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2019/12/18

小泉八雲 コレラ流行時に (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“IN CHOLERA-TIME”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)から出版)の第十三話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 文中に入る注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、前後を一行空けた。引用も同ポイントで全体が四字下げであるが、引き上げた。踊り字「〱」は正字化した。

 訳者戶澤正保(底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している)氏については私の「小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保訳)」の冒頭注を参照されたい。

 冒頭に、コレラに対する擬人比喩であるが、身体障碍を表わす差別的な読みが出たり、再録した俗謡に差別用語が出るが、批判的に読まれたい。

 なお、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二八(一八九五)年七月の条に、『マニラ、琉球に流行していたコレラが神戸にも流行のきざしをみせる。この頃のことが』本篇『「コレラ流行期に」で語られる』とある。「横浜検疫所」公式サイト内の「横浜検疫所の変遷」によれば、この明治二八(一八九五)年四月十日に、『金州(現在の中国遼寧省大連市)及び澎湖島地方(台湾)においてコレラが流行したことから、内務省が流行地域からの船舶に対して横浜港に航行する船舶で検査を受ける場合は「神奈川県長浜に寄停し検疫官の検査を受けるべき」』『とし、また、同年』七月三十日には『「台湾及び朝鮮国諸港」』『も検疫の対象になったため』、この検疫は同年十二月十七日まで続いた、とあり、『また、日清戦争に伴う戦地からの帰国者等に対する検疫について陸軍大臣からの要請を受け、陸軍検疫所設置までの間、内務省所管の長濱検疫所を含む検疫所で行うこととなり』、『同年、長濱検疫所では外国船や陸海軍関係船舶も含め』、七十二『隻の検疫を行い』、二十八『隻を消毒』、六『隻を停留とし』たとある。『なお、この年は、日清戦争に伴う戦地からの帰国等のためコレラが流行し』、五万五千百四十四人が感染し、実に四万百五十四人が死亡したと記す。]

 

      第十三章 コレラ流行時に

 

       

 最近の戰爭に於ける支那の重なる味方は、聾耳(つんぼ)で、盲目(めくら)で、條約の事も和平の事も少しも知らずに過ごし、今もなほ知らずに居る。併し日本軍の歸國を追うて戰勝帝國に侵入し、暑期中に約三萬人を殺戮した。殺戮は今も行はれつつあり、荼毘の烟は猶ほ絕えぬ。時とすると烟と臭氣とが、此市の背後の丘から、自分の家の庭園までも風に漂うて來る。そして自分に自分と等大の大人(おとな)を燒く費用は八十錢――現今の爲替相場で米貨約半弗――であることを想ひ出させる。

[やぶちゃん注:この明治二八(一八九五)年の為替レートでは一ドルは一・九八円。一円は現在の二万円相当であるから、一万六千円相当。現行の火葬料金のみでは安くて一万円ほど(公営)、私営では五万から十万円かかる。]

 自分の家の二階の緣側から、兩側に小さい商家の並んで居る、一筋の日本町がどん底まで見える。其町の方々の家から、コレラ患者が病院に運ばれて行くのを自分は見た――最後の患者は(遂[やぶちゃん注:「つい」。ほんの。]今朝)道の向う側に住む隣人で、陶器店の主人であつた。彼は家族の零す淚と泣き叫びにも拘らず、無理やりに連れて行かれた。衞生法はコレラ患者の私宅療養を許さぬ。けれども住民は科料及び其他の刑罰に觸れても、患者を隱匿しようと試みる。其故は避病院は入院患者夥多で、取扱ひが粗暴である上に、患者は全く親近者から隔離されるからである。併し警官は容易に欺かれぬ、彼等は直ぐ無報告の患者を發見し、擔架と人夫を伴なうて來る。殘酷の樣だが衞生法は殘酷でなければならぬ。隣人の妻は、泣いて擔架の後を追うたが、警官が遂に彼女を淋しい小さい陶器店に歸らしめた。店は今閉ぢられて居るが、店主に依つて再び開かる〻事は恐らくあるまい。

 かういふ悲劇は、始つたと思ふと直ぐ終結を告げる。遺族は法律が許すや否や、思ひ出多き所持品を取り片附けて姿を消す。そして町の普通の生活は、夜も晝も、何ま變つた事がなかつた樣に進行する。行商人は竹の棒と籠、若しくは桶、若しくは箱を携へて空屋の前を過ぎ、いつもの賣り聲をどなる。托鉢僧の行列は經典の文句を唱へながら通る。盲人の按摩は悲げな笛を吹く。夜𢌞りは溝板(どぶいた)の上に金棒を鳴らす、菓子賣りの子供は尙ほ太鼓を叩いて、女の子の樣な哀れつぽい優しい聲で、戀歌を歌ふ譯者註――

 

譯者註 此流行唄の原文見當たらず、止むを得ず英譯の意味だけを更に重譯す。

 

『お前と私は……長居をしたが、今來たばかりで歸る樣な思ひ。

『お前と私は……忘られぬは茶、宇治の古茶とも、新茶とも人は云はうが私には、美しい山吹色の玉露。

『お前と私は……私は電信技手、お前は電信受取人、私の送るのは心、お前の受け取るのも心、電柱が倒れうと、電線が切れうとこちや構はぬ。

 

 そして小兒等は常の樣に遊んで居る。彼等は叫んだり笑つたりして、相互に追ひあつたり、合唱して躍つたり、蜻蛉を捕へて長い糸に結び附けたり、或は支那人の首を斬るといふ、軍歌の疊句を歌つたりする――

 

    ちやんちやん坊主の首をはね

[やぶちゃん注:「ちやんちやん坊主」「ちゃんちゃん坊主」は差別用語で、中国人に対する当時の蔑称である。小学館「日本国語大辞典」によれば、「ちゃんちゃん」は中国人の「辮髪(べんぱつ)」(意味①)を指し、これは江戸時代、江戸の市中を、清の中国人の格好をして、鉦を「チャンチャン」と敲きながら飴を売り歩いていた者の、その鉦の音から出た語という、とある。「ちゃんちゃん」の意味③にははっきりと『かつて中国人を軽蔑していった語。ちゃんちゃんぼうず』と記し、仮名垣魯文の「西洋道中膝栗毛」(初編序文は明治三(一八七〇)年九月とある)が例文に引かれ、また「ちゃんちゃんぼうず」の項には、この差別語として国木田独歩の「愛弟通信」(明治二七(一八九四)年から翌年に『国民新聞』掲載)の日清戦争の「威海衛の戦い」(明治二八年一月二十日~二月十二日)に於ける艦隊攻撃の詳報の中での使用例が挙げられてある。]

 

 時とすると眞中の子供が一人消え失せる。併し殘つた者達が遊びを續ける。そしてそれは賢い仕方である。

[やぶちゃん注:何か不気味な描写である。次の段落との絡みの中で腑に落ちる。]

 

 小兒を燒く費用はたつた四十錢である。自分の隣人の中の一人は、數日前に其子を燒いた。其子が翫ぶ[やぶちゃん注:「もてあそぶ」。]のを常として居た小さい石は、鳶とのまま日向(ひなた)に橫たはつて居る……小兒が石を愛するといふことは、思へば不思議である。貧民の子と限らず、凡ての子供が或る年齡には石を翫弄物(おもちや)にする、何れ程外に翫具があつても、日本の子供は時に石を翫ぶ。子供の心には、石は驚くべき物であるので、そしてそれは然(しか)あるべき筈である。數學者の理解力を以てしても、平凡な石に無限の不可解があるからである。小さい頑童[やぶちゃん注:「ぐわんどう」。原文は“tiny urchin”。そのまま訳すと「小さな海胆」であるが、「urchin」はラテン語「ハリネズミ」が語源で、ここは「聞分けのない腕白小僧」。しかし、ここは後に続く描写から、寧ろ、小泉八雲の小児への愛称ととるべきであろう。]は、石に見懸けよりも深いものがあることを推察する、そしてその推察は實際天晴れである。若し愚かな大人が不實にも、其翫具は珍らしくも何ともないと告げなかつたら、彼はいつまでも石に倦きる事なく、絕えず其中に新しきもの、驚くべきものを發見しつつあるであらう。石に就ての小兒のあらゆる疑問に答へ得るのは、只だ大學者ばかりである。

 民間の信仰に依ると、隣人の愛兒は、今賽の河原で、小さい不思議の石を積み立てて居るのだといふ――多分其處では陰(かげ)の差さぬのを不審(いぶか)りつつ。賽の河原の物語に含まれて居る其の詩は、其主なる觀念の、全然自然的なる事である――凡ての日本の小兒が石を弄ぶといふ、其遊戲を幻の世界で繼續するといふ點である。

       

 兩端に大きな箱を下げた、竹の天秤棒を肩に擔いで、𢌞はつて來る羅宇屋[やぶちゃん注:「らうや」。「らう」は煙管(きせる)の火皿と吸口の間を繫ぐ竹管(インドシナ半島のラオス産の黒斑竹を用いたのがこの名の起こりという)で、その挿(す)げ替えを行う行商人。]があつた。一方の箱には、樣々の直徑、長さ、色合の竹と、それを金屬の煙管にはめ込む道具とを入れ、他の一方の箱には赤兒――彼自身の子供――が入れてあつた。時とすると其赤兒は箱の緣に伸び上がりで、通行人に笑ひかけるのを自分は見た。又時には箱の底に暖かさうに纏(くるま)つて熟睡して居るのを見た。又時には翫具を弄んで居るのを見た。此兒に翫具を與へる者も多數あると聞いた。其翫具の一つに、妙に死人の名札(位牌)に似たものがあつて、それは寢ても覺めても、屹度小兒の傍にあつた。

 ところが、過日自分は其羅字屋が天秤棒と、ぶら下げた箱を棄てて、手車を押して來るのを見た。其手車は、やつと彼の商賣道具と赤兒を入れるだけの大きさで、其積りで特に二室に仕切りで作られたものであつた。多分赤兒は重くなり過ぎて、原始的な運搬法では不適當になつたのであらう。車の上には、小さい白旗が樹てられて[やぶちゃん注:「たてられて」。]、それには『煙管屋宇替』及び『お助けを願ひます』といふ短い文句が走り書きに書いてあつた。赤兒は丈夫さうに又樂しさうに見えた。そして前にも自分の注意を惹いた位牌樣の翫具があつた。併し此度は赤兒の寢床と向かひあつた、高い箱の上に、眞直ぐにしつかりと立ててあつた。此車が近づいて來るのを見て居る中に、自分には突然其札は眞實位牌であるといふ確信が浮かんだ。日光が眞向に其上を照らしてお定まりの佛典の文句が明らかに讀まれた。自分の好奇心は動かされた。それで萬右衞門に命じて羅宇屋を呼び留めて、羅宇のすげ替へが幾つもあると告げさせた――それは實際の事であつた。間もなく車は自分方の門前に停まつて、自分はそれを見に出懸けた。

[やぶちゃん注:「萬右衞門」しばしば小泉八雲の作品に登場する家の老僕とするが、概ね実際にはセツ夫人のことであることが多いようである。ここも以下を読むと、実際にはそうであったように読める。]

 小兒は外國人の顏でも、少しも恐がらなかつた――愛らしい男の兒であつた。彼は片言(かたこと)を云つて、笑つて手を差し出したが、明らかに物を貰ひつけて居たのである。そして彼と戲れてる[やぶちゃん注:ママ。]中に、自分は位牌を熟視した。それは眞宗の位牌で、婦人の戒名卽ち死後の名が書いてあつた。萬右衞門が漢字を飜譯して吳れたのに依ると、つぎのやうな意味が書いてあつた。――『優越の淨境で厚遇せられ高位に置かる〻者、明治二十八年三月三十一日』其時一人の婢がすげかへを要する煙管を持つて來たので、仕事に取り掛かる此職人の顏を瞥見した。それは中年を越した男の顏で、昔は微笑を湛へたが、今は乾からびた古池といふ樣な口の周圍に、疲れた、同情をそそる樣な皺を寄せて居た。此皺は多くの日本人の顏

に、云ふに云はれぬ靜寂の表情を與ふるものである。間もなく萬右衞門が質問を始めた。此男に物を問はれて答へぬのは惡人でなくては出來ぬ事である。どうかすると彼(かれ)の懷かしい罪のない老いたる頭の後に、後光が――菩薩の後光――が射(さ)し始めるかと思ふ事がある。

 羅宇屋は之に答へて身の上話を話した。それに依ると此子供が誕生後二箇月で、彼の妻は死亡したのである。臨終の時彼女は云つた。『私が死んだなら、それから丸三年は、此兒を私の魂と一緖に居さして下さい。私の位牌から離れないやうにして下さい。さうすると、私が世話をして乳を飮ませますから――お前も知る通り、子供は三年乳を飮む筈のものですからね。此最後のお願ひをどうぞ忘れないで下さい』併し母親が死んで見ると、父親は今迄通りに働いて、其上夜も晝も世話の燒ける、小さい子供の世話とすることは出來ない、乳母を抱へる程の資力もない。それで彼は羅宇屋を始めた。それだと一寸も小兒を打棄(うつちや)らずに、少しの金を儲ける事も出來る。併し牛乳を買ふことも出來ないので、重湯(おもゆ)と水飴で一年以上小兒を養つて居る。

 それを聞いて自分は、小兒は至つて丈夫らしい、乳がなくて困る樣子は少しも見えないと云ふと、

 『それは』萬右總門が咎める樣な確信の口調で云ひ切つた、『死んだ母親が乳を飮ませるからです。小兒は乳に不自由なんぞするものですか』

 すると小兒は穩かに笑つた、恰も亡母の愛撫を感ずるかの樣に。

 

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