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2019/11/19

小泉八雲 月の願 (田部隆次譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Of Moon-Desire ”。「月が欲しいということ」)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第一パート“ EXOTICS ”の第六番目、最終話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月27日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 訳標題は本文から見て「つきのねがひ」のようである(ちょっと擬人的に誤認するが)。

 傍点「﹅」は太字に代えた。]

 

 

   月 の 願

 

       

 三歲になつた時――永遠のくりかへしの法則で定められた通り――月が欲しいと私に云つた。

 愚かにも私はさからつた、――

 『お月樣は餘り高いから上げられない。どうしても屆かない』

 彼は答へた、――

 『長い長い竹竿なら屆くでせう、そしてそれでたたき落せばいゝ』

 私は云つた、――

 『そんな長い竹竿はありません』

 彼は思ひついた、――

 『屋根へ上つたら、竹竿が大槪屆くでせう』

 ――そこで私は月の性質と位置についてなるべく本當の話をしなければならなくなつて來た。

[やぶちゃん注:ここで「私」である小泉八雲との問答をしているのは、長男の小泉一雄(明治二六(一八九三)年十一月十七日(熊本)~昭和四〇(一九六五)年:早稲田大学卒。拓殖大教務部や横浜グランドホテルに勤務。後に父小泉八雲の遺稿の整理・書簡集の編集などに携わった)である。この年齢(満年齢)通りならば、明治二十九年となる。本書は明治三一(一八九一)年十二月刊行で、その時には五歳になっている。因みに、次男の巌(明治三〇(一八九七)年二月十五日~昭和一二(一九三七)年:後に京都府立桃山中学校英語科教員)は生れて数ヶ月であった。]

 それが私を考へさせた。私はあかるさが一般の生類――昆蟲類と魚類と哺乳類――に及ぼす不思議な魅力について考へた、――そしてあかるさと食物、水、及び自由と關係した何か道德的の記憶によつて、それを說明しようと試みた。私は月を取つてくれとせがむ數へきれぬ代々の子供とその願を嘲笑する代々の親の事を考へた。それから私はつぎのやうな冥想に耽つた、――

 

 私共は子供の月の願を嘲笑する資格があらうか。これ程自然の願はあるまい、それからその不合理な點について云へば、大きな子供である私共は、全く同じ程度の無邪氣な願、たとへば月をおもちやにして遊びたいと云ふやうな迷を昔起したり、それからはもつと無邪氣でない迷を色々起したりしたその感覺生活、個性を死後も續けたいと云ふ願のやうな、――もし實現されたら私共の不幸になるばかりの願を大槪抱いて居るではないか。

 ただ經驗的推理から見て、子供の月の願が愚かに見えるかも知れないが、私は思ふに、最高の智慧は私共に月よりも遙かに多くを、――太陽と明けの明星と凡て天の星の群よりもさらにもつと多くを顧ふ事を命じて居る。 

 

       

 私は子供の時分に草の上に寢轉んで、夏の靑い空を見つめながら、その中に融けて行きたい、――空の一部分になりたいと思つた事を覺えて居る。そんな空想に對しては、私の信ずるところでは、私の宗敎の先生が無意識に責任がある、私が何か夢のやうな質問をしたので、先生は先生の所謂『汎神論の愚と惡』を私に說明しようとした、――その結果私は未だ十六の未熟な年に直ちに汎神論者になつた。そして私の想像はやがて私に遊び場所として空をほしがらせたばかりでなく、空になりたいと願はせるやうにした。

 今私は考へるに、その當時私は大きな眞理に全く近づいて、――實はその存在を少しも知らないでそれに觸れてゐたのであつた。卽ちなりたいと云ふ願はその願の大きさに正比例して合理的である、――云ひ換へれば、願が大きければ大きい程願ふ人が賢いのである、しかるに所有したいと云ふ願はその大きさの割合に愚である事が多いと云ふ眞理を私は意味する。宇宙の法則は、私共の所有したいと思ふ無數の物のうち極めて少數をしか私共に與へないが、私共が或はなれるかも知れない物になる助けはしてくれる。有限で、又それ程弱いのは所有の願であるが、その力に於て無限なのはなりたい願である、そして人間のなりたい願の方は結局滿足を見出すに相違ない。ありたい願から、單元が象になり鷲になり或は人間になつた。恐らくただ第十等の黃色の太陽に照されるこの小さな地球では、神になるだけの時間をもたない、しかしその願がもつと巨大な太陽に照される系統へ投入して、彼に神の形と力を與へる事にならないとも限らないではないか。その願が形體の限度以外に彼をひろげて全能と一になるとも云へるではないか。そして全能は、賴まないで、月よりももつと輝いたそしてもつと大きなおもちやをもつ事ができる。

[やぶちゃん注:「第十等の黃色の太陽」これは実際の科学的な謂いではない。現在、最新の科学技術による測定では太陽より明るい恒星はない(観測出来ない)ことになっているようである(ごく最近その存在可能性があることを論じた記事を見たことはある)。小泉八雲の言っているそれは、或いはここで彼が述べているところの宇宙的天文学的な意味での時空間(ビック・バンから収縮して点に戻るまでのそれ。しかも小泉八雲は、そこに小泉八雲と言う個体を構成していたものが、小泉八雲の死後も塵のような原子体となって永遠にあるのだ、と考えているのである。彼は先行する作品の中で、そうした持論を披瀝している)の中にあっては、寧ろ当然、太陽より数等、或いは、数百倍明るい星は存在するという、科学的な確率上確度の極めて高い推理事実を踏まえて、漠然と『そうした全史的時空間としての宇宙にあっては、あんな黄色いしょぼくれた太陽などというのは、その輝き(明度)は最上級のそれから十位ぐらい下なもんだろう』と踏んだものであろう。後文にそうした小泉八雲の死生・宇宙観が語られる中にも『我が生死の大海に於て數十億の太陽の燃燒』という表現も出てくるからである。]

 私共が所有したいでなく、ありたいと願ふとすれば、――多分一切の事はただ願の問題である。人生の悲哀の大槪は、たしかに誤つた種類の願のため、及び賤しむべくつまらない願のために存在するやうになる。全地球を所有して絕對君主となると云ふ願でも、或は憐むべく小さい賤しい願であらう。私共はそれより遙かに大きい願を抱くやうにしなければならない。私共は數十億の世界のある全宇宙、――そして宇宙或は無數の宇宙以上、――そして時間空間以上になる事を願はねばならないと云ふのが私の信仰である。

 

       

 こんな願の力は必ずや本體の精靈を會得する事によらねばならない。昔は人は石と金に、草と木に、雲と風に、――天の光、葉と水のささやき、山の反響、海の騷がしき言葉に、――凡て自然の形と運動と發言とに、心靈を與へた。それから段々賢くなつたと自慢して、同時に信仰が少くなつた、そして彼等は『無生物』だの『不活動物』だのと云ふ、――實はそれは存在しない、――そして物質勢力とを區別し、心意をその兩方と區別するやうになつた。私共は今日原始的想像の方が結局眞理らしい物に近かつた事を發見する。實際私共は今日私共の祖先が考へた通りに自然を考へない、しかし私共は遙かにもつと不思議な風に[やぶちゃん注:「ふうに」。]自然を考へるやうに餘議なくなつて居る、その後の私共の科學の啓示は原始的思想を少からず復興して、それに新しいそしていかめしい美を注入して居る。そしてその間に、――いつでも私共の生長と共に生長し、私共の力と共に强くなり、私共の高尙な感受性の進化とともに段々發展して行く――私共の存在の最も深い源から生ずる野蠻な自然に對する古い野蠻な同情は、最後に無窮まで開展し反應して行く宇宙的情緖の形に高まつて行く運命をもつて居るやうである。

 

 讀者はそれ等のいつからとも分らない古い感情について考へた事はないだらうか。……どこか大きな火事を眺めて居る時、その火の勝利と壯觀とを見て何等良心の呵責を感じないで歡喜して居る事に氣がついた事はないだらうか、――その非常に輕い接觸の、粉碎する分裂する鐡を扭(ねぢ)る花崗岩を割る力を、無意識に羨んだ事はないだらうか、その大幻燈の怒つた恐ろしい光彩、――その龍の如き貪食と哮吼[やぶちゃん注:「かうこう(現代仮名遣:こうこう)」。猛り吠えること。「咆哮」に同じ。]、――その弓狀の畸形、――その尖端の物すごい冲天と動搖を喜んだ事はないだらうか。讀者は山の風が讀者の耳に鳴つた時、幽靈のやうにその風に乘つて、――それと一緖に方々の峯を吹𢌞つて、――それと一緖に世界の面[やぶちゃん注:「おもて」。]を掃いて見る事を願つた事はないか。或は大波の高く上り、押し寄せる、つぶやく突進と雷の如き破裂を熟視して、その巨大な運動と似たやうな衝動、――その烈しい白い跳躍と共に眺び、その强大なる叫號に加はらうと云ふ願を抱いた事はないか。……凡てこんな自然のありふれた力に對するこんな昔からの情緖的同情――これが現代の美學的發達と共に、非常に微妙な力に對する珍らしい同情、及び私共の知る力によつてのみ限られる願の將來の發達を豫想して居るのではないか。星から星へと戰慄するヱーテルを知れ、――その感受性を會得せよ、――さうすれば精氣のやうな同情が進化して來るであらう。數多の太陽を𢌞轉させる力を知れ、――さうすればその太陽と一緖になる道はすでに達せられたのである。

[やぶちゃん注:「ヱーテル」古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、実に永く想定され続けた、全世界・全宇宙を満たす一種の不可視の元素或いは物質の仮称。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地・水・火・風に加えて「エーテル」(「輝く空気の上層」を表わす言葉)を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では「全宇宙を満たす希薄な物質」とされ、ニュートン力学では「エーテル」に対して「静止する絶対空間」の存在が前提とされた。また、「光や電磁波の媒質」とも考えられた。しかし、十九世紀末に「マイケルソン=モーリーの実験」で、「エーテル」に対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経、遂に一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱するに至って、漸く「エーテル」の存在は否定された(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」に拠った。なお、言っておくと、小泉八雲の死は一九〇四年九月二十六日である)。但し、小泉八雲は、この「エーテル」を、彼自身の生命や宇宙の在り方の時空間的認識の中での、一種の形而上学的な解説の方途として、好んで、他の著作でも何度も用いている。彼の「エーテル」には、怪しい疑似科学の胡散臭さは、微塵も、ない。蛇足をしておくと、私は、――科学史に於いてエーテルが仮定されたのは、真の何も存在するものがない<絶対の虚ろな空間>という措定を人間の感情が許さなかったからである――と考えている。判り易く言うなら、――地球外知的生命体がいると思っている人は、この宇宙で人間は独りぼっちだという事実を認めることが恐ろしいからである――という今現在の私の考え(私は二十歳になるまで「無確認飛行物体研究調査会」というのを組織していた宇宙人信望者であった)と同義である。]

 それからさらに、數世紀に渡る世界大の僧侶や詩人の思想の堅固な擴がりのうちに、――昔の子供らしい個體的生命の意義を併呑する或は變形する統一としての生命と云ふもつと後の意義に、――人間美の古い禮拜よりも優勢になつた世界美の新しい歡喜の調子に、――曙の紅くなる事、星の輝く事、――凡て色の震ひ、光の戰(をのの)きによつて起されるもつと大きな近代の喜びに、こんな進化の暗示がないだらうか。物其自身[やぶちゃん注:「もの、それじしん」。]、詳說、外見はただ人を魅するたのために硏究される事益々少くなつて、凡ての現象はただその象形文字に過ぎない無限のに於ける單なる一文字として硏究される事益々多くなるではないか。

 

 否、――私共が凡てある物、これまであつたと知られて居る物、――過去現在未來を一にして、――凡ての感じ、努め[やぶちゃん注:「つとめ」。名詞。努力。]、考へ、喜び、悲み、――そしてどこででも部分、――そしてどこででも全體――でありたいと願ふ時は必ず來るに相違ない。そして私共の前に、その願の增大と共に、永久に無限性は擴がる。

 そして私は――私でも――その願のお蔭で、凡ての形、凡ての力、凡ての狀態になるであらう、ヱーテル、――凡ての見える或は見えない運動、光、色、音、乾[やぶちゃん注:「カン」と音読みしておく。原文“torrefaction”。普通の一般名詞としては、コーヒー等の「焙煎」であるが、科学(化学)用語としては「焙焼(ばいしょう)」で「空気の存在下で硫化鉱等を高温に加熱する工程」を指すが、ここは「干からび乾燥すること」によって生ずる振動を謂いたいものか。ちょっと小泉八雲がこの単語をここに用いた本意は私には判らない。平井呈一氏は恒文社版(「「仏の畑の落穂 他」(一九七五年刊)所収の「月がほしい」)では『乾燥』と訳しておられる。]から名づけられた振動、――實體を貫く凡ての戰慄、――X光線の恐ろしい視力のやうに黑く描く凡ての搖動、――になるであらう。その願のお蔭で、私は凡ての轉成及び凡ての終止の、――形成の、解體のとなるであらう、――私の眠りの影をもつて、私のめざめと共に消散する生命を創造するであらう。そして眞夜中の海の潮流に於ける燐火のやうに我が生死の大海に於て數十億の太陽の燃燒、數萬億の世界の旋轉が閃いて動いて通過するであらう。……

 

       

 ――『さうだね』私がこの空想を讀むのを聞いた友人は云つた、『君の想像には佛敎思想がある――尤も君はわざと說の肝要な點をいくつか避けたやうです。たとへば君は涅槃は願つては達せられないが、願はないで達せられる事を知つて居る筈です。君の云ふ『なりたい願』は提灯のやうに、暗い方のだけを照らす事ができよう。月が欲しいと云ふ事については――君は猿が水に映つて居る月をつかまうとして居る色々の古い日本の繪を見た筈です。これは佛敎の比喩です、水は感覺と觀念のまぼろしの流れで、歪んだ影でない本當の月は唯一の眞如です。そこで君の西洋の哲學者は人間は一段高い種類の猿だと云ふのは實は佛敎の比喩を敎へて居るのです。卽ちこの煩惱の世界では、人間はやはり水に映ずる月の影を捉へようとして居る猿に過ぎないのです』

 ――『なる程猿です』私は答へた、――『神々の猿、――しかし太陽をつかむ事のできる『ラマヤナ』の聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]猿ででもあるでせう』

 

譯者註 「ラマヤナ」は「マハラバーラタ」と共に印度の古い二大敍事詩。

[やぶちゃん注:以上の注は、底本では、四字下げポイント落ち。

「私がこの空想を讀むのを聞いた友人は云つた」小泉八雲は、しばしば、書き上げた作品英文原稿を、親しい友人を呼んで、朗読した。

「猿が水に映つて居る月をつかまうとして居る色々の古い日本の繪」「猿猴捉月圖」。ウィキの「テナガザル」の「猿猴捉月」によれば、『仏教の戒律書』「摩訶僧祇律」『巻第七に』『猿猴』(=テナガザル)『の寓話が載る』。『話の内容は』五百『匹の猿猴が暮らしていた木の下に井戸があり、その水面に映った月を見たボスの猿猴が「月を救い出して世に光を取り戻してやろう」と手下に呼びかけ、これを掬い取ろうとして木の枝にぶら下がり、数珠つなぎに水面へ降りていったが、水面の月に手が届く寸前で枝が折れてしまい、猿猴たちはことごとく水に落ちて溺死してしまったというもので』、『身の程知らずの望みに基づいた行動は失敗や破滅を招くという戒めを説いている』。『猿猴捉月は特に禅で好まれた題材で、「猿猴捉月図」として水墨画に描かれたりしたほか』、『茶釜の意匠に採られたりもしている』とある。私も何度か同意匠の禅画で見た。そちらには室町後期から戦国にかけて生きた画僧雪村(せっそん)筆の「猿猴捉月図屏風」(メトロポリタン美術館所蔵)があるので、それをリンクさせておく。

「ラーマーヤナ」(サンスクリット語ラテン文字転写:Rāmāyana /英語:Ramayana )は古代インドの大長編叙事詩。ヒンドゥー教の聖典の一つであり、「マハーバーラタ」(サンスクリット語ラテン文字転写:Mahābhārata:古代インドの宗教的哲学的神話的叙事詩。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの一つで、グプタ朝(三二〇年~五五〇年)の頃に成立したと見なされている。「マハーバーラタ」は「バラタ族の物語」という意味であるが、もとは単に「バーラタ」であった。「マハー(偉大な)」がついたのは、神が四つのヴェーダとバーラタを秤にかけたところが秤はバーラタの方に傾いたためであるとする。これは世界三大叙事詩の一つともされる(他の二つは「イーリアス」と「オデュッセイア」))と並ぶインド二大叙事詩の一つ。ウィキの「ラーマーヤナ」によれば、サンスクリットで書かれ、全七巻。総行数は聖書にも並ぶ四万八千行に及ぶ。成立は紀元三世紀頃で、『詩人ヴァールミーキがヒンドゥー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされる』。『この叙事詩は、ラーマ王子が、誘拐された妻シーターを奪還すべく大軍を率いて、ラークシャサの王ラーヴァナに挑む姿を描いている。ラーマーヤナの意味は「ラーマ王行状記」』である。第一巻「バーラ・カーンダ」(「少年」の巻)――『子供のいないダシャラタ』『王は盛大な馬祀祭を催し、王子誕生を祈願した。おりしも世界はラークシャサ(仏教では羅刹とされる)の王ラーヴァナの脅威に苦しめられていたため、ヴィシュヌはラーヴァナ討伐のためダシャラタ王の王子として生まれることとなった。こうしてカウサリヤー妃からラーマ王子、カイケーイー妃からバラタ王子、スミトラー妃からラクシュマナとシャトルグナの』二『王子がそれぞれ生まれた。成長したラーマはリシ(聖賢)ヴィシュヴァーミトラのお供をしてミティラーのジャナカ王を訪問したが、ラーマはそこで王の娘シーターと出会い、結婚した』。第二巻「アヨーディヤ・カーンダ」(「アヨーディヤ」の巻)――『ダシャラタ王の妃カイケーイーにはマンタラーという侍女がいた。ラーマの即位を知ったマンタラーは妃にラーマ王子への猜疑心を起こさせ、ダシャラタ王にラーマをダンダカの森に追放し、バラタ王子の即位を願うように説得した(ダシャラタ王はカイケーイー妃にどんな願いでも』二『つまで叶えることを約束したことがあった)。ラーマはこの願いを快く受け入れ、シーター、ラクシュマナを伴って王宮を出た。しかしダシャラタ王は悲しみのあまり絶命してしまった』。第三巻「アラニヤ・カーンダ」(「森林」の巻)――『ダンダカの森にやってきたラーマは鳥王ジャターユと親交を結んだ。またラーマは森を徘徊していたラークシャサを追い払った。ところがシュールパナカー』(ラークシャサ(羅刹女)の一人の名)『はこれをうらみ、兄であるラークシャサ王ラーヴァナにシーターを奪うようにそそのかした。そこでラーヴァナは魔術師マーリーチャに美しい黄金色の鹿に化けさせ、シーターの周りで戯れさせた。シーターはこれを見て驚き、ラーマとラクシュマナに捕らえるようせがんだ。そしてラーヴァナは』二『人がシーターのそばを離れた隙にシーターをさらって逃げた。このとき』、『鳥王ジャターユが止めに入ったが、ラーヴァナに倒された』。第四巻「キシュキンダー・カーンダ」(「キシュキンダー」の巻)――『ラーマはリシュヤムーカ山を訪れて、ヴァナラ族のスグリーヴァと親交を結んだ。ラーマは王国を追われたスグリーヴァのために猿王ヴァーリンを倒した。スグリーヴァはラーマの恩に報いるため、各地の猿を召集し、全世界にシーターの捜索隊を派遣した。その中で、南に向かったアンガダ、ハヌマーンの』一『隊はサムパーティからシーターの居場所が南海中のランカー(島のこと。セイロン島とされる)であることを教わる』。第五巻「スンダラ・カーンダ」(「美」の巻)――『風神ヴァーユの子であるハヌマーンは、海岸から跳躍してランカーに渡り、シーターを発見する。ハヌマーンは自分がラーマの使者である証を見せ、やがてラーマが猿の軍勢を率いて救出にやってくるであろうと告げた。ハヌマーンはラークシャサらに発見され、インドラジット』(羅刹王ラーヴァナの子の名)『に捕らえられたが、自ら束縛を解き、ランカーの都市を炎上させて帰還した』。第六巻「ユッダ・カーンダ」(「戦争」の巻)――『ランカーではヴィビーシャナ』(羅刹王ラーヴァナと兄弟であるが心優しく正しい人物である)『がシーターを返還するよう主張したが』、『聞き入られなかったため、ラーマ軍に投降した。ここにラーマとラーヴァナとの間に大戦争が起きた。猿軍はインドラジットによって大きな被害を受けながらも』、『次第にラークシャサ軍を圧倒していき、インドラジットが倒された後、ラーヴァナもラーマによって討たれた。ラーマはヴィビーシャナをランカーの王とし、シーターとともにアヨーディヤに帰還した』(平井呈一氏は恒文社版の最後に本叙事詩に就いての長い注を附されており、ここの下りでは『ラーマは』ラーヴァナ『討伐を決心したが、海を越えることに困難を感じた。海の神がナラという猿に命じて橋を架けさせたので、全軍を進めることができ』、遂に彼らを退治した、とされておられる)。第七巻「ウッタラ・カーンダ」(「後」の巻)――『ラーマの即位後、人々の間ではラーヴァナに捕らわれていたシーターの貞潔についての疑いが噂された。それを知ったラーマは苦しんで、シーターを王宮より追放した。シーターは聖者ヴァールミーキのもとで暮すこととなり、そこでラーマの』二『子クシャとラヴァを生んだ。後にラーマは、シーターに対して、シーター自身の貞潔の証明を申し入れた。シーターは大地に向かって訴え、貞潔ならば大地が自分を受け入れるよう願った。すると大地が割れて女神グラニーが現れ、 シーターの貞潔を認め、シーターは大地の中に消えていった。ラーマは嘆き悲しんだが、その後、妃を迎えることなく世を去った』(猿が活躍する部分を私が太字で示した)。なお、ここで小泉八雲が「太陽をつかむ事のできる『ラマヤナ』の聖い猿」と呼んでいるのは、以上の前哨戦を含む「対ラーヴァナ戦」で、八面六臂の活躍をする神猿ハヌマーン(Hanumān)のことを指している。以上と重複する箇所もあるが、ウィキの「ハヌマーン」を引いておく(総て太字で示した)。『風神ヴァーユが天女アンジャナーとの間にもうけた子とされる』。『ハヌマット(』『Hanumat)、ハヌマン、アンジャネーヤ(アンジャナーの息子)とも。名前は「顎骨を持つ者」の意。変幻自在の体はその大きさや姿を自在に変えられ、空も飛ぶ事ができる。大柄で顔は赤く、長い尻尾を持ち雷鳴のような咆哮を放つとされる。像などでは四つの猿の顔と一つの人間の顔を持つ五面十臂の姿で表されることもある』。『顎が変形した顔で描かれる事が多いが、一説には果物と間違えて太陽を持ってこようとして天へ上ったが、インドラのヴァジュラで顎を砕かれ、そのまま転落死した。ヴァーユは激怒して風を吹かせるのを止め、多くの人間・動物が死んだが、最終的に他の神々がヴァーユに許しを乞うた為、ヴァーユはハヌマーンに不死と決して打ち破られない強さ、叡智を与えることを要求した。神々はそれを拒むことができず、それによりハヌマーンが以前以上の力を持って復活した為にヴァーユも機嫌を良くし、再び世界に風を吹かせた』。『ヒンドゥー教の聖典ともなっている叙事詩『ラーマーヤナ』では、ハヌマーンは猿王スグリーヴァが兄ヴァーリンによって王都キシュキンダーを追われた際、スグリーヴァに付き従い、後にヴィシュヌ神の化身であるラーマ王子とラクシュマナに助けを請う。ラーマが約束通りにヴァーリンを倒してスグリーヴァの王位を回復した後、今度はラーマ王子の願いでその妃シータの捜索に参加する。そしてラークシャサ(仏教での羅刹)王ラーヴァナの居城、海を越えたランカー(島の意味。セイロン島とされる)にシータを見出し、ラーマに知らせる。それ以外にも単身あるいは猿族を率いて幾度もラーマを助けたとされており、その中でも最も優れた戦士、弁舌家とされている』。『今でも民間信仰の対象として人気が高く、インドの人里に広く見られるサルの一種、ハヌマンラングールはこのハヌマーン神の眷属とされてヒンドゥー教寺院において手厚く保護されている。中国に伝わり、『西遊記』の登場人物である斉天大聖孫悟空のモデルになったとの説もある』とある。]

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