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2019/11/28

小泉八雲 日本美術に於ける顏について (落合貞三郞譯) / その「五」・「六」 / 日本美術に於ける顏について~了

 

 [やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本美術に於ける顏について (落合貞三郞譯) / その「一」』を参照されたい。]

 

       

 私は今頃外國の繪入新聞或は雜誌を眺める時、その彫刻畫にあまり愉快を見出さないといつた。大抵それは私に嫌惡を催させる事が多い。その畫は私に取つて粗末で醜く、またその寫實的な觀念は、淺薄と思はれる。かやうな作品は何ものをも想像力に委ねるといふ事がない。して、いつも折角の骨折りを無駄に歸せしめる。普通の日本畫は多くのものを想像力に殘しておく――否、强く想像力を刺激せずには止まぬ――して、決して努力を裏切らない。歐洲の普通の彫刻畫に於ては、一切のものが細密で、且つ個性化されてゐる。日本畫に於ては、一切のものが非人格的で、且つ暗示的である。前者は何等の法則を示さない。それは特殊性の硏究である。後者は常に法則について幾らか敎へる處がある。して、法則と關係のない限りは、特殊性を抑制して現はさない。

 西洋美術は餘りに寫實的だと日本人がいふのを耳にすることが屢〻ある。して、その判斷は眞理を含んでゐる。しかしその日本人の趣味に反する寫實主義、特に顏面表情の點に於ける寫實主義は、單に細部の緻密のために咎むべきではない。細部そのものはいかなる美術に於ても非難されてゐない。また最高の美術は、細部が最も精巧に描寫されたものなのである。神性を發見し、自然の粹を超越し、動物及び花卉に對する出世間[やぶちゃん注:「しゆつせけん」。世間の俗事から離れて超然としていること。]的理想を發見した美術は、細部のできうる限り銳い完全を特徵としてゐた。して、希臘美術に於ける如く、日本美術に於ても、細部を用ひて、憧憬の目的に反するよりは、寧ろ輔助[やぶちゃん注:「ほじよ(ほじょ)」。「補助」に同じい。]となしてゐる。西洋現代の插畫の寫實主義に於て、最も多く不愉快を與へるのは、細部の夥多[やぶちゃん注:「くわた(かた)」。物事が多過ぎるほどにあること。夥(おびただ)しいさま。]でなく、私共がやがて悟るであらう如くに、細部が表徵となることである。

 日本美術に於て、人相上の細部を抑制したことに關して、最も奇異なる事實は、私共がこの抑制を見ようとは、最も期待しない方面、卽ち浮世繪と稱する作品に、最も明らかに現はれてゐる事である。何故なら、たとひ[やぶちゃん注:この「たとひ」という訳語は呼応もなく、原文を見ても、明らかに不要で、判り難くさせているだけである。]この派の畫家は、實際甚だ美しく幸福な世界の畫を描いたのであるが、彼等は眞實を反映すると公言してゐたからである。或る形式の眞理を彼等はたしかに示したのであつた。しかしその趣は私共の普通の寫實觀念とは異つたものであつた。浮世繪畫家は現實を描いたけれども、嫌惡すべき或は無意味の現實を描いたのではなかつた。題材の選擇によつてよりは、寧ろ彼の拒斥[やぶちゃん注:「きよせき(きょせき)」。原文“refusal”。拒絶。]の點によつて、一層彼の地位を證明した。彼は對照と色のことを支配する法則、自然の聯結の一般性、昔の美と今の美に對する秩序を探求した。その他の點に於ては、彼の美術は決して憧憬的ではなかつた。それはありのま〻の事物を廣く網羅した美術であつた。だからたとひ彼の寫實主義はただ不易性、一般性、及び類型の硏究にのみ現はれてゐるにも關はらず、彼は正しく寫實主義者であつた。して、普遍的事實の綜合を示し、自然を法則の體系化したるものとして、この日本畫はその手法上、眞正の意味に於て科學的である。これに反して、一層高尙な美術、憧憬的な美術(日本美術にまれ、また古代希臘美術にまれ)は、その手法上主もに宗敎的である。

 美術の科學的と憧憬的の兩極端が相觸れる處に、兩者によつて認めらる〻或る普遍的な審美上の眞理が見出されるだらう。兩者はその沒人格的に於て一致する。兩者は個性化することを拒否する。して、これまで存在したうちで最も高尙な美術が與へる敎訓には、この兩者共通の拒否に對する眞正の理由が暗示されてゐる。

 大理石、寳玉、或は壁畫を問はず、古代の頭の美は、何を表現してゐるか?――例へば、ウィンケルマンの著書の卷頭を飾れる、かのリューコセーアの驚嘆すべき頭の美は何を示すか? 單なる美術批評家の著作から答を求めるのは無用である。科學のみがそれを與へ得るのだ。讀者はそれをハーバート・スペンサーの人物美に關する論文のうちに見出すであらう。かかる頭の美は知的材能の超人的完全なる發達と均衡を意味してゐる。私共が『表情』と稱するものを構成する、一切容貌の變差は、それが所謂『性格』なるものを現はすに比例して、ますます完全なる類型からの分離を現はす――して、かかる完全型からの分離は多少不愉快、若しくは苦痛なものである。或はさうあるべきである。何故なら、『吾人を欣ばす容貌は、內部的完全の外面に於ける相關であつて、吾人をして嫌惡を催さしむる容貌は、內部的不完全の外面に於ける相關である』からである。スペンサー氏は更に進んでいつてゐる。たとひ平凡な顏面の背後に偉大な人格があつたり、また、立派な容貌が、貧弱な精神を隱してゐることが往々あるにしても、『これらの例外は、惑星の攝動か、その軌道の一般的楕圓形を破壞しないのと同じく、この法則の一般的眞理を破壞することはない』

[やぶちゃん注:最後に句点がないのは、ママ。

「ウィンケルマン」は「二」で既出既注。但し、彼「の著書の卷頭を飾れる」「リューコセーアのの驚嘆すべき頭」とある書は不明。処女作の「ギリシア美術模倣論」( Gedanken über die Nachahmung der griechischen Werke in der Malerei und Bildhauerkunst :一七五五年)かと思い、調べたが、私はそれらしい絵を見出すことが出来なかった(「これかなぁ」と思うものも、キャプションが読めないので諦めた。新しい英訳本では、この表紙っぽい気もした(グーグルブックスの“Winckelmann's Images from the Ancient World: Greek, Roman, Etruscan and Egyptian”))。私が調べたのは、“Internet Archive”の彼の著作画像である。何方か、お調べ戴き、これだと指定願えると、恩幸、これに過ぎたるはない。【2019年11月30日:追記】いつも全テクスト作業に貴重な情報を頂戴するT氏が発見して下さった!

   《引用開始》

 「ウィンケルマンの著書の卷頭を飾れる、かのリューコセーアの驚嘆すべき頭」は”Internet Archive”の、

"The history of ancient art among the Greeks 1850”のこの口絵

と思われます。この口絵の説明がありません。しかし、藪野様の引用された google book の図版説明を見ると[やぶちゃん注:ずっと下げて行くと、画像が見える。]、Fig54, 55, 56が”Leucotha”と書かれ、特にFig55が”Head of statue of Laucothea in the Museo Capitolino”と書かれています[やぶちゃん注:画像の前の方の数字を打った画像解説リスト内。]。google bookの最初には、

This Dover edition, first in 2010, contains all copperplateengrave illustrations from Monumenti antichi inesiti, by Johan Joachim Winckelmann, originally published by the author in Rome in 1767.

とあるので、元本は”Monumenti antichi inesiti”であることがわかります。これも”Internet Archive”の(但し、イタリア語)、

 ”Monumenti antichi inesiti”(挿絵のあるp178)

で、Fig55と全く同一のものを見ることができます。この図(google Bookの表紙)が ”Head of statue of Laucothea”であるとすると(イタリア語はチンプンカンプンですので)、同じ図が卷頭に現れる本は、最初に書いた”The history of ancient art among the Greeks 1850”になります。 "The history of ancient art among the Greeks”は複数の版が archive には有りますが、卷頭 (その近くも含め)に在るのは、上記版のようです。

   《引用終了》

T氏に感謝申し上げるとともに、「リューコセーア」(イーノー。次注参照)の美しさに打たれた。“The history of ancient art among the Greeks 1850”の全部をPDFで落とし、当該画像をソフトでトリミング、周囲の黄変部や絵内部の汚損を可能な限り、除去し、ここに掲げることとした。

 

Leucothea

 

「リューコセーア」“Leucothea”。ギリシア神話に登場する女性(死後に女神)イーノー(ラテン文字転写:Īnō)。テーバイの王女として生まれ、後にボイオーティアの王妃となった。死後、ゼウスによって女神とされ、海の女神レウコテアー(Leukothea)或いはレウコトエー(Leukothoe)として信仰された。レウコテアーとは「白い女神」の意。詳しくは参照したウィキの「イーノー」を見られたい。

「攝動」恒星の引力を受けて楕円軌道上を動くその恒星系の恒星が、他の惑星の引力を受けて楕円軌道からズレること。]

 希臘美術も日本美術も、スペンサー氏が『表情は形成中の容貌である』譯者註と、簡單な形式に云ひ現はした人相上の眞理を認めた。最高の美術、卽ち神聖界に到達するため現實を超越した希臘美術は、完成された容貌の夢を私共に與へる。今猶ほ誤解を受けるほど、西洋美術よりも廣大なる日本の寫實主義は、ただ『形成中の容貌』、或は寧ろ形成中の容貌の一般法則を私共に與へるのである。

 

譯者註 これは「完成された容貌」に對していつたものである。希臘美術は理想的完成の容貌に對すゐ憧憬の夢を示してゐる。日本の寫實主義も亦殆ど理想主義と稱すべきほど、廣く一般的な趣を見せてゐるといふ趣意が、この一段に述べてある。

[やぶちゃん注:「スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戶川明三訳。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。小泉八雲の引用元は捜し得なかった。【2019年11月40日:追記】先のT氏より、“ Essays Scientific, Political, and Speculative II”の“Personal Beauty (リンク先は“Internet Archive”の同書画像の当該ページ。左ページの中央)の以下の一節である旨、お教え戴いた。

In brief, may we not say that expression is feature in the making ; and that if expression means something, the form of feature produced by it means something?

 

これも感謝申し上げるものである。

 

       

 かやうにして私共は希臘美術と日本美術が、兩者同樣に認識した共通の眞理に到達した。卽ち個人的表情の無道德的意義である。して、私共が人格を反映する美術に對する歎賞は、無論無道德である。何故なら、個人的不完全の描寫は、倫理的意義に於ては、歎賞に値する題材でないから。

 眞に私共を惹きつける顏容は、內部の完全或は完全に近いものの外形に於ける相關と考へられるけれども、私共は槪して內部の道德的完全を少しも現はさないで、寧ろその反對の種類の完全を暗示するやうな人相に興味を認めてゐる。この事實は日常生活にさへも明白である。私共が秀でた蓬々[やぶちゃん注:「ほうほう」。伸びて乱れているさま。]たる眉、銳い鼻、深く据わつた[やぶちゃん注:「すわつた」。]眼、どつしりした顎を備ヘた顏を見て、『何といふ力!』と叫ぶ場合、私共は實際に力の認識を表白してゐるのである。しかしそれはただ進擊と殘忍の本能の基をなすやうな種類の力である。私共が鷲の嘴の如く彎曲した强い顏、所謂羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]人風の橫顏を有する人物を賞賛する時、私共は實際掠奪人種の特徵を賞讚してゐるのである[やぶちゃん注:「賛」と「讚」の混在はママ。]。實際私共は單に獸性、殘酷、或は狡猾の特徵のみ存する顏を歎賞するのではない。しかしまた私共は、或る聰明の徵候と結合せる場合には、頑固、進擊性、及び苛酷の徴候を歎賞するのも事實である。私共は男らしい人格といふ觀念を、いかなる他の力の觀念よりも優さつて、進擊的の力と共に聯想するとさへ云へるだらう。この力が肉體的であらうと、或は知力的であらうとも、少くとも普通の選擇では、私共はそれを心の眞に優等なる諸能力よりも以上に評價してゐる。して、聰明なる狡猾を呼ぶのに、『明敏』といふ誇飾語[やぶちゃん注:「こしよくご」。原文は“euphemism”(ユーフォメィズム)で「婉曲法・婉曲語句」の意。但し、漢語の「誇飾」は「華麗な美文体」を意味する。ここ本邦の前者。]を以てしてゐる。恐らくは希臘の男性美の理想が、或る現代人に發揮された時、それは寧ろ崇高とは正反對の特徵の烈しい發達を示せる顏よりも、普通の看者[やぶちゃん注:「みるもの」と訓じておく。]に興味を與へることが少いだらう――何故なら、完全なる美の知的意義は、人間の最高なる諸能力の完全なる均衡といふ奇蹟を、鑑賞しうる人にして、始めて悟られうるからである。近代美術に於ては、私共は性の感情に訴へる婦人美を求めたり、またはかの父母の本能に訴へる兒童美を求めたりしてゐる。して、私共は男性の描寫に於ける眞正の美を目して、只單に不自然と呼ぶのみでなく、猶ほまた柔弱だと評するに相違ない。戰爭と戀愛は、近代生活を反映する嚴肅なる美術に於ては、依然として二つの基調をなしてゐる。しかし美術家が美或は德の理想を示さうと欲する時は、矢張り古代の知識から借用せざるを得ないといふことが認められるだらう。借用者として、彼は決して全然立派な成功を舉げることはできない。何故なら、彼は幾多の點に於て、古代希職人の程度よりも遙かに劣等人種に屬してゐるからである。或る獨逸の哲學者は、旨くいつた。『希臘人がもし現代に蘇生したならば、彼等は現代の藝術品を評して――それは全く眞を穿つた評言である――一切の部門に亙つて皆全く野蠻的であると公言するだらう』創造したり保存したりするたのためよりも、寧ろその撲滅したり、破壞したりする力のために、正々堂々と聰明と崇拜するやうな時代では、何うして藝術品が、さうならないで居られよう?

[やぶちゃん注:「或る獨逸の哲學者」不詳。識者の御教授を乞う。]

 私共自身に對しては、たしかに發揮されたくないやうな能力を、何故このやうに崇拜するのか? 疑ひもなく、その主もな理由は、私共は自身に所有したいと望むものを崇拜し、また現今文明の競爭的大戰鬪に於ては、進擊力、特に知的進擊力の大價値を知つてゐるからである。

 西洋生活の瑣々たる現實と個人的感情主義の兩者を反映するものとして、西洋美術は倫理的には只單に希臘美術の下位に列するのみでなく、また日本美術にさへも劣つてゐることが見出されるだらう。希臘美術は神聖に美しいものと神聖に賢いものに對する、民族の憧憬を表はした。日本美術は人生の簡素淳朴なる快樂、形と色に於ける自然律の認識、變化に於ける自然律の認識、それから社會的秩序と自己抑制によつて調和を得たる生活といふ感じを反映してゐる。近代西洋美術は快樂の飢渴、享樂の權利に對する戰場としての人生といふ觀念、それから競爭的奮鬪に於ける成功に缺くべからざる無愛想な諸性質を反映してゐる。

 

 西洋文明の歷史は、西洋人の人相に書かれてゐると、いはれてゐる。東洋人の眼によつて西洋人の顏面表情を硏究するのは、少くとも興味がある。私は屢〻日本の子供に歐米の挿畫を見せて、そこに描いてある顏に關する彼等の無邪氣な批評を聞いて、自分で面白がつたことがある。これらの批評の完全な記錄は、興味と共に價値をも有するだらう。しかし今囘の目的のために、私はただ二囘の實驗の結果を提供するにとどめよう。

 第一囘は九歲の兒童に對する實驗であつた。或る夜、私はこの兒童の前へ數册の繪入雜誌を並べた。數頁をめくつてから後、彼は叫んだ。『何故外國の畫家は怖はいものを描くのが好きですか?』

 『どんな怖はいもの?』と、私は尋ねた。

 『これです』といつて、彼は投票場に於ける選舉人の一團を指した。

 『これは何も怖はくない』と、私は答へた。『これは西洋では、皆立派な繪なのだから』

 『でも、この顏! こんな顏は世界にある筈はありません』

 『西洋では當たり前の人物なのだよ。實際怖はい顏は、滅多に描かないから』

 彼は私が眞面目でゐないと思つたらしく、愕きの眼を圓くした。

 十一歲の少女に、私は有名な歐洲美人を現はせる彫刻畫を見せた。

 『惡るくはありませんね』といふのが、彼女の批評であつた。『でも、大層男のやうですわ。それから、眼の大きいこと!……口は綺麗ですね』

 口は日本人の人相に於ては、餘程大切である。して、この少女はその點について鑑賞の語を吐いた。私はそれから紐育[やぶちゃん注:「ニュー・ヨーク」。]の一雜誌所載の或る實景描寫の畫を彼女に示した。彼女は質問を發した。『この繪にあるやうな人達が、ほんたうにゐますか?』

 『澤山ゐる』と、私はいつた。『これは善い普通の顏で――大抵田舍者で百姓なのだ』

 『お百姓ですつて! 地獄から出た鬼のやうです』

 『何もこんな顏が惡るいことはない。西洋にはもつと非常にわるい顏があるから』と、私は答へた。

 『こんな人なら、實際見るだけでも、わたしなど死んでしまひますでせうよ』と、彼女は叫んだ。『わたしこの御本は嫌ひです』

 私は彼女の前へ日本の繪本――東海道の風景畫――を置いた。彼女は嬉しさうに手を拍いて[やぶちゃん注:「たたいて」。]、半ば見かけた私の外國雜誌を押しのけた。

 

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