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2019/11/19

小泉八雲 美は記憶 (岡田哲藏譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ Beauty is Memory ”。「美は記憶である」)は一八九八(明治三一)年十二月に、ボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)とロンドンの「サンプソン ・ロウ社」(SAMPSON LOW)から出版された来日後の第五作品集「異國情趣と囘顧」(“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”)の第二パート“ RETROSPECTIVES ”の第二話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社「リトル・ブラウン社」及びクレジット(左ページ)及び献辞の入った(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月28日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作品集の中標題はここ。本作はここから。

 訳者岡田哲藏氏については『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲藏譯)/作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。

 傍点「﹅」は太字に、「○」は太字下線に代えた。一部の「?」の後に字空けを特異的に入れた。]

 

   美 は 記 憶

 

       

 あなたがはじめて彼女を見たとき、あなたの心は躍り、血管中に電氣が突然傳つた樣な刺戟を覺え、同時に一切の感覺は變化し、その後も久しく變つたま〻でしたらう。

 その突然の鼓動はあなたのうちにある死者の覺醒であつた、――そしてその身顫ひはその死者達の群集するので覺えたのであつた、――そして其感覺の變化は彼等の多數の願によつてのみ行はれたのであつた、――その理由の爲めにそれが一のなものとなつたと思はれた。彼等死者は、彼女にや〻似たる多くの若き人々を愛した事を覺えて居た。然し何處で、また何時といふ事はもう知らぬ。彼等――(この彼等は勿論あなたである)――はそのときより以來幾度か物忘れの川の水を飮んで居る。

 物忘れの川の異名は死の川である――但しそのことは古典辭書には典據が見えまいが。然しその川の水が疲れた魂に過去の事を忘れさすといふ希臘[やぶちゃん注:「ギリシヤ」。]の談は全く眞實であるとはいはれぬ。いかにも一掬[やぶちゃん注:「いちきく」。一掬(すく)い。]の水は記憶の或る形を麻痺し、又曇らす事もあらう――時日や名や其他細事の記憶を拭ひ消す事もあらう、――然し百萬掬の水を以てしても全く忘却させる事は出來ぬ。世界を破壞してもその樣な結果を生ぜぬ。不要のの外何物も全然忘却されぬ。要點は、最上限に於て、物忘れの川水を飮んで唯だ朧にされるのみである。

[やぶちゃん注:「その川の水が疲れた魂に過去の事を忘れさすといふ希臘の談」ギリシャ神話の冥界「ハデス」には複数の川があるが、その中の「レーテー」(英語:Lethe)がここで言うそれ。古代ギリシア語では「忘却」あるいは「隠匿」を意味し、古代ギリシア人の一部は、魂は転生の前に、この「レーテー」の川の水を飲まされるために、前世の記憶をなくすのだ、と信じていたという。]

 或る一人が日よりも美はしく思はる〻のは、幾億萬の生命を通じて集められ、我が內に混じて或る一の漠たる優美な姿となれる幾億萬の記憶が存する爲めであつた。迷想が彼女はこの複合に偶然似て居ると思はせた――この複合、それは我が數へがたき過去の生の愛に關りしすべての死せる女の記憶の影であつた。そして我々が了解し得なかつた時、――我々は愛するものが魔女であると思ひ、そしてその魔術が精靈の業であり得る事を夢にも想はなかつた時、――その時の我々の經驗のこの初の部分は、それは驚異の時代であつた。

 

       

 何に對する驚異? 美の力と神祕とに對して。(何となれば我々の內に於てのみなりと、又は一部は我々の內、一部は外に於てなりと、我々が見て、驚かされたのは美であつた)。然し愛されたるものは人間の女が實に愛らしくあり得るよりも、愛らしく見えた事を我々は覺えて居る、――さう見えたのは如何にして、また何故、それが興味ある問題である。

 

 我々は美を見る力をもつて生れる――それは全然では無いが幾分か、色を識別する力をもつて生れると似て居る。大槪の人間は美の或るものを辨ずる、または少くも美に近いものを辨ずる――但し能力の容積が異る人によつて異ることは、山の容積が沙粒のそれと異るより以上である。生れながらの盲人もあるが、通常の人は何かの美の理想を相續して居る。それは生き活きとしたのも、漠然としたのもあるが、何れの場合にも、それは種族が受けた無數の印象の集積、――卽ち出生以前の記念の無數の斷片が有機的記憶のうちに入り結晶して一の重複せる映像となれるものを代表する、そこにその有機的記憶はいまだ現像されぬ寫眞の乾板上の見えざる映像の如く、しばらく全然暗黑のうちに止まるのである。そしてそれは個人牽引の無數の人種記憶の複合であるが故に、此理想は必然に、卓越せる人の心に於ては、現存する何物より以上の或るもの――決して人類の現狀に於て實現されず、況んや超越されぬ或るものを代表する。

 そしてこの人間の可能より美はしき、此複合と愛の幻覺との關係は如何。若し想像し難きものの想像を語ることを容さるべくば、私はここに敢て一の理論を立てて見たい。靑年成熟の時に方つて[やぶちゃん注:「あたつて」。]、遺傳せる理想の姿の或る輪郭と略ぼ似たる、或る客觀的の美しきものが認めらるヽ時は、直に祖先以來の感情の波が久しく暗くされてあつた姿を濡ほし[やぶちゃん注:「うるほし」。]、之を明らかにし、之を輝かし、――そして感覺を迷はすのである。――何となれば生きた對象の感覺反射は一時的に主觀の幻影と混じ、――記憶の億兆より成る美はしき光明の精靈と混ずるのである。かくて戀人には平凡も忽ちにして不可能者となる、何となれば彼は實に超個人及び超人間のものが之に混ずるを見る故に。彼は何等の理解によりても、その幻覺を覺らせらる〻には[やぶちゃん注:「さまらせらるるには」。]、餘りに深くその超自然に迷はされて居る。彼の意志に勝つものは何等の生けるもの又は觸れ得べきものの魔術で無くて、火の如く迂曲し、逃げ𢌞はり、且つ明かるき魅力である、――それは考へられぬ程夥しき代々の死者によつて彼の爲めに備へられたる精靈的の罠である。

 

 謎の如何にしてに關して私が試みる理論はこれだけを限りとする。然し何故に就いては如何、――測られねぬ過去のうちより甦れる此精靈的の美によりて成れる情緖の理由は如何。美は一切の美的感情よりも古き超個人の歡喜と何の關係があるか。美の魅惑の進化的祕密は何であるか。

 一の答が與へられ得ると私は思ふ。然しそれは此眞理を十分に承諾せねばならぬ、曰く、美それ自らなるものは存せず

 我々の美學の諸系統の一切の謎と矛盾とは、美が絕對なる或るもの、先驗的實在、永遠の事實であるとする迷想の自然の結果である。我々が美と呼ぶ現象は一の事實の象徵であること、――それは平凡を超えた一の發展の目に見ゆる表現であること、――存在する平均のものより以上に進步せる具體的進化であること、それは確實である。これと似たる樣にて優雅(グレース)といふものも勢力の經濟の眞實なる表現である。然し進化的可能性には何の宇宙的限界もなき理[やぶちゃん注:「ことはり」。]なる故に、關係的にして且つ本來變遷的ならぬ優雅又は美の何等かの標準はあり得ぬ、また身體上の理想も――希臘の理想すらも――人間の進化または超人間進化の過程に於て實現の度を過ぎて俗化せざるべきものは無い。美の究竟は不可考、また不可能である、美學の如何なる辭も永久變遷の一階段てふ觀念、卽ち比較的進化に於ける一時的關係より以上を代表することは出來ぬ。美それ自らは客觀性と誤られたる唯だの感覺又は感覺の複合の名に過ぎぬ、――それは恰も音、光、色がかつて實在と思はれたるに同じである。

 然し心を牽くところのものは何か、――我々が美感と呼ぶ抑制しがたき感情の意味如何。

 光、色、または、香を感覺すると同じく、美の認識は事實の認識である。然しその事實は呼び起こされたる感情に對して、一秒間に五百萬億囘のエーテルの振動の實在が橙黃色の感覺に對して有するより以上の類似を持たぬ。それでも何れの場合にも事實は力の表現である。高等の進化を代表する美と呼ばる〻現象はまた生命に對し比較的に優等なる適合、卽ち存在の諸條件を充たすべき高等の能力を示す、そしてそれは魅惑を生ずる此の表現の無意識的知覺である。起こされたる願望は何等の單なる抽象の爲めで無くして、自然の目的への手段としての能力のより大なる完成の爲である。各人のうちに存する死者にとりては、美は彼等の最も必要とするもの、卽ちの現在を意味す。物忘れの川あるに關らず、彼等は、彼等が風采良き身體に住みし時は、生命が槪して彼等にとりて安易且つ幸福なりし事、及び虛弱または醜惡なる身體に籠りし時は、彼等の生命は賤劣又は困難なりし事を知つて居る。彼等は幾度も健全なる若き身體にまた住まんことを願ふ、――卽ち勢力と健康と喜悅と、生命の爭鬪の最良の賞與を獲得する速さと、それを保持する勢力を保證する形態を希望する。彼等は爲し得れば、過去の何れよりも良き條件を要し、如何なることあるも、より惡るき條件を要せぬ。

[やぶちゃん注:「エーテル」「小泉八雲 月の願 (田部隆次譯)」の私の注を参照されたい。]

 

       

 かくて記憶として見ればは解かれる、――それは生の目的の爲めの一切の身體的適合の測り難き記憶である。疑もなくこれまでかかる適應と連合したことのある、一切の消滅したる喜悅の、同じ測り難き遺傳せる感覺により、光榮あるものと爲されたる複合である。

 この複合――これを無限とは云はれまいか。さう云うてよからう、但し之を作る死せる記憶の多數が語り難き爲めのみで無い。時間の無邊を通じてのかかる記憶の範圍の廣さまた深さもまた同じく語り難い……お〻戀人よ、汝の精靈中の精靈たる、美はしき魔女は如何に纎弱なることぞ。然もその精靈の深さはを橫斷する星雲帶の深さである、――埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]が昔時太陽及び諸神の母として見られ、世界の上に彼女の長き白き體を橫たへしときの輝きの影である。燐の煙霧の如く、または夜に於ける船の過ぎし跡の如く、唯だその如く我我は肉眼を以てそれを見得る。然れども望遠的視覺に貫かれて、それは宇宙の環の先方側として表現さる、――卽ち或る生體の細胞の如く集合して見ゆる、然しその恐るべく遠き爲めにのみ然か[やぶちゃん注:「しか」。]見ゆる、幾千萬の太陽の暗き帶として表現さる。時の夜の恐ろしさの中に、――幾世紀の無言の深奧により、年の幾千幾萬の距て[やぶちゃん注:「へだて」。]により、――若きものの爲めに美の光輝ある夢を作る此等の千萬の群る[やぶちゃん注:「むらがる」。]記憶は各自相離れて存し、ただ愛の望の爲めに唯一の暗き柔らかき甘き幻影として集合的の形を取る。

 

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