小泉八雲 化け蜘蛛 (稻垣巖譯) / 「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動
[やぶちゃん注:本篇(原題は“ The Goblin Spider ”)は日本で「長谷川武次郞」によって刊行された『ちりめん本』の欧文和装の日本の御伽話の叢書“ Japanese fairy tale series ”の中の一篇である。同シリーズの「second series №1」(明治三二(一八九九)年四月十日刊)で、編集・発行者は長谷川武次郎。小泉八雲は当該シリーズに五作品が寄せている(以下の底本では“ The Fountain of Youth ”(「若返りの泉」)を除く四作が邦訳されている。“ The Fountain of Youth ”が何故、底本では除かれているかは不明である(一部のネット記載を見ると、これは小泉八雲の創作とされているとあり、それと関係するものか? よく判らない)サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらで“ The Fountain of Youth ”の「ちりめん本」の画像と活字化されたそれを読むことが出来る。なお、これは後日、私自身が和訳を試みたいと考えている)。
当該叢書の出版者で長谷川弘文社社主であった長谷川武次郎(嘉永六(一八五三)年~昭和一三(一九三八)年)は、「関西大学図書館 電子展示室」の「ちりめん本」の解説によれば、江戸日本橋の西宮家に生まれたが、二十五歳から母方の長谷川姓を名乗るようになった。『クリストファー・カロザースのミッションスクール(後の明治学院)やウィリアム・ホイットニー校長時代の銀座の商法講習所(後の一橋高商)に通ったことから、在日宣教師、知識人、外交官等との交友を広げ、国際的感覚を養った』。明治一七(一八八四)年に『長谷川弘文社として出版活動を始め』、翌明治十八年から、『ちりめん本の中でも最も有名な Japanese fairytale series の刊行を始める。これがちりめん本の流通の始まりである。当初』、『ちりめん本は、「童蒙に洋語を習熟せしむるため」という絵入自由新聞での広告文にもあるように、日本国内の人々、特に子どもの語学教育のため、というのが』、『その販売の第一義であったようだが、その意図からは外れて、外国人の日本滞在の土産物として重宝された』。『この Japanese fairy tale series は』、『ちりめん本の代名詞といってもよい存在で、内容は日本の昔噺が外国語訳されたものである』。『訳者には』小泉八雲が親しかった(但し、晩年は、小泉八雲の方が、距離をおいたようである)バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)の『名もあり、シリーズのほとんどの挿絵を担当した小林永濯』(えいたく 天保一四(一八四三)年~明治二三(一八九〇)
また、「放送大学図書館」公式サイト内の「ちりめん本」には、以下のような説明がある。『明治時代に新しい絵本が生まれました。それは江戸赤本の伝統を汲むものでしたが、和紙を使用し、木版多色刷りで挿絵を入れ、文章を活版で印刷し、縮緬布』(ちりめんぬの)『のような風合を持った絵入り本で、ちりめん本と呼ばれる欧文和装本でした』。『ちりめん本の生みの親、長谷川武次郎は』『当時の日本では英語を取得することが学問や商売にとって必須と考え』、明治二(一八六九)年十六歳で早くも『英語を学び始めました。彼は近代商業についても学び、貿易や出版に関する知識も習得していきました。商人としてばかりでなく、彼はちりめん本を作る職人達を取りまとめる才にも長け、英語を駆使して翻訳者と交渉し、国際出版の礎を築いていったのです』。『こうして』、明治一八(一八八五)年『初秋、武次郎の努力によって「桃太郎」や「舌切雀」等を筆頭に、英文による「昔噺集」が生まれ、日本の出版業界が新しい時代への一歩を踏み出したのです』。『ちりめん本「日本昔噺集」では英語版の他にフランス語版、スペイン語版、ポルトガル語版及びドイツ語版などが出版されました。表紙を比べると、各版とも同じ絵柄に見えますが、細部や刷り色などは微妙に違っています』とある。
なお、この「ちりめん本」というのは「縮緬本」で、和紙に多色摺りしたものを縮緬状にしたもの(英語「クレープ・ペーパー」(crepe paper))で、手触りも実際の絹の縮緬の風合いに近い、ふっくらとした暖かみのある本である。
本篇は画像としては、複数の箇所で視認出来る。個人的には原本の感じを味わうなら、
「ヘルン文庫」のこちらの「単頁」のPDFファイルのダウン・ロードがお勧め
である。他に、
が画像と活字化した本文を併置していて、接続も容易で、使い勝手もよかろう。また、今までも、お世話になってきている、
でも全篇視認できる(ただ気になることがある。この奥付では、上記のクレジットと同じであるにも拘わらず『再版第一號』とあることである。何らかの理由があって、その日のうちに初版分を打ち切り、再版を、また、印刷したということらしい)。また、
アメリカのアラモゴードの蒐集家 George C. Baxley 氏のサイト内のこちら(長谷川武次郎の「ちりめん本」の強力な書誌を附した現物リスト)の、
The Goblin Spider Japanese Fairy Tales Second Series, No. 1, c1910 Reprint
も必見である。
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月2日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の標題はここ。本作はここから。 但し、同底本の「あとがき」の田部隆次のそれには、『『日本お伽噺』一九〇二年東京、長谷川の出版にかかる繪入りの日本お伽噺叢書の第二十二册から第二十五册までになつて居る物である』とあって、初版のクレジットと異なるのが、不審である。
訳者稻垣巖(いながきいわお 明治三〇(一八九七)年二月十五日~昭和一二(一九三七)年:パブリック・ドメイン)は小泉八雲の次男で、元京都府立桃山中学校英語科教員。明治三四(一九〇一)年九月に母セツの養家であった稲垣家へ養子縁組されて稲垣姓となった。大正九(一九二〇)年六月、岡山第六高等学校第二部甲類卒業後、翌七月に京都帝国大学工学部電気工学科入学、その後、転部したか、昭和二(一九二七)年三月に京都帝国大学文学部英文科選科を修了し、昭和三(一九二八)年四月、京都府立桃山中学校(現在の京都府立桃山高等学校)へ英語教師として赴任している。「青空文庫」で「父八雲を語る」(新字正仮名。初出はラジオ放送「父八雲を語る」で昭和九(一九三四)年十一月十五日とする)が読める。
年経た蜘蛛が、化け物と化する話は、枚挙に暇がない。私の「怪奇談集」・「怪奇談集Ⅱ」にも、そうした話は、幾つもある。また、本篇も紹介してある私の『柴田宵曲 妖異博物館 「蜘蛛の網」』も参照されたいが、実は本篇の原拠となるものと思われる、展開の酷似した江戸期の怪談を、私は確かに読んだ記憶があるのだが、思い出せない(怪奇談に博覧強記であった柴田氏も原拠を挙げていない)。見出したら、追記する。
なお、本『日本お伽噺』に限っては、小学生高学年の読者を想定して、特異的に本文の彼らには難読であろうと判断した語には、注で読みを添えた。]
日本お伽噺
化け蜘蛛
舊い舊い本に書いてありますが日本には澤山化け蜘蛛[やぶちゃん注:「ばけぐも」。]がゐたものだといふ事です。
人によつては化け蜘蛛が今でもいくらか居ると言ひきる者もあります。晝間は見たところ普通の蜘蛛そつくりですが、然し夜も大分更けて、人々は寢靜まり、何の音もしなくなると、それはそれは隨分大きくなり、色々恐ろしい事を爲(し)でかすのです。化け蜘蛛は又、人間の姿になるといふ――人を魅(ばか)す爲めにですが――不思議な力を具へてゐるとも考へられてゐます。さてかういふ蜘蛛に就いて一つ名高い日本の話があるのです。
昔、或る田舍の淋しい所に一軒の化物寺がありました。其處を巢にしてゐる化物の爲めに誰一人として其の家に住む事は出來ませんでした。氣の强い侍達が大勢化物を退治するつもりで何遍も何遍も其處へ出かけました。けれども寺に足を踏み入れたら最後二度と音沙汰はなかつたのです。
たうとう一人、度胸があつて拔目がないといふので人に知られてゐた侍が、寺に出かけて夜の間窺つて[やぶちゃん注:「うかがつて」。]見ようといふ事になりました。侍は其處[やぶちゃん注:「そこ」。]へ自分を連れて來た人達に向つて言ひました。『萬一拙者[やぶちゃん注:「せつしや」。]が明朝に至るも猶ほ生存致すに於ては、寺の太鼓を打鳴らして告げ參らすで御座らう』それから侍は一人後に殘つて、手燭の光をたよりに見張りをしてゐました。
夜が更けて來ると侍は、埃[やぶちゃん注:「ほこり」。]だらけの佛像の置いてある須彌壇の下にぢつと蹲りました。何も變つたものも見えず何の物音も聞えぬままやがて眞夜中は過ぎたのです。すると其處へ化物がやつて來ました、身體は半分で眼は一つしかありません、それが『人臭い』と言ふのです。けれども侍は身動きしませんでした。化物は行つて仕舞ひました。
[やぶちゃん注:「須彌壇」(しゆみだん(しゅみだん))は仏像を安置する台座のこと。須弥山(サンスクリット語ラテン文字転写「Sumeru」)の漢音写。「妙高山」(みょうこうせん)と意漢訳したりもする。古代インドの世界観が仏教に取り入れられたもので、世界の中心に聳えるという高山。この山を中心に、七重に山が取り巻き、山と山との間に七つの海があり、一番外側の海を「鐵圍山」(てっちせん)が囲む。この外海の四方に「四大州」が広がり、その南の「閻浮提」(えんぶだい:同前の「Jambu-dvīpa」の漢音写。「閻浮樹」が生えているとされ、本来はインドを指した。「閻浮洲」 (えんぶしゅう) ・「南閻浮提」・「南贍部洲」 (なんせんぶしゅう) とも言う。人間はこの平地に生きているとされ、その頂上は帝釈天の地で、四天王や諸天が階層を異にして住み分け、日月が周囲を回転するとする)を象ったものとされる。一般には四角形で重層式である。]
すると今度は一人の坊主がやつて來て三味線を彈き[やぶちゃん注:「ひき」。]ましたが其の手際は全く驚くばかりなのでこれは人間の業ではないと侍は確かに見て取つたのです。そこで侍は刀を拔いて飛び起きました。坊主は、侍を見ながら、カラカラと笑つて、かう言ひました。『さては愚僧を妖怪と思召されたか。いやいや。愚僧は此の寺の和尙に過ぎんのぢや。妖怪共を近づけぬ爲め彈かねばならぬが喃。どうぢやな此の三味線は美事な音が致すであらうが。どれ所望ぢやほんの一曲彈いて御覽ぢやれ』
[やぶちゃん注:「喃」は「のう」。感動詞で呼びかけの語。「もし」。但し、訳文としては「……ならぬが、のう、どうじやな……」とする方がよかろうか。]
さう言つて坊主は其の鳴物を差し出しましたが、侍は極く用心深く左の手でそれを摑んだ[やぶちゃん注:「つかんだ」。]のです。所が忽ち[やぶちゃん注:「たちまち」。]三味線は恐ろしく大きな蜘蛛網(くものす)に變り、坊主は化け蜘蛛に變りました。そして侍は自分の力の手が緊く[やぶちゃん注:「きつく」。]蜘蛛網に絡まれたのに氣が付きました。彼は雄々しく立ち向つて、蜘蛛を刀で切り付け、手傷を負はしたのです、けれども直きに網の中に後から後からと卷き付けられて仕舞つて、身動きも出來なくなりました。
然し、手傷を負つた蜘蛛は這ひ[やぶちゃん注:「はひ」。]去りました、そして日は昇つたのです。間もなく人々がやつて來て恐ろしい網に卷かれてゐる侍を見つけ、無事に助け出しました。皆は床の上に幾つも落ちてゐる血の滴りが眼に付いたので、其の跡を隨(つ)けて寺から出て行き荒れ果てた庭に在る穴の所まで來ました。其の穴からは身の毛のよだつやうな呻き[やぶちゃん注:「うめき」。]聲が聞えて來るのです。皆は穴の中に手傷を負つた蜘蛛を見付けて、それを退治しました。
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