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2019/11/22

小泉八雲 永遠の執着者 (岡田哲藏譯) / 作品集「異國情趣と囘顧」~電子化注完遂

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ The Eternal Haunter ”)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第二パート“ RETROSPECTIVES ”の最終の第十話(作品集の掉尾)である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月2日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲藏訳)/作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「﹅」は太字に、傍点「○」は太字下線に代えた。途中に挿入される訳者注はポイント落ちで全体が四字下げであるが、行頭まで引き上げた。]

 

   永遠の執着者

 

 今年の東京の彩色版畫――錦繪――は異常の興味あるものと私に思はれる。それ等の畫は初期の大版刷の色彩の魅力を再現する、または殆ど再現する、そして線描に於ては著しい進步を示す。たしかに今の季節の最も良い版畫より綺麗な何物も望み難い。

[やぶちゃん注:「錦繪」浮世絵版画の版様式の一つ。明和二(一七六五)年に江戸で大流行した絵暦(えごよみ)交換会を機に、飛躍的に進歩した多色摺り木版画を指し、初期の三色程度の多色摺りは「紅摺り絵」とよんで区別する。「錦のように美麗な絵」の意であるが、当時おもに上方で「押し絵」(布細工による貼り絵の一種。下絵を描いた厚紙(主に板目紙を用いる)を細かい部分に分けて切り抜き、それぞれの部位に適した色質の布片で包(くる)み(ときに綿を入れて膨らみを持たせる)、それらを元の図柄に合わせて再編成して製作する。布や綿の質感によって薄肉のレリーフのような立体感が生まれる)を「錦絵」と呼んでいたことから、それと区別して対抗する意図から「東(あずま:吾妻)錦絵」と命名されたらしい。まもなく単に「錦絵」とも呼ばれるようになった。錦絵は、下絵を描く絵師と、彫師・摺師・版元・さらに好事家の協力による世界でも稀に見る紙製の総合芸術であるが、絵師では鈴木春信が最も深く関与し、貢献したため、彼を創始者とすることもある。以後、その優れた色彩美と表現力によって急速に発展普及し、安永九(一七八〇)年頃以降は錦絵以外の浮世絵版画は殆んど制作されなくなり、江戸後期から明治期に於いては、浮世絵版画と錦絵はほぼ同意語となった。技法上も種々の改良や工夫が加えられて、十九世紀に入ると数十色もの色版を使ったものも現れて、幕末にはその極限に達した(ここまでは小学館「日本大百科全書」に拠る。ここより以下近世末から近代部分はウィキの「錦絵」を使用した)。春信は明和七(一七七〇)年)に『急死するが、その後、美人画では北尾重政のよりリアルな表現が後の浮世絵師たちに多くの影響を与え、役者絵では、勝川春章や一筆斎文調らが、従来の鳥居派のものとは異なる独自の作品を描いていった。安永後期から天明の頃には役者絵は勝川派が独占、春章を始め、彼の門人の勝川春英や勝川春好らが活躍している。また、寛政期になると、美人画においては喜多川歌麿を輩出、世間は歌麿風美人画の全盛期となるが』、寛政二(一七九〇)年に『浮世絵の表現内容を検閲する改印制度ができ』、『その出版に様々な禁令が出た。同じ時期、旗本出身の鳥文斎栄之は高雅で気品の溢れる清楚な美人画をえがいて歌麿に拮抗、門人の栄昌、栄里、栄水、栄深らは歌麿の影響を受けた美人画で、また栄松斎長喜も独自の個性によって時代を謳歌した。役者絵においては東洲斎写楽らを輩出、大首絵が流行している。この写楽の真に迫る役者絵は歌川豊国、歌川国政らに影響を及ぼしている』。文化三(一八〇六)年、『歌麿が急死したが、大衆は未だ歌麿の美人画を求めており、そこに菊川英山が歌麿晩年風の美人画で登場、若干弱くはかなげな女性を描いて人気を得たが、文政になると、大衆は歌川国貞、渓斎英泉の描く粋で婀娜っぽい美人画を好むようになっていった。一方、文政末期には歌川国芳が『水滸伝』の登場人物をシリーズで描き、空前の水滸伝ブームを巻き起こしたほか、武者絵、美人画、戯画など多方面に活躍したほか、葛飾北斎や歌川広重らによって従来の浮絵とは異なる風景画が描かれるようになった。また』、安政六(一八五九)年に『横浜が開港されると、歌川貞秀らは横浜絵を制作、明治初期にかけて一大ブームとなった』。『明治期になると、文明開化に応じて楊洲周延、落合芳幾』(よしいく)、三『代目歌川広重』、二『代目歌川国輝らが赤を強調した開化絵を描いたほか、具足屋を版元とし、芳幾が絵を描いた』明治七(一八七四)年『発刊の『東京日々新聞』や』、明治八(一八七五)年に『月岡芳年が絵を描いた錦昇堂による『郵便報知新聞』などにおいて新聞錦絵に筆をとったが、この流行は長続きせず、数年で衰退していった。また』、明治九(一八七六)年に『小林清親がモノトーンで叙情性のある光線画を発表すると、井上安治や小倉柳村、大阪の野村芳圀に影響を与えたが、折からの国粋主義台頭により、その流行も』明治一三(一八八〇)年には『消滅した。そのほか』、明治二七(一八九四)年に『勃発した日清戦争や』、明治三七(一九〇四)年に『起こった日露戦争に応じて清親のほか、水野年方、右田年英らが報道画としての戦争絵を残しているが、この日露戦争のころが錦絵最後のブームであった』(☜小泉八雲は明治三七(一九〇四)年九月二十六日没である)。一方、明治三三(一九〇〇)年十月に『私製の絵葉書の発行が許可されると』、『まずは雑誌の付録として石版の絵葉書が制作されるようになり、日露戦争の頃には彩色木版による絵葉書も多数発行されるようになり、木版画の一枚物を代表する商品となっていった。木版画による絵葉書では山本昇雲、小原古邨の花鳥画、坂巻耕漁の風景画などが制作された。当時、流行の石版画家として知られていた山本昇雲が』明治三九(一九〇六)年から明治四二(一九〇九)年に『かけて歌川派のものと異なる美人画「今すがた」シリーズを発表しても、時勢の流れに逆らえず、錦絵は衰退していった。このような中、職を失いつつあった彫師や摺師ら職人の生活維持のために新しい仕事の開拓が急務となっており、そこで活路を見出したのが文芸書の雑誌、単行本出版との提携であり、即ち、活字文化との提携であった。具体的には口絵や挿絵、表紙絵に伝統木版画を使用することが特に活発化していった』。『大正初期の主要な絵師には前述の山本昇雲、小原古邨、坂巻耕漁らが挙げられるが、錦絵全体の出版点数は大幅に減っており、相撲絵や能楽絵以外の出版物では絵葉書などが一枚物を代表するようになっていった。ほかには歌川国松らが千社札を描いたり、笠井鳳斎が大正大礼の錦絵を描いている。また』、大正一〇(一九二一)年には『右田年英』(みぎたとしひで)『が年英随筆刊行会を結成し、『年英随筆』という画集を出版している』しかし、大正一二(一九二三)年九月一日に『起こった関東大震災によって大半の版元が全滅となり、それと同時に錦絵は終焉を迎えた』とある。]

 最近に私が買ひ求めたのは怪異の硏究の一組であつて、――極東で知られた各種の怪を含み、西洋にまだ知られぬ變種もあつた。或るものは極度に不快であるが、少數のものは眞に人を魅する。例へばここに、いま出たばかりで僅か三錢といふ特價で賣られる『ちかのぶ』作のうまいのが一つある。

 

譯者註 『ちかのぶ』は明治時代の浮世繪師揚州周延ならむ。

[やぶちゃん注:浮世絵師楊洲周延(ようしゅうちかのぶ(歴史的仮名遣「やうしうちかのぶ」) 天保九(一八三八)年~大正元(一九一二)年)はウィキの「楊洲周延」によれば、『作画期は幕末動乱期の混乱を挟みつつも』文久頃(一八六一年~一八六四年)から明治四〇(一九〇七)年頃までの約四十五年に及び、美人画に優れ、三枚続きの風俗画を得意とした。『歌川国芳、三代歌川豊国及び豊原国周の門人。姓は橋本、通称は作太郎、諱は直義。楊洲、楊洲斎、一鶴斎と号す』。『越後国高田藩(現新潟県上越市)江戸詰の下級藩士橋本弥八郎直恕(なおひろ』『)の長男として生まれる。ただし、出身地が高田と江戸のどちらかは不明』。『弥八郎は中間頭を務め、徒目付を兼任した』。文久二(一八六二)年の『記録によれば』、二十五『歳の周延も「帳付」』『という役職についている』。『周延は、幼い頃に天然痘にかかり』、『あばた顔だったため写真嫌いで、亡くなった時も写真は』一『枚も無かったという』。『幼少時は狩野派を学んだようだが、その後浮世絵に転じて渓斎英泉の門人(誰かは不明)につき』、嘉永五(一八五二)年十五歳で『国芳に絵を学んで、芳鶴(』二『代目)を名乗る』『(有署名作品は未確認)』。文久元(一八六一)年に『国芳が没すると』、『三代目豊国につき』、『二代目歌川芳鶴、一鶴斎芳鶴と称して』『浮世絵師となった。さらに豊国が』元治元(一八六四)年十二月に『亡くなると、豊国門下の豊原国周』(くにちか)門『に転じて』、『周延と号した』。慶応元(一八六五)年、『幕府の第二次長州征討に従軍し、行軍する藩士らの様子を「長州征討行軍図」で色彩豊かに描いている』。慶応三年、『橋本家の家督を相続した』。同年五月六日、『国周が日本橋音羽町に建てた新宅開きの日に、酔った河鍋暁斎が国周の顔に墨を塗りたくって大騒ぎとなった。この時、怒った周延が刀を抜いて暁斎に切ってしまうぞと飛びかかり、暁斎は垣根を破って逃げ、中橋の紅葉川の跡に落ちてドブネズミのようになったという』。『錦絵では慶応』三『年正月刊の豊原国周の「肩入人気くらべ」(大判』三『枚続)中に人物を補筆したのが早いものであろう』。『幕末の動乱期には高田藩江戸詰藩士が結成した神木隊』(しんぼくたい)『に属し、慶応四(一八六八)年五月、『上野彰義隊に加わる』も、八月、『朝日丸で品川沖を脱走、すぐに長鯨丸』(ちょうげいまる)『に乗り換え』、十一月、『北海道の福島に上陸、陸路で箱館を目指し』、翌一月五日、『亀田村に到着。榎本武揚麾下の滝川具綏』(たきがわともやす)『指揮第一大隊四番小隊のもとで官軍と戦ったが』、三『月の宮古湾海戦において回天丸に乗り込んで戦い』、『重傷を負う。戊辰戦争終結後に降服、未だ傷が癒えていなかったため』、『鳳凰丸で』明治二(一八六九)年八月に『東京へ送られ、高田藩預かりとなった。故郷の高田で兵部省よりの禁錮』五十『日、高田藩から家禄半知または降格、あるいは隠居廃人の処分を受けた。この時、高田の絵師・青木昆山らと交流を深めている』。『その後、いつ頃かは不明だが東京に戻』り、明治一〇(一八七七)年から明治一三(一八八〇)年には『上野北大門町におり』、『以降は作画に精励した。当初は武者絵や「征韓論之図」、「鹿児島城激戦之図」などといった西南戦争の絵を描いて評判を取る。明治』十『年代からは宮廷画を多く描いており、晩年にかけて大判』三『枚続の「皇后宮還幸宮御渡海図」、「皇子御降誕之図」、「今様振園の遊」などを残』している。明治一五(一八八二)年には『橋本周延として第』一『回内国絵画共進会に出品した作品が褒状を受けている。なお、』同年には、『明治天皇及びその家族を錦絵化することは禁止された。また』、明治十七年に催された第二回『内国絵画共進会では「人物」、「景色」が銅章を受けている。同年から明治』二十四『年には湯島天神町』『に住んでいた』。明治二八(一八九五)年から明治三〇(一八九七)年に『かけて、江戸っ子が知らない江戸城の「御表」と「大奥」を』三『枚続の豪華版の錦絵で発行、江戸城大奥の風俗画や明治開化期の婦人風俗画などを描き、江戸浮世絵の再来と大変な人気を博した。代表作として「真美人」大判』三十六『図、「時代かがみ」、「大川渡し舟」などの他、「千代田の大奥」』百七『枚、「千代田の御表」』百十五枚(三枚続き、五枚続き、六枚続きもある)、「温故東之花(おんこあずまのはな)」などの、『江戸時代には描くことができなかった徳川大奥や幕府の行事を記録したシリーズ物は貴重な作品として挙げられ、特に「千代田の大奥」は当時ベストセラーとなった。なお「千代田の大奥」には種本が存在する。永島今四郎・太田義雄』作に成る「朝屋叢書 千代田城大奥 上下」(朝野新聞社・明治二五(一八九二)年)が『それで、「千代田の大奥」の個々の錦絵に付けられた画題と、『千代田城大奥』の項目が一致する』。明治三十年に開催された『第一回日本絵画協会共進会に出品し、三等褒状を受けている』。『また明治維新後は、「外国と対等に付き合うには女性も洋服を着なければならない」と公の場では華族や新政府の高官の夫人、令嬢は華やかなロングドレスを身に纏うようになった』が、『周延は、女性の注目を集めたこのニューファッションを取上げて錦絵に描いた。例として「チャリネ大曲馬御遊覧ノ図」や「倭錦春乃寿」、「女官洋服裁縫之図」などといった宮廷貴顕の図があげられ、周延はこれらも多く描いている。これにより、周延は明治期で人気一番の美人画絵師となっている。ただし』、『この文明開化の新時代に浮世絵に描かれた女性たちは、その髪型や着るものは新しいデザインであっても、その容貌は未だ江戸美人のままであった。美人画以外にも子供絵、歴史画、国周の流れをくむ役者絵、挿絵などの作品があり、周延の錦絵の作品数は錦絵』八百二十『点、版本』三十種と『と多数に上り、数少ない優れた明治浮世絵師の中においても屈指の人であった。周延が生涯を通して最も力を注いだのは宮廷官女、大奥風俗を含む美人風俗であり、時代を反映した優れた作品群があった』。なお、逝去から二ヶ月後、『池袋の本立寺に「神木隊戊辰戦争之碑」が建立された。その建設者名の冒頭に』は、『本名である橋本直義』の名が『刻まれており、周延が最後に成そうとしたのは』、『先に亡くなった神木隊同士たちの慰霊だった事がわかる』とある。彼の作品は「山田書店」公式サイト内のこちらで三百三十七点に及ぶ多くのそれを視認することが出来る但し、以下に示す幽霊画は残念ながら見当たらない。他にも画像で検索して見たが、発見出来なかった。題名を御存じの方は御教授願いたい。

 諸君はそれは何を描いて居るのか推察されるか……左樣、一人の娘、――然し何等の娘。[やぶちゃん注:原文“but what kind of a girl?”。「しかし、如何なる娘であるか?」。]少しそれを硏究せられよ。……下を向いた眼元に内氣の愛嬌がこぼれ、――羽をやすめて居る蝶の樣な、あの輕さうなそして好ましい優美を具へた彼女はほんとに愛らしいではないか。……否、彼女は、諸君がいふ樣な意味での、最も東のはてのサイケ[やぶちゃん注:原文“Psyche”。ギリシア神話に登場する人間の娘プシューケー(ラテン文字転写:Psȳchē:古代ギリシア語では「気息・心・魂・蝶」を意味する)。愛の神エロス(キューピッド)の妻。女神アフロディテによってさまざまの苦難に遇わされたが、ゼウスの力で幸福を得た。後世、画題として好まれた美女である。英語の「psychology」(心理学)などはこれに由来する。英語では「サイキ」とも発音する。]の樣なものでは無くて――彼女は一の魂である。上の枝から落ち散る櫻花は、彼女の姿の中を通り過ぎて居るのを見よ。又下の方の彼女の衣裳の襞は、靑い微かな霞に消えて居るのを見よ。全體が如何に微妙で煙霧の樣である事ぞ。それが人に春の感じを起こさせる、そして凡てそれ等の仙境の樣な色は日本の春の曙の色である……否、彼女は何れの季節の人格化でも無い。寧ろ彼女は夢である――極東の若人の眠につき纏ふ樣な夢である、然し畫家は彼女に夢を現はさせ樣としたのではない……諸君は推察されぬか。さあ、彼女は樹の精である、――櫻木の精。曙または、夕暮の薄光のうちにのみ、彼女は木を脫け出でて現はれる、――そして彼女を見た人は誰れでも彼女を愛せずには居られぬ。然し近く寄ると、彼女は吸はれた霧の樣に幹のうちに消ゆる。樹の精が或る男を慕つて、彼の爲めに一人の男の子を生んだ談があるが、かかる行ひは彼女の種族の內氣な習ひに頗る外づれたものであつた……

[やぶちゃん注:最も知られた芸能物では、私も大好きな浄瑠璃「卅三間堂棟由來」(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)であろう(文政八(一八二五)年・大坂御霊境内初演。若竹笛躬(ふえみ)・中邑阿契(なかむらあけい)の合作。但し、宝暦一〇(一七六〇)年月豊竹座初演の「祇園女御九重錦(ぎおんにょうごここのえにしき)」(全五段)の内、三段目「平太郞住家」「木遣音頭」(きやりおんど)を独立させて改題したもの。通称「柳」(やなぎ)」。横曽根(よこそね)平太郎と契り、一子緑丸(みどりまる)をもうけた妻お柳(りゅう)は、実は柳の古木の精であったが、白河法皇の病気の原因を除くため、その柳を切って三十三間堂の棟木にすることになったことから、夫と子に別れを告げて去る。切り倒された柳の大木は運ばれる途中で、お柳の思いが残って動かなくなるが、平太郎父子の木遣音頭によって、静かに引かれてゆくという話である。小泉八雲には同じく柳の精と契る「靑柳の話」(私の『小泉八雲 靑柳のはなし (田部隆次譯) 附・「多滿寸太禮」の「柳情靈妖」』を参照)があるが、そこでは子はもうけていないので、違う。]

 諸君は不可能を描く要は何處にあると問はる〻か。さる問を發するのは諸君が若さのこの幻、――春のこの夢の能力を感ぜぬことを證する。私は不可能は[やぶちゃん注:底本の傍点「ヽ」はママ。前の「不可能を」に徵するに、「不可能は」に打ったものが誤植された可能性が疑われる。]我々が現實及び平凡と呼ぶものの多數よりも、もつと事實に密接な關係を有つと主張する。不可能は赤裸の眞理で無いかも知れぬ、然し私はそれは通常、假面や面被を冠つて居るとしても[やぶちゃん注:「面被」は「めんぴ」と読んでおくが、ここは“masked and veiled”であるから、「ヴェール」と読みたいのが私の本心である。平井先生も『ヴェール』である。]、永遠の眞理であると思ふ。さて私にはこの日本の夢は眞である、――少くとも人間愛が眞である如く眞である。精靈として考へてすらそれは眞である。何等の精靈を信ぜぬと稱する人は己が心に僞をいうて居る。誰れでも精靈に憑かれる。そしてこの彩色版畫は、我々が皆知つて居る精靈を我々に思はせる、――たとひ我々の多數(詩人を除く)はその知己[やぶちゃん注:原文“acquaintance”。「知り合い」(がいること)。]を告白することを欲せぬけれども。

 

 恐らくは――それが我々の多數にさうなるのであるから――諸君はこの執着者を、小兒の時なりと、夜の夢に見たかも知れぬ。勿論、その時、諸君の息んで[やぶちゃん注:「やすんで」。]居る上に、身を屈める美しい姿を諸君は知り得なかつた、恐らく諸君は彼女を天使であるか、または死せる姉妹の魂であると思つたであらう。然し生の目覺めの時に、我々は初めて彼女の存在を注意する樣になる。それは小兒が靑年に成熟し始める頃である。

 この初めての彼女の出現は歡喜の衝動、息もとまる悅樂である、然し驚異と快樂との後には直に名狀し難い悲哀、――以前に感じた何れの悲哀とも全く異る――が迫り來る、たとひ彼女の目にはただ愛撫があり、彼女の脣には最も微妙の笑[やぶちゃん注:「ゑみ」。]があるけれども。そして諸君は彼女の誰れなるかを知るまでは、――それを知るは容易では無いが――その感情の理由を想像し得ぬ。

 彼女は唯だ一瞬時止まる、然しその光彩の瞬時の間に、我々の存在の一切の潮が立つて、何の言にも云はれぬ憧憬を以て彼女の方に流れかかる。そしてその時――突如――彼女は居なくなる、そして我々は日が影になり、世界の色は灰色になつたのを知る。

 それから後、魅力は我々と我々が以前に愛したもの、――人間又は物又は場所、――との間に殘る。それ等の何物もまたそのかみの如くもう近くさう親しくは見えぬであらう。

  度々彼女は還つて來よう。我々が一度彼女を見た上は、彼女は決して尋ねて來る事を止めぬであらう。そして此執着、――言にいひ難い程甘美で、現はされぬ程悲哀なる――が我々に彼女に似たる誰れかを求めて世界を遍歷したいといふ輕忽[やぶちゃん注:「けいこつ/きやうこつ(きょうこつ)。「輕率」に同じい。]な願を抱かすかも知れぬ。然し如何に長く如何に遠く我々は徨うても、その誰れかを決して見出さぬであらう。

 後には彼女の訪ひ來るのが恐ろしくなるかもしれぬ、それは苦痛、――了解の出來ぬ不思議な苦痛、――を伴なふからである。然し地帶を距て[やぶちゃん注:「へだて」。]、海を越えても我々は彼女から離れ得ぬ、絕壁も彼女を阻まぬ[やぶちゃん注:「はばまぬ」。]。彼女の動作はエーテルの振動の如く音無く且つ微妙である。

[やぶちゃん注:「エーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次譯)」の私の注を参照されたい。]

 彼女の美は人の心の如く昔のもの、――されどいつも美しく成り勝さり、永遠に若さを保つ。人間は秋の霜に草の枯る〻如くのうちに凋む、然しのみが彼女の無終の若さの輝きと花とを照らす。

 凡ての男は彼女を愛した、――凡てが彼女を愛し續けねばならぬ。然し何人もその脣を彼女の衣の裾にだに觸れぬであらう。

 凡ての男が彼女を崇む、然し凡てを彼女は欺き、そして彼女の誑かし方は多端[やぶちゃん注:「たたん」。複雑で多方面に亙っていること。]である。最も屢〻彼女は己を慕ふものを或る地上の少女の前に誘ひ、そして判からぬ樣に彼女自らをその少女の體に混じ、そして全然人間の目視が神聖になり、――人の四肢がその衣を徹つて[やぶちゃん注:「とほつて」。]輝く樣な光彩を生ぜしめる。然し直ぐとまた光輝ある執着者は人間から彼女自らを離し、彼女に瞞された[やぶちゃん注:「だまされた」。]男をして感覺の嘲笑に驚かしむる。

 殆ど凡ての男が試みたけれども、何人も彼女を描き得ぬ。彼女は繪にならぬ、――彼女の美その物は不斷の變移、無限の多種で、光の流に押さる〻如く、永久の生氣で振動して居る爲めに。

 實は、數千年前に或る驚くべき彫刻家があつて、彼女の單一の似姿を石に刻み得たといふ談がある。然しこの業は多くの人の爲めに至上の悲哀の因となつた、そして神は、慈悲心から、他の如何なる人にも同じ驚異を成就する力を決して與ヘぬと宣告せられた。近頃我々は唯だ崇拜し得る、――我々は描くことは出來ぬ。

[やぶちゃん注:ギリシア神話の人物であるキュプロス島の王ピュグマリオン(ラテン文字転写:Pygmaliōn)は、自分の手で彫刻した象牙の女人像に恋し、アフロディテに、この像とそっくりの妻を与えたまえと祈ったところ、日に日に思慕のために衰弱してゆく彼を見かねたアフロディテが、命を吹き込み、生きた女性にガラテアに変っていた。彼は彼女と結婚し、パフォスという娘をもうけたとされ、また、彼は生涯をかけて神殿に祀るアフロディテ像を彫り続けたとされるが、小泉八雲が言っている話は、ちょっと違う。こういう伝承があるか、或いは、本篇のために創作したものか。識者の御教授を乞う。]

 然し彼女は誰れ、彼女は何。……あ〻、私はそれを諸君に尋ねようと思つた。彼女は名を有たなかつた、然し私は彼女を樹の精と呼ばう。

 日本人は我々が彼女を攘ひ[やぶちゃん注:「はらひ」。]除け得るといふ、――若し我々が殘酷なれば――唯だ彼女の樹を切り倒しさへすれば。

 然し私が云ふ[やぶちゃん注:底本は傍点「○」。]は攘ひ除けられぬ、――また彼女の樹を切り倒すことも出來ぬ。

 何故なれば彼女の樹は量も無く、時も無く、億萬の枝ある生命の樹、――正に世界の樹、イグドラシル、その根は夜と死のうちにあり、その頭は神々の上にある。

 

譯者註 イグドラシル(Yggdrasil)は北歐神話にある大木。その根は地獄にあり、梢は天に達し、枝は全地を掩ふ、ノルナと名附くる運命の三神その下に坐し人世の事件を編むといふ。

[やぶちゃん注:ユグドラシル(古ノルド語:Yggdrasill)は北欧神話に登場する一本の架空の木。「ユッグドラシル」「イグドラシル」とも表記する。ウィキの「ユグドラシル」によれば、『世界を体現する巨大な木であり、アースガルズ、ミズガルズ、ヨトゥンヘイム、ヘルヘイムなどの九つの世界を内包する存在とされる。そのような本質を捉えて英語では “World tree”、日本語では』「世界樹」「宇宙樹」等『と呼ばれる』。『ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」の「神々の黄昏(楽劇)」の冒頭「ワルキューレの岩」で第一のノルン(運命の女神)が「一人の大胆な神が水を飲みに泉にやって来て 永遠の叡智を得た代償に片方の目を差し出しました そして世界樹のトネリコの木から枝を一本折り その枝から槍の柄(つか)を作りました 長い年月とともに その枝の傷は 森のような大樹を弱らせました 葉が黄ばんで落ち 木はついに枯れてしまいました」と歌う』(シソ目モクセイ科トネリコ属 Fraxinus は実在する樹種で、しばしば、「ユグドラシルはトネリコである」とされるが、本邦のトネリコ Fraxinus japonica は本邦固有種であり、モデルではない)。『Yggdrasill という名前の由来には諸説あるが、最も有力な説ではその原義を“Ygg's horse”(恐るべき者の馬)とする。“Yggr”および“Ygg”は主神オーディンの数ある異名の一つで』、『三つの根が幹を支えている』。「グリームニルの言葉」(古ノルド語:Grímnismál:十七世紀に発見された北欧神話について語られた写本の中の「詩のエッダ」にある神話詩の一編)の第三十一『節によると、それぞれの下にヘルヘイム、霜の巨人、人間が住んでいる』。また、別な記載の『説明では、根はアースガルズ、霜の巨人の住む世界、ニヴルヘイムの上へと通じている』とし、『アースガルズに向かう根のすぐ下には神聖なウルズの泉があり』、『霜の巨人の元へ向かう根のすぐ下にはミーミルの泉がある』とする。『この木に棲む栗鼠』(リス)『のラタトスクが』、『各々の世界間に情報を伝えるメッセンジャーとなっている。木の頂きには一羽の鷲(フレースヴェルグとされる)が留まっており、その眼の間にヴェズルフェルニルと呼ばれる鷹が止まっているという』。『ユグドラシルの根は、蛇のニーズヘッグによって齧られている。また、ダーインとドヴァリン、ドゥネイルとドゥラスロール』『という四頭の牡鹿がユグドラシルの樹皮を食料としている』などとある。]

 

 彼女を慕はんとすれば――彼女は反響[やぶちゃん注:原文は“Echo”。岡田先生、最後の最後に、また、文句を言わさせて戴きます。ここはどう考えても――「木靈(こだま)」――と訳すべきところですよ! 平井先生も『木魂』と訳しておられます!]。彼女を抱かんとすれば――彼女は影。されど彼女の笑は我々が分散して彼の[やぶちゃん注:「かの」。]世に行く時までも、――來るべき無數の生命を通じて執着するであらう。

 そして我々は決して彼女の笑に笑み交はすことはあるまい、――決してあるまい。何故ならば、その笑は我々のうちに、我々が了解し得ぬ苦痛を覺まし來る故に。

 そして決して、決して我々は彼女に克ち得まい、――何となれば、彼女は久しき以前に消えた太陽の幻の光である故に、――何となれば彼女は塵に還れる無慮幾百萬の心の鼓動によりて作られたるが故に、――何となれば、彼女の魔術は、我等自らの數へ切れぬ過去の無數の忘られし循環を通じて、若きものの幻と望との無終の滿干によりて、作られたるが故に。

 

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