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2019/11/24

小泉八雲 街頭より (落合貞三郞譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ OUT OF THE STREET ”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“ Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST ”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第二話である。この底本の邦訳では殊更に「第〇章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月3日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本篇の大標題はここ、本篇本文はここから。


 訳者落合貞三郞(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で、郷里島根県の松江中学、及び、後に進学した東京帝国大学に於いて、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)/小泉八雲(帰化と改名は明治二九(一八九六)年二月十日。但し、著作では一貫して Lafcadio Hearn と署名している)に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は第六高等学校、学習院教授を勤めた。謂わば、小泉八雲の直弟子の一人である。

 途中に挟まれる注はポイント落ち字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで引き上げ、同ポイントで示した。歌詞の引用部分は底本では四字下げであるが、同前の理由から一字下げに改めた。]

 

      第二章 街 頭 よ り

 

       

 萬右衞門譯者注は、立派に筆寫せる日本字の卷物を私の机上に置きながらいつた。『これは俗謠で御座います。もし御本にお書きになる場合は、西洋人が誤解しないやうに、俗謠だとお斷りになつた方がよろしいでせう』

 

譯者註 これば、實は小泉夫人を指したのである。

 

 私の家の隣りに空地があつて、洗濯屋がそこで舊式な方法で仕事をしてゐる――働きながら歌をうたつて、大きな平らな石の上で、濕れた[やぶちゃん注:「ぬれた」と訓じておく。]衣類を打つのである。每朝昧爽[やぶちゃん注:「まいさう(まいそう)」。明け方のほの暗い時刻を指す。]、彼等

 

譯者註 本書は先生の神戶時代の著作である。神戶では、三回轉居せられたが、いつも下山手通、または中山手通であつた。

[やぶちゃん注:小泉八雲は熊本五高を明治二七(一八九四)年十月に辞め、神戸のクロニクル社に転職している(神戸着は十月十日前後。始めは下山手通り四丁目に居住した)。しかし、僅か三ヶ月後の翌明治二十八年一月には過労から眼を患い、同月三十日に同社を退社した。この間、七月に日本国籍を得る決心をしている(銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)には実際の『具体的な手続き』に入ったの『は、八月に入ってからと推測される』とある)。同年七月、山手通り六丁目に移転した。同年十二月に東京帝国大学文科大学の外山正一学長から英文学講師としての招聘を伝えられ(この十二月下旬に中山手通り七丁目に移転している)、翌明治二十九年九月七日に当該職に就くために東京に着いており、本書刊行時も現職であった。従って、神戸には一年六ヶ月ほど住んだことになる。なお、正確には本篇執筆時は「Lafcadio Hearn」であり、本刊行時は「小泉八雲」となる。彼の帰化手続が完了して「小泉八雲」と改名したのは、本書刊行の前年である明治二九(一八九六)年二月十日のことであった(但し、実際には生前に刊行された英文著作は改名以降も総て「Lafcadio Hearn」名義ではある)。]

 

の歌が私の眼を醒ます。して、私は往々文句を聽き取ることは出來ないが、それを聽くのは好きだ。それは長い、奇異な、哀れな抑揚に滿ちてゐる。昨日その洗濯屋の十五歲の小僧と主人が、互に答へ合つてゐるかのやうに、代はり番こに歌つてゐた。貝殼を透して響き渡るやうな朗かな大人の聲と、少年の嚠喨たる[やぶちゃん注:「りうりやう(りゅうりょう)」。楽器や音声が冴えてよく響くさま。]中音部(アルト)の聲の對照は、頗る聽き心地がよかつた。そこで私は萬右衞門を呼んで、何のことを歌つてゐるのか、尋ねてみた。

 彼はいつた。『少年の歌は、

 

 神代(かみよ)このかた、變はらぬものは、水の流と戀の道。

 

といふ古い歌で御座います。私の小さな時代に每度聞いたことがあみます』

 『それから今一つの歌は?』

 『今一つのは、多分新しいもので御座いませう。

 

 三年思つて、五年焦がれて、たつたひと晚だきしめた。

 

極[やぶちゃん注:「ごく」。]馬鹿らしい歌でございますよ』

 『それはどうか分からない』と、私はいつた。『西洋で有名な物語といつた處で、別段これよりえらいことを含んではゐない。それから、其歌のあとの部分は何の事だらう?』

 『もうあとはありませぬ。それがあの歌の全部でございます。もし御所望なら、私は洗濯屋の歌や、それからこの町內で、鍛冶屋や、大工や、竹細工師や、米搗きなどが歌つてゐますのを寫してあげませう。尤も大抵似よつたものでございます』

 さういふ譯で、萬右衞門は私のために俗謠集を作つてくれたのであつた。

 

 俗といふことは、萬右衞門の考では、一般民衆の言葉で書いたものといふ意味であつた。彼自身古典的の歌に巧みで、當世の流行歌を輕蔑してゐるから、餘程高尙優雅なものでなくては、彼の氣に入らない。して、彼の氣に入るものに關しては、私は書く資格がない。何故なら、日本の詩歌の優れた種類について喙を容れるためには、頗る立派な日本語の學者でなくてはならぬからである。もし讀者が、この問題のいかに困難なるかを知らうと思ふならば、アストン氏著『日本文語文典』“Grammar of the Japanese Written Language”の作詩學の章と、チエンバレン敎授著『日本古典詩』“Classical Poetry of the Japanese”の序論を一寸硏究するがよい。和歌は、日本がたしかに支那からも、またいかなる他の國からも藉りなかつた唯一の獨創的藝術である。して、その絕妙絕美は取りも直さず國語の花そのものの粹香[やぶちゃん注:“the very flower of the language itself”。精華。]なので、模造し得られないものである。だから、いかなる西洋語に於ても、よしや一部分でさへ、その情緖、暗示、色彩の幽趣微韵[やぶちゃん注:「いうしゆびゐん」。奥深く静かな風情と微かな響き。]を表現することは困難である。しかし民衆の作品を理解するためには、何等博學の必要はない。それはあらん限りの單純、直截、及び誠實といふ特徵を帶びてゐる。結局、その眞の妙處は、絕對に巧妙を弄しない點に存してゐる。だから私は民衆の歌を要求したのであつた。國民の永遠に若々しい心から直に湧きいでたる、これらの小さな歌の迸りは、あらゆる四民の原始的無飾不文の詩と同じく、局限されたる一階級、または一時代の生活に屬せずして、寧ろ一切の人生經驗に屬するものを吐露してゐる。して、その曲調のうちにさへ、矢張りその源泉たる、民衆の胸裡から發する新鮮潑剌として力强い鼓動が響いてゐる。

[やぶちゃん注:「アストン氏著『日本文語文典』“Grammar of the Japanese Written Language”」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年:十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい)が一八七二年に初版を、一八七七年に二版を出した、それ。

「チエンバレン敎授著『日本古典詩』“Classical Poetry of the Japanese”」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年:ハーンとは同い年であった。彼については私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 序/(一)』の私の注を参照されたい)が、一八八〇年に刊行したもの。]

 萬右衞門は四十七首を寫してゐた。して、彼の助力によつて、私はその中に就いて、秀逸なものの自由譯を試みた。それは甚だ短いもので、十七文字乃至三十一文字であつた。大槪日本の歌の韻律は、五字句と七字句の簡單なる交互から成つてゐる。俗曲で折々この規則に外れてゐる部分は、單に歌ひ手が、或る母音を滑唱したり、または延ばしたりして[やぶちゃん注:“by slurring or by prolonging certain vowel sounds”。特定の母音を滑らかに切らずに総て繋げて歌ったり(文字通り、音楽用語の「スラー」である)、或いは意図的に伸ばして歌うこと、であろう。]、繕つて行くことのできるやうな不齊[やぶちゃん注:「ふせい」。定格にそろわないこと。破格表現。]に過ぎない。萬右衞門が蒐集した歌の大部分は、ただ二十六文字であつた。七字句が三句連續して、それから五字句が一句附いてゐた。次の例の如くに――

[やぶちゃん注:この歌型自体は「都々逸」(どどいつ:江戸末期に初代都々逸坊扇歌(文化元(一八〇四)年(寛政八(一七九六)年とも)~嘉永五(一八五二)年)によって大成された当時の口語による定型歌。七・七・七・五)である。]

 

 かみよこのかた     七

 かはらぬものは     七

 みづのながれと     七

 こひのみち       五

 

 この構造から外れたものに、七一七―七―七―五、五一七一七一七―五、七―五一七―五、また五一七―五などの諸種があつた。しかし五―七―五―七―七で示さる〻古典的五句の短歌形式は全く見られなかつた。

[やぶちゃん注:都々逸の場合、他に「五字冠り」と呼ばれる「五・七・七・七・五」形式もある。]

 性を指示する言葉が歌詞の上に現はれてゐなかつた。『私』及び『汝』に對する語句は、滅多に用ひてない。また『愛人』といふ意味の言葉は、男に向つても、女に向つても、一樣に適用されてゐる。ただ或る比喩の慣習的意義によつたり、特別な感情的調子の使用によつたり、または服裝の或る細目が舉げてあるのによつて詠み人の性が暗示されてゐる。たとへば次の歌で――

 

 わたしや水萍(みづくさ)、根もない身の上、どこのいづくで、いつ花が咲く。

 

 詠み人は明らかに戀人を求めてゐる娘である。もし日本人がこのやうな比喩を男性の口から聞いた日には、丁度男が自らを菫や薔薇に喩へたのが、英人の耳に響くのと同じであらう。同一の理由で、次の歌に於ては詠み人は女でないといふことがわかる――

 

 梅と櫻を兩手に持つて、どれが實のなる花だやら。

 

 女の美は樓の花にも、また梅の花にも譬へられる。しかし梅の花の象徵する性質は、いつも有形的よりは察ろ精神的である。此歌では、或る男が、二人の娘に强い執着を感じてゐる。一人の娘は、容色が非常に綺麗である。多分藝者であらう。今一人の方は、性質が美はしい。いづれを一生の伴侶として、彼は選擇すべきであらうか。

 

註 「知られぬ日本の面影」下卷四四二頁參照。

[やぶちゃん注:落合のページ数は第一書房版全集の第三巻の当該ページを指している(原注は三百五十七ページとなっている)。私の電子化注では『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (五)』の以下であろう(原文に即した表記・配置に一部を戻して示す。注・引用は前後を一行空け、引き上げて同ポイントとした。なお、そちらの注で述べているが、「ケシユリ」は底本では「キシユリ」となっているものの、誤字か誤植であるので特異的に訂してある)。

   *

 梅の花は美に於て、確かに櫻の花の敵手であるのに、日本人は婦人の美をば――肉體美をば――櫻の花に較(たと)へて、決して梅の花には較へぬ。然しまた、之に反して、婦人の貞節と深切とは梅の花に例へて、決して櫻の花には例(たと)へぬ。或る著者が斷言したやうに、日本人は女を木や花に例へることを考へぬと斷言するのは大なる誤である。優しさには、少女はほつそりした柳に註一、若盛りの色香には、花の盛りの櫻に、心の麗はしさには、花の咲い

 

註一。『ヤナギゴシ』」といふ言葉は、ほつそりした美しさを柳の木に例へる、普通使用されて居る多くの言葉の一つである。

 

て居る梅の木に例へられて居る。それどころか、日本の昔の詩人は女をあらゆる美しい物に例へて居る。次記の歌に見るが如くに、その種々な姿勢に對し、その動作に對して、彼等は花から比喩を求めさへしてゐるのである。

 

 タテバ  シヤクヤク註二

 スワレバ  ボタン

 アルク  スガタハ

 ヒメユリ  ノ  ハナ

 

註二。學名ピオニア・アルビフロラ。此名は優美なといふ意味を含んで居る。ボタン(英語のツリイ・ピオニイ)への比喩は、この日本の花を知つて居る人だけが、充分に鑑賞が出來る。

註三。ヒメユリと言はずにケシユリ(英語のポピイ)と言ふ人もある。前者は優美な一種の百合で、學名リリウム・カロスムである。

 

 實際、身分の非常に賤しい田舍娘の名でさへ、往々敬語の『お』を前に附けた美しい木又は花の名のことがある。舞子やヂヨラウの職業的な華名は、言ふまでも無いとして、オマツ(松)、オタケ(竹)、オムメ(梅)、オハナ(花)、オイネ(稻)の如きそれである。ところが、娘が有つて居る木の名のうち、その或る者の起原は、木そのものの美しさについての、どんな民衆觀念にも求むべきでは無くして、寧ろ長命とか幸福とか幸運とかの徽號としての、その木の民間思想に求めなければならぬ、と可なり有力に議論され來つて居る。が、それはどうあらうとも、日本人が女を木や花にたとへる、その比喩が美的感念に於て少しも、我々西洋人の比喩に劣つて居ないことを、今日の諺、詩、歌、並びに日常の言葉が充分に證明して居るのである。

 

註。今は日本の社會のより高等な階級では、『お』を、槪して言つて、娘の名の前に用ひず、また派手な稱呼は息女の名には附けぬ。貧しい可なりな階級のうちに在つてすら、藝者なんかの名に似た名は嫌はれて居る。上に記載した名は立派な正しい、日常の名である。

   *]

 

 もう一つの例――

 

 筆を手に持ち、思案にくれて、銀の簪(かんざし)、疊算(たたみざん)。

 

 こ〻に簪を舉げてあるので、詠み人は女だといふことがわかる。またその女は藝者だといふことも想像される。疊算と稱する一種の占ひは、特に藝者仲間に流行するからである。細い絲の枠の上に編んだ疊表の面には、一吋の約四分の三位[やぶちゃん注:「吋」は「インチ」。一インチは二・五四センチメートルだから、約二センチ弱。]づつ間隔を置いて、規則正しく筋が並んでゐる。女は疊の上へ簪を投げて、その觸れた筋の數をかぞへる。その數によつて吉凶を判斷する。時としては、小さな煙管――藝者の煙管は普通銀製である――が、簪の代はりに使はれる。

[やぶちゃん注:「疊算」小学館「大辞泉」に、占いの一種で、簪や煙管(キセル)を畳の上に投げ、その向いたところ、又は、落ちた所から、畳の端までの編み目の数をかぞえ、その丁・半によって吉凶を占うもので、主に遊里で行われた、とある。]

 

 すべて集められた歌の題材は、戀愛であつた。實際日本の俗謠の大多數はさうである。名所を詠める歌でさへ、大抵或る戀愛的暗示を含んでゐる。戀愛の最初の蕾から最後の成熟に到るまで、あらゆる單純な情趣が、その蒐集に現はれてゐた。そこで、私はそれらの歌を發情的自然の順序に從つて配列してみた。その結果は、幾らか劇的暗示を有するものとなつた。

 

      

 これらの歌は、實際三つの異れる集團を成して、それぞれこれら一切の歌の主題である戀愛の情的經驗の特殊な時期に對應してゐる。第一團の七首に於ては、情熱の不意打ちの驚愕や、苦さや、弱さが現はれて、咎め立てをする悲しげな泣聲に始つて、信賴の囁きに終はつてゐる。

[やぶちゃん注:以下の唄の前の数字はポイント落ちだが、同ポイントで示した。]

     一

 世間誰れもが嫌うたあなた、なぜにこのやうに好きだやら。

     二

 人には云はれぬこの苦勞、たれが作つたと思召す。

     三

 いつも闇(やみ)夜と戀てふ路は、踏んで迷はぬ人はない。

     四

 あかるい洋燈(らんぷ)や、電燈さへも、戀路の暗(やみ)は照らしやせぬ。

     五

 惚れりや惚れるほどいひにくい、最初にききたい主(ぬし)の聲。

     六

 惚れたわいなとすこしのことが、何故にこのやうにいひにくい。

  註 これは眞似の出來ないほど簡潔な句である。

     七

 ぴんと心に錠前むろし、鍵はたがひの胸にある。

 

 このやうに相互に信じ合つた後で、迷妄は自然に深くなつてくる。苦勞は隱しきれない歡喜に移つて行つて、心の鍵は棄てられてしまう。これが第二の階段である。

 

     一

 逢うた昔は嫌つた生命(いのち)、添うた今では長命(ながいき)祈る。

     二

 主とわたしは谷間の百合よ、今が花時(どき)誰れもしらぬ。

     三

 思ふ人から杯差され、飮まぬうちにも顏赧らめる。

     四

 胸につ〻めぬ嬉しいことは、口どめしながらふれあるく。

     五

 どこの烏もみな黑い、ひとの好(す)く人なぜわしや好かぬ。

     六

 逢ひに行くときや千里も一里、逢はで歸るときや一里も千里。

     七

 惚れて通へば泥田(どろた)の水も、飮めば甘露の味がする。

     八

 お前百までわしや九十九まで、ともに白髮(しらが)が生えるまで。

     九

 云ひたい愚痴さへ顏みりや消えて、兎角淚がさきに出る。

 註 『兎角』といふ文句を使つてあるのが、この歌に一種の哀れを與へる。

     十

 嬉し淚にわが袖ぬらし、袖は乾いても乾かぬ心。

[やぶちゃん注:底本には「十」の前の行空けがあるが、これは「註」があるためと思われるので(原本に行空けはない)、省略した。]

     十一

 歸さぬやうにと祈願をこめりや、うれしや降り出す足止めの雨。

 

 かやうにして迷妄の時期は過ぎてしまう。そのあとは疑ひと苦み[やぶちゃん注:「くるしみ」。]である。ただ戀のみは永遠に殘つて、死を何とも思はない。

 

     一

 君と別れて松原ゆけば、松の露やら淚やら。

     二

 空とぶ氣樂な鳥見てさへも、わたしや悲しくなるばかり。

     三

 來るか來ぬかと川下(しも)ながめ、川には蓬(よもぎ)の影ばかり。

     四

 文(ふみ)は郵便、姿は寫眞、とても得られぬもの二つ。

     五

 顏は見ないでただ文ながめ、夢でみる方が猶ほましだ。

     六

 身はくだくだに、骨を磯邊にさらさうとま〻よ、拾ひ集めて添うてみせう。

 

[やぶちゃん注:後半のものは、「四」の「郵便」と「寫眞」から明治になってからの作品であることが判る。]

 

       

 そこで日本に於ける種々の時代に、また種々の地方で、さまざまの人によつて作られたこれらの小さな歌は、私に取つては一つの物語のやうなのであつた。――すべての時代、すべての場所に於て永遠に同一だから、時代とか、場所とか、人物の名の要らぬ、物語のやうな形を帶びてきたのであつた。

 

 『どの歌が一番お氣に入りですか』と。萬右衞門が質ねた[やぶちゃん注:「たづねた」。]。そこで、私は取捨選擇ができるかと思つて、彼の寫したものをめくつて見た。戶外では、輝いだ[やぶちゃん注:「かがやいだ」。]春の日和に、洗濯屋が働いてゐる。すると、心臟の鼓動の如く規則正しく、濡れた衣類をぽんぽんとた〻く重げな[やぶちゃん注:「おもたげな」。]音が聞こえる。私が思案してゐると、不意に少年の聲が一本のすばらしい狼煙[やぶちゃん注:「のろし」。]を打上げたやうな、長い、朗かな、銳い調子で、翔け上がつた――それから、跡切れて――またきれぎれの音が、ぴかつぴかつと閃光を發するやうに顫へ乍ら、靜かに消えた――萬右衞門が若い頃に聞いたことのある歌を、少年はうたつてゐるのであつた――

 

 神代このかた、變はらぬものは、水の流と戀の道。

 

 『あれが最上だと思ふ』と、私はいつた。『あれがすべての歌の心髓なのだ』

 『貧の盜人(ぬすびと)、戀の歌』と、萬右衞門は解釋をするやうな風に囁いた。『貧乏故に、盜人が出來て參ります通り、戀愛から歌が湧き出る譯で御座います』

 

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