[やぶちゃん注:本篇については、必ず『小泉八雲 俗唄三つ (稲垣巌訳) / (序)と「『俊德丸』の唄」』の冒頭注を読まれて後、お読みになられるよう、お願い申し上げる。
英語原本はここから。本篇原題は“THE BALLAD OF OGURI-HANGWAN”である。
「小栗判官」は「おぐりはんがん」と読む。中世以降に伝承されてきた貴種流離譚の主人公で、彼を主人公とした物語の通称として知られる。知られたものでは、妻照手姫(てるてひめ)の一門に殺された小栗が閻魔大王のはからいによって蘇生し、姫と再会を果たし、目出度かの一門に復讐を遂げるというストーリーで、説経節をベースに浄瑠璃・歌舞伎などになって好んで上演された。常陸国小栗御厨(現在の茨城県筑西市)にあった小栗城の城主である常陸小栗氏の小栗満重や、その子小栗助重がモデルとされる。実在したとされる人物としての小栗判官は、藤原正清、名は助重、常陸の小栗城主で、京の貴族藤原兼家(延長七(九二九)年~永祚二(九九〇)年:道隆・道長の父で、室の一人に「蜻蛉日記」の作者藤原道綱母がいることで知られる)と常陸国の源氏の母の間に生まれ、八十三歳で死んだともされるが、十五或いは十六世紀頃の人物として扱われることもある。乗馬と和歌を得意とした。子宝に恵まれない兼家夫妻が鞍馬の毘沙門天に祈願し生まれたことから、毘沙門天の申し子とされる。簡単なシノプシスならば、参照したウィキの「小栗判官」を見られたい。詳細な(しかしかなり長い)ものは、サイト「み熊野ネット」の説教節「小栗判官」を丁寧に現代語で示した全七回が是非にもお薦めである。また、「鎌倉大草紙」版のそれは梗概が私の植田孟縉(もうしん)撰の鎌倉地誌「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の「照天松」の解説がコンパクトでよい。なお、一部の話柄で重要なロケーションとなる遊行寺が自宅に近く、展開上も郷土史研究している鎌倉の周辺と関わるものが多くある(照手姫が投げ入れられて殺されそうになるのは六浦の侍従川)ことから、私は本話が好きで、小栗が蘇生する、熊野の「湯の峰温泉」の「つぼ湯」も訪れて入った。]
『小栗判官』の唄
一語も落とさず申すなら、――之は小栗判官の物語。
一 誕生
名高い高倉大納言、又の名兼家は大層金持ちで諸方到る所に寶の藏を所有してゐた。
[やぶちゃん注:「高倉大納言」説教節での兼家の通称。但し、実際の藤原兼家の通称とは違う。]
彼は火を支配する力を具へた貴い石を一つ、それからもう一つ水を支配する力を具へた石も持つてゐた。
彼は生きてる[やぶちゃん注:ママ。]獸の足から拔き取つた、虎の爪も持つてゐたし、小馬の角も持つてゐたし、更に亦麝香猫註さへ所有してゐたのである。
註 或る辭書には「麝香鼠」といふ譯が附けられてゐる。私に飜譯して吳れた人は「麝香鹿」といふ意味をほのめかした。然し、或る神話的な動物である事は明らかだから、
私は文字通り譯した方が良いと考へた。
[やぶちゃん注:それぞれの博物誌は、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ) (ジャコウネコ)」及び「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 麝香鼠(じやかうねづみ)(ジャコウネズミ)」や「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。但し、麝香鼠(哺乳綱獣亜綱トガリネズミ目トガリネズミ科ジャコウネズミ属ジャコウネズミ Suncus murinus)を除き(しかしそれも長崎県・鹿児島県及び南西諸島に分布するが、長崎県及び鹿児島県の個体群は帰化種、南西諸島の個体群は自然分布とされるものの、事実そうかどうかははっきりとしていない)、日本には棲息しない。]
凡そ人間が此の世で手に入れる事の出來る物なら、別に何も不足した物は無かつたが、只だ後嗣だけが無かつたのである。彼はそれ以外悲みの種になる物は何も無かつた。
彼の家に居る池ノ庄司と言ふ忠僕が、遂に彼に向つてかういふ事を言つた、――
『鞍馬の靈山に祀つてある多門天の守護神が、御神德あらたかだといふので遠くでも近くても評判で御座いますが。それを見るに附けましても、何卒我が君が其の社に罷り越され祈禱なされますやう謹んでお願ひ致します、さうしますればお望みは必らず叶ふ事で御座いませうから』
此の言葉を主人は受け容れて、早速其の社へ旅立つ用意を始めた。
彼は大急ぎで旅をしたので直きに社に着いた。そして其處で、水を浴びて身を淨め、後嗣を授かるやうに全心を籠めて祈願したのであつた。
三日三晩の間彼は食物といふ食物を一切斷(た)つた。然し總ては其の甲斐がないやうに思はれた。
それ故兼家卿は、神が知らぬ顏をしてゐるのに自業腹(やけばら)を立て、社の中でハラキリを爲(し)でかして神殿を汚さうと決心した。
おまけに、死んだ後で幽靈になつて鞍馬山に出沒し、九哩[やぶちゃん注:「マイル」。約十四キロメートル半。]の山路を登つて來る巡禮を片つぱしから邪魔してやる、嚇かしてやるぞと覺悟を決めたのである。
もうほんの一時でも遲かつたら生命は危かつたらう。然し危機一髮といふ刹那、其の場へ忠義な池ノ庄司が馳け附けてセツプクを押し止めた。
註 セツプクとはハラキリといふ意味の漢語であゐ。ハラキリよりもつと上品な言葉のやうに思はれる。
『おゝ、殿樣』と其の家來は叫んだ、『死なうなどとは餘りに早まつたお覺悟で御座いますぞ。
『先づ何より先き、私に運を試させて下さいませ、私は殿樣の爲めに御祈禱を捧げますが、今までよりもつと上首尾になるかならぬか御覽になつて下さいませ』
それから彼は二十一回沐浴した後、――七回は熱湯で、七回は冷水で、尙ほ其の上殘る七回に筅帚(ささら)[やぶちゃん注:「簓」とも書く。実用としては厨房で用いられる水洗用具で、竹筒の一端を細かく裂くか、又は細かく割ったタケを束ねて作り、鍋・桶などを洗うのに使う。名は使用時の擬音から出たとされる。]で以て自分の身體を洗ひ淨めた、――彼はかう言つて神に祈つた、――
『若し神樣の御利益に據つて私の殿樣に御後嗣が授けられましたならば、其の時私は御社の庭に鋪く唐金[やぶちゃん注:「からかね」。青銅。]の鋪板を奉納致しませう、それをお誓ひ申します。
『又御社の外に立て並べる唐金の燈籠も、それから御社の柱全部に被せる金無垢と銀無垢の延金(のべがね)も』
神前に祈禱したまゝ三晚を過ごしたが其の三晚目に、多門天は信心深い池ノ庄司の前に姿をお現はしになつて彼に仰せられた、――
『吾は汝の祈願を叶へて取らさうと只管[やぶちゃん注:「ひたすら」。]願うて、然るべき後嗣を遠く近く、――天竺までも唐までも、――探し求めた。
『然し人間は天津御空の星の如く、或は數へ盡くせぬ濱邊の礫[やぶちゃん注:「つぶて」。小石。]の如く數限りなく居るものであるけれども、悲しい哉これならば汝の主人に授けてもよからうといふ後嗣は人間の種の中からは見出す事は出來なかつたのだ。
『そこで遂に、他に爲すべきやうも無いと悟つて、遙か壇特山中に住む四天王の一人を父とすこ八人の中の一人〔の魂?〕[やぶちゃん注:小泉八雲自身の割注。]を以み取つて參つたのである。其の子を汝の主人の後嗣に取り立てて遣はさう』
註 四天王――世の四方を守護する、佛道の四人の提婆王。
[やぶちゃん注:「壇特」山(だんとくせん)は北インド(現在のアフガニスタン)のガンダーラに位置するとされ、嘗て釈迦の前身である須大孥太子(しゅたぬたいし)が菩薩行を修めたとされる霊地。
「提婆王」「だいばわう」。サンスクリット語音写で「デーヴァ」は「神」を意味する語。仏教では天部・天・天人・天神などと訳される。]
かく言ひ終はると、神は社殿の奥深く入つて行つた。そこで池ノ庄司は己れの夢ならぬ夢からハツと眼覺めて、神前に身を平れ伏して拜する事九度、それより主人の家へと急いだのである。
間もなく高倉大納言の奧方は懷姙した、そして目出度き十月が過ぎると安々と男の子を產んだ。
不思議にも赤兒の額の上には、極てはつきりと而もわざとらしくなく、『米』といふ漢字が記してあつた。
更に一層不思謳な事には彼の兩眼に四體の御佛(みほとけ)が映つてゐたのである。
註 眼の中の映像は佛と呼ばれる、卽ち此處に言ひ表はされた思想は子供の兩眼に像が二つ映る代りに四つ映つたといふ事らしい。超自然に者の子供は瞳孔が二つ有ると俗に言はれてゐるのだ。然し私に此の言葉の一般的說明をするだけに留めて置く。
[やぶちゃん注:小泉八雲が注しているのは所謂、英雄や聖王によくあるとされる重瞳(ちょうどう)のことを言っている。]
池ノ庄司や兩親は喜んだ、そして子供には有若といふ名が――『有り有り』山の名に因んで――生まれてから三日目に附けられた。
[やぶちゃん注:実は稲垣氏は前の訳を略してしまったため、意味が解らなくなっていしまっている。原文では先の「壇特山中に住む」の部分は、“residing on the peak Ari-ari, far among the Dandoku mountains”(「壇特山脈のアリアリの峰に住む」)となっているのである。]
二 追放
大層早く子供は成長した、そして十五歲になつた折、時の帝は彼に小栗判官兼氏といふ姓名と尊稱を贈り給うた。
一人前の男に成つた時、彼の父は花嫁を娶つてやらうと決心した。
そこで大納言は高位高官の娘一人殘らずに眼を著けたが、これといつて子息の嫁に成るだけの値打のあると思つた者は見當たらなかつた。
然し若き判官は、自分は多門天から兩親に授けられた者であると知つて、其の神に配偶者の事を祈らうと決心した。そして池ノ庄司を連れ、多門天を祀つた社に急いだのである。
其處で彼等は手を淨め口を嗽ぎ[やぶちゃん注:「すすぎ」。]、三晩も眠らずお籠もりして、其の間ずうつと勤行に時を過ごしたのであつた。
然し彼等には仲間がゐないので、若い殿樣は淋しくてたまらなくなり、竹の根で拵へた、自分の笛を吹き始めた。
其の美しい音に引き附けられたのであらう、社の池に住む大蛇が社殿の入口にやつて來て、――持ち前の恐ろしい形相を、可愛らしい宮仕への侍女のやうな姿に變へて、――其の妙音に聽き惚れてゐた。
すると兼氏は自分の眼の前に、妻にと望む當の婦人が居るのだと思つた。又これは神樣が自分に選んで下さつた女だとも思つたので、彼は其の美人を轎(かご)に乘せて家に歸つた。
[やぶちゃん注:「轎」輿のような形状のもので、前後を人が腰或いは肩位置で持って運ぶタイプのものを指す。]
然しかういふ事があつて間もなく恐ろしい嵐が突然都を襲ひ、續いて大洪水が起こつた。洪水も嵐も共に七日七晩引き續いたのであつた。
天皇は此の徵候に甚(いた)く御心痛遊ばされ、これの原因を說明せしめやうとて、陰陽師共をお召しになつた。
彼等はお尋ねに答へて、此の恐ろしい天候の原因は、連れ合ひを失くして其の腹癒(はらい)せをしようとしてゐる雄蛇の怒りに過ぎない。――蛇の連れ合ひといふのは外(ほか)でもない、兼氏の連れ歸つた美しい女である、と申し述べた。
そこで天皇は兼氏を常陸の國に追放するやうに、且つ姿を變へてゐる雌蛇を直ぐに鞍馬山の上の池に連れ戾すやうにお命じになつた。
かく天皇の一命によつてどうしても立ち退かねばならなくなつたので、兼氏は忠臣池ノ庄司唯だ一人を隨へ、常陸の國へ向けて出て行つた。
三 文のやりとり
兼氏がお國拂ひになつてからほんの僅はかり經つてから、一人の旅商人が商品を賣る目的で、常陸に遷(うつ)された殿の家を訪れた。
お前は何處に住んでゐるかと判官に聞かれて、商人は答へて言つた、――
『私は京都の室町と言ふ通に住んで居ります、名は後藤左衞門と申します。
『持荷は支那へ仕出すのが色々變つたのが千と八種(いろ)、印度へ仕出すのが千と八種、それからもう一つ日本だけで賣り捌くのが千と八種あります。
『ですから私の持荷全部と申しますと三千と二十四種の變つた商品から成り立つて居る譯です。
『私の今迄出掛けた國々の事を聞かれれば、もう印度に三度、支那に三度も渡つて來たとお答へしますよ。日本でも此地(ここら)へは今度で七遍目の旅です』
かういふ事を聞いたので、小栗判官は其の商人に尋ねた、妻とする値打のあるやうな若い娘を誰れかお前は知つてやしないか、自分は大名であるが、未だ結婚しないでゐるので、さういふ娘を探し當てたいのだから、と。
すると左衞門は言つた、『此處から西の方にある相模の國に、橫山長者と呼ばれ、八人の子息を有つてゐる金持ちが住んで居ります。
『長い間彼は娘の無い事を嘆いて、長い間お天道樣に娘の出來るやうにと祈つたのです。
『娘は授けられました。そしてそれが產まれた後、兩親は、彼女に自分達よりもつと高い身分を授けるのが當り前だ、天照大神樣の有難いお蔭を蒙つて產まれ出たのだから、と考へました、そこで娘の爲めに一軒別な家を建てたのです。
『あの方なら、本當に全く、他に有りつたけの日本の女より優れてゐますよ。外の女ならちつともあなたに適(ふさ)はしいとは思へませんね』 、
此の話は頗る兼氏を喜ばした、そして彼は早速、左衞門に自分の仲人役を勤めて吳れるやうに賴んだ。左衞門も自分の力で出來る事なら判官の望みを叶へる爲めにどんな事でもしてやらうと約束した。
そこで兼氏は硯と筆を取り寄せて、戀文を認め[やぶちゃん注:「したため」。]、そして戀文を結はく[やぶちゃん注:「ゆはく」。]時のやうな結び目を拵へてそれを結はいた。
彼は姬に手渡して吳れるやうにとそれを商人にやつた、尙ほ役目の禮として、金百兩をも與へたのであつた。
左衞門は何遍も何遍も平伏してお禮を述べ、いつも持つて步く箱の中に其の手紙を入れた。それから箱を背中に負つて、殿樣に別かれを告けた。
さて、常陸から相模までの旅程は普通七日かかるのであるが、商人は夜も晝も一緖にして、休みもせずに大急ぎで行つたので、三日目の晝其處に辿り着いた。
彼は乾(いぬゐ)の御所と呼ばれた家に入つて行つた、それは金持ちの橫山が一人娘、照小姬の爲めに建てたもので、相模國の『ソバ』郡にある。彼は其處に入る許しを乞うた。
[やぶちゃん注:「『ソバ』郡」原文は“the district of Soba”であるが、このような名の郡は昔もない。幾つかの「小栗判官」伝承に中では、シチュエーションは異なるが、「鎌倉大草紙」の話の中で、主人公が毒を盛られそうになり、遊女「照姫」の機転で命拾いする場所が、後代、高座郡大庭庄に比定されてあり、群名の「カウザ」や、庄名「オホバ」が近似性を感じさせるように私は思う。]
所が嚴めしい門番は、此のお屋敷は名高い橫山長者の娘御、照手姬のお住ひで、男ならどんな人物だらうと入らせる事は出來ない、それどころか、番人共が――夜十人晝十人――極て、用心深く且つ嚴重に此の御殿を護つてゐるのだと知らせて置いて、彼にあつちへ行けと命令した。
然し商人は自分が京都の室町の後藤左衞門である事、自分は其處でよく知られた商人であつて、人々からは栴檀屋[やぶちゃん注:「せんだんや」。]と呼ばれてゐる事、三遍印度に三遍支那に渡つて來たが、今は『日の出』の大帝國[やぶちゃん注:言わずもがな、日本国のこと。]に歸る七遍目の旅をしてゐる所である事などを門番達に話した。
それからかうも言つた、『此處だけを除いたら、日本の宮殿なら何處も殘らす私を自由に入れて吳れるのだ。だから若しお前方が私を入らして吳れたら本當に有難く思ふよ』
かう言ひ乍ら彼は銀の卷いたのを澤山取り出して、門番共に吳れてやつた。すると彼等は欲で目が眩んだ、そこで商人は、何の苦もなく、喜びながら入つて行つた。
大きな外側の門を通り過ぎ、一つの橋を越すと、彼は身分の高い侍女達の部屋部屋の前に出た。
彼は大聲を張り擧げて呼び掛けた、『えゝお局樣方、何なりと皆樣の御入用な物は私が此處に持つて居りますよ。
『「上﨟方(じようらふがた)の召道具(めしだうぐ)」も殘らず持つて居ります。解櫛(ときぐし)も縫針も鑷子(けぬき)[やぶちゃん注:毛抜き。]も御座います、「項髮(たてがみ)」[やぶちゃん注:原文“tategami”。本来は馬の首の背側に生えている長い毛、鬣(たてがみ)を指すが、ここはそれを用いた鬘髪のことであろうか。]から、銀の櫛から、長崎產の「髢(かもじ)」[やぶちゃん注:髪を結ったり垂らしたりする場合に地毛の足りない部分を補うための添え髪。]から、さては有りつたけの種類の支那鏡まで持參致して居ります』
するとお局共は、さういふ品物を見たいと思つて喜んで商人を部屋に入らせたが、彼は忽ら其處を一見女の化粧品の賣店のやうにして仕舞つた。
然し頗る手早く取引きしたり賣り捌いたりしてゐる間にも、左衞門は自分の摑んだ好機を逃しにしなかつた。賴まれた戀文を箱から取り出して女共に言つた、――
『此の文はね、確さう覺えて居りますが、私が常陸の或る町で拾つたものです、それでこれをあな方がお納め下されば、非常に嬉しく存じます、――美事に書いてあればお手本にお使ひになればよし、下手に書いてゐつたらお笑ひ草になさればよし』
すると女中頭が、其の文を受り取つて。封筒の上書を讀み解かうとした。『月に星――雨に霰が――氷哉』
けれども彼女は此の不思議な言葉の謎が解けなかつた。
他の女共は、矢張り其の言葉の意味を中てる[やぶちゃん注:「あてる」。]事が出來ず、只だ笑ふより外仕樣がなかつた、それで餘りキヤアキヤア笑ふものだから姬君の照手が聞き附けて、皆の居る所へ出で來た、すつかり着飾つて、烏羽玉の[やぶちゃん注:「ぬばたまの」。]黑髮には被衣(かつぎ)を懸けて。
自分の前の簾が卷き上げられると、姬は尋ねた、『どうしてみんなそんなに笑ふの。何か面白い事があつたら私にも樂ませておくれな』
侍女共は其時答へて言つた、『別に何でも御座いませんが、都から參つた此の商人が何處かの町で拾つて來たと申す文が私共に解らないものですから。只だそれで笑つて居るので御座います。これが其の文ですが、上書からして私共には謎なので御座います』
そして其の文は、開いた眞赤な扇の上に載せられて、姬君に恭しく捧げられた、姬君はそれを受け取つたが。其の筆跡の美しさに感心して、かう言つた、―
『これ程見事な手跡を今まで私は見た事がない、これは弘法大師の御親筆か、文珠菩薩のお書きになつたもののやうだ。
『一條家、二條家、三條家の殿樣は皆(みな)書のお手並で名高い方々だが、多分これを書かれた方は其の中のどなたかであらう。
『それとも、此の考へが間違つてゐるのだつたら、確に此の文字は、今常陸の國で名の高い小栗判官兼氏の書いたものだと言はなければなるまい……此の文をお前達に讀んで聽かせませう』
そこで封は開かれた、眞先きに讀んだ文句は『富士の山』であつたが、それを姬は身分の高い事を表はしてゐるのだと解釋した。それからつぎにかういふやうな種々な文句に出會つたのである、――
『淸水(きよみづ)小坂、霰に小笹、板屋に霰、袂に氷、野中に淸水(しみづ)、小池に眞菰、芋葉に露、尺永帶、鹿に紅葉、二叉川[やぶちゃん注:「ふたまたがは」。]、細谿川[やぶちゃん注:「ほそたにがは」。]に丸木橋、弦無し弓に羽拔け鳥』
すると姬は文字の表はしてゐるのはつぎのやうな事だといふ事が解つた、
『參れば會ふ。離れない。轉び會ふ』
それから其の殘りの文句の意味はかやうである、――
『此の手紙は、他人に何事も知られぬやうに、袂の中で開かなければいけません。祕密はあなたの胸だけに藏つて置いて下さい。
『あなたは葦が風に靡くやうに、私に從はなければならないのです。私は何事にも一生懸命になつてあなたに盡くします。
『始めの内どんな思ひ掛けない事で私共の間が割かれようとも[やぶちゃん注:「さかれようとも」。]。終ひにはきつと二人は一緖になるでせう。秋牡鹿が妻を戀ふやうに、それ程までに私はあなたを慕ひ求めてゐるのです。
『たとひ長い間離れ離れになつてゐても、丁度上流で二筋に分かれてゐる川の水が出會ふやうに、私共は會ふでせう。
『どうか、此の手紙の意味を判じ當てて、それを守つて下さい。私は仕合はせよきお返事をと望んで居ります。照手姬の事を思ふと私は飛んででも行けるやうな氣がします』
[やぶちゃん注:以上の段落は、頭に鍵括弧がないが、ここまでの表記から考えて特異的に入れた。]
尙ほ照手姬は手紙の終りに、それを書いた人の名――小栗判官兼氏其の人――と共に、姬自身の名が宛名として書かれてあるのを見出した。
さあ彼女は全く當惑した、まさか自分に宛てて書いてあらうとは始めは思はなかつたし、何の考へもなく、侍女共に大聲で讀んで聞かせて仕舞つたからである。
何故かといふと頑固一徹な長者が、若しさういふ事實を知るやうな事になつたら、忽ち殘酷極る遣り口で以て自分を殺すだらうといふ事を彼女はよく知つてゐたからである。
註 長者といふのは本名ではない、佛蘭西語の「アン・リシャール」、「アン・リーシュ」と同じく、實は單に富める人といふ意味であゐ。然し此の言葉は田舍では今も猶殆ど本名と同じやうに使はれてゐる。其地方で一蠻金持ちで、通常權勢の有る人は屢〻「あの長者」と名指しされてゐる。
[やぶちゃん注:「アン・リシャール」“un richard”はフランス語の俗語で「田舎の大金持ち」や「成金」を指す。所謂、人名の「Richard」に懸けたやや馬鹿にした謂いである。
「アン・リーシュ」“un riche”は「金持ち」のこと。]
それ故『ワハ』野ケ原といふ荒野――怒り猛つて居る父親が自分の娘を殺すのに恰好な場所――の土に埋け込まれる[やぶちゃん注:「いけこまれる」。]のが恐くて、彼女は手紙の端を齒に當てがひ、片々に嚙み裂いて、奧の間へ引き下がつた。
[やぶちゃん注:「『ワハ』野ケ原」“the moor Uwanogahara”。遊行寺長生院に伝わる小栗判官伝承では主人公一行が盗賊横山一党に騙されて、毒を盛られ、棄てられる場所を「上野ヶ原」とする。ここは伝承では俣野村の街道寄り(現在の横浜市戸塚区原宿付近)と伝わっている。]
所が商人は、何の返事も齎さずに常陸の國へ歸る譯には行かないと思つたので、ずるい事をして返事を受け取る事に決めた。
そこで彼は、草鞋を脫ぐ間も遲しとばかり、急いで姬の後を一番奧の部屋の中にまで追駈けて行つて、大きな聲で叫んだ、――
『おゝ、姬君樣。文字といふものは印度では文珠菩薩、日本では弘法大師が工夫されたものだと私は敎はつて居ります。
『文字で書いた手紙をそんな風に引きちぎるといふのは、弘法大師の御手を引きちぎるやうなものぢや御座いませんか。
『女といふものは男より汚れて居るものだといふ事をあなた樣は御存じないのですか。御存じがないから、それだから、女に生まれたゐなた樣はこんなに手紙を引きちぎるなんて大それた眞似をなさるんですか。
『さあ、若しあなた樣が御返事を書くのがいやだと仰しやるなら、私は有りとあらゆる神々に御祈禱します、此の女らしくもない行を神々に告げ參らせて、あなた樣に罰を當てて下さるやうにお祈りしますぞ』
すると照手姬は、驚き悲しんで、彼に祈禱は止めて吳れと懇願し、直ぐに返事を書くからと約束した。
そこで彼女の返事は早速認められて、商人に渡された、商人はうまい工合に行つたので大いに喜び、箱を背負ひながら、急いで常陸に向けて出發した。
四 兼氏が舅の同意なくして花婿となつた顚末
大急ぎで旅をして、仲人は忽ち判官の家に着いた、そして主人に手紙を渡した、主人は嬉しさに兩手を慄はせ乍ら、封を切つた。
返事は實に頗る簡單であつた、――只だかういふ文句だけ、『沖中舟(おきなかぶね)』
[やぶちゃん注:不審に思われると厭なので言っておくと、先の兼氏の文もこの照手姫の文も私はそれらが何故そのように解読出来るのかは知らない。]
然し兼氏は其の意味をつぎのやうに推量した、『運不運は何にでも附き物ですから、恐れてはいけません、人に見附からぬやうに來て御覽なさい』
そこで彼は池ノ庄司を呼んで、急ぎの旅に必要な支度を洩れなく整へるやうに言ひ附けた。後藤左衞門は案内者として仕へる事を承諾した。
兼氏は彼等と同道した。皆が『ソバ』郡に着いて姬の家に近附いた時、案内者は殿樣に言つた。――
『私等の前にある、黑い門の附いた家は、遠く名を知られた橫山長者の屋敷です。それから別に其の北の方にある、赤い門の附いた家は花のやうに美しい照手のお住ひです。
『萬事拔け目のないやうに、さうすりやうまい具合に行きますよ』こんな言葉を殘して、案内者は見えなくなつた。
忠義な家來に伴なはれて、判官は赤門に近づいた。
二人が入らうとした時、門番等は邪魔しに掛かつた、名高い橫山長者の獨り娘。――お天道樣のお惠みによつてお產まれ遊ばした貴い御子――照手姬のお住ひに入らうとするとはあんまり圖々しいぞと言ひ立てながら。
『お前達がさう言ふのはいかにも尤もだ』と家來は言つた、『だが私達は落人を探しに郡から參つた役人だといふ事を頭に入れて置かねばならんぞ。
『此處は男子禁制の家だからこそ、中を調べて見ねばならんのだ』
そこで番人共は膽を漬して、二人を通らせたが、見ると奉行所のお役人と思つた人達は庭に入つて行き、それから侍女共が大勢出て來て二人を客人としてお迎へした。
照手姬は、あの戀文を書いた人が來たといふので夢かとばかり喜んで、晴着を着、肩に被衣を懸けて、戀人の前に立ち現はれた。
兼氏も美しい人にこんなにして歡迎される事を大變に喜んだ。そして婚禮の儀式が、双方歡喜に滿ちて、取り行はれ、續いて盛大な酒宴が催されたのである。
宴は頗る盛大であるし、皆も愉快でたまらないので、殿の從者共は姬の腰元達と一緖に踊つたり、一緖に音樂をやつたりした。
當の小栗判官も、竹の根で造つた笛を取り出して、調べ床しく吹き始めた。
すると照手の父親が、自分の娘の家でやつてる此の愉快さうなドンチヤン騷ぎを殘らず間きつけて、どういふ譯かと頗る驚き怪しんだ。
然しどうして判官が彼の許しを受けすに娘の婿に成りすましたか其の次第を聞かされた時、長者は正氣と思はれぬ程に腹を立てて、ひそかに復讐の計畫を𢌞らしたのである。
五 毒害
翌日橫山は兼氏卿の許へ使をやつて、お互に舅として婿として挨拶の盃を取り交はす儀式を行ふから、自分の家に來るやうにと招待した。
すると照手姬は、自分が夜、緣起の惡るい夢を見たので、判官に說き勸めて其處へ行くのを止めさせやうとした。
然し判官は、姬の心配を氣にも留めず、若い從者を連れて、大膽に長者の住家へと出掛けて行つた。
そこで橫山長者は喜んで、あらゆる山海の珍味を盛り立てた御馳走を幾皿も幾皿も拵へさせ、充分判官を饗應した。
やがて、酒盛もそろそろ下火になりかけた時、橫山はお客樣の兼氏卿も何か御馳走して下さるやうにと所望した。
註 『御馳走』といふ言葉は本當は「肴」となつてゐる。酒に肴を添へるのはいつも定まりになつてゐた。それで「肴」といふ言葉は、酒宴の間に客に與へられる饗應ならどんなものに對しても用ゐられるやうに段々なつて來た、例へば歌とか踊りとかいふやうに。
『馳走つて何です』と判官は尋ねた。
『正直な所』と長者は答へた、『私はあなたの、素晴らしい乘馬のお手並を拜見させて戴きたいのです』
『それなら乘りませう』と卿は答へた。そこで直ぐ鬼鹿毛[やぶちゃん注:「おにかげ」。]と言ふ馬が引き出された。
此の馬は極て兇猛で本當の馬とは思はれぬ、寧ろ鬼か龍かとばかりの代物なので、敢て近づかうとする者さへ殆ど無かつた位であつた。
所が判官兼氏卿は直ぐに樣馬の繫がれてゐた鏈[やぶちゃん注:「くさり」。]を解いて、驚くばかり樂々と其の上に乘つたのである。
荒つぽい馬なのにも拘らず、鬼鹿毛は何でも乘手の仕たい放題の事をしない譯には行かなかつた。橫山のも他の人達も、並み居る者は皆、驚きのあまり口も利けなかつた。
然し間も無く長者は、六曲屛風を取り出してそれを立て、其の屛風の上の緣に兼氏が馬に乘つて上がつた所を見せて吳れと賴んだ。
小栗卿は、引き受けて、屛風の上端に乘り上がつた。それからつぎに眞直ぐ立つて居る障子の枠の上を通つて乘り進んだ。
今度は碁盤が取り出されたが、彼は甥の碁盤格の目の上に自分は乘り乍ら馬の蹄をキチンと揃へさせた。
最後に、彼は行燈の枠の上で馬に中心を取らせたのである。
[やぶちゃん注:“And, lastly, he made the steed balance himself upon the frame of an andon.”華奢な行灯の上で乗ったまま馬にバランスをとらせて落ちなかったというのである。]
さあ橫山はどうして良いのか途方に暮れてしまつて、丁寧にお辭儀をしながら、やつとこれだけ物が言へたばかりであつた、――『御馳走樣、誠に有難う存じます、大層面白う御座いました』
小栗卿は、鬼鹿毛を庭の櫻の木に繫いで座に還つた。
所が三郞といふ其の家の三男が、判官を毒殺しようと父に說き付け、毒百足や靑蜥蜴の毒液や、竹の窪んだ節の中に長らく溜つて居た汚水やの混つてゐる酒を兼氏に勸めた。
[やぶちゃん注:「靑蜥蜴」(あをとかげ)は通常では日本本土では、ごく普通に見られる爬虫綱有鱗目トカゲ科トカゲ属ニホントカゲ Plestiodon japonicus の幼体を指す。幼体は体色が黒や暗褐色で五本の明色の縦縞が入るが、長い尾が鮮やかな青色を呈する。しかし、無論、毒はない。]
判官や彼の從者共は、まさか毒の入つた酒だとは思はず、すつかり呑み盡くした。
悲慘な事には、彼等の腹や腸に毒が沁み込んで、骨といふ骨は殘らす其の激しい毒の爲めにバラバラに碎けてしまつたのであつた。
彼等の命は、朝露が草から消え去るやうに忽ち消え去つた。
三郞と其の父は彼等の屍體を『ウハ』野ケ原に埋めた。
六 漂流
殘忍な橫山はかく娘の夫を殺した以上、彼女も生かしては置けないと考へた。それ故彼は自分の忠僕で鬼王[やぶちゃん注:「おにわう」。小泉八雲のローマ字表記では「おにおー」。]鬼次[やぶちゃん注:同前表記は「おにじ」。]といふ兄弟に、相模の海の沖遙かに姬を連れて行くやうに、そして其處で溺らして什舞ふやうに是非共命じなければならないと思つた。
二人の兄弟は、自分等の主人は石のやうな心の人間だから別に說き伏せる方法は無いといふ事を知つてゐたので、只だ命令に從ふより外どうする事も出來なかつた。そこで二人は不運な姬の許に出かけて、自分等の遣はされた目的を話して聞かせた。
照手姬は父の殘酷な決心に全く驚いて始めは何もかも夢だと思ひ、其の夢が覺めて吳れるやうにと熱心に祈つた程であつた。
暫くして姬は言つた、『私は今迄の生涯中、承知の上で罪を犯した事は決して無い。……然し自分の身にどんな事が振りかからうと構はぬが、夫が父の家を訪ねてからどうなつたか、それが言葉で言へない程知り度くてたまらないのだ』
二八の兄弟は答へた、『御主人樣は、あなた方お二人が正當な許しもなく御結婚なさつた事を知られて大變御立腹になり、あなたの御兄上三郞樣の考へられた企みをお取り上げになつて、若殿樣々毒害遊ばされまして御座います』
これを聞いて照手は益〻驚き、無慈悲な事をする父親に罰が當たるやうにと祈願したが、それは尤もな次第である。
然し姬は我が身の不幸をかこつ暇さへ與へられなかつた。鬼王と其の弟がすぐさま媛の着物を剝いで彼女の裸身(はだかみ)を蓙[やぶちゃん注:「ござ」。茣蓙莚(ござむしろ)。]に入れて簀卷きにしたからである。
此の痛ましい包みが夜分寂から運び出された時に、姬と其の腰元共は、悲しがつて噎び泣いたり泣き喚いたりしながら、互に最後の別かれを告げた。
鬼王鬼次の兄弟はやがて其の哀れな荷物々積んで遙か沖合に漕ぎ出した。けれども自分達ぎりになつた時、鬼次は鬼王に向つて、俺達は若奧樣を助けて上ける事にしよう、其の方がいいぜと言つた。
これに對して兄は異議も唱へず直ぐ賛成した、そして二人は助ける工夫を𢌞らし始めた。
丁度其の時主のない丸木舟が潮に流されてこちらへ近寄つて來た。
早速姬は其處に移された。兄弟は、『これや全く仕合はせな事だつた』と叫びながら、奧樣に別かれを告げて、主人の許へ漕ぎ戾つた。
七 賴姬
哀れな照手を乘せた丸木舟は七日七晚あちこち波に搖られたが、其の間激しい雨風が起こつたのである。そして遂に直江附近で魚釣りをして居た漁夫達に見附けられた。
[やぶちゃん注:「直江」原文は“Nawoyé”。不詳。私の知る小栗判官伝承の一つでは、相模川を下ったことになっており、「ゆきとせが浦」という海浜に漂着することになっているが、この「直江」同様に不詳である。彼女の漂着地を現在の横浜市金沢区六浦の浜とするものもあるようだが、これは当地の侍従川伝承よるものか、以下に続いて語られる姫の再受難のロケ地への移動、或いは、相模湾の「ゆきとせが浦」から六浦の商人に売られそうになるという説経節に出現するエピソード等による変形・短縮によるものであろう。相模川から六浦では三浦半島を挟んで漂着の騒ぎどころではない。]
所が漁夫達は此の美しい女はきつと妖魔に違ひない、此奴の仕業で幾日も永らく暴風雨(しけ)たのだと考へた。それで若し直江に住む一人の男が庇つて[やぶちゃん注:「かばつて」。]吳れなかつたら、照手は皆の橈[やぶちゃん注:「かい」。]で打ち殺される所だつた。
さて此の男は、村上太夫といふ名であつたが、後を嗣ぐべき實の子が居なかつたので、姬を自分の娘として養ふ事に決めた。
そこで家に連れ歸つて、賴姬と名づけ、隨分親切に扱つたが、其の爲め彼の女房は養女に嫉妬を起こして、亭主の留守の時は度々彼女に辛く當たつた。
然し賴姫が自分から勝手に出て行かうとはしないのを見て、腹黑い女は彼女を永久に追ひ拂つてしまふ工夫を𢌞らし始めた。
丁度其の折、端なくも人買ひの船が港に錨を下してゐた。言ふ迄もなく賴姫は其の人肉商人にひそかに賣られたのである。
八 下女奉公
こんな災難に遭つてから後、不運な姬は親方から親方へと七十五遍も轉々した。最後に彼女を買ひ取つたのは萬屋長兵衞と言つて、美濃の國の大きな『女郞屋』の持主としてよく知られた男であつた。
照手姬は始めて新しい親方の前に連れて來られた時、穩かに口を開いて、自分は何一つ行儀や作法を辨へてゐないが許して吳れるやうにと賴んだ。すると長兵衞は身の上や生國や家柄などを殘らず話して聞かせろと言ひ渡した。
然し照手姬は、自分の生國の名にしろ喋るのは智惠のない話だ、うつかりすると自分の夫が自分の父たる人に毒害された事を無理やりに白狀させられるかも知れないから、と考へたのである。
そこで彼女は唯だ自分が常陸で生まれたといふ事だけ答へようと決心した。自分が、戀人たる判官卿の住んで居た國と同國の者だと言ふ事に或る悲い[やぶちゃん注:「かなしい」。]愉悅を覺えながら。
『私は常陸の國で生まれました』と彼女は言つた、『けれども私は大層賤しい生まれですから苗字がありません。ですからどうぞ何か良い名を附けて下さい』
そこで照手姬は常陸の小萩と名乘らされた、そして樓主に仕へて彼の商賣に精出して勤めるやうに言ひ渡された。
けれども此の言ひ附けには彼女は從ふのを拒んだ、そしてどんなに卑しい事だらうが辛い事だらうが、當てがはれた仕事なら何なりとやりおほせますが、『女郞』の勤めは致し兼ねますと言つた。
『そんなら』と長兵衞は腹を立てて呶鳴つた、『お前の每日の仕事はこれだけだ――
『庭に繫いである馬にな、數なら百匹も居るわ、そいつら有りたけに飼葉をやるんだ、それから家にゐる他の連中殘らずに飯の時給仕をするんだ。
『此の家に抱へてる三十六人の女郞共に、一番映(うつ)りのいいやうな恰好に髮を結つてやつてよ、おまけに麻を撚つて[やぶちゃん注:「よつて」。]絲にしたやつを七つの箱に一杯にするんだ。
『未だあるわい、七つの竈[やぶちゃん注:「かまど」。]に火を焚いてよ、此処處から半道[やぶちゃん注:「はんみち」。一里の半分。]もある山の泉から水を汲んで來るんだぞ』
照手は自分にしろ他のどんな生物にしろ無慈悲な親方が自分に負はしたこんな仕事を全部やりおほせる事は迚も出來ないといふ事を知つたので、我が身の不幸を泣き悲しんだのである。
然し泣いたつて何の足しにもならない事を直きに氣附いた。そこで淚を押し拭つて、自分のやれる事をやつて見ようと雄々しくも決心した、それから前掛を締め、袂を後ろで結んで、馬に飼葉をやる仕事に取り掛かつた。
神々の深いお惠みは理解する事は出來ない、然し此の事は確だ、彼女が始めの馬に食はせると、他の馬全部も、靈驗によつて、養ひ盡くされたのである。
更に同じやうな不思議な事が、彼女が飯時に家の人達に旧字をした時にも、遊女共の髮を結つた時にも麻絲を撚つた時にも、竈に火を焚いた時にも、偶然に起こつたのである。
けれども何にかより一番悲慘な事は水桶を肩に擔いで、遠くの泉に水を汲みに出て行く賴姬を見る事であつた。
[やぶちゃん注:「賴姬」は原文自体の混在。]
桶に滿々(なみなみ)と湛へた水に變はり果てた自分の顏が映つてゐるのを見た時、其の時に彼女は全く絕え入るばかりに泣き悲しんだのである。
けれども不圖むごたらしい長兵衞の事を思ひ出したところ、彼女は非常な恐怖を全身に覺えて、急いで自分の恐ろしい住家へと取つて返した。
然し間もなく『女郞屋』の亭主は彼の新しい奉公人が並々の女ではないと見て取つて、大變親切な態度で彼女をあしらひ始めた。
九 輓車
さてこれから兼氏がどうなつたかをお話ししよう。
[やぶちゃん注:標題「輓車」は「ひきぐるま」と読む。原題は“DRAWING THE CART”。「車を引っぱること」。意味は後で判る。]
加賀美の藤澤寺の、遠く名を知られた遊行上人は、絕えず日本中を行脚して全國に佛法を說いて𢌞つた人だが、偶〻『ウハ』野ケ原に差し掛かつた。
[やぶちゃん注:「加賀美」確かに原本は“Kagami”。「相模(さがみ)」の小泉八雲の誤り。
「藤澤寺」現在の時宗藤沢山遊行寺。俣野(現在の藤沢市西俣野や横浜市戸塚区俣野町・東俣野町)の領主であった俣野氏一族の俣野五郎景平が開基。景平の弟が遊行上人第四代呑海(文永二(一二六五)年~嘉禎二(一三二七)年)であった。少なくともこの謂いと人物によって、作品内時制はずっと引下げられる結果となる。]
其處で彼は多くの鴉や鳶が一つの塚の附近をヒヨイヒヨイ飛び步いて居るのを眼に留めた。惹かれるやうに尙ほも近寄ると、見た所腕や足の無い何とも言はれぬ物が、毀れた墓石の碎片(かけら)の間に動いてゐるのを目擊したので、甚く驚いた。
其の時彼は古い傳說を思ひ浮かべた、此の世で定められた壽命が未だすつかり終はらない内に殺される者は『餓鬼阿彌[やぶちゃん注:「がきあみ」。]』と言ふ姿になつて再現したり生き返つたりするといふ事である。
自分の眼の前の物はさういふ不幸な亡魂に違ひないと彼は思つた。又彼の優しい心には此の氣味の惡るい物を熊野寺の溫泉に連れて行つて、さうして元の人間の姿に還れるやうにしてやらうといふ望みが起こつた。
そこで彼は『餓鬼阿彌』の爲めに車を造つて、例の何とも言へぬ恰好の物を中に入れ、其の胸に大きな文字を書き誌した木の札を結び附けた。
書かれた言葉はかうである。『此の不運なる費に憐れみを垂れよ。且つ熊野寺の溫泉(いでゆ)への道中に力を添へよ。
『たとひ僅の距離たりとも綱を引きて此の車を輓き進めたる者は大なる福運を以て報いらるべし。
『たとひ一步と雖も車を輓かば其の功德は僧侶千人を養ふに足り、二步輓かば其の功德は一萬の僧侶を養ふに足らん。
『三步輓かば其の功德は親類緣者――父、母、或は夫――の亡者を成佛せしむるに足るべし』
かくて其の道を通り掛かつた旅人共は忽ち此の纏まつた形もない者を憐んだ。或る人達は何哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは千六百九・三四メートルであるから、六掛けで九キロ六百五十六メートル前後。]も車を輓き又或る人達は隨分親切で何日も何日も一緖に輓いて行つた程であつた。
さういふ次第で、大分長い事經つてから、車に乘つた『餓鬼阿彌』は萬屋長兵衞の『女郞屋』の前にやつて來た。常陸の小萩はそれを見て、書いてある事に非常に感動した。
其の時彼女はたとひ僅一日でも良いからあの車が輓きたい、そしてかういふ情深い仕事をしたお蔭で自分の死んだ夫の爲めに功德を授けたいといふ望みが急に起こつて來たので、自分の親方にあの車か輓かうと思ふから三日のお暇を許して吳れと懇願した。
これを賴むのに波女は兩親の爲めにと言つた、親方が事實を知ると隨分腹を立てるかも知れないと氣遣つて、夫の事は話すまいと思つたからである。
長兵衞は始めは拒んだ、此の前に言ひ附けに從はなかつたから、たとひ一時間でも此の家から出て行く事はならんと嚙み附くやうな聲で呶鳴りながら。
然し小萩は彼にかう言つた、『御覽なさい、親方。雄雞[やぶちゃん注:「をんどり」。]だつて陽氣が寒くなると自分の巢に行くし、小鳥だつて深い森に急ぐでしよ。人間も其の通り、災難のある時は慈悲の隱れ場に逃れますよ。
『此の家の塀の外で暫く「餓鬼阿彌」が休んだのはきつと親方が親切な方だつて評判されてゐるからですよ。
『それはさうと今若しあなた方が三日のお暇を下さりさへすれば、私は親方やお神さんの爲めに御入用なら命でも投け出すといふお約束を致しませう』
さういふ譯で到頭けちん坊な長兵衞は說き伏せられて切な願ひを聞き屆ける事にした、そして彼の女房は許された日數の上に更に二日だけ附け足す事を快く請合つた。かくて五日間自由の身となつた小萩は嬉しくてたまらず、直ぐさま此の恐ろしい仕事に取り掛かつた。
隨分と辛苦艱苦[やぶちゃん注:「しんくかんく」。非常な辛(つら)く苦しいことを重ねること。]しながら、不破ノ關、『ムサ』、番場、醒ケ井、大野、末永峠といふやうな場所を通り過ぎてから、彼女は有名な大津市に着いたが、それ迄に三日掛かつたのである。
[やぶちゃん注:「不破ノ關」古代東山道の関所の一つで、現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあった古い関所跡。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「ムサ」武佐。現在の滋賀県近江八幡市武佐町にあった宿場町。以下の二箇所よりも先で地理的に順列になっていない。
「番場」滋賀県米原市番場。もと中山道の鳥居本と醒井(さめがい)との間の宿場町。但し、次の醒ケ井より美濃の手前になり、やはり地理的には順列になっていない。
「醒ケ井」滋賀県米原市醒井。
「大野」滋賀県栗東(りっとう)市荒張(あらばり)にある大野神社附近か。
「末永峠」不詳。]
其處で彼女はもう自分は車を離れなければならないと知つた、其處から美濃の國へ歸るのには彼女には二日掛かるからである。
彼女が大津へ來る迄の長い道中、眼を樂ませ耳を喜ばせるものとては路傍に生へた野育ちの綺麗な百合、雲雀や四十雀や樹々に囀る有りとあらゆる春の鳥の啼き聲、田植ゑしていゐる百姓の娘の歌、只だそれだけであつた。
然しかうした眼に觸れ耳に觸れるものはほんの一時彼女を慰めただけであつた、といふのは之等は大槪在りし日を夢みさせ、望みなき今の有樣を想ひ出させて彼女を苦しめたからである。
丸三日の間引き受けた激しい勞働の爲めに隨分疲れたけれども、彼女は宿屋に行かうとはしなかつた。翌日は置いて行かねばならぬ、其の不恰好なものの傍で最後の夜を過ごしたのである。
『度々聞く事だが』と彼女は自分で考へた、『「餓鬼阿彌」は冥界(あのよ)の者だといふ話しだ。さうだとすると、此處にゐるのは私の死んだ夫の事を何か知つてるかも知れない。
『此の「餓鬼阿彌」が眼が見えるか耳が聞こえるかしたらどんなにいいだらう! さうすれば口で言つても字で書いても、兼氏の事が訊かれる譯だ』
[やぶちゃん注:前の「!」の後は底本では字空けがないが、特異的に挿入した。]
霧の懸かつた近くの山々の上に黎明(あさあけ)の光が射し始めると、小萩は硯と筆を手に入れようとて出掛けて行つた、そして間もなくそれを持つて車の置いてある所へ歸つて來た。
それから、『餓鬼阿彌』の胸に附いてゐる板札の文字の下に、かういふ言葉を、唄で書き誌した――
『おん身もとのお姿に復(かへ)らせ給ひ御歸國の運びに至り給はば、願はくば美濃の國なるおばか町、萬屋長兵衞の婢、常陸の小萩を訪(おとな)ひ給へかし。
[やぶちゃん注:「おばか町」“the town of Obaka”。不詳。遊廓街の通称か?]
『おん身の爲め妾は辛うじて五日の間拘束なき身と成り申し、おん身の車を遙々此の地まで伐輓き參らせむ爲め三日を捧げ申しつ。かかるおん方に再び會ひまつらむ事妾に取りてまこと嬉しき事に候べし』
それから彼女は『餓鬼阿彌』に別かれを告げ、家路を辿つて急ぎ歸つた、かうして車だけを殘して行くのは隨分心苦しい事ではあつたけれど。
一〇 蘇生
遂に『餓鬼阿彌』は有名な熊野權現の溫泉に運ばれ、そして、其の樣を憐れに思ふ慈悲深い人達の力添へで、身體の治る湯、効果(ききめ)を每日經驗する事が出來たのである。
一週間經つとお湯の効果によつて眼と鼻と耳と口が元のやうに現はれた。十四日經つと手足は四本共そつくり元の形に戾つた。
それから二十一日の後には其の何とも言へない恰好をした膏はすつかり姿を變へて、在りし頃のやうな五體揃つた立派な、本物の小栗判官兼氏に成つたのである。
此の不思議な變はりやうをして仕舞つた時、兼氏は身の𢌞はり四方八方を眺め𢌞はして、自分がこんな見も知らぬ所へ何時どうして連れて來られたのか非常に驚き怪しんだ。
然し熊野の權現樣の御利益により、物事は頗る工合よく定まつてゐたので、蘇つた兼氏卿は無事に京都二條の自宅に歸る事が出來た。家では彼の兩親、兼家卿と其の奧方は大層喜んで彼を迎へた。
すると天子樣が、此顚末を逐一聽こし召されて、御自分の臣下の或る者が、死んで三年經つてから、かやうに生き還つたとは不思議な事であると思召された。
そしてお國拂ひにされた程の判官の罪を快くお許しになつたばかりてはなく、尙ほ其の上常陸、相模、美濃の三箇國の領主たるべき事を彼に御任命遊ばされたのである。
一一 面會
或る日小栗判官は己が住家を後にして自分が治めるやうに任命された國々視察の旅に上つた。美濃に着いた時、彼は常陸の小萩を訪ねよう、そして彼女の並々ならぬ好意に對して禮を述べようと決心した。
それ故彼は萬屋に宿を取つたが、其處ではどの部屋よりも一番立派な客間に通された、幾つもの金屛風や、支那の絨毯や、印度の掛布や、其の他隨分金のかかつた珍らしい品々で、綺麗にしつらへた客間である。
兼氏が自分の面前に常陸の小萩を招ぶやうに言ひ附けた時、あの女は此の上なしの下司(げす)つぽい女に過ぎないし、餘り汚ならしくてあなた樣の前に出されないといふ返事であつた。けれども彼はそんな文句には構ひなく、其の女がどんなに汚なからうと直ぐに來させるやうに命ずるばかりであつた。
それ故小萩は、いやでいやでたまらないのに、無理やりに殿の前に出されたのだが、始め衝立の蔭から覗くと、判官そつくりに見えたので飛び上がるばかりに驚いたのであつた。
小栗は彼女が出て來ると本名を明かして吳れと賴んだ、が、小萩はかう言つて撥ね付けた、『本名を明かすなどといふ事柄は拔きにして、お酌を致すのでなければ、私は殿樣の御前を引退るばかりで御座います』
然し彼女が行き掛けた時、判官は呼び止めた、『いや、暫くお待ちなさい。あなたの名を聞くには相當な譯があるのです、といふのは實は私はあなたが去年親切にも大津まで車に乘せて輓いて行つて吳れたあの「餓鬼阿彌」です』
かう言ひながら彼は小萩の書いたあの木の札を差し出した。
そこで彼女は全く昂奮して言つた、『こんなに元の御身體になられたあなた樣にお目に懸かるとはほんたうに嬉しう御座います。さあ今こそ喜んで私の經歷を殘らずお話し申しませう。唯だこれだけのお願ひがあります、殿樣、あなたに私はあの世の事を少小お伺ひしたいのです、あの世からあなたは還つていらつしやいました、そして其處には私の夫が、哀呼(ああ)! 今居るので御座います。
[やぶちゃん注:底本には「!」の後の字空けはない。特異的に施した。以降も同じである。]
『私は(昔の今をお話すると胸が張り裂けさうです)相模の國『ソバ』郡に住む橫山長者の一人娘に生まれまして、名は照手姬と申します。
『よく覺えて居りますが、哀呼(ああ)! 私は三年前に、身分のある名高いお方と結婚しました、名は小栗判官兼氏と言ひ、常陸の國に住んでゐた方です。けれども夫は毒害されました、三男の三郞に唆かされた[やぶちゃん注:「そそのかされた」。]私の父の爲めに。
『此の私は父の咎めを受けて相模の海に沈められようとしました。今かうして生きてゐるのは父の忠義な家來、鬼王と鬼次のお蔭で御座います』
其の時判官卿は言つた、『あなたは今眼の前に、照手の夫、兼氏を見てゐるのですよ。私は家來共と一緖に殺されはしたけれど、尙ほ幾年も久しい間此の世に生き永らへるやうに運命(さだめ)られたのです。
『私は藤澤寺の偉いお上人に助けられて、車を當てがはれ、大勢の親切な人達に熊野寺の溫泉まで輓かれて行つて、其處で元のやうに丈夫になり、姿も元のやうに治つたのです。そして今は三箇國の領主に任命されて、何でも望み次第の物を手に入れる事が出來るのです』
此の話を聞いて、照手は何もかもすつかり夢ではないのだとは殆ど信ずる事が出來なかつた、そして嬉し泣きに泣いたのである。それから言つた、『噫![やぶちゃん注:「ああ!」。後の字空けは同前。] 此の前お目に懸かつてから此のかた、私はどれ程憂い目辛い目に會つた事でせう。
『七日七晚海で丸木舟にもられまして、それから直江潟で隨分危い所を、村上太夫といふ親切な人に助けられたのです。
『其の後七十五遍も賣られたり買はれたりして、終ひに此處に連れて來られました、此處では私が女郞になるのを斷わつたばつかりに、有る限りの苦しみを受けて參りました。こんな淺ましい姿で今お目にかかるのは其の爲めです』
人でなしの長兵衞の殘酷な振る舞ひを聞くと兼氏は非常に立腹して、直に彼を成敗しようとした。
然し照手は命を助けてやるやうに夫に懇願した、かくて彼女がずつと以前長兵衞に約束した事――卽ち『餓鬼阿彌』の車を輓く爲め自分を五日の間自由にさせて吳れれば親方やお神に、入用なら、命でもやらうと言つた――あの約束を彼女は果たしたのである。
之を長兵衞は心から有難がつた。其のお禮として判官には自分の厩に居る百頭の馬を贈り、照手には家にゐる三十六人の召使を與へた。
そこで照手姬は相應に着飾つて、兼氏の君と共に出掛けて行つた。彼等は心の中を喜びで一杯にしながら相模への旅を始めたのである。
一二 懲罰
此處は相模の國のソバ郡、照手の生まれた土地てある。其の地は如何に多くの美しい思ひや悲しい思ひを彼等の心に呼び起こさせる事だらう。
此處は亦、小栗卿を毒殺した橫山や其の子の居る所でもあるのだ。
それ故三男の三郞は戶塚の原といふ荒野に連れて行かれて、其處で處刑された。
[やぶちゃん注:横浜市戸塚か。]
然し橫山長者は罪の深い男ではあつたが、罰は受けなかつた。どんなに惡るくても兩親といふものは子供達に取つてはいつも日と月のやうなものでなければないからである。此の仰せを聞いて、橫山は自分のした事を深く深く後悔した。
鬼王鬼次の兄弟は、相模灘の沖で照手の姬君を助けた廉[やぶちゃん注:「かど」。ここは評価すべき行いの意。]で澤山の贈物を頂戴した。
かくて善人は榮え、惡人は減ぼされた。
目出度く樂く、小栗樣と照手姬は共に都へ還り、二條の邸で暮らしたが、二人揃つた所は春の花のやうに綺麗であつた。
目出度し。目出度し。