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2019/11/04

小泉八雲 佛足石 (大谷正信譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ Footprints of the Buddha 。「ブッダ(釈迦)の蹠(あうら)の跡」)は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN (「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の第七話目に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”こちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”こちらで全篇が読める。なお、この前にある田部隆次氏訳の「惡因緣」(原題“ A Passional Karma ”。「情念の因縁」)は既に単発で、『小泉八雲 惡因緣 (田部隆次譯) 附・「夜窓鬼談」の「牡丹燈」』として電子化注を終わっている。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月18日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 原「註」は底本では四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで引き上げた。また、本篇には二葉の仏足石の図が載り、底本にもそれが示されてあるが、底本は画像が不鮮明なので、“Internet Archive”の原本のPDF画像からトリミングし、影がある部分は補正を加えて見易くして、私が適切と判断した位置(底本では挿入位置が甚だ悪い)に挿入した(もしかすると、この画像、如何なる出版物のそれより、鮮明かも!)。なお、この挿絵については、訳者の大谷氏が底本の「あとがき」で、『傳通院の佛足跡は、譯者自ら鉛筆を用ひて石刷にしたのを縮寫したもの、『諸囘向寶鑑』のは、透き寫しにしたものである』と記しておられる。★【2025年4月18日追記】以上の本文新底本の同巻は、著作権存続である『送信サービスで閲覧可能』『国立国会図書館内/図書館・個人送信限定』であるため(思うに、この国立国会図書館デジタルコレクション(旧「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」)に最初に公開された際には、どこかの記載者・訳者の著作権が存続していたため――確実と思われる一つは巻末に貼付けられてある『月報』と思われる。冒頭の「邦譯小泉八雲全集に就て」の筆者佐藤春夫は公開当時は著作権継続であったから)、許可を得ないと画像の転載は出来ない。従って、不本意ながら、本篇中の画像を(二箇所ある。ここと、ここである)転写することは出来ない。しかし、上記で述べた通り、モノクロームの“Internet Archive”版の方が、圧倒的に『鮮明』であるから、八雲先生も肯んじて貰えるものと信ずる。

 

 

  佛 足 石

 

 大英國博物館所藏日本及び支那繪畫のアンダスンの目錄に、『日本にては彌陀の像が、アムラヷアティ遺跡並びに他の多くの印度の藝述遺物に見るが如くに、足卽ち脚のみにては決して表はされ居らざることは注目すべきことなり』といふ異常な記述があるのを見て、自分は近頃一驚を喫した。實際の處さういふ表象は日本には稀でも無いのである。石造紀念碑にも見出される計りで無く、宗敎的繪畫――殊に寺院で懸ける或る種のカケモノ――にも見出される。そんなカケモノは通例は足跡を――夥多[やぶちゃん注:「あまた」。]の象徵並びに文字と共に――大規模に見せて居る。彫刻されて居るのは、これほどに普通では無いかも知れぬ。が、東京だけにも、自分が見たブツソクセキ卽ち『佛足石』は澤山にある――自分が見て居ないものが多分數々あらう。兩國橋近くの囘向院に一つ、小石川の傳通院に一つ、淺草の傳法院に一つ、それから芝の增上寺に美くしい實例が一つある。此等はいづれもただの一個の切石を切つたのでは無くて、幾つかの小石をセメントで結合して不規則な傳統的恰好にして、その上へ根府川石の重い扁石[やぶちゃん注:「へんせき」。平たい石。]を載せ、その磨いた表面に、深さ一吋[やぶちゃん注:「インチ」。]の十分の一[やぶちゃん注:二・五四ミリメートル。]ばかりに線でその模樣が彫つてあるのである。自分の判斷では、その臺石の平均の高さは二四吋[やぶちゃん注:「呎」は「フィート」。約七十一センチメートル。]ぐらゐで、その一番長い直徑が三呎[やぶちゃん注:約九十一・四センチメートル。]ぐらゐと思ふ。その足蹟のぐるりに(上記の實例の多くのものには)ボダイジユ(『ボディドルマ』)卽ち佛敎傳說の菩提樹の葉と莟との小さな總(ふさ)が十二彫つてある。いづれのものにも足跡の模樣は大抵同一である。が、その記念碑は質に於てまた仕上(しあげ)に於て異つて居る。增上寺の――その側面に淺い浮彫で佛體が彫つてあるの――は、四つのうちで一番飾の多い價の高いものである。囘向院にある見本は甚だ拙くて[やぶちゃん注:「つたなくて」。]質素である。

[やぶちゃん注:「佛足石」ウィキの「仏足石」を引いておく。『仏足石(ぶっそくせき)は、釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの』で、『古いものは紀元前』四『世紀に遡るとも考えられている』。但し、『仏足石は釈迦のものとは限らず、シバ神の足跡も信仰の対象とされている。両足を揃えたものがより古い形式のもので、片足のものは比較的新しく紀元後のものと考えられる。実際の足跡ではなく三十二相八十種好』(同ウィキへのリンク)『の説にもとづいて、足下安平立相、足下二輪相』『などが刻まれていることが多い。古代インドでは像を造る習慣がなかったため、このような仏足石や菩提樹などを用いて、釈迦やブッダを表現した』。『足下安平立相(そくげあんびょうりゅうそう)』は、『足が大きく平らで、土踏まずがないという特徴がある。より古い形式では何も模様がかかれていないことが多い』。『足下二輪相(そくげにりんそう)』は、『足のほぼ中央に二重の輪が画かれ、そこから放射状に線が画かれる』。『長指相(ちょうしそう)』は、『仏陀は手の指も足の指も長かったとされ、足跡の指も長く画かれる』。『手足指網相(しゅそくしまんそう)』は、『指と指の間に水かきのような網があったとされている。仏足石では、魚の絵で網を表している』。『日本には奈良時代に唐を経て伝わっ』ており、『特に奈良薬師寺にあるものが有名である。この薬師寺のものは』、天平勝宝五(七五三)年に『天武天皇の孫文屋智努』(ふんやのちぬ)『(=智努王)によってつくられた日本最古のものである。同じ薬師寺には仏を礼賛した仏足石歌』二十一『首(「恭仏跡」』十七『首・「呵責生死」』四『首)が刻まれた仏足跡歌碑がある。この仏足跡歌碑に刻まれた歌は、五・七・五・七・七・七の』六『句からなり、記録に残る歌で』、『この歌体による和歌は、この歌碑に刻まれたものがほとんどであることから』「仏足石歌体」と呼ばれる。『薬師寺のものも世間的にはあまり著名ではない時代が続いたが、江戸時代に出版された書にその模写が載って知られるようになり、以降』、『全国各地に模倣品が作られるようになった。現在』、『存在するものはこの江戸から昭和初期に作られたもの、以降の時代に作られたもの、「インドの現地で新規に採録した」という触れ込みであるものなど、材質や大きさまで含めて』、『多種多彩である』(太字下線は私が附した)とある。則ち、日本於けるその信仰や一般の礼拝は江戸時代以降のかなり新しいものであるということである。ウィキ・コモンズのこちらで三十五枚の「仏足石」(外国の古い物多し)の画像が見られる。必見。

「アンダスン」イギリスの医師で日本美術のコレクターとして知られたウィリアム・アンダーソン(William Anderson 一八四二年~一九〇〇年)。ウィキの「ウィリアム・アンダーソン(医師)」によれば、一八七三(明治六)年に『日本海軍の招きで来日し、海軍軍医寮で海軍軍医教育に当たった』。一方で精力的に日本の美術作品を蒐集した。『ロンドン』『生まれ』で、『アバディーンなどで医学を学び、セント・トーマス病院』に勤務していたが、『日本海軍の招きで来日し、海軍軍医寮の解剖学、外科学の教授となり、軍医の養成を行った。後に日本政府から旭日章を受勲した』一八八〇(明治一三)年に『帰国し、セント・トーマス病院の外科医補になり、解剖学の上級教員にな』り、一八九一年に『ロイヤル・アカデミーの解剖学教授となった』。一八九八年には『被角血管腫の患者の報告したことでも知られ、この遺伝病のアンダーソン・ファブリー病(ファブリー病)』(Anderson–Fabry disease:指定難病の一つ。細胞内リソソーム(ライソゾーム)酵素の一つであるα-ガラクトシダーゼの活性が欠損若しくは低下して生じる遺伝性疾患。糖脂質代謝異常病。X連鎖遺伝形式の遺伝病であり、患者の殆んどは男性。全身の細胞に糖脂質が過剰に蓄積し、発見が遅れたり、適切な治療が行われないと、青年期から中年期にかけて腎臓・心臓・脳に関連疾患が出現して重症化する)『には、彼の名前がつけられている』。『この間』、『日本美術の収集を行い、多くの版画や画本を集め、その時代のヨーロッパで最も優れたコレクションをつくりあげた。後にこのコレクションは大英博物館に売却され』ている。また一八九一(明治二四)年に『ロンドン日本協会(The Japan Society of the UK)が設立されると、初代理事長となっ』てもいる。この「目錄」はロンドンのロングマンズ社(Longmans & Co.)から一八八六年に刊行された“ Descriptive and historical catalogue of a collection of Japanese and Chinese paintings in the British museum ”(「大英博物館所蔵の日本と中国の絵画コレクションの解説と編年的な目録」)のことであろう。

「アムラヷアティ遺跡」原文“Amravati remains” 。インドのほぼ中央に位置するアムラーワティー(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にある仏教遺跡。

「囘向院」歴史的仮名遣「ゑかうゐん」、現代仮名遣「えこういん」は、東京都墨田区両国にある浄土宗の諸宗山無縁寺回向院。創建は明暦三(一六五七)年。墨田区本所地域内に所在していることから「本所回向院」とも呼ばれる。仏足石は公式サイト内でも確認出来ない。

「傳通院」原文は“Dentu-In”で誤り。歴史的仮名遣「でんづうゐん」、現代仮名遣「でんづういん」が正しい。東京都文京区小石川にある浄土宗の無量山傳通院寿経寺(むりょうざんでんづういんじゅきょうじ)。応永二二(一四一五)年開山。公式サイト内のこちらに、以下の本文にも出る通り、明治一八(一八八五)年に『第六十六世泰成上人造立』になり、『法蔵地蔵尊の右手前にある』として写真もある。

「傳法院」歴史的仮名遣「でんぱふゐん」、現代仮名遣「でんぽういん」。「法」の歴史的仮名遣は通常使用の漢字の「法」は「はう」であるが、仏教用語の場合は「はふ」と厳然と読み分けている。東京都台東区浅草にある、もと天台宗で現在は聖観音宗(しょうかんのんしゅう)総本山の金竜山浅草寺(せんそうじ)の本坊。正式名は伝法心院(でんぽうしんいん)。仏足石はこちら(旅行サイトの画像)。

「增上寺」東京都港区芝公園にある浄土宗の三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)。仏足石はサイト「東京都港区の歴史」のこちらに画像が有る。解説に、これは当山第七十世の福田行誠上人の代に『山内宝松院松涛泰成上人の発願により』、明治一四(一八八一)年五月に『建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている』とある。

「根府川石」神奈川県小田原市根府川(ねぶかわ)に産する輝石安山岩の石材名。板状節理が発達し、敷石・石碑などによく利用される。「へげ石」とも呼ぶ。

「ボダイジユ(『ボディドルマ』)」“Bodai-ju ("Bodhidruma")”。釈迦が悟りを開いた所にあった木としての正統唯一のそれは、インドから東南アジアにかけて分布するイラクサ目クワ科イチジク属インドボダイジュ Ficus religiosa 。インドの国花。日本には植生しないが、ウィキの「インドボダイジュ」によれば、『耐寒性が弱く』、『元来は日本で育てるには温室が必要であるが、近年では地球温暖化の影響で、関東以南の温暖な地域では路地植えで越冬できたり、または鉢植えの観葉植物として出回っている』とある。古くから、その代用として寺院に多く植えられているのは、アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana であって、全くの別種であるので注意が必要。

 

 日本で出來た最初の佛足石は奈良の東大寺に建てられた物であつた。その模樣は支那にある、印度の原(もと)のを忠實に模したのだといふ、似寄つた記念碑に倣つたのであつた。この印度の原のものに關して、次記の傳說が或る古い佛書に戴つて居る。

[やぶちゃん注:現存しないか。]

 

註 その支那字の表題をセイ・ヰキ・キと發音する。「セイ・ヰキ」(西域)とは印度の日本古名であつた。だから此の表題は「印度についての書(ザ・ブツク・オブ・インデイア)」と譯してよからう。此書は西洋の讀者にはシ・ユ・キとして知られて居る書かと思ふ。

[やぶちゃん注:「大唐西域記」(だいとうさいいきき)唐代の僧玄奘の西域・インド旅行の見聞録。全十二巻。弟子の弁機の編録により、六四六年に成立した。地理・風俗・言語・仏教事情・産物・伝説などを、六二九年から六四五年までの遊歴の順に記したもの。同書は調べたところ、実際に英名“ Si-yu-ki ”(英訳では“ Great Tang Records on the Western Regions ”と長ったらしい)の書名を持ってもいる。

 以下の引用は底本ではポイント落ち三字下げ。]

 

摩揭陀國の精舍中に大石あり。如來履む所雙跡猶存す。其長さ尺有八寸、廣さ六寸に餘れり。兩跡共に輪相あり。十指皆花文を帶ぶ。光明時に照す。昔時、如來將に滅んとす。拘戶那に赴き、南の方を顧みて石上にして阿難に告ぐ。『我今最後に此足跡を留めん。此國の王にしてこの足跡を毀たんとするも決して全く毀たるゝことあらざるべし』げに今日に至るも毀たれざりき。嘗て佛法を惡みし王ありて、その石の頂を削りて、足跡を除かんとせしも、鑿り已れば文彩故の如かりき。

 

註 「尺有八寸」日本の尺寸は英國の呎吋より餘程長い。

[やぶちゃん注:推定で歴史的仮名遣で読みを補ったものを示す。送りがな・句読点を加えた。

   *

摩揭陀國(マカダこく)の精舍(しやうじや)中(ちゆう)に大石あり。如來、履(ふ)む所、雙跡(さうせき)、猶ほ、存す。其の長さ、尺有八寸[やぶちゃん注:五十四・五センチメートル。]、廣さ六寸[やぶちゃん注:約十八センチメートル。]に餘れり。兩跡、共に輪相(りんさう)あり。十指(じつし)、皆、花文(くわもん)を帶ぶ。光明(かうみやう)、時に照らす。昔時(せきじ)、如來[やぶちゃん注:ここは釈迦のこと。]、將(まさ)に滅(めつ)せんとす。拘戶那(クシナ)に赴き、南の方を顧みて、石上(せきじやう)にして、阿難(あなん)に告ぐ。『我、今、最後に、此の足跡を留(とど)めん。此國の王にして、この足跡を毀(こぼ)たんとするも、決して、全く、毀たるゝこと、あらざるべし。』。げに、今日(こんにち)に至るも、毀たれざりき。嘗つて佛法を惡(にく)みし王ありて、その石の頂きを削りて、足跡を除(のぞ)かんとせしも、鑿(き)り已(をは)れば、文彩(もんさい)、故(もと)の如(ごと)かりき。

  *

マガダ国(紀元前四一三年~紀元前三九五年)は古代インドの十六の大国の一つ。ナンダ朝のもとでガンジス川流域の諸王国を平定し、マウリヤ朝のもとでインド初の統一帝国を築いた。位置は参照したウィキの「マガダ国」の地図を見られたい。

「拘戶那(クシナ)」“ Kushina [Kusinârâ] ”。釈迦は四十五年の説教をして、紀元前四八六年に「くしながら(拘尸那掲羅)」の沙羅双樹の下で八十歳で亡くなったとされる。クシナガラ、或いは、クシナーラーは古代インドのガナ・サンガ国であったマッラ国(末羅国)の二大中心地の一つで西の中心地であり、現在のインドのウッタル・プラデーシュ州東端のカシア付近の村。釈尊入滅の地とされる。

「阿難(あなん)」「阿難陀」に同じ。アーナンダ。釈迦の十大弟子の一人で、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから、「多聞(たもん)第一」と称せられた。禅宗では迦葉の跡を継いで、仏法付法蔵の第三祖とされる。「阿難陀」は漢語意訳では「歡喜」「慶喜」とも漢訳される。]

 

 佛陀足跡の表象の德に就いては、時々『觀佛三昧經』から經語が引用されて居る。自分が譯して貰つたのは斯うである。

[やぶちゃん注:「觀佛三昧經」「觀佛三昧海經」全十巻。サンスクリット語・チベット語訳はなく、仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)による漢訳のみが現存する。釈迦の涅槃後、衆生のために釈尊の色身の観想・大慈悲に満ちた仏心と、仏の生涯の諸場面への念想・仏像の観察、さらに過去七仏及び十方仏の念仏などを説いたもの。観仏三昧に依って釈尊を中心とした諸仏との見仏を実現しようとする経典である。「観仏」の背景には「般若經」や「華嚴經」の思想や、唯心・如来蔵の思想が窺われるものである。]

 

その時釈迦〔シヤキヤムニ〕はその足を舉げぬ。……佛その足を舉ぐる時いづれも足下に千輻輪の相を視ることを得たり。……かくて釈迦は言ひぬ、『我が足の裏の千輻輪相を見んものは千劫極重惡罪を除かるべし。世を去つて後その跡を見ん者も千劫極重惡業を免るべし』

[やぶちゃん注:「千劫」仏教は極めて数理的に正確で、現行では四十三億二千万年を「一劫」とするから、十四兆三千二百億年となる。]

 

 日本佛敎の他の種々な經語も、誰れでも佛足跡を見る者は『罪業の紲[やぶちゃん注:「きづな」。]を免れて解脫の道に入らん』と附言して居る。

 

Busokuseki1

 

   東京小石川傳通院の佛足跡

[やぶちゃん注:以上は底本のキャプションであるが、縦書三行分かち書きであるのを、繋げて示した。]

 

 日本のの臺石の一つに彫つてある模樣の外形は、佛足跡の印度の彫刻を能く知つて居る人達にも、幾分の興味があるに相違無い。兩方の足跡を示し居る右の圖は、傳通院にある跡のを取つたもので、これはその傳說的な大いさを充分に有つて居る。

 

Busokuseki2

 

   釋尊足下千輻輪相圖

[やぶちゃん注:掲げた二番目の図版の底本での上に配されたキャプション。実際は右から左へ綴られてある。]

 

   (「諸囘向寳鑑」より)

[やぶちゃん注:掲げた二番目の図の底本の向かって右手に配された足の蹠(うら)の図の下方の縦書きキャプション。]

 

   卍字のある佛足跡

     (「佛敎百科全書」)

[やぶちゃん注:掲げた二番目の図の底本の向かって左手に配された足の蹠の図の下方の縦書きキャプション。]

 

註 奈良にある紀念碑に東京のの臺石にある模樣とは餘程異つた形に足跡が現はれてある。

[やぶちゃん注:「諸囘向寳鑑」「淨家諸囘向寳鑑」全五巻。表題には「淨土諸囘向寶鑑」とあり、内題では「淨家諸囘向寶鑑」と記し、著者は必夢、雅印に「讃誉龍山」と捺する。奥書は元禄一一(一六九八)年正月とある。宗門僧侶のために読誦すべき経や回向文を集録した書である。必夢は十七世紀頃(江戸初期)の学僧で、生没年は不明。僧名は讀譽龍山。増上寺に遊学の後、越前国敦賀江良の福伝寺に住した。★【2025年4月18日追記】国立国会図書館デジタルコレクションを捜したところ、大乗法友会編・諸迴向宝鑑刊行会一九七七年刊のここに仏足図を見出した。項目は「十三」の「釋尊下輻輪相圖」である。

「佛敎百科全書」既注。大分出身の真宗大谷派の僧長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗仏教百科全書」(開導書院・明治二三(一八九〇)年刊)。但し、これは江戸前期の真宗僧明伝(みょうでん 寛永九(一六三二)年~宝永六(一七〇九)年)の編になる「百通切紙」(全四巻。「浄土顕要鈔」とも称する。延宝九(一六八一)年成立、天和三(一六八三)年板行された。浄土真宗本願寺派の安心と行事について問答形式を以って百箇条で記述したもので、真宗の立場から浄土宗の教義と行事を対比していることから、その当時の浄土宗の法式と習俗などを知る重要な資料とされる)と、江戸後期の真宗僧で京の大行寺(だいぎょうじ)の、教団に二人しか存在しない学頭の一人であった博覧強記の学僧信暁僧都(安永二(一七七三年?~安政五(一八五八)年:「御勧章」や仏光版「教行信証」の開版もした)の没年板行の「山海里(さんかいり)」(全三十六巻)との二書を合わせて翻刻したもの。但し、標題を縦覧した限りでは見当たらない。発見し次第、追記する。【2025年4月18日追記】国立国会図書館デジタルコレクションを、再度、捜したところ、「佛敎百科全書」「第一卷」のここに仏足図を見出した。項目は「〇第百六十 釋迦如來も諸難を受けたまひし事」である。 

 表象は七つしか無いことが見られるであらう。日本では之を『シチサウ』――卽ち『七相』と呼んで居る。此等について自分は――淨土宗で用ひる書物の――『諸囘向寶鑑』で少しく知ることを得た。此の書には足跡の粗末な木版が載つて居る。それでその一つを、足の指に附いて居る表象の妙な形に注意を呼ぶ目的で、此處に轉載する。これはマンジ卽ち卍の變形だといふが、自分は之を疑ふ。佛足石の石刷では之に對應する象(かたち)は摩揭陀國の石の傳說に記載されて居る『花文』模樣を示して居る。だが書中の版畫の表象は火を思はせる。實際その外形は佛敎裝飾の因襲的な火炎模樣に如何にも能く似て居るから、足跡の傳統的な光明を原々[やぶちゃん注:「もともと」。]示すつもりであつたらう、と自分は考へざるを得ぬ。其上に、『法界次第』といふ書物に、此の想像に助を貸す文句がある。――

[やぶちゃん注:「法界次第」「法界次第初門」のこと。全六巻。隋の僧で天台宗の第三祖とされるものの実質的には開祖である智顗(ちぎ 五三八年~五九七年:慧思に師事して、天台山に籠って法華経の精神と竜樹の教学を中国独特の形に整序し、天台教学を確立した。隋の煬帝から信任され、智者の号を受けた。著に知られた「摩訶止観」がある。「天台大師」の称号を持つ)が、仏教の基本的な教理を法数に従って解釈した書。]

 

佛の足の裏は平らで、化粧臺の底のやうである。……その上に千幅の輪の觀を爲して居る條(すぢ)がある。……足の指は細く、圓く、長く、眞直で、や〻光を放つて居る

[やぶちゃん注:【2025年4月18日追記】国立国会図書館デジタルコレクションを調べたところ、「法界次第初門 卷之下 增補冠註」(第二版・小林是純註・千鍾房・明治二七(一八九四)年刊)のここで、当該部を発見した。下方の活字が大きいのが、本文で、右ページの「「一足安平如奩底。……」から左ページ本文が当該部。八雲は、そこからごく一部を参考にしたものである。

 

 『諸囘向寶鑑』が與へて居る七相の說明は滿足とは言はれぬ。が、日本の通俗佛敎に關して興味が無いでもない。その表象は次のやうな順序で考察されて居る。

[やぶちゃん注:以下の箇条書きは底本では、その全体が、初行の数字が一字下げ位置から始まり、二行目以降は総て三字下げとなって各項の中ではそれが維持される配字となっている。]

一、萬字(スワスチカ) 一々の足指のこの象(かたち)はマンジ(卍)の變形だといふ。そしていつも斯うなつて居るかどうかは自分は疑ふが、足跡を現はして居る或る大きな掛物では、此表象は確に卍字であつて、火炎でも花形でも無かつたことを自分は見た。日本の註解者は卍字は『永久の幸福』の徽號だと解く。

 

註 文字通では『萬の字』の徽號。

[やぶちゃん注:「文字通」書名ではない。「文字通り」の意であろう。]

 

二、魚 (ギヨ)[やぶちゃん注:これはルビではなく本文。] 魚はあらゆる束縛からの自由を意味する。恰も水中に在つて魚の容易に如何なる方向にも動くが如く、佛の境涯にあつては圓滿解脫の者は何等の束縛障礙のあることを知らぬ。

三、金剛杵 (『コンガウシヨ』梵語で『ヷジラ』)『現世の一切の煩惱を打破する』神聖な力を意味すと說明されて居る。

四、螺(日本語『ホラ』) 法を說くことの表號。『眞俗佛事編』といふ書には佛陀の聲の徽號としてある。『大悲經』では大乘敎理の說法と力との印としてある。『大日經』には斯う言つてある、――

[やぶちゃん注:「眞俗佛事編」江戸時代の僧侶子登の著。

「大悲經」全五巻。隋の那連提耶舎(なれんだいやしゃ)訳。仏が涅槃に臨んで法を梵天王・帝釈天、及び、弟子の迦葉・阿難に与え、滅後の法蔵伝持者を記て、舎利供養の功徳や滅後結集(けつじゅう)法を示したものという。

「大日經」大乗経典の一つ。全七巻。唐の善無畏が漢訳した。真言宗三部経の一つとされる。大毘盧遮那(だいびるしゃな)如来=大日如来が自由自在に活動し、説法する様を描いた経典。教理は第一章で、他は実践行の象徴的説明。この仏になるためには、悟りを求める心=菩提心を起こし、生きものをあわれみ(悲),その完全な実行(方便)をしなければならないとする(これを「三句の教え」と呼ぶ)。このため、護摩・曼荼羅・印相(いんぞう)などの秘儀の実践が詳述されている。本邦の天台宗でも重んじている。

 次の引用の一字下げはママ。後も同じ。二行に亙る場合は同じ位置まで下がるが、ここではそのままにした。]

 

 螺を吹く音を聞きて諸天悉く歡喜の念に滿ち、を聽かんとて集まり來る

 

五、花瓶(日本語『ハナガメ』) ムロの――文字通りには『無漏』と譯してよからう、生死を絕した最上智の境遇を意味する神祕な語の――表號。

六、千輻輪(梵語『チヤクラ』) 日本ではセンフクリンといふ此表象は、種々な引證文で珍な說明がされて居る。『法華文句』は

 

 車輪の效は或る物を破碎するにゐる。そして佛陀の敎法の效は一切の迷妄過失疑惑及び迷信を破碎するにある。かるが故に敎法を說くことをば『法輪を轉ず』と云ふ

 

と言つて居る。『正理論』は

 

 恰も世間の輪に轂輻ある如くに八支聖道彼に似たり

 

と言つて居る。

[やぶちゃん注:「チヤクラ」サンスクリット語で「円・円盤・車輪・轆轤(ろくろ)」を意味する語で、ヒンドゥー教のタントラやハタ・ヨーガ、仏教の後期密教では、人体の頭部・胸部・腹部などにあるとされる「中枢」を指す言葉として用いられる。「輪」と漢訳される。

「法華文句」「妙法蓮華經文句」の略称で法華三大部の一つ。隋の天台大師智顗(ちがい)が講義したものを、その弟子の灌頂が記録した書。全十巻。「法華經」の句を一つ一つ注釈する。その注釈の特色を四種 (因縁釈・約教釈・本迹釈・観心釈) に分類し、総称して「天台四釋」と称された。]

 

 車輪の效は或る物を破碎するにゐる。そして佛陀の敎法の效は一切の迷妄過失疑惑及び迷信を破碎するにある。かるが故に敎法を說くことをば『法輪を轉ず』と云ふ

[やぶちゃん注:この「車輪」は恐らく古代インドの武器としての鋭い突起を円周外に突き出した車輪状の武具に基づく(的に投げて相手を傷つける手裏剣様の投擲具)ものと思われる。鈷と同じく、仏教で降魔の呪具に転用されたものである。]

 

と言つて居る。『正理論』は

 

 恰も世間の輪に轂輻ある如くに八支聖道彼に似たり

 

と言つて居る。

[やぶちゃん注:「正理論」「因明入正理論(いんみょうにっしょうりろん)」か。サンスクリット名は音写で「ニヤーヤプラベーシャカ」。六世紀のインドの論理学者シャンカラスバーミンの著作え、陳那(じんな:ディグナーガ)の「因明正理門論」の内容を、初心者向けに平易に書き改めた簡明な入門書。参考底本書と同じく、論証及び知覚・推理・論難の三部よりなる。内容的には主張・証因」喩例の誤謬を十一、命名し、多少の新種を加えたもので、特に原拠からの理論的進展は見られない。但し、漢訳された数少ない仏教論理学書の中でも中国・日本に於いて多数の注釈書が著され、最もよく研究された書籍である。]

七、梵王冠佛陀の踵[やぶちゃん注:「きびす」。]の下に――佛陀は諸神諸佛に優るといふ表象に――ブラアマ(梵天王)の寶冠(ホウクワン)があるのである。

[やぶちゃん注:「梵王冠佛陀」ブッダの尊称であろう。

「ブラアマ(梵天王)」ヒンドゥー教の神の一柱。創造神であり、トリムルティ(最高神の三つの様相)の一存在。四つの顔を持ち、それぞれの顔は四方を向いているとされる。]

 

 然し自分は、このどんな佛足石にも彫つてあるものは、その表象の說明の上記の不完全な企より、もつと意味のあるものだといふことが分かるだらうと思ふ。傳通院の紀念碑の上に彫つてあるものは典型的である。臺石の異つた側面に、――頂上に近く、規則に從つて或る方位に向かはせて――胎藏界の五如來の徽號たる梵字が五つと、經語と記念の文句とが彫つてある。後者は自分が飜譯して貰つたのでは次記の如くである。

[やぶちゃん注:以下は以下の状態で底本では全体が三字下げである。一部で改行した。]

 

放光般若經云爾時世尊放足下千輻輪相光明乃至其見光明者畢志堅固發無上正眞道意。

觀佛三昧經云見佛跡者除却千劫極重惡業。

佛說無量壽經云

 佛所遊履 國邑丘聚 靡不蒙化 天下和順

 日月淸明 風雨以時 災厲不起 國豐民安

 兵戈無用 崇德興仁 務修禮讓

    〔左記[やぶちゃん注:以下。]は記念の文〕

  明治十八年五月闔山和合衆等造立佛足石一基

  安置傳通院大殿是欲盡未來際令大菩提種子增

  進佛道也

    當山第六十六世

         沙門安成謹記

         少苾莒循誘敬書

[やぶちゃん注:「放光般若經」「摩訶般若波羅蜜經」の無叉羅による訳「放光般若波羅蜜經」(二九一年成立)。

「觀佛三昧經」既注。

「無量壽經」浄土教の根本経典の「浄土三部經」の一つ。「大無量壽經」「大經」とも呼ぶ。三国時代の曹魏(二二〇年 ~二六五年)時代の中国の訳経僧康僧鎧(こう そうがい 生没年未詳)の訳。全二巻。サンスクリット語原典の他、チベット語訳・漢訳も現存する。漢訳は十二回も翻訳され、うち五本が現存する。内容は四十八誓願を成就した無量寿 (阿弥陀) 仏の修行と、その果報、及び衆生が念仏を唱えて極楽浄土に往生することが出来る因果を説く。

 後の「記」「書」に出る人物は興味が湧かないので、注さない。]

 

       二

 この彫られた足跡を――巨人の如く見えるが、然しこれがその表象として殘つて居る其人格を思へば遙かに小さな足跡を――想ふ時、不思議な事實が腦裡に集つて來る。二千四百年の古昔に、生の苦と神祕とに對する孤獨の瞑想よりして、一印度巡禮者の心が、人間がこれまで敎はつた最上の眞理を齎し、しかも科學無き時代に於て生の不可思議なる渾一と、物心二つの無限の虛妄と、宇宙の生死と、に關する我が現在の進化論的哲理の最上至極の知識とを先んじて述べたのであつた。彼は、純理によつて――しかも我々の時代の前には彼獨りが――何處よりか何處へか、また何故か、の問に價値ある答を見出した。そしてこの答を以てして、其祖先の信條とは別な一種より高尙な信仰をつくつた。彼は述べて而してその塵土に還つた。そして國人は、彼が敎へた慈悲心の故を以てして、その死んだ足の跡を崇拜した。其後亞歷山[やぶちゃん注:原文“Alexander”。「アレキサンダー」大王のこと。]の名が、また羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]の力が、また囘々敎[やぶちゃん注:「フイフイけう(きょう)」。原文“Islam”。イスラム教。]の力が、盛んとなつてそして衰へた。――幾多の國民は起こつてそして消えた。――幾多の市府は生じてそしてなくなつた。――羅馬の文明よりも巨大なる別な文明の子孫が、地球を征服を以て取り圍み、遠き彼方の幾多の帝國を創立し、終に巡禮者が誕生した國を支配するやうになつた。そして、二十四世紀間の智慧に豐富な此等の者共は、彼が使命の美しきに感嘆し、彼が言ひまた行つた總てをば、彼が生きて居て敎を說いた時代には生まれても居なかつた多くの國語で新しく書き記させるに至つた。今も猶ほ彼の足跡は東洋に燃えて居る。今も猶ほ大なる西洋は、驚き愕いて[やぶちゃん注:「おどろきおどろいて」。]、無上解脫の光明を求めんとその足跡の光を追うて居る。古昔、國王彌蘭(ミリンダ)が――初にはただ、希臘人の巧妙な法に倣つて、問ふ爲めにであつたが、後には、主(しゆ)のより高尙なる法を尊敬の念を以て受納しに――ナガセナの家に道を辿つたのは正に斯くの如くであつたらう。

[やぶちゃん注:「國王彌蘭(ミリンダ)」“Milinda”。仏典として伝えられる人物の一人であり、紀元前二世紀後半に、アフガニスタン・インド北部を支配したインド・グリーク朝のギリシャ人であるインド・グリーク朝の王メナンドロスⅠ世(ミリンダ王)。彼と比丘ナーガセーナ(那先:次注参照)の問答を記録したものが知られる。ウィキの「ミリンダ王の問い」を参照されたい。

「ナガセナ」“Nagasena”。紀元前二世紀頃のインドの仏教の僧。中インドに生まれ、「ミリンダ王の問い」又は「彌蘭陀王問經」として知られる仏典に於いて、アフガニスタン・インド北部を支配した王メナンドロスと問答を行ったことで知られる。この問答によって、ナーガセーナは「賢者の論」を以って、メナンドロス=ミリンダ王を仏教に帰依させたことで知られる。]

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