――人間美の古い禮拜よりも優勢になつた世界美の新しい歡喜の調子に、――曙の紅くなる事、星の輝く事、――凡て色の震ひ、光の戰(をのの)きによつて起されるもつと大きな近代の喜びに、こんな進化の暗示がないだらうか。物其自身[やぶちゃん注:「もの、それじしん」。]、詳說、外見はただ人を魅するたのために硏究される事益々少くなつて、凡ての現象はただその象形文字に過ぎない無限のに於ける單なる一文字として硏究される事益々多くなるではないか。

 

 否、――私共が凡てある物、これまであつたと知られて居る物、――過去現在未來を一にして、――凡ての感じ、努め[やぶちゃん注:「つとめ」。名詞。努力。]、考へ、喜び、悲み、――そしてどこででも部分、――そしてどこででも全體――でありたいと願ふ時は必ず來るに相違ない。そして私共の前に、その願の增大と共に、永久に無限性は擴がる。

 そして私は――私でも――その願のお蔭で、凡ての形、凡ての力、凡ての狀態になるであらう、ヱーテル、――凡ての見える或は見えない運動、光、色、音、乾[やぶちゃん注:「カン」と音読みしておく。原文“torrefaction”。普通の一般名詞としては、コーヒー等の「焙煎」であるが、科学(化学)用語としては「焙焼(ばいしょう)」で「空気の存在下で硫化鉱等を高温に加熱する工程」を指すが、ここは「干からび乾燥すること」によって生ずる振動を謂いたいものか。ちょっと小泉八雲がこの単語をここに用いた本意は私には判らない。平井呈一氏は恒文社版(「「仏の畑の落穂 他」(一九七五年刊)所収の「月がほしい」)では『乾燥』と訳しておられる。]から名づけられた振動、――實體を貫く凡ての戰慄、――X光線の恐ろしい視力のやうに黑く描く凡ての搖動、――になるであらう。その願のお蔭で、私は凡ての轉成及び凡ての終止の、――形成の、解體のとなるであらう、――私の眠りの影をもつて、私のめざめと共に消散する生命を創造するであらう。そして眞夜中の海の潮流に於ける燐火のやうに我が生死の大海に於て數十億の太陽の燃燒、數萬億の世界の旋轉が閃いて動いて通過するであらう。……

 

       

 ――『さうだね』私がこの空想を讀むのを聞いた友人は云つた、『君の想像には佛敎思想がある――尤も君はわざと說の肝要な點をいくつか避けたやうです。たとへば君は涅槃は願つては達せられないが、願はないで達せられる事を知つて居る筈です。君の云ふ『なりたい願』は提灯のやうに、暗い方のだけを照らす事ができよう。月が欲しいと云ふ事については――君は猿が水に映つて居る月をつかまうとして居る色々の古い日本の繪を見た筈です。これは佛敎の比喩です、水は感覺と觀念のまぼろしの流れで、歪んだ影でない本當の月は唯一の眞如です。そこで君の西洋の哲學者は人間は一段高い種類の猿だと云ふのは實は佛敎の比喩を敎へて居るのです。卽ちこの煩惱の世界では、人間はやはり水に映ずる月の影を捉へようとして居る猿に過ぎないのです』

 ――『なる程猿です』私は答へた、――『神々の猿、――しかし太陽をつかむ事のできる『ラマヤナ』の聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]猿ででもあるでせう』

 

譯者註 「ラマヤナ」は「マハラバーラタ」と共に印度の古い二大敍事詩。

[やぶちゃん注:以上の注は、底本では、四字下げポイント落ち。

「私がこの空想を讀むのを聞いた友人は云つた」小泉八雲は、しばしば、書き上げた作品英文原稿を、親しい友人を呼んで、朗読した。

「猿が水に映つて居る月をつかまうとして居る色々の古い日本の繪」「猿猴捉月圖」。ウィキの「テナガザル」の「猿猴捉月」によれば、『仏教の戒律書』「摩訶僧祇律」『巻第七に』『猿猴』(=テナガザル)『の寓話が載る』。『話の内容は』五百『匹の猿猴が暮らしていた木の下に井戸があり、その水面に映った月を見たボスの猿猴が「月を救い出して世に光を取り戻してやろう」と手下に呼びかけ、これを掬い取ろうとして木の枝にぶら下がり、数珠つなぎに水面へ降りていったが、水面の月に手が届く寸前で枝が折れてしまい、猿猴たちはことごとく水に落ちて溺死してしまったというもので』、『身の程知らずの望みに基づいた行動は失敗や破滅を招くという戒めを説いている』。『猿猴捉月は特に禅で好まれた題材で、「猿猴捉月図」として水墨画に描かれたりしたほか』、『茶釜の意匠に採られたりもしている』とある。私も何度か同意匠の禅画で見た。そちらには室町後期から戦国にかけて生きた画僧雪村(せっそん)筆の「猿猴捉月図屏風」(メトロポリタン美術館所蔵)があるので、それをリンクさせておく。

「ラーマーヤナ」(サンスクリット語ラテン文字転写:Rāmāyana /英語:Ramayana )は古代インドの大長編叙事詩。ヒンドゥー教の聖典の一つであり、「マハーバーラタ」(サンスクリット語ラテン文字転写:Mahābhārata:古代インドの宗教的哲学的神話的叙事詩。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの一つで、グプタ朝(三二〇年~五五〇年)の頃に成立したと見なされている。「マハーバーラタ」は「バラタ族の物語」という意味であるが、もとは単に「バーラタ」であった。「マハー(偉大な)」がついたのは、神が四つのヴェーダとバーラタを秤にかけたところが秤はバーラタの方に傾いたためであるとする。これは世界三大叙事詩の一つともされる(他の二つは「イーリアス」と「オデュッセイア」))と並ぶインド二大叙事詩の一つ。ウィキの「ラーマーヤナ」によれば、サンスクリットで書かれ、全七巻。総行数は聖書にも並ぶ四万八千行に及ぶ。成立は紀元三世紀頃で、『詩人ヴァールミーキがヒンドゥー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされる』。『この叙事詩は、ラーマ王子が、誘拐された妻シーターを奪還すべく大軍を率いて、ラークシャサの王ラーヴァナに挑む姿を描いている。ラーマーヤナの意味は「ラーマ王行状記」』である。第一巻「バーラ・カーンダ」(「少年」の巻)――『子供のいないダシャラタ』『王は盛大な馬祀祭を催し、王子誕生を祈願した。おりしも世界はラークシャサ(仏教では羅刹とされる)の王ラーヴァナの脅威に苦しめられていたため、ヴィシュヌはラーヴァナ討伐のためダシャラタ王の王子として生まれることとなった。こうしてカウサリヤー妃からラーマ王子、カイケーイー妃からバラタ王子、スミトラー妃からラクシュマナとシャトルグナの』二『王子がそれぞれ生まれた。成長したラーマはリシ(聖賢)ヴィシュヴァーミトラのお供をしてミティラーのジャナカ王を訪問したが、ラーマはそこで王の娘シーターと出会い、結婚した』。第二巻「アヨーディヤ・カーンダ」(「アヨーディヤ」の巻)――『ダシャラタ王の妃カイケーイーにはマンタラーという侍女がいた。ラーマの即位を知ったマンタラーは妃にラーマ王子への猜疑心を起こさせ、ダシャラタ王にラーマをダンダカの森に追放し、バラタ王子の即位を願うように説得した(ダシャラタ王はカイケーイー妃にどんな願いでも』二『つまで叶えることを約束したことがあった)。ラーマはこの願いを快く受け入れ、シーター、ラクシュマナを伴って王宮を出た。しかしダシャラタ王は悲しみのあまり絶命してしまった』。第三巻「アラニヤ・カーンダ」(「森林」の巻)――『ダンダカの森にやってきたラーマは鳥王ジャターユと親交を結んだ。またラーマは森を徘徊していたラークシャサを追い払った。ところがシュールパナカー』(ラークシャサ(羅刹女)の一人の名)『はこれをうらみ、兄であるラークシャサ王ラーヴァナにシーターを奪うようにそそのかした。そこでラーヴァナは魔術師マーリーチャに美しい黄金色の鹿に化けさせ、シーターの周りで戯れさせた。シーターはこれを見て驚き、ラーマとラクシュマナに捕らえるようせがんだ。そしてラーヴァナは』二『人がシーターのそばを離れた隙にシーターをさらって逃げた。このとき』、『鳥王ジャターユが止めに入ったが、ラーヴァナに倒された』。第四巻「キシュキンダー・カーンダ」(「キシュキンダー」の巻)――『ラーマはリシュヤムーカ山を訪れて、ヴァナラ族のスグリーヴァと親交を結んだ。ラーマは王国を追われたスグリーヴァのために猿王ヴァーリンを倒した。スグリーヴァはラーマの恩に報いるため、各地の猿を召集し、全世界にシーターの捜索隊を派遣した。その中で、南に向かったアンガダ、ハヌマーンの』一『隊はサムパーティからシーターの居場所が南海中のランカー(島のこと。セイロン島とされる)であることを教わる』。第五巻「スンダラ・カーンダ」(「美」の巻)――『風神ヴァーユの子であるハヌマーンは、海岸から跳躍してランカーに渡り、シーターを発見する。ハヌマーンは自分がラーマの使者である証を見せ、やがてラーマが猿の軍勢を率いて救出にやってくるであろうと告げた。ハヌマーンはラークシャサらに発見され、インドラジット』(羅刹王ラーヴァナの子の名)『に捕らえられたが、自ら束縛を解き、ランカーの都市を炎上させて帰還した』。第六巻「ユッダ・カーンダ」(「戦争」の巻)――『ランカーではヴィビーシャナ』(羅刹王ラーヴァナと兄弟であるが心優しく正しい人物である)『がシーターを返還するよう主張したが』、『聞き入られなかったため、ラーマ軍に投降した。ここにラーマとラーヴァナとの間に大戦争が起きた。猿軍はインドラジットによって大きな被害を受けながらも』、『次第にラークシャサ軍を圧倒していき、インドラジットが倒された後、ラーヴァナもラーマによって討たれた。ラーマはヴィビーシャナをランカーの王とし、シーターとともにアヨーディヤに帰還した』(平井呈一氏は恒文社版の最後に本叙事詩に就いての長い注を附されており、ここの下りでは『ラーマは』ラーヴァナ『討伐を決心したが、海を越えることに困難を感じた。海の神がナラという猿に命じて橋を架けさせたので、全軍を進めることができ』、遂に彼らを退治した、とされておられる)。第七巻「ウッタラ・カーンダ」(「後」の巻)――『ラーマの即位後、人々の間ではラーヴァナに捕らわれていたシーターの貞潔についての疑いが噂された。それを知ったラーマは苦しんで、シーターを王宮より追放した。シーターは聖者ヴァールミーキのもとで暮すこととなり、そこでラーマの』二『子クシャとラヴァを生んだ。後にラーマは、シーターに対して、シーター自身の貞潔の証明を申し入れた。シーターは大地に向かって訴え、貞潔ならば大地が自分を受け入れるよう願った。すると大地が割れて女神グラニーが現れ、 シーターの貞潔を認め、シーターは大地の中に消えていった。ラーマは嘆き悲しんだが、その後、妃を迎えることなく世を去った』(猿が活躍する部分を私が太字で示した)。なお、ここで小泉八雲が「太陽をつかむ事のできる『ラマヤナ』の聖い猿」と呼んでいるのは、以上の前哨戦を含む「対ラーヴァナ戦」で、八面六臂の活躍をする神猿ハヌマーン(Hanumān)のことを指している。以上と重複する箇所もあるが、ウィキの「ハヌマーン」を引いておく(総て太字で示した)。『風神ヴァーユが天女アンジャナーとの間にもうけた子とされる』。『ハヌマット(』『Hanumat)、ハヌマン、アンジャネーヤ(アンジャナーの息子)とも。名前は「顎骨を持つ者」の意。変幻自在の体はその大きさや姿を自在に変えられ、空も飛ぶ事ができる。大柄で顔は赤く、長い尻尾を持ち雷鳴のような咆哮を放つとされる。像などでは四つの猿の顔と一つの人間の顔を持つ五面十臂の姿で表されることもある』。『顎が変形した顔で描かれる事が多いが、一説には果物と間違えて太陽を持ってこようとして天へ上ったが、インドラのヴァジュラで顎を砕かれ、そのまま転落死した。ヴァーユは激怒して風を吹かせるのを止め、多くの人間・動物が死んだが、最終的に他の神々がヴァーユに許しを乞うた為、ヴァーユはハヌマーンに不死と決して打ち破られない強さ、叡智を与えることを要求した。神々はそれを拒むことができず、それによりハヌマーンが以前以上の力を持って復活した為にヴァーユも機嫌を良くし、再び世界に風を吹かせた』。『ヒンドゥー教の聖典ともなっている叙事詩『ラーマーヤナ』では、ハヌマーンは猿王スグリーヴァが兄ヴァーリンによって王都キシュキンダーを追われた際、スグリーヴァに付き従い、後にヴィシュヌ神の化身であるラーマ王子とラクシュマナに助けを請う。ラーマが約束通りにヴァーリンを倒してスグリーヴァの王位を回復した後、今度はラーマ王子の願いでその妃シータの捜索に参加する。そしてラークシャサ(仏教での羅刹)王ラーヴァナの居城、海を越えたランカー(島の意味。セイロン島とされる)にシータを見出し、ラーマに知らせる。それ以外にも単身あるいは猿族を率いて幾度もラーマを助けたとされており、その中でも最も優れた戦士、弁舌家とされている』。『今でも民間信仰の対象として人気が高く、インドの人里に広く見られるサルの一種、ハヌマンラングールはこのハヌマーン神の眷属とされてヒンドゥー教寺院において手厚く保護されている。中国に伝わり、『西遊記』の登場人物である斉天大聖孫悟空のモデルになったとの説もある』とある。]

2019/11/18

小泉八雲 蛙 (大谷定信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Frogs ”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第一パート“ EXOTICS ”の五番目に配された一篇である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月24日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 標題の添え句はポイント落ちであるが、同ポイントとし、字空けも無視した。傍点「﹅」は太字に、傍点「○」は太字下線に代えた。本文中の箇条表記や引用は底本ではポイント落ち四字下げ、註は五字下げで更にポイント落ちであるが、総て行頭に引き上げて同ポイントとした。字間等も再現していない。それらのソリッドな一群の前後は一行空けた。

 なお、発句の作者は原本にはなく、執筆当時、小泉八雲の資料の提供を行った訳者で俳人でもあった大谷氏のサーヴィスで記されてあるものである。また、冒頭の添え句は本文に後で再度、出て、大谷によって作者が示されるが、整序すると、

 手をついて歌申し上ぐるかはづかな

で、この句は室町戦国時代の連歌師で俳人の山崎宗鑑(生没年未詳:山城の山崎にすんだことから、この名で呼ばれる。初めは宗祇らと連歌を詠み、後に滑稽・機知の句風へと向かい、俳諧撰集「犬筑波集」を編集、宗長・荒木田守武らと交わって俳諧創始者の一人とされる。宗鑑流の書でも知られる。出自・経歴には諸説あり、一説に天文八(一五三九)年、又は、翌年に七十七~八十六歳で没したともいう)の作とされるものである。ずっと後の、芭蕉の『俳諧七部集』の一つで山本荷兮(かけい)の編になる「阿羅野(あらの)」(元禄二(一六八九)年板行)の「卷之二」の「仲春」に、

 手をついて哥申あぐる蛙かな   山崎宗鑑

と引かれていることで宗鑑の有名な句として知られる。これは小泉八雲が後で本文で引く「古今和歌集」の「假名序」の『はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける』を踏まえた句で、諧謔のそれは、なかなかに面白い趣向で、新しい着想であるとは言えよう。昭和四一(一九六六)年岩波文庫刊の中村俊定校注「芭蕉七部集」の脚注には、幕末の「標柱七部集」(惺庵西馬述・元治元(一八六四)年板行)に『女院ノ御車ノ前ニテノ吟ナリト云ヘリ』とある。但し、それに続いて中村氏の注があり、「耳無草」という書には作者名を道寸(貞門俳人の夕陽庵弘永のこと)となっているという、ともあるので、宗鑑の句と断定は出来ぬものかも知れぬ。]

 

 

   

 

    手をついて歌申上るかはつかな  ――古 句

 

        

 旅行の感覺印象の、より單純なものの中で、音響ほど――野天の音響ほど――或る異國の記憶と關聯して密接に且つ鮮明に殘るものはない[やぶちゃん注:底本は「ものは鮮ない」であるが、衍字か誤植と断じて除去した。]。自然の聲が――森や川や野の聲が――帶(ゾーン)に從つて異つて居ることを知つて居るものは旅行者だけである。そして感情に訴へ記憶に徹して、此處は外國である、遠く離れた處であるといふ感じを我々に與へるものは、殆どいつも、その聲の調子或は性質の或る地方的特性である。日本ではこの感じを特に昆蟲の音樂が――その西洋の同族の音聲語(サウンド・ランゲジ)とは驚く許りに異つた音聲語を發する半翅類(ヘミプテラ)の音樂が――起こす。それとは程度は劣るが、日本の蛙の歌聲(うたごゑ)にきも――尤もその音(ね)は寧ろそれが遍在な爲めに記憶に印するものであるけれども――またこの異國的な語調(アクセント)を認めることが出來る。稻が國中到る處に――啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]山の斜面や丘の嶺にだけでは無く、都市の境域內にすら――耕作されるのであるから、到る處に水の溢れて居る雅趣があり、從つて到る處に蛙が居る。日本を旅行した者で稻田の喧しさを忘れる者は一人もあるまい。

[やぶちゃん注:「半翅類(ヘミプテラ)」“hemiptera”。節足動物門昆虫綱有翅亜綱 Pterygota新翅下綱準新翅上目半翅(カメムシ)目 Hemiptera に属する昆虫類を指すが、ここはその中の鳴くところの半翅目頸吻亜目セミ型下目セミ上科 Cicadoidea のセミ類を小泉八雲は指している。因みに半翅目には、セミの他に、代表種群たるカメムシに始まってタガメ・アメンボ・ウンカ・アブラムシ(アリマキ)などが含まれる。]

 晚秋と短い冬との間だけ靜まるばかりで、春が初めて目醒めると共に、沼地の音總てが――生きかへりつつある土壤そのものの言葉かと思ひ誤るほどの、湧き立つ無限の合唱が――眼醒める。そして彼(か)の普遍的な生の神祕がその偉大な發言に――忘れられた幾千年の間、忘れられた幾代(だい)の勞役者が耳にしたものではあるが、疑も無く人類よりも幾萬世(せい)古いその偉大な發言に――存する一種特有な憂愁にをののくやうに思はれる。

[やぶちゃん注:セミ類の祖先が登場したのは二億年以上も前である。因みに、人類の祖先は僅か二百万年前の氷河時代であった。

 さてこの幽寂の歌は、日本の詩人に取つて、幾世紀の間、氣に入りの題目となり來たつて居る。が、日本詩人には、それが一個の自然表現としてよりも、寧ろ愉快な一つの音(ね)として訴へ來たつて居る、ことを知つて西洋の讀者は驚かれるかも知れぬ。

 

 蛙の歌ひ聲に就いては無數の詩が書かれて居る。が、普通の蛙を詠んだものと合點して居れば、その大部分は不可解なものとなるであらう。稻田の全體の合唱が日本の詩歌に於て頌讃[やぶちゃん注:「しようさん」。]を享けて居る場合は、幾百萬の小さなガアガア聲の混淆が――降雨の人を眠らせる音(ね)に好くも例へられて居る、實際に愉快な感銘を與へる混淆が――惹き起こすあの偉大な音量にのみ詩人はその快感を言ひ表はして居るのである。が、詩人が一個の蛙の聲を好い音(ね)だと述べる時は、稻田の普通の蛙について語つて居るのでは無いのである。日本の蛙はその多くの種類はガアガア聲のものではあるけれども(木の蛙は言ふまでも無く)著しい例外が一つある。日本での眞の歌ふ蛙卽ちカジカである。これがガアガアいふと言ふのは、その音調に對して不正な言(げん)で、實はそれは鳴禽の囀りの如くにうるはしいのである。それは『カハヅ』と呼ばれて居た。が、この古名が後世に至つて俗間で、尋常普通な蛙の總稱たる『カヘル』と混同さる〻やうになつたので、今はただ『カジカ』とばかり呼ばれて居る。この河鹿は家內の愛物として飼養さる〻ので、東京では數多の蟲商人が賣つて居る。その下の處に砂と小石、新しい水と小さな植木、の入つて居る水鉢が置いてあつて、上の處は細い針金(はりがね)を紗張りにした枠細工になつて居る、或る特殊な籠に棲まはせるのである。時にはその水鉢がトコニハ卽ち雛形の風景園のやうにしつらへてある。現今は河鹿を春夏の歌ひ手の一つと考へて居るが、前には秋の音曲家のうちに部類分けされて居たもので、その歌ふのを聽くといふだけの樂みに、世人は田舍へ秋の遠足をしたものである。そして丁度種々な場處が特別な種々な夜の蟋蟀[やぶちゃん注:「こほろぎ」。]の音樂に有名であつたやうに、ただ河鹿が多く棲して居る所として著名な場所があつた。次にしるすのは殊に世に知れ渡つて居つた。

[やぶちゃん注:「木の蛙」樹上性の雨蛙(脊索動物門脊椎動物亜門両生綱無尾目カエル亜目アマガエル科アマガエル亜科アマガエル属ニホンアマガエル Hyla japonica )を指していよう。YouTube のkiokuima氏のこちらで鳴き声が聴ける。

「カジカ」「河鹿」。「清流の歌姫」とも称される、とても綺麗な鳴き声で鳴く無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeriウィキの「カジカガエル」で聴ける。【追記】後年、私はブログで「日本山海名産図会」全巻を正字でオリジナル電子化注をしたが、その「第四巻 河鹿」が、カジカガエル相当であるので、是非、読まれたい。

「それは『カハヅ』と呼ばれて居た。が、この古名が後世に至つて俗間で、尋常普通な蛙の總稱たる『カヘル』と混同さる〻やうになつたので、今はただ『カジカ』とばかり呼ばれて居る」荒俣宏氏の「世界大博物図鑑3 両生・爬虫類」(一九九〇年平凡社刊)の「カエル」の項の「カエルとカワズの区別」の項に、水戸出身の国学者林国雄の博物学的考証書「河蝦考(かはづかう)」(文政九(一八二六)頃成立)での「カワズ」「カエル」「カジカ」の名称の区別についての論考を基にした解説が出るので、それを引用させて戴く(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。

   《引用開始》

 万葉の時代にカワズとよばれたものは、江戸時代のそれとはちがっていた。江戸時代には、春、田沼で鳴き騒ぐものをカワズと称しているが、《万葉集》では、山川にすみ、とりわけ夏から秋に鳴くものをカワズとよんでいた。この習慣は、平安時代にも受け継がれて、紀貫之が《古今集》の序に、〈花に鳴くうぐひす、水にすむかはづの声きけば〉と記したのも、春のウグイス、秋のカワズという対照をふまえていたものだった。春のウグイスと対になるほどのものだから、カワズの声というのは,ふつうには今にいうカジカガエルの声を指していたと思われる。カエルという語ももちろん古く、《本草和名》[やぶちゃん注:深野輔仁(ふかねのすけひと)著。延喜一八(九一八)年成立。本邦初の本草辞典。]にはすでに見えるが、こちらは春に鳴く田沼のものを指していた。つまり、春のカエル、秋のカワズ、とその区別ははっきりしていたのだが、いつのまにかその差が曖昧になり、どちらもカエル類の総称となったのである。カエル、カワズの2語に対して、カジカという言葉はひじょうに新しい。江戸初期の俳諧師が、カジカガエルの鳴き声を聴いて、河の鹿になぞらえ、命名したもののようである。しかし、その鳴き声を出す実体がよく知られていなかったので、ハゼ科の魚[やぶちゃん注:条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux 。]の名称にもなった[やぶちゃん注:中略。]。なお《重修本草綱目啓蒙》によれば、カエルのうち、体が小さくやせていて、あしの細長いものをカワズとよぶという。

   《引用終了》

また、荒俣氏は「博物誌」の最後で、本邦のそれを掲げられており、非常に参考になるので、やはり同仕儀で引用させて戴く。

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]日本でもカエルのイメージはまず鳴き声から生じてくるかのようである。風流の象徴であるカジカがその典型である。カジカの正体については古くから論争があり、[やぶちゃん注:中略。「あるが、」に詠み換えられたい。]文献をさぐるかぎり、古代における〈カジカ〉はカエルを指していたことが特定できる。

 平安時代、カジカの名所とされた京都南方の井堤(井手)[やぶちゃん注:孰れも「いで」と読む。]の場合がその事情を示している。《新古今和歌集》2巻春歌に〈あし曳の山吹の花散にけり井手のかはづは今やなくらむ〉と、藤原興風の歌が載るとおり、そこは当時カジカでなくカワズの名所だったのである。この井堤のカワズを考証したのが、鴨長明であった。彼の《無名抄》によると、井堤のカワズはほかのカエルとちがって躍り歩くことがなく、色が黒く、あまり大きくない。その鳴き声は〈いみじく心、すみ、ものあはれなる声〉だという。これは間違いなく、カジカガエルを指している。《無名抄》より半世紀ほど前に出た歌学書《袋草紙》にも、能因法師が錦(にしき)の小袋に入れた井堤のカワズを、数寄(すき)者の歌詠みなかまに贈る話が載っている。

 風流人としても知られた戦国大名の細川幽斎も、丹後在城のとき、井堤のカワズをとりよせて池に放ち、その声を楽しんだ。以来、丹後国にもこのカエルがすむようになったという。また。かずかずの動植物を領内に移植した徳川光圀は、井堤のカワズもとりよせるように命じた。役人たちが夏季に3たび運んだが、いずれも三河、遠江、駿河のあたりで死なせてしまった。光圀はこれを聞き、秋の末か冬の初めに土にもぐったカエルを捕り、土をかけたまま運ぶように指示した。そのとおりに運ぶと、1匹も殺さずに領内へ無事に運びこめたという。

 また《河蝦考》には、著者林国雄がカジカを求めて、玉川を下流の六合(むつあい)から二子を経て青梅までえんえんとさかのぼる場面がある。2月の初め、青梅の河原で、著者はついにカジカの声を聞くことができた。ヒウヒウと小鳥の雛の声のように、せせらぎの音に相混じって、ほのかに聞こえたという。林国雄は、カジカが鳴くのは秋だと信じきっていたので、春に聞けたのも奥地まで来たからだと感想を残している。その鳴き声の主はすぐに判別できなかったが、目をこらしていると、流れより突き出た石の上に黒い小さなカエルがいるのが見えた、としている。

 次に日本人の目にうつったカエルは、跳びはねるもの、というイメージだった。小野道風(おののとうふう)の伝説はその代表的なものである。奈良県吉野町の蔵王堂では、77日に〈蛙とび神事〉が行なわれる。その縁起は、白河天皇の延久年間(106974)のできごとによる。蔵王権現をののしった男が、行者たちによってこらしめのために法力でカエルに変身させられてしまった。以来、このカエルは吉野山の下の池から蔵王堂まで跳ねていき、毎日行者を送り迎えした。そして案内役の苦行を数年間続け改心の情を認められたので、ついに人間にもどることができた。その故事にちなみ、蛙とびの行事がはじまったといわれている。

   《引用終了》

これらの話を小泉八雲が聞いたら、さぞ喜んだであろうことが、確かに想像される。]

 

玉川と大澤の池(山城の國の川と湖水)

三輪川、飛鳥川、布留(ふる)の山田、吉野川(何れも大和の國)

昆陽(こや)の池(攝津)

浮沼(うきぬ)の池(石見)

いかほの沼(上野)

[やぶちゃん注:「玉川」現在の京都府綴喜郡井手町を流れる淀川水系の木津川の支流(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古来よりの霊魂の川である「六玉川」の一つで、桜の名所。その上流が「かわづ」(河鹿蛙)の名所でもあった。

「三輪川」奈良県桜井市を流れる。狭井(さい)神社境内の鎮女池(しずめいけ)に発し、大和川に注ぐ小さな川である。この附近

「飛鳥川」奈良県中西部を流れる大和川水系の川。ここ。明日香川とも表記する。

「布留(ふる)」奈良県天理市の地名。石上(いそのかみ)神宮がある。ここ

「昆陽(こや)の池」兵庫県伊丹市昆陽池(こやいけ)。現在は往時の一部が「昆陽池」(こやいけ)としてその周辺地域と合わせて「昆陽池公園」として整備されている。

「浮沼(うきぬ)の池」「万葉集」にそれと詠まれている池は、現在の島根県大田市の三瓶山(さんべやま)の西にある湖である浮布池(うきぬのいけ)に比定されているが、固有名ではなく、ただの「沼」の意ともされる。

「いかほの沼」榛名湖の古称。]

 

 さて、極東の詩にあんなに屢〻賞讃されて居るのは、この河鹿、卽ちカハヅの調子の好い啼き聲であつた。で、昆蟲の音樂と同樣に、現存して居る最古の日本歌集にそれが記載されて居る。延喜の五年(紀元九百〇五年)に、敕命に依つて編簒された『古今集』といふ有名な佳句類集の緖言に、その編輯長であつた紀貫之といふ詩人が、こんな興味深い意見を述べて居る。

 

『やまとうたは、人の心をたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、こゝろに思ふ事を、見るもの、きくものにつけて、言ひ出せるなり。花に啼くうぐひす、水に棲むかはづの聲をきけば、いきとしいけるもの、いづれか歌をよまざりける』

註 セティア・カンタンス――日本のナイティンゲール。

[やぶちゃん注:「ことわざしげきものなれば」「さまざまな日常の出来事や、そこでの行為を成すこと、これ、はなはだ多いものであるからして」。以下、貫之の素晴らしさは、『鶯や蛙のそれを聴くにつけても、一切の衆生、生き物は孰れも歌を歌うのだ』と述べていることである。

「セティア・カンタンス――日本のナイティンゲール」“ Cettia cantans,—the Japanese nightingale. ”は、スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone である。この「 Cettia cantans 」は、亜種扱いの同種のシノニム「 Cettia diphone cantans 」の不全表記である。博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶯(うぐひす)(ウグイス)」を見られたいが、「ナイティンゲール」は日本では「小夜啼鳥(さよなきどり)」と呼び(本邦には棲息しない)、スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos で全くの別種である。]

 

 貫之の言うて居るカハヅは勿論近代のカジカと同じ動物である。普通の蛙が、かの驚くべき鳥のウグヒスと同時に歌ひ手として記載された譯(わけ)は無い。それに、普通な蛙では、どんな古典的詩人にも、

 

手をついて歌申上るかはつかな   宗鑑

 

のやうな面白い想像を鼓吹することは出來なかつたらう。

 この小さな詩の妙味は、長上に對つて[やぶちゃん注:「むかつて」。]物を言ふ折に極東人がする禮式の姿勢を――身體(からだ)を恭しく屈め、指を外側に向けて兩手を床(ゆか)の上へ置いて跪く姿勢を――能く知つて居る人には一番能く了解が出來る。

 

註 少くとも男子に對して古い禮式で定められて居る姿勢はさうである。が、規則は頗る複雜で、性に依つて異ると共に位階に依つても幾分か差異があつた。女子はこの姿勢を執る時、指は外側に向けずに內側に向ける。

 

 蛙に就いて歌を詠むといふ慣習が、どれほど古いか、之を決定することは殆ど不可能である。が、遠く八世紀の中頃に出來た『萬葉集』に、其の時代にさへ飛鳥川は久しく蛙の歌ひ聲に名高かつたことを思はせる歌がある。

 

今もかも飛鳥の川のゆふさらす

   蛙なく瀨のきよくあるらん

[やぶちゃん注:原文のローマ字表記がそうなっているのだが、これは現行では読みが異なる。「万葉集」の「卷第三」の上古麻呂(かみのこまろ)の一首(三五六番)、

   上古麻呂の歌一首

今日(けふ)もかも明日香(あすか)の川の夕さらず

   かはづ鳴く瀨の淸(さや)けかるらむ

或いは一本に、初句は、

明日香川今もかもとな

とする歌である(一本のそれは「或いは、今も、もしかして」の意である)。]

 

 この佳句類集(アンソロジー)[やぶちゃん注:ルビは「佳句類」にしか附されていないが、かくした。]中にまた、蛙の歌ひ聲に珍らしくも言ひ及んで居る次のやうなのがある。

 

おもほえす來ませる君を佐保川の

   かはつきかせすかへしつるかも

[やぶちゃん注:表記がおかしい。但し、そもそもが小泉八雲自身が、ローマ字では、初句を“Omoboyezu”とやらかしているのを考えれば、まだ救われる。「万葉集」の「卷第六」の按作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)の一首(一〇〇四番。後書は行頭へ引き上げた)、

   按作村主卷人の歌一首

思(おぼ)ほえず來(き)ませる君を佐保川(さほがは)の

   河蝦(かはづ)聞かせず歸しつるかも

右は、內匠大屬(たくみのだいさくわん)按作村主益人、聊(いささ)か飮饌(いんせん)を設け、以ちて長官(かみ)佐爲王(さゐのおほきみ)を饗(あへ)す。未だ、日、斜(くた)つに及ばずして、王、既(はや)く還-歸(かへ)れり。時に益人、厭(あ)かずして歸ることを怜-惜(を)しみて、此の歌を作れり。

が正しい。後書の「厭(あ)かずして」は、「充分に楽しまれることなくして、早々と」の謂いであろう。]

 

 それから今一つの古代編纂の『古今和歌六帖』に、同じ題目のこんな面白い歌が保存されて居る。

 

玉川の人をもよきす啼くかはつ

   このゆふきけは惜しくやはあらぬ

[やぶちゃん注:平安時代の天禄元(九七〇)年頃から永観二(九八四)年頃の間に成立したとされる私撰和歌集「古今和歌六帖」(撰者不詳であるが、紀貫之説・兼明(かねあきら)親王説・具平(ともひら)親王説・源順(したごう)説がある)を「日文研」の「和歌データベース」でしらべると、「第三 水」に(ガイド・ナンバー【01602】)、

たまかはの ひとをもよきす なくかはつ このゆふかけは をしくやはあらぬ

の形で載る。小泉八雲の示したものは、

玉川の人をも過(よ)ぎず啼くかはづ

    この夕聞けば惜しくやはあらぬ

であろう。「よぎず」は「避けずに」の意。しかし、「和歌データベース」に従うなら、

玉川の人をも過ぎず啼くかはづ

   この夕景(ゆふかげ)は惜しくやはあらぬ

(或いは「夕影」でもよい)となろうか。]

 

 

       

 だからして千百年以上の間も日本人は蛙の詩を作り來たつて居るやうに思はれる。そしてこの題目での歌で、『萬葉集』に保存されて居るものは、第八世紀よりもつと前にすら作られたものといふことは少くとも考へ得られることである。この題目は最古の古典時代からして今日に至るまで、いつもあらゆる階級の詩人に愛好されて居る。この關係に於て注目すべき事實は、ホツクといふ音格で作つた、かの有名な芭蕉の最初の詩は蛙に就いてであつたといふ事實である。この極端に短い詩形(五、七、五綴音[やぶちゃん注:「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す。]の三行)の成功は、感情を描いた一個の完全な繪を創造するにあるので、芭蕉の原作

 

古池や蛙とびこむ水の音

[やぶちゃん注:蕉風開眼の「古池や蛙(かはづ)飛(とび)こむ水のをと」は山本荷兮編の『俳諧七部集』の一つ「春の日」所収の貞享三(一六八六)年の作(この句形での初出は遷化編「蛙合(かはずあはせ)」で同年閏三月板行)。但し、同年のそれ以前の西吟(さいぎん)編「庵櫻(いほりざくら)」同年三月下旬奥書)に、

古池や蛙飛んだる水のをと

の初期形があることが判っている。しかし、この初期形は如何にも軽口の諧謔に過ぎず、音韻上の面白さを狙っただけの駄作である。伝説の域を出ないが、各務支考の「葛の松原」によれば、宝井(榎本)其角は詠んだその場で上五を「山吹や」とすることを勧めたともされるが、常套風趣のテンコ盛りで、そうしていたら、本句は永遠に芭蕉の名句とは成り得なかったであろう。]

 

は――之を英語になほすのは、不可能では無くとも――困難であるが――その業(わざ)を完成して居るのである。その後この音格で書かれた蛙の詩はその數は實に莫大なものである。今日でさへ文學本業の人が蛙に就いての短い詩を作つて樂しんで居る。そのうち著しいのは、日本の文學社會に『露石』といふ雅號で知られて居る靑年詩人で、この人は大阪に往んでゐて、その庭の池に幾百といふ蛙を飼うて居る。間を置いて一定の日に、銘々、饗應中に、その池の住者について句を一つ作らねばならぬといふ條件で、その詩人友達を馳走に招く。斯くして得た句を蒐めたものが千八百九十七年[やぶちゃん注:明治三十年。]の春、表紙を飾り本文を說明する面白い蛙の繪を添へて、私かに[やぶちゃん注:「ひそかに」。]出版された。

[やぶちゃん注:小泉八雲は、実際には、ローマ字で芭蕉の決定句を掲げた後の本文の冒頭に、

(“Old pond — frogs jumping in — sound of water.”)

という訳を添えている。

「露石」水落露石(みずおちろせき 明治五(一八七二)年~大正八(一九一九)年)。ウィキの「水落露石」によれば、『大阪府出身の日本の俳人。本名は義一、のちに庄兵衛。別号に聴蛙亭』。『大阪府安土町(現在の大阪市中央区、いわゆる船場にあたる)の裕福な商家に生まれる。府立大阪商業学校(のちの大阪商科大学、現在の大阪市立大学)を経て、泊園書院で藤沢南岳に漢学を学ぶ。その頃から俳句を始め、日本派の正岡子規に師事。東京の子規庵句会、松山の松風会に継いで』三『番目となる日本派の拠点、京阪満月会を興』した。『京阪満月会は寒川鼠骨、中川四明ら京都や大阪の日本派俳人を中心に拠った。しかしわずか』一『年で露石は地元の大阪で京阪満月会とは別に大阪満月会を興し、それに大阪の俳人たち、松瀬青々、野田別天楼、青木月斗らも続いた。以降は大阪俳壇の重鎮として子規を助け』た。『与謝蕪村の研究家としても』知られ、『蒐集した膨大な蕪村の原稿を』「蕪村遺稿」(表紙は富岡鉄斎)として出版している。『豊富な資金力から、子規亡き後を引き継いだ高浜虚子』の雑誌『ホトトギス』発行に『金銭的援助をし続けた。また』、『新傾向俳句にも傾倒し、同じ子規門の河東碧梧桐が主宰した『海紅』の同人となった』とある。本書刊行時(明治三一(一八九八)年十二月)は満二十六歳であった。小泉八雲が言っている蛙の句集は明治三〇(一八九七)年刊行の「圭虫句集」(序文は正岡子規)である。]

 が不幸にも、蛙文學の範圍と特質に就いて、明亮な觀念を英語譯で與へることは不可能である。その理由は、蛙に關しての作品の大多數は、その文學的價値が主として不可飜譯的な處に――例へば、日本の外(そと)では理解不可能な地方的な引き事[やぶちゃん注:“allusions”。「示唆・比喩」。]に、言葉のしやれに、それから二重にも三重にも意味を有つた[やぶちゃん注:「もつた」。]語の使用に存して居るからである。飜譯が出來るのは百句每に二三句も無いぐらゐである。だから自分が企て得ることは少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の一般的觀察に過ぎぬ。

 

 戀の詩がこの奇妙な文學の餘程の部分を占めて居ることは、戀人の會合の時刻がまた蛙の合奏の最中であること、少くとも日本ではこの昔の記憶が殆どどんな淋しい場所でもの祕密な會合の記憶と一緖に聯想されること、を想ひ起こせば、讀者は奇怪に感じはされぬであらう。そんな詩に詠んである蛙は通例カジカでは無い。蛙の方が無限の巧妙な手段を用ゐて戀歌の中へ取り入れてある。此種の近頃の通俗な作のうち自分は例證を二つ與へることが出來る。初のは、有名な諺ノナカ ノ カノ カハヅ タイカイ ヲ ジラズ[やぶちゃん注:最初の「井」は漢字の「井」をカタカナの「ヰ」のように用いた(江戸時代のルビなどにはしばしば見られる表記)ものでかすかにポイント落ちで、僅かに右手に寄っているので、ポイントを一ポイント落しておいた。](『井の中の蛙大海を知らず』)の暗示を含んで居る。世間の事を全く知らずに居る人のことを、井の中の蛙に喩へるから、次記の句を詠んだ者は、可憐な頓智を以てつれない言葉に應答して居る、情(こころ)のうるはしい田舍娘であると想つてもよからう。

 

井の蛙花も散るなり月もさす   ( ? )

[やぶちゃん注:試みに調べてみたところ、「禪林世語集」(ぜんりんせごしゅう)(巷間で使われている言葉で禅意を表わそうとするもので、和歌や俳句、時には、その時代の落首までもが含まれるという)の中に、頼山陽の都々逸(どどいつ)として、

井戶の蛙と譏(そし)らばそしれ花も散り込む月もさす

というのを見つけた。]

 

 二番目のは嫉妬するのも無理からぬ或る女が詠んだものと想像される。

 

水濁る池も蛙の高音かな     ( ? )

[やぶちゃん注:小泉八雲は、この句(作者不詳)を以下の英訳で示している。

Dull as a stagnant pond you deemed the mind of your mistress;

But the stagnant pond can speak: you shall hear the cry of the frog!

平井呈一氏の恒文社版「カエル」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『あなたはわたしの心を、濁った池のように見ばえがしないとお考えですが、濁った池にだって、蛙の声がきかれましてよ』と、美事に、さらりと、現代語訳しておられる。]

 

 戀歌のほかに池や田の普通の蛙を詠んだのが幾百もある。或るものは主として蛙が出す音の量に關したものである。

 

田の蛙水が嗚くかと思ひけり   一笠庵

[やぶちゃん注:「一笠庵」不詳。以下、出典不詳・作者不詳のものには注は附さない。]

 

苗代の水增せば增す鳴く蛙    ( ? )

 

田から田へ聲の續くや鳴く蛙   ( ? )

 

更けるほど池の蛙の高音かな   ( ? )

 

夜は池の廣しと思ふ蛙かな    はる子

 

船さへも留める堀江の蛙かな   ( ? )

[やぶちゃん注:「堀江」大阪市内を流れる今の大川の一部に当たる昔の人工運河。江戸幕府が天和三(一六八三)年に淀川水系の河川改修を河村瑞賢に命じて作らせたもので、江戸時代の「難波(なにわ)の堀江」は、現在の上町台地北端から吹田市江坂辺りまで長く伸びていた砂州を切り開いて、当時の淀川水系・大和川水系を西流させたもので、現在の大川天満橋付近に当たる(以上はウィキの「堀江 (大阪市)」の「堀江新地の開発」の項に拠った)。]

 

 この最後の句の誇張は固より故意のもので、原作では感銘に乏しい句でも無いのである。世界の或る地方では――例へばフロリダや南部ルイジアナの沼では――蛙の喧噪は荒海の怒濤に似て居る。で、それを聞いたことのある人なら、音を障害だとする想像を鑑賞することが出來る。

[やぶちゃん注:「南部ルイジアナ」ぱっと見の地図でも湿地や沼が多い。しかし、現状のそれは深刻で、ウィキの「ルイジアナ州」によれば、『州南部の海岸は、世界でも最大級の速度で消失を続けている地帯である』とあり、『その原因として、人間が管理を誤ったことが大きなものになっている。昔は毎年春にミシシッピ川の水が溢れて堆積物を増やし、湿地を増やしていたので、土地は成長していたが、その土地が現在は減少している。これには幾つかの原因がある』。『人工の堤防が、沼地に新鮮な水と堆積物を運ぶはずの春の増水による氾濫を止めている。湿地では広い範囲で樹木が伐採され、運河や溝を通じて塩水が内陸まで運ばれるようになっている。石油・ガス産業のために掘られた運河も、嵐によって海水を内陸に運ぶようになっており、沼地や湿地に被害を与えている。さらに海面の上昇が問題を悪化させている。毎日球技場』三十『面に相当する陸地が失われているという推計もある。ミシシッピ川からの自然の溢水を復活させるなど、人間による被害を減らして海岸地域を保護するための提案も多い。それらの救済策が打たれなければ、海岸の地域社会は消失し続けることになる』。『地域社会の消失とともに、より多くの人々が地域を離れるようになっている』。『海岸の湿地は経済的に重要な漁業も支えているので、湿地が失われることは漁業にも打撃となる。湿地を生息域とする魚以外の野生生物種にも悪影響があるが、ミシシッピ川の河口は広大な湿地や沼地の森林を支え続けることに疑いは無い。これらの問題がありながら、ルイジアナ州の海岸部には生態系を探索するための多くの美しい湿地や沼地が現在もあり』、『野生のアメリカアリゲーターを見たり、カッショクペリカンやダイサギの群れを見るための遊覧船がルイジアナ観光の目玉になっている』とある。ここ。]

 他の句では蛙の音を雨の音に比較したり結び合はせたりして居る。

 

降る雨の音より低し初蛙    祥平

 

雨音と聞いて居たれば蛙かな  京魚

 

雨の音と蛙の歌に寢ねんかな  ( ? )

 

 また、次のホツクのやうに、小さな繪――爪先きのスケツチ――をただ描く積りの句もある。

 

畦道やかはづ飛びこむ右左   鳴雲

 

 また、次のもさうである。これは千年前のものである。

 

山吹のうつる沼水なくかはづ  ( ? )

[やぶちゃん注:出典不詳だが、小泉八雲の「千年前」というのはおかしい。本作品集は明治三一(一八九八)年刊で、八九八年は寛平十・昌泰元年の平安時代で発句の影も形もない。和歌の上句としても見出せない。但し、「山吹」と、「沼・池」の景、及び「蛙」は和歌の素材の取り合わせとして非常に古くからある常套のものである。]

 

 また、次の面白い趣向もさうである。

 

花散るや蛙のこゑの香に匂ふ  ( ? )

 

 この最後の二句は、言ふまでも無く、本當の歌ふ方の蛙[やぶちゃん注:カジカガエル。]を詠んだものである。

 蛙そのものへ――カヘルであらうがカジカであらうが――直接に物を言ひかけて居る短詩が多い。憂欝なものもあり、愛情のあるものもあり、諧謔なものもあり、宗敎的なものもあり、哲學的なものすらある。時には蛙を蓮の葉の上に休んで居る精靈になぞらへ、時にはしほれかかる花の爲めに經を讀んで居る僧にたぐへ、時にはこがれて居る戀人に、時には旅人を迎へ入れる宿主に、時には神々にいつも何か『言ひそめ』はするが、いつも言ひ終へるのを恐はがる瀆神家に見たてて居る。次の例句の多くは、露石が出版した最近の『圭蟲句集』から採つたものである。自分の散文譯の一くさり一くさりが箇々別々な句であることを記憶して居なければならぬ。

 

客去つて何の蛙のかしこまる   翠竹

 

手をついて雨を迎ふか鳴く蛙   昇

 

古井戶の星かき亂す蛙かな    鳴雪

[やぶちゃん注:「鳴雪」は俳人内藤鳴雪(弘化四(一八四七)年~昭和元(一九二六)年)。本名は素行(もとゆき)。伊予松山藩士内藤房之進の長男として江戸に生まれた。漢学を修めた後、京都へ遊学、長州征討の従軍などを経て、文部省に勤務、東京で学ぶ松山の子弟の寮である「常盤會」の寄宿舎監督をも引き受けた。ここの寄宿生には、後の正岡子規・河東碧梧桐らがいた。明治二四(一八九一)年の退官後も、寄宿舎監督を続け、翌明治二五(一八九二)年には二十歳も年下の正岡子規の俳句の弟子となり、「南塘」「破焦」の号で句作を始めた。和漢の学識と明治の情調に溢れ、飄々乎として円満洒脱な人柄は万人から敬慕された。その死は明治俳句の終焉を象徴するものであったともいえるであろう、と「朝日日本歴史人物事典」にあった。]

 

さらぬだに雨はねむきを蛙かな  金泉

 

大空へ何か言ひ出す蛙かな    ( ? )

 

世は空と悟りし貌や浮く蛙    靜江

 

山川に聲のよどまぬ蛙かな    ( ? )

 

 この最後の着想はカジカの優れた聲の力が珍重されて居ることと示して居る。

 

 

       

 自分は自分が蒐めて貰つた幾百といふ蛙の詩歌のうちに、蛙の冷たさや濕り氣を述べたものを唯だの一つも發見し得ぬのを不思議に思つた。この動物が時折執る奇妙な姿勢に就いての戲談めいた少數の句を除いては、その厭(いや)らしい性質に言ひ及んで居るもので自分が見出し得た唯一の句は、

 

晝見れば見にくき顏の蛙かな   曉石

 

といふ温和しい評言であつた。

[やぶちゃん注:「曉石」は本篇の執筆時の資料提供者にして、本篇訳者の大谷正信の俳号である。]

 蛙の冷たい、しつとりと濕つた、緊り[やぶちゃん注:「しまり」。]の無い天性に關して斯く詩人が無言で居るのを怪しんで居る間に、突然自分の胸に浮かんだことは、自分が讀んだ他の幾千といふ日本の詩歌に、觸覺に關して詠んだものが全く無いといふ事であつた。色、音、匂ひの感じは、精緻驚くばかりにまた巧妙に表はされて居る。が、味感は滅多に述べて無い、そして觸感は絕對に無視されて居る。この無言若しくは冷淡の理由は、之をこの人種の特殊な氣質又は心的慣習に求むべきかどうかと胸に問うて見た。が、まだ自分はその疑問を決定することが出來ずに居る。この人種は、西洋人の舌には無味に思へる食物で幾代も生活し來たつて居ることを憶ひ起こし、また、握手とか抱擁とか接吻とか或は愛情の他の肉體的表明とかいふ動作を爲せる衝動は、極東人の性質が實際全く知らずに居るものといふことを憶ひ起こすと、愉快なものにせよ、不愉快なものにせよ、兎に角味感と觸感とは、その發達が日本人は我々よりも遲れて居るといふ說を抱きたくなる。然しそんな說の反證となるものが多い。日本人の手業(てわざ)の成功は、幾多特殊の方向に發達して居る觸覺の、殆ど比較にならぬほど精緻なことを確證して居る。この現象の生理學的意義は何であらうとも、その道德的意義は極めて重要である。自分が判斷し得ただけの處では、日本の詩歌は、我々が美的と呼んで居る高等な感性に微妙極まる訴へを爲しながら、劣等な感性は普通之を無視して居るのである。この事實は、他の事は何一つ表示して居らぬにしても、自然に對する最も健全な最も幸福な態度を表示して居るのである。我々西洋人は、純然自然的な多くの印象をば、或る病的な觸官感受性によつて發達した嫌厭の爲めに、之を嫌がりはせぬか。この問題は少くとも考察の價値がある。そんな嫌厭は無視して或は制御して――了解すればいつも愛らしい赤裸々の自然をばそのあるが儘に受け入れて――我々が盲目的に醜陋とか不恰好とか嫌惡とか想像する處に美を――蟲に美を、石に美を、蛙に美を――日本人は發見するのである。日本人だけが百足蟲の形態を美術的に使用し來たつて居るといふ事實は意義の無い事であらうか。……模樣のある革の上をば炎の小波[やぶちゃん注:「さざなみ」。]の如く走つて居る金(きん)の百足蟲! が附いて居る京都製の自分の煙草入を讀者諸君に見せたいものである。

 [やぶちゃん注:「味感は滅多に述べて無い、」は原文、“sensations of taste were seldom mentioned,”で、「味覚については殆んど言及されておらず、」である。フランス料理にカエル料理があることは御存知だろう。私は何度か食したことがあるが、鶏肉をあっさりとした感じであった(但し、特に旨いとは思わなかった)。因みに、無尾目 Neobatrachia 亜目アカガエル科アカガエル属の日本固有種であるニホンアカガエル Rana japonica は、私の高校時代の尊敬していた生物の高橋先生は、「アカガエルは鶏肉のようにヒジョーに美味い!」と、しばしば仰っていた(残念ながら、私はニホンアカガエルを食ったことは今まで、ない)。日本でも古くからカエルを食う習慣はあり、「日本書紀」に記載がある。また、ニホンアカガエルは、最も旨いものとして、流通していたことは、私の「日本山海名産図会 第二巻 山蛤(あかかへる)」をご覧になれば、判る。そこでは、記載から、同じく日本固有種である、アカガエル属アカガエル亜属ヤマアカガエル Rana ornativentris に比定した。見られたい。

2019/11/17

小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「五」 / 「死者の文學」~了

 

[やぶちゃん注:本篇書誌及び底本・電子化の凡例等については『小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「一」』を参照されたい。]

 

       

 恐らくは自分は讀者の忍耐に餘りに附け上がつて居る。が、如上の硏究は、海の如くに廣く且つ深い題目の、瞥見以上のことを殆ど與へて居ないやうな氣がする。若しこれが、佛敎の碑銘文學の哲理と詩美とに、少しでも西洋の興味を惹起するならば、自分が希望しても尤もと思はれること總てを、確に成し遂げたことにならう。

 自分は他の場合にもさうされたやうに、佛敎の文句を『實際以上に美しく』しようとして居る、といふ非難をされることは、ありさうに思はれぬでも無い。此の非難は大抵いつも原物を全く知らない人から來るもので、自分はそれに對して何等の同情を有たぬ、不公正の精神を露はして居るものである。宗敎が、人類の社會的並びに道德的歷史に、啓發的な感化力を有つて居たものといふことを自認する者は誰れでも――幾千年の間人間行爲のより高尙な進路を形造つた信心に對しては、尊敬を拂ふべきであるといふことと許容する者は誰れでも――偉大な宗敎ならばどんな宗敎でも、それには永遠の眞理が幾分か存在して居るに相違無いといふことを承認する者は誰れでも――自己の思想、或は語詞をその同飽が寬大に解釋して吳れるやうにと願ふと同樣に、外國人の信仰の槪念を寬大に解釋するのが、飜譯者たるものの最高の義務である、と思ふことであらう。漢字で書いた物を飜譯する時には、この義務が一種特殊な方面に現はれる。文字通りに譯しようと試みたならば、その結果は無意味(ナンセンス)なものを作り出すか、或は、極東人の思想には全然緣の無い思想の連續を拵へ出すことになるであらう。さういふ文句を取扱ふのに無上に必要なことは、その原(もと)の――『書いてある語』とは實際非常に異つて居る――表意文字が東洋人の心意に傳へる思想を瞥見し且つ之を說明することである。この隨筆中に收めて居る飜譯文は日本の學者が爲したもので、その現在の形式で、權能のある批評家達が是認して居るものである。

 

 丁度此邊の處を自分が書いて居る時、彼(か)の寺の庭の樹木の上から、滿月が自分の書齋を覗き込んで、佛敎的な短い歌を自分に憶ひ出させる。

 

    分け登る麓の道は多けれと

       同し高嶺の月を見るかな

 

 この短い歌に納められて居る眞理が分かつて居る讀者は、自分と一緖に瘤寺の間で過ごした一時間を悔ひはされぬであらう。

 

[やぶちゃん注:最後に小泉八雲が掲げた一首は、一休宗純の作と伝えられる道歌で、

 分け登る麓の道は多けれど

    同じ高嶺の月を見るかな

或いは、

 分け登る麓の道は多けれど

    同じ高嶺の月をこそ見る

で伝えられる。長禄元(一四五七)年に著したとされる「骸骨」に載る。「入口はいろいろと違っていても終いに辿り着くところのものは同じである」といった謂いである。私は一休をあまり高く評価しないが、これは確かに禪の極意の一つを表象するものではあろうとは思う。

 さても。日本人で、これほどまでに誠意を以って、戒名・法名に込められた意味を、かく、誰にもわかるように解き明かしたものを、私は、他に、知らない。

……八雲先生、一時どころか……この電子化注に……拙者は……まる三日もかかってしまいまして御座りまする…………

小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「四」

 

 

[やぶちゃん注:本篇書誌及び底本・電子化の凡例等については『小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「一」』を参照されたい。太字は傍点「﹅」、太字下線は傍点「◦」である。]

 

       

 前揭の文句は、ソトバ文學の全範圍を代表するものでは無く、それを暗示するものでさへも無い、のであるけれども、その哲學的興味は如何なる性質のものか、それは充分に示して居るであらう。ハカ卽ち墓の文字には別種の興味がある。が、その文字に就いて說く前に、墓そのものに就いて數言述べなければならぬ。自分は詳說を企てることは出來ぬ。そんな記念碑の種々樣々な形式を描寫するには、說明圖を多く挿入した大きな書卷を要するであらうし、その彫刻の硏究はこの隨筆の目的には緣の無い佛敎像形記載學(アイコノグラフイー)[やぶちゃん注:iconography。]といふ大きな題目に屬するからである。

 佛敎の埋葬記念碑は、極めて憫れな田舍墓場の、表意文字が三つ四つそれに彫り込んである、斫り[やぶちゃん注:「はつり」。]磨きのしてない丸石からして、一つの祠[やぶちゃん注:「ほこら」。]を多くの佛像で取圍み、其上には――多分支那の古いストュパ[やぶちゃん注:ストゥーパ。仏塔。]を模してであらう――傘形の圓盤或は日傘(パラソル)(梵語のチヤトラ)[やぶちゃん注:“ tchâtras ”。]の尖塔(スパイア)[やぶちゃん注:“spire”。]が載せてある、複雜な小塔(タレツト)[やぶちゃん注:“turret”。]に至るまで幾百といふ――恐らくは幾千といふ――異つた形がある。一番普通な部類のハカは質素である。より好い部類の、ものは、その多數は、その何處かに蓮の模樣が刻まれて居る。臺石が、蓮の花瓣を示すやうに、彫つてあるか、或は花が一個、その碑の表面に浮彫若しくは凹形に切り込んであるか、或は(が、これは稀であるが)一莖の、多くの葉と花とが附いた、蓮がその紀念碑の一方の側か兩側かに、浮彫模樣になつて居る。佛敎の五大を象徴した、金のかかつた部類の墓には八瓣の蓮の徽號が、その巧緻な建物の三箇處若しくは四箇處に、裝飾的な變形で、繰り返されて居るのを見ることが出來る。時折、墓石の上に美しい――佛か菩薩の像の――浮彫を見ることがある。そして地藏の像が一體、墓の上に立つて居るのを見ることは、稀では無い。が、此の部類の彫別物は大抵は古いものである。――例へば、コブデラの墓地にあるうちで、非常に見事なのは、二三百年前に造られたものである。最後に、死者の二家の飾章(クレスト)[やぶちゃん注:“crest”。紋章。]卽ちモンが、墓の前面に、そして時々その墓の前に置いてある石の小さな水容(タンク)にも、彫つてある、ことを述べてよからう。

 

 墓の文字に聖經からの文句が含まれて居ることは滅多に無い。その紀念碑の前面には、紋の下に、カイミヤウが、大抵は梵字か漢字か神聖な文字一つと一緖に、彫つてあるのである。左側面に普通は死亡の年月日の記錄があつて、右側面にその墓を建てた人か家族かの名がある。少くとも今は、これが尋常普通な排置である。が、夥多[やぶちゃん注:「かた」。おびただしいこと。]の例外がある。そして文字は大抵は縱列に並べてあるから、銘文悉くを、頗る狹い碑の表面に置くことは極めて容易なのである。たまたま實名が――死者の記憶さるべき行爲の單簡な記錄と共に――その石の何處かに彫り込んでありもする。カイミヤウと、屢〻それに伴なうて居るその宗派の祈願の語句と、を除いては、尋常普通の墓に彫つてある文字は、その性質非宗敎的(セキユラー)[やぶちゃん注:“secular”。世俗的。]なもので、この銘文の眞の興味はカイミヤウだけに限られて居るのである。カイミヤウ(戒の名)といふは、一向宗卽ち眞宗を除いて、あらゆる宗派の慣習に從つて、死者の靈に與へた佛敎的な名なのである。特別な意味では、カイ卽ち戒(シーラ) [やぶちゃん注:“sîla”。「戒」の意のサンスクリット語「シーラ」。]といふ語は、行爲の戒 [やぶちゃん注:「いましめ」と訓読しておく。]を指す。[やぶちゃん注:改行ではない! 原注を挿入するために、途中で切っているのである。「一般的な意味では、」以下に繋がっている!

【原注】註 戒には――俗人の階級に應じて五戒、八戒、十戒とあり、僧には二百五十戒、尼には五百戒、等等と――非常に種類が多い。此處で述べて置かなければならぬことは、死者に與へる此の死後の佛敎的な名は、此の世での行爲にいつも何か關係があるものと思ふべきでは無くて、寧ろ來世に於ける戒(シーラ)に關係のあるものとして、硏究しなければならぬといふことである。だからカイミヤウは心靈的入門の一稱呼なのである。日本佛敎の或る宗派では百戒會といふことをする。その時それに加はる者に別種のカイミヤウを――新參者(ネオフアイト)[やぶちゃん注:“neophytes”。単数形のカタカナ音写なら「ニーオファイトゥ」。狭義には「改宗者」や「カトリックで誓願前の修練者」の意がある。]として許可の戒名を――授かる。 

[やぶちゃん注:「百戒會」誤訳。原本は“ Ju-Kai-E ”で、「授(受)戒會」が正しい。これは、広義には、「僧俗に戒を授けるための法会」を指すが、ここは、より狭義な正規の僧の正式なそれを指すと考えてよい。「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「授戒会」にある、「授戒の作法」の、『たとえば』、『十誦律では、十人僧伽(そうぎゃ)(三師七証)が必要となる。また授戒の作法に際しては、①十人僧伽②受戒者の具足戒を受けたいという意志表明③白四羯磨(びゃくしかつま)の正しい実施が不可欠である。まず受戒者は十人僧伽一人一人に接足作礼を行い、続いて羯磨師が三衣一鉢を教える。次に和尚(直接の師)になるべき人に対して、和尚を求める。次に受戒者を退座させて教授師役を選出する。選出された教授師が別所に控える受戒者の所に行き問遮(もんしゃ)を実施し、その結果を報告する。問遮で問題がなければ』、『教授師が受戒者を連れ戻し、僧伽に礼拝することを指示する。次に受戒者は具足戒の受戒を僧伽に対して請い願う。その上で白四羯磨の正しい実施が行われる。その後に、羯磨師から四依(衣・食・住・薬)に関する説明を受ける。なお和尚がいなければ具足戒を受けることができず、また羯磨師は特に有能な人物を選出していた』とあるそれが、最も厳密な例である。細部は、リンク先内の解説を見られたい。

一般的な意味では、或は『行(ぎやう)での救濟』と飜して[やぶちゃん注:「やくして」。]よからう。が、眞宗はどんな人間にもカイを許さぬ。行(ぎやう)に依つて直接に救濟されるといふ敎義は容さずして[やぶちゃん注:「ゆるさずして」。]、阿彌陀を信ずる信(しん)に依つてのみ救濟されるとする。だから眞宗が與へる死後の稱呼は、カイミヤウとは言はずに、ホフミヤウ卽ち『法名』と言ふ。

[やぶちゃん注:後で小泉八雲が述べる通り、浄土真宗は在家仏教であって、僧侶も在家であり、出家の立場をとらず、弥陀の本願によって仏弟子となった死後のそれは「戒名」ではなく「法名」と呼び、概ね、「『釋』+法名(二文字)」の三文字構成を採る。八雲にとっては――私も実は同様だが――仏教文学的興味を、最もそそらないものであったのではあるまいか。]

 明治前には、或る人が存生中占めて居た社會的階級は、その戒名で知ることが出來るのであつた。戒名に、讀んでヰン デン[やぶちゃん注:「院」・「殿」。]と發音するもので、『寺に住む者』とか『院に住む者』とかいふ意味の、二文字を使用すること――或は、『寺』とか『院』とかいふ意味の、ヰンといふもつと普通も一字を使用することは、貴族と紳士とだけ爲し得る特權であつた。階級の差別は、更に接尾語で示されてゐた。コジ[やぶちゃん注:「居士」。]――我々のレーブラザ[やぶちゃん注:“lay-brother”。キリスト教で主として修道院等の雑務に従事する者。助修士・労務修士・平(ひら)修士などと訳される。]に稍〻相當する語と、ダイシ卽ち『大姉』とは、サムラヒと貴族との戒名に、尊稱的に附けられるのであつた。そしてそれそれ『信實な(信仰のある)男』『信實な女』といふ意味の、シンシ及びシンニヨといふ、より單簡な稱呼は、身分の卑しい人の戒名の後(あと)へ附けられたものである。この形式は今猶ほ用ひられて居る。が、それが元有つて居た[やぶちゃん注:「もと、もつてゐた」。]差別は殆ど無くなつて、騎士的な『ヰンデン』や、それに附隨するものの特權は、求めてその爲めに金を拂ふ者は、誰れもそれを勝手に附けることが出來る。が、いつでも、『ドウジ』と『ドウニヨ』[やぶちゃん注:「童子」と「童女」。]といふは、子供の戒名に附けられたやうである。ドウだけでは子供といふ意味であるが、ジやニヨと結合すると、形容詞の意義での『子供(チヤイルド)』を意味する。――だから、『ドウジ』を『チヤイルド・サン』、ドウニヨを『チヤイルド・ドーター』と譯してよからう。十五歲――十五歲になれば軍務に服し得るものと考へられて、昔の士の法規では丁年[やぶちゃん注:「ていねん」。「強壮の時に丁(あた)る年齢」の意で、一人前に成長した年齢、一人前の男子を指す。]であつた――に達しないうちに死ぬる子供はさう呼んだ。誕生一年內に死ねる子供の場合には、『ガイニ』及び『ガイニヨ』[やぶちゃん注:「孩兒(児)」と「孩女」。但し、前者(原文は確かに“ Gaini  ”となっているが)の読みは「がいじ」である。]といふ言葉が時折『ドウジ』及び『ドウニヨ』の代はりをする。ガイといふ綴音[やぶちゃん注:「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す。]は此處では『乳兒(サクリング)』[やぶちゃん注:“suckling”。]といふ意味の漢字を現はして居るのである。

[やぶちゃん注:小泉八雲は言及していないが、忘れてはならない戒名に、差別戒名がある。所謂、江戸時代まで公然と使用された、被差別民に対して使用された(私は写真では見たことがあるが、実際のものは今まで見たことがない)、「門・男・女・尼」等の上に「革」「屠」「畜」「僕」「」(むながい:「むなかき」の音変化で、馬具の一。鞍橋(くらぼね:鞍の骨格をなす部分)を固定するために馬の胸から鞍橋の前輪 (まえわ)の四緒手(しおで:鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)の左右の四ヶ所につけた、金物の輪を入れた紐)にかけて取り回す緒。胸懸け)・「旃陀羅」(せんだら:日本の中世の一時期から仏教経典の用語を概念化して、主として僧侶や知識層に広まった被差別民への卑称)等を配した忌まわしい戒名である。たかひら正明氏のブログの「差別墓石、差別戒名 いずれも身分の低い女、最下層の被差別民を指した言葉が、彫られている。」を見られたい。二葉の差別戒名を彫った墓石の写真がある。

 佛敎の宗派が異るに從つて、戒名とその附加物(アデンダ)[やぶちゃん注:“addenda”。addendum(アデンダム:追加・補遺・付録)の複数形。]の作成の方式が異ふ。――が、この題目は特別な一論文を要するであらう。で、宗派に依つての二三の慣習を述べるだけにしよう。眞言宗は、その戒名の前へ梵字を一つ――或る佛の表象を――時々置く。――眞宗はその戒名へ神聖な釋迦牟尼の略字一つを冠らす。――日蓮宗は屢〻その戒名の文字の前置きに、彼の有名な『ナムメウホフレンゲキヤウ』(『南無妙法蓮華經!』)を以てし、――時たまその後へ『センゾダイダイ』(『先祖代々』) の語を置く。――淨土宗は、一向宗の如くに、釋迦牟尼の略字を用ひ、或は時々『南無阿彌陀佛』といふ祈願の句を用ひる――そして『名譽』或は『名聲』の意味を有つた表意文字二つを藉りて、四文字の戒名を造る。――禪宗は、――戒名がただ二字だけの時は除いて――戒名の最初の一字と最後の一字と、それを合はせて讀むと、或る特殊な佛語に、或は神聖な句に、なるやうに工夫する。

 戒名の文字の中の『宮殿』[やぶちゃん注:ここは原文は“mansion”であるから「院殿」とすべきであった。後の「宮殿」に合わせる必要は邦訳の場合、必要はない。]といふ語は、多數の西洋の讀者には、或は天上界の宮殿といふ意味では無いかと思はせるであらう。が、その考は誤つて居る。この語は何等天界的意義は有つて居らぬ。だが、それを銘の文字に使用するに至つた來歷は頗る奇妙である。古昔は、高名な人が死ぬると、その人の靈の爲め行ふ特別な法要の爲めと、且つ又その人の遺物若しくは記念品を保存する爲めとに、一宇の佛寺を建立した。孔子敎が、支那人は之をシンシユ [やぶちゃん注:「神主」。]と呼ぶ、位牌を卽ち葬禮の牌を日本へ輸入した。そしてその佛寺の一部分が、

 

【原注】註 これはその漢字の日本訓みである。

【訳注】譯者註 『眞俗佛事編』に『儒家ニ所用ノ位版又ハ神主ト名ヅクルモノ是ナリ云云』、『和漢三才圖繪』に『與儒門神主同義也』とある。

[やぶちゃん注:「眞俗佛事編」江戸中期の真言僧子登が大阪の真蔵院で著した、修験道を含む真言密教系の公式仏事、及び、通俗的仏事についての解説書。以上は国立国会図書館デジタルコレクションのこちら画像を視認されたい。左頁の「眞俗佛事編巻三」の冒頭「祭靈部」の最初の「㊀位牌」の初めに書かれてある。

「和漢三才圖繪」「繪」はママ。しばしば見かける誤り)「和漢三才圖會 卷第十九」の「神祭 附(つけたり)供噐」の「靈牌」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該項の画像)の一行目から二行目にかけて記されてある。なお、この巻には先行して「神主(しんじゆ)」の項があり、中国伝来のその形や、書式の様子がよく判るので、一見されたい。]

 

その位牌を置きまた祖先の崇拜を行ふ、一個の禮拜堂の用を爲すやうに、別にされてゐたのであつた。そんな紀念の寺院を――疑も無く、その尊靈が或る時期に占めると信ぜられてゐたから――『ヰン』卽ち『院』と呼んだのである。――その語は今でも多くの有名な佛寺の名に――京都の智恩院といふやうな名に――殘つて居る。時の經つに連れて、この慣習が當然變更された。特典が擴められ、貴族の數が增すに從つて、知名な人一人一人に、別々に寺を建てることはやがてのこと不可能になつた、からである。顯著な個人悉くに『院殿』といふ死後の稱號を與へて――そして此稱號へ想像的の佛寺若しくは『院』の名を加へるといふことが困難なことに佛敎はなつて來た。だから今日は、大多數の戒名に於て、『院』といふ語は、事情が許せば建てたであらうが、今はただ死者を愛し敬ふ者共の敬虔な希望として存在して居る寺を指して居るのである。

[やぶちゃん注:「院」「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「院号」が、歴史的遷移に詳しく、大いに参考になる。全文引用する。『上皇・女院(にょいん)などの尊称、寺院の称号、戒名としての尊号のこと。天皇譲位後の太上(だいじょう)天皇の御所の地名が、その尊称として院号に用いられ、嵯峨天皇(在位』大同四(八〇九)年~大同四(八二三)年『)が譲位したときに嵯峨院と称した。その後、在位中に崩御した天皇に追号として院号を贈るようになった。女院の院号は、一条天皇の母である皇太后藤原詮子(』応和二(九六二)年~ 長保三(一〇〇二)年)『に東三条院と尊称したのが嚆矢』『である。門院号は、一条天皇の皇后藤原彰子(』永延二(九八八)年~承保元(一〇七四)年)『に上東門院と尊称し、後に院号宣下が行われるようになった。摂関家での院号は、関白藤原兼家(』延長七(九二九)年~永祚二(九九〇)年)『の薨去』『後に法興院如実と称したのが嚆矢である。法成寺を建てた』(建立は寛仁四(一二〇二)年)『藤原道長』『はその寺号を法号の上に冠した。寺院を建立して隠栖』『入道した人の法号は、寺院の名称を出家または没後に寺号・院号として冠するようになった。足利尊氏』『が、没後に等持院殿と号したので、後の歴代将軍は院殿号を冠した。院の下に殿を付したのは皇室と区別するためであったとみられるが、院殿号の』方『が上位に位置するものとみなされるようになり、院号は第二位の称号となった。寺家では門跡寺院をはじめ』、『皇族・貴族出身の止住する院家(いんげ)の僧にも院号が用いられた。増上寺では院家に列する尊宿に対し』、『蓮社号の上に冠する院号を授与している。このように院号は、当初天皇と三后(皇后・皇太后・太皇太后)のみであったが、摂家と将軍家にも用いられるようになり、江戸時代以降は武家から広く民衆まで院号を付されるようになった。法号の上に冠する号は院号・院殿号をはじめ』、『軒号・庵号などがある。浄土宗総合研究所編『戒名—その問題と課題』では、戒名および戒名授与に関する提言を示し、戒名は念仏者の証であり、院号・位号は明確な基準で授与すべきであるとした。院号・位号授与に際しては、これまで〈家〉を基準としてきたが、近年伝統的な家制度は崩壊し、新たに家族を中心とした〈家〉へと変化し、さらに〈家〉から個人・夫婦単位へと移行しつつあると指摘、院号・位号などは当該人にふさわしい内実が伴うべきであるとした』とある。

 なお、ちょっと脱線だが、私は鎌倉史の研究もしているが、実際、「源頼朝の墓」などと称するものは、後代のデッチアゲ(と言うか、供養塔ならば正しい)で、事実は、小泉八雲も述べる通り、墓石なんぞではなく、現在の「墓」へ登る階段の左側にある小さな公園附近に頼朝を祀った堂々たる「法華堂」が建立されてあったのである(三浦一族が北条に滅ぼされた「三浦合戦」では三浦一族の殆どが、そこに最後に籠城して自害して果てた程度にはデカかった)。また、卒塔婆の注でも述べた通り、忌には、供養塔として実際の相応の大きさの石の五輪塔を作って敷地内に建てたのである。しかし、その内、敷地に供養塔が林立して、狭い鎌倉では、如何ともし難くなり、果ては、新たに亡くなった人々の新墓地の余地すら自由にならなくなり、供養堂や、その境内地・供養塔の「山」が、幕府中枢である鎌倉を物理的に「死者の家の群れ」が圧迫するに至ってしまったのである。さても名執権であった北条泰時の、かの「御成敗式目」には追加法令が多くあるが、実は倉御府内への一般御家人を含む人々の墓所の新造を禁止する追加法令が存在していたのであ。その結果として猫の額ほどの鎌倉の「平地」には墓が新造出来なくなったと考えられる。しかし人は当然つぎつぎ死ぬし、有力御家人は皆、鎌倉に実際の居留本拠地を移しており、墓を近くに作らざるを得ないのである。その結果、苦肉の策で「平地」でない山の斜面や谷戸の奥に「やぐら」と呼ばれる鎌倉独特の横堀りの墳墓形態がアパートのように数多く出現することとなったのであった(「やぐら」は事実、鎌倉以外では、鎌倉の寺領であった地方でしか見られない極めて特異な墳墓形態なのである)。

 それにも拘らず、この院號の詩美は眞の意義を幾分か實際に有つて居るのである。その名は、殆ど總てみな、本當の佛寺に附けるやうなもので――德や神聖な感情や瞑想の名で――歡喜や威力や赫灼[やぶちゃん注:「かくしやく」。]や光り輝く無邊際の開展の名で――六道を去つて『再三墓地の人となる』の悲哀を脫れる[やぶちゃん注:「のがれる」。]あらゆる手段方法の名で――ある。

 

 戒名の一般的性質と排置とは、二三の標型的見本の助[やぶちゃん注:「たすけ」。]を藉りると、一番能く了解が出來る。第一の例は、瘤寺の墓地にある、それに瞑想に耽つて居るボディサットヷ マハーサーマ(勢至菩薩)の像が浮彫に刻んである、或る美しい墓にあるものである。この場合では、文字はその紀念碑の表面に、上述の像の左右に、彫つてある。羅馬字になほすと、斯う讀める。――

 

   (戒名)

テイシヨウキンホフサウメウシンダイ

   (記錄)

シヤウ・トク・ニ・ネン、ジン・シン、シモツキ、ジフ・ク・ニチ

   (飜譯)

貞松院 法窓妙眞 大姉

 正德二年 壬辰 霜月十九日

【原注】註 舊曆では十一月が霜月である。正德二年は紀元一七一二年に當る。(「壬辰」といふ句の意味に就いては、讀者にレーン敎授の『日本(ヂヤパン)』四三四――三六頁を參照されるがよろしからう)

[やぶちゃん注:「貞松院 法窓妙眞 大姉」が有意に大きいのは、底本のママ。また、冒頭でも述べたが、戒名の音の太字は、底本では傍点「﹅」、同じく太字下線は傍点「◦」である。これは、次の訳者註で大谷が附したことを述べている。

「正德二年」「壬辰」(みづのえたつ)「霜月十九日」はグレゴリオ暦一七一二年十二月十七日である。この前月に第六代将軍徳川家宣が五十一で病死(インフルエンザか)し、四男家継が後継者であったが、僅か三歳であった(将軍宣下は翌年四月)、政治は先代に続きいて側用人新井白石・間部詮房(まなべあきふさ)らが行った。因みに、家継は正徳六(一七一六)年に満六歳に満たずして夭折し、史上最年少で任官し、史上最年少で死去した征夷大将軍となった。

「レイン敎授」ドイツの地理学者ヨハネス・ユストゥス・ライン (Johannes Justus Rein 一八五三年~一九一八年)のことである。ウィキの「ヨハネス・ユストゥス・ライン」によれば、『ヘッセンのラウンハイムに生まれ、ギーセン大学において植物学並びに科学を勉強した。その後フランクフルト・アム・マイン、ドルパート及びバミューダ諸島で教職に就き、イギリスも訪問した』。明治七(一八七四)年に『プロイセン王国政府の命により、日本の工芸調査を名目に来日。工芸研究のかたわら、北海道を除く日本各地を旅行し、地理や産物を調査する。ラインを日本に送りこんだプロイセン政府の意図は、「当時ヨーロッパで人気のあった漆器をプロイセンでつくる」「堅牢な塗料としての漆を兵器のサビ止めとして利用する」ために、ウルシノキを持ち帰らせようというものであった。結果としてこの目論みは失敗に終わった』。同年七月、『白山の自然と白山信仰について調べるために白山登山を行う。その帰路に石川県白峰村(現白山市)に立ち寄り、手取川右岸の当時「大崩れ」と呼ばれていた地点で、十数個の植物の化石を拾い、友人のガイラー(H. Th. Geyler)に調査を依頼した。ガイラーは、この化石がジュラ紀中期ごろのものであることをつきとめ』、一八七七年(明治十年)に論文にまとめて発表している。この地点はのちに「桑島化石壁」と呼ばれ、昭和三二(一九五七)年には『手取川流域の珪化木産地として国の天然記念物の指定を受けた。また、化石壁の裏側をくりぬいて作られたトンネルには、ラインの功績を称え「ライントンネル」の名が与えられている』。二年後の明治九(一八七六)年に『帰国し、マールブルク大学地理学教授に就任』、一八八三年には『ボン大学地理学教授に就任。西園寺八郎(西園寺公望の娘婿)ら、多数の日本人留学生の世話をした。ボンで没した』とある。『日本』は同ウィキにある、報告書二巻“ Japan nach Reisen und Studien im Auftrage der Königlich Preussischen Regierung. ” (「プロイセン王国による日本への派遣」一九八一年・一八八六年刊)を指す。ウィキには、本書について、『本書はジャポニスムブームで注目されていた独特で高度な日本の工芸技術を詳述したものとして好評を博し、英語版が出たほか』、一九〇五『年にはドイツ語版が再び刊行された』とあった。本書の原本の原注には、参考ページが“pp. 434-436.”と指示されてあった。「Internet archive」のここで、英語版が読める。初回ページをリンクさせておいた。

 

 明瞭にせんが爲め、自分は死後の名そのもの(ホクサウ メウシン)を小さな頭文字で、殘餘をイタリクで印刷した。最初の三文字――貞松院――は寺或は『院』の名を成して居

 

【訳注】譯者曰 譯文では前者に◦ 印を、後者にヽ 印を右側に附けることにした。

[やぶちゃん注:原本を見られたい。]

 

る。松は、宗敎的幷びに世俗的詩歌に於て、それが四季に通じて鮮綠であるが爲めに、善の不變な狀態の表象である。戒名に『眞』といふ語を使用するのは、と一致して居る境涯を示す。――『法窓』(は此處では佛の境涯を現はして居る)といふ言葉では、此の世に在つてすら該(そ)れによつて無限の眞理を認めることの出來る德を行ふこと、を意味して居ると理解しなければならぬ。最後の語のダイシ(『大姉』)は、自分は既に說明した。

 

Zillt136ah

[やぶちゃん注:瘤寺の墓の写真。英文キャプションは、

      TOMB IN KOBUDERA CEMETERY

(The relief represents Seishi Bosatsu — Bodhisattva Mahâsthâma —

   in meditation. It is 187 years old. The white patches on the

           surface are lichen growths)

で、

     瘤寺の墓

(浮彫は勢至菩薩――ブッダサティバ・マハースターマ――を表わし、彼は瞑想中ある。実に百八十七歳の姿である。上部表面に白くパッチ状にあるのは地衣類が成長したものである)

とある。]

 

 これよりも神祕でない、が、それに劣らず美しいのは、或る若いサムラヒの墓に彫つてある、次記の日蓮宗の戒名である。――

 

クワウ・シン・ヰン、ケン・ダウ・エツ・キ、コ・ジ

〔光心院賢道日輝居士〕

【原注】註 この美しい戒名は、松江の長滿寺の日蓮宗墓地に埋められて居る自分の親友西田の墓の上に在るのと同一である。

 

 同じその石に、その妻の戒名が彫つてある。

 

シン・キヤウ・ヰン、メウ・ヱン・ニツ・クワウ、ダイ・シ

〔心鏡院妙圓日光大姉〕譯者註

【訳注】譯者註 原著者は西田氏の戒名と同一なのに逢着したやうしるして居るけれども、まことは西田氏の戒名を特に世に傳へようといふ眞心から、わざと此處へ持つて來たのである。その妻の、とある、この戒名も西田氏令室のそれである。

[やぶちゃん注:この大谷氏の訳注は素敵だ。如何に語学に達者でお洒落な英訳が出来ても、著者小泉八雲の真心を伝える訳注が出来るか出来ないかは全く以って別問題であることがよく判る。大谷氏がこの注を施しておられなかったなら、或いは、この小泉八雲も友人への思いを誰一人知らずにここを読み過ごしていたかも知れぬのだから。

「長滿寺」島根県松江市寺町にある日蓮宗圓久山長満寺(グーグル・マップ・データ)。

「親友西田」西田千太郞(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。郷里島根県で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郞日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなった(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。彼との交遊は『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」』の中に頻繁に登場する。]

 

 多分讀者は、日本の學者が自分に飜譯して吳れた、次に揭げる戒名の選集に、今は興味を見出すことが出來るであらう。宗旨は樣々で、時代も異つて居るが、自分はただ階級と性とに從つて並べた。

 〔男の戒名〕

光鏡院法性永全居士

靜光院雪峰孤月居士

心曉院光音妙輝居士

照始院純蓮花心居士

祕徹院眞誠自足居士

智照院法雲妙輝居士

眞誠院法響宣理居士

自性院理海靜滿居士

慈德院聰願行仁居士

最了院圓覺靜光居士

順心院釋秋觀居士

顯德院釋秀明居士

圓成院宗榮日休居士

秋月永昌信士

無過妙誓信士

法光靑山信士

妙音禪覺信士

冬嶽貞心信士

【原注】註 『冬の山の上の雪のやうに純潔な心の信ずる人』といふ意。

 

 〔女の戒名〕

自證院殿光山曉桂大姉

【原注】註 これはその人の爲めに瘤寺を建てた夫人の戒名である。「自證院」といふ語は、此處では、(ジシヤウヰンといふ)さういふ名の寺そのものを指して居る。その漢字は「ジ・シヨウ・ヰン・デン、クワウ・ザン・ゲウ・ケイ、ダイ・シ」と讀む。文字通りでは「自證の御ン院[やぶちゃん注:「おんゐん」。]に住まはるゝ、光山の曉の桂、大姉」である。カツラ(オレア フラグランス)は日本の詩想では、月と不可思議な關係を有つて居る木である。その名を、此處でのやうに、月の意味に屢〻用ひる。カツラノハナ卽ち「柱花」は月光の詩的語辭である。この戒名は院といふ名の後に、敬稱の『殿』の字が附いて居るのが目立つ。死なれたその方が高貴な人であつた徽號である。彫つてある年月日は、「寬政十七年(紀元一六四〇年)仲秋(舊曆八月)二十八日である。

【訳注】譯者註 右記註の原英文には、『この戒名は院若しくは寺といふ名の前に、敬稱の「御(オーガスト)」[やぶちゃん注:August。同単語には「畏敬の念を起こさせるほどに威厳のある・堂々とした」の意がある。ラテン語の「立派な」の意が語源であるからである。]といふ語が附いて居るのが目立つ』と書いてゐるけれども、原著者の思ひ違ひかと察するので、右の如く譯して置いた。

[やぶちゃん注:「一」の注のロケーションについての私の注を参照されたいが、本「瘤寺」天台宗鎮護山圓融寺自證院は、尾張藩主徳川光友の夫人千代姫の母(戒名「自證院殿光山暁桂大姉」)が当寺に葬送されたことから、寛永一七(一六四〇)年に本理山自證寺と改めて、日須(にっしゅ)上人が開山し、後に天台宗に改宗した寺である。

「カツラ(オレア フラグランス)は日本の詩想では、月と不可思議な關係を有つて居る木である。その名を、此處でのやうに、月の意味に屢〻用ひる。カツラノハナ卽ち「柱花」は月光の詩的語辭である」原文“ The katsura (olea fragrans) ”。この学名は、双子葉植物綱シソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ(木犀)属モクセイ Osmanthus fragrans を指す。但し、同種の現行の中文名は「木樨」であるものの、通称の「桂花」が盛んに使われる。八雲が「日本の詩想では、月と不可思議な關係を有つて居る木である」と限定しているのは誤りで、まず、この場合の日本の「月の桂」は、モクセイではなく、ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum で、モクセイとは全く異なる別種である。ウィキの「カツラ」によれば、『中国植物名は、「連香樹」と書かれる』。『中国の伝説では、「桂」は「月の中にあるという高い理想」を表す木であり、「カツラ(桂)を折る」とも用いられる。しかし』、『中国で言う「桂」はモクセイ(木犀)』(☜)『のことであって』、『日本と韓国では古くからカツラと混同されている(万葉集でも月にいる「かつらをとこ(桂男)」を歌ったものがある)。中国には近い種類のものが分布するが』(これは甚だ不審である。「維基百科」の同種「连香树」を見ると、カツラ Cercidiphyllum japonicum  は、『日本及び中国本土の浙江省・湖北省・山西省・陝西省・甘粛省・江西省・四川省・河南省・安徽省などの各地に分布している』とあるからである)、ただ、『本種は日本のものが有名で、英名でも Katsura Tree(カツラ・ツリー)で通用する』とは、ある。しかし、中国も、それを基原とする日本も、「月にある桂の木」は全くの想像上の聖樹であって、まあ、私がぐだぐだ言うこともないとは思うのだが……。

 

月心院妙蓮淨光大姉

慈海院響順妙貞大姉

明香院妙現蓮心大姉

春宵院淨月明光大姉

眞光院慈日純心大姉

法性院芳空妙蓮大姉

無邊歡道信女

理達妙勇信女

放光冬月信女

梅室光影信女

蓮譽妙薰信女

 

 〔子供の戒名――男〕

純淨院殿圓和速到大童子

【原注】註 尋常な「ドウジ」(男の兒)といふ語の前へ「ダイ」(大)と字を置くのは稀にしか見ぬ。多分その幼兒は高貴の生れであつたのであらう。その墓は瘤寺の、他とは別な地域に在る。そして死亡の年は――一七四七年に當たる――「延享四年」である。

[やぶちゃん注:死亡年は第九代将軍徳川家重の治世(大御所として吉宗は健在)である。この「院殿」「大童子」というのは非常に良く似た戒名を德川将軍家の夭折の児女の戒名に見出せる。例えば、享保四(一七一九)年に徳川吉宗の四男として生まれるも二ヶ月足らずで亡くなった徳川源三なる男児は「涼池院殿靈岸智到大童子」であり、掲げられたそれも選ばれている漢字が、かなりのものであるから、将軍家絡みの男児であることはまず間違いないであろう。ネットを見ると、現行では、「大童子・大童女」は、十七歳以下の未成年に授けられる位号とし、年齢が十七歳に近い場合、宗派によっては、授ける場合もある、とあった。]

花芳院殿淨林徹透大童子

【原注】註 この戒名を有つて居るもは、前記の戒名のあるものの橫に立つて居る。多分この二人の兒は兄弟であつたらう。兩方とも院號を形容して居る『殿』の字を有ち、また『ダイ』といふ敬稱を有つて居る。死亡の年は『寬延二年』(一七四九年)である。

[やぶちゃん注:同前で、やはり漢字の選び方が凄い。小泉八雲の推理は正しいと思う。]

霜光孩女

露幻童子

春夢童子

春霜童子

空性童子

幽雲法雨童子

 

 〔子供の戒名――女〕

法樹院殿智高明照大童女

【原注】註 多分高貴な家の子――或は前記の高貴な兩男兒の姉妹でゐらう。瘤寺のその二つの墓の橫に葬られて居る。今度は「ドウニヨ」卽ち「童の娘」若しくは「童の息女」といふ語の前に、矢張り「ダイ」といふ語が置いてあるに注意されたい。恐らくは此場合ダイは「グレート」と譯するよりか「グランド」と譯した方がよからう。此の場合にも院號に「殿」といふ字が添へてあることを見られよ。死亡の年は「寶曆六年」(一七五六年)としてある。

[やぶちゃん注:前の二人と同じく、気になって仕方がない。「グランド」は“ “grand””で、ここでは、「崇高な・気高い」の意であろう。]

雪泡孩女

輝幻孩女

梅光童女

夢幻童女

貞春童女

智鏡淨觀童女

芳雪妙勝童女

 

 前に引用した卒都婆の文句を硏究した後であるから、讀者は上記の戒名の多くの意味を推察することが出來るであらう。兎に角、『月』とか『蓮』とか『法』とかいふ、每度出て來る言葉の意味は了解されるであらう。が、他の言ひ現はしには惑はれるかも知れぬ。で、恐らくは、少しく進んで說明するのは、無用ではあるまい。

 死んだ者がより高い幸福を得るやうにとの敬虔な希望を述べたり、靈界に於て特殊な境涯に入るといふ或る保證を言うたりする他に、大多數の戒名は、直接又は間接にその消え去つた人物の性格にも言ひ及んで居るのである。例へば、廣くその廉潔を認められて居り、且つ堅固な道德的目的を有つて居た人ならば――死んだ自分の友人のやうに――『賢道日輝』と名附けても不適當ではあるまい。麗はしい性質を有つて居たので殊に記憶に殘つて居る、童女若しくは若い人妻ならば、『梅光』とか『梅室光影』とかいふやうな、死後の名で記念せられてもよからう。――このどちらの場合にも、『梅』といふ語は、日本では此花は婦德の――特に義務に忠實で謙遜缺くる處無いことを示す――表象であるから、死者の德性を直ぐと思はせる語である。また、その慈善事業で名高かつた人の靈は、『聽願行仁』といふやうな戒名で尊崇してもよからう。最後に、高さや光りや香を現はして居る戒名の語は、大抵は、道德的模範の意義を有つて居る、ことを述べてもよからう。が然し、どこの國でも、碑銘文字には因襲的な僞善があり過度がある。佛敎の戒名にも宗敎的阿諛[やぶちゃん注:「あゆ」。人の顔色を見ては相手の気に入るように振る舞うこと。追従(ついしょう)。]が每度澤山に含まれて居て、美しい死後の名が、逆(ぎやく)に美しい生涯を送つた人々に屢〻與へられて居る。

[やぶちゃん注:この終りの部分、何だか、訳がおかしい。原文を見ると、

Buddhist kaimyō frequently contain a great deal of religious flattery; and beautiful posthumous names are often given to those whose lives were the reverse of beautiful.

で、最後は、やはり、誤訳である。

仏教の戒名にも、かなり、お世辞が含まれているケースがあり、されば、美しい戒名が、ときにその美しさとは真逆の、如何にも美しからざる人生を貪った輩(かやら)に与えられていることは、しばしばある。

である。八雲先生の、辛口のシメのイッパツが、以上の訳では、全然、伝わってこないのだ!

 我々が女の戒名のうちに『妙蓮』とか、『麗如曉蓮』とかいふ名を見出す時は、大多數の場合、斯くそれに譬へて居る美質は、ただ倫理的のものであると信じてよろしい。だが例外がある。そしてそのうち最も著しいのは兒童の戒名が提供するものである。『春夢』、『輝幻』、『雪泡』のやうな名は、實際にその死んだ者の形を指しての――或は少くとも、消え失せた美しさや、優しさを懷ふ親の思を察しての――言葉である。が、こんな名はその上に、佛敎の無常の敎義をば、殊に慰藉の目的に用ひた例ともなるのである。この戒名を媒介に、子を失うた親々は、眞理の最高な言葉で斯う言ひ慰められて居るのだ、と言うても宜からう。

 『あなたの子の此世の生涯は美はしく、また短かつた。春の一夢であり、消え行く輝かしい幻であり――雪の泡であつた。が、永遠の大法からして、一切の形體は皆消え去らねばならぬのである。物質的な恒久は此世には一つも無い。ただ如何なる物にも住んで居る神聖なだけが――我々人間の一人一人の心に宿つて居られる佛だけが――永久に持續するものである。その大眞理をば、あなたの慰安ともし、且つまたあなたの希望ともするが好い!』

 

 時折死後の名に與へられる、懷古的意義を有つた異常な實例が、東京の泉岳寺に葬られて居る四十七浪人の戒名に依つて提供せられて居る。(彼等の話は、『舊日本の物語(テールス・オブ・オールド・ヂヤパン)』のミトフオード氏のその同情ある流暢な反譯で、今は英語を讀む世界に能く知られて居る)彼等の戒名の顯著な特性は、一々みな――象徵的な意味に用ひられては居るが、相當な武土的暗示をも有つて居る――『刄』と『劔』との二字を含んで居ることである。その首領の大石內藏之介良雄だけが『居士』と呼ばれて居る。――彼の配下の者共は、それよりは卑(ひく)い『信士』といふ接尾語を有つて居る。大石の戒名は『忠誠院刄空淨劔』である。その院號の史的意義に就いては、自分は注意を呼ぶ要は殆ど無い。彼の配下の者どもの戒名三つ舉げれば、他のものの例とならう。間瀨久太夫正明のは『刄譽道劔』である。大石瀨左衞門信淸の戒名は『刄寬德劔』である。それから堀部安兵衞の戒名は『刄雲輝劔』である。

[やぶちゃん注:丸括弧割注部は“ (Their story is now well-known to all the English-reading world through Mitfords eloquent and sympathetic version of it in the Tales of Old Japan.”。幕末から明治初期にかけて外交官として日本に滞在したイギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年)。ウィキの「アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード(初代リーズデイル男爵)」によれば、慶応三(一八六六)年十月に来日(当時二十九歳)し(着任時に英国大使館三等書記官に任命)、明治三(一八七〇)年一月一日に離日している。『当時英国公使館は江戸ではなく横浜にあったため』、『横浜外国人居留地の外れの小さな家にアーネスト・サトウ』『と隣り合って住むこととなった』。約一ヶ月後、『火事で外国人居留地が焼けたこともあり、英国公使館は江戸高輪の泉岳寺前に移った。ミットフォードは当初公使館敷地内に家を与えられたが、その後サトウと』二人で『公使館近くの門良院に部屋を借りた。サトウによると、ミットフォードは絶えず日本語の勉強に没頭して、著しい進歩を見せている。また住居の近くに泉岳寺があったが、これが後』に、「昔の日本の物語」を執筆し、『赤穂浪士の物語を西洋に始めて紹介するきっかけとなっている』とある。また、彼は慶応四(一八六八)年二月四日に起った『備前藩兵が外国人を射撃する神戸事件に遭遇し』ており、『事件の背景や推移には様々な見解があるが、ミットフォードはこれを殺意のある襲撃だったとしている。なお、この事件の責任をとり、滝善三郎が切腹しているが、ミットフォードはこれに立会い、また自著『昔の日本の物語』にも付録として記述している』とある。ここに示された「舊日本の物語」は離日した翌年の「一八七一年」に刊行されたミットフォードの“ Tales of Old Japan ”。前に引用の「昔の日本の物語」と同じい。“Internet Archive”の原本のまさに四十七士の仇討の挿絵とタイトル・ページをリンクさせておく。なお、四十七士は余りに有名なので特に注は附さない。参考までにウィキの「赤穂事件の人物一覧」をリンクさせておくので、そこからリンクをジャンプすれば、各人の事蹟に行ける。悪しからず。義士への最低の礼儀として、それぞれの戒名の漢字(大谷の訳復元)が正しいかどうかだけは、総て、確認しておいた。]

 この四つの戒名のうち、最初のと最後のとは、曖昧に思はれるであらう。そして四十七士の戒名のうち、まだ多くのものが、初め一寸見た時には、同樣に謎のやうである。普通は、戒名にある『空』とか『虛』とかいふ語は、心靈が絕對に淸淨である境涯を――無制約の實在の境涯を――意味するのである。が、大石內藏之介の戒名では、その意味は、純然佛敎的ではあるけれども。餘程異つて居る。此場合の『空』は『迷妄』とか『非實在』とかに了解しなければならぬ。――で、『刄空』といふ句の充分の意味は『物質的形體の空なことを見て、迷妄をば刄の如くに貫く智』である。堀部安兵衞の戒名では、同樣に、『雲』といふ語を『迷妄』と解釋しなければならぬ。で『刄雲』は『迷妄を貫く知の刄』と說明すべきである。現象は空であると悟る智は、鋭く分かつところの即ち識別するところの智である、妙觀察智(プラトヤヹクシヤナ・グニヤーナ)なのである。

[やぶちゃん注:「妙觀察智(プラトヤヹクシヤナ・グニヤーナ)」“ Myō-kwan-zatsu-chi (Pratyavekshana-gñâna) ”。「妙観察智」(みょうかんさつ(ざつ)ち:現代仮名遣)は存在の相を正しく捉えて正法(しょうぼう)の実践を支える智。第六識(意識)を転じて得られるとされる。]

小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「三」

 

[やぶちゃん注:本篇書誌及び底本・電子化の凡例等については『小泉八雲 死者の文學 (大谷定信訳) / 「一」』を参照されたい。

 なお、「二」の最後に注したが、実は、原本は、ここで切れて、以下、「三」のパートとなる。しかし、底本では、異様な三行空けの後で、ここに相当する訳文が続いている。「三」と章番号があるべき辺りには、拡大して見ると、極めて薄い「二」(ママ)の痕跡がある。しかし、以下を「三」とする。

 傍点「﹅」は、太字とした。]

 

       

 自分が瘤寺で硏究を始めた時、卒都婆の文言の詩美と哲理とに感心したのに劣らず、その平穩であり喜ばしげであるのに感心した。どれにも、悲哀の影さへ自分は發見しなかつた。その大多數は、自分には西洋の信仰より廣く且つ深く思はれる或る信仰の告白であり、――思想は永遠無窮の性質を有つて居ることを、あらゆる心は一つであることを、普遍の救濟の確實なことを、述べて居る崇高な聲明であつた。そして他の驚くべき事共が、此の奇異な文學の中に、自分を待つて居つた。初めそれを飜譯した時單簡極まつたものに見えた文句や文句の斷片が、深く考へて註解を加へて見ると、實に驚くに餘りある深遠な意義を示すのであつた。句(フレーズ)が――一見何の巧みの無い句が――突然二重の暗示を、――二通りの觀念を――平凡であつて同時に神祕な一種の美を――露はすのである。この最後の一類に屬する銘文については、次記のが好個の例である。

 

「一夜花開世界香」

【原注】註 これは淨土宗の卒都婆にあつたもの。

 

 高等佛敎の言葉では、これは、魂が死の爲めに、恰も花の香が莟が開いて放たれるやうに、迷の暗黑から解放されたといふこと、また神聖なが、卽ち法界[やぶちゃん注:「ほふかい」。何度も言っているが、仏教用語に限って、歴史的仮名遣は「はふ」ではなく、「ほふ」と表記する。]が、その新しい靈の爲めに、庭全體が或る貴い植物が花を咲かせて芳しくされると同じに、爽快にされたといふこと、を意味するのである。然し、佛敎の通俗な言葉では、極樂の蓮池で又一つ不思議な花が、此世で愛されて、そして死んだ者が至福の境地に入るやう靈的再生をしたが爲め、開いたのであるといふこと、または更なるが到來したので悅んで居るといふこと、を意味して居る。

 

 が、自分は、この碑銘文學の特殊な美點を指摘するよりは、寧ろ自分の硏究の一般的結果を記したいと思ふ。で、自分の目的は、敎義上の或る順序に從つて銘文を排列し、考察することによつて、最も容易に達せられるであらう。

 卒都婆の文句は種々樣々であるが、直接にまた間接に、阿彌陀の蓮華の極樂に、――卽ち、もつと普通に謂ふ、西方極樂に――關して居る。次に揭げるのは、標型的なものである。――

[やぶちゃん注:以下、底本では四字下げポイント落ち(註はさらにポイント落ち)。引用とその註の前後を一行空けた。

 

『阿彌陀經曰「皆悉到彼國 白致不退轉」』註。譯者註

【原注】註 淨土宗の卒都卒塔婆から。

【訳者注】譯者註 阿彌陀經とあるは無量壽經とあるべきもの。

 

『金言「作受諸樂 故名極樂」』

註 ゴクラクといふは佛敎の天界(ヘヴン)に對しての日本での普通語でゐる。淨土宗の一卒都婆にあつたのを自分が譯して貰つた前記の銘文は、スクハーヷティ・ヴユーハ(『東洋聖書』プティスト マハヤーナ テキスツ を見よ)にある一句で、マクス・ミュラー氏はそれを原句通り十分に斯う譯して居る。――『舍利弗よ、このスクハーヷティの世界では衆生に身心とも何の苦といふものが無い。其處では幸福の根源は無數である。その故を以てしてその世界にスクハーヷティ、幸福な處、と呼ばれて居る』

[やぶちゃん注:「小スクハーヷティ・ヴユーハ(『東洋聖書』ブティスト マハヤーナ テキスツ を見よ)」原文“ the Smaller Sukhâvatî-Vyûha (see Buddhist Mahâyâna Texts: “Sacred Books of the East”) ”。「東洋聖書」というのは「東方聖典叢書」( Sacred Books of the East )で、ここに出る「マクス・ミュラー」(“Max Müller”)、則ち、ドイツ生まれで、イギリスに帰化したインド学者(サンスクリット文献学者)・東洋学者・比較言語学者・比較宗教学者・仏教学者であったフリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Müller 一八二三年~一九〇〇年)によって編集され、オックスフォード大学出版局によって一八七九年から一九一〇年にかけて刊行された、アジアの諸宗教の聖典の英語翻訳を集成した全五十巻からなる壮大な叢書。ヒンドゥー教・仏教・道教・儒教・ゾロアスター教・ジャイナ教・イスラム教の主要な聖典を収録している(ウィキの「東方聖典叢書」に拠る)。さても、この「スクハーヷティ・ヴユーハ」(Sukhâvatî-Vyûha)とは、「阿弥陀経」の「スカーヴァティー・ヴィユーハ・スートラ」(サンスクリット語ラテン文字転写: Sukhavati vyuha sutra )のことで、「スカーヴァティー」はサンスクリット語で「幸あるところ・極楽」、「ヴューハ」は「素晴らしき姿・美しき景色・荘厳(そうごん)」であり、「スートラ」は既に出た通り、広義の「経典」の意である。サンスクリットでは、同じタイトルである「無量寿経」を「大経」と呼び、区別するためには「小スカーヴァティー・ヴィユーハ」、則ち、「小経」とも呼ぶのである。

 

『南無阿彌陀佛 金口曰「念佛衆生 攝取不捨」』

【原注】註 淨土宗の卒都婆から。

 

 が、上記のやうな文句は、通俗な信仰には貴いものであるけれども、天界は一時の境涯に過ぎぬもので、智者は之を望むべきでは無いとする高等佛敎には、何等訴ふる所無いものである。實際、大乘の、極樂を述べて居る文句を見ると、それは本質的に迷妄な性質のものであることを――寶池があり、香風があり、異鳥が棲んで居る世界ではあるが、其處での風の聲、水の聲、歌ふ者の聲は、悉く皆、自我の非現實性を說き、萬物の非恆久性を述べて居る世界である。ことを暗示して居る。そしてこの西方極樂の存在すら、より深遠な意義を有つた他の卒都婆文句では、否定されて居るやうに思はれる。――次記のがさうである。

[やぶちゃん注:「が、其處での風の聲、水の聲、歌ふ者の聲は、悉く皆、自我の非現實性を說き、萬物の非恆久性を述べて居る世界である。ことを暗示して居る」この段落は原文自体が、

But texts like these, though dear to popular faith, make no appeal to the higher Buddhism, which admits heaven as a temporary condition only, not to be desired by the wise. Indeed, the Mahâyâna texts, describing Sukhâvatî, themselves suggest its essentially illusive character,—a world of jewel-lakes and perfumed airs and magical birds,but a world also in which the voices of winds and waters and singers perpetually preach the unreality of self and the impermanency of all things. And even the existence of this Western Paradise might seem to be denied in other sotoba-texts of deeper significance,—such as this:—

と、三つの文からしか成っておらず、問題の太字部分は名詞節が蜿蜒と続いて、浮いていて、日本語には、かなり訳しづらい感じがする。にしても、「世界である。ことを暗示して居る」の句点は、これ、どう考えても、おかしい。

實際、大乘の、極樂を述べて居る文句を見ると、それは本質的に迷妄な性質のものであることを――寶池があり、香風があり、異鳥が棲んで居る世界ではあるが、其處での風の聲、水の聲、歌ふ者の聲は、悉く皆、自我の非現實性をき、萬物の非恆久性を述べて居る世界である――ことを暗示して居る。

として、前のダッシュで挟んだ形にすべきところであろう。]

 

本來無東西 何處有南北

【原注】註 淨土宗の卒都婆。

 

 『本來』といふは、『無限』に關係してである。制約されて居る者の關係や觀念は、制約無き者に對して存在しなくなる。だが、此の眞理は、他の關係の世界を――强い者がそれへ昇つて行く至福の境涯と、弱い者がそれへ降つて行く苦痛の境涯とを――否定して居ることを實際含んで居るのでは無い。ただ憶ひ出を爲させるものに過ぎぬ。あらゆる境涯は非恆久である、だから、より深遠な意味では非實在である。唯一の實在である――無上の佛陀である。この敎義は多くの卒都婆文句に見えて居る。――

 

靑山元不動 白雲自去來

【原注】註 淨土宗の卒都婆。

 

 『靑山』といふのは『心の唯一の實在』を意味し、『白雲』といふはこの現象的宇宙を意味して居る。だが、この宇宙はの一つの夢としてのみ存在して居るのである。――

 

若人欲了知 三世一切佛 應觀法界性 一切唯心造

【原注】註 禪宗の卒都婆。

[やぶちゃん注:禅宗の衆僧が独特の節回しで唱和する経文「施餓鬼 甘露門」の冒頭。通常は、総て、音で読むが、文として訓読するなら、

若(も)し、人、三世(さんぜ)一切の佛(ぶつ)を了知(りやうち)せんと欲しなば、應(まさ)に「法界(ほつかい)の性(しやう)は、一切、唯だ心造なり。」と觀(くはん)ずべし。

であろう。意味も勝手流でやらかすなら、

もし、過去世・現在世・未来世総ての仏の知識(時空間に於ける全現象と全存在)を完全に認知したいと欲するならば、まさに、ただ、「正法(しょうぼう)の真の実在だと思っているものは、総て、ただ、私(わたくし)の『心』が働いて造り出したものに過ぎない。」ということに気づけばよいだけのことである。

であろう。小泉八雲の原本の自由英訳は、

“ If any one desire to obtain full knowledge of all the Buddhas of the past, the present, and the future, let him learn to comprehend the true nature of the World of Law. Then will he perceive that all things are but the production of Mind. 

もし、過去・現在・未来の総ての仏についての完全な知識を得たいと思うのなら、その人は、正法(しょうぼう)の世界の本質を理解することを学ぶがよかろう。 それによってしかし乍ら、彼は、総てのものが、その心の働きによって生み出されたものでしかないことに気づく。

であるから、小泉八雲は、極めて、正確に意味を捉えていることが判る。]

 

修習善法 證諸實相譯者註

【訳注】譯者註 原英文は之を譯したもののやうに思ふが明らかでない。

[やぶちゃん注:「法華經」の「安樂行品」の一部。

又見自身 在山林中 修習善法 證諸實相

(又、自身、山林の中に在りて、善法を修習し、諸々の實相を證す。)

さても、訳者が指摘するのは、省略した小泉八雲の自由英訳で、

“ By the learning and the practice of the True Doctrine, the Non-Apparent becomes [for us] the only Reality. 

のことである。暴虎馮河で訳してみると、

『正法(しょうぼう)を、修め、それを、怠らず繰り返して実践することによって、「(実在は)明白ではないのだという事実」が(私たちにとっての)実は「唯一の現実」であるということになってくる。』

であろうか。大谷氏は言わんと内容に半可通なところがあると疑問を呈しておられるのであろうが、私は私の原典訓と英文の勝手訳が正しいのなら、すこぶる腑に落ちる。そしてまた、次の段落の冒頭が――取りも直さず――それを受けているではないか!

 

 宇宙は一つの幻であり、人間の身體もまた、其肉感的自我といふ複雜な物を構成して居る一切の感情、一切の思想、一切の記憶と共に、一つの幻である。が、此[やぶちゃん注:「この」。]消え行く果敢ない[やぶちゃん注:「はかない」。]自我が、人間の內在の全部であるか? さうでは無いと、次の卒都婆は宣べて居る。

 

一切衆生悉有佛性 如來常住無有變易

【原注】 禪宗の卒都婆。

【訳注】 譯者註 これは『大般涅槃經』にある句。

[やぶちゃん注:「大般涅槃經」の「獅子吼菩薩品」の知られた一節。]

 

華嚴經曰『本來本法性 天然自性身』

 

 變はること無き者の性質を分有して居るから、我々は永遠の實在性を分有して居るのである。最高の意義では、人間も亦神聖なのである。――

 

是心作佛 是心是佛

 

なのである。

[やぶちゃん注:これは訳者が操作して以上のようになっている。「人間も亦佛性なのである。」で終わって「是心作佛 是心是佛」と次の自由英訳引用となっている。まあ、特に読解上の誤読は起させはしない確信犯の仕儀ではあるものの、実は「一切衆生悉有佛性 如來常住無有變易」の意味は、道元の読み以降、微妙に意味が別れており、この仕儀が必ずしも上手くは説明していないのである。しかも悪いことに、大谷はスルーして省略してしまっているのだが、この「是心作佛 是心是佛」の方には、原注があり、

“ From a tombstone of the Jōdo sect. The text is evidently from the Chinese version of the Amitâyur-Dhyâna-Sûtra (see Buddhist Mahâyâna Texts: “Sacred Books of the East”). It reads in the English version thus:—“In fine, it is your mind that becomes Buddha;—nay, it is your mind that is indeed Buddha.” 

とあり、訳すと、

「浄土宗の墓石から写したもの。この字句は明らかに「観無量寿経」の中国語版に由来するものである(「仏教のマハーヤーナのテキスト類(「東方聖典叢書」)を参照[やぶちゃん注:既出既注。])。 その英語版では次のように読んでいる。――「結局のところ、それはあなたの心がまさに仏になるのですよ、――いや、本当の仏であるのは、まさにあなたの心なのです。」。

であろう。まさに、曹洞宗の道元のそれと、それ以前の浄土宗の「一切衆生悉有佛性」の解釈は異なるはずである。普通は「一切の衆生は悉(ことごと)く佛性(ぶつしやう)有り」(一切の生きとし生けるものは総て仏性を持っている)と返って読むのだが、道元は「一切の衆生は悉有(しついう)の仏性なり」(総ての衆生の存在と彼らがいる存在世総てが、これ、仏性なのである)と採ったのである。これは根本的な思想の転換、一種の止揚(アウフヘーベン)であると言える、と私は考えている。そして、これが浄土宗の卒塔婆のものだと示したら、この恣意的な操作は実は無効になる(と私は思う)ことを、大谷は気づいていて、わざと外したのかも知れない。因みに、平井呈一氏は恒文社版「死者の文学」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では、この出典を「仏説阿弥陀経」としているが、それは、誤まりであろう。

 

圓覺經曰 『始知衆生本來成佛 生死涅槃猶如昨夢』

【原注】註 プラチエカ・ブダ サストラ? 禪宗の卒都婆から。

[やぶちゃん注:原註は“Pratyeka-Buddha sastra?—From a sotoba of the Zen sect.”。この小泉八雲の注の前は「(この「円覚経」とは)縁覚に関する論か?」の意か。「圓覺經」は正しくは「大方廣圓覺修多羅了義經」(だいほうこうえんがくしゅたらりょうぎぎょう)で唐の仏陀多羅訳とされる、中国で撰述された疑経、或いは、偽経の一つであり、道元が「楞嚴經」(りょうごんきょう)とともに完全否定した経として知られる。]

 

 が然し、逐次涅槃に融入して、融入しながら『その境地へ還り來る[やぶちゃん注:「きたる」。]』佛達はどうなるのであるか。彼等も亦幻であるのか――その個性も亦非現實なものであるのか。多分この疑問には――佛敎の觀念論があると共に、佛敎の實在論があることだから――多くの異つた解答が爲し得られるであらう。が、現在の目的には、次記の有名な文句が、充分な解答である。――

 

南無一心三世諸佛

【原注】註 これは禪宗の卒都婆から得たのであるが、天台及び眞言の祕密宗派でも用ひるといふことである。

 

 に關しては、佛と人との間にすら、何等の相違も存在して居ない。――

 

成所作智 金言曰 『是法平等 無有高下』

【原注】註 これは眞言宗の卒都婆から。

[やぶちゃん注:「成所作智」(じやうしよさち(じょうしょさち))は、「成すべき総ての事を成し遂げて衆生を救済する智」で「唯識の理りに入るため」の真の智である「四智」の一つ(後の三つは「大円鏡智」・「平等性智」(びょうどうしょうち)・「妙観察智」(みょうかんざつち))。]

 

 否、なほ一層著名な或る文句に據ると、人格の相違すら無いのである。――

 

自他法界平等利益

【原注】註 これは禪宗の卒都婆から寫したもの。『自他』は『自我と非自我』。『己れ』『おまへ』[やぶちゃん注:ここは原文“ “I” and “Thou.” ”から見ても「『「己れ」と「おまへ」』」とセットにしないと、おかしい。]の意。佛の境地では『己れ』と『おまへ』のといふことは無い[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、区別は「無い」のである。]。

 それから、禪宗の卒都婆から得た、なほ一層驚嘆すべき文句は(自分の考では、佛敎のあらゆる文句のうちで、一番著しいものと思ふが)、世界そのものも、幻であるにしても、なほと異つたものでは無い、と宣べて居る。――

 

草木國土悉皆成佛

 

 文字通りでは『佛となるであらう』卽ち、いづれも佛の境涯に入る、卽ち涅槃に入る、であらうといふ意である。我々が物質と名づけて居る物が、だからして、性質を變へてに――無限の感性無限の視力無限の知識といふ屬性のあるに――なるのである。現象としては、物質は非實在である。が、超絕的に、それはその究極の性質に依つて、唯一實在に屬するものである。

 斯んな哲學的命題は、尋常な讀者の心を惑はしさうに思はれる。物質と心とを、究極の實在の二相に過ぎぬと呼ぶことは、ハーバート・スペンサーの學生[やぶちゃん注:小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年:私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい)の教え子たち・彼の社会進化論を奉ずる人々の意。]には不合理とは思はれぬであらう。が、物質は一つの現象である、一つの迷妄である、一つの夢である、と言ふことは、何の說明にもならぬ。――現象としてそれは存在して居るので、それに附與されて居る或る宿命を有つて居るから、之を客觀的に考察しなければならぬのである。同じく不滿足に感ぜられるのは、現象は因果(カルマ)の聚合[やぶちゃん注:「しゆうがふ(しゅうごう)」。「集合(しふがふ)」に同じい。]であるといふ陳述である。その聚合を形づくる分子の本性は何であるか。卽ち、極く平明な言葉で云へば、その迷妄は何から成つて居るのか。

 元の佛敎經典にも、況してや[やぶちゃん注:「ましてや」。]佛敎墓地の文學にも、その答を探すことは出來ぬ。そんな疑問は、經(スートラ)よりも、論(サストラ)に、取扱つてある。――またその兩者への種々雜多な日本の註釋書に取扱つてある。この謎への答を含んで居る、頗る奇妙なそして餘り人の知らぬ眞言の文句を、或る友人が自分に提供して吳れた。

 眞言宗といふは、自分は述べて宜からうと思ふが、一種神祕な宗派で、殊に心と物質との同一不二たる事を述べ、なほ大膽にもその敎義を進めて、その最も遠い論理的斷案へ持つて行つて居るものである。その開祖であり父である所の、弘法大師としてよりよく知られて居る、空海は、物質は本體に於て靈と異つたものでは無い、とその『祕藏記』といふ書物で述べた。かう書いて居る、『草木非情成佛義。法身微細ニシテ五大所成ナリ。虛空モ【註】亦五大所成ナリ。草木亦五大所成ナリ。法身微細。虛空乃至草木マデ。一切處ㇾ不ルコトㇾ遍。是虛空是草木卽法身ナリ。於肉眼雖ㇾ見ルト麤色草木。於佛眼微細之色ナリ。是シテㇾ動本體スルニㇾ佛妨碍

[やぶちゃん注:底本では「虛空」の「虛」の右上に「註」を附したような痕跡はないが、原文と対照して、特異的に「【註】」の字で以上に補っておいた。

「祕藏記」密教の要義約百条を解説した書で、真言宗で重んじる。但し、著者については、「恵果(えか/けいか 七四六年~八〇五年:唐代の密教僧。密教を中国に定着させた不空三蔵(七〇五年~七七四年)に学び、代宗・徳宗・順宗に信任され、「三朝の国師」と称された。空海の師として灌頂を授けている)の口説を空海が記述した」とする説、「不空三蔵の口説を恵果」が記述したとする説、「恵果の高弟義操の弟子文秘の述とする」など諸説がある。本来は全二巻であるが、広略の二本があり、略本は一巻。以下、訓点に従って訓読する。一部で、読みと送り仮名を添え、「動せす」は濁音化した。

   *

草木非情成佛の義。法身(ほつしん)は微細の身にして五大所成なり。虛空(こくう)も亦、五大所成なり。草木も亦、五大所成なり。法身の微細の身は、虛空、乃至(ないし)、草木まで、一切處(いつさいしよ)に遍せざること、無し。是(こ)の虛空、是の草木、卽ち、法身なり。肉眼に於ては麤色(そしき[やぶちゃん注:「粗い色」の意か。])の草木を見ると雖も、佛眼に於ては微細の色(しき)なり。是の故に、本體を動ぜずして佛と稱するに、妨碍(ばうがい)無し。

   *]

 

【原注】註 漢字では文字通りでは英語の『ヺイド』であるが、涅槃の境涯を意味する『無上のヺイド』のヺイドである。が、此處では、究極の物質、卽ち本源の物質を意味して居る。之を『エーテル』(固より近代の意味で無く、希臘語の意味で)と譯することは、南條文雄その他知名な梵漢兩學者の是認するところである。

[やぶちゃん注:「ヺイド」“void”。「宇宙の空間・虚空・無限」の意。前の「祕藏記」の小泉八雲の英訳では「虛空」は“Ether”(エーテル)となっている。それを知らないと、この原注に吃驚する。「エーテル」は所謂、古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、実に永く想定され続けた、全世界・全宇宙を満たす一種の不可視の元素、或いは、物質の仮称である。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地水火風に加えて、「エーテル」(「輝く空気の上層」を表わす言葉)を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では、全宇宙を満たす希薄な物質とされ、ニュートン力学では「エーテル」に対し、「静止する絶対空間」の存在が前提とされた。また、光や電磁波の媒質とも考えられた。しかし、十九世紀末に「マイケルソン=モーリーの実験」で、「エーテル」に対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経て、遂に一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱し、「エーテル」の存在は否定された(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」に拠った)。但し、現在でも擬似科学や一部の新興宗教の中に「エーテルの亡霊」が巣食って蠢いている。

「南條文雄」既出既注。]

 

 前文に『非情』といふ語が用ひてあるのは、矛盾を含んで居るやうに思はれるであらう。が、『四曼義』といふ書物の中にある問答で合點の行くやうに說明されて居る。――

 問 非情草木等若シ謂フベシヤ有情トモ

 答 應

 問 已ス二非情有情

 答 此三昧本來已スルカ如來智印ンニ有情トモ無ㇾ過(トカ)

[やぶちゃん注:訓読を示す。「應」は通常のように再読した。一部で読みと送り仮名を挿入し、「具するか」と。唯一の

ルビ「とか」の「か」は濁音化した。

   *

問ふ、「非情草木等を、若(も)し、有情(うじやう)とも謂ふべしや。」

答ふ、「應(まさ)に爾(し)か云ふべし。」

問ふ、「已に非情と稱す。何ぞ、有情と謂ふや。」

答ふ、「此の三昧耶(さんまや)の處に、本來、已(すで)に如來の智印を具するが故に、有情とも曰(いは)んに、過(とが)、無し。」

   *

この「三昧耶」は、サンスクリット語「サマヤ」の漢音写で、原義は「約束」・「契約」などを意味するが、通常は、広義に「時間」或いは「衆会」・「教理」などの意で用いるが、真言宗では、平等・誓願・驚覚・除垢障の四義を説いているものの、それは、衆生は仏と等しく差異がないと知る「平等」の義を根底として、他の「三」義を引き出したもので、「衆生と平等である仏は、一切の衆生を差異なく、悟りの世界に入らせる。」と誓い、「そのように成すことが、既にして決定(けつじょう)しており、必ず、遍く利益(りやく)を与える。」とする時空間を超えたそれを「三昧耶」と呼ぶと考えてよかろう。]

 

 『可能的に有情なのだ(ポテンシヤリー・センシエント)[やぶちゃん注:以上は「可能的に有情なのだ」総てへのルビ。]』と識者は推斷されるかも知れぬが、その推斷は誤つて居る。眞言思想では、可能的有情では無くて、我々には不可見であり不可想像であるけれども、眞實でもあり實際でもある所の潜在的有情(レーテント・センシエンシー)なのである。上記の弘法大師の語に註譯を加へて、宥快といふ巨僧は、啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]その師の意見を反覆して居る計りで無く、草木並びに我々が無生物と呼んで居るものが、德を修めること! が出來ることを、否定するのは理に悖つて[やぶちゃん注:「もとつて」。]居ると斷言して居る。彼は曰ふ、『法界一切に遍きもの[やぶちゃん注:「あまねきもの」。]なれば、心それに遍き草木國土は悉く心を有せざる可からず。またその心を佛に向けて德を修めざる可からず。遍く流入するもの遍く流入さる〻ものとは同一不二なることに就いて、單(ただ)に普通の言葉の上に於てとを差別するが故を以てして、我が宗派の說く敎を疑ふことあるべからず』と。どういふ風にして草木や石が德を修めることが出來るのか、經は實際何にも言うて居らぬ。が、それは、經は人間の爲めに書いたもので、人間が知り且つ行ふべきことだけ敎へて居るからである。

[やぶちゃん注:「遍く流入するもの遍く流入さる〻ものと」は、実は、底本では「遍く流入するものと」と「流入さる〻もの」に傍点「﹅」は附されてある。それでは対称性がおかしいと私は断じ、特異的にかく変えた。恐らく、植字工の誤植である。

 以上の段落は英文原文を示しておく。

 “Potentially sentient,” the reader might conclude; but this conclusion would be wrong. The Shingon thought is not of a potential sentiency, but of a latent sentiency which although to us non-apparent and non-imaginable, is nevertheless both real and actual. Commenting upon the words of Kōbōdaishi above cited, the great priest Yū-kai not only reiterates the opinion of his master, but asserts that it is absurd to deny that plants, trees, and what we call inanimate objects, can practise virtue! “Since Mind,” he declares,“pervades the whole World of Law, the grasses, plants, trees, and earth pervaded by it must all have mind, and must turn their mind to Buddhahood and practise virtue. Do not doubt the doctrine of our sect, regarding the Non-Duality of the Pervading and the Pervaded, merely because of the distinction made in common parlance between Matter and Mind.” As for how plants or stones can practise virtue, the sûtras indeed have nothing to say. But that is because the sûtras, being intended for man, teach only what man should know and do.”

「可能的に有情なのだ」“Potentially sentient”の“Potentially”は「潜在的に」或いは「将来的実現可能性を秘めて」の意、“sentient”は「意識するところの・敏感な・~を意識して」の意の形容詞。平井呈一氏は恒文社版で『仮定的有情』と訳しておられる。

「潜在的有情」“latent sentiency”の“latent”は「隠れているところの・見えない・潜在的な」のそれ、“sentiency”は先の形容詞の名詞形で「外界を理解するために使用される認識・感覚機能」であるから、前の“latent”によって「我々には不可見であり不可想像である」(見ることも思惟することも出来ない存在である)と否定され、しかもそれが「眞實でもあり實際でもある」(唯一無二の実在)という逆説的(パラドキシャルな)結論が示されているのである。

「宥快」(ゆうかい 貞和元/興国六(一三四五)年~応永二三(一四一六)年)は南北朝から室町初期の真言僧。京都生まれ。左少将藤原実光の子とされる。高野山宝性(ほうしょう)院の信弘から両部の秘法を受け、また、京都山科の安祥寺興雅に受法し、真言宗の教義を明確に位置づけた。彼の学統を「宝門」という。著書に「大疏鈔(だいしょしょう)」「釋論鈔」など、多数がある。]

 

 恐らくは讀者は、物質の本性に就いての此の實に驚く可き佛敎假說を辿つて、その驚くに餘りある結論に至ることが、今や前よりか能く出來ることであらう。(五大といふ考が奇矯だといふのでそれを侮つてはならぬ。これは一つの究極なものの樣式(モード)に過ぎぬと述べて居るからである)我々が物質と呼ぶ所のものの形式は、悉く皆實は靈的な單位の聚合に他ならぬので、實體が呈する眼に見ての相違は悉くその單位の間で行はれる結合の相違に他ならぬのである。結合の相違は、その單位の特殊な傾向と親和力とが惹起するのである。――その單位各〻が有つて居る傾向は、その單位の特別な進化的(『進化』といふ語を、純粹の倫理的意味に用ひての)經歷が齎す必然の結果なのである。眼に見ゆる實體の――宇宙の幾百萬の太陽や惑星の――結合は、總て、そんな靈的な究極物の親和力を示して居るのである。そして人間の行爲或は思想は、悉く、善い方へ或は惡るい方へ働く諸〻の力が、或は結んだり解けたりして、絕大な時間を通して、痕をしるして居るのである。

 

 草木や土地や一切の物體は、肉眼は盲だからして、實際にはさうで無い物に、我々には見えて居る。生そのものが――日の絕大な面紗[やぶちゃん注:「めんしや」。ベール(veil)。]が空間の無數の星を隱して我々に見せないのと稍〻似て――實在を隱す幕になつて居る。が然し、墓地の文句は、純化された心は、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]肉體の裡に囚はれてゐても、忘我の幾瞬間、と一致することが出來る、といふことを述べて居る。

 

一輪明月照禪心

【原注】註 禪は禪定(梵語の禪那(ヂヤーナ))眞の禪那に在つては、心はと交通が出来る、と信ぜられて居る。これは禪宗の卒都婆から。

 

 『一輪の明月』は無上の彌陀である。情(こころ)の純潔な者には彼を見ることすら出來るのである。――

 

南無妙法 一心觀佛

【原注】註 天台宗の卒都婆から。

 

 

 それよりも偉大な歡喜は何一つ無いと云ふ。――

 

如來慈顏 超世無倫

【原注】註 淨土宗の卒都婆から。

 

 

 が然し、一佛の顏を見るのは卽ち一切の諸佛を見ることである。――

 

大圓鏡智 經曰『深入禪定 見十方佛』

【原注】註 禪宗の卒都婆から。

 

金口曰『一佛二佛 三四五佛』

【原注】註 禪宗の卒都婆。

 

 

 といふその神祕は次の如く說明せられて居る。

 

妙觀察智 經曰『遠離一切 心爲佛心』

【原注】註 禪宗の卒都婆。

 

 

 日本の佛寺の古いのに參詣する人は、或る種の佛像に附いて居る鍍金[やぶちゃん注:「めつき」。]の後光が、その性質異常なのに氣附かぬことは殆ど無い。光明の圓環や圓盤や楕圓を見せて居るこの後光のうちに、迫持構(せりもちがまへ)のやうな或は炎の渦卷のやうな恰好をした、無數の龕[やぶちゃん注:「がん」。佛像を収めるための凹み。]が入つゐて、その一一に佛か菩薩かが安置されて居る。『觀無量壽經』にある一句が、この象徵主義を日本の彫刻師に、思ひ附かせたのかも知れぬ。――

 

於圓光中 有百萬億那由他恒河沙化佛

【原注】註 『東洋聖書』第四十九卷百八十頁。

[やぶちゃん注:以上(注は下部)は原本では改行なしで総て本文に繰り込まれてある(見開きページ中央)が、行空けした。植字工が勝手に詰めたものと推定される。

「那由他」(なゆた)は、サンスクリット語の「極めて大きな数量」を漢音訳した仏教上の数単位。一般的には1060を指すが、1072とする説もある。

「恒河沙」(ごうがしや(ごうがしゃ))はもと「ガンジス川の砂」の意。同前で、1052とも、1056乗ともされる。

「『東洋聖書』第四十九卷百八十頁」同書は本章で既出既注。ここの「18」で電子化されたその英訳が読める。]

 

 像も句も共に、前揭の卒都婆の文句が暗示する、多の中に一があるといふ彼(あ)の敎義を現はして居る。そして、一佛を見る者は一切の諸佛を見ることが出來るといふ保證は、進んで、一つの大眞理を充分に理解する者は無數の眞理を理解することが出來よう、といふ意味を有つて居るものと受け取つてもよからう。

 が然し、靈的に盲な者にすら、光明が竟には來るに相違ないのである。墓場の文句の非常に多くのものが、無限の愛が一切の者を監視して居ること、究極の普通の救濟が必らず到ること、を述べて居る。――

 

具一切功德 慈眼視衆生

【原注】註 禪宗の卒都婆から。

 

金剛寶塔 銘曰『六道衆生 厭離愛着 心身解脫 入無上道

【原注】註 六道に天上、人間、阿修羅、地獄、餓鬼、畜生。これは禪宗の卒都婆。

 

經曰『敎化衆生 令入佛道』

【原注】註 日蓮宗の卒都婆。

 

 

 が然し最高の征服は唯々自己の努力に依つて成し遂げられるものである。

 

滅三毒 出三界

【原注】註 禪宗の卒都婆 三毒とは瞋、痴、貪。

[やぶちゃん注:「三毒とは瞋、痴、貪」順に「じん/しん」・「ち」・「とん/どん」と読み、人の善心を害する三種の煩悩を指す。一般には「貪瞋痴」の順である。「貪」は愛欲を含めた対象を追い求める心、「瞋」は瞋恚(しんい)で自分の心に逆らうものを怒り恨むこと、「痴」は無明(むみょう)であることで、邪見・俗念に妨げられて真理を悟ることが出来ないことを指す。]

 

 三界とは過去現在未來時である。三界の上に昇る(もつと文字通りに言へば、『から出る』)といふは、だから、時空間を越えること――無限と一つになること、を意味する。時間を征服することは、尤も、佛陀にのみ可能なことである。が、一切の物は佛陀に成れるのである。或る少女の墓の上に書いてあつた次記の日蓮宗の經句が證明して居るやうに、女でも、まだ女で居るうちにも、佛果に達することが出來るのである。――

[やぶちゃん注:これは布教上の方便である。既に何度も述べた通り、原始仏教のブッダの時代から、変成男子(へんじょうなんし)、如何に布施や功徳や修行を積んでも、女性は、一度、男性に転生しない限り、極楽往生は出来ないとされてきた強力な女性差別の法理上の事実を仏教界はこうしたいい加減な方便や、拡大解釈で、隠蔽と誤魔化しを続けてきたのである。以下の小泉八雲が引く女人往生のそれは、人間ではなく、選ばれた天部の超越的存在の龍女なのである。……さればこそ……ああ、そうか?……最後に清姫が安珍と極楽へ行けるのは「龍蛇」に変じたからなんだ!!!……

 

皆遙見彼 龍女成佛

 

 これは、『妙法蓮華經』に載つて居る、龍王の娘の娑竭羅に就いての彼(あ)の美しい伝說を指して言うて居るのである。

【原注】註 この傳說に就いては『東洋聖書』に收められて居るケルン譯の第十一章を見られたい。

[やぶちゃん注:「娑竭羅」(しやから(しゃから))には誤認がある。古代インド神話で「龍王」とされるのが「娑伽羅」(サーガラ:大海・龍宮王・大海龍王。「娑竭羅」「沙掲羅」「沙羯羅」などと漢音訳された)であるからである。「法華經」の「提婆達多品」(だいばだったぼん)に登場する八歳の龍女は、この龍王の第三王女とされ、「善女(如)龍王」と呼ばれたのである。空海が新しく名付けることとなった「淸瀧權現」も、唐からついて来た、この「娑伽羅龍王の同じ娘」の事である。白景皓氏の論文「竺法護訳『正法華経』の〈龍女伝説〉」PDF)から「妙法蓮華經」(法意訳)の当該部と新国訳「妙法蓮華經」の同部分を引用させて戴く(一部の漢字を、さらに正字化させて貰い、後者は現代仮名遣を歴史的仮名遣に訂し、句読点も修正し、一部に読みを追加した)。

   *

文殊師利言。我於海中唯常宣說妙法華經。智積問文殊師利言。此經甚深微妙。諸經中寶世所希有。頗有衆生勤加精進修行此經速得佛不。文殊師利言。有裟竭羅龍王女。年始八歲。智慧利根善知衆生諸根行業。得陀羅尼。諸佛所說甚深祕藏悉能受持。深入禪定了達諸法。於刹那頃發菩提心。得不退轉辯才無礙。慈念衆生猶如赤子。功德具足心念口演。微妙廣大慈悲仁讓。志意和雅能至菩提。

   *

 文殊師利(もんじゆしり)の言はく、

「我れ海中に於いて、唯だ常に妙法華經を宣說す。」

と。

 智積(ちしやく)、文殊師利に問ひて言はく、

「此の經は、甚深微妙にして諸經の中の寶、世に希有なる所なり。頗(も)し、衆生の勤加(ごんか)精進し、此の經を修行して、速やかに佛を得るもの、有りや不(いな)や。」

と。

 文殊師利の言はく、

「有り。裟竭羅龍王(しやからりゆうわう)の女(むすめ)。年、始めて八歲なり。智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業(ぎやうがふ)[やぶちゃん注:行状(ぎょうじょう)。]を知り、陀羅尼(だらに)を得、諸佛の所說の甚深の祕藏、悉く能く受持し、深く禪定に入りて、諸法を了達し、刹那の頃(あひだ)に於いて、菩提心を發こし、不退轉を得たり。辯才無礙(べんざいむげ)にして、衆生を慈念すること、猶ほ赤子(しやくし)の如し。功德具足し、心に念ひ、口に演(の)ぶること、微妙廣大なり。慈悲仁讓、志意和雅(わげ)、能く菩提に至れり。」

と。

   *

「ケルン」ジョン・ヘンドリック・カスパー・カーン(Johan Hendrik Caspar Kern 一八三三年~一九一七年)のこと。オランダの言語学者・東洋学者。既に述べたマックス・ミュラー編の「東方聖典叢書」(‘ Sacred Books of the East ’:オックスフォード大学出版局・一八七九年から一九一〇年にかけて刊行)では、一八八四年に「妙法蓮華經」を‘ The Saddharma-Pundarîka or The Lotus of the True Law ’として英訳している。こちらの「48」で電子化された英訳が読める。]

2019/11/16

小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「二」

 

[やぶちゃん注:本篇書誌及び底本・電子化の凡例等については『小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「一」』を参照されたい。太字・下線は、底本では傍点「◦」。] 

 

       

 微妙なといふこと、複雜なといふことに就いては、此の埋葬文學の多くは、イシスの面紗[やぶちゃん注:「めんしや(めんしゃ)」。原文“the Veil of Isis”。エジプトの生命の女神イシスが神秘の呪術的シンボルとして被っているヴェールのこと。]に比べることが出來る。その文言――その文字は、大抵一語が二通りに讀めるのである――の背後に、その句(フレーズ)の神祕が存して居り、それからまた、その背後に、西洋のあらゆる智慧よりも古く、そして空間の底無しよりも深い、一諾斯士(ノスチシズム)敎に屬する幾聯の謎がある。幸にも、その最も幽玄な文言は興味最も乏しいもので、この隨筆の目的には餘り關係が無い。その大多數は、彫刻物には存して居ないで、墓場の、筆で書いた非恆久的な文學に存して居るもので、――石の記念碑に屬して居るものでは無くて、ソトバに存して居るものである。ソトバといふのは、百年の間、一定の、然し後(のち)ほど年月が增す、間隔を置いて、墓へ建てる、高い狹い白木の薄板である。

[やぶちゃん注:「一諾斯士(ノスチシズム)敎」ルビ「ノスチシズム」は「諾斯士」三文字に添えてある。原文“a gnosticism”で「一種のグノーシス教・思想・主義」であるからして、ルビは「敎」まで掛けるべきである。「グノーシス主義・思想」は紀元後一世紀から三世紀に地中海世界に興った宗教思想運動で、英語の「Gnosticism」は「知識」を意味するギリシア語に由来する。キリスト教グノーシス派も存在はするものの、従来、誤解されてきたように、キリスト教内部の異端、或いは、ヘレニズム的シンクレティズム(「諸宗教の混淆したもの」の意)の所産ではなく、現在は固有の運動であったと考えるのが有力である。「ナグ・ハマディ文書」・「ヘルメス文書」の内には、多くのグノーシス文献が見いだされ、エジプトやシリア・パレスティナ及び小アジアに分布する。独自の宇宙的二元論に基づく神論・創造論・救済論を持ち、星辰界の拒否と、本来的に聖なるものとされるところの魂の「グノーシス」の獲得による、神への帰一を説くのを特徴とする。シモン・マグス(Simon Magus:サマリアの村キッタイに生まれ、紀元後一世紀のサマリアとクラウディウス帝治下のローマでも活動した思想家。「使徒行伝」第八章十節によると「大能(至高の神性)」を自己の身に体現すると主張した。シモン自身の教説のそれ以上の詳細は不明だが、後にシモン派グノーシス主義へと展開し、正統教会からは全異端の草創の元凶にされた。「マグス」とは「魔術師」の意で、シモンの教説を貶め、その影響力を減じようとする原始キリスト教側の作為に由来する渾名である)、ウァレンティヌス(Valentinus:紀元後二世紀頃のアレクサンドリア生まれで、ローマで活躍したグノーシス主義の宗教哲学者。ウァレンティヌス派を創始し、初期キリスト教神学には多大の影響を与えた。全宇宙は「充実」(プレロマ:plērōma)の流出から成る位階秩序を保持しており、地上はその最下層の暗黒世界に過ぎず、創造神は悪の力に他ならない。魂の救済とは、この世から遁れ、再び「充実」の中へと帰一することであり、それは「グノーシス」(霊的認識)によってのみ可能であると説いた)、マルキオン(Marcion:初期キリスト教会に於いて異端とされた聖書学者で二世紀前半にローマで活躍した。グノーシス主義的傾向を持ち、二元論を批判原理として旧約の神と新約の神を区別、前者を否定した。また、イエスの肉体を否定して仮現説を唱えた。独自の「新約聖書正典」を作成し、正統派教会の正典制定の契機となった)、バシレイデス(Basileidēs:二世紀頃在世したグノーシス派有数の人物でシリア出身。アレクサンドリアで哲学を論じ、「至高の神は人類の霊魂をユダヤ人の神や堕落から守るために、その子ヌースをイエスに宿らせた」という独特の神学的世界観を形成した。主著「福音書注解」(Exegetica)全二十四巻を書いたが、現存しない)らの論者が知られ、マンダ教やマニ教は分派と見られる(主文は平凡社「百科事典マイペディア」に拠り、人物解説は種々の辞書類を参照した)。]

 

Zillt102ah

[やぶちゃん注:英文キャプションは、

   SOTOBA IN KOBUDERA CEMETERY

(The upper characters are “ BONTI ”—modified Sanskrit )

で、「BONTI」は「BONJI」の誤り(誤植)で、

     瘤寺墓地にある卒塔婆

(上方にある文字は「梵字」――変形されたサンスクリット語の書字――)

後の添え書きは、所謂、梵字の種子(しゅじ)のことを指して言っている。]

 

【原注】註 『ソトバ』といふ語は梵語の『ステュパ』と同一である。當初は靈廟の意。後――記念若しくは他の目的の單簡な記念物の意を有つに至つた此のステュパは、佛敎と共に支那へ輸入され、それから、恐らくは朝鮮を經て、日本へ輸入されたものである。石造の卒都婆の支那での形は、日本の古い寺院の境內

に多く見ることが出來る。木製のソトバは卒都婆の表象に過ぎぬ。その形が念が入つて居れば居るほど、明白にその歷史を偲ぶことが出來る。その上端の橫が少し切り刻んであるのであるが、その切り口が、その最も美しい埋葬記念碑の意匠を爲して居る所の、彼(あ)の(五大の象徴たる)方、圓、三角、半月、團形の重(かさ)なり合(あひ)を示して居るのである。

[やぶちゃん注:「ステュパ」“stûpa”現行のサンスクリット語ラテン文字転写は「stūpa」で、そのカタカナ音写は「ストゥーパ」。サンスクリット語で「高く顕れる」という意で、「涅槃の境地」を象徴したものとされる。中国に仏教が伝来した際に「卒塔婆」と漢音訳された。]

 

 さういふ文言を精確に飜鐸するの無益なことは、より古い宗派で使ふソトバの上に書いてある文二つ(センテンス[やぶちゃん注:三字に対するルビ。])を、逐字譯にして見れば、例證となるであらう。『法、界、體、性、智』といふやうな言葉に、或は、『空、風、火、水、地!』といふやうな祈願(實際これは祈願の言葉なのである)の言葉に、どんな意味を諸君は發見することが出來るか。之を理解するには、その神祕な宗派の敎義では、宇宙は五如來と同一たる五大から出來て居るといふこと、その五如來の各〻に他の如來が、また含まれて居るといふこと、その五つは、現象的顯現に於ては異つて居るけれども、本體は一つであるといふこと、を先づ知つて居なければならぬのである。だから一つの名に意義が三つあるのである。例へば、といふ語は、客觀的現象として炎を意味する。それはまた或る特殊な一佛の顯現として炎を意味する。そしてそれはその上に、該(そ)の佛の屬性たる特別な智或は力を意味するのである。恐らくはこの敎義は、五大との關係の、次に揭げる眞言の分類の助を藉りれば、一層容易に了解が出來るであらう。

[やぶちゃん注:「法、界、體、性、智」は密教では「法界体性智(ほうかいたいしょうち)」という一体一語で(次のリストの「一」で小泉八雲は日本語音をローマ字転写して“ Hō-kai-tai-shō-chi ”と正しく口語で記している)、「法界」(全ての存在する現象)がありのまま(「性」)の姿(「体」)で存在することを明確に知る「智」慧のことを指す。但し、密教ではその存在様態そのものを論理的には説明していないようである。尤も、その様態は究極のものであって論理を超越しているからではあろう。

 以下、「一」から「五」までは全体が三字下げポイント落ちであるが、同ポイントで引き上げた。各条の前後を一行空けた。解説文最後には総て句点がないのママ。

 

    一、ホフ・カイ・タイ・シヤウ・チ

(梵語でドハルマ・ドハートゥ・プラクリット・グニヤーナ)卽ち「法・界・體・性・智」――萬物の實體となる智を意味する。これはとしてはである。は人格化してはダイ・ニチ・ニヨ・ライ卽ち「大日如來」(マハーヷイルカナ タサガタ)で、『智の印を持して居る』

[やぶちゃん注:標題の原文ローマ字表記は前注参照。ここで、どうしても言っておきたいのだが、これに限らず、他の諸作品集でも、小泉八雲は日本語をローマ字音写する際には、概ね正しく、当時の、則ち、現在とそれほど変わらない口語の実発音に近いもの(但し、一部では歴史的仮名遣音も含まれる)で記すことが殆んどなのだが、訳者たちは――失礼だが――馬鹿正直というか、糞律儀というか、それを歴史的仮名遣に戻すという作業をしているのである。これは私は今から見ると、非常な誤りであると言うべきである(例えば、民謡を採取した際、その唄った発音通りに書いてあるのを、歴史的仮名遣に変換するのは絶対誤謬で愚の骨頂であるからである)。小泉八雲がローマ字口語表記したものに限っては、そのままに写すべきであったと私は強く感じている。だから、この標題も「ホー(ホウ)・カイ・タイ・ショー(ショウ)・チ」でよかったのだと私は感ずるのである。

「ドハルマ・ドハートゥ・プラクリット・グニヤーナ」原文“Dhârma-dhâtu-prakrit-gñâna”。以下同じ。

「マハーヷイルカナ タサガタ」“Mahâvairokana Tathâgata”。]

 

    一、ダイ・ヱン・キヤウ・チ

(アーダルサナ・グニヤーナ)卽ち『大・圓・鏡・智』――は萬象を顯現する神聖な力である。としてはである。は人格化してはア・シユク・ニヨ・ライ卽ち「阿閦如來」(アクシヨビヤ)

[やぶちゃん注:標題原文表記は“ Dai-en-kyō-chi ”。

「ア・シユク・ニヨ・ライ卽ち「阿閦如來」(アクシヨビヤ)」“Ashuku Nyōrai, the “Immovable Tathâgata” (Akshobhya).”サンスクリット語の「アクショーブヤ」とは「揺るぎない」という意(「Immovable」も「固定された・揺るがない」の意)。東方の現在仏。漢訳では「無動・無瞋恚(しんい)・無怒」などと訳し、「不動金剛」とも呼ぶ。]

 

    三、ビヤウ・ドウ・シヤウ・チ

(サマター・グニヤーナ)卽ち『平等性智』――は人或は物體を問はない智である。としては。人格化して、は、德と幸福とを主どるハウ・シヤウ・ニヨ・ライ卽ち「寶生如來」(ラトナサムビヤヷ タサガタ)

[やぶちゃん注:標題原文表記は“ Byō-dō-shō-chi ”。

「ラトナサムビヤヷ タサガタ」“Ratnasambhava Tathâgata”。「宝よりうまれしもの」の意。さればこそ、「財宝を生み出して人々に福徳を授ける」と比喩される。]

 

    四、メウ・クワン・サツ・チ

(プラトヤヹクシヤナ・グニヤーナ)卽ち『妙觀察智』――は正しきと誤れるとを分別し、法を說いて疑を斷つ智である。としては。人格化しては、はア・ミ・ダ ニヨ・ライ卽ち『阿彌陀如來』(アミタービヤ タサガタ)

[やぶちゃん注:標題原文表記は“ Myō-kwan-zatsu-chi ”。現代仮名遣では「みょうかんさつち」或いは小泉八雲が示した通り、最後を「ざっち」と濁る。存在の相を正しく捉えて正法(しょうぼう)の実践を支える智。第六識(意識)を転ずることで得られるとされる。

「アミタービヤ タサガタ」“Amitâbha Tathâgata”。現行のカタカナ音写は「アミターバ」「アミターユス」。前者は「量りしれない光を持つ者」、後者は「量りしれない寿命を持つ者」の意で、これを漢訳した「無量光佛」「無量壽佛」も阿弥陀如来を指す。西方の極楽浄土の主宰者(東方は薬師如来)。]

 

    五、ジヤウ・シヨ・サ・チ

(クリトヤーヌシュ サーナ・グニヤーナ)卽ち『成所作智』――は涅槃に入るを助ける神聖な智である。としては風。人格化してはフ・クウ・ジヤウ・ジユ・ニヨ・ライ(普通にはフ・クウ・ニヨ・ライ)卽ち「不空成就如來」(アモギヤシッドイ、或はサーキヤムニ)

[やぶちゃん注:標題原文表記は“Jō-shō-sa-chi”。

「アモギヤシッドイ、或はサーキヤムニ)」“Amoghasiddhi, or Sâkyamuni”。Sâkyamuni」を別称のように示すのは、あまりよろしくない。「Sâkyamuni」は、その音から判る通り、「釋迦牟尼」でブッダ(ガウタマ・シタールタ)のことであるからで、但し、実際に一部では、この如来は釈迦如来と同一視されることもあるので誤りではない(後の小泉八雲の註でもそれが語られてはいる。しかし、「又は釋迦牟尼」は私はいただけないのである)。ウィキの「不空成就如来」によれば、現行のサンスクリット語のカタカナ音写は『アモーガシッディ』で、『密教における金剛界五仏の一尊で、金剛界曼荼羅では大日如来の北方(画面では大日如来の向かって右方)に位置する。仏の悟りの境地のうち、唯識思想で言う「成所作智(じょうしょさち)」を具現化したものである。これは』「何物にもとらわれることなく実践する」と『いう意である。原語の「アモーガ」は「空(むな)しからず」という意味で、この如来が何事も漏らさず成し遂げることを示す』とある。]

【原注】註 然し、上述の佛陀と五大との關係は、この敎義に於て、恆久的に定つて居るのでは無い、――それは哲學的に明白な理由に因つてである。或る時に釋迦牟尼は空と同じだとされ、阿彌陀は風と同じだ、等等とされる。上記の類別は南條文雄博士の採つて居られる次序[やぶちゃん注:「順序」に同じ。]に從つたのであるが、博士もこの次序が永遠のものと目すべきで無いと、ほのめかして居られる。

[やぶちゃん注:「南條文雄」(なんじょう ぶんゆう 嘉永二(一八四九)年~昭和似(一九二七)年)は仏教学者・宗教家。ウィキの「南条文雄」によれば、『近代以前からの伝統的な仏教研究の上に、西洋近代の実証的・客観的な学問体系と方法論を初めて導入した。早い時期から仏典の原典であるサンスクリット(梵語)テキストの存在に注目。主要な漢訳経典との対校を行なうとともに、それらの成果をヨーロッパの学界に広く紹介するなど、近代的な仏教研究の基礎形成に大きな役割を果たした』。『美濃国大垣船町(現・岐阜県大垣市)の誓運寺(真宗大谷派)に生まれ』、『幼時より漢学・仏典の才に優れ』た。彼が一年学んだ『京都東本願寺の高倉学寮』『で教鞭を取っていた福井県憶念寺南条神興の養子となり』、『南条姓に改姓、再び学寮に赴き』、『護法場でキリスト教など仏教以外の諸学を修めた』。明治九(一八七六)年、『同僚の笠原研寿とともにサンスクリット(梵語)研究のため』、『渡英、オックスフォード大学のマックス・ミューラーのもとでヨーロッパにおける近代的な仏教研究の手法を学び、漢訳仏典の英訳、梵語仏典と漢訳仏典の対校等に従事した。特に』一八八三年に『イギリスで出版された英訳『大明三蔵聖教目録』(Chinese Translation of Buddhist Tripitaka, the sacred canon of the Buddhist in China)は「Nanjo-Catalog」と称され、現在なお』、『仏教学者・サンスクリット学者・東洋学者に珍重される。翌年、オックスフォード大学よりマスター・オブ・アーツの称号を授与され、帰国』した。明治一八(一八八五)年より、『東京帝国大学文科大学で梵語学の嘱託講師とな』った。二年後には『インド・中国の仏教遺跡を探訪』し、明治二二(一八八九)年には『文部省より日本第』一『号の文学博士の称号を授与され』ている。明治三四(一九〇一)年に『東本願寺が真宗大学(現、大谷大学)を京都から東京巣鴨に移転開設すると、同大学の教授に就任。初代学監清沢満之と協力して、関連諸学との緊密な連繋の上に立つ近代的な仏教研究・教育機関の創設に力を注』ぎ、二年後には『真宗大学第』二『代学監に就任』、『その後も京都に戻った同大学(のちに真宗大谷大学、大谷大学と改称)の学長を』『務め、学長在任は通算』十八『年近くに及んだ。この間、所属する真宗大谷派において学事体制の整備に』尽力し、『仏教学・東洋学の学界において近代的な仏教研究の必要性を説き、その教育・普及に勉めた。また』、『各地・各方面において行なった活発な講話や執筆活動は、いずれも深い学識と信仰に裏打ちされ、多くの人を惹きつけた』とある。]

 

 さて、この五如來の各〻が他の如來を含んで居るといふ、また一切の物は本質に於ては一つであるといふ、敎義は、『ボソジ』といふ梵語の文字だと認め得られる――文字の異常な使用法で、その文言に象徵されて居るのである。五大の一つ一つの名は、四通りの――發音と形とは異つて居るけれども、佛敎家には何れも同じ意味を有つて居る――文字のうち、どの文字で書いても宜いのである。卽ち、を現はして居る四文字は、日本の發音に從ふと、ラ、ラン、ラアン、ラクと讀める。――また。を意味する四文字は、キヤ、ケン、ケエン、キヤクと讀める。で、五組になつて居る文字二十を、樣々に組み合はせて、種々異つた超自然な力と、種々異つた佛陀とを、表示することが出來る。その表示は、五大の名の直ぐ後に置く、『シユジ』・卽ち『種字』といふ、附け加への表象文字の助[やぶちゃん注:「たすけ」。]をも蒙るのである。

[やぶちゃん注:まず、梵字の多様な読みは、墓石の石屋業者のこちらの記事「キャカラバアについて」が、梵字と発音を示してくれていて非常に判り易いので、是非、参照されたい。それから、「種字」であるが、これは私は一般に「種子(しゅじ)」と表記するものと承知している。ここで言う梵字の仏・菩薩・天部等を示すそれは、ウィキの「種子(密教)」が表になって示されていて、よい。]

 讀者は今や『空、風、火、水、地!』といふ、祈願の文句の意味と、卒都婆の上に書いてある聖智の妙な名の意味とを理解されるであらう。が、唯だ一基の卒都婆すらもが提供する謎は、前記の例が思はせるよりも、遙かに複雜なものがあり得る。想像も及ばぬ折句(アクロステイツク)がある。羅針盤の方位に從つてそれぞれ置くべき文句の位置に就いて、宗派に依つて異る、規則がある。或る漢字の、幾重(いくへ)もの價値に基づく神祕な敎(カバリズム)がある。神祕な銘文のこの題目全體は、說明するのに幾卷の書を要することであらう。だから讀者は、もつと單純な、もつと人間的な興味を有つた文句の爲めに、神祕な方面は此邊で打ち切つても、遺憾には思はれまい、と自分は想ふ。

[やぶちゃん注:「折句(アクロステイツク)」“acrostics”。「アクロスティック」。ある一つの文章や詩の中に、句頭或いは句頭と句末を利用した別の意味を持つ言葉や文章を織り込む言葉遊びの一種。底本では、「折句」が行末であるため、「ばぬ」からルビが始まってしまっている。

「神祕な敎(カバリズム)」「神祕な敎」(しんぴなをしへ)四字へのルビ。“kabalisms”。「KabbalahKabala」の原義は、神秘思想「カバラ」の教義を指す。「カバラ」は十二~十三世紀頃に形成されたユダヤ神秘主義、及び、神智学の発展した形態を指し、さらに一般的には古代にまで溯るユダヤ教の一連の秘教的教理を言う。「カバラ」は語源からは「受取られたもの」の意で、モーセ五書以外のユダヤ教の諸書、及び、預言書を意味したが、十二~十三世紀にライン地方で始った敬虔主義的な運動の中で、父祖伝来の祈禱を神秘的に解釈するため、各アルファベットに一定の数を当てて文章の中に意味ありげな数値を発見したり、頭文字の組合せによる造語を行うなどの方法が用いられた。但し、ここはそこから転じた「ある伝統的で過激な神学的概念や解釈に固執すること」の意。]

 佛敎の墓地文學の眞に興味ある部分は、主として經(スートラ)或は論(サストラ)から採つた文から成つて居る。そしてその興味は、その文が表明して居る信仰の、內的な美に基づくばかりで無く、佛敎敎義の全體を、要を摘まんで、述べて居ることが分かるといふ事實にも基づくのである。それは、上記の神祕な銘文同樣、卒都婆に書いてあるのであつて、墓石に彫つてあるのでは無い。が、その祈願の文は普通は卒都婆の上方と前方とを占めて居るが、この經語は大抵は裏面に書かれて居る。

[やぶちゃん注:「經(スートラ)或は論(サストラ)」“the sûtras or the sastras”。前者の「スートラ」(パーリ語では「スッタ」)は現行では「sūtra」とラテン文字転写し、狭義には、古代インドでベーダ理解のための補助学の綱要を暗誦用に圧縮した、独特の散文体による短文の規定及びそのような文体で編纂された綱要書を指す。ベーダを伝承する学派の中で用いられたが、後にはそれ以外の哲学・学芸の学派も、その教理の綱要書にこの文体を用いたことから、それらの作品も「スートラ」と呼ばれる。原義は「糸」で、「花を貫いて花輪とするように教法を貫く綱要」の意となったと考えられている。仏教もこれに倣って、釈迦の教法を文章に纏めたもの(仏教経典)を総称して「スートラ」と呼んだ。但し、仏教の経典には文体的には「スートラ」体と言えないものが多い(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。後者の「サストラ」は「Śāstra」とも綴り、サンスクリットで「論」「学」を意味する語で、バラモン教・ヒンドゥー教・仏教などの書物や学問の名に多く登場する。]

 どの卒都婆にも、經語と祈願の文との他に、建てた者の名と、死者のカイミヤウと、記念年忌の名とが書いてある。時には短い祈禱の句が記され、或はまた、その卒都婆を建てしめた敬虔な目的を叙べた文が書かれて居る。その經語その物を、敎義の體現に關係して、考察する前に、卒都婆の銘文の一般性と雛形との例を書き記さう。言うて置かなければならぬが、これは木片の表裏に書いてあるのである。が、どの文句が表面にあつて、どの文句が裏面にあるのか――その位置に關する規則は宗派に依つて異ふから――明記するを必要とは考へなかつた。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が四字下げポイント落ち丸括弧部分や註はさらにポイント落ちであるが、引き上げて総て同ポイントで示し、各条の前後を空けた(その代り、中の原注は前後の行空けを以下では、やめた)。字空けも再現していない。]

 

  一、日蓮宗の卒都婆

   (祈禱文)

空、風、火、水、地!――南無妙法蓮華經!

   (記念文)

奉修(此處へ戒名)居士第三囘忌爲轉迷開悟離苦得樂

   (論の文句)

妙法經力 卽身成佛

 

  二、日蓮宗の卒都婆

    (祈願文)

南無妙法蓮華經!

    (記念文)

施餓鬼法要會 爲佛果菩提之卒都婆也

    (祈禱文)

願以此功德 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道

【原注】註 此の祈禱文は普通、御經を讀んだ後、或は神聖な文言か寫した後、或は法要を營んだ後、唱へるものである。

明治三十年七月五日建之(建てた人の名を此處へ)

[やぶちゃん注:「明治三十年」は一八九七年。以下でも同年のものを写していることから、本作品集は明治三一(一八九八)年十二月であるので、小泉八雲がしっかり新しい卒塔婆を選んで写し取っていることが判る。それは、一つには、明瞭に読みとれるからではあろう。]

 

  三、淨土宗の卒都婆

    (祈願文)

南無阿彌陀佛!

    (記念文)

爲(此處へ戒名を)建之

    (經からの文句)

大圓鏡智 金口曰 光明遍照 十方世界 念佛衆生 攝取不捨

[やぶちゃん注:「大圓鏡智」(だいゑんきやうち)「四智」の一つ。如来の智慧を大円鏡に譬えたもの。如来の智慧には、人々の善悪の行為の結果として、さまざまな境界が現出することを知る働きがあり、それは丁度、巨大な欠くところのない丸い鏡に悉く映るようである、ということから、かく称する。

「金口」「こんく/きんく/きんこう」と読み、釈迦の口を尊んで称する語。転じて広く「釈迦の説法」を指す。]

 

  四、淨土宗の卒都婆

    (論からの文句)

大圓鏡智 經曰 深入禪定 見十方佛

    (記念文)

爲智照院光雲貞明大姉註一頓生菩提註二

【原注】註一 『大姉』は女の戒名に附記する語。禪宗では有夫の女に附ける。未婚の女には「信女」と附記する。

[やぶちゃん注:現行、このような区別は、どの宗派もない。「信女」は最下位ランクで、おぞましい値段の違いでしかない。但し、小泉八雲は後の「四」で現代では区別がなくなっていることを述べている。]

【原注】註二 菩提は最上智。佛陀の境涯。

    (祈禱文)

一見卒都婆 永離三惡道

【原注】註 三惡道は地獄餓鬼畜生の三境涯。

    (記錄)

明治三十年五月一日 井上家建之

[やぶちゃん注:以下は、本文に戻っている。引用の短いものは字下げを底本に合わせた。]

 

 前記のものは、銘文の尋常な形式の見本として、確に十分であらう。讃歎されたり祈願されたりする佛は常に、その引用文をその經か論かから選ぶその宗派が殊に尊んで居る佛である。――時に依つてはまた、次記の禪宗の銘文のやうに、或る菩薩の聖力を嘆賞して居る。――

 

    觀音經曰、十方諸國土 無刹不現身

 

 時には、銘文が、次記の併記が暗示するやうに、もつと判然と賞讃奉呈の性質を帶びて居る。――

 

    光明名號 攝化十方

    爲大堅隱學居士頓生菩提

[やぶちゃん注:「攝化」は「衆生を救い導いて利益を与えること」で「教化」(きょうげ)に同じ(特に禅宗では「師家(しけ)が修行者を教え導くこと」を指すが、ここは前者)。]

 

 時には、その宗派の創立者の、佛として祀られた靈に向つて述べた、賞讃若しくは祈願の文句を見ることがある。普通に見るのは眞言宗の卒都每に於てである。

 

    南無大師 遍照金剛

【原注】註 遍照金剛は眞言宗の開山たる空海卽ち弘法大師の敬稱。

 

 稀に、死者の祈禱を祈る短い祈禱が、次記の美しい例に見らる〻やうに、知らず識らず詩の言葉を採つて居る。

[やぶちゃん注:以下は長いので引き上げた。]

 

爲(ここへ戒名)大姉建之。禱依此功德 至福蓮華開花 結佛果

 

 が、普通には、祈禱の文は至つて單簡で、特殊の佛語を使つて居る處が、相互の異る點である。――

 

    爲(ここへ戒名)居士追福無上菩提也

    爲 ―― 得三菩提建此塔

    爲 ―― 得阿褥多羅三藐三菩提建此寶塔行供養

【原注】註 「塔」といふのに、言ふまでも無く、その卒都婆を指すので、その卒都婆は眞の塔を表象して居るか、或は少くとも、出來得たらそんな記念物を建てたいといふ希望を表はして居るかである。

[やぶちゃん注:「阿耨多羅三藐三菩提」現代仮名遣で「あのくたらさんみゃくさんぼだい」と読む。「藐」は呉音「マク・メウ(ミョウ)」で、漢音でも「バク・ベウ(ビョウ)」で、現代中国語音でも「miăo」(ミィアォ)であるから、これは本邦仏教界での特異な読みである。また、意味もよろしくない漢字で「無視する・さげすむ・蔑(ないがしろ)にする・価値が軽いとして軽んじる」であるが、「遠い」という意味があるのでそれを意味するものか。サンスクリット語のラテン文字転写で「anuttarasamyaksa bodhi」の漢音写で、「最高の理想的な悟り」の意。「無上正等覺」などと漢意訳され、「阿耨菩提(あのくぼだい)」などと省略される。

「卒都婆は眞の塔を表象して居るか、或は少くとも、出來得たらそんな記念物を建てたいといふ希望を表はして居るかである」卒塔婆は、その頭部の切り込みを見れば判る通り、供養塔としての五輪塔の代わりであり、小泉八雲も既に言っている(『靈廟』)ように、本来は供養するための堂を建てるのであるが、敷地も使い費用も嵩張るため、簡易化された堂塔のミニチュアである。但し、小泉八雲が後に言うような「本来ならば」という気持ちが含まれていると見ても、別に差し支えはない。]

 

 卒都婆の單に記念的な文句に屬して居る、今一つ興味ある題目は、まだ記さずに居る、――卽ち、死者の爲め營む佛式の法要の名である。そんな法要には二種類ある。死後百日間に行ふものと、百年の間一定の間隔を置いて營むもの――死後一年、二年、七年、十三年、十七年、二十五年、三十三年、五十年、百年忌である。禪宗にはこの記念法要に――法要を彌撒(みさ)[やぶちゃん注:原文は“masses”。基督教の「ミサ」。]と呼んでよからう――特殊な神祕的な名目があつて、その宗派の卒都婆には、小祥、大祥、遠波、遠方、冷照、一會とかいふやうな語をしるす。

[やぶちゃん注:「死後百日間に行ふもの」は「百か日(ひゃっかにち)」のこと。因みに、異名では、これを「卒哭忌(そっこうき)」と呼ぶ。この「卒」はまさに「終わる」の意であって、「嘆き悲しみ慟哭することを最早止める忌日」という意味である。因みに、戻って溯って異名を記すと、

・「初七日(しょなぬか:死亡した日から七日目)は「所願忌(しょがんき)」

・「二七日」(ふたなのか:死後十四日目)は「以芳忌(いほうき)」

・「三七日」(みなぬか:死後二十一日目)は「洒水忌(しゃすいき)」

・「四七日(よなぬか:死後二十八日目)は「阿経忌(あきょうき)」

・「五七日(いつなぬか:死後三十五日目)は「小練忌(しょうれんき)」

・「六七日(むなぬか:死後四十二日目)は「壇弘忌(だんこうき)」

と呼び、

・「七七日(なななぬか)」(死後四十九日後)は特に「満中陰」と呼んで、「忌明け」の日とする。また、小泉八雲の謂う(以上と以下は「本多仏壇店」のサイトのこちらを参照した。感謝申し上げる)

「小祥」(しょうしょう:面倒なので現代仮名遣で示す。以下同じ)忌は一周忌の異名。

「大祥」(だいしょう)忌は三回忌(死後二年)の異名。

「遠波」(おんぱ)忌は七(しち)回忌(死後六年)の異名。

「遠方」(えんぽう)忌は十三回忌(死後十二年)の異名。

「冷照」(れいしょう)忌は、一般にそれを以って「切り上げ(年忌供養式を終わりとすること)」とする三十三回忌の異名。小泉八雲はカットしている。

・「十七回忌(じゅうしちかいき)」(死後十六年目)は「慈明忌(じみょうき)」。

・「二十三回忌」(死後二十二年目)は「大士忌(だいしき)」。

と呼ぶ。

「一會」(いちえき)忌は、著名人らにやらかすところの百回忌(死後九十九年後)の異名である。……しかし……私や私の亡き母や私の妻には全く無縁である。……三人とも慶応大学医学部に献体していて(母は先に行った)、多磨霊園の同医学部合葬墓の同じ骨壺に入るからである。……私には戒名も個人を残す墓石もなく、死後にまで供養せねばならない血縁(けちえん)者も、この世には……存在しないからである………

 

 が、今度は銘文そのものの、――卒都每に書いてある物の主要部分であつて、佛敎信仰の最高眞理を說明して居るか、或は東洋哲學の最も深奧な思想を物語つて居るかする、經か論かから得來たつた彼(か)の引用句の硏究に轉じよう。

[やぶちゃん注:原本は、ここで切れて以下、「三」のパートとなる。しかし、底本では、異様な三行空けの後で、ここに相当する訳文が続いている。「三」と章番号があるべき辺りには、拡大して見ると、極めて薄い「二」(ママ)の痕跡がある。しかし、以下を「三」として次回に送る。]

2019/11/15

小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ The Literature of the Dead ”。確かに「死者の文学」としか訳しようはないが、内実は――「本邦の仏教徒の死者に纏わる墓誌銘・供養塔・供養具等に表われたる文字(列)の意義に就いての研究」――とでも言うべき内容である)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第一パート“ EXOTICS ”の四番目に配された一篇である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月24日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 標題の添え辞はポイント落ちであるが、同ポイントとした。傍点「﹅」は太字に、傍点「○」は太字下線に代えた。大谷氏の癖で、私はかなり違和感があるのであるが、本文の文の途中を、突然、切断して原注を挿入する部分や、引用を入れた箇所がある。そこでは底本ではポイント落ちで全体が三字(引用)・四字下げとなっていたりするのだが、ブラウザの不具合を考えて、行頭に引き上げ、本文と同ポイントとし、前後を一行空けて示した。ただ、それらが、本篇では、異様に混じりあって、本文との区別がつかなくなるので、今回は特異的に、小泉八雲の注したものについては【原注】を、訳者のそれには【訳者注】という――私の配した柱――を頭に附して明瞭に示すこととした。一部で「!」「?」の後に字空けがないのを特異的に補った。

 全五章と長いので章で分割し、全五回での公開とする。また、底本には写真が一切ないが、上記の“Internet Archive”にある原本画像2025年4月24日: 削除・改稿】先のものは、サイズが小さく、画像も明瞭ではないので、“Project Gutenberg”のものが、大きく、明度もよいから、前の画像は削除し、改めてこちらのものに差し替えた。画像は、冒頭に語られる「瘤寺(こぶでら)」の門や境内を写したもので、三葉あるが、それらを総て使用し、適切と思われる位置に挿入、その英文キャプションを、そこで訳して注しておいた。


 因みに、底本の大谷氏の「あとがき」には、

   *

 『死者の文學』は譯者が明治三十年七八兩月に亘つて蒐集した材料を使用して物されたのである。當時その材料を書留めるのに使用した雜記帳が不思議にも殘つてゐたので、文中引用の經語及び戒名は、それに參照して、多くは苦も無く復譯が出來たが、中に原著者が餘りに自由譯にした爲め、これがそれと突とめかねるのが一二あるのは遺憾である。
 序に[やぶちゃん注:「ついでに」。]原著者の戒名は正覺院淨華八雲居士であることを附記してよからう。

   *

と記しておられるのを、ここに附記してよかろうと思う。★【2025年4月24日:重要追記】ここで、冒頭に示された「死んだればこそ生きたれ ――佛敎の諺」に就いて、先日、補正した小泉八雲 佛敎に緣のある日本の諺 (大谷正信譯)」の「八二 死んだればこそ生きたれ」に重要な原拠を漏らしていたため、急遽、追加しておいたので、必ず、そちらを見られたい。私のミスなのだが、この追加だけで、エラい時間を食ってしまった。

 

 

   死 者 の 文 學

 

    死んだればこそ生きたれ ――佛敎の諺

 

       

 自分の住宅の後ろに、だが樹木の非常に高い帷(とばり)の爲め眼界から隱されて、墓地がそれに附屬して居る佛寺が一宇ある。その墓地そのものは幾世紀を經た松林のうちに在る。そしてその寺は寂寞たる古雅な大きな庭にあるのである。その宗敎上の名は自證院である。が、その寺は生地その儘の材木で――形が美しいか珍らしいかでそれを擇んで、ただ其枝と皮とを除(と)つただけで建築師に使はせた、ヒノキの大きな丸太で――建つて居るが爲め、『節のある(ナールド)』[やぶちゃん注:“Gnarled”。音写は頭の「g」音がなく、「ノールド」で「節くれ立った・瘤(こぶ)のある」。]卽ち『瘤のある(ノビイ)』[やぶちゃん注:“Knobby”。音写は頭の「k」音がなく、「ノビィ」で意味も前のそれと同義。]寺といふ意味の、『コブデラ』と人は呼んで居る。が、斯んな瘤があり、節(ふし)がある材木は貴重である。非常に堅いまた一番長持ちのするもので、――日本の室內の美しい床(とこ)や極上な部分は、それに似た種類の材木で仕上げがしてある事實からして忖度し得らる〻やうに、普通の建築材料より遙か高價である。瘤寺を建築することは王侯ならでは叶はぬ事業であつた。また、歷史的事實として、或る王侯が、家族的禮拜場として、それを建てたのであつた。建築者は二樣の設計を提出したところ、生地その儘の材木の方が廉くかからうといふ無邪氣な考で、そのうちより風變りな設計の方を擇んだ、といふ疑はしい傳說がある。が、この寺がその存在を思ひ違ひに負うて居るか、さうで無いかは措いて、瘤寺は依然として日本の最も趣味ある寺院の一つたるを失はぬ。世間の人は、今は殆どその存在を忘れて居る。――が、それは家光時代には有名なものであつた。しかもその自證院といふ名は、其偉大な將軍の夫人[やぶちゃん注:「將軍」は藩主の誤り。後注参照。]の一人のカイミヤウから採つたもので、其素晴らしく見事な墓を、其墓地に見る事が出來るのである。明治前には、此寺は林と田畠との間に孤立して居た。が、市は、嘗てはそれを俗世間と隔離させてゐた綠の空地をば今は大半呑み盡くして、其門の眞前へ醜陋極まる新しい街路を推し出して來て居る。

[やぶちゃん注:このロケーションについては、後の作品集「怪談」に載る「小泉八雲 蟲の硏究 蚊  (大谷正信譯)」の私の「自分の庭の後ろのお寺」の注で検証した。本作品集の執筆当時、小泉八雲が住んでいたのは、旧市谷富久町である。「新宿観光振興協会」公式サイト内の「小泉八雲旧居跡」によれば、小泉八雲は明治二九(一八九六)年に『日本に帰化し』、『同年、東京帝国大学(東京大学)で英語・英文学を講ずることなって上京。この地に、約』五『年間住み』、『樹木の多い自証院一帯の風景を好んだ八雲は、あたりの開発が進んで住宅が多くなると、西大久保に転居し』たとある。東京都新宿区富久町に自證院(グーグル・マップ・データ。以下注記なしは同じ)はあり、現在の「小泉八雲旧居跡」の碑(成女学園内)はそこから北北東に百三十二メートルであるが、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」でそこを見ると、一八九六年から一九〇九年のそれでは、小泉八雲旧居のすぐ西北方に、自證院(字が潰れているが)の敷地が広がっていることが判る。「瘤寺」は現在の新宿区富久町(とみひさちょう)にあるその天台宗鎮護山圓融寺自證院の通称であり、小泉八雲旧居の北西直近で、八雲が好んで散策した寺でもある。いつもお世話になる松長哲聖氏のサイト「猫の足あと」の同寺の解説によれば、『自證院の創建年代等は不詳ながら、日蓮宗法常寺と号していた』。『尾張藩主徳川光友』(☜:「將軍」ではない!)『の夫人千代姫の母(自證院殿光山暁桂大姉)』『が当寺に葬送されたことから』、寛永一七(一六四〇)年、『本理山自証寺と改めて』、『日須上人が開山』したが、寛文五(一六五五)年の『日蓮宗不受不施派』(私は、よく知ってるので注を必要としないが、謂わば、日蓮宗の中の、ファンダメンタリズムの一つのグループである。日蓮宗には「天皇の日蓮宗化」(しかし、これは日蓮が最終目標とした国教化であり、日蓮宗では、絶対綱目である。創価学会や公明党が、それをこっそりとそれを項目から外した時点で、日蓮の怒りを受けることは請け合いである)等、その傾向は他宗に比して強いが、不受不施派は、日蓮の教義である「法華經」を信仰しない者から「施し」(布施)を受けたり、「法施」などを一切拒否するという、これもまた、日蓮の絶対綱目であった「不受不施義」を守ろうとする宗派の総称である。詳しくは当該ウィキを見られたい)『の禁令により、天台宗に改め、輪王寺の院室と成ったと』される。『江戸時代には寺領』二百『石の御朱印状を拝領していた他、伽藍は節目の多い材木を使用していたことから』、「ふし寺」「瘤寺」と『呼ばれてい』たとあり、また『新宿区の文化財史跡ガイドブックによる自證院の縁起』の条には、『古くは桜の名所であったという。また』、寛政一二(一八〇〇)年に、『尾張藩の寄進により建立された堂塔の用材が』、『良否を問わず』、檜の『節目が多いものを用いたため』、『「ふし寺」「瘤寺」とも呼ばれた』とし、さらに、『明治時代末期、この付近に住んでいた文学者小泉八雲が自証院の風致を好んだが、杉の木を切り倒す音を聞いて、杉の木がかわいそうでいたたまれなくなって転居した話は有名である』とあった(太字は私が施した)。]

 

Zillt096ah

[やぶちゃん注:英文キャプションは

GATE OF KOBUDERA

で「瘤寺の門」。]

 

 此門は――瓦葺の、反(そ)つた支那風の屋根のある、瘤丸太で出來てゐる建築物は――其寺その物の奇妙な樣式(スタイル)へのふさはしい前置きである。門屋根の、どつちもの破風の端から、三本の角(つの)の下に口を開けて居る鬼の頭が、參詣者を見下ろして居る。境內は、祈禱の時間を除いては、全く綠の靜寂である。子供は――恐らくはその寺が私有の寺だから――その

 

【原注】註 この姿の物は、實は手の込んだ瓦なので、『オニカハラ』卽ち『鬼瓦』と呼ばれて居る。鬼の顏がどうしていつも佛寺の門口の上に置いてあるのか、と當然質問があるであらう。それは本來は、佛敎の意味での鬼を現はす積りでは無く、鬼を逐ひ拂ふのがその任務たる守護神を現はす積りであつたのである。鬼瓦は支那からか朝鮮からか――多分朝鮮からであらう――日本へ輸入されたものである。それは、日本での最初の屋根瓦は、かの新信仰を朝鮮の僧が輸入してから間も無く、そして日本佛敎の開祖であり擁護者であつた皇子、聖德太子の指揮の下に、製造された、と書物に書いてあるからである。大和の小泉村で燒いた、――が、そのうちに斯んな異常な恰好のものがあつたかどうかは書いてない。が、次記のことは注意する價値がある。朝鮮では今日なほ、恐ろしい顏が家の戶の上に――王宮の諸門にすら――描いてあるのを見ることが出來る。そして、ただ惡魔を嚇かして逐ひ拂ふ積りのその物が、鬼瓦の眞の起原になつたのでは無からうか。そんな瓦を初めて見た時、その顏が佛敎の鬼に因襲的に與へられて居る顏に似て居る爲めに、日本人がそれを鬼瓦と呼んだのである。そしてその來歷が忘れられて居る今、それは守護の鬼神を現はして居るのだ、と普通に想像されて居るのである。この想像には、佛敎の信仰に悖る所は少しも無い。――善な鬼神の傳說が澤山あるからである。その上、永遠の神聖な理法では、極惡な鬼といへども、最後には佛陀にならなければならぬからである。

[やぶちゃん注:八雲はこうルーツを語っているが、ウィキの「鬼瓦」によれば、その『ルーツはパルミラ』(シリア中央部のホムス県タドモルにあるローマ帝国支配時の都市。現在は遺跡が残る)『にて入口の上にメドゥーサを厄除けとして設置していた文化(ゴルゴネイオン)』(古代ギリシアのペンダントを起源とするゴルゴン三姉妹の首をかたどった厄除けの絵や彫刻)(☜!!!)『がシルクロード経由で』『中国に伝来し、日本では奈良時代に唐文化を積極的に取り入れだした頃、急速に全国に普及した。寺院は勿論、一般家屋など比較的古い和式建築に多く見られるが、平成期以降に建てられた建築物には見られることが少なくなった』とする。この起源は、私もこの記事を読むまで知らなんだわ!!!

 

庭では遊ばぬ。地面は、その上の種々な灌木の極めて鮮かな葉も、對照の爲め黑ずんで見える程に、如何にも暖かい色の、厚い美しい苔で、到る處蔽はれて居る。そして、壁の土臺も、紀念碑の臺石も、鐘樓の石垣も、古い井戶の石疊も、同じ輝かしい苔で掩はれて居る。楓と松と杉とが、寺の正面(フアザード)を見えぬやう隱して居る。若し諸君が秋に參詣されるなら、庭中がモクセイの花の甘い濃い香に充たされて居ることを知られるであらう。この奇異な

 

【原注】註 學名オスマンサス・フラグランス。濃厚な香の花を咲かせる植物は日本には甚だ少いが、これはその一つである。

[やぶちゃん注:シソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ Osmanthus fragrans 。花期は九~十月で雌雄異株。花は葉腋に束生する。花柄は長さ五ミリから一センチメートルで、花冠は白色で深く四裂し、その径りは約四ミリメートルになる。雄蘂は二本。花に香気があるが、変種であるキンモクセイ( Osmanthus fragrans var. aurantiacus )ほどは強くない。]

 

寺を見てから、庭の西側にある黑門を通つて、その墓地へ入る價値がある、と諸君は思はれるであらう。

 

 自分はこの墓地を徘徊するのが好きである――一つには、その巨大な樹木の薄明りのうちに、且つまたそのあたりに寄つて居る幾世紀來の靜寂のうちに、人は市街とその擾亂とを忘れて、ただ空間と時間について夢見ることが出來るからでもあるが――それよりも、其處が美に充ちて、偉大な信仰の詩趣に充ちて居るからである。佛敎にはその宗派每にその敎義があり、禮式があり、形式がある。そしてそんなものの特性が、その埋葬地の物の像や碑銘に反映されて居る――だから、經驗のある眼には、天台の墓場を眞言の墓場と、禪の墓場を日蓮宗派に屬するものと、直ぐに見分けることが出來るのである。ところが瘤寺では、佛敎の數派に特有な碑銘や彫刻を、同時に硏究することが出來る。創立は法華卽ち日蓮の式であつたが、然し此寺は數代のうちに他の諸宗の管轄となつて――最後には天台になつた。――だからその墓地は今、種々な信仰の、徽號竝びに碑銘の形式の、頗る頗る興味ある混合を提供して居るのである。自分が、東洋の或る友の辛抱强い敎示の下に、死者の佛敎文學に就いて或る物を初めて學んだのは、此處でであつた。

 

 苟も美を感じ得る人ならば誰れも――いつからとは知れぬ古い樹木があり、極めて奇妙な恰好に刈り込んだ灌木の常綠な迷路があり、絨氈のやうに軟い苔の蒸した小徑があり、珍奇ではあるが疑も無く藝術的な記念物がある――佛敎の古い墓地の魅力を自認する事を否み得まい。そして、初めて見た時でも、この藝術の或る物を理解するのに、佛敎の大した知識は少しも必要では無いのである。諸君は、墓や水容(みづいれ)に蓮が彫つてあるを認めるであらう、そして墓石の模樣に八瓣の蓮華がある事を――假令(よし)やその八瓣は八智の象徵である事を知らぬにしても――必らず認めるであらう。諸君は、法輪を象どつたマンジ卽ち卍字を――それと大乘哲學との關係は知らずとも――認めるであらう。諸君は恐らくまた、或る佛陀の像を――その姿勢或は表號の、神祕的忘我(イクスタシー)に關し或は六通力の表現に關しての意義は、知つてゐないにしても――認めることが出來るであらう。そして諸君は、お供物(そなへもの)の――墓の前に捧げである香(かう)と花、死者の爲めに濺ぐ[やぶちゃん注:「そそぐ」。]水の――素樸な動情力(ペーソス)[やぶちゃん注:“pathos”。情動力・情念。]――假令(よし)やその祭祀をさせる信仰のより深い動情力を察する事が出來ぬとも――感動されることであらう。が、佛敎哲學者であると同時に優れた漢學者で無ければ、この大宗敎についての書物での知識は、謎に充ちて居る世界に、諸君を依然手緣り無いものにして置くことであらう。あの稀代な文言は――御影石の墓に彫り込んである、或は、ソトバの滑らかな木の上に麗はしい筆で書いてある、あの絕妙な漢字での經句は――ただ尋常ならざる才能を有つた解釋者にだけ、その神祕を洩らすであらう。そしてその文言の姿に親しめば親しむほど――その文字譯は、大多數の場合、全く何物をも意味しない! と知つた後は殊に――その神祕が一層多く我々をじらせる。

[やぶちゃん注:「八智」「苦・集(じゅう)・滅・道」の「四諦」(したい)を見通して煩悩を断ち、聖者の仲間(=「見道位」(けんどうい))に入ったものが得るとする八種の完全なる「無漏智」(むろち)・「苦法智」(くほっち)・「苦類智」・「集法智」(しゅうほっち)・「集類智」・「滅法智」(めっぽっち)・「滅類智」・「道法智」(どうほっち)・「道類智」を指す。そこに至ることは永遠に私にはないから、それぞれを調べる気にはならない。悪しからず。

「卍」サンスクリットでは「スバスティカ」と言い、もとはビシュヌ神の胸の旋毛に起源し、「瑞兆」の相を意味する。ヒンドゥー教や仏教では「陽光」の、また、仏教では「仏心」そのものを表わすとされる。

「六通力」仏・菩薩などが持つとされる六種の超人的能力。「神足通」(じんそくつう:機に応じて自在に身を現わし、思うままに時空間を飛行し得るといった能力)・「天耳通」(てんにつう:人には聞こえない遠くの音を聞いたりする超人的な聴力)・「他心通」(たしんつう:他人の心を知る力)・「宿命通」(しゅくみょうつう:自分の過去世を知る力)・「天眼通」(てんげんつう:「死生智」(ししょうち)とも言い、一切衆生の過去世を知る力)・「漏盡通」(ろじんつう:自分の煩悩が尽きて、今生を最後として生まれ変わることはなくなったことを知る力)を指すと、ウィキの「六神通」(ろくじんずう・ろくじんつう)にある。]

 

 どんな奇異な思想が、斯く記錄されてしかも隱蔽されて居るのであらうか。その思想は、その思想を代表して居る文字ほどに、複雜であり微妙であるのであるか。その上、その文字の如くに、――別な惑星の言語かと思はせるやうな、夢想だも出來ぬ、驚くべき美を有つたその文字の如くに――美しいのであるか。

 

小泉八雲 禪の一問 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ A Question in the Zen Texts ”。「禪の公案の一問」)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第一パート“ EXOTICS ”の第三話目である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月24日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「○」は太字に代えた。挿入される訳者注は底本ではポイント落ちで四字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、同ポイントで行頭へ引き上げておいた。なお、田部氏は訳で主人公の名を、三箇所で、致命的に誤っている。そこを私は特異的に本文修正したため、これ見よがしの怒りの割注を入れてある。最初のそれを見られた後は、太字になっているそれは、飛ばして頂いて構わない。

 なお、小泉八雲が基礎原拠としたとする「無門關」(むもんくわん(むもんかん))は宋代の僧無門慧開(一一八三年~一二六〇年)が編んだ公案集であるが、その商量(公案の分析と考察)がブッ飛んでいることでとみに知られるもので、幸いにして、私は十年も前に「無門関」の電子化オリジナル訳注を暴虎馮河で完遂している。完全一括版(正字正仮名であるが、ユニコードの初期タイプで製作したため、一部の漢字は新字体になっている)はサイトの「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」で、各公案分割版(同前。但し、こちらは私の好みのものをランダムにやらかした)はブログ・カテゴリ「無門關」で公開している(正字化は古い仕儀であるので不全)。但し、小泉八雲が素材としたのは、その中の「無門關 三十五 倩女離魂」(リンク先はブログ版。【2045年4月24日追記】これは正字化を、今回、しっかり補正しておいた)である。これは中唐の陳玄祐(ちんげんゆう:生没年・経歴不明)が書いたとされる(作品末に当該の怪異譚を聞き書きした作者名として出るに過ぎない)伝奇小説「離魂記」を正面切って素材とした公案であるが、本文には原話に就いては語られていない。しかし、そこで私は「離魂記」の原典白文・書き下し文・拙訳をも掲げてある。これは私が三十年程前、本作を授業で講義した際に作成した授業案を一部手直ししたものである。原文は明治書院「新釈漢文大系」四十四巻「唐代伝奇」(昭和五八(一九八三)年第十一版)所収の「恩師」乾一夫氏著のものを用い、訓読及び現代語訳についても不審な箇所は当該書の訓読・訳注を一部参照させて頂いた。★但し、「離魂記」を全く知らない方は、以下は本篇の肝心な部分のネタバレになるので、リンク先は小泉八雲の本文を読んだ後で読まれたい★。 

 

   禪 の 一 問 

       

 私の友人はうすい黃色の書物を開いたが、一見この佛書の版木師の忍耐の分る驚くべき文字である。漢字の活版は甚だ便利であらうが、こんな古い木版の美しさに比べると、どんなによくできた物でも、醜[やぶちゃん注:「しゆう」。]その物である。

 『珍らしい話があります』

 『日本の話ですか』

 『いえ、――支那の話』

 『何と云ふ書物ですか』

 『その書物の名を日本風に私共は「無門關」と讀んでゐます。禪宗で特別に硏究される書物のうちの一册です。禪宗の或書物の特色の一つは、――これがよい例ですが――說明のない事です。ただ暗示を與へるだけです。質問が出て居るが、その答は硏究者が自分で考へ出さねばならない。答へを考へ出さねばならないが、それを書いてはならない。御承知の通り、禪は言外に思想の到達すべき人間の努力を表はして居る物です、それで一たび言語と云ふ狹い物になつて現れたら、禪の特色を失ひます。……さて、この話は本當の話となつて居るのですが、ただ禪の一問としてここに使はれてゐます。この支那の話が三通り譯者註に違つてゐますが、私はその三つの正味を申しませう』

 つぎのやうに友人は話した、 

譚者註 『類說離魂記』『剪燈新話』等、少しづつ話が違つて居る。たとへば蜀にゐた年數、子女の歌など小さい點に於て。

[やぶちゃん注:『類說離魂記』実は実在しない書物である。後注参照。★なお、「離魂記」を全く知らない方は、以下は本篇の肝心な部分のネタバレになるので、飛ばして小泉八雲の本文だけを読まれたい★。

「剪燈新話」明代に書かれた志怪小説集。撰者は瞿佑(くゆう)。特に怪談「牡丹燈籠」の濫觴である「牡丹燈記」で知られる。同書の「金鳳釵記」(きんほうさいき:鳳凰を象った簪(かんざし)の物語)は、そのモチーフと展開が「離魂記」とよく似ており、創作の原拠の一つとしたことは確かであろうが、同じ話ではない(原話は一人の女性の霊魂の離脱であるが、「金鳳釵記」では、姉妹二人を絡ませてある。孰れも、展開がしっかりしており、描写もリアルで、私は二つともに好きな話ではある)。

 さても何故、このような誤認を小泉八雲や訳者田部隆次氏がしてしまったかと言うに、彼らにその責任があるわけでは実は全くなく、永くこの存在しない「類說離魂記」や、「剪燈新話」に、恰(あたか)も、この「離魂記」が、そのままに所収されているかのように「無門關」の通俗注釈書等に書き継がれてきてしまった事実に依拠するのである。これについては、松村恒氏の論文「『無門関』第三十五則「倩女離魂」の材源について」(『印度學佛教學研究』第四十七巻第二号・平成一一(一九九九)年三月発行。PDFでダウン・ロード可能)が非常に詳しいので参照されたいが、冒頭で松村氏は、まさに小泉八雲の本篇の、田部氏の、この「註」について、以下のように語っておられるのである。

   《引用開始》

 事の発端はこうであった。小泉八雲の禅問答の紹介の一文「禅書の一問」(『異国情趣と回顧』所収) に、『無門関』第三十五則に関わる倩女離魂の物語とその解釈が例として挙げられている。この一文の初訳である田部隆次訳は注にて「『類説離魂記』『前燈新話』等」、と解説を付けるのであるが、不明瞭であった。ただこの不明瞭さについては、八雲の邦訳者ばかりを責めてはいられない。『無門関』の通俗的解説書もまた同様であったからである。

   《引用終了》

として、トンデモない事実が明かされてゆくのである。以下は松村氏の論文を熟読されたい。] 

 

       

 『類說離魂記』に記され、『正燈錄』に物語られ、禪宗の書物である『無門關』に批評されて居る倩女の話、――

[やぶちゃん注:「正燈錄」「宗門正燈錄」(しゅうもんしょうとうろく)は東陽英朝著・愚堂東寔編。唐の南嶽禅師以下の臨済宗の歴代正脈二十三祖の列伝で、漢文体記載。近世初期の成立。] 

 衡陽[やぶちゃん注:「こうやう(こうよう)」。]に張鑑と云ふ人がゐた、その人の小さい娘の倩[やぶちゃん注:「せん」。]は非常に美しかつた。王宙と云ふ甥もゐたが――それも立派な少年であつた。この二人は一緖に遊んで、仲が良かつた。一度鑑は戲れに甥に云つた、――『いつかお前を私の娘に見合せるつもりだ』二人の子供はこの言葉を覺えてゐた、そして彼等は言名付[やぶちゃん注:「いひなづけ」。]になつたと信じてゐた。

[やぶちゃん注:原作では、時は、則天武后の「天授三年」(西暦六九二年)とする。

「衡陽」現在の湖南省衡陽県(グーグル・マップ・データ)。なお、原文では、地名や姓名を中国音で示しているが、一部は少なくとも現代中国語音としては納得出来ない表記である(しかし、煩瑣なので、それは問題にしない)。

「張鑑」原作では「張鎰(ちやういつ(ちょういつ))」である。原文“Chang-Kien”。

「倩」本字には「美しい」・「口もとが愛らしい」の意がある。原文“Ts’ing”。

「王宙」原文“Wang-Chau”。]

 倩が大きくなつた時、或位の高い人が彼女を娶らうとした、彼女の父はその要求に應ずる事に決した。倩はこの決心によつて非常に煩悶した。宙の方では[やぶちゃん注:ここは、底本は「宙」は「張」となっているが、「宙」の田部氏の訳のトンデモ誤りであることは明白である。原文“As for Chau, he was so much angered and grieved that he resolved to leave home, and go to another province.”であるからして、特異的に訂した。]、餘りに怒りかつ悲んで、家を捨てて他の州に行く事を決心した。その翌日彼は旅行のために船を用意して置いて、日沒の後[やぶちゃん注:「あと」。]誰にも別れを告げないで河を溯つた。ところが夜中に彼は自分を呼ぶ聲によつて驚かされた、『待つて下さい――私です』――そして彼は船の方へ、岸に沿うて走つて來る一人の少女を見た。それは倩であつた。宙[やぶちゃん注:同じく底本は「張」でナンダカナ誤訳。出すまでもないが、原文は“Chau was unspeakably delighted.”であるから、特異的に訂した。田部氏は中国語(拼音)が苦手だったようだ。でも、校正すれば、中国語に冥い俺でも気づくぜ?]はこの上もなく喜んだ。彼女は船に跳び乘つた、それからこの二人の愛人は蜀の國に安全に着いた。

 蜀の國で彼等は幸福に六年暮らした、二人の子供をもつた。しかし倩は兩親を忘れる事はできなかつた、そして再び兩親を見たいと度々思つた。たうとう彼女は夫に云つた、――『以前私はあなたとの約束を破る事ができなかつたから、―――私は兩親にあらゆる義務と愛情を負うて居る事を知りながら、――あなたと驅落をして兩親を見捨てました。もう兩親の赦しを願ふやうにする方がよくないでせうか』『心配せんでも宜しい』宙[やぶちゃん注:やれやれ、同前で底本は「張」だ! 特異的に訂した。漸く以下では、正しく「宙」になっている。]は云つた、――『今度は遇ひに行かう』彼は船を用意した、それから數日後に妻をつれて衡陽に歸つた。

 こんな場合の習慣に隨つて、夫は妻を船に殘したままで先づ鑑の家に赴いた。鑑は如何にも嬉しさうに甥を歡迎して云つた、――

 『どれ程これまでお前に遇ひたかつたらう。どうかしたのだらうとこれまでよく心配してゐた』

 宙は恭しく答へた、――

 『御親切な言葉をうける資格はありませんで、恐縮です。實は私が參りましたのは御赦しを願ふためです』

 しかし鑑にはこれが分らなかつたらしい。彼は尋ねた、――

 『お前の云ふ事は何の事だらう』

 『實は倩と逃げて行つた事で、怒つていらつしやると思つて心配しました。私は蜀の國へ連れて行つたのですから』

 『それはどこの倩だらう』鑑は尋ねた。

 『お孃さんの倩です』宙は答へたが、自分の舅に何か惡意のある計畫でもあるのではないかと疑つて來た。

 『お前は何を云つて居るのだ』鑑は如何にも驚いたやうに叫んだ。『娘の倩はあれからずつと病氣だ、お前が出て行つてからこの方』

 『あなたのを孃さんは病氣ぢやありません』宙は怒つて答へた、『六年間私の妻になつてゐます、それから子供が二人あります、それで御赦しを願ふために二人でここへ歸つて來たのです。それですからどうか嘲弄する事は止めて下さい』

 暫らく二人は默つて顏を見合せてゐた。それから鑑は立つて、甥について來るやうに手招きをしながら病人の少女の寢て居る奥の一室に案內した。そこで非常に驚いた事には、宙は倩の顏、――綺麗だが、妙にやせて蒼白い倩の顏を見た。

 『自分では口を利く事はできないが、話は分る』老人は說明した。それから鑑は娘に笑ひながら云つた、『宙さんの話ではお前は宙さんと驅落ちして、今では二人の子もちださうだ』

 病人の娘は宙を見て微笑した、しかし何も云はなかつた。

 『今度は私と一緖に河へ來て下さい』途方にくれた婿は舅に云つた。『私はこの家で何を見たにしても、――お孃さんの倩は今丁度私の船の中に居る事は保證して云ふ事ができます』

 彼等は河へ行つた、そして實際そこには若い妻が待つてゐた。そして父を見て、娘はその前に低頭して容赦を願うた。

 鑑は彼女に云つた、――

 『お前が本當に私の娘なら、私はお前を愛するばかりだが、どうも娘らしくも思はれながら、分らない事がある。……一緖にうちへ來て貰ひたい』

 そこで三人は家の方へ進んだ。そこに近づくと、その病人の娘、――長い間床を離れた事のない娘、――は大層嬉しさうに微笑しながら、三人を迎ひに來るところであつた。そこで二人の倩は互に近づいた。ところがその時――どうしてだか誰にも分らないが――彼等は不意に互に融け合つた、そして一體、一人、一倩となつて、前よりも一層綺麗になつて、病氣や悲哀の何のしるしも殘つてゐなかつた。

 鑑は宙に云つた、――

 『お前が行つてからこの方、娘は啞になつた、そして大槪は酒を飮み過ぎた人のやうであつた。今考へると魂が留守になつてゐたのであつた』

 倩自身も云つた、

 『實は私はうちにゐた事は知りませんでした。私は宙が怒つて默つて出て行つたのを見ました、そしてその晚船のあとを追かけて行つた夢を見ました、……しかし今となつてはどちらが本當の私であるのか、――船に乖つて行つた私か、それともうちに殘つてゐた私か、――分りません』 

 

 

 『それが話の全部です』友人は云つた。『ところで「無門關」に君に興味がありさうな註釋がある。その註釋に云ふ、――「禪宗の五祖(五祖山の法演禪師)かつて僧に問うて云ふ、――『倩女離魂、那箇[やぶちゃん注:「なこ」。]かこれ眞底[やぶちゃん注:孰れが真実の倩か?]』」この話がこの書物のうちに引用してあるのは、ただこの問のためであつた。しかしこの問は答へてない。著者無門はただ云ふ、――「もしどちらが眞の倩女であるか決定する事ができるやうなら、それなら殼を出て殼に入る事は丁度ただ旅舍に宿するやうである事が分らう。しかしもしこの程度のさとりを開いてゐないやうなら、みだりにこの世界を走らないやうに警戒するがよい。さうでないと地水火風の四大が突然一散する時になれば、熱湯に落ちた七手八脚の(七轉八倒する)蟹のやうになるだらう。その時になつてその事について聞かなかつたと云つてはならない」……さてそのと云ふのは――』

 『そのはもう聞きたくはない』私は遮った、――『それから七手八脚の蟹の事なども。私はその着物の事を聞きたい』

 『着物と云ふのは』

 『二人が遇つた時には、二人の倩女は違つた、――恐らく餘程違つた服裝をしてゐたであらう、卽ち一人は處女、一方は妻であつたから。二人の着物も一緖になつてしまつたのだらうか。たとへば一方は絹の着物、他方は木綿の着物であつたとして、この二つは絹と木綿の交織(まぜおり)となつただらうか。一方は靑い帶、他方は黃色の帶をしめてゐたとして、その結果は綠の帶となつただらうか。……それとも一方の倩女はその着物からぬけ出して、それを蟬のぬけがらのやうに地上に置き去りにしただらうか』

 『どの書物にも着物の事を云つて居るのはない』友人は答へた、『それだからお話ができない。しかし佛敎の見方から云へばその問題は頗る見當違です。その敎理的問題は、私は想像するに所謂倩女の個性の問題です』

『ところでそれが答へてない』私は云つた。

『答をしないのが』友人は答へた、『一番よい答になつて居るのです』

『どうして』

『個性と云ふやうなそんな物はないのだから』 

[やぶちゃん注:……それでは得……さても……私の「無門關 三十五 倩女離魂」(ブログ版)のトンデモ訳なぞ……御笑覧されたい。……♪ふふふ♪…… 

小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「六」 / 「蟲の樂師」~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 特殊の蟲の吟誦に關する詩歌のほかに、一般に夜の蟲の聲に就いて――主として秋の季節に關係して――詠まれた古代近代の日本の詩歌は無數にある。非常に澤山な中から、幾百首の感情或は空想の典型的な、より有名なもの三四だけを自分は選擇して飜譯した。自分の反譯は言語の方から言ふと、逐字譯を去ること遠いのがあるが、原歌の思想と感情とは可なり忠實に表明して居ると信じて居る。

 

 我かために來る秋にしもあらなくに

     蟲のねきけはまつそかなしき (『古今集』)

[やぶちゃん注:「古今和歌集」の「巻第四 秋歌上」の秋の悲愁を詠った七首「詠み人知らず」の冒頭四首(但し、その前書は「題しらず」)の三首目(一八六番)、

 我がために來る秋にしもあらなくに

     蟲の音きけばまづぞかなしき

である。]

 

 夕つくよほのかにむしのなく聲を

       秋の哀の初めとそきく (土滿、『草野集』)

[やぶちゃん注:「草野集」(さうやしふ(そうやしゅう))は江戸後期の木村定良編の類題和歌集「類題草野集」。作者「土滿」は不詳。整序すると、

 夕づく夜ほのかに蟲の鳴く聲を

     秋の哀れの初めとぞ聽く

か。]

 

 秋の夜はねられさりけりあはれとも

      うしとも蟲の聲をききつつ (筑波子、『草野集』)

[やぶちゃん注:「筑波子」不詳。整序すると、

 秋の夜は寢られざりけり哀れとも

     憂しとも蟲の聲を聽きつつ

か。]

 

 露しけき野やいかならん終夜

      枕に寒き蟲の聲かな    (『新英集』)

[やぶちゃん注:「新英集」は明治一九(一八八六)年から翌年にかけて刊行された井上喜文編になる類題和歌集「類題新英集」。整序すると、

 露繁き野や如何ならん終夜(よもすがら)

      枕に寒き蟲の聲かな

か。]

 

 秋の野は分け入る方もなかりけり

      蟲の聲ふむ心地せられて  (『新竹集』)

[やぶちゃん注:「新竹集」幕末から明治初期に編せられた猿渡容盛編になる類題和歌集「類題新竹集」。整序すると、

 秋の野は分け入る方もなかりけり

      蟲の聲踏む心地せられて

か。]

 

 鳴く蟲の一つこゑにもきこえぬは

     こゝろこゝろに物や悲しき  (和泉式部)

[やぶちゃん注:所持する岩波文庫「和泉式部集・和泉式部續集」(清水文雄校注・一九八三年刊)を参考にしたところ、両集に載り、「和泉式部集」では、

  むし

 鳴く蟲の一つ聲にも聞えぬは

       心々に物や悲しき

で、「和泉式部續集」では、

  むし

 鳴く蟲のひとつ聲にも聞えぬは

        心々に物やかなしき

である。「ひとつこゑ」とは「同じき聲」の意。]

 

 故鄕にかへりて蟲の聲きけは

    昔をかたる心地こそすれ   (『秋草集』)

[やぶちゃん注:「秋草集」明治一四(一八八一)年刊の彈琴緒(だん ことを)の編になる類題和歌集「類題秋草集」。整序すると、

 故鄕(ふるさと)に歸りて蟲の聲きけば

         昔をかたる心地こそすれ

か。]

 

 秋の野の草の袂に置く露は

    音になく蟲の淚なるらん   (土滿、『秋草集』)

[やぶちゃん注:整序すると、

 秋の野の草の袂(たもと)に置く露は

     音(ね)になく蟲の淚なるらん

か。]

 

 上に揭げた歌のうちに、作者がさうと想像した蟲の心の苦み[やぶちゃん注:「くるしみ」。]に對する、眞の同情或は佯つた[やぶちゃん注:「いつはつた」。偽った。]同情を表明するつもりのものが數々ある、と思ふ諸君があるかも知れぬ。然しそれは解釋を誤つたものである。此種の多數の作にあつて、その藝術的な目的は、間接な手段に依つて、戀の情緖の種々な相を――殊に、それ自らの熱烈な調子をば自然の狀貌と聲とへ與へる彼(か)の憂愁を――暗示せんとするにあるのである。露は蟲の淚かも知れぬといふ奇怪な空想は、其誇張な言ひ方の爲めに、人間の淚が新たに灑がれたのであるといふ事を暗示すると同時に、悲みが非常なものである事を示さうとする考である。非道い村雨が降る間鈴蟲に同情せざるを得なくなつて、戀しさ餘りに募つて來たと一婦人が陳述して居る歌は、大雨の時分に旅をして居る或る戀しい人に對してのやさしい心配を實は語つて居るのである[やぶちゃん注:「露しけき野やいかならん……」の一首を解したものだが、「村雨」「大雨」というのは、西洋の読者向けに翻案した鑑賞文であって、原歌のイメージとはかなり隔たってしまっている。]。また、『蟲の聲踏む』といふ句では、さういふ優雅な躊躇は、戀が起こす、あの女のやさしみの强まりを思はせやうが爲めに述べて居る躊躇である。そして此間接的な二重暗示のなほ遙かに著しい例は、此一文[やぶちゃん注:本篇「蟲の樂師」の冒頭。]の冒頭の小さな詩によつて與へられて居る。卽ち、

 

 蟲よ蟲ないて因果が盡きるなら

 

 西洋の讀者は、此詩の蟲の境遇を或は蟲の生(せい)を述べて居るのだと或は想像するであらう。が、恐らくは婦人であらうと察せられる此作者の其の思想は、自分自らの悲みは前生に犯した罪の報[やぶちゃん注:「むくい」。]である、だからして輕くすることは不可能なのだ、といふに在るのである。

 これまで揭げた歌の大多數は秋に關した物で、また秋の感じに關した物である、ことを讀者は觀察されたであらう。日本の詩人の或る者は秋が鼓吹する其の憂愁に――祖先の苦痛のあの漠とした不思議な年々の復活に、幾百萬年の間夏が死ぬるのに伴なふ幾百萬たびの記憶の祖先傳來の朧氣な悲哀に――無感じで[やぶちゃん注:やや変だが、ママ。]はなかつた。然し此憂愁を述べた言葉の殆ど總てに於て、實際に指示して居る物は別離の哀愁である。秋には色の變化があり、木の葉の旋轉があり、蟲の聲の靈的な哀哭があつて、秋は佛敎的に無常を――別離の必然を――あらゆる欲望に絡まる苦痛を、――そして孤獨の淋しさを、――表徵して居るのである。

[やぶちゃん注:この段落、前半分が佶屈聱牙で、よろしくない。以下に原文を示し、拙訳を示す。

“ It will have been observed that a majority of the verses cited refer to autumn and to the sensations of autumn. Certainly Japanese poets have not been insensible to the real melancholy inspired by autumn,—that vague strange annual revival of ancestral pain: dim inherited sorrow of millions of memories associated through millions of years with the death of summer;—but in nearly every utterance of this melancholy, the veritable allusion is to grief of parting. With its color-changes, its leaf-whirlings, and the ghostly plaint of its insect-voices, autumn Buddhistically symbolizes impermanency, the certainty of bereavement, the pain that clings to all desire, and the sadness of isolation.

   *

 以上で引用された和歌の殆んどの部分が、秋とともに「秋の感情」について詠じていることは、お気附きなったことであろう。確かに、日本の詩人たちは、秋が齎(もたら)す真の憂愁――毎年、その秋という季節に、祖先の苦しみが漠然と甦(よみがえ)ってくるところの、あの不思議な感覚――夏の死(終焉)とともに、幾百万年もの間、結びついてきた幾百万もの記憶、朧げ乍ら、確かに受け継がれてきた哀しみ――について、無感動であったわけではないのである。しかし、この憂鬱を詠った詩の、殆んど総てに於いて、それが示す真の暗示は、別離の悲歎なのである。秋は、その色彩の変容、舞い散る葉、そして、虫の鳴き声の幽かなる哀しみによって、仏教の「諸行無常」、「会者定離」(えしゃじょうり)の確実性を、あらゆる欲望に纏わりつく「煩悩」を、そして、孤独の寂しさを、象徴しているのである。

   *]

 

 然しながら、よしや虫を詠んだこんな詩歌が本來は戀の情をほのめかす積りであつたにしても、それはまた自然が――在りの儘の純な自然が――人間の想像力と記憶力とに及ぼす最も微妙な力を我々に反影しはしないか。日本の文學に於てもまた日本の家庭生活に於ても、蟲がかなでる音樂に對して與へられて居る地位は、我々西洋人はまだ殆ど發(あば)かずに居る方面に、或る美的感受性が發達して居るといふ證左となりはしないか。夜の祭禮に出て居る蟲賣の銳い聲を立てる小屋掛は、西洋では最も稀有な詩人だけが先見して居る事柄を――秋の美の愉快な心苦しさ、夜の聲音の不可思議なうるはしさ、森林田野の反響によつての魔術的な囘想速進を――人民一般が普遍的に了解して居ることをすら公言して居るのではないか。確に我々西洋人は、蟋蟀一匹の單純な歌をきいて其心へ群れなす優美纎細な空想を起こすことの出來る國民からして、或る物を學ばなければならぬのである。機械的なことには彼等の師匠であることを――あらゆる醜惡の變化を盡くした人工的なことには彼等の敎師であることを――我々は誇つても好い。然し自然的なことに關する知識に於ては――大地の歡喜と美とを感ずる點に於ては、――大智の歡喜と美を感ずる點に於ては――彼等は、古昔の希臘人同樣に、我々よりも優つて居るのである。だが、到る處美に代ふるに實利なもの、因襲的なもの、野卑なもの、醜陋極まり無きものを以てして、我々西洋の盲目的進擊的な殖產主義が彼等の樂園を荒廢せしめ、不毛ならしめてしまつてから始めて、我々が破壞したその、ものの妙味を悔み驚いて我々は了解しそめることであらう。

[やぶちゃん注:今や、誰もが知っている、日本人は、世界中で数少ない、虫の声をはじめとして自然界の発する声音を「言語」として左脳で聴いている稀有の人間であることを、ここで語っているのと同じであることに、気づかれるであろう。

 而して、この最終段落は、現代の日本人への――懼るべき百年前の日本人小泉八雲からの危急的警鐘であり――彼が最も怖れていた絶望的終末の予言でもあったのである!……哀しいかな、我々は、後戻り出来得る「角」を――とっくに――通り過ぎて曲がってしまった――のである…………

 

2019/11/14

小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「五」の「コホロギ」・「クツワムシ」・「カンタン」 / 「五」~了

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「一」・「二」』を参照されたい。なお、以下の「コオロギ」の多様な表記はママである。]

 


Zillt071h


[やぶちゃん注:エンマコオロギは何故か二葉の挿絵がある。一枚目の原文キャプションは(原本はここ。右ページ)、

EMMA-KŌROGI (natural size).

で、

エンマコオロギ(実物大)。

であり、絵の添え書きは、

エンマコヲロゲ

となっている。]

 

        コ ホ ロ ギ

 この夜の蟋蟀には多數の變種がある。コホロギといふ名は、その音樂のキリキリキリキリ!――コロコロコロコロ――ギイイイイイイ! から來て居る。その一變種エビコホロギ卽ち『蝦コホロギ』は何の音も立てぬ。だがウマコホロギ卽ち『馬蛼』や、オニコホロギ卽ち『鬼蛼』や、エンマコホロギ卽ち『閻魔蛼』はいづれも立派な樂師である。色は黑味

 

【注】エンマは梵語ではヤマ。その名が此の虫[やぶちゃん注:ママ。]に附けてあるのは眼が大きくてぎろぎろして居るからであらう。閻魔大王の像はいつもその眼を大きくまた怖ろしげにしてある。

 

がかつた鳶色か黑で――一番上手に歌ふ變種のは翅に妙な波模樣が附いて居る。

 コホロギに關して興味ある事實は、多分八世紀の央ごろ[やぶちゃん注:「なかごろ」。]に編纂された『萬葉集』に――世に知れて居る日本の一番古い歌集に、此蟲が記載されて居る事である。一失名詩人の作として此蟲の名が記されて居る。次記の歌は、だから一千百年よりも餘程前のものである。

 

 庭草爾村雨落而(ふりて)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]蟋蟀之鳴音聞者秋付爾家里

 


Zillt072h


[やぶちゃん注:エンマコオロギの二枚目(原本はここ。左ページ)。

EMMA-KŌROGI

エンマコオロギ(実物大)。

絵の添え書きは、やはり、

エンマコヲロゲ

となっている。

 コオロギ類は直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科 Grylloidea に属し、コオロギ科 Gryllidae・ケラ科 Gryllotalpidae・アリヅカコオロギ科 Myrmecophilidae(アリと共生する種群で本邦には十種以上棲息する)に別れる。世界で約二千種、日本には約六十種が知られている。但し、ウィキの「コオロギ」によれば、一般的な日本人の認識している「コオロギ」は、日本ではコオロギ科コオロギ亜科 Gryllinae に分類される、

コオロギ亜科フタホシコオロギ族エンマコオロギ属エンマコオロギ Teleogryllus emma(日本本土に棲息するコオロギでは最大種で、成虫の体長は約二・六~三・二センチメートル。背面は一様に黒褐色で腹面は淡褐色だが、体側や前翅は赤みを帯びる。体つきは太短く、頭部から腹部までほぼ同じ幅で、短く頑丈な脚がついている。頭部は大きく、光沢のある半球形を成し、口器がわずかに下向きに突き出る。若干ではあるが、♂の方がやや顎が長く、♀は丸顔である。『触角は細く、体よりも長い。複眼の周りに黒い模様があり、その上には眉のように淡褐色の帯が入る。この模様が閻魔の憤怒面を思わせることからこの和名がある。また、日本の昆虫学者である大町文衛と松浦一郎によって、学名の種小名にも emma が充てられている』とウィキの「エンマコオロギ」あった。「海野和男のデジタル昆虫記」のこちらの♀の顔面写真が判り易い。鳴き声とその時の姿はYou Tube Nyanta8355氏のこれがよい)

コオロギ亜科オカメコオロギ属ミツカドコオロギ Loxoblemmus doenitziウィキの「ミツカドコオロギ」によれば、体長は一・五~二センチメートルで、『他の多くのオカメコオロギ属と同様、オス成虫の頭部顔面は扁平で、かつ前傾し、さらにその輪廓の左右、上方、口器の四方が突出し十文字を形成している。また背面からみると、左右前方の三方に角(かど)が出ているように』見え、『本種の標準和名』(三角蟋蟀)『はこれに由来する』とある。グーグル画像検索「ミツカドコオロギ」をリンクさせておく。鳴き声とその時の姿はYou Tube MIZUSIMANADA氏のこちらがよい)

コオロギ亜科オカメコオロギ属ハラオカメコオロギ(原阿亀蟋蟀)Loxoblemmus campestrisウィキの「ハラオカメコオロギ」によれば、『単にオカメコオロギと言えば本種を指す。体長は一・三~一・八センチメートルで、♂『成虫の頭部顔面が扁平で、かつ』、『前傾しているのが最大の特徴で』あり、『標準和名にある「オカメ」は、この扁平な頭部の輪廓下半分が下膨れ気味で、「おかめ」を連想させることに由来する』とある。個人サイト「ご近所の小さな生き物たちフォト」のこちらの写真がよいか。鳴き声はYou Tube aiaicamera氏のこちらがよいか)

コオロギ亜科ツヅレサセコオロギ属ツヅレサセコオロギ Velarifictorus micadoウィキの「ツヅレサセコオロギ」によれば、『単にコオロギという別名を持つ』という。『日本では北海道から九州、対馬、甑島列島(下甑島)、種子島に分布する』。『海外では中国にも分布しているほか、北アメリカにも帰化している』。体長は一・三~二・二センチメートルで、『農耕地、庭、草地に生息し、成虫は』八~十一月に『かけて出現する。雑食。家屋内に入ってくることも多い。「ギィギィギィ」または「リィリィリィ」という深みのある声で鳴き、気温が下がると』、『速度が落ちる』(引用元で鳴き声が聴ける)。和名は『「綴れ刺せ蟋蟀」の』オノマトペイアとされる(私には逆立ちしてもそうは聴こえないが)。『これは、かつてコオロギの鳴き声を「肩刺せ、綴れ刺せ」と聞きなし、冬に向かって衣類の手入れをせよとの意にとったことに由来する』とある)

などが『代表的な種として挙げられる』。但し、人や地方に『よって「コオロギ」の概念は異なり、コオロギ上科の中でもスズムシ、マツムシ、ケラ』(コオロギ上科ケラ科ケラ属ケラ Gryllotalpa orientalis )『などを外すこともある』とある。また、既に「ハタオリ」の項で述べた通り、日本では古く(平安時代)は現在の種(群)としての「コオロギ」のことを「きりぎりす」と呼び、現在の種としてのキリギリスのことを「機織(はたを)り」と呼んでいた。ところが、鎌倉時代から室町時代にかけてであったと推定されるのであるが、この「きりぎりす」を現在の通りに「こほろぎ」、「こほろぎ」を現在の通りの「きりぎりす」と呼ぶように逆転変化したらしい(この推移についてはサイト「コオロギは昔キリギリスだった? 虫の呼び名の謎」がよい)。それに加えて漢字表記と読みが、これまた、混同・錯綜して認識誤認が複雑化してしまった経緯がある。なお、私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」も参照されたい

「その一變種エビコホロギ卽ち『蝦コホロギ』」恐らくは、

剣弁亜(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ属カマドウマ Diestrammena apicalis かその近縁種(七種ほどが知られる)

を指していよう。古名「いとど」。俗称の「便所蟋蟀」はかなり有名だが、私は幼少の頃、ここにある通り、誰かが「エビコオロギ」と呼んでいたのを記憶する。なお、本種には翅がないため、鳴かない。和名は台所の竈の傍で見かけることが多く、色や姿が馬に似ていることによる。芭蕉四十七歳、元禄三(一六九〇)年九月の堅田での作、

 海士(あま)の屋は小海老にまじるいとど哉

を思い出す。

「ウマコホロギ卽ち『馬蛼』」群馬の方らしい人物のネット記事に、ツヅレサセコオロギのことを「うまこおろぎ」と呼んでいる、とあった。

「オニコホロギ卽ち『鬼蛼』」幾つかの資料を見たが、どうもエンマコオロギの異名のように思われる。しかし、小泉八雲は後にそれを並べて孰れも立派な音楽家であるとするから、何か別種を当てている。鬼を角と採るなら、ミツカドコオロギのそれに親和性があるか。

「コホロギに關して興味ある事實は、多分八世紀の央ごろに編纂された『萬葉集』に――世に知れて居る日本の一番古い歌集に、此蟲が記載されて居る事である」「万葉集」には「こほろぎ」が七首に詠み込まれてある。但し、これらの「こほろぎ」はコオロギ・キリギリス等の秋に鳴く虫を広く指しているかと思われ、コオロギ類に限定することは出来ない。しかし、前にも言ったが、侘しさ・哀れさを誘うのは、私はやはりコオロギ類に軍配が挙がるかとは思う。

「庭草爾村雨落而(ふりて)蟋蟀之鳴音聞者秋付爾家里」「万葉集」の「卷第十」の「秋の雜歌」の「蟋蟀(こほろぎ)」を詠める三首の二番目の(二一六〇番)、

 庭草(にはくさ)に村雨(むらさめ)降(ふ)りて蟋蟀の

    鳴く聲聞けば秋づきにけり

である。「蟋蟀」は古注も現行も「こほろぎ」で一貫している。なお、存在していれば、音数からみて、使用があってもおかしくない「きりぎりす」は、「万葉集」には使用例は、ない。]

 

Zillt073h


[やぶちゃん注:原文は、

KUTSUWAMUSHI (natural size).

クツワムシ(実物大)。

絵の添え書きは、

紡績娘(クツハムシ)

となっている。]

 

        ク ツ ワ ム シ

 此の――擬聲的にガチヤガチヤとも呼ばれて居る――字書には『やかましく啼く一種の螽斯[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]!』と頗る癪に障はる[やぶちゃん注:辞書編纂者が「癪に障はつたやうな」の意。]記述がしてある。異常な蟲には變種が數々ある。東京で普通賣つて居るのは、背が綠で、胴が黃がかつた白だが、鳶色のや赤味を帶びたのも居る。轡蟲は捕りにくい。が、飼ふのは易い。ツクツクボウシが太陽を愛する蟬類のうちで一番驚嘆すべき樂師であるが如くに、クツワムシは夜の螽斯のうちで最も驚嘆すべきものである。『轡蟲』といふ意味のその名は、その音が、日本の昔風の轡(クツワ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]をチヤリンチヤリン鳴らす音に似て居るから來て居る。然しその音は實際はクツワ一個のチヤリンチヤリンとは、遙か聲高で、遙か複雜したもので、此の比喩の精確か否かは、此蟲が諸君の橫で盛んに啼いて居る間は容易に識別の出來ないものである。自分自らの眼でもつて實際に見なくでは、こんな小さな生物があんな素敵な音を出し得るとは信じ難からう。確に此音の振動は非常に複雜したものに相違無い。その音(ね)は、蒸氣を洩らす時のやうな、ヒユウといふ銳い、かすかな音で始つて、徐々に强まる。――それからそのヒユウヘ突然に、四つ竹[やぶちゃん注:原文“castanets”。「四つ竹」(よつだけ)はカスタネットに似た本邦の打楽器。四個の竹片を片手に二片ずつ持ち、それを手の中で打ち合せて音を出す。民謡では口説(くどき/くどうち)風の歌などの伴奏に用いるほか、沖縄では芸術的な舞踊の伴奏にも盛んに用いられる。]の音のやうな迅速な、涸れた、カタカタいふ音が加はる。――それから、全機關が突進して運轉を始めると、そのヒユウとカタカタとの上に、銅鑼[やぶちゃん注:「どら」。]を叩くやうな急速なヂヤンヂヤンといふ音の流れが聞こえる。この音は、始まるも最後だが、歇む[やぶちゃん注:「やむ」。]のも亦最初である。それから四つ竹の音が止(と)まり、最後にヒユウといふ音が消える。――だが此の完全な合奏は一と休みも無しに、一度に數時間演奏を續けて居ることがある。夜、遠くから聞いて居ると、その音は愉快である。そして實際いかにも轡のチヤリンチヤリンいふ音に似て居るので、『人の通へぬ道に靈的な護送の曲を奏して居る』のだと古昔からた〻へられて居る此當の名に、如何に多くの眞の詩美が存して居るか、それを感ぜずには居れぬ程である。

 クツワムシを詠んだ最も古い歌は和泉式部の次記のものであらう。

 

 わかせこは駒にまかせて來にけりと

     きくにきかするくつわむしかな

[やぶちゃん注:直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス上科キリギリス科 Mecopoda 属クツワムシ Mecopoda nipponensis。鳴き声は別名ともなっている「ガチャガチャ」が一般的なオノマトペイアであるが、私はこの激しい五月蠅い印象の擬音語には幼少期から抵抗がある。私には、クツワムシの鳴き声は

「シャッカシャッカシャッカシャッカ」

或いは

「ジッカジッカジッカジッカ」

時に

「ジッジッジッジッ」

「ジカジカジカジカ」

を、ギュッと圧縮して続けたような感じ――古い電池式のロボットのオモチャのよう――に聴こえる。私の二階の書斎の下の崖には、彼らの好物である葛(くず)が繁茂しており、よく鳴いているが、まあ、確かに、他のすだく虫の音(ね)ように、ずっと聴いていたい部類の鳴き声ではなく、ちょっと五月蠅いと思わないこともない。鳴き声とその姿は、You Tube のKoo Yatagaws氏のこちらがよかろう。私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 鑣蟲(くつわむし)」も参照されたい。

 最後の歌は、まず、「日文研」の「和歌データベース」で調べたが、「和泉式部續集」に(ガイド・ナンバー「00243」)、

 わかせこはこまにまかせてきにけりと

     ききにきかするくつわむしかな

下句の頭が異なる。この歌は原文はローマ字で表記されてあるが、それ自体が「きくに」となっている。意味は通るが、しかし「ききにきかする」の方がよい。所持する岩波文庫「和泉式部集・和泉式部續集」(清水文雄校注・一九八三年刊)を参考に正字で前書ともに示すと、

   遠き所に人待ちし比(ころ)、

   近く草の許(もと)に轡蟲の

   啼くを聞(き)きて

  わか背子は駒にまかせて來にけりと

     聞(き)きに聞かする轡蟲かな

である。前書きの頭は「遠くにいる人を待っていた時」の意。]

 

Zillt075h

[やぶちゃん注:原文は、

KANTAN (natural size).

カンタン(実物大)。

絵の添え書きは、

邯鄲

となっている。]

 

       カ ン タ ン

 此蟲は『カンタンギス』とも、『邯鄲のキリギリス』とも呼ばれて――濃い鳶色をした、夜の蟋蟀の一種である。その音色の――ヅイイイイイン――といふ音は一種特別なものである。弓絃のピインといふ長びいた響に一番能くたぐへ得ると自分は思ふ。だが、此蟲の音には筆には書けない、耳を貫く金屬性な音色がそのピインの中にあるから、此の比較は滿足なものではない。

[やぶちゃん注:私が、その音(ね)を偏愛する剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科カンタン亜科カンタン属カンタン Oecanthus longicaudaウィキの「カンタン(昆虫)」によれば、『カンタンの名は明治時代の文献に見える。中国の古都邯鄲の字をあてているのは当て字で、鳴き声から名がついたものかという』。『夏の終わりから晩秋まで約』二『ヶ月近くその音色を聞くことが出来るが、個体としての成虫の寿命は短い』。体長は一・一~二センチメートルと『スズムシ程の大きさで、羽根を立てて鳴いている時はシルエットもやや似ている。体は細長く、長い触角を持ち、薄黄色をしている。成虫の腹部下面(腹部腹板)は通常』、『黒くなる』。『クズ、ヨモギ、ススキ』『などが多い草地に生息する。これら草本が密生し』、『湿度の高い状態を好むことから、とりわけ河川等の岸辺に多数生息する。成虫は』八~十一月に『かけて出現する』。♂は『夜間、葉に空いた穴やえぐれなどから頭を覗かせ』、『「ルルルルルルルル」と連続して鳴く。図鑑その他でよく「穏やかな声」といわれるが、これは野生の生息地で多くの草本により音が遮蔽され和らげられるからで、至近距離や室内で聞くその声は、大音量の「ティピピピピピピピピピ…!!」というようなやかましいものである』。『姿が小さく、人の気配に非常に敏感で鳴き声を頼りに探すのはかなり困難であり、根気を要する。捕獲するので有ればむしろ昼の方が良く、鳴き声がした場所を覚えておき、植物の枝の先、特にアブラムシが居るような場所を丹念に探すと捕まえることが出来る』。『静止し澱んだ空気よりも、ある程度風通しがよい状態でよく鳴く傾向にある。ただ、近接状態を嫌うため、互いに』十数センチメートル『以内の距離に接近したり、同じ飼育容器に入れられると、継続して鳴かなくなる、または全く鳴かなくなり、闘争する』。『コオロギの仲間としては』、『飛翔能力がたいへん優秀で』、『自在に飛ぶ。蓋の無い容器からは』、『たちまち飛び出して逃げてしまう。また、マツムシ科やクサヒバリ科、キリギリス科ほど強力ではないが』、『垂直滑面を歩行できる吸盤を附節に有する』。『食性は肉食性が強い雑食性で、アブラムシを好んで食べるほか、ヨモギやクズなどの葉も食べる。幼虫は花粉や花びらも好む。糖分と動物質が不足すると幼虫は成長が止まり、多くが死亡する。アブラムシを好んで捕食するのは、体内にその糖分が豊富だからであると考えられている』。九『月中旬頃から産卵をはじめ、直径が』五~八ミリメートルの『生きたヨモギなどの茎に噛み傷をつけ、産卵管を差し込んで数個の卵を産む。卵は翌年の』六『月中旬頃に孵化する』とある。鳴き声とその姿はYou Tubeのminmincyou氏のこちらがよい。]

小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「五」の「クサヒバリ」・「キンヒバリ」・「クロヒバリ」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「一」・「二」』を参照されたい。]

 

        ク サ ヒ バ リ

 クサヒバリ卽ち『草雲雀』は――アサスズ卽ち『朝鈴』とも、ヤブスズ卽ち『藪鈴』とも、アキカゼ卽ち『秋風』とも、コスズムシ卽ち『小鈴蟲』ともいふが――晝間歌ふ蟲である。非常に小さな蟲で、――ヤマトスズを除いて、これが蟲の合唱者中最も小さなものであらう。

[やぶちゃん注:昆虫綱直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科クサヒバリ亜科クサヒバリ属クサヒバリParatrigonidium bifasciatum(辞書記載の学名であるが、昆虫愛好家(インセクターは一部の種に関しては昆虫学者より凄かったりする)の複数のページではバッタ目ヒバリモドキ科ヒバリモドキ亜科クサヒバリ属クサヒバリ Svistella bifasciata とするものも有意に見られる)。本邦では本州・四国・九州・沖繩に広く分布する。体形はコオロギに似ているが、ごく小さく、体長は六~八ミリメートルしかない。触角が長い。淡黄褐色を呈するが、♂では黒褐色の不規則な斑紋を持ち、翅には丸みがあって発音器の模様が明瞭で、♀では縦脈を有する。八~十月頃、林縁の低木の葉上や下草の上に見られ、小泉八雲は夜とするが、実際には昼夜を問わず、「フィリリリリリリリ……」と高く美しい声で長く鳴く。古来、鳴く虫の一つとして愛玩されてきた。You Tube Sankogi 氏の「元荒川河原の草雲雀」の鳴き声と、グーグル画像「Svistella bifasciataをリンクさせておく。なお、本種の小泉八雲自身の飼育体験を素材とした奇譚、本作品集から四年後に刊行された作品集「骨董」(明治三五(一九〇二)年刊)の中の名掌品「小泉八雲 草雲雀 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」も是非、参照されたい。]

 


Zillt069_ah

[やぶちゃん注:原文キャプションは、

KUSA-HIBARI (natural size).

クサヒバリ(実物大)。

で、画像の添え辞は、

クサヒバリ

である。

Zillt069_bh

 

「ヤマトスズ」「大和鈴」で、「三」の値段表に登場し、既注。ヒバリモドキ亜科ヤマトヒバリ属ヤマトヒバリ Homoeoxipha obliterata の異名である実際には、原本では「クサヒバリ」の解説の横に挿入されてあり(図では「クサヒバリ」に似て見える)、小泉八雲は本種をクサヒバリの近縁種、或いは、亜種・変種と見ていた可能性が高いか。しかし、これは全くの別種であるので、ここに配しておくこととする(底本が挿絵をカットしている結果、こうせざるを得ないのである。悪しからず)。解説と鳴き声は「鳴く虫研究社」のこちらがよい(かなり繊細な鳴き声なので音量を上げないと聴きづらい)。

原文キャプションは、

YAMATO-SUZU (“LITTLE-BELL OF YAMATO”) (natural size).

ヤマトスズ(「大和の小鈴」)(実物大)

で、画像の添え辞は、

ヤマトスヾ

である。]

 

        キ ン ヒ バ リ

 キンヒバリ卽ち『金雲雀』は有名な不忍池――東京の上野のあの大きな蓮池――のあたりに非常に澤山居たものである。が、近年稀になつた。東京で今賣るキンヒバリは戶田川や志村から持つて來るものである。

[やぶちゃん注:ヒバリモドキ亜科キンヒバリ属キンヒバリ Natula matsuurai 鳴き声は「鳴く虫研究社」のこちらがよい。

「戶田川」前の「キリギリス」で、『戸田市を南北に走る「上戸田川」である。「川の名前を調べる地図」のここで確認出来る。なお、「ひなたGIS」の戦前の地図の方を見ると、「戶田村」の集落部を除いて、南北は田圃である』とした。それを変えるつもりはないが(その理由は、そちらを見られたい)、今回は、荒川の旧「戶田の渡し」があった附近(グーグル・マップ・データ。次も同じ)の荒川の戸田の左岸の別名と採った方がいいようにも感じられる。何故かというと、以下の「志村」の北直近なので、すこぶる自然だからである。

「志村」現在の東京都板橋区志村であろう。]

 

Zillt070_ah

[やぶちゃん注:原文キャプションは、

KIN-HIBARI (natural size).

キンヒバリ(実物大)。

で、画像の添え辞は、

金ヒバリ

である。]

 

        ク ロ ヒ バ リ

 クロヒバリ卽ち『黑雲雀』は稍〻稀なもので、割合高價である。東京附近の田舍で捕るが養殖は出來ぬ。

[やぶちゃん注:これはヒバリモドキ亜科クロメヒバリ属クロメヒバリ Anaxipha longealata のことではあるまいか。「クロヒバリ」では見当たらない。しかし、本種、邦文記事には本種の画像も鳴き声も存在しない。【2025年4月23日削除・追記】まず、私が安易に候補に挙げたクロメヒバリは、サイト「ORTHOPTERA.JP」のこちらで、分布について『西表島と与那国島で確認されている』あったので、アウトであった。そこで再度、検索したところ、サイト「Bplatz.」の「鳴く虫研究社が描く音の世界!3500匹と共に歩む研究者の物語」の談話の中に、『鳴く虫を愛でる文化は奈良時代にまで遡ります。平安時代になると貴族が飼うようになり、鳴く虫を野に放って鳴き声を聞きながら宴をすることが流行りました。そして江戸時代には一大ブームが起こり、庶民の間で鳴く虫を飼うようになり、私のような虫売りがだいぶ現れたようです。それが明治時代まで続きました』。『興味深いのは、江戸時代の文献を見ると当時の人気種と現代の人気種はほとんど一緒やということです。スズムシ、マツムシ、クツワムシ、キリギリス、クサヒバリ、それに鳴く虫の女王と呼ばれた邯鄲(カンタン)、それとカワラスズかヤマトヒバリに当たるクロヒバリの6種類です。感性は今も昔も変わらないということですね。その後戦争で虫売りの問屋がやられたり、戦後になると娯楽が多様化して、今では一部の人の楽しみになってしまっています』(記事投稿は二〇一八年七月二十五日なので、私の検索調査の浅さが露呈した)とあった! これに拠って、

コオロギ科ヤチスズ亜科マダラスズ属カワラスズ Dianemobius furumagiensis

及び、後に出る、

ヒバリモドキ亜科ヤマトヒバリ属ヤマトヒバリ Homoeoxipha obliterata 

が候補となることが判明した。]

 

Zillt070_bh

[やぶちゃん注:原文キャプションは、

KURO-HIBARI (natural size).

クロヒバリ(実物大)。

で、画像の添え辞は、

クロヒバリ

である。]

 

小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「五」の「ハタオリムシ」・「うまおひ」・「キリギリス」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「一」・「二」』を参照されたい。]

 

        ハタオリムシ

 ハタオリは、非常に優しい形をした、冴えた綠色――美しい螽斯[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]である。『機を織るもの』といふ意味、の此の妙な名に對して二つの理由が與へられて居る。一つは、或る特別な持ちやうをして支へて居ると、その、もがく身振りが機織娘の舉動に似て居るといふのである。も一つ[やぶちゃん注:ママ。]の理由は、その蟲の奏する音樂が、手織機で物を織つて居る折の、筬(をさ)と梭(ひ)の音――ヂイイイ――チヨンチヨン!――ヂイイイ――チヨンチヨン!――を眞似して居るやうに思へるといふのである。

[やぶちゃん注:一読してお判りの通り、また、次の段落の頭を見ても判然とするように、小泉八雲は「ハタオリ(ムシ)」を「キリギリス」の仲間としながら、「キリギリス」とは別種のものとしており、事実、次の次の項で別に「キリギリス」を別に立てている。しかし、「ハタオリ」は「キリギリス」の古名であって、「ハタオリ(ムシ)」と「キリギリス」は同じ種を指すのである。キリギリスは本邦に四種棲息するが、我々が「キリギリス」として思い浮かべる代表は、既に述べた、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属ニシキリギリス Gampsocleis buergeri本州西部(近畿・中国)及び四国・九州に分布し、翅が短く、側面に黒斑が多い

と、

ヒガシキリギリス Gampsocleis mikado青森県から岡山県(淡路島を含む)に分布し、近畿地方ではニシキリギリスを取り巻くように分布する。翅が長く、黒斑は一列程度か、或いは全くない点で、前者と識別が出来る

の二種である。小泉八雲は、別種と誤認した「ハタオリ」について、「非常に優しい形をした、冴えた綠色――美しい」キリギリスの一種であると述べている点に気づかれるであろう。彼の誤認は――その色と形の違い――に拠るものなのであるが、これも既に注した通り、実は

キリギリスは、生育環境によって、緑色の個体と褐色の個体が生じ、また、さらに若齢の幼虫(バッタ類は不完全変態で、小さな時も成体と全体の大まかなフォルムは殆んど変わらない)は――全身が緑色を呈し、頭部が大きい点で成体と異なる――

のである。

この緑色の個体や若年個体と、成体の褐色の各脚が刺々しいそれを比べると、思わず、それらは別種だと思い込んでしまうのは無理もないのである。さらに言えば、

小泉八雲の来日後の前期に居住した出雲・熊本・神戸(前記二種の交点に近い)と、晩年の東京という地理を考えると――ニシキリギリスとヒガシキリギリスの異なるキリギリス二種の棲息域に被っていること――に気づく。されば、

小泉八雲は――この正しく違ったキリギリス二種を細部観察して、正しく別種と認識していた可能性さえも排除出来ない

ことに着目したいのである。実は、ウィキの「キリギリス」にあるように、

『北海道のハネナガキリギリス』Gampsocleis ussuriensis『と』、『沖縄のオキナワキリギリス』Gampsocleis ryukyuensis『を除いたもの、すなわち』、『青森県から鹿児島県の地域に分布するものは』、実に二十『世紀末までただ』一『種のみであると見なされていた。その標準和名がキリギリスであり、学名はこの類としては日本で最も早く記載された』Gampsocleis buergeri (de Haan, 1843) が『用いられて来た』。『ところが』、一九九〇年代に『日本の』直翅(バッタ)目 Orthoptera『の研究が盛んになり始めると』、『地域ごとに』、『様々な特徴をもつ個体群が存在することが知られるようになった。なかでも東日本と西日本とに別れる広い分布域をもつ』二『群は明らかな別種と』見做されるようになり、遂に一九九七年に『それぞれ』、『ヒガシキリギリスとニシキリギリスと名付けられ』て分離された

と書かれているように、実は本篇が書かれた当時は

――生物分類学に於いても、北海道と沖縄を除く日本には――キリギリスは一種しかいない――と考えられていた――

のである。なお、私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 斯螽(はたおり)」も参照されたい。鳴き声とその時の姿は、You Tube のtechan38氏のこちらがよい。

……さて、ところが……これで問題は――まだ――終わらないのである。……何故かと言うと、小泉八雲は、ここと、次の段落で「ハタオリ」の鳴き声を、次の段落で「キリギリス」の鳴き声のオノマトペイアを示して、

ハタオリ→Ji-ï-ï-ï—chon-chon!—ji-ï-ï-ï—chon-chon!”“ji-ï-ï-ï, chon-chon! ji-ï-ï-ï, chon-chon!

キリギリス→Tsuzuré—sasé, sasé!—tsuzuré, tsuzuré—sasé, sasé, sasé!

と示しているからである。この「ハタオリ」の方の鳴き声は、問題なくキリギリスのものだが、

小泉八雲が「キリギリス」の鳴き声として出しているものは――「キリギリス」のそれではない――

からである先に言ってしまうと、まさにズバり、和名に、この名を持つ「コオロギ」さえいる、のである。

剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科コオロギ亜科ツヅレサセコオロギ属ツヅレサセコオロギ Velarifictorus micado

である

 しかし、だからと言って、平井呈一氏の恒文社版「虫の音楽家」の、この「ハタオリムシ」の項の最後に附された訳者注のように、

『文中、キリギリスといっているのは、明らかにすなわち、今日でいう「コオロギ」のことである』

として、例の「コオロギ」と「キリギリス」の逆転現象を掲げられ、

『古歌や古俳諧に詠まれている「キリギリス」は、みな「コオロギ」のことである。こんにちでは[やぶちゃん注:ひらがなはママ。]キリギリスといえば、螽斯、もしくは機織のことをさすのである。念のためにお断りしておく』

と注することで話がつくのかというと、

私は『どうも……これでは……乱暴に過ぎるのではないか?』という疑問を覚える

のである。何故かと言うと、確かに「二」の注で既に述べた通り、日本では古く(平安時代)は現在の種(群)としての「コオロギ」のことを「きりぎりす」と呼び、現在の種としてのキリギリスのことを「機織(はたを)り」と呼んでいた。ところが、鎌倉時代から室町時代にかけてであったと推定されるのであるが、現在と同じく、この「きりぎりす」を「こほろぎ」、「こほろぎ」を「きりぎりす」と呼ぶように逆転変化したらしい(この推移については、サイト「コオロギは昔キリギリスだった? 虫の呼び名の謎」がよい。前で述べた、私が支持する「鈴虫」と「松虫」等の他の古典のややこしい逆転批判も記されてある)のである。

 まず、細かいところから片づけよう。

平井氏の注の内の「古俳諧」というのは、どうだろうか?

室町・戦国以降でなくては俳諧連歌は誕生しない。しかも、その時は、既に現在と同じ呼称になったのと、一致する。さらに、通常、「古俳諧」と言ったら、芭蕉以前の江戸初期の貞門・談林の俳諧を指すのが文学上の常識である。されば、狭義は勿論、広義の意味でも「古俳諧」のそれ(「こおろぎ」と「きりぎりす」の逆転理解)を必ず逆転させて観賞しなくてはならないというのは、私は、甚だ、おかしい、と感ずるのである。無論、俳諧は一種の和歌の本歌取り的要素が強い部分があるからして、古い呼称を尊重したものも、当然の如く、有意にあろう。しかし、だからと言って全部の「古俳諧」で、それを読み換えねばならないというのは、私はやはり組みすることは出来ないのである。

 さらに、後に小泉八雲が別項として後に出す「キリギリス」では、その鳴き声を「『ツヅレ サセ、サセ』(襤褸綴せ綴せ!)といふ音に似て居る」とする後半部は、まさにコオロギと捉えざるを得ないのであるが、冒頭で、彼は『人が大いに珍重する此蟲には種々な變種がある。晝間歌ふアブラキリギリスといふは弱い蟲で、容れ物に入れて置いて大事に飼養しなければならぬ』として

「アブラキリギリス」を第一に挙げている

のである。

この「アブラキリギリス」とは、前に注した、生育環境の違いにより出現する、緑色でない褐色をしたキリギリスの個体の呼称

なのだ。しかも、小泉八雲は続けて『上總の九十九里からもつと廉い別種なキリギリスを東京へ持つて出る。が、これは不快な色をして居るし、一種特別な寄生蟲に犯され』ていると記す。この千葉から供給された「キリギリス」は、其角の日記に出た、それだ。されば、既に正しく今の「キリギリス」である。因みに、この寄生虫とは、間違いなくハリガネムシ(脱皮動物上門類線形動物門 Nematomorpha線形虫(ハリガネムシ)綱 Gordioidea)を指す。バッタ類には全体に広汎に高い確率で寄生するが、私が実際に非常によく実見したのは、カマキリとキリギリスへの寄生である(コオロギにも寄生する)。

 また、後に掲げる小泉八雲の「キリギリス」の挿絵であるが、和文キャプションは「蛬」で、これは「コオロギ」を指す漢語であるものの、その描かれたそれは

――非常にゴッつく、脚の棘状突起も描かれており、私はコオロギではなく、褐色個体のキリギリスの成体のように思えてならない――

のである。小泉八雲が「キリギリス」と「コオロギ」を混同していたことは確かであるが、その記載でも、これら別種のそれらをも――混淆して記載している――と考えた方が、自然な内容となっていると私は読むものである。大方の御叱正を俟つ。何より、挿絵がないのが、痛恨の極みである。

「筬(をさ)」織機(しょっき)の部品の一つ。経(たて)糸の位置を整え、打ち込んだ緯(よこ)糸を押して、さらに密に定位置に打つようにするもの。竹片、又は、鋼片を平行に並べ、枠にセットしたものから成る。

「梭(ひ)」「杼」とも書く。織機の付属用具の一つ。緯(よこ)糸とする糸を巻いた管を、舟形の胴部の空所に収めたもので、端から糸を引き出しながら、経(たて)糸の間を左右に潜らせる。所謂「シャットル」(shuttle)のこと。]

 

 ハタオリとキリギリスとの素性に就いて、古昔日本の子供等によく話してきかせた、面白い民間物語がある。その話によると、ずつとずつとの古昔(むかし)に、手仕事でもつてその盲目の老父を扶養して居た非常に親孝行な娘が二人居た。姉娘は織りものをし、妹娘は縫物をするのであつた。その盲目な老父が到頭死ぬると、この善良な二人の娘は非常に歎き悲しんで、これも亦間も無く死んでしまつた。或る晴れた美しい朝、今まで見た事の無い動物がこの姉妹の墓の上で音樂をやつて居るのが見つかつた。姉の墓石の上には、娘の子が機を織る時にするやうな音を――ヂイイイ、チヨンチヨン! ヂイイイ、チヨンチヨンといふ音を――立てて、綠色な可愛い蟲が居た。これが最初のハタオリムシであつた。妹の墓石の上には『ツヅレ――サセ、サセ!――ツヅレ、ツヅレ――サセ、サセ、サセ!』(襤褸綴(さ)せ、襤褸綴せ――つづれ、つづれ――綴せ、綴せ、綴せ!)と叫びつづけて居る蟲が居た。これが最初のキリギリスであつた。そこで誰れもその善心な姉妹の魂がその姿になつたのだと知つた。今でも秋ごとに此の二つの蟲は世間の人妻や娘子に、上手に機を織れよと叫び、寒さの來ないうちに一家の冬衣を繕へよと警める[やぶちゃん注:「いましめる」。]のである。

[やぶちゃん注:この哀しい伝承を記した書物に行き当たらない! 切に識者の御教授を乞うものである!

 ハタオリに就いて自分が手に入れることの出來た歌は一寸面白い空想といつただけのものである。自分がその自由譯を此處へ提供する二つの歌は古代のものである。初のは貫之ので、二番目のは、古典の上で『顯仲卿女』として知られて居る女詩人のである。

[やぶちゃん注:「顯仲卿女」(歴史的仮名遣「あきなかきやうのむすめ」:生没年未詳)は平安後期の歌人で、散位藤原重通の側室か。姉妹に待賢門院堀河・上西門院兵衛と、歌人が多い。大治(だいじ)三(一一二八)年、父源顕仲(康平元(一〇五八)年~保延四(一一三八)年:公卿で歌人)主催の歌合わせに「伯卿女」として出詠しているようで、「金葉和歌集」(源俊頼編纂に成る勅撰集。天治元(一一二四)年完成)等の勅撰集に四首が載る。但し、問題がある(注した)。]

 

 秋くれははたおるむしのあるなへに

    唐錦にもみゆる野邊かな  (『古今和歌六帖』)

[やぶちゃん注:作者の表示がないが、これは紀貫之の作。「貫之集」(天慶八(九四五)年頃成立)に載る。整序すると、

 秋來ればはたおる蟲の有るなべに

    唐錦(からにしき)にも見ゆる野邊(のべ)かな

である。]

 

 さゝかにの絲引かくる叢に

    はたおる蟲の聲そきこゆる (『金葉和歌集』)

[やぶちゃん注:「金葉和歌集」の「卷第三 秋部」に以下の形で出る(二二五番)。

  はたをりといふ蟲をよめる

 さゝがにの糸引きかくる草むらに

    はたをる蟲の聲聞(きこ)ゆなり

「はたをり」「はたをる」はママ。「さゝがに」は蜘蛛。但し、流布本では確かに「顯仲卿女」とするが、所持する岩波の『新日本古典文学大系』(正宗文庫伝二条為明筆本・底本)では、『顕仲卿母』とする。顕仲卿母は、顕仲の母で、肥後守藤原定成の娘である。

 以上の二首は孰れも中古の歌集であるが、ここは、しかし、孰れも「はた織る蟲」であるから、これは何ら問題なく、ハタオリ=キリギリスで問題ない。]

 

 

        う ま お ひ

 ウマオヒは時々、それに能く似て居るハタオリと混同されて居る。が、本當のウマオヒ(出雲ではジユンタといふ)はハタオリよりも短くて太つて居るし、足に鈎形の突起があるが、機織にはそれが無い。その上に、此の二つの蟲が出す音に幾分の差異がある。馬追の音樂はヂイイイ チヨン、チヨンではなくて、ヅイイソツヨ――ヅイイインツヨ! だと日本人は言ふ[やぶちゃん注:「!」の後の字空けは私が特異的に挿入した。]。

Umaoi

[やぶちゃん注:原文キャプションは、

UMAOI (natural size).

馬追(実物大)。

で、画像の添え辞は、

馬追

であるが、「追」の崩しが異常である。ウマオイは本土には二種おり、

キリギリス科ウマオイ属ハヤシノウマオイ Hexacentrus japonicus

と、

ハタケノウマオイ Hexacentrus unicolor

である。ウィキの「ウマオイ」によれば、『鳴き声が、馬子が馬を追う声のように聞こえることから名づけられた』。二種の『外見上の違いはほとんどないが、鳴き声が異な』り、

ハヤシノウマオイは「スィーーーッ・チョン」と長くのばして鳴き、

ハタケノウマオイは「シッチョン・シッチョン……」と短く鳴く。

『前者は下草の多い林に棲むが、林といっても』、『屋敷の庭程度の量の樹木さえあれば』、『生息条件を満足する。後者は名の通り』、『畑の片隅や小河川沿いの草原によく見られる』。『生態は両者ともさほど変わら』ず、緑色の『華奢な姿に似合わず』、『肉食性が大変強く、他の小昆虫を捕らえて食べる。複数の個体を同じ容器に入れると』、『共食いが頻発する』。『キリギリスやヤブキリ』(キリギリス亜科ヤブキリ族ヤブキリ属ヤブキリ Tettigonia orientalis:和名は「藪螽蟖(やぶきりぎりす)」の略)、『各種コオロギと異なり、人工飼料にあまり餌付かない。与えても』、『少し口を付ける程度である。一方、生きた昆虫や死んで間もない新鮮な死骸を与えると喜んで食べる』とある。鳴き声とその姿の動画は、ハヤシノウマオイは「虫オタク見習い」氏のこちら、ハタケノウマオイはwins 1967氏のこちらがいいか。……ただ……私が幼少の頃、「スイッチョン」と呼んでいたのは、このハヤシノウマオイの鳴き声では「ない」ように思う。何を誤認していたのだろう?……

 

        キ リ ギ リ ス

 人が大いに珍重する此蟲には種々な變種がある。晝間歌ふアブラキリギリスといふは弱い蟲で、容れ物に入れて置いて大事に飼養しなければならぬ。夜間歌ふタチキリギリスの方が市場で普通賣つて居るものである。捕獲して來て東京で賣るキリギリスは多くは板橋、仁井曾及び戶田川附近のもので、そして高價を呼ぶ其邊からのが一番好いのだと考へられて居る。丈夫な大きな蟲で、甚だ明亮な音色を出して歌ふ。上總の九十九里からもつと廉い別種なキリギリスを東京へ持つて出る。が、これは不快な色をして居るし、一種特別な寄生蟲に犯されるし、そして聲の弱い樂師である。

 他のところで述べたやうに、キリギリスが立てる音は日本語の『ツヅレ サセ、サセ』(襤褸綴せ綴せ!)といふ音に似て居ると言はれて居る。そして此蟲に就いて書かれて居る多くの詩歌の大部分は、その面白味は、上記の語への巧妙な然し反譯[やぶちゃん注:「ほんやく」の意。]不可能な暗示に賴つて居る。だから自分はキリギリスの歌のただ二つだけの反譯を提供する。初のは『古今集』の中の一失名詩人[やぶちゃん注:「詠み人知らず」のこと。]ので、二番目のは忠房のである。

[やぶちゃん注:「仁井曾」原文“Niiso”だが、こんな漢字表記の地名は知らない。これ、以下の「戶田川」(しかし、これも地名ではない。戸田市を南北に走る「上戸田川」である。「川の名前を調べる地図」のここで確認出来る。なお、「ひなたGIS」の戦前の地図の方を見ると、「戶田村」の集落部を除いて、南北は田圃である。西の「新曾」も、同じく、南北、しっかり、田圃。キリギリス、棲(い)そうだわ!)から考えて、現在の埼玉県戸田市新曽(にいぞ:グーグル・マップ・データ)の誤りである。平井氏訳も、哀しいかな、『仁井曾』(「曾」はママ)である。

「忠房」藤原忠房 (?~延長六(九二九)年)平安前・中期の官吏で雅楽家。右京大夫藤原興嗣(おきつぐ)の子。従四位上・右京大夫。雅楽で知られる「胡蝶」を作曲し、また、神楽・催馬楽(さいばら)の増補選定に携わった。中古三十六歌仙の一人。]

 

 秋はきのいろつきぬれはきりきりす

    わかねぬことやよるはかなしき

[やぶちゃん注:初句の「の」は「も」の大谷の誤り(原本は英語自由訳のみである)。「古今和歌集」の「卷第四 秋歌上」の「詠み人知らず」の一首で(一九八番)、

    題しらず

 秋萩も色づきぬればきりぎりす

    わが寢ぬごとや夜はかなしき

が正しい。下句は――私が恋思いのために寝られぬのと同じように、きりぎりすよ、お前も秋の夜が哀しいのか?――の謂い。]

 

 きりきりすいたくな鳴きそ秋の夜の

      なかき思ひは我そまされる

[やぶちゃん注:「古今和歌集」の「卷第四 秋歌上」の藤原忠房の一首(一九六番)、

    人のもとにまかれりける夜、
    きりぎりすの鳴きけるを
    聞きてよめる

 蟋蟀(きりぎりす)いたくな鳴きそ秋の夜の

           長き思ひは我ぞまされる

である。前の歌と並べられると、「長き思ひ」も同じ恋のそれのように見えてしまうが、諸説あって、必ずしも、具体な切ない恋情ではない、漠然とした「士は、秋を哀しむ」(「詩經」)の哀切感情の可能性もある。]

 

Zillt068h

[やぶちゃん注:原文キャプションは、

Kirigirisu (natural size).

キリギリス(実物大)

で、画像の添え辞は、

である。「蛬」は「コオロギ」の古い漢名であるが、しかし、この絵のそれは既に述べた通り、私は「コオロギ」ではなく、色は判らぬものの、褐色個体の確かな「キリギリス」で問題ないと考えている(と言うか、そのまんま、なのだが、所謂、クソのような「コオロギ↔キリギリス説」があるために敢えて言っているのである)。「キリギリス」の種と学名は「ハタオリ」で既注。そこでも、かなり、しつこく注したが、小泉八雲は「キリギリス」と「コオロギ」を、やはり、混同していることは間違いないのである。しかも小泉八雲は、実は、後に「コホロギ」(ママ)の独立項をも作っているのである。さればこそ、私は、これをキリギリスと採らないと、なおさら、おかしなことになると思うのである(後の「こほろぎ」に添えられてある挿絵は正しくコオロギである)。従って、コオロギの注は、そちらに回す。なお、私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 莎雞(きりぎりす)」も参照されたい。

「アブラキリギリス」既出既注。生育環境の違いにより出現する、緑色でない褐色をしたキリギリスの個体の呼称

「タチキリギリス」不詳。この異名は現在は生き残っていないようである。前の「アブラキリギリス」の対表現から見ると、キリギリスの緑色の成体或いは若年個体を指すように思われる。

「一種特別な寄生蟲」既注。脱皮動物上門類線形動物門線形虫(ハリガネムシ)綱 Gordioidea のハリガネムシである。詳しくはウィキの「ハリガネムシ」を参照されたい。]

2019/11/13

小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「五」の「マツムシ」・「すずむし」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 東京の値段表に記載した蟲が總て皆同一樣の興味を有つて居るのでは無い。そして、或る一種の單なる變種を指したもののやうに思へるもが幾つもある――尤も此點に於て自分は斷定的には言へないが。この蟲どものうちに未だ科學的に分類をされて居ると思へないのがある。ところで自分は昆蟲學者では無いのである。が、自分は此の小音樂者共のうち、より重要なものに就いて一般的な註釋と、彼等に關した無數の歌のうち二三の自由譯とは提供が出來る。――先づ、一千年前に日本の詩に讃へられて居るマツムシから始める。

[やぶちゃん注:以下、虫名標題は底本では総てポイント落ちである。]

 

        マ ツ ム シ

 表意文字で書くと、此程の名は『松蟲』である。が、發音の上から見ると――『まつ』(待つ)といふ動詞と『まつ』(松)といふ名詞と同じ音であるから――『待つ蟲』といふ意味にもなる。マツムシを詠んだ日本の詩の大多數の基礎を爲して居るのは、主として此語の發音の上の此の二重の意味である。頗る古いものもある、――少くとも第十世紀へは溯れる。

 決して稀な蟲では無いのであるけれども、松蟲は(擬音辭的にチンチロリン、チンチロリンと日本語で現はしてある)その音色――遠くで電鈴の音を聞くに似て居ると述べるが一番宜いと自分は思ふ銀のやうな小さな銳い聲――が殊に淸らで美はしいので大いに尊重されて居る。松蟲は松林や杉の森に棲んで居て、夜間その音樂を奏する。濃い鳶色の背をして、黃ばんだ腹をした、甚だ小さな蟲である。

[やぶちゃん注:これは、正真正銘の、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科 Xenogryllus 属マツムシ Xenogryllus marmoratus

である。

 多くの辞書や文学系学術書の解説で、古典作品では「松虫」は「鈴虫」(コオロギ科 Homoeogryllus 属スズムシ Homoeogryllus japonicus )を、「鈴虫」は「松虫」を指した、と逆転説を――まことしやかに――述べてあるのであるが、この鬼の首を取ったように喧伝されるは、江戸後期の類書(百科事典)で、幕命によって国学者で幕府右筆であった屋代弘賢(やしろひろかた)が編集した「古今要覽稿」(ここんようらんこう:全五百六十巻。文政四(一八二一)年から天保一三(一八四二)年まで二十一年の歳月をかけて完成させたもので、自然・社会・人文の諸事項を分類し、その起源・歴史などを古今の文献をあげて考証解説したもの)が濫觴とされる。

しかし、★私はこれを採らない。

但し、ここでそれを問題にすると、異様に長くなるので省略するが、私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 松蟲」の私の注、及び、そこでリンク・引用させて戴いた個人サイト「タコツボ通信」の中の「文学にでてくる昆虫 古典編」の『「松虫」と「鈴虫」の呼称について』を是非お読み戴きたい。

★但し、少なくとも、「源氏物語」に於ける両者は、確かに、逆転しており、『平安時代には、チンチロリンが鈴虫、リーンリーンが松虫』『であった』とされ、中世後期の『十五世紀中頃以降、チンチロリンが松虫、リーンリーンが鈴虫という』現在と同じ『呼称が定着した』と結論される、中古文学の研究者武山隆昭氏の緻密な論考「『源氏物語』の「すゞむし」考――鈴虫・松虫転換説再評価――」(『椙山国文学』(すぎやまこくぶんがく)第二十五号(二〇〇一年発行)所収。PDFでダウン・ロード可能)もあるので御紹介しておく。鳴き声とその時の姿はYou Tube の sphere10nsa 氏のこちらがよい。]



Zillt060h

[やぶちゃん注:英文キャプションは、

MATSUMUSHI ( slightly enlarged ).

で、

松虫(実物よりも僅かに拡大されたもの)。

画像の添え辞は、

松虫

である。]

 

 松蟲を詠んだ一番古い歌で現存して居るのは多分『古今集』に――九百〇五年に宮廷詩人の貫之とその友人の貴族共が編輯した有名な歌集に――載つて居るものであらう。此蟲の名前の發音の上の前述の戲れを我々は此歌集に初めて認める。これは九百年以上の文學に通じて非常に澤山な詩人が幾千通りにも異つた樣式に繰り返して居るものである。

[やぶちゃん注:以下、引用される和歌は底本では総て四字下げポイント落ちであるが、引き上げて同ポイントで示した。添え辞等との字空けも再現していない。また、歌の後の丸括弧による出典明記は原本にはなく、一部の原文表記も大谷氏のサーヴィスである。]

 

 あきの野に道もまとひぬまつ蟲の

     聲するかたに宿やからまし (讀人不知)

[やぶちゃん注:「古今和歌集」(延喜五(九〇五)年奏上後、内容に手が加えられ、現行のそれの完成は延喜一二(九一二)年頃ともされる。撰者は紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑の四人であるが、貫之が主体となったものと推定される)の「卷第四 秋歌上」に、

 秋の野に道もまどひぬ松蟲の

    聲する方に宿やからまし

と載る(二〇一番歌)。先の武山隆昭氏の結論に従うなら、ここの「松蟲」は――現在のスズムシ――となる。

 

 『秋の野で自分は路に迷つた。待つ蟲の聲の方角に宿と求めようか』で、言ひかへると『あの蟲が自分を待つて居る草の上で今宵は眠らうか』である。同じ『古今集』に松蟲を詠んだ貫之のもつと美しい歌がある。

 

 夕されは人まつ蟲のなくなへに

    ひとりある身そ置き處なき (『玉葉集』)

[やぶちゃん注:小泉八雲の「古今和歌集」所収というのは誤り。大谷の示す「玉葉和歌集」は鎌倉後期の勅撰和歌集。その「卷十二 戀四」に載る。整序すると、

 夕去れば人まつ蟲の鳴くなべに

    ひとりある身ぞ置き處なき

「なへに」(上代は清音)・「なべに」は接続助詞で「~同時に」。また、古い酷似した一首に、平安時代の天禄元(九七〇)年頃から永観二(九八四)年頃の間に成立したとされる私撰和歌集「古今和歌六帖」(撰者不詳であるが、紀貫之説・兼明(かねあきら)親王説・具平(ともひら)親王説・源順(したごう)説がある)の「第六 蟲」に、

 夕去れば人まつ蟲の鳴くなべに

    ひとりある身ぞ戀ひまさりける

がある。これはもう、確信犯の「本歌取り」である。先の武山隆昭氏の結論に従うなら、ここの「松蟲」は――現在のスズムシ――となる。

 

 同じ蟲をうたつた次の歌はそれほど古くは無いが、それに劣らず興味のあるものである。

 

 來んと言ひしほとや過きにし秋の野に

        人まつ蟲の聲のかなしき (讀人不知、『後選集』)

[やぶちゃん注:「後撰和歌集」(村上天皇の下命によって編纂された二番目の勅撰和歌集。天暦七(九五三)年頃には完成していたか)の「卷第五 秋上」に載るのは(二五六番)、

 來むと言ひし程(ほど)や過ぎぬる秋の野に

       誰(たれ)まつ蟲の聲のかなしき

の形である。先の武山隆昭氏の結論に従うなら、ここの「松蟲」は――現在のスズムシ――となる。  ]

 

 大方の秋のわかれも悲しきに

    淚をそへそ野邊の松蟲 (『源氏物語』賢木の卷)

[やぶちゃん注:「源氏物語」第十帖「賢木(さかき)」の、光が、伊勢下向を決意した六条御息所を、野の宮に訪ねたシークエンスの、暁の別れでの、光の歌に応えた相聞の御息所の一首である。

   *

 やうやう明けゆく空のけしき、ことさらに作り出でたらむやうなり。

 曉の別れはいつも露けきを

    こは世に知らぬ秋の空かな

 出でがてに、御手をとらへてやすらひたまへる、いみじうなつかし。

 風、いと冷やかに吹きて、 松蟲の鳴きからしたる聲も、折知り顏なるを、さして思ふことなきだに、聞き過ぐしがたげなるに、 まして、わりなき御心惑(みこころまど)ひどもに、なかなか、こともゆかぬにや。

 おほかたの秋の別れも悲しきに

    鳴く音(ね)な添へそ野邊の松蟲

 悔しきこと多かれど、かひなければ、明け行く空もはしたなうて、出でたまふ。 道のほど、いと露けし。

   *

先の武山隆昭氏の結論に従うなら、ここの「松蟲」は――現在のスズムシ――となる。

 

 風も無く更け行くまゝに松蟲の

     聲すむ庭の月そ身に沁む (作者不詳、『草野集』)

[やぶちゃん注:「草野集」(さうやしふ(そうやしゅう))は江戸後期の木村定良編の類題和歌集。整序すると、

 風も無く更け行くままに松蟲の

    聲澄む庭の月ぞ身に沁(し)む

である。先の武山隆昭氏の結論に従うなら、この「松蟲」は――既に正しくマツムシ――となる。

 

 

        す ず む し

 此名は『鈴蟲』といふ意味である。が、斯くその音を指示して居る鈴は、頗る小さな鈴か、又は神道の巫女が神聖な舞に使用するやうな小さな鈴の一束(ひとたば)になつて居るのである。鈴蟲は蟲類愛好者に非常に愛せられ居るもので、市[やぶちゃん注:「いち」。]へ出す爲めに極めて數多く飼育せられる。野生狀態では、日本の方々に居るもので、夜間、或る淋しい處で、その群集が立てる音は――自分も一度ならずさう思つたのだが――つい早瀨の音と思ひ誤る位である。日本人が此蟲の形を『西瓜の種』――黑い種類の――に似て居ると述べて居るのは巧い形容である。非常に小さな蟲で、背は黑く、腹は白いか黃味を帶びて居るかである。日本人がその音を形容して、リイイイインだというて居る音は、容易に鈴のチンチンいふ音と間違へられる。松虫も鈴虫も[やぶちゃん注:「虫」はママ。]延喜時代(九〇一――九二二年[やぶちゃん注:九二三年の誤り。])の日本の歌に記されて居る。

[やぶちゃん注:これは、正真正銘の、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ科 Homoeogryllus 属スズムシ Homoeogryllus japonicus

である。私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 金鐘蟲(すずむし)」を、と言いたいが、こちらは、前項の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 松蟲」の私の注で、言い尽くしたので、全く、ろくな注はしていない。鳴き声と、その時の姿はYou Tube のGRENDEL1997氏のこちらがよい。

「巫女」は我々は「みこ」と訓読みしてしまうが、ここは、西洋人への語りであり、原文は“Shinto priestess”で、“priest”(「聖職者」)の女性形(音写「プリースティス」)であるから、「ふぢよ」(ふじょ)と読むべきである。]

 

Zillt063h

[やぶちゃん注:原文キャプションは、

Suzumushi (slightly enlarged).

で、

鈴虫(実物よりも僅かに拡大されたもの)。

画像の添え辞は、

鈴虫

である。]

 

 次に記載する鈴蟲の歌のうちには頗る古いのがある。他は比較的近時のものである。

 

 こゝろもて草のやとりをいとへとも

    なほ鈴蟲の聲そ古りせぬ   (『源氏物語』鈴蟲の卷)

[やぶちゃん注:「源氏物語」三十八帖「鈴虫」(女三宮と柏木の不倫・出産・柏木の逝去・女三宮出家から二年後)の、光が女三宮を八月十五日の中秋の名月の暮れ方に訪ね、彼女の持物に経を唱えて秋の虫の話をするシークエンスの光の一首。

   *

 十五夜の夕暮に、佛の御前に宮おはして、端近う眺めたまひつつ念誦したまふ。若き尼君たち、二、三人、花奉るとて鳴らす閼伽坏(あかつき)[やぶちゃん注:水を入れて仏に供えるのに用いる器。多くは銅製。]の音、水のけはひなど聞こゆる、さま變はりたるいとなみに、そそきあへる、いとあはれなるに[やぶちゃん注:ここまでの主語は女三宮。]、例の渡りたまひて、

「蟲の音(ね)、いとしげう亂るる夕べかな。」

とて、われも忍びてうち誦じたまふ阿彌陀の大呪、いと貴(たふと)く、ほのぼの聞こゆ。げに、聲々聞こえたる中(なか)に、鈴蟲のふり出でたるほど、はなやかにをかし。

「秋の蟲の聲、いづれとなき中に、松蟲なむすぐれたるとて、中宮の、はるけき野邊を分けて、いとわざと尋ね取りつつ放たせたまへる、しるく鳴き傳ふるこそ少なかなれ。名には違(たが)ひて、命のほどはかなき蟲にぞあるべき[やぶちゃん注:「松」は長寿を意味するにも拘らず、である。]。心にまかせて、人聞かぬ奧山、はるけき野の松原に、聲惜しまぬも、いと隔て心ある[やぶちゃん注:人に馴染まぬ意地の悪い心を持っている。暗に女三宮を揶揄する含みとなっている。]蟲になむありける。鈴蟲は、心やすく、今めいたるこそらうたけれ。」

などのたまへば、宮、

   おほかたの秋をば憂しと知りにしを

      ふり捨てがたき鈴蟲の聲

と忍びやかにのたまふ。いとなまめいて、あてにおほどかなり。[やぶちゃん注:上句は源氏に飽きられていることを含んだ謂い。次の光の台詞はそれに反駁したもの。]

「いかにとかや。いで、思ひの外なる御ことにこそ。」

とて、

   心もて草の宿りを厭へども

      なほ鈴蟲の聲ぞふりせぬ

 など聞こえたまひて、琴の御琴召して、珍しく彈きたまふ[やぶちゃん注:琴を弾くのは光。]。宮の御數珠(おほんずず)引き怠りたまひて、御琴に、なほ、心入れたまへり。[やぶちゃん注:「ふり」は「古る」の連用形の名詞化したもの。「御數珠引き怠り」「数珠を繰(く)るのをうっかり忘れて」の意。]

 月さし出でて、いとはなやかなるほどもあはれなるに、空をうち眺めて、世の中さまざまにつけて、はかなく移り變はるありさまも思(おぼ)し續けられて、例よりもあはれなる音(ね)に搔き鳴らしたまふ。

   *

先の武山隆昭氏の結論に従うなら、この「鈴蟲」は――現在のマツムシ――となる。

 

 たまさかに今日あひみれは鈴蟲は

    むつましなから聲そきこゆる  (?)

[やぶちゃん注:大谷は出典未詳とするが、これは「古今和歌六帖」の「第六 虫」の一首。整序すると、

 たまさかに今日逢ひみれば鈴蟲は

     睦まじながら聲ぞきこゆる

であろう。先の武山隆昭氏の結論に従うなら、この「鈴蟲」は――現在のマツムシ――となる。

 

 小鈴振るすゝむし聞けは秋ゆふへ

     野を思ふかな家に居なから  (?)

[やぶちゃん注:不詳。下句の表現からは近世・近代の感じはする。整序すると、

 小鈴振るすゞむし聞けば秋ゆふべ

     野を思ふかな家に居ながら

であろう。私の推理が正しいならば――これは既に――正しくスズムシ――である。

 

 月はなほくさ葉の露に影とめて

      ひとり亂るゝ鈴蟲の聲  (『新英集』)

[やぶちゃん注:明治一九(一八八六)年から翌年にかけて刊行された井上喜文編になる類題和歌集「類題新英集」。これは既に――正しくスズムシ――である。

 

 よその野になく夕くれの鈴蟲は

    我か故鄕のおとときこゆる  (?)

[やぶちゃん注:詩情からは近代のものであろう。整序すると、

 よその野になく夕ぐれの鈴蟲は

    我が故鄕(ふるさと)の音ときこゆる

である。私の推理が正しいならば――これは既に――正しくスズムシ――である。

 

 鈴蟲の聲の限りをつくしても

    なかき夜飽かすふる淚かな  (『源氏物語』桐壺の卷)

[やぶちゃん注:「源氏物語」第一帖「桐壺」の、靫負命婦(ゆげいのみょうぶ)が、桐壺帝の命を受けて亡き桐壺更衣の里に彼女の母を弔問、その帰りがてのシークエンスに出る命婦の歌。

   *

月は入り方の、空淸う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの蟲の聲ごゑ、もよほし顏なるも[やぶちゃん注:いかにも侘しくて涙を誘わせるようである。]、いと立ち離れにくき草のもとなり。

 鈴蟲の聲の限りを盡くしても

    長き夜あかずふる淚かな

えも乗りやらず。[やぶちゃん注:「牛車」に。]

 いとどしく蟲の音しげき淺茅生(あさぢふ)に

        露置き添ふる雲の上人

[やぶちゃん注:これは更衣の母の桐壺帝への返歌。「淺茅生」茅(ちがや)が生えている荒れ果てた場所。

「かごとも聞こえつべくなむ。」[やぶちゃん注:「かごと」「託言」。恨み言(ごと)。

と言はせたまふ[やぶちゃん注:母が「おつきの女房を通して命婦に言わせなさった」の意。]。をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば、ただ、かの御形見(おほんかたみ)にとて、かかる用もやと殘したまへりける御装束(おほんせうぞく)一領(ひとくだり)、御髮上(みぐしあ)げの調度(でうど)めく物、添へたまふ。

   *

先の武山隆昭氏の結論に従うなら、この「鈴蟲」は――現在のマツムシ――となる。

 

 ふり出てゝなく鈴蟲は白露の

    玉に聲ある心地こそすれ   (『新竹集』)

[やぶちゃん注:明治四(一八七一)年の序がある猿渡樅園(さわたりひろもり)編の類題和歌集「類題新竹集」。これは既に正しく――スズムシ――ととってよかろう。 ]

 

 村雨の降るにつけても戀しきは

    いかゝなるらん鈴蟲のはて  (『輪池叢書』蟲の歌合)

[やぶちゃん注:「輪池叢書」国学者で幕府右筆であった屋代弘賢(やしろひろかた)が編纂した江戸中・後期の複数の著作を集めた一大叢書。輪池は弘賢の号。これは困った。何故なら、鈴虫・松虫逆転説の張本人の編になるものだからである。どちらとも言えぬが、何となく歌風は中世以前を模したとは私には思われない。であれば――正しくスズムシ――であろう。逆転説を説いた人物が「虫」の歌合せの一例として引くなら――正しいスズムシでなくては、却ってマズいことになる――とも考えるからである。

2019/11/12

小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「三」・「四」(カネタタキ)

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 啼く蟲を常識の商賣にすることは比較的近代の起原のものである。東京ではその濫觴はやつと寬政年代(一七八九――一八〇〇年[やぶちゃん注:正確には一八〇一年の誤り。寛政十三年二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日)に享和に改元。])に溯るだけのことである。尤もその時代には將軍職の首府はまだ江戶といつて居つた。この事に關する完全な歷史――一部分は舊記から編纂し、一部分は幾軒かの有名な現在の蟲商人の家に保存されて居る言ひ傳へから作つた歷史――が近い頃自分の手へはひつた。

 

 東京での此商賣の元祖は、元越後から出て來たもので、十八世紀の後半に江戶の神田區に住居つてゐた、食べ物を賣り行く忠藏といふ男であつた。或る日のこといつもの町𢌞りをやつて居るうち、當時根岸の里に澤山に居たスズムシ卽ち鈴蟲を二三匹捉へて、それを家(うち)で養つて[やぶちゃん注:「かつて」。]見ようとした。蟲は幽閉の中に殖えて、好い音を出して啼いた。そこで忠藏の近處の人達が、その美しい啼聲に魅せられて少しの御禮をするからスズムシを吳れないかと乞うた。此の偶然の手始めからして、鈴蟲の需用が俄に增して來たので、この食べ物賣は以前の職業を棄てて蟲賣にならうと決心した。

 忠藏は蟲を捉へて來て賣るだけであつた。之を飼養繁殖させれば、もつと利益にならうとは想像もしなかつた。ところが繁殖の事を間も無くその購客の一人――當時靑山下野守に仕へて居た桐山といふ人――が發見した。桐山は忠藏から鈴蟲を幾匹か買ひ求めて、それを濕つた土を半分入れた壺に入れて飼つて居つた。蟲は寒さの時候に死んだが、翌年の夏、最初壺に閉ぢ込められて居たのが土の中へ殘して置いた、卵子から生まれ出たに相違無い、小さなのが澤山壺の中に今棲まつて居るのを見て驚き喜んだ。大事に育てた。すると、自分の歷史家の言ふ[やぶちゃん注:「彼(桐山)の書記の部下が記す」じゃないの?]處に據ると、やがて『小き聲にて啼き初』めるのを聞いて大いに喜んだ。それから實驗を試みて見る事に決心した。そして、雌と雄とを持つて來て吳れた忠藏の力を藉りて、單に鈴蟲ばかりでは無く、他の三種の歌ふ蟲を――邯鄲[やぶちゃん注:「かんたん」。]、松蟲、それに轡蟲を――養殖するに成功した。同時に、壺を暖かい部屋へ置いて置けば、天然の時候よりも餘程前に蟲を孵化さす事が出來る事を發見した。忠藏は桐山の爲めにその家內で養殖した歌ひ手を賣つてやつた。そして兩人は此新事業が思ひの外利益になる事を知つた。

[やぶちゃん注:「靑山下野守」丹波国篠山藩四代藩主青山忠裕(明和五(一七六八)年~天保七(一八三六)年)。

「桐山」不詳。

「邯鄲」私の好きな、直翅(バッタ)目(剣弁)キリギリス亜目コオロギ上科コオロギ科カンタン亜科カンタン属カンタン Oecanthus longicauda

「轡蟲」キリギリス科 Mecopoda 属クツワムシ Mecopoda nipponensis 。]

 桐山が出した手本を、神田區に住まつて居た、安兵衞といふタビヤ卸ち足袋製造者(その職業の理由(わけ)で普通足袋屋安兵衞として知られて居た)が眞似をした。安兵衞も同樣に、蟲の養殖をやる目的で、心を留めて歌ふ蟲の習性を硏究した。そして間も無くそれで一かどの商賣がやつて行けることを發見した。此時分までは、江戶で賣る蟲は、壺か箱の中に入れて置いたもののやうである。安兵衞は蟲の爲めに特別な籠を造らうといふ念を抱いた。ところが、本所區の龜井家の家來で近藤といふ男が此事に興味を持つて、可愛らしい小さな籠を澤山に造つたので、安兵衞は大いに喜んで續々注文をした。此の新發明はすぐと一般の好評を博した。で、近藤はその後すぐと蟲籠の最初の製造場を建てた。 

Zillt050ah

[やぶちゃん注:この附近に配された虫籠の図。英文キャプションは以下。

1. A Form of Insect Cage. 
2. 
Cage for Large Musical Insects,—Kirigirisu, Kutsuwamushi, etc.
3. Cage for Small Musical Insects, or Fire-Flies

訳すと、

1 虫籠の一形状。

2 大型の鳴く虫たちのための籠、――キリギリス、クサヒバリ等々。

3 小型の鳴く虫たち、又はホタルのための籠。

であるが、原画に添えられた添書きは違って、

〔1相当〕 鈴虫松虫籠

〔2相当〕 クツハ虫
          籠
     キリギリス

〔3相当〕 ホタル籠

である。「クサヒバリ」は、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科クサヒバリ亜科クサヒバリ属クサヒバリ Paratrigonidium bifasciatum

であるが、学名にはシノニムがあるので、「小泉八雲 草雲雀 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」を見られたい。]

 

[やぶちゃん注:「龜井家」恐らく石見津和野藩藩主の亀井家(下屋敷が本所にあったようである)である。当時は第八代藩主亀井矩賢(のりかた 明和三(一七六六)年~文政四(一八二一)年)。

「近藤」不詳。]

 歌ふ蟲の要求は此の時から俄に增加したので、忠藏は買つて吳れるお客總てに直接供給するの不可能なことを直ぐと知つた。そこで自分の商賣を卸商に改め、小賣商人だけに賣ることに決定した。注文に應ずる爲めに彼は廣く郊外及び其他の百姓から買ひ求めた。多勢の人を使用した。そして、安兵衞や他の者共は、色々な權利や特典の爲め、年々一定の金額を彼に拂つた。

 それから暫くして、此の安兵衞が歌ふ蟲を賣りあるく元祖になつた。商品を高聲で呼ばはつて町を步いた。だが大勢の下男を傭つて籠をかつがせて居た。傳ふる所に據ると、彼は、町を𢌞はりあるく時は、透綾といふ貴重な絹の織物でつくつた帷子[やぶちゃん注:「かたびら」。]を着、立派な博多

 

【注】カタビラといふは夏衣として使用する種々な輕い織地の名である。材料は普通は麻であるが、時には、此處に述べてある場合のやうに、薄い絹のこともある。そんな著物に透き通つて居るのもあつて非常に美しい。ハカタは、九州に在つて、其處で出來る帶で今なほ有名でもる。その織物は厚くて丈夫である。

 

帶を締めて居たさうである。そして此の優雅な身なりが商賣の上に大いに役に立つたといふことである。

[やぶちゃん注:「透綾」「すきや」(「すきあや」の音変化)透けて見えるような、薄くさらりとした絹織物。本来は縦糸に絹糸、横糸に苧麻(ちょま)を使った。現代では縦糸・横糸ともに絹糸を使う。夏の女性用の着尺(きじゃく:着物を一枚仕立てる際に必要な幅と長さを備えた布地のこと)。]

 ここに、二人の人が、その名前は殘つて居るが、それが間も無く安兵衞と競爭を始めた。一人は、元の職業はサハイニン卽ち財產の世話人であつた、本所區の、安藏安造(やすくらやすざう)といふのであつた。繁昌して、ムシヤス卽ち『蟲賣安』として廣く名を知られるやうになつた。その成功は、元同じくサハイニンをして居た、上野の源兵衞といふ者の心を勢ひ附けて、同じ商賣に入らしめた。源兵衞もまた蟲賣は儲けになる商賣であることを知つた。そして、今でも人の覺えてる[やぶちゃん注:ママ。]、ムシゲンといふ渾名を得た。此男の東京の子孫は飴製造者になつて

 

【注】アメは小麥や他の物質から取つた滋養に富む膠質の抽出物である。キヤンデイとして、糖蜜に類したシラツプ汁として、熱い甘い飮料として、堅いゼリイとして――いろんな形で賣つて居る。子供は頗る之を好む。その主成分は澱粉糖である。

 

居るが、夏と秋の間は、祖先傅來の蟲商賣を今も營んで居る。そしてその店の一人が、親切にも此の一小隨筆に記錄した事實の多くを自分に供給して吳れたのである。

[やぶちゃん注:「サハイニン」差配人。地主や家持ちの人々に代わって、店賃(たなちん)や地代を取り立て、店子(たなこ)を監督する役割を担った民間職。但し、差配人自身は家持ちでも地主でもない。

「安藏安造」不詳。

「上野の源兵衞」「ムシゲン」底本の大谷氏の「あとがき」に、『『蟲の樂師』は譯者が明治三十年』(一八九七年)『十月に提供した材料に據つて物されたものである。原著者が三に述べて居る事は、社會事彙にも依つたのであるが、上野廣小路の松坂屋の向側に居た文中の所謂『蟲源』といふ蟲屋に就いて譯者が聽いたものにも依つて居る』とある。この「社會事彙」とは明治二三(一八九〇)年から翌年にかけて経済雑誌社から刊行された本邦初の西欧的百科事典「日本社會事彙」(全二巻。索引別巻は未刊行)のことで、その「ムシウリ 蟲賣」の項を指す。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここの「ムシウリ」で読め、ここの八雲の叙述が、基本、これに拠っていることが判る。この「虫売り」の本邦での歴史と、「種類及地」・「製造法及捕獲法」など、まことに興味深いものである

 此の珍らしい商賣の父であり、創立者である忠藏は子無くして死んだ。そこで文政年間(一八一八――一八二九年[やぶちゃん注:一八三一年の誤り。文政十三年十二月十日(グレゴリオ暦一八三一年一月二三日)に天保に改元。])の或る頃、その遠緣の山崎淸次郞といふが其跡を引き受けた。山崎は自分の商賣――玩具屋――と忠藏の商賣とを一緖にした。その頃此の都會の蟲賣の數を三十六人と限る法令が出た。その三十六人がそこでオホヤマカウ(大山講)といつて、

 

【注】相模のオホヤマは巡禮者で大いに賑はふ。あの美しい富士の女神の姉妹のイハナガヒメ(「岩長姬」)を祀つた有名な社がある。セキソンサンといふはその神にも、山そのものにも用ふる通俗な名である。

 

相模國大山の石尊(せきそん)樣といふ神樣を守神(まもりがみ)とした組合を造つた。が、商賣の方では此の團體はエドムシカウ卽ち江戶蟲講として知られて居た。

[やぶちゃん注:「山崎淸次郞」高橋千劔破(ちはや)著「花鳥風月の日本史」(二〇一一年河出文庫刊)の「虫売りを商売に江戸っ子」に(幸いにして「グーグルブックス」のこちらで当該部が読める)ここに記された虫売りの小史が載り、最後にはまさに小泉八雲の本篇の掉尾の一文が載るが、そこに彼について『下谷御徒町(したやおかちまち)に住』んでいたと明記してある。]

 キリギリス――詩人其角が千六百八十七年に江戶で買はうとして買へなかつたといふあの蟲が江戶で賣られたことを我々が聞くのは、上述の商組合が出來てから後初めてである。ムシヤカウジラウ(蟲屋孝次郞)といふ、本所區で蟲賣をして居た、此組合の一人が、その鄕里上總ヘ一寸行つて江戶へ歸る時、澤山の蟋蟀[やぶちゃん注:これは「キリギリス」と読んでいることに注意!]を携へ歸つて、それを賣つて大いに儲けた。他所では長い間有名であつたのに、江戶ではそれまで此蟲は賣らなかつたのである。

 『水野越前守マチブギヤウ(町の奉行)となりし時、蟲賣の人數を三十六人と限る法令廢止された』と歷史は言うて居る。前記の組合は其後解散したかどうか、此の歷史は記載して居らぬ。

[やぶちゃん注:前記の高橋氏の著書には、さらに「天保の改革」の煽りを食って、この『株仲間三十六人衆は解散させられてしまった』とある。

 歌ふ蟲を人工的に養殖した元祖の桐山は、忠藏の如く、商賣に繁昌した。龜次郞といふ息子を殘して死んだが、その子は牛込區早稻田に住居して居た湯本某の一家へ養子に入つた。龜次郞はその父の職業の貴重な祕傳を湯本家へ持つて來たので、湯本家は今でも蟲の養殖業に有名である。

[やぶちゃん注:「桐山」或は「湯本」「龜次郎」は不詳。ただ、早稲田は小泉八雲が東京で住まっていた富久町と場所的に近いから、確認は容易であったことと思われる。この辺りまでは、「日本社會事彙」におんぶにだっこであることが判る。

 今日東京で一番大きな蟲商人は四谷區左門町の川住兼三郞だと云はれて居る。小商人は大抵はその秋の仕入を此人から得る。然し人工的に養殖して夏賣る蟲は、多くは湯本家から供給せられる。他の知名な商人は下谷區の蟲淸と淺草の蟲德である。此等二人は田舍で捕つて百姓が東京へ持つて來るのを買ひ込むのである。エンニチ卽ち宗敎上の祭禮中、寺社の附近で――殊に日が暮れてから――蟲賣をする多勢の蟲商人へ、籠も蟲も卸商人が供給するのである。一年中殆ど每晚のやうに此都會の何處かに緣日がある。だから蟲屋は夏と秋の幾月の間滅多に閑では居らぬ。

[やぶちゃん注:「川住兼三郞」原文に従えば、「かわすみかねさぶろう」ではある。不詳。]

 

 歌ふ蟲の東京の目下の値段の下記の表は、或は讀者に興味があるかも知れぬ、――

[やぶちゃん注:以下、全体が五字下げでポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて同ポイントで示した。字空けも再現していない。]

 

鈴 蟲      三錢五厘から四錢

松 蟲      四錢から  五錢

邯 鄲      十錢から 十二錢

金雲雀      十錢から 十二錢

草雲雀      十錢から 十二錢

黑雲雀      八錢から 十二錢

轡 蟲      十錢から 十五錢

大和鈴      八錢から 十二錢

蟋 蟀      十二錢から十五錢

閻魔こほろぎ   五錢

鉦 叩      十二錢

馬 追      十錢

[やぶちゃん注:本作品集は明治三一(一八九八)年刊であるが、明治三十三年の物価を示しておくと、米一升が十二銭、砂糖一キログラムが十六銭、鶏卵一個が二・四銭、ビールが二十一銭、コーヒー一杯二銭であった。

「大和鈴」後で出た際に、また、注するが、私が全く知らなかった名であるので、特異的に注しておくと、これは直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科ヒバリモドキ亜科ヤマトヒバリ属ヤマトヒバリ Homoeoxipha obliterata の異名である。

 

 が然し、この値段は、蟲商賣の多忙な時節だけのものである。五月から六月の末までは――人工的に養殖されたのだけが市場へ出るのであるから――値段が高い。七月には、田舍から持つて來る蟋蟀は一錢といふ安値で賣る。邯鄲、草雲雀、大和鈴は時には二錢といふ廉價で買はれる。八月になると閻魔こほろぎを十匹一錢で買へる。九月には黑雲雀、鉦叩、馬追が一匹二錢若しくは一錢五厘で買へる。だが鈴蟲と松蟲との値には、どの季節にも餘り變化は無い。非常に高いこともないが、三錢より廉いことは無い。そしていつも需用[やぶちゃん注:ママ。]がある。鈴蟲が一番人氣がある。每年蟲商での利益の大部分はこの蟲の賣却で得られるのだといふことである。

[やぶちゃん注:なお、以上では、和名・異名・旧民俗社会的和名(異名)が混雑して示されていることから、一部を除いて、意識的に学名を記すのを控えた。以下の「四」以降で、各個に小泉八雲が解説してゆく中で、検証をする。

 

 

       

 前揭の値段表で分かるやうに、啼く蟲を十二種類東京で賣つて居る。人工的に養殖の出來るのは九つ、――卽ち、鈴蟲、松蟲、蟋蟀(きりぎりす)、邯鄲、轡蟲、閻魔蛼[やぶちゃん注:「えんまこほろぎ」。]、金雲雀、草雲雀(朝鈴ともいふ)、それに大和鈴又の名吉野鈴。三種類は聞くところに據ると、養殖して賣るのでは無くて、捉へて來て市へ出すのである。それは鉦叩、馬追又の名機織[やぶちゃん注:「はたをり」。]、それと黑雲雀である。だが每年賣りに出る此等蟲類全體のうち、餘程の數はその本來往まつて居る處で捕獲したものである。

[やぶちゃん注:「蟋蟀(きりぎりす)」前に既に「二」の終りで問題にしたことなのであるが、ここに関しては、残念ながら(主に私にとって、である)キリギリスを指していると採らざるを得ない気がしている。ここは原文が総て日本語のローマ字転写で記されてあること、江戸時代後期に「キリギリス」の鳴き声を聴くために江戸で売られ始めたと、前で盛んに小泉八雲が語った後であること、また、ここで「閻魔蛼」(エンマコオロギ)をすぐ後に出している以上は、という点からである。

「黑雲雀」「五」で考証する。]

 

Zillt057h

[やぶちゃん注:キャプションは、

KANÉTATAKI (“THE BELL-RINGER”) (natural size).

で、

カネタタキ(「鐘叩き」)(実物大)

和文添え辞は、

「金タヽキ」

である。これは、私が、その音(ね)を偏愛する

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科カネタタキ科カネタタキ属カネタタキ Ornebius kanetataki 

である。成虫は八月から十二月にかけて出現し、夜行性。♂は夏から初秋にかけては夜間、次第に気温が低くなってからは昼夜を問わず、梢や叢の中で「チッチッチッチッ」という小さな声で鳴く。和名は、この♂の鳴き声が鉦を叩く音に似ていることによる。但し、♂同士が接近した場合、「チルルチルル! チルチル! チルルルルルル!」という「競い鳴き」に変化する(以上はウィキの「カネタタキ」に拠った)。「手釣りのロダン」氏の「カネタタキの観察」のページで、画像や解説、温度差によるカネタタキの音色の変化も楽しめる。「千葉県立中央博物館」の「虫の音声」の「カネタタキ」のページでは、更に温度差四種の泣き声を聴くことが出来る。]

 

 夜啼く蟲は、殆ど例外無しに、容易に捕ることが出來る。提燈の助を藉りて捉へるのである。明かりには直ぐ惹き附けられるから、提燈へ近寄つて來る。人に見えるほどに近附いた時、網か小さな籠かで容易く蔽ふことが出來るのである。雄と雌とは通例同時に取れる、對(つゐ)になつて步き𢌞つて居るから。雄だけが歌ふ。が雌も繁殖の目的を以て、或る數だけいつも捉へる。雄と雌とは繁殖の爲めだけに同じ器に入れて置く。皿の中へは決して一緖に置いて置かぬ。番(つが)ふと雄は歌はなくなり、交尾後間も無く死んでしまふからである。

[やぶちゃん注:雑食性のスズムシの場合、産卵のために足りない栄養を補うため、交尾後、ぐずぐずしていると、♂は♀に食べられてしまうことはとみに知られている。小泉八雲はそれを知っていたと思う。しかし、書かなかったのではないか。そこに私は彼の優しさを見るのである。

 繁殖用の夫婦ものは濕つた土を半分許り入れた壺か或は土燒の器(うつは)かへ入れて置いて、每日新しい食べ物を供給してやる。長くは生きて居らぬ。雄が先きに死ねるが、雌も卵を生んでしまふ迄しか生き延びて居らぬ。その卵から孵化した蟲の子は、生後四十日許りで皮を脫いで、それからずんずん大きくなつて、やがて充分の發達を遂げる。自然の狀態では、ドヨウ卽ち舊曆で極暑の時節の一寸前頃、――卽ち七月の央ば[やぶちゃん注:「なかば」。]頃――孵化する。――そして十月に歌ひ始める。が、溫かい部屋で育てると、四月の初に孵化する。そして注意して養ふと、五月の末前に賣りに出せる。極く若い折には、食べ物は搗き碎いて、それを滑らかな木片に貼つて與へるが、成長したのへは調理してないものを通例あてがふ――茄子だとか、瓜の皮だとか、胡瓜の皮だとか、或は白葱の柔らかい內部だとかの切り屑である。が然し特別な食物の要る蟲もある。――例をあぐれぱ、油きりぎりすは砂糖水と甜瓜[やぶちゃん注:「まくはうり」。]の薄片とで養ふ。

[やぶちゃん注:「油きりぎりす」褐色をしたキリギリスの個体呼称。生育環境の違いにより出現する。本邦産のキリギリスは四種いるとされるが、その内、代表的な種は、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 キリギリス族キリギリス属ニシキリギリス Gampsocleis buergeri(本州西部(近畿・中国)・四国・九州に分布)

と、

ヒガシキリギリスGampsocleis mikado(青森県から岡山県(淡路島も含む)にかけて分布)

である。【2025年4月21日追記】他に、有力候補の一つとして、

キリギリス科ササキリ亜科 Copiphorini 族クビキリギス属クビキリギス Euconocephalus thunbergi

を追加しておく。当該ウィキによれば、『クビキリギリス』(「首螽斯」か)『ともいう』。分布は『日本。北海道(但し南端のみ。植物等荷物について移入したものと思われる。)関東地方以西の本州、四国、九州、南西諸島』。『成虫の体長は』五・五~六・五センチメートルで、『体色は緑色と褐色の個体が見られる。時に赤色のものがいて「赤いバッタ(キリギリス)」として話題になることがある。緑色/褐色は終齢幼虫時代に過ごした環境の湿度によって決定される。すなわち、野生下で豊富な植物群中で過ごすということは湿度が高い環境で過ごすことを意味し、緑色型として羽化し、そうでない環境で育った幼虫はたとえ終齢まで緑色であっても褐色型の成虫になる。逆に、湿度の高い容器で飼育すると植物が全く無くても緑色型になる。また、褐色型のメスは、赤色のクビキリギスより珍しいと言われている』。『体長そのものはキリギリスやヤブキリ』(キリギリス亜科ヤブキリ族ヤブキリ属ヤブキリ Tettigonia orientalis )『を凌ぐが、体高が低く』、『体型は全体に細長く鋭角的である。ショウリョウバッタ等に似て頭部は著しく前傾し頂部は尖る。口の周囲が赤く、大顎は強大に発達する。メスの産卵管は剣状である。羽の間に隠れてしまい一見では雌雄の区別が困難だが、発音器の有無やメスの方が僅かに大きいこと、前胸の白線の有無(メスにはない)で区別できる。なお褐色型では胸の白線が不明瞭となるためより注意が必要である』。『口の周囲が赤いことから俗称「血吸いバッタ」と呼ばれることもある』。『よくカヤキリ』(キリギリス科ササキリ亜科カヤキリ属カヤキリ Pseudorhynchus japonicus )『やクサキリ』(ササキリ亜科 Copiphorini 族クサキリ属クサキリ Homorocoryphus lineosus )『などと間違われることがあるが、体長が小型なこと、頭部が黄色味を帯びないことで区別できる』。『また、別種でズトガリクビキリ』(キリギリス科 Pyrgocorypha 属 Pyrgocorypha subulata :南西諸島・中国・台湾に分布)『がいるが、本種とは分類的に関係は無い。むしろカヤキリに近い』。『林に隣接する草原等で、イネ科の草本の茂みに生息する。夜行性。春〜初夏に草本や樹上、水田の土手など色々な場所で鳴き、鳴き声は日本語圏では「ジーーー」ないし「ヴィーーー」と電気の変圧器のように聞こえる。声の似るケラとしばしば聞き間違えられるが』、『ケラ』(キリギリス亜目コオロギ上科ケラ科ケラ Gryllotalpa orientalis )『が地中、地表で鳴いているのに対し、本種は草上や樹上で鳴いている。初夏になり』、『気温が上がると朝に鳴くこともある』、『本来の生息環境で目視されることは稀で、人目に触れるのは』大概、『灯火に飛来した個体である。公衆便所、公衆電話、コンビニエンスストア、自動販売機等の垂直面に付着している姿がしばしば見られる』。『食性は植物食傾向の強い雑食で、昆虫類、イネ科植物の穂や若芽等を食べる。顎の力が強く、噛みつかれた状態で強く引っ張ると頭部が抜けることが和名の由来になっている。このように顎の力が強いため』、『大きく固い穂、種子も食べることができる。また、引っ張ると比較的首が抜けやすいのは、首の関節が意外と細く、頭頂部寄りにあり、まっすぐ引っ張られると折れてもぎれる形になるからである』。『非常にまれにカヤキリのような威嚇行動をとることもあるが』、『長時間する事はなく、すぐ逃げる』。『彼らの生活環はツチイナゴ』(直翅(バッタ)目バッタ亜目バッタ科ツチイナゴ亜科ツチイナゴ属ツチイナゴ Patanga japonica )『や訪花性のハナムグリ亜科』(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科ハナムグリ亜科 Cetoniinae)『に相似した独特のものである』。七『月中旬から下旬にかけ孵化した幼虫は』九『月下旬から』十『月頃に成虫となり、そのまま越冬に入る。そして翌春から初夏にかけて交尾や産卵などの活動を本格的におこなう。産卵は草本の葉と茎の節目、裏側などにズラリと規則正しく並べておこなわれる』。『卵は初夏から夏にかけて孵化する。秋には羽化し成虫になり、そのまま冬眠する』。『翌年の』五~六『月に交尾、産卵を行うが、その後も相当数の個体が生存し続け、7月に入っても多くが健在である。さらに飼育下では再越冬に突入し』、二『度目の春を迎える例すらあるという。このため』、『クビキリギスは、孵化から数えると丸』一『年以上』から二『年近くも生きている長命なキリギリスといえる。また、クビキリギスのメスには単為生殖の能力があり、オスと交尾しなくても産卵して子孫を残すことができる』とある。

「甜瓜」スミレ目ウリ科キュウリ属メロン 変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa。]

小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「一」・「二」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Insect-Musicians ”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第一パート“ EXOTICS ”の第二話目である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月21日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。大谷氏の癖で、私はかなり違和感があるのであるが、本文の文の途中を、突然、切断して原注を挿入する部分や引用が入るが、そこでは底本ではポイント落ちで全体が三字(引用)・四字下げ(註。ポイントは引用ではさらに落ちたりしている)となっているが、ブラウザの不具合を考えて、行頭に引き上げ、本文と同ポイントとし、前後を一行空けて示した。ただそれらが本篇では異様に混じりあって、本文との区別がつかなくなるので、今回は本文だけを読みたい方のために、特異的に【注】・【引用】という私の配した柱を頭に附すこととした。なお、虫は後で個別に示されるので、そこで注した。

 全六章と長いので、七回の分割公開とする。底本では全体は六回であるが、私がよいと考える特殊な注(主に生物学上の種の同定比定に関わる理由に拠る)を附せる関係上、変則分割としてあることを、お断りしておく。また、底本には挿絵が一切ないが、上記の“Internet Archive”にある【2025年4月21日削除・変更】今回、比較してみたところ、“Internet Archive”のものは、サイズが小さく、明瞭度も今一つであったので、“Project Gutenberg”にあるものの方が遙かに大きく、明瞭であったことから、その原本画像を総て使用し(旧画像は破棄した)、適切と思われる位置に挿入、その英文キャプションをも、そこで訳しておくことにした。

 

 

   蟲 の 樂 師

 

 

    蟲よ蟲ないて因果が盡きるなら ――日本の歌

 

 

       

 諸君がいつか日本見物をされるなら、少くとも社寺の祭――緣日――を一つ是非見に行くやうにされたい。どんなものもが無數のラムプと提燈との光で、非常に引き立つて見える夜分に、このお祭は見なければならぬ。此の經驗を有たぬうちは、日本はどんなものか諸君に分かりやうが無い――尋常一般の人達の生活に見出さるべき、風變りと可愛らしさとの眞の妙味を、奇怪と美しさとの不思議な融合を、諸君は想像も出來ないのである。

 そんな晚には、筆にも書けぬいろんな玩具――優雅な子供じみた品物、破れ易い驚嘆させる品物、笑を催させる珍妙な品物――が一パイに並べてある小屋掛の目の眩むやうな小徑をば、諸君は多分見物人の流れと共に暫く自己(み)[やぶちゃん注:二字で「み」とルビする。]を漂はしめるであらう――鬼や神や化物の見世物を認めるであらう。――萬燈――怪異な顏が描いてある、非常に大きな透かし繪の提燈――に膽を潰すであらう。――手品師、輕業師、劍舞師、占者を瞥見するであう。――人聲の騷々しさを抽んでて[やぶちゃん注:「ぬきんでて」。]、絕え間無しの笛の音(ね)、太鼓の音(おと)を到る處に耳にするであらう。そんなものはどれも立ち停つて見る價値は無いかも知れぬ。然しやがて諸君は、自分はさうと殆ど確信して居るが、その遊步の間に、何とも喩へやうの無い銳い声が出で來る小さな木製の籠を澤山備へて居て、幻燈のやうに光り輝いて居る小屋掛を立ち停つて見ることであらう。その小屋掛は歌ふ蟲をあきなふ商人の小屋掛で、聲音のその嵐は蟲が發するのである。それは奇妙な觀物で、外國人は殆どいつも之には惹きつけられる。

 だがその一時的な好奇心を滿足してから、特殊な色々の子供の玩具があつたことは見たが、他には何も大して目に立つものは見なかつたといふ念を抱いて、外國人は大抵は步いて行く。東京だけでの蟲商賣が幾千弗[やぶちゃん注:「ドル」。]の價値のものだと云ひきかせれば、それは容易に了解するであらう。が、蟲が發する音色の特性の爲めに、蟲それ自體が珍重されて居ると證言されると、屹度驚くことであらう。非常に上品なまた藝術的な國民の美的生活に於て、此の蟲なるものが、西洋の文明に於て、鵯、紅雀、ナイティンゲェル及びカナリヤが占めて居る地位に劣らぬ重要な若しくは十分至當な地位を占めて居る、といふことを納得させるのは容易ではあるまい。千年も經つて居る文學が――奇妙なそして微妙な美に充ちた文學が――この短命な寵愛者たる蟲といふ題目の上に存在して居ることを、どんな外國人が創造し得よう?

[やぶちゃん注:「幾千弗」明治三〇(一八九七)年年(本書は明治三十一年刊)の為替レートでアメリカドルは一ドルが二円であるから、過少に見積もって、例えば、四掛けで八千円としても、当時の貨幣価値(信頼出来るサイトでの一円を二万円相当として)から換算すると、八千万円。東京全域の虫屋の取引総額なら、高額の虫は驚くべき値段で取引されたらしいから、決して大袈裟な金額ではなかろうと思う。

「鵯」これは「ひよどり」でスズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis であるが、春には、毎朝、家にやってくる常連だが、一度として、その鳴き声を美しく感じたことはない。私には、頻りに鳴けば、五月蠅いばかりであるから、『欧米人はヒヨドリを美声と思うのか?』と大いに不審を持った。いやいや! 当該ウィキによれば、『日本、サハリン、朝鮮半島南部、台湾、中国南部、フィリピンの北部』『(ルソン島』『)に分布する。日本国内では留鳥または漂鳥としてごく普通に見られるが、他の地域での生息数は少ない』とあるが、その分布図を見ると、そこ以外には分布がない! 則ち、ヒヨドリは欧米には分布しないのだ! そこで、慌てて、原文を見たところが、“thrushes”とあった。これは「鶫」=スズメ目ツグミ科ツグミ属 Turdus のツグミ類を指し、特にヨーロッパでは、★同属のクロウタドリ(黒歌鳥) Turdus merula が囀りの美声で知られるので、これに同定され、結果!――この「鵯」は――✕誤訳――であることが判明したのである! 或いは、植字工の誤植かも知れない。因みに、平井呈一氏は正しく「ツグミ」と訳しておられる。

「紅雀」原文“ linnets ”。スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ属ムネアカヒワ Carduelis cannabina を指す。同種はヨーロッパ・西アジア・北アフリカにしか分布しない。因みに、この漢字名に本邦で一致をみるのは、スズメ目カエデチョウ科ベニスズメ属ベニスズメ Amandava amandava であるが、当該ウィキによれば、『姿も鳴き声も美しいので』十八『世紀から輸入され飼われてきた。日本で野外における繁殖が確認されたのは』、『高度経済成長がはじまった』一九六〇『頃からで』、一九七〇『年代から』一九八〇『代頃には日本各地で繁殖が確認されたが、近年は激減したようである』とあった。

「ナイティンゲェル」“nightingales”。スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ(小夜啼鳥)Luscinia megarhynchos 。「西洋の鴬(うぐいす)」とも称されるほどに鳴き声の美しい鳥とされる。謂わずもがなであるが、本邦には分布しない。当該ウィキによれば、『ヨーロッパ中央部、南部、地中海沿岸と中近東からアフガニスタンまで分布する。ヨーロッパで繁殖した個体は冬季にアフリカ南部に渡りをおこない、越冬する』とある。但し、私はナイチンゲールの鳴き声は、必要があって、YouTubeで複数回、視聴したが、五月蠅いとしか感じなかった。

「カナリヤ」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria 。無論、本邦には分布しない。当該ウィキによれば、『野生種はアゾレス諸島、カナリア諸島、およびマデイラ諸島に産し』、『名のカナリアは原産地の』スペイン領の『カナリア諸島による。飼養種はほぼ世界中で飼われている。 これら以外に、かご抜けした飼養種がバミューダ諸島、ハワイのミッドウェイ環礁、プエルトリコで再野生化している』とある。ダメ押しだが、カナリアも、知人が飼っていたが、私には、やっぱり五月蠅いばかりであった。]

 

 此の一文の目的とするところは、さる事實を解說して、日本人生活の最も興味ある委細な點に對して、我が西洋の旅客が無意識に如何に皮相な判斷を下すことがあるかを示すにあるのである。が、そんな誤つた判斷は避け難いものであると共に、また當然なものである。どんな親切な意向を以てしても、日本人の慣習中の異常なものに就いては――異常なものといふものは外國人はそれに就いて少しも知り得ない感情や信仰や或は思想に殆どいつも關係を有つて居るものだからして――そのどんなことをも、ただ一寸見ただけで、正確に、評價することは不可能である。

 

 話を進める前に、自分が語らうとして居る、家に飼ふ蟲は、大抵は夜の歌ひ手で、前に自分が書いた隨筆の中に記載した蟬と混同してはならぬと述べさせて貰はう。自分は蟬は――音樂的な蟲に日本ほど斯くも格別に豐富な國に於てすら――それ獨得な不思議な樂手であると思ふ。が、日本人は夜の蟲と蟬との聲音に、我々が告天子[やぶちゃん注:ヒバリ。]と雀との聲音に見出すと同じ差別を見出して、蟬をば饒舌家といふ下等な位置へ黜けて居る[やぶちゃん注:「しりぞけてゐる」。「黜」は音「チュツ・チュチ」(現代仮名遣)で、「職務を辞めさせる・追い出す・しりぞける」、「格下げする・おとしめる」の意。]。だから決して蟬を籠へ入れぬ。籠の蟲に對する國民的愛好は、ただの騒音を好んで居るといふことを意味して居るのでは無い。――一般に好かれて居る一々の蟲の聲音に、何か呂律[やぶちゃん注:「ろれつ」(「りょりつ」の音変化)で、ここはその動物が鳴く際の「調子・響き具合・音色」の意。]の上の妙味があるか、或はまた、詩歌に若しくは傳說にもてはやされて居る何か類似の性質があるか、しなければならぬ。蛙の歌を日本人が好むのに就いても同一の事實が認められる。どんな種類の蛙でも音樂的だと思うて居るのだと想像するのは誤解で、好い音を出す、特別な種類の非常に小さな蛙が居るので、籠に入れて飼つて愛玩するのはその蛙である。

[やぶちゃん注:【2025年4月21日追記】蛙の鳴き声については、小泉八雲は、食指が動かなかったものか、ほかの著作でも本格的な言及が認められない。この後に電子化注した「日本山海名産図会 第四巻 河鹿」が、よく書けているので、是非、読まれたい。カジカガエルの鳴き声もリンクさせてある。]

 言ふまでも無く、その語の本當の意味で、蟲は歌ひはせぬ。が、これからの頁の中に、自分は時折『歌ひ手』とか『歌ふ蟲』とかいふ語を使用するかも知れぬ、――それは一つは、さういふ語が便宜な爲めと、一つは、こんな動物の『聲』を述べる折の、日本の蟲賣や詩人が使ふ言語と一致して居るからである。

 

 

       

 舊日本の古典文學の中に、好い音を出す蟲を飼ふ習慣を示した珍らしい文句が澤山にある。一例を擧げると、十世紀の後半に、紫式部が書いた『源氏物語』といふ有名な小說のうちの『野分(のわき)』といふ章に『わらはべおろさせ給ひてむしの籠(こ)どもに露かはせ給ふかなりけ

 

【注】『ノワキ』といふは普通秋の末ころ起こる或る破壞的な暴風に與へて居る名である。「ゲンジモノガタリ」の各章は悉く非常に詩的な、そして感銘的な題名を有つて[やぶちゃん注:「もつて」。]居る。末松謙澄氏がされた、初めの十七章の英語譯がある。

[やぶちゃん注:「末松謙澄」(けんちょう 安政二(一八五五)年~大正九(一九二〇)年)はジャーナリスト・政治家・歴史家。文学博士号と法学博士号を持ち、帝国学士院会員。福岡県生まれ。伊藤博文は義父。伊藤内閣の逓信や内務大臣を歴任する一方、明治一四(一八八一)年十月からケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジへ入学し、法学部を専攻した。英語力その他の学才を生かして「源氏物語」の最初の英訳(明治一五(一八八二)年)やローマ法に関する論文等、著書は多数多岐に及ぶ。]

 

り』といふ文句がある。だが歌ふ蟲を入れる籠のことを初めて判然と記載してあるのは、『著聞集』といふ書物のうちにある次記の文であるやうに思はれる。――

 

【引用】『嘉保二年(西曆紀元一〇九五年)八月十二日殿上のをのこども嵯峨野に向て蟲を取て奉るべきよしみことのりありて、むらごの絲にてかけたる蟲の籠を下されたりければ。貫首已下みな左右馬寮の御馬にて向ひける 藏人辨時範馬のうへにて題を奉りけむ。野徑尋蟲とぞ侍ける。野中に至りて僮僕をちらして蟲をばとらせけり。十餘町ばかりはおのおの馬よりおり步行せられけり。ゆふべにをよんで蟲をとりて籠に入て内裏へかへり參り、萩女郞花などをぞ籠にかざりたりけり。中宮の御方へまゐらせて後殿上にて盃酌朗詠など有けり』[やぶちゃん注:「向ひける」の後に句点がなく字空けなのはママ。]

 

【注】ハギは英國のプッシュ・クローヴに普通與へて居る名。ヲミナメシは學名ヷレリアナ・オフイシナリスの通俗な名。

 

[やぶちゃん注:前の「源氏物語」のそれは、第二十八帖「野分(のわき)」の終りの方で、舞台は六条院内。激しい野分の翌日、夕霧が光の名代として光の「秋好む中宮」を見舞うシークエンスの初めで、彼が垣間見する冒頭部に出る。

   *

 中將、下(お)りて、中の廊の戶より通りて、參りたまふ。朝ぼらけの容貌、いとめでたくをかしげなり。東(ひむがし)の對(たい)の南の側に立ちて、御前(おほんまへ)の方を見やりたまへば、御格子(みかうし)、まだ二間(ふたま)ばかり上げて、ほのかなる朝ぼらけのほどに、御簾(みす)卷き上げて人びとゐたり。高欄に押しかかりつつ、若やかなる限り、あまた見ゆ。うちとけたるはいかがあらむ[やぶちゃん注:誰も見ていないと思ってのラフな姿を言う。]、さやかならぬ明けぼののほど、色々なる姿は、いづれともなく、をかし。

 童女(わらはべ)、下ろさせたまひて、蟲の籠(こ)どもに、露飼(つゆか)はせ[やぶちゃん注:露を与えてやって。]たまふなりけり。紫苑(しをん)[やぶちゃん注:襲(かさね)の色目(いろめ)。表・薄紫、裏・青。]、撫子[やぶちゃん注:同前で表・紅梅、裏・青。]、濃き薄き衵(あこめ)[やぶちゃん注:童女の上着。]どもに、女郞花(をむなへし)[やぶちゃん注:同前。表・経(たて)青に緯(よこ)黄の織物、裏・黄。]の汗衫(かざみ)[やぶちゃん注:宮仕えの正装として童女が上につける女児用の薄手の上着。]などやうの、時にあひたるさまにて、四、五人連れて、ここかしこの草むらに寄りて、色々の籠ども[やぶちゃん注:彩色を施してある虫籠。]を持てさまよひ、撫子などの、いとあはれげなる枝ども[やぶちゃん注:前日の野分にひどく痛めつけられた草々。]、取り持(も)て參る、霧のまよひ[やぶちゃん注:霧に見え隠れすること。]は、いと艷(えん)にぞ見えける。

   *

 その次の後半の引用は、鎌倉中期に成立した世俗説話集「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう:伊賀守橘成季が編纂したもので、「今昔物語集」に次ぐ大部の説話集。建長六(一二五四)年頃に初期形が成立、後年、増補されたものと考えられる)の最終の「卷第二十 魚蟲禽獸」の中の「嘉保(かほう)二年八月、殿上人、嵯峨野に蟲を尋ぬる事」である。最後に省略があるので、以下に注(「新潮日本古典文学集成」(西尾・小林校注/昭和六一(一九八六)年刊)の頭注を参考にした)入れつつ示す。詔(みことのり)は当代の堀河天皇のそれとなる。

   *

 嘉保二年八月十二日[やぶちゃん注:一〇九五年。グレゴリオ暦換算では九月十九日。]、殿上のをのこども、嵯峨野に向ひて、蟲をとりて奉るべきよし、みことのりありて、むらごの絲[やぶちゃん注:同色であるが、意識的に部分部分に斑(むら)が出るように染めた糸で制したもののこと。]にてかけたる蟲の籠をくだされたりければ、貫首(くわんじゆ)[やぶちゃん注:蔵人頭(くろうどのとう)。この時は源師頼。当時二十六歳。]以下、みな左右(さう)の馬寮(めれう)の御馬に乘りてむかひけり。藏人の辨時範[やぶちゃん注:蔵人でありながら、太政官内の要職である「弁」を兼務した者。平時範。当時四十二歳。]、馬のうへにて題を奉りけり。「野徑(のみち)に蟲を尋(たづ)ぬ」とぞ侍りける。野中にいたりて、僮僕(どうぼく)[やぶちゃん注:召使いの少年。]をちらして、蟲をば、とらせけり。十餘町[やぶちゃん注:十町は一キロ九十一メートル。]ばかりは、各(おのおの)馬よりおり、歩行(ほぎやう)せられけり。夕(ゆふべ)に及んて、蟲をとりて、籠に入れて、内裏へかへりまゐる。萩、女郎花(をみなへし)などをぞ、籠(かご)には、かざりたりける。中宮[やぶちゃん注:堀河天皇中宮で御三条天皇第四皇女篤子内親王。]の御方(おんかた)へまいらせて後(のち)、殿上にて盃酌、朗詠などありけり。歌は、宮の御方にてぞ講ぜられける。簾中よりもいだされたりける、やさしかりける事なり。

   *]

[やぶちゃん注:原文注は“ Hagi is the name commonly given to the bush-clover. Ominameshi is the common term for the valeriana officinalis. ”。「bush-clover」はマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza のハギ類の英語の総称。ハギ類には各種あるが、本邦で代表的なのはヤマハギ Lespedeza bicolor であろう。「ヲミナメシ」郎花(歴史的仮名遣「をみなへし」)。本邦のそれはマツムシソウ目オミナエシ科オミナエシ属オミナエシ Patrinia scabiosifolia「オミナメシ」(歴史的仮名遣では「ヲミナメシ」)は誤りではなく、立派な汎用通称の一つで、小学館「日本国語大辞典」によれば、これは室町以降に多用されたもので、方言として今も「おみなめし」は大和・岡山・福岡にあるとする。小泉八雲が学名で示したのは、同じオミナエシ科 Valerianaceae ではあるが、別属のカノコソウ属セイヨウカノコソウ(西洋鹿の子草)Valeriana officinalis であって、別種であるウィキの「セイヨウカノコソウ」によれば、英名を「ヴァレリアン」(Valerian)と呼び、ヨーロッパ原産で、根や茎は不眠症や精神高揚等に効果がある薬草として用い、ドイツでは不眠症改善や精神安定剤としての使用が承認されており、『古くから薬草として利用され、中世では修道院の薬草園で盛んに栽培され』ていた、とある。日本には自生しないので、この八雲の指示は誤りである。但し、現在の日本では栽培はされている。]

 

 これが蟲取りの最も古い日本の記錄のやうに思はれる、尤もその娛み[やぶちゃん注:「たのしみ」。]は嘉保年代より前に發明されて居たかも知れないが。これは十七世紀までに一般の娛樂となつたらしく、そして夜間取ることは晝間取ることと同樣好んで誰れもが行つた。承應二年(一六五三年)に死んだ貞德といふ詩人の全集の『貞德文集』といふ書物に、此詩人の一通の手紙の、此題目に關した頗る興味ある文句の含まれて居るのが、保存されて居る。其友人へ詩人は斯う書いて居るのである。『晚景蟲吹可罷出候黑月闇無用心候へ共盆前は墓參仕る者繁候而路次賑敷候行燈挑灯聚置候へ者促織松蟲蛬幾等も寄聚候』

[やぶちゃん注:「貞德」松永貞徳(元亀二(一五七一)年~承応二(一六五三)年)江戸前期の俳人・歌人・歌学者。名は勝熊。別号に逍遊軒・長頭丸・延陀丸など。連歌師の子として生れ、九条稙通(たねみち)や細川幽斎らから和歌・歌学などを、里村紹巴から連歌を学び、一時は豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として、俳諧を全国的に普及させた功績は大きく。松江重頼・野々口立圃(りゅうほ)・安原貞室・山本西武(さいむ)・北村季吟といった多数の有力門人を全国に擁した。歌人としては木下長嘯子とともに地下(じげ)歌壇の双璧をなし、狂歌作家としても一流であった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。小泉八雲が掲げたものを一応、勝手流で訓読しておく

   *

晚景、「蟲吹(ふ)き」[やぶちゃん注:虫採取。竹筒の一方に紗の布を張り、反対側を虫に被せると、虫が筒を這い上がって来る。それを布袋や虫籠に向けて吹いて捕える法。]に罷(まか)り出づべく候ふ。黑月(こくげつ)の闇、無用心に候へども、盆前は、墓參り仕(つかまつ)る者、繁(しげ)く候ふ。而して、路次(ろし)[やぶちゃん注:墓地に行く野中の道筋。]、賑(にぎ)は敷(しく)候ふ。行燈・挑灯聚(あつ)め置き候へ者(ば)、促織(はたおり)・松蟲・蛬(こほろぎ)、幾等(いくら)も寄せ聚められ候ふ。

   *]

 

【注】死者の大祭の前に墓を飾りに、墓地へ每晚行く人が澤山にあるから、との意。

 

 それからまた、蟲賣(ムシヤ)の商賣が十七世紀にはあつたものらしい。といふは、『其角日記』といふ、當時の或る日記に、作者は江戶で蟲賣を一人も見つけなかつたので失望したと述べて居る。他處でそんな者に會つたことがあるといふ可なり立派な證據である。『貞享四年(一六八七年)六月十三日、きりぎりす商賣致し候者相尋候町々覺、四谷、麹町、本鄕、湯島、神田すだ町二丁分相尋候處一人も見え不申』と書いて居るのである。

 

【注】この町名の多くは現今の東京の誰れも知つて居る區の名に殘つて居る。

[やぶちゃん注:「其角」無論、蕉門の十哲の第一の高弟とされ、芭蕉没後は日本橋茅場町に「江戸座」を開き、江戸俳諧で一番の勢力を持った御大宝井其角(たからいきかく 寛文元(一六六一)年~宝永四(一七〇七)年)。

「町々覺」は「町々の覚書き」の意か。しかし、なかなか意外である。逆に、江戸では、この頃は、未だ「虫売り」(「きりぎりす」と限定はしている)はいなかったことを証拠立てる一つとなるからである。ただ、所持する三谷一馬著「江戸商売絵図」(一九九五年中高文庫刊)を見ると、寛政一〇(一七九八)年板行の北尾重政画の「繪本四季交加」(ゑほん しきのゆきかひ)には、多様な虫籠を店に揃えた虫売りが描かれており、呉陵軒可有編の知られた川柳風狂句集「誹風柳多留」(初篇は明和二(一七六五)年板行)には、行商の蛍売り(ホタルのみを売った)も詠まれているので、恐らくは、一七〇〇年代に入ってから、虫売りが江戸でも普通に見られるようになったものであろう。]

 

 諸君にやがて分かるであらうやうに、その後百二十年許り經つまで、東京ではキリギリスを賣らなかつたのである。

[やぶちゃん注:先の三谷氏の「江戸商売絵図」によれば、『江戸の虫売りとは別に、江戸近在の人がきりぎりすや轡虫などを捕えて粗末な籠に入れて売りに来たものもあり、江戸のものより安いのでよく売れた』とあり、少なくとも江戸後期の寛政(一七八九年~一八〇一年)以後)にはキリギリスは既に江戸市中で売られるようになったことを指す(後段で小泉八雲は、それを驚くべき詳細さで語っている)ウィキの「虫売り」の「歴史」を見ると、『寛政の時代、神田でおでん屋を営んでいた忠蔵という男が、本業の片手間に根岸で捕まえたスズムシを販売していた。売れ行きが思いの他好調であったことから』、『忠蔵はおでん屋を畳み、虫売りへと転業し、本格的に取組み始めたのが、虫売りの起源とされる。忠蔵は瓶に入れた土に産ませた卵を室内で温め、孵化させ、野生のスズムシよりも早く成虫に育て(いわゆる養殖)、高値で売り出すことで莫大な利益を得た』(これも小泉八雲は後文で、より詳細に述べているのである)。『その後、増加する虫売り業者に規制が加えられる』『など、江戸時代を代表するひとつの大衆文化として捉えられるようになり、小泉八雲によって江戸の文化として紹介がなされている』と八雲先生の名さえ挙げられてあるのだ。恥ずべし! 根っからの日本人「小泉八雲」! 而して! 「日本人でなくなった日本人」ども!

 

 だが歌ふ蟲を飼ふことが流行にならぬずつと以前に、蟲の奏する音樂は秋の美的快樂の一つとして詩人に賞讃されて居たのである。十世紀に出來た、從つて確にそれよりも前の時代の作品を多く含んで居る歌集に、歌ふ蟲に關した面白い記述がある。そして、櫻だとか梅だとか或は他の花吹く木とかで有名な場所へ、その季節の花を見るといふ愉快を買ふだけのことに、今なほ定(きま)つて每年幾千幾萬といふ人が見物に行くと丁度同じで、――古代にあつて、都會に住居つて[やぶちゃん注:「すまつて」。]居た人達は、單に蟋蟀[やぶちゃん注:「こほろぎ」。]や螽斯[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]の――殊に夜歌ふ蟲の――啼き合はす合奏を聽くといふ快樂を得んが爲めに、田舍へ秋の遠足を試みたものである。この音樂的な人寄せ物があるといふだけのことで遊樂地として著名な場處が數世紀前に在つた。――それは武藏野(今の東京)、越前の國のやた野、それから近江の國の眞野であつた。多分、それから少し後れて、歌ふ蟲の主もなものはどれもこれも、或る特別な地方を特に好んで棲んで居るので、其處へ行けばその特殊の歌唱を最も好く聽くことが出來るといふことを發見した。で、しまひには、異つた種類の蟲音樂に、日本中で、十一箇處も有名なところが出來た。

[やぶちゃん注:「越前の國のやた野」現在の石川県小松市矢田野町(やたのまち)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。

「近江の國の眞野」滋賀県大津市真野

 以下、私が位置を想起出来ない場所のみ、調べて注する。悪しからず。]

 

【注】松蟲を聽くのに一番好い處は――

 (一)山城の國の 京都に近い 嵐山、

 (二)攝津の國の 住吉、

 (三)陸奧の國の 宮城野。

 

【注】鈴蟲を聽くのに一番好い處は――

 (四) 山城の 神樂が岡、

 (五) 山城の 小倉山、

 (六) 伊勢の 鈴鹿山、

 (七) 尾張の 鳴海。

[やぶちゃん注:「神樂が岡」現在の京都市左京区南部の吉田神楽岡町(かぐらおかちょう)にある吉田山の異称。

「鳴海」愛知県名古屋市緑区鳴海町。]

 

【注】蟋蟀を聽くのに一番好い處は――

 (八) 山城の 嵯峨野、

 (九) 山城の 竹田の里、

 (十) 大和の 龍田山、

 (十一) 近江の 小野の篠原。

[やぶちゃん注:「蟋蟀」ここは原文は“ kirigirisu ”である。これは実は、日本では古く(平安時代)は現在の種(群)としての「コオロギ」のことを「きりぎりす」と呼び、現在の種としての「キリギリス」のことを「機織(はたお)り」と呼んでいた。ところが、鎌倉時代から室町時代にかけてであったと推定されるのであるが、この「きりぎりす」を「こほろぎ」、「こほろぎ」を「きりぎりす」と呼ぶように逆転変化したらしい(この推移についてはサイト「コオロギは昔キリギリスだった? 虫の呼び名の謎」がよい。ご存じの「鈴虫」と「松虫」等の他の古典のややこしい逆転――但し、私はこの逆転説を支持しない。後に注する――も記されてある)。ところが、さらなる問題があって、漢字表記の「蟋蟀」がそのまま一緒に移行したなら、問題はさほど大きくならなかったのだが、「蟋蟀」と書いて「きりぎりす」と読むことが実は近代まで生き残ってしまったのであった。これは実は多くの方は知っているはずなのだ。何故なら、高等学校の現代文の伝家の宝刀、強力定番小説である芥川龍之介の「羅生門」の冒頭にその通りに登場するからである(「きりぎりす」は原作では踊り字「ぐ」であるが、正字化した。太字は私が施した)。

   *

 或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門(らしやうもん)の下で雨やみを待つてゐた。

 廣い門の下には、この男の外(ほか)に誰もゐない。唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる。羅生門(らしやうもん)が、朱雀大路(すじやくおほぢ)にある以上は、この男の外にも、雨(あめ)やみをする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子が、もう二三人(にん)はありさうなものである。それが、この男(をとこ)の外(ほか)には誰(たれ)もゐない。

[やぶちゃん注:中略。]

 下人は、大きな嚏(くさめ)をして、それから、大儀さうに立上つた。夕冷(ゆふひ)えのする京都は、もう火桶(ひをけ)が欲しい程の寒さである。風は門の柱(はしら)と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗(にぬり)の柱にとまつてゐた蟋蟀(きりぎりす)も、もうどこかへ行つてしまつた。

   *

授業では、この芥川龍之介の「蟋蟀(きりぎりす)」を漢字の「蟋蟀」からコオロギと採るか、ルビの現在の「キリギリス」で執るかで揉めるわけだが、「それぞれの鳴き声からこれは一『聴』瞭然であろう!」と私は断じた。則ち、芥川龍之介は、これを平安末期の舞台に合わせて、「蟋蟀」と書いて「きりぎりす」の古名でルビを振ったのだと、私はペダンチックな芥川龍之介にしてごく自然に受け入れられる。そもそもが、キリギリスのやかましい音(おと)ではSE(サウンド・エフェクト)として全く以って相応しくなく、五月蠅過ぎるのだ。羅生門の荒廃と寂寥、盗人になるかならぬかという狭間の下人の荒涼たる心象風景に相応しいのは――寂しいコオロギの音(ね)――でなくてはならないのだ! これは、既に「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」で子細に検証してあるので、是非、見られたい。――閑話休題。では、この小泉八雲の「きりぎりす」はどうなるのか? 私は正直、「コオロギ」で採りたい気がしている。小泉八雲が如何なる資料を基にしたかが判るとよいのだが、私の感性上は、「松蟲」「鈴蟲」の後に並べる、しかも古典的世界のそれは、私は「コオロギ」でなくてはならぬと思うのである。恐らくは、俳人である大谷氏も、それを考えて、「きりぎりす」とローマ字表記されているものを「蟋蟀」としたものと私は思うのである。但し、平井呈一氏は恒文社版作品集の「虫の音楽家」(一八七五年刊)では『キリギリス』としておられる。後は読者にお任せしよう。ただ、これは再度、この後の「五」でも、問題になることになるのである。

「竹田の里」京都市伏見区竹田附近

「小野の篠原」滋賀県大津市小野。他に滋賀県近江八幡市篠原町もある。孰れか判らぬが、前者であろうか。]

 

 其後、歌ふ蟲を育てて賣ることが儲けになる商賣になつてから、蟲聞きに田舍へ行くといふ慣習は段々流行らなくなつた。然し今日でも都會に住居つて居る人は、宴會など催す折、客にこんな小さな動物の音樂を味はしめる計りで無く、その音樂が喚び起こす田舍の平和の懷ひ出や感じを味はしめようといふので、時に歌ふ蟲を入れた籠を庭の灌木の繁みの間へ置いたりする。

 

2019/11/11

小泉八雲 富士山 (落合貞三郞譯) / その「三」・「四」・「五」・「六」(訳者は原作の七章構成を恣意的に六章構成に変えてしまっている) / 富士山~了

 

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 富士山 (落合貞三郞譯) / (その序)」を参照されたい。なお、題名で注した通り、本篇はイントロダクションと「Ⅰ」から「Ⅶ」の章構成になっているにも拘らず、落合氏は恣意的に「Ⅲ」と「Ⅳ」を合わせて以下の「三」に改変、全体を六章構成にしてしまっている。

 

 

       

 綠は全くなくなつた――すべて黑い。道はない――ただ廣い漠々たる黑い砂の傾斜が、きらきらと齒をむきだしたやうな雪の斑紋の方へ、だんだん幅狹く上つて行つてゐる。しかし小徑がある――巡禮のぬぎ捨てた幾千の草鞋によつてつくられた黃色の足跡。この黑い砂礫の上では、藁の草鞋は、直にすりへらされる。巡禮は數足の草鞋を用意してゐる。私が獨り登山するにしても、その破れ草鞋の跡を辿つて行けば、道はわかる……黃色の線が、黑い山を紆餘曲折して、見えなくなる所までのぼつてゐる。

 

 午前六時四十分――十個の休憩所の第一番目なる太郞坊に達した。高さ六千呎[やぶちゃん注:約千八百二十九メートル。]。この休憩所は大きな木造で、二つの室は杖、笠、蓑、草鞋など、一切巡禮者必需品の賣店になつてゐる。そこに巡囘寫眞師がゐて、安價で、立派な、山の寫眞を賣つてゐた……ここで强力は朝食を喫べ[やぶちゃん注:「たべ」。]、私は休んだ。車はこれからは行けない。三人の車夫を返し、馬はまだ留めておく。溫順な、足のたしかな馬だ。二合五勺までは乘つて上がられる。

[やぶちゃん注:「太郎坊」はウィキの「太郎坊」によれば、現行では、『静岡県御殿場市の富士山中腹の地名。表富士周遊道路(富士山スカイライン)と御殿場口登山道』静岡県道一五二号富士公園太郎坊線の分岐付近の標高千三百メートルから御殿場口登山道の五合目の標高千五百メートル辺りまでが「太郎坊」と呼称される国土地理院図)『ことが多い』。古くは『富士山須走口で祀られていた天狗太郎を、明治時代初期ごろに御殿場口で祀るようになり、そのために建てられた建物が太郎坊と呼ばれた。太郎坊は登山やスキーのための基地になっていたと伝えられる』。『その後、太郎坊が地名化したため、太郎坊の厳密な範囲ははっきりしない』とあるから、標高に違いがあっても一応、問題はないが、小泉八雲はメートル法からの換算を誤っていた可能性や、ドンブリで端数切り上げて誇張している可能性があろう。にしても、前の茶屋の描写と太郎坊の比定地域が広いこと、「第一番目の休憩所」と言っていること、「大きな木造」などと言うからには、今の「大石茶屋」(千五百二十メートル。グーグル・マップ・データ)が至当になろう。しかし、それでは「六千呎」が齟齬する。よく分らぬ。しかし、現在の「大石茶屋」より上にそのような施設があったことはちょっと考えにくいのである。次注も参照。

「二合五勺」これは種々の登攀データを見るに、現在の御殿場ルートのメイン・ルートの、現在は「新五合五勺」で、昔から「次郎坊」(標高千九百二十メートル)と呼ばれている場所である可能性が高いように思われる(以下の段落で、その場所から上は急に「梯子の如く」傾斜がきつくなって遂に小泉八雲は歩き出したと述べるが、ネットの登攀記録を見ても、この次郎坊から上で傾斜が急になるのである)個人サイト「富士さんぽ」のこちらのページ地図の御殿場ルートを見られたい。なお、古くからの登山用語(信仰対象となった富士山など高い山で用いることが多い)の「合」「勺」であるが、ウィキの「登山用語一覧」によれば、合(ごう)・合目(ごうめ)は『登山道の到達の目安を示す単位。原則として麓』の登攀開始地を基点(〇合)として頂上を十合に当て、その間を十区分に分けたもの。但し、『測量で距離や標高などを正確に等分するというよりは』、古来より『長い年月をかけて登山者の感覚で習慣的に付けられたものであり、実際に歩いて登る際に要する時間がおおよその基準になっているため、険しい場所や坂の急な場所などでは』、一『合の長さが短くなる傾向にある』。一合を更に十に分けた「勺(しゃく)」が『用いられることもあるが、勺の付かない位置の場合は「~合目」といい、勺が付く場合は「~合~勺」という』とあり、「勺」は『主に富士山で用いられる』とある。]

 二合五勺へ向つて黑い砂の阪を上る。馬を並足で打たせる。二合五勺の坊は當季閉鎖してあつた……阪が今や梯子の如く急峻になつて、馬では最早危險となつた。馬からおりて、徒步で攀じ上る支度をした。寒風が强いので、私の笠をしつかり結はひ[やぶちゃん注:「ゆはひ」。]附けねばならなかつた。一人の强力は腰から長い强い木綿の帶をほどいて、一端を私に捉へさせ、他端を彼の肩の上からかけて私を曳いた。して、彼は强い步調で、かがんで砂の上を進む。私は彼について行く。今一人の案內者は私がすべるのを防ぐため、すぐ後についてきた。

 

 砂と鐡滓[やぶちゃん注:「てつさい」。ここは単に溶岩の粉砕された屑の謂いであろう。]の中と步くのが疲れるだけで、登りで行くのにさほど困難はない。砂丘の上を步むやうだ……阪が今や嶮しいから、足下を用心し、また絕えず錫杖を使はねばならない……私共は白い霧の中にゐる。雲の中を通つてゐるのだ。振り返つて見ようと思つても、この霧の中から何も見えないだらう。しかし私は願望する氣は更にない。風が急にやんだ。多分山の背に遮られたのだらう。すると、西印度に居つた[やぶちゃん注:「をつた」。]頃の經驗で思ひ起こした靜かさを感じた。聖地の平和だ譯者註。この靜かさを破るものは、足に踏まれて碎ける灰の音のみだ。私の心臟の鼓動が判然と聽こえた。案內者が私はあまり屈みすぎるといつた。眞直ぐに步いて、いつも足をおろすのに、踵[やぶちゃん注:「かかと」。]を先きにするやう、彼は私に命じた。さうしてみると、成程樂であつた。しかし倦きるほど、いつまでも灰と砂のまじつた中を上つて行くのは、なかなか苦く[やぶちゃん注:「くるしく」。]なつてきた。私は汗をかき、喘いでゐる。案內者は私に『お口をつむりなさい。お鼻からだけ呼吸をなさい』といつた。

 

譯者註 ヘルン先生は日本へ來る前、西印度に放浪すること二箇年に及んだ。聖地云々は、西印度の山上に、基督や聖母の像などを祀れる祠堂聖域の靜肅を指す。

[やぶちゃん注:読者の中には、小泉八雲が実際の登攀に移ったのが、こんな高いところだったということに意外な感を持つかも知れぬが、小泉八雲四十七歳にして初めての高高度登山である。体力上の問題もあるが、何より高度障害を起こさないためにも、これは非常によい選択であったと思う。

「西印度に放浪すること二箇年」小泉八雲(Lafcadio Hearn)は三十七歳の時、アメリカで出版社との西インド諸島紀行文執筆の契約を行い、一八八七年から一八八九年にかけて、フランス領西インド諸島マルティニーク島(グーグル・マップ・データ)を旅している。]

 

 霧からまた出た……勿然すこし離れた上方に、山の面に方形の孔の如きものが見えた。戶口であつた。第三の坊の戶口だ。黑い堆積物の中へ、半ば木造の小舍が埋れてゐる……薪の靑い煙の中で、煤けて黑ずんだ垂木の下とは云へ、再び蹲まる[やぶちゃん注:「うずくまる」。]のは愉快であつた。時刻は午前八時三十分。高さ七千〇八十五呎[やぶちゃん注:約二千百六十メートル。]。

[やぶちゃん注:サイト「FUJIYAMA NAVI」の「御殿場ルート|標高差・距離ともに長くタフな登山道」のルート地図を見ると、新五合五勺(次郎坊・旧二合五勺・標高千九百二十メートル)とその上の六合目小屋(二千七百八十メートル。その上新六合=旧五合目がある)とがあるが、その二地点の、丁度、中間点が「旧二合八勺」で、ここは西側の同ルートの下山道である「大砂走り」と接触する箇所に当たっていて、ここら辺りが、まさに小泉八雲が示した標高に一致するように思われ、ルート上でも下山道との交点であるから、当時、休憩小屋があってもおかしくないと思われる。]

 

 薪の煙はともあれ、小舍の內部は充分心地がよい。淸らかな莚や座布團さへある。無論窓はない。また戶以外、開いた處はない。といふのは、建物は山の側面に半ば埋れてゐるからである。私共は晝食をたべた。小舍の番人の話によると、最近に或る學生が御殿場から山の頂上を窮はめて、步いて下りたさうだ――下駄で! 下駄は木で作つた重い履物で、足の拇指と第二指の間へ緖を挾んだだけで、足へ固着させる。その學生の足は鋼鐡でできてゐるに相違ない!

[やぶちゃん注:前の「!」の後は底本では字空けはないが、特異的に挿入した。以下、同じ仕儀を施した箇所(「?」の後でも)があるが、特に注さない。

 憩んでから[やぶちゃん注:「やすんでから」。]、私は外へ出て、あたりを見廻はす。遙か下方に、白雲が大きな、絨毛のやうな渦輪を卷いて轉がつてゐる。小舍の上の方に、また實際その上に垂れかかり乍ら、黑い圓錐形が空へ聳え立つてゐる。しかし驚くべき光景は、左方の怪奇な傾斜線だ――今や少しも曲線を示さないで、雲の下へと、また果てしない上空へ、さながら緊張せる弓の弦の如く直線に、勢よくのびてゐる。右側面は岩が多くて線がとぎれてゐる。しかし左側については――私はかくまで絕對に眞直ぐに、滑らかに、またかやうな驚くべき角度をなして、かやうな大きな距離に亙つてのびてゐるといふ事は、たとひ火山に於ても、實際あり得るとは夢にも思はなかつた。そのすばらしい傾斜の角度は私に眩瞑[やぶちゃん注:「げんめい」。眩暈(めまい)に同じい。]の感を與へ、また全然奇異なる感を覺えさせた。かかる整正均勢は不自然で、怖ろしく、人爲的のやうにさへ思はれる――しかし超自然的、惡魔的規模に於ける人爲的だ。私はそこから落ちるのは、數里を落ちて行く事となるだらうと想像する。一切つかまるものはない。が、强力は、その斜面は危險でなく、すべて柔らかな砂だと斷言した。

[やぶちゃん注:所謂、「須走(すばしり)」である(グーグル・マップ・データ航空写真中央部)。

 落合氏は何故か、原本の章分けに従っていない。本来は、以下の部分が「四」にならねばならない原本のここを参照)。甚だ不審である。シークエンスの展開から、かく確信犯で行ったものと思われるが、問題がある。私は注記を附してやるならまだしも、それもなしに(実際、底本にはどこにも断りがない(「あとがき」は、落合は、書いていない)原作の構成を勝手に改変するというのは、本来は絶対に許されることではないと私は考える。

 

 最初、骨折つて攀ぢ上つたので、汗びつしよりになつたが、最早乾いてしまうと、寒くなつた……また上る……阪は前の如く灰や砂の中を通つて行く。やがて砂に大きな石が混じ[やぶちゃん注:ママ。]出した。して、道はたえず嶮しくなつてきた。私はたえず滑る。立ちどまるべき、しつかりしたものは何もない。ゆるやかな石や燒石が一步每にころがり下る……もし上から熔岩の巨塊がはづれて落ちたら! 私は强力に支へられ、また杖にすがりながらも、いつも滑り、また汗だくだくになつた。殆ど私の踏む一つ一つの石が、私の足の下で、ひつくり返る。强力の足で一つもひつくり返らないのは、どうしたものだらう。彼等は決して滑らない――間違つた踏みやうをせぬ――疊の上を步くのと同じく氣樂さうだ。彼等の小さな褐色の足は、いつも小石の上へ、正しく適當な角度で立つ。私よりも重い身體であり乍ら、鳥のやうに輕く動く……今や五六步每に私は憩はねば[やぶちゃん注:「いこはねば」。]ならなかつた。破れた草鞋の線が、私共の紆餘曲折してのぼる道につづいてゐる。遂に山の面に今一つ戶口が見えた。第四の坊へ入つて、蓆[やぶちゃん注:「むしろ」。]の上へ私の身体を擲げた[やぶちゃん注:「なげた」。]。時刻は午前十時半。高さは唯だ七千九百三十七呎[やぶちゃん注:二千四百十九メートル。]。しかし非常な距離の如く思はれた。

[やぶちゃん注:前に示した標高二千七百八十メートルにある現在の六合目小屋(休業中)の下方にあったものか。]

 

 また出立する……道はますます惡るくなる……空氣稀薄のため新たに一つの苦痛を感じた。心臟は高熱の際のやうに鼓動した……阪は凸凹が甚だしくなつた。もはや石のまじつた軟らかな灰や砂でなく、石ばかりだ――熔岩の斷片、輕石の塊、あらゆる種の鐡滓が、悉く鎚[やぶちゃん注:金属製の「つち」。]で新たに破碎したやうな鋭角を示してゐる。またすべてのものが、踏まれると、ひつくり返るやうにわざわざ出來てゐる如く見える。しかしそれは强力の足の下では決してひつくり返らぬことを、私は告白せねばならぬ。捨てられた草履は、ますます殖えて散らばつてゐる……强力の補助によらねば、私は幾たびもひどい躓き[やぶちゃん注:「つまづき」。]をしたであらう。彼等は私を滑らぬやうにすることは出來ないが、決して私を倒れさせぬ。たしかに私は登山に適してゐない……高さは八千六百五十九呎[やぶちゃん注:二千六百三十九メートル。]――しかし第五の坊舍は閉鎖してあつた! つぎの小舍まで迂曲をつづけねばならぬ。私がそこまで行けるか知らん!……しかも世の中には、實際單に娛樂のために三囘も四囘もここへ登つた人があるのだ……後へ振りかへつて見ようともしない。私の下でいつも轉がる黑い石と、決して滑ることなく、喘ぐことなく、決して汗をかかぬ强力の靑銅色の足の外、私は何も見ない……錫杖のため手が痛み出した。强力は私を後から押し、前から曳く。强力にこんな面倒をかけるのは濟まないと、私は大いに恥ぢ入つてゐる。やれやれ第六の坊だ! 八百萬の神々樣、私の强力を祝福し玉へ! 時刻は午後二時七分。海拔九千三百十七呎[やぶちゃん注:二千八百三十九メートル。]。

[やぶちゃん注:「第五の坊舍」不詳。現在はそれらしいものはない。

「第六の坊」標高から見ると、現在の新六合目、旧本五合目か。やはり現在はそれらしいものはない。]

 休憩をして、戶口から下の深い谷を凝視する。茫々たる白雲の裂け目からやつと微かに土地が見える。して、その裂け目の中の一切のものが殆ど黑く見える……水平線がおそろしく高く上つて、擴大したことは驚くばかりだ……まだ頂上は數哩も遠い。私はあまりに遲かつた。私共は上の方へ急がねばならぬと、强力は私に警告した。

[やぶちゃん注:叙述から見ると、小泉八雲は軽い高度障害を起こしている可能性が窺える。私の実体験は後の注で述べる。]

 

 羊腸たる道はたしかに、前よりも更に急になつた……石に角の多い岩がまじつた。して、私共は時としては玄武岩の如き、奇異な黑い塊に沿つて行かねばならぬ……右の方には、ぎざぎざに裂け目のついた、猛威凄い、黑い背が、目も屆かない上へと昇つてゐる……昔の熔岩の流れだ。左方の傾斜線は依然として弓の弦の如く、眞直ぐに上を射てゐる……もつと道が嶮しくなるか知らん――これよりも一層、道が荒々しくなるだらうか? 私の足のために外づれた石は音をたてずにころげ落ちる――私はその石の方へ、後をふりかへつて見るのが怖はい。石が音なくして沒し去るのは、さながら夢の中で落下して行くやうな感じをさせる。

 

 上の方に白いものがぴかぴかする――大きく擴がつた積雪の最下端だ……今や私共は雪でみたされた溝に沿うて進んでゐる――今朝絕頂を初めて見たとき、一吋[やぶちゃん注:「インチ」。二・五センチメートル。]の長さとしか思はれなかつた、あの白い斑點の最下端を通るのに、一時間はかかるだらう……一人の案內者は、私が杖によつて休んでゐるうちに、走つて行つて、大きな雪の球を持つて歸つた。何と珍らしい雪! 片々たる柔らかな白雪でなく、透明な小球の塊――まさしくガラス玉だ。すこしばかり食べると、快爽云ひやうがなかつた……第七の坊は閉ぢてゐた。どうして私は第八の坊へ達するだらう?……幸と、呼吸はや〻苦さ[やぶちゃん注:「くるしさ」。]が減じた……風がまた私共に吹きつけて、黑砂も加つてゐる。强力は極めて私に接近して、警戒して進む……私は道の曲り目每に步をとどめて休まねばならぬ――疲れて話しも出來ぬ……どんな風にやつてきたのか知らないが、兎に角私は第八の坊へ漕ぎつけた。十億弗を吳れても、もう今日はこの先一步も御免だ。午後四時四十分。高さ一萬〇六百九十三呎[やぶちゃん注:三千二百五十九メートル。]。

[やぶちゃん注:現行では、前掲のルート地図を見ると、六合目・七合目(標高三千五十メートル附近)・七号五勺(同三千三百メートル)の間には三つの小屋があるから、それらか、それらの前身が「第七」及び「第八の坊」ととれる。

「十億弗」「ドル」。明治三〇(一八九七)年年(本書は明治三十一年刊)の為替レートで、アメリカドルは一ドルが二円であるから、二十億円、当時の貨幣価値(信頼出来るサイトでの一円を二万円相当として)から換算すると、四十兆円!

 先に述べた通り、以下の「四」は本来は「五」である。原本のここを参照されたい。

 

 

       

 冬の着物がなくては、ここでは寢るのにあまりに寒い。成程、案內者が用意した重い衣類の價値がわかつた。それは紺地に、大きな白い漢字を背に染め拔いて、蒲團のやうに厚く綿が入れてある。しかしそれでも輕い感じがする。實際二月の霜に冴えたやうな空氣だから……炊事をしてゐる最中だ――こんな高い所では、炭火はなかなか我が儘强情で燃え上がらぬから、絕えず注意を要する……空氣と疲勞が食欲を刺激する。私共は驚くほど多量の雜炊――御飯の中へ卵と少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の肉を煮込んだもの――を食べつくす。私の疲勞と時刻の理由で、今夜はここで泊まることになつた。

[やぶちゃん注:食欲があるので、小泉八雲の高度障害は、幸い、収まっている。私は二十代後半、友人と十一月三日から、前・奥・北穂高岳を踏破したが、前穂への最初の登りの終りで、一時的に高度障害を発症した経験がある。実際、前穂直下で、たった二メートル登攀するのに何分もかかった。友人の励ましの叱咤のお蔭で、日没ぎりぎりに北穂小屋に着いた。しかし、その落日は確かに美しく神々しいものであった。だが、その晩は、お茶だけしか口に入らず、食事が、全く、喉を通らなかった。幸い、翌朝には回復し、三峰を制覇し得た。

 

 疲れてゐても、戶口まで跛[やぶちゃん注:「びつこ」。]を曳いて行つて、驚くべき景色を眺めずには居られなかつた。敷居を距つる數呎[やぶちゃん注:一フィート(フート)は三十・四八センチメートル。六掛けで僅か一メートル八十三センチメートル。]內の所から、岩や鐡滓の凄い傾斜面が、數哩の下で、澤山の雲が大きな圓盤狀になつた中へ垂下してゐる。雲はそれぞれ種々の形狀をしてゐるが、多くは捲いたり、絨毛の如く積み重つてゐて、ごちやごちや集つて、全團塊が殆ど眼界の高さに達して、日光を受け眩しいやうに白い。(此大きな雲が擴がつたのを、日本人はうまく『綿の海』と名づけてゐる)非常に高く昇つて、幻の如くにひろがつた地平線は、地球から半分上へのぽつゐるやうだ。廣い、輝いた帶が、空虛な幻影を取り捲いてゐる。空虛と私がそれを呼ぶのは、輪郭線下の遠いはては、天空の色を帶び、茫漠としてゐるからだ――だから、私は穹窿の下の一地點に立つて居るといはんよりは、寧ろ此巨大な地平線が赤道帶を代表してゐるやうな、すばらしい靑い球體の一地點に立つて居るといふ印象を受ける。かやうな光景に對しては、去るに忍びない。私は落日の先に、光景の色彩が變はり、『綿の海』が『黃金色の羊毛』になるまで、注視に耽つてゐる。眼界の半ばを取り捲いて、黃色の華やかさが增加して、燃えてくる。其下あちこちに雲のとぎれた處から、ぼんやり色を帶びた所々が見えてくる。金色の海が見え、紫色の長い岬が延び出でて、靑紫色の群巒[やぶちゃん注:「ぐんらん」。連なった山並み。]が其背後に連つてゐるのが、妙に着色地形圖の場面に似てゐる。しかし大體の光景は全然幻影であつて、長い經驗と鷲の如き視力を持てる案內者さへも、殆ど虛實を辨じ得ない――何故なら、『黃金色の羊毛』の下に動く靑と紫と靑紫の雲は、遠い峯や岬の輪郭と色合にそつくり似てゐるからだ。ただ徐々に移動して行く形狀のため、蒸氣を識別し得るのみだ……黃金はだんだん輝いてくる。影は西から射してくる――それは積雪の上へ積雪が投ずる影だ。それは雲の上に暮影の映る如く、菫菜色[やぶちゃん注:既出既注。「すみれいろ」。]の靑だ……次に、眼界へ橙黃色[やぶちゃん注:「たうくわうしよく」。橙(だいだい)色。]が現はれる。それから潜んだやうな深紅色。すると、今度は『黃金色の羊毛』の大部分は、また綿に変はつた――石竹色[やぶちゃん注:「せきちくいろ」。ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis の花のような淡い赤色のこと。]のまじつた白い綿……星が竦動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。「竦」は「つつしむ」・「身が竦(すく)む」の意で、本来は「動きを慎むこと。謹み畏(かしこ)まること」・「恐怖のために身が縮こまること」であるが、ここは「静かに微かに明滅すること」を指している。]し始める。雲の廣野は滿面一樣に白くなる――地平線へまで厚く、積み重なり乍ら、西が暗くなる。夜がのぼつてくる。して、あの不思議な、白い、連綿として世界を卷いてゐる『綿の海』の外、一切の物が暗くなる。

 

 

 坊の主人が燈火を點じ、樹枝を焚き、寢所を備へてくれた。外氣は刺すやうに寒いが、日が暮れたので猶ほ寒い。それでも私はこの驚くべき眺望を振り棄つるに忍び無い……無數の星がちらちらして、靑黑い空で戰いて[やぶちゃん注:「をののいて」。]ゐる。私の足先きの黑い傾斜面の外、物質界のものは何も目に見えなくなつた。下方の大きな雲の圓盤は白く續いてゐるが、いかにも水の如く平らかで、無形の白いもの――白い洪水――のやうに見えた。もはや『綿の海』ではない。それは『牛乳の海』だ。古代印度傳說の『宇宙の海』だ――して、いつも幽靈の生動によるかの如く、みづから光を發してゐる。

[やぶちゃん注:既に述べた通り、以下は原本では「Ⅵ」(六)である。]

 

       

 焚火の傍にしやがみ乍ら、强力と坊の主人が山の不思議な出來事を語るのに、私は耳を傾けた。彼等が話し合つてゐる一つの事件を、私は東京の新聞で少しばかり讀んだ覺えがある。今や私はその事件の中に活躍した人物の一人の口からそれを聞くのだ。

 日本の氣象學者、野中といふ人が、昨年科學的硏究のため富士の絕頂で冬を過ごすといふ、向う見ずの企[やぶちゃん注:「くはだて」。]をした。立派な煖爐と生活を快適ならしむるに必要な一切の物を備へた堅牢なる測候所で、山頂に於て越年するのは困難でないかも知れぬ。しかし野中氏はただ木造の一小舍しか作り得なかつた。しかもその小舍の中で火なしに嚴冬を送らねばならなかつた! 彼の若い細君は彼と勞苦を共にすることを主張した。九月の末、二人は絕頂の滯在を始めた。冬の眞最中になつて、二人は死に瀕してゐるといふ報道が御殿場に傳つた。

 親戚と友人は救助隊を組織しようとした。しかし天候はひどく惡るかつた。頂上は雪と氷に蔽はれてゐた。死の危險は多大であつた。して、强力輩[やぶちゃん注:「はい」。複数の接尾字。]も生命を賭する事を欲しなかつた。數百圓[やぶちゃん注:先に示した換算で百円は二百万円、六掛けで千二百万円相当。]を提供しても彼等を誘ふことができなかつた。遂に日本人の勇氣と忍耐の代表者として彼等に必死の懇願がなされた。一たびも勇敢なる努力を試みずして、科學者を見殺しにするのは國の恥辱だと告げられ、國の名譽は彼等の掌握にありと斷言された。この哀訴は二名の勇俠者を出した。一人は『鬼熊』の綽名ある大力且つ剛勇の男、今一人は私の强力の年長の方の男であつた。彼等は屹度死ぬるものと信じてゐた。親類綠故に訣別し、家族と水盃をくみ交はした。それから綿毛を厚く身體に卷いて、氷を攀ぢのぼる一切の準備をして立つた――一人の勇敢な軍醫が、無報酬で、救助のため、進んで參加した。非常な國難を冒して、一行は小舍に達した。

 しかし舍內の人は、戶を開けることを拒んだ! 野中氏は企圖失敗の恥辱に面せん[やぶちゃん注:「めんせん」。]よりは寧ろ死すると抗言し、細君は夫と共に死する決心だといつた。强いたり、すかしたりしてから、夫婦をおとなしい精神狀態に致すことができた。軍醫は藥と興奮劑を與へた。患者によく衣を卷きつけ、案內者の背に縛つて、下山を始めた。細君を運んだ私の强力は、氷の阪路で神々の御助けがあつたものと信じてゐる。一度ならず彼等は死んだことと思つたが、一囘も大災難に至らないで、麓に達した。行き屆いた看護數週の後、無謀なる若夫婦は危險圏内を脫したことを告げられた。細君は夫よりも病輕く、また早く恢復した。

 强力は夜間彼等を呼ばないで、坊舍の外へ敢て出ないやうにと、私と戒めた。何故か、その理由を云はない。して、その警告は一種氣味がわるい。日本の旅行に於ける經驗上、私はその暗示さる〻危險は超自然のものと推測する。しかしその理由を尋ねても駄目だと思ふ。

 坊の戶は鎖ざされた。私は案內者二人の中間へ橫になつた。二人が直ぐに眠つたのは、その重い呼吸でわかる。私はすぐ眠れない。恐らくは一日の疲勞と驚異のために少々神經が興奮したのであらう……私は黑い屋根の垂木を見上げる――草鞋の包み、木の束、判別し難き種々のものの束が、そこに藏つてあつたり[やぶちゃん注:「をさまつてあつたり」。]、吊るされたりして、洋燈[やぶちゃん注:「ランプ」。]の先で妙な陰影を作つてゐる……三枚の蒲團を被つても、非常に寒い。して、戶外の風の音は不思議にも巨濤が響くやうだ。絕えずどつと轟いた後に、一しきり叱罵[やぶちゃん注:「しつば」。]の聲がつづく。

 小舍は重い岩と吹き寄せた砂の下に埋もれて動かない。しかし砂が動く。垂木の間から滴つてくる。また小石も、引く波にさらはれる礫[やぶちゃん注:「つぶて」。]の如く、がらがら音を立てて、烈しい一陣の嵐每に動く。

[やぶちゃん注:「氣象學者」「野中」気象学者野中到(いたる 慶応三(一八六七)年~昭和三〇(一九五五)年)。以上の事件は事実であるが、小泉八雲は「昨年」と言っているが、実際には明治二八(一八九五)年末の出来事である(小泉八雲のこの富士登頂は明治三十年八月である)。ウィキの「野中到」によれば、妻千代子とともに富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られる人物である(リンク先に夫妻の写真有り)。『多くの場合、野中至と表記されるが、本名は「到」であり、「至」はペンネームである』。『筑前福岡藩士・野中勝良の息子として筑前国(現・福岡県)に生まれる』。『富士山観測所の設立を思い立ち』、明治二二(一八八九)年、『大学予備門(現・東京大学)を中退』した。なお、『この年、富士山頂久須志岳の石室で中村精男』(きよお)『ほか』二『名が、山中湖畔では近藤久治朗が』三十八『日間、初めて正式な気象観測を開始している』。『当時はまだ高地測候所は信州にしかなく』、『高山での観測は年に数回に限られていたが、野中は富士山での年中観測を目指した』。一八九五年二月十六日、『富士山冬季初登頂を果たし』、『富士山頂での越冬が可能であることを確信、同年夏に再び登頂し』、『私財を投じて測候用の小屋(約』六『坪)を剣ヶ峰(富士山)に新設、中央気象台の技師らも合流した』。『剣ヶ峰にした理由を「風が弱いところは積雪が多いため、積雪の少ない風の強いところを選んだ」と語っている』。九月末、『食料など備蓄財の調達のため一旦下山し、閉山後の』十『月に再び登頂』、その後、妻千代子も十月『半ばに合流』したが、『高山病と栄養失調で歩行不能にな』ってしまう。十二月、『慰問に訪れた弟の野中清らによって夫妻の体調不良がわかり』、『中央気象台の和田雄治技師らの救援で』、『月末に両者とも下山し、山麓の滝河原に逗留、村人の手厚い保護を受けたのち』、『小石川原町の自邸に戻』った。『野中夫妻のこの決死の冒険は評判をよび、小説や劇になった』。『越冬断念により』、『十分な結果が得られなかったことから』、四年後の明治三二(一八九九)年、『本格的な観測所の建設を目指し、富士観象会を設立』、『富士山気象観測への理解と資金援助を呼びかけた』。『その後も絶えず登山し』、『観測を続け、野中の事業はのちに中央気象台に引き継がれた』。『妻の千代子は、福岡藩黒田家のお抱え能楽師、喜多流シテ方梅津只円』(しえん)『の娘である』とある。]

 

 午前四時――昨夜の警告にもか〻はらず獨りで外へ出る。尤も戶の附近を離れない。强い氷の如き風が吠く。『牛乳の海』は變はらぬ。それは遙かにこの風の下方に橫はつてゐる。上の方に月が消えかかつてゐる……案內者は私が居ないのを見て、はね起きて、私のそばへきた。私は彼等を呼び醒まさなかつたことを責められた。彼等は私を獨りでは戶外に置かないから、彼等と共に私はまた內へ入つた。

 

 黎明。一帶の眞珠色が取り捲いて、星は消え、空が輝いた。綿が搔きみだされて、破れんとしてゐる。黃色の光が風に吹かれた火の光の如く東方を走つた。遺憾ながら、旭日の初めて昇るのを富士から見たことを誇る幸運者の一人と、私はなることが出來ないだらう。重い雲が旭日の昇るべき邊に漂つて行つたのだ……最早太陽は水平線上に現はれたものとわかつた。あの紫雲の裂片の上端は、炭火の如く燃えてゐるからである。だが、私の失望はこの上なかつた!

 

 空虛な世界はますます明かるい。數哩に互つて堆積せる綿雲は、ころがつて分裂する。非常な遠方に當つて、水の上に金の光がある、太陽はここからは見えないが、海からは見えてゐるのだ。その光はちらつとした光でなく、磨いたやうな輝きである――かかる遠距離では、漣[やぶちゃん注:「さざなみ」。]は見えない……更に一層、雲は散亂開展して大きな灰靑色の風景を現はす――數百哩が忽然視界に集る。右に東京灣と鎌倉、それから神聖な江ノ島( i といふ文字の上にある點ほどの大いさ)を私は認める――左にはもつと荒い海の駿河灣と靑い鋸齒の伊豆の岬を認める。それから私がこの夏を暮らしてゐた漁村[やぶちゃん注:焼津。]の邊は、山や海岸がぼんやりした夢の色に浮かんだ中に、針頭大になつて見える。川は蛛網[やぶちゃん注:「くもあみ」と訓じておく。]の糸に太陽の光がひらめいたやうだ。漁舟の帆は海の灰色な玻璃にくつついた白い塵だ。して、この畫面は雲がその上をただよひ移るま〻に、隱見出沒して、すべて極樂淨土の亡靈の如き島や山や谷の形に變はる。

[やぶちゃん注:何故、ちっぽけな江ノ島に目が行くのか、不審に思った方もあろうが、小泉八雲は来日直後に、江ノ島に詣でており、彼にとっては極めて懐かしい日本の原風景の一つだからである。私の最初期の小泉八雲電子化注(リンク先はブログ・カテゴリ「小泉八雲」。ここからでないと、続けて読むのは面倒なので注意されたい)の仕事である『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一)』以下、実に「二四」まであるそれを読まれれば、お分かり頂けるものと思う。

 既に注した通り、以下の最終章「六」は原本では「Ⅶ」(「七」)である。

 

 

       

 午前六時四十分――頂上へ向つて出發した。熔岩の塊の累々たる間を經て、ここは登山阪路中の最難所だ。黑い齒の如く突出した醜い岩塊の間を曲折する。脱ぎ棄てられた草鞋の痕は、更に幅が廣い。數分每に憩はねばならぬ。

 雪の今一つの長い斑點に達する。ガラス玉のやうな、その雪を少し食べる。次の坊――半途の坊――は閉ぢてある。して、第九の坊はなくなつた……不意の恐怖が起こつた。それは登ることでなく、心地よく坐わることさへ出來ぬ急峻な道を、また降つて行くことについてである。しかし案内者は危險がないと斷言し、また歸途の大部分は他の道によるのだと私に告げた――昨日私が驚嘆した、あの果てしなき、殆どすべて柔らかな砂で、石の少い、『走(はし)り』といふ表面を越えて、一ト走りでおりるのだ!

 忽然一族[やぶちゃん注:「ひとむら」或いは「ひとむれ」。私は前者で読みたい。]の野鼠が慌てて私の足もとから散亂した。後の方にゐた强力が一匹を捉へて私にくれた。私はしばらくその震へてゐる小動物を手に取つて見てから、放してやつた。これらの鼠は頗る長い靑白い鼻をもつてゐる。この水のない荒野――にまたこんな高い處に――特に雪の季節には、どうして生きてゐるだらう? 私共は最早一萬一千呎[やぶちゃん注:約三千三百五十三メートル。]以上の高さにゐる! 鼠は石の下に生ずる草根を見出すのだと强力は云つた。

[やぶちゃん注:富士山には、ネズミ目ネズミ科アカネズミ属ヒメネズミ Apodemus argenteus が多く棲息するらしいが、小泉八雲は「頗る長い靑白い鼻をもつてゐる」と言っているところからは、ネズミ科アカネズミ属アカネズミ Apodemus speciosus も候補となるか。孰れも日本固有種である。]

 

 道はますます凸凹で、ますます嶮しい。私だけは折々匍匐せねば攀ぢ上れなかつた。關門のやうな場所では、梯子の助けを藉つて[やぶちゃん注:「かつて」。]登つた。賽の河原などといふ佛敎の名の附いた恐ろしい場所があつた――佛敎の來世の繪にある、子供の亡靈が積みあげる石のやうに、積み重つた岩が散らばつて、一面黃色を呈して、荒涼たる光景。

[やぶちゃん注:すーちゃんさんのブログ「富士山の古絵葉書」の「冨士山世界文化遺産登録へ 東安河原(富士山頂上)」で写真絵葉書(モノクローム)が見られる。]

 

 一萬二千呎[やぶちゃん注:三千六百五十七・六メートル。]と少しばかり。ここが絕頂なのだ。時刻は午前八時二十分……石造の小舍が數個。鳥居があつて、社祠がある。金明水[やぶちゃん注:「きんめいすい」。グーグル・マップ・データの「金明水」の画像をリンクさせておく。]と稱する氷のやうな井。漢詩と虎を刻んだ石碑[やぶちゃん注:探してみたが、見当たらない。お茶濁しに、後で八雲が語るような、同前の近くの辺りの突き出た岩を示しておいた。]。以上のものを取り卷いた熔岩塊の荒塀。この塀は防風のためと思はれる[やぶちゃん注:不詳。]。それから巨大な死火口がある。恐らくは一哩[やぶちゃん注:一マイルは千六百九・三四メートル。]の四分の一乃至半哩の幅である[やぶちゃん注:富士山の火口の直径は久須志神社から富士山特別地域気象観測所(富士山測候所)までで七百八十メートルである。因みに火口の深さは二百メートル以上ある。「お鉢」の歩行実働距離は約三キロメートルで、平均的脚力で一時間半ほどかかるそうである。]が、火山の岩屑によつて、緣端の三四百呎[やぶちゃん注:約九十一メートル半から百二十二メートル。]以內まで淺くなつてゐる――その凹んだ處は、黃色の、崩れかかつた壁の色合さへ恐ろしげに見える。焦げたあらゆる色の條が立つて、汚れてゐる。私は草鞋の列が火口で終つてゐる事を認めた。怖ろしげに張り出た黑い熔岩の尖角が、奇怪な瘢痕の破れた端の如く、火口の兩側で數百呎[やぶちゃん注:百フィートは約三十メートル半。]の高さに突兀[やぶちゃん注:「とつごつ」。]としてゐる。しかし、私は敢てそれへ上ることはしない。しかも是等の尖角を百哩[やぶちゃん注:約百六十一キロメートル。]の霞を隔てて、春の蒼空の柔らかな幻覺を通して眺めると、淸淨なる蓮華の蕾のまさに開かんとする雪白の花瓣と見えるのである……蓮華が燃え殼になつた末端と見倣すべき此所に立つて見ると、これほど恐ろしく、これほど兇猛陰凄な地點が、またと此世にあるべしとも思はれない。

 しかしこの景色、百哩も見渡すこの眺め、遠い微かな夢のやうな世界の光、仙界の如き朝煙、捲き去り捲き來たる雲の不思議な形狀――すべてこの光景は、またこの光景だけが、私の骨折りと苦痛を慰めてくれる……もつと早く登つた他の巡禮達が、一番高い岩に乘つて顏を東天に向け、壯大な太陽を拜んで、神道の祈を捧げ手を拍つてゐる……この刹那の偉大なる詩境は、私の心魂に徹した。眼前のこの大きな光景は最早消すべからざる記憶となつたのである。私の智力は消滅し眼は土に化して仕舞つてから、私の生まれなかつた遠い昔、矢張り富士の絕頂から旭日を眺めた億兆の人々の眼の土化[やぶちゃん注:「どくわ」。]したのと、相混ずる時まで、この記憶の一々明細な點は消滅することはない。

 

2019/11/10

小泉八雲 富士山 (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」

 

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 富士山 (落合貞三郞譯) / (その序)」を参照されたいが、そこの注で指摘したように、小泉八雲は以下の冒頭のクレジットを“August 24th, 1897.と正しく記しているにも拘らず、落合氏はそれを元号に変えた上、西暦を併置しなかったがために、以下の通り、『明治三十一年』と誤ってしまっている。再度言う、小泉八雲が富士登山を敢行したのは明治三〇(一八九七)年八月二十四日で、しかも東京から直行したのではなく、逆方向、則ち、焼津での避暑の帰りに家族と別行動をとって、島根尋常中学校時代の秘蔵っ子の教え子藤崎八三郞(旧姓小豆澤)」と向かったのであった。なお、底本では、冒頭の誤ったこのクレジットはポイント落ち下インデント四字上げであるが、ブラウザでの不具合を考え、同ポイントで引き上げてある。以下、最後までクレジットの処理法は同じであるので、この注は繰り返さない。]

 

        

          明治三十一年八月二十四日

 宿の室が緣側に向つて開いて、緣側の上方に張つた絲からは、數百の手拭が旗の如く垂れてゐる。靑や白の手拭に漢字で富士講の名と富士の社名が染めてある。これは宿屋へ贈つたもので、廣告[やぶちゃん注:各富士講のそれ。]の用に立つ……雨が降つて、空は一樣に灰色。富士はいつも姿を見せない。

 

                八月二十五日

 午前三時半――一睡もできなかつた――夜更けて山から下りてきた連中や、參詣のため到着した者共で夜中のどさくさ――下女を呼ぶ手の音が絕えない――隣室は飮めや歌への大騒ぎ、折々どつと哄笑が起こる……朝食は汁と魚と御飯。强力が仕事衣を着けてくると、私は最早用意が整つてゐる。が、强力は私に今一度着物を脫いで、厚い下衣を着るやうに强いた。山の下では土用[やぶちゃん注:ここは立秋前の「夏の土用」。七月二十日頃からの十八日間を指す。]の頃も、絕頂では大寒[やぶちゃん注:「だいかん」。原文も“Daikan”。二十四節気の最後で、寒さが最も厳しくなる、一月二十日頃だが、ここは「『大寒』と同じ」の謂いである。]だからと私に警告した。それから强力は食糧と重い着物の包を負つて先發した……三人曳きの車が私を待つてゐる。上り阪で仕事に骨が折れるから、二人が曳いて、一人が推すのである。車で五千呎[やぶちゃん注:千五百二十四メートル。]の高さまで行かれる。

[やぶちゃん注:私は既に述べた通り、富士登山の経験がなく、ネット上の記載も、微妙に、標高や指示が異なっているため、はっきりとは言えないが、小泉八雲が示したこの標高から見ると、現在の富士山御殿場口五合目(新五合目)の駐車場(標高千四百四十メートル)のやや上の「大石茶屋」附近(千五百二十メートル。グーグル・マップ・データ)かと思われるが、後の展開から見ると、「大石茶屋」相当のシークエンスが出てくるので、ここまで行ってしまうと、辻褄が合わない。前者の新五合目附近ととるのが穏当か。]

 細かな雨が降つて、眞暗い、や〻冷たい朝だ。しかし私はやがて雨雲よりも上へのぼるのだ……町の燈光は後になつて消えて、車は田舍道を走つてゐる。先頭の車夫の提燈でできた搖曳する半陰影の外には、一としてはつきり見えるものはない。ただ樹木の影と、折折嶮しい屋根のある百姓家が微かにわかる。

 灰色の弱い光が、徐々と濕つぽい空氣の中に漲るつてくる。細雨の中から夜が明けようとしてゐる……次第に風景の色がわかつてくる。道は藁葺の家の前を過ぎて行く。が、耕作地は何處にも見えぬ。

 落葉松[やぶちゃん注:「からまつ。]や松などの木立が散在せる開豁[やぶちゃん注:「かいかつ」。目の前が開けており、遠くまで見通せること。]の野だ。茫々たる野の緣と思はる〻所の上に、ごつごつした樹梢[やぶちゃん注:「じゆしやう(じゅしょう)」。樹木の梢(こずえ)。]が見えるのみで、眼界無一物。富士の影さへ見えぬ……始めて氣がついたのは、道の黑いことだ。黑い砂と灰、卽ち火山灰らしい。車輪と車夫の足がぱりぱりと碎ける音をして、その中へはまりこむ。

 雨は止んで、空はもつと明らかな灰色となつた……進むに從つて樹木は小さくなり、數も減じた。

 前面に當つて、地平線と思つてゐたものが、急に裂開して、煙の如く卷いて左右へ去りはじめた。大きな裂け目の中に暗靑色の大塊の一部が見えた。富士の一部分だ。殆ど同時に太陽が私共の背後の雲に射した。しかし道は今や低い山の背の裾を蔽へる矮林へ入つて、眼界は鎖された……巡禮の休憩所なる樹間の一小屋で休んだ。すると、車夫よりも一層速かに進んだ强力は待つてゐた。卵を買つた。强力はそれを幅の狹い藁蓆[やぶちゃん注:「わらむしろ」。]に卷いて、卵と卵の間を藁でしつかり結んだので、卵の絲つなぎは何となく腸詰の絲つなぎのやうであつた……一頭の馬を雇つた。

 進むにつれて、空は晴れて、白い光が萬象に漲つた。道はまた上りとなり、それからまた荒野へ出た。すると、すぐ前面に富士が現はれた。絕頂まで裸で、素晴らしく偉大で、新たに地から聳え立つたばかりと思はれるほど目醒ましい。これほど美しいものはあるまい。大きな靑色の圓錐形――淡靑色で、まだ朝陽に消されない霧のために殆ど菫菜[やぶちゃん注:「すみれ」と読む。無論、キントラノオ目スミレ科 Violaceae のスミレのことである。]色を帶びてゐる。頂に近く二本の白い小筋がある。ここからはやつと一吋[やぶちゃん注:「インチ」。約二センチ五ミリ。]の長さにしか見えないが、雪の滿ちた大きい壑[やぶちゃん注:「たに」。原文“gullies”。「gully」は英語そのままに「ガリ」あるいは「ガリー」とも呼び、降水・降雪が集まって流れた水氷の流動によって地表面が削られて溝や谷状に形成された地形を指す。水起原の侵食による地形形状の一つで「雨裂(うれつ)」とも称する。]なのだ。しかしこの姿の美は色彩美よりも均勢美である――あまり廣い距離にのべ渡したので、緊張のできない錨鎖[やぶちゃん注:「びやうさ(びょうさ)」。錨(いかり)の鎖。]のやうな、美しい二つの曲線が釣り合ひを得てゐるのだ。(この喩[やぶちゃん注:「たとへ」。]はすぐ心に浮かんだのではない。あの優美の線が與へた第一印象は女性的といふ印象であつた――私は兩肩が頸の方へ立派な勾配をしてゐることを考へたのであつた譯者註)これを一見して、すぐ描くといふことは、なかなかむづかしいだらうと私は思ふ。しかし日本の畫家は、毛筆の驚くべき器用さ――代々の畫家から遺傳した技倆――によつて、譯もなくこの難事に直面する。一秒も立たぬ間に描いた二本のなだらかな線で、影法師の輪郭を作り、曲線の正鵠を得るやうにする――丁度弓の名人が、意識して狙はずとも、多年の手と眼の正確な習慣で的中させる如く。

 

譯者註 これは直譯であるが、兩肩から頸の方へと、曲線が上つて行く見方である。日本人ならば、曲線が頸から兩肩へかけて、なだらかな勾配をして下つてゐる風に見立てる。東西心的作用の差異の一例と見るべきだらう。

 

[やぶちゃん注:面白い! 指摘している原文は、“I found myself thinking of some exquisite sloping of shoulders towards the neck.”である。]

 

 

       

 强力は遙か向うの方を急いで進んで行つてゐる。其一人は頸に卵を卷きつけてゐる……最早、樹木と名づくべき樹木もなく、灌木[やぶちゃん注:低木。]の如き短矮[やぶちゃん注:「たんわい」。短く背が低く小さなこと。]な植物が散在してゐるばかりだ。黑い道路が茫々たる草原を越えて曲つてゐる。綠色の表面の此所彼所[やぶちゃん注:「ここかしこ」。]に大きな黑い斑紋――灰や火山滓[やぶちゃん注:「かざんさい」。岩滓(がんさい)・スコリア。火山性砕屑(さいそう)物の一種で、熔岩又は火山放出物由来のザラザラした気泡の多い塊りで、一般に塩基性の組成で多孔質、暗色から黒色を呈する。原文“scoriæ”で、語原のラテン語“scoria”は「糞・滓(かす)」の意。]の露出せる場所――がある。この薄い綠色の皮は、近い頃の大きな火山的堆積物を蔽うてゐるのだということが、それでわかる……實際すべてこの地方は千七百七年、富士の側面の爆發によつて、二碼[やぶちゃん注:「ヤード」。約一メートル八十三センチメートル。]の深さに埋められ、遠く離れた東京に於てさへ、灰の雨が十六センチメートルの深さに達するまで屋根を蔽うた譯者註。この邊には眞正の土壤が乏しいから、畠がない。また水は皆無である。しかし火山の破壞は永久の破壞ではない。爆發は結局土地を肥沃ならしめる。して、貴い『花を美しく咲かせる姬』が、數百年の後にこの荒野に再び笑顏を呈せしめるであらう。

 

譯者註 東山天皇寶永四年(一七〇七年)十月二十三日巳中刻(午前十時頃)、富士山 忽然鳴動、煙雲騰上。吹飛砂礫、寶永山出現。

[やぶちゃん注:所謂、最も新しい富士山の噴火である「宝永の大噴火」であるが、落合の注は月が誤っている宝永四年十一月二十三日(一七〇七年十二月十六日)の午前十時頃、富士山の南東斜面から白い雲のようなものが湧き上がって急速に大きくなっていったのが噴火の始まりで、十二月八日(十二月三十一日)に終熄した。ウィキの「宝永大噴火」に詳しいが、それによれば、『この時』、『江戸に降り積もった火山灰は当時の文書によれば』二寸から四寸(六・六~十二センチメートルほど)と『あるが、実際には』、『もう少し少なかったと推定されている。東京大学本郷キャンパスの発掘調査では、薄い白い灰の上に、黒い火山灰が約』二センチメートル『積もっていることが確認された』。但し、『この降灰は強風のたびに細かい塵となって長く江戸市民を苦しめ、多数の住民が呼吸器疾患に悩まされた』とある。]

 綠の表面に於ける黑い孔は、もつと數多く、もつと大きくなつた。僅の矯小な濯木が、まだ荒々しい草とまじつてゐる……水蒸氣はのぼつて行く。して、富士は色を變へつつある。最早輝ける靑色でなく、極めて、くすんだ靑色だ。曩には[やぶちゃん注:「さきには」。先ほどまでは。]土地の高い隆起にかくれて見えなかつた凸狀形が、大きな曲線の下部に現はれた。これら凸狀形の一つで、左方に當つて、駱駝の隆肉[やぶちゃん注:「こぶ」と当て訓しておく。]の形をなせるものは、最も新しい大噴火の焦點を示してゐる。

 土地は今や黑い斑點を帶びた綠でなく、綠の交つた黑色だ。灌木はなくなつた。車輪と車夫の足は、火山灰に一層深く沈む……車に馬を繫いだので 私はもつと早く進まれるやうになつた。それでも山は遙か遠方に見える。しかし實際私共は五千尺[やぶちゃん注:「呎」の誤り。千五百二十四メートル。]以上の高さの側面を上りつつあるのだ。

 富士は靑がかつた色合を全く失つた。それは黑くて、炭のやうな黑さで、露出した灰や鐡滓[やぶちゃん注:「てつさい(てっさい)」。原文“slaggy lava”。スラグ状の溶岩。金属から溶融によって分離した鉱石母岩の鉱物成分などを含む物質というのが、一番、正確だろう。]や熔岩などの、火の消えた怖ろしげな堆積だ……綠色のものは大部分なくなつて、一切の幻覺もまた消えた。黑裸々[やぶちゃん注:「こくらら」と読んではおく。「真っ黒な素(す)っ裸」の意。]たる現實の光景は、ますます銳く、怖ろしく、猛惡に分明さを加へ、人を昏迷させる惡夢となつて現はれた……仰げば數哩[やぶちゃん注:富士山の標高三千七百七十六から先の「五千」フィートを引くと、二千二百五十二メートルであるが、富士の実際の登攀データを見ると、この高低差では実際の登攀距離は軽く十キロメートルを超えるから、一マイルの六掛けでも九キロ半となり、誇大表現ではないことが判る。]の上で、黑い色を背景として、散點せる雪が、怖ろしげに睥睨[やぶちゃん注:「へいげい」。]したり、幽光を發したりしてゐる。齒だけ白く光つて、その他は煤けて碎けさうに燒けた婦人の頭蓋骨を見たことを私は思ひだした。

[やぶちゃん注:この最後の反応と記憶は強烈で(“I think of a gleam of white teeth I once saw in a skull,—a woman’s skull,—otherwise burnt to a sooty crisp.”)、原文を発音してみると、これ、怪談の小泉八雲――炸裂!――である。平井氏はそれを『自分は昔、歯だけ白く光って、あとはくすぶり焦げた女の人の焼けただれた頭蓋骨を見たのを思い出した』と訳しておられ、これこそが正しく文学的な素敵に慄然とさせる名訳であると私は思っている。――さても……富士を登りながら……かくも、人の生死の哲学を心に抱き……現に見た、焼けた女性の頭骨の歯の白さを、厳然と想起し得た人間は、私は、小泉八雲を除いて、そうそう沢山はいないと思うのである。]

 この世の最も美しい光景でないまでも、最も美しい光景の一つであるものさへ、かやうな風に恐怖と死の光景に歸してしまふ……しかしすべて人間の美に關する理想は、遠方から眺めた富士の美の如く、死と苦みの力によつて創造されたのではないか。すべてその性質から云へば、幾多の死滅したものが集つたので、遺傳的記憶といふ摩訶不思議の靄を通じて囘顧的に眺めた、ものではないか。

 

2019/11/09

小泉八雲 富士山 (落合貞三郞譯) / (その序)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Fuji-no-Yama ”。「富士の山」)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”。「異国情趣と回顧」)の第一パート“ EXOTICS ”(「異国情趣」)の最初、作品集巻頭を飾る一篇である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月20日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者落合貞三郎(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で、郷里島根県の松江中学及び後に進学した東京帝国大学に於いて、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)/小泉八雲(帰化と改名は明治二九(一八九六)年二月十日。但し、著作では一貫して Lafcadio Hearn と署名している)に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は第六高等学校、学習院教授を勤めた。謂わば、小泉八雲の直弟子の一人である。

 傍点「﹅」は太字に代えた。訳文は序と別に全六章(実は落合氏は原本の「Ⅳ」と「Ⅴ」を一つにして、「四」にしてしまっている。則ち、原本は全七章なのである。それは以下の電子化で当該部で注しておいた)から成るので、三分割して電子化するが、連続した登攀の回想であるから、公開がだらだらと長くなるのを避けたいので、通常、私が附ける仔細な神経症的注は、まさの霊峰に登る如く「精進」して極力抑えたつもりである。途中に入る「譯者註」は、四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げ、本文と同ポイントとした。]

 

 

  異 國 情 趣

 

[やぶちゃん注:何故か、訳に省略がある。この大パート標題には、ご覧の通り、以下の添題がある。

―“Even the worst tea is sweet when first made from the new leaf.”— Japanese proverb.

(「一番、質の劣るお茶でさえも、最初に、その新しい茶葉で淹れた時は、甘い。」(日本の諺))

これはもう、「番茶も出花」であろう。「番茶(煎茶用の若葉を摘んだの、やや堅い葉から作る緑茶。煎茶よりも品質が劣るとされる)でも、淹れたては、香りも高く、美味しい。」。ただ、この諺、転じて専ら「どんな女でも娘盛りは美しいもの」(「鬼も十八、番茶も出花」もあり)という譬えで使われるばかりであることから、或いは訳者(落合氏)が、日本人にとっては品性を欠き、この大パート標題の添え辞としては、日本人の印象によろしくないと考えて、確信犯でカットした可能性が強いようにも思われる。

 

 

   富 士 山

    來てみればさほどもでなし富士の山 ――日本の諺

 

 日本で最も美麗なる光景で、世界中でもまさしく最も美麗なる光景の一つは、雲のない日、殊更春と秋に於て、山の大部分が殘んの[やぶちゃん注:「のこんの」。連体詞。「のこりの」の音変化。「まだ残っている」。]雪や初雪に蔽はれて、遠く空に浮かび出でた富士の姿である。雪のない麓も、空と同じ色を呈して殆ど見分けがつかない。ただ天に懸かつたやうな白色の圓錐形を認めるのみだ。して、日本人が倒懸[やぶちゃん注:「たうけん」。逆さまに吊るすこと。]せる半開の扇にその形を見立てた譬喩は、刻み目のついた嶺から扇の骨の影のやうに下方へ擴がつてゐる立派な筋のために、いかにも旨く適合する。扇よりも更に輕やかな姿、寧ろ扇の精か、扇の幻かと見えるが、しかも百哩かなたの實體は、世界の山々の中で堂々たるものである。約一萬二千五百呎の高さに聳えて、十三箇國から望まれる。それでも高山のうちでは登るにも容易な方で、千年以來每夏幾多の巡禮者が登り來たつたのである。それは、ただ貴い山であるばかりでなく、日本中で最も貴い山、神國で最も神聖な山、太陽を拜む最高の神壇であつて、少くとも一生に一度登るのは、すべて昔の神々を敬ふものの義務だからである。だから帝國のあらゆる地方から巡禮者が年々富士山へ辿つてくる。して、殆ど各國にこの靈峯へ詣らうと願ふものを助けるために組織された、富士講といふ巡禮團體がある。もしこの信心の勤行を自身で出來ない場合には、少くとも代理を立ててもよろしい。いくら僻遠の小村でも、富士の神社に祈を捧げ、あの貴い絕頂から朝日を拜むために、折々は一人の代表者を送ることが出來る。かくて一組の富士巡禮は、百も異つた村々から出た人々で組織されることもある。

[やぶちゃん注:「百哩」「百マイル」。約百六十一キロメートル。但し、この距離はどこかを起点とした数値ではなく、遥か遠くの謂いで用いたものであろう。当時、小泉八雲がいた東京からとしても九十五キロメートルである。或いは、当時、誰かから、この圏内で富士山が眺められるという話を聴いたそれをもとにして言ったものかも知れない。ネットで関東に限ってみると、天気情報のサイトに、栃木県大田原市(グーグル・マップ・データ)は、直線距離で約二百キロメートル離れた富士山が、くっきりと見えるとあった。

「約一萬二千五百呎」「フィート」(一フィート(単数は「フート」)は三〇・四八センチメートル)。三千八百十メートルで切り上げてある。以下、当該数値をメートル法に換算した数値のみで示す。

「十三箇國から望まれる」学術的データによれば、福島県・茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県・新潟県・富山県・山梨県・長野県・岐阜県・静岡県・愛知県・三重県・滋賀県・京都府・奈良県・和歌山県の二十都道府県とする。但し、別なデータでは、石川県と福井県を数え、二十二都道府県とする。

「富士講」富士山信仰の講社。富士山を遠く仰ぎ見て、宗教的な感慨を抱くことは、古くからあったに違いないが、中世には修験道を中心に、関東・東海地方に富士信仰が形成されていた。江戸前期に長谷川角行(かくぎょう 天文一〇(一五四一)年生まれで、正保三(一六四六)年に富士山中の人穴にて逝去した、とされるが、詳しい事績は不明)が教義を整え、その布教のために信徒組織を作った。富士山登拝と寄進が主な目的である。その後、食行身禄(じきぎょうみろく 寛文一一(一六七一)年~享保一八(一七三三)年:当該ウィキを参照されたい)が講社の発展を図り、江戸を中心に町人や農民に広く呼びかけた。先達(せんだつ)が霊験を説いて信徒を集め、先達に引率されて富士山に登拝するものである。講中の者は登拝に先だって三日又は七日の精進潔斎の後、白衣を着、鈴と金剛杖を持ち、「六根清浄お山は晴天」などと唱えながら、行者(ぎょうじゃ)として修行のために富士山に集団登拝する。実際に登山出来ない人のためには、村内に「富士塚」などの遙拝所を設けた。関東にはいまも、富士山を象った富士塚や、登拝記念の石塔が数多くあり、地名に残ったものが多い。江戸時代には「江戶八百八講」と呼ばれるほどに栄え、教派は「身禄派」と「光清(こうせい)派」に分れたが、「身禄派」が優勢になった。江戸時代の末には幕府の弾圧を受けている。明治以後は教派神道として再生し、「扶桑教」・「実行教」・「丸山教」・「富士教」の諸派に分れた。大正一二(一九二三)年の「関東大震災」以後、東京の講社は激減した。現代は個人で登る人もあり、女性も登るが、昔ながらの服装の人もある(以上は、小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 神佛両宗敎から富士山は崇敬を受けてゐる。富士の神は美しい女神の木花咲耶姬である。姬は火の中で苦痛なく子供を產んだ。姬の名は木の花の如くに美しい色が輝くといふ意味だ。或る註釋家は、花を美しく咲かせるといふ意味だともいつてゐる。絕頂に姬の祠がある。して、古書には、姬が輝ける雲の如く、火口の緣のほとりを逍遙してゐるのが、人間の眼に見えたと書いてある。人間には見えぬ姬の召使が、絕壁の側に見張りをして待つてゐて、少しでも汚れた心を懷きながら、敢て姬の祠へ近寄らうとする者を擲げ[やぶちゃん注:「なげ」。]落とすのである……佛敎でこの雄峯を愛する所以は、その形が神聖な花の白い蕾の如くで、絕頂の八頂點は蓮華の八枚の花瓣の如くに正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八正道を示すからである。

[やぶちゃん注:「木花咲耶姬」「このはなさくやひめ」或いは「ひめ」は「びめ」とも読む。当該ウィキを見られたい。

「八正道」(はつしやうだう(はしょうどう)は仏教に於ける実践の徳目。一般人の生存は「苦」であり、その「苦」の原因は「妄執」によって起るとすることから、「妄執」を完全に断ち切れば、完全な「悟り」を得ることが出来ると考え、その状態に到達するための修道法として説かれた八種の正しい実践を指す。則ち、「正しい見解」を意味する「正見(しやうけん(しょうけん))」以下、「正しい思惟」 たる「正思」・「正しい言語行為」たる「正語」・「正しい行為」たる「正業(しやうごふ(しょうごう))」・「正しい生活」たる「正命(しやうみやう(しょうみょう))」・「正しい努力」たる「正精進」・「正しい想念」たる「正念」、「正しい精神統一」を意味する「正定(しやうぢやう(しょうじょう)) の八つである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 しかし富士に關する古譚傳說――一夜の中に地から聳えて出たとか――嘗て勾玉[やぶちゃん注:「まがたま」。]の雨が降つたとか――最初の祠が千百年前に頂上に建てられたこと――赫姬(かぐやひめ)に迷はされて、或る帝は火口に行つた限り見えなくなつたので、今猶ほその場所に小祠を建てて祀つてあること[やぶちゃん注:八雲先生の「竹取物語」の誤読であろう。]――每日御巡禮の足で轉がり落ちた砂は、每夜また元の所へ上つてくること――かやうな話は、すべて悉く種々の書に載つてゐるではないか。實際富士については私が登つた經驗の外に、あまり話すべきことはない。

 私は御殿場口からを登山した譯者註。これは六つ七つ選擇勝手な道の中では、一番景色はよくないが、恐らくはまた一番困難が少からう。御殿場は主もに[やぶちゃん注:「おもに」。]巡禮宿から成れる一小村で、東京から東海道線約三時間の距離である。線路がこの偉大な火山附近へ近附くと、數哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約一・六一〇キロメートル。勾配が始まるのは山北駅からで、現行の走行距離は十九・六キロメートルであるから、これはその中間点辺り(現在の駿河小山駅からだと御殿場駅まで十・九キロメートル)からの謂いとなろう。]の間上りになつてゐる。御殿場は海拔二千呎[やぶちゃん注:約六百十メートル。現在の御殿場市の市街地の標高は二百五十~七百メートル。]より可なり高い。だから極暑の節にも比較的涼しい。附近の開豁[やぶちゃん注:「かいくわつ(かいかつ)」。広々として眺めのよいさま。]な野原は、富士の方へ勾配をなしてゐるが、その勾配がゆるやかだから、高原は殆ど水平のやうに見える。極めて晴天の日には御殿場から、山が氣特ちわるい位近く見える。實際は數哩を距ててゐるが[やぶちゃん注:御殿場駅から富士山頂は直線で二十キロメートル弱、裾野で十キロメートル弱であるから、後者。]、迫つて見えるから怖ろしいやうだ。梅雨の頃は一日に何囘も隱見して、巨大な幽靈のやうである。しかし私が巡禮者となつて御殿場へ入つた八月の灰色な朝、景色は蒸氣に包まれて、富士は全く見えなかつた。あまり遲く着いて、その日には登山を試みることができないので、直ぐに翌日の支度にかかつて、二名の强力[やぶちゃん注:「がうりき」。]を雇ひ入れた。私は彼等の廣い、正直さうな顏と、嚴乘[やぶちゃん注:「頑丈」に同じい。]な態度を見て充分安心した。彼等は錫杖、重い紺足袋(卽ち草鞋と共に使用するので、指先きの割れた靴下)、富士の形の藁笠、その他巡禮の支度品を私に吳れて、明朝四時に立つ積りでゐて下さいと告げた。

譯者註 ヘルン先生は明治三十一年の夏、燒津の避暑を終つてから、松江中學の舊弟子の一人、藤崎八三郞(舊姓小豆澤)氏を伴なひ登山された。

[やぶちゃん注:落合氏は、かく、はっきりと言っているが、完全な誤まりで、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、小泉八雲が富士登山をしたのは、明治三〇(一八九七)年八月二十四日に、逆方向の、実は焼津の避暑の帰り、家族と別行動をとって向かったものである。そもそもが、次の「一」の冒頭にあるクレジットも正しくAugust 24th, 1897.であるのにも拘わらず、甚だ不審なことに、落合氏は、ここで『明治三十一年八月二十四日』としてしまっているのである。ここでの誤認を点検せずに後までずっと使用してしまった大きな瑕疵がここに発生することとなってしまったのである。さらに言うと、平井呈一氏も恒文社版(「異国風物と回想」一九七四年刊)の「富士の山」で『明治三十一年』としてしまっているのに驚くのである。平井氏の訳を愛する私としては、あまり言いたくないことであるが、平井氏の恒文社版の小泉八雲の作品集の訳の中には、第一書房版全集で素人の私でさえ確実に誤訳と判断される箇所の一部で、時に同じ誤訳(全く同じ日本語の誤り)をされている箇所が、ごくたまにだが、確かに見かけられるのである。考えたくないのだが、言わざるを得ない。これは、平井氏は先行訳を参考にした際、時に、原文との校合をちゃんと行わずに、先行訳を安易に、無批判に、そのまま援用されたことが稀にあったように見受けられ、ちょっと残念な感じがする私なのである。

「御殿場は主もに巡禮宿から成れる一小村で、東京から東海道線約三時間の距離である」鉄道に詳しい方には不要な注であるが、現在の御殿場線は旧東海道線であり、正しい。御殿場線は明治二二(一八八九)年に東京―大阪間を結ぶ鉄道(明治四二(一九〇九)年に東海道本線と命名)の一部として開業し、複線化も行われていたが、昭和九(一九三四)年十二月一日の丹那トンネル開通に伴い、東海道本線は熱海駅経由に変更され、国府津駅―沼津駅間は支線の御殿場線と変わったのである。御殿場駅は御殿場線に於いて最も標高が高い位置の近くに立地し、標高は四百五十五メートルである。

「藤崎八三郞(舊姓小豆澤)」生没年は確認出来なかった。養子に行って姓が変わったのである。後に陸軍大佐となった。『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (十八)』の本文に、中学校時代の彼について、かなり詳しく書かれてあるので参照されたい。「熊本アイルランド協会」公式サイトの「ハーン雑話」に、

   《引用開始》

藤崎八三郎

 旧姓を小豆沢といいます。島根県尋常中学校での教え子で、ハーンの作品『英語教師の日記から』の中に「今後わたくしの記憶に最も長く明白に残るだろうと思う」生徒の一人として紹介されています。ハーンが熊本に移った後もハーンを慕って文通を続け、資料提供の手伝いなどをしています。明治26年に卒業しますが、進路についてハーンに相談し熊本に訪ねてきたりもしました。

 明治28年9月、五高に入学しますが前年12月志願兵として入営していたため、出校しないまま休学し、翌年3月に退学しています。結局、陸軍士官学校に入り、職業軍人の道を選びました。この時、藤崎家の養子になっています。

 東京時代のハーンは、毎年のように家族を連れて焼津に海水浴に行き1ヶ月ほど滞在しました。明治30年の夏には藤崎も訪ねていき、ハーンのかねてからの念願であった富士登山に同行します。この登山からは『富士の山』という作品が生まれました。その当時ハーンは身体に少し衰えを感じていたらしく、富士登山はとても無理だと諦めていました。藤崎が「私が一緒に行きますから」といって周到な準備のもと、決行します。藤崎の手記によれば「一人の強力が先生の腰に巻いた帯を引いて、もう一人は後ろより押し上げやっと夕方8合目に到着。一泊して翌朝8時についに頂上に到着した」というような登山だったようです。

 藤崎は東京でもハーンを慕ってよく訪ねています。藤崎夫人ヲトキさんの回想によると、縁談はハーンの助言でまとまり、お見合いも小泉家の座敷で行われたということです。明治37年2月、日露戦争が始まり藤崎は満州に出征することになりますが、ハーンは家族ぐるみで送別会を開いています。9月26日、ハーンは戦場の藤崎に手紙を書き数冊の本とともに発送して、数時間後に心臓発作で亡くなりました。藤崎は「先生の最後となった手紙と贈ってくださった本と、それから先生の亡くなられたという知らせと同時に受け取って悲嘆に耐えなかった」と手記に書いています。この絶筆となった手紙は戦災で焼失しましたが、幸い木下順二氏が写真に撮ってあった原板があり、それを焼き付けたものがこの記念館に展示されています。

 ハーンの没後、上京した藤崎一家がすぐに家が見つからなかったので、小泉家の半分を借りて住んだこともありました。大正12年、熊本で済々黌[やぶちゃん注:「せいせいこう」。]高校の教師となって英語、地理を教えますが、晩年、本当は文学がやりたかったんだと孫たちに語っていたそうです。小泉時氏のお話では「藤崎さんが上京される際は好物のちらし寿司をつくってお待ちしたものでした」ということでした。

   《引用終了》

とある。この富士登山姿の二人で撮った写真が残っている。「X」の「富山大学附属図書館のLiLiKaです。」のこちらで、その写真を見ることが出来る。

 以下に書いたことは、旅行中書き附けた心覺えを後になつて修正增補したのである。登山の際にかきつけたことどもは、倉卒[やぶちゃん注:「さうそつ(そうそつ」。「忙しく慌ただしい」或は「いい加減であること」の意。両者の意でとっておく。]不完全を免れないから。

[やぶちゃん注:因みに、私は高校教師時代、ワンダー・フォーゲル部と山岳部の顧問をしたが、未だ、個人でも富士登山はしたことがないし、したいとも思わない。忘れ難い感動は、三度登った槍ヶ岳、それと、連れ合いと二人で登った開聞岳だ。]

 

 

2019/11/08

小泉八雲作品集『異國情趣と囘顧』始動 / 献辞・序

 

[やぶちゃん注:本作品集(原題“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月20日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集はここから。

 冒頭に原書の表紙絵を掲げた。これについては、上記の“Project Gutenberg”記載に、「この表紙のイラストは作品集に内容に基づいて出版編集者が作成したもので」、「この表紙はパブリック・ドメインである」旨の英文の注がある。小泉八雲が本作品集を「糸瓜(へちま)の本」と呼んだ所以である。

 この献辞と序の訳は、恐らくは巻頭作品「富士山」(原題は“ Fuji-no-Yama ”)の訳者である(分担表はここ)落合貞一郞氏かと思われる。落合貞三郎(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で、郷里島根県の松江中学及び後に進学した東京帝国大学に於いて、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)/小泉八雲(帰化と改名は明治二九(一八九六)年二月十日。但し、著作では一貫して Lafcadio Hearn と署名している)に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は第六高等学校、学習院教授を勤めた。謂わば、小泉八雲の直弟子の一人である。]

 

Hetimanohon

 

  異國情趣と囘顧

 

 

       橫濱の(前米國海軍)

  ドクトル・シー・エッチ・エッチ・ハウルへ

       かはらざる友情の記念として

 

[やぶちゃん注:献ぜられている“DR.C.H.H.HALL”なる人物は、いろいろ調べてみたが、判らない。但し、サイト「横浜居留地外国人データベース」のこちらに、山手九十九番に所在したアメリカ海軍病院のデータに、明治二〇(一八八七)年から翌年にかけてと、一八八九年の条のそこに赴任・在住したアメリカ海軍のドクターとして同名の人物を見出せた。底本の田部隆次氏の「あとがき」には『橫濱の醫師ハウル氏に捧呈してある』とあるから、この医師は海軍をやめて横浜で医師として勤務、或いは、開業していたものかとも思われなくはない。小泉八雲との関係は私は不詳。

 以下、序文。]

 

 

 此卷を成す諸篇はその一を除く外すべて初めて世に現はれる。此書の第二部を形つくる小論文、むしろ幻想は東西兩半球に於ける經驗を叙述する。されどこれに共通の表題を附けたるは、これ等の文が何故にその事實を離れて編せられたるかの說明となる。何等かの眞に科學的なる想像には、進化的心埋學の或る敎訓と東洋の信仰の或る敎訓、――特に一切の有情は羯摩(カルマ)にて一切の所有は唯だ行と想との所現に過ぎずとする佛敎の敎義、――との間に存する不思議なる類同は、私の『囘顧』の集錄よりも層一層有意義なるものを暗示するやも知れぬ。これ等の諸篇は認識するよりも、定義することの比較し難き程困難なる眞理を、單に暗示するものとしてのみ提示せられたのである。

 

   一八九八年二月十五日 日本東京にて

           ラフカディオ・ヘルン

 

[やぶちゃん注:クレジットや署名は引き上げてある。

「その一を除く」底本の田部隆次氏の「あとがき」に、『ただ一篇『帝國文學』』(後に芥川龍之介が大正四(一九一五)年十一月に発表した「羅生門」の初出誌である)『に出た「靑色の心理」』(原題“ Azure Psychology ”。「回顧」パートの第五話)『を除いて全部新しい物である』とある。

「一切の有情は羯摩(カルマ)にて一切の所有は唯だ行と想との所現に過ぎず」当該原文部は“all sense-life is Karma, and all substance only the phenomenal result of acts and thoughts”。少し語注する。

・「有情」(うじやう(うじょう)はサンスクリット語「サットバ」の漢訳。感情・意識などの心の動きを有する生物の総称。人間のみでなく、動物も含むのが初期的な認識である。「衆生」に同じい。

・「羯摩(カルマ)」は「羯磨(かつま)」とも称し、一般に我々が「業(ごう)」として認識している概念のことである。サンスクリット語の「カルマン」の漢訳語。元来は「為(な)す・行為する」のサンスクリット語「クル」という動詞から造語された名詞であり、本来は「行為」を示す。しかし、一つの行為は原「因」がなければ起こらず、また、一旦発生した行為は、必ず、何らかの結「果」を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響する。その原因・行為・結果・影響(この連続系は通常世界では永続する)を総称して「業」と呼んだものである。それはまずは素朴な形で、所謂、「輪廻」思想とともに、インド哲学の初期ウパニシャッド思想に生じ、後、仏教に取り入れられ、人間の行為を律し、また生あるものの輪廻の軸となる重要な語となった。則ち、善因善果・悪因悪果・善因楽果・悪因苦果の系は「業」によって支えられ、人格の向上は勿論、「悟り」も「業」が導くとされ、さらに「業」の届く範囲は、一層、拡大され、前世から来世にまで延長されたのでる。しかし、現世に生きる我々は、取り敢えず、狭義に「現在の行為の責任を輪廻する限りは将来(死後を含む)のそれによって惹起されたところのあらゆるものをも自ら引き受けねばならない」という意として捉えてよいであろう。確かに「行為」そのものは「無常」であり、その個としての現象は永続することはあり得ないが、一旦、成した行為は消去することは不可能であり、ここに一種の「非連続にして連続する現象」が発生し、それを「業」が輪廻の中で担い続けることになるのである。仏教では身(しん)・口(く)・意(い)を「三業(さんごう)」と称し、身体と言葉と心とは、常に一致して行為にそのままに現れるとする。また、初期仏教では、「業」を専ら個人の行為に直結して考えたものだが、後には、社会的に拡大し、多くの個人が共有する「業」を考えるようになり、これを「共業(ぐうごう)」と呼び、個人一人のものは「不共業」と名づけたりもした(以上は、小学館「日本大百科全書」の「業」の記載を参考に、小泉八雲の謂いに合わせて私が言い換えを行った)。謂わば、「業」は「輪廻」に於ける絶対不可避の原理であるということになろう。

・「所有」「本質」・「実体」の意であるが、ここは私は仏教の教義に則すならば、単なる見かけ上の実体」の意で採りたい。

・「行」訳者は「ぎやう(ぎょう)」と読んでいようが、これは狭義の仏教の「行」(ぎょう)ではなく、悟達を得ない存在の「行」う、あらゆる「行爲」と言う意味であるので注意が必要。

・「想」訳者は「さう(そう)」と読んでいよう。これも、前の「行」と同じく、凡夫の限界性を持った浅はかにして、愚劣な、「思い・情感・意識・想念」の意である。

・「所現」以上を受けるから、ここは逐語的に「ただの現象が引き起こすところのただの結果」と訳したいところである。平井呈一氏も恒文社版(「異国風物と回想」一九七四年刊)で『現象上の結果』と訳しておられる。]

2019/11/07

昭和一一(一九三六)年十一月第一書房刊「家庭版小泉八雲全集」第七卷「あとがき」(大谷正信・岡田哲藏・田部隆次)

 

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月20日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本文はここから。

 また、本文中の底本の本文の翻訳作品名の部分には、私の当該電子化作へリンクを張って便宜を図った。

 

    あ と が き

 

 『靈の日本』“ln Ghostly Japan”中の『香』は譯者が明治三十一年[やぶちゃん注:一八九八年。]二月に提供した材料に依つて物されたものである。譯者はまた材料を主として『群書類從』の遊戲部に收めてある諸書と社會事彙のカウとから得た。

[やぶちゃん注:「社會事彙」本邦初の西欧的百科事典である「日本社會事彙」。全二巻(索引別巻は未刊行)で明治二三(一八九〇)年から翌年にかけて経済雑誌社から刊行された。「カウ」は「香」の項という意で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。膨大な記載で、「カウ」以降にも「香合はせ」についての記載も続く。]

 『佛足石』は譯者が同年九月に提供した材料に依つて物されたものである。佛語の英譯に就いては譯者は今の東洋大學敎授島地大等氏の敎示を仰いだ。插繪のうち、傳通院の佛足跡は、譯者自ら鉛筆を用ひて石刷にしたのを縮寫したもの、『諸囘向寶鑑』のは、透き寫しにしたものである。傳通院のの、側面に彫つてある經語と記念の文とは、譯文では原英文を逐字譯にせずに、原(もと)のものをそのま〻揭げることにした。

 『小さな詩』は譯者が同三十年三月に提供した一文に依つて物されたものである。原著者は、學生の、殊に大學生の、和歌俳句を多く見たがつてゐたのであつたが、現今とは違つて作者が至つて尠く、譯者は當時は少かつた高等學校の校友會雜誌總てを涉獵しまでしたが、充分の材料を提供することが出來なかつた。文中引用のもので、原歌原句の記憶を逸して居るのが多くあるのは遺憾である。その原作者を判知し得たのには、その雅號を附記して置いた。

 『佛敎に緣のある日本の諺』は、譯者が同年五月に提供したものである。藤井乙男氏の『諺語大辭典』(四十三年出版)が出てゐたなら、苦も無く拔萃し得たであらうが、完全に俚諺を蒐めた書物が無かつたので、譯者は東京大學と上野との兩圖書館で、諺の載つて居る書物總てを涉獵して、やつとあれだけ蒐めたのであつた。原書では、諺を羅馬字で揭げ、一々英譯してあるのであるが、その通りに逐語譯にしては日本の讀者には讀みづらからうと思つたので、その羅馬字を、假名で無く、普通の文字で書き改めるだけのことにした。然しその註譯は總て原英文を逐字譯にして置いた。

 『燒津にて』は原著者の同地での見聞と冥想とから成つて居ることは言はずもである。

 『影』“Shadowings”の中の『蟬』[やぶちゃん注:リンク先以下、分割三回。]は譯者が明治三十二年六月に提供した文に依つて物されたものである。譯註した方がよからうと思つたことは、譯文の終に添へて置いた。引用の俳句の原作者の名を悉く添記しようと思つたが、判斷しかねるのがあるのは遺憾である。なほ本書の單行本には、この『蟬』に蟬の繪が五枚揷入されてゐて、その繪に就いての說明が文末に揭げられて居るが、本譯にはその繪を省くことにしたので、說明も從つてまた省略したことを諒知せられたい。[やぶちゃん注:リンク先の電子化では、英文原本から挿絵を総て掲げてある。

 『日本の女の名』[やぶちゃん注:リンク先以下、分割三回。](岡田氏譯)は同三十二年五月に譯者が提供した材料に依つて物されたのである。譯者はまたその材料の主要な部分を、本全集譯者の一人たる、この一文の譯者たる岡田哲藏氏の『哲學雜誌』に發表された硏究論文から得た。

 『日本の古い歌』[やぶちゃん注:リンク先以下、分割二回。]は譯者が同三十一年十月十二月及び三十二年三月四月に提供した材料に依つて物されたものである。譯者は神樂歌と催馬樂とは全部飜譯して提供したのであつた。『地方の歌』は主として博文館發行の『日本歌謠類聚』から採つた。文の初に『一靑年詩人』とあるは譯者である。原英文では、引用の歌は發音通り羅馬字で書いて、一々散文譯してあるのが多いが、そのま〻逐字譯しては日本の讀者には煩しからうから、羅馬字のところだけ普通の文字に書き更めるだけにした。然し註釋は總て逐字譯にして置いた。なほ文末の『繪卷踊歌』と『お吉淸三くどき』とは、原文には散文譯だけ揭げてあるのであるが、これはそれを逐字譯とはせずに――殊にその後者の原歌を知つて居る者は多分譯者だけで、今後原歌を知らうにも知れまいから、原歌を揭げることにした。

 『日本雜錄』“A Japanese Miscellany”中の『蜻蛉』[やぶちゃん注:リンク先以下、分割三回。]は譯者が明治三十三年三月に提供した一文に依つて物されたものである。文中『或る日本詩人』とあるもの、『此の一文に引用して居る詩歌全體、並びになほ幾百首の詩歌を自分の爲めに蒐めた友人』とあるものは、共に譯者である。『五十二卷』と書いてあるのは大袈裟では無い。或は譯者が見落ししたかも知れぬが、類題秋草集、同石川歌集、同鏡池集、同桑の若集、同採花集、同新英集、同近世和歌集、同月波集、同新竹集、同芳風集、同明治新和歌集、同和歌聯玉集、同鰒玉集[やぶちゃん注:「ふくぎよくしふ」。以上の類題和歌集の解説は面倒なので注さない。]、その他に、蜻蛉の歌は一首も載つてゐない。蜻蛉の俳句を多く集め得たのは(原著者が使用しなかつたのが非常に多い)故正岡子規がその『俳句分類』(未刊行)を譯者に貸して吳れたお蔭であつた。引用句は、他の文のものと同樣に、羅馬字で示してある原句だけ普通の文字に書き更めて、その散文譯を復譯することをしなかつた。そして原英文には作者の名が舉げて無いが、讀者の爲めに、判知し得たものは添へて記して置いた。

[やぶちゃん注:既に何度も注しているが、再掲しておくと、本著者大谷正信(明治八(一八七五)年~昭和八(一九三三)年)はペン・ネーム(俳号)を繞石(ぎょうせき)と称した松江市末次本町生まれの英文学者・俳人で、島根県尋常中学校での小泉八雲の教え子であり、学生の中でも最もハーンの信任を得た人物の一人であった後、京都第三高等学校から学制改革で仙台第二高等学校へ転じた(第三高等学校・第二高等学校では同級生に高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃から俳句への傾倒が始まっている)。明治二九(一八九六)年に第二高等学校を卒業すると、東京帝国大学英文学科に入学したが、まさに同年、小泉八雲が同大学に赴任し、再会を果たしていた、まさに純粋培養の直弟子なのである。また、大谷は、この東京大学在学中に正岡子規に出会い、本格的に俳句の道に精進することとなったのであった。]

 『佛敎に緣のある動植物の名』[やぶちゃん注:リンク先以下、分割三回。]は譯者が同三十一年八月に提供したものである。譯者は原著者からその蒐集を依賴された時、實は一時途方に暮れたのであつたが、そんな名をただ漫然と思ひ出さうと力める[やぶちゃん注:「つとめる」。]よりか、日本語總てを集めたものを蝨つぶし[やぶちゃん注:「しらみつぶし」。]に調べる方が有效だと考へて、その七八兩月を費して、『言海』と山田美妙の辭書とを左右に置いて、最初の頁の『あ』から最後の頁の『ををる』まで、一語一語見て行つて、苟も佛敎に緣がありさうだと思つたもの總てを集錄して提供したのであつた。

[やぶちゃん注:「山田美妙」言文一致の口語「です・ます」表現の濫觴として知られる、新体詩詩人で小説家の山田美妙(慶応四(一八六八)年~明治四三(一九一〇)年)は、元妻で、嘱望された弟子であった女流作家の田澤稲舟(たざわいなふね)の自殺未遂と病死(明治二九(一八九六)年)によって道義的批難を浴び、文壇を遠ざけられたが、その後、評論や時事小説を書き、また、辞書編集でも糊口を凌いだ。ウィキの「山田美妙」によれば、『国語辞典の編纂者としても著名で』「日本大辭書」(明治二四(一八九二)年や「大辭典」「式節用辭典」「人名事典」などの編集に関わった。特に「日本大辭書」『は美妙が口述し』たものを『速記したもの』であるが、本邦の国語辞典に於いて、『初めて語釈が口語体で書かれた』ものであり、これらには、『口語形、口頭語形、笑い声、泣き声なども豊富に立項していた(「あはは」「いひひ」「おほほ」「にこにこ」「うんにゃ」など)。また』、同辞書『は共通語のアクセントが付記された辞書としては』、『近代において最古のものとされ、日本語のアクセント研究の黎明を築いた』とある。]

 『日本の子供の歌』[やぶちゃん注:リンク先以下、分割六回。]は譯者が同三十年十一月と三十三年九月とに提供したものに依つて物されたものである。譯者は主として『日本歌謠類聚』に據つた。引用の歌は『日本の古い歌』のと同樣に取扱つた。ただ、脚註は、日本の讀者には全然興味も利益もあるまいと思つた三四を除いて、逐字譯にして、『附記』としてその場所場所に添へて置いた。

[やぶちゃん注:「日本歌謠類聚」大和田建樹(たけき)編で明治三一(一八九八)年博文館「帝國文庫」刊。国立国会図書館デジタルコレクションで上巻下巻視認出来る。]

 『海のほとりにて』は原著者が燒津で觀察したものを筆にしたものである。施餓鬼供養を始めるに當つての伽陀は原著者は自由譯にして居る、自分はそれを逐字譯にした。が、讀者の參考の總め、原偈を左に記して置かう。

[やぶちゃん注:「伽陀」(かだ)はサンスクリット語“gāthā” の漢音訳。「諷誦」(ふじゅ/ふうじゅ)と訳す。広義には「韻文体の歌謡・漢文の詩句・偈文」などを指すが、狭義には「十二部經」の一つで、経文の一段、又は、全体の終わりにある韻文体の詩句を指す。無論、ここは後者。

 以下、四段で記されてあるが、ブラウザの不具合を考えて二段とした。「先亡久滅」を除いて(私の調べた限りでは「先亡久遠」)、私が注で示したものと変わらない。]

 

   比丘比丘尼 發身奉持

   一器淨食  普施十方

   窮盡虛空  周遍法界

   微塵刹中  所有國土

   一切餓鬼  先亡久滅

   山川地主  乃至曠野

   諸鬼神等  請來集此

   我今悲愍  普施汝食

   願汝各各  受我此食

   轉將供養  盡虛空界

   以佛及聖  一切有情

   汝與有情  普皆飽滿

   亦願汝身  乘此呪食

   離苦解說  生天受樂

   十法淨土  隨意遊往

   發菩提心  行菩提道

   當來作佛  永莫退轉

   前得道者  誓相度脫

   又願汝等  晝夜恒常

   擁護於我  滿我所願

   願施此食  所生功德

   普將𢌞施  法界有情

   與諸有情  平等共有

   共諸有情  同將此福

   盡將𢌞向  眞如法界

   無上菩提  一切智智

   願速成佛  勿招餘果

   願乘此法  疾得成佛

 

 元著者はその二の終に『之を柳の木、桃の水、若しくは拓榴の木の下へ置いてはならぬといふ神祕的な規則がある』と書いて居るが、『施餓鬼通覽』には『地を拂ひ棚を造る。長さ三尺に過ぐべからず。但桃樹柘榴の外用ふることなかれ。鬼神おそれてこれを食ふことを得ず』とある。原著者の思ひ誤り乎。

 『漂流』は事實談である。

 

    大正十五年九月   大谷 正信

[やぶちゃん注:クレジットは底本ではポイント落ち。最後の署名は有意に大きいが、底本より引き上げてポイントも字配も一致させていない。以下同じ。

 次は岡田哲蔵氏の「あとがき」。一部の私が電子化した旧作にも同様のリンクをさせた。]

 

 

 『知られぬ日本の面影』の第十四章[やぶちゃん注:『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十四章 八重垣神社 (五)』である。]と・第十六章[やぶちゃん注:『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (五)』の終りの部分である。]とに著者がはやくから日本の女の名の問題に興味を有して居た證跡が見ゆる。その後、一八九九年[やぶちゃん注:明治三十二年。]四月大學にありし頃、同じ問題の硏究を思ひ立たれ大谷正信君に材料の蒐集を托されたことはその頃同君に贈られた書簡によつて明である。

 明治三十年頃東京の文科大學に一選科生として在學した私は哲學科に居たので、英文科の講義は稀に傍聽するに過ぎず、隨つて著者の講筵に侍したことも至つて少い。然るにその頃元良勇次郞敎授の心理學の科に於てした美感に關する一硏究が哲學雜誌に載せられたのを、大谷君がその一部を材料として、他の材料と共に著者に提供された爲、『日本の女の名』[やぶちゃん注:リンク先から以下、三分割。]の一篇を助成するの光榮を有したのであつて、その緣によつて田部君の勸誘を受け飜譯は不得意ながら私も今囘同篇と外に『幻想(フアンタジース)』と『囘顧(スレトロスペクテイヴス)』とを擔當して本全集譯述のうちに加はることとなつた。

[やぶちゃん注:作品集「影」の最終パート標題は“ FANTASIES ”(「幻想」)で、そこには「夜光蟲」「群集の神祕」「ゴシック建築の恐怖」「夢飛行」「夢書の讀物」「一對の眼のうち」が含まれ、その総てが岡田哲蔵の訳である。それが前者『幻想(フアンタジース)』で、後の方は、同全集で「異國情趣と囘顧」(原題“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”:明治三一(一八九八)年刊。第一書房家庭版では第六巻。後日電子化予定)で十篇の訳を担当しており、その後半のパート「初の諸印象」の標題が「囘顧」であることを指していよう。頭の「ス」はママ。普通は、どう音写しても「レトロスペクティヴズ」であるから、「ス」は植字工のミスだろう。]

 著者はこの女の硏究は皮相に過ぎまいが、西洋の讀者には興味を覺えさするに足らうと云つて居らるる(一九〇〇年二月二十二日大谷君宛書簡)。それで分類なども十分正確とはいはれぬところもある。なほ名稱の意味などを誤解されたらしく見ゆるところも少く無いので多少の註記をしておいた。

 『幻想』の方ははじめの『夜光蟲』が特に美はしい文である。それに次で終の『一對の眼のうち』が美はしい。其他は美文よりは寧ろ硏究的論文であるが、それ等を一貫する趣意は著者の進化論の信念に基き、現在の我々の性向や感情や行動は過去の生物の一切の經驗の遺傳的結成であるとの思想が反覆して說明されて居る。尙ほその表現は夢にも及ぶものとして夢に關する三篇を成して居る。 然るに我々はただ祖先の經驗を反覆しつ〻あるとすれば、何の自由も無く創造もあり得ぬのであるが、我々の努力によりて、後の世の光明の爲、歡喜の爲、勝利の爲に、效果を舉げ得るとの思想が、『夢書の讀物』の終の個人の體に宿れる諸靈の言に示されて居るのを見れば、そこに自由創造の根柢を見る。同時にかく努力せずして一生を空ふする[やぶちゃん注:「むなしふする」。]の恐ろしさを覺え、それと共に著者精進力作の本領を見る如く感ぜらる。

 『一對の眼のうち』の中に、その眼を見るときの戰慄……それは『一の潜在、一の力、――宇宙的エーテルほどに測り難き深さのさす影である』[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]といふところに、一卷の名となれる卽ち Shadowings の語が示されて居る[やぶちゃん注:太字下線「影」は底本では傍点「○」。]。著者がその書に名づけた意味もまたこの進化化的遺傳の思想より來れるのであらう。

 「囘顧」も「幻想」も共にその初にマシウ・アァノルドの「未來」(The Future)[やぶちゃん注:孰れもここは普通の鍵括弧である。]の詩句が引いてある。この詩は平原の川に源流の淸澄はまた見がたきも海近き下流の洋々たる壯大はまた特別なることを歌つたのである。それを愛でた著者の心も察せられる。なほ佛敎に興味を有しつ〻も殆ど悲觀の跡を見ぬはか〻る未來の偉大を想望された爲めならんと思はる。

 

              岡田 哲藏

 

[やぶちゃん注:『「囘顧」も「幻想」も共にその初にマシウ・アァノルドの「未來」(The Future)の詩句が引いてある』「幻想」パートのそれは、「夜光蟲」の頭に配しておいた(注も附してある)。前者は未だ電子化していないが、第一書房家庭版第六巻の当該「囘顧」パートの標題脇に、

   *

『無限の海の囁きと香ひと』

      マシウ・アァノルドの「未來」より

   *

とあるのを指す。【追記】直後に『小泉八雲 初の諸印象 (岡田哲藏譯) / 作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』で電子化注したので見られたい。

 以下、田部隆次の「あとがき」。]

 

 

 『靈の日本』は一八九九年(明治三十二年)、『影』は一九〇〇年、『日本雜錄』は一九〇一年、何れもボストンのリッツル・ブラウン會社及びロンドンのサムスン・ロウ會社から出版された。リッツル・ブラウンから出版されたヘルンの書物は、『異國情趣と囘顧』とこの三册であつた。何れも初版は在米日本畫家の裝釘になつたと見えて綺麗にできたのでへルンも滿足した。『外國情趣と囘顧』をへルンは「へちまの本」【、】『靈の日本』を「蓮(はす)の本」【、】『影』を「梅の本」【、】『日本雜錄』を「櫻の本」と呼んでゐたのは表裝はそれぞれその意匠でできてゐたからであつた。

[やぶちゃん注:【、】は私が特異的に補ったことを指す。「それぞれ」は底本「それそれ」であるが、濁点を特異的に補った。

「ロンドンのサムスン・ロウ會社」気が付かなかったが、英文の書誌を調べたところ、ロンドンの「Sampson Low」(サンプソン・ロウ)という出版社からも同時発売されていることが判った。]

 『靈の日本』はアリス・フオン・ベーレンズ夫人へ、『影』はマックドーナルド主計監へ、『日本雜錄』はヱリデザベス・ビスランド・ウヱットモア夫人へ捧呈してある。以前に發表された物は三書を通じて一篇もない。

 

 『靈の日本』のうち、[やぶちゃん注:以下では、鍵括弧を使い分けている(但し、その弁別は『牡丹燈籠』では、おかしい)。後も同じ。]

 「斷片」はフヱノロサ夫人から聞いた話によつたと聞いて居る。

 「振袖」は明曆の大火に關する俗說を夫人から聞いた物。その時起つた風は、今もその季節にきまつて起る西北の風であつたらうが、ヘルンは「海の風」と云ふ字を好んで使用した。

 「占の話」は出雲の易者の事實談。そこに出て居る支那の話は『梅花心易掌中指南』と題する易の書物の始めにある話によつた。ここでもヘルンは陰曆四月十七日、主人公卲康節の午睡の原因を、原文によらないで、極暑のためとして居る。[やぶちゃん注:う~ん、田部氏の言っている「原文によらないで」の謂いが、よく判らない。陰暦四月十七日は現在の四月下旬から六月上旬に当たる。彼の住んでいたのは、北京の南西の内陸で、国立国会図書館デジタルコレクションに中根松伯著で明治二六(一八九三)年文魁堂刊の「初卷」の巻頭に「家伝邵康節先生心易卦數序」の当該部を見ても、極暑とも書いてないが、極寒ともしない。六月上旬なら、地柄から、極暑もあろうと思う。

 「惡因緣」この『牡丹燈籠』の話は『夜窓鬼談』によつたらしい。圓朝は話を創作して自ら高座で物語つたのであるから、西洋で云ふ意味で小說家としたのであつた。ヘルンは菊五郞の芝居を見たやうに書いて居るが、實際東京では時間を惜しんで芝居を見た事はなかつた。しかし夫人と共に團子坂から新幡隨院を車で訪うて、この編の終りに書いたやうな事件を經驗したのであつた。

 「吠」牛込區富久町時代に、その家にゐた犬の話に基いて居る。

 「因果話」は『百物語』第十四席松林伯圓の話、[やぶちゃん注:読点はママ。以下も同じ。]

 「天狗の話」は『十訓抄』にある話によつた。

 

 『影』のうち

 「和解」は『今昔物語』中の「人妻死後成本形舊夫語」とも、又「亡妻靈値舊夫語」とも題した一篇、

[やぶちゃん注:標題を二種上げるのは伝本の違いに拠る。前者は「人の妻(め)、死にて後(のち)、舊(もと)の夫(をうと)に會ふ語(こと)」、後者は「亡き妻の靈、舊の夫に値(あ)ふ語(こと)」と読む。]

 「普賢菩薩の話」は『十訓抄』にある話、

 「衝立の女」は『御伽百物語』中、「繪の女人に娶る、附たり江戶菱川の事」と題する一篇、[やぶちゃん注:田部の本文での訳題は「衝立の乙女」である。]

 「死骸に乘つた人」は『今昔物語』中の「人妻成惡靈其害陰陽師話」[やぶちゃん注:「話」はママ。「語」の田部の誤り、或いは誤植。]と題する物、[やぶちゃん注:田部の本文での訳題は「屍に乘る人」である。前と、これは、甚だ、不審である。

 「辨天の同情」は『御伽百物語』中の「宿世の緣」と題する物、

 「鮫人の感謝」は馬琴の『戲聞あんばい餘史』と題する小話集のうちの「鮫人」によつた。

 

 『日本雜錄』のうち、

 「約束」は『雨月物語』中の「菊花の約」、

 「破約」は出雲の傳說、夫人の語るところ、

 「閻魔の庁にて」は『佛敎百科全書』中「邪神の事」と題する物、

 「果心居士の話」は『夜窓鬼談』の「果心居士」、

 「梅津忠兵衞」は『佛敎百科全書』中「產神の事」と題する一篇、

 「僧興義の話」は『雨月物語』中「夢應の鯉魚」と題する物によつた。

 「橋の上」は熊本見聞談の一つ、車夫平七はヘルン家でいつも雇うた實在の人物、話も事實談。

 「お大の例」名は變つてあるが、松江にある事實談。改宗の證に位牌を捨てさせる事が行はれたのであつた。ヘルンはこの話をチヱムバレン氏への手祇にも書いて居る。

 「乙吉の達磨」のうちに、雪達磨をつくつた二人の書生の名が出て居る。一人は名で呼ばれ一人は姓で呼ばれて居るが、これはその時の呼びくせてあつた。光(あき)は玉木光榮(あきひで)の事、親戚に當るので、光(こう)[やぶちゃん注:口語通り。]ちやんと呼ばれてゐた。當時早稻田の學生、今は大阪の會社員、新美の方は、新美資良(すけよし)と云ふ一高の學生であつたが、後病死した。ここにある童謠は當時富久町の小泉家の向ひに住んで、小泉家に出入した中村淸吉と云ふ車夫が小泉家の若い人々に敎へた物であつた。この人の卽興の歌であつたか、東京の一部に行はれたものであろうか、或はこの人の鄕里であつたと云ふ茨城のどこかで行はれた物か、たしかでない。夫人の說に隨へば、原文に出て居る物よりもつぎの歌の方が多く歌はれた。淸吉はこれを十の數に句切つて、丁度子供に數を敎へるための歌のやうに歌つたさうである。

 

    ひに、ふに、

    ふんだん、 達磨に、

    ひるも、 夜も、

    赤い、 づきん、

    かぶら、 せう。

 

 乙吉の名は燒津を材料にした諸篇に出て居る。靜岡縣燒津町、城の腰、山ロ乙吉と云ふ魚屋で、兼業として店には干物、ラムネ、草鞋などまで列べてゐた。この乙吉は大正十一年[やぶちゃん注:一九二二年。]一月死去して、今はその長男梅吉の代で、燒津で名高い鰹節問屋となつて居るが、屋號は今も山乙であると聞いて居る。篇末に出て居る乙吉の娘は、その後長く小泉家に仕へて、今では東京の人に嫁して居る。

[やぶちゃん注:「山乙」個人ブログEYASUKOの草取り日記」の「小泉八雲と焼津 (5)」に「やまおと」とある。]

 目なし達磨の信仰はこの地方ばかりでなく、關東地方にも(東京府下にも)、行はれて居る。達磨を盲目にして置くばかりでなく、地藏を縛つたり、天氣の神に擬してつくつた所謂坊主(照れ照れ坊主)を縛つたりする荒つぽい信仰、恐喝的習慣の多いのは驚くべきである。

 「日本の病院に於て」二男の巖君が書生につれられて散步中、過つて怪我をしたので、ヘルンがつれて番町の木澤病院に赴いた時の話である。この時から木澤院長を信じて、子供の病氣でも、女中の病氣でも、自分の齒痛でも外科専門の木澤院長にかかるやうになつた。最後に心臟病で亡くなつた時も木澤院長にかかつたのであった。『この人にかかつてなら死んでも遺憾ない』と云つてゐた。

 

    大正十五年十月   田部 隆次

 

小泉八雲 天狗の話 (田部隆次譯) / 作品集「靈の日本」電子化注~全完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Story of a Tengu )は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN (「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の十三話目に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”こちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”こちらで全篇が読める。実は、本話は私が二〇一六年六月に電子化した『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その1)』で柴田氏が梗概を述べておられ(この小泉八雲の再話後に就いてのエピソードも添えられておられて必見である)、その私の注で英文原文を電子化し、原拠である「十訓抄」の「第一 可定心操振舞事」(心の操(みさを)を定むべき振舞(ふるまひ)の事」の中の一条を三種の諸本を参考に私が独自に読み易く操作したものも示してあるので参照されたい。また、同じ原拠を用いている「諸國里人談卷之二 ㊃妖異部 成大會」の注でも同じオリジナルな原文を示してあるので、孰れを参照されても構わない。個人的には新しい、後者のものをお勧めする。

なお、この前に配すべき底本のこれは、「小泉八雲 因果話 (田部隆次譯)」として、既に先行して電子化注と原拠の提示を終えている。但し、今回、原拠とほぼ同じと推定される「百物語」を国立国会図書館デジタルコレクションで発見したので、篇末の原拠をそれと校合し、完全にリニューアルした。ご覧あれ。

★また、本篇の後に配されてある本作品集掉尾の名作「燒津にて」も(底本のここ)、既にフライングして、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」で電子化注を終えている。従って、★本篇を以って――作品集「靈の日本」の総ての電子化注を終る――こととなる。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月20日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 小泉八雲は標題ページの下部に注して以下のように述べている(英文原文注は『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その1)』に添えたそれを見られたい)。

   *

 この物語は、「十訓抄」(じっくんしょう[やぶちゃん注:「じゅっきんしょう」以外にこうも読む。])」と呼ばれる、とても古い珍しい日本の書物に、まずは見出すことが出来るものである。これと同じ伝説は、「大会(だいえ)」と呼ばれるまことに面白い能狂言の主題にも用いられている。

    天狗は、日本の通俗の絵画では、通常、鳥の嘴(くちばし)のような形をした鼻と翼を持った男たち、又は猛禽類のように描かれる。天狗にはいろいろと異なった種類があるが、孰れも山に棲んでいる精霊であり、さまざまな形態に変ずることができ、時には烏、鳶、または鷲となって現れるものと想像されている。 仏教では天狗をマラカイカス族[やぶちゃん注:平井呈一氏は『魔瀬界道』と訳しておられる。]に分類しているようである。

   *

狂言「大會」は「大槻能楽堂」のこちらの解説がよい。私は見たことがないが、明らかに、「十訓抄」のそれを種本としたものであることが判る。「大會」(歴史的仮名遣は「だいゑ」)は大規模な法会の事を指すが、ここは特異的に釈迦の霊鷲山での説法を指す。なお、そこでは天狗の幻術を破るのは帝釈天である。]

 

 

  天狗の話

 

 後冷泉天皇の時、京都に近い比叡山の西塔寺に聖い僧がゐた。或夏の日にこの善い僧が都を訪れて歸る途中、北の大路で幾人かのこどもが鳶を虐めて居るのを見た。そのこども等は羂(わな)[やぶちゃん注:「罠」に同じい。]で捕へたその鳥を棒で打つてゐた。僧は同情して叫んだ、――『可愛さうに、――どうしてそんなに虐めるのだ』一人のこどもは答へた、――『殺して羽を取るのです』僧は慈悲心を起して、携へてゐた扇と交換に、その鳶を自分に渡す事を說いた、それからその鳥を放つてやつた。鳥はひどく怪我もしてゐなかつたので、飛び去る事ができた。

[やぶちゃん注:「後冷泉天皇の時」後冷泉天皇の在位は寛徳二(一〇四五)年から治暦四(一〇六八)年。

「比叡山の西塔寺」通常は「寺」はつけず、「さいとう」と呼び、比叡山延暦寺の本堂に相当する釈迦堂を中心とする区域を指す。「延暦寺」公式サイト内のこちらに各堂や院の簡単な解説と地図がある。]

 

 この功德を行うた事を嬉しく思うて、僧はその途を續けた。餘り遠く行かないうちに、彼は路傍の竹藪から異樣の法師が步み出て、自分の方へ急いで來るのを見た。法師は恭しく、彼に挨拶して云つた、――『御憐憫によつて命を助かりました。それで今相當の感謝の意を表はしたうございます』かう云はれて驚いた僧は答へた、――『實は前に、御見受け申した覺えはない、どなたでせうか聞かせて下さい』『こんな姿ではお分りにならないのも道理』法師は答へた、『私は北の大路で、あの惡童等に虐められでゐた鳶でございます。おかげて命は助かりました、この世で命より貴い物はございません。それでどうかして御親切を今返したうございます。もし何かあなたが、見たい、知りたい、得たいと御望みになる物がございましたら、――つまり私にできる事なら何なりとも、――どうか云つて下さい、實は私は小さい程度で、六つの神通力をもつて居りますから、御望みの願は大槪かなへられます』この言葉を聞いて、僧は天狗と話して居る事を知つた、それで明らさまに答へた、――『私はもう長い間この世の事には頓着しなくなつて居る、もう七十だから、――名聞[やぶちゃん注:「みやうもん」。]も娛樂も私には用はない。ただ後生の事だけが氣にかかるが、それも誰にも助けて貰へない事柄だから、かれこれ考へても無駄であらう。實は、願つて見る事をただ一つしか考へられない。私は釋迦如來の時分に印度にゐて、聖い耆闍崛山[やぶちゃん注:「ぎじやくつせん(ぎじゃくっせん)」。後注参照。]の大集會に列しなかつた事を一生の恨みと思つて居る。朝晚の勤行の時に、この恨みを思い出さない日は一日もない。あ〻、もし菩薩のやうに、時間空間を超越して、その不可思議な會合を見る事ができたなら、どんなに嬉しからう』――『さあ』天狗は叫んだ、『その信心深いあなたの願を滿足させる事はたやすくできませう。私は靈鷲山[やぶちゃん注:「りやうじゆせん(りょうじゅせん)」。後注参照。]の會合をよく記憶してゐます、それでありのままに、そこにあつた事を何でも、あなたの前に現れるやうにする事ができます。こんな聖い事を表はすのはこの上もない喜ばしい事です。……さあ一緖にこちらへ來て下さい』

[やぶちゃん注:「耆闍崛山」原文“the holy mountain Gridhrakûta”。サンスクリット語「Gŗdhrakūţa(グリドラクータ)」の漢音写。後に出る「靈鷲山」などとも漢訳する。古代インドのマガダ国の首都王舎城、現在のラージギルの東北あるSaila-giri(グーグル・マップ・データ)の南面の山腹にあって、今はチャタ(Chata)山と呼ばれており、ここは釈尊が「大経」や「法華経」を説いた山として、とみに知られる。]

 それから僧は坂の上の松林の間へ導かれた。『さあ』天狗は云つた、『暫らく眼を閉ぢて待つてゐて下さい。佛が法の道をお說きになる聲が聞えるまで眼を開かないで下さい。それから御覽になれます。しかしあなたが佛の樣子が見えても、決して有難さに心を動かされてはなりません、――お辭儀をしたり、祈つたり、或は「如何にも」とか、或は「有難うございます」と云ふやうなそんな嘆聲を發してはなりません。決して聲を出してはなりません。何か有難いやうな少しのしるしでも表はしたら、何か餘程不幸な事が私に起りさうですから』僧は喜んでこの戒めに從ふ事と約束した、そして天狗はその觀ものを用意するかのやうに急ぎ去つた。

 

 日は傾いて消えた、そして暗黑が來た、老僧は眼を閉ぢて樹の下に忍耐して待つてゐた。たうとう、不意に聲が上の方から、――大きな鈴の鳴るやうな深い澄んだ不思議な聲、――法[やぶちゃん注:「ほふ」。]の道を說き給ふ釈迦牟尼佛の聲が響いた。それから僧は眼を開けると非常に輝いて、一切の物が變つて居る事に氣がついた、場所は聖い印度の靈鷲山であつた、そして時は妙法蓮華經を說き給ふ時であつた。今は𢌞りに松の樹はなかつた、ただ七重寶珠の果實と葉をもつた不思議な輝いた樹があつた、――そして大地は天から降る曼陀羅華、曼珠沙華の花で蔽はれてゐた、――そして夜は香ばしい、花やかな、美しい大音聲で滿たされた。そして世界の上に輝く月のやうに、中空に輝ける世尊が、獅子の座に坐してゐ給ふのを僧は見た、右には普賢、左には文殊、――それからその前には、――星の洪水のやうに、數へられぬ程一面に、菩薩摩訶薩の群衆が、雲霞のやうな『諸天、夜叉、龍、阿修羅、人、非人』の大衆を率ゐて集まつた。舍利弗も見えた、迦葉、阿難陀、その外如來の弟子達も悉く見えた、――諸天の王達も、火の柱のやうな四方の王達も、――大龍王達も、――乾達婆も迦樓羅も、――日と月と風の神達も、――それから梵天の空に輝ける無數の光も見えた。それからこれ等の數へきれない榮光の集團よりも遙か向うに、――時のはてまでも貫くやうに大釈迦牟尼佛の額から出て居る一條の光明によつて照されて、百八十萬の東の方の佛の畠[やぶちゃん注:仏が在住し教化する仏国土のこと。]とそこに住んで居る物、――それから六道の生存狀態の一々にある物、――それから涅槃に入つて、寂滅した諸佛の姿までも見えた。これ等、及び諸神、及び夜叉悉く、獅子の座の前に低頭して居るのを僧は見た、それから無數の群集が、――世尊の前に、海のうなりのやうに、――法華經を唱へて居るのを聞いた。その時彼は約束を忘れて、――愚かにも、自分は正しく佛の前に居ると想像して、――感謝隨喜の淚を流して禮拜のためにうつ伏して、大きな聲で『有難い佛樣……』と叫び出した。……

[やぶちゃん注:「摩訶薩」(まかさつ)はサンスクリット語「マハーサットヴァ」で「般若經」に頻出する。必ず、「菩薩(ボーディサットヴァ)」と一緒に「菩薩摩訶薩」という形で使われており、ウィキの「摩訶薩」によれば、『その意味は、菩薩は「覚りを求める衆生」であり、摩訶薩は「偉大な衆生」である』。本来、「般若經」成立以前の、『般若経典編纂者たちの』所謂、『小乗仏教時代の』「菩薩」という『用語は、成道』(じょうどう)『以前の釈迦の称号であったが』、「般若經」では『『覚りを求める衆生』と意味が拡張され、大乗仏教の立場で覚りを求める意義を強調するために摩訶薩を付加するようになった』とあるので、菩薩と同義の如来となるための修行者のことを指す。

「舍利弗」(しやりほつ(しゃりほつ))は釈迦十大弟子の一人。インドのマガダ国に生まれ、釈迦に師事し、その布教を助けた。「智慧第一」と称された。

「迦葉」(かせふ(かしょう))も釈迦十大弟子の一人。婆羅門(バラモン)出身で、釈迦の入滅後、教団を指導し、第一回経典結集(けつじゅう)を執行したことで知られる。「頭陀第一」と称された。「大迦葉」「摩訶迦葉」とも呼ばれる。

「阿難陀」(あなんだ)も釈迦の十大弟子の一人。記憶力に勝れ、第一回経典結集の際には多くの経説を復唱したとされる。師の説法を最も多く聞き、「多聞第一」と称された。「阿難」とも呼ぶ。

「乾達婆」(けんだつば)であるが、一般には「乾闥婆」と記す。サンスクリット語「ガンダルヴァ」の漢音写。通常は「食香」「尋香」「香神」などと意漢訳す。仏法護持の八部衆の一人で、帝釈天に仕え、香だけを食し、伎楽を奏する神で、「法華經」では観音三十三身の一つに数えられている。

「迦樓羅」(かるら)サンスクリット語「ガル(ー)ダ」の漢音写。「金翅鳥」(こんじちょう)とも漢意訳する。想像上の大鳥で、翼は金色、口からは火を吐き、龍を好んで食うとされる。天龍八部衆の一神で、密教では、仏法を守護し、衆生を救うために梵天が化したものとする。]

 直ちに地震のやうな打擊と共にこの洪大な觀ものは消えた、そして僧は山腹の草の上に跪いて暗黑のうちにただ一人ゐた。それから僧は、このまぼろしの消えた事と、思慮が足りないで約束を破つた事とのために、名狀のできない悲しさに襲はれた。悲しさうに足を歸り路に向けると、再び不思議な山法師が現れて、彼に苦痛と非難の調子で云つた、――『あなたが私に約束なさつた事をお守りにならないで、無分別にもあなたの感情を洩らされたので、敎法の守護役である護法天童が突然天から私共のところへ舞ひ下つて、非常に怒りを發して、『どうして汝等はこんなに信心深い人を欺かうとするのか』と云つて、私共を打ちさいなみました。それで、私が雇ひ集めた法師等も恐れて逃げました。私も、翼が一つ折れたので、――今飛ぶ事ができなくなりました』かう云つて天狗は永久に消え失せた。

 

2019/11/06

小泉八雲 暗示 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Suggestion )は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN (「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の巻頭に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”こちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”こちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月19日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。

 いろいろ調べてはみたが、ここに登場する東洋の宗教に堪能な、インドへ向かう途中で、小泉八雲と逢った『彼』は誰なのか判らなかった。識者の御教授を乞うものである。

 終わりの方に出る「毗奈耶(律藏)」(原文“ Vinayas ”:ヴィナヤ)は「毘奈耶」とも書き、仏教に於いて僧伽(サンガ:僧衆・僧団)に属する出家修行者が守らなければならない規則のこと或いはそれを記した経典を指す。ウィキの「律(仏教)」によれば、『様々な律蔵が漢訳によって伝えられたが、日本においては主に四分律が用いられた。僧侶(比丘・比丘尼)のみに課される戒である』「波羅提木叉」(はらだいもくしゃ:「別解脱戒」「具足戒」も同じ)のことを指し、『僧団で守るべき集団規則である』。『戒の中でも波羅夷罪と呼ばれる四つの罪を破った場合には僧団を追放され、再び僧侶となることはできない。また、僧残罪では、僧団を追放されるということはないが、一定期間、僧としての資格を剥奪されるなど、罪により罰則の軽重が異なる』。『上座部仏教では』二百二十七『戒、大乗仏教では用いる律によってその数が異なるが、四分律の場合、比丘は』二百五十『戒、比丘尼は』三百五十『戒の戒がある』とある。]

 

 

  暗 示

 

 印度へ行く途中、彼が東京に暫時滯在して居る間に、私は幸にも會ふ事ができた、――そして私共は一緖に長い散步をして、東洋の宗敎の話をしたが、その方の知識を彼は私よりも遙かに多くもつてゐた。私は地方的信仰に關して彼に云ふ事を何でも、彼は――印度、ビルマ、セイロンの現在の或祭祀法に不思議に一致した點をあげて、――最も驚くべき風に批評を下す。それから彼は會話を全然思ひがけない方向に向けた。

 

 『私は男女の相對的割合が一定して居る事を考へて、佛說ではどんな說明を下すのだらうと訝かつて居る』彼は云つた。『私には、因果の普通の狀態では、人間の再生は必ず規則正しい交替で進むやうに思はれるから』

 『男は女に生れ、女は男に生れかはると云ふわけですね』私は尋ねた。

 『さうです』彼は答へた、『欲望は創造的であるから、そして男女の欲望はそれぞれ相手の方へ向いて居るから』

 『しかし男で女に再生したいと思ふ者が幾人あるだらう』私は云つた。

 『多分殆んどないだらう』彼は答へた。『しかし欲望は創造的であると云ふ說は、個人の渴望がそれ自身を滿足させるやうな物を創造すると云ふ事を意味しない、――全く反對である。本當の敎は、凡ての利己的な願の結果は、罰の性質を有する事、それから願が創造する物は――少くとも高い知識の人に取つては――願ふ事が愚であるにきまつて居る事を敎える』

 『それは君の云はれる事は正しい』私は云つた、『しかし私は未だ君の說が分らない』

 『ところで』彼は續けた、『もし人間の再生の肉體的條件が、肉體的條件に關する意志の因果によつて全く決定されるとすれば、それなら性は、性に關する意志によつて決定されよう。ところでどちらの性の意志もその相手に向いて居る。生命を除けば、何よりも男は女を望み、女は男を望んで居る。その上、銘々の個人は何等の個人關係とも離れて、たえず所謂或生れながらの女性或は男性の理想の力を感じて居る、それを君は「數へきれぬ過去の生涯に於ける數へきれぬ愛著の靈的反射」と呼んて居る。それでこの理想によつて表はされた飽く事と知らない慾望は、それ自身で來世の男性の或は女性の身體を創造するに充分であらう』

 『しかし大槪の女は』私は云つた、『男に生れ變る事を好むだらう、それでその願の成就は少しも罸の性質にはならない』

 『ならない事はなからう』彼は答へた。「新しい生涯の幸と不幸は、ただ性だけでは定まらない、それは當然多くの條件が結合してきまるわけである』

 『君の說は面白い』私は云つた、――『しかしどれ程承認された說と一致するやうになるか、私には分らない。……それから高い法則を知つて行(おこな)つて、あらゆる性の弱點に超越して居られる人はどうなるだらう』

 『そんな人は』彼は答へた、『男にも女にも生れ變らない、――もしその自己征服の結果を妨げたたり弱めりする程に强い先在の因果がなかつたら』

 『天體のどこかの一つに生れ變るのですか』私は尋ねた、――『靈的誕生によつて?』

 『それは必要ではない』彼は答へた。『そんな人は、やはり――この世界のやうな――慾望の世界に生れ變つてもよい、――しかしただ男としてではなく、又ただ女としてではなく』

 『それでは、どんな形にですか』私は尋ねた。

 『完全なる人間の形にです』彼は答へた。『男も女も半分の人間に過ぎない、――何故なれば、私共の現在の不完全なる狀態では、どちらの性も一方を苦しめてのみ進化する事ができるのである。どの男の精神肉體の組織のうちにも、發達しない女の分子があり、どの女の組織にも發達しない男の分子がある。しかし完全な人間は完全な男子でもあり完全な女子でもある人で、兩方の最高の能力をもつてゐて、どちらの弱點もない人であらう。私共自身の人類よりも、高い或人類は、――外の世界で、――こんな風に進化して居るだらう』

 『しかし、御存じの通り』私は云つた、『佛敎の經文、たとへば法華經、それから毗奈耶(律藏)に於て、――禁じて居るのは……』

 『その文句は』彼は遮ぎつた、『あれは不完全な者――男子以下女子以下の者――の事を云つて居るのです、あれは私が想像してゐた狀態の事を云つて居るわけはない。……しかし私は說敎をして居るのではない、――ただ敢て說を立てて見て居るのです』

 『君の說をいつか書いて見てもい〻ですか』私は尋ねた。

 『い〻とも』彼は答へた、――『もし考へて見る價値があると君が信じたら』

 それからずつと後になつて、記憶から、できるだけ明確に、この通り書きつけた。 

 

小泉八雲 佛敎に緣のある日本の諺 (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Japanese Buddhist Proverbs 。「Bit」は「小片・細片・小さな一片」・口語で「風景画の小品」や「劇の一シーン」の意がある)は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN (「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の第十話目に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”こちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”こちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月19日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。また、引用される諺はブラウザの不具合を考えて、底本通りではなく、引き上げてあり、それぞれのその諺の「註」も更に字下げでポイント落ちとなっているが、同ポイントで引き上げて示した。句は一部で行空けせずに並んでいるが、原則、前後に一行空けを施した。一部で「!」の後に特異的に字空けを施した。底本には「地藏」(菩薩)と「閻魔大王」のキャプションを持つ絵図が載るが(ここと、ここ)、底本から採るには許諾が必要なので、英文原本からトリミングし、補正を加えて、適切と思われる位置に配しておいた。

【2025年4月19日追記】今回、この訳を、再度、精読してみて、原文英文と比較してみたところが、大谷氏にしては珍しく、かなり手抜きがあることに気づいた。恐らく、八雲の解説の内、安易に『日本人にはいらない』と断じて、カットして訳していない部分が多量にあるのである。正直、呆れ果てた。全部ではないが、これは、訳すべきだと思った箇所を中心に、注を有意に増やしておいたので、旧版を読まれた方も、今回、是非、再読されたい。

 

 

  佛敎に緣のある日本の諺

 

 道德的經驗の一般的特性といふものは、どんな種類の社會的變化にも殆ど影響を受けずに其儘で居るものであるが、その一般的特性を現はすものとして、或る國民の俚諺的な言葉は、思想家にはいつも一種特別な心理的興味のあるものに相違無い。此種の民間傳說には、口にまた筆に傳へられ來たつた日本文學は、例を示すのに大きな書物一册を要する程に豐富である。ただの一隨筆の範圍內では、全體としての此問題を至當に處理することは出來ぬ。然し或る部類の俚諺及び俚諺的な言葉に對しては、幾らかの事が、三四頁內にでも爲し得られる。そして、その敎を暗に指して居るか、或はその敎に由來して居るか、兎も角佛敎に關した言葉は、自分には特に硏究の價値あるが如く思はれる一部類を成して居る。だから、日本の一友の助を藉りて――選擇が可能の場合には、より普通なより一層人口に膾炙して居るものを擇んで、そして參照に便ならしめん爲め原文をアルフアベツト順に置いて――次に記載する一聯の實例を選んで飜譯した。固よりの事、この選擇は十分に代表的とはいへないが、民衆の思想幷びに言葉への、佛敎の或る感化を說明するには足りるであらう。

 

一、惡事身に止まる

註 惡るい行爲或は惡るい思想は如何なるものでもその結果は――因果の續く限りは――それを犯した人の生に必らずいつまでも作用する。

 

二、頭剃るより心を剃れ

註 佛敎の男女の僧侶は頭をすつかり剃つて居る。此の諺は宗敎の人となるよりも心を正しうする方が――徒な[やぶちゃん注:「いたづらな」。]哀惜と欲望とを制する方が――宜いといふ意味である。日常の談話では「頭を剃る」といふ句は僧になることを意味する。

 

三、會ふは別れのはじめ

註 哀惜と欲望とはこの無常の世界にあつては等しく徒爾である。一切の歡喜は、苦痛がそれにあるに決つて居る一經驗の始であるからである。此諺は經語――シヤウジヤ ヒツメツ ヱシヤ ヂヤウリ(「盛者必滅會者定離」)――に直接基づいて居る。

[やぶちゃん注:「徒爾」「とじ」で、「無益であること・無意味なこと・空しいこと」の意。「遺敎經」が原拠。日本では四字熟語として知られ、「平家物語」の影響で、かく「盛者」などと表記して違和感がないように見えるのだが、この引用部は――実は本当は――「生者必滅會者定離」――でなくては、おかしいのである。]

 

四、萬事は夢

註 一句は原句の文字通りでは『萬の事』。[やぶちゃん注:底本では、句点がないが、補った。]

 

五、凡夫も悟れば佛なり

註 境涯の相違はただ全く最高なる智慧の相違である。

 

六、煩惱苦惱

註 あらゆる肉體的欲望は悲哀を齎す。

 

七、佛法と藁屋の雨出て聽け

註 これはシユツケ(僧)――文字通りでは『己が家を出た人』――の境遇を指して居る。此諺は佛敎のより高等な眞理は、いつまでも愚痴欲望の世界に住んで居るものには、得られぬといふことを暗示して居る。

 

八、佛性緣より起こる

註 因果にも惡るいのもあれば善いのもある。我々が享樂するどんな幸福も、我々に來る如何なる不幸もがさうのやうに、同じく前生[やぶちゃん注:「ぜんしやう」。]の行爲と思想との結果である。善い思想、善い行爲は、悉く我々の心裡の佛性を開展せしむるに貢獻する。も一つの諺〔第十[やぶちゃん注:ママ。]〕――エンナキ シユジヤウハ ドシガタシ――はこの意味を更に進んで說いて居る。

[やぶちゃん注:「佛性」「ぶつしやう」(ぶっしょう)。大乗仏教の教理で、「総ての人間が生まれながらにして持っている仏と同一の本質・本性・仏になるための機因を指す。「覺性(かくしやう)」(かくしょう)とも漢訳される。] 

 

九、猿猴(ゑんこう)が月を取らんとするが如し

註 佛陀が語られたいふ譬話[やぶちゃん注:「たとへばなし」。]を指して居る。幾匹かの猿が一樹の下に井戶を見出して、その水に映つて居る月影を本當の月だと思つた。その輝いて居る幻を捉へようと決心した。一匹の猿がその井戶に垂れて居る木の枝に尾で吊り下がり、今一匹が最初のにつながり、今一匹が、第二のに、今一匹が第三のへと、順次つながつて、この長い體の鎖が殆ど水面に達した。突然その枝が餘りの重さに折れて、猿は皆溺死したといふ。

[やぶちゃん注:これは、「身の程知らずの大望を抱いた結果、命を縮めること。」を謂い、「分不相応なことは考えてはならない。」という教訓で、仏画にもよく書かれる。原拠は「摩訶僧祇律」の第七の「猿猴捉月」に基づくもの。]

 

一〇、緣無き衆生は度しがたし

註 緣無し卽ち因果關係無し、といふのは、功過ともに全く無いこと。

[やぶちゃん注:「度す」は「悟りを開かせる」の意。「功過」「こうくわ(こうか)」は「手柄と過(あやま)ち・功績と過失・功罪」の意味だが、この解説は致命的に間違っている。この語は「仏縁のない者は、すべてに慈悲を垂れる仏でも救えない。」の意である(但し、この謂いは、仏教としては「誤り」である。阿彌陀如来は菩薩時代に、四十八誓願の第十八誓願で、「総ての衆生を救わない限り、如来にならない。」と誓っているからである)。俗に転じて、「人の忠告を聞こうともしない奴は救いようがない」の言い捨てとして、専ら、用いられる。

 

一一、不淨說法する法師は平茸(ひらたけ)に生まる

[やぶちゃん注:鎌倉前期に成立した「宇治拾遺物語」の「巻第一」の二話目に出る「丹波國篠村に平茸生ふる事」に既に、『故仲胤僧都とて說法並びなき人』が、『不淨說法する法師、ひらたけにむまるといふことある物を』と言っているので、古くからある諺であることが判る。元は北宋の道原によって編纂された禅宗を代表する僧の伝記を収めた「景德傳燈錄」(一〇〇四年成立)の「二」で、迦那提婆(かないだいば)尊者が毗羅(びら)国の長者に説いて、「汝家昔曾供養一比丘。然此比丘道眼未明、以虛霑信施、故報爲木菌」(汝が家、昔、曾つて一比丘を供養す。然れども、此の比丘、道眼(だうがん)、未だ明らかならざるに、虛(むな)しく信施(しんせ/しんぜ)を霑(うるほ)すを以つて、故に報ひて木菌(きのこ)と爲す)とあるのが原拠か。菌界担子菌門ハラタケ綱ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus は「今昔物語集」にも盛んに登場し、非常に古くから、食用茸として、よく知られていた。ここで、転生(てんしょう)が、それなのは、恐らくは――その形が、編み笠を被った坊主――に似ており、また、――容易く手に入って、さらに、売られる値段も安い(=そうした属性が「売僧」(まいす)っぽいのである)からであろうと私は思っている。

 

一二、餓鬼も人數(にんず)

註 文字造りでは『餓鬼でも一群衆(卽ち一人口[やぶちゃん注:「いちじんこう」。])である』この通俗な諺はいろいろに使ふ。普通には、一群を爲して居る個人個人はどんなに貧しく或は賤しくとも集つては相當の力を現はす、といふ意味に用ひる。戲談にはこの諺は時には一群の大儀さうな顏したみじめな人達に用ひ――時には示威をやらうとして居る弱い男兒の一と集りに用ひ――時には憫れさうな[やぶちゃん注:「あはれさうな」。]一隊の兵士に用ひる。下等階級の人達の間では不具な人間又に貪欲な人間を『ガキ』と呼ぶは珍らしからぬ。

 

一三、餓鬼の眼に水見えず

註 前世に犯した罪の報として殊に渴[やぶちゃん注:「かはき」。]に苦しむ餓鬼は水を見ることが出來ぬと典據のある或る人々に述べて居る。此諺は愚鈍で又は性が惡るくて道德上の眞理を悟ることが出來ぬ人のことを說べるのに用ひる。

[やぶちゃん注:「典據のある或る人々に述べて居る」この日本語は、おかしく、訳としても、致命的に間違っている。原文は“ Some authorities state that those prêtas who suffer especially from thirst, as a consequence of faults committed in former lives, are unable to see water. ”で、「ある種の仏教の権威とされる人々は、『前世で犯した過ちの結果として、特に喉の渇きに苦しむ餓鬼は、水を目視することが生来的に出来ない。』と述べている。」である。

 

一四、後生(ごしやう)は大事

註 普通の人は『ゴシヤウダイジ』といふ妙な言ひ現はしを『非常に緊要な』といふのと同意義に用ひる。

 

一五、群盲(ぐんばう)の大象を撫(さ)するが如し

註 無智無學でゐて佛敎の敎理を批評する人達のことをいふ。象の軀を擦つて[やぶちゃん注:「さすつて」。]その大いさを判斷しようとした一群の盲人についての、『六度經』のうちにある有名な喩話[やぶちゃん注:「たとへばなし」。]に基づく。脚を擦つた者は象は木のやうだと言ひ、鼻を擦つた者に象は蛇のやうだと言ひ、腹を擦つた者は象は壁のやうだと言ひ、尾を擦つた者は象は綱のやうだと言つたといふ。

[やぶちゃん注:「ぐんばう」はママ。誤記か誤植であろう。「ぐんまう」が正しい。

「六度經」「六度集經(ろくどじつきやう)」(ろくどじっきょう)は、古代インドの説話にして、聖典の一種となった説話集で、釈迦の前生の生涯と、その善行・功徳を述べた物語「ジャータカ」(パーリ語本では五百四十七話が現存)の漢訳本の一つ。]

 

一六、外面如菩薩 內心如夜叉

註 ヤシヤ(梵語「ヤクジヤ」)は人を食ふ鬼。

[やぶちゃん注:読みは、「げめんによぼさつ ないしんによやしや」(げめんにょぼさつ ないしんにょやしゃ:「如菩薩」は「似菩薩」(じぼさつ)とも)。小学館「日本国語大辞典」によれば、『容貌は菩薩のように美しく柔和であるが、その心は夜叉のように残忍邪悪であるの意。仏教で、女性を出家の修行のさまたげになるものとしていましめたことば。外面は菩薩の如く内心は夜叉の如し。』で、「華嚴經」を出典とする。

「夜叉」は古代インド神話に登場する鬼神。後に仏教に取り入れられると、護法善神の一尊となったが、ここで語られているのは、原義の「鬼神」である。ウィキの「夜叉」によれば、『一般にインド神話における鬼神の総称であるとも言われるが、鬼神の総称としては他にアスラという言葉も使用されている(仏教においては、アスラ=阿修羅は総称ではなく固有の鬼神として登場)』。『夜叉には男と女があり、男はヤクシャ(Yaksa)、女はヤクシーもしくはヤクシニー と呼ばれる。財宝の神クベーラ(毘沙門天)の眷属と言われ、その性格は仏教に取り入れられてからも変わらなかったが、一方で人を食らう鬼神の性格も併せ持った。ヤクシャは鬼神である反面、人間に恩恵をもたらす存在と考えられていた。森林に棲む神霊であり、樹木に関係するため、聖樹と共に絵図化されることも多い。また水との関係もあり、「水を崇拝する(yasy-)」といわれたので、yaksya と名づけられたという語源説もある。バラモン教の精舎の前門には一対の夜叉像を置き、これを守護させていたといい、現在の金剛力士像はその名残であるともいう』とある。]

 

一七、花は根に還る

註 此諺は最も屢〻死に關して用ひられるが、一切の形態はそが發生した無有に歸還するといふ意。がまた因果律に關しても用ひられる。

 

一八、響の聲に應ずるが如し

註 因果の敎を指す。この譬喩の美は、反響の音色すら聲の音色を繰り返すことを心に思うて初めて翫味が出來よう。

 

一九、人を助けるが出家の役

 

二〇、火は消ゆれども燈心は消えず

註 情欲は一時征服することが出來てもその根源はその儘で居る。同じ意味の諺がある。卽ち、ボンナウノイヌハ オヘドモ サラズ『煩惱の犬は逐うてもまた歸り來ずには居らぬ』

 

二一、佛も元は凡夫

 

二二、佛になるも沙彌を經る

[やぶちゃん注:「沙彌」(しやみ(しゃみ)/さみ)は、出家して十戒(沙彌・沙彌尼(しゃみに:女子のそれ)の受持する十戒。「不殺生」・「不偸盗」・「不淫」・「不妄語」・「不飲酒」(ふおんじゅ)・「不塗飾香鬘」・「不歌舞観聴」・「不坐高広牀」・「不非時食」・「不蓄金銀宝」。普通は「沙彌十戒」と呼ぶ。「沙彌戒」とも)は受けたが、まだ具足戒(正式な僧であることを示す戒律。比丘には二百五十戒、比丘尼には三百四十八戒あるとする)は受けていない男子の僧。出家したばかりで修行の未熟な僧を指す。]

 

二三、佛の顏も三度

註 これは『佛の顏も三度撫でれば腹を立つ』といふ長い諺を短くしたのである。

[やぶちゃん注:「ことわざを知る辞典」(北村孝一編)の『解説』に拠れば、『江戸中期から使われたことわざで、古くは「仏の顔も三度撫なずれば腹〔を〕立つ」といっていました。ことわざは、広く知られるようになると、削ぎ落とせるものはすべて削ぎ落とすのが通例で、明治期になると、ほとんどのことわざ集が「~三度」でとどめています』。『 「仏」は穏やかでめったに怒ることのない者のたとえで、「も」でいっそう強調されています。用例をみると、二度までは許しても三度目はただではすまない、好意に甘えるのもいいかげんにしろ、と強く警告することが多いといえるでしょう。また、口に出さなくても、何度も好意を踏みにじられたときの心理を表したり、逆に失礼なことを繰り返した際に相手の気持ちを推し量るのにも用いられます。日本語の「三」は区切りを示す象徴的な数で、実際に三度目で気持ちが大きく変わり、本当に怒って見捨てる結果につながりかねないことを示しています』とある。]

 

二四、佛たのんで地獄へ行く

註 『鬼の念佛』といふ通俗な諺も似よつた意味のもの。

 

二五、佛造つて魂入れず

註 言ひ換ふれば、佛像を造つてそれに精神を入れぬこと。此諺は或る事業を企ててその事業の最も本質的緊要な部分を仕終へずに殘す人の行爲に關して用ひる。これには「カイゲン」卽ち「開眼」といふ妙な式への暗示も含まれて居る。このカイゲンといふは一種の聖化で、その聖化の式の爲めに新たに造つた佛像が、その佛性を眞に現はして活きて來る、と想像されて居るのである。

 

二六、一樹(いちじゆ)の蔭 一河(いちが)の流 多少の緣

註 一樹の蔭に或る人と共に休むとか、或る人と同じ流の水を飮むとか、いふやうな些細な出來事でも、或る前生[やぶちゃん注:「ぜんしやう」。「前世」に同じ。]の因果關係で起こるのである。

 

二七、一盲 衆盲を引く

註 『大智度論』といふ佛書からのもの、讀者はリス・デヸツドの『佛書』(東洋聖典)一七三頁にこれに似寄つた話があり、――脚註に記載されて居て、それに或る印度の註釋者が說明を與へて居る頗る珍らしい譬話もある、ことを發見されるであらう。

[やぶちゃん注:「無門關 四十六 竿頭進步」にも出る(リンク先は私の原文・訓読・野狐禪訳)。愚かな者が、他の多くの愚かな者を導いて結局、皆、全部を誤らす結果となること。

「大智度論」インドの大乗仏教の論書。「摩訶般若波羅蜜經」(「大品(だいぼん)般若」)の注釈書。著者は竜樹。漢訳は全百巻で、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳。原本は伝わらない。大乗仏教の百科全書的著作で、中国・日本では「大論」と呼ばれて重視された。

『リス・デヸツドの「佛書」(東洋聖典)』原文“ Rhys-David's " Buddhist Suttas " (Sacred Books of the East) ”。 トーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズ(Thomas William Rhys Davids 一八四三年~一九二二年)はイギリスの東洋学者で、パーリ語と上座部仏教の研究で知られ、同書は一八八一年刊で、“Internet Archive”のこちらで原本の当該ページ(当該箇所は右の下部の「15」)が見られる。但し、私の乏しい英語力でも、本文では、三人の目の見えない視覚障碍者たちが前・中・後部で触れている対象物は、先の「一五、群盲(ぐんばう)の大象を撫(さ)するが如し」のようには、具体的に示されていない。小泉八雲が謂っているのは、下の注「2」(後半は次のページ下に続く)の、三人のそうした人々が、数珠つなぎになって騙されて荒野に捨てられた、という詳しい逸話注を指していよう。

 

二八、因果な子

註 不幸な或は不具な子に關して下等社會で用ひる普通な言葉。此の場合『イングワ』といふ語は殊に應報の意に用ひてある。通例惡るい方の因果に用ひる。善い方の因果とその結果との事を言ふ時にはクワハウといふ言葉を用ひる。不幸な子供を『因果な子』だといふ一方に、甚だ幸運な人をば『クワハウモノ』――言ひ換へれば、クワハウの一例――だと呼ぶ。

[やぶちゃん注:「クワハウモノ」「果報者」。]

 

二九、因果は車の輪

註 因果を車の輪に喩へることは佛敎を學ぶ人の能く知つて居ることである。此諺の意味は『法句經』の詩句の『中心念惡、卽言卽行、罪苦自追、車轢于轍』と全然同じである。

[やぶちゃん注:「法句經」「ほつくぎやう(ほっくぎょう)」と濁るのが普通らしい。パーリ語経典「ダンマパダ」の漢訳名。仏陀の言葉を生(なま)の形で伝える貴重な文献の一つで、古来、広く愛読され、仏教徒の思想と実践の指針とされてきた。全篇二十六章の四百二十三から成る詩句集で、パーリ上座部系統に属するもののほかに、大衆部が伝えたガンダーラ語のものや、説一切有部(せついっさいうぶ)系統の「ウダーナバルガ」の題名で伝えられたもの、その系統のチベット訳・漢訳の「法句經」二巻、「法句譬喩經」 四巻、「出曜經」三十巻、「法集要頌經」四巻などもある(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「中心念惡、卽言卽行、罪苦自追、車轢于轍」「法句經」の頌偈(じゅげ:仏の徳を頌(たた)える一種の詩形式のもの)にあり、

中心に惡を念じ、卽ち、言ひ、卽ち行ひ、罪苦、自から追ふこと、車の轍(てつ)を轢(ふ)むがごとし。

と訓読出来る。]

 

三〇、因緣(いんねん)が深い

註 戀人同志の愛著、若しくは二人の間に親密な關係の不幸な結果のことを言ふ時普通に用ひる言葉。

 

三一、生命(いのち)は風前(ふうぜん)のともしび

註 或は『風に曝露(さら)されたる灯の炎の如く』佛敎文學で能く用ひる言葉は『死の風』。

[やぶちゃん注:「死の風」原文“ “the Wind of Death.” ”だが、私は、聴いたことがない。これ、多分、今、言うところの、「無常の風に誘われる」英語で“To Be Carried Off by Death”のことだろう。

 

三二、一寸(すん)の蟲にも五分の魂

註 文字通りでは『五分の魂を有つ』五分は日本の一寸の半分[やぶちゃん注:十五・一五ミリメートル。]。佛敎では殺生を禁じて居て、感覺のあるもの悉くを生命ある物(ウジヤウ)の部類に入れる。が此諺は――「魂」(タマシヒ)といふ語を用ひて居るので知れるやうに――佛教哲理よりも聊か民衆信仰を反映して居る。どんな生物も、小さく或は賤しくとも、慈悲を受くべきであるといふことを意味して居る。

[やぶちゃん注:「ウジヤウ」「有情」。]

 

三三、鰯の頭(あたま)も信心から

註 イワシはサアデインに餘程能く似た甚だ小さな魚。此諺は、完全な信仰と純潔な意志とを以て祈禱を爲すならば、崇拜の對象が何であらうと、そは重きを爲さぬといふ意味である。

[やぶちゃん注:「イワシはサアデインに餘程能く似た甚だ小さな魚」いやいや! 八雲先生! ここでは意義を唱えます! それでは、ろくに海産生物の一般名詞も知らない有象無象の欧米人(嘗てのあなた)の半可通と同じになってしまいます! 「鰯(いわし)」、則ち、条鰭綱ニシン目ニシン亜目 Clupeoidei の複数種の小型魚類の総称である「鰯」は、イコール、英語の「サーデイン」(sardine)そのものですよ!

「重きを爲さぬ」というのは、若干、誤解を惹起させる訳である。原文は“The iwashi is a very small fish, much resembling a sardine. The proverb implies that the object of worship signifies little, so long as the prayer is made with perfect faith and pure intention.”であるが、ここは、「祈りがm心からの(仏教或いは神道の)信仰と純粋(正当にして正統)な意志に基づいてなされている限り、礼拝の対象が如何なるものであるかということは殆んど全く意味を持たないことを示唆している」で、「正直な信仰者の礼拝対象は、その如何を問わぬ」という意味でなくてはならぬ。大谷氏の訳では、「対象が淫祠邪教のものであっても、いい」というニュアンスを排除出来ないからである。

 

三四、自業自得(じごふじとく)

註 通俗な佛敎の文句でこれほど屢〻用ひる文句は少い。『ジゴフ』は自己の行爲或は思想の意味、『トク』は――佛敎的にこの語を使用する時は殆ど何時も不幸の意味で――自己に齎すといふ意味。『うん、そりや自業自得だ』といふ風に、人が牢屋へ連れて行かれるのを見て世間の人は言ふ、「自己の罪の結果を刈り入れて居ゐのである」といふ意味で。

[やぶちゃん注:小学館「日本国語大辞典」によれば、「正法念處經」の「七」とする。「大蔵経データベース」で確認した。]

 

三五、地獄でほとけ

註 不幸の折に善い友に會ふ喜を指して。上記のは省略で、この諺は全部は「ヂゴクデホトケニアフタヤウダ」。

 

三六、地獄極樂は心にあり

註 高等な佛敎と全く一致する諺。

 

三七、地獄も住家(すみか)

註 地獄に住まざるを得ぬ者共でもその境地に適應するやうになるに相違無いとの意味。人はいつもその境遇に出來るだけ善處しなければならぬ。これと似寄つた意義の諺に、『スメバミヤコ』卽ち『何處であらうと自分の家のある處が卽ち首府〔卽ち、帝都〕である』といふのがある。

 

三八、地獄にも知る人

[やぶちゃん注:原文は“Even in hell old acquaintances are welcome. ”。これは「地獄にあっても、古い知り合いは歓迎される。」の意である。「デジタル大辞泉」の「地獄にも知る人」に『地獄のような所でも、知己はできるものであるということ。地獄にも近づき。』とある。最近は使わないような気がする。少なくとも、私は六十八年の間、このフレーズを聴いたことがない。] 

 

三九、影の形(かたち)に隨ふが如し

註 因果の敎を指す。『法句經』第二十有二章參照。

[やぶちゃん注:既に注した「法句經」は仏陀の諸言の採録集で、複数のテクストがある。二二四年に支謙・竺将焔によって訳された漢訳経典には、

   *

心爲法本 心尊心使 中心念善 卽言卽行 福樂自追 如影隨形

(心を法本(ほふほん)と爲す。心、尊(たつと)く、心、使ふ。中心、善を念じ、卽ち言ひ、卽ち行はば、福樂、自(おのづか)ら追ふこと、影の形に隨ふがごとし。)

   *

とあり、また、立花俊道の大正七(一九一八)年刊の「國譯法句經」の「雙雙品(さうさうほん)第一」の二には、

   *

諸法は心に導かれ、心に統(す)べられ、心に作らる、〔人(ひと)、〕若(も)し淨(きよ)き心を以て、言(ものい)ひ且つ行はば、其よりして、樂の彼(かれ)に隨ふこと、猶ほ影の〔形を〕離はなれざるが如し。

   *

とある。しかし、より簡潔で判り易いそれは、「涅槃經」の「憍陳如品第二十五」(「きょうちんにょぼん」と読むか。「憍」は「驕(きょう)」の正字。サンスクリット語で「マダ」。煩悩の一つ)の、

   *

善惡之報 如影隨形 三世因果 循環不失

(善悪の報、影の形に隨ふがごとし。三世の因果、循環し、失はず。)

   *

であろうか。]

 

四〇、金(かね)は阿彌陀より光る

註 阿彌陀は梵語のアミタバ卽ち無量光佛。寺院にあるその像は頭から足まで通例金で鍍金[やぶちゃん注:「めっき」。]されて居る。富の力について他にも多くの皮肉な諺がある。例へば、ヂゴクノサタモカネシダイ卽ち「地獄での審判すら金に左右せられる」といふがある。

 

四一、借る時の地藏顏 濟(な)す時の閻魔顏

註 エンマはヤマ――佛敎では地獄の主で死者の審判者――の支那及び日本での名。この諺は附圖を見れば一番能く判かる、この二つの神が普通にはどういふ顏に現はされて居るかが解らうから。

[やぶちゃん注:閻魔は、サンスクリット語、及び、パーリ語のヤマの漢訳。なお、日本の仏教に於いては、中世になって、仏教内の本地垂迹的な説の中で――地蔵菩薩は閻魔王と同一の存在――と解され――閻魔王の本地は地蔵菩薩である――とされるウィキの「閻魔」によれば、『後に閻魔の本地とされる地蔵菩薩は奈良時代には』、「地蔵十輪経」に『よって伝来していた』ものの、『現世利益優先の当時の世相のもとでは普及しなかった。平安時代になって』、『末法思想が蔓延するにしたがい』、『源信らによって平安初期には貴族、平安後期には一般民衆と広く布教されるようになり、鎌倉初期には』「預修十王生七經」から、更なる偽経である「地蔵菩薩發心因緣十王經」(「地藏十王經」)が『生み出され』、『これにより』、『閻魔の本地が地蔵菩薩であるといわれ(ここから、一部で言われている閻魔と地蔵とを同一の尊格と考える説が派生した)、閻魔王のみならず』、『十王信仰も普及するようになった。本地である地蔵菩薩は地獄と浄土を往来出来るとされる』とある。]

Jizou

[やぶちゃん注:底本キャプション「地藏」。]

 

Enma

[やぶちゃん注:底本キャプション「閻魔大王」。]

 

四二、聞いて極樂 見て地獄

註 噂は當てにはならぬ。

 

四三、好事(かうじ)門を出でず 惡事千里を走る

 

四四、心の駒に手綱ゆるすな

 

四五、心の鬼が身を責める

註 情或は『心』これは我々はただ己れ自らの罪の結果に苦しむだけのことであるといふのである。佛敎の地獄での人間を拷問する鬼は被拷問者に向つて言ふ、『己を責めるな! 己にただお前自らの行爲と思想とが創造したものだ。お前が斯うさせる己を造つたのだ!』(三六番の諺參照)

 

四六、心の師とはなれ、心を師とはせざれ

 

四七、この世は假の宿

註 『此世界はただ旅人の宿屋である』と譯しても殆ど同樣に正しい譯でゐらう。『ヤド』は文字通りでは宿所、隱れ場、宿屋といふ意味である。そしてその語は日本の旅人が旅行中に立ち止まる路傍の休み茶屋にも屢〻適用する。『カリ』は一時の、暫時の、すぐ經つて行く、といふ意味で、あの普通な佛敎的な言葉『コノヨハ カリノヨ』卽ち『此世界は直ぐに經つて行く世である』に用ひてゐると同樣、佛敎信者には地獄極樂も亦、涅槃への旅の途中の止り場にしか思はれぬのである。

[やぶちゃん注:八雲先生! ここは、やっぱり、松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭、『月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也舟の上に生涯をうかへ馬の口とらえて老をむかふるものは日々旅にして旅を栖とす古人も多く旅に死せるあり』を引くべきでした! 甚だ残念です! 因みに、私の遠大なプロジェクト(完遂済)の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戶も住替る代ぞひなの家   芭蕉』を、是非、見られたい。]

 

四八、氷を鏤め[やぶちゃん注:「ちりばめ」。] 水に描く

註 ただの一時の目的の爲めに利己的な努力を爲すは無駄であるといふこゝろ。

 

四九、ころころと啼くは山田のほととぎす父にてやあらん母にてやあらん

註 歌になつて居る諺は『往生要集』に記載されて居るもので、次記の註解が添へてある。『野なる獸、山林なる鳥、前生に於て己が父もしくは母たりしものなるやも圖られず』と。ホトトギスは一種のククウ。

[やぶちゃん注:「往生要集」浄土教の淵源である恵心僧都源信の著で全三巻。寛和元(九八五)年成立。しかし、このような説教歌は見当たらない。小泉八雲の謂うような注釈も私は知らない。不審。識者の御教授を乞う。

「ホトトギスは一種のククウ」原文“The hototogisu is a kind of cuckoo”。「ククウ」は「郭公」で、歴史的仮名遣なら「クワクコウ」とするべきところ。カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus 。]

 

五〇、子は三界の首枷

註 いふこゝろは、兩親のその子に對する愛は――啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]此世に於てのみで無く、そのあらゆる來世を通じて――恰もクビカセ卽ち日本の首枷がそを置かれて居る人の舉動を妨げるが如くに、その霊の發達を妨げるかも知れぬ。親の愛情は、この世の愛著のうち最も强烈なものであるから、之に捉へられる人をして子孫に利益を與へんとの希望によつて殊に惡事を犯さしめがちである。サンガイといふ言葉は此處では――涅槃の下に位する生の境涯たる――欲界色界無色界を意味して居る。然し此の語は時に過去現在未來を意味するに用ひられる。

[やぶちゃん注:「欲界」(よくかい)は、以下の二つと合わせて「三界(さんがい)」と言い、一切衆生が、生まれ、また、死んで往来――輪廻する三つの世界を指し、この「欲界」は、その第一で、食欲・淫欲・睡眠欲などの、本能的な欲望が盛んな世界で、「六欲天」から「人間界」(=「六道」の「人間道」)、さらに、「八大地獄」に至る。

「色界」(しきかい)三界の第二。浄らかな物質からなる世界で、四禅を修めたものの生まれる天界。また、そのような有情の生存をも言う。「欲界」の上、「無色界」の下にあり、「欲界」のような諸欲からは離れているが、未だ、色としての物質から解放されていない世界。これを「四禅」の一々によって「四禅天」に分け、また、さらに「十七天」(または「十六天」・「十八天」)に分ける。「色界天」・「色天」とも呼ぶ。

「無色界」「色身」(しきしん)、則ち、「肉身」を離れ、物質の束縛を離脱した心の働きだけからなる世界。色界より上位の世界で、「空無辺処」・「識無辺処」・「無処有処」・「非想非非想処」の四天から成り、この境界の禅定(ぜんじょう:思いを静めて心を明らかにし、真正の理を悟るための修行法。精神を集中し、三昧(さんまい)に入って、寂静の心境に達すること。「六波羅蜜」(大乗仏教に於ける六種の修行を指す語。菩薩が涅槃に至るための六つの徳目で、「布施」・「持戒」・「忍辱(にんにく)」・「精進」・「禅定」(ぜんじょう)・「智慧」を指す)の一つ)を「四無色定」(しむしきじょう)という。「無色天」とも呼ぶ。この三界も「輪廻」の中に包含されるので、勘違いしてはいけない。] 

 

五一、口は禍の門(かど)

註 これは、惱の主因は不謹愼な言葉であるとの意味。カドといふ語はいつも住宅への主な入口を意味する。

 

五二、果報は寢て待て

註 クワハウといふ語は、全くの佛語で、前生に於ける善行の結果としての幸運を意味するのであるが、日常の會話におつては、如何なる種類でもの幸運を意味するやうになつて來て居る。此諺は『待つて居る茶釜は煮たたぬ』といふ英國の諺の意味に似た意味に屢〻用ひられて居る。嚴密な佛敎的な意味では『善行の報を餘り渴望するな』であらう。

[やぶちゃん注:「如何なる種類でもの幸運を意味するやうになつて來て居る」の「でもの」は躓く日本語である。「でも、」とすればいいのに。

「待つて居る茶釜は煮たたぬ」原文“Watched pot never boils”。「水を沸かしている鍋は、見つめていると、なかなか沸かない」から転じた「待つ身は長い・焦ってはいけない」の意の英語の諺(proverb:小泉八雲は“saying”と言っているが、厳密には、一般には「誰が言った判らない名言」を「saying」、「その名言の主が判っているもの」を「quote」、「よく使用される短いフレーズで、人生訓を含んでいるもの」を「proverb」と区別するようである)。]

 

五三、蒔かぬ種は生えぬ

註 種を蒔くに非らずば收穫を期待するな。熱心な努力が無くては如何なる報酬も得られぬ。

 

五四、待てば甘露の日和

註 カンロとは天界の甘き露。一切の善事は待つて居る人に來る。

 

五五、冥土の道に王は無し

註 文字通りでは『メイドヘの道には』メイドとは地獄を意味する日本語で、一切の死者が旅して行かねばならぬ冥い下界である。

[やぶちゃん注:「一切の死者が旅して行かねばならぬ冥い下界である」これは、明らかに誤りである。直に涅槃し、極楽に来迎されるケースでは、冥界を通過しない。

 

五六、盲(めくら)蛇(へび)に怖(お)ぢず

註 無智なる者及び不穩なる者は、因果の法を悟らぬことだから、其惡行が必らず招來する結果を恐れぬ。

 

五七、盈(み)つれば缺ける

註 月が大きくなつて滿月となるや否や缺け始める。丁度そのやうに繁榮の絕頂は運の衰微の始めである。

 

五八、門前の小僧習はぬ經を讀む

註 コゾウは『店の小僧』『使ひ小僧』『年季奉公人』を意味するやうに、また『寺の小僧』を意味する。然し此處では寺の門の近くか前かに在る商店に使はれて居る子供を指して居る。寺で讀む經を絕えず耳にするので、その小僧がその經語を自づと諳んずる[やぶちゃん注:「そらんづる」。]。これと似寄つた諺に、『クワンガクイン ノ スズメハ モウギウ ヲ サヘヅル』卽ち『勸學院〔昔の學問所〕の雀は蒙求を囀る』といふがある。『蒙求』といふは古昔若い學生が敎はつた支那の書物である。此どちらもの諺の敎は、今一つの諺で立派に言ひ表はされて居る。それは『ナラフ ヨリハ ナレロ』卽ち『〔或ふ技(わざ)を〕習ふよりか寧ろそれに慣れよ』言ひ換へれば『絕えずそれに接觸して居れよ』である。觀察と學習は硏究よりも好いぐらゐである。

[やぶちゃん注:「勸學院」は平安時代に藤原氏の子弟の教育のために創られた学校。

「蒙求」(まうぎゆう(もうぎゅう))唐の李瀚(りかん)が年少者のために著した歴史上の教訓を記した啓蒙書。七四六年以前の成立。五百六十九の事項を、歌いやすく覚えやすいように四字句の韻文にし、八句ごとに韻を変え、子どもが暗誦し易くしてある。宋の劉班の「両漢蒙求」以下、多くの類書が作られたが、中国では十七世紀以後は姿を消してしまった。日本には平安時代に移入され、江戸時代には注解書のほか、木下公定の「桑華蒙求」、菅享「本朝蒙求」などの翻案的類書が多くが作られ、近年に至るまで使われたことから、寧ろ、日本に伝存している。]

 

五九、無常の風は時を擇ばず

註 死と變化とは人の期待にその道を一致させはせぬ。

 

六〇、猫も佛性あり

註 猫とマムシ(毒蛇)だけが佛が死んだのに泣かなかつたといふ傳說あるに拘らず。

[やぶちゃん注:八雲先生は、これは、不審を示しておられるが、これは、禅に於ける問答上の方便に過ぎない。私の『無門關 一 趙州狗子 ――「無門關」全公開終了』を参照されたい。謂わば、公案・答案に於けるパラドクスである。

 

六一、寢た間(ま)が極樂

註 ただ睡眠の間だけ時に我々は此世の悲苦を知らずに居ることが出來る。

 

六二、二十五菩薩もそれそれの役

[やぶちゃん注:「それそれ」は原文のママ。]

 

六三、人見て法說け

註 佛數の敎理を敎へるには敎はる人の智慧にいつも適合せしめてでなくてはならぬ。これと同種類の今一つの諺がある。『キニヨリテホフヲトケ』卽ち『〔敎はる人の〕機根に應じて法を說け』である。

[やぶちゃん注:何度か述べてあるが、「法」は、一般的な意味のそれは、歴史的仮名遣で「はう」であるが、仏教用語の場合は、「ほふ」と読む。]

 

六四、人身(にんしん)受け難し 佛法遇ひ難し

註 通俗の佛敎では、人界に生まれること、殊に佛敎を信奉する國人のうちに生まれるといふことは、非常に大いなる特典であると敎へる。人間の生涯はどんなに慘めでも、少くとも尊い眞理を少しく知ることが出來る境涯である。然るに生の他の低い狀態にある者は、比較的に靈の進步は出來得ないのである。

 

六五、鬼も十八

註 オニ卽ち佛敎の鬼については幾多の妙な言葉や諺がある。例へば『オニノメニモナミダ』卽ち『鬼の眼にすら淚』とか、『オニノクワクラン』卽ち『鬼の霍亂〔非常に强壯な人の意外の病氣の事をいふ〕』とかいふやうな。オニといふ惡鬼の一類は固と[やぶちゃん注:「もと」。]佛敎の地獄のもので、拷問者や獄吏の役を勤めて居るものである。これは魔、夜叉、鬼神併びに他の部類の惡靈と混同してはならぬ。佛敎藝術では牛や馬の頭をした、異常な力を具へて居るものと現はしてある。牛頭の鬼を『ゴヅ』と呼び、馬頭の鬼を『メヅ』と呼んで居る。

[やぶちゃん注:八雲先生! 以上の標題は、これ、「鬼も十八番茶も出花」を出して、解説しないと、判りませんぜ!?!

 

六六、鬼も見慣れたるがよし

[やぶちゃん注:言わずもがなだが、これは、「全然知らない人よりも、如何なる間柄・関係であるにしても、以前からの知り合いの方がましであること。全くの初対面は何かと煩わしいものであり、たとえ、厭な相手でも、前から知っている方が良い。」という意味。実は、大谷氏、八雲が先生が、ちゃんと説明しているのに、判り切っていると思ったものか、完全にカットしてしまっている! 原文解説は、“ Even a devil, when you become accustomed to the sight of him, may prove a pleasant acquaintance. ”である(「たとえ、悪魔であっても、見慣れてしまえば、楽しい知り合いになるかも知れない。」)。] 

 

六七、鬼に金棒

註 大いなる力を强きもののみに與ふべしとの意。

 

六八、鬼の女房に鬼神(きじん)

註 邪慳な男は邪慳な女を妻にするといふ意。

 

六九、女の毛には大象も繫がる

[やぶちゃん注:これは、「男を引きつけて止まぬ女性の魅力を大きな象にたとえた言葉」である。巨象の脚を女の髪の毛で繋いだところ、一歩も動けなかった、という仏説に従がった故事成句である。多分、今の若い読者は「女の髪の毛が強靭てこと?」なんて考えたところで立ち止まってしまい、まんず、判らんぜよ!

 

七〇、女は三界に家無し

[やぶちゃん注:「三界」は先に注した「欲界」・「色界」・「無色界」で、ここは仏教上の極楽・地獄を含まない「全世界」の謂い。仏教では古くから女は「三従」と称し、幼い時は親に従い、嫁に行っては夫に従い、老いては子に従わなければならないとされたことから、「女性には、一生の間、広い世界のどこにも安住の場所はない」とされた。如何なる布施や修行を行っても女性は一度、男性に生まれ変わってからでなければ極楽往生は出来ないとする「変生男子」(へんじょうなんし)説のは、釈迦以来の仏教の男尊女卑の悪しき属性である。]

 

七一、親の因果が子に報ふ

註 跛[やぶちゃん注:「びつこ」。足の不自由な障碍者。]や不具な子供を有つた親に云ふ。然しこの諺に現はされて居る通俗の觀念は、全然高等な佛敎の敎に一致して居るものでは無い。

 

七二、落花枝に還らず

註 してしまつたことはしかへすことが出來ぬ。過去を立ち返らせることは出來ぬ。この諺はもつと長い經語『ラツクワ エダニカヘラズ、ハキヤウ フタタビテラサズ」卽ち「落花枝に還らず、破鏡再び照らさず」の省略である。

[やぶちゃん注:これは、逆で、「破鏡不重照 落花難上枝」(破鏡重ねて照らさず、落花枝に上り難し)であり、後唐の華嚴休靜大師の言葉とされる。北澤篤史氏のサイト「ことわざ・慣用句の百科事典」のこちらによれば、「景德傳燈錄」の「卷十七」のからとする。同書は、同サイト内のこちらに拠れば、『北宋代に道原によって編纂された禅宗を代表する燈史で、全』三十『巻から成り立っています』。『この書は、過去七仏から天台徳韶門下に至る禅僧やその他の僧侶の伝記を収録しており、俗に「』千七百『の公案」とも称されるものの、実際に伝のある人物は』九百六十五『です』。『景徳元年』(一〇〇四年)『に道原が朝廷に上呈した後、楊億等の校正を経て』一〇一一『に公にされました。この書名は、公開された年号から名付けられたものです』。こ『の公表後、中国禅宗では燈史の刊行が続き、それは公案へと発展しました』。『現在でも、この書は禅宗研究の代表的な資料として重要視されていますが、内容には史実と異なる部分も存在することが指摘されています』。『撰者については、一説に拱辰が編集し、後に道原がこれを取得して提出したとも言われていますが、この説は中国の仏教学者陳垣によって否定されています』とあった。中文サイトのここで確認出来た。]

 

七三、樂(らく)は苦の種(たね)苦は樂の種

 

七四、六道は眼の前

註 言ふこゝろは、來世は此世での行爲如何に因つて定まる。だから此次に生まれ出る場處を自分で勝手に選ぶことが出來るのである。

[やぶちゃん注:確かに、原文は“That is to say, Your future life depends upon your conduct in this life; and you are thus free to choose for yourself the place of your next birth.
”であるが、この謂いは、因果応報の凄絶な皮肉を言っているようにしか、読めない。]

 

七五、三界無安

[やぶちゃん注:「さんがいむあん」。原文には、注で、“There is no rest within the Three States of Existence.
”とあり、「三つの存在の状態(先に注した「三界」)には休息は無い。」である。]

 

七六、三界に垣無し 六道にほとり無し

註 三界ち卽欲界、色界、無色界と、六道卽ち、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道とのうちに一切の生が包含せられて居る。このさきにはただ涅槃あるのみである。『垣無し』『隣[やぶちゃん注:「となり」。]無し』とは、その界を越えて逃れ行くべき界は無い、或る二つの境涯の間の中道は無いといふこと。我々は因果次第でこのどれかのうちへ再生するのである。(七四參照)

 

七七、懺悔には三年の罪も滅ぶ

[やぶちゃん注:近世以前は「懺悔」は「ざんげ」ではなく、「さんげ」と読む。小泉八雲は正しく“Sange”と原文する。寧ろ、現代人の殆んどは「ざんげ」としか読めない。]

 

七八、三人寄れば苦界(くがい)

註 クガイ(文字通りでは『苦(にが)い世界』)は屢〻醜業歸の生涯に對して用ふる語。

[やぶちゃん注:「醜業歸」娼妓・女郎・売春婦。]

 

七九、三人寄れば文殊の智慧

註 文殊菩薩〔梵語ではマンジュスリ、ボディサツトヷ〕は日本佛敎では特に智慧の神になつて居る。この諺は三人の頭は一人の頭より善いといふことを意味して居る。同じ意味の諺に『ヒザトモダンガフ』卽ち『自分の膝とでも談合せよ』言ひ換ふれば『如何なる忠言も、その原(もと)はどんなに賤しくとも、輕んずるな』といふがある。

 

八〇、釋迦に說法

 

八一、沙彌から長老

[やぶちゃん注:「沙彌」は「修行僧」で、「長老」は「深い学徳を具えた高僧」。「一足(いそく)跳びに出世すること」の譬え。但し、原文の注では、“To become an abbot one must begin as a novice.”で、「大修道院長になるには、修行僧から始めなければならない。」である。西洋人に判るように、“abbot”(アベット:原義は「キリスト教の男性大修道院長」。但し、仏教の「長老」の意味にも転用する)と、“novice”(ノーヴィス:キリスト教の修練者。「修道会に入って誓願を立てる前の見習い期間にある者」の意)としてある。

 

八二 死んだればこそ生きたれ

註 自分は此の珍らしい諺を聞く每にハクスリの有名な論文『生の物質的根柢に就いて』のうちの一文を想ひ出す。かう言つて居る、『生きて居る原形質は終には死んでその鑛質の無生の成分に還元せられるばかりでは無く、いつも死につゝあるので、この逆說は奇妙に聞こえるかも知れぬが、死ななければ生きられなかつたのである

[やぶちゃん注:この言葉は、私も好きな「沙石集」(無住道曉(号は一圓)編。弘安二(一二七九)年に起筆し、同六年に成立したが、その後も絶えず加筆されたため、それぞれの段階で伝本が多量に流布してしまった結果、異本が多く出回ってしまった)の「卷第三」の巻頭にある「癲狂人の利口の事」の初めに出る。この話、長いので、当該部と、それに続く部分のみを示す。底本は所持する岩波『日本古典文學大系』「86」一九六六年版(渡邊剛也校注)を用いた(カタカナはひらがなに改め、一部の読みを外に出し、読みは必要と判断したのみとし、一部で読点・記号を追加した。一部で改行して読みやすくしておいた。歴史的仮名遣の誤りはママである。一部の漢文脈の箇所は推定で訓読した。踊り字「く」は正字化した。〔 〕は校訂者の補填)。なお、新字であるが、全文は「やたがらすナビ」のここで電子化された全文が読める。但し、私の底本のとは異なる伝本のもので、甚だ異なる八雲が示したそれを、太字で私が附した。

   *

 或里に、癲狂(てんがう)の病(やまひ)ある男ありけり。此病は、火邊(ひのほとり)・水邊・人おほく集まる中にしておこる、心うき病なり。俗は「くつち」と云ふ、是なり。ある時、大河の岸にて、例の病おこりて、「くつち」げなる程に、河ゑ、落ち入りぬ。息も絕えてければ、水に浮びて、遙かに流れ行きて、河中の洲さきに押しあげられ、遙かにありて、蘇生(よみがへ)りて、世間を見れば、思はずに、河中にあり。

『こは爭(いか)に。』

と、心を靜めて案ずれば、
『我れは、河上の岸の上(ほとり)にこそありつれ。何とした事ぞ。』

と、思ひめぐらす程に、

『例の病、おこりて、落ち入りてむげり。あぶかりける命(いの)ちかな。』

と、淺猿敷(あさまし)く覺へて、獨りごとに、

死にたればこそ、生きたれ。生きたらば、死になまし。かしこくぞ死にける。凶(けう)に[やぶちゃん注:「稀有に」。思いがけなく。]死ぬらむに。」

とぞ、云ひける。

「實の[やぶちゃん注:頭注に『諸本「実に」。』とある。「まことに」。]大河の流れはやく、底、ふかゝりければ、息、絕へて、やがてしづみて、死すべかりけるに、死すべかりけるに、死ぬれば、水に浮ぶび流るる事なれば。」

かく云ひたる、いみじき利口なり。珍しくこそ。此の言(こと)ば、事はかぎれるに〔に〕て、世間出世の深き〔法(のり)の〕理(ことわり)まで、通ひてこそ覺へ侍れ。

 或る山寺法師〔に〕、この物語をせしかば、

「我が身にこそ、是れに似たる事、侍り。師匠にて侍る[やぶちゃん注:「はべる」。]老僧、下人を、或る所の地頭に取られて、頻りに沙汰をいたす。理(ことわり)もなき事なれば、問注對決(もんちうたいけつ)すとも[やぶちゃん注:問注所で対決しても。]、吐申(ひす)難(かた)なく侍り[やぶちゃん注:「訴えが受け入れられませんでした」の意であろう。]。

『この沙汰、とまめ給へ。』[やぶちゃん注:この争議は、お止(や)め下され。]

と、弟子ども申せども、本より、かたはり[やぶちゃん注:頭注に『意不詳。』『頑迷の意か。』とある。]事の人の、老いひがみて、諫(いさ)め事にも隨はず。しかり腹(はら)を立て[やぶちゃん注:怒り、腹立て。]申ししかば、彼(か)の心をすかさんむ爲に、件(くだん)の地頭の許へ行き向ひて、

『師匠にて候[やぶちゃん注:「さふらふ」。]老僧、下人の事、申し入れて候事の子細、承りしに、由緖ありて、召し仕はさる物にて候なれば、「此の沙汰、努々(ゆめゆめ)、やめられ候へ。」と〔弟子共[やぶちゃん注:「ども」。]、申し候へど〕も、老ひがみて用(もち)ゐ候はで、くねり腹立ち候間、彼(か)の心ををすかし候はむとて、「是れまで參りて侍れ共(ども)、しかしかの仰せなり。」と申しきかせて、すかし〔こし〕をゑむと存じて、「此れまでも、申し入れ候事、返す返(がへ)す恐れ入り候。」と、御披露候へ。』

とて、我れとまけて歸りしかば、彼(か)の人、呼び返して、

『此の僧は、ものに心ゑて、子細ある物なりけり。實(まこと)に道理はなけれども、御房のいはるヽ所、感じ思へば、此の下人は御房に奉るなり。』

とて、たびし[やぶちゃん注:「賜(た)びし」。]を、再三、辭し申し侍りしかども、しゐて[やぶちゃん注:「强(し)ひて」。]たびしかば、請け取りて歸り侍しなり。」

 是れこそ、いわば、「劣(ま)けたればこそ、勝ちたれ、勝ちたらば、負けなまし。かしこくぞ劣けてける。凶(けう)に[やぶちゃん注:先と同じで「稀有に」。]負くらむ〔に〕。」とひつべし。」

と申して、一座の比興(ひきよう)にて侍りき。

   *

【以上は、2025年4月24日追記したもの。】しかし、この言葉、後の「葉隱」(はがくれ:江戸中期(一七一六年頃)に書かれた。肥前国佐賀鍋島藩士山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録して纏めたもの。全十一巻)の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という軍国主義にいいように用いられてしまった一句を、私には、思い出させる。鎌倉の報国寺の元住職は、戦中、私の父が鎌倉学園の中等部に在籍していた際、漢文を教えていた。常に墨染の衣で、生徒は全員が机の上に正座させられて授業を受けた。その坊主は何時も「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」を口にしていたそうだ。而してこの父は、直後、鎌倉市で最年少の特攻兵(陸軍通信特攻隊)となった。しかし、九州の基地に行ってみると、木製の飛行機が一機あるだけで、ひたすら、リヤカーの木製模造戦車に向かって、竹の先に模擬地雷をつけたものを持って「特攻」する練習ばかりやらされた。幸いにして、内地で終戦を迎え、復員した日、鎌倉駅で、その住職に、偶然、逢ったそうだ。彼はダブルの、スリー・ピース・スーツを着ていた。彼は、驚愕して、「生きて帰れましたか! よかった! よかった!」と敬語で迎え、何度も挨拶したそうだ。この住職、長生きした。大学時代、鎌倉の郷土研究を個人的にしていたが、報国寺を訪ねた際、逢った。彼は「あの世も仏もない」(それも確かに禅の世界では真である)といった事を書いたトンデモ本でブレイクしており、何んと、名物の竹の庭に入るのに、当時としてはビックりした自動入園機を設置してあり、まんず、エラく儲けていたようだ。私を見かけて、「どうぞ! どうぞ! 本堂に上がっていいですよ!」と声をかけてきた。襖にはサイケデリックな絵が描かれていた。父の話をしようと思っていたが、呆れて、やめた。その代り、置いてあった薄い般若心経を一冊、こっそり貰っておいた。それが、父の代わりのささやかな彼への復讐であった。今も、この書斎に、ある。鎌倉の寺で、この時、一度しか行っていないのは、この寺だけである。

「ハクスリ」ダーウィンの進化論を支持して「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名でもって知られたイギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。但し、自然科学者としての彼は、事実はダーゥインの自然選択説よりも、寧ろ、唯物論的科学を志向しており、参照したウィキの「トマス・ヘンリー・ハクスリー」によれば、『ダーウィンのアイディアの多くに反対であった(たとえば漸進的な進化)』とある。

「生の物質的根柢に就いて」一八六九年刊のエッセイ“ On The Physical Basis of Life ”(「生命の物理的基礎に就いて」)。もとは前年一八六八年の十一月八日にエジンバラで行われた講義で、そのテーマは「生命活動はそれを作る原形質の分子力の結果に過ぎない」というものであった。]

 

八三、知らぬが佛 見ぬが極樂

 

八四、正法(しやうほふ)に奇特無し

註 何物も永久な取り返しのつかぬ大法の結果としてのほか生じ得ぬものである。

 

八五、小智慧は菩提のさまたげ

註 ボダイといふは梵語のボディと同語で、無上の開悟――佛の身になれる知識――を意味するが、日本の佛敎では無上の祝福卽ち佛の境涯そのものの意味に屢〻用ひる。

 

八六、生死(しやうじ)の苦界ほとり無し

 

八七、袖の振り合はせも他生の縁

 

八八、寸善尺魔

註 マ(梵語ではマアラカアヰカス)は人間を誘うて惡事を行はしめる一種特別な一類の靈に與へて居る名である。然し日本の民間傳說では、マの演ずる役は西洋の民衆迷信でゴブリンやフエアリが占めて居る役に能く似て居る。

 

八九、纒ふは悲みのもと

 

九〇、飛んで火に入る夏の蟲

註 殊に肉體的放逸の結果について云ふ。

 

九一、土佛(つちぼとけ)の水あそび

註 すなはち、『土でつくつた佛が水あそびをするやうに危險な』子供は土で佛像をつくつて遊ぶことが能くあるが、固よりのこと水に入れゝば形なしに崩れる。

 

九二、月に叢雲[やぶちゃん注:「むらくも」。] 花に風

註 月の美は叢雲の爲め暗くされ、水は花を咲かすと、その花は直ぐ風に散らされる。美はしきものは總て果敢ない[やぶちゃん注:「はかない」。]。

 

九三、露のいのち

 

九四、憂(う)きは心にあり

 

九五、瓜の蔓に茄子は生(な)らぬ

 

九六、噓も方便

註 方便といふのは改信せしめる上の殊勝な方便である。「法華經」第三卷に有るあの有名な譬言を見ればかゝる方便は殊に是認される。

[やぶちゃん注:「法華經」の「譬喩品第三」であろう。個人サイトのこちらの現代語訳がよい。]

 

九七、我が家(や)の佛尊し

註 人は誰れしも自分の家の佛壇にあるホトケを――佛として視られて居る死者の靈を――崇め尊む、といふ意味。ホトケといふ語に皮肉な戲れがあるので、この語は單に死んだ人といふ意味にもなり、一箇の佛といふ意味にもなるのである。恐らく此諺の精神は今一つの諺を藉りるともつと能く說明が出來よう。『ニゲタサカナニ チイサイハナイ、シンダコニ ワルイコハナイ』卽ち『逃げた魚に小さいのは無く、死んだ子に惡るい子は無い』を合はせ考へるがよい。

 

九八、雲の果(はて)は涅槃

註 この珍らしい諺は自分の蒐集中ネハン(涅槃)といふ語を含んで居る唯一のもので、主としてその爲めこゝへ挿入したのである。普通の人は涅槃といふ言葉は滅多用ひず、この言葉が關係して居る甚深な敎理については殆ど少しも知つて居ないのである。上記の諺は、推察される如くに、通俗な言葉では無い。地平線までずつと雪が覆うて居て、その雪圏の向うは唯々空漠たる天空あるのみの風景を藝術的に詩的に述べたものである。

 

九九、善には善の報い 惡には惡の報い

註 一寸見には平凡な諺のやうに見えるがそれほどでも無い。此世に於て我身が受ける親切は悉く前生に於て他人に與ヘた親切の報であり、我々が蒙る禍は悉く前生に於て我々が犯した不正事の反映でゐるといふ、佛敎の信仰を特に指して居るからである。

 

一〇〇、前世(ぜんせ)の約束ごと

註 これは頗る普通な諺で、別離の不幸に對し、突然の不運に對し、突然の死去に對したりして、能く述べるものである。殊にシンヂユウ卽ち戀人同志の自殺に關して用ひる。そんな自殺は或る前生に於て殘忍であつた結果か、或はまた前生に於て夫婦にならうと相互の約束を破つた結果か、だと普通考へられて居る。

 

2019/11/05

小泉八雲 小さな詩 (大谷正信譯)


[やぶちゃん注:本篇(原題“ Bits of Poetry 。「Bit」は「小片・細片・小さな一片」・口語で「風景画の小品」や「劇の一シーン」の意がある)は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN (「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の第九話目に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”こちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”こちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月18日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 引用される俳句や短歌はブラウザの不具合を考えて、底本通りではなく、引き上げてあり、号との字空けも再現してはいない。前書(詞書)はポイント落ちであるが、同ポイントで示した。但し、二字前書きの字空けは再現しなかった。句は一部で行空けせずに並んでいるが、一部を除き、原則、前後に一行空けを施した。一部で「!」の後に特異的に字空けを施した。なお、作者の雅号が記されてあるが、原本にはこれはない。底本「あとがき」の大谷氏の「あとがき」によれば、本篇への資料を提供した、俳人でもあった大谷氏(俳号は繞石)が記憶している限りを附したサーヴィスである。]

  

  小さな詩

  

       

 幾世紀のあひだ詩歌が感情的發言の一般の風習になつて居る國民のうちに在つては、その誰れもが抱いて居る人生の理想を高尙なものと、當然に我々は想像する。そんな國民の上流社會が、他の國民の上流社會と比べて、どんなに詰まらぬものであらうとも、その下流社會は、我々西洋の下流社會よりも、道德の點に於て且つ他の點に於て、進んで居ることは殆ど疑ふべくも無い。ところが日本國民は、實際にそんな社會現象を我々に見せて居るのである。

 詩歌は日本に於ては空氣の如くに普遍である。誰れも彼れもそれが判かる。誰れも彼れもそれを讀む。殆ど誰れも彼れも――階級と境遇の如何に拘らず――それを作る。又それは斯く其心的大氣に遍在な計りでは無い。それは到る處に耳にきこえ、また眼に見える

 耳に聽く詩はといふと、仕事のある處には何處にも歌の聲がする。野畠の勞役や街路の勞働は、吟誦する詩句の節奏に合はせて行ふ。それで、歌が蟬の生命の表現であるといふのと殆ど同じ意味に於て、唄が此の國民の生命の表現であるやうに思へるのである。……眼に見る詩はといふと、裝飾の一形式として――支那文字か日本文字かで――書いたり彫つたりしてあるのが到る處に見られる。幾千幾萬の住宅に、部屋を分かち押入を塞いで居る橫辷りの仕切(しきり)が、その表面に支那字か日本字かの裝飾的な文句を有つて居ることを觀らる〻であらう。ところがその文句は歌なのである。上流社會の家屋には、大抵はいくつものガク、卽ち、見る爲めに吊るしてある牌(ダブレツト)がある。一々みな、あらゆる意匠に、文字美しく書かれて居る詩句が載つて居るのである。が、歌は殆どどんな種類の家具にも――例を舉ぐれば、火鉢に、鐡鍋に、花瓶に、木盆に、漆器に、陶器に、上等な箸に、しかも小楊枝! にすら、――見出すことが出來る。店看板、壁板、戶襖、扇子には歌が彩色されて居る。手拭、反物、帳(カアテン)、ハンケチ、絹の裏地、婦人の縮緬の下着には歌が型で出してある。狀紙[やぶちゃん注:「じやうし」。便箋。]、封筒、財布、鏡入れ、旅行用手提[やぶちゃん注:「てさげ」。]には歌が捺したり縫つたりしてある。琺瑯質の器物には歌が象眼されて居り、銅の器物には歌が刻んであり、金屬(かね)の煙管には歌が彫つてあり、煙草入には歌が縫取にしてある。歌の文句がその裝飾になつて居る品物の十が一を數へ上げようとするも、望んで得べからざる舉であらう。多分我が讀者諸君は、歌を作つてその歌を花の咲いて居る木に吊るすのが風習の社交的會合のことを、――また、その節(せつ)[やぶちゃん注:「節句」。]には色紙(いろがみ)の細片に書いて細竹に結び附けた歌を路傍にすら――丁度それ程の小さな旗のやうに風に飜つて居るのを――見ることが出來る、或る星神(ほしがみ)の爲めのタナバタ祭のことを、知つて居られる。……恐らくは諸君は、其處に木も花も無い日本の小村へ行かれることはあらうが、其處に眼に見える詩歌が一つも無い小村へは決して行かる〻ことは無からう。眞(ほん)の茶は、金出しても何出しても、一パイも得ることの出來ぬ程の貧しい部落へ迷ひこまるることが――自分もしたやうに――あらう。が、其處に歌を作ることの出來る者が一人も居ない部落を諸君が發見し得られようとは自分は信ぜぬ。 

 

       

 近い頃、詩句を――多くはその性質の叙情的な或は描寫的な短い歌を――寫し集めたものを見返して居るうちに、その中から進んだものが、日本人が抱いて居る、世に餘り知られて居ない、美的表現の二三の說を說明すると同時に、兼ねてまた、日本人が有つて居る、感情の或る特性を說明する役に立ちはしまいか、といふ考が不圖自分に浮かんだので、――そこで早速この隨筆を試みることにした。自分の爲めに、時と處とを異にして、異つた人々が蒐めて吳れたその歌は、主として、特殊の場合に書かれたもので、それにまた西洋の詩形のうちのどんなものよりかも(また實際短いのであるがさうで無くとも)もつと隙間(すきま)無しの形式に鑄込んだ種類のものであつた。我が讀者諸君のうちで作詩の此の樣式に關して奇妙な事實が二つあることを知つて居らる〻方は多分少からうと思ふ。その二つの事實は、自分が蒐集した歌の來歷と文句とで――自分の飜譯では、形容の或は感情の、原作の效果を再現することは望めないけれども――例證されて居るのである。

 第一の奇妙な事實は、極(ごく)の昔時(むかし)からして、短い歌を作るといふ事は日本では唯だの文藝としてよりも、道德上の義務としての方が餘計なぐらゐに、實行され來たつて居るといふ事實である。昔時の倫理の敎(をしへ)は幾分斯ういつたやうなものであつた。卽ち、『お前は非常に腹が立つて居るのか。不親切な事は何も口に出さずに、歌を作れ。お前の最愛の人が亡くなつたのか。無益な悲歎に從はずに、歌を作つて心を和らげるやうにせよ。お前は、あんなにも多くの事を仕終へずに殘して死なうとして居るといふので心を惱ませて居るのか。心を雄々しくして、死ぬることを詠んだ歌を作れ。どんな不法やどんな不幸がお前の心を攪き[やぶちゃん注:「かき」。]亂しても、出來るだけ早くお前の憤慨なりお前の愁傷なりを棄てて、道德の訓練として、眞面目なそして高雅な歌をいくつか作れ』だからして、昔時は、あらゆる種類の心痛は、それぞれ歌に遭遇した。死別、別離、災難は、哀哭を喚ばず[やぶちゃん注:「さけばず」。]して詩歌を喚んだ[やぶちゃん注:個人的にここは「よんだ」と訓じておく。]。貞操を失はんよりは死をと欲した淑女は、己が喉を刺す前に歌を作つた。己が手で死ねと申し渡されたサムラヒは、ハラキリをする前に歌を書いた。この明治の浪漫的ならざる世に於てすら、自殺を決心した若人(わかうど)は、この世を去る前に歌を作るが習慣になつて居る。また不運な時に歌を詠むといふことは、今なほ立派に行はれて居る。自分は、困窮或は苦痛の最も耐へ難い境遇の下に在つて――否、死の床の上に在つてすら――歌が書かれたのを屢〻見聞した[やぶちゃん注:「みききした」。]。その歌は、假令(もし)や何等異常なる才能を示しはしなかつたにしても、少くとも苦痛の下に往つての自制の異常な實證を提供したものであつた。……確に倫理的實習として歌を作るといふこの事實は、日本の作詩作歌の法則に就いてこれまで書かれた一切の論說よりも一層大なる興味あるものである。 

 今一つの奇妙な事實は、ただ審美學說の一事實に過ぎぬ。今我々が考察して居るやうな種類の詩歌についての普通な藝術原理は、日本の繪畫說明の普通な原理と全然同一である。短い詩を作る人は、選み擇んだ[やぶちゃん注:「えらみえらんだ」。]數語を使用して、丁度畫工が筆を三筆四筆使つて爲し遂げようとすることをしよう――或る面影を或は或る氣分を喚起しよう――或る感じを或は或る情緖を復活させようと力めるのである。ところが此目的を完成する事は――詩人にもまた畫工にも――係かつて全く暗示する力量に、しかも暗示だけする力量に在る。春の朝の蒼い霧を透して、或は秋の午後の壯んな[やぶちゃん注:「さかんな」。]金色の光の下(もと)に、見た或る風景の記憶を復活させる考で描いたスケツチに、部分々々の精緻な描寫を試みようとすれば、日本畫工は非難を蒙ることであらう。其藝術の傳統に不實である計りでは無い。その爲めに必然的に自己の目的を打ち壞すことであらう。それと同じで、非常に短い詩に言辭の完備を企てたならば詩人は非難を蒙ることであらう。其目的は、想像力に滿足を與へはせずして、ただ想像力を刺激するだけでなければならぬのである。だから、詩人がその思想全部を述べて居る詩に對して――總てを述べて居るといふ意味での、『いつてしまつて居る』卽ち『みな無くなつて居る』といふ積りの――『イツタキリ』といふ言葉を、輕蔑的に使用する。言はずにある或る物が與へる身をの〻き[やぶちゃん注:「身慄(みをのの)き」で一語。]を、讀者の心に殘すやうな作品に、賞讃は取り除けて置いてあるのである。寺の鐘のただの一撞(ひとつき)のやうに、最良の短詩は、聞く人の心へ、永く繼續する幽玄な後音[やぶちゃん注:「のちのね」と訓じたい。]を、いくつもうんうん波打たせるものでなければならぬのである。

 

       

 が、日本の短い詩は日本の繪に似て居ると言へるといふその理由の爲めに、之を十分に理解するには、その詩が反映して居る生活を親しく知らなければならぬ。そしてそんな詩のうち情緖的な部類のものには殊に然りで、――その文字通りの飜譯は、大多數の場合、西洋人の心には殆ど何物をも意味しないことであらう。例を舉ぐれば、日本人の理解力には頗る哀れに感ぜられる小さな詩が一つある。 

 テフテフニ キヨネンシシタルツマコヒシ ( ? )

 [やぶちゃん注:漢字表記する。

 蝶蝶に去年死したる妻戀ひし

一部で、平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「日本雑録 他」所収の「小さな詩」)の表記を参考にさせて貰った(以下、同じ)。] 

 飜譯すれば『蝶が二つ! 去年自分のいとしの妻が死んだ』とただそれだけの意味に思へるであらう。蝶が幸福な結婚に關して有つて居る日本の可憐な象徵を知つて居り、結婚の贈物には大きな紙の蝶を一對(ヲタフ、メタフ)附けて送る古昔の習慣を知つて居なければ、この詩は屹度平凡以下のものと思はれることであらう。また、一大學々生の近作で、立派な判者が賞めて居る、 

 フルサトニフボアリ ムシノコヱゴヱ  紫袍郞 

[やぶちゃん注:同前。

 故里に父母あり蟲の聲聲

平井氏は上五を『ふるさとに』とひらがなにする。なお、作者「紫袍郞」は不詳。【2025年4月18日追記】資料を探したところ、『帝國文學』第三卷第三(明治二九(一八九六)年十一月一日発行)の「詞藻」パートに「俳句」として「紫袍郞」が載る(国立国会図書館デジタルコレクションのゆまに書房一九八五年刊の『明治雑誌目次総覧』第四巻)ことが判った。しかも、そこに並んで、前に「俳句」として「繞石」とあるのは、本訳者大石正信の俳号であるから、この刊行誌に、この句が掲載されている可能性が非常に高いと考えてよいと思う。また、同コレクションの検索結果(推測される原本は視認出来ない)から、彼は「筑波會」所属である可能性が高いこと、姓は、或いは、「渡邊」かも知れぬところまで判った。 

といふを取つて見る。『自分の故鄕に父母が居る――蟲の聲々』といふのである。この詩人は、この詩では田舍少年である。知らぬ野原で秋蟲の盛んな合奏を聽いて居る。その音が遠き故鄕とその双親との記憶を彼に復活するのである。……が此處に一つ、――文字通りに譯しては或は前のよりも一層曖曖昧なものになるけれども――前の標本のどれよりかも比較にならぬ程心を動かすのがある。 

 ミニシミルカゼヤ シヤウジニユビノアト ( ? )

 [やぶちゃん注:同前。以下、この注は外す。

 身に沁みる風や障子に指の跡

平井氏は『身にしみる風や障子に指のあと』とする。] 

 『嗚呼、身を貫くやうな風である! 障子にある小さな指が造つた、あの穴からのは!』……これは何を意味するか。死んだ子を悼んで居る母の悲みを意味して居るのである。シヤウジといふのは、日本の家では窓の用(よう)もし戶の用もし、明かりは十分に透すが、擦り硝子のやうに外から內が見えぬやうに隱し、そして風は入らさぬ、白紙貼りの輕い隔て物(スクリン)の名である。その軟らかい紙へ指を突込んで破るのを子供は面白がる。すれば風がその穴から吹き込む。この場合、風は實に寒く――その母の心の底へ――吹き込むのである。死んだその子の指が造つた小さな穴から吹き込むからである。 

 こんな詩の含蓄の意味を文字通りの飜譯に保たせることの不可能はこれで明瞭であらう。で、この方面で自分が企てることは、總てみな必然的にイツタキリにならねばならぬ。言うて無いことを言ひ現はさなければならぬからである。そして日本詩人が十七綴音乃至二十一綴音で言ひ得ることを、英語ではその倍以上の語數を要することもあらう。が、その事實は或は次記の感情表現の小原子に一層の面白味を加へることであらう。 

[やぶちゃん注:「小原子」原文“atoms of emotional expression”。「次の要素」でいいと思うのだが。

「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す。

 

   母の懷出

 冬の夜や遠くきこゆる咿唔の聲 ( ? ) 

[やぶちゃん注:「懷出」は「おもひで」。「咿唔」は「いご」と読み、本の音読や節をつけて詩文を朗読する声のことを指す語。] 

 

   春の記憶

 うつり香を軒端の梅にとどめ置きて

      きこえにし妹はいづちいにけん 豐川 

[やぶちゃん注:「豐川」不詳。] 

 

   別な信仰の空想

 墓訪へば杉に鳩鳴く暮の秋 ( ? ) 

[やぶちゃん注:前書の訳が甚だ判り難いが、原文は“FANCIES OF ANOTHER FAITH”で、これは句から見て、「亡き人のいる異界への空想」で、「冥途への想ひ」「あの世を想ひて」というような意味であろう。平井呈一氏は『冥界念想』と訳されておられる。にしても前書としては「ちょっとな」という感じがする。私はそれこそ「言ったきり」してしまった前書で極めて厭な印象である。] 

 

 風そよと墓石へ桐の一葉かな ( ? ) 

 

 ぬかづけば墓から蝶の舞ひあがる

 

   夜の墓地にて

 墓にそ〻ぐ水やむかしの月の影 ( ? ) 

 

   長き不在ののち

 廢園に月の昔を懷ふかな ( ? ) 

 

   海上の月

 海に入つて生れかはらばや朧月 ( ? ) 

 

   別れて後

 方角も知らぬ海なり春の月 ( ? ) 

 

   幸福な貧乏

 破れ窓もうれし梅が香風のまに ( ? ) 

 

   秋の思

 萩枯れて松蟲何を夢むらん   ( ? )

 秋行くと告ぐるにや鐘遠くより ( ? )

 ふるさとの木の蔭懷ふ秋の月  ( ? )

 

[やぶちゃん注:以上の三句は原本では“AUTUMN FANCIES”と複数形で、しかもご覧の通り(左ページ上部)、各句の頭に⑴・⑵・⑶と配されてあるので、特異的に行空けをせず、纏めて示した。但し、同一の人物の作とは限らず、寧ろ、別人の作を同部立てで集めて示したようにも感ぜられる。] 

 

   悲みの折蟬をきいて

 世の中は蟬の拔殼何と泣く ( ? ) 

 

   蟬の拔殼に

 歌に身を枯らす愚かや蟬の殼 ( ? ) 

 

   知の力の壯大

 濁れるも澄めるもともに容る〻こそ

          千尋の海の心なりけれ 

〔これは大學生の作。それ獨得の新しみがある〕 

 

   神道の畏敬心

 怒濤岩を嚙む我を神かと朧の夜  虛子 

[やぶちゃん注:句集「五百句」所収。明治二九(一八九六)年の作。] 

『神か』といふのは『死んだのか自分は? 自分は此荒凉たる中にただ魂として在るのか』といふのである。死んだ者はカミ卽ち神になつて、好んで幽靜な處に住むと考へられて居るのである。 

 

       

 上に飜譯したもの共は繪畫的以上である。情緖或は感情を幾分か仄めかして居るからである。が、さうでは無い、ただ繪畫的な詩は幾千となくある。その眞の目的を知らぬ讀者には、それは全くの無味なものに思はれることであらう。金玉の妙句が、ただ『水鳥の翼に夕日麗らかに』とか『我が庭の花咲きにけり蝶の飛ぶ』とかいふ意味のものと知り給ふと、裝飾的な詩に對する諸君の最初の興味は萎んでしまふであらう。でもこんな詩も、それ獨得の頗る眞實な價値があるのであり、日本人の美的感情と經驗とに親密な關係があるのである。唐紙や扇や盃の約のやうに、自然が與へた印象を呼び返して、旅行や巡禮の樂しかつた出來事を復活して、美しかつた日の記憶を喚起して、それ等はいづれも快感を與へるのである。それでこの平明な事實が十分に了解されると、近代の日本詩人が――大學敎育を受けて居るに拘らず――古代の詩風に頑固に執着するのが頗る尤もなことと思はれることであらう。 

 

  寂寞

 古寺や鐘もの言はず櫻散る  洒竹 

[やぶちゃん注:大野洒竹(しゃちく 明治五(一八七二)年~大正二(一九一三)年)は医師(開業医)で俳人。熊本県出身、本名は豊太。東京帝国大学医学部卒。明治二七(一八九四)年に佐々醒雪・笹川臨風らと筑波会を結成、明治二八(一八九五)年には尾崎紅葉・巌谷小波・森無黄・角田竹冷らとともに、正岡子規と並ぶ新派の「秋聲會」の創設に関わった。明治三〇(一八九七)年には森鷗外に先駆けて「ファウスト」の部分訳を公表してもいる。参照したウィキの「大野洒竹」によれば、『古俳諧を研究し、古俳書の収集にも熱心であり、「天下の俳書の七分は我が手に帰せり」と誇ったという』。約四千冊に及んだ『蔵書は』現在、『東京大学総合図書館の所蔵となって』おり、『洒竹のコレクションは同図書館の竹冷の蔵書とあわせ』、『「洒竹・竹冷文庫」として、「柿衞文庫」、天理大学附属天理図書館「綿屋文庫」とともに三大俳諧コレクションと評価されている』。『妻は岸田吟香の娘(劉生の姉)』、『従兄に戸川秋骨』(本原本「小泉八雲全集」の訳者の一人である)『がいる』とある。明治二九(一九〇二)年発表の蕪村の評伝「與謝蕪村」などもある。]

 

   寺に一夜過ごしての朝

 山寺の紙帳明け行く瀧の音  悠々

 [やぶちゃん注:【2025年4月18日改稿】元の注では人物を誤っていたので、改稿した。石川県出身のジャーナリスト・評論家の桐生悠々(きりゅうゆうゆう 明治六(一八七三)年~昭和一六(一九四一)年)。本名は桐生政次(まさじ)。当該ウィキによれば、『明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説』「關東防空大演習を嗤(わら)ふ」『は、当時にあって日本の都市防空の脆弱性を正確に指摘したことで知られる』とあった。この句は、文学青年時代にものした俳句の一つ。国立国会図書館デジタルコレクションの「桐生悠々自伝」のここで確認した。] 

 

  冬景

 雪の村鷄啼いて明け白し   曉石 

[やぶちゃん注:「曉石」訳者大谷正信の俳号。] 

 

 自分のこの詩の無駄口は、別な句集から――或る意味では同じく繪畫的であるが、主として巧妙といふ點で著しい――卽吟の二珍品を揭げて終はることとしよう。最初のは古い句で、有名な女詩人千代の作と稱せられて居るものである。千代は、四角と三角と圓とを讀み込んだ十七綴音の詩を作れと促されて、卽座に 

 蚊帳の手を一つはづして月見かな 

と應じたといふことである。四隅とも索で吊るしてある蚊帳の上部は四角である。一と隅外づせば四角が三角になる。そして月に圓である。

[やぶちゃん注:加賀千代女(元禄一六(一七〇三)年~安永四(一七七五)年)は加賀の松任(まっとう)の表具屋福増屋六左衛門(一説に六兵衛)の娘。美人の誉れが高かった。五十一歳頃に剃髪して千代尼と呼ばれた。半睡・支考・廬元坊らの教えを受けた。通説では十八歳の頃に金沢藩の足軽福岡弥八に嫁し、一子をもうけたが、夫や子に死別して松任に帰ったとも、結婚しなかったという説もある。本浄氏のブログ「歴史散歩とサイエンスの話題」のこちらによれば、ある時、『加賀のお殿様(第』十『代藩主前田重教?)が、女流俳人として名高い千代女の噂を耳にして、金沢城に召し出させた』際に、『お殿様は千代女の俳人としての才能をためそうと、「一句のなかに四角と三角と丸を詠(よ)み込んで見よ」、と難問をお出しになったところ、千代女は一呼吸おいて』、『「蚊帳のなか(□) ひと角はずして(△) 月をみる(○)」、(蚊帳の環一つはずして月見かな、禅林世語集(ぜんりんせごしゅう)に出ている)、と詠み上げ、お殿様は千代女の当意即妙な受け答えに感嘆の声を上げた』とある。但し、これ、如何にも作った話柄という感じのするエピソードの嫌いを免れないと思われる(二種の江戸期の句集を縦覧したが、この句は所収されていなかった)。なお、そちらには宝暦一三(一七六三)年のこと、第十代『加賀藩主前田重教の命を受け、千代女』六十一歳の時、『第』十一『次朝鮮通信』使『の来日の時の献上句(扇子や軸に』二十一『句)は、加賀の千代女の名を全国に轟かせ、その後の逸話、俗説、口伝などが生まれる基になり』、『これは、日本の俳句が海外に伝えられた初めての例とされてい』るとあった。なお、原本には、この句の示す意味を解らせるための蚊帳の図が、この附近に載る。原本よるトリミングし、補正を加えて以下に示しておく。

Kaya

 今一つの珍品は、十七綴音の一句で、極端な貧窮を――恐らくはその流浪學生のすばらしい困苦を――描かうとした近い頃の卽吟である。これに修正を加へることが出來るかどうか、自分は頗る疑はしく思ふものである。 

 盜んだる案山子の笠に雨急なり  虛子 

[やぶちゃん注:句集「五百句」所収。明治二九(一八九六)年の作。]

小泉八雲 吠 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Ululation (人間では「号泣」であるが、動詞形の「Ululate」は「犬や狼などが)吠える・梟がホーホーと鳴く」の意がある)は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN (「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の第八話。本作品集は“Internet Archive”こちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”こちらで全篇が読める。平井呈一氏は恒文社版で標題を『犬の遠ぼえ』とされておられる。田部氏が、何んと読んだか判らないが、音読みするなら、「ハイ」或いは「バイ」である。「はい」でも、なんとなくしっくりこない(「ばい」は生理的に厭だ)。やはり、訓の「ほえ」でいいだろうと思う。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月18日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。]

 

 

   

 

 彼女は狼のやうに瘦せて、そして甚だ老年である、――それは夜になると私の門の番をする白い牝犬の事である。彼女は近所の大槪の靑年男女が未だ小さい時に一緖に遊んだ。私が現在の家に移つた日に、その家を彼女が番して居るのを見た。彼女はこれまでの借家人の幾人かのために、續いて家の番を務めて居る事を聞いた、――別に理由はない、ただ彼女はこの家のうしろの炭納屋[やぶちゃん注:「すみなや」。]に生れたと云ふだけの事である。彼女は待遇の如何に拘らず、時計のやうに正確にその借家人に奉仕した。報酬としての食物の問題は、ひどく彼女を惱ます事はなかつた、實は、その町の大槪の家では彼女を養ふために每日それぞれの事をしてゐたからであつた。

 彼女はおとなしくて靜かである、――少くとも晝は靜かである、そして彼女は瘦せて醜く、尖つた耳、餘程氣味の惡い眼をして居るにも拘らず、誰でも彼女を好いて居る。子供等は背中に乘る、そして好きなやうに彼女をいぢめる、知らない人なら氣味惡がらせると云ふ事だが、子供に對しては決して怒らない。彼女の我慢强いおとなしさの報いとして、彼女はこの町の人々の好意を得て居る。一度彼女は公けに撲殺されかかつた事があつた。その時鍛冶屋の妻が驅けつけて、そのかかりの巡査と談判して、首尾よく助けてやつた。『誰かの名前をつけて置きなさい』巡査は云つた、『さうすれば安全です。誰の犬ですか』その問題は中々むつかしくて答へられなかつた。この犬は誰の物でもあり、又誰の物でもない――どこででも歡迎されるが、どこにも持主はない。『しかしどこに居るのです』困つた巡査は問うた。『あの西洋人のうちにゐます』鍛冶屋の妻は云つた。「それならその西洋人の名を犬につけて置くさ』巡査は敎へた。

 そこで私は大きな日本文で私の名を犬の背中に書かせた。しかし近所の人々は一つの名では充分安心ができなかつた。そこで瘤寺(こぶでら)の僧は左の方へ寺の名を見事な漢字で書いた、それから鍛冶屋は右の方へ彼の店の名を書いた、そして八百屋は彼女の胸に、――八百或はそれ以上の色々違つた物を賣る事になつて居るので呼ばれて居る言葉の――『八百』と云ふ文字を書いた。それで今では彼女は甚だ妙な樣子の犬になつた、しかしその文字で彼女は充分に保護されて居る。

[やぶちゃん注:「私は大きな日本文で私の名を犬の背中に書かせた」彼の帰化手続が完了して「小泉八雲」と正式に改名したのは、明治二九(一八九六)年二月十日のことであるから、当然、「小泉八雲」、恐らくは「八雲」と書いたものと思われる。

「瘤寺」現在の新宿区富久町(とみひさちょう)にある天台宗鎮護山圓融寺自證院(グーグル・マップ・データ)の通称。小泉八雲旧居の北西直近で、八雲が好んで散策した寺でもある。いつもお世話になる松長哲聖氏のサイト「猫の足あと」の同寺の解説によれば、『自證院の創建年代等は不詳ながら、日蓮宗法常寺と号していた』。『尾張藩主徳川光友の夫人千代姫の母(自證院殿光山暁桂大姉)』『が当寺に葬送されたことから』、寛永一七(一六四〇)年、『本理山自証寺と改めて』、『日須上人が開山』したが、寛文五(一六五五)年の『日蓮宗不受不施派の禁令により、天台宗に改め、輪王寺の院室と成ったと』される。『江戸時代には寺領』二百『石の御朱印状を拝領していた他、伽藍は節目の多い材木を使用していたことから』、「ふし寺」「瘤寺」と『呼ばれてい』たとある。但し、書かれた文字は「圓融寺」であったか、「節寺」「瘤寺」であったかは分からない。思うに、いろいろ考慮すると、後者の「節寺」か、とは思う。]

 

 彼女にただ一つ缺陷がある、彼女は夜吠える。吠える事は彼女に取つて氣の毒にも僅かしかない樂しみのうちの一つである。始めのうち、その習慣を止めさせやうとして嚇かして見た、しかし彼女は本氣にしないやうだから、私は結局そのままにして置いた。彼女を打つ事は餘りひどかつたらうから。

 しかし私はその吠を憎む。いつでも魘される[やぶちゃん注:「うなされる」。]時の恐怖の始めに來る不安のやうな、一種おぼろげな不安を私に與へる。それが私を恐れさせる、――何となしに、迷信的に恐れさせる。恐らく私の書いて居る事が讀者に可笑(をか)しくも思はれよう、しかしもし讀者がその吠を一度聞いたら私の云ふ事を可笑しいとは思はないだらう。彼女は普通の町の犬のやうには吠えない。彼女はもつと遙かに狼に近いどこか北方のもつと野蠻な種族から來て居る、そして甚だ特別な種類の野性を帶びて居る。そしてその吠は又奇態である。歐洲のどんな犬の吠えやうとも比べられない程物すごい、そして私はそれが比べられない程古いと想像する。それは數百年の馴養[やぶちゃん注:「じゆんやう」。動物を飼い馴らして育てること。]によつて全然修正されてゐない彼女の種族の元來の原始的な叫びを代表して居るのかも知れない。

 それは惡い夢の呻きのやうな窒息するやうな呻きから始まつて、――風の哀音のやうな長い長い哀音に上つて[やぶちゃん注:「あがつて」と読んでおく。]、――震へながら低くなつて盜笑[やぶちゃん注:「ぬすみわらひ」。忍び笑い。くすくす笑い。]になる、――再び哀音、前よりも遙かに高い烈しい哀音になる、――突然物すごい笑のやうな物になつて破裂する、――それから最後に小さい子供の泣き聲のやうな哀哭になつて細くなる。このうちで氣味の惡いところは重に――全部ではないが――哀音の樣子の憐むべき苦しさと對照になつて居る笑ふやうな調子の物すごい嘲弄に存する、その不釣合なところは狂氣を思はせる。それで私はこの動物の魂に、それに相應な不釣合の存する事を想像する。私は彼女が私を愛して居る事を知つて居る、――一刻の猶豫もなく私のためにその哀れな生命を捨てる事も知つて居る、私が死ぬやうな事があつたら、彼女が悲しむ事も信じて居る。しかしその事について外の犬のやうな、――たとへば、垂れた耳の犬のやうな、――考へ方はしないだらう。彼女は餘りに甚しく自然に近いから、考へ方も違ふ。どこか淋しいところで、私の死體だけと一緖に居るやうな事があつたら、彼女は先づ始めに自分の友人のために盛んに歎くだらう、しかし、この義務が終つたら、今度はこの上もなく最も簡單な方法で、――それを喰ふ事で、――彼女のその長い狼の齒でその骨を嚙み碎いて、――彼の悲哀を和らげに取りかかるだらう。それから、何等良心に疚しい[やぶちゃん注:「やましい」。]ところもなく、彼女は坐つて、月に向つて彼女の祖先から遺傳した葬ひの叫びをあげるだらう。

 その叫びは私に奇態な恐怖と同樣に、奇態な好奇心を起させる、――そのわけは、そのうちにいつでも同じ連續の順序でくりかへし起つて來て、特別の形の動物の言葉、――特別の觀念、――を表はして居るに相違ない、或異常な母音の集まりがあるからである。全體は一つの歌、――人間のではないから、人間には想像ができない情緖と思想の歌である。しかし外の犬にはその意味が分る、そして數哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは一・六〇九キロメートルであるから、六掛けで九キロ半越えほどとなる。]の夜を距てて[やぶちゃん注:「へだてて」。]返事をする、――時として、それが餘り遠くから來るので、私は極度に耳をすまして始めてそのかすかな返事が分る事がある。言葉は――(もしそれを言葉と云へるなら)――甚だ少い、しかし、その情緖的効果から判斷すれば、それには澤山の意味があるに相違ない。必ずや、それは數萬年の古い物――鈍い人間の感覺には分らない香ひや、蒸發や、流入と流出に關する物、――それから又、衝動、大きな月の光で犬の靈魂の中に動く名のない衝動、――を意味するのである。

 

 私共が犬の感覺、――犬の情緖と觀念を知る事ができたら、私共はその情緖槪念の性格と、その動物の吠によつて起る特殊の不安の性格との間の不思議な關係を發見するだらう。しかし犬の感性と人間のそれとは全く違つて居るから、私共は決して本當に知る事はない。ただ私共は、極めてぼんやりと、私共の心に起る不安の意味を推量する事ができる。その長い叫びのうちの或調子、――そしてその調子のうちの最も物すごい物は、――奇妙に苦痛と恐怖を訴へる人間の聲の音調に似て居る。それから、その叫びの音その物が、非常に離れた或時代に、人間の想像に於て、特別な恐怖の印象と聯想されてゐた事を信ずべき理由がある。殆んど凡ての國々で(日本も含んで)犬の吠えるのは、人間には見えない物、そして恐ろしい物、――特に神々や幽靈、――が見えるからだとなつて居るのは、著しい事實である、――そしてこの迷信的信仰の一致は、その叫びによつて起される不安の分子は超自然の恐怖である事を暗示する。今日私共は見えない物を自覺的に恐れる事は止めた、――私共自らが超自然的であつて、――この感覺の生命を有する肉體と雖も、古い惡鬼の如何なる幽靈よりも遙かに靈的である事を知つて居る。しかし私共の心にやはり原始的恐怖の朧げな遺傳が眠つて居る、そして反響のやうに、夜吠えるその音のために眼をさます。

 

 人間の眼に見えない物を何でも、犬の感性が時として知覺する事があるが、私共の幽靈觀とは少しも似て居るわけはない。驚起哀泣の不可思議な原因は大槪見える物から來るのではなからう。犬は特別の視力を有して居ると想像するだけの解剖學的の理由はない。しかし犬の嗅覺器官は、人間の鼻よりも遙かにすぐれた能力のある事は明らかである。犬が超人間的知覺を有すると云ふ古い世界的信仰は事實によつて正當とされて居る信仰であつた、しかし、知覺は眼によるのでない。犬の吠が事實――昔、想像されたやうに――幽靈の恐怖の叫びであつたとすれば、その意味は必ず――『見える』でなく――『臭ふ』であらう。人間には見る事のできない物の形が、犬に見えると云ふ想像を正しいとする證據は何も存在しない。

 私の屋敷に居る白い動物の夜の遠吠を聞くと、彼女が何か實際恐ろしい物、――何か私共が道德的意識から遠ざけようとするが無駄である物、卽ち人生の食人鬼のやうな法則――を精神的に見て居るのではないかと訝らせる。否、彼女の叫びは單に犬の叫びではなく、人生の法則その物の聲、――無理解にも詩人によつて、愛のこもつた、慈悲に富んだ、神々しいと云はれて居るその自然の言葉その物であるやうに思はれる時がある。何か知られないやうな究極の方法で、或は神々しいかも知れないが、――しかしたしかに慈悲深くはない、さらに又一層愛のこもつた物でもない。ただ共食[やぶちゃん注:「ともぐひ」。]によつて生物は生存して居る。詩人の眼から見れば、愛、希望、記憶、向上の念のある私共の世界は美しく見えるかも知れない、しかし、人生はたえざる虐殺によつて養はれて居ると云ふ事實、――最もやさしい愛情も、最も氣高い熱情も、最も淸い理想も、肉を喰ひ血を飮む事によつて養はれねばならないと云ふ事實には何の美しいところもない。凡ての生命は自分を支へるために生命を貪食せねばならない。讀者は自分で神のやうだと考へたければ、考へでも宜しい、――しかし諸君はその法則に從はねばならない。或は好みによつては、菜食論者になつてもよい、それにも拘らず、諸君は感情と欲望を有する物を食はねばならない。水を飮んでも生物を呑まないわけには行かない。名前はいやだが、私共は要するに共食をする者である、――一切の生物は根本的に一つであるからである、そして私共は植物、魚、爬蟲類、鳥、哺乳動物、或は人間のうち、どの肉を食ふにしても、結局同一である、どんな動物でも、埋められてから或は燒かれてから、食はれる、――それも一度や二度ではない、――否、百度や千度や一萬度ではない。私共が動いて居る地、私共が生じて來た土を考へて見よ、――それから出て、そこへかへつて、私共の食物となる物を養ふために、朽ちて隱れて來たその消えた數十億の人類の事を考へて見よ。たえず私共は私共の種族の屍、――私共の昔のわが身の實質――を喰べる。

 しかし所謂無生物でも共食である。實質は實質を喰べる。水の一小滴のうちでも、原子は原子を喰べる。そのやうに廣大なる空間では天體は互に相食む[やぶちゃん注:「あひはむ」。]。星は世界をつくつて、それを食ふ、行星[やぶちゃん注:「かうせい」。惑星。]は彼等自らの月を消化する。一切の物は、決して終らないで、ただくりかへすばかりの貪食である。そしてこんな事を考へて居る人に取つては、この宇宙は親の愛によつて造られ支配される神々しい物であると云ふ話は、死人の魂は神々によつて喰はれると云ふポリネシヤの話よりも有難味が少い。

[やぶちゃん注:ポリネシアでは古え人を生贄としたことは知っているが、不学にして、人の魂が神々に食われるという死生観は知らなかった。]

 この法則はひどいやうに思はれるのは、私共はこの惡魔のやうな自然に反對する思想情操を發達して來たからである、――丁度有意的運動が重力の盲目的な力に反對するやうである。しかしこんな思想や感情をもつて居る事が、その最後の問題の暗黑な事を少しも減じないで、かへつて私共の地位の物すごさを增すばかりである。

 とにかく東洋の信仰は西洋の信仰よりも、その問題を一層よく解決する。佛敎徒に取つては宇宙は少しも神聖ではない――全く反對である。それは[やぶちゃん注:「ごふ(ごう)」。]である、――それは誤りの思想と行爲の創造した物である、――それは何等神意によつて支配されてゐない、――それは物すごき物、魘される物である。同時に又迷[やぶちゃん注:「まよひ」。]である。恐ろしい夢のうちの形や苦痛が、夢見る人に取つて事實らしく見えると同じ道理で、それがただ事實に見えるのである。この世に於ける私共の生命は眠りの狀態である。しかし私共は全く眠る事はない。私共の暗黑のうちに光はある、――憐み同情仁愛と云ふかすかな極光に似た目醍めがある、これは私情を離れた誠の物である、――これは永久の神聖な物である、――これは四つの無限大の感情で、その夕燒のうちに、日光の中の霧のやうに、凡ての形や迷が皆消えるのである。しかし、その感情に目醒める場合を除いて、私共は全く夢を見る者である、――暗黑のうちで助けられないで呻いて、――影の恐怖のために苦しめられて居る。私共の悉くは夢を見て居る、全く醒めて居る者は一人もない、そして世の中の賢者として通つて居る多くの人々は、夜になると吠える私の犬よりも、この事實を知つて居る事は少い程である。

 

 私の犬が物を云ふ事ができたら、どんな哲學者でも返事のできないやうな質問をするだらうと私は思ふ。彼女は生存の苦痛によつて苦しめられて居ると私は信ずる。勿論私はその謎が私共に現れるやうに彼女に現れると云ふ意味で云つてはゐない、――私共自身のやうな精神上の過程で、何かの抽象的結論に達する事ができると云ふ意味でもない。彼女に取つて外界は『香ひの連續』である。彼女は香ひで考へ、比較し、記憶し、推理する。香ひによつて、彼女は性格の評價をする、凡て彼女の判斷は香ひに基づいて居る。私共が少しも嗅ぐ事のできない數千の物を嗅いで、私共には見當もつかないやうな風に、それを會得して居るに相違ない。彼女の知れる如何なる物も、全然想像のできない種類の精神上の作用によつて學ばれたのである。しかし彼女は食ふ事の經驗或は食はれる事の本能的恐怖と香ひの關係によつて大槪の物について考へて居る事を可なりたしかに信じてもよい。たしかに彼女は私共の蹈む地球について、私共が知つて居る方がよいと思ふ事以上の知識をもつて居る。そして恐らく、もし話す事ができたら、彼女は空氣と水の最も珍らしい話を私共に物語るだらう。こんなに恐るべく透徹した感性力を幸にも、或は不幸にももつて居るので、彼女の外界の實在に關する見解は非常に沈痛な物であるに相違ない。こんな世界の上に輝く月を見て彼女が吠えるのは殆んど不思議ではない。

 それでも彼女は、佛敎の意味から云へば、私共の多數よりももつと醒めて居る。彼女は粗末ながら道德法をもつて居る。それは忠實、服從、柔順、感謝、それから母性愛、それから色々の行爲の小さい規則を敎へて居る、――そしてこの簡單なる道德法を彼女はいつでも守つて居る。僧侶から見れば、彼女は人間の知るべき事を知らないから、彼女の境涯は心の暗黑の境遇と云はれる、しかし彼女の光明に隨つて、彼女は來世にはもつとよい境遇に生れ變つて來る價値のある事を充分して來た。彼女を知つて居る人々は皆さう考へる。彼女が死ぬ時には、人々は葬式をして彼女の魂のために經を讀んでくれよう。瘤寺(こぶでら)の僧は境內のどこかに墓をつくつて、その上に『如是畜生發菩提心』と云ふ文句を書いた小さい卒塔婆をたててくれるであらう。 

[やぶちゃん注:なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三一(一八九八)年三月の執筆とある。因みに、本篇から連想される方もおられようかとも思うので蛇足して言っておくと、萩原朔太郎の第一詩集「月に吠える」の刊行は大正六(一九一七)年刊であって、本書刊行から遙か十八年後のことである。この当時の朔太郎は未だ十三歳、師範学校附属小学校高等科の孤独で偏屈な生徒であり、文学の「ぶ」の字も芽生えてはいなかったのである。

2019/11/04

小泉八雲 佛足石 (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Footprints of the Buddha 。「ブッダ(釈迦)の蹠(あうら)の跡」)は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN (「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の第七話目に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”こちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”こちらで全篇が読める。なお、この前にある田部隆次氏訳の「惡因緣」(原題“ A Passional Karma ”。「情念の因縁」)は既に単発で、『小泉八雲 惡因緣 (田部隆次譯) 附・「夜窓鬼談」の「牡丹燈」』として電子化注を終わっている。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月18日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 原「註」は底本では四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで引き上げた。また、本篇には二葉の仏足石の図が載り、底本にもそれが示されてあるが、底本は画像が不鮮明なので、“Internet Archive”の原本のPDF画像からトリミングし、影がある部分は補正を加えて見易くして、私が適切と判断した位置(底本では挿入位置が甚だ悪い)に挿入した(もしかすると、この画像、如何なる出版物のそれより、鮮明かも!)。なお、この挿絵については、訳者の大谷氏が底本の「あとがき」で、『傳通院の佛足跡は、譯者自ら鉛筆を用ひて石刷にしたのを縮寫したもの、『諸囘向寶鑑』のは、透き寫しにしたものである』と記しておられる。★【2025年4月18日追記】以上の本文新底本の同巻は、著作権存続である『送信サービスで閲覧可能』『国立国会図書館内/図書館・個人送信限定』であるため(思うに、この国立国会図書館デジタルコレクション(旧「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」)に最初に公開された際には、どこかの記載者・訳者の著作権が存続していたため――確実と思われる一つは巻末に貼付けられてある『月報』と思われる。冒頭の「邦譯小泉八雲全集に就て」の筆者佐藤春夫は公開当時は著作権継続であったから)、許可を得ないと画像の転載は出来ない。従って、不本意ながら、本篇中の画像を(二箇所ある。ここと、ここである)転写することは出来ない。しかし、上記で述べた通り、モノクロームの“Internet Archive”版の方が、圧倒的に『鮮明』であるから、八雲先生も肯んじて貰えるものと信ずる。

 

 

  佛 足 石

 

 大英國博物館所藏日本及び支那繪畫のアンダスンの目錄に、『日本にては彌陀の像が、アムラヷアティ遺跡並びに他の多くの印度の藝述遺物に見るが如くに、足卽ち脚のみにては決して表はされ居らざることは注目すべきことなり』といふ異常な記述があるのを見て、自分は近頃一驚を喫した。實際の處さういふ表象は日本には稀でも無いのである。石造紀念碑にも見出される計りで無く、宗敎的繪畫――殊に寺院で懸ける或る種のカケモノ――にも見出される。そんなカケモノは通例は足跡を――夥多[やぶちゃん注:「あまた」。]の象徵並びに文字と共に――大規模に見せて居る。彫刻されて居るのは、これほどに普通では無いかも知れぬ。が、東京だけにも、自分が見たブツソクセキ卽ち『佛足石』は澤山にある――自分が見て居ないものが多分數々あらう。兩國橋近くの囘向院に一つ、小石川の傳通院に一つ、淺草の傳法院に一つ、それから芝の增上寺に美くしい實例が一つある。此等はいづれもただの一個の切石を切つたのでは無くて、幾つかの小石をセメントで結合して不規則な傳統的恰好にして、その上へ根府川石の重い扁石[やぶちゃん注:「へんせき」。平たい石。]を載せ、その磨いた表面に、深さ一吋[やぶちゃん注:「インチ」。]の十分の一[やぶちゃん注:二・五四ミリメートル。]ばかりに線でその模樣が彫つてあるのである。自分の判斷では、その臺石の平均の高さは二四吋[やぶちゃん注:「呎」は「フィート」。約七十一センチメートル。]ぐらゐで、その一番長い直徑が三呎[やぶちゃん注:約九十一・四センチメートル。]ぐらゐと思ふ。その足蹟のぐるりに(上記の實例の多くのものには)ボダイジユ(『ボディドルマ』)卽ち佛敎傳說の菩提樹の葉と莟との小さな總(ふさ)が十二彫つてある。いづれのものにも足跡の模樣は大抵同一である。が、その記念碑は質に於てまた仕上(しあげ)に於て異つて居る。增上寺の――その側面に淺い浮彫で佛體が彫つてあるの――は、四つのうちで一番飾の多い價の高いものである。囘向院にある見本は甚だ拙くて[やぶちゃん注:「つたなくて」。]質素である。

[やぶちゃん注:「佛足石」ウィキの「仏足石」を引いておく。『仏足石(ぶっそくせき)は、釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの』で、『古いものは紀元前』四『世紀に遡るとも考えられている』。但し、『仏足石は釈迦のものとは限らず、シバ神の足跡も信仰の対象とされている。両足を揃えたものがより古い形式のもので、片足のものは比較的新しく紀元後のものと考えられる。実際の足跡ではなく三十二相八十種好』(同ウィキへのリンク)『の説にもとづいて、足下安平立相、足下二輪相』『などが刻まれていることが多い。古代インドでは像を造る習慣がなかったため、このような仏足石や菩提樹などを用いて、釈迦やブッダを表現した』。『足下安平立相(そくげあんびょうりゅうそう)』は、『足が大きく平らで、土踏まずがないという特徴がある。より古い形式では何も模様がかかれていないことが多い』。『足下二輪相(そくげにりんそう)』は、『足のほぼ中央に二重の輪が画かれ、そこから放射状に線が画かれる』。『長指相(ちょうしそう)』は、『仏陀は手の指も足の指も長かったとされ、足跡の指も長く画かれる』。『手足指網相(しゅそくしまんそう)』は、『指と指の間に水かきのような網があったとされている。仏足石では、魚の絵で網を表している』。『日本には奈良時代に唐を経て伝わっ』ており、『特に奈良薬師寺にあるものが有名である。この薬師寺のものは』、天平勝宝五(七五三)年に『天武天皇の孫文屋智努』(ふんやのちぬ)『(=智努王)によってつくられた日本最古のものである。同じ薬師寺には仏を礼賛した仏足石歌』二十一『首(「恭仏跡」』十七『首・「呵責生死」』四『首)が刻まれた仏足跡歌碑がある。この仏足跡歌碑に刻まれた歌は、五・七・五・七・七・七の』六『句からなり、記録に残る歌で』、『この歌体による和歌は、この歌碑に刻まれたものがほとんどであることから』「仏足石歌体」と呼ばれる。『薬師寺のものも世間的にはあまり著名ではない時代が続いたが、江戸時代に出版された書にその模写が載って知られるようになり、以降』、『全国各地に模倣品が作られるようになった。現在』、『存在するものはこの江戸から昭和初期に作られたもの、以降の時代に作られたもの、「インドの現地で新規に採録した」という触れ込みであるものなど、材質や大きさまで含めて』、『多種多彩である』(太字下線は私が附した)とある。則ち、日本於けるその信仰や一般の礼拝は江戸時代以降のかなり新しいものであるということである。ウィキ・コモンズのこちらで三十五枚の「仏足石」(外国の古い物多し)の画像が見られる。必見。

「アンダスン」イギリスの医師で日本美術のコレクターとして知られたウィリアム・アンダーソン(William Anderson 一八四二年~一九〇〇年)。ウィキの「ウィリアム・アンダーソン(医師)」によれば、一八七三(明治六)年に『日本海軍の招きで来日し、海軍軍医寮で海軍軍医教育に当たった』。一方で精力的に日本の美術作品を蒐集した。『ロンドン』『生まれ』で、『アバディーンなどで医学を学び、セント・トーマス病院』に勤務していたが、『日本海軍の招きで来日し、海軍軍医寮の解剖学、外科学の教授となり、軍医の養成を行った。後に日本政府から旭日章を受勲した』一八八〇(明治一三)年に『帰国し、セント・トーマス病院の外科医補になり、解剖学の上級教員にな』り、一八九一年に『ロイヤル・アカデミーの解剖学教授となった』。一八九八年には『被角血管腫の患者の報告したことでも知られ、この遺伝病のアンダーソン・ファブリー病(ファブリー病)』(Anderson–Fabry disease:指定難病の一つ。細胞内リソソーム(ライソゾーム)酵素の一つであるα-ガラクトシダーゼの活性が欠損若しくは低下して生じる遺伝性疾患。糖脂質代謝異常病。X連鎖遺伝形式の遺伝病であり、患者の殆んどは男性。全身の細胞に糖脂質が過剰に蓄積し、発見が遅れたり、適切な治療が行われないと、青年期から中年期にかけて腎臓・心臓・脳に関連疾患が出現して重症化する)『には、彼の名前がつけられている』。『この間』、『日本美術の収集を行い、多くの版画や画本を集め、その時代のヨーロッパで最も優れたコレクションをつくりあげた。後にこのコレクションは大英博物館に売却され』ている。また一八九一(明治二四)年に『ロンドン日本協会(The Japan Society of the UK)が設立されると、初代理事長となっ』てもいる。この「目錄」はロンドンのロングマンズ社(Longmans & Co.)から一八八六年に刊行された“ Descriptive and historical catalogue of a collection of Japanese and Chinese paintings in the British museum ”(「大英博物館所蔵の日本と中国の絵画コレクションの解説と編年的な目録」)のことであろう。

「アムラヷアティ遺跡」原文“Amravati remains” 。インドのほぼ中央に位置するアムラーワティー(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にある仏教遺跡。

「囘向院」歴史的仮名遣「ゑかうゐん」、現代仮名遣「えこういん」は、東京都墨田区両国にある浄土宗の諸宗山無縁寺回向院。創建は明暦三(一六五七)年。墨田区本所地域内に所在していることから「本所回向院」とも呼ばれる。仏足石は公式サイト内でも確認出来ない。

「傳通院」原文は“Dentu-In”で誤り。歴史的仮名遣「でんづうゐん」、現代仮名遣「でんづういん」が正しい。東京都文京区小石川にある浄土宗の無量山傳通院寿経寺(むりょうざんでんづういんじゅきょうじ)。応永二二(一四一五)年開山。公式サイト内のこちらに、以下の本文にも出る通り、明治一八(一八八五)年に『第六十六世泰成上人造立』になり、『法蔵地蔵尊の右手前にある』として写真もある。

「傳法院」歴史的仮名遣「でんぱふゐん」、現代仮名遣「でんぽういん」。「法」の歴史的仮名遣は通常使用の漢字の「法」は「はう」であるが、仏教用語の場合は「はふ」と厳然と読み分けている。東京都台東区浅草にある、もと天台宗で現在は聖観音宗(しょうかんのんしゅう)総本山の金竜山浅草寺(せんそうじ)の本坊。正式名は伝法心院(でんぽうしんいん)。仏足石はこちら(旅行サイトの画像)。

「增上寺」東京都港区芝公園にある浄土宗の三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)。仏足石はサイト「東京都港区の歴史」のこちらに画像が有る。解説に、これは当山第七十世の福田行誠上人の代に『山内宝松院松涛泰成上人の発願により』、明治一四(一八八一)年五月に『建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている』とある。

「根府川石」神奈川県小田原市根府川(ねぶかわ)に産する輝石安山岩の石材名。板状節理が発達し、敷石・石碑などによく利用される。「へげ石」とも呼ぶ。

「ボダイジユ(『ボディドルマ』)」“Bodai-ju ("Bodhidruma")”。釈迦が悟りを開いた所にあった木としての正統唯一のそれは、インドから東南アジアにかけて分布するイラクサ目クワ科イチジク属インドボダイジュ Ficus religiosa 。インドの国花。日本には植生しないが、ウィキの「インドボダイジュ」によれば、『耐寒性が弱く』、『元来は日本で育てるには温室が必要であるが、近年では地球温暖化の影響で、関東以南の温暖な地域では路地植えで越冬できたり、または鉢植えの観葉植物として出回っている』とある。古くから、その代用として寺院に多く植えられているのは、アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana であって、全くの別種であるので注意が必要。

 

 日本で出來た最初の佛足石は奈良の東大寺に建てられた物であつた。その模樣は支那にある、印度の原(もと)のを忠實に模したのだといふ、似寄つた記念碑に倣つたのであつた。この印度の原のものに關して、次記の傳說が或る古い佛書に戴つて居る。

[やぶちゃん注:現存しないか。]

 

註 その支那字の表題をセイ・ヰキ・キと發音する。「セイ・ヰキ」(西域)とは印度の日本古名であつた。だから此の表題は「印度についての書(ザ・ブツク・オブ・インデイア)」と譯してよからう。此書は西洋の讀者にはシ・ユ・キとして知られて居る書かと思ふ。

[やぶちゃん注:「大唐西域記」(だいとうさいいきき)唐代の僧玄奘の西域・インド旅行の見聞録。全十二巻。弟子の弁機の編録により、六四六年に成立した。地理・風俗・言語・仏教事情・産物・伝説などを、六二九年から六四五年までの遊歴の順に記したもの。同書は調べたところ、実際に英名“ Si-yu-ki ”(英訳では“ Great Tang Records on the Western Regions ”と長ったらしい)の書名を持ってもいる。

 以下の引用は底本ではポイント落ち三字下げ。]

 

摩揭陀國の精舍中に大石あり。如來履む所雙跡猶存す。其長さ尺有八寸、廣さ六寸に餘れり。兩跡共に輪相あり。十指皆花文を帶ぶ。光明時に照す。昔時、如來將に滅んとす。拘戶那に赴き、南の方を顧みて石上にして阿難に告ぐ。『我今最後に此足跡を留めん。此國の王にしてこの足跡を毀たんとするも決して全く毀たるゝことあらざるべし』げに今日に至るも毀たれざりき。嘗て佛法を惡みし王ありて、その石の頂を削りて、足跡を除かんとせしも、鑿り已れば文彩故の如かりき。

 

註 「尺有八寸」日本の尺寸は英國の呎吋より餘程長い。

[やぶちゃん注:推定で歴史的仮名遣で読みを補ったものを示す。送りがな・句読点を加えた。

   *

摩揭陀國(マカダこく)の精舍(しやうじや)中(ちゆう)に大石あり。如來、履(ふ)む所、雙跡(さうせき)、猶ほ、存す。其の長さ、尺有八寸[やぶちゃん注:五十四・五センチメートル。]、廣さ六寸[やぶちゃん注:約十八センチメートル。]に餘れり。兩跡、共に輪相(りんさう)あり。十指(じつし)、皆、花文(くわもん)を帶ぶ。光明(かうみやう)、時に照らす。昔時(せきじ)、如來[やぶちゃん注:ここは釈迦のこと。]、將(まさ)に滅(めつ)せんとす。拘戶那(クシナ)に赴き、南の方を顧みて、石上(せきじやう)にして、阿難(あなん)に告ぐ。『我、今、最後に、此の足跡を留(とど)めん。此國の王にして、この足跡を毀(こぼ)たんとするも、決して、全く、毀たるゝこと、あらざるべし。』。げに、今日(こんにち)に至るも、毀たれざりき。嘗つて佛法を惡(にく)みし王ありて、その石の頂きを削りて、足跡を除(のぞ)かんとせしも、鑿(き)り已(をは)れば、文彩(もんさい)、故(もと)の如(ごと)かりき。

  *

マガダ国(紀元前四一三年~紀元前三九五年)は古代インドの十六の大国の一つ。ナンダ朝のもとでガンジス川流域の諸王国を平定し、マウリヤ朝のもとでインド初の統一帝国を築いた。位置は参照したウィキの「マガダ国」の地図を見られたい。

「拘戶那(クシナ)」“ Kushina [Kusinârâ] ”。釈迦は四十五年の説教をして、紀元前四八六年に「くしながら(拘尸那掲羅)」の沙羅双樹の下で八十歳で亡くなったとされる。クシナガラ、或いは、クシナーラーは古代インドのガナ・サンガ国であったマッラ国(末羅国)の二大中心地の一つで西の中心地であり、現在のインドのウッタル・プラデーシュ州東端のカシア付近の村。釈尊入滅の地とされる。

「阿難(あなん)」「阿難陀」に同じ。アーナンダ。釈迦の十大弟子の一人で、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから、「多聞(たもん)第一」と称せられた。禅宗では迦葉の跡を継いで、仏法付法蔵の第三祖とされる。「阿難陀」は漢語意訳では「歡喜」「慶喜」とも漢訳される。]

 

 佛陀足跡の表象の德に就いては、時々『觀佛三昧經』から經語が引用されて居る。自分が譯して貰つたのは斯うである。

[やぶちゃん注:「觀佛三昧經」「觀佛三昧海經」全十巻。サンスクリット語・チベット語訳はなく、仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)による漢訳のみが現存する。釈迦の涅槃後、衆生のために釈尊の色身の観想・大慈悲に満ちた仏心と、仏の生涯の諸場面への念想・仏像の観察、さらに過去七仏及び十方仏の念仏などを説いたもの。観仏三昧に依って釈尊を中心とした諸仏との見仏を実現しようとする経典である。「観仏」の背景には「般若經」や「華嚴經」の思想や、唯心・如来蔵の思想が窺われるものである。]

 

その時釈迦〔シヤキヤムニ〕はその足を舉げぬ。……佛その足を舉ぐる時いづれも足下に千輻輪の相を視ることを得たり。……かくて釈迦は言ひぬ、『我が足の裏の千輻輪相を見んものは千劫極重惡罪を除かるべし。世を去つて後その跡を見ん者も千劫極重惡業を免るべし』

[やぶちゃん注:「千劫」仏教は極めて数理的に正確で、現行では四十三億二千万年を「一劫」とするから、十四兆三千二百億年となる。]

 

 日本佛敎の他の種々な經語も、誰れでも佛足跡を見る者は『罪業の紲[やぶちゃん注:「きづな」。]を免れて解脫の道に入らん』と附言して居る。

 

Busokuseki1

 

   東京小石川傳通院の佛足跡

[やぶちゃん注:以上は底本のキャプションであるが、縦書三行分かち書きであるのを、繋げて示した。]

 

 日本のの臺石の一つに彫つてある模樣の外形は、佛足跡の印度の彫刻を能く知つて居る人達にも、幾分の興味があるに相違無い。兩方の足跡を示し居る右の圖は、傳通院にある跡のを取つたもので、これはその傳說的な大いさを充分に有つて居る。

 

Busokuseki2

 

   釋尊足下千輻輪相圖

[やぶちゃん注:掲げた二番目の図版の底本での上に配されたキャプション。実際は右から左へ綴られてある。]

 

   (「諸囘向寳鑑」より)

[やぶちゃん注:掲げた二番目の図の底本の向かって右手に配された足の蹠(うら)の図の下方の縦書きキャプション。]

 

   卍字のある佛足跡

     (「佛敎百科全書」)

[やぶちゃん注:掲げた二番目の図の底本の向かって左手に配された足の蹠の図の下方の縦書きキャプション。]

 

註 奈良にある紀念碑に東京のの臺石にある模樣とは餘程異つた形に足跡が現はれてある。

[やぶちゃん注:「諸囘向寳鑑」「淨家諸囘向寳鑑」全五巻。表題には「淨土諸囘向寶鑑」とあり、内題では「淨家諸囘向寶鑑」と記し、著者は必夢、雅印に「讃誉龍山」と捺する。奥書は元禄一一(一六九八)年正月とある。宗門僧侶のために読誦すべき経や回向文を集録した書である。必夢は十七世紀頃(江戸初期)の学僧で、生没年は不明。僧名は讀譽龍山。増上寺に遊学の後、越前国敦賀江良の福伝寺に住した。★【2025年4月18日追記】国立国会図書館デジタルコレクションを捜したところ、大乗法友会編・諸迴向宝鑑刊行会一九七七年刊のここに仏足図を見出した。項目は「十三」の「釋尊下輻輪相圖」である。

「佛敎百科全書」既注。大分出身の真宗大谷派の僧長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗仏教百科全書」(開導書院・明治二三(一八九〇)年刊)。但し、これは江戸前期の真宗僧明伝(みょうでん 寛永九(一六三二)年~宝永六(一七〇九)年)の編になる「百通切紙」(全四巻。「浄土顕要鈔」とも称する。延宝九(一六八一)年成立、天和三(一六八三)年板行された。浄土真宗本願寺派の安心と行事について問答形式を以って百箇条で記述したもので、真宗の立場から浄土宗の教義と行事を対比していることから、その当時の浄土宗の法式と習俗などを知る重要な資料とされる)と、江戸後期の真宗僧で京の大行寺(だいぎょうじ)の、教団に二人しか存在しない学頭の一人であった博覧強記の学僧信暁僧都(安永二(一七七三年?~安政五(一八五八)年:「御勧章」や仏光版「教行信証」の開版もした)の没年板行の「山海里(さんかいり)」(全三十六巻)との二書を合わせて翻刻したもの。但し、標題を縦覧した限りでは見当たらない。発見し次第、追記する。【2025年4月18日追記】国立国会図書館デジタルコレクションを、再度、捜したところ、「佛敎百科全書」「第一卷」のここに仏足図を見出した。項目は「〇第百六十 釋迦如來も諸難を受けたまひし事」である。 

 表象は七つしか無いことが見られるであらう。日本では之を『シチサウ』――卽ち『七相』と呼んで居る。此等について自分は――淨土宗で用ひる書物の――『諸囘向寶鑑』で少しく知ることを得た。此の書には足跡の粗末な木版が載つて居る。それでその一つを、足の指に附いて居る表象の妙な形に注意を呼ぶ目的で、此處に轉載する。これはマンジ卽ち卍の變形だといふが、自分は之を疑ふ。佛足石の石刷では之に對應する象(かたち)は摩揭陀國の石の傳說に記載されて居る『花文』模樣を示して居る。だが書中の版畫の表象は火を思はせる。實際その外形は佛敎裝飾の因襲的な火炎模樣に如何にも能く似て居るから、足跡の傳統的な光明を原々[やぶちゃん注:「もともと」。]示すつもりであつたらう、と自分は考へざるを得ぬ。其上に、『法界次第』といふ書物に、此の想像に助を貸す文句がある。――

[やぶちゃん注:「法界次第」「法界次第初門」のこと。全六巻。隋の僧で天台宗の第三祖とされるものの実質的には開祖である智顗(ちぎ 五三八年~五九七年:慧思に師事して、天台山に籠って法華経の精神と竜樹の教学を中国独特の形に整序し、天台教学を確立した。隋の煬帝から信任され、智者の号を受けた。著に知られた「摩訶止観」がある。「天台大師」の称号を持つ)が、仏教の基本的な教理を法数に従って解釈した書。]

 

佛の足の裏は平らで、化粧臺の底のやうである。……その上に千幅の輪の觀を爲して居る條(すぢ)がある。……足の指は細く、圓く、長く、眞直で、や〻光を放つて居る

[やぶちゃん注:【2025年4月18日追記】国立国会図書館デジタルコレクションを調べたところ、「法界次第初門 卷之下 增補冠註」(第二版・小林是純註・千鍾房・明治二七(一八九四)年刊)のここで、当該部を発見した。下方の活字が大きいのが、本文で、右ページの「「一足安平如奩底。……」から左ページ本文が当該部。八雲は、そこからごく一部を参考にしたものである。

 

 『諸囘向寶鑑』が與へて居る七相の說明は滿足とは言はれぬ。が、日本の通俗佛敎に關して興味が無いでもない。その表象は次のやうな順序で考察されて居る。

[やぶちゃん注:以下の箇条書きは底本では、その全体が、初行の数字が一字下げ位置から始まり、二行目以降は総て三字下げとなって各項の中ではそれが維持される配字となっている。]

一、萬字(スワスチカ) 一々の足指のこの象(かたち)はマンジ(卍)の變形だといふ。そしていつも斯うなつて居るかどうかは自分は疑ふが、足跡を現はして居る或る大きな掛物では、此表象は確に卍字であつて、火炎でも花形でも無かつたことを自分は見た。日本の註解者は卍字は『永久の幸福』の徽號だと解く。

 

註 文字通では『萬の字』の徽號。

[やぶちゃん注:「文字通」書名ではない。「文字通り」の意であろう。]

 

二、魚 (ギヨ)[やぶちゃん注:これはルビではなく本文。] 魚はあらゆる束縛からの自由を意味する。恰も水中に在つて魚の容易に如何なる方向にも動くが如く、佛の境涯にあつては圓滿解脫の者は何等の束縛障礙のあることを知らぬ。

三、金剛杵 (『コンガウシヨ』梵語で『ヷジラ』)『現世の一切の煩惱を打破する』神聖な力を意味すと說明されて居る。

四、螺(日本語『ホラ』) 法を說くことの表號。『眞俗佛事編』といふ書には佛陀の聲の徽號としてある。『大悲經』では大乘敎理の說法と力との印としてある。『大日經』には斯う言つてある、――

[やぶちゃん注:「眞俗佛事編」江戸時代の僧侶子登の著。

「大悲經」全五巻。隋の那連提耶舎(なれんだいやしゃ)訳。仏が涅槃に臨んで法を梵天王・帝釈天、及び、弟子の迦葉・阿難に与え、滅後の法蔵伝持者を記て、舎利供養の功徳や滅後結集(けつじゅう)法を示したものという。

「大日經」大乗経典の一つ。全七巻。唐の善無畏が漢訳した。真言宗三部経の一つとされる。大毘盧遮那(だいびるしゃな)如来=大日如来が自由自在に活動し、説法する様を描いた経典。教理は第一章で、他は実践行の象徴的説明。この仏になるためには、悟りを求める心=菩提心を起こし、生きものをあわれみ(悲),その完全な実行(方便)をしなければならないとする(これを「三句の教え」と呼ぶ)。このため、護摩・曼荼羅・印相(いんぞう)などの秘儀の実践が詳述されている。本邦の天台宗でも重んじている。

 次の引用の一字下げはママ。後も同じ。二行に亙る場合は同じ位置まで下がるが、ここではそのままにした。]

 

 螺を吹く音を聞きて諸天悉く歡喜の念に滿ち、を聽かんとて集まり來る

 

五、花瓶(日本語『ハナガメ』) ムロの――文字通りには『無漏』と譯してよからう、生死を絕した最上智の境遇を意味する神祕な語の――表號。

六、千輻輪(梵語『チヤクラ』) 日本ではセンフクリンといふ此表象は、種々な引證文で珍な說明がされて居る。『法華文句』は

 

 車輪の效は或る物を破碎するにゐる。そして佛陀の敎法の效は一切の迷妄過失疑惑及び迷信を破碎するにある。かるが故に敎法を說くことをば『法輪を轉ず』と云ふ

 

と言つて居る。『正理論』は

 

 恰も世間の輪に轂輻ある如くに八支聖道彼に似たり

 

と言つて居る。

[やぶちゃん注:「チヤクラ」サンスクリット語で「円・円盤・車輪・轆轤(ろくろ)」を意味する語で、ヒンドゥー教のタントラやハタ・ヨーガ、仏教の後期密教では、人体の頭部・胸部・腹部などにあるとされる「中枢」を指す言葉として用いられる。「輪」と漢訳される。

「法華文句」「妙法蓮華經文句」の略称で法華三大部の一つ。隋の天台大師智顗(ちがい)が講義したものを、その弟子の灌頂が記録した書。全十巻。「法華經」の句を一つ一つ注釈する。その注釈の特色を四種 (因縁釈・約教釈・本迹釈・観心釈) に分類し、総称して「天台四釋」と称された。]

 

 車輪の效は或る物を破碎するにゐる。そして佛陀の敎法の效は一切の迷妄過失疑惑及び迷信を破碎するにある。かるが故に敎法を說くことをば『法輪を轉ず』と云ふ

[やぶちゃん注:この「車輪」は恐らく古代インドの武器としての鋭い突起を円周外に突き出した車輪状の武具に基づく(的に投げて相手を傷つける手裏剣様の投擲具)ものと思われる。鈷と同じく、仏教で降魔の呪具に転用されたものである。]

 

と言つて居る。『正理論』は

 

 恰も世間の輪に轂輻ある如くに八支聖道彼に似たり

 

と言つて居る。

[やぶちゃん注:「正理論」「因明入正理論(いんみょうにっしょうりろん)」か。サンスクリット名は音写で「ニヤーヤプラベーシャカ」。六世紀のインドの論理学者シャンカラスバーミンの著作え、陳那(じんな:ディグナーガ)の「因明正理門論」の内容を、初心者向けに平易に書き改めた簡明な入門書。参考底本書と同じく、論証及び知覚・推理・論難の三部よりなる。内容的には主張・証因」喩例の誤謬を十一、命名し、多少の新種を加えたもので、特に原拠からの理論的進展は見られない。但し、漢訳された数少ない仏教論理学書の中でも中国・日本に於いて多数の注釈書が著され、最もよく研究された書籍である。]

七、梵王冠佛陀の踵[やぶちゃん注:「きびす」。]の下に――佛陀は諸神諸佛に優るといふ表象に――ブラアマ(梵天王)の寶冠(ホウクワン)があるのである。

[やぶちゃん注:「梵王冠佛陀」ブッダの尊称であろう。

「ブラアマ(梵天王)」ヒンドゥー教の神の一柱。創造神であり、トリムルティ(最高神の三つの様相)の一存在。四つの顔を持ち、それぞれの顔は四方を向いているとされる。]

 

 然し自分は、このどんな佛足石にも彫つてあるものは、その表象の說明の上記の不完全な企より、もつと意味のあるものだといふことが分かるだらうと思ふ。傳通院の紀念碑の上に彫つてあるものは典型的である。臺石の異つた側面に、――頂上に近く、規則に從つて或る方位に向かはせて――胎藏界の五如來の徽號たる梵字が五つと、經語と記念の文句とが彫つてある。後者は自分が飜譯して貰つたのでは次記の如くである。

[やぶちゃん注:以下は以下の状態で底本では全体が三字下げである。一部で改行した。]

 

放光般若經云爾時世尊放足下千輻輪相光明乃至其見光明者畢志堅固發無上正眞道意。

觀佛三昧經云見佛跡者除却千劫極重惡業。

佛說無量壽經云

 佛所遊履 國邑丘聚 靡不蒙化 天下和順

 日月淸明 風雨以時 災厲不起 國豐民安

 兵戈無用 崇德興仁 務修禮讓

    〔左記[やぶちゃん注:以下。]は記念の文〕

  明治十八年五月闔山和合衆等造立佛足石一基

  安置傳通院大殿是欲盡未來際令大菩提種子增

  進佛道也

    當山第六十六世

         沙門安成謹記

         少苾莒循誘敬書

[やぶちゃん注:「放光般若經」「摩訶般若波羅蜜經」の無叉羅による訳「放光般若波羅蜜經」(二九一年成立)。

「觀佛三昧經」既注。

「無量壽經」浄土教の根本経典の「浄土三部經」の一つ。「大無量壽經」「大經」とも呼ぶ。三国時代の曹魏(二二〇年 ~二六五年)時代の中国の訳経僧康僧鎧(こう そうがい 生没年未詳)の訳。全二巻。サンスクリット語原典の他、チベット語訳・漢訳も現存する。漢訳は十二回も翻訳され、うち五本が現存する。内容は四十八誓願を成就した無量寿 (阿弥陀) 仏の修行と、その果報、及び衆生が念仏を唱えて極楽浄土に往生することが出来る因果を説く。

 後の「記」「書」に出る人物は興味が湧かないので、注さない。]

 

       二

 この彫られた足跡を――巨人の如く見えるが、然しこれがその表象として殘つて居る其人格を思へば遙かに小さな足跡を――想ふ時、不思議な事實が腦裡に集つて來る。二千四百年の古昔に、生の苦と神祕とに對する孤獨の瞑想よりして、一印度巡禮者の心が、人間がこれまで敎はつた最上の眞理を齎し、しかも科學無き時代に於て生の不可思議なる渾一と、物心二つの無限の虛妄と、宇宙の生死と、に關する我が現在の進化論的哲理の最上至極の知識とを先んじて述べたのであつた。彼は、純理によつて――しかも我々の時代の前には彼獨りが――何處よりか何處へか、また何故か、の問に價値ある答を見出した。そしてこの答を以てして、其祖先の信條とは別な一種より高尙な信仰をつくつた。彼は述べて而してその塵土に還つた。そして國人は、彼が敎へた慈悲心の故を以てして、その死んだ足の跡を崇拜した。其後亞歷山[やぶちゃん注:原文“Alexander”。「アレキサンダー」大王のこと。]の名が、また羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]の力が、また囘々敎[やぶちゃん注:「フイフイけう(きょう)」。原文“Islam”。イスラム教。]の力が、盛んとなつてそして衰へた。――幾多の國民は起こつてそして消えた。――幾多の市府は生じてそしてなくなつた。――羅馬の文明よりも巨大なる別な文明の子孫が、地球を征服を以て取り圍み、遠き彼方の幾多の帝國を創立し、終に巡禮者が誕生した國を支配するやうになつた。そして、二十四世紀間の智慧に豐富な此等の者共は、彼が使命の美しきに感嘆し、彼が言ひまた行つた總てをば、彼が生きて居て敎を說いた時代には生まれても居なかつた多くの國語で新しく書き記させるに至つた。今も猶ほ彼の足跡は東洋に燃えて居る。今も猶ほ大なる西洋は、驚き愕いて[やぶちゃん注:「おどろきおどろいて」。]、無上解脫の光明を求めんとその足跡の光を追うて居る。古昔、國王彌蘭(ミリンダ)が――初にはただ、希臘人の巧妙な法に倣つて、問ふ爲めにであつたが、後には、主(しゆ)のより高尙なる法を尊敬の念を以て受納しに――ナガセナの家に道を辿つたのは正に斯くの如くであつたらう。

[やぶちゃん注:「國王彌蘭(ミリンダ)」“Milinda”。仏典として伝えられる人物の一人であり、紀元前二世紀後半に、アフガニスタン・インド北部を支配したインド・グリーク朝のギリシャ人であるインド・グリーク朝の王メナンドロスⅠ世(ミリンダ王)。彼と比丘ナーガセーナ(那先:次注参照)の問答を記録したものが知られる。ウィキの「ミリンダ王の問い」を参照されたい。

「ナガセナ」“Nagasena”。紀元前二世紀頃のインドの仏教の僧。中インドに生まれ、「ミリンダ王の問い」又は「彌蘭陀王問經」として知られる仏典に於いて、アフガニスタン・インド北部を支配した王メナンドロスと問答を行ったことで知られる。この問答によって、ナーガセーナは「賢者の論」を以って、メナンドロス=ミリンダ王を仏教に帰依させたことで知られる。]

小泉八雲 蠶 (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Silkworms ”)は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN ”(「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の第五話目に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。言わずもがなであるが、「蠶」は「蚕(かひこ(かいこ))」の正字(旧字)である。蚕、則ち、鱗翅目カイコガ科カイコガ亜科カイコガ属カイコガ Bombyx mori の博物誌については、私の「和漢三才圖會卷第五十二 部 蠶」の私の注を参照されたい。なお、それは総論部で、その後に寺島良安は「白殭蠶(びやつきやうさん)」(白殭病(びゃくきょうびょう)に感染した蚕)・「原蠶(なつご)」「繭(まゆ)」「雪蠶(せつさん)」(実在は疑問。全くの他種の昆虫。或いは。その幼虫かも知れない。注で私が考証した)他、蚕ではない「水蠶」・「石蠶」「海蠶」とセットになっているのもあるので、見られたい。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月16日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 原「註」及び「譯者註」は底本では四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで引き上げた。また、本篇では、大谷氏は基本的に「蟲」ではなく、「虫」の字を用いつつも、時に「蟲」も用いている。それらの混在はママであるので注意されたい。

 

 

  

 

 

       

 古い日本の、否、寧ろ支那の、諺の中にある『蛾眉』といふ句の意味が自分には解らなかつた。それは『女の蛾眉は男の智慧を斷つ斧』といふのである。其處で自分は、蠶を飼うて居る新美(にひみ)といふ友人へ、說明を求めに行つた。

[やぶちゃん注:中国の諺にある、「蛾眉皓齒、伐性之斧」(がびかうし、ばつせいのおの)であろう。「蛾眉」は、蛾の触角のような眉という喩えで美人の眉、「皓齒」は白い輝く歯で、共に美人の女性の魅力を指し、所謂、「女色に溺れると、それは斧のように、男は正しき本性を致命的に断ってしまう」という誡めである。

「新美」小泉八雲の書生に、一高の学生であった新美資良(すけよし)がいるが(後に病死)、或いは、彼の実家かと思われる。]

 彼は頓狂な聲で『あなたは蠶の蛾を一度も御覽になつたことが無いのですか。蠶の蛾には非常に美くしい眉があります』と言つた。

 『眉が』と自分は驚いて質問した。

 『え〻』と新美は答へて『あなたは何と仰しやらうと、詩人はそれを眉と呼んでゐます。……一寸待つて下さい、御覽に入れませう』と言ふ。

 彼は客間を去つた。そして軈て[やぶちゃん注:「やがて」。]、蠶の蛾が一匹睡さうにそれに載つて居る、白い團扇を手にして歸つて來た。

 『私共はいつも五六匹は種を取る爲めに除(の)けて置きます』と彼は言ふのであつた。――『これは今、繭から出たばかりです。固より飛べません。飛べるのは一匹も居ません。……さ、眉を見て御覽なさい』

 自分は眺めた、そしてその頗る短いそして羽毛のやうな觸角が、本當に麗はしい一對の眉に見えるやうに、その天鵞絨[やぶちゃん注:「ビロード」或は「びろうど」。]のやうな頭の、寶玉を點に入れたやうな二つの眼の上に、弓と反りかへつて居るのを見た。

 それから新美はその蠶を見せに自分を連れて行つた。

 新美の近處には、桑の木が澤山あるので、蠶を飼うて居る家が多い。――世話したり物食はせたりは大抵は女や子供がするのである。蠶は、高さ三呎[やぶちゃん注:「フィート」。約九十一センチメートル。]許りの輕い木製の臺の上に揚げてある、楕圓形の大きな盆に入れてあつた。幾百もの幼虫が一つの盆の中で一緖に物を食うて居るのを見、其桑の葉を嚙みながら立てるサワサワと軟らかい紙のやうな音を聞くのは珍らしかつた。成熟期に近寄ると、殆ど絕え間無しに注意する要がある。間(あひだ)短く置いて或る老練家が經過を視に一々の盆を見舞つて、一番圓く肥えたのを拾ひ上げ、人差指と拇指との間でそつと轉がして、どれが紡ぐ用意が出來て居るかを見定める。それを蔽[やぶちゃん注:「おほひ」。]のある箱の中へ落とすと、直ぐと己が身を白い毧毛(わたげ)に卷き包んで見えなくなつてしまふ。そのうち最上なもの五六匹だけ――子を產ませに選擇されたものだけ――その絹の睡眠から出ることを許される。それは美くしい翅を有つては居るが、それを使用することは出來ぬ。口はあるが、物を食ふことはせぬ。ただ番つて[やぶちゃん注:「つがえて」。交尾して。]、卵を產んで、そして死ぬるだけである。幾千年の久しき、その種族は充分に大切に世話され來たつて居るので、もはや自分で自分の身の世話が出來ないやうになつて居るのである。

 

 新美とその(蠶を飼うて居る)弟とが、飼育の方法を親切に說明して居る間に、主として自分の心を占めてゐたのは、今最後に述べたその事實が示す進化論的敎訓であつた、二人は、種々な品種に就いて、また飼ふことの出來ない野生の二種類に就いて、いろいろ珍らしいことを自分に話した。この野生のは、或る目的の爲めにその翅を使用することの出來る、元氣な蛾にならないうちに、見事な絹を紡ぐといふ。が、自分は、その問題に興味を感じて居る者のやうな振る舞ひをしなかつたかと氣づかふ。といふのは、聰いてゐようとしながらも、自分は冥想を始めたからである。

[やぶちゃん注:少なくとも、ここで語られる新美兄弟の解説は――或いは、彼らにとっては、当たり前のことだったからだったからかも知れぬが――以上を一読する限りでは、やや不親切な感じがする。カイコガは「家蚕(かさん)」とも呼ばれるように、昆虫類では極めて珍しく

――完全に家畜化された昆虫

であり

――野生には生息しないこと――則ち――野生種のカイコガは存在しないこと――如何なる狭義のカイコガも――総て野生では生存・繁殖することは出来ない

という特異な性質が語られていないからである。ウィキの「カイコ」によれば、『カイコは、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、餌がなくなっても逃げ出さず、体色が目立つ白色であるなど、人間による管理なしでは生育することができない』。『カイコを野外の桑にとまらせても、ほぼ一昼夜のうちに捕食されるか、地面に落ち、全滅してしまう可能性がある。幼虫は腹脚の把握力が弱いため』、『樹木に自力で付着し続けることができず、風が吹いたりすると』、『容易に落下してしまう。成虫も翅はあるが、体が大きいことや飛翔に必要な筋肉が退化していることなどにより、羽ばたくことはできるが』、『飛ぶことはほぼできない』。『養蚕は少なくとも』五千『年の歴史を持つ』。『伝説によれば』、『黄帝の后・西陵氏が、庭で繭を作る昆虫を見つけ、黄帝にねだって飼い始めたと言われる。絹(silk)の語源は、西陵氏(Xi Ling-shi)であるという』。『カイコの祖先は』現在、『東アジアに生息』しているカイコガ属クワコ Bombyx mandarina『であり、中国大陸で家畜化されたというのが有力な説である』。但し、『カイコとクワコは近縁だが』、『別種とされる』ものの、『これらの交雑種は生殖能力をもち、飼育環境下で生存・繁殖できることが知られているが、野生状態での交雑種が見つかった記録はない』。『一方でクワコはカイコとは習性がかなり異なり、夜行性で活発に行動し』、また、『群生する事が無い。これを飼育して絹糸を取る事は可能ではあるが、大変であり』、寧ろ、『科レベルにおいてカイコとは異なる昆虫であるヤママユ』(ヤママユガ科ヤママユガ亜科ヤママユ属ヤママユ Antheraea yamamai )『のほうが、絹糸を取るために利用される』。五千『年以上前の人間が、どのようにしてクワコを飼いならして、カイコを誕生させたかは、現在に至るも完全には解明されていない。そのため、カイコの祖先は、クワコとは近縁だが』、『別種の、現代人にとって未知の昆虫ではないかという風説』『が流布している。しかし、ミトコンドリアDNAの情報や』『全ゲノム情報』の解析を『もとに系統樹を作成すると、カイコはクワコのクレード』(Clade:系統群)『の一部に収まるため、この仮説は支持されない』とある。いや――或いは、最後の部分で、意識が自身の空想の方へ傾いてしまった小泉八雲が、新美兄弟の話を話半分に聴いて、この辺りの話を聴き洩らしてしまった可能性の方が高い。「飼ふことの出來ない野生の二種類」の「飼ふことの出來ない野生の」は、寧ろ、小泉八雲の誤りで、「二種類」というのは、彼らがせっかく丁寧に説明してくれた「春蚕(はるご)」と「夏蚕(なつご)」、或いは「秋蚕(あきご)」(「初秋蚕」・「晩秋蚕」・「晩々秋蚕」に別れる)「冬蚕(ふゆご)」(九月中下旬に掃く「初冬蚕」)もいる)などの話を、聴き違えたもの、とも疑われるからである。

 

       

 先づ第一に、アナトール・フランス氏が述べて居る、或る愉快な空想を自分は考へて居るのであつた。若し自分が造物主であつたなら、靑春をば人生の初に置かずに終に置いたであらうし、さも無くば、人間はいづれも、鱗翅類の發育の階梯に稍〻相當するやうな、發育の三階梯を有つやうに取り計らつたのであらう、とフランス氏は言ふ。自分は考へて居る間に、この空想は實質に於て、殆どあらゆる高級な宗敎に共通な、或る頗る古い敎理の微妙な變形に過ぎない、といふ念が不圖頭に浮かんだ。

[やぶちゃん注:フランスの詩人・小説家アナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)の、私はそれしか読んだことがないアフォリズム集“ Le Jardin d'Épicure ”(「エピクロスの園」・一八九五年)の一節かとも思ったが、どうも見当たらない。出典について識者の御教授を乞うものである。]

 西洋の信仰は、此世に於ける我々の生涯は貪欲な手緣(たより)の無い幼虫狀態である事、また、死はそれからして我々が永久の光明へ翔り上る[やぶちゃん注:「かけりのぼる」と訓じておく。]蛹睡眠である事を、殊に敎へる。感性のあるその存在中は、外的身體はただ一種の幼虫として、そしてその後は蛹として、考ふべきであると我々に語る。――そして、幼虫としての我々の行狀次第で、死を免れぬ上包(うはづつみ)の下(もと)にあつて翅を發展する力を失ふか或は得るかする、と斷言する。それからまた、『靈魂の成蟲(サイキイ・イメーゴ)』[やぶちゃん注:“Psyché-imago”。]が破れた繭から離れ出るのが見えぬ、といふ事實に心を勞するな、と我々に告げる。我々人間は幼虫同樣半盲目な視力しか有たないのだから、眼に見える證據が無いといふ事は、何も意味しはしない。我々の眼はただ半分進化して居るだけである。我々の網膜の感受性の限界の上(うへ)にも下(した)にも、色の全階段(スケール)が眼には見えずに存在して居るでは無いか。丁度それと同じに――當然の事、我々はそれを見ることは出來ぬけれども――『胡蝶的人間』は存在するのである。

[やぶちゃん注:「胡蝶的人間」原文“the butterfly-man”。これは「移り気な浮気っぽい奴」或いは「おべっか使い」の意で、ここは「と言った輩(やから)は確かにこの世に居はするのと同じこと。」という小泉八雲の洒落れである。]

 が、完全な天福の狀態に於て、この人間の成蟲(イメーゴ)はどうなるであらうか。進化論的見地からこの問題は興味がある。ところがその明白な答を、この――飼はれてやつと數千年しか經つてゐない――蠶の身の上が自分に暗示した。我々が天上界で――言はば――幾百萬年も飼はれたとして其結果を考へて見るが宜い。自分は、それを希ふ人達に、あらゆる願望を意の儘に滿足することが出來るやうになつて居る境涯の究極の結果を言ふのである。

 彼(か)の蠶どもは、その希ふ所總てを――それより隨分と餘計なぐらゐ――得て居る。その要求は、頗る單簡であるけれども、基本的には人類の必要とするものと全然同一である――食物、庇保物[やぶちゃん注:「ひほうぶつ」。原文“shelter”。ここは「安穏に棲む場所」の意。今や、「シェルター」の方が断然判るようになってしまった。]、暖かさ、安全、それから愉樂である。我々の際限無しの社會的奮鬪は主として此等のものを得んが爲めである。我々の天上界の夢は、此等のものを少しも苦痛を費さずに得るといふ夢である。ところが、彼の蠶どもの境遇は、小さいながら、我々が想像して居る天國を實現して居るものである。(そのうち大多數は、苦惱を味はひ第二次の死を受ける運命を豫め有つて居るといふ事實を自分は今考へては居ない。自分の題目は天界のことで、助からぬ魂のことでは無いからである。自分は選ばれた者に就いてと再生との豫定を有つて居る虫共に就いて――救濟と再生との豫定を有つて居る蟲共に就いて――話して居るのである)恐らくは彼等虫共は、極く弱い感覺しか感じ得ぬであらう。確に彼等は祈禱はすることが出來ぬ。が、若し彼等が祈禱を爲し得るならば、食はせて世話して吳れて居る靑年から既に受けて居る以上のことは、何も希ふことはあるまいと思ふ。彼(か)の靑年は彼等の加護(プロビデンス)[やぶちゃん注:“providence”。「摂理・神意」・「神・天帝」。]であり――ただ漠然極つた有樣にその存在を氣附くことはあり得る神ではあるが、然し正(まさ)しく彼等が要求するやうな神なのである。ところが我々は、彼等と同樣に、彼等のよりも、もつと複雜な我々の要求に比例して、充分能く世話を受けたならば幸福であらう、と愚かにも思はうとする。我々の祈禱の普通の形式は、同樣な注意をと念じて居る我々の願望を證明して居はせぬか。我我の『神聖な愛の必要』の主張は、蠶のやうに取扱つて欲しい――神々の助に依つて苦痛無しに生きたい――といふ無意識な告白では無いのか。が然し、若し神々が我々が欲するやうに我々を取扱はれるとすれば、我々はやがてのこと、彼(か)の偉大なる進化の大法は遙かに神々よりも上にあるといふ――所謂『退化(デビネレーシヨン)の證據』といふもので――新しい證據を我々に提供することであらう。

[やぶちゃん注:「退化の證據(デゼネレーシヨン)」“the evidence from degeneration”。“degeneration”(ディゼェレネーション)は「堕落・退廃・退歩・退化・変性・変質」の意。「evolution」(進化)の対語。]

 その退化の第一階段は、我々は自己を支へることが全然出來無くなるといふことで現はれて來るであらう。――それから次には、我々のより高等な感覺器官を使用することが出來ぬやうなり始めるであらう。――後には、腦髓が萎縮して、消えかかつた、ピン尖[やぶちゃん注:「さき」。]程の物質になるであらう。――なほ後には、我々はただの無定形な囊に、ただの盲目な胃袋に、縮むであらう。これが、我々があんなに橫着に希望して居る、彼(あ)の種類の神聖な愛を受け得た時の肉體的結果であらう。永遠の平和の裡に永遠の天福をといふ熱望は、死と暗黑との大王が與へる惡意ある皷吹[やぶちゃん注:「こすい」。「鼓吹」に同じい。]であると思つて宜い位である。奮鬪と苦痛との所產として初めて――宇宙の諸大力と際限無しの戰鬪の結果として初めて――感じたり考へたりする生物が存在するやうになつたので、またこれからも引き續き存在して行かれるのである。そして宇宙の大法は一步も讓步はしない。どんな器官でも苦痛を知ることが無いやうになれば――どんな器官でも苦痛といふ刺戟の下に使用せられることが無くなれば――存在することも無くなるに相違ない。苦痛とその努力とを中止して見よ、生は元へ縮み還つて、初めには原形質的な形無しの物になり、その後、塵土に歸してしまふに相違無い。

[やぶちゃん注:この小泉八雲の、進化のように見える退化、適応のように見える不適応、フィードバック不能の身体の致命的絶滅的萎縮・奇形化の問題は、現代の生物学が警鐘している、頗るアップ・トゥ・デイトな「ヒト」という種の抱えている恐るべき危機なのである。

 

 佛敎――これは、その獨得な崇高な行き方で、一個の進化論なのであるが、その佛敎――では、その天界をば、苦痛に依つて向上する發展の、より高い段階であると合理的に宣べ[やぶちゃん注:「のべ」。]、且つ、極樂に在つてすら、努力の休止は墮落を生ずる、ことを敎へる。同じく有理に、超人間世界に在つて苦痛を受け得る力は、常に快樂を受け得る力に比例して增加する、と述べる。(我々は、より高い進化は、苦痛の感受性の增加を、その中に含むことを知つて居るから――科學的見地からして、この敎には非難すべきところは殆ど無い)『正法念處經』に、欲界では、死の苦痛は、あらゆる地獄の苦痛もその苦痛の十六分の一にしか相當しない、ほどに大である、と書いてある

 

註。この陳述は、肉感的快樂の天界に就いて言うて居るだけで、彌陀の淨土極樂について言うて居るのでも無く、靈的に再生して入る彼(あ)の天界について言うて居るのでも無い。が、最も高いまた最も非物質的な境涯に――形あること無き天界に――あつてすらも、努力と努力の苦痛との中止は、より低い境涯へ再生するといふ罰を受けることになる。

[やぶちゃん注:「正法念處經」(しやうぼふねんじよきやう(しょうぼねんじょきょう))。全七十巻。元魏の般若流支訳。原典の成立は四~五世紀頃で、経名に「念處」とあるように、内観を通して三界六道の因果を詳しく説いており、大乗的色彩も見られて、特に地獄に関する内容が詳しく記されている。法然は「選擇本願念佛集」の「十二」で、行福論の深信因果について「これに付いて二有り。一には世間の因果、二には出世の因果なり。世間の因果とはすなわち六道の因果なり。『正法念經』に說くがごとし」と記している(サイト「新纂 浄土宗大辞典」のこちらに拠った)。]

「欲界」三界の一。無色界・色界の下に位置する。食欲・貪欲など欲望のある世界。六欲天・人間界・八大地獄のすべてを含む。]

 

 上述の比較は不必要なほどに强い。が、天界に關する佛敎の敎は、實質に於て、著しく論理的である。感覺ある生活の、想像し得らる〻どんな狀態に在つても、苦痛の――精神的或は肉體的苦痛の――禁止は、必然的にまた快樂の禁止といふことになるであらう。――そして確に、精神的であらうが物質的であらうが、一切の進步は、懸かつて苦痛に出會うて之を征服する力如何に在るのである。我々の娑婆の本能が我々そして希望せしめるやうな『蠶極樂』では、勞役の必要を免れてその欲求悉くを意の儘に滿足せしめ得る天使(セラフ)は、終にはその翅を失つて幼虫の狀態へ逆戾りすることであらう。……

[やぶちゃん注:「天使(セラフ)」“seraph”。キリスト教やユダヤ教で言う「天使」。複数形は「セラフィム」(seraphim)。狭義には、天使の九階級の中で最上とされている「熾天使」(してんし)を指す。一般には三対六枚の翼を持ち、二つで頭を、二つで体を隠し、残り二つの翼で羽ばたき、神への愛と情熱で体が燃えていることから「熾(「燃え輝く」の意)天使」と呼ばれる。因みに、高慢の故に堕天して悪魔の王となった「ルシファー」(Lucifer:原義は「光り輝く者」の意)も、この熾天使の一人で、彼は特別に十二の翼を有していた、とされる。]

 

       

 自分はこの空想の大意を新美に話した。彼は佛敎の書物を能く讀む靑年であつたのである。

 彼は言つた、『あ〻、あなたが說明して吳れと仰しやつた諺、「女の蛾眉は男の智慧を斷つ斧」で、佛敎の奇妙な話を憶ひ出しました。佛敎の敎理に據ると、この諺は下界の生活に就いて言つても眞でありますが、天界の生活にも眞であるやうに思はれます。……その話といふは斯うであります。――

 

 『釋迦が此の世に住まつて居られた時、その弟子の一人の、難陀といふが、或る女の美しさに惑はされました。そして釋迦はその迷の結果を身に蒙らぬやうしてやらうとお思ひになりました。そこで釋迦は難陀を、山の中の、猿の居る荒れた處へ連れて行つて、非常に醜い雌猿を見せて、「どつちが美しいか、難陀よ、――お前が愛して居るあの女か、この雌猿か」とお尋ねになりました。難陀は聲を揚げて「あ〻師よ、愛らしい女と醜い猿と比べものになりますか」と言ひました。「お前はやがてその比較を自分ですべき理由を屹度見出すだらう」と佛はお答になりました。――それから、すぐと通力に依つて、難陀を連れて、欲界六天の第二天の三十三天へ御昇りになりました。其處には寶石の宮殿で、多數の天女が、音樂と舞踊とで何か御祝をやつて居るのが、難陀の目に見えました。その天女のうちで、一番美くしくないものでも、その美しさは、下界の一番麗はしい女の美しよりか譬へやうも無いほど勝さつて居りました。難陀は「あ〻師よ、これは何といふ不思議な御祝でせうか」と叫びました。「あのうちの誰れかに聞いて見よ」と釋迦はお答になりました。そこで難陀はその天女の一人に尋ねますと、それが答へて申しますに、「この御祝は、私共の處へ參つた善い知らせを祝うてのことであります。今、下界に、釋迦の弟子の中に、難陀といふ優れた靑年が居りますが、それがその神聖な生活の功德によつて、間も無く天界へ再生して、私共の婿になられます。私共は歡び喜んでその方を待つて居ります」この返答を聞いて難陀の胸は喜に充ちました。その時佛は難陀に、「難陀よ、あの少女達のうち誰れか、お前が今愛して居る女と、美しさの同じなのが居るか」とお尋ねになりました。「どうして、あなた」と難陀は「その女が、山で見ました雌猿より美しさが優つて居ると丁度同じ度合に、その女はまた、この少女達のうちで一番醜いのよりも劣つて居ります」と答へました。

 『それから佛は直ぐと難陀と一緖に地獄の底へ降りて行つて、幾百萬といふ男や女が、大釜で生きながら煮られたり、鬼の爲めに他のいろんな恐ろしい目に遭はされたりして居る、拷問部屋へ連れてお行きになりました。その時見ると、難陀は、金(かね)の溶かしたのが一ぱい入つて居る大きな容物(いれもの)の前に立つて居るのでありました。――その中には誰もまだ入つてゐないものですから、難陀は恐れまた怪みました。用無しの鬼が、欠伸[やぶちゃん注:「あくび」。]して、その橫に坐つて居りました。「師よ」と難陀は「誰れの爲めにこの容物は用意してあるので御座いませう」と佛に尋ねました。「あの鬼に尋ねて見よ」と釋迦はお答へになりました。難陀は言はれたやう致しました[やぶちゃん注:ママ。「やうに」の脱字かも知れぬ。]。するとその鬼が難陀に申しました、「難陀といふ男が――今釋迦の弟子の一人だが――それが前生の善行の爲めに、或る天界へ生まれかはらうとして居る。が、其處で氣儘に暮らしてから、今度は此地獄へ生まれかはる事になつて居る。その男の居場所はこの鍋の中だ。おれはその男を待つて居るところだ」』

 

註 自分はこの說話を聞いた儘大要を揭げる。が、自分は、出版になつて居る原經句とこれを比較することが出來ずに居る。新美は、漢譯が二種――一つは一『本行經』(?)、一つは『增一阿含經』(エコツタラガマス)[やぶちゃん注:これはルビではなく、本文。]――あると言ふ。ヘンリ・クラーク・ワレン氏の「反譯物での佛敎」(此種のものの中では、自分がこれ迄見た一番興味ある又價値ある單行本である)には、この傳說の巴利語譯[やぶちゃん注:「パーリ語からの英訳」の意。]があるが、上記のとは餘程異つて居る。ワレン氏の著書に據ると、その難陀は貴公子で、釋迦牟尼の異母弟である。

譯者註 原著者が舉げたやうな諺[やぶちゃん注:本篇初段のそれを指す。]があるのか譯者には疑はしい。蛾眉は美女の意に用ふるものであるが、「美女は生を斷つ斧」といふ諺はあるやうである。智慧をでは無く、生を斷つ、といふ句では、「呂氏春秋」に「靡曼皓齒、伐生之斧」といふ句がある。

[やぶちゃん注:「難陀」この名を有する仏弟子は多いが、小泉八雲の註の「釋迦牟尼の異母弟」に従うなら、孫陀羅難陀(そんだらなんだ)である。ウィキの「孫陀羅難陀」にある「出家後の苦悩と悟り」の項の、『釈迦仏が故郷カピラ城に帰国して』数日後、『難陀の王子即位式及び、新殿入初式、結婚式を行っていた。妻は国中で一番の美人とされる女性だったと伝えられるが、その妻との結婚式の最中に、釈迦仏が場内に入り』、『祝歌を唱歌し』、『彼に鉢を渡して立ち去った。難陀は仏の後を追って、ついにニグローダ樹苑にある精舎まで来てしまい』、『剃髪させられて出家してしまったといわれる』。『しかし』、『出家して仏の教下によって修行するも、彼は妻のことをなかなか忘れられず悩んで、修行を止めて妻の元に帰らんと欲していた。彼の心中を悟った釈迦仏は、神通力の方便をもって、三十三天の帝釈天に随う』五百『人の美しい天女を示し、釈迦族の女性とどちらが美しいかと難陀に問い、天女だと答えると、釈迦仏は』五百『人の天女を得ることを保証し、難陀は修行を決意する』が、『比丘たちの非難を受けて』、『大いに恥じ入り、心を入れ替え』、『証果を得たといわれる』という逸話と一致する。この記載はNanda Sutta: Nanda" translated by John D. Ireland”に依拠する旨の注がある(リンク先はその英文)。

「本行經」(ほんぎやうきやう)「仏本行経」(ぶつほんぎょうきょう)別名「佛本行讚傳」のこと。全七巻。中国の南北朝時代の南朝王朝である劉宋(四二〇年~四七九年)の宝雲の訳で、釈尊一代の行状を記したもの。

「『增一阿含經』(エコツタラガマス)』原文“ Zōichi-agon-kyō (Ekôttarâgamas) ”。「增一阿含經」(ざういつあごんきやう/サンスクリット語ラテン文字転写:Ekottara Āgama:音写「エコッタラ・アーガマ」)。漢訳「阿含經」の一つ。大衆部所伝の経典。パーリ語経典の「増支部」(アングッタラ・ニカーヤ)に相当するが、内容は異なっている。約五百二十経ある。

「ヘンリ・クラーク・ワレン」アメリカのサンスクリット及びパーリ語に精通した仏教学者ヘンリー・クラーク・ウォーレン(Henry Clarke Warren 一八五四年~一八九九年)。

「反譯物での佛敎」原文は“ Buddhism in Translations ”。ウォーレンが一八九六年に刊行したもの。但し、原題は“ Buddhism in Translation ”で、複数形ではない。

「巴利語」南伝上座部仏教の経典(「パーリ語経典」)で主に使用される言語。「バーリ語」とも呼ぶ。古代インドの中西部で用いられた「プラークリット」(俗語)を代表する言語。

「呂氏春秋」(秦の宰相呂不韋(りょふい)が門下に集まった食客の著作を編集した書。全二十六巻。道家・儒家思想を主として先秦の諸家の学説を網羅したもの)の「孟春紀」の「本生」に(太字は私が附した。訓読は私の自然流)、

   *

貴富而不知道、適足以爲患、不如貧賤。貧賤之致物也難、雖欲過之奚由。出則以車、入則以輦、務以自佚、命之曰招蹶之機。肥肉厚酒、務以自彊、命之曰爛腸之食。靡曼皓齒、鄭・衞之音、務以自樂、命之曰伐性之斧。三患者、貴富之所致也。故古之人有不肯貴富者矣。由重生故也、非夸以名也、其實也。則此論之不可不察也。

(貴富にして道を知らざれば、適(たま)たま、以つて、患(うれ)ひを爲すに足る。貧賤なるに如(し)かざるなり。貧賤の物を致すや、難(かた)し。之れに過ぎんと欲すと雖も、奚(いづ)くにか由(よ)らんや。出づれば、則ち、車を以つてし、入りては、則ち、輦(れん)を以つてし、務めて、以つて、自ら佚(いつ)す[やぶちゃん注:楽をする。]。之れを命(な)づけて、「招蹶(しやうけつ)の機」[やぶちゃん注:「蹶」は「躓(つまず)き」の意。]と曰ふ。肥肉・厚酒、務めて、以つて、自(おもづか)ら彊(しい)る[やぶちゃん注:暴飲暴食する。]。之れを命(な)づけて「爛腸(らんちやう)の食」と曰ふ。靡曼皓齒(びまんかうし)、鄭(てい)・衞(ゑい)の音[やぶちゃん注:音楽。後注参照。]、務めて、以つて、自ら樂しむ。之れを命づけて「伐性(ばつせい)の斧(おの)」と曰ふ。三患[やぶちゃん注:以上の三種の過ちを指す。]なる者は、貴富の致す所なり。故に古への人、貴富を肯(がへ)んぜざる者あり。生を重んずるに由るの故なり。夸(ほこ)る[やぶちゃん注:誇る。]に名を以つてするに非ざるなり。其の實の爲(ため)なり。則ち、此の論は察せざるべからざるなり。)

   *

「鄭」と「衞」は春秋時代の国名で、両国特有の音楽は甚だ淫らなものであったとされる。

【2025年4月17日5:41追記】

 さて、この釈迦と難佗のエピソードを語る「経」とは、明らかに中国で捏造された偽経である。地獄思想は中国ででっちあげられたもので、釈迦生存の時には、今の我々のよく知っている具体的な地獄は存在しないからである。釈迦は、「地獄とは永遠の闇である」とのみ述べているに過ぎない。

 最後に。私は昨日の夕刻から、本篇を、三度、精読して補正したのだが……改めて……強い感慨を感じた……

……蚕がさくさくと桑の葉を食べているのを見ながら……

かくも、生の厳粛な哲学的観想をしている小泉八雲という存在は……

――稀有の真の哲学者であると同時に――真の詩人である――

と…………

2019/11/03

小泉八雲 占の話 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ A Story of Divination )は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN (「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の第四番目に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”こちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”こちらで全篇が読める。無論、訳標題は「うらなひのはなし」である。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月16日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 

   占 の 話

 

 私は以前或占師を知つてゐたが、その人は自分の奉じて居る學問を本當に信じてゐた。彼は古い漢學の學生として、占を實地に行つて行かうなどとは思ひもよらなかつた時から、それを信ずるやうに習つたのであつた。若い時は或富んだ大名に仕へてゐたが、外の數千の侍と同じく明治維新の政治上及び社會上の變化のために絕體絕命の窮境に陷つた。彼が占師――町から町へと徒步(かちある)いて、その旅の儲けをもつて家へ歸るのは一年に一度、それ以上は中〻歸られないと云ふ旅の占師――になつたのはその時であつた。占師としては彼は相應に成功した、――私は考へるに、そのわけは重に彼の非常に眞面目な事と、それから人の信用を呼びよせるやうな妙に物柔かな態度とによるのであつた。彼の占のやり方は古い學者風の物であつた、彼は英語の讀者に『易』として知られて居る書物と――支那の卦(け)――をどんな風にでも作れるやうにならべる事のできる黑檀[やぶちゃん注:「こくたん」。]の木片の一組とを使用した、――それから彼はいつでも神々に熱心な祈りをして彼の占を始めた。

[やぶちゃん注:「黑檀」ツツジ目カキノキ科カキノキ属 Diospyros spp. のコクタン類。英語の「Ebony」(エボニー)で知られる。ウィキの「コクタン」に代表種が掲げてある。嘗つて教え子の中に、これが理科の実験に使うエボナイト棒の原木だと思い込んでいた者がいたので言っておくと、エボナイト(ebonite)は、生ゴムに多量の硫黄を混ぜて加熱して得られる黒色の角質状物質で人工の硬化ゴムである。化学的に安定しており、特に電気絶縁性に優れている。万年筆の軸・電気器具などに使用する。ちょっと見た感じがエボニーに似ていることによる名である。]

 彼の說によれば、易學その物は、それに通じた大家の手にかかれば決してまちがひのない物であつた。彼はいくつか誤つた占をやつた事があると白狀して居る、しかし彼の云ふところではこんなまちがひは全く或文句や卦の解釋をまちがつたためであつた。彼のために云へば、私自身の場合では(私は彼に四度占つて貰つた)、彼の占はよく當つたので、私はその占が恐ろしくなつた程であつた。讀者は占を信じないでもよい――智力的にはそれを輕蔑してもよい、しかし遺傳的迷信の傾向が大槪の人の心に潜んで居る、そして二三の妙な經驗がその迷信を動かして、占師の約束した幸運或は惡運に對して最も無理な希望や恐怖を抱く事になる。實際、私共の未來を見る事のできるのは不幸である。この二ケ月以內に、讀者の身の上に、どうしてもそれを豫防する事のできないやうな何か不幸が必ず起るときまつて居る事が分つた結果を想像して見るがよい。

 私が出雲で始めて遇つた時は、彼は既に老人であつた――たしかに六十歲以上であつたが、もつとずつと若く見えた。その後私は彼に大阪で、京都で、それから神戶で遇つた。度々私は冬の寒い間、私の家で暮らすやうに勸めて見た――實は、彼は非常に傳說などをよく知つて居るので、私の文筆にこの上もない助けをしてくれる事ができるのであつた。しかし一つは流浪の生活は彼に取つて第二の天性となつて居るのと、又一つはヂブシーの獨立のやうな、そんな野性を帶びた獨立を愛する念が彼にあるので、私はどうしても一度に二日以上彼をとめる事ができなかつた。

[やぶちゃん注:原文“gipsy”“gypsy”とも綴る。但し、「ジプシー」は差別的意味合いが強いので、今は使用すべきではない。小学館「日本国語大辞典」によれば、バルカン諸国を中心に、アジア西部からヨーロッパ各地・アフリカ・南北アメリカ・オーストラリアなどに広く分布する民族。十世紀頃、故郷であるインド北西部から西に向かって移動を開始し、十五世紀にはヨーロッパ全域に達した。皮膚の色は黄褐色かオリーブ色で、目と髪は黒。馬の売買・鋳掛け・占い・音楽などで生計を営んでいたが、近年は定住するものも多い。その固有の音楽や舞踏は、ハンガリーやスペインの民族文化に影響を与えた。自称は「人間」の意の「ロマ」である。]

 每年きまつて東京へ來た。――いつも秋の末であつた。その時は數週間、彼は區から區へと市中を飛び𢌞つて、それから再び消えて行くのであつた。しかしこの飛び𢌞る旅行中に、彼は必ず私を訪問して、出雲の人々や場所の有難い消息と、――それから又どこか名高い巡禮の場所から、大槪宗敎上の意味のある、何か珍らしい小さいおみやげをもつて來てくれた。こんな場合には、私は彼と數時間談笑する事ができた。時にはその話題は彼の最近の旅行中に見聞した珍らしい事物であつた、時にはそれは古い傳說や信仰の方面に向いた、時にはそれは占に關する事であつた。私共が最後に遇つた時に、彼は正確な支那の易學を習ふ事ができなかつた事を後悔して、その易學の事を私に話した。彼は云つた。

『その學間に通じた人は誰でも、たとへばこの家のどの柱でもどの貫(ぬき)[やぶちゃん注:和風建築で柱の列を横に通して、柱を安定させる用材。]でも何時倒れるかその正確な時間を云ふ事ができるばかりでなく、なほ又その倒れる方角からその結果まで云ふ事ができます。私がお話を一つしたら、私の意味がよく分りませう。

[やぶちゃん注:前の段落のではなく、次の以下の「*」前まで段落の総ての最初の二重鍵括弧開始位置はママである。原文が確かに、引用符で始まっているからであるが、だったら、前の段落のケースと同じく、語りの口調で、敬体にすればよかったのである。ちょっと――いや――かなりヘン――だと私は感じる。寧ろ、次の段落の頭を「……」で初め、語りが終わったところに「……」を打てばよかったろうに。因みに、平井呈一氏は、私が指摘した敬体で直接話法の形で訳しておられる。

 

 『その話は名高い支那の占師で、日本では卲康節[やぶちゃん注:「しやうこうせつ」。]と云つて居る人の話だが、「梅花心易」と云ふ占の本に出て居る。未だ餘程若い時に卲康節は彼の學德のすぐれてゐたために高い地位を得た、しかし彼は學問硏究に全力をつくすために、その地位を辭して、淋しいところへ行つた。數年の間、彼は山中の小屋に、冬になつても少しの火もなく、夏になつても一本の扇子もなく、獨居して、部屋の壁に――紙がないので――彼の思想を書いてゐた、――それから枕の代りに一枚の瓦を用ひてゐた。

[やぶちゃん注:「卲康節」北宋の儒学者邵雍(しょうよう 一〇一二年~一〇七七年)。百源先生・安楽先生と称された。康節は諡(おくりな)。ウィキの「邵雍」によれば、『涿州』(たくしゅう:現在のここ。グーグル・マップ・データ)『范陽』(はんよう)『県の出身。幼いときに父に従い』、『共城県蘇門山の百源(現在の河南省新郷市輝県市)に移住』したが、『若い頃から自負心が強く己の才能をもってすれば先王の事業も実現できるとし、郷里に近い百源のほとりに庵をたてて刻苦勉励した。この間、宋初の隠者の陳摶』(ちんたん 八七二年~九八九年:五代十国から北宋にかけての道士で、しばしば仙人と見做される人物)『の系統をひく李之才(字は挺之)から』「易經」の『河図洛書』((かとらくしょ:古代中国における伝説上の瑞祥である河圖と洛書を総称したものである。「河」は黄河、「洛」は洛水を表す。易の八卦や洪範九疇の起源とされている)『と先天象数』(「易經」「易經外傳」等に基づいて組み立てられた数学的原理)『の学を伝授された。やがて自分の学問の狭さを自覚し、各地を遊歴して土地の学者に教えを請い』、『見聞を広めたが、道は外に求めて得られないと悟り、帰郷して易学について思索を深めた』。三十九『歳頃に洛陽に移住し、以後』、『亡くなるまでこの地で儒学を教えた』。『邵雍は貧しかったが』、『富弼・司馬光・程氏兄弟(程顥・程頤)・張載などの政学界の大物を知己とし、ものにこだわらない豪放洒脱な人柄から「風流の人豪」ともいわれ、洛陽の老若男女に慈父のように慕われた。晩年に天津橋上で杜鵑(ホトトギス)の声を聞き、王安石の出現と政界の混乱を予言した逸話は、邵雍の易学の一端をうかがわせる』。著書には「皇極経世書」と詩集「伊川撃壌集」がある。易学としては「1→2→4→8→16→32→64」と進展する「加一倍の法」や、四季の4、十干の10、十二支の12、一世三十年の30など、中国人になじみの深い数を適宜に掛けあわせる数理計算によって、万物生成の過程や宇宙変遷の周期などを算出しようとした』。『数を通して理を考えようとした点は、朱熹の易学に影響を与えたと考えられる』とあるとんでもない偉人である。

「梅花心易」易は通常五十本の筮竹(ぜいちく)を使って占うが、梅花心易は、一切、道具を使わず、占おうとした時の周辺の様子から、手がかりを得て占う法で、邵康節が完成させたと言われている。詳しくは、以下の段落を読まれた後に、サイト「飛不動尊 龍光山正宝院」のこちらを読まれるのがよかろうと存ずる。但し、ここは書名とあり、これについては、底本の田部氏の「あとがき」に、『「占の話」は出雲の易者の事實談。そこに出て居る支那の話は『梅花心易掌中指南』と題する易の書物の始めにある話によつた』とあり(★もう少し田部氏は語っているが、以下のネタバレになるので、最後まで読まれてから、以上のリンクを開いて見られたい★)、さらに調べてみたところ、国立国会図書館デジタルコレクションに中根松伯著で明治二六(一八九三)年文魁堂刊の「初卷」の巻頭に「家伝邵康節先生心易卦數序」以下の冒頭に以下の話が読める。

 『或日、夏の最も暑い季節に、彼は睡氣に襲はれて、瓦を枕にして橫になつた。眠[やぶちゃん注:「ねむり」。]につくと共に、鼠が一匹彼の顏を橫ぎつて走つたので、彼はびつくりして起きた。怒りの餘り瓦を取つて、鼠に向つて投げた、しかし鼠には當らないで、瓦は碎けた。卲康節は枕の破片を悲しさうに見て、自分の輕卒を自ら責めてゐた。その時突然碎けた瓦の新しい斷面に――表と裏の兩面の間に――何か漢字を認めた。甚だ變に思つて、彼はその破片を取つて丁寧に調べた。その割れ目に沿うた粘土の上に、未だ瓦の燒かれない時分に十七の文字が書いてあつた事を發見した、その文字はかう讀まれた、「卯の年の四月十七日、巳の刻[やぶちゃん注:午前十時前後。]に、この瓦は、枕になつたあとで、鼠に投げられて碎ける」[やぶちゃん注:句点か、ダッシュぐらい打ってほしいところだ。]ところで、この豫言は卯の年の四月十七日巳の刻に正しく的中したのであつた。非常に驚いて、卲康節は、もう一度その破片を見て、その瓦師の名と判を發見した。直ちに彼はその小屋を出て、その瓦の破片をもつて、その瓦師をさがしにその近所の町へ急いだ。彼はその日のうちに瓦師を發見して、その破片を示し、その瓦について彼に尋ねた。瓦師は破片を丁寧に調べたあとで云つた、「この瓦は私の家で製造した物ですが、粘土にある文字は或老人――占師――がその瓦を燒く前に書かせて貰ひたいと云つて書いたのです」「どこにその人が居るか知つてゐますか」卲康節は尋ねた。瓦師は答へた、「以前はここから餘り遠くないところにゐました、その家へ御案內致しませう。しかし私はその人の名は存じません」

 『その家に案内されて卲康節は、玄關に行つて、老人に面會を願つた。一人の靑年學僕は丁寧に彼に入るやうに誘つた、そして大勢の靑年の勉强して居る部屋へ案內した。卲康節が席につくと、靑年達は皆彼に挨拶した。それから始めに彼に物を云つた靑年はお辭儀をして云つた、「申上げるのも殘念ですが、先生は數日前に亡くなられました。しかし私達はあなたを待つてゐました。實は先生は、あなたが今日この家へ、丁度この時間にお出でになる事を豫言なさいました。お名前は卲康節とおつしやいませう。それで先生はあなたの役に立つ本を一册お上げするやうに申されました。ここにありますから、――どうぞお受け下さい」

 『卲康節は驚いた、と同時に喜んだ、實はその書物は最も珍らしい、そして最も貴い種類の寫本で、――占の學問の凡ての祕密を藏して居る物であつた。靑年達に御禮を云つてから、そして彼等の先生に對する適當なる弔辭を述べてから、彼は自分の小屋に歸つて、直ちに、自分の運を占ふために、その中を調べてその書物の價値をためして見た。その書物は彼に、その住宅の南側、家のかどに近い或ところに、大きな幸運の潜んで居る事を暗示した。彼は指示された場所を掘つて、壺を一つ發見した、それには彼を甚だ富んだ人とする程の黃金が滿ちてゐた』

        *       *

            *

 私の友人のこの老人は、淋しく世の中を送つたが、又淋しく世の中を去つた。この冬、山を越す時、吹雪に遇つて路を失つた。幾日か後に彼は小さい荷物を肩にかけたまま[やぶちゃん注:「か」は底本では脱字で空白。推定で補った。]、松の木の根に眞直に立つてゐた、冥想して居るやうに、腕を組んで眼を閉ぢて――氷の像になつてゐた。多分嵐の通り過ぎるのを待つて居る間に、寒さのねむけに襲はれたのであらう、そして彼が眠つて居る間に雪の吹きよせが彼を蔽うたのであらう。この不思議な死を聞いて、私は『占師身の上知らず』と云ふ古い日本の諺を憶ひ出した。

 

 

小泉八雲 香 (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Incense )は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN (「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の第三話目に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”こちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”こちらで全篇が読める。なお、この前の第二話「振袖」(原題“ Furisodé )は既に単発で、私が電子化注した「小泉八雲 振袖 (田部隆次譯)」があるので、省略する。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月16日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。また、第「四」章には「香會記」という罫線囲いの表が、その後には、『「山路」の作り方』・『「梅華」の作り方』という処方表が載るが、これは電子化するのが面倒(上手く電子化出来ない)なので、上記“Internet Archive”PDF版からトリミングし、補正を加えて画像で示すこととした。【2025年4月16日:追記】新底本のそれをダウンロードして補正を加えたものを作成した。旧画像と差し替えようと思ったが、或いは、以上のモノクロームの旧画像の方が見やすいと感ずる方もあるかも知れぬと考え、下方に旧画像を残しておいた。お好きな方で見られたい。★【2025年4月18日追記】以上の本文新底本の同巻は、著作権存続である『送信サービスで閲覧可能』『国立国会図書館内/図書館・個人送信限定』であるため(思うに、この国立国会図書館デジタルコレクション(旧「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」)に最初に公開された際には、どこかの記載者・訳者の著作権が存続していたため――確実と思われる一つは巻末に貼付けられてある『月報』と思われる。冒頭の「邦譯小泉八雲全集に就て」の筆者佐藤春夫は公開当時は著作権継続であったから)、許可を得ないと画像の転載は出来ないことが判明した。――たった二日の命――であったが、不本意ながら、本篇中に挿入した画像を転写することは出来ないので、カットする。しかし、モノクロームの“Internet Archive”版の方が、鮮明であるから、八雲先生も肯んじて貰えるものと信ずる。

 

 

   

 

 

        

 暗闇から現はれ出でて、蓮が花瓶にあるのが見える。その花瓶の大部分は眼に見えぬ。が、それは唐金[やぶちゃん注:「からかね」。青銅。]であること、幽かに見えるその兩の把手は龍の軀であることは自分に解つて居る。その蓮だけが充分に照らされて居る。純白な花が三つ、そして金色と綠色との――上が金色で、上向きに緣(へり)を卷居るその裏面が綠色の大きな葉が五枚附居る、人造の蓮である。それは斜にさしこんで居る日光の流を浴びて居る。その下とその先きの暗闇は或る寺の部屋の黃昏である。その光線が射し込む口は見えぬ。が、寺の鐘の輪郭の恰好をした、小さな窓だといふことは自分は氣附いて居る。

[やぶちゃん注:「寺の鐘の輪郭の恰好をした、小さな窓」所謂、「火灯窓・花頭窓」(かとうまど)である。本来は中国で主に禅宗の寺院で用いられていたが、本邦では宗派を問わず、また、神社や城の天守閣、及び、書院造などに於いても、広く用いられている。]

 自分にその蓮が――自分が初めて佛敎の聖殿を訪うた一つの記憶が――見える理由(わけ)は香(かう)の匂がして來たからである。自分は香(かう)を嗅ぐと每度この幻が判然と浮かぶ。そして通例(いつも)その後(あと)で、日本での自分の最初の日の他の感情が、殆ど苦(くる)しいほど痛烈に次から次と迅速に復活する。

 

 殆ど遍在である――この香(かう)の薰は。それは極東の幽かではあるが複合的なそして決して忘れることの出來ぬ香氣の一要素を爲して居るものである。寺院に劣らず住宅に――王侯のヤシキに拘らず百姓の家に――附き纏うて居る。尤も神道の神社には――香(かう)はより年齡のたけた神々には嫌惡されて居るから――全く無い。然し佛敎の住む處には到る處香がある。佛壇または位牌のある家では、どんな家でも或る時機に香(かう)を焚く。未開極る寂寥たる田舍でも、路傍の佛像――不動、地藏或は觀音の小さな石像――の前に香(かう)が燻ぶつて居るのを見るであらう。旅行の幾多の經驗は――眼の印象同樣に耳の奇異な印象は――自分の記憶にはその匂と關聯して居る。――氣味の惡るい古社(ふるやしろ)へ通ずる森閑とした蔭深い壯大な並樹路、――雲表[やぶちゃん注:「うんぺう(うんぴょう)」。雲の上まで達するかのような高いところ。]に朽ち崩る〻寺院へ昇つて行く擦り耗らされた苔の蒸した石段、――祭禮の夜の歡喜の雜沓、――提燈の薄明りに音無く辷り行く白無垢着た葬式の行列、――寂寞たる遠き海岸の漁夫の小屋での、家の內の祈禱の呟(つぶやき)、――立ち騰る[やぶちゃん注:「のぼる」。]靑い煙の絲の痕があるだけの、物淋しい小さな墓石の眺め、――無量光佛阿彌陀に祈禱を捧ぐる折に質朴な心が憶ひ出す、祕藏して居た禽獸の墓石、――總て香氣を聯想する。

[やぶちゃん注:「祕藏して居た禽獸の墓石」訳が生硬に過ぎる。原文は“graves of pet animals or birds”であるから、難しい意味ではなく、「可愛がっていた動物たちや小鳥たちを葬ったささやかな墓」である。]

 だが自分が語る匂(にほひ)はただ廣い香(かう)の――一般に使用して居る香(かう)の――匂である。他にも幾種かの香(かう)があつて、質の等級範圍は驚くばかりである。普通の(尋常の鉛筆の心(しん)程の太さで、少し長さの長い)線香の一束は二三錢で買へる。ところが、無經驗な人の眼には、色が少し異つて居るぐらゐにしか見えぬ質のもつと上等の一束で、數圓もして、しかもその値段では廉いといふのもある。もつと高價な種類の香(かう)は――正眞の贅澤物は――菱形、封緘紙形、錠劑形をしてゐる。そしてそんな材料の小さな一包が、四磅[やぶちゃん注:ポンド。]或は五磅することがある。然し日本の香(かう)に關する商業上並びに工業上の問題は、著しく珍らしい題目の一部分となるには、興味最も乏しいものである。

[やぶちゃん注:本書は明治三二(一八九九)年刊であるが、二年前の明治三〇(一八九七)年の為替レートでは1ポンドは九・七六円である。明治三三(一九〇〇)年の白米十キログラムの東京での小売価格は一・一円で、大卒初任給は二十三円であった。]

 

 

         

 實に珍らしくはあるが、其傳統と細目とが無限なので非常なものである。それを洩らさず述べるのに要する書卷の大いさを考へる事さへ自分には厭である。……そんな著作は本當は先づ日本に於ける香料の最初の知識と用法の單簡な記事で始まるであらう。次に朝鮮から――紀元五百五十一年百濟の聖明王がこの島帝國へ經卷一集佛像一體並びに一寺に要する道具一式を送つた時――佛道の香(かう)が初めて輸入された記錄と傳說とを述べるであらう。それから十世紀の間に、延喜天曆[やぶちゃん注:九〇一年から延長・承平・天慶を挟んで九五七年まで。]の頃に、爲された香(かう)のあの分類について、――また十三世紀の末に支那に赴き、香(かう)に關する支那人の知識を用明天皇に傳へた參議キミタカの報告について――少しく言はなければならぬであらう。それから今猶ほ日本の許多[やぶちゃん注:「あまた」。「數多」に同じ。]の寺院に保存されて居る古代の香(かう)に就いて、また信長秀吉及び家康がその一部の贈與を受けた(明治十年奈良で一般の展覽に供された)有名な蘭奢待[やぶちゃん注:「らんじやたい」。]の破片[やぶちゃん注:家康の切り取りは実際には誤り。後の「四」で注する。]に就いて、記載しなければなるまい。その次には日本で造つた合劑の香(かう)の――それには、あの贅澤な尊氏が案出した分類方に對して、また百三十種の香(かう)を集めて其うちの貴重なのに、今日に至る迄知られて居る例へば『花の雪』、『富士の煙』、『法華』といふやうな、名を拵へた足利義政が後に定めた名稱に對して、註釋を添へて――歷史の槪要が來なければなるまい。その上また、幾多の貴紳の家庭に保存されて居る歷史的な香(かう)に附隨して居る傳統について幾つかの例を與へ、それと共に、幾百年の間代々傳へられて今なほその尊い發明者の名によりて、『日野大納言法』、『仙洞院法』等と呼ばれて居る香(かう)製造のその世襲的な調合法の幾つかの見本も與ふべきであらう。その上また『蓮の香、夏のそよ風の臭ひ、秋風のかをりになぞらへ』造つたその奇異な香(かう)について調合法を示さなければなるまい。香(かう)逸樂の榮華時代の傳說も少しは――例へば、香木で御殿を建てて居たが、反叛[やぶちゃん注:「むほん」。]の夜それに火を放つたところ、その燃ゆる煙國土を薰じて十二哩[やぶちゃん注:「マイル」。十九・三一二キロメートル。]の遠きに及んだといふ陶(すゑ)尾張守の物語の如きを――引用しなければなるまい。……固よりの事、合劑の香(かう)の歷史への材料を編纂するだけでも無數の文書論說書卷――殊に『クンシフルヰセウ』卽ち「薰集類抄」如き奇異な著作――の硏究を必要とするであらう。香(かう)道十派の敎、香製造に最も善き季節の指導、香(かう)を焚くに用ふべき『種々な火』(一種は『文の火』と呼ばれ、今一つは「武の火」と呼ばれて居る)に就いての指圖、それからまた季節と場合とに應じて香爐の灰を色々な美術的な模樣に押す法式、さういふ書卷も込めてである。……妖怪を追ひ拂ふ爲めに家の中に吊り下げてある香の袋(クスダマ)に對して、――また、惡魔につかれぬ護として以前は身に着けて居たより小さな香の袋に對して、――確に一章を與へなければなるまい。それから其の著作の頗る大なる部分は香の宗敎上の用途と傳說――それだけで大きな題目であるが――それに捧げなければなるまい。その上にその細かしい[やぶちゃん注:ママ。]儀式は數多くの圖の助を藉りなければ說明の出來ない、古の『香の集會』の奇妙な歷史も考察しなければなるまい。古昔香(かう)の材料を印度、支那、安南[やぶちゃん注:「アンナン」。現在のヴェトナム。]、暹羅[やぶちゃん注:「シヤム(シャム)」。タイの旧名。]、柬埔寨[やぶちゃん注:「カンボジア」。]、錫蘭[やぶちゃん注:「セイロン」。現在のスリランカ。]、蘇門答剌[やぶちゃん注:「スマトラ」。]、爪哇[やぶちゃん注:「ジヤワ(ジャワ)」。]、ボルネオ及び馬來[やぶちゃん注:「マライ」。マレー。]群島の種々な島々――香についての珍奇な古に皆名の出て居る土地――からの輸入の題目に對して少くも一章は要るであらう、そして最後のところの一章は香(かう)の浪漫的文學を――香(かう)の儀式のことが記されて居る詩歌物語並びに戲曲、殊に身を香(かう)にたとへ、情をそれを食む[やぶちゃん注:「はむ」。]炎になぞらへて居る、

   移り香のうすくなり行く薰物の

        くゆる思に消えぬべきかな

のやうな戀歌を――扱ふべきであらう。

 ……この題目の槪要だけ考へてもぞつとする! 自分は香(かう)の宗敎上の、逸樂上の、また靈的な使用について、二三の記事以上のことは何も企てまい。

[やぶちゃん注:最後の「!」の後には字空けはないが、特異的に挿入した。さても――私も――香道に全くの関心もなく、知りもしない『この』、恐るべき冗長な段落にオリジナルに各個的な注を神経症的に附すことを『考へてもぞつとする!』……だから『自分は』『二三の記事』に『單簡』なる注を、一寸、添える以外『のことは何も企てまい』と思う、のである。悪しからず。……

「聖明王」百済(くだら)の第二十六代の王聖王(せいおう ?~五五四年/在位:五二三年~五五四年)。現在、百済を経由して日本に始めて仏教が伝えられたのは、この聖王の時代の五三八年と考えられており、使者を送って金銅の仏像一体・幡。経典などを伝えたとするから、その中に香や香具も含まれていたと考えるのはごく自然である。

「用明天皇」在位は五八五年(?)から五八七年(?)か。崇仏派で、仏法を重んじて、実質上、王朝に於いて、仏教を公認し、それが後の推古天皇以降の仏教隆盛に繋がった。

「參議キミタカ」不詳。識者の御教授を乞う。

「陶(すゑ)尾張守」室町後期・戦国時代の武将陶晴賢(すえのはるかた 大永元(一五二一)年~天文二四(一五五五)年)。大内義隆に仕えたが、後に義隆を討ち、大友宗麟の弟晴英を迎えて大内家の後嗣とした。毛利元就と厳島で戦って大敗し、自害した。

「薰集類抄」(くんじゅうるいしょう)は平安末の長寛年間(一一六三年~一一六五年)に刑部卿範兼が勅命により抄集したとされるもので、和漢の数々の薫物(たきもの)の処方と調合法を集成・検証し、その道の初学者に供すると同時に、薫物が平安王朝の上流社会に根付くに至る歴史を記した書。

「移り香のうすくなり行く薰物のくゆる思に消えぬべきかな」「梨壺の五人」の一人として知られ、清少納言の父である貴族歌人の清原元輔(延喜八(九〇八)年~永祚二(九九〇)年)の「後拾遺和歌集」に載る一首(七五六番)、

   ある女に

うつり香(が)のうすくなりゆくたきものの

   くゆる思ひにきえぬべきかな

である。]

 

 

         

 貧しい人が到る處佛像の前で焚く香(かう)は『安息香』といふのである。これは甚だ廉價である。巡拜者が有名な寺院の入口の前に置いてある唐金の香爐で焚くその量は大したもので、路傍の佛像の前にその幾束をも見ることが能くある。それは信心な旅人が使用するもので、旅人は途中の佛像一々の前に立ち止つて短い祈禱を唱へ、出來得れば二三束をその像の足下で燻ぶらすのである。が、富裕な寺では、そして宗敎上の大儀式の間は、もつと高價な香(かう)を用ひる。佛敎の禮式では全體で三通りの香料を使用する。種類の多いカウ卽ち本當の香(かう)(この語は文字通りではただ『香ひ[やぶちゃん注:「にほひ」。]のある物』との意である)と、――ヅカウ[やぶちゃん注:原文は確かにそうなっているが、これは小泉八雲の「膩香(ぢかう(じこう))」の誤りである。中文の漢語サイトに「濃香」と同じとあった。これは「ぢようきやう(じょうきょう」で文字通り濃い香のことを指す。直下で油状のものとする。]卽ち香(にほひ)のある油と、それからマツカウ卽ち香(にほひ)かんばしい粉末である。カウは焚き、ヅカウは身を淨める油として僧侶の手に塗り、そしてマツカウは聖殿に撒くのである。この抹香といふのは佛典に屢〻記載されて居る白檀の粉末と全然同じだといふことである。然し宗敎上のお勤めに重要な關係を有つて居ると言ひ得るのはただ眞の香(かう)だけである。

[やぶちゃん注:「白檀」双子葉植物綱ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album当該ウィキによれば、その材は、『置物である仏像、仏教儀式に欠かせない数珠等の仏具をはじめとして、日本では扇子の骨に使ってあおぐことで香りを発散させたり、匂い袋の香料の一つに利用するなど、身近なところで多種多様に使われている。線香の原料の中では最も一般的である。インドの寺院や宗教儀式では、瞑想する際に白檀を芳香させるといわれ、白檀の香りが雑念を払い集中するときに使われる』。『仏教がインドから中国に伝播するにつれ、中国でも仏教儀式に白檀が多く使われるようになった。日本には、仏教とともに中国から伝来したとされる』とあった。

 以下の引用は、底本では全体が三字下げでややポイント落ちである。以下、引用部は同じなので注さない。]

 

香(かう)は〔『僧史略』は述べて居る〕信心之使なり。長者佛を食事に請ぜんと欲せし時、香(かう)を用ひたり。饗宴の前夜常に樓に登り、手に香爐を秉りて[やぶちゃん注:「とりて」。]終夜立ちてありき。斯く爲す度每に、佛は翌日正しく所要の時刻に來り至りぬ。

[やぶちゃん注:「僧史略」「大宋僧史略」。北宋初期に僧賛寧が著わした伝来以来の中国仏教に関する制度の淵源・沿革に関する歴史書。全三巻。九九九年に重修が成立している。]

 

 此文句は香(かう)は、燃ゆる供物であるから、信者の敬虔な願望を表象して居る、ことを明らかに示して居る。然しまた他の事をも表象して居り、佛敎文學に幾多の顯著な比喩を供給して居る。そのうち、それは中々に興味あるものであるが、祈禱のうちに出來(しゆつたい)するのがある。次記のは「法事讃」から引用したものであるが、その著しい一例である、――

 

願我身淨如香爐   願我心如智慧火

念念焚燒戒定香  供養十方三世佛

 

註 戒とは行爲及び思想に於て淸淨の戒律を守ること。定とは(日本の佛敎徒は之を禪定と呼んで居る)冥想の高尙な形式。

[やぶちゃん注:以上の註は、底本では、さらにポイント落ちで四字下げ。

「法事讃」浄土教の祖である善導の五部九巻の著作の中の一つ。以下、「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「香偈」の解説にある、現代仮名遣の読みを添えておく。

   *

願我身淨如香爐(がんがしんじょうにょこうろ)

願我心如智慧火(がんがしんにょちえか)

念念焚燒戒定香(ねんねんぼんじょうかいじょうこう)

供養十方三世佛(くようじっぽうさんぜぶ[やぶちゃん注:ママ。])

   *]

 

 時々佛敎の說敎で、有德[やぶちゃん注:「うとく」。]な努力で因果を破滅することを淸淨な炎で香(かう)を焚くことになぞらヘ――時々また、人間の一生を香(かう)の煙に喩へる。眞宗の僧侶明傳は、その『百通切紙』(『ヒヤクツウキリカミ』)に於て、『クジツカデウ』卽ち『九十箇條』といふ佛書から引用して、

 

香を燒く事は香のある間は火のもゆれば煙が立つなり。此の地水火風の借ものの口より息の出るはかの煙の如し。消はててひえ灰となるは我等野邊の薪となりはてて空キ[やぶちゃん注:「むなしき」。]灰となるに譬へて見[やぶちゃん注:「みる」。]とのことなり矣。

と言うて居る。

[やぶちゃん注:「矣」(音「イ」)は漢文の断定の終助字で読まない。

「明傳」(みょうでん 寛永九(一六三二)年~宝永六(一七〇九)年)は、江戸前期の真宗僧。小石川伝通院に修学し、学名を「龍山」と号した。備中国小田郡笠岡(現在の岡山県笠岡市)浄土真宗本願寺派浄心寺に入寺して「明伝」と改名した。

「百通切紙」全四巻。「浄土顕要鈔」とも称する。明伝の編で延宝九(一六八一)年成立、天和三(一六八三)年板行された。浄土真宗本願寺派の安心と行事について問答形式を以って百箇条で記述したもので、真宗の立場から浄土宗の教義と行事を対比していることから、その当時の浄土宗の法式と習俗などを知る重要な資料とされる。後、明治になって大分出身の真宗大谷派の僧長岡乗薫が、江戸後期の真宗僧で京の大行寺(だいぎょうじ)の、教団に二人しか存在しない学頭の一人であった博覧強記の学僧信暁僧都(安永二(一七七三年?~安政五(一八五八)年:「御勧章」や仏光版「教行信証」の開版もした)の没年板行の「山海里(さんかいり)」(全三十六巻)と、本書とを合わせて翻刻し、「通俗仏教百科全書」(全三巻)と改題して刊行しており(開導書院・明治二三(一八九〇)年)、小泉八雲の旧蔵書にそれがあって、幾つかの作品の原拠となっている。] 

 又信者は悉くこの世の香(かう)の匂によつて想ひ出さなければならぬ筈の彼(あ)の香の極樂についても語つて居る。

 

第三十二の妙香合成の願に、『皆以無量雜寶百千種香而共合成嚴飾奇妙超諸人天其香普薰十方世界■〔→菩薩〕聞者皆修佛行矣』と。此願により上代上根上智の人は異香を嗅ぐ人あり我等は下根下智の故に異香を嗅ぐことかなはず然れども本尊の前の香のにほひを嗅ぎ奉る時極樂の異香よと心得て佛恩の稱名相續すべきものなり。

[やぶちゃん注:「■」は底本では奇妙な字――「寸」を上下に配した字であるが、上部は擦れており、そのような漢字も存在しない――が挟まっていて、判読出来ない。しかし、これは殆んど同じものが、「佛說無量壽經」に出ており、そこでは「菩薩」の二字となっていることから、以上のような特殊な仕儀を施した。本引用書を原拠の一部としている「通俗佛敎百科全書」の「第三卷」の「第九十二 香を燒(た)く事」(国立国会図書館デジタルコレクション)で確認してみたところ(ここは「百通切紙」の原拠パート)、訓読された形で「菩薩」となっていることが、判った。以下に電子化しておく(句読点や記号を挿入し、段落を成形した。読みは一部に留めた。踊り字「く」は正字化した)。

   *

 第九十二  〇香を燒(た)く事

 一、問ふ、「佛前に於て香を燒く文證(もんしよう)ありや。」。

 答ふ、「「法事讃」の下(げ)十五紙(し)に、『願(ねがはく)は我(わが)身淨(きよ)きこと香爐の如く、願くは我心知惠の火の如くにして、念々に戒定香(かいじやうかう)を梵燒(ぼんしよう)して十法三世(じつぱうさんぜ)の佛(ぶつ)を供養し奉る』と。又、經には、「散華燒香」と說(とけ)り。」

 問ふ、「香を燒く心地、如何(いかん)。」。

 答ふ、「九十(くじう)箇條に、『香を燒くとは、香のある間(あひだ)は火のもゆれば、烟が立つなり。此(この)地・水・火・風の借物(かりもの)の口より息の出(いづ)るは、彼(かの)煙の如し。消果(きえはて)て冷(ひへ)た灰となるは、我等、野邊の薪(たきゞ)となり果(はて)て、むなしく灰となるに譬(たとへ)て見よ』とのことなり、と。私(わたくし)に云く、「第三十二」の「妙香合成(がうじよう)の願(ぐわん)」に、『皆無量雜寶百千種香(かいむりやうざつぽうひやくせんしゆ)を以(も)て、共に合成(がいじよう)せり。嚴飾(ごんじき)奇妙にして、諸(もろもろ)の人天(にんてん)に超(こへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。其の香、普(あまね)く十方世界に薰(くん)ず。菩薩、聞く者、皆、佛行を修す』と。此願に依(よつ)て、上代上根上智の人は、異香を齅(か)ぐ人、あり。我等は、末代下根下智の故に齅ぐこと能はず、と。然(しか)れども、本尊の前の香のにほひを齅ぎ奉るとき、極樂の異香よ、と、心得て、佛恩の稱名相續(そうぞく[やぶちゃん注:ママ。])すべきこと、肝要なり。

   *]

 

 

        

 然し日本に於ける香(かう)の使用は宗敎上の儀式に限られては居ない。それどころか、より高價な種類の香(かう)は主として社交的娛樂の爲めに製造せられる。香(かう)を炷く[やぶちゃん注:「たく」。]ことは十三世紀以來常に貴族の娛樂であつたのである。多分讀者は日本の茶の禮法とその佛敎に關する珍らしい來歷とに就いて耳にせられた事があらう。また日本の骨董を蒐集する外國人はいづれも、そんな禮法が或る時代に到達した贅澤について――以前それに使用した美しい器具の質によつて充分に證明される贅澤について――幾分か知つて居られると自分は想ふ。が茶の禮法よりももつと細々したもつと金のかかる――その上もつと興味のある――香(かう)の禮法があつたものである、いな今猶ほあるのである。音樂、縫取り、作歌、及び古風な女子敎育の他の部門のほかに、明治前の時代の若い淑女は三通りの殊に優雅な藝を習ふものと期待されて居た、――卽ち、花を活ける術(イケバナ)禮法に叶つた茶立ての術(チヤノユ或はチヤノヱ)並びに香會の作法(カウクワイ・或はカウヱ)であつた。香會は足利將軍時代よ[やぶちゃん注:異様だが、原本通り、文章途中で割原註(但し、ポイント落ちで全体が四字下げ)を入れた。以下も同じであるので、注さない。]

 

註 女の子は今猶ほ花を活ける術と、幾分退屈ではあるが優美なチヤノユの作法とを敎はる。佛敎の僧侶は後者の敎師として久しく名を博して居る。門弟が或る程度に上達すると、免狀卽ち證明書を授かる。そんな儀式に使ふ茶は著しく佳い匂の粉末の茶で、その質最上のものは餘程の高價を呼ぶ。

 

り前に創案されたもので、德川治世の平和時代に大いに流行した。將軍職の沒落と共に流行(はや)らなくなつたが、近時や〻復活した。が然し、再び古の[やぶちゃん注:「いにしへの」。]意味で眞に流行るやるにはなりさうに無い、――一つはその會合は到底復活の出來ない、世に稀な、優雅な社交形式であつたからと、今一つはそれは金が掛かるからである。

 カウクワイを自分は『インセンス・パアテイ』と譯して居るが、『パアテイ』といふ語を自分は『骨牌[やぶちゃん注:「かるた」。]のパアタテイ』『ホヰストのパアテイ』『將棊(チエス)のパアテイ』といふやうな複合詞の時に有つ[やぶちゃん注:「もつ」。]意味に用ひるのである。それはカウクワイはただ競伎[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]を――頗る珍らしい競伎を――する目的で行はれる集會だからである。香(かう)の競伎は幾種もある。然しその何れに於ても勝負は懸かつてただ匂だけで種々異つた香(かう)を想ひ出して其名を舉げることが出來るか出來ないかに在る。カウクワイのうちでジツチユウカウ(『十炷香』)といふ種類のが一番面白いと、一般に承認されて居る。それでそれをどう演ずるのか自分は讀者に語らう。

 

 此の遊戲の日本の名、否寧ろ支那の名の『十』といふ數字は十種類を指すのでは無くて、ただ包が十通りあることを示して居るのである。といふのは十炷香は、最も興味があるほかに、香(かう)の競伎中最も簡單なもので、ただ四種の香(かう)で行ふからである。一種はその會に招かれた客が供給しなければならぬ、そして三種はその娛樂を客に與ふる人が提供するのである。この後(のち)の三種の香を――通例百切レ入(はい)つて居る紙包に納めてあるが――四組にわけて、一組一組その質を示すやうに番號を附けるか又は印(しるし)を附けるかした別々の紙に包む。だから一番といふ部類の香(かう)に包が四つ出來、二番の香(かう)に四つ、三番の香(かう)に四つと――全體で十二包出來る。然し客が持參した――いつも『客香』と呼ぶ――香は分けない。『客』といふ意味の支那文學の略字を記した一つの包に入れて置く。だからして先づ總計十三包あるのである。が三つを、次のやうにして、手前の試みに、――香道の言葉でいへば――「試(ため)し」に使ふのである、

 この競伎を六人の――演伎者の數には制限の規則は無いけれども――パアテイで行ふと假定しよう。その六人が一列に――座が狹ければ半圓に――座を取る。然し接近しては坐らぬ、それは直ぐに解る理由によつてである。すると主人が、若しくは香炷きの役を命ぜられた人が、一番と分類された香の一包を取り上げて、それを香爐で焚いて、その香爐を、『これが一番の香であります』と披露して上席を占めて居る客に渡す。その客は香會に要

 

註 日本のザシキ卽ち客間で客の占める場處はその部屋の床(とこ)から數へる。最も敬はれて居る人の場處は床の直ぐ前で、これが第一席で、後にそれから、通例左へ、數へるのである。

 

せらる〻優雅な禮式に從つてその香爐を受け取り、匂を吸ひ、其器を自分の次の人に渡す、と其人はそれを同樣に受け取つて第三席の客へ渡す、とその人はそれを第四席の人に渡す。順にさうする。その香爐が席(せき)を一𢌞りすると、それを香(かう)を焚く人へ返す。二番の香(かう)の一包、三番の香の一包、それも同樣に取り上げ、披露をして試す。が『客香』には試しを行はぬ。競伎者は試した香(かう)の匂の差異(ちがひ)を覺えて居なければならぬ、そして客香の薰りの質(たち)が違つて居るといふだけのことで、適當な時機に客香を言ひ當てることを期待されて居るのである。

 斯くして原(もと)の十三包が「試し」で十に減つてから、競伎者は銘々小さな――通例金蒔繪の――十枚一組の――その一組一紙別な裝飾がしてある――符(ふだ)を貰ふ。その符(ふだ)は裏だけに裝飾がしてあるので、その裝飾は大抵いつも何かの花模樣である。例へば或る一紙は金で菊の飾がしてあり、今一組は燕子花[やぶちゃん注:「かきつばた」。]の叢[やぶちゃん注:「むら」と読んでおく。]、今一つは梅の枝、といつた具合である。然しその符(ふだ)の表には番號又は印(しるし)が附いて居て、一組のうちには、『一』といふ番號の符が三枚、 『二』といふ番號の符が三枚、『三』といふ番號のが三枚、そして『客』といふ意味の文字のあるのが一枚ある。この組になつた符を配つてから、『符箱』と稱する箱を第一席の競技者の前に置く。これて本當の競伎の準備が出來たのである。

 香炷者(かうたき)は小さな衝立の役へ退り[やぶちゃん注:「しざり」あるは「さがり」。]、香(かう)の平たい包を骨牌を切るやうに切つて、一番上に出た包を取り、その中に入つて居る香(かう)を香爐に入れ、それから座へ歸つて、その香爐を𢌞すのである。固よりの事、今度はどの種類の香を使つたかといふことは披露はせぬ。香露が手から手へと渡る時、競伎者は銘々香(かう)を吸つて、その嗅いだ香(かう)の印又は番號だと想ふ、印又は番號の附いて居る符(ふだ)を一枚符箱に入れる。例へば、若しその香(かう)を『客香』だと思へぱ、「客」といふ意味の字が書いてある自分の符を一枚箱の中へ入れ、二番の薰を吸うたと信ずれば、『二』と番號のある符を二枚その箱に入れるのである。一巡すると、符箱と香爐と兩方香炷者へ戾す。香炷者はその六枚の符を箱から取り出して、皆が推量した香が入つて居た紙にそれを包む。その符が――競伎者は銘々自分が有つて居る組符の上に描いてある特別な模樣を覺えて居ることだから――全體の記錄にもなれば個人の記錄にもなるのである。

 殘りの九包の香(かう)も同樣に、上を下、下を上へと包を切つて上に出た偶然の順序に從つて、焚いて判斷をする。香(かう)を皆使つてしまふと、符をその包から取り出して、公然と紙に書き記し、當日の勝利者を披露する。自分はそんな記錄の飜譯を此處へ出す。此の競伎の混雜(ごたごた)總てを、殆ど一目で、說明する用を爲すであらう。

 此の記錄に據ると、「若松」と呼ぶ模樣の裝飾のある符を用ひた競技者は二つしか誤をしなかつたが、『白百合』の組を手にして居た人は正しい推量は一度したきりであつた。が十度續けて正確な判斷をすればそれは全く手柄である。嗅覺神經は競伎の終はらぬずつと前に幾らか麻痺しがちである。だから香會の途中、間を置いて時々、純粹の酢で口を漱ぐのが習俗である。斯くすると感受性が稍〻恢復する。

[やぶちゃん注:以下、底本では「香會記」の図表が載る。]

 

Plate1_20191103134101

 

 前記記錄の日本の原文には競伎者の姓名、その娛樂の年月日、それからその會を行うた場所の名が添へてあつた。或る家ではそんな記錄悉くを、殊にその爲めに造つた一册の書に、書き込む習慣になつて居て、香會競技者に、過去の如何なる競技の歷史に屬する如何なる興味ある事實にも、早速參照が出來る索引を附けて居るのである。

 讀者は使用された四種の香(かう)が甚だ可愛らしい名で呼ばれて居たことに、氣が附いたであらう。例へば、第一に記載されて居る香(かう)は、薄くらがりに對する詩人が使ふ名――『タゾガレ』(文字通りに言へば『誰れが其處に居るのか』又は『誰れか』と[やぶちゃん注:誰何(すいか)すること。]いふ意味)呼ばれて居る。此語は、香(かう)と關係して、黃昏に待つて居る戀人に、眼の前に麗はしい人が來て居る事を想はせる、化粧用香料をにほはせる語である。恐らくは讀者はかういふ香(かう)の調製について稍〻好奇の念を覺えらる〻であらう。自分は二種に對して日本の處方を與へることが出來る。然し揭げてある材料の全部は西洋でのこれこれの品と突き止めることが出來なかつた。

[やぶちゃん注:「此語は、香(かう)と關係して、黃昏に待つて居る戀人に、眼の前に麗はしい人が來て居る事を想はせる、化粧用香料をにほはせる語である。」原文“word which in this relation hints of the toilet-perfume that reveals some charming presence to the lover waiting in the dusk.”。平井呈一氏は恒文社版(一九七五年刊)「香」では、『このことばは、この香に関連して、夕暮の薄暗がりに待っている情人のところへ、見目善き人がきていることを表わす、空炷(そらだ)きのにおいを暗示しているのである。』と訳しておられ、遙かに文学的香気に溢れた訳となっている。

 以下、「山路の露」(やまぢのつゆ)及び「梅花」(ばいくわ)という名の香のレシピが載る。冒頭注で述べた通り、下方の大きな「}」などがあるので、画像で示した。後者は改ページとなっているため、画像が分離しているが、合成した(下線部は下方の旧画像での補正を指す。新底本の上のものは、合成は行っていない)。なお、「山路の露」というのは、「香合わせ」の「源氏香」に掛けた名である。平安末から鎌倉初期に書かれたとされる「源氏物語」の続編物の一つに「山路の露」という作品があるからである。作者は「源氏釋」の著者として知られる世尊寺伊行(これゆき)とも、その娘の建礼門院右京大夫ともされる。但し、薫と浮舟の後日談乍ら、「夢の浮橋」の最後から事態は全く進展しないままに終わり、文章も拙劣で、本家に比すべきもない駄作である。]

 

Plate2_20191103134101

 

[やぶちゃん注:分量の一「匁」(もんめ)は一貫の千分の一で三・七五グラム。一「オンス」(ounce)は約二十八・三五グラム。一「分」(ぶ)は〇・三七五グラム。一「朱」(銖)は一・六グラム。ここでは下位単位の「分」が上に配されてある。

「ヂンカウ(沈香)」狭義には香木として有名な沈香類(例えば、アオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha など、複数種ある)。別名「伽羅(きゃら)」。

「チヤウジ(丁子)」バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum。所謂、「クローブ」(Clove) のことである。

「クンロク(薰陸)」「陸(ろく)」は呉音。別に「くんりく」と読んでも構わない。中国に於ける「薫陸」は、インド・ペルシャなどで産する一種の樹脂(本邦では「乳香」と同義として起原植物をムクロジ(無患子)目カンラン(橄欖)科ボスウェリア属 Boswellia carteriiとするものの、中国では乳香とは別起原で、ウルシ科Anacardiaceae の「薫陸香」(クンロクコウ)という植物と規定しているらしい。しかし、「クウロクコウ」という植物は、いくら調べても実在せず、どうもこれは、カンラン科 Burseraceae で「偽乳香」の原料とするインドニュウコウジュ(インド乳香樹)Boswellia serrata や、ウルシ科で「洋乳香」の原料とするカイノキ属マスティクス(マステック)Pistacia lentiscus(属名で判る通り、ピスタチオの仲間)などではないかと推測されているようである)から、香を製する。但し、本邦産のものは「和の薫陸」と称し、岩手県や福島県で産する樹脂の化石を原料とする。琥珀に似ているが、コハク酸は含まない。やはり、粉末にして香料にする。

「ハツカウ(學名アルテミシア・シユミヂアナ)」原文“Hakkō (artemisia Schmidtiana)”(学名の属名の頭の小文字はママ)。キク目キク科キク亜科ヨモギ属アサギリソウ(朝霧草)Artemisia schmidtiana。「はっこう」の漢字表記は不詳だが、ヨモギ属であるから、「こう」は「蒿」と考えられる。

「ジヤカウ(麝香)」鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus のジャコウジカ類の♂の下腹部のある大きな麝香腺から発情期に約三十グラムの麝香が採取される香料。ジャコウジカの博物誌は、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「カフカウ(?)」不詳。平井呈一氏も『(?)』のままである。

「ビヤクグン(白檀)」ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum albumウィキの「ビャクダン」を参照されたい。

「カンシヨウ(甘松)」キク亜綱マツムシソウ目オミナエシ科 Nardostachys 属カンショウコウ(甘松香)Nardostachys grandiflora 。ヒマラヤ地方原産。茎は高さ四~八センチメートル。葉は楕円形で、根生葉と一~二対の茎葉がある。花は小形で多数頂生する。根茎を乾燥したものは芳香があり、薬用・香料としたが、現在では生薬としては、殆んど、使用されていない。

「クワクカウ(藿香)」シソ目シソ科カワミドリ属カワミドリ Agastache rugosa 。草体全体に特有の強い香りを有する。いつもお世話になっている「跡見群芳譜」の「かわみどり(川緑)」に漢名「藿香」とある。ウィキの「カワミドリ」も参照されたい。

「ヤウモツカウ(?)」平井呈一氏は現代仮名遣で『ヨウモッコウ』とされるが、漢字表記は添えていない。不詳。ただの「モッコウ」(木香)ならば、キク目キク科トウヒレン属 Saussurea の Saussurea costus または Saussurea lappa の孰れかを指す。インド北部原産の多年生草本で、根を「木香(モッコウ)」と称した生薬。芳香性健胃作用がある。

「リユウナウ(龍腦)」「龍腦」アオイ目フタバガキ科 Dryobalanops 属リュウノウジュ Dryobalanops aromatica の樹幹の空隙から析出される強い芳香を持ったボルネオール(borneol)。ボルネオショウノウとも呼ばれる二環式モノテルペン。ウィキの「ボルネオール」によれば、『歴史的には紀元前後にインド人が』、六~七『世紀には中国人がマレー、スマトラとの交易で、天然カンフォルの取引を行っていたという。竜脳樹はスマトラ島北西部のバルス(ファンスル)とマレー半島南東のチューマ島に産した。香気は樟脳に勝り価格も高く、樟脳は竜脳の代用品的な地位だったという。その後イスラム商人も加わって、大航海時代前から香料貿易の重要な商品であった。アラビア人は香りのほか』に、『冷気を楽しみ、葡萄・桑の実・ザクロなどの果物に混ぜ、水で冷やして食したようである』とある。]

 

 香會に使用する香(かう)は、その催の式に從つて、その價、小切れ――普通直徑一吋の四分ノ一[やぶちゃん注:「吋」は「インチ」。一インチは二・五四センチメートルであるから、六十三ミリメートル。]より大ならざる小切れ――百個の包每に、二弗[やぶちゃん注:「ドル」。]半よりして三十弗に至る。時には一包三十弗以上にも値する香を用ひる。それにはその匂が『蘭の花に麝香の交じつた』のに喩へられて居るランジヤタイが入つて居る。然しランジヤタイよりも貴重な――賣られはしない――香(かう)が、その調合ででは無くてその來歷で尊い香(かう)が、ある。それは幾世紀の昔佛敎の傳道者が支那或は印度から招來して、貴顯若しくは高位の方に獻上した香(かう)である。日本の古寺にはそんな舶來の香(かう)をその寳物のうちに有つて居るのが數多くある。そして極稀に此價値を超絕して居る材料の少しを――恰も歐洲で、頗る異常な場合に、幾百年の年數を經た葡萄酒を取り出して宴會の光榮を添へるやうに――香會に寄贈するのである。

[やぶちゃん注:「二弗半よりして三十弗に至る。時には一包三十弗以上」本書は明治三二(一八九九)年刊であるが、二年前の明治三〇(一八九七)年の為替レートでは一ドルは二円である。明治三三(一九〇〇)年の白米十キログラムの東京での小売価格は一・一円で、大卒初任給は二十三円であった。当時の一円を現在の五千円から一万円相当と低く見ても、安くて二万五千円で、高級品は六十万円超となる。

「ランジヤタイ」余りに有名なもので前にも出て無視したのだが、ここでウィキの「蘭奢待」を引いておく。「蘭麝待」とも表記する。『東大寺正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香と謳われる』。『正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に』「東」・「大」・「寺」の『名を隠した雅名である』。『その香は「古めきしずか」と言われる。紅沈香と並び、権力者にとって非常に重宝された』。現在の重さは十一・六キログラムで『錐形の香の原木』である。『成分からは伽羅』(前注「ヂンカウ(沈香)」参照)『に分類される』。『樹脂化しておらず』、『香としての質に劣る中心部は鑿』『で削られ』、『中空になっている(自然に朽ちた洞ではない)。この種の加工は』九〇〇年頃に『始まったので、それ以降の時代のものと推測されている』。『東南アジアで産出される沈香と呼ばれる高級香木。日本には聖武天皇の代』(七二四年~七四九年)に『中国から渡来したと伝わるが、実際の渡来は』十『世紀以降とする説が有力である。一説には』「日本書紀」や『聖徳太子伝暦の推古天皇』三(五九五)年とする『説もある』。『正倉院の中倉薬物棚に納められており、これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取っている』。『徳川家康も、切り取ったという説があったが』、慶長七(一六〇二)年六月十日、『東大寺に奉行の本多正純と大久保長安を派遣して正倉院宝庫の調査を実施し』、『蘭奢待の現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった』(「當代記」の同日の条に記載がある。太字は私が、本作の冒頭での記載が誤りであることを示すために附したものである)。同八年二月二十五日には宝庫を開封しての『修理が行われている』(「續々群書類從」所収「慶長十九年藥師院實祐記」に拠る)』。二〇〇六年に『大阪大学の米田該典(よねだかいすけ。准教授、薬史学)の調査により、合わせて』三十八『か所の切り取り跡があることが判明している。切り口の濃淡から、切り取られた時代にかなりの幅があり、同じ場所から切り取られることもあるため、これまで』五十『回以上は切り取られたと推定され、前記の権力者以外にも採取された現地の人や日本への移送時に手にした人たち、管理していた東大寺の関係者などによって切り取られたものと推測される』とある。]

 香會は、茶の湯の禮の如くに、頗る複雜なそして古風な作法を守ることを强ひる。が此の題目に興味を感ずる讀者は多くあるまいから、準備と警戒とに關する規則の一二を舉ぐるだけに止めよう。先づ第一に香會に招待された人はその會に出來得る限り臭ひ無しで列席するやうに要求されて居る。例へば、淑女は髮油を用ひてはならず、匂のある簞笥に收(しま)つてあつた衣物はどんな衣物も着てはならぬ。その土また、客はその競伎の準備として時間長く浴みをしなければならず、その集會に行く前には極めて輕いそして臭の一番無い食物を食べなければならぬ。競伎中部屋を去る事、或は戶窓を開く事、或は要も無い談話に耽る事は禁じられて居る。最後に自分は述べてよからうが、香を判斷する間に、競技者は呼吸を三息(いき)より少からず五息(いき)より多からずするものと期待されて居るのである。

 今の此の經濟的時代に在つては、香會は、大名の時代に、王侯の如き寺院々主の時代に、また武人貴族の時代に執つたのとは當然のこと遙に質素な形式を執つて居る。競伎に必要な器具の完全な一揃が今五十弗位で求められる。然しその材料は粗末極つたものである。古風な器具の揃は途方も無い高價なものであつた。幾千弗に價するのがあつた。香炷者の卓――硯筥[やぶちゃん注:「すずりばこ」。]、紙箱、符箱等――種々な臺――此等は極めて高價な金蒔繪のものであつた。――香餌(かうはさみ)その他の器具は巧妙な細工の、金のものであつた。――そして香爐は――貴重な金屬のものであらうと、唐金であらうと、或は陶器であらうと――いつも、知名な美術家の意匠に成つた骨董品であつた。

 

 

        

 佛敎の儀式での香(かう)の本來の意義は主として表象的であつたが、佛敎よりも古い種々な信仰が――恐らくは此の人種獨得のものもあらうし、多分支那若しくは朝鮮から出たものもあらうが、――夙に日本に於ける香(かう)の民衆的使用に影響を與へ始めたと想像すべき立派な理由がある。その匂が屍體と去つた許りの魂との惡鬼除けになると考へて、今もなほ香(かう)を屍體の前で焚く。そして百姓は鬼瓦とか病氣を司どる惡魔だとかを追ひ拂ふ爲めに香(かう)を焚く事が能くある。だが前には靈魂を追ひ出す爲めにも用ひたがそれを呼び出す爲めにも用ひたものである。それを種々な氣味のわるい儀式に用ひたことがほの見られる文句が、古い戲曲や稗史[やぶちゃん注:「はいし」。ここは「作り物語・小説」の意。]のうちに見出される。支那から輸入された一種特別の或る香(かう)は、人間の魂を呼び出す力を有つて居る、と言はれて居る。次記のやうな古昔(むかし)の戀歌に引き合ひに出され居る魔力のある香(かう)がそれであつた。

 

    亡き魂(たま)を返すためしもありときく

          待つ夜に炷かんたきものもがな

[やぶちゃん注:短歌嫌いの私には、本首の出典は不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 『山海經』といふ支那の書物にこの香(かう)についての興味ある記述が載つて居る。ホワン・フワン・ヒヤン(日本の發音でハンゴンカウ)卽ち『反魂香』で、東海のほとりの、ツオ・チヤウ卽ち『祖州』で製造されたものであつた。死んだ人の――或る典據に從へば、生きて居る人のでも――その魂を呼び出すには、その香(かう)を少し炷いて、その人の靈のことをじつと思ひつめて、或る定つた言葉を唱へさへすれば宜いのであつた。すると、その香(かう)の煙の中に自分が記憶して居るその顏と姿とが現はれるといふのである。

[やぶちゃん注:「『山海經』といふ支那の書物にこの香についての興味ある記述が載つて居る」不審。載っていない。ウィキの「反魂香」によれば、『焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上の香』。『もとは中国の故事にあるもので』、中唐の白居易の詩「李夫人」に『よれば、前漢の武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという』(小泉八雲は本篇の終わりでそれを語っている)。『日本では江戸時代の』「好色敗毒散」「雨月物語」『などの読本や、妖怪画集の』「今昔百鬼拾遺」、『人形浄瑠璃・歌舞伎の』「傾城反魂香」などの『題材となっている』。「好色敗毒散」には、『ある男が愛する遊女に死なれ、幇間の男に勧められて反魂香で遊女の姿を見るという逸話があり、この香は平安時代の陰陽師・安倍晴明から伝わるものという設定になっている』。『また、これは『落語の「反魂香」「たちぎれ線香」などに転じ』ていった。『なお』、『明朝の万暦年間に書かれた体系的本草書の決定版』「本草綱目」の「木之一」の「返魂香」には、次のように記載されている(私が別個に正字で引き、句読・記号を打った)。

   *

返魂香【「海藥」。】[やぶちゃん注:「海藥」は引用した書名。]

集解【珣曰、按「漢書」云、『武帝時、西國進返魂香。』。「內傳」云、『西域國屬州有返魂樹、狀如楓、柏花、葉香聞百里。采其實於釡中水煑取汁、鍊之如漆、乃香成也。其名有六、曰「返魂」・「驚精」・「囘生」・「振靈」・「馬精」・「却死」。凡有疫死者、燒豆許薫之再活、故曰返魂。』。時珍曰、『張華「博物志」云、『武帝時、西域月氏國、度弱水貢此香三枚、大如燕卵、黑如桑椹。值長安大疫、西使請燒一枚辟之、官中病者聞之卽起、香聞百里、數日不歇。疫死未三日者、薫之皆活、乃返生神藥也。此說雖渉詭怪、然理外之事、容或有之、未可便指爲謬也。】

   *

以上の「内傳」の部分によれば、『西海聚窟州にある返魂樹という木の香で楓または柏に似た花と葉を持ち、香を百里先に聞き、その根を煮てその汁を練って作ったものを返魂といい、それを豆粒ほどを焚いただけで、病に果てた死者生返らすことができると記述して』おり、また、『武帝の時』、『長安で疫病が大流行していたおり、西域月氏国から献上された香には病人に嗅がせるだけでたちどころにその生気を甦えらせるという効能で知られていたが、上質なものになると』、『死に果てた者でも』三『日の内であれば』、『必ず』、『この香で蘇らせることができた』と記述されていとある。但し、これらについて、「本草綱目」の作者李時珍は、上記の通り、奇怪にして道理を外れていて誤謬としか思われないと『批判している』とある。しかし、八雲先生が何をどう間違えて「山海經」や「東海」「祖州」なんどという語を引き出してしまわれたものか、よく分らない。なお、「反魂香」は「ホワン・フワン・ヒヤン」“Fwan-hwan-hiang”とあるが、現行の拼音(ピンイン)では「Fáng hún xiāng」でカタカナ音写するなら「ファン・フゥェン・シィァン」、「祖州」は「ツオ・チヤウ」“Tso-Chau”とするが、「zǔ zhōu」で「ヅゥー・ヂォゥ」である。★【2025年4月16日追記】私は昨年四月から、『「和漢三才圖會」植物部』プロジェクトを始めており、本文・訓読・電子化注を完備しているのであるが、幸いにして、『「和漢三才圖會」植物部 卷第八十二 木部 香木類 返魂香』は昨年六月に公開してある。本ページは、小泉八雲の日本での作品の中で、唯一、私が、当時、全く興味を持てなかった作品であったため、今回、校正したところ、ミス・タイプが異常に多かった。甚だ、小泉八雲先生に申し訳ない気持ちでいっぱいなのだが、せめても、それをリンクすることで、八雲先生の御魂を蘇らせることは出来ずとも、お詫びとしたい。

 昔の幾多の日本並びに支那の書物に、この香(かう)に就いての有名な話が――漢時代の支那の皇帝武に就いての話が記載されて居る。その皇帝が美しい寵姬の李夫人を亡はれた[やぶちゃん注:「うしなはれた」。]時、氣が狂はれはしまいかと心配された程に痛く悲み歎かれた。が李夫人を慕ひ思はる〻心をそらさうとのあらゆる努力も甲斐が無かつた。或る日皇帝は死なれた夫人を呼びかへさん爲め、反魂香を求めるやう命ぜられた。顧問の人達は、それは徒に悲歎を增すばかりだからと述べて、その意を飜されんことを乞うた。がその助言には一顧も與へず、躬ら[やぶちゃん注:「みづから」。]その式を行ひ――香(かう)を炷いて、李夫人の靈に心をとめて居られた。軈て[やぶちゃん注:「やがて」。]、香(かう)から立ち昇る濃い靑い煙の中に、女の姿がその輪郭を現はした。形が判然として來て、生きて居左折の色を呈し、徐々に明かるくなつた。そして皇帝の眼にその愛人の姿形が認められた。初にはその幻は幽かであつたが、直ぐに生きて居る人のやうに分明になり、刻一刻いよいよ麗しくなるやうに思はれた。皇帝はその幻影に向つてさ〻やかれた、が何の答も得られなかつた。聲高に呼ばれても、その姿は何の合圖をしなかつた。そこで心を制しかねて、その香爐に近寄られた。が、煙に觸れられた刹那に、その幻像は震へて消え失せた。

[やぶちゃん注:「李夫人」前漢の第七代皇帝で漢の最盛期を創った武帝(紀元前一五六年~紀元前八七年)の寵姫。皇后を追贈された。傾城・傾国の歌で知られる(事実、その縁で彼女は入内している)伶人李延年と武将李広利の妹である。皇子を一人生んだ後、病床に就き、若くして亡くなった。病気に罹ってからは、見舞いに訪れた武帝に対し、窶(やつ)れた顔を見せるのは失礼であると、顔を見せなかったという。さればこそ、武帝の意識の中で、彼女の姿は、ずっと、美しく保存され続けたのである。]

 

 日本の美術家は今なほ時折『ハンゴンカウ』の傳說に感興を覺える。つい去年、東京で、新しい掛物の展覽會で、年若い人妻が床(とこ)前で跪いて居て、その魔力ある香(かう)の煙が死んだ夫の影となつて其處へ現はれて居る繪を自分は見た

 

註 千八百九十八年の珍らしい東京發明品のうちに、『ハンゴンサウ』卽ち『ハンゴンの草』といふ名の新種類の紙卷煙草があつた、――これはその煙が反魂香のやうな働をするといふことを思はせる名である。實際また、その煙草の煙の化學作用で、一本々々の吸ひ口に射し込む紙の上に、舞姬の像が判然と現はれ出るのであつた。

[やぶちゃん注:本書の刊行は明治三二(一八九九)年九月のことであるから、この大谷氏に注はなかなかに興味深い事実である。或いは、そのパッケージの元となった原画を小泉八雲は見たのかも知れぬ。但し、江戸中期には煙草のことを別名で「反魂草」と呼んでいた。ただ、ここで小泉八雲が説明している絵を、私は、何かの本の挿絵で見た気がするのである。思い出したら、追記する。

 なお、以下に原本に挿入されてある(底本にはない)絵師不明の「返魂香」の素敵な絵を原本PDFからトリミングし、魂の女には失礼乍ら、明度を上げて見易く補正して掲げる。左下方の絵図外の陰影は本を押さえている図書館員の指の影である。因みに、まだ、しかし……本作の残酷なコーダがありますよ……

Magical-incense

 

 

 死んだ者の姿を眼に見えるやうにする力は、ただ一種の香(かう)だけが有つて[やぶちゃん注:「もつて」。]居るとされては居るが、どんな種類の香(かう)でもそれを焚けば、眼に見えぬ魂を無數に呼び出すものと想はれて居る。それはその煙を食ひに來るのである。『ジキカウキ』卽ち『食香鬼』と呼ばれて居て、日本の佛敎の認めて居る餓鬼三十六界中の第十四界に屬するものである。それは古昔、利欲の念に驅られて、惡るい香(かう)を作るか賣るかした人間の亡靈で、因果の報で今は餓に苦しむ魂となり、その食物をただ香(かう)の煙に求めざるを得ぬ境涯に居るものである。

[やぶちゃん注:ウィキの「餓鬼」によれば、「正法念處經」に書かれた三十六種の餓鬼の中に「食香烟(じきかえん)餓鬼」がおり、『質の悪い香を販売した者がなる。供えられた香の香りだけを食べられる』とあった。]

2019/11/01

小泉八雲 作品集「靈の日本」始動 / 斷片 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Fragment ”は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN ”(「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の巻頭に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月16日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字、傍点「◦」は太字下線に代えた。

 また、本作品集巻頭に配された本篇の挿絵(扉表紙の前のここ)“THE MOUNTAIN OF SKULLS”(「髑髏(どくろ)の山」。絵師は不明)を添えておく(上記“Internet Archive”で落とした原本PDFからトリミングしたが、そこでは、下方のキャプションに、撮影した図書館員の指が被ってしまっている)。なお、本作品集の画像は「日文研」のデータベース「外像」のこちらでも、その画像総て(ここで示すよりはやや鮮明)が閲覧出来る。]

 

 

 靈の日本

 

 

  アリス・フオン・ベールンズ夫人へ

            ありし日のおもひ出に

[やぶちゃん注:底本の書名はここ。献辞はここ。この献呈された“Mrs. Alice von Behrens”なる人物については調べ得なかった。識者の御教授を乞う。因みに、「ありし日のおもひ出に」は原本では、飾りのゴシック字体で“for Auld Lang Syne”(「蛍の光」の原曲題と同じ)である。]

 

 

  夜ばかり

  見るものなりと

  思ふなよ

  浮世なりけり

        日本の古歌

[やぶちゃん注:原本ではここ。引用元不明。識者の御教授を乞う。]



The-mountain-of-skulls 

 

  斷 片

 

 …………………………………………………

 そして山の麓に來たのは日沒の時刻であつた。その場所には何等生命のしるしも、――水のあとも、植物のしるしも、飛ぶ鳥の影も、――なかつた、――ただ荒廢に荒廢を重ねるばかり。そして頂上は天に消えてゐた。

 その時菩薩はその若い道づれに云つた、――『お前が見たいと云った物は見せて上げる。しかしその幻觀の得られる場所は遠い、そして道は惡い。あとから續いてお出でなさい、恐れてはならない、お前に力が授けられます』

[やぶちゃん注:「幻觀の得られる場所」原文は“the place of the Vision”。仏教用語としての「幻觀(げんくわん)」という語を見たことは私はない。仏教には「観想」があるが、幻しのそれというのは「観想」とは無縁である。しかし、大文字に成った“Vision”である以上、何らかの仏教的な特殊な可視的な意識、或いは、観念の特定の状態を指すものでなくてはなるまい。平井呈一氏は恒文社版の「断片」(一九七五年刊「日本雑記 」所収)では『そのまぼろしのあるところ』と訳されており、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の仙北谷晃一氏の訳(同じく「断片」)では『正覚(しょうがく)の地』と訳されている。前者は「幻觀」なんぞのようには躓かずにすんなりと読めるし、後の展開とも何ら齟齬しない。しかし、仙北谷氏の訳は甚だ首を傾げざるを得ない。通常、の「正覚」とは「悟り」と同義で、一般には“perfect enlightenment”などという熟語で示されるものの、これは“vision”という単語の持つ辺縁的意義からも引き出し得ないものと私は思う。vision」とは「視力・視覚・洞察力・先見の明・未来像・脳内に描き出される視覚的幻し・幻想・夢・宗教的幻影」の意である。敢えて訳すなら、最後の意味であって、「仏教の悟り(正覚)に到るまでの修行の過程の中で体験する所の※仮象の擬似現実的幻像※」の意としか採りようがないと思う。大方の御叱正を俟つものの、私は仙北谷氏の「正覚」は明らかに誤訳であり、田部氏のそれは、造語に近い似非仏教用語にしか見えず、平井氏のそれこそが、全き正当にして正統な訳語であると感ずるものである。

 

 登つて行くに隨つて、たそがれが彼等の𢌞りに暗くなつた。そこにはきまつた道がない、以前に人の來た跡もない、そして道は足の下で轉(ころ)がつたり動いたりする不秩序な破片の際限のない山の上を通るのであつた。時々場所から外れた一塊が、うつろな反響をたててがらがらと落ちる事もある。――時々踏まれた物が空虛な貝殼のやうに破れる事もある。……星が現れて光りが微動した。――そして暗黑が深くなつた。

 案內しながら菩薩は云つた、『恐れてはならない、道は物すごが危險は少しもない』

 星の下を彼等は登つた、――超人間力の助けによつて、早く早く登つた。高い霧の區域を彼等は通つた。そして彼等は登るに隨つてたえず廣くなつて行く白い海の潮のやうな、音のない雲の海を遙か足下に見た。

 

 何時間も彼等は登つた、――そして見えない形が重い穩かな音をたてて彼等の足の下で碎けた、――そしてかすかな寒い火が碎ける每に光つて消えた。

 それから一度この巡禮の靑年は、石でない何か滑らかな物に手を置いて、――そしてそれをあげた、――そしてかすかに頰のない嘲るやうな髑髏を見た。

 『そんなにためらつてはいけない』導師の聲が勵ました、――『達すべき頂上は未だ未だ遠い』

 

 暗黑の中を彼等は登つた、――そしてたえず彼等の足下に柔らかな變な破碎を感じた、そして冷たい火がかすかに出て消えるのを見た、――遂に夜の幕は灰色になつて、星が光を失ひ始めて、東が明るくなり出した。

 それでも未だ彼等は登つた、――超人間力の助けによつて――早く早く、登つた。彼等の周圍には今、死の寒さ、――及び恐るべき沈默があつた。……黃金の焰は東に燃えた。

 その時始めてこの巡禮の眼に、この絕壁はその赤裸々を示した、――そして彼は震へた、――それから戰慄して恐怖した。何故なれば、そこには土地がなかつた、――彼の下にも、彼の𢌞りにも、彼の上にも、――ただ髑髏及び髑髏の破片及び骨の塵の巨大な、そして測られない山――潮の海藻の中にあるごつごつした貝殼のひらめきのやうに、その堆積の中に散亂して居るぬけた齒のある、――山があるだけであつた。

 『恐れるに及ばない』菩薩の聲が叫んだ、――『ただ心の强い人だけが、その幻觀を得られる場所へ行かれる』

 

 彼等のうしろに世界は消えた。河もない、ただ下には雲、上には空、その間は髑髏の山、――眼の屆かないところまで上の方へ斜になつて居る。

 それから太陽はこの登山者と共に登つた、そしてその光には熱がなかつた、ただ劔のやうに銳い寒さがあつた。そして恐るべき高さの戦慄、それから恐るべき深さの恐怖、それから沈默の恐怖が次第に增加してこの巡禮に壓迫を加へて、彼の足を動かなくした。――そして不意に凡ての力が彼から去つて、彼は夢を見て居る睡眠者のやうに呻いた。

 『さあ、急ぐ事にしよう』菩薩は叫んだ、「日は短い、頂上は未だ未だ遠い』

 しかし巡禮は叫んだ、

 『恐ろしうございます、何とも申上げられない程恐ろしうございます、――そして力はなくなりました』

 『力は歸つて來る』菩薩は答へた。……『今下と上と𢌞りを見て、何が見えるか、云つて御覽なさい』

 『できません』巡禮は震へながらしがみつきながら叫んだ、――『私は下を見られれません。前と𢌞りには人の髑髏の外には何もございません』

 『しかし未だ』菩薩は輕く笑ひながら云つた、――『未だお前はこの山は何でできて居るのか、知らないだらう』

 相手は震へながら、くりかへした、――

 『恐ろしうございます、――何とも云へない程恐ろしうございます。……人間の髑髏の外何もございません』

 『髑髏の山だ』菩薩は答へた。『しかし、よいかね、これは皆お前自身の物だ。銘々それぞれいつかお前の夢と迷ひと望みの巢であつた。一つとして外の人の髑髏はない。悉く、――除外なしに悉く、――數十億の前生に於て、お前の物であつた』

 …………………………………………………

 

[やぶちゃん注:本篇、何か、原拠としたものがありそうにも見えるが、現在まで、原拠とされるものは示されていない模様である。類話を御存じの方は、是非、お教え願いたい。なお、「菩薩」は「修行者」であり、如来になるための前段階の地位を指す広義の称である。なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇について明治三一(一八九八)年五月の中旬の条に『この頃、「どくろの山」(後に「断片」とされる)を七、八回も書きなおしている。「話してくれた人の軟らかな漂う声の印象」を表現するのが難しいと』言っていたとあり、更に五月二十日は、かのフェノロサ夫妻を自宅に訪問し、この『「髑髏の物語」を二人の前で朗読』したとある。小泉八雲の繊細さが、しみじみと伝わってくるエピソードではないか。]

小泉八雲 一對の眼のうち  (岡田哲藏譯) / 作品集「影」全電子化注~了

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ In a Pair of Eyes ”は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”・第二パート“ JAPANESE STUDIES ”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“ FANTASIES ”の掉尾第七話目、則ち、本作品集の最後に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月16日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者岡田哲藏氏については先行する「小泉八雲 夜光蟲(岡田哲藏譯)」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「○」は太字下線、傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三一(一八九八)年三月完成(但し、短いものだが、『五月までかかったとも考えられる』と注記がある)とある。]

 

 

   一對の眼のうち

 

 永久に忘られぬ成熟期の一時、その時、男兒は或る一對の眼より驚くべきもの此世界に無しと悟る。はじめに發見の强意が彼の呼吸を止める、本能的に彼れは視線を傍に轉ず。その幻影は眞實であるには餘りに佳良と思はる。されど間も無く、彼は再び視んと試む、――新たなる恐れを覺えつつ、――現實を恐れ、自己が視らる〻ことを恐れて、――而して見よ、彼の疑念に新たなる歡喜に打たれて分解する。それ等の眼は彼れが想像せるよりも更に驚かる〻――否、彼が續いてそれ等を見る每に益〻恍惚たらしむる。たしかに全宇宙に於て外にか〻る一對の眼はあり得ぬ。何がそれ等の眼にか〻る魅力を與ふるか。それ等は何故に神聖と見ゆるか。……彼れは誰れにか說明を聽かねばならぬと感ず、――彼れの新たなる感情の謎を賢明なる年長者に打ち明けねばならぬと思ふ。それから彼れは彼れの告白をする、笑はれることを微に[やぶちゃん注:「かすかに」、]直覺的に恐れて、然しそれを談るに不思議に新たなる驚喜の感覺を以て。彼れは笑はれる――やさしく、然しそれは、彼れが彼れの質問、――彼れの無邪氣な驚きと臆病な赧顏[やぶちゃん注:「あからがほ」。]とで特に興味あるものとなつた單純の『何故』といふ質問に答へを與へられぬ事實程には彼れを當惑させぬ。何人も彼れに光を與へ難い、然し誰れも皆、子供の彼れの長い魂の眠りから突然覺めて度を失へるに同情し得る。

 思ふにその『何故』は決して十分には答へられまい。然しその問を起こした神祕は斷えず人を誘つて理論を立てさせ樣とする。而して理論は直接の結果を離れて獨立の値を有ち[やぶちゃん注:「もち」。]得よう。若し不可知に關はる古い理論が無かつたら、我々は果たして可知に就て何を學び得たらうか。不可能の追求中に我々はいまだみざりし而して無限に驚くべき可能に躓き當たるのでは無いか。

 

 何故に人間の眼の一對が我々に一時極めて美はしく見え、その時、その眼の輝きを金剛石や紫水晶や碧玉に比すれば、その比較を冒瀆とさへ感ずるのであらうか。何故に我々はその眼を海より深く、日よりも深く、多くの太陽の燦めく霧を含む空間の夜よりさへ深く思ふのであらうか。たしかにそれは唯だ放奔の空想の爲めで無い。か〻る思ひ、か〻る感情は驚くべきものの或る現實の知覺から、――讓られぬものの或る眞實の表現から、――生ずるに相違無い。そこに、眞實に、生の單なる一時があつて、その間は世界が我々の爲めに一對の眼程驚くべき何物も有たぬのである。而して其時、それを見て居ると、我々の逸樂の中を過ぎりて振動する畏怖の戰慄を見出す――それを見たるよりは感じたる、或る物によりて成さる〻畏怖、一の潜在、一の力、――宇宙的エーテルほどに測り難き深さのさす影である。それは生くる者の或る强き急激な刺戟を通じて、我々は――天上を超越する一瞬間――決して以前に想像せず、また決して再び表現せざるべき一の實在の面影を促へたるが如くである。

[やぶちゃん注:「宇宙的エーテル」“the cosmic Ether”。「小泉八雲『究極の問題』(大谷正信譯)」の私の「宇宙エエテル」の注を参照されたい。]

 勿論そこには幻覺がある。我々は神聖なるものを見ると思ふ、然しこの神聖そのものは我々を眩惑し且つ欺瞞するが、それは一の靈である。魅力は現實に存せず、現に在る何物にも存せず、嘗て在りし無限に輻合せる或る幻影に存す。その視影は驚くべく、それは我我の人間の視覺がその時、現在の表面を越えて貫徹し、千萬の年の深奧に達し、生命の假面を越えて死の巨大なる夜に徹するが故にのみ驚かる〻のである。暫くは我々は云ふにいはれぬ美と神祕と深遠とを見守り、しかしては再び永久に落つるのである。

 我々が崇拜する眼の光榮は、曉の明星に光輝あると同じ樣に於てのみ存在す。それは現今の影の彼方より來る反射である消滅せる太陽の靈光である。「その少女の眼中に我々は知らず知らず天の群星より多數なる眼の眺めに會ふ……それ等は他所にて暗と塵とに過ぎ去れる眼。

 かくして、ただかくしてのみ、その眺めの深さは死生の海の深さである、――而してその神祕は存在の深淵の沈默の廣大なる中から我々を見守る世界心靈の視影である。

[やぶちゃん注:「世界心靈の視影」原文“the World-Soul's vision”。どうも漢字表記にすると、怪しく胡散臭い新興宗教のそれの用語のようで甚だ気に入らぬ。平井呈一氏は恒文社版(一九七五年刊の「日本雑記 」所収の作品集「明暗」のパート名「夢想」の「一対の目のなかに」)では、この段落全体を、

   *

 されば、さればこそ、あの明眸の深さは、じつに生と死の大海の深さなのであって、あの謎こそは、生存という深い混沌の音なき曠野から、我ら人間を見まもっている世界の霊のまぼろしのまなこなのだ。

   *

と訳しておられ、私は非常に素直に読めるのである。]

 かくして、ただかくしてのみ、眞理と幻覺とが眼の魔力の內に混ず、――過去の目視が現在の出現と拭ふべからざる魅力をもて相交じはる、――而して見者の魂に於ける突如の光榮に唯だ一の閃めき、――無限の記憶の音なき一條の電光に過ぎぬ。

 

 

小泉八雲 夢書の讀物  (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Readings from a Dream-book ”(「ある『夢の本』に拠った読み物」))は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”・第二パート“ JAPANESE STUDIES ”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“FANTASIES”の第六話目に配された作品である。なお、この前の第五話目の“ Nightmare-Touch ”は既に「小泉八雲全集」第七巻(大正一五(一九二六)年十一月第一書房刊)の同じ岡田哲藏氏の訳(標題は「夢魔觸」)を底本として電子化注済みである。私は、本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」では、時に、自分が特に興味ある作品をチョイスしているからである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月16日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者岡田哲藏氏については先行する「小泉八雲 夜光蟲(岡田哲藏譯)」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に、傍点「○」は太字下線に代えた。「?」「!」の後に字空けがないが、一部で特異的に補った。本文内の註記号は、位置がおかしいと思われるものは、私が移動してある。間に挿入される訳者注本文は、底本では四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで上に引き上げた。]

 

 

   夢書の讀物

 

 幾度か、夜の深更に、私は一の書を讀んで居る、――大きな幅廣い書、――夢の書。それは夢に關する書では無い、夢を作る資料から成れる書である。

 私はその書の名も、著者の名も知らぬ、私はその表紙を見ることも出來なかつた。そこに標題も記して無い。その卷の裏は――月の向う側と同じに――永久に見られ無い。

 如何なる時にも私は一切その書に觸れぬ、――頁を翻すこともない。目には見えぬ誰れかが、いつも、それを捧げて、暗中私の前にそれを開く、それが何處より來るとも無き光で照らされるので私はやつとそれを讀める。その書の上と下と兩側は全然暗[やぶちゃん注:「やみ」。]、然し頁は曾てそれを照らした燈の黃光を保持して居ると見ゆ。

 不思議な事には、私は頁の全面を明らかに見ながら、同時に頁の全文を見ることが決して出來ぬ。本文は私が見て居るうちに紙の表に浮き上がる。または浮き上がる樣に見ゆ、そして讀まれると直に消える。ただ意志の單純な努力に由つて、私は消えた文を頁に呼び返す事が出來る。然しその文は始めと同じ形では還つて來ない、その間にその文が妙に修正されたかと思はれる。いまだ一度も、始めに讀んだ通りに一度去つた文の一行だも再現する樣に誘ふことは出來なかつた。然しいつも私は何物かが還つて來る樣に强ゆる[やぶちゃん注:「しゆる」。強いる。]ことは出來た。そしてこの或る物は通讀の間に銳く區別されて殘る。それからそれが微かな灰色に化し、そして、濃い乳の中に入る如くに、視覺の背後に沈み行くかと見ゆ。

 目覺めて直に、私が夢書からの讀み物を覺えて居ることは何でも書く樣に規則正しく注意したので、私は昨年本文の或る部分を再現さすことが出來た。然しこれ等の斷片をこ〻に示す順序は、私がそれを恢復した順序では全く無い。若しそれに何等かの內面の連絡があるとすれば、それは私が合理的繼續があると想橡したま〻に、それを配列しようとしたからである。原文の位置や關係は私は全く何も知らぬ。そして其書の性質そのものに關してすら、私はその大部分が考ふ可からざるものに關しての對話から成ることのみを發見したに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:以下、言わずもがな、この導入はこれから書く断片は、小泉八雲自身が見た夢の夢記述の断片という体裁を採っていると言うのではある。しかし、以下を読んで判る通り、それは小泉八雲の諸篇に認められる彼独特の生と死の哲学に則る、完全に論理的に読解可能な内容であり、しかも夢に特徴的な破綻や意味不明の展開が全くと言っていいほど見られない点から、これは小泉八雲が見た夢の一部を或いは素材としたかも知れぬものの、確信犯で記した自己の思想的哲学的宗教的(霊的というべきか)感懐を述べた、夢仮託の創作物ととるべき内容である。夢記述を期待されて読まれる向きには全く裏切られるので、ここで一言述べておく。私も若き日に読んだ折り、裏切られた苦い記憶があるからである。因みに、私は高校時代より、現在に至るまで夢記述をし続けている、かなり狂的な夢フリークである(小学年の頃にフロイトの「夢判断」を読んで魅せられたのがきっかけである)。大学時分のそれは大学ノート三冊分にもなる(当時つけていた日記とは別で、日記にも夢を記しているので、その量は相当なものとなる。一つの夢に十数ページを費やしたものもある。但し、そうしたマニアックな夢記述はお勧めしない。そうした行為を連続していると、昼の覚醒時が本当の出来事なのだろうか? という恐るべき錯覚的疑問――最早、突発性ノイローゼ様というべきものであった――が起こることが、実際に、あった、からである)し、その一部を含めて、ブログ・カテゴリ「夢」で近年のそれも含めて自身の分析注も附して公開もしている。また、かの名僧明恵の夢記述「明恵上人夢記」の訳注も進行中(なかなか手強く(短文で難解なため)近年は停滞気味)である。

 

      斷片の一

 

 そのときが永久に波でありたしと祈つた。

 海は答へた、

 『否、汝は碎けねばならぬ、我れに安息は無い。億萬の億萬度も汝は起ちては碎け、碎けては起つならむ』

 波は訴へた、

 『我は恐る。汝いふ、我は再び起こるべしと。されど何時、一の波がその碎けたところより返れることがあつたか』

 海は答へた、

 『言ふべからざる、限り知られぬほどあまた度、汝は碎け、而して尙ほ汝は存す。汝の前に走る千萬の波を見よ、また汝を追ひくる千萬を。――すべて言ふべからざるほど數多度[やぶちゃん注:「あまたたび」。]、碎けたるところにありしもの、而してそこへ彼等はまた碎けんとて今急ぐ。我のうちに彼等は溶け、また新たに漲る。されど彼等は過ぎねばならぬ、我れに安息なきが故に』

 呟きつ〻、波は答ふ、

 『凡てこれ等の千萬の混淆と混ずべく我は直に散るにはあらぬか。如何にして我はまた起つか。決して、決して再度我れは同じものと成り得べきにあらず』

 海は答ふ、『汝はいまだ曾て同じものたらず、汝の走る如何なる二瞬間も然あらず、永劫の變化が汝の存在の法則。汝の「我」とは何? いつも汝は忘られたる波の實質より造らる、――我の岸の沙よりも以上に無數なる波の實質より造らる。汝の多數なるに於て汝は何か?――一の幻影、一の非永久!』

 波は啜り泣きした、『實在は苦痛、而して恐怖、希望、光明の喜び。我もし實在ならずば、此等は何處より來り、また何物か』

 海は答ふ、『汝は苦痛を有たぬ、恐怖も、希望も、喜悅も有たぬ。汝は我れに有る外に、何物にてもあらず。我れは汝の自我、汝の「我」、汝の形は我が夢、汝の運動は我が意志、汝の碎くるは我が苦痛。汝は碎けねばならぬ、我れに安息無き故に、然し汝はまた起つ爲めにのみ碎く、何となれば死は生命のリズムなるが故に。見よ、我れも亦、生きん爲めに死す、これ等の我が水は過ぎ行いた[やぶちゃん注:「ゆいた」。行きた。]、我もまた過ぎ行かねばならぬ、無數の世界の破壞と共に無數の太陽の燃燒にまで。我もまた、言ふべからざる程の多樣性のもの、諸〻の大洋の億萬の波が我が滿干のみぎりに再生す。汝ただ嘗て在りし故に今在り、今在るが故にまたも在らんとすることをのみ知るを以て足れりとす』

 波は呟いた、

 『我は了解せぬ』

 海は答へた、

 『鼓動して過ぎ行く、これ汝の分、――決して了解せずに。我れもまた、――大海なる我れすら、――了解せず』

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、大のキリスト教嫌いの小泉八雲が言う「安息」という語には、キリスト教のそれの意味は――微塵も――ない――ことは言うまでもない。]

 

      斷片の二

 

 ……『石も岩も感覺があつた。風は呼吸また言語であつた、地の川と海とは心の室內に閉ぢられて居た。而して輪𢌞轉生は一切の宇宙の分子があらゆるもののうち最高の生命のありとあらゆる至極の經驗を經過し終はるまで止まぬであらう』

 『然し遊星の心髓は如何、――それもまた感じ且つ思ひたるか』

 『一切の肉は太陽の火なりし如く、それほど確に然り。成住壞空の不斷の連續のうちに萬物は無慮億萬の度數、關係と位地を變じた。古い月の心臟が未來の世界の表面を作るならん……』

[やぶちゃん注:「成住壞空」「じやうぢゆうゑくう(じょうじゅうえくう)」。仏教用語。見かけ上の物が生まれ、暫くは形を留めても、やがては壊れ、形のない状態になるという永遠の循環を謂う語。]

 

      斷片の三

 

 『如何なる悔恨も無用では無い。月の光より柔らかく、芳香よりも薄く、死よりも强き絲、卽ち大記憶のグライブニアの連鎖譯者註の絲を紡ぐのは悲哀の所爲である……

 

譯者註 神仙の造る微妙の鎖。

[やぶちゃん注:「グライブニアの連鎖」原文“the Gleipnir-chain”。「グレイプニル」はウィキの「グレイプニル」他によれば、『北欧神話に登場する魔法の紐(足枷)。フェンリル』(「フェンに棲む者」の。北欧神話に登場する狼の姿をした巨大な怪物。ロキが女巨人アングルボザとの間にもうけたとも、或いはその心臓を食べて産んだ三兄妹の長子とされるモンスター)『を捕縛するためにドウェルグ(ドワーフ)』(人間よりも少し背丈の小さい伝説上の種族。高度な鍛冶・工芸の技能を持つとされており、外観は男女ともに背丈が低いものの、力が強く屈強で、特に男のそれは多くで長い髭をたくわえているとされる)『たちによって作られ』、軍神『テュールによってフェンリルに繋がれた』。元の『語意は「貪り食うもの」』で、『猫の足音、女の髭、岩の根、熊の腱、魚の息、鳥の唾液から作られた。これら』の素材となったものは、この『グレイプニルを作るのに使用されたため、この世に存在しなくなったといわれる』とある。]

 

 『百萬の年を經て汝達は再び相逢ふならむ、――而して時間は長くは思はれまい、死者に取りては百萬年も一瞬も同じなれば、その時汝は汝の現在の自我の凡てではあるまじ、また彼女も彼女が嘗て在りし凡てであるまじ、汝達何れも同時により少く、しかも比較を絕する程により多きものであらう。そのとき、汝に起こるべき願に對し、身體そのものは汝が彼女に到る迄にそれを通過せねばならぬ一障礙と思はるならん。若しくはまた其時に到る迄に性は數へがたき程度々變化したるべきにより、彼女ならで彼に到るといふべきやも知れず。尙ほ兩者とも記憶せざらむ、但し各〻は以前に相逢へることありとの測りがたき感情に充つるならむ……』

 

      斷片の四

 

 ……『愛する人を惡しざまにいふ、――その人は誰だ、昨日のものと盲信されて居る、――この嘲弄者は世界の靈の過去に於ける神聖なるものを嘲弄するのである。そのとき數へられぬ千萬の悲哀の忘られし墓に葬られたりしものが、その心に甦る、――時の初めより以來、忍びて憎惡と爭鬪したる、の一切の古き苦痛が甦る』

 『然して神々は知る、――それは空間を超えて住まふ朧なる者――との神祕を紡ぎつつ。何故なれば彼等は生命の根柢に坐し、苦痛は彼等に馳せ返り、而して彼等はその禍を感ずる故に、――蜘蛛がその網の振動に於て、絲の破られたるを感ずるが如くに…』

[やぶちゃん注:最後の三点リーダはママ。行末なので、或いは、校正係の勝手な仕儀である可能性が高い。]

 

      斷片の五

 

 ……『見ての愛は死者の選擇である。然し彼等死者の多數は倫理の諸系統よりも古い、而して彼等の多數の決定は道德的なることが稀である。彼等は美によりて選ぶ、――身體の卓越の彼等の記憶によりてさうする。而して身體の適合は精神の力、また道德の力の基礎を爲すが故に彼等は選を誤りさうで無い。されど時には彼等は不思議に欺かれる。彼等は未だ曾て體に靈を導き入れ得ざりし存在者、卽ち空虛の妖鬼を缺くと知られた』

 

      斷片の六

 

 『自我を作る小ささ諸靈は分解としての死を恐れぬ。彼等は唯だ再完成としての死を恐る、――他の生の奇異なるもの及び憎むべきものとの再結合を恐る、彼等は愛するものが憎むものと共に、他の體內に禁錮さる〻ことを恐る……』

 

      斷片の七

 

 『昔は魔女は荒涼の場、及び寂寞の道にのみ坐した。然るに今や町の影にて、彼女は靑年に胸を捧げる。而して彼女に誘はれしものは直に狂となり、彼女の如く空虛となる。何となれば彼れを作る爲めに彼れに入れる高等の靈は妖鬼の接觸によりて死す、――繭の中で蛹が、ただ殼と塵とを跡に殘して死す如く死す……』

 

      斷片の八

 

 ……人間が彼のの殘れる群にいうた。

 『私は生に倦んで居る』

 そして群れるものどもが答へた、

 『我々もまたか〻る卑しい住家に住ひ恥辱と苦痛とに倦んで居る。我々は斷えず梁が折れ、柱が挫け、屋根が我々の上に落ちる樣に努めて居る』

 人間は呻いて云ふた、『私の上にはたしかに咀ひ[やぶちゃん注:「のろひ」。「呪」に同じい。]がある。神々の中には正義が無い』

 そのとき諸靈は騷がしく嘲笑した――丁度森の木葉が風を受けた樣に、もろ共にくすくす笑つた。そして彼等に答へた。

 『愚者の如く汝は僞りをいふ。汝の外の誰れが汝の卑しき體を作りたるものぞ。それは汝自ら以外の業と思ひにより作られたるか、或は作り損ねられたるか?』

[やぶちゃん注:「それは汝自ら以外の業と思ひにより作られたるか、或は作り損ねられたるか?」ここの原文は、“Did any save thyself make thy vile body? Was it shapen—or misshapen—by any deeds or thoughts except thine own?”である。この「業」は則ち、ここでは「ぎよう」(ぎょう)で、「実際の現在の自分の行い」を意味する。しかし、以下の諸霊の応答のそれは、やはり、それを仏教の「業」(ごう)に当てたものと等しいように日本人には読めるし、以降では、「がふ(ごう)」と読まないと、百パーセント、おかしくなる。されば、ここも「がふ」と読むべきである。

 人間は答ふ、『私に來たれるものに價する業も思ひも記憶して居らぬ』

 諸靈は笑つた、『記憶! 否――その愚は別の生にあつた。然し我々は覺えて居る、而して覺えて居て、我々は憎む』

 人間は云ふた、『汝すべて我と一なるに如何にして汝は憎み得るぞ』

 諸靈は嘲つた、[汝と一、それなら衣を着て居る人と衣と一なるか。……如何にして憎めるといふのか。火を燃す人が木から引き出した火が木を喰ふと同じに――その通りに我我は憎むことが出來る』

 人間は云ふた、『これは咀はれた世だ。汝は何故に私を指導しなかつたか』

 諸靈は彼に答へた、『汝は我々よりも賢かりし靈の指導を心に留めなかつた、……怯者と弱者とが世を咀ふのだ。强者は世界を非難せぬ、世界は彼等の要するものを皆與へて居る。彼等は力で碎き、取り、また保つ。彼等にとりて生命は喜悅、勝利、歡喜である。然るに無力者は何物にも價せず、彼等は何物も有たなくなる。汝と我々とは今直に無有に歸せんとする』

 人間は尋ねた、『汝等は恐る〻か』

 諸靈は答へた、『恐る〻理由はある。されど我々のうち一も、汝の如きか〻る存在の一部たることを存續して、それで我々の恐る〻時の來るを遲からせんと願ふものは無い』

 人間は驚きながら尋ねた、『然し汝等は數へられぬほどあまた度死したるか』

 諸靈はいふ、『否、然らず、我々の覺ゆる限り一度だも死せず、而して我々の記憶は此世界の始めに達す。我々は唯だ種族と共に死す』

 人間は何も云はなかつた、――恐れたから。諸靈は再びいふた、

 『汝の種族は止む。その繼續は我々の目的に副ふ汝の力如何による。汝は一切の力を喪つた。汝は骨堂か墓穴たる以外に何か。我々は自由を要した、而して空間をも。こ〻に我我は詰め込まれて、一本の針先きに我々は億萬も集つて居る。我々の室に戶もなく窓も無い、――而して通路は皆詰まりまた損して居る、――そして階段は何處へも通はぬ。その上にここには執念の者共が居る、――それは我々の類で無い、名づくべからざるだ』

 暫くの間、人間は死して塵となるのが有難いと思つた。然し突然、彼の記憶に彼の敵の顏が惡しみの笑をその上に浮かべて現はれた。さうすると彼は長命を願つた、――生命と苦痛の百年を――唯だその蔭の墓の上に草が丈高く生ふるを見ん爲めに。而して諸靈は彼の願を嘲つた、

 『汝の敵は汝に對して多く思ひを費すまい。彼れ卽ち汝の敵は半分の人間では無い。その體內の諸靈は室と大なる光とを有つ、彼等の住家の天井は高い、通廊は廣くて綺麗、庭は輝いて淸らか。汝の敵の腦は堂々と守備された要塞の如く、――そして其處に達する何れの地點へも、防禦の軍は戰ふ爲めに瞬時に集められる。彼れの代は終はらぬであらう――否、彼れの顏は幾世紀に亘つて增加するであらう。その故は汝の敵は何れの時にも彼れのより高き靈の需要の爲めに準備した、彼れは彼等の警告に注意した、彼れはすべて正しき道にて彼等を樂ませた。彼れは彼等に敬意を表することを誤らなかつた。それが爲めに彼等は今彼れが要求すれば彼れを援助する力を有つて居る。……しかるに汝は如何に我々を尊びまた樂ませたか』

 

 人間は暫く默して居た。それから疑の恐れを抱ける如く彼れは尋ねた、

 『何の爲めに汝は恐るべきか――若し終りは無有なりとせば』

 諸靈が答へた、『無有とは何か、迷妄の言語に於てのみ、終りなるものがある。汝が終りと呼ぶものは實は其の始めである。我々の本質は止むこと能はず。世界の燒くるとき、それは盡きず、それは大なる星の心髓に入つて振動する、――それは他の太陽の光の中に入つて震へる。而して再び、或る未來の宇宙に於てそれは再び知識を拾得しよう――但しそれは群衆には考へられぬほどの進化の後に。形の無名の起原より、而してそれより失せたるものの一切の循環を通じて、――疲れ果てたる苦痛の一切の繼續を通じて――過去の一切の深淵を過ぎて――それは再び攀ぢ登らねばならぬ』

[やぶちゃん注:「無有」原文は“nothingness”であるから、この人間の謂いは「無」或は「空(くう)」とあるべきところである。諸霊の謂いは、見る通り、「無という終わり」が同時に「有の始まり」というパラドクスであると謂うのではあるが、しかし、これ、「荘子」の言うところの、それならばいいが、日本語としては「無有」は、ちょっと語弊があると私は思う。因みに、平井呈一氏は「無」と訳しておられる。

 人間は一言もいはなかつた、諸靈は談り續けた、――

 『幾千萬の代々、我々は火の暴風の中に震へて居らねばならぬ、そして我々は新たに或る元始の土に入り、そこにて活き、またあらゆる醜き無言盲目の形を通して上へと踠き[やぶちゃん注:「もがき」、]登る。轉生は數へ難く――苦悶も測り難い。而してその罪科は何の神々のものにもあらず、それは汝のもの』

 人間は呟いた、『善か惡、その各〻は何を意味するか。無終の變化に碾かれては[やぶちゃん注:「ひかれては」]最善も最惡の如くならぬことを得まい』

 諸靈は叫んだ、『否、强者の爲めには達すべき目標がある、――それは汝が得んとして努力し得ざる目標。彼等はより美しき世界を作る爲めに助力するならむ、――彼等より大なる光に到るならむ、――彼等は神聖の地帶に入るべく熖の如く揚がり且つ翔けるならむ。されど汝と我々は土に還るのみ、我々の爲めに有り得べかりし億萬の夢を思へ、――投げ棄てられし喜悅と、愛と、勝利とを思へ、――夢見られざりし知識の曉を、――想像せられざりし感覺の光榮を、――限られぬ力の歡喜を、――思へ、思へ、愚なる者よ、汝の喪ひたる一切を』

 かくて人の中なる諸靈は蟲と化し、而して人を喰ひ盡くした。

 

[やぶちゃん注:う~ん……岡田氏の訳は実に厳粛ではあるものの、佶屈聱牙に過ぎて、ところどころで意味を採るのに時間が掛かる憾みがある。個人的には、平井呈一氏の完璧なざっくばらんなべらんめえ口語口調で語り合うそれ――一九七五年恒文社刊「日本雑記 」――の「夢の本から」を読まれんことを望む!

 

 

« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »