小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「六」
[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郞譯) / その「一」・「二」』を参照されたい。]
六
翌朝私が大行列を見るため外出すると、街上は群集充滿、誰れも動けないやうに見えた。けれども、すべての人々が動いてゐた。或は寧ろ𢌞流してゐた。丁度魚が群れをなしてゐるやうに、一般的にいつか知らぬ間にじりじりと滑るやうに進んでゐた。一見すると、人の頭と肩が堅固に押し合つてゐるやうな雜沓の中を通つて、私は苦もなく、約半哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは千六百九・三四メートルであるから、約八百五メートル。]ほどの距離にある親切な商人の家へ達した。どうしてこんなに人がぎつしり集つて、しかもそれがこのやうに安易に進み得るかといふ疑問は、日本人の性格のみが解釋を與へうるのである。私は一度も亂暴に推しのけられなかつた。しかし日本の群集は必らずしもすべて一樣ではない。その中を通過しようとすると、不快な結果を蒙るやうな場合もある。無論群集の靡くやうな流動性は、その性質の溫和に比例する。しかし日本に於けるその溫和の背景は、地方に隨つて大いに差異がある。中央部及び東國地方では、群集の親切さはその新文明に對する未經驗に比例するやうに見える。この多分百萬人にも及ぶ莫大の群集は、驚くほど優しく、また上機嫌であつた、その譯は、大部分の人々は、質樸な田舍者であつたからである。巡査がいよいよ行列のために通路を開くやうにしたとき、群集は我が儘勝手をいひ張らないで直に最も從順に列を作つた――小さな子供は前面に並び、大人は後方に控へて。
九時といふ豫告であつたが、行列は殆ど十一時までも現はれなかつた。して、そのぎつしり詰まつた町の中で長く待つことは、辛抱づよい佛敎信者に取つてさへ窮屈であつたに相違ない。私は商人の家の表座敷で親切にも座布團を與へられた。しかし座布團は頗る柔らかで、待遇は慇懃を極めたものであつたけれども、私は遂にぢつとしてゐる姿勢に倦いてきたから外の群集の中へ出て行つて、初めは一方の足で立ち、それから他の片足で立つてゐて、待つ事の經驗に變化を與へた。けれども、かやうに私の場所を去るに先だち、幸にも私は商人の家に於ける客の中で、數名の頗る美しい京都の貴婦人を見ることができた。そのうちには一人の公爵夫人[やぶちゃん注:原文は“a princess”。「とある未婚の皇女」、昔風に言えば「ある宮家のお姫さま」か。但し、英語のプリンセスは「英国以外の公爵夫人」の意もある。但し、「公爵」のその「夫人」となると、皇族に限定されず、元公家及び勲功を認められた旧武家などを中心とした広汎な人物のその夫人となる。因みに、平井呈一氏も恒文社版「京都旅行」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では『さる宮家の姫君』と訳しておられる。これが誰なのか判らぬので、二様の訳を示しておく。]もあつた。京都はその婦人の美で有名である。して、私がこれまで見たうちで最も美しい日本婦人がそこにゐた――それは公爵夫人ではなく、商人の長男の内氣な若い花嫁であつた。美はただ皮相にとどまるといふ諺は、『皮相の見解に過ぎない』といふことは、ハーバート・スペンサーが生理學の法則によつて充分に證明してゐる。して、同一の法則は、舉止品位の優美は容色の美よりも更に一層深長なる意義を有することを示してゐる。花嫁の美は、まさしくかの體骼全部に亙つて力の最も有效に現はれてゐる種類の、世にも稀なる優美な形姿であつた――初めて見たとき人をびつくりさせ、更に見るたび每にますます驚嘆止まざらしむる優美であつた。日本の綺麗な女が、固有の美麗なる衣服でなく、他國の服裝をした場合にも、同樣綺麗に見えるのは頗る稀である。私共が普通日本婦人に於て優美と稱するものは、希臘人が優美と呼んだと思はれるものよりは、寧ろ形狀と姿勢の上品さである。この場合に於ては、その長い、輕い、細い、恰好のよい、申し分のないやうに緊まつた姿は、いかなる服裝をも品よく見せるであらう。そこには風の吹くときに若竹が示すやうな、たをやかな優美さが偲ばれた。
[やぶちゃん注:「ハーバート・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戶川明三譯。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。「皮相の見解に過ぎない」という引用は、一八九一年刊の「科学的・政治的・思索的エッセイ集」( Essays: Scientific, Political, and Speculative )の第二巻十四章「個人的美」(Vol. 2, Ch. XIV, Personal Beauty)にある以下である。
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The saying that beauty is but skin deep is but a skin-deep saying.
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このパラドキシャルな明言は実に素敵だ!]
行列のことを詳しく述べるのは、無暗に讀者を倦怠せしめるに過ぎないから、私はただ二三の槪說を試みるだけにしよう。行列の趣旨は、第八世紀に於ける京都の奠都の時から明治の今日に至るまで、京都の歷史上、諸時代に行はれたさまざまの文武の服裝を示し、また該歷史の中に活躍した主もなる武將の人物を現はすといふことであつた。少くとも二千名の人が大名、公卿、旗本、武士、家來、雲助[やぶちゃん注:原文は“carriers”であるから判らぬではないが、せめても「中間」(ちゅうげん)の方がいいように思う。]、樂師、白拍子に扮して、行列をなして進んで行つた。白拍子の役は藝者が勤めた。その中には大きな華でな[やぶちゃん注:「はでな」。]翼ある蝶々のやうな服裝をしたのもあつた。甲冑武器、古い頭飾りや衣裳は、實際過去の遺物であつて、舊家や職業的骨董家や私人の蒐集家からこの催のため出品されたのであつた。優秀れた武將――織田信長、加藤淸正、家康、秀吉――は、傳說に基づいて表現されてゐた。實際に猿のやうな顏の人が、有名な秀吉の役を演じてゐるのを見受けた。
これらの過去の時代の光景が、人々の側を通つて行くとき、彼等はぢつと沈默を守つてゐた――西洋の讀者に取つては、不思議に思はれるかも知れないが、實はこの無言靜肅といふ事實は、非常な愉快を示してゐるのだ。實際、騷々しい表現によつて賞讃を示すといふこと一一例へば拍手喝采の如き――は、國民的情操と一致してゐない。軍隊の歡呼さへも、輸入されたものである。して、東京に於ける示威運動じみた喧囂[やぶちゃん注:「けんがう(けんごう)」。喧(やかま)しく騒がしいさま。]も、多分近頃から始つたもので、且つまた不自然の性質を帶びてゐる。私は千八百九十五年[やぶちゃん注:明治二十八年。本篇時制と同年。]に、その年のうちに神戶で二囘までも人を感動させるやうな、鎭まりかへつた光景を記憶してゐる。第一囘は行幸の場合であつた[やぶちゃん注:当時の神戸には御用邸があった。明治一九(一八八六)年に宇治川河口の弁天町西側の海岸沿いにあり、三千九百七十坪の広大な敷地を擁した。明治四〇(一九〇七)年、東京倉庫が買い取っている。明治天皇の神戸への行幸は全二十四回で、この御用邸への行幸は九回という。思うにこれは、この「平安遷都千百年紀念祭」は開催が遅れたことは既に述べたが、同年五月二十三日に明治天皇が二条城本丸に行幸していることが確認出来たので、或いは、この時に神戸御用邸に立ち寄ったものかも知れない。]。非常な群集で、前方の數列は車駕通過の折跪坐したが、一つの囁き聲さへも聞こえなかつた。第二囘の目ざましい鎭靜は、出征軍が支那から凱旋の折であつた。その軍隊が歡迎のために建てられたる凱旋門の下を進行するに當つて、人民は一言の聲をも發しなかつた。私がその譯をきくと、『我々日本人は無言の方が一層よく政情を表はしうると考へる』といふ返事を受けた[やぶちゃん注:銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、日清戦争が終わり、日清講和条約が調印(四月十七日)され、同年『五月五日(日)、凱旋する兵士』の『出迎えの行列』『をセツ、一雄とともに『加わ』って見たことが記されてあり、また、凡そその一ヶ月後の六月九日(日)の条にも『帰還する兵士が神戸駅から「楠公さん」まで行進するのを、万右衛門と見に行く』(セツの養祖父稲垣万右衛門)とある。]。私はまたここに述べてもよいと思ふが、最近の日淸戰爭中、日本軍の戰鬪前に於ける氣味わるい靜肅は、いよいよ砲門を開くのよりも一層多く喧騷な支那人を恐怖せしめたのであつた。例外はあるけれども、一般的事實として次の如く述べ得ると思ふ。日本では感情がその苦樂いづれを問はず、深ければ深いほど、また場合が莊嚴或は悲壯であればあるほど、感じたり、行動したりする人々は、自然とますます多く無言になつてくる。
或る外國の見物人はこの時代行列を評して活氣がないといつた。して、燒きつけるやうな日光の下で着馴れぬ甲胃の重さのため壓迫された勇將の勇ましくない態度や、部下の隱しきれぬ疲勞について、兎角の批判を加へた。しかし日本人に取つては、すべてかやうな點は却つて一層その行列を現實化したのであつた。して、私は全くそれに同意であつた。事實、軍國史上の英雄豪傑は、ただ特異の場合に於てのみ天晴れ凛々しく見えたのだ。百戰鍛鍊の剛の[やぶちゃん注:「かうの(こうの)」。]者さへも、疲憊[やぶちゃん注:「ひはい」。疲れ果てて弱ること。疲労困憊(ひろうこんぱい)。]の經驗を嘗めてゐる。して、たしかに信長や秀吉や加藤淸正も、この京都の時代行列に於ける彼等の代表人物のやうに、幾たびか塵埃にまみれたり、疲れ果てた足を曳きずつたり、力なげに馬に乘つたりしてゐたことがあるに相違ない。苟も敎育ある日本人に對しては、いかに芝居じみた理想主義も、日本の豪傑輩の人間味といふ感を沒却させることはできない。これに反して、その人並な人間味の史的證據こそ、最も民衆の心に彼等を懷かしく感ぜしめ、その人並でなかつた一切精神的方面を、對照のためにいよいよ立派な、卓越なものとするのである。
行列を見た扱、私は大極殿へ行つた。これは政府によつて建てられた壯麗なる紀念の神殿で、私の前囘の著書譯者註に述べてある。私は記念章を示してから、桓武天皇の宮を拜することを許された。して、可愛らしい巫女が差し出した淸淨潔白な粘土製の新しい杯から、天皇の紀念を祝する少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の酒をいただいた。神酒を飮んでから、小さな巫女はさつぱりした木箱にその白い杯を收め、紀念品として私に持つて歸らせた。このやうに、紀念章を買つてゐた人には、一個づつ新しい杯が與へられたのである。
譯者註 本全集第四卷「心」の第四章『旅日記から』參照。
[やぶちゃん注:小泉八雲が明治二九(一八九六)年三月に刊行した(この前月二月十日に帰化手続きが終わり、Lafcadio Hearnは小泉八雲に改名している)、来日後の第三作品集「心」(Kokoro:小説や随想など十五編から成る短編集)の“ IV. FROM A TRAVELING DIARY ”を指す。同作品集は、本作品集が終わった後、近日、電子化注に取り掛かる予定である。【追記】後に電子化注したので、本文註の方にリンクを張っておいた。]
かかる小さな財物や紀念品が、日本旅行の獨得な愉快の大部分をつくる。殆どいかなる町や村でも、ただその一個所に於てのみ作られ、他の場所では見出されない美しいものや、珍らしいものを土產として買ふことができる。それから、內地の諸地方では少しばかり寬濶[やぶちゃん注:「くわんくわつ(かんかつ)」は、この場合は、派手で贅沢なさま。平井呈一氏は恒文社版「京都旅行」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『すこし祝儀をはずむと』と美事に訳しておられる。]に振る舞ふ場合、屹度進物の謝禮を受ける。その品物は幾ら安價であつても、殆ど必らず驚異且つ愉快でないことはない。日本各地漫遊の際、私があちらこちらで手に入れた種種の品のうちで、最も綺麗なもの、また最も私が愛するものは、かやうにして得た奇異な小さな進物である。
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