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« 大和本草卷之十三 魚之下 龍涎 (龍涎香) | トップページ | 小泉八雲 日本美術に於ける顏について (落合貞三郞譯) / その「一」 »

2019/11/27

小泉八雲 塵 (落合貞三郞譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ DUST ”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“ Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST ”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第四話である。この底本の邦訳では殊更に「第〇章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月5日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本篇の大標題はここ、本篇本文はここから。


 訳者落合貞三郞については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郞譯)」の冒頭注を参照されたい。

 傍点「﹅」は太字に代えた。標題の添え辞は三字下げポイント落ちであるが、ブラウザの不具合を考えて行頭まで引き上げてポイントを落とした。一部の「!」「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。また、途中に漢字の書き方が画像で入るが、上記の“Project Gutenberg”版にある画像を使用して、当該部に挿入した。]

 

      第四章 塵

 

『菩薩は、一切のものを空間の性質を有すると見做すべきである――永遠に空間に等しきものとして。本質なく、實體なく』――『サッダアールマ・ブンダリーカ』經句

[やぶちゃん注:「サッダアールマ・ブンダリーカ」原文“SADDHARMA-PUNDARÎKA.”。「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」(現行のサンスクリット語ラテン文字転写は「Saddharma Puṇḍarīka Sūtra」)は「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意味の漢訳での総称で、サンスクリット語原題の『意味は、「サッ」(sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」だけが省略されて、例えば鳩摩羅什』(くらまじゅう)『訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である』と、ウィキの「法華経」にある。引用の漢訳原文は「序品第一」の一節で、「或見菩薩 觀諸法性 無有二相 猶如虛空」(或いは、菩薩の諸法の性は、二相有ること無し。猶ほ虛空のごとしと觀ずるを見る。)である。]

 

 私は町はづれまでぶらぶら散步した。私の通つて行つた町は、でこぼこになつて田舍街道となつた。それから、山の麓の小部落の方へ向つて、田圃の中を經て曲つてゐた。町と田圃の間に、建物のない廣漠たる地面があつて、子供の好きな遊び場所となつてゐる。そこには樹木があり、ごろごろ轉がり遊ぶによい草地があり、小石も澤山ある。私は立ち止つて子供達を眺めた。

 路傍で、濕つた粘土を弄つて[やぶちゃん注:「いぢつて」。]面白がつてゐるのがある。小規模の山や川や田の形、小さな村落、百姓の小屋、小さな寺、池や彎曲した橋や石燈籠のある庭、それから、石の破片を碑石とした小さな墓地――こんなものを粘土で作つてゐる。彼等はまた葬式の眞似をする――蝶や蟬の死骸を土に埋めて、塚の上で經文を讀む風をする。彼等も明日はこんなことを敢てしないだらう。何故なら、明日は死人の祭の初日だからである。盆の祭の間は、昆蟲類をいぢめることは嚴禁されてゐる。特に蟬を苦しめてはいけない。或る蟬の頭上には、小さな赤い文字があつて、亡靈のもだといはれてゐる。

[やぶちゃん注:後の『小泉八雲 蟬 (大谷正信譯) 全四章~その「一」』でもこれを小泉八雲は註で述べているのであるが、私はそれがどの種を指し、どのような模様をそのように見、その文字は何を意味するのか、不学にして知らない(平井呈一氏は恒文社版「塵」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『戒名』と訳しておられる。これは想像だが、しかし多様な模様とは思われないから、私は梵字の種子(しゅじ)を指すのではないかと秘かに思ってはいる)。識者の御教授を乞うものである。「赤い」と言うならヒグラシであるが……。]

 どこの國の子供も、死の眞似ごとをして遊ぶ。人格的個性の念が起こつてこないうちは、死といふことを眞面目に考へることはできない。して、この點に於ては、子供の考へ方が、自意識を有する成人よりも、恐らくは一層正鵠を得てゐるだらう。無論、もし或る晴天の日、これらの子供達が、遊び仲間の一人は永久に去つてしまつた――他の場所で再生するために去つて行つたと告げられるならば、漠然ながらも眞實に損失の念を感じ、はでやかな袖を以て、幾たびも目を拭ふこととなるだらう。しかし間もなく、損失は忘れられ、遊戲は復た開始されるだらう。物の存在がなくなるといふ觀念は、子供心にはなかなかわかりかねる。蝶や鳥や花や葉や樂しい夏そのものも、ただ死ぬる事の眞似をやつてゐるのだ――彼等は去つてしまつたやうでも、雪が消えてから、すべてまた皆歸つてくる。死に對する眞の悲哀と恐怖は、疑惑及び苦痛に對する經驗を徐々に積んだ後、始めて私共の心中に起こつてくるのである。して、これらの男兒や女子は日本人であり、また佛敎徒であるから、死について、讀者諸君や私が感ずるやうには、將來決して感ずることはないだらう。彼等は誰れか他人のためには、それを恐怖すべき理由を見出すだらうが、彼等自身のためには決して見出さないだらう。何故なら、彼等は既に幾百萬遍も死んできてゐるので、丁度誰れでも引き續いた齒痛の苦を忘れる通り、その苦痛を忘れてゐるだらうからである。花崗岩にまれ、蛛網[やぶちゃん注:「くものす」と当て訓しておく。]の絲にまれ、すべての物質は、幽靈のやうなものだと敎へる彼等の信條のあやしくも透徹せる先に照らしてみれば――恰も最近發見されたエックス光線が、筋肉組織の不思議界を照明する如くに――この現在の世界は、彼等が子供時代に作つた粘土の風景に於けるよりは、一層大きな山や川や田はあつても、彼等に取つて更に一層現實なものと思はれることはないだらう。して、恐らくは更に一層現實なものではあるまい。

[やぶちゃん注:「最近發見されたエックス光線」X線はドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲン(Wilhelm Conrad Röntgen 一八四五年~一九二三年)が本書刊行の二年前の、一八九五年十一月八日に発見した特定の波長域(0.01~数百Å)を持つ電磁波。彼はこの功績によって一九〇一年の第1回ノーベル物理学賞を受賞している。「X」という呼称の由来は数学の「未知数」を表わす「X」で、レントゲンの命名に由る。]

 この考が浮かぶと共に、私は不意に輕い打擊を覺えた。これは私のよく馴れてゐる打擊である。して、私は物質非實在の思想に襲はれたのだと知つた。

 

 この萬物空虛の念は、ただ大氣の溫度が、生命の温度と頗る均等なる關係狀態を呈して[やぶちゃん注:「溫」「温」の混在はママ。]、私が肉體を有してゐることを忘れるやうな場合にのみ起こつてくる。寒氣は堅强といふ苦しい觀念を促す。寒氣は個人性といふ迷想を銳くする。寒氣は主我慾を盛んならしめる。寒氣は思想を麻痺させる。して、夢の小さな翼を縮めてしまう。

 今日は溫かい、靜かな天氣で、一切のものをありのま〻に考へることのできるやうな日だ――海も山も野も、その上を蔽へる靑い空虛の穹窿に劣らず現實らしくない。すべてのものが蜃氣樓だ――私の肉體的自我も、日光にてらされた道路も、眠さうな風のもとにゆるく漣波[やぶちゃん注:「さざなみ」。]をうつてゐる穀物も。稻田の靄氣[やぶちゃん注:「あいき」だが、「もや」と当て訓しておく。]の向うにある草葺の屋根も、それから遠く一切のものの後にある、山骨[やぶちゃん注:「さんこつ」。山の土砂が崩れ落ちて岩石の露出した部分。ガレ場。]の露はれた丘陵の靑い皺も。私は私自身が幽靈であるといふ感じと、また幽靈に襲はれてゐるといふ感じの、二重の感じを有つてゐる――世界といふすばらしく明かるい幽靈に襲はれて。

 

 その野原には男や女が働いてゐる。彼等は色彩を帶びたる動く影だ。して、彼等の足の下の土――それから彼等は出でたのだ、して、またそれへ歸つて行くだらう――も同樣に影だ。ただ彼等の背後に潜める、生殺の力こそ眞實なのだ――隨つて見えないのだ。

 夜がすべての更に小さな影を呑み込んでしまう如く、この幻像的な上は畢竟私共を呑み込んで、それからそのま〻消滅してしまうであらう。しかし小さな影も、その影を喰べたものも、その消えたのと同樣確實に、また現はれるにきまつてゐる――何處かで、何とかして、復た物質化するに相違ない。私の足の下のこの土地は、天(あま)の河と同じほどに古い。それを何と呼ばうとも――粘土といひ、土壤といひ、塵土といつても――その名は單に何等それとは共通性なき人間の感覺の象徵に過ぎない。實際それは名がなく、また名を附することもできない。ただ勢力、傾向、無限の可能性の團塊である。何故なら、それはかの際涯なき生死の海が打ちよせて作つたものだからである――生死の海の巨濤は、永遠の夜から密かに波を打ち乍ら、碎けて星の泡沫[やぶちゃん注:「しぶき」或いは「うたかた」。]と散つてゐるのだ。それは無生命ではない。それは生命によつて自らを養ひ、また有形の生命がそれから生ずる。それは業報の塵土であつて、新しい結合に入らうと待ちかまへてゐる――佛者が中有[やぶちゃん注:「ちゆうう」。]と稱する、生と生の中間狀態に於ける、祖先の塵土である。それは全く活力から作られてゐる。して、活力以外の如何なるものからも作られてゐない。しかもそれらの活力は、單にこの地球だけのものでなく、數へきれぬほどの既に消滅し去つた世界の活力を含んでゐる。

[やぶちゃん注:「中有」は「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「陰(いん)」・「有(う)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。若い諸君は、まず、芥川龍之介の「藪の中」で初見するものであろう。]

 

 苟も目に見えるもの、手に觸れうるもの、量りうべきもので、嘗て感性の混じたことのないものがあるか――快樂或は苦痛につれて振動したことのない原子、叫び或は聲でなかつた空氣、淚でなかつた點滴があるか。たしかにこの塵土は感じたことがある。それは私共が知つてゐる一切のものであつた。また幾多私共が知り得ないものでもあつた。それは星雲や恒星であつたり、惑星や月であつたことが、幾たびであつたか云ひつくせない。それはまた神でもあつた――太陽の神であつて、邈乎[やぶちゃん注:「ばくこ(ばっこ)」。遙かに遠いさま。年代の遠く隔たるさま。]たる昔の時代に於て、多くの世界がそれをめぐつて拜んだのであつた。『人よ、汝はただ塵に過ぎざることを記憶せよ』――この語はただ物質主義說としては深遠であるが、その見解未だ皮相の域を脫してゐない。何故といふに、塵はどんなものか。『塵よ、汝は太陽たりしことを記憶せよ。また再び太陽となるべきことをも記憶せよ……汝は光明、生命、愛たりしなり。而して今後また、永劫不斷の宇宙的魔法により、必らず幾たびも斯く變化せん』

 

 何故なら、この宇宙といふ大幻像は、單に發展と滅亡の交替以上のものであるからである。それは無限の輪𢌞である。それは果てしなき轉生である。かの古昔の肉體復活の預言は、虛僞ではなかつた。それは寧ろあらゆる神話よりも大きく、あらゆる宗敎よりも深い眞理の豫表であつた。

 幾多の太陽は、彼等の炎の生命を失つてしまう。しかし火の消えた彼等の墓から、また新しい幾多の太陽が元氣よく現はれてくる。幾多の滅んだ世界の死骸は、すべて或る太陽の作用による火葬壇へ移つてゆく。しかし彼等自身の灰燼から、彼等はまた生まれる。この地球の世界も滅びるにきまつてゐる。その海洋は悉く幾多サハラの沙漠を現出することとなるだらう。しかしそれらの海洋は、嘗ては太陽のうちに存してゐたのである。して、その枯死した潮流は、火によつて生き返されて、また別世界の海岸に轟々たる波を打ち寄せるであらう。轉生と變形――これらは寓話ではないのだ! どんなことが不可能だらう? 鍊金術者と詩人の夢は、決して不可能ではない――實際鐡渣[やぶちゃん注:鉄の滓(おり)・沈殿物。]を黃金に、寶玉を生ける眼に、花を肉に變化することができる。どんなことが不可能だらうか? もし海洋が世界から太陽へ、太陽からまた世界へと移つて行くことができるならば、死滅した個性の塵土――記憶と思想の塵土は、どうなるだらうか? 復活は存在する――しかし西洋の信仰で夢想されてゐるいかなるものよりも、一層偉大なる復活だ。死んだ感情は、消滅した太陽や月と同じく確實に復活するであらう。ただ私共が現今認知しうる限りでは、全然同一個性の復歸といふものはないだらう。再現はいつも以前存在してゐたのを再び結合したもの、類緣のものを整理したもの、前世の經驗の滲みこんだ生命が更に完成されたものであるだらう。宇宙は業報である。

 自身は無常だといふ觀念から私共が畏縮するのは、單に迷妄と痴愚のためである。何故なら、元來私共の個性とは何であるか。極めて明白に、それは毫も個性ではない。それは數へ盡くされぬほどの複雜性である。人間の身體はどんなものか。幾萬億の生ける實體から作られた形態、細胞と呼ばる〻個體の一時的の聚團である。それから、人間の靈魂はどんなものか。幾億兆の靈魂の複合物である。私共は一人殘らず悉くみな、以前に生きてゐた生命の斷片の、限りなき複合物である。して、絕えず人格を分解させては、また構成する宇宙的作用は、私共一人一人の上に恆久に行はれ、また現在の瞬間にも行はれてゐる。いかなる人でも、嘗て全然新しい感情、絕對に新しい思想を有したことがあるか。私共の一切の感情と思想と希望は、いかに人生の移り行く季節を通して變化し生長するにしても、ただ他の人々――大部分は死滅した人々、幾億兆の過去の人々――の感覺と觀念と欲望の集合と再度の集合に過ぎない。細胞と靈魂はそれら自身、再度の集合であつて、過去に於てさまざまの力の編まれたのが、更に現在に於て聚結せるものである――それらの力に就いては、それは宇宙間一切の幻影を作る造物主のものだといふことを除いては、何事もわかつてゐない。

 諸君が(私が諸君といふのは、靈魂の他の聚團――私のよりも外の聚團を意味する)果たして眞に一個の聚團として不滅を願ふか否か、私は斷言する事ができない。しかし私は告白するが、『わが心はわれに取つて一王國なり』ではない。寧ろそれは奇怪なる共和國である。それは南米諸共和國に頻發する革命騷動によるよりも、一層多く日々惱まされてゐる。して、合理的と想像せられてゐる名目上の政府は、かかる紊亂[やぶちゃん注:「ぶんらん・びんらん(後者は慣用音)」。秩序・風紀などが乱れること。また、乱すこと。]の永續は望ましくないと宣言してゐる。私の心には、空高く翔らうと欲する靈魂もあれば、水の中(海水だと私は思ふ)を游泳しようと欲する靈魂もある。また、森林の中或は山の絕頂に住まうと欲する靈魂もある。それから、大都會の喧囂[やぶちゃん注:「喧囂」は「けんがう(けんごう)」で、喧喧囂囂。がやがやとやかましいこと、そうすること、また、そのさま。]雜沓をあこがれる靈魂や、熱帶地方の孤獨な場所に住まうと願ふ靈魂もある。更にまた、裸體的野蠻のいろいろな程度にあるもの――租稅を納める必要なき遊牧的自由を要求するもの――保守的且つ纎麗優雅で、帝國と封建的傳統に對して忠良なるもの――虛無主義で、サイベリヤ[やぶちゃん注:“Siberia”。シベリア。]の流刑に値するやうなもの――袖手[やぶちゃん注:「しうしゆ(しゅうしゅ)」。懐手(ふところで)。労を惜しんで、自分からは手を下さないこと。]、無爲を嫌つてぢつと落ち著いて居られぬもの――非常な默想的孤立に安住してゐて、ただ多年を隔てて折々そのうごめくのを私が感じうるやうな仙人じみたもの――呪物崇拜の信仰を有するもの――多神敎的なるもの――囘々敎[やぶちゃん注:イスラム教。]を主張するもの――僧院の蔭と抹香の薰り、蠟燭の幽かな光とゴシック建築の暗影と崇高を愛する中世的なもの――さまざまの靈魂が私の中に入つてゐる。これらの一切の間に於ける協同一致は思ひもよらぬことである。いつも惱みがある――反抗、紛擾、內亂が起こる。大多數のものは、かかる狀態を嫌つてゐる。欣んで他へ移住しようとするものも多くある。して、少數の賢明なものは現存組織の全滅後でなくては、一層よい狀態を望んでも結局駄目だと感じてゐる。

 

 私が一個人――一個の靈魂! 否、私は一つの群衆である――幾萬兆といふ、考も及ばないほど夥しい群衆なのだ。私は時代に時代を重ね、劫億に劫億を積んだものだ。今私を作つてゐる集合は、數へきれぬほどたびたび解散しては、また他の散らばつたものとまじり合つたのである。だから、次囘の消散分解を何の懸念すべきことがあらうか? 恐らくは、太陽のさまざまの時代、燃燒の幾億萬年を經た後に、私を組織する最上の要素が、再び集合することがあるかも知れない。

 

 『何故』といふ理由の說明を想像しさへも得らる〻ならば! 『何處から』と『何處へ』の問題に、それよりも遙かに困難が少い。その譯は、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]漠然ながらも、現在が未來と過去を私共に確保するからである。しかし『何故』は!

 

 少女のやさしい聲が、私の空想を醒ました。彼女は『人』といふ漢字の書き方を幼弟に敎へようとしてゐる。初め彼女は砂の中へ、右から左へ向けで、下方へ傾斜する一畫[やぶちゃん注:「いつかく」。]を引く――

 

Img_001

 

 それから、彼女は左から右へ向けて、下方へ曲線をなす一畫を引く――

 

Img_002

 

 この二つを結合して、完全な一字を成すやうに書いたのが『人』である。男女の性如何を問はず人を意味する。または人類を意味する――

 

Img_003

 

 次に彼女は、この字形の意義を實際的說明によつて、幼兒の記憶に印しようと試みた――この說明法は多分學校で學んだのだらう。彼女は一つの木片を二つに割つて、それから、文字の二畫が成すと殆ど同じ角度に、木の二小片を互に釣り合はせるやうにした。『さあ、御覽なさい』と、彼女はいつた。『一方は片一方の助けがあればこそこんなに立つてゐるのよ。一方だけでは立てませんわね。だから、この字は「人」です。人は助けがなくては、この世に生きて行かれません。助けられたり助けたりして、誰れも生きてゆけるのですよ。もしみんながほかの人を助けなければ、みんな悉く倒れて、死んでしまうのです』

 この說明は言語學的には正確ではない。左右の兩畫は、進化論によれば、一對の足を現はしてゐる――原始時代の畫文字[やぶちゃん注:「ゑもじ」。]に現はれた人間の身體全部の形が、現代の表意文字には兩肢だけ遺存して表はれてゐるのだ。しかし美はしい敎訓的空想の方が、科學的事實よりも一層多く重要である。それはまたあらゆる形狀、あらゆる出來事に賦與するに倫理的意義を以てする、古風な敎授法の一つの面白い實例である。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]、單に道德的知識の一條項としても、それはすべての世俗的宗敎の心髓と、すべての世俗的哲學の最良部分を含んでゐる。この鳩のやうなやさしい聲を有し、ただ一つの文字の無邪氣な福音を說く可愛らしい乙女は、實に世界的尼僧である! 眞にその福音のうちにこそ、究竟の問題に對する唯一の可能なる現在の答が存してゐる。もしその完全なる意義が世界一般に感ぜられ――愛と助けの精神的並びに物質的法則の完全なる暗示が、普く[やぶちゃん注:「あまねく」。]遵奉さる〻に至らば、理想主義者の說に從へぱ、忽然此一見堅牢な具象世界は煙と消えてしまうであらう! 何故なら、いかなる時にも、苟も一切人間の心が、思惟と意志に於て大敎主の心に一致する場合は、『一塊土一粒塵と雖も佛道を成就せざるものは莫からむ[やぶちゃん注:「なからむ」。]』と、書いてあるから。

[やぶちゃん注:「人」の解字は小泉八雲が語る如く、ヒトを横から見た象形で、一画目は「頭から手まで」を表わし、二画目は「胴体から足まで」を表わしたものである。サイト「JapanKnowledge」の「第10 人の形から生まれた文字〔1〕」が甲骨文も表示されていて、よい。しかし、小泉八雲の少女への讃辞には心から完全に同意するものである。

 なお、意味は腑に落ちるものの、最後の引用仏典は私には不明である。識者の御教授を乞う。

「書いてあるから。」の「る」は、底本では、脱字空白である。補った。]

 

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