小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳) / その「一」
[やぶちゃん注:本篇(原題“THE GENIUS Of JAPANESE CIVILIZATION”)は来日後の第三作品集「心――日本内面生活の暗示と反響」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)であるが、以下のリンクで判る通り、「序」では標題部を漢字「心」で代えてある)は一八九六(明治二九)年三月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版された)の第二話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。また、本篇は本作品集が初出ではなく、雑誌『太西洋評論』(Atlantic Monthly)の一八九五年十月発行に最初に発表したものである。
本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。
底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。
訳者石川林四郎(はやし りんしろう 明治一二(一八七九)年~昭和一四(一九三九)年:パブリック・ドメイン)は東京帝大での小泉八雲の教え子。語学に堪能で、名通訳と呼ばれた。東京高等師範学校講師・第六高等学校教授を経て、東京高等師範学校教授となった。昭和四(一九二九)年の大学制制定とともに東京文理科大学教授(英語学・英文学)となった。その間、アメリカ・イギリスに二度、留学、大正一二(一九二三)年には「英語教授研究所」(ハロルド・パーマー所長)企画に参加し、所長を補佐して日本の英語教育の改善振興に尽力した。パーマーの帰国後、同研究所長に就任、口頭直接教授法の普及にに努めた。また、雑誌『英語の研究と教授』を主宰、後進を指導した。著書に「英文学に現はれたる花の研究」「英語教育の理論と実際」などがあり、この他、「コンサイス英和辞典」・「同和英辞典」の編集にも当たっている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(二〇〇四年刊)に拠る)。
原註は底本では四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げ、同ポイントで示し、前後を一行空けた。やや長い(全五章)ので分割して示す。]
第二章 日本文化の神髓
一
一艦を失ひ一戰に敗る〻ことなく、日本は支那の勢力を挫き、新たに朝鮮を興こし、領土を擴張して東洋の政局面を一變した。是れ實に政治上驚異すべきことと思はれたが、心理上には更に驚異すべきことである。蓋し日本人が曾て諸外國から期待せられなかつた技能――頗る優級なる技能――を大いに働かしたことを示すからである。僅三十年間に於ける所謂『西洋文明の採用』が日本人の頭腦に從來缺けて居た機能を附加した筈はない、と心理學者は知つてゐる。日本人の心性、德性の急激な變化を生じた筈はないと知つてゐる。斯の如き變化は一世代の間には起こらない。移植せられた文明の影響は遙かに緩慢で永續性ある心理的効果を生ずるには幾百年を要するのである。
[やぶちゃん注:冒頭部は日本が、本書刊行の二年前に起こった日清戦争(明治二七(一八九四)年七月から翌明治二十八年四月十七日)で勝利し、清国に李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させて、事実上の半島の権益を我が物とし、割譲された台湾を平定した(同年十一月三十日)事実を指す。]
この點から觀る時に、日本は實に世界に於て殺氣)異數[やぶちゃん注:「いすう」。普通とは違った、他に例のないこと。異例。「数」はここでは「等級・地位」の意。]な國と見えるのであつて、日本の歐化の跡を眺めて最も驚歎すべきは國民の頭腦がよく斯程の衝擊に耐へたことである。この事實は史上他に比類の無い事ながら、その眞義は果たして何であるか。それは單に既存せる思想機關の一部を改修しただけであるといふ事になる。それすら幾多敢爲[やぶちゃん注:「かんゐ」。物事を困難に屈することなくやり遂げること。「敢行」に同じい。]の若き心には致命の苦痛であつた。西洋文明の採用は決して思慮なき人々の想像せるが如き容易な事ではなかつた。從つて今日まだ計上し盡くせざる代償を拂つて行つたこの心的改修が、この民族が常に特殊の技能を示し來たつた方面に於てのみ好結果を示してゐる事は極めて明白である。現に西洋の工藝上の發明の應用が日本人の手によつて立派に行はれたのも、主として國民が固有の奇異なる手法によつて年末熟練した職業に於て優秀な成績を舉げてゐるのである[やぶちゃん注:「舉げてゐるからなのである」「舉てゐればこそである」でないと日本語としておかしい。]。それには何等根本的改變があつたのでは無い。在來の技能を新しき大なる規模に轉じたに過ぎぬ。科學的職業に於ても同樣の結果を見る。或る種の科學、例へば醫學、外科手術(世に日本の外科醫の右に出る者は無い)、化學、檢鏡法には日本人の天性は生來適してゐて、是等の學藝に於ては何れも全世界に聞こえた成績を舉げてゐる。戰爭と國策とに於ても驚く可き手腕を示したが、日本人は往古以來、偉大な軍事的並に政治的手腕を以て特徵としてゐたのである。之に反して、國民性に合はない方面に於ては、何等目覺ましき事は行はれなかつた。例へば西洋音樂、西洋美術、西洋文學の硏究に在つては、時を費やして何等得る所なきの觀がある註。歐米の藝術は險米人の心情には深甚なる感興を與へるが、日本人の心情には少しも同樣の感興を與へぬ。而して敎育によつて個人の心情を改造することが不可能であるのは深く思索する者の皆辨へてゐる事である。東洋の一民族の感情が僅々三十年の間に西洋思想の接觸によつて改造されようなどと考へるのは愚の至りである。理性よりは古くから存在し、從つて更に深奧な心情が、環境の變化によつて急激に變化し得ないのは、鏡の面が來往する反影によつて變化し得ないのと同一である。日本が神技の如く見事に成し遂げた事は、凡て何の自己改造もなくして行はれたもので、日本が今日、三十年前よりも、心情の上に於て歐米人に接近したと想像する者は、議論の餘地なき科學上の事實を無視するものである。
註 或局限された意味に於ては、西洋の藝術は日本の文學や演劇に影響した、但し、その影響の性質が自分の謂つてゐる民族的相異を立證してゐる。歐洲の演劇が日本の舞臺に向く樣に改作せられ、歐洲の小說日が本の讀者向きに書き直された。併し称譯は滅多に試みられない。原作の事實思想や感情等が一般の讀者や観客に理解し難いからである。筋だけが採用せられて、情趣や事實は全然改められる。「今樣マグダレン」が異つた部落と結婚する日本の娘になり、ヴィクトル・ユーゴーの「レー・ミゼラブル」が、日本の戰亂の物語となり、オンジヨルラが日本の學生になる類である。但し、「ヴェルテルの哀愁」の詳譯の顯著なる成功をはじめ、二三の稀なる例外はある。
[やぶちゃん注:「今樣マグダレン」“The New Magdalen”(原文は斜体ではない)はイギリスのヴィクトリア朝の人気小説家(推理作家・劇作家)であったウィリアム・ウィルキー・コリンズ(William Wilkie Collins 一八二四年~一八八九年)の一八七二年から翌年に発表した長篇小説(もともと劇化を意図した作品らしい)。「Magdalen」は「マグダラのマリア」或は「更生した売春婦」の意で、「新・堕ちた女の物語」という邦訳があるようだ。閑田朋子氏の論文『三遊亭円朝による翻案落語「蝦夷錦古郷の家土産」種本の同定――Wilkie Collins作The New Magdalen――」の「(三)『新・堕ちた女の物語』」に非常に詳しい梗概が載る。
『ヴィクトル・ユーゴーの「レー・ミゼラブル」』言わずと知れたロマン主義の作家ヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor-Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)が一八六二年に刊行したフランス文学の名作長篇小説“Les Misérables”。本来は「悲惨な人々」或は「哀れな人々」という意味である。「オンジヨルラ」“Enjolras”は同小説の登場人物の一人であるジャン・ヴァルジャン(Jean Valjean)の政治活動での友人で、共和派の秘密結社のメンバーの青年アンジョルラス。ウィキの「レ・ミゼラブル」によれば、『天使のような容姿端麗の』二十二『歳の青年で、結社の首領。富裕な家庭の一人息子。一徹な理想主義者として革命の論理を代表』する人物で、『革命についてはかなり詳しく、些細なエピソードまで知っていて、それについてあたかも自分がそこにいたかのように語れる。その美貌のなかに、司教と戦士の性格を併せ持つ。彼にとって祖国は恋人であり、祖国と革命が青春のすべてになっている』。一八三二年六月五日の『ラマルク将軍の葬儀のあった夜、他の共和派と共に決起し、居酒屋コラントを中心としてバリケードを築き』、『バリケードに立て篭もって暴徒たちを指揮する。後にこの暴動は、六月暴動と呼ばれるようになる』とある。
『「ヴェルテルの哀愁」の詳譯の顯著なる成功』“Sorrows of Werther”。無論、かの天才ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が二十五歳の時に発表した書簡体小説(一七七四年初版では表題は“Die Leiden des jungen Werthers”であったが、一七八七年改訂版では "Die Leiden des jungen Werther" となっている。「若きウェルテルの苦悩」。名の部分は原音では「ヴェァター(ス)」「ヴェルター(ス)」が近い、と信頼出来るQ&Aサイトの回答にあった)。本邦での邦訳は明治二四(一八九一)年に『山形日報』に連載された高山樗牛訳によって初めて本格的に紹介された。高山の訳は原作の約五分の四を訳出しており、ここで小泉八雲が指摘するのもそれと考えてよかろう(初の完訳版は明治三七(一九〇四)年に漢詩人でもあった久保天随(得二)訳の『ゑるてる』である(以上はウィキの「若きウェルテルの悩み」に拠った)。]
同情は理解によつて局限せられる。吾人は吾人の理解する程度まで同情を持つことが出來る。自分は或る日本人か支那人かに同情を持つてゐると思ふ人もあらうが、その同情は、小兒も大人も差等のない樣な極めて普通な感情の單純な部面を餘り離れては、決して眞實なものではあり得ない。東洋人の感情の中の複雜なものは、西洋の生活には何一つ正確に該當するものの無い、從つて吾人が充分に知ることの出來ない、祖先以來或は個人の種々の經驗の結合によつて成り立つたものである。同じ理由で、日本人は歐米人に對して至甚な同情を與へることは、よし心には願つても、出來ぬものである。
西洋人に取つて、日本の生活は、理性感情何れの方面も(兩者は互に織り組まれてゐるので)その眞相を見分ける事が、依然として不可能であるが、同時に、又、日本の生活が自分等の生活に比して極めて小規模である、といふ確信を避けることは出來ぬ。日本の生活は風雅である。其は一方[やぶちゃん注:「ひとかた」。]ならぬ興味と價値とを有つた美妙な可能性を具へてゐる。が、其を除いては、規模が如何にも小さく、西洋の生活はそれとの對照で殆ど超自然と見える。我々は眼に見える測定し得る體象[やぶちゃん注:ママ。]を判斷するより外はないから、さう批判して見ると、東西の感情の世界の間に、理智の世界の間に、何たる對照が見えることか。日本の首都の脆弱な木造の街衢[やぶちゃん注:「がいく」。「衢」は「四方に分かれた道」の意。人家などの立ち並ぶ土地・町・巷(ちまた)。「衢」の字自体も「ちまた」と読む。]と、パリやロンドンの往來の宏壯堅牢なのとの對照などは未だ遠く及ばぬ。東西兩者が彼等の夢想や抱負や感覺を發表したものを比較する時に、ゴシツクの大伽藍を神社の建築に比べ、ヴエルディの歌劇かヅアグナの三部歌劇を『藝者』の演奏に比べ、歐洲の敍事詩を和歌に比べる時に、感動の容積に於て、想腫の力量に於で、藝術的綜合に於て、その差異が如何に計數に絕してゐることか。成る程、西洋の令型は事官新興の藝術には相違ないが、遠く何れの時代に遡つても創作力に於ける差異は顯著の度を殆ど減じない。大理石の圓形競技場や、國又國に跨がる高架水道の築かれた、彼の羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]の偉大を極めた時代に於て、或は彫刻は技[やぶちゃん注:「わざ」。]神に入り、文學は比倫な希臘[やぶちゃん注:「ギリシア」。]の盛時に於て、固より然う[やぶちゃん注:「さう(そう)」。]であつたのである。
[やぶちゃん注:「ヴエルディ」言わずと知れた、「オペラ王」の異名を持ち、「リゴレット」(Rigoletto)・「椿姫」・(La traviata:「道を踏み外した女」。原作のアレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が一八四八年作の長編小説の原題が“La Dame aux camélias”(「椿の花の姫さま」(主人公高級娼婦マルグリット・ゴーティエ(Marguerite Gautier)の源氏名)であることから、オペラもかく呼ばれることが多い)・「アイーダ」(Aida)などで知られるイタリアのロマン派音楽の作曲家ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 一八一三年~一九〇一年)。
「ヅアグナ」壮大な歌劇で知られるドイツの作曲家ヴィルヘルム・リヒャルト・ヴァーグナー(Wilhelm Richard Wagner 一八一三年~一八八三年)のこと。]
つぎには日本の國力の勃興に關する今一つの驚異すべき事實を考察する事になるが、生產と戰爭とに於て日本が示し來たつた巨大な新勢力の物質的兆候は何處に現はれてゐるか。何處にも無い。吾人が日本の心情と理智との生活に缺けてゐると認める巨大といふ事は、產業商業にも缺けてゐる。國土は依然として舊の如く、地表に明治の變遷によつて殆ど面目を改めてゐない。玩具のやうな鐡道や電柱、橋梁や隧道は、日本の綠の野山に隱れて殆ど眼に入らぬ。開港場とその外人居留地を除いては、全國の都會に市街の外觀に於て西洋思想の感化を思はせるものは殆ど一つも無い。日本内地を旅行すること二百哩[やぶちゃん注:「マイル」。三百二十二キロメートル弱。]に及んで猶ほ大規模な新文明の兆候を認め得ぬかも知れぬ。何處に往つても、商業が巨大な倉庫にその抱負を示してゐるのや、工業が幾萬坪の屋根の下に機械を据ゑ附けて居る有樣を見出すことはない。日本の都市は今猶ほ千年前の儘で、彼の岐阜提燈の樣に風雅であるかも知れぬが、それ以上に丈夫とは謂へぬ。木造の小舍の雜然たる集團に過ぎぬ。大なる勤めきと騷ぎとは何處にも無い。重い車馬の往來もなく、轟々轢轆[やぶちゃん注:「れきろく」。車の軋る音。]の音もなく、甚だしい急速もない。東京に於てすら、僻村の平穩を求めて得られぬ事はない。現今西洋の市場を脅威し極東の地圖を改めつつある新興勢力の、眼に見え耳に聞こえる兆候が斯くも乏しいことは、寄異な、殆ど不氣味と謂つて可いやうな感じを與へる。茫は或る神社を目指して、寥々[やぶちゃん注:「れうれう(りょうりょう)」。もの淋しいさま。]たる數哩[やぶちゃん注:一マイルは約一・六一キロメートル。]の坂路を登りつめた時、唯だ虛無と靜寂の神域――ささやかな祠のみが千古の樹陰に朽ち果ててゐる光景――を見る時の感想と略〻等しい。日本の力は、その古來の信仰の力のやうに、形に表はすことを必要としない。この兩つ[やぶちゃん注:「ふたつ」。]の力は大國民の深い實力の存する所、卽ち民族精神の中に存在する。
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