小泉八雲 富士山 (落合貞三郞譯) / (その序)
[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Fuji-no-Yama ”。「富士の山」)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”。「異国情趣と回顧」)の第一パート“ EXOTICS ”(「異国情趣」)の最初、作品集巻頭を飾る一篇である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月20日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。
訳者落合貞三郎(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で、郷里島根県の松江中学及び後に進学した東京帝国大学に於いて、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)/小泉八雲(帰化と改名は明治二九(一八九六)年二月十日。但し、著作では一貫して Lafcadio Hearn と署名している)に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は第六高等学校、学習院教授を勤めた。謂わば、小泉八雲の直弟子の一人である。
傍点「﹅」は太字に代えた。訳文は序と別に全六章(実は落合氏は原本の「Ⅳ」と「Ⅴ」を一つにして、「四」にしてしまっている。則ち、原本は全七章なのである。それは以下の電子化で当該部で注しておいた)から成るので、三分割して電子化するが、連続した登攀の回想であるから、公開がだらだらと長くなるのを避けたいので、通常、私が附ける仔細な神経症的注は、まさの霊峰に登る如く「精進」して極力抑えたつもりである。途中に入る「譯者註」は、四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げ、本文と同ポイントとした。]
異 國 情 趣
[やぶちゃん注:何故か、訳に省略がある。この大パート標題には、ご覧の通り、以下の添題がある。
―“Even the worst tea is sweet when first made from the new leaf.”— Japanese proverb.
(「一番、質の劣るお茶でさえも、最初に、その新しい茶葉で淹れた時は、甘い。」(日本の諺))
これはもう、「番茶も出花」であろう。「番茶(煎茶用の若葉を摘んだの、やや堅い葉から作る緑茶。煎茶よりも品質が劣るとされる)でも、淹れたては、香りも高く、美味しい。」。ただ、この諺、転じて専ら「どんな女でも娘盛りは美しいもの」(「鬼も十八、番茶も出花」もあり)という譬えで使われるばかりであることから、或いは訳者(落合氏)が、日本人にとっては品性を欠き、この大パート標題の添え辞としては、日本人の印象によろしくないと考えて、確信犯でカットした可能性が強いようにも思われる。]
富 士 山
來てみればさほどもでなし富士の山 ――日本の諺
日本で最も美麗なる光景で、世界中でもまさしく最も美麗なる光景の一つは、雲のない日、殊更春と秋に於て、山の大部分が殘んの[やぶちゃん注:「のこんの」。連体詞。「のこりの」の音変化。「まだ残っている」。]雪や初雪に蔽はれて、遠く空に浮かび出でた富士の姿である。雪のない麓も、空と同じ色を呈して殆ど見分けがつかない。ただ天に懸かつたやうな白色の圓錐形を認めるのみだ。して、日本人が倒懸[やぶちゃん注:「たうけん」。逆さまに吊るすこと。]せる半開の扇にその形を見立てた譬喩は、刻み目のついた嶺から扇の骨の影のやうに下方へ擴がつてゐる立派な筋のために、いかにも旨く適合する。扇よりも更に輕やかな姿、寧ろ扇の精か、扇の幻かと見えるが、しかも百哩かなたの實體は、世界の山々の中で堂々たるものである。約一萬二千五百呎の高さに聳えて、十三箇國から望まれる。それでも高山のうちでは登るにも容易な方で、千年以來每夏幾多の巡禮者が登り來たつたのである。それは、ただ貴い山であるばかりでなく、日本中で最も貴い山、神國で最も神聖な山、太陽を拜む最高の神壇であつて、少くとも一生に一度登るのは、すべて昔の神々を敬ふものの義務だからである。だから帝國のあらゆる地方から巡禮者が年々富士山へ辿つてくる。して、殆ど各國にこの靈峯へ詣らうと願ふものを助けるために組織された、富士講といふ巡禮團體がある。もしこの信心の勤行を自身で出來ない場合には、少くとも代理を立ててもよろしい。いくら僻遠の小村でも、富士の神社に祈を捧げ、あの貴い絕頂から朝日を拜むために、折々は一人の代表者を送ることが出來る。かくて一組の富士巡禮は、百も異つた村々から出た人々で組織されることもある。
[やぶちゃん注:「百哩」「百マイル」。約百六十一キロメートル。但し、この距離はどこかを起点とした数値ではなく、遥か遠くの謂いで用いたものであろう。当時、小泉八雲がいた東京からとしても九十五キロメートルである。或いは、当時、誰かから、この圏内で富士山が眺められるという話を聴いたそれをもとにして言ったものかも知れない。ネットで関東に限ってみると、天気情報のサイトに、栃木県大田原市(グーグル・マップ・データ)は、直線距離で約二百キロメートル離れた富士山が、くっきりと見えるとあった。
「約一萬二千五百呎」「フィート」(一フィート(単数は「フート」)は三〇・四八センチメートル)。三千八百十メートルで切り上げてある。以下、当該数値をメートル法に換算した数値のみで示す。
「十三箇國から望まれる」学術的データによれば、福島県・茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県・新潟県・富山県・山梨県・長野県・岐阜県・静岡県・愛知県・三重県・滋賀県・京都府・奈良県・和歌山県の二十都道府県とする。但し、別なデータでは、石川県と福井県を数え、二十二都道府県とする。
「富士講」富士山信仰の講社。富士山を遠く仰ぎ見て、宗教的な感慨を抱くことは、古くからあったに違いないが、中世には修験道を中心に、関東・東海地方に富士信仰が形成されていた。江戸前期に長谷川角行(かくぎょう 天文一〇(一五四一)年生まれで、正保三(一六四六)年に富士山中の人穴にて逝去した、とされるが、詳しい事績は不明)が教義を整え、その布教のために信徒組織を作った。富士山登拝と寄進が主な目的である。その後、食行身禄(じきぎょうみろく 寛文一一(一六七一)年~享保一八(一七三三)年:当該ウィキを参照されたい)が講社の発展を図り、江戸を中心に町人や農民に広く呼びかけた。先達(せんだつ)が霊験を説いて信徒を集め、先達に引率されて富士山に登拝するものである。講中の者は登拝に先だって三日又は七日の精進潔斎の後、白衣を着、鈴と金剛杖を持ち、「六根清浄お山は晴天」などと唱えながら、行者(ぎょうじゃ)として修行のために富士山に集団登拝する。実際に登山出来ない人のためには、村内に「富士塚」などの遙拝所を設けた。関東にはいまも、富士山を象った富士塚や、登拝記念の石塔が数多くあり、地名に残ったものが多い。江戸時代には「江戶八百八講」と呼ばれるほどに栄え、教派は「身禄派」と「光清(こうせい)派」に分れたが、「身禄派」が優勢になった。江戸時代の末には幕府の弾圧を受けている。明治以後は教派神道として再生し、「扶桑教」・「実行教」・「丸山教」・「富士教」の諸派に分れた。大正一二(一九二三)年の「関東大震災」以後、東京の講社は激減した。現代は個人で登る人もあり、女性も登るが、昔ながらの服装の人もある(以上は、小学館「日本大百科全書」に拠った)。]
神佛両宗敎から富士山は崇敬を受けてゐる。富士の神は美しい女神の木花咲耶姬である。姬は火の中で苦痛なく子供を產んだ。姬の名は木の花の如くに美しい色が輝くといふ意味だ。或る註釋家は、花を美しく咲かせるといふ意味だともいつてゐる。絕頂に姬の祠がある。して、古書には、姬が輝ける雲の如く、火口の緣のほとりを逍遙してゐるのが、人間の眼に見えたと書いてある。人間には見えぬ姬の召使が、絕壁の側に見張りをして待つてゐて、少しでも汚れた心を懷きながら、敢て姬の祠へ近寄らうとする者を擲げ[やぶちゃん注:「なげ」。]落とすのである……佛敎でこの雄峯を愛する所以は、その形が神聖な花の白い蕾の如くで、絕頂の八頂點は蓮華の八枚の花瓣の如くに正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八正道を示すからである。
[やぶちゃん注:「木花咲耶姬」「このはなさくやひめ」或いは「ひめ」は「びめ」とも読む。当該ウィキを見られたい。
「八正道」(はつしやうだう(はしょうどう)は仏教に於ける実践の徳目。一般人の生存は「苦」であり、その「苦」の原因は「妄執」によって起るとすることから、「妄執」を完全に断ち切れば、完全な「悟り」を得ることが出来ると考え、その状態に到達するための修道法として説かれた八種の正しい実践を指す。則ち、「正しい見解」を意味する「正見(しやうけん(しょうけん))」以下、「正しい思惟」 たる「正思」・「正しい言語行為」たる「正語」・「正しい行為」たる「正業(しやうごふ(しょうごう))」・「正しい生活」たる「正命(しやうみやう(しょうみょう))」・「正しい努力」たる「正精進」・「正しい想念」たる「正念」、「正しい精神統一」を意味する「正定(しやうぢやう(しょうじょう)) の八つである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]
しかし富士に關する古譚傳說――一夜の中に地から聳えて出たとか――嘗て勾玉[やぶちゃん注:「まがたま」。]の雨が降つたとか――最初の祠が千百年前に頂上に建てられたこと――赫姬(かぐやひめ)に迷はされて、或る帝は火口に行つた限り見えなくなつたので、今猶ほその場所に小祠を建てて祀つてあること[やぶちゃん注:八雲先生の「竹取物語」の誤読であろう。]――每日御巡禮の足で轉がり落ちた砂は、每夜また元の所へ上つてくること――かやうな話は、すべて悉く種々の書に載つてゐるではないか。實際富士については私が登つた經驗の外に、あまり話すべきことはない。
私は御殿場口からを登山した譯者註。これは六つ七つ選擇勝手な道の中では、一番景色はよくないが、恐らくはまた一番困難が少からう。御殿場は主もに[やぶちゃん注:「おもに」。]巡禮宿から成れる一小村で、東京から東海道線約三時間の距離である。線路がこの偉大な火山附近へ近附くと、數哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約一・六一〇キロメートル。勾配が始まるのは山北駅からで、現行の走行距離は十九・六キロメートルであるから、これはその中間点辺り(現在の駿河小山駅からだと御殿場駅まで十・九キロメートル)からの謂いとなろう。]の間上りになつてゐる。御殿場は海拔二千呎[やぶちゃん注:約六百十メートル。現在の御殿場市の市街地の標高は二百五十~七百メートル。]より可なり高い。だから極暑の節にも比較的涼しい。附近の開豁[やぶちゃん注:「かいくわつ(かいかつ)」。広々として眺めのよいさま。]な野原は、富士の方へ勾配をなしてゐるが、その勾配がゆるやかだから、高原は殆ど水平のやうに見える。極めて晴天の日には御殿場から、山が氣特ちわるい位近く見える。實際は數哩を距ててゐるが[やぶちゃん注:御殿場駅から富士山頂は直線で二十キロメートル弱、裾野で十キロメートル弱であるから、後者。]、迫つて見えるから怖ろしいやうだ。梅雨の頃は一日に何囘も隱見して、巨大な幽靈のやうである。しかし私が巡禮者となつて御殿場へ入つた八月の灰色な朝、景色は蒸氣に包まれて、富士は全く見えなかつた。あまり遲く着いて、その日には登山を試みることができないので、直ぐに翌日の支度にかかつて、二名の强力[やぶちゃん注:「がうりき」。]を雇ひ入れた。私は彼等の廣い、正直さうな顏と、嚴乘[やぶちゃん注:「頑丈」に同じい。]な態度を見て充分安心した。彼等は錫杖、重い紺足袋(卽ち草鞋と共に使用するので、指先きの割れた靴下)、富士の形の藁笠、その他巡禮の支度品を私に吳れて、明朝四時に立つ積りでゐて下さいと告げた。
譯者註 ヘルン先生は明治三十一年の夏、燒津の避暑を終つてから、松江中學の舊弟子の一人、藤崎八三郞(舊姓小豆澤)氏を伴なひ登山された。
[やぶちゃん注:落合氏は、かく、はっきりと言っているが、完全な誤まりで、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、小泉八雲が富士登山をしたのは、明治三〇(一八九七)年八月二十四日に、逆方向の、実は焼津の避暑の帰り、家族と別行動をとって向かったものである。そもそもが、次の「一」の冒頭にあるクレジットも正しく“August 24th, 1897.”であるのにも拘わらず、甚だ不審なことに、落合氏は、ここで『明治三十一年八月二十四日』としてしまっているのである。ここでの誤認を点検せずに後までずっと使用してしまった大きな瑕疵がここに発生することとなってしまったのである。さらに言うと、平井呈一氏も恒文社版(「異国風物と回想」一九七四年刊)の「富士の山」で『明治三十一年』としてしまっているのに驚くのである。平井氏の訳を愛する私としては、あまり言いたくないことであるが、平井氏の恒文社版の小泉八雲の作品集の訳の中には、第一書房版全集で素人の私でさえ確実に誤訳と判断される箇所の一部で、時に同じ誤訳(全く同じ日本語の誤り)をされている箇所が、ごくたまにだが、確かに見かけられるのである。考えたくないのだが、言わざるを得ない。これは、平井氏は先行訳を参考にした際、時に、原文との校合をちゃんと行わずに、先行訳を安易に、無批判に、そのまま援用されたことが稀にあったように見受けられ、ちょっと残念な感じがする私なのである。
「御殿場は主もに巡禮宿から成れる一小村で、東京から東海道線約三時間の距離である」鉄道に詳しい方には不要な注であるが、現在の御殿場線は旧東海道線であり、正しい。御殿場線は明治二二(一八八九)年に東京―大阪間を結ぶ鉄道(明治四二(一九〇九)年に東海道本線と命名)の一部として開業し、複線化も行われていたが、昭和九(一九三四)年十二月一日の丹那トンネル開通に伴い、東海道本線は熱海駅経由に変更され、国府津駅―沼津駅間は支線の御殿場線と変わったのである。御殿場駅は御殿場線に於いて最も標高が高い位置の近くに立地し、標高は四百五十五メートルである。
「藤崎八三郞(舊姓小豆澤)」生没年は確認出来なかった。養子に行って姓が変わったのである。後に陸軍大佐となった。『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (十八)』の本文に、中学校時代の彼について、かなり詳しく書かれてあるので参照されたい。「熊本アイルランド協会」公式サイトの「ハーン雑話」に、
《引用開始》
藤崎八三郎
旧姓を小豆沢といいます。島根県尋常中学校での教え子で、ハーンの作品『英語教師の日記から』の中に「今後わたくしの記憶に最も長く明白に残るだろうと思う」生徒の一人として紹介されています。ハーンが熊本に移った後もハーンを慕って文通を続け、資料提供の手伝いなどをしています。明治26年に卒業しますが、進路についてハーンに相談し熊本に訪ねてきたりもしました。
明治28年9月、五高に入学しますが前年12月志願兵として入営していたため、出校しないまま休学し、翌年3月に退学しています。結局、陸軍士官学校に入り、職業軍人の道を選びました。この時、藤崎家の養子になっています。
東京時代のハーンは、毎年のように家族を連れて焼津に海水浴に行き1ヶ月ほど滞在しました。明治30年の夏には藤崎も訪ねていき、ハーンのかねてからの念願であった富士登山に同行します。この登山からは『富士の山』という作品が生まれました。その当時ハーンは身体に少し衰えを感じていたらしく、富士登山はとても無理だと諦めていました。藤崎が「私が一緒に行きますから」といって周到な準備のもと、決行します。藤崎の手記によれば「一人の強力が先生の腰に巻いた帯を引いて、もう一人は後ろより押し上げやっと夕方8合目に到着。一泊して翌朝8時についに頂上に到着した」というような登山だったようです。
藤崎は東京でもハーンを慕ってよく訪ねています。藤崎夫人ヲトキさんの回想によると、縁談はハーンの助言でまとまり、お見合いも小泉家の座敷で行われたということです。明治37年2月、日露戦争が始まり藤崎は満州に出征することになりますが、ハーンは家族ぐるみで送別会を開いています。9月26日、ハーンは戦場の藤崎に手紙を書き数冊の本とともに発送して、数時間後に心臓発作で亡くなりました。藤崎は「先生の最後となった手紙と贈ってくださった本と、それから先生の亡くなられたという知らせと同時に受け取って悲嘆に耐えなかった」と手記に書いています。この絶筆となった手紙は戦災で焼失しましたが、幸い木下順二氏が写真に撮ってあった原板があり、それを焼き付けたものがこの記念館に展示されています。
ハーンの没後、上京した藤崎一家がすぐに家が見つからなかったので、小泉家の半分を借りて住んだこともありました。大正12年、熊本で済々黌[やぶちゃん注:「せいせいこう」。]高校の教師となって英語、地理を教えますが、晩年、本当は文学がやりたかったんだと孫たちに語っていたそうです。小泉時氏のお話では「藤崎さんが上京される際は好物のちらし寿司をつくってお待ちしたものでした」ということでした。
《引用終了》
とある。この富士登山姿の二人で撮った写真が残っている。「X」の「富山大学附属図書館のLiLiKaです。」のこちらで、その写真を見ることが出来る。]
以下に書いたことは、旅行中書き附けた心覺えを後になつて修正增補したのである。登山の際にかきつけたことどもは、倉卒[やぶちゃん注:「さうそつ(そうそつ」。「忙しく慌ただしい」或は「いい加減であること」の意。両者の意でとっておく。]不完全を免れないから。
[やぶちゃん注:因みに、私は高校教師時代、ワンダー・フォーゲル部と山岳部の顧問をしたが、未だ、個人でも富士登山はしたことがないし、したいとも思わない。忘れ難い感動は、三度登った槍ヶ岳、それと、連れ合いと二人で登った開聞岳だ。]
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