小泉八雲 香 (大谷正信訳)
[やぶちゃん注:本篇(原題“Incense”)は一八九九(明治三二)年九月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“IN GHOSTLY JAPAN”(「霊的なる日本にて」。来日後の第六作品集)の第三話目に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。なお、この前の第二話「振袖」(原題“Furisodé ”)は既に、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」の田部隆次氏の訳の「振袖」(PDF)を視認して私が電子化した「小泉八雲 振袖 (田部隆次訳)」があるので、省略する(基本的に、現在、私が底本としている以下とは大きな差異は認められないからである)。
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。
訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。
傍点「ヽ」は太字に代えた。また、第「四」章には「香會記」という罫線囲いの表が、その後には、『「山路」の作り方』・『「梅華」の作り方』という処方表が載るが、これは電子化するのが面倒(上手く電子化出来ない)なので、上記“Internet Archive”のPDF版からトリミングし、補正を加えて画像で示すこととした。]
香
一
暗闇から現はれ出でて、蓮が花瓶にあるのが見える。その花瓶の大部分は眼に見えぬ。が、それは唐金[やぶちゃん注:「からかね」。青銅。]であること、幽かに見えるその兩の把手は龍の軀であることは自分に解つて居る。その蓮だけが充分に照らされて居る。純白な花が三つ、そして金色と綠色との――上が金色で、上向きに緣(へり)を卷居るその裏面が綠色の大きな葉が五枚附居る、人造の蓮である。それは斜にさしこんで居る日光の流を浴びて居る。その下とその先きの暗闇は或る寺の部屋の黃昏である。その光線が射し込む口は見えぬ。が、寺の鐘の輪郭の恰好をした、小さな窓だといふことは自分は氣附いて居る。
[やぶちゃん注:火灯窓・花頭窓(かとうまど)である。本来は中国で主に禅宗の寺院で用いられていたが、本邦では宗派を問わず、また神社や城の天守閣及び書院造などに於いても広く用いられている。]
自分にその蓮が――自分が初めて佛敎の聖殿を訪うた一つの記憶が――見える理由(わけ)は香(かう)の匂がして來たからである。自分は香(かう)を嗅ぐと每度この幻が判然と浮かぶ。そして通例(いつも)その後(あと)で、日本での自分の最初の日の他の感情が、殆ど苦(くる)しいほど痛烈に次から次と迅速に復活する。
殆ど遍在である――この香(かう)の薰は。それは極東の幽かではあるが複合的なそして決して忘れることの出來ぬ香氣の一要素を爲して居るものである。寺院に劣らず住宅に――王侯のヤシキに拘らず百姓の家に――附き纏うて居る。尤も神道の神社には――香(かう)はより年齡のたけ力神々には嫌惡されて居るから――全く無い。然し佛敎の住む處には到る處香がある。佛壇または位牌のある家では、どんな家でも或る時機に香(かう)を焚く。未開極る寂寥たる田舍でも、路傍の佛像――不動、地藏或は觀音の小さな石像――の前に香(かう)が燻ぶつて居るのを見るであらう。旅行の幾多の經驗は――眼の印象同樣に耳の奇異な印象は――自分の記憶にはその匂と關聯して居る。――氣味の惡るい古社(ふるやしろ)へ通ずる森閑とした蔭深い壯大な並樹路、――雲表[やぶちゃん注:「うんぺう(うんぴょう)」。雲の上まで達するかのような高いところ。]に朽ち崩る〻寺院へ昇つて行く擦り耗らされた苔の蒸した石段、――祭禮の夜の歡喜の雜沓、――提燈の薄明りに音無く辷り行く白無垢着た葬式の行列、――寂寞たる遠き海岸の漁夫の小屋での、家の内の祈禱の呟(つぶやき)、――立ち騰る[やぶちゃん注:「のぼる」。]靑い煙の絲の痕があるだけの、物淋しい小さな墓石の眺め、――無量光佛阿彌陀に祈禱を捧ぐる折に質朴な心が憶ひ出す、祕藏して居た禽獸の墓石、――總て香氣を聯想する。
[やぶちゃん注:「祕藏して居た禽獸の墓石」訳が生硬に過ぎる。原文は“graves of pet animals or birds”であるから、難しい意味ではなく、「可愛がっていた動物たちや小鳥たちを葬ったささやかな墓」である。]
だが自分が語る匂(にほひ)はただ廣い香(かう)の――一般に使用して居る香(かう)の――匂である。他にも幾種かの香(かう)があつて、質の等級範圍は驚くばかりである。普通の(尋常の鉛筆の心(しん)程の太さで、少し長さの長い)線香の一束は二三錢で買へる。ところが、無經驗な人の眼には、色が少し異つて居るぐらゐにしか見えぬ質のもつと上等の一束で、數圓もして、しかもその値段では廉いといふのもある。もつと高價な種類の香(かう)は――正眞の贅澤物は――菱形、封緘紙形、錠劑形をしてゐる。そしてそんな材料の小さな一包が、四磅[やぶちゃん注:ポンド。]或は五磅することがある。然し日本の香(かう)に關する商業上並びに工業上の問題は、著しく珍らしい題目の一部分となるには、興味最も乏しいものである。
[やぶちゃん注:本書は明治三二(一八九九)年刊であるが、二年前の明治三〇(一八九七)年の為替レートでは1ポンドは九・七六円である。明治三三(一九〇〇)年の白米十キログラムの東京での小売価格は一・一円で、大卒初任給は二十三円であった。]
二
實に珍らしくはあるが、其傳統と細目とが無限なので非常なものである。それを洩らさず述べるのに要する書卷の大いさを考へる事さへ自分には厭である。……そんな著作は本當は先づ日本に於ける香料の最初の知識と用法の單簡な記事で始まるであらう。次に朝鮮から――紀元五百五十一年百濟の聖明王がこの島帝國へ經卷嚢一集佛像一體並びに一寺に要する道具一式を送つた時――佛道の香が初めて輸入された記錄と傳說とを述べるであらう。それから十世紀の間に、延喜天曆[やぶちゃん注:九〇一年から延長・承平・天慶を挟んで九五七年まで。]の頃に、爲された香(かう)のあの分類について、――また十三世紀の末に支那に赴き、香(かう)に關する支那人の知識を用明天皇に傳へた參議キミタカの報告について――少しく言はなければならぬであらう。それから今猶ほ日本の許多[やぶちゃん注:「あまた」。「数多」に同じ。]の寺院に保存されて居る古代の香に就いて、また信長秀吉及び家康[やぶちゃん注:家康の切除は実際には誤り。後の「四」で注する。]がその一部の贈與を受けた(明治十年奈良で一般の展覽に供された)有名な蘭奢待[やぶちゃん注:「らんじやたい」。]の破片に就いて、記載しなければなるまい。その次には日本で造つた合劑の香(かう)の――それには。あの贅澤な尊氏が案出した分類方に對して、また百三十種の香(かう)を集めて其うちの貴重なのに、今日に至る迄知られて居る例へば『花の雪』、『富士の煙』、『法華』といふやうな、名を拵へた足利義政が後に定めた名稱に對して、註釋を添へて――歷史の槪要が來なければなるまい。その上また、幾多の貴紳の家庭に保存されて居る歷史的な香(かう)に附隨して居る傳統について幾つかの例を與へ、それと共に、幾百年の間代々傳へられて今なほその尊い發明者の名によりて、『日野大納言法』、『仙洞院法』等と呼ばれて居る香(かう)製造のその世襲的な調合法の幾つかの見本も與ふべきであらう。その上また『蓮の香、夏のそよ風の臭ひ、秋風のかをりになぞらへ』造つたその奇異な香(かう)について調合法を示さなければなるまい。香(かう)逸樂の榮華時代の傳說も少しは――例へば、香木で御殿を建てて居たが、反叛[やぶちゃん注:「むほん」。]の夜それに火を放つたところ、その燃ゆる煙國土を薰じて十二哩[やぶちゃん注:「マイル」。十九・三一二キロメートル。]の遠きに及んだといふ陶(すゑ)尾張守の物語の如きを――引用しなければなるまい。……固よりの事、合劑の香(かう)の歷史への材料を編纂するだけでも無數の文書論說書卷――殊に『クンシフルヰセウ』卽ち「薰集類抄」如き奇異な著作――の硏究を必要とするであらう。香(かう)道十派の敎、香製造に鏡も善き季節の指導、香(かう)を焚くに用ふべき『種々な火』(一種は『文の火』と呼ばれ、今一つは「武の火」と呼ばれて居る)に就いての指圖、それからまた季節と場合とに應じて香爐の灰を色々な美術的な模樣に押す法式、さういふ書卷名込めてである。……妖怪追迫ひ拂ふ爲めに家の中に吊り下げてある香の袋(クスダマ)に對して、――また、惡魔につかれぬ護として以前は身に着けて居たより小さな香の袋に對して、――確に一章を與へなければなるまい。それから其の著作の頗る大なる部分は香の宗敎上の用途と傳說――それだけで大きな題目であるが――それに捧げなければなるまい。その上にその細かしい[やぶちゃん注:ママ。]儀式は數多くの圖の助を藉りなければ說明の出來ない、古の『香の集會』の奇妙な歷史も考察しなければなるまい。古昔香(かう)の材料を印度、支那、安南[やぶちゃん注:「アンナン」。現在のヴェトナム。]、暹羅[やぶちゃん注:「シヤム(シャム)」。タイの旧名。]、柬埔寨[やぶちゃん注:「カンボジア」。]、錫蘭[やぶちゃん注:「セイロン」。現在のスリランカ。]、蘇門答剌[やぶちゃん注:「スマトラ」。]、爪哇[やぶちゃん注:「ジヤワ(ジャワ)」。]、ボルネオ及び馬來[やぶちゃん注:「マライ」。マレー。]群島の種々な島々――香についての珍奇な古に皆名の出で居る土地――からの輸入の題目に對して少くも一章は要るであらう、そして最後のところの一章は香(かう)の浪漫的文學を――香(かう)の儀式のことが記されて居る詩歌物語並びに戲曲、殊に身を香(かう)にたとへ、情をそれを食む[やぶちゃん注:「はむ」。]炎になぞらへて居る、
移り香のうすくなり行く薰物の
くゆる思に消えぬべきかな
のやうな戀歌を――扱ふべきであらう。
……この題目の槪要だけ考へてもぞつとする! 自分は香(かう)の定數上の、逸樂上の、また靈的な使用について、二三の記事以上のことは何も企てまい。
[やぶちゃん注:最後の「!」の後には字空けはないが、特異的に挿入した。さても――私も、『この』やや冗長な段落にオリジナルに各個的な注を神経症的に附すことを『考へてもぞつとする!』……だから『自分は』『二三の記事』に『單簡』なる注を一寸添える意外『のことは何も企てまい』と思うのである。悪しからず。……
「聖明王」百済(くだら)の第二十六代の王聖王(せいおう ?~五五四年/在位:五二三年~五五四年)。現在、百済を経由して日本に始めて仏教が伝えられたのは、この聖王の時代の五三八年と考えられており、使者を送って金銅の仏像一体・幡。経典などを伝えたとするから、その中に香や香具も含まれていたと考えるのはごく自然である。
「用明天皇」在位は五八五年(?)から五八七年(?)か。崇仏派で、仏法を重んじて、実質上、王朝に於いて、仏教を公認し、それが後の推古天皇以降の仏教隆盛に繋がった。
「參議キミタカ」不詳。識者の御教授を乞う。
「陶(すゑ)尾張守」室町後期・戦国時代の武将陶晴賢(すえのはるかた 大永元(一五二一)年~天文二四(一五五五)年)。大内義隆に仕えたが、後に義隆を討ち、大友宗麟の弟晴英を迎えて大内家の後嗣とした。毛利元就と厳島で戦って大敗し、自害した。
「薰集類抄」(くんじゅうるいしょう)は平安末の長寛年間(一一六三年~一一六五年)に刑部卿範兼が勅命により抄集したとされるもので、和漢の数々の薫物(たきもの)の処方と調合法を集成・検証し、その道の初学者に供すると同時に、薫物が平安王朝の上流社会に根付くに至る歴史を記した書。
「移り香のうすくなり行く薰物のくゆる思に消えぬべきかな」「梨壺の五人」の一人として知られ、清少納言の父である貴族歌人の清原元輔(延喜八(九〇八)年~永祚二(九九〇)年)の「後拾遺和歌集」に載る一首(七五六番)、
ある女に
うつり香(が)のうすくなりゆくたきものの
くゆる思ひにきえぬべきかな
である。]
三
貧しい人が到る處佛像の前で焚く香(かう)は『安息香』といふのである。これは甚だ廉價である。巡拜者が有名な寺院の入口の前に置いてある唐金の香爐で焚くその量は大したもので、路傍の佛像の前にその幾束をも見ることが能くある。それは信心な旅人が使用するもので、旅人は途中の佛像一々の前に立ち止つて短い祈禱を唱へ、出來得れば二三束をその像の足下で燻ぶらすのである。が、富裕な寺では、そして宗敎上の大儀式の間は、もつと高價な香(かう)を用ひる。佛敎の禮式では全體で三通りの香料を使用する。種類の多いカウ卽ち本當の香(かう)(この語は文字通りではただ『香ひ[やぶちゃん注:「にほひ」。]のある物』との意である)と、――ヅカウ[やぶちゃん注:原文は確かにそうなっているが、これは小泉八雲の「膩香(ぢかう(じこう))」の誤りである。]卽ち香(にほひ)のある油と、それからマツカウ卽ち香(にほひ)かんばしい粉末である。カウは焚き、ヅカウは身を淨める油として僧侶の手に塗り、そしてマツカウは聖殿に撒くのである。この抹香といふのは佛典に屢〻記載されて居る白檀の粉末と全然同じだといふことである。然し宗敎上のお勤めに重要な關係を有つて居ると言ひ得るのはただ眞の香(かう)だけである。
[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が三字下げでややポイント落ちである。以下、引用部は同じなので注さない。]
香は〔『僧史略』は述べて居る〕信心之使なり。長者佛を食事に請ぜんと欲せし時、香(かう)を用ひたり。饗宴の前夜常に樓に登り、手に香爐を秉りて[やぶちゃん注:「とりて」。]終夜立ちてありき。斯く爲す度每に、佛は翌日正しく所要の時刻に來り至りぬ。
[やぶちゃん注:「僧史略」「大宋僧史略」。北宋初期に僧賛寧が著わした伝来以来の中国仏教に関する制度の淵源・沿革に関する歴史書。全三巻。九九九年に重修が成立している。]
此文句は香(かう)は、燃ゆる供物であるから、信者の敬虔な願望を表象して居る、ことを明らかに示して居る。然しまた他の事をも表象して居り、佛敎文學に幾多の顯著な比喩を供給して居る。そのうち、それは中々に興味あるものであるが、祈禱のうちに出來(しゆつたい)するのがある。次記のは「法事讃」から引用したものであるが、その著しい一例である、――
願我身淨如香爐 願我心如智慧火
念念焚譯戒定香註 供養十方三世佛
註 戒とは行爲及び思想に於て淸淨の戒律を守ること。定とは(日本の佛敎徒は之を禪定と呼んで居る)冥想の高尙な形式。
[やぶちゃん注:以上の註は底本ではさらにポイント落ちで四字下げ。
「法事讃」浄土教の祖である善導の五部九巻の著作の中の一つ。そのまま音読みする。
願我身淨如香爐(ぐわんがしんじやうによかうろ)
願我心如智慧火(ぐわんがんがしんによちゑくわ)
念念焚燒戒定香(ねんねんぼんじやうかいぢやうかう[やぶちゃん注:ママ。])
供養十方三世仏(くやうじつぽうさんぜぶ[やぶちゃん注:ママ。])]
時々佛敎の說敎で、有德な努力で因果を破滅することむ淸淨な炎で香(かう)を焚くことになぞらヘ――時々また、人間の一生を香(かう)の煙に喩へる。眞宗の僧侶明傳は、その『百通切紙』(『ヒヤクツウキリカミ』)に於て、『クジツカデウ』卽ち『九十箇條』といふ佛書から引用して、
香を燒く事は香のある間は火のもゆれば煙が立つなり。此の地水火風の借ものの口より息の出るはかの煙の如し。消はててひえ灰となるは我等野邊の薪となりはてて空キ[やぶちゃん注:「むなしき」。]灰となるに譬へて見[やぶちゃん注:「みる」。]とのことなり矣。
[やぶちゃん注:「矣」(音「イ」)は漢文の断定の終助字で読まない。
「明傳」(みょうでん 寛永九(一六三二)年~宝永六(一七〇九)年)は、江戸前期の真宗僧。小石川伝通院に修学し、学名を「龍山」と号した。備中国小田郡笠岡(現在の岡山県笠岡市)浄土真宗本願寺派浄心寺に入寺して「明伝」と改名した。
「百通切紙」全四巻。「浄土顕要鈔」とも称する。明伝の編で延宝九(一六八一)年成立、天和三(一六八三)年板行された。浄土真宗本願寺派の安心と行事について問答形式を以って百箇条で記述したもので、真宗の立場から浄土宗の教義と行事を対比していることから、その当時の浄土宗の法式と習俗などを知る重要な資料とされる。後、明治になって大分出身の真宗大谷派の僧長岡乗薫が、江戸後期の真宗僧で京の大行寺(だいぎょうじ)の、教団に二人しか存在しない学頭の一人であった博覧強記の学僧信暁僧都(安永二(一七七三年?~安政五(一八五八)年:「御勧章」や仏光版「教行信証」の開版もした)の没年板行の「山海里(さんかいり)」(全三十六巻)と、本書とを合わせて翻刻し、「通俗仏教百科全書」(全三巻)と改題して刊行しており(開導書院・明治二三(一八九〇)年)、小泉八雲の旧蔵書にそれがあって、幾つかの作品の原拠となっている。]
と言うて居る。
又信者は悉くこの世の香(かう)の匂によつて想ひ出さなければならぬ筈の彼(あ)の香の極樂についても語つて居る。
第三十二の妙香合成の願に、『皆以無量雜寶百千種香而共合成嚴飾奇妙超諸人天其香普薰十方世界■〔→菩薩〕聞者皆修佛行矣』と。此願により上代上根上智の人は異香を嗅ぐ人あり我等は下根下智の故に異香を嗅ぐことかなはず然れども本尊の前の香のにほひを嗅ぎ奉る時極樂の異香よと心得て佛恩の稱名相續すべきものなり。
[やぶちゃん注:「■」は底本では奇妙な字が挟まっていて、判読出来ない。しかしこれは殆んど同じものが、「仏説無量寿経」に出、そこでは「菩薩」となっていることから、以上のような特殊な仕儀を施した。本引用書を原拠の一部としている「通俗仏教百科全書」の「第三巻」の「第九十二 香を燒(た)く事」で確認してみたところ(ここは「百通切紙」の原拠パート)、訓読された形で「菩薩」となっていることが、判った。以下に電子化しておく(句読点や記号を挿入し、段落を成形した。読みは一部に留めた。踊り字「〱」は正字化した)。
*
第九十二 ○香を燒(た)く事
一、問ふ、「佛前に於て香を燒く文證(もんしよう)ありや。」
答ふ、「『法事讃』の下(げ)十五紙(し)に願(ねがはく)は我(わが)身淨(きよ)きこと香爐の如く、願くは我心知惠の火の如くにして、念々に戒定香(かいじやうかう)を梵燒(ぼんしよう)して十法三世(じつぱうさんぜ)の佛(ぶつ)を供養し奉ると。又、經には散華燒香と說(とけ)り。」
問ふ、「香を燒く心地、如何(いかん)。」
答ふ、「九十(くじう)箇條に香を燒くとは、香のある間(あひだ)は火のもゆれば、烟が立つなり。此(この)地・水・火・風の借物(かりもの)の口より息の出(いづ)るは彼(かの)煙の如し。消果(きえはて)て冷(ひへ)た灰となるは、我等、野邊の薪(たきゞ)となり果(はて)て、むなしく灰となるに譬(たとへ)て見よ、とのことなりと。私(わたくし)に云く、『第三十二の妙香合成(がうじよう)の願(ぐわん)に、『皆無量雜寶百千種香(かいむりやうざつぽうひやくせんしゆ)を以(も)て共に合成(がいじよう)せり。嚴飾(ごんじき)奇妙にして、諸(もろもろ)の人天(にんてん)に超(こへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。其の香、普(あまね)く十方世界に薰(くん)ず。菩薩、聞く者、皆、佛行を修すと』。此願に依(よつ)て上代上根上智の人は、異香を齅(か)ぐ人あり。我等は末代下根下智の故に齅ぐこと能はず、と。然(しか)れども、本尊の前の香のにほひを齅ぎ奉るとき、極樂の異香よと心得て佛恩の稱名相續(そうぞく[やぶちゃん注:ママ。])すべきこと肝要なり。
*]
四
然し日本に於ける香(かう)の使用は宗敎上の儀式に限られては居ない。それどころか、より高價な種類の香(かう)は主として社交的娛樂の爲めに製造せられる。香(かう)を炷く[やぶちゃん注:「たく」。]ことは十三世紀以來常に貴族の娛樂であつたのである。多分讀者は日本の茶の禮法とその佛敎に關する珍らしい來歷とに就いて耳にせられ次た事があらう。また日本の骨董を蒐集する外國人はいづれも、そんな禮法が或る時代に到達した贅澤について――以前それに使用した美しい器具の質によつて充分に證明される贅澤について――幾分か知つて居られると自分は想ふ。が茶の禮法よりももつと細々したもつと金のかかる――その上もつと興味のある――香(かう)の禮法があつたものである、いな今猶ほあるのである。音樂、縫取り、作歌、及び古風な女子敎育の他の部門のほかに、明治前の時代の若い淑女は三通りの殊に優雅な藝を習ふものと期待されて居た、――卽ち、花を活ける術(イケバナ)禮法に叶つた茶立ての術(チヤノユ或はチヤノヱ)註並びに香會の作法(カウクワイ・或はカウヱ)であつた。香會は足利將軍時代よ
註 女の子は今猶ほ花を活ける術と、幾分退屈ではあるが優美なチヤノユの作法とを敎はる。佛敎の僧侶は後者の敎師として久しく名を博して居る。門弟が或る程度に上達すると、免狀卽ち證明書を授かる。そんな儀式に使ふ茶は著しく佳い匂の粉末の茶で、その質最上のものは餘程の高價を呼ぶ。
り前に創案されたもので、德川治世の平和時代に大いに流行した。將軍職の沒落と共に流行(はや)らなくなつたが、近時や〻復活した。が然し、再び古の[やぶちゃん注:「いにしへの」。]意味で眞に流行るやるにはなりさうに無い、――一つはその會合は到底復活の出來ない、世に稀な、優雅な社交形式であつたからと、今一つはそれは金が掛かるからである。
カウクワイを自分は『インセンス・パアテイ』と譯して居るが、『パアテイ』といふ語を自分は『骨牌[やぶちゃん注:「かるた」。]のパアタテイ』『ホヰストのパアテイ』『將棊(チエス)のパアテイ』といふやうな複合詞の時に有つ[やぶちゃん注:「もつ」。]意味に用ひるのである。それはカウクワイはただ競伎[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]を――頗る珍らしい競伎を――する目的で行はれる集會だからである。香(かう)の競伎は幾種もある。然しその何れに於ても勝負は懸かつてただ匂だけで種々異つた香(かう)を想ひ出して其名を舉げることが出來るか出來ないかに在る。カウクワイのうちでジツチユウカウ(『十炷香』)といふ種類のが一番面白いと、一般に承認されて居る。それでそれをどう演ずるのか自分は讀者に語らう。
此の遊戲の日本の名、否寧ろ支那の名の『十』といふ數字は十種類を指すのでは無くて、ただ包が十通りあることを示して居るのである。といふのは十炷香は、最も興味があるほかに、香(かう)の競伎中最も簡單なもので、ただ四種の香(かう)で行ふからである。一種はその會に招かれた客が供給しなければならぬ、そして三種はその娛樂を客に與ふる人が提供するのである。この後(のち)の三種の香を――通例百切レ入(はい)つて居る紙包に納めてあるが――四組にわけて、一組一組その質を示すやうに番號を附けるか又は印(しるし)を附けるかした別々の紙に包む。
だから一番といふ部類の香(かう)に包が四つ出來、二番の香(かう)に四つ、三番の香(かう)に四つと――全體で十二包出來る。然し客が持參した――いつも『客香』と呼ぶ――香は分けない。『客』といふ意味の支那文學の略字を記した一つの包に入れて置く。だからして先づ總計十三包あるのである。が三つを、次のやうにして、手前の試みに、――香道の言葉でいへば――「試(ため)し」に使ふのである、
この競伎を六人の――演伎者の數には制限の規則は無いけれども――パアテイで行ふと假定しよう。その六人が一列に――座が狹ければ半圓に――座を取る。然し接近しては坐らぬ、それは直ぐに解る理由によつてである。すると主人が、若しくは香炷きの役を命ぜられた人が、一番と分類された香の一包を取り上げて、それを香爐で焚いて、その香爐を、『これが一番の香であります』と披露して上席註を占めて居る客に渡す。その客は香會に要
註 日本のザシキ卽ち客間で客の占める場處はその部屋の床(とこ)から數へる。最も敬はれて居る人の場處は床の直ぐ前で、これが第一席で、後にそれから、通例左へ、數へるのである。
せらる〻優雅な禮式に從つてその香を受け取り、匂を吸ひ、其器を自分の次の人に渡す、と其人はそれを同樣に受け取つて第三席の客へ渡す、とその人はそれを第四席の人に渡す。順にさうする。その香爐が席(せき)を一𢌞りすると、それを香(かう)を焚く人へ返す。二番の香(かう)の一包、三番の香の一包、それも同樣に取り上げ、披露をして試す。が『客香』には試しを行はぬ。競伎者は試した香(かう)の匂の差異(ちがひ)を覺えて居なければならぬ、そして客香の薰りの質(たち)が違つて居るといふだけのことで、適當な時機に客香を言ひ當てることを期待されて居るのである。
斯くして原(もと)の十三包が「試し」で十に減つてから、競伎者は銘々小さな――通例金蒔繪の――十枚一組の――その一組一紙別な裝飾がしてある――符(ふだ)を頁ふ。その符(ふだ)は裏だけに裝飾がしてあるので、その裝飾は大抵いつも何かの花模樣である。例へぱ或る一紙は金で菊の飾がしてあり、今一組は燕子花の叢、今一つは梅の枝、といつた具合である。然しその符(ふだ)の表には番號又は印(しるし)が附いて居て、一組のうちには、『一』といふ番號の符が三枚、 『二』といふ番號の符が三枚、『三』といふ番號のが三枚、そして『客』といふ意味の文字のあるのが一枚ある。この組になつた符を配つてから、『符箱』と拐する箱を第一席の競技者の前に置く。これて本當の競伎の準備が出來たのである。
香炷者(かうたき)は小さな衝立の役へ退り[やぶちゃん注:「しざり」あるは「さがり」。]、香(かう)の平たい包を骨牌を切るやうに切つて、一番上に出た包を取り、その中に入つて居る香(かう)を香爐に入れ、それから座へ歸つて、その香爐を𢌞すのである。固よりの事、今度はどの種類の香を使つたかといふことは披露はせぬ。香露が手から手へと渡る時、競伎者は銘々香(かう)を吸つて、その嗅いだ香(かう)の印又は番號を想ふ、印又は番號の附いて居る符(ふだ)を一枚符箱に入れる。例へば、若しその香(かう)を『客香』だと思へぱ、「客」といふ意味の字が害いてある自分の符を一枚箱の中へ入れ、二番の薰を吸うたと信ずれば、『二』と番號のある符を二枚その箱に入れるのである。一巡すむと、符箱と香爐と兩方香炷者へ戾す。香住者はその六枚の符を箱から取り出して、皆が推量した香が入つて居た紙にそれを包む。その符が――競伎者は銘々自分が有つて居る組符の上に描いてある特別な模樣を覺えて居ることだから――全體の記錄にもなれば個人の記錄にもなるのである。
殘りの九包の香(かう)も同樣に、上を下、下を上へと包を切つて上に出た偶然の順序に從つて、焚いて判斷をする。香(かう)を皆使つてしまふと、符をその包から取り出して、公然と紙に書き記し、當目の勝利者を披露する。自分はそん々記錄の飜譯を此處へ出す。此の競伎の混雜(ごたごた)總てを、殆ど一目で、、說明する用を爲すであらう。
此の記錄に握ると、「若松」と呼ぶ模樣の裝飾のある符を用ひた競技者は二つしか誤をしなかつたが、『白百合』の組を手にして居た人は正しい推量は一度したきりであつた。が十度續けて正確な判斷をすればそれは全く手柄である。嗅覺神經は競伎の終はらぬずつと前に幾らか麻痺しがちである。だから香會の途中、間を置いて時々、純粹の酢で口を漱ぐのが習俗である。斯くすると感受性が稍〻恢復する。
[やぶちゃん注:以下、底本では「香會記」の図表が載る。冒頭に述べた通り、画像で示す。強い補正をかけてあるが、原本に近いとは思う。]
前記記錄の日本の原文には競伎者の姓名、その娛樂の年月日、それからその會を行うた場所の名が添へてあつた。或る家ではそんな記錄悉くを、殊にその爲めに造つた一册の書に、書き込む習慣になつて居て、香會競技者に、過去の如何なる競技の歷史に屬する如何なる興味ある事實にも、早速な參照が出來る索引を附けて居るのである。
讀者は使用された四種の香(かう)が甚だ可愛らしい名で呼ばれて居たことに、氣が附いたであらう。例へば、第一に記載されて居る香(かう)は、薄くらがりに對する詩人が使ふ名――『ヤゾガレ』(文字通りに言へば『誰れが其處に居るのか』又は『誰れか』と[やぶちゃん注:誰何すること。]いふ意味)呼ばれて居る。此語は、香(かう)と關係して、黃昏に待つて居る戀人に、眼の前に麗はしい人が來て居る事を想はせる、化粧用香料をにほはせる語である。恐らくは讀者はかういふ香(かう)の調製について稍〻好奇の念を覺えらる〻であらう。自分は二種に對して日本の處方を與へることが出來る。然し揭げてある材料の全部は西洋でのこれこれの品と突き止めることが出來なかつた。
[やぶちゃん注:「此語は、香(かう)と關係して、黃昏に待つて居る戀人に、眼の前に麗はしい人が來て居る事を想はせる、化粧用香料をにほはせる語である。」原文“word which in this relation hints of the toilet-perfume that reveals some charming presence to the lover waiting in the dusk.”。平井呈一氏は恒文社版(一九七五年刊)「香」では、『このことばは、この香に関連して、夕暮の薄暗がりに待っている情人のところへ、見目善き人がきていることを表わす、空炷(そらだ)きのにおいを暗示しているのである。』と訳しておられ、遙かに文学的香気に溢れた訳となっている。
以下、「山路の露」(やまぢのつゆ)及び「梅花」(ばいくわ)という名の香のレシピが載る。冒頭注で述べた通り、下方の大きな「}」などがあるので、画像で示した。後者は改ページとなっているため、画像が分離しているが、合成した。強い補正をかけてあるが、原本に近いとは思う。なお、「山路の露」これは「香合わせ」の「源氏香」に掛けた名である。平安末から鎌倉初期に書かれたとされる「源氏物語」の続編の一つに「山路の露」があるからである。作者は「源氏釈」の著者として知られる世尊寺伊行(これゆき)とも、その娘の建礼門院右京大夫ともされる。但し、薫と浮舟の後日談乍ら、「夢の浮橋」の最後から事態は全く進展しないままに終わり、文章も拙劣で本家に比すべきもないものである。]
[やぶちゃん注:分量の一「匁」(もんめ)は一貫の千分の一で三・七五グラム。一「オンス」(ounce)は約二十八・三五グラム。一「分」(ぶ)は〇・三七五グラム。一「朱」(銖)は一・六グラム。ここでは下位単位の「分」が上に配されてある。
「ヂンカウ(沈香)」狭義には香木として有名な沈香類(例えば、アオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha など、複数種ある)。別名「伽羅(きゃら)」。
「チヤウジ(丁子)」バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum。所謂、「クローブ」(Clove) のことである。
「クンロク(薰陸)」「陸(ろく)」は呉音。別に「くんりく」と読んでも構わない。中国での「薫陸」はインド・ペルシャなどで産する一種の樹脂(本邦では「乳香」と同義として起原植物をムクロジ(無患子)目カンラン(橄欖)科ボスウェリア属 Boswellia carteriiとするものの、中国では乳香とは別起原で、ウルシ科Anacardiaceae の「薫陸香」(クンロクコウ)という植物だとするらしい。しかし、「クウロクコウ」という植物はいくら調べても実在せず、どうもこれは、カンラン科 Burseraceae で「偽乳香」の原料とするインドニュウコウジュ(インド乳香樹)Boswellia serrata や、ウルシ科で「洋乳香」の原料とするカイノキ属マスティクス(マステック)Pistacia lentiscus(属名で判る通り、ピスタチオの仲間)などではないかと推測されているようである)それから、香を製する。但し、本邦産のものは「和の薫陸」と称し、岩手県や福島県で産する樹脂の化石。琥珀に似ているが、コハク酸は含まない。やはり、粉末にして香料にする。
「ハツカウ(學名アルテミシア・シユミヂアナ)」原文“Hakkō (artemisia Schmidtiana)”(学名の属名の頭の小文字はママ)。キク目キク科キク亜科ヨモギ属アサギリソウ(朝霧草)Artemisia schmidtiana。「はっこう」の漢字表記は不詳だが、ヨモギ属であるから、「こう」は「蒿」と考えられる。
「ジヤカウ(麝香)」鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus のジャコウジカ類の♂の下腹部のある大きな麝香腺から発情期に約三十グラムの麝香が採取される香料。ジャコウジカの博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。
「カフカウ(?)」不詳。
「ビヤクグン(白檀)」ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album。ウィキの「ビャクダン」を参照されたい。
「カンシヨウ(甘松)」キク亜綱マツムシソウ目オミナエシ科 Nardostachys 属カンショウコウ(甘松香)Nardostachys grandiflora。ヒマラヤ地方原産。茎は高さ四~八センチメートル。葉は楕円形で、根生葉と一~二対の茎葉がある。花は小形で多数頂生する。根茎を乾燥したものは芳香があり、薬用・香料としたが、現在では生薬としては殆んど使用されない。
「クワクカウ(藿香)」シソ目シソ科カワミドリ属カワミドリ Agastache rugosa。草体全体に特有の強い香りを有する。いつもお世話になっている「跡見群芳譜」の「かわみどり(川緑)」に漢名「藿香」とある。ウィキの「カワミドリ」も参照されたい。
「ヤウモツカウ(?)」平井呈一氏は現代仮名遣で『ヨウモッコウ』とされるが、漢字表記は添えていない。不詳。ただの「モッコウ」(木香)ならばキク目キク科トウヒレン属 Saussureaの Saussurea costus またはSaussurea lappa の孰れかを指す。インド北部原産の多年生草本で、根を「木香(モッコウ)」と称した生薬。芳香性健胃作用がある。
「リユウナウ(龍腦)」「龍腦」アオイ目フタバガキ科Dryobalanops 属リュウノウジュ Dryobalanops aromaticaの樹幹の空隙から析出される強い芳香を持ったボルネオール(borneol)。ボルネオショウノウとも呼ばれる二環式モノテルペン。ウィキの「ボルネオール」によれば、『歴史的には紀元前後にインド人が』、六~七『世紀には中国人がマレー、スマトラとの交易で、天然カンフォルの取引を行っていたという。竜脳樹はスマトラ島北西部のバルス(ファンスル)とマレー半島南東のチューマ島に産した。香気は樟脳に勝り価格も高く、樟脳は竜脳の代用品的な地位だったという。その後イスラム商人も加わって、大航海時代前から香料貿易の重要な商品であった。アラビア人は香りのほか冷気を楽しみ、葡萄・桑の実・ザクロなどの果物に混ぜ、水で冷やして食したようである』とある。]
香會に使用する香は、その催の式に從つて、その價、小切れ――普通直徑一吋の四分ノ一[やぶちゃん注:「吋」は「インチ」。一インチは二・五四センチメートルであるから、六十三ミリメートル。]より大ならざる小切れ――百個の包每に、二弗[やぶちゃん注:「ドル」。]半よりして三十弗に至る。時には一包三十弗以上にも値する香を用ひる。それにはその匂が『蘭の花に麝香の交じつた』のに喩へられて居るランジヤタイが入つて居る。然しランジヤタイよりも貴重な――賣られはしない――香(かう)が、その調合ででは無くてその來歷で尊い香(かう)が、ある。それは幾世紀の昔佛敎の傳道者が支那或は印度から招來して、貴顯若しくは高位の方に獻上した香(かう)である。日本の古寺にはそんな舶來の香(かう)をその寳物のうちに有つて居るのが數多くある。そして極稀に此價値を超絕して居る材料の少しを――恰も歐洲で、頗る異常な場合に、幾百年の年數を經た葡萄酒を取り出して宴會の光榮を添へるやうに――香會に寄附するのである。
[やぶちゃん注:「ランジヤタイ」余りに有名なもので前にも出て無視したのだが、ここでウィキの「蘭奢待」を引いておく。「蘭麝待」とも表記する。『東大寺正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香と謳われる』。『正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に』「東」・「大」・「寺」の『名を隠した雅名である』。『その香は「古めきしずか」と言われる。紅沈香と並び、権力者にとって非常に重宝された』。現在の重さは十一・六キログラムで『錐形の香の原木』である。『成分からは伽羅』(前注「ヂンカウ(沈香)」参照)『に分類される』。『樹脂化しておらず』、『香としての質に劣る中心部は鑿』『で削られ』、『中空になっている(自然に朽ちた洞ではない)。この種の加工は』九〇〇年頃に『始まったので、それ以降の時代のものと推測されている』。『東南アジアで産出される沈香と呼ばれる高級香木。日本には聖武天皇の代』(七二四年~七四九年)に『中国から渡来したと伝わるが、実際の渡来は』十『世紀以降とする説が有力である。一説には』「日本書紀」や『聖徳太子伝暦の推古天皇』三(五九五)年とする『説もある』。『正倉院の中倉薬物棚に納められており、これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取っている』。『徳川家康も、切り取ったという説があったが』、慶長七(一六〇二)年六月十日、『東大寺に奉行の本多正純と大久保長安を派遣して正倉院宝庫の調査を実施し』、『蘭奢待の現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった』(「当代記」の同日の条に記載がある)。同八年二月二十五日には宝庫を開封しての『修理が行われている』(「続々群書類従」所収「慶長十九年薬師院実祐記」に拠る)』。二〇〇六年に『大阪大学の米田該典(よねだかいすけ。准教授、薬史学)の調査により、合わせて』三十八『か所の切り取り跡があることが判明している。切り口の濃淡から、切り取られた時代にかなりの幅があり、同じ場所から切り取られることもあるため、これまで』五十『回以上は切り取られたと推定され、前記の権力者以外にも採取された現地の人や日本への移送時に手にした人たち、管理していた東大寺の関係者などによって切り取られたものと推測される』とある。]
香會は、茶の湯の禮の如くに、頗る複雜なそして古風な作法を守ることを强ひる。が此の題目に興味を感ずる讀者は多くあるまいから、準備と警戒とに關する規則の一二を舉ぐるだけに止めよう。先づ第一に香會に招待された人はその會に出來得る限り臭ひ無しで列席するやうに要求されて居る。例へば、淑女は髮油を用ひてはならず、匂のある簞笥に收(しま)つてあつた衣物はどんな衣物も着てはならぬ。その土また、客はその競伎の準備として時間長く浴みをしなければならず、その集會に行く前には極めてこ輕いそして臭の一番無い食物を食べなければならぬ。競伎中部屋を去る事、或は戶窓を開く事、或は要も無い談話に耽る事は禁じられて居る。最後に自分は述べてよからうが、香を判斷する間に、競技者は呼吸を三息(いき)より少からず五息(いき)より多からずするものと期待されて居るのである。
[やぶちゃん注:「二弗半よりして三十弗に至る。時には一包三十弗以上」本書は明治三二(一八九九)年刊であるが、二年前の明治三〇(一八九七)年の為替レートでは一ドルは二円である。明治三三(一九〇〇)年の白米十キログラムの東京での小売価格は一・一円で、大卒初任給は二十三円であった。当時の一円を現在の五千円から一万円相当と低く見ても、安くて二万五千円で、高級品は六十万円超となる。]
今の此の經濟的時代に在つては、香會は、大名の時代に、王侯の如き寺院々主の時代に、また武人貴族の時代に執つたのとは當然のこと遙に質素な形式を執つて居る。競伎に必要な器具の完全な一揃が今五十弗位で求められる。然しその材料は粗末極つたものである。古風な器具の揃は途方も無い高價なものであつた。幾千弗に價するのがあつた。香炷者の卓――硯筥[やぶちゃん注:「すずりばこ」。]、紙箱、符箱等――種々な臺――此等は極めて高價な金蒔繪のものであつた。――香餌(かうはさみ)その他の器具は巧妙な細工の、金のものであつた。――そして香爐は――貴重な金屬のものであらうと、唐金であらうと、或は陶器であらうと――いつも、知名な美術家の意匠に成つた骨董品であつた。
五
佛敎の儀式での香(かう)の本來の意義は主として表象的であつたが、佛敎よりも古い種々な信仰が――恐らくは此の人種獨得のものもあらうし、多分支那若しくは朝鮮から出たものもあらうが、――夙に日本に於ける香(かう)の民衆的使用に影響を與へ始めたと想像すべき立派な理由がある。その匂が屍體と去つた許りの魂との惡鬼除けになると考へて、今もなお香(かう)を屍體の前で焚く。そして百姓は鬼瓦とか病氣を司どる惡魔だとかを追ひ拂ふ爲めに香(かう)を焚く事が能くある。だが前には靈魂を追ひ出す爲めにも用ひたがそれを呼び出す爲めにも用ひたものである。それを種々な氣味のわるい儀式に用ひたことがほの見られる文句が、古い戲曲や稗史のうちに見出される。支那から輸入された一種特別の或る香(かう)は、人間の魂を呼び出す力を有つて居る、と言はれて居る。次記のやうな古昔(むかし)の戀歌に引き合ひに出され居る魔力のある香(かう)がそれであつた。
亡き魂(たま)を返すためしもありときく
待つ夜に炷かんたきものもがな
[やぶちゃん注:短歌嫌いの私には本首の出典は不詳。識者の御教授を乞う。]
『山海經』といふ支那の書物にこの香についての興味ある記述が載つて居る。ホワン・フワン・ヒヤン(日本の發音でハンゴンカウ)卽ち『反魂香』で、東海のほとりの、ツオ・チヤウ卽ち『祖州』で製造されたものであつた。死んだ人の――或る典據に從へば、生きて居る人のでも――その魂を呼び出すには、その香(かう)を少し炷いて、その人の靈のことをじつと思ひつめて、或る定つた言葉を唱へさへすれば宜いのであつた。すると、その香(かう)の煙の中に自分が記憶して居るその顏と姿とが現はれるといふのである。
[やぶちゃん注:「『山海經』といふ支那の書物にこの香についての興味ある記述が載つて居る」不審。載っていない。ウィキの「反魂香」によれば、『焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上の香』。『もとは中国の故事にあるもので』、中唐の白居易の詩「李夫人」に『よれば、前漢の武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという』(小泉八雲は本篇の終わりでそれを語っている)。『日本では江戸時代の』「好色敗毒散」「雨月物語」『などの読本や、妖怪画集の』「今昔百鬼拾遺」、『人形浄瑠璃・歌舞伎の』「傾城反魂香」などの『題材となっている』。「好色敗毒散」には、『ある男が愛する遊女に死なれ、幇間の男に勧められて反魂香で遊女の姿を見るという逸話があり、この香は平安時代の陰陽師・安倍晴明から伝わるものという設定になっている』。『また、これは『落語の「反魂香」「たちぎれ線香」などに転じ』ていった。『なお』、『明朝の万暦年間に書かれた体系的本草書の決定版』「本草綱目」の「木之一」の「返魂香」には、次のように記載されている(私が別個に正字で引き、句読点を打った)。
返魂香【「海藥」。】
集解【珣曰、按「漢書」云、『武帝時、西國進返魂香。』。「内傳」云、『西域國屬州有返魂樹、狀如楓、柏花、葉香聞百里。采其實於釡中水煑取汁、鍊之如漆、乃香成也。其名有六、曰「返魂」・「驚精」・「囘生」・「振靈」・「馬精」・「却死」。凡有疫死者、燒豆許薫之再活、故曰返魂。』。時珍曰、『張華「博物志」云、『武帝時、西域月氏國、度弱水貢此香三枚、大如燕卵、黒如桑椹。值長安大疫、西使請燒一枚辟之、官中病者聞之卽起、香聞百里、數日不歇。疫死未三日者、薫之皆活、乃返生神藥也。此說雖渉詭怪、然理外之事、容或有之、未可便指爲謬也。】
按の「内傳」では、『西海聚窟州にある返魂樹という木の香で楓または柏に似た花と葉を持ち、香を百里先に聞き、その根を煮てその汁を練って作ったものを返魂といい、それを豆粒ほどを焚いただけで、病に果てた死者生返らすことができると記述して』おり、また、『武帝の時』、『長安で疫病が大流行していたおり、西域月氏国から献上された香には病人に嗅がせるだけでたちどころにその生気を甦えらせるという効能で知られていたが、上質なものになると』、『死に果てた者でも』三『日の内であれば』、『必ず』、『この香で蘇らせることができた』と記述されている。但し、これらについて、「本草綱目」の作者李時珍は上記の通り、奇怪にして道理を外れていて誤謬としか思われないと『批判している』。しかし、小泉八雲が何をどう間違えて「山海経」や「東海」「祖州」なんどという言葉をうち出してしまったか、よく分らぬ。なお、「反魂香」は「ホワン・フワン・ヒヤン」“Fwan-hwan-hiang”とあるが、現行の拼音(ピンイン)では「Fáng hún xiāng」でカタカナ音写するなら「ファン・フゥェン・シィァン」、「祖州」は「ツオ・チヤウ」“Tso-Chau”とするが、「zǔ zhōu」で「ヅゥー・ヂォゥ」である。]
昔の幾多の日本並びに支那の書物に、この香(かう)に就いての有名な話が――漢時代の支那の皇帝武に就いての話が記載されて居る。その皇帝が美しい寵姬の李夫人を亡はれた時、氣が狂はれはしまいかと心配された程に痛く悲み歎かれた。が李夫人を慕ひ思はる〻心をそらさうとのあらゆる努力も甲斐が無かつた。或る日皇帝は死なれた夫人を呼びかへさん爲め、反魂香を求めるやう命ぜられた。顧問の人達は、それは徒に悲歎を增すばかりだからと述べて、その意を飜されんことを乞うた。がその助言には一顧も與へず、躬ら[やぶちゃん注:「みづから」。]その式を行ひ――香(かう)を炷いて、李夫人の靈に心をとめて居られた。軈て[やぶちゃん注:「やがて」。]、香(かう)から立ち昇る濃い靑い煙の中に、女の姿がその輪郭を現はした。形が判然として來て、生きて居左折の色を呈し、徐々に明かるくなつた。そして皇帝の眼にその愛人の姿形が認められた。初にはその幻は幽かであつたが、直ぐに生きて居る人のやうに分明になり、刻一刻いよいよ麗しくなるやうに思はれた。皇帝はその幻影に向つてさ〻やかれた、が何の答も得られなかつた。聲高に呼ばれても、その姿は何の合圖をしなかつた。そこで心を制しかねて、その香爐に近寄られた。が、煙に觸れられた刹那に、その幻像は震へて消え失せた。
[やぶちゃん注:「李夫人」前漢の第七代皇帝で漢の最盛期を創った武帝(紀元前一五六年~紀元前八七年)の寵姫。皇后を追贈された。傾城・傾国の歌で知られる(事実、その縁で彼女は入内している)伶人李延年と武将李広利の妹である。皇子を一人生んだ後、病床に就き、若くして亡くなった。病気に罹ってからは見舞いに訪れた武帝に対し、窶(やつ)れた顔を見せるのは失礼であると、顔を見せなかったという。さればこそ、武帝の中で彼女の姿は美しく保存され続けたのである。]
日本の美術家は今なほ時折『ハンゴンカウ』の傳說に感興を覺える。つい去年、東京で、新しい掛物の展覽會で、年若い人妻が床(とこ)前で脆いて居て、その魔力ある香(かう)の煙が死んだ夫の影となつて其處へ現はれて居る繪を自分は見た註。
註 千八百九十八年の珍らしい東京發明品のうちに、『ハンゴンサウ』卽ち『ハンゴンの草』といふ名の新種類の紙卷煙草があつた、――これはその煙が反魂香のやうな働をするといふことを思はせる名である。實際また、その煙草の煙の化學作用で、一本々々の吸ひ口に射し込む紙の上に、舞姬の像が判然と現はれ出るのであつた。
[やぶちゃん注:本書の刊行は明治三二(一八九九)年九月のことであるから、この大谷氏に注はなかなかに興味深い事実である。或いは、そのパッケージの元となった原画を小泉八雲は見たのかも知れぬ。但し、江戸中期には煙草のことを別名で「反魂草」と呼んでいた。ただ、ここで小泉八雲が説明している絵を私は何かの本の挿絵で見た気がするのである。思い出したら、追記する。
なお、以下に原本に挿入されてある(底本にはない)絵師不明の「反佷魂」の素敵な絵を原本PDFからトリミングし、魂の女には失礼乍ら、明度を上げて見易く補正して掲げる。左下方の絵図外の陰影は本を押さえている図書館員の指の影である。]
死んだ者の姿を眼に見えるやうにする力は、ただ一種の香(かう)だけが有つて[やぶちゃん注:「もつて」。]居るとされては居るが、どんな種類の香(かう)でもそれを焚けば、眼に見えぬ魂を無數に呼び出すものと想はれて居る。それはその煙を食うひに來るのである。『ジキカクキ』卽ち『食香鬼』と呼ばれて居て、日本の佛敎の認めて居る餓鬼三十六界中の第十四界に屬するものである。それは古昔、利欲の念に驅られて、惡るい香(かう)を作るか賣るかした人間の亡靈で、因果の報で今は餓に苦しむ魂となり、その食物をただ香(かう)の煙に求めざるを得ぬ境涯に居るものである。
[やぶちゃん注:ウィキの「餓鬼」によれば、「正法念処経」に書かれた三十六種の餓鬼の中に「食香烟(じきかえん)餓鬼」がおり、『質の悪い香を販売した者がなる。供えられた香の香りだけを食べられる』とある。]
« 小泉八雲 作品集「霊の日本」始動 / 斷片 (田部隆次訳) | トップページ | 小泉八雲 占の話 (田部隆次訳) »