昭和一一(一九三六)年十一月第一書房刊「家庭版小泉八雲全集」第七卷「あとがき」(大谷正信・岡田哲藏・田部隆次)
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年4月20日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十一年十一月二十七日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本文はここから。
また、本文中の底本の本文の翻訳作品名の部分には、私の当該電子化作へリンクを張って便宜を図った。]
あ と が き
『靈の日本』“ln Ghostly Japan”中の『香』は譯者が明治三十一年[やぶちゃん注:一八九八年。]二月に提供した材料に依つて物されたものである。譯者はまた材料を主として『群書類從』の遊戲部に收めてある諸書と社會事彙のカウとから得た。
[やぶちゃん注:「社會事彙」本邦初の西欧的百科事典である「日本社會事彙」。全二巻(索引別巻は未刊行)で明治二三(一八九〇)年から翌年にかけて経済雑誌社から刊行された。「カウ」は「香」の項という意で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。膨大な記載で、「カウ」以降にも「香合はせ」についての記載も続く。]
『佛足石』は譯者が同年九月に提供した材料に依つて物されたものである。佛語の英譯に就いては譯者は今の東洋大學敎授島地大等氏の敎示を仰いだ。插繪のうち、傳通院の佛足跡は、譯者自ら鉛筆を用ひて石刷にしたのを縮寫したもの、『諸囘向寶鑑』のは、透き寫しにしたものである。傳通院のの、側面に彫つてある經語と記念の文とは、譯文では原英文を逐字譯にせずに、原(もと)のものをそのま〻揭げることにした。
『小さな詩』は譯者が同三十年三月に提供した一文に依つて物されたものである。原著者は、學生の、殊に大學生の、和歌俳句を多く見たがつてゐたのであつたが、現今とは違つて作者が至つて尠く、譯者は當時は少かつた高等學校の校友會雜誌總てを涉獵しまでしたが、充分の材料を提供することが出來なかつた。文中引用のもので、原歌原句の記憶を逸して居るのが多くあるのは遺憾である。その原作者を判知し得たのには、その雅號を附記して置いた。
『佛敎に緣のある日本の諺』は、譯者が同年五月に提供したものである。藤井乙男氏の『諺語大辭典』(四十三年出版)が出てゐたなら、苦も無く拔萃し得たであらうが、完全に俚諺を蒐めた書物が無かつたので、譯者は東京大學と上野との兩圖書館で、諺の載つて居る書物總てを涉獵して、やつとあれだけ蒐めたのであつた。原書では、諺を羅馬字で揭げ、一々英譯してあるのであるが、その通りに逐語譯にしては日本の讀者には讀みづらからうと思つたので、その羅馬字を、假名で無く、普通の文字で書き改めるだけのことにした。然しその註譯は總て原英文を逐字譯にして置いた。
『燒津にて』は原著者の同地での見聞と冥想とから成つて居ることは言はずもである。
『影』“Shadowings”の中の『蟬』[やぶちゃん注:リンク先以下、分割三回。]は譯者が明治三十二年六月に提供した文に依つて物されたものである。譯註した方がよからうと思つたことは、譯文の終に添へて置いた。引用の俳句の原作者の名を悉く添記しようと思つたが、判斷しかねるのがあるのは遺憾である。なほ本書の單行本には、この『蟬』に蟬の繪が五枚揷入されてゐて、その繪に就いての說明が文末に揭げられて居るが、本譯にはその繪を省くことにしたので、說明も從つてまた省略したことを諒知せられたい。[やぶちゃん注:リンク先の電子化では、英文原本から挿絵を総て掲げてある。]
『日本の女の名』[やぶちゃん注:リンク先以下、分割三回。](岡田氏譯)は同三十二年五月に譯者が提供した材料に依つて物されたのである。譯者はまたその材料の主要な部分を、本全集譯者の一人たる、この一文の譯者たる岡田哲藏氏の『哲學雜誌』に發表された硏究論文から得た。
『日本の古い歌』[やぶちゃん注:リンク先以下、分割二回。]は譯者が同三十一年十月十二月及び三十二年三月四月に提供した材料に依つて物されたものである。譯者は神樂歌と催馬樂とは全部飜譯して提供したのであつた。『地方の歌』は主として博文館發行の『日本歌謠類聚』から採つた。文の初に『一靑年詩人』とあるは譯者である。原英文では、引用の歌は發音通り羅馬字で書いて、一々散文譯してあるのが多いが、そのま〻逐字譯しては日本の讀者には煩しからうから、羅馬字のところだけ普通の文字に書き更めるだけにした。然し註釋は總て逐字譯にして置いた。なほ文末の『繪卷踊歌』と『お吉淸三くどき』とは、原文には散文譯だけ揭げてあるのであるが、これはそれを逐字譯とはせずに――殊にその後者の原歌を知つて居る者は多分譯者だけで、今後原歌を知らうにも知れまいから、原歌を揭げることにした。
『日本雜錄』“A Japanese Miscellany”中の『蜻蛉』[やぶちゃん注:リンク先以下、分割三回。]は譯者が明治三十三年三月に提供した一文に依つて物されたものである。文中『或る日本詩人』とあるもの、『此の一文に引用して居る詩歌全體、並びになほ幾百首の詩歌を自分の爲めに蒐めた友人』とあるものは、共に譯者である。『五十二卷』と書いてあるのは大袈裟では無い。或は譯者が見落ししたかも知れぬが、類題秋草集、同石川歌集、同鏡池集、同桑の若集、同採花集、同新英集、同近世和歌集、同月波集、同新竹集、同芳風集、同明治新和歌集、同和歌聯玉集、同鰒玉集[やぶちゃん注:「ふくぎよくしふ」。以上の類題和歌集の解説は面倒なので注さない。]、その他に、蜻蛉の歌は一首も載つてゐない。蜻蛉の俳句を多く集め得たのは(原著者が使用しなかつたのが非常に多い)故正岡子規がその『俳句分類』(未刊行)を譯者に貸して吳れたお蔭であつた。引用句は、他の文のものと同樣に、羅馬字で示してある原句だけ普通の文字に書き更めて、その散文譯を復譯することをしなかつた。そして原英文には作者の名が舉げて無いが、讀者の爲めに、判知し得たものは添へて記して置いた。
[やぶちゃん注:既に何度も注しているが、再掲しておくと、本著者大谷正信(明治八(一八七五)年~昭和八(一九三三)年)はペン・ネーム(俳号)を繞石(ぎょうせき)と称した松江市末次本町生まれの英文学者・俳人で、島根県尋常中学校での小泉八雲の教え子であり、学生の中でも最もハーンの信任を得た人物の一人であった後、京都第三高等学校から学制改革で仙台第二高等学校へ転じた(第三高等学校・第二高等学校では同級生に高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃から俳句への傾倒が始まっている)。明治二九(一八九六)年に第二高等学校を卒業すると、東京帝国大学英文学科に入学したが、まさに同年、小泉八雲が同大学に赴任し、再会を果たしていた、まさに純粋培養の直弟子なのである。また、大谷は、この東京大学在学中に正岡子規に出会い、本格的に俳句の道に精進することとなったのであった。]
『佛敎に緣のある動植物の名』[やぶちゃん注:リンク先以下、分割三回。]は譯者が同三十一年八月に提供したものである。譯者は原著者からその蒐集を依賴された時、實は一時途方に暮れたのであつたが、そんな名をただ漫然と思ひ出さうと力める[やぶちゃん注:「つとめる」。]よりか、日本語總てを集めたものを蝨つぶし[やぶちゃん注:「しらみつぶし」。]に調べる方が有效だと考へて、その七八兩月を費して、『言海』と山田美妙の辭書とを左右に置いて、最初の頁の『あ』から最後の頁の『ををる』まで、一語一語見て行つて、苟も佛敎に緣がありさうだと思つたもの總てを集錄して提供したのであつた。
[やぶちゃん注:「山田美妙」言文一致の口語「です・ます」表現の濫觴として知られる、新体詩詩人で小説家の山田美妙(慶応四(一八六八)年~明治四三(一九一〇)年)は、元妻で、嘱望された弟子であった女流作家の田澤稲舟(たざわいなふね)の自殺未遂と病死(明治二九(一八九六)年)によって道義的批難を浴び、文壇を遠ざけられたが、その後、評論や時事小説を書き、また、辞書編集でも糊口を凌いだ。ウィキの「山田美妙」によれば、『国語辞典の編纂者としても著名で』「日本大辭書」(明治二四(一八九二)年や「大辭典」「式節用辭典」「人名事典」などの編集に関わった。特に「日本大辭書」『は美妙が口述し』たものを『速記したもの』であるが、本邦の国語辞典に於いて、『初めて語釈が口語体で書かれた』ものであり、これらには、『口語形、口頭語形、笑い声、泣き声なども豊富に立項していた(「あはは」「いひひ」「おほほ」「にこにこ」「うんにゃ」など)。また』、同辞書『は共通語のアクセントが付記された辞書としては』、『近代において最古のものとされ、日本語のアクセント研究の黎明を築いた』とある。]
『日本の子供の歌』[やぶちゃん注:リンク先以下、分割六回。]は譯者が同三十年十一月と三十三年九月とに提供したものに依つて物されたものである。譯者は主として『日本歌謠類聚』に據つた。引用の歌は『日本の古い歌』のと同樣に取扱つた。ただ、脚註は、日本の讀者には全然興味も利益もあるまいと思つた三四を除いて、逐字譯にして、『附記』としてその場所場所に添へて置いた。
[やぶちゃん注:「日本歌謠類聚」大和田建樹(たけき)編で明治三一(一八九八)年博文館「帝國文庫」刊。国立国会図書館デジタルコレクションで上巻・下巻が視認出来る。]
『海のほとりにて』は原著者が燒津で觀察したものを筆にしたものである。施餓鬼供養を始めるに當つての伽陀は原著者は自由譯にして居る、自分はそれを逐字譯にした。が、讀者の參考の總め、原偈を左に記して置かう。
[やぶちゃん注:「伽陀」(かだ)はサンスクリット語“gāthā” の漢音訳。「諷誦」(ふじゅ/ふうじゅ)と訳す。広義には「韻文体の歌謡・漢文の詩句・偈文」などを指すが、狭義には「十二部經」の一つで、経文の一段、又は、全体の終わりにある韻文体の詩句を指す。無論、ここは後者。
以下、四段で記されてあるが、ブラウザの不具合を考えて二段とした。「先亡久滅」を除いて(私の調べた限りでは「先亡久遠」)、私が注で示したものと変わらない。]
比丘比丘尼 發身奉持
一器淨食 普施十方
窮盡虛空 周遍法界
微塵刹中 所有國土
一切餓鬼 先亡久滅
山川地主 乃至曠野
諸鬼神等 請來集此
我今悲愍 普施汝食
願汝各各 受我此食
轉將供養 盡虛空界
以佛及聖 一切有情
汝與有情 普皆飽滿
亦願汝身 乘此呪食
離苦解說 生天受樂
十法淨土 隨意遊往
發菩提心 行菩提道
當來作佛 永莫退轉
前得道者 誓相度脫
又願汝等 晝夜恒常
擁護於我 滿我所願
願施此食 所生功德
普將𢌞施 法界有情
與諸有情 平等共有
共諸有情 同將此福
盡將𢌞向 眞如法界
無上菩提 一切智智
願速成佛 勿招餘果
願乘此法 疾得成佛
元著者はその二の終に『之を柳の木、桃の水、若しくは拓榴の木の下へ置いてはならぬといふ神祕的な規則がある』と書いて居るが、『施餓鬼通覽』には『地を拂ひ棚を造る。長さ三尺に過ぐべからず。但桃樹柘榴の外用ふることなかれ。鬼神おそれてこれを食ふことを得ず』とある。原著者の思ひ誤り乎。
『漂流』は事實談である。
大正十五年九月 大谷 正信
[やぶちゃん注:クレジットは底本ではポイント落ち。最後の署名は有意に大きいが、底本より引き上げてポイントも字配も一致させていない。以下同じ。
次は岡田哲蔵氏の「あとがき」。一部の私が電子化した旧作にも同様のリンクをさせた。]
『知られぬ日本の面影』の第十四章[やぶちゃん注:『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十四章 八重垣神社 (五)』である。]と・第十六章[やぶちゃん注:『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (五)』の終りの部分である。]とに著者がはやくから日本の女の名の問題に興味を有して居た證跡が見ゆる。その後、一八九九年[やぶちゃん注:明治三十二年。]四月大學にありし頃、同じ問題の硏究を思ひ立たれ大谷正信君に材料の蒐集を托されたことはその頃同君に贈られた書簡によつて明である。
明治三十年頃東京の文科大學に一選科生として在學した私は哲學科に居たので、英文科の講義は稀に傍聽するに過ぎず、隨つて著者の講筵に侍したことも至つて少い。然るにその頃元良勇次郞敎授の心理學の科に於てした美感に關する一硏究が哲學雜誌に載せられたのを、大谷君がその一部を材料として、他の材料と共に著者に提供された爲、『日本の女の名』[やぶちゃん注:リンク先から以下、三分割。]の一篇を助成するの光榮を有したのであつて、その緣によつて田部君の勸誘を受け飜譯は不得意ながら私も今囘同篇と外に『幻想(フアンタジース)』と『囘顧(スレトロスペクテイヴス)』とを擔當して本全集譯述のうちに加はることとなつた。
[やぶちゃん注:作品集「影」の最終パート標題は“ FANTASIES ”(「幻想」)で、そこには「夜光蟲」・「群集の神祕」・「ゴシック建築の恐怖」・「夢飛行」・「夢書の讀物」・「一對の眼のうち」が含まれ、その総てが岡田哲蔵の訳である。それが前者『幻想(フアンタジース)』で、後の方は、同全集で「異國情趣と囘顧」(原題“ EXOTICS AND RETROSPECTIVES ”:明治三一(一八九八)年刊。第一書房家庭版では第六巻。後日電子化予定)で十篇の訳を担当しており、その後半のパート「初の諸印象」の標題が「囘顧」であることを指していよう。頭の「ス」はママ。普通は、どう音写しても「レトロスペクティヴズ」であるから、「ス」は植字工のミスだろう。]
著者はこの女の硏究は皮相に過ぎまいが、西洋の讀者には興味を覺えさするに足らうと云つて居らるる(一九〇〇年二月二十二日大谷君宛書簡)。それで分類なども十分正確とはいはれぬところもある。なほ名稱の意味などを誤解されたらしく見ゆるところも少く無いので多少の註記をしておいた。
『幻想』の方ははじめの『夜光蟲』が特に美はしい文である。それに次で終の『一對の眼のうち』が美はしい。其他は美文よりは寧ろ硏究的論文であるが、それ等を一貫する趣意は著者の進化論の信念に基き、現在の我々の性向や感情や行動は過去の生物の一切の經驗の遺傳的結成であるとの思想が反覆して說明されて居る。尙ほその表現は夢にも及ぶものとして夢に關する三篇を成して居る。 然るに我々はただ祖先の經驗を反覆しつ〻あるとすれば、何の自由も無く創造もあり得ぬのであるが、我々の努力によりて、後の世の光明の爲、歡喜の爲、勝利の爲に、效果を舉げ得るとの思想が、『夢書の讀物』の終の個人の體に宿れる諸靈の言に示されて居るのを見れば、そこに自由創造の根柢を見る。同時にかく努力せずして一生を空ふする[やぶちゃん注:「むなしふする」。]の恐ろしさを覺え、それと共に著者精進力作の本領を見る如く感ぜらる。
『一對の眼のうち』の中に、その眼を見るときの戰慄……それは『一の潜在、一の力、――宇宙的エーテルほどに測り難き深さのさす影である』[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]といふところに、一卷の名となれる影卽ち Shadowings の語が示されて居る[やぶちゃん注:太字下線「影」は底本では傍点「○」。]。著者がその書に名づけた意味もまたこの進化化的遺傳の思想より來れるのであらう。
「囘顧」も「幻想」も共にその初にマシウ・アァノルドの「未來」(The Future)[やぶちゃん注:孰れもここは普通の鍵括弧である。]の詩句が引いてある。この詩は平原の川に源流の淸澄はまた見がたきも海近き下流の洋々たる壯大はまた特別なることを歌つたのである。それを愛でた著者の心も察せられる。なほ佛敎に興味を有しつ〻も殆ど悲觀の跡を見ぬはか〻る未來の偉大を想望された爲めならんと思はる。
岡田 哲藏
[やぶちゃん注:『「囘顧」も「幻想」も共にその初にマシウ・アァノルドの「未來」(The Future)の詩句が引いてある』「幻想」パートのそれは、「夜光蟲」の頭に配しておいた(注も附してある)。前者は未だ電子化していないが、第一書房家庭版第六巻の当該「囘顧」パートの標題脇に、
*
『無限の海の囁きと香ひと』
マシウ・アァノルドの「未來」より
*
とあるのを指す。【追記】直後に『小泉八雲 初の諸印象 (岡田哲藏譯) / 作品集「異國情趣と囘顧」の「囘顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』で電子化注したので見られたい。
以下、田部隆次の「あとがき」。]
『靈の日本』は一八九九年(明治三十二年)、『影』は一九〇〇年、『日本雜錄』は一九〇一年、何れもボストンのリッツル・ブラウン會社及びロンドンのサムスン・ロウ會社から出版された。リッツル・ブラウンから出版されたヘルンの書物は、『異國情趣と囘顧』とこの三册であつた。何れも初版は在米日本畫家の裝釘になつたと見えて綺麗にできたのでへルンも滿足した。『外國情趣と囘顧』をへルンは「へちまの本」【、】『靈の日本』を「蓮(はす)の本」【、】『影』を「梅の本」【、】『日本雜錄』を「櫻の本」と呼んでゐたのは表裝はそれぞれその意匠でできてゐたからであつた。
[やぶちゃん注:【、】は私が特異的に補ったことを指す。「それぞれ」は底本「それそれ」であるが、濁点を特異的に補った。
「ロンドンのサムスン・ロウ會社」気が付かなかったが、英文の書誌を調べたところ、ロンドンの「Sampson Low」(サンプソン・ロウ)という出版社からも同時発売されていることが判った。]
『靈の日本』はアリス・フオン・ベーレンズ夫人へ、『影』はマックドーナルド主計監へ、『日本雜錄』はヱリデザベス・ビスランド・ウヱットモア夫人へ捧呈してある。以前に發表された物は三書を通じて一篇もない。
『靈の日本』のうち、[やぶちゃん注:以下では、鍵括弧を使い分けている(但し、その弁別は『牡丹燈籠』では、おかしい)。後も同じ。]
「斷片」はフヱノロサ夫人から聞いた話によつたと聞いて居る。
「振袖」は明曆の大火に關する俗說を夫人から聞いた物。その時起つた風は、今もその季節にきまつて起る西北の風であつたらうが、ヘルンは「海の風」と云ふ字を好んで使用した。
「占の話」は出雲の易者の事實談。そこに出て居る支那の話は『梅花心易掌中指南』と題する易の書物の始めにある話によつた。ここでもヘルンは陰曆四月十七日、主人公卲康節の午睡の原因を、原文によらないで、極暑のためとして居る。[やぶちゃん注:う~ん、田部氏の言っている「原文によらないで」の謂いが、よく判らない。陰暦四月十七日は現在の四月下旬から六月上旬に当たる。彼の住んでいたのは、北京の南西の内陸で、国立国会図書館デジタルコレクションに中根松伯著で明治二六(一八九三)年文魁堂刊の「初卷」の巻頭に「家伝邵康節先生心易卦數序」の当該部を見ても、極暑とも書いてないが、極寒ともしない。六月上旬なら、地柄から、極暑もあろうと思う。]
「惡因緣」この『牡丹燈籠』の話は『夜窓鬼談』によつたらしい。圓朝は話を創作して自ら高座で物語つたのであるから、西洋で云ふ意味で小說家としたのであつた。ヘルンは菊五郞の芝居を見たやうに書いて居るが、實際東京では時間を惜しんで芝居を見た事はなかつた。しかし夫人と共に團子坂から新幡隨院を車で訪うて、この編の終りに書いたやうな事件を經驗したのであつた。
「吠」牛込區富久町時代に、その家にゐた犬の話に基いて居る。
「因果話」は『百物語』第十四席松林伯圓の話、[やぶちゃん注:読点はママ。以下も同じ。]
「天狗の話」は『十訓抄』にある話によつた。
『影』のうち
「和解」は『今昔物語』中の「人妻死後成二本形一會二舊夫一語」とも、又「亡妻靈値二舊夫一語」とも題した一篇、
[やぶちゃん注:標題を二種上げるのは伝本の違いに拠る。前者は「人の妻(め)、死にて後(のち)、舊(もと)の夫(をうと)に會ふ語(こと)」、後者は「亡き妻の靈、舊の夫に値(あ)ふ語(こと)」と読む。]
「普賢菩薩の話」は『十訓抄』にある話、
「衝立の女」は『御伽百物語』中、「繪の女人に娶る、附たり江戶菱川の事」と題する一篇、[やぶちゃん注:田部の本文での訳題は「衝立の乙女」である。]
「死骸に乘つた人」は『今昔物語』中の「人妻成二惡靈一除二其害一陰陽師話」[やぶちゃん注:「話」はママ。「語」の田部の誤り、或いは誤植。]と題する物、[やぶちゃん注:田部の本文での訳題は「屍に乘る人」である。前と、これは、甚だ、不審である。]
「辨天の同情」は『御伽百物語』中の「宿世の緣」と題する物、
「鮫人の感謝」は馬琴の『戲聞あんばい餘史』と題する小話集のうちの「鮫人」によつた。
『日本雜錄』のうち、
「約束」は『雨月物語』中の「菊花の約」、
「破約」は出雲の傳說、夫人の語るところ、
「閻魔の庁にて」は『佛敎百科全書』中「邪神の事」と題する物、
「果心居士の話」は『夜窓鬼談』の「果心居士」、
「梅津忠兵衞」は『佛敎百科全書』中「產神の事」と題する一篇、
「僧興義の話」は『雨月物語』中「夢應の鯉魚」と題する物によつた。
「橋の上」は熊本見聞談の一つ、車夫平七はヘルン家でいつも雇うた實在の人物、話も事實談。
「お大の例」名は變つてあるが、松江にある事實談。改宗の證に位牌を捨てさせる事が行はれたのであつた。ヘルンはこの話をチヱムバレン氏への手祇にも書いて居る。
「乙吉の達磨」のうちに、雪達磨をつくつた二人の書生の名が出て居る。一人は名で呼ばれ一人は姓で呼ばれて居るが、これはその時の呼びくせてあつた。光(あき)は玉木光榮(あきひで)の事、親戚に當るので、光(こう)[やぶちゃん注:口語通り。]ちやんと呼ばれてゐた。當時早稻田の學生、今は大阪の會社員、新美の方は、新美資良(すけよし)と云ふ一高の學生であつたが、後病死した。ここにある童謠は當時富久町の小泉家の向ひに住んで、小泉家に出入した中村淸吉と云ふ車夫が小泉家の若い人々に敎へた物であつた。この人の卽興の歌であつたか、東京の一部に行はれたものであろうか、或はこの人の鄕里であつたと云ふ茨城のどこかで行はれた物か、たしかでない。夫人の說に隨へば、原文に出て居る物よりもつぎの歌の方が多く歌はれた。淸吉はこれを十の數に句切つて、丁度子供に數を敎へるための歌のやうに歌つたさうである。
ひに、ふに、
ふんだん、 達磨に、
ひるも、 夜も、
赤い、 づきん、
かぶら、 せう。
乙吉の名は燒津を材料にした諸篇に出て居る。靜岡縣燒津町、城の腰、山ロ乙吉と云ふ魚屋で、兼業として店には干物、ラムネ、草鞋などまで列べてゐた。この乙吉は大正十一年[やぶちゃん注:一九二二年。]一月死去して、今はその長男梅吉の代で、燒津で名高い鰹節問屋となつて居るが、屋號は今も山乙であると聞いて居る。篇末に出て居る乙吉の娘は、その後長く小泉家に仕へて、今では東京の人に嫁して居る。
[やぶちゃん注:「山乙」個人ブログ「EYASUKOの草取り日記」の「小泉八雲と焼津 (5)」に「やまおと」とある。]
目なし達磨の信仰はこの地方ばかりでなく、關東地方にも(東京府下にも)、行はれて居る。達磨を盲目にして置くばかりでなく、地藏を縛つたり、天氣の神に擬してつくつた所謂坊主(照れ照れ坊主)を縛つたりする荒つぽい信仰、恐喝的習慣の多いのは驚くべきである。
「日本の病院に於て」二男の巖君が書生につれられて散步中、過つて怪我をしたので、ヘルンがつれて番町の木澤病院に赴いた時の話である。この時から木澤院長を信じて、子供の病氣でも、女中の病氣でも、自分の齒痛でも外科専門の木澤院長にかかるやうになつた。最後に心臟病で亡くなつた時も木澤院長にかかつたのであった。『この人にかかつてなら死んでも遺憾ない』と云つてゐた。
大正十五年十月 田部 隆次
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