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2019/12/25

甲子夜話卷之六 4 駿府へ御移りのとき神祖御詠歌幷後藤庄三郎藏御眞跡の色紙

6-4 駿府へ御移りのとき神祖御詠歌幷後藤庄三郎藏御眞跡の色紙

神祖、京の丸山を駿府へ御移しなされ、福田寺を刱建ありしときの御歌とて、

 松高き丸山寺の流の井

      幾とせすめる秋の月かげ

其時の御用に掛りしとて、後藤庄三郞が家に傳ふ。又關原御陳前、高野山聖方總代常住光院へ賜りし、御眞蹟の色紙今に山に傳ふ。

 旅なれば雲の上なる山こへて

      袖の下にぞ月をやどせる

此外御寄附の品々ありと云【右、林氏の小錄を移寫す】。

■やぶちゃんの呟き

恐らくは条末にある割注は本条のみでなく、前の三条、「甲子夜話卷之六 1 林子、古歌を辨ず」 2 定家卿詠歌」「同 3 詩歌降たる事」をも、内容からみて、総て含むものであろう。

「神祖」徳川家康。

「京の丸山を駿府へ御移しなされ」家康は江戸幕府開府(慶長八(一六〇三)年)以前には駿府を京都に匹敵する政治文化の中心地にしたいという願いがあった。慶長四(一五九九)年、鷹狩をしていた家康が賎機山(しずはたやま:標高百七十一メートル。現在の静岡県静岡市葵区内。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ))の麓で休憩した際、その辺りが京の円山の景色に似ているとして、翌慶長五年に京都円山の時宗慈円山安養寺の僧徳陽軒を招き、同山の南山麓に福田寺を創建した。境内には「流れ井」と称し、駿府城から湧水を引くなど、万事、京都風の設えとした。近くに鎌倉末期の文保元(一三一七)年創建の時宗安西寺があったことからその末寺となり、この一帯にも「丸山」という地名が与えられ、この福田寺の創建には金座役人として「駿河小判」の鋳造を担った後藤庄三郎光次が尽力した。福田寺は近代の明治四二(一九〇九)年になって安西寺に合併され、丸山の福田寺跡に安西寺を再興された。

「刱建」「さうけん」。創建に同じい。

「松高き丸山寺の流の井幾とせすめる秋の月かげ」本注で参考にさせて戴いた「安西寺」公式サイトのこちらによれば(古地図・写真有り)、

 松高き丸山寺の流の井

      幾とせすめる秋の夜の月

とし、慶長御(一六〇〇)年九月十三日に家康公が福田寺で詠んだ一首で、『この歌にちなみ、この地を丸山と言い、山号』が『「秋月山」とな』とあり、現在、『駿府の名水「流れ井」の傍らには』、宝暦三(一七五三)年に『建立された「流井の碑」が残ってい』るとある。

「後藤庄三郞」近世(江戸開府前)の金座の当主、以降、江戸幕府の御金改役(ごきんあらためやく)に与えられた名称。ウィキの「後藤庄三郎」によれば、『初代の後藤庄三郎光次に始まり、以後』、『世襲制の家職となった』。文禄二(一五九三)年、『橋本庄三郎は徳川家康と接見し』、二年後の文禄四年には『彫金師の後藤徳乗の名代として江戸に下向した。出身は美濃国加納城主長井藤左衛門利氏の末裔ともされるが』、『疑問視されている』。『庄三郎の本姓は山崎との説もある』。『庄三郎が京都の後藤家の職人として従事しているうちに徳乗に才覚を認められ、代理人に抜擢されたとされる』。『庄三郎は徳乗と家康に後藤庄三郎光次の名、五三桐紋の使用を許された。京都の後藤家は室町幕府以来の御用金匠であり、茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に京都の三長者と呼ばれた』。『当時、判金といえば大判のことであったが、家康は貨幣としての流通を前提とした一両小判の鋳造の構想があった。「武蔵壹兩光次(花押)」と墨書され、桐紋極印の打たれた武蔵墨書小判が現存し、これが』、『庄三郎が江戸に下向した当時』、『鋳造された関八州通用の領国貨幣であるとされている。』。『後藤庄三郎光次は文禄』四『年に江戸本町一丁目を拝領し、後藤屋敷を建て、屋敷内に小判の験極印を打つ後藤役所を設けた。この地は現在、日本橋本石町の日本銀行本店所在地にあたる』。また、慶長六(一六〇一)年には京都に、江戸幕府開幕後の慶長一二(一六〇七)年には駿府に、また、元和七(一六二一)年には佐渡に、『後藤役所出張所を設けて、極印打ちを開始した。さらに天領の金山、銀山を支配し、家康の財政、貿易などの顧問として権力を誇った。しかし』、『二代庄三郎広世以降は金座支配のみにとどまった。また、庄三郎光次は文禄五(一五九六)年三月付の『後藤徳乗、後藤四郎兵衛、後藤長乗に提出した証文において、後藤の姓を名乗るのは光次自身一代限りと宣誓していたが、結果的に反故にされ、徳川家の権威を背景に京都の後藤宗家も黙認したとされる』。『天領の金山から産出する公儀の吹金』(ふきがね:灰吹法(はいふきほう)による金・銀の抽出法による金銀の別称。金銀を鉱石などから、一旦、鉛に溶け込ませ、更にそこから金や銀を抽出する方法を言う)『を預り、小判に鋳造する場合の手数料である分一金は、慶長期初期は吹高』十『両につき金目五分であったが、後に後藤手代の取り分は吹高』一千『両につき』十『両と定められた』とある。

「關原御陳前」関ヶ原の戦いで「陳(ぢん)」(=陣)を張る前に。

「高野山聖方總代常住光院」「高野山聖方總代」の「常住光院」。江戸時代の高野山内の組織は学侶方・行人方・聖方の高野三方(三派)から成り立っていた。その当時の「聖方」の総代であった「常住光院」の謂いである。

「旅なれば雲の上なる山こへて袖の下にぞ月をやどせる」(「こへて」はママ)かの佐佐木幸綱のブログ「ほろ酔い日記」の「戦国武将の歌10 徳川家康 1543年(天文11)~1616年(元和274歳」に、『こんな歌とエピソードがあります。川田順『戦国時代和歌集』が引用する近藤重蔵』の「冨士之煙」に『出てくるものです。慶長五年(一六〇〇)九月十五日、関ヶ原の戦陣において、高野聖(こうやひじり)の総代・高野山常光院の僧へ家康が与えた歌だというのです。本当でしょうか。日付を見てください。関ヶ原の戦いのその日のことです。陣中見舞いの品を持ってきた高野聖に、家康が書き与えたというのです』。『関ヶ原の戦いは、九月十五日午前八時ごろ本格的な戦闘がはじまり』、『午後四時ごろには終結したとされています。その夜、書き与えたのでしょうか』とされて、

 旅なれば雲の上なる山こえて袖の下にぞ月をやどせる  徳川家康

(軍旅であるから、雲の上にそびえる山をも越えてきて、今宵は、わが鎧の袖の下に月下の夜景をながめたことである)

「冨士之煙」の『著者・近藤重蔵は、信頼していい人物と思われます。クナシリ・エトロフの探険で知られる幕末の探検家で、著書も多くあります。彼によれば、「大権現様(徳川家康)御真筆の御色紙」が、当時は高野山常光院に現存していて、彼自身がそれを写した、とあります』とある。

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