譚海 卷之三 山下水と云箏の事 附武具御名器品々の事
山下水と云箏の事 附武具御名器品々の事
○營中の重器に、凡河内躬恆(おほしかふちのみつね)が所持の山下水といふ箏(こと)有。眞(まこと)に貫之が眞蹟にて、足曳の山下水は行かよひことのねにさへながるべらなりと云(いふ)和歌しるしあり。又蟬丸所持の琵琶といふものあり、又王羲之(わうぎし)・佐理(すけまさ)卿の眞蹟有。羲之は弘法大師にかよひ、佐理卿は東坡居士に似たりといへり。小倉色紙(おぐらしきし)は赤人の田子の浦の歌ありとぞ。神功皇后のゑびらのうつしといふもの有、京都の寺に本(もと)あるをうつさせられしと也、竹にてこしらへたる物也。又さかつらと云ゑびらは重器にて、殊に拜見成難(なりがた)き事也とぞ。豐臣太閤より進ぜられし十文字の鑓(やり)は、五三の桐の紋あり。又虎の皮のなげさやの鑓は、鎭西八郞爲朝の矢の根也とぞ。儲君(ちよくん)御持鑓(ごじやり)もその如くに、下取[やぶちゃん注:「取」には編者竹内利美氏により脇に『(板)』と補正注が有る。「したいた」。]うちて奉るとぞ。新古ともに分ちがたき程の出來也。只古身(ふるみ)は少しやせて見ゆるばかり也。御旗印は金の扇子也。長さ九尺、ほねのわたりは壹間なり。にくろめにて中の十本はくじらの骨也。東照宮御所持の御手槍は、御庭御步行(おんありき)にも隨身(ずいじん)ある事也とぞ。
[やぶちゃん注:「凡河内躬恆」(生没年未詳。一説に、貞観元(八五九)年頃~延長三(九二五)年頃とも)は平安前・中期の歌人。諸国で目(さかん)・掾(じょう)などの地方官を務め、延喜二一(九二一)年に淡路権掾(あわじのごんのじょう)となっている。この間、「古今和歌集」の撰者となり、同集には紀貫之に次ぐ六十首もの歌が採られている。三十六歌仙の一人。
「箏」ここは近世以後の代字(当て字)の「琴」と同義であろうと踏んで「こと」と訓じた。ここで言うそれが現在も残っているかどうかは私は不詳。同名異物の徳川秀忠が娘和子の嫁入り道具として作った琴「山下水」があるので注意されたい。
「蟬丸」平安前期の歌人。宇多天皇の皇子敦実(あつみ)親王の雑色(ぞうしき)とも、醍醐天皇の第四皇子ともされる謎の人物で、逢坂の関辺りに住んだ盲目の僧。「後撰和歌集」(天暦(九四七年~九五七年)末年頃には完成したか)以下に四首入集し、「今昔物語集」巻二十四・「平家物語」巻十一などにその名が見え、能及び近松門左衛門の浄瑠璃に「蝉丸」がある。琵琶の名手で、逢坂関明神に祀られてある。
「王羲之」(三〇七年~三六五年)は東晋の「書聖」とされる書家。琅邪臨沂(ろうやりんき)(現在の山東省)出身。その書は古今第一とされ、行書「蘭亭序」、草書「十七帖」などが有名。子で書家の王献之とともに「二王」と称される。
「佐理(すけまさ)」藤原佐理(天慶七(九四四)年~長徳四(九九八)年)は平安中期の公卿で能書家。藤原北家小野宮流で摂政関白太政大臣藤原実頼の孫、左近衛少将藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書の達人として知られる。
「小倉色紙」藤原定家筆と伝えられる「小倉百人一首」の色紙。「明月記」の嘉禎元(一二三五)年の条に、定家が嵯峨中院障子の色紙形に、天智天皇以下百人の和歌を書いた記事があり、世に称する「小倉色紙」はこれに相当すると言い、それならば、定家七十四歳の折りの書となるが、現存する複数の色紙は後世に筆写したものもあり、疑問な点が多い。
「五三の桐の紋」桐紋の内で一般的な、花序につく花の数が三・五・三である「五三桐(ごさんのきり/ごさんぎり)」。これ(ウィキの「桐紋」の画像)。
「なげさや」貂(てん)・豹・虎などの毛皮を袋として鞘を包んで上端を長く垂らした投鞘(なげざや)のこと。
「儲君(ちよくん)」皇太子(東宮・儲王(もうけのきみ)の異名。
「下取→下板」不詳。鎗の刀身の下部(柄に差す上部)に板を打ち付けたものか。
「古身」刀身部か。
「壹間」一メートル八十二センチメートル弱。開いた扇子の横最大長であろうか。
「にくろめ」不詳。煮黒目(にぐろめ)か。硫化カリウム溶液を浸けて化学変化で黒に色上げしていく技法で、溶液の濃度や浸ける時間によって黒の濃さを調整することが出来る。]
« 甲子夜話卷之六 4 駿府へ御移りのとき神祖御詠歌幷後藤庄三郎藏御眞跡の色紙 | トップページ | 明恵上人夢記 83 »