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« 小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「三」 | トップページ | 小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「五」 / 「死者の文學」~了 »

2019/11/17

小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「四」

 

 

[やぶちゃん注:本篇書誌及び底本・電子化の凡例等については『小泉八雲 死者の文學 (大谷定信譯) / 「一」』を参照されたい。太字は傍点「﹅」、太字下線は傍点「◦」である。]

 

       

 前揭の文句は、ソトバ文學の全範圍を代表するものでは無く、それを暗示するものでさへも無い、のであるけれども、その哲學的興味は如何なる性質のものか、それは充分に示して居るであらう。ハカ卽ち墓の文字には別種の興味がある。が、その文字に就いて說く前に、墓そのものに就いて數言述べなければならぬ。自分は詳說を企てることは出來ぬ。そんな記念碑の種々樣々な形式を描寫するには、說明圖を多く挿入した大きな書卷を要するであらうし、その彫刻の硏究はこの隨筆の目的には緣の無い佛敎像形記載學(アイコノグラフイー)[やぶちゃん注:iconography。]といふ大きな題目に屬するからである。

 佛敎の埋葬記念碑は、極めて憫れな田舍墓場の、表意文字が三つ四つそれに彫り込んである、斫り[やぶちゃん注:「はつり」。]磨きのしてない丸石からして、一つの祠[やぶちゃん注:「ほこら」。]を多くの佛像で取圍み、其上には――多分支那の古いストュパ[やぶちゃん注:ストゥーパ。仏塔。]を模してであらう――傘形の圓盤或は日傘(パラソル)(梵語のチヤトラ)[やぶちゃん注:“ tchâtras ”。]の尖塔(スパイア)[やぶちゃん注:“spire”。]が載せてある、複雜な小塔(タレツト)[やぶちゃん注:“turret”。]に至るまで幾百といふ――恐らくは幾千といふ――異つた形がある。一番普通な部類のハカは質素である。より好い部類の、ものは、その多數は、その何處かに蓮の模樣が刻まれて居る。臺石が、蓮の花瓣を示すやうに、彫つてあるか、或は花が一個、その碑の表面に浮彫若しくは凹形に切り込んであるか、或は(が、これは稀であるが)一莖の、多くの葉と花とが附いた、蓮がその紀念碑の一方の側か兩側かに、浮彫模樣になつて居る。佛敎の五大を象徴した、金のかかつた部類の墓には八瓣の蓮の徽號が、その巧緻な建物の三箇處若しくは四箇處に、裝飾的な變形で、繰り返されて居るのを見ることが出來る。時折、墓石の上に美しい――佛か菩薩の像の――浮彫を見ることがある。そして地藏の像が一體、墓の上に立つて居るのを見ることは、稀では無い。が、此の部類の彫別物は大抵は古いものである。――例へば、コブデラの墓地にあるうちで、非常に見事なのは、二三百年前に造られたものである。最後に、死者の二家の飾章(クレスト)[やぶちゃん注:“crest”。紋章。]卽ちモンが、墓の前面に、そして時々その墓の前に置いてある石の小さな水容(タンク)にも、彫つてある、ことを述べてよからう。

 

 墓の文字に聖經からの文句が含まれて居ることは滅多に無い。その紀念碑の前面には、紋の下に、カイミヤウが、大抵は梵字か漢字か神聖な文字一つと一緖に、彫つてあるのである。左側面に普通は死亡の年月日の記錄があつて、右側面にその墓を建てた人か家族かの名がある。少くとも今は、これが尋常普通な排置である。が、夥多[やぶちゃん注:「かた」。おびただしいこと。]の例外がある。そして文字は大抵は縱列に並べてあるから、銘文悉くを、頗る狹い碑の表面に置くことは極めて容易なのである。たまたま實名が――死者の記憶さるべき行爲の單簡な記錄と共に――その石の何處かに彫り込んでありもする。カイミヤウと、屢〻それに伴なうて居るその宗派の祈願の語句と、を除いては、尋常普通の墓に彫つてある文字は、その性質非宗敎的(セキユラー)[やぶちゃん注:“secular”。世俗的。]なもので、この銘文の眞の興味はカイミヤウだけに限られて居るのである。カイミヤウ(戒の名)といふは、一向宗卽ち眞宗を除いて、あらゆる宗派の慣習に從つて、死者の靈に與へた佛敎的な名なのである。特別な意味では、カイ卽ち戒(シーラ) [やぶちゃん注:“sîla”。「戒」の意のサンスクリット語「シーラ」。]といふ語は、行爲の戒 [やぶちゃん注:「いましめ」と訓読しておく。]を指す。[やぶちゃん注:改行ではない! 原注を挿入するために、途中で切っているのである。「一般的な意味では、」以下に繋がっている!

【原注】註 戒には――俗人の階級に應じて五戒、八戒、十戒とあり、僧には二百五十戒、尼には五百戒、等等と――非常に種類が多い。此處で述べて置かなければならぬことは、死者に與へる此の死後の佛敎的な名は、此の世での行爲にいつも何か關係があるものと思ふべきでは無くて、寧ろ來世に於ける戒(シーラ)に關係のあるものとして、硏究しなければならぬといふことである。だからカイミヤウは心靈的入門の一稱呼なのである。日本佛敎の或る宗派では百戒會といふことをする。その時それに加はる者に別種のカイミヤウを――新參者(ネオフアイト)[やぶちゃん注:“neophytes”。単数形のカタカナ音写なら「ニーオファイトゥ」。狭義には「改宗者」や「カトリックで誓願前の修練者」の意がある。]として許可の戒名を――授かる。 

[やぶちゃん注:「百戒會」誤訳。原本は“ Ju-Kai-E ”で、「授(受)戒會」が正しい。これは、広義には、「僧俗に戒を授けるための法会」を指すが、ここは、より狭義な正規の僧の正式なそれを指すと考えてよい。「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「授戒会」にある、「授戒の作法」の、『たとえば』、『十誦律では、十人僧伽(そうぎゃ)(三師七証)が必要となる。また授戒の作法に際しては、①十人僧伽②受戒者の具足戒を受けたいという意志表明③白四羯磨(びゃくしかつま)の正しい実施が不可欠である。まず受戒者は十人僧伽一人一人に接足作礼を行い、続いて羯磨師が三衣一鉢を教える。次に和尚(直接の師)になるべき人に対して、和尚を求める。次に受戒者を退座させて教授師役を選出する。選出された教授師が別所に控える受戒者の所に行き問遮(もんしゃ)を実施し、その結果を報告する。問遮で問題がなければ』、『教授師が受戒者を連れ戻し、僧伽に礼拝することを指示する。次に受戒者は具足戒の受戒を僧伽に対して請い願う。その上で白四羯磨の正しい実施が行われる。その後に、羯磨師から四依(衣・食・住・薬)に関する説明を受ける。なお和尚がいなければ具足戒を受けることができず、また羯磨師は特に有能な人物を選出していた』とあるそれが、最も厳密な例である。細部は、リンク先内の解説を見られたい。

一般的な意味では、或は『行(ぎやう)での救濟』と飜して[やぶちゃん注:「やくして」。]よからう。が、眞宗はどんな人間にもカイを許さぬ。行(ぎやう)に依つて直接に救濟されるといふ敎義は容さずして[やぶちゃん注:「ゆるさずして」。]、阿彌陀を信ずる信(しん)に依つてのみ救濟されるとする。だから眞宗が與へる死後の稱呼は、カイミヤウとは言はずに、ホフミヤウ卽ち『法名』と言ふ。

[やぶちゃん注:後で小泉八雲が述べる通り、浄土真宗は在家仏教であって、僧侶も在家であり、出家の立場をとらず、弥陀の本願によって仏弟子となった死後のそれは「戒名」ではなく「法名」と呼び、概ね、「『釋』+法名(二文字)」の三文字構成を採る。八雲にとっては――私も実は同様だが――仏教文学的興味を、最もそそらないものであったのではあるまいか。]

 明治前には、或る人が存生中占めて居た社會的階級は、その戒名で知ることが出來るのであつた。戒名に、讀んでヰン デン[やぶちゃん注:「院」・「殿」。]と發音するもので、『寺に住む者』とか『院に住む者』とかいふ意味の、二文字を使用すること――或は、『寺』とか『院』とかいふ意味の、ヰンといふもつと普通も一字を使用することは、貴族と紳士とだけ爲し得る特權であつた。階級の差別は、更に接尾語で示されてゐた。コジ[やぶちゃん注:「居士」。]――我々のレーブラザ[やぶちゃん注:“lay-brother”。キリスト教で主として修道院等の雑務に従事する者。助修士・労務修士・平(ひら)修士などと訳される。]に稍〻相當する語と、ダイシ卽ち『大姉』とは、サムラヒと貴族との戒名に、尊稱的に附けられるのであつた。そしてそれそれ『信實な(信仰のある)男』『信實な女』といふ意味の、シンシ及びシンニヨといふ、より單簡な稱呼は、身分の卑しい人の戒名の後(あと)へ附けられたものである。この形式は今猶ほ用ひられて居る。が、それが元有つて居た[やぶちゃん注:「もと、もつてゐた」。]差別は殆ど無くなつて、騎士的な『ヰンデン』や、それに附隨するものの特權は、求めてその爲めに金を拂ふ者は、誰れもそれを勝手に附けることが出來る。が、いつでも、『ドウジ』と『ドウニヨ』[やぶちゃん注:「童子」と「童女」。]といふは、子供の戒名に附けられたやうである。ドウだけでは子供といふ意味であるが、ジやニヨと結合すると、形容詞の意義での『子供(チヤイルド)』を意味する。――だから、『ドウジ』を『チヤイルド・サン』、ドウニヨを『チヤイルド・ドーター』と譯してよからう。十五歲――十五歲になれば軍務に服し得るものと考へられて、昔の士の法規では丁年[やぶちゃん注:「ていねん」。「強壮の時に丁(あた)る年齢」の意で、一人前に成長した年齢、一人前の男子を指す。]であつた――に達しないうちに死ぬる子供はさう呼んだ。誕生一年內に死ねる子供の場合には、『ガイニ』及び『ガイニヨ』[やぶちゃん注:「孩兒(児)」と「孩女」。但し、前者(原文は確かに“ Gaini  ”となっているが)の読みは「がいじ」である。]といふ言葉が時折『ドウジ』及び『ドウニヨ』の代はりをする。ガイといふ綴音[やぶちゃん注:「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す。]は此處では『乳兒(サクリング)』[やぶちゃん注:“suckling”。]といふ意味の漢字を現はして居るのである。

[やぶちゃん注:小泉八雲は言及していないが、忘れてはならない戒名に、差別戒名がある。所謂、江戸時代まで公然と使用された、被差別民に対して使用された(私は写真では見たことがあるが、実際のものは今まで見たことがない)、「門・男・女・尼」等の上に「革」「屠」「畜」「僕」「」(むながい:「むなかき」の音変化で、馬具の一。鞍橋(くらぼね:鞍の骨格をなす部分)を固定するために馬の胸から鞍橋の前輪 (まえわ)の四緒手(しおで:鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)の左右の四ヶ所につけた、金物の輪を入れた紐)にかけて取り回す緒。胸懸け)・「旃陀羅」(せんだら:日本の中世の一時期から仏教経典の用語を概念化して、主として僧侶や知識層に広まった被差別民への卑称)等を配した忌まわしい戒名である。たかひら正明氏のブログの「差別墓石、差別戒名 いずれも身分の低い女、最下層の被差別民を指した言葉が、彫られている。」を見られたい。二葉の差別戒名を彫った墓石の写真がある。

 佛敎の宗派が異るに從つて、戒名とその附加物(アデンダ)[やぶちゃん注:“addenda”。addendum(アデンダム:追加・補遺・付録)の複数形。]の作成の方式が異ふ。――が、この題目は特別な一論文を要するであらう。で、宗派に依つての二三の慣習を述べるだけにしよう。眞言宗は、その戒名の前へ梵字を一つ――或る佛の表象を――時々置く。――眞宗はその戒名へ神聖な釋迦牟尼の略字一つを冠らす。――日蓮宗は屢〻その戒名の文字の前置きに、彼の有名な『ナムメウホフレンゲキヤウ』(『南無妙法蓮華經!』)を以てし、――時たまその後へ『センゾダイダイ』(『先祖代々』) の語を置く。――淨土宗は、一向宗の如くに、釋迦牟尼の略字を用ひ、或は時々『南無阿彌陀佛』といふ祈願の句を用ひる――そして『名譽』或は『名聲』の意味を有つた表意文字二つを藉りて、四文字の戒名を造る。――禪宗は、――戒名がただ二字だけの時は除いて――戒名の最初の一字と最後の一字と、それを合はせて讀むと、或る特殊な佛語に、或は神聖な句に、なるやうに工夫する。

 戒名の文字の中の『宮殿』[やぶちゃん注:ここは原文は“mansion”であるから「院殿」とすべきであった。後の「宮殿」に合わせる必要は邦訳の場合、必要はない。]といふ語は、多數の西洋の讀者には、或は天上界の宮殿といふ意味では無いかと思はせるであらう。が、その考は誤つて居る。この語は何等天界的意義は有つて居らぬ。だが、それを銘の文字に使用するに至つた來歷は頗る奇妙である。古昔は、高名な人が死ぬると、その人の靈の爲め行ふ特別な法要の爲めと、且つ又その人の遺物若しくは記念品を保存する爲めとに、一宇の佛寺を建立した。孔子敎が、支那人は之をシンシユ [やぶちゃん注:「神主」。]と呼ぶ、位牌を卽ち葬禮の牌を日本へ輸入した。そしてその佛寺の一部分が、

 

【原注】註 これはその漢字の日本訓みである。

【訳注】譯者註 『眞俗佛事編』に『儒家ニ所用ノ位版又ハ神主ト名ヅクルモノ是ナリ云云』、『和漢三才圖繪』に『與儒門神主同義也』とある。

[やぶちゃん注:「眞俗佛事編」江戸中期の真言僧子登が大阪の真蔵院で著した、修験道を含む真言密教系の公式仏事、及び、通俗的仏事についての解説書。以上は国立国会図書館デジタルコレクションのこちら画像を視認されたい。左頁の「眞俗佛事編巻三」の冒頭「祭靈部」の最初の「㊀位牌」の初めに書かれてある。

「和漢三才圖繪」「繪」はママ。しばしば見かける誤り)「和漢三才圖會 卷第十九」の「神祭 附(つけたり)供噐」の「靈牌」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該項の画像)の一行目から二行目にかけて記されてある。なお、この巻には先行して「神主(しんじゆ)」の項があり、中国伝来のその形や、書式の様子がよく判るので、一見されたい。]

 

その位牌を置きまた祖先の崇拜を行ふ、一個の禮拜堂の用を爲すやうに、別にされてゐたのであつた。そんな紀念の寺院を――疑も無く、その尊靈が或る時期に占めると信ぜられてゐたから――『ヰン』卽ち『院』と呼んだのである。――その語は今でも多くの有名な佛寺の名に――京都の智恩院といふやうな名に――殘つて居る。時の經つに連れて、この慣習が當然變更された。特典が擴められ、貴族の數が增すに從つて、知名な人一人一人に、別々に寺を建てることはやがてのこと不可能になつた、からである。顯著な個人悉くに『院殿』といふ死後の稱號を與へて――そして此稱號へ想像的の佛寺若しくは『院』の名を加へるといふことが困難なことに佛敎はなつて來た。だから今日は、大多數の戒名に於て、『院』といふ語は、事情が許せば建てたであらうが、今はただ死者を愛し敬ふ者共の敬虔な希望として存在して居る寺を指して居るのである。

[やぶちゃん注:「院」「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「院号」が、歴史的遷移に詳しく、大いに参考になる。全文引用する。『上皇・女院(にょいん)などの尊称、寺院の称号、戒名としての尊号のこと。天皇譲位後の太上(だいじょう)天皇の御所の地名が、その尊称として院号に用いられ、嵯峨天皇(在位』大同四(八〇九)年~大同四(八二三)年『)が譲位したときに嵯峨院と称した。その後、在位中に崩御した天皇に追号として院号を贈るようになった。女院の院号は、一条天皇の母である皇太后藤原詮子(』応和二(九六二)年~ 長保三(一〇〇二)年)『に東三条院と尊称したのが嚆矢』『である。門院号は、一条天皇の皇后藤原彰子(』永延二(九八八)年~承保元(一〇七四)年)『に上東門院と尊称し、後に院号宣下が行われるようになった。摂関家での院号は、関白藤原兼家(』延長七(九二九)年~永祚二(九九〇)年)『の薨去』『後に法興院如実と称したのが嚆矢である。法成寺を建てた』(建立は寛仁四(一二〇二)年)『藤原道長』『はその寺号を法号の上に冠した。寺院を建立して隠栖』『入道した人の法号は、寺院の名称を出家または没後に寺号・院号として冠するようになった。足利尊氏』『が、没後に等持院殿と号したので、後の歴代将軍は院殿号を冠した。院の下に殿を付したのは皇室と区別するためであったとみられるが、院殿号の』方『が上位に位置するものとみなされるようになり、院号は第二位の称号となった。寺家では門跡寺院をはじめ』、『皇族・貴族出身の止住する院家(いんげ)の僧にも院号が用いられた。増上寺では院家に列する尊宿に対し』、『蓮社号の上に冠する院号を授与している。このように院号は、当初天皇と三后(皇后・皇太后・太皇太后)のみであったが、摂家と将軍家にも用いられるようになり、江戸時代以降は武家から広く民衆まで院号を付されるようになった。法号の上に冠する号は院号・院殿号をはじめ』、『軒号・庵号などがある。浄土宗総合研究所編『戒名—その問題と課題』では、戒名および戒名授与に関する提言を示し、戒名は念仏者の証であり、院号・位号は明確な基準で授与すべきであるとした。院号・位号授与に際しては、これまで〈家〉を基準としてきたが、近年伝統的な家制度は崩壊し、新たに家族を中心とした〈家〉へと変化し、さらに〈家〉から個人・夫婦単位へと移行しつつあると指摘、院号・位号などは当該人にふさわしい内実が伴うべきであるとした』とある。

 なお、ちょっと脱線だが、私は鎌倉史の研究もしているが、実際、「源頼朝の墓」などと称するものは、後代のデッチアゲ(と言うか、供養塔ならば正しい)で、事実は、小泉八雲も述べる通り、墓石なんぞではなく、現在の「墓」へ登る階段の左側にある小さな公園附近に頼朝を祀った堂々たる「法華堂」が建立されてあったのである(三浦一族が北条に滅ぼされた「三浦合戦」では三浦一族の殆どが、そこに最後に籠城して自害して果てた程度にはデカかった)。また、卒塔婆の注でも述べた通り、忌には、供養塔として実際の相応の大きさの石の五輪塔を作って敷地内に建てたのである。しかし、その内、敷地に供養塔が林立して、狭い鎌倉では、如何ともし難くなり、果ては、新たに亡くなった人々の新墓地の余地すら自由にならなくなり、供養堂や、その境内地・供養塔の「山」が、幕府中枢である鎌倉を物理的に「死者の家の群れ」が圧迫するに至ってしまったのである。さても名執権であった北条泰時の、かの「御成敗式目」には追加法令が多くあるが、実は倉御府内への一般御家人を含む人々の墓所の新造を禁止する追加法令が存在していたのであ。その結果として猫の額ほどの鎌倉の「平地」には墓が新造出来なくなったと考えられる。しかし人は当然つぎつぎ死ぬし、有力御家人は皆、鎌倉に実際の居留本拠地を移しており、墓を近くに作らざるを得ないのである。その結果、苦肉の策で「平地」でない山の斜面や谷戸の奥に「やぐら」と呼ばれる鎌倉独特の横堀りの墳墓形態がアパートのように数多く出現することとなったのであった(「やぐら」は事実、鎌倉以外では、鎌倉の寺領であった地方でしか見られない極めて特異な墳墓形態なのである)。

 それにも拘らず、この院號の詩美は眞の意義を幾分か實際に有つて居るのである。その名は、殆ど總てみな、本當の佛寺に附けるやうなもので――德や神聖な感情や瞑想の名で――歡喜や威力や赫灼[やぶちゃん注:「かくしやく」。]や光り輝く無邊際の開展の名で――六道を去つて『再三墓地の人となる』の悲哀を脫れる[やぶちゃん注:「のがれる」。]あらゆる手段方法の名で――ある。

 

 戒名の一般的性質と排置とは、二三の標型的見本の助[やぶちゃん注:「たすけ」。]を藉りると、一番能く了解が出來る。第一の例は、瘤寺の墓地にある、それに瞑想に耽つて居るボディサットヷ マハーサーマ(勢至菩薩)の像が浮彫に刻んである、或る美しい墓にあるものである。この場合では、文字はその紀念碑の表面に、上述の像の左右に、彫つてある。羅馬字になほすと、斯う讀める。――

 

   (戒名)

テイシヨウキンホフサウメウシンダイ

   (記錄)

シヤウ・トク・ニ・ネン、ジン・シン、シモツキ、ジフ・ク・ニチ

   (飜譯)

貞松院 法窓妙眞 大姉

 正德二年 壬辰 霜月十九日

【原注】註 舊曆では十一月が霜月である。正德二年は紀元一七一二年に當る。(「壬辰」といふ句の意味に就いては、讀者にレーン敎授の『日本(ヂヤパン)』四三四――三六頁を參照されるがよろしからう)

[やぶちゃん注:「貞松院 法窓妙眞 大姉」が有意に大きいのは、底本のママ。また、冒頭でも述べたが、戒名の音の太字は、底本では傍点「﹅」、同じく太字下線は傍点「◦」である。これは、次の訳者註で大谷が附したことを述べている。

「正德二年」「壬辰」(みづのえたつ)「霜月十九日」はグレゴリオ暦一七一二年十二月十七日である。この前月に第六代将軍徳川家宣が五十一で病死(インフルエンザか)し、四男家継が後継者であったが、僅か三歳であった(将軍宣下は翌年四月)、政治は先代に続きいて側用人新井白石・間部詮房(まなべあきふさ)らが行った。因みに、家継は正徳六(一七一六)年に満六歳に満たずして夭折し、史上最年少で任官し、史上最年少で死去した征夷大将軍となった。

「レイン敎授」ドイツの地理学者ヨハネス・ユストゥス・ライン (Johannes Justus Rein 一八五三年~一九一八年)のことである。ウィキの「ヨハネス・ユストゥス・ライン」によれば、『ヘッセンのラウンハイムに生まれ、ギーセン大学において植物学並びに科学を勉強した。その後フランクフルト・アム・マイン、ドルパート及びバミューダ諸島で教職に就き、イギリスも訪問した』。明治七(一八七四)年に『プロイセン王国政府の命により、日本の工芸調査を名目に来日。工芸研究のかたわら、北海道を除く日本各地を旅行し、地理や産物を調査する。ラインを日本に送りこんだプロイセン政府の意図は、「当時ヨーロッパで人気のあった漆器をプロイセンでつくる」「堅牢な塗料としての漆を兵器のサビ止めとして利用する」ために、ウルシノキを持ち帰らせようというものであった。結果としてこの目論みは失敗に終わった』。同年七月、『白山の自然と白山信仰について調べるために白山登山を行う。その帰路に石川県白峰村(現白山市)に立ち寄り、手取川右岸の当時「大崩れ」と呼ばれていた地点で、十数個の植物の化石を拾い、友人のガイラー(H. Th. Geyler)に調査を依頼した。ガイラーは、この化石がジュラ紀中期ごろのものであることをつきとめ』、一八七七年(明治十年)に論文にまとめて発表している。この地点はのちに「桑島化石壁」と呼ばれ、昭和三二(一九五七)年には『手取川流域の珪化木産地として国の天然記念物の指定を受けた。また、化石壁の裏側をくりぬいて作られたトンネルには、ラインの功績を称え「ライントンネル」の名が与えられている』。二年後の明治九(一八七六)年に『帰国し、マールブルク大学地理学教授に就任』、一八八三年には『ボン大学地理学教授に就任。西園寺八郎(西園寺公望の娘婿)ら、多数の日本人留学生の世話をした。ボンで没した』とある。『日本』は同ウィキにある、報告書二巻“ Japan nach Reisen und Studien im Auftrage der Königlich Preussischen Regierung. ” (「プロイセン王国による日本への派遣」一九八一年・一八八六年刊)を指す。ウィキには、本書について、『本書はジャポニスムブームで注目されていた独特で高度な日本の工芸技術を詳述したものとして好評を博し、英語版が出たほか』、一九〇五『年にはドイツ語版が再び刊行された』とあった。本書の原本の原注には、参考ページが“pp. 434-436.”と指示されてあった。「Internet archive」のここで、英語版が読める。初回ページをリンクさせておいた。

 

 明瞭にせんが爲め、自分は死後の名そのもの(ホクサウ メウシン)を小さな頭文字で、殘餘をイタリクで印刷した。最初の三文字――貞松院――は寺或は『院』の名を成して居

 

【訳注】譯者曰 譯文では前者に◦ 印を、後者にヽ 印を右側に附けることにした。

[やぶちゃん注:原本を見られたい。]

 

る。松は、宗敎的幷びに世俗的詩歌に於て、それが四季に通じて鮮綠であるが爲めに、善の不變な狀態の表象である。戒名に『眞』といふ語を使用するのは、と一致して居る境涯を示す。――『法窓』(は此處では佛の境涯を現はして居る)といふ言葉では、此の世に在つてすら該(そ)れによつて無限の眞理を認めることの出來る德を行ふこと、を意味して居ると理解しなければならぬ。最後の語のダイシ(『大姉』)は、自分は既に說明した。

 

Zillt136ah

[やぶちゃん注:瘤寺の墓の写真。英文キャプションは、

      TOMB IN KOBUDERA CEMETERY

(The relief represents Seishi Bosatsu — Bodhisattva Mahâsthâma —

   in meditation. It is 187 years old. The white patches on the

           surface are lichen growths)

で、

     瘤寺の墓

(浮彫は勢至菩薩――ブッダサティバ・マハースターマ――を表わし、彼は瞑想中ある。実に百八十七歳の姿である。上部表面に白くパッチ状にあるのは地衣類が成長したものである)

とある。]

 

 これよりも神祕でない、が、それに劣らず美しいのは、或る若いサムラヒの墓に彫つてある、次記の日蓮宗の戒名である。――

 

クワウ・シン・ヰン、ケン・ダウ・エツ・キ、コ・ジ

〔光心院賢道日輝居士〕

【原注】註 この美しい戒名は、松江の長滿寺の日蓮宗墓地に埋められて居る自分の親友西田の墓の上に在るのと同一である。

 

 同じその石に、その妻の戒名が彫つてある。

 

シン・キヤウ・ヰン、メウ・ヱン・ニツ・クワウ、ダイ・シ

〔心鏡院妙圓日光大姉〕譯者註

【訳注】譯者註 原著者は西田氏の戒名と同一なのに逢着したやうしるして居るけれども、まことは西田氏の戒名を特に世に傳へようといふ眞心から、わざと此處へ持つて來たのである。その妻の、とある、この戒名も西田氏令室のそれである。

[やぶちゃん注:この大谷氏の訳注は素敵だ。如何に語学に達者でお洒落な英訳が出来ても、著者小泉八雲の真心を伝える訳注が出来るか出来ないかは全く以って別問題であることがよく判る。大谷氏がこの注を施しておられなかったなら、或いは、この小泉八雲も友人への思いを誰一人知らずにここを読み過ごしていたかも知れぬのだから。

「長滿寺」島根県松江市寺町にある日蓮宗圓久山長満寺(グーグル・マップ・データ)。

「親友西田」西田千太郞(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)は教育者。郷里島根県で母校松江中学の教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ(当時は同校教頭であった)。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郞日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に惜しくも三十六の若さで亡くなった(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。彼との交遊は『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」』の中に頻繁に登場する。]

 

 多分讀者は、日本の學者が自分に飜譯して吳れた、次に揭げる戒名の選集に、今は興味を見出すことが出來るであらう。宗旨は樣々で、時代も異つて居るが、自分はただ階級と性とに從つて並べた。

 〔男の戒名〕

光鏡院法性永全居士

靜光院雪峰孤月居士

心曉院光音妙輝居士

照始院純蓮花心居士

祕徹院眞誠自足居士

智照院法雲妙輝居士

眞誠院法響宣理居士

自性院理海靜滿居士

慈德院聰願行仁居士

最了院圓覺靜光居士

順心院釋秋觀居士

顯德院釋秀明居士

圓成院宗榮日休居士

秋月永昌信士

無過妙誓信士

法光靑山信士

妙音禪覺信士

冬嶽貞心信士

【原注】註 『冬の山の上の雪のやうに純潔な心の信ずる人』といふ意。

 

 〔女の戒名〕

自證院殿光山曉桂大姉

【原注】註 これはその人の爲めに瘤寺を建てた夫人の戒名である。「自證院」といふ語は、此處では、(ジシヤウヰンといふ)さういふ名の寺そのものを指して居る。その漢字は「ジ・シヨウ・ヰン・デン、クワウ・ザン・ゲウ・ケイ、ダイ・シ」と讀む。文字通りでは「自證の御ン院[やぶちゃん注:「おんゐん」。]に住まはるゝ、光山の曉の桂、大姉」である。カツラ(オレア フラグランス)は日本の詩想では、月と不可思議な關係を有つて居る木である。その名を、此處でのやうに、月の意味に屢〻用ひる。カツラノハナ卽ち「柱花」は月光の詩的語辭である。この戒名は院といふ名の後に、敬稱の『殿』の字が附いて居るのが目立つ。死なれたその方が高貴な人であつた徽號である。彫つてある年月日は、「寬政十七年(紀元一六四〇年)仲秋(舊曆八月)二十八日である。

【訳注】譯者註 右記註の原英文には、『この戒名は院若しくは寺といふ名の前に、敬稱の「御(オーガスト)」[やぶちゃん注:August。同単語には「畏敬の念を起こさせるほどに威厳のある・堂々とした」の意がある。ラテン語の「立派な」の意が語源であるからである。]といふ語が附いて居るのが目立つ』と書いてゐるけれども、原著者の思ひ違ひかと察するので、右の如く譯して置いた。

[やぶちゃん注:「一」の注のロケーションについての私の注を参照されたいが、本「瘤寺」天台宗鎮護山圓融寺自證院は、尾張藩主徳川光友の夫人千代姫の母(戒名「自證院殿光山暁桂大姉」)が当寺に葬送されたことから、寛永一七(一六四〇)年に本理山自證寺と改めて、日須(にっしゅ)上人が開山し、後に天台宗に改宗した寺である。

「カツラ(オレア フラグランス)は日本の詩想では、月と不可思議な關係を有つて居る木である。その名を、此處でのやうに、月の意味に屢〻用ひる。カツラノハナ卽ち「柱花」は月光の詩的語辭である」原文“ The katsura (olea fragrans) ”。この学名は、双子葉植物綱シソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ(木犀)属モクセイ Osmanthus fragrans を指す。但し、同種の現行の中文名は「木樨」であるものの、通称の「桂花」が盛んに使われる。八雲が「日本の詩想では、月と不可思議な關係を有つて居る木である」と限定しているのは誤りで、まず、この場合の日本の「月の桂」は、モクセイではなく、ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum で、モクセイとは全く異なる別種である。ウィキの「カツラ」によれば、『中国植物名は、「連香樹」と書かれる』。『中国の伝説では、「桂」は「月の中にあるという高い理想」を表す木であり、「カツラ(桂)を折る」とも用いられる。しかし』、『中国で言う「桂」はモクセイ(木犀)』(☜)『のことであって』、『日本と韓国では古くからカツラと混同されている(万葉集でも月にいる「かつらをとこ(桂男)」を歌ったものがある)。中国には近い種類のものが分布するが』(これは甚だ不審である。「維基百科」の同種「连香树」を見ると、カツラ Cercidiphyllum japonicum  は、『日本及び中国本土の浙江省・湖北省・山西省・陝西省・甘粛省・江西省・四川省・河南省・安徽省などの各地に分布している』とあるからである)、ただ、『本種は日本のものが有名で、英名でも Katsura Tree(カツラ・ツリー)で通用する』とは、ある。しかし、中国も、それを基原とする日本も、「月にある桂の木」は全くの想像上の聖樹であって、まあ、私がぐだぐだ言うこともないとは思うのだが……。

 

月心院妙蓮淨光大姉

慈海院響順妙貞大姉

明香院妙現蓮心大姉

春宵院淨月明光大姉

眞光院慈日純心大姉

法性院芳空妙蓮大姉

無邊歡道信女

理達妙勇信女

放光冬月信女

梅室光影信女

蓮譽妙薰信女

 

 〔子供の戒名――男〕

純淨院殿圓和速到大童子

【原注】註 尋常な「ドウジ」(男の兒)といふ語の前へ「ダイ」(大)と字を置くのは稀にしか見ぬ。多分その幼兒は高貴の生れであつたのであらう。その墓は瘤寺の、他とは別な地域に在る。そして死亡の年は――一七四七年に當たる――「延享四年」である。

[やぶちゃん注:死亡年は第九代将軍徳川家重の治世(大御所として吉宗は健在)である。この「院殿」「大童子」というのは非常に良く似た戒名を德川将軍家の夭折の児女の戒名に見出せる。例えば、享保四(一七一九)年に徳川吉宗の四男として生まれるも二ヶ月足らずで亡くなった徳川源三なる男児は「涼池院殿靈岸智到大童子」であり、掲げられたそれも選ばれている漢字が、かなりのものであるから、将軍家絡みの男児であることはまず間違いないであろう。ネットを見ると、現行では、「大童子・大童女」は、十七歳以下の未成年に授けられる位号とし、年齢が十七歳に近い場合、宗派によっては、授ける場合もある、とあった。]

花芳院殿淨林徹透大童子

【原注】註 この戒名を有つて居るもは、前記の戒名のあるものの橫に立つて居る。多分この二人の兒は兄弟であつたらう。兩方とも院號を形容して居る『殿』の字を有ち、また『ダイ』といふ敬稱を有つて居る。死亡の年は『寬延二年』(一七四九年)である。

[やぶちゃん注:同前で、やはり漢字の選び方が凄い。小泉八雲の推理は正しいと思う。]

霜光孩女

露幻童子

春夢童子

春霜童子

空性童子

幽雲法雨童子

 

 〔子供の戒名――女〕

法樹院殿智高明照大童女

【原注】註 多分高貴な家の子――或は前記の高貴な兩男兒の姉妹でゐらう。瘤寺のその二つの墓の橫に葬られて居る。今度は「ドウニヨ」卽ち「童の娘」若しくは「童の息女」といふ語の前に、矢張り「ダイ」といふ語が置いてあるに注意されたい。恐らくは此場合ダイは「グレート」と譯するよりか「グランド」と譯した方がよからう。此の場合にも院號に「殿」といふ字が添へてあることを見られよ。死亡の年は「寶曆六年」(一七五六年)としてある。

[やぶちゃん注:前の二人と同じく、気になって仕方がない。「グランド」は“ “grand””で、ここでは、「崇高な・気高い」の意であろう。]

雪泡孩女

輝幻孩女

梅光童女

夢幻童女

貞春童女

智鏡淨觀童女

芳雪妙勝童女

 

 前に引用した卒都婆の文句を硏究した後であるから、讀者は上記の戒名の多くの意味を推察することが出來るであらう。兎に角、『月』とか『蓮』とか『法』とかいふ、每度出て來る言葉の意味は了解されるであらう。が、他の言ひ現はしには惑はれるかも知れぬ。で、恐らくは、少しく進んで說明するのは、無用ではあるまい。

 死んだ者がより高い幸福を得るやうにとの敬虔な希望を述べたり、靈界に於て特殊な境涯に入るといふ或る保證を言うたりする他に、大多數の戒名は、直接又は間接にその消え去つた人物の性格にも言ひ及んで居るのである。例へば、廣くその廉潔を認められて居り、且つ堅固な道德的目的を有つて居た人ならば――死んだ自分の友人のやうに――『賢道日輝』と名附けても不適當ではあるまい。麗はしい性質を有つて居たので殊に記憶に殘つて居る、童女若しくは若い人妻ならば、『梅光』とか『梅室光影』とかいふやうな、死後の名で記念せられてもよからう。――このどちらの場合にも、『梅』といふ語は、日本では此花は婦德の――特に義務に忠實で謙遜缺くる處無いことを示す――表象であるから、死者の德性を直ぐと思はせる語である。また、その慈善事業で名高かつた人の靈は、『聽願行仁』といふやうな戒名で尊崇してもよからう。最後に、高さや光りや香を現はして居る戒名の語は、大抵は、道德的模範の意義を有つて居る、ことを述べてもよからう。が然し、どこの國でも、碑銘文字には因襲的な僞善があり過度がある。佛敎の戒名にも宗敎的阿諛[やぶちゃん注:「あゆ」。人の顔色を見ては相手の気に入るように振る舞うこと。追従(ついしょう)。]が每度澤山に含まれて居て、美しい死後の名が、逆(ぎやく)に美しい生涯を送つた人々に屢〻與へられて居る。

[やぶちゃん注:この終りの部分、何だか、訳がおかしい。原文を見ると、

Buddhist kaimyō frequently contain a great deal of religious flattery; and beautiful posthumous names are often given to those whose lives were the reverse of beautiful.

で、最後は、やはり、誤訳である。

仏教の戒名にも、かなり、お世辞が含まれているケースがあり、されば、美しい戒名が、ときにその美しさとは真逆の、如何にも美しからざる人生を貪った輩(かやら)に与えられていることは、しばしばある。

である。八雲先生の、辛口のシメのイッパツが、以上の訳では、全然、伝わってこないのだ!

 我々が女の戒名のうちに『妙蓮』とか、『麗如曉蓮』とかいふ名を見出す時は、大多數の場合、斯くそれに譬へて居る美質は、ただ倫理的のものであると信じてよろしい。だが例外がある。そしてそのうち最も著しいのは兒童の戒名が提供するものである。『春夢』、『輝幻』、『雪泡』のやうな名は、實際にその死んだ者の形を指しての――或は少くとも、消え失せた美しさや、優しさを懷ふ親の思を察しての――言葉である。が、こんな名はその上に、佛敎の無常の敎義をば、殊に慰藉の目的に用ひた例ともなるのである。この戒名を媒介に、子を失うた親々は、眞理の最高な言葉で斯う言ひ慰められて居るのだ、と言うても宜からう。

 『あなたの子の此世の生涯は美はしく、また短かつた。春の一夢であり、消え行く輝かしい幻であり――雪の泡であつた。が、永遠の大法からして、一切の形體は皆消え去らねばならぬのである。物質的な恒久は此世には一つも無い。ただ如何なる物にも住んで居る神聖なだけが――我々人間の一人一人の心に宿つて居られる佛だけが――永久に持續するものである。その大眞理をば、あなたの慰安ともし、且つまたあなたの希望ともするが好い!』

 

 時折死後の名に與へられる、懷古的意義を有つた異常な實例が、東京の泉岳寺に葬られて居る四十七浪人の戒名に依つて提供せられて居る。(彼等の話は、『舊日本の物語(テールス・オブ・オールド・ヂヤパン)』のミトフオード氏のその同情ある流暢な反譯で、今は英語を讀む世界に能く知られて居る)彼等の戒名の顯著な特性は、一々みな――象徵的な意味に用ひられては居るが、相當な武土的暗示をも有つて居る――『刄』と『劔』との二字を含んで居ることである。その首領の大石內藏之介良雄だけが『居士』と呼ばれて居る。――彼の配下の者共は、それよりは卑(ひく)い『信士』といふ接尾語を有つて居る。大石の戒名は『忠誠院刄空淨劔』である。その院號の史的意義に就いては、自分は注意を呼ぶ要は殆ど無い。彼の配下の者どもの戒名三つ舉げれば、他のものの例とならう。間瀨久太夫正明のは『刄譽道劔』である。大石瀨左衞門信淸の戒名は『刄寬德劔』である。それから堀部安兵衞の戒名は『刄雲輝劔』である。

[やぶちゃん注:丸括弧割注部は“ (Their story is now well-known to all the English-reading world through Mitfords eloquent and sympathetic version of it in the Tales of Old Japan.”。幕末から明治初期にかけて外交官として日本に滞在したイギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年)。ウィキの「アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード(初代リーズデイル男爵)」によれば、慶応三(一八六六)年十月に来日(当時二十九歳)し(着任時に英国大使館三等書記官に任命)、明治三(一八七〇)年一月一日に離日している。『当時英国公使館は江戸ではなく横浜にあったため』、『横浜外国人居留地の外れの小さな家にアーネスト・サトウ』『と隣り合って住むこととなった』。約一ヶ月後、『火事で外国人居留地が焼けたこともあり、英国公使館は江戸高輪の泉岳寺前に移った。ミットフォードは当初公使館敷地内に家を与えられたが、その後サトウと』二人で『公使館近くの門良院に部屋を借りた。サトウによると、ミットフォードは絶えず日本語の勉強に没頭して、著しい進歩を見せている。また住居の近くに泉岳寺があったが、これが後』に、「昔の日本の物語」を執筆し、『赤穂浪士の物語を西洋に始めて紹介するきっかけとなっている』とある。また、彼は慶応四(一八六八)年二月四日に起った『備前藩兵が外国人を射撃する神戸事件に遭遇し』ており、『事件の背景や推移には様々な見解があるが、ミットフォードはこれを殺意のある襲撃だったとしている。なお、この事件の責任をとり、滝善三郎が切腹しているが、ミットフォードはこれに立会い、また自著『昔の日本の物語』にも付録として記述している』とある。ここに示された「舊日本の物語」は離日した翌年の「一八七一年」に刊行されたミットフォードの“ Tales of Old Japan ”。前に引用の「昔の日本の物語」と同じい。“Internet Archive”の原本のまさに四十七士の仇討の挿絵とタイトル・ページをリンクさせておく。なお、四十七士は余りに有名なので特に注は附さない。参考までにウィキの「赤穂事件の人物一覧」をリンクさせておくので、そこからリンクをジャンプすれば、各人の事蹟に行ける。悪しからず。義士への最低の礼儀として、それぞれの戒名の漢字(大谷の訳復元)が正しいかどうかだけは、総て、確認しておいた。]

 この四つの戒名のうち、最初のと最後のとは、曖昧に思はれるであらう。そして四十七士の戒名のうち、まだ多くのものが、初め一寸見た時には、同樣に謎のやうである。普通は、戒名にある『空』とか『虛』とかいふ語は、心靈が絕對に淸淨である境涯を――無制約の實在の境涯を――意味するのである。が、大石內藏之介の戒名では、その意味は、純然佛敎的ではあるけれども。餘程異つて居る。此場合の『空』は『迷妄』とか『非實在』とかに了解しなければならぬ。――で、『刄空』といふ句の充分の意味は『物質的形體の空なことを見て、迷妄をば刄の如くに貫く智』である。堀部安兵衞の戒名では、同樣に、『雲』といふ語を『迷妄』と解釋しなければならぬ。で『刄雲』は『迷妄を貫く知の刄』と說明すべきである。現象は空であると悟る智は、鋭く分かつところの即ち識別するところの智である、妙觀察智(プラトヤヹクシヤナ・グニヤーナ)なのである。

[やぶちゃん注:「妙觀察智(プラトヤヹクシヤナ・グニヤーナ)」“ Myō-kwan-zatsu-chi (Pratyavekshana-gñâna) ”。「妙観察智」(みょうかんさつ(ざつ)ち:現代仮名遣)は存在の相を正しく捉えて正法(しょうぼう)の実践を支える智。第六識(意識)を転じて得られるとされる。]

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