芥川龍之介 近藤君を送る記 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ・正字正仮名版)
[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻(くずまき)義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『近藤君を送る記』に拠った。末尾には葛巻氏によって『(明治四十二年)』のクレジットが示されてある。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」によれば、初出は東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)学友会明治四三(一九一〇)年二月十日発行の『學友會雜誌』で、署名は『五甲 芥川』である。電子化ではその署名を題名の後に掲げて再現した。なお、この初出誌には、かの芥川龍之介の力作「義仲論」(「一 平氏政府」・「二 革命軍」・「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)も発表されている。
本篇は、この前年の明治四十二年九月三日(満十七歳で第三中学校五年生(当時の旧制中学は五年制))、同級生であった近藤為次郎(名は新全集の書簡の人名解説索引に拠った。以下の進学事由もそれに従った)が江田島海軍兵学校(明治二一(一八八八)年に東京築地から移転した)入学のために去る(当時の海軍兵学校の受験資格は受験年齢に十六歳から十九歳という年齢制限があり、中学校第四学年修了程度の学力という条件があり、この近藤君はそれを満たしている。文中に出る近藤君の兄の帽子も海軍或いは海軍兵学校の帽子であろう)に際しての送別会が学校講堂で行われた事実に基づいて書かれた。この時、以下に記される通り、芥川龍之介は他の友人らともに祝辞送別のスピーチをしている。
踊り字「〱」は正字化した。]
近藤君を送る記
五甲 芥川
九月三日。近藤の江田島に去るのを會合を開く。合したのは百人ばかりの五年生だ。まだ初秋の事で、夕がた、水淺葱の花がほろほろとこぼれるのを見ると秋らしく思はれるが晝はまだ、百日紅の花がさいて、靑空には白い光のある雲が夏の姿を見せてゐる。近藤は紺がすりの單衣をきてにこにこ笑ひながらやつて來た。近藤と同じ鑄型で作つたやうな近藤の兄さんも來た。兄さんは白い筋の帽子を冠つてゐる。會は講堂で開いた。主任の先生も出席して下さつた。校長も中島先生も御出になる。僕等は唯嬉しい。喝采の聲が起ると演壇へ紺の制服をきた白面の靑年が立つた。山本だ。短い――しかしながら川勝先生のよりは長い――開會の辭述べて壇を下る。續いて茶菓が出る。俵田、中島、宮崎、筒井、長島、それから僕なんぞが無理に引つぱり出されて祝辭を述べる。寸鐡殺豚のやうなのばかりだつた。最後に近藤が答辭をやる。諸先生の御話しがある。中でも中島先生の祝賀の字義を解かれたのは大に振つてゐた。
會は山本の閉會の辭と共に完つた[やぶちゃん注:「をはつた」。]。超えて五日。近藤は三時何分かの汽車で江田島へ去つた。健兒幸に健在なれ矣。
[やぶちゃん注:「山本」は芥川龍之介の親友山本喜誉司であろう。後に龍之介の妻となる塚本文の叔父で、二人を結びつけた人物である。
「中島先生」は先の勉誠出版の解説の中で『数学科の中島広太郎』とある。
「寸鐡殺豚」(すんてつさつとん)は芥川龍之介の造語で「寸鉄殺人」(寸鉄、人を殺す:急所を突けば、短い刃物であっても人を殺すことが出来るの意。短く適切な言葉で相手の急所や弱点を指摘すること)を、魯鈍な豚ぐらいしか殺せない、短くて的外れなものだったとおどけて言ったものであろう。
「矣」は漢文の断定を表わす置字で読まない。]
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