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2019/11/05

小泉八雲 小さな詩 (大谷正信訳)


[やぶちゃん注:本篇(原題Bits of Poetry。「Bit」は「小片・細片・小さな一片」・口語で「風景画の小品」や「劇の一シーン」の意がある)は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集IN GHOSTLY JAPAN(「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の第九話目に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”こちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”こちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 引用される俳句や短歌はブラウザの不具合を考えて、底本通りではなく、引き上げてあり、号との字空けも再現してはいない。前書(詞書)はポイント落ちであるが、同ポイントで示した。句は一部で行空けせずに並んでいるが、原則、前後に一行空けを施した。一部で「!」の後に特異的に字空けを施した。なお、作者の雅号が記されてあるが、原本にはこれはない。底本「あとがき」の大谷氏の「あとがき」によればm本篇への資料を提供した大谷氏が記憶している限りを附したサーヴィスである。]

  

  小さな詩

  

       

 幾世紀のあひだ詩歌が感情的發言の一般の風習になつて居る國民のうちに在つては、その誰れもが抱いて居る人生の理想を高尙なものと、當然に我々は想像する。そんな國民の上流社會が、他の國民の上流社會と比べて、どんなに詰まらぬものであらうとも、その下流社會は、我々西洋の下流社會よりも、道德の點に於て且つ他の點に於て、進んで居ることは殆ど疑ふべくも無い。ところが日本國民は、實際にそんな社會現象を我々に見せて居るのである。

 詩歌は日本に於ては空氣の如くに普遍である。誰れも彼れもそれが判かる。誰れも彼れもそれを讀む。殆ど誰れも彼れも――階級と境遇の如何に拘らず――それを作る。又それは斯く其心的大氣に遍在な計りでは無い。それは到る處に耳にきこえ、また眼に見える

 耳に聽く詩はといふと、仕事のある處には何處にも歌の聲がする。野畠の勞役や街路の勞働は、吟誦する詩句の節奏に合はせて行ふ。それで、歌が蟬の生命の表現であるといふのと殆ど同じ意味に於て、唄が此の國民の生命の表現であるやうに思へるのである。……眼に見る詩はといふと、裝飾の一形式として――支那文字か日本文字かで――書いたり彫つたりしてあるのが到る處に見られる。幾千幾萬の住宅に、部屋を分かち押入を塞いで居る橫辷りの仕切(しきり)が、その表面に支那字か日本字かの裝飾的な文句を有つて居ることを觀らる〻であらう。ところがその文句は歌なのである。上流社會の家屋には、大抵はいくつものガク、卽ち、見る爲めに吊るしてある牌(ダブレツト)がある。一々みな、あらゆる意匠に、文字美しく書かれて居る詩句が載つて居るのである。が、歌は殆どどんな種類の家具にも――例を舉ぐれば、火鉢に、鐡鍋に、花瓶に、木盆に、漆器に、陶器に、上等な箸に、しかも小楊枝! にすら、――見出すことが出來る。店看板、壁板、戶襖、扇子には歌が彩色されて居る。手拭、反物、帳(カアテン)、ハンケチ、絹の裏地、婦人の縮緬の下着には歌が型で出してある。狀紙、封筒、財布、鏡入れ、旅行用手提[やぶちゃん注:「てさげ」。]には歌が捺したり縫つたりしてある。琺瑯質の器物には歌が象眼されて居り、銅の器物には歌が刻んであり、金屬(かね)の煙管には歌が彫つてあり、煙草入には歌が縫取にしてある。歌の文句がその裝飾になつて居る品物の十が一を數へ上げようとするも、望んで得べからざる舉であらう。多分我が讀者諸君は、歌を作つてその歌を花の晚いて居る木に吊るすのが風習の社交的會合のことを、――また、その節(せつ)には色紙(いろがみ)の細片に書いて細竹に結び附けた歌を路傍にすら――丁度それ程の小さな旗のやうに風に飜つて居るのを――見ることが出來る、或る星神(ほしがみ)の爲めのタナバタ祭のことを、知つて居られる。……恐らくは諸君は、其處に木も花も無い日本の小村へ行かれることはあらうが、其處に眼に見える詩歌が一つも無い小村へは決して行かる〻ことは無からう。眞(ほん)の茶は、金出しても何出しても、一パイも得ることの出來ぬ程の貧しい部落へ迷ひこまるることが――自分もしたやうに――あらう。が、其處に歌を作ることの出來る者が一人も居ない部落を諸君が發見し得られようとは自分は信ぜぬ。 

 

       

 近い頃、詩句を――多くはその性質の叙情的な或は描寫的な短い歌を――寫し集めたものを見返して居るうちに、その中から進んだものが、日本人が抱いて居る、世に餘り知られて居ない、美的表現の二三の說を說明すると同時に、兼ねてまた、日本人が有つて居る、感情の或る特性を說明する役に立ちはしまいか、といふ考が不圖自分に浮かんだので、――そこで早速この隨筆を試みることにした。自分の爲めに、時と處とを異にして、異つた人々が蒐めて吳れたその歌は、主として、特殊の場合に書かれたもので、それにまた西洋の詩形のうちのどんなものよりかも(また實際短いのであるがさうで無くとも)もつと隙間(すきま)無しの形式に鑄込んだ種類のものであつた。我が讀者諸君のうちで作詩の此の樣式に關して奇妙な事賞が二つあることを知つて居らる〻方は多分少からうと思ふ。その二つの事實は、自分が蒐集した歌の來歷と文句とで――自分の飜譯では、形容の或は感情の、原作の效果を再現することは望めないけれども――例證されて居るのである。

 第一の奇妙な事實は、極(ごく)の昔時(むかし)からして、短い歌を作るといふ事は日本では唯だの文藝としてよりも、道德上の義務としての方が餘計なぐらゐに、實行され來たつて居るといふ事實である。昔時の倫理の敎(をしへ)は幾分斯ういつたやうなものであつた。卽ち、『お前は非常に腹が立つて居るのか。不親切な事は何も口に出さずに、歌を作れ。お前の最愛の人が亡くなつたのか。無益な悲歎に從はずに、歌を作つて心を和らげるやうにせよ。お前は、あんなにも多くの事を仕終へずに殘して死なうとして居るといふので心を惱ませて居るのか。心を雄々しくして、死ぬることを詠んだ歌を作れ。どんな不法やどんな不幸がお前の心を攪き[やぶちゃん注:「かき」。]亂しても、出來るだけ早くお前の憤慨なりお前の愁傷なりを棄てて、道德の訓練として、眞面目なそして高雅な歌をいくつか作れ』だからして、昔時は、あらゆる種類の心痛は、それぞれ歌に遭遇した。死別、別離、災難は、哀哭を喚ばず[やぶちゃん注:「さけばず」。]して詩歌を喚んだ[やぶちゃん注:個人的にここは「よんだ」と訓じておく。]。貞操を失はんよりは死をと欲した淑女は、己が喉を刺す前に歌を作つた。己が手で死ねと申し渡されたサムラヒは、ハラキリをする前に歌を書いた。この明治の浪漫的ならざる世に於てすら、自殺を決心した若人(わかうど)は、この世を去る前に歌を作るが習慣になつて居る。また不運な時に歌を詠むといふことは、今なほ立派に行はれて居る。自分は、困窮或は苦痛の最も耐へ難い境遇の下に在つて――否、死の床の上に在つてすら――歌が書かれたのを屢〻見聞した[やぶちゃん注:「みききした」。]。その歌は、假令(もし)や何等異常なる才能を示しはしなかつたにしても、少くとも苦痛の下に往つての自制の異常な實證を提供したものであつた。……確に倫理的實習として歌を作るといふこの事實は、日本の作詩作歌の法則に就いてこれまで書かれた一切の論說よりも一層大なる興味あるものである。 

 今一つの奇妙な事實は、ただ審美學說の一事實に過ぎぬ。今我々が考察して居るやうな種類の詩歌についての普通な藝術原理は、日本の繪畫說明の普通な原理と全然同一である。短い詩を作る人は、選み擇んだ數語を使用して、丁度畫工が筆を三筆四筆使つて爲し遂げようとすることをしよう――或る面影を或は或る氣分を喚起しよう――或る感じを或は或る情緖を復活させようと力めるのである。ところが此目的を完成する事は――詩人にもまた畫工にも――係かつて全く暗示する力量に、しかも暗示だけする力量に在る。春の朝の蒼い霧を透して、或は秋の午後の壯んな[やぶちゃん注:「さかんな」。]金色の光の下(もと)に、見た或る風景の記憶を復活させる考で描いたスケツチに、部分々々の精緻な描寫を試みようとすれば、日本畫工は非雖を蒙ることであらう。其藝術の傳統に不實である計りでは無い。その爲めに必然的に自己の目的を打ち壞すことであらう。それと同じで、非常に短い詩に言辭の完備を企てたならば詩人は非難を蒙ることであら5.其目的は、想像力に滿足を與へはせずして、ただ想像力を刺激するだけでなければならぬのである。だから、詩人がその思想全部を述べで居る詩に對して――總てを述べて居るといふ意味での、『いつてしまつて居る』卽ち『みな無くなつて居る』といふ積りの――『イツタキリ』といふ言葉を、輕蔑的に使用する。言はずにある或る物が與へる身をの〻きを、讀者の心に殘すやうな作品に、賞讃は取り除けて置いてあるのである。寺の鐘のただの一撞(ひとつき)のやうに、最良の短詩は、聞く人の心へ、永く繼續する幽玄な後音を、いくつもうんうん波打たせるものでなければならぬのである。

 

       

 が、日本の短い詩は日本の繪に似て居ると言へるといふその理由の爲めに、之を十分に理解するには、その詩が反映して居る生活を親しく知らなければならぬ。そしてそんな詩のうち情緖的な部類のものには殊に然りで、――その文字通りの飜譯は、大多數の場合、西洋人の心には殆ど何物をも意味しないことであらう。例を舉ぐれば、日本人の理解力には頗る哀れに感ぜられる小さな詩が一つある。 

 テフテフニ キヨネンシシタルツマコヒシ ( ? )

 [やぶちゃん注:漢字表記する。

 蝶々に去年死したる妻戀ひし

一部で平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「日本雑録 他」所収の「小さな詩」)の表記を参考にさせて貰った(以下、同じ)。] 

 飜譯すれば『蝶が二つ! 去年自分のいとしの妻が死んだ』とただそれだけの意味に思へるであらう。蝶が幸福な結婚に關して有つて居る日本の可憐な象徵を知つて居り、結婚の贈物には大きな紙の蝶を一對(ヲタフ、メタフ)附けて送る古昔の習慣を知つて居なければ、この詩は屹度平凡以下のものと思はれることであらう。また、一大學々生の近作で、立派な判者が賞めて居る、 

 フルサトニフボアリ ムシノコヱゴヱ  紫袍郞 

[やぶちゃん注:同前。

 故里に父母あり蟲の聲々

平井氏は上五を『ふるさとに』とひらがなにする。なお、作者「紫袍郞」は不詳。] 

といふを取つて見る。『自分の故鄕に父母が居る――蟲の聲々』といふのである。この詩人は、この詩では田舍少年である。知らぬ野原で秋蟲の盛んな合奏を聽いて居る。その音が遠き故鄕とその双親との記憶を彼に復活するのである。……が此處に一つ、――文字通りに譯しては或は前のよりも一層曖曖昧なものになるけれども――前の標本のどれよりかも比較にならぬ程心を動かすのがある。 

 ミニシミルカゼヤ シヤウジニユビノアト ( ? )

 [やぶちゃん注:同前。

 身に沁みる風や障子に指の跡

平井氏は『身にしみる風や障子に指のあと』とする。] 

 『嗚呼、身を貫くやうな風である! 障子にある小さな指が造つた、あの穴からのは!』……これは何を意味するか。死んだ子を悼んで居る母の悲みを意味して居るのである。シヤウジといふのは、日本の家では窓の用(よう)もし戶の用もし、明かりは十分に透すが、擦り硝子のやうに外から内が見えぬやうに隱し、そして風は入らさぬ、白紙貼りの輕い隔て物(スクリン)の名である。その軟らかい紙へ指を突込んで破るのを子供は面白がる。すれば風がその穴から吹き込む。この場合、風は實に寒く――その母の心の底へ――吹き込むのである。死んだその子の指が造つた小さな穴から吹き込むからである。 

 こんな詩の含蓄の意味を文字通りの飜譯に保たせることの不可能はこれで明瞭であらう。で、この方面で自分が企てることは、總てみな必然的にイツタキリにならねばならぬ。言うて無いことを言ひ現はさなければならぬからである。そして日本詩人が十七綴音乃至二十一綴音で言ひ得ることを、英語ではその倍以上の語數を要することもあらう。が、その事實は或は次記の感情表現の小原子に一層の面白味を加へもことであらう。 

   母の懷出

 冬の夜や遠くきこゆる咿唔の聲 ( ? ) 

[やぶちゃん注:「懷出」は「おもひで」。「咿唔」は「いご」と読み、本の音読や節をつけて詩文を朗読する声のことを指す語。] 

   春の記憶

 うつろ香で軒端の梅にとどめ置きて

      きこえにし妹はいづちにけん 豐川 

[やぶちゃん注:「豐川」不詳。] 

   別な信仰の空想

 墓訪へば杉に鳩鳴く暮の秋 ( ? ) 

[やぶちゃん注:前書が判り難いが、原文は“FANCIES OF ANOTHER FAITH”で、これは句から見て、「亡き人のいる異界への空想」で、「冥途への想ひ」「あの世を想ひて」というような意味であろう。平井呈一氏は『冥界念想』と訳されておられる。にしても前書としては「ちょっとな」という感じがする。私はそれこそ「言ったきり」してしまった前書で厭な印象である。] 

 風そよと墓石へ桐の一かな ( ? ) 

 ぬかづけば墓から蝶の舞ひあがる

    夜の跡地にて

 墓にそ〻ぐ水やむかしの月の影 ( ? ) 

   長き不在ののち

 廢園に月の昔を懷ふかな ( ? ) 

   海上の月

 海に入つて生れかはらばや朧月 ( ? ) 

   別れて後

 方角も知らぬ海なり春の月 ( ? ) 

   幸福な貧乏

 破れ窓もうれし梅が香風のまに ( ? ) 

   秋の思

 萩枯れて松蟲何を夢むらん   ( ? )

 秋行くと告ぐるにや鐘遠くより ( ? )

 ふるさとの木の蔭懷ふ秋の月  ( ? )

 

[やぶちゃん注:以上の三句は原本では“AUTUMN FANCIES”と複数形で、しかもご覧の通り(左ページ上部)、各句の頭に⑴・⑵・⑶と配されてあるので、特異的に行空けをせず、纏めて示した。但し、同一の人物の作とは限らず、寧ろ、別人の作を同部立てで集めて示したようにも感ぜられる。] 

   悲みの折蟬をきいて

 世の中は蟬の拔殼何と泣く ( ? ) 

   蟬の拔殼に

 歌に身を枯らす愚かや蟬の殼 ( ? ) 

   知の力の壯大

 濁れるも澄めるもともに容る〻こそ

        千尋の海の心なりけれ 

〔これは大學生の作。それ獨得の新しみがある〕 

   神道の畏敬心

 怒濤岩を嚙む我を神かと朧の夜  虛子 

[やぶちゃん注:句集「五百句」所収。明治二九(一八九六)年の作。] 

『神か』といふのは『死んだのか自分は? 自分は此荒凉たる中にただ魂として在るのか』といふのである。死んだ者はカミ卽ち神になつて、好んで幽靜な處に住むと考へられて居るのである。 

 

       

 上に飜譯したもの共は繪畫的以上である。情緖或は感情を幾分か仄めかして居るからである。が、さうでは無い、ただ繪畫的な詩は幾千となくある。その眞の目的を知らぬ讀者には、それは全くの無味なものに思はれることであらう。金玉の妙句が、ただ『水鳥の翼に夕日麗らかに』とか『我が庭の花咲きにけり蝶の飛ぶ』とかいふ意味のものと知り給ふと、裝飾的な詩に對する諸君の最初の興味は萎んでしまふであらう。でもこんな詩も、それ獨得の頗る眞實な價値があるのであり、日本人の美的感情と經驗とに親密な關係があるのである。唐紙や扇や盃の約のやうに、自然が與へた印象を呼び返して、旅行や巡禮の樂しかつた出來事を復活して、美しかつた日の記憶を喚起して、それ等はいづれも快感を與へるのである。それでこの平明な事實が十分に了解されると、近代の日本詩人が――大學敎育を受けて居るに拘らず――古代の詩風に頑固に執着するのが頗る尤もなことと思はれることであらう。 

  寂寞

 古寺や鐘もの言はず櫻散る  洒竹 

[やぶちゃん注:大野洒竹(しゃちく 明治五(一八七二)年~大正二(一九一三)年)は医師(開業医)で俳人。熊本県出身、本名は豊太。東京帝国大学医学部卒。明治二七(一八九四)年に佐々醒雪・笹川臨風らと筑波会を結成、明治二八(一八九五)年には尾崎紅葉・巌谷小波・森無黄・角田竹冷らとともに、正岡子規と並ぶ新派の「秋声会」の創設に関わった。明治三〇(一八九七)年には森鷗外に先駆けて「ファウスト」の部分訳を公表してもいる。参照したウィキの「大野洒竹」によれば、『古俳諧を研究し、古俳書の収集にも熱心であり、「天下の俳書の七分は我が手に帰せり」と誇ったという』。約四千冊に及んだ『蔵書は』現在、『東京大学総合図書館の所蔵となって』おり、『洒竹のコレクションは同図書館の竹冷の蔵書とあわせ』、『「洒竹・竹冷文庫」として、「柿衞文庫」、天理大学附属天理図書館「綿屋文庫」とともに三大俳諧コレクションと評価されている』。『妻は岸田吟香の娘(劉生の姉)』、『従兄に戸川秋骨がいる』とある。明治二九(一九〇二)年発表の蕪村の評伝「與謝蕪村」などもある。]

   寺に一夜過ごしての朝

 山寺の紙帳明け行く瀧の音  悠々

 [やぶちゃん注:江戸後期の武士で俳人に川原悠々(安永五(一七七六)年~安政四(一八五八)年)がいるが、彼かどうかは不明。一応、事蹟を示してはおく。名は元治。肥前大村藩(現在の長崎県)藩士で、享和元(一八〇一)年、江戸藩邸詰めとなった。天保元(一八三〇)年、世子伊織(後の第十一代藩主大村純顕)の守役を、四年には伊織弾正(後の白河藩主阿部正備(まさかた))の守役を命ぜられている。京都の呉服商寿堂に俳諧を学び、句集「荻苞(てきほう)集」を出している。] 

  冬景

 雪の村鷄啼いて明け白し   曉石 

[やぶちゃん注:「曉石」訳者大谷正信の俳号。] 

 自分のこの詩の無駄口は、別な句集から――或る意味では同じく繪畫的であるが、主として巧妙といふ點で著しい――卽吟の二珍品を揭げて終はることとしよう。最初のは古い句で、有名な女詩人千代の作と稱せられて居るものである。千代は、四角と三角と圓ととを讀み込んだ十七綴音の詩を作れと促されて、卽座に 

 蚊帳の手を一つはづして月見かな 

と應じたといふことである。四隅とも索で吊るしてある蚊帳の上部は四角である。一と隅外づせげ四角が三角になる。そして月に圓である。

[やぶちゃん注:加賀千代女(元禄一六(一七〇三)年~安永四(一七七五)年)は加賀の松任(まっとう)の表具屋福増屋六左衛門(一説に六兵衛)の娘。美人の誉れが高かった。五十一歳頃に剃髪して千代尼と呼ばれた。半睡・支考・廬元坊らの教えを受けた。通説では十八歳の頃に金沢藩の足軽福岡弥八に嫁し、一子をもうけたが、夫や子に死別して松任に帰ったとも、結婚しなかったという説もある。本浄氏のブログ「歴史散歩とサイエンスの話題」のこちらによれば、ある時、『加賀のお殿様(第』十『代藩主前田重教?)が、女流俳人として名高い千代女の噂を耳にして、金沢城に召し出させた』際に、『お殿様は千代女の俳人としての才能をためそうと、「一句のなかに四角と三角と丸を詠(よ)み込んで見よ」、と難問をお出しになったところ、千代女は一呼吸おいて』、『「蚊帳のなか(□) ひと角はずして(△) 月をみる(○)」、(蚊帳の環一つはずして月見かな、禅林世語集(ぜんりんせごしゅう)に出ている)、と詠み上げ、お殿様は千代女の当意即妙な受け答えに感嘆の声を上げた』とある。但し、これ、如何にも作った話柄という感じのするエピソードの嫌いを免れないと思われる(二種の江戸期の句集を縦覧したが、この句は所収されていなかった)。なお、そちらには宝暦一三(一七六三)年のこと、第十代『加賀藩主前田重教の命を受け、千代女』六十一歳の時、『第』十一『次朝鮮通信』使『の来日の時の献上句(扇子や軸に』二十一『句)は、加賀の千代女の名を全国に轟かせ、その後の逸話、俗説、口伝などが生まれる基になり』、『これは、日本の俳句が海外に伝えられた初めての例とされてい』るとあった。なお、原本にはこの句の示す意味を解らせるための蚊帳の図がこの附近に載る。原本よるトリミングし、補正を加えて以下に示しておく。]

Kaya

 今一つの珍品は、十七綴音の一句で、極端な貧窮を――恐らくはその流浪學生のすばらしい困苦を――描かうとした近い頃の卽吟である。これに修正を加へることが出來るかどうか、自分は頗る疑はしく思ふものである。 

 盜んだる案山子の笠に雨急なり  虛子 

[やぶちゃん注:句集「五百句」所収。明治二九(一八九六)年の作。]

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