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2019/12/05

小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“THE REBIRTH OF KATSUGORŌ)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第十話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者金子健二(明治一三(一八八〇)年~昭和三七(一九六二)年:パブリック・ドメイン)氏は新潟県中頸城郡新井町出身の英文学者。高田中学校から東京の郁文館中学校・第四高等学校を経て、明治三八(一九〇五)年、東京帝国大学英文科卒。一九〇七年から一九〇九年まで米国のカリフォルニア大学バークレー校大学院に学び、帰国後、広島高等師範学校教授、大正一三(一九二四)年、在外研究員として渡欧、大正一五(一九二六)年、文部省督学官、後に東アジア・インドに調査旅行をした。昭和八(一九三三)年、旧制静岡高等学校校長・姫路高等学校校長を務め、日本女子高等学院教授(校名変更で日本女子専門学校教授)、学校法人「東邦学園」理事となり、校名変更後の昭和女子大学の初代学長・理事を務めた。中世英文学が専攻であったが、インドや夏目漱石など関心は広かった(ウィキの「金子健二」に拠った)。

 本篇は江戸後期の復古神道(古道学)の大成者の一人として知られる稀代の国学者にして思想家であった平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年:本姓は大和田。医師でもあった。出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。成人後に備中松山藩士で兵学者の平田篤穏(あつやす)の養子となった。篤胤の名乗りは享和年間(一八〇一年~一八〇四年)以降。荷田春満・賀茂真淵・本居宣長とともに「国学四大人(うし)」の一人と称される)が、文政六(一八二三)年に板行した「勝五郎再生記聞」に書かれた事件を素材としたものである。但し、後述するように、本篇は知られた「勝五郎再生記聞」を直接の原拠とするものではなく、それに先行する別な記録物に基づくものである当該書は、所謂、神隠しに逢ったと自称する農民の少年小谷田勝五郎(こやたかつごろう 文化一一(一八一四)年~明治二(一八六九)年)からの聞き書き等に基づく前世記憶実録譚である。ウィキの「小谷田勝五郎」によれば、勝五郎は、『武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『)の農家、小谷田源蔵の息子』であったが、文政五(一八二二)年(数え九歳)の時、『ある夜、突然』、『家族に「自分はもとは程久保村(現日野市程久保』(ここ)『)の藤蔵という子どもで』、六『歳の時に疱瘡』(天然痘)『で亡くなった」と言い、あの世に行ってから生まれ変わるまでのことを語った。語った話が』、『実際に程久保村で起こった話そのものであり、村に行かなければ分からない話を知っていたということで』、『その当時』、『大騒ぎとなり、話は江戸まで知れわたった』(但し、程久保村は中野村の北直近である)。翌文政六年四月、『勝五郎の噂に関心を持った平田篤胤は勝五郎を自分の屋敷に招き』、七『月に聞き取った内容を』「勝五郎再生記聞」という書物に纏めた。二年後の文政八年には、『湯島天神の男坂下にあった平田が経営する国学塾「気吹舎』(いぶきや)『」に入門』して『平田の門人となっ』ている。『その後は父源蔵の家業である農業、目籠仲買業を引き継ぎ中野村で暮らしたとい』い、明治二年に五十五歳で死去し、『墓は同郡下柚木村の永林寺』(曹洞宗金峰山道俊院永林寺)にある(ここ)。個人ブログ「失なわれゆく風景」の「勝五郎生まれ変わり物語の舞台 八王子市東中野周辺」で墓が見られる。当該ウィキには小泉八雲の本篇への簡単な言及もある。また、平田はこの前年の文政五(一八二二)年にも、幽冥界往還事件を扱った「仙境異聞」を刊行している。これは文政三(一八二〇)年秋に江戸で噂となった「天狗小僧寅吉」の聴き書きで、彼はカスパー・ハウザーのように浅草観音堂の前に突如として現われ、「自分は幼い頃に天狗に攫われて神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受け、帰ってきた」と称したのであった。篤胤は、山崎をその家に訪問しただけでなく、彼を自身の養子として迎え入れて幽冥界研究の素材としたのである。なお、ネット上には「勝五郎再生記聞」や「仙境異聞」絡みのサイトは甚だ多く、未だにこの怪しい都市伝説への関心の変わらぬ人気が窺われる。

 私も中学自分にこの話を聴き、二十代の頃には、この「仙境異聞」や「勝五郎再生記聞」に興味を持ち、平田の原本を読み、幾つかの関連書も読んだが、個人的には、最終的に、心霊現象としては意識的或いは半無意識的詐欺レベルのもの(勝五郎の場合は彼及び死児藤蔵の兄弟姉妹或いは親族等の共同正犯の可能性を含む。さらに本来、バイアスがかかってはいけない聴き取る側自体が幽冥界の話に知らず知らず誘導していた嫌いが甚だ大きい)――但し、寅吉も勝五郎はかなり優れた知性を有しており、形成した架空世界の構築もそれなりにしっかりしており(特に寅吉はそうである)、思うに一種のパラノイア(偏執質)的人物(特に寅吉の方には粘着質特有の偏奇的性格や気分の変化の激しいところなどが甚だ感じられるように思う)と思われる――と判断しており、大衆や平田が挙ってこの話を無批判に信じたのは、現在でもしばしば発生する擬似心霊騒擾と同じく、一種の心理的な集団伝播(感染)で説明出来ると考えている。

 但し、この奇書に着目した近代人としては、小泉八雲はごくごく初期の人物であり、しかも彼が元西洋人である点で、すこぶる注目すべきであろう。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。書簡の署名・クレジットは底本では下方インデントのポイント落ちであるが、一字下げで引き上げて同ポイントとし、また、注も四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。他にもポイント落ちの部分が多数あるが、総て基本、同ポイントで示した。字空け等も一部を除いて再現していない。

 最後に言っておくと、小泉八雲の本篇の構成は本心霊事件を実に面白く読ませるものであるが、小泉八雲が原拠としたのは本文の終りにも出るが、現行の我々が知る「勝五郎再生記聞」そのものではないのである。本事件を扱った優れて詳細なサイト「勝五郎生まれ変わり物語」のこちらによれば、『八雲が勝五郎の転生を執筆するときに原本として使用したのは、土佐藩出身で明治天皇の側近として活躍した佐佐木高行』(後注する)『の蔵書』「珍説集記」と呼ばれる稀書が底本であり、『同書が、國學院大學図書館所蔵「佐佐木高行旧蔵書」コレクションのなかにあることが』、平成二〇(二〇〇八)年になって、『蔵書目録が刊行されたことにより』、本篇の原拠であることが初めて確かに確認されたとあるからである。さらに同サイトのこちらによると、この事件の発生した翌文政六年二月の『ある日、江戸から池田冠山(いけだかんざん)』(池田定常。本文内で注する)『という大名(鳥取藩の支藩』若桜(わかさ)藩『の藩主、当時は隠居)が、勝五郎の家を訪ねて来て、生まれ変わりの話を聞かせてほしいと頼みました。勝五郎は気おくれして話すことが出来なかったので、祖母つやが代わりに話をしました』が、翌三『月、冠山は聞いた話を「勝五郎再生前生話(かつごろうさいせいぜんしょうはなし)」としてまとめ、松浦静山(まつらせいざん)』(彼の膨大な随筆「甲子夜話卷之廿七」の五・六話目にも「八の兒その前生を語る事」・「同前又一册」として本件を記している。私は「甲子夜話」の全電子化注を手掛けているが、未だ巻之六の途中である。本篇終了後、フライングしてそこのみを電子化することとしよう。【2019年12月6日追記】「甲子夜話卷之廿七 5/6 八歲の兒その前生を語る事/同前又一册」を公開した。私は約束は守る男だ『や泉岳寺の貞鈞(ていきん)大和尚』(本篇に登場する)『などの、文人仲間に見せました。冠山の著作は次第に多くの人の目に触れることとなり、勝五郎の生まれ変わりの噂は江戸中に広まりました。冠山が、中野村まで生まれ変わりの話を聞きに行った背景には』、文政五年十一月に藤蔵と同じ六歳で『疱瘡のために亡くなった末娘「露姫(つゆひめ)」の存在がありました』。続いて四月には、『中野村の領主で旗本の多門傳八郎(おかどでんはちろう)が、源蔵・勝五郎親子を江戸へ呼び出しました。知行所での騒ぎが大きくなって、そのままにはしておくことが出来なかったからです。多門は』、四月十九日に『源蔵親子から話を聞き、これをまとめて、上司である御書院番頭佐藤美濃守(みののかみ)に提出しました』。『多門傳八郎の届書の写しは、すぐに多くの文人たちが入手することとなり、国学者の平田篤胤』『のところへも届けられました。篤胤は、友人の屋代弘賢(やしろひろかた)の勧めもあって、多門の用人谷孫兵衛に、勝五郎への面会を申し入れました。そして』、同年四月二十二日に、『源蔵と共に篤胤の学舎、気吹舎』『へ来た勝五郎から直接』、『話を聞きました。篤胤が、勝五郎の話を聞いたのは』、四月二十二・二十三・二十五日の三『日間でした』。同年六月、『篤胤は、勝五郎の話に自身の考察を加えて』「勝五郎再生記聞」を纏め、七月二十二日からの『上洛に持参』し、『光格上皇と皇太后へお見せしました。御所では、女房たちに大評判となったそうです』とある。さすれば、平田の「勝五郎再生記聞」とは実は本篇はかなり異なる。『「勝五郎再生記聞」なら読んだよ』という方にも、本篇はあたかも事件調書記録を読むように、はなはだ面白いはずである。従って「勝五郎再生記聞」との異同注記は気になった特別な部分のみとした。対照したのは二〇〇〇年岩波文庫刊の子安宣邦校注「仙境異聞 勝五郎再生記聞」である。同作の電子化されたものは、サイト「小さな資料室」の「資料366 平田篤胤『勝五郎再生記聞』」がよい(因みに、同サイトの『資料408 源義経「腰越状」(『吾妻鏡』による)』では私のサイトが紹介されている)。]

 

      第十章 勝 五 郞 の 轉 生

 

       

 これから書き下す事柄は作り物語では無い――少くとも私の作り出した物語の一つでは無い。これは日本の古い一つの記錄――或は寧ろ記錄類系ともいふべき物を飜譯したのであるが、それにはちやんと署名もしてあれば捺印もしてあり、その上この世紀の初期に溯つての日付さへ記入してあつた。私の友人の雨森(あめのもり)氏は日本や支那の珍しい寫本をいつも獵(あさ)つて步く仁(ひと)で、さういふ珍本を掘出すことにかけては非凡な腕前を持つてをるやうに見えるが、その仁(ひと)がこの寫本を東京の佐佐木伯爵家の書庫で見出したのである。氏はこれを珍しい本だと思つたので親切にも私にこれを寫させてくれた。私はその寫した書物を臺本としてこの譯をものしたのである。私は本書の附錄として書いたところの二三の註釋以外の事柄に關しては何等の責任を持つてをらぬ。

[やぶちゃん注:「雨森」雨森信成(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバー。ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きでWE・グリフィスが化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師SR・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『MN・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のTA・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある。先のサイト「勝五郎生まれ変わり物語」によれば、『彼は、明治の初めに英仏に留学、英独仏の三か国語に堪能で、後には横浜のホテルニューグランドに出入りする洗濯業を営んでい』たとしつつ、『雨森は、英国留学時代に』先に示した佐々木『高行の長男高美と親しくなり、帰国後』、『佐佐木高行が主催していた『明治会叢誌』の編集者となり』、『佐佐木高行は蔵書家としても有名で、同家に親しく出入りしていた雨森は、蔵書のなかから「珍説集記」を見つけ八雲に見せたので』あったと、参考資料入手の経緯を語っている。

「佐佐木伯爵家」元土佐藩士で政治家の佐々木高行(文政一三(一八三〇)年~明治四三(一九一〇)年)のこと。土佐三伯の一人(他に板垣退助・後藤象二郎)。後に侯爵となった。ウィキの「佐々木高行」によれば、『藩士と郷士の身分が確立されている土佐藩の中で上士の板垣退助や谷干城と同じく、郷士に対し寛大だった人物として有名』で、『明治政府高官の中でも保守派を代表する』一『人であり、明治天皇の信任を楯に』、『政治体制を巡り』、『伊藤博文らと争った』とある。]

 この譯文は讀み始めは多分面白味が讀者にうつつて來ぬと思ふが、それを忍耐して終り迄全部通讀して貰ひ度い。と言ふのはこの書は人間の前生追憶の可能であることを私達に敎へてをる以外に多くの事柄を暗示してをるからである。例へば既に消え去つて了つたところの封建時代の日本に關して、或はこの國の昔の宗敎――假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]それが高尙な佛敎で無かつたにせよ、西洋人の目から見て容易に眞相を捕へることの出來なかつた物のその幾部分かをこの記事によつて窺ふことが出來る――換言すれば日本の人達が前生と更生とに關して一般に抱いてをつた思想がこの書の中に能く現れてをる。故にこの事實の上に立つて觀察すればお役所の吟味が正確であつたこととか、或は證據として認められた事柄が信ずべき筋の物であつたとかなかつたとかいふことは當然小さな問題となつて仕舞ふ。

 

       

  多聞傳八郞の調書寫

     私の地内の百姓で目今武藏國多摩郡中村

     に住んでをる源藏と申す者の二男で當年

     九歲になりまする勝五郞の一件に次のや

     うな次第であります。

 昨年の秋の間のことでありましたが、或時、源藏の子、前記勝五郞がその姉に彼の前生のことや轉生のことを物語つたさうですが、姉はそれを子供の出鱈目な話だと思つて注意を拂はなかつたのです。併しその後勝五郞は同樣の物語を幾度も幾度も繰返すので姉も初めて不思議なことに思つて終にこれを兩親にも告げたのであります。

 去年十二月の間に源藏自身がこの事柄について勝五郞に質ねましたところがそれに對して勝五郞はかく公言したのであります。

 『私は前世では武藏國多摩郡の小宮樣の領内程窪村(ほどくぼむら)の百姓久兵衞とかいふ者の子でありました――

 『久兵衞の子と生れたこの私勝五郞は六歲の時に疱瘡を病んで死にました――

 『それから後源藏の家に轉生(うまれかは)つたのであります』

 

 この話は嘘のやうでしたが勝五郞は餘りに委しく餘りに明かにその物語の事情を繰返して話しますので、その村の庄屋や長老(おもたち[やぶちゃん注:ママ。])等はこれを形式の如く調べでみました。ところでこの事が早速世間に廣く知られたので伴四郞とかいふ者の家族の耳に入りました。伴四郞は程窪村に住んでをつた者であります。彼は私の地内の百姓、前記源藏の家へと參りました。そしてこの少年が彼の前世の兩親の肉體(からだ)の容子や顏の特色(かつこう)等に關してかねがね話してゐた事柄や、或は又、彼が前生で住んでゐた家の樣子等について物語つてをつた事柄が皆一つとして事實で無い物は無いといふことを知りました。そこで勝五郞は程窪村の伴四郞の家に引取られました。村の人達は勝五郞を見て藤藏さんそつくりだと申しました。藤藏といふのは餘程以前に、然かも六歲の時に死んで仕舞つた子供であります。その時以來この二家族は折さへあればお互に往復してをります。他の隣接村の人達はこれを傳聞したものと見え、勝五郞の顏を見に來る人が每日每日絕えないといふ有樣であります。

 

 以上の事實に關する證言が私の地内に住んでをる人達に依つて私の面前でなされましたから、私はその源藏なる男を私の家へ呼出して調べてみました。私の訊問事項に答へた彼の言葉は他の人達の述べた前記の口供事項と何等矛盾(ちがう[やぶちゃん注:意味を示すルビ。])するところはありませんでした。

 この種類の評判は世間に於て人々の間にひろがることは時々あるものであります。このやうな事柄は信ずることが困難であるのは固よりでありますが、私はただこの差當つての事件を御耳に入れまして、私の怠慢の罪を免れ度いばかりに御報告申上げる次第であります。

          〔署名〕多聞傳八郞

      文政六年(一八二三年)四月

[やぶちゃん注:「多聞傳八郞」原文“TAMON DEMPACHIRŌ”。冒頭注でも示した通り、「勝五郎再生記聞」では、この調書(しらべがき)の報告者の姓は「多門」でしかも、その読みは「おかど」である。実は後に出る先行する池田(冠山)貞常の「勝五郎再生前生話」でも「多門」であるから、以下、「多聞」は「多門」と読み換えて戴きたい。なお、先んずる人物ながら、旗本で通称「多門伝八郎(おかどでんぱちろう)」で知られる多門重共(おかどしげとも 万治元(一六五八)年~享保八(一七二三)年)がいる。彼はかの「赤穂事件」に於いて、浅野長矩の取り調べと、切腹の副検死役を務め、「多門筆記」に長矩の様子を詳しく記した人物として著名であり、姓の特異な読み方と通称の一致から見ても、その正統な後裔と考えて問題なかろう。

 

  泉岳寺の僧貞金に與へた和直の書狀寫

 多聞傳八郞の調書が志田兵右衞門樣の手で寫されて、それが私の掌中に入つたので私は好都合でありました。私は今それを貴僧にお送り致すことの出來るのを光榮と存じてをります。貴僧はこの調書寫本と、それから貴僧が先般私に見せて下さいました觀山樣の御書とを一緖に、永く御保存相成ることは、貴僧にとりて御利益のことと思ひます。

             〔署名〕 和直

    六月二十一日(他に年代の記入無し)

[やぶちゃん注:「勝五郎再生記聞」にはこの書状自体が存在しない。

「貞金」は原文“TEIKIN”。冒頭注の引用と以下の泉岳寺のそれに従えば、「貞金」は「貞鈞」或は「貞均」が正しく「泉岳寺」公式サイトの「萬松山泉岳寺の縁起」を見ると、『現存する山門は天保年間に当寺』三十四『世大道貞均和尚によって建立され』とあるまさに泉岳寺住持である。以降の「貞金」も総て「貞鈞」又は「貞均」と読み換えて戴きたい

「和直」は“KAZUNAWO”。人物不詳。

「志田兵右衞門」は“Shiga Hyoëmon”であるから、「志賀」「滋賀」の誤読か誤植である。平井呈一氏は恒文社版「勝五郎再生記」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)でも『志賀』となっている。但し、人物は不詳。

「觀山」“Kwan-zan”。冒頭注の引用に示された事実その他から考えるに、これは「觀山」が正しい。彼は因幡国鳥取藩支藩の若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)で、冠山は号である。ウィキの「池田定常」によれば、『旗本池田政勝の次男』で、『正室は』おらず、『子に池田定興(長男)、池田定保(六男)、徽姫(青木一貞継室)、鎮姫(織田信陽正室)、奉姫(池田喜長正室)、露姫』(冒頭注に出た夭折の娘)。『官位は従五位下、縫殿頭。松平冠山と呼ばれることもある』。安永二(一七七三)年に『先代の藩主・池田定得』(さだのり)『が嗣子無くして病死した。定得は遺言として、旗本の池田政勝の子・定常を跡継ぎに指名していたため、それに従って定常が家督を継ぐこととなった』。『定常は謹厳実直で聡明だったため、小大名ながら諸大名からその存在を知られた。また、教養や文学においても』、『深い造詣を示し、佐藤一斎や谷文晁、塙保己一、林述斎らと深く交流した。そのため、毛利高標(佐伯藩)や市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳の間の三学者」とまで呼ばれた』。享和二(一八〇二)年十一月、『家督を長男・定興に譲って隠居した。隠居後も学者や文学者と交流し、著作活動や研究に力を注いでいる』(本件も隠居後二十一年後である)。『定常は政治家としても有能であるが、どちらかというと文学者として高く評価されている。定常の著作である『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』は、当時の儒学や古典、地理などを知る上で貴重な史料と高い評価を受けている』。寛政八(一七九六)年から翌九年に『記した巡見日記が「駿河めぐり」として』『翻刻されている』。また、文政六(一八二三)年には、『自らの前世を語った勝五郎という農民の少年の元を訪れ』、「児子再生前世話」(勝五郎再生前生話(さいせいぜんしょうばなし))を記しているとある。早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらで「勝五郎再生前生話」の写本全篇が画像で見られる。以降の「觀山」も総て「冠山」と読み換えて戴きたい

 

 松平觀山から泉岳寺の僧貞金に與へた書狀寫

 この書面と同封で勝五郞轉生の物語書をお送り致します。この書は私が通俗的に書いてみたもので、その趣旨はかの佛敎の難有い[やぶちゃん注:「ありがたい」。]御敎へを信じない人達を沈默させる爲にはこの書が效果が多いと思つたからであります。言ふ迄も無くこれは文學書としてはつまらぬ作であります。私が今これを貴僧にお送りするのは、かういふ見方でこれを御覽下さつた場合にのみ御興味を引くことが出來得ると思つたからであります 併しこの話其物について申せば誤謬の點は一つもありません。と申しますのは私がこの話を勝五郞の祖母の口から直接に聽いたからであります。これをお讀みになつたら何卒私に御返却を願ひます。

             〔署名〕 觀山

  二十日(他に如何なる年代の記入も無し)

[やぶちゃん注:同じく「勝五郎再生記聞」にはこの書状はない。]

 

 【寫 し】

 

    勝

 

 僧貞金が序(はしがき)に書いた說明書

 これは一つの眞實の出來事を書いた書である。その證據には編者松平觀山樣がこの事柄を委しく取調べる爲に本年三月二十二日親しく(中野村に)御出馬になつてをるではありませんか。觀山樣は勝五郞を一瞥なされた後にその祖母に凡ゆる委しい事をお質ねになつた。そして祖母の答へるま〻に委しくお書きになつた。

 その後この觀山樣は辱け無くも[やぶちゃん注:「かたじけなくも」。]この四月の十四日に是所(この寺)へお出でになつて、前記勝五郞の家族訪問の事柄をその貴い御口からお話になつた。剩へ[やぶちゃん注:「あまつさへ」。]同月二十日には前記の書を私に讀むことを許しになつた。で私はこの御厚意に甘えて時を移さずこれを寫した。

   〔署名〕貞金僧(書きはん卽ち筆で個人用の

           署名印を書いたものゝ寫し)

     泉岳寺

     文政六年(一八二三年)四月二十一日

[やぶちゃん注:「〔署名〕貞金僧」の後の丸括弧内の書判についての解説は、底本では丸括弧内に二行書きポイント落ちの割注である。原本にある小泉八雲の注である。同じく「勝五郎再生記聞」にはこの記載はない。]

 

 【寫 し】

 

 この二家族の人達の名前

 

    源藏の家族

 

 勝五郞――文化十二年(一八一五年)十月十日生、文政六年(一八二三年)當九歲、武藏國多摩郡中村、谷津入に住める百姓源藏の二男――この村は多聞傳八郞の所有地(多聞の屋敷は江戶根津七軒町にあり)に在つて柞木(ゆずき)管内。

 

註 西洋人が記憶すべきことは日本では生れたばかりの子供は一歲として計算されゐのが常であるといふ事實である。

[やぶちゃん注:「谷津入」八王子市東中野にバス停名で現存する

「江戶根津七軒町」現在の台東区池之端二丁目。不忍池の端の北西部。

「柞木(ゆずき)」原文は“Yusuki”で「ゆすき」。金子氏が何故この漢字を当てているのか、よく判らない。「勝五郎再生前生話」でも「勝五郎再生記聞」でも「柚木」で、読みは後者では「ゆぎ」である。但し、「柞木」で「ゆずき」と読むことはある。因みに「柞木」は「ははそ(は)のき」で楢(ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus)の古名である。]

 

 源藏――勝五郞の父、姓は小矢田氏、文政六年當四十九歲、貧のため日夜籠を造つて江戶で商賣す、江戶居住中の旅宿は馬喰町相模屋といふ、宿屋の亭主は喜平と呼ぶ者。

 

 せい――源藏の妻、勝五郞の母、文政六年當三十九歲、嘗て尾張樣に事へた[やぶちゃん注:「つかへた」。]ことのある弓將家村田吉太郞と呼ぶ武士の女[やぶちゃん注:「むすめ」。]、せい十二歲の時本田大之進殿の家に下女となつたと傳云[やぶちゃん注:「つたへいふ」。]、十三歳の時父吉太郞何かの理由で尾張樣から永のお暇がでて浪人となつた。そして文化四年(一八〇七年)四月二十五日七十五歲で歿した、彼の墓は下柞木(しもゆずき)村の永林寺といふ禪寺の墓地にある。

[やぶちゃん注:「村田吉太郞」不詳。「勝五郎再生記聞」には貼り付けられた紙に『村田吉太郎は織田遠江殿組にて、侍の所行にあらざる事ありて、寛政元丙年』(不審。寛政元年は一七八九年であるが、干支は己酉で合わない)『十一月廿一日追放仰付けられしとある書に見えたり。後に丹羽家(左京大夫どの)かゝへられしと或人いへり』とある。

「本田大之進」不詳。

「永林寺」冒頭注参照。勝五郎の墓がある寺と同じ。]

 

註 浪人とは主君を持たぬ流浪の武士を云ひ、一般にこの徒は自暴自棄の甚だ危險な者共であつたが、中には立派な人物もあつた。

 

 つや――勝五郞の祖母、文政六年當七十二歳、若い時松平隱岐守殿(大名)の御殿女中を勤めた。

[やぶちゃん注:「松平隱岐守」伊予国松山藩主で定勝系久松松平家宗家の誰かである。「若い時」を二十代と考えて文政六(一八二三)年から逆算すると、一七五〇年頃となり、伊予国松山新田藩二代藩主・伊予松山藩八代藩主松平定静(さだきよ 享保一四(一七二九)年~安永八(一七七九)年)辺りかと思われる。定勝系久松松平家宗家九代で官位は従四位下・隠岐守・侍従である。]

 

 ふさ――勝五郞の姉、本年十五歳。

 

乙二郞――勝五郞の兄、本年十四歲。

 

 つね――諮五郞の妹、本年四歲。

 

 

     伴四郞の家族

 

 藤藏――武藏國多摩郡程窪村で六歲の時に歿した、こ〻は江戶下谷新橋(あらばし)通[やぶちゃん注:原文は“Ata-rashi-bashi-dōri”。この「新橋」は確かに「あたらしばし」と読むはずである。金子氏が何故かくルビしているのか不審である。]に屋敷を持つてゐる中根右衞門の所有地、小宮管内――(藤藏)は文化二年(一八〇五年)に生れ文化七年(一八一〇年)二月四日四刻(午前十時)頃死す、病名は疱瘡。前記の程窪村の丘上の墓に葬る、菩提寺は三澤村の醫王寺、宗門は禪宗、去年文化五年(一八〇八年)藤藏の爲に十三囘忌の法會營まる。

 

註 佛敎では亡者の爲に一定の年期每に法會を營むことになつてゐて、それが次第に永さが多くなつて來て死後百年目に至るやうに定めてある。十三囘忌とは死後十三年目の法會である。第十三囘といふ數には前後の意味から考へて死者の死んだ年が第一年目として算へられてをることを讀者が了解しなくてはならぬ。

[やぶちゃん注:「三澤村の醫王寺、宗門は禪宗」禅宗寺院で「医王寺」で旧村名「三沢」、「勝五郎再生前生話」でも「勝五郎再生記聞」でも「同領」にあるとしているからには、現在の中野区或いはその周辺にあるものと探してみたが、見当たらない。後に廃寺となったか、移転したか?]

 

 伴四郞――藤藏の養父、姓は鈴木、文政六年當五十歲。

[やぶちゃん注:読みは「はんしらう(はんしろう)」。]

 

 しづ――藤藏の母、文政六年當四十九歲。

 

 久平――(後に藤五郞)、藤藏の實父、原名は久平、後藤五郞と改名す、文化六年(一八〇九年)藤藏五歲の時四十八歲にて死す、彼の代りに伴四郞入婿。

[やぶちゃん注:「久平」“KYŪBEI ”。「勝五郎再生前生話」でも「勝五郎再生記聞」でも「久兵衞」(きうべゑ(きゅうべえ))である。以下、「久平」は「久兵衞」と読み換えられたい。]

 

註 入婿とは兩親と同棲してをる女の第二番目の夫となること。但し養子。

 

 子供、二男二女――何れも藤藏の生母と伴四郞の間に出來た子。

[やぶちゃん注:同じく「勝五郎再生記聞」にはここまで詳細な関係者の生活史記載はない。]

 

 大名松平觀山殿が通俗文で書かれた物語の寫し

 去年十一月の或日のこと、勝五郞が姉のふさと畠で遊んでゐた時このやうなことを質ねた、

 『姉さん、貴女はこの家へ生れて來る前に何所にをつたの?』

 ふさは答へた、

 『生れる前にどんなことがあつたかどうして分るものか』

 勝五郞は驚いた樣子で叫んだ、

 『では姉さんは生れる前に何があつたか思ひ出せないの?』

 ふさは問うた、

 『お前さんがそれを覺えてをるの?』

 勝五郞は答へた、

 『覺えてをりますとも、僕は程窪の久平さんの子でその時は藤藏といふもであつたんだよ、姉さんはそれを皆(みんな)知らないの?』

 ふさは言つた、

 『あらまあ! 何を言ふんですか、お父さんとお母さんに告げるわ』

 勝五郞は直に泣きだした。そして言つた、

 『姉さん告口しないで頂戴、お父さんとお母さんに告口したら大變だ』

 暫時の後ふさは答へた、

 『よし、よし、この度だけは言はないで置きませう、でも復(こんど)このやうな善くないことを少(ちよつと)でも言うたらその時こそは告口するよ』

 その日以後二人の間に喧嘩が持上る每に姉は弟を嚇して『い〻わ、い〻わ、――あの事をお父さんとお母さんに告げてやるから』と言つてゐた。これを言はれると勝五郞はいつも姉に降參して了つた。ところがこれが幾度も起つたのでたうとう或日のこと兩親はふさが弟を嚇してをるのを立聽きして了つた。そこで兩親は勝五郞が何か善くない事をやつたに相違ないと思つて、それを何とかして知り度いと考へた末ふさにこの事を質ねたのである。ふさは終に事實を明かした。これを聽いて源藏夫婦も勝五郞の祖母も何といふ不思議な事だらうと愕いて了つた。そしてその結果彼等は勝五郞を呼んで最初は甘言で賺し[やぶちゃん注:「すかし」。]次には嚇して、一體お前はどういふ意(こころ)でこのやうなことを言ふのだかと質ねた。

 勝五郞は躊躇した後かう答へた。

 『殘らず申します、僕は程窪の久平さんの子でありました、そしてその頃の僕のお母さんはおしづさんといふ名でありました。僕が五歲の時、久平さんは死んで、その代りに伴四郞さんといふ男が養子に來て僕を大變に可愛がつてくれました、併し僕はその翌年丁度六歲になつた時に疱瘡にか〻つて死んで了ひました、それから三年目に僕はお母さんのお腹に宿つて復(また)生れて來ました』

 これを聰いて兩親も祖母さんも大に驚いた。そして彼等は程窪の伴四郞といふ者について出來得る限り委しく調べて見ることにした。併し何といつても彼等は生活の糧を得ることに每日追はれてゐて、他の事柄の爲に殆んど時間を用ひることが出來なかつたので直に彼等の目的を遂行しようとしても駄目であつた。

 勝五郞の母せいは今はその女兒つね――四歳註一の――に夜な夜な乳をくれなくてはならなかつた。それが爲に勝五郞は祖母のつやに抱れて寢た。彼は時々寢ながらお祖母さんに話すことかあつた。或夜彼が非常に打寬いだ[やぶちゃん注:「うちくつろいだ」。]樣子で何事でも彼女に話しかけるといふ氣分になつてをつたので、お祖母さんは彼にお前が死んだ時にどんな事があつたのか私に敎へてくれぬかと言ひ出した。さうすると彼はかう答へた。――『四歲の時迄僕は何でも記憶してゐたが、それから後といふものはだんだん物忘れするやうになつて、今では澤山の事を忘れてをる。それでも未だ忘れてをらぬ事は疱瘡にか〻つて死んだことだ。それから未だ恐えてをることは壺註二に入れられて丘の上に埋められたことだ。丘にゆくと其所の地面に穴が一つ造られた。そして其所へ來た人達はその穴の中へ私の入つてをる壺を落した。ぽんといつて落ちたよ――あの音だけは今でも能く覺えてをるよ。それからどうしたのか知らぬがともかく僕は家へ歸つて僕の枕註三の近くを離れなかつた。曹くすると或る老人――お祖父らしい老人――が來て僕を連れ去つた。步いてゆく時何だか飛行でもやるやうに虛空を突切つて走つた。二人が走つた時は夜でも晝でも無かつた事を僕は記憶してをる。それは常に日沒時(たそがれ)の樣であつた。暑くも寒くも無く亦お腹(なか)もへらなかつた。二人は餘程遠く迄往つたやうに僕は思つてをるが、それにしても僕は僕の家で人々の話してをる聲をいつも聽くことが出來たよ、幽かではあつたが――そして僕の爲に念佛註四の聲が上げられてをるのが聞こえた。亦家庭(うち)の人達がお佛壇の前に溫い牡丹餅註五を供養してくれると僕はその香氣(にほひ)を吸ひ入れたことも記憶してをる――お祖母さん、佛樣に溫い食物を供へることを忘れてはいけません、お坊さんにでもさうですよ――これは大きな功德になるんだよ註六――それから、これはつい思ひ出すだけのことであるが、その老人は何か迂𢌞(とほまはり)した道を經(とほつ)て僕をこの場所へ件れて來たやうである――僕達の通つたのはこの村の向うの所だ。そして僕達は是所へ來た。彼はこの家を指差して僕に言うた――『さあ是所で轉生するんだよ、――お前は死んでから三年目になるが今この家で生れかはることになつてをる、お前のお祖母さんに成る人物(ひと)は大いさう親切だ、だから其所でお腹(なか)に宿つて生れて來るのはお前の幸福さ』かう言つて了うと老人は消え去つた。僕はこの家の入口の前で柿の樹の下で暫く立止つてゐた。それからいよいよ家に入らうとすると家の内側から話し聲が聞こえて來た。誰れかが言うた、『お父さんの收入(もうけ)が餘りに少いから、お母さんが江戶へ奉公に出掛けなくてはならぬだらう』。僕は『これではこの家へ入らないことにする』と思つた。そして三日間庭の中に留つてゐた。三日目になると結局こ〻のお母さんが江戶に出掛けないことにした。そこで私はその夜雨戶の節孔(ふしあな)から家の中に入つた――その後三日間といふものは竈(かまど)註七の側にとどまつてゐた。そしてその後初めてお母さんのお腹に入つた註八――私は全く少しの苦痛も知らずに生れて來たことを覺えてをる。――お祖母さん、『これはお父さんとお母さんに話してもい〻がその外の人には誰れにも話さないで下さいよ』

 

註一 日本の貧しい階級では西洋であるならば當然乳離れをさせる年限に子供が達した頃でも容易に乳離れをさせないで大きくなる迄乳をくれてをる、併しこの本に書いてある四は西洋の算へ方による三歲よりも著しく少いことになる。

註二 死者を大きな壺に納めて埋葬する風習に日本の遠い昔から見らるゝ例である。骨壺は普通に赤い土器である、所謂かめといふものである、かういふ壺は今日でもなほ用ひられてをる、但し今日では死者の大多數は西洋で知らない一種特有の形をした木棺の中に納められてをる。

註三 この意味は枕に頭を橫へて[やぶちゃん注:「よこたへて」。]寢るといふつもりでは無くて枕のあたりかさまよふとか、或は昆蟲(むし)でもとまる樣にその上に休むといつた風のことを意味するものである、肉體の無い靈魂は普通に室の家根の上に休むといはれてをる、次の文章に述べてある老人の幽靈は佛敎よりは寧ろ神道の思想であるらしい。

註四 佛敎のお禱りの句に南無阿彌陀佛を繰返すことである、念佛は阿彌陀宗――眞宗――以外の多くの佛敎宗派で[やぶちゃん注:「も」と入れないとおかしいですよ、金子先生。]繰返すものである。

註五 牡丹餅は米の飯に砂糖を混じて造つた一種の菓子。

註六 日本の佛敎文學の中にはこの種の忠告は陳腐となつてをる、こゝでいふ佛樣の意味はこの子供の心では佛其者を指差すのでは無くて宗ゐ死者を愛した人達が後生の幸福を希ふつもりで佛と呼んでをる人達の靈魂を指したものである、これは恰も西洋に於て死者を呼んで天使といふことが時々あるのと同樣である。

訪七 日本の臺所に於ける料理場である、西洋のかまどと非常に異つた意味を持つことがある。

[やぶちゃん注:本邦のそれは竈の複数配置や、焚口と炉という二方向開口、及び、その上部の排煙のための空間までも幅広く含むからであろう。]

註八 こゝで私は原文の二句を省くに如かずと思つた。それに西洋趣味にとりて餘りに露骨だと思つたからである。併しその句に興味が無いといふ譯では無い、省略した句の意味をいふならばこの子供は母親のお腹の中に居つてさへ愼重な態度で動作し、特に孝道を守つてをつたといふことを書いてをるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:この省略された二つの句の原文を見たいものである。因みに「勝五郎再生記聞」のこのシーンでは、

   *

其の後母の腹内へ入りたりと思はるれど、よくも覺えず。さて腹内にて母の苦しからむと思ふ事のある時は、側(わき)のかたへよりて居たる事のありしは覺えたり。さて生まるゝ時は何の苦しき事も無かりき。

   *

とある。]

 

 祖母は勝五郞が彼女に話してくれた事柄を源藏夫婦に語り聞かせた。そしてそれ以後勝五郞は少しも恐る〻ことなく自由に彼の前生話を兩親にしてゐた。彼は屢〻兩親に『程窪へ行き度い。久平さんのお墓參りをさせてくれ』と言つてゐた。源藏は勝五郞が變な子だから遠からず死ぬかも知れぬ、だから伴四郞といふ者が程窪に事實居たかどうかを迅く[やぶちゃん注:「はやく」。]調べてやつた方がよからうと考へた。併し彼はこのやうな事(このやうな事情の下でか?)を爲(す)るのは男としては輕率でもあり亦出過ぎたことにも見えると考へたから自分からす〻んでこの調べを實行することを欲しなかつた。そんな理由で彼は程窪へ自分で行くことは止めてお母(ふくろ)のつやにこの年の一月二十日に其所へ孫を連れていつてくれと賴んだのである。

 つやは勝五郞を連れて程窪へ行つた。二人が其村へ入ると彼女は手近の家を指差して勝五郞に『どれなの? この家? あれ?』と問うた。勝五郞は『否、もつともつと遠くだよ』と答へた。そして彼女の前に立つてさつさと急いだ。やつと一軒の住家に着いたので彼は『これなんだよ』と叫んだ。そしてお祖母さんの來るのも待たないで其家へ走り込んだ。つやは彼の後について家に入つて、この家の主人の名を問うた。問はれた者の一人は『伴四郞の家だよ』と答へた。お祖母さんは更に件四郞の妻の名を質ねた。答へは『しづ』といふことであつた。次に彼女はこの家に藤藏といふ子が生れたことがあつたかと問うた。『あるよ、併しその子は六歲の時に死んで仕舞つて今は十三年目になる』といふのがその答へであつた。

 この時つやは初めて勝五郞が今迄事實を話してをつたことを知つて溢れ落つる淚を禁ずることが出來なかつた。彼女はこの家の皆の人達に勝五郞が彼の前生を覺えてをつて彼女に話してゐたことを語々聞かせた。これを聽いて伴四郞夫婦は非常に驚いた。彼等は勝五郞を撫でて淚にかきくれながら、勝五郞は昔六歲の時に死んだところの藤藏として美しかつたよりも、今の方がもつと遙かに美しいなぞと言つてゐた。そのやうなことのあつた間勝五郞は周圍を見𢌞してゐた。そして伴四郞の家の向側に在る煙草屋の屋根を見て其所に指差しながら『あれは彼方になかつたんだが』と言うた。亦こんなことも言うたのである、『彼方の樹木はあんな所に無かつたが』と、是等は悉く眞實であつた。こんな譯で伴四郞夫婦は終に心の底から疑念を棄てて仕舞つた(我(が)を折つた)

 同日につやと勝五郞は中野村の谷津入に歸つて來た。この後源藏はその子を幾度も幾度も勝四郞の家に遺つて彼の前生の實父久平の墓に參詣することを許した。

 時としてはこのやうなことを勝五郞は言ふのである――『僕は佛樣(ののさま)註一だ、だから何卒僕を大切にして下さい』亦お祖母さんに『僕は十六歲になると死ねよ、でも御嶽樣(おんたけさま)註二が僕に敎へて下さつたことによると死ぬことは何でも無いさうだ』と言ふことも時々ある。兩親が彼に『お前は出家する心はないか』と問ふと彼は『そんな氣は無いよ』と答へる。

 

註一 ののさん又はののさまは子供の用ひる言葉であつて亡者の靈、卽ち佛樣のことである、神道では神樣といふ。ののさんを拜むといふことは神々を祭るといふことで兒童の用ひる言葉である、先祖の靈魂はののさんになる、卽ち神道の思想によれば神になる。

[やぶちゃん注:仏・神或いは神聖な対象を指す幼児語。私は祖母から「のんのんさま」と教えられた。語源については複数あるようだ。墓石店の公式サイト「石の立山」のこちらがよい。]

註二 御嶽樣を引合ひに出したことに關しては特に興味の多い物がある、併しこれにはやく長い說明を必要とする。

御嶽(おんたけ)又はみたけは信濃國の一靈峰の名である、巡拜人の靈場として崇められてをる所だ、德川將軍家の時代に律宗派の一心と呼ぶ僧侶がこの山に參詣した、彼は彼の生れた場所――江戶下谷坂下町――に歸つてから新しい宗敎を說き始めた、 そして彼は御嶽山に參籠してをつた間に修め得たといはるゝ法力を以て奇蹟を行ふ者として大に名聲を上げた、將軍は彼を危險な人物と見倣し八丈島に流した、彼は其所へ流されて數年を送つた、後許されて江戶に歸りあづま敎といふ新しい宗派を興した、これは神道を倣ねた[やぶちゃん注:「まねた」]佛敎であつた――卽ちこの宗敎の信者が特に崇めてゐた神は佛の權化としての大國主命及び少彥名命[やぶちゃん注:「すくなびこなのみこと」。]であつた。開闢祝詞(かいびやくのりと)にこの宗派のお祈禱であるがそれにはかう書いてある――「神聖な物ありその名を不動といふ、不動なれども動く、又形無し、形無けれども自ら形をとりて現はる、受知し得ざる神聖の體たり、天地にありては神と呼ばれ、萬有の中にありては靈と呼ばれ、人間にありてに心と呼ばる、天も、四海も、三千世界の大世界も、この唯一無二の實在から生れ出たものである、卽ち唯心から三千大千世界の形が出て來る」

[やぶちゃん注:「一心」(明和八(一七七一)年~文政四(一八二一)年)は江戸後期の行者で信濃出身。俗名は橋詰長兵衛。武蔵深谷の侠客であったが、妻の死を契機に木曾御岳信仰に入り、武蔵の修験僧普寛の開いた王滝口の先達(せんだつ)となり、江戸を中心に講を組織したが、不穏な教説を説いたとして、幕府に弾圧され、五十一歳で牢死した、と講談社「日本人名大辞典」にあり、小泉八雲の解説とは齟齬する。思うに、この後の小泉八雲の叙述から、明治六(一八七三)年に東京浅草の創始者とされる下山応助が全国の御嶽大神を崇拝する信仰者を集合させ、明治一五(一八八二)年に教派神道の一派として成立、政府の公認を得た御嶽教(おんたけきょう:現在も奈良県奈良市に教団本部御嶽山大和本宮を置く教派神道十三派の一つ。現行、祭神は国常立尊(くにのとこたちのかみ:「日本書紀」で本邦初の神とされる)・大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)・少彦名命の三柱の大神を奉斎主神として「御嶽大神」と奉称する)と混同しているものと思われる。]

交化十一年(一八一四年)に下山應助といふ、もと、江戶、淺草、平衞門町の油商人であつた男が一心の敎法に基づいて巴講[やぶちゃん注:「ともゑかう」。]といふ宗敎同盟か組織した、この派は將軍家派亡の時迄榮えてゐたが、幕府の滅亡した時、混合の敎へたり或は神佛兩敎を混同したりすることを禁止する法令が發布された、下山應助はその時御嶽(みたけ)敎といふ名の下に新しき神道の一派を興すことの許可を願ひ出た――御嶽(みたけ)敎は通俗的には御嶽(おんたけ)敎と呼なれてをる、そしてその願ひは明治六年(一八七三年)に訃されたのである、應助は其後不動經といふ神典を神道の祝詞(のりと)に改作し、之れに名づくるに神道不動祝詞の名を以てした。この宗派はなほ續いてをる。その主なる寺院の一は東京の私の現住宅から約一哩[やぶちゃん注:「マイル」。約千六百九メートル。初め、御嶽教本部は東京神田区小川町に置かれたが、富久町の小泉八雲旧居からは直線でも四キロメートルはあるから違う。よく判らぬ。]にある。

御嶽(おんたけ)さん(又は樣)にこの宗派の崇めてをる神の通俗的名稱である、卽ち實際は御嶽(みたけ)又は御嶽(おんたけ)峰に住んでをる神のことであるが、それは亦時としては御嶽の神の御告げによつて或は御感力によりて實相を啓示する高僧を指差すことにも用ひられる、勝五郞の言うた御嶽樣の意味は其頃(一八二三年)の高僧、卽ち應助地震を指差したことでゐるのは殆ど十中八九迄明かである、何故ならば應助はその當時巴敎の政主であつたから。

[やぶちゃん注:「巴敎」意味不明。この「巴」は「己」ので「この」とでも読ませたか。なお、長い注はここまで。以下、本文に戻る。]

 

 村の人達は彼を最早勝五郞とは呼ばないで程窪小僧(小僧とは僧侶にならうとして修業する若者のことである、併しこれは使走りをする者や或は時としては下僕の年若き者を呼ぶに用ひられたこともある、恐らく昔は男の子供は頭を剃つてをつたからだ、私はこの文の場合に於ての意味は佛敎の僧にならうとしてをる若者といふことだと考へてをる)と渾名をつけた。誰れかが彼に會はうとして家を訪れると彼は直に差しかつて奧へ走つて隱れて了ふ。だから彼とめんと向つて話をすることは出來ぬ。私はこの話を彼のお祖母さんから聽いたままに書き下した。

 私は源藏、その妻及びつやにお前さん達は何か功德をしたことがあるんだらうと質した。源藏夫婦は別にこれといつた善行は行(や)つた覺えは無いが、ただお祖母さんのつやが每日朝と晚には必ずお念佛を繰返して唱へることにしてをる、そしてお出家さんや巡禮者が戶口に來れば二文(もん)(當時にありては最も小さな貨幣で一仙[やぶちゃん注:「錢」に同じい。]の十分の一に相當す、今日厘といふ銅貨があつて中央に四角な孔が一つ明いてゐて、表面に支那文字のついてをるのがあるが文(もん)はそれと略々[やぶちゃん注:「ほぼ」。]同じものである)施すことにしてをつたと答へた。併しつやは是等の小功德の外に特に目立つた大善事を行つたことは無かつたのだ。――(勝五郞轉生の話はこれで終つた)

 

  譯者の註

[やぶちゃん注:この「譯者」とは英訳した小泉八雲自身のこと。]

 以上は『椿說集記』[やぶちゃん注:「椿說」は「珍說」に同じい。]と題した寫本から採つた物である。年代は文政六年四月から天保六年十月(一八二三年――一八三五年)迄の間のことである。寫本の終に―『文政年間から天保年間に至る――所有主、南仙波、江戶、芝、車町』とある。又その下に『西の窪。大和屋佐久治郞より購入、明治二年(一八六九年)廿一日?)』と書いてあつた。これに據りて考へて見るとこの寫本は南仙波と呼ぶ者が一八二三年から一八三五年の末に至る十三箇年間親しく耳に入れた話や、或は手に入れた寫本等からこれを寫し出したものと見える。

[やぶちゃん注:「南仙波」不詳。]

        

 今、誰れでも私の信、不信がこの事柄に何か關係でもあるかの如く考へて、お前さんが一體この話を信じてゐるのかねと質問する者があるとするならば、それは恐らく理由のたたぬ無理な質問だ、と思ふ。前生を思出すことが出來るかどうかといふ問題は、追憶する物は何であるかといふ問題に據依[やぶちゃん注:「依拠」に同じい。]してをることと私は考へてをる。若しそれが私達各人に宿つてをるところの無限性の全我といふものであるならば、私は『佛本生譚』[やぶちゃん注:「ほとけほんじやうたん」と読んでおく。]の全部を苦も無く信ずることが出來る。これに反してかの感覺や慾望の經緯(たてよこのいと)で織りみだされてをるところの妄我といふものに就いて考へるならば、私が夢に見たことのあるものを話せば私の考が最も能く現れることになる。これが夜の夢であつたか或は白書の夢であつたかといふ問題は何人にも關係の無いことだ――それはただ一場の夢であつだのだから。

 

 

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