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2019/11/22

小泉八雲 猫を畫いた子供 (稻垣巖譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ The boy who drew cats 。但し、英文ウィキの「The boy who drew cats」によれば、小泉八雲の原タイトルは“ The Artist of Cats ”(「猫の芸術家」であったとある)は日本で長谷川武次郞によって刊行された『ちりめん本』の欧文和装の日本の御伽話の叢書“ Japanese fairy tale series の中の一篇である。同シリーズの第一期(英語で言うなら「First (Original) Series」)の№23(明治三一(一八九八)年八月一日刊)で、編集・発行者は長谷川武次郞。小泉八雲は当該シリーズに五作品が寄せている。以下、同シリーズや長谷川武次郞氏及び訳者稻垣巖氏については『小泉八雲 化け蜘蛛 (稻垣巖譯)/「日本お伽噺」所収の小泉八雲英訳作品 始動』の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は、サイト「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが画像と活字化した本文を併置していて、接続も容易で、使い勝手もよい。また、アメリカのアラモゴードの蒐集家George C. Baxley氏のサイト内のこちら(長谷川武次郎の「ちりめん本」の強力な書誌を附した現物リスト)の、The Boy Who Drew Cats Japanese Fairy Tale Rendered into English by Lafcadio Hearnも必見である。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月2日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の標題はここ。本作はここから。 但し、同底本の「あとがき」の田部隆次のそれには、『『日本お伽噺』一九〇二年東京、長谷川の出版にかかる繪入りの日本お伽噺叢書の第二十二册から第二十五册までになつて居る物である』とあって、初版のクレジットと異なるのが、不審である。

 

 なお、「京都外国語大学創立60周年記念稀覯書展示会 文明開化期のちりめん本と浮世絵」の本篇についての解説によれば、『「絵猫と鼠」として東北から中国・四国地方に知られる昔話を、ハーンが生き生きとした妖怪描写で訳述したものである。昔話では小僧がその後、その寺の住職になったとされるが、ハーンは小僧は高名な絵描きになったとしている。屏風』(猫を描いている小僧の絵の手前左にある大輪の花を描いた衝立屏風の右下であろう)『の絵に』「華邨(かそん)」『と書かれているため、絵師は鈴木華邨だとわかる』とある。「まんが日本昔ばなし~データベース~」に青森県採取として「絵ねことねずみ」が載る。これと類似した話は「猫寺」伝説として各地にあるらしい。鈴木華邨(安政七(一八六〇)年~大正八(一九一九)年)は日本画家。江戸生まれで名は惣太郎、別号に忍青。初め、円山派を中島享斎に師事し、菊池容斎の画風を学んだ。内国勧業博覧会で花紋賞牌を受賞するなど、各種博覧会・共進会で受賞を重ね、「日本画会」設立にも参加した。花鳥山水画で一家を成し、図案や挿絵にも画才を発揮した、と思文閣「美術人名辞典」にある。]

 

  猫を畫いた子供

 

 昔々、日本の小さい田舍村に、一人の貧乏な百姓と其の女房が住んでゐました、夫婦共極く良い人達でした。二人の間には子供が大勢あつて、それを皆育てて行くのは隨分骨の折れる事でした。年上の息子は中々丈夫な子で僅か十四の時立派にお父さんの手助けが出來ました、それから小さい女の子達はやつと步けるやうになるが早いかもうお母さんに手傳する事を覺えたのです。

 所が一番の年下の子供は、小さい男の子でしたが、どうも力仕事が適ひさうには思はれませんでした。大層賢い子で兄さん達や姉さん達誰よりも賢かつたのですが、至つて身體が弱くて小さかつたので、大して大きな男には迚も[やぶちゃん注:「とても」。]なれまいと言ふ評判でした。そこで兩親は、百姓になるより坊主になつた方があの子の爲めに良いだらうと考へたのです。或る日兩親は其の子を村の寺に連れて行つて、其處に住んでゐる親切な年取つた和尙に、もしお願ひが出來たら此の小伜[やぶちゃん注:「こせがれ」。]をお弟子として置いて下さるやうに、そして坊さんの心得をすつかり敎へてやつて下さるやうに、と賴みました。

 年寄は此の小童にやさしく言葉を掛けて、それから二つ三つむづかしい事を訊き質しました。其の答へが中々巧者だつたものですから和尙は小さい小僧を弟子として寺に引取り、坊さんになるやうに敎へ込んでやるといふ事を承知したのです。

 子供は老和尙の言ふ事は直ぐに覺えましたし、大槪の事はよく言付を守りました。けれども一つ惡い事がありました。勉强の時間中に好んで猫の畫を畫くのです、それに猫なぞ決して畫いてはならない所にまで好んで猫を畫くのです。

 どんな時であらうと自分獨りぎりになつたが最後、猫を畫きます。お經の本の緣[やぶちゃん注:「ふち」。]にも畫くし、寺の屛風衝立[やぶちゃん注:「ついたて」。]殘らずに畫く、さては壁といはず柱といはず幾つも幾つも猫を畫くのです。和尙は何遍となく良くない事だと言ひ聞かせましたが、どうしても畫くのを止めません。彼が猫を畫くのは本當のところ畫かずにはゐられないからでした。彼は『畫工(ゑかき)の天才』と言はれるものを持つてゐたので、全く其の爲めに寺の小坊主にはあまり向かなかつたのです、――良い小坊主といふものはお經本を習はなければならないものですから。

 或る日彼が唐紙の上にまことに上手な畫を畫いて仕舞つた後で、老和尙は嚴しく言ひ渡しました。『小僧よ、お前は直ぐに此の寺を出て行かねばならぬぞ。お前は決して良い和尙になるまいが、大方立派な畫工にはなる事ぢやらう。さて俺(わし)は最後に一言忠告をして進ぜる、堅く心に留めて忘るまいぞ。「夜は廣き所を避けよ、――狹きに留(とど)まれ」』

 其の子供は和尙が『廣き所を避けよ、――狹きに留まれ』と言つたのはどういう意味だか解りませんでした。彼は自分の着物を入れた小さい包を、出て行く爲めに括り[やぶちゃん注:「くくり」。]ながら、考へて考へ拔いたのですが、さう言つた言葉に合點が行きませんでした、けれども和尙にもうかれこれ口を利くのは恐いので、只左樣ならとだけ言つたのです。

 子供はしみじみ悲しく思ひながら寺を後にしましたが、さて自分はどうしたらいいのかと迷ひ始めました。もし其の儘家に歸れば察する所お父さんは和尙さんの言ふ事を聞かなかつたからと言つて自分を叱るにきまつてゐる、だから家に行くのは恐いと思つたのです。其の時不圖思ひ出したのは、十二哩[やぶちゃん注:「マイル」。十九・三一二キロメートル。]離れた隣村に、大層大きな寺があるといふ事でした。其の寺には大勢坊さんがゐると前から聞いてゐたのです、そこで其の坊さん達の所へ行つてお弟子入りを賴まうと彼は心を決めたのでした。

 さて其の大きな寺はもう閉め切つてあつたのですが、子供は其の事を知らなかつたのです。寺が閉された譯は、化物が坊さん達やおどかして追ひ出して仕舞ひ、自分が其處に住み込んで仕舞つたからです。幾人か氣の强い侍達が其後化物を退治に夜其の寺に出かけた事もありました、けれども其の人達の生きた姿は二度と見られませんでした。さういふ事を誰も其の子供に話した者は無かつたのです。――そこで彼は村を指して遠い路を步いて行きました、坊さん達にやさしく扱はれればいいがと思ひながら。

 村に着いた頃はもう暗くなつて、人は皆寢てゐましたが、目貫[やぶちゃん注:「めぬき」。「目抜き通り」の略異形。]の通りを外れた場末の丘にある大きな寺が彼の眼に止りました、それに寺の中に一つ明りが點いて[やぶちゃん注:「ついて」。]ゐるのも見たのです。かういふ話をする人達の言ふ事ですが、化物はよく明りをとぼして、賴り少い旅人共が泊りに來るやうに誘(をび[やぶちゃん注:ママ。「おび」が正しい。])き寄せるのださうです。子供は直ぐに寺に行つて、戶を叩きました。中には何の音もしません。それから何遍もトントン叩きましたが、矢張り誰も出て來ないのです。しまひにそーつと戶を押して見ました、すると其處は締まつてはゐない事が解つたので彼は大喜びしました。そこで中に入つて行きました、見ると明りがとぼつてゐるのです、――でも坊さんは居りません。

 彼は坊さんが直ぐ今にもやつて來るだらうと思つて、坐つて待つてゐました。其の時氣を付けて見るとどこもかしこも寺の中は埃で薄黑くなつてゐて、而も蜘蛛網[やぶちゃん注:「くものす」。]が一杯懸つてゐました。そこで彼はかう考へました、坊さん達は部屋を綺麗にして置かうと思つて、きつと喜んで小坊主の一人は置くに違ひないと。何故坊さん達が何でもかでも埃だらけの儘にして置くのか彼には不思議に思へました。けれども、何より氣に入つたのは、猫を畫くのに手頃の白い大屛風が幾つかあつた事です。疲れてはゐたのですが、彼は早速硯箱を探して、一つ見つけ出し、墨を磨つて、猫を畫き始めました。

 彼は屛風の上にそれはそれは隨分澤山の猫を畫きました、畫いて仕舞ふと眠くて眠くてたまらなくなつて來ました、眠らうと思つて屛風の傍に橫になりかけた丁度其時です、不圖彼は『廣き所を避けよ、――狹きに留まれ』といふあの言葉を思ひ出しました。

 寺は大變廣かつたのです、彼は全く獨りぼつちです、それで今此の言葉を思ひ出した時――言葉の意味はよく解らなかつたけれど――始めて少し恐くなつて來たのです。そこで『狹い所』を探して眠らうといふ事に決めました。彼は滑戶の附いてゐる小さい部屋を見つけ、其處へ行つて、自分を閉め込んで仕舞つたのです。それから橫になつてグツスリ寢込みました。

[やぶちゃん注:「滑戶」ママ。原文“sliding door”。「すべりど」としか読めないが、所持する小学館「日本国語大辞典」にも、「言海」にも所収しない。しかし、まあ、板戸か襖であろうが、小泉八雲は襖(唐紙)は“sliding screen”と英訳することが多いように思う。また、板戸では狭くはあろうが、シチュエーションとして真っ暗ら過ぎるし、展開に強い閉塞感が出てしまう(小泉八雲が想起したのは、それなのかも知れぬが)。挿絵(十七枚目)では障子のある小部屋である(板戸の戸袋では、絵にし難いからかも知れぬが)。私もここは障子のある、ごく狭い部屋としたい。それなら最初に点いていた妖しい灯火も効果的にも理解出来るし、何より、次の段落の内容と齟齬がないからである。

 夜も大分更けた頃太變な凄じい音――鬪つたり叫んだりする音――がして彼の眼を覺ましました。其の音は隨分激しかつたので彼は小部屋の𨻶間から覗く事さへ恐がつたのです[やぶちゃん注:「こはがつたのです」と読んでおく。]。恐ろしさに息を殺したまま、ぢつと寢てゐました。

 寺に點いてゐた明りは消えました、けれども物凄い音は續いて、而も段々物凄くなつて、寺中が搖れたのです。長い事經つてからひつそりしました、けれども子供は未だ動くのが恐かつたのです。彼は朝日の光が小さい戶の𨻶間から射し込んで來るまで身動きしませんでした。

 それから彼は隱れてゐた所からそつと拔け出して、あたりを見𢌞しました。眞先に眼に付いたのは寺の床がどこもかしこも血で一杯になつてゐる事でした。次に彼の見たのは、其の眞中に死んで橫たはつてゐる、途方もなく大きな、恐ろしい鼠――牛よりも大きな、化け鼠だつたのです。

 然し何人(だれ)が、それとも何物がそれを退治する事が出來たのでせう。其處には人も居らねば他の動物もゐませんでした。不圖子供は眼を留めました、自分が前の晚に畫いた猫といふ猫は皆其の口が血で赤く濡れてゐるのです。さては自分の畫いた猫共が此の化物を殺したのだなと彼は其の時悟りました。又、あの智惠のある老和尙が何故自分に、『夜は廣き所を避けよ、――狹きに留まれ』と言つて聞かせたかといふ事も、其の時始めて解つたのです。

 其の後其の子供は大層名高い畫工(ゑかき)になりました。日本に來る旅人達は今でも彼の畫いた猫がいくつか見られます。

 

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