芥川龍之介 桂園一枝をよむ 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)
[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『桂園一枝をよむ』に拠った。クレジットはなく、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」にも目ぼしい書誌情報は全く載らない。しかし、先の「近藤君を送る記」が東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の最終学年五年の折り(満十七歳)のものであるから、それと同時期かそれよりも前の中学時代の作と葛巻氏は判断しているということになる。
「桂園一枝」(けいえんいっし)は歌集名で、江戸後期に刊行された国学者で歌人であった香川景樹(明和五(一七六八)年~天保一四(一八四三)年:鳥取藩士荒井小三次次男。香川景柄(かげもと)の養子となったものの、のちに離縁したが、そのまま香川姓を名乗った)の家集である。文政一一(一八二八)年に完成し、天保元(一八三〇)年に板行された。巻数は正編三冊・拾遺二冊で九百八十三首を収める。同じく国学者で歌人の小沢蘆庵(享保八(一七二三)年~享和元(一八〇一)年)が提唱した「ただごと歌」(人の心が発する自然の声をそのままに言葉にした歌)の主張を発展させ、優雅・清新な歌風を以って京都を中心とした歌壇に君臨した景樹の代表作。景樹の家風は明治初期までもて囃され、それを継いだグループが生れ、彼等は本歌集の名から「桂園派」と称された(明治後期に与謝野鉄幹や正岡子規ら和歌革新運動を起こした連中から批判を受けて衰退した)。景樹は「古今和歌集」の歌風を理想とし、紀貫之を「歌聖」と仰ぎ、それを実践するため、この歌集を自ら撰集した。歌集の構成は四季・恋・雑・雑体(長歌・旋頭歌・俳諧歌)から成る(以上は主にウィキの「香川景樹」に拠った)。]
桂園一枝をよむ
風止みて日品々、滿庭の落木疎影斜也。
案頭、偶、桂園一枝あり。興じてよむ。眞情流露、淸泉のせゝらぐが如きもの、誠に一代の歌人たるに不恥。
當時、二條流の跋扈したる中に超立して、その格式拘泥の陋習を嘲笑したる、素より高卓の識見あるにあらざれば不能。しかも彼の歌の淸新にして穩健、穩健にして眞率、眞率にして瀟洒、瀟洒にして俊逸、殆ど日本歌壇のウァーヅアースたらむとせるに於てをや。
其一二を擧げむに
松の實の雫をつらし柴の戶に 折々あらき雨の音かな
正に是、蘇東坡が、歲行盡矣 風雨凄然 紙窓竹屋 燈火靑熒 時於其間 得小佳趣 なるもの。讀過冥想すれば、曠世の奇才を抱く景樹翁が、殘燈水の如くなる書齋に、雨聲の肅々をきゝつゝ獨り淋しく案じくれたるさま、髣髴として眼底に浮び來るを覺ゆ。
妹と出て若菜つみにし岡崎の かきね戀しき春雨ぞふる
情韵双絕。悠々として言外無限の恨あり。
心なき人は心やなからまし 秋の夕のなからましかば
透徹之言、以て此翁の風貌を想見するに足る。
朝凪の網引やすらむ管浦の 霞をつたふ蜑の呼び聲
何等の優趣ぞ、霞をつたふの一語添へ來りて、耳邊、殆蜑の呼聲をきかむとす。
くれ竹の隣へかへる音すなり 日影に雪やとけわたるらむ
こともなき野連を出でても見つるかな しぎの羽音のあはたゞしきに
常套の裡、常套の語、しかも自ら雅意あるを見る。
夕まぐれ嵐にをつる松の葉を 雨のあたると思ひけるかな
無邊の幽情を三十一字の中に洩せるもの。芭蕉をして、天機を冷語の外にならしむると雖も、到底之にすぎず。
限りなき大海原の波の音を 松にとめてもきく夜なりけり
落想の豪宕なる。濤聲松籟を壓してあまりあり。
みな人の春の野はらにあくがるゝ 玉の緖とけてあそぶ糸遊
若草の野に立ちてわすれ水の歌をきく每に、未嘗てこの感なくしてすぎしはあらず。四疊半の部屋にうづくまる時、試にこの歌を朗詠すれば、何となく神遠く氣伸ぶる如き心地せらるゝ也。
[やぶちゃん注:「二條流」鎌倉後期の二条為世の唱える風体を守った和歌の守旧派。京極・冷泉の各派と対立し、その歌風は保守的であったが、中世から近世にかけて歌壇の主流とはなった。但し、江戸時代には正統なそれは断絶しており、芥川龍之介の言うように「跋扈し」ていたとは言い難い。
「ウァーヅアース」イギリスの代表的なロマン派詩人ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth 一七七〇年~一八五〇年)。湖水地方の光景をこよなく愛し、自然と人間との霊交を謳い、平易な表現で純朴且つ情熱を秘めた自然讃美の詩を書いた。
「蘇東坡が、歲行盡矣 風雨凄然 紙窓竹屋 燈火靑熒 時於其間 得小佳趣」北宋の名詩人蘇軾(一〇三七年~一一〇一年)の以下の尺牘(書簡)の一篇。「毛維瞻(まういたん)」なる人物はよく判らぬが、内容から見て蘇東坡の気におけないかなり親しい友人であったものと思われる。中文サイトを読むに、北宋の詩人毛滂(一〇六一年?~一一二四?年)の父親である。
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與毛維瞻
歲行盡矣。風雨凄然。紙窓竹屋。燈火靑熒。時於此間少佳趣。無由持獻。獨享爲愧。想當一笑也。
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毛維瞻に與ふ
歲(とし)、行々、盡く。風雨、凄然たるも、紙窓・竹屋の燈火、靑熒(せいけい)の時、此の間(かん)に於いて、少しき佳趣を得。持して獻ずるに(よし)由無し。獨り享(う)くを愧(はぢ)と爲し、想ふに當に一笑すべきなり。
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国立国会図書館デジタルコレクションの坂井松梁著「ポツケッツト 漢文と候文」(明四四(一九一一)年求光閣刊)のこちらに、以下のような訳が載るので、電子化しておく(坂井松梁氏は生没年が不明であるので、著作権満了(恐らく間違いなく満了)の確認が出来ないので引用とする。読みは一部に留めた)。
《引用開始》
最早餘日(よじつ)御座なく、風雨轉(うた)た凄然たる折柄(をりから)、御動靜(ごどうせい)如何(いかが)、小生紙窓(そそう)竹屋(ちくをく)靑燈(せいとう)を挑(かか)げ、閑味(かんみ)を愛する時、少(すくな)からざる佳趣を覺へ申候(まをし)、献上するに由(よし)なく、唯だ一人(ひとり)にて此樂(たのし)みを享有(けういう)するは、不本意の至(いたり)に御座候、御(ご)一笑下され度(たく)候、御都合にて御曳杖(ごえいじやう)如何(いかゞ)、早々、
《引用終了》
「曠世」「くわうせい(こうせい)」。世に稀なこと。稀代。
「妹」(いも)「と出て」(いでて)「若菜つみにし岡崎の かきね戀しき春雨ぞふる」水垣久氏のサイト「やまとうた」の「千人万首」の香川景樹によれば、「妹」は景樹の妻包子(かねこ)のことで、文政三(一八二〇)年三月、景樹五十三歳の時に死別しており、『「岡崎」は今の京都市左京区岡崎(グーグル・マップ・データのこの附近。以下同じ)。景樹が妻と居を構えた土地』とある。歌柄から明らかに妻没後の一首。
「管浦」原家集を確認出来ないのだが、これ、「菅浦」の編者葛巻氏の判読の誤りではあるまいか? 「菅浦」ならば、琵琶湖北部湖岸の現在の滋賀県長浜市西浅井町菅浦である。ウィキの「菅浦の湖岸集落」によれば、『天皇に供える食物を献上する贄人(にえびと)が定着したのが始まりとされ』、『天平宝字』八(七六四)年に『藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の際に逃れた淳仁天皇の隠棲伝説も伝わ』るとある。
「蜑」「あま」。海士(あま)。
「幽情」心の奥底の想い。
「天機」造化の秘密。天地自然の神秘。
「冷語」冷淡な言葉。嘲る言葉。
「落想」心に浮かんだ想い。
「豪宕」「がうたう(ごうとう)」。気持ちが大きく、細かいことに拘らずに思うままに振る舞うこと。豪放。
「糸遊」陽炎(かげろう)、
「神遠く」「しんとほく」と読んでおく。神の持つ久遠なその霊力の意で採っておく。]
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