芥川龍之介 夜行の記 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)
[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『夜行の記』に拠った。本篇には末尾に葛巻氏による明治三九(一九〇六)年のクレジットがあり、これは芥川龍之介十三歳の八月のこととして、諸年譜に記されてある東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)二年次の徒歩旅行の記録である。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この八月頃、『友人七人と深夜、午前』零『時に品川を発ち、横浜方面に向けて徹夜で歩く』とある。文中の〔 〕は葛巻氏の補正挿入や注である。底本ではこれは全体がややポイント落ちで右にずれているが、同ポイントで示した。なお、以下続く諸篇でも同じであるが、この注は繰り返さない。]
夜行の記
一
相撲をとり終りて木馬を飛びしが一人去り、二人去りて、いつかM、N、R、Tの四生のみとなりぬ。夏の日の夕也。徹夜して遠足して見む乎とふと口をすべらしたるがM、R、Tの三生は十五里[やぶちゃん注:五十八・九キロメートル。]内外ならば行かむと云ふ。
N生は何とも言はず。テニスの選手にして劍道の達人也。少しは苦しい目に合はせて日頃の鼻を折るも一興ならむと思ひて强ひて行け行けとすゝめたるがN生も澁々ながら「さらば行かむ」と云ひ出した〔れ〕ば、實はさほど行きたくもなけれど今更嫌とも云はれず、日は來む土曜日の夜、行く先は橫濱と定めつ。
[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年八月が正しいとすれば、四・十一・十八・二十五日の孰れかとなる。但し、この月、芥川龍之介は七日から千葉勝浦や小湊に遊び、十一日の土曜にその旅から帰宅したか、と宮坂年譜にあるので、後の盆の明けた十八日か、二十五日の孰れかの可能性が高い。]
二
雨痕泥濘にのこれる日也。夜十二時と云ふに同行七人(O、Bの二生も擧を聞いて加りぬ)品川の町を出立つ。
皆夏服に草鞋をはきたるが、N生ひとり上衣を三枚迄重ねたるは用心よき男也。
八幡村に差しかゝる。雨はらはらと降り出でたり。O生「雨にふられては大變也。引返さむ」と云ふ。弱い音の始也。
皆諾かずして行く。
[やぶちゃん注:「諾かず」「きかず」。
「八幡村」現在の東京都大田区田園調布のこの附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。【2019年12月28日:削除(グーグル・マップ・データの以下同じは生かす)追記】いつも情報を頂戴するT氏より、以下の御指摘を受けた。
《引用開始》
芥川が品川出発で横浜へ徒歩で行くのに、「東京都大田区田園調布」は途中経由地として西にずれ過ぎています。そこで、「八幡村」をウィキの「荏原郡」で探すと、存在しません。その代り、「八幡塚村」があり、明治二二(一八八九)年の町村制移行で、六郷村←雑色村、八幡塚村・町屋村・高畑村・古川村(現大田区)になっています。当時の言い方では「六郷村大字八幡塚」です。ブログ「都市化の過程で変遷する地名─東京都大田区六郷を例に─」の本文と地図を参照して下さい。この八幡塚であれば、まさに「六郷の渡し」があった場所で、東海道沿いになります。想像ですが、芥川のような東京市民は、「六郷の渡し」付近を「八幡塚」ではなく、「八幡」と言っていたのではないでしょうか? 以上から、小生は「八幡村」を「六郷村大字八幡塚」とし、現在の東京都大田区東六郷三丁目十ととります。
《引用終了》
私も北にズレすぎていると思っていたが、調べを怠っていた。T氏の比定で目から鱗であった。いつもながら、T氏に心より感謝申し上げる。なお、この改稿により、後の注の一部も削除した。】]
三
六鄕川を渡る。
雨やみ雲やぶれて星影水にあり。
只一つ、灯の見ゆる農家に麥つくにもやあらむ、杵の音のせはしげに響くを後にして行けば、夜は兪〻深うして蟲〔一字不明〕々又喞々、稀に犬の吠ゆる聲あり。
鶴見橋を渡る、二時也。
T生こゝらにて野宿せむと云ふ。
さらばとて鶴見川の川口に近き農家の軒下に入りて海苔粗朶堆くつみたる陰に休む。
R生先鼾聲あり。次でT生、M生、O生、余。
其夜夢なかりき。
[やぶちゃん注:「六鄕川」東京都と神奈川県の境を流れる多摩川の下流部の地域呼称。厳密には多摩川大橋付近から下流の呼称で、東京都大田区と神奈川県川崎市との境をなすが、ここは前の「八幡村」の同定が正しいとすれば、その「八幡」辺りから多摩川を下流方向に左岸を下ったもののように思われる。
「兪〻」「いよいよ」。
「〔一字不明〕々」私が直ちに想起したのは「虫がしきりに鳴くさま」を言う「嘖々」(さくさく)である。私のそれは、私が偏愛し、芥川龍之介も好んだ中唐の鬼才李賀の、「南山田中行」の一節、「塘水漻漻蟲嘖嘖」(塘水 漻漻(れうれう) 蟲 嘖嘖)である。リンク先は私の古い原文・訓読・拙訳のページ。
「喞々」「しよくしよく(しょくしょく)」。虫がしきりに鳴くさま。
「鶴見橋」ここ。
「海苔粗朶」「のりそだ」。海中に立てて、海苔を付着させるための木の枝。この辺りは幻の「アサクサノリ」(紅色植物門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属アサクサノリ Pyropia tenera。当該地区では既に絶滅したと思われていたが、ごく近年、多摩川河口附近で小群ながら、見つかっている)の産地であった。
「堆く」「うづたかく」。
「鼾」「いびき」。但し、「鼾聲」で「カンセイ」と音で読んでいよう。]
四
N生にゆり起されて目をさませば七生既に裝をとゝのへて枕に立てり。急ぎはねをきて草鞋はきなどしつ。
寐き眼をこすりて立出づ。三時、鎌月空にあり。遙々としてほのかに風露肌に冷也。
行く行くR生「野宿は思ひしより壯快なるもの哉。熟睡何時、眞に一分の思なり」と云へばB生頭をふりて云ふ「否、余は瞬時もまどろまず。君の云ふ一分は余にとりて一年のみ。」衆生大に笑ふ。
昨夜來の空腹たえがたければM生の發議によりて路傍の饅頭屋の只一軒起きたるに入りて出來たての饅頭三つ價一錢五厘づつなるを食ひて朝飯に代ふ。-人前四錢五厘也。財囊愈輕し。
東天の白むころ、神奈川の町に入る。
[やぶちゃん注:初行の「七生」の右には葛巻氏により、『〔原〕』(「ママ」の意)とある。一行は芥川龍之介を含めて七人であるから、確かにおかしい。
「寐き」「ねむき」。
「神奈川の町」現在の神奈川県横浜市神奈川区東神奈川附近であろう。]
五
町の後の丘に上りて、出日を望む。
空はれて海碧玉の如くなるに、紫の雲をひらきて紅暾の揚るを見る快思ふべき也。
耳をすませば諸處に鷄鳴あり。炊煙、丘下の茅屋よりをこる。R生、朝風に嘯いて云ふ。
「生來、未嘗、かゝる壯快なる朝にあはず。」
[やぶちゃん注:恐らくは現在の横浜駅の西口の北の高台(グーグル・マップ・データ航空写真)である。当時は、下方まで海浜であった。六年後の明治四五(一九一二)年の国土地理院図との対比で見られる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のほぼ同位置のこちらを見られよ。私が指示した場所は、まさにかの歌川広重の「東海道五十三次」の「神奈川」宿の図(ウィキの「神奈川宿」にある同図)に描かれた附近である。]
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