小泉八雲 暗示 (田部隆次譯)
[やぶちゃん注:本篇(原題“ Suggestion ”)は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ IN GHOSTLY JAPAN ”(「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の巻頭に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月19日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ。
田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。
傍点「﹅」は太字に代えた。
いろいろ調べてはみたが、ここに登場する東洋の宗教に堪能な、インドへ向かう途中で、小泉八雲と逢った『彼』は誰なのか判らなかった。識者の御教授を乞うものである。
終わりの方に出る「毗奈耶(律藏)」(原文“ Vinayas ”:ヴィナヤ)は「毘奈耶」とも書き、仏教に於いて僧伽(サンガ:僧衆・僧団)に属する出家修行者が守らなければならない規則のこと或いはそれを記した経典を指す。ウィキの「律(仏教)」によれば、『様々な律蔵が漢訳によって伝えられたが、日本においては主に四分律が用いられた。僧侶(比丘・比丘尼)のみに課される戒である』「波羅提木叉」(はらだいもくしゃ:「別解脱戒」「具足戒」も同じ)のことを指し、『僧団で守るべき集団規則である』。『戒の中でも波羅夷罪と呼ばれる四つの罪を破った場合には僧団を追放され、再び僧侶となることはできない。また、僧残罪では、僧団を追放されるということはないが、一定期間、僧としての資格を剥奪されるなど、罪により罰則の軽重が異なる』。『上座部仏教では』二百二十七『戒、大乗仏教では用いる律によってその数が異なるが、四分律の場合、比丘は』二百五十『戒、比丘尼は』三百五十『戒の戒がある』とある。]
暗 示
印度へ行く途中、彼が東京に暫時滯在して居る間に、私は幸にも會ふ事ができた、――そして私共は一緖に長い散步をして、東洋の宗敎の話をしたが、その方の知識を彼は私よりも遙かに多くもつてゐた。私は地方的信仰に關して彼に云ふ事を何でも、彼は――印度、ビルマ、セイロンの現在の或祭祀法に不思議に一致した點をあげて、――最も驚くべき風に批評を下す。それから彼は會話を全然思ひがけない方向に向けた。
『私は男女の相對的割合が一定して居る事を考へて、佛說ではどんな說明を下すのだらうと訝かつて居る』彼は云つた。『私には、因果の普通の狀態では、人間の再生は必ず規則正しい交替で進むやうに思はれるから』
『男は女に生れ、女は男に生れかはると云ふわけですね』私は尋ねた。
『さうです』彼は答へた、『欲望は創造的であるから、そして男女の欲望はそれぞれ相手の方へ向いて居るから』
『しかし男で女に再生したいと思ふ者が幾人あるだらう』私は云つた。
『多分殆んどないだらう』彼は答へた。『しかし欲望は創造的であると云ふ說は、個人の渴望がそれ自身を滿足させるやうな物を創造すると云ふ事を意味しない、――全く反對である。本當の敎は、凡ての利己的な願の結果は、罰の性質を有する事、それから願が創造する物は――少くとも高い知識の人に取つては――願ふ事が愚であるにきまつて居る事を敎える』
『それは君の云はれる事は正しい』私は云つた、『しかし私は未だ君の說が分らない』
『ところで』彼は續けた、『もし人間の再生の肉體的條件が、肉體的條件に關する意志の因果によつて全く決定されるとすれば、それなら性は、性に關する意志によつて決定されよう。ところでどちらの性の意志もその相手に向いて居る。生命を除けば、何よりも男は女を望み、女は男を望んで居る。その上、銘々の個人は何等の個人關係とも離れて、たえず所謂或生れながらの女性或は男性の理想の力を感じて居る、それを君は「數へきれぬ過去の生涯に於ける數へきれぬ愛著の靈的反射」と呼んて居る。それでこの理想によつて表はされた飽く事と知らない慾望は、それ自身で來世の男性の或は女性の身體を創造するに充分であらう』
『しかし大槪の女は』私は云つた、『男に生れ變る事を好むだらう、それでその願の成就は少しも罸の性質にはならない』
『ならない事はなからう』彼は答へた。「新しい生涯の幸と不幸は、ただ性だけでは定まらない、それは當然多くの條件が結合してきまるわけである』
『君の說は面白い』私は云つた、――『しかしどれ程承認された說と一致するやうになるか、私には分らない。……それから高い法則を知つて行(おこな)つて、あらゆる性の弱點に超越して居られる人はどうなるだらう』
『そんな人は』彼は答へた、『男にも女にも生れ變らない、――もしその自己征服の結果を妨げたたり弱めりする程に强い先在の因果がなかつたら』
『天體のどこかの一つに生れ變るのですか』私は尋ねた、――『靈的誕生によつて?』
『それは必要ではない』彼は答へた。『そんな人は、やはり――この世界のやうな――慾望の世界に生れ變つてもよい、――しかしただ男としてではなく、又ただ女としてではなく』
『それでは、どんな形にですか』私は尋ねた。
『完全なる人間の形にです』彼は答へた。『男も女も半分の人間に過ぎない、――何故なれば、私共の現在の不完全なる狀態では、どちらの性も一方を苦しめてのみ進化する事ができるのである。どの男の精神肉體の組織のうちにも、發達しない女の分子があり、どの女の組織にも發達しない男の分子がある。しかし完全な人間は完全な男子でもあり完全な女子でもある人で、兩方の最高の能力をもつてゐて、どちらの弱點もない人であらう。私共自身の人類よりも、高い或人類は、――外の世界で、――こんな風に進化して居るだらう』
『しかし、御存じの通り』私は云つた、『佛敎の經文、たとへば法華經、それから毗奈耶(律藏)に於て、――禁じて居るのは……』
『その文句は』彼は遮ぎつた、『あれは不完全な者――男子以下女子以下の者――の事を云つて居るのです、あれは私が想像してゐた狀態の事を云つて居るわけはない。……しかし私は說敎をして居るのではない、――ただ敢て說を立てて見て居るのです』
『君の說をいつか書いて見てもい〻ですか』私は尋ねた。
『い〻とも』彼は答へた、――『もし考へて見る價値があると君が信じたら』
それからずつと後になつて、記憶から、できるだけ明確に、この通り書きつけた。
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