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2019/11/01

小泉八雲 一對の眼のうち  (岡田哲藏譯) / 作品集「影」全電子化注~了

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ In a Pair of Eyes ”は一九〇〇(明治三三)年七月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ SHADOWINGS ”(名詞「shadowing」には「影」以外には「人影」・「影法師」・「影を附けること」・「尾行」などの意味がある。本作品集の訳は概ね「影」が多いが、平井呈一氏は「明暗」と訳しておられ、私も漠然とした「影」よりも、作品群の持つ感性上の印象としてのグラデーションから「明暗」の方が相応しいと思う。来日後の第七作品集)の第一パート“ STORIES FROM STRANGE BOOKS ”・第二パート“ JAPANESE STUDIES ”(「日本に就いての研究」)の次の最終第三パート“ FANTASIES ”の掉尾第七話目、則ち、本作品集の最後に置かれた作品である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入った扉表紙を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月16日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本作はここから。添え辞附きパート中標題はここ

 訳者岡田哲藏氏については先行する「小泉八雲 夜光蟲(岡田哲藏譯)」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「○」は太字下線、傍点「﹅」は太字に代えた。

 なお、瞥見した銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、本篇は明治三一(一八九八)年三月完成(但し、短いものだが、『五月までかかったとも考えられる』と注記がある)とある。]

 

 

   一對の眼のうち

 

 永久に忘られぬ成熟期の一時、その時、男兒は或る一對の眼より驚くべきもの此世界に無しと悟る。はじめに發見の强意が彼の呼吸を止める、本能的に彼れは視線を傍に轉ず。その幻影は眞實であるには餘りに佳良と思はる。されど間も無く、彼は再び視んと試む、――新たなる恐れを覺えつつ、――現實を恐れ、自己が視らる〻ことを恐れて、――而して見よ、彼の疑念に新たなる歡喜に打たれて分解する。それ等の眼は彼れが想像せるよりも更に驚かる〻――否、彼が續いてそれ等を見る每に益〻恍惚たらしむる。たしかに全宇宙に於て外にか〻る一對の眼はあり得ぬ。何がそれ等の眼にか〻る魅力を與ふるか。それ等は何故に神聖と見ゆるか。……彼れは誰れにか說明を聽かねばならぬと感ず、――彼れの新たなる感情の謎を賢明なる年長者に打ち明けねばならぬと思ふ。それから彼れは彼れの告白をする、笑はれることを微に[やぶちゃん注:「かすかに」、]直覺的に恐れて、然しそれを談るに不思議に新たなる驚喜の感覺を以て。彼れは笑はれる――やさしく、然しそれは、彼れが彼れの質問、――彼れの無邪氣な驚きと臆病な赧顏[やぶちゃん注:「あからがほ」。]とで特に興味あるものとなつた單純の『何故』といふ質問に答へを與へられぬ事實程には彼れを當惑させぬ。何人も彼れに光を與へ難い、然し誰れも皆、子供の彼れの長い魂の眠りから突然覺めて度を失へるに同情し得る。

 思ふにその『何故』は決して十分には答へられまい。然しその問を起こした神祕は斷えず人を誘つて理論を立てさせ樣とする。而して理論は直接の結果を離れて獨立の値を有ち[やぶちゃん注:「もち」。]得よう。若し不可知に關はる古い理論が無かつたら、我々は果たして可知に就て何を學び得たらうか。不可能の追求中に我々はいまだみざりし而して無限に驚くべき可能に躓き當たるのでは無いか。

 

 何故に人間の眼の一對が我々に一時極めて美はしく見え、その時、その眼の輝きを金剛石や紫水晶や碧玉に比すれば、その比較を冒瀆とさへ感ずるのであらうか。何故に我々はその眼を海より深く、日よりも深く、多くの太陽の燦めく霧を含む空間の夜よりさへ深く思ふのであらうか。たしかにそれは唯だ放奔の空想の爲めで無い。か〻る思ひ、か〻る感情は驚くべきものの或る現實の知覺から、――讓られぬものの或る眞實の表現から、――生ずるに相違無い。そこに、眞實に、生の單なる一時があつて、その間は世界が我々の爲めに一對の眼程驚くべき何物も有たぬのである。而して其時、それを見て居ると、我々の逸樂の中を過ぎりて振動する畏怖の戰慄を見出す――それを見たるよりは感じたる、或る物によりて成さる〻畏怖、一の潜在、一の力、――宇宙的エーテルほどに測り難き深さのさす影である。それは生くる者の或る强き急激な刺戟を通じて、我々は――天上を超越する一瞬間――決して以前に想像せず、また決して再び表現せざるべき一の實在の面影を促へたるが如くである。

[やぶちゃん注:「宇宙的エーテル」“the cosmic Ether”。「小泉八雲『究極の問題』(大谷正信譯)」の私の「宇宙エエテル」の注を参照されたい。]

 勿論そこには幻覺がある。我々は神聖なるものを見ると思ふ、然しこの神聖そのものは我々を眩惑し且つ欺瞞するが、それは一の靈である。魅力は現實に存せず、現に在る何物にも存せず、嘗て在りし無限に輻合せる或る幻影に存す。その視影は驚くべく、それは我我の人間の視覺がその時、現在の表面を越えて貫徹し、千萬の年の深奧に達し、生命の假面を越えて死の巨大なる夜に徹するが故にのみ驚かる〻のである。暫くは我々は云ふにいはれぬ美と神祕と深遠とを見守り、しかしては再び永久に落つるのである。

 我々が崇拜する眼の光榮は、曉の明星に光輝あると同じ樣に於てのみ存在す。それは現今の影の彼方より來る反射である消滅せる太陽の靈光である。「その少女の眼中に我々は知らず知らず天の群星より多數なる眼の眺めに會ふ……それ等は他所にて暗と塵とに過ぎ去れる眼。

 かくして、ただかくしてのみ、その眺めの深さは死生の海の深さである、――而してその神祕は存在の深淵の沈默の廣大なる中から我々を見守る世界心靈の視影である。

[やぶちゃん注:「世界心靈の視影」原文“the World-Soul's vision”。どうも漢字表記にすると、怪しく胡散臭い新興宗教のそれの用語のようで甚だ気に入らぬ。平井呈一氏は恒文社版(一九七五年刊の「日本雑記 」所収の作品集「明暗」のパート名「夢想」の「一対の目のなかに」)では、この段落全体を、

   *

 されば、さればこそ、あの明眸の深さは、じつに生と死の大海の深さなのであって、あの謎こそは、生存という深い混沌の音なき曠野から、我ら人間を見まもっている世界の霊のまぼろしのまなこなのだ。

   *

と訳しておられ、私は非常に素直に読めるのである。]

 かくして、ただかくしてのみ、眞理と幻覺とが眼の魔力の內に混ず、――過去の目視が現在の出現と拭ふべからざる魅力をもて相交じはる、――而して見者の魂に於ける突如の光榮に唯だ一の閃めき、――無限の記憶の音なき一條の電光に過ぎぬ。

 

 

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