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« 小泉八雲 薄暗がりの神仏 (戸澤正保訳) | トップページ | 小泉八雲 コレラ流行時に (戸澤正保訳) »

2019/12/18

小泉八雲 前世の観念 (戸澤正保訳)

[やぶちゃん注:本篇(原題“THE IDEA OF PRE-EXISTENCE”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の第十二話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 標題は仏教用語のそれであるから、私は本文中の「前世」は総て「ぜんせ」と読む。途中に入る添え辞や注は字下げ(前者は全体が下インデント二字上げ、後者は四字下げ)ポイント落ち(添え辞の最後の書名は添え辞本文より更にポイントが落ちる)であるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、底本の注は前後を一行空けた。傍点「ヽ」は太字に代えた。また、最初の「譯者註」は本篇末尾に置かれているが、頭の原注の前に挿入した。

 訳者戶澤正保(底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している)氏については私の「小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保訳)」の冒頭注を参照されたい。]

 

      第十二章 前 世 の 觀 念

 

『若し一比丘あつて過去世に於ける――一世、二世、三世、四世、五世、十世、二十世、五十世、百世、千世乃至幾一百千世の過去に於ける――己が雜多の身境を細大想起せんとせば、須らく心を靜寂の境に安置すべし――須らく事物を洞觀すべし、須らく獨坐專念すべし』   「アカンケーヤ經」

[やぶちゃん注:「アカンケーヤ經」“Akankheyya Sutta”。中部(Majjhima Nikaya:マッジマ・ニカーヤ:中編の経典集)の根本五十経篇の、「根本法門品」中の「願経」。]

 

       

 佛敎の生ける現實な雰圍氣中に、數年を過ごした思慮ある西洋人に、東洋人の物の考へ方を、特に我々と異らしむる根本的の思想は何であるかと尋ねたら、屹度『前世といふ思想』と答へるであらう。極東の心的生活の全體に沁み込んで居るのは、何物よりも此思想である。此思想は空氣の通ふが如くに普遍的で、あらゆる情緖を色づけ、直接にか間接にか、殆どあらゆる行動に影響して居る。其象徵は美術的裝飾の細部にすら始終現はれて居る。そして晝となく夜となく、時々刻々に其意味の語は、求めざる我等の耳に響くのである。住民の言葉は――家庭の用語、俚諺、宗敎上若しくは俗事上の嘆聲、悲哀、希望、喜悅、若しくは失望の表白等――悉く此思想を含まざるはない。憎惡の表現も愛情の言語も等しく影響せられて居る。それで『因果』或は『因緣』といふ語――避く可からざる應報なる業(ごふ)を意味する――は凡ての人の口に解釋なり、慰藉なり、罵詈なりに、自然に出で來るのである。百姓が或る嶮しい坂道で荷車の重みに筋肉の苦痛を感ずると、『これも因果だから仕方がない』と瘠我慢をいふ。婢僕達が喧噪をすると、『何の因果で、己れは貴樣の樣な奴と一緖に居るのか』といふ。無能者若しくは惡人も囚果で罵られる。賢人や善人の不幸も同じく因果で說明される。罪人は其罪惡を白狀して、『私の爲し)た事が惡るいといふ事は、爲(す)る時に知つて居たのですが、因果だから自分の思ふ樣になりません』といふ。戀仲を裂かれた男女は、前世の罪の結果で、此世で添はれぬといふ信念で死を求める。非道な迫害を受ける者は、これも忘れられた前世の過失を償ふので、永遠の天則として償はねばならぬものを償ふのだといふ自信で、憤りを慰めやうとする。……同樣に靈魂の未來(後世[やぶちゃん注:「ごぜ」。丸括弧内は底本では二行割注。戸澤氏による訳注である。以下同じものは注しない。])に云ひ及ぶ極平凡な場合でも、靈魂の過去(前世)といふ一般的の信念を包含する。母親が遊んで居る子供を誡むる時にも、惡るい事をすると、末代に外(よそ)の親の子として生まれる時に差障(さしさわ[やぶちゃん注:ママ。])ると云つて聞かせる。巡禮や乞食が施物を受ける時には、どうか旦那の來世が幸福なやうにと祈る。目も耳も衰へ始めた年老いた隱居[やぶちゃん注:原文も“inkyō”。]は、若い身體に生まれ變はらんとする變化の、差し迫つた事を樂しさうに語る。それから必然といふ佛敎上の觀念を意味する『約束』といふ詞、又は『前の世』、『諦め』[やぶちゃん注:以上三語は原文(左ページ下方)でも日本語のローマ字表記斜体となっている。]などといふ語は、日本人の普通の會話に始終出て來ること、丁度、『正しい』、『間違つてる』といふ語が英國人の會話に出て來る樣である。

 かういふ心理的空氣の中に永年住んで居ると、いつかそれが自分の思想へも侵入して、其處に樣々の變化が起こるのを發見する、前世といふ觀念に包含されてる[やぶちゃん注:ママ。]あらゆる考――如何に同情的に硏究しても、初めは只だ奇怪にばかり見えた、あらゆる信念――これ等が其の珍らしかつた時に有して居た不思議性、怪奇性を失つて、全く當然らしい外觀を呈して來る。色々の事物は此思想に依つて合理的と思はれる程な非常によい說明を與へられる。そして或る說明は、十九世紀の科學的思想で測つて見ると、確に全然合理的なのである。併し此思想を精確に判斷する爲めには、先づ泰西の靈魂の輪𢌞に關する、あらゆる觀念を抛棄して、心を白紙の狀況に置くことが必要である。といふのは泰西の靈魂に關する槪念――例へばピタゴラス派のでも、プラトン派のでも――と佛敎の槪念との間には、少しの近似もないからである。そして日本人の信念が合理的だといふことになるのは、正しく此[やぶちゃん注:「この」。]無近似からである。之に關する古來の西洋の思想と、東洋の思想との間の大な相違は、佛敎には我等の傳統的な靈魂――一つ一つの、薄い、戰慄(ぶるぶる)する、透明(すきとほ)る内在人、卽ち幽靈――が存在せぬ事である。東洋の『我(エゴ)』は個體ではない。又神靈派(グノスチツクス)の靈魂の樣な、數の極まつた複體でもない。想像し難い複雜さの統計若しくは合成――計へ切れぬ前世代の創造的思索の集中した合算なのである。

[やぶちゃん注:「神靈派(グノスチツクス)」“Gnostic”。グノーシス主義。語源はギリシャ語の「認識」の意。一、二世紀頃、地中海沿岸諸地域で広まった宗教思想及びそれに類した考え方。反宇宙的二元論の立場に立ち、人間の本質と至高神とが、本来は同一であることを認識することにより、救済、則ち、神との合一が得られる、と説く。マンダ教(イラクのティグリスやユーフラテス下流域及びイランのフージスターンに現存する、グノーシス主義の特異な混合宗教。教徒数は二千人前後と推定される。その名称は、教徒の用いるアラム語の一方言のマンダー(「霊知」の意)に由来する。教徒はアラビア語では「サービア」と称される。その最も特徴的な儀礼は流水で浸礼を行うことで、川は北方の山岳に天上より流れ下るとする観念によるもので、教徒は北方に向き、礼拝する)やマニ教(ササン朝ペルシャ(二二五年~六五一年)のバビロニアで生まれたマニが創始。三世紀以降、キリスト教・ゾロアスター教・仏教などの諸要素を加えて広く普及したが、十五~十六世紀に消滅してしまった。教義は光と闇・善と悪の二元的世界観に立ち、悪からの救済を重視した)はその代表的な宗教形態である(以上は三省堂「大辞林」他の辞書に拠る)。ウィキの「グノーシス主義」によれば、その二元論は『宇宙が本来的に悪の宇宙であって、既存の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは、誤謬である、とグノーシス主義は考え』、『「善」と「悪」の対立が二元論的に把握される。まず、善とされる神々が、この悪である世界の原因であれば、それは悪の神であり、「偽の神」である。となると』、『その場合、どこかに「真の神」が存在し、「真の世界」が存在するはずだ、と考える』。『悪の世界は「物質」で構成されているので、故に物質も悪と判断する。物質で造られた肉体も然りである。一方、「霊」あるいは「イデアー」が「真の存在」であり、「真の世界」である、と解釈される』。『善と悪、真の神と偽の神、また霊と肉体、イデアーと物質、という「二元論」が、グノーシス主義の基本的な世界観である。これが「反宇宙論」と合わさり、「反宇宙的二元論」という思想になった』。但し、その解釈から、『物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して』、二『つの対極的な立場が現れた。一方では禁欲主義となって顕われ、他方では、放縦となって現れる。前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を教える。後者は、霊は肉体とは別存在であるので、肉体において犯した罪悪の影響を受けないという論理の下に、不道徳をほしいままにするタイプであ』り、四『世紀の神学者アウグスティヌスがキリストに回心する前に惹かれたのは、前者の禁欲的なタイプであったと言われる』とある。]

 

       

 佛敎の解釋力と其學說が、不思議に近代科學の事實と一致する事は、心理學に於て、ハアバアト・スペンサアを其最大の探究者とする部門に、特によく現はれて居る。我々の心現的生活の少からぬ部分は、西洋の神學では說明の出來ぬ感情から成り立つて居る。未だ口のきけぬ小兒に或る顏を見ては泣かせ、或る顏を見ては微笑ましむる感情もそれである。未知の人に遇ふ時直に經驗する『好き』、『嫌ひ』もそれである。第一印象と呼ばる〻此好惡の感は、怜悧な小兒は正直に告白せんとする。『人は外觀で判斷してはならぬ』と敎へられても、小兒は心の中では決してその敎を信ぜぬのである。こんな感情を神學上の本能、直觀の意味で本能的とか直觀的とか呼んで見ても、それは何の說明にもならぬ――丁度特殊な開闢說の樣に、只だ疑問を生の神祕中に切り落とすだけである。吾人の衝動若しくは感動は、惡魔の憑依に依る外、一個人的以上であるといふ說は、今でも古風の正統論者には厭ふべき異端と思はれて居る。併し我々の深い感情の大部分は、超個人的であるのは今

や確である――我々が愛情的感情と稱するものも、又、壯美的感情と名づくるものも皆さうである。 感情の個性は科學に依つて全く否定される。初對面の戀譯者註に就ての解釋は憎惡にも適用せられる。雙方共超個人的である。彼の[やぶちゃん注:「かの」。]春と共に來去する漠然たる遊歷の衝動、秋に經驗する漠然たる鬱屈の感の如きも同樣である。――これは多分人類が季節に從つて移住した時代の、若しくは人間出現前からの遺物であらう。一生の大半を平野若しくは草原で過ごした後、初めて雪を戴いた山巓を望む者に感ぜられる情緖、さては大陸の奧地に住む者が初めて大洋を見、其永久の雷の如き浪の音を聞く時の感の如きも、又超個人的である。偉大な風景を見た時に起こる、必らず畏怖の念の雜じる喜び、若しくは熱帶の日沒の壯麗さが惹起す、云ふに云はれぬ憂鬱の混じる啞然たろ讃嘆――此等も個人の經驗だけでは說明は出來ぬ。尤も精神分析は此等の感情が非常に複雜で、個人樣々な經驗と錯綜して居る事を證明した。併し何れの場合でも深い感情の浪は、決して個人的でない、我々の出て來た祖先傳來の生の海から打寄せたものである。シセロ時代よりもずつと古い昔から人の心を惱まし、現代に於ては更に一層惱ます所の特殊の感情――實際は初めて見た土地を既に前にも見た樣に感ずる感情の如きも、同じ心理的範疇に屬するものであらう。外國の都市の市街、若しくは外國の風景の模樣を見て或る不思議な親密の感が心に起こると、一種の柔らかい氣味惡るい激動を覺えて、其解釋に有りもせぬ記憶を搔き立てさせられる。時には疑もなく、心裏に甞て存在した記憶の復活、若しくは建て直しに依つて、之に似寄つた感情が發生せられる事も實際ある。併しただ個人的の經驗で說明せんと試みると、全然不可思議といふより外なきものも澤山ある樣に思はれる。

 

譯者註 本篇中の「業の力」を參照せられよ。

[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサア」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者・倫理学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。彼は一八五五年に「心理学原理」(Principles of Psychology)を刊行している。

「精神分析」原文は“Psychological analysis”で、ここは「心理学的分析」と訳すのが至当と思われる。ジークムント・フロイトによって一八八六年に創始されたばかりの狭義の精神分析(英語:Psychoanalysis ドイツ語:Psychoanalyse)について、小泉八雲は他でまず言及しておらず、ここでの文脈でもこれは「精神分析学」を持ち出すものではなく、それまでの普通の心理学的分析法として百%読めるからでもある。フロイトがヒステリーの原因として幼少期に受けた性的虐待とする論文「ヒステリー研究」(Studien über Hysterie:ヨーゼフ・ブロイアー(Josef Breuer)との共著)を発表したのは本作品集刊行の前年の一八九五年で、かの「夢判断」(Die Traumdeutung)の出版は一九〇〇年である。恐らくはその中で展開されたフロイトの「汎性論」を、小泉八雲は高い確率でおぞましい恣意的妄想的理論と嫌悪したのではないかとさえ私は考えている。

「シセロ」ローマの政治家・哲学者マルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero 紀元前一〇六年~紀元前四三年)。ラテン散文の完成者。共和政末期の混乱の世に、最高の教養と雄弁を以って、不正の弾劾者・自由の擁護者として活躍したが、第一次三頭政治のもとで紀元前五八年に追放され、翌年、帰国するも自由な政治活動が許されず、哲学的著作に従事した。しかし、カエサル暗殺後、再び元老院の重鎮として活躍し、十四編の演説「フィリピカ」(Philippicae:紀元前四四年~紀元前四三年)でアントニウスを攻撃したが,第二次三頭政治成立後、暗殺された(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「業の力」既に電子化注した同じ戸澤正保氏訳になる「小泉八雲 業の力」。]

 

 我々の尤も平凡も感情の中にも、凡ての感情思想は個人の經驗より來る、從つて生まれたばかりの小兒の心は白紙であるといふ愚說では、決して解き得ざる謎がある。或る花の香、或る色合、或る音調に依つて刺激される快感、危險な或は有毒な生物を一見して、我れ知らず起こる嫌惡或は危懼、さては夢の中の名狀し難い恐怖――これ等は古來の靈魂說では凡て說明し得ぬ。香氣及び色彩に於ける快感の如き咸情の或る者は、種族の生命に深き根低を有して居る事は、グラント・アレン譯者註が其著『心理的美學』及び色彩感(カラーセンス)に就ての興味ある論文で、尤も有力に指示して居る。併し其久しい以前、彼の師で心理學者中の尤なるスペンサーは、經驗論では多くの種類の心裡現象を說明する事全く不可能なる事を明らかに證明して居る。『可能としても』スペンサーは云ふ、『經驗論は情緖に關しては知覺に關してよりも一層說明に困難を感ずる。凡ての願望、凡ての情緖は、個人の經驗より生ずるといふ說は、甚だしく事實と相違する。予はいかにしてかかる說を抱く者あるかを怪しまざるを得ぬ程である』。『本能』、『直觀』といふ樣な語は、舊來の使用法では眞の意味を有たぬ、今後は異つた使用法を取らねばならり事を、我々に示したのも亦スベンサーであつた。近代心理學の用語としては、本能は『組織化された記憶』を意味する、そして記憶其者も『初期の本能』である――卽ち本能とは、生の連鎖に於て、つぎの時代の個人に遺傳せられる印象の總計である。かく科學は記憶の遺傳を承認する、前世の出來事を一一記憶するといふ神祕的な意味でではなく、遺傳される神經系統の構成の、微細な變化に伴なつて、微細な追加が心に與へられるといふ意味でである。『人間の腦髓は、生の進化中に、或は寧ろ人間といふ有機體に達する迄の、幾つもの有機體の進化中に、受けた無限數の經驗の、組織化された記錄である。此等の經驗中の尤も普遍的で、尤も屢〻繰り返されるものの結果は、元利共立派に[やぶちゃん注:「元利」(がんり)「共」に、「立派」(りっぱに)。]遺伝された。そして徐々に高尙な知力となりで、孩兒の腦髓中に潜在する――それを孜兒は長ずるに從つて活用し發達せしめ、而して更に複雜化する――そして、それは細微な追加を附して、更に其子孫に遺傳される』註二かくして我々は、前世といふ觀念及び合成的『我』といふ觀念の、確實な生理的根據を得た譯である。各個人の腦髓には、其祖先である凡ての腦髓が受けた、想像を絕する程の無數の經驗の遺傳された記憶が、封入されてある事は爭ふの餘地がない。併し此過去に於ける自己に就ての科學的證明も、物質的に證明された譯ではない。科學は物質論の破壞者である。科學は物質の不可解なことを示した。そして情緖の終極的單位を憶定しながらも、心の祕密は矢張り不可解なることを白狀する。併し我々よりも幾百萬年も古い筒單な情緖の單位から、人間の凡ての情操、凡ての能力が建設された事は疑ひがない。ここに科學は佛敎と共に『我』なるものが合成體なることを認める。又佛敎の如く、現代の心の謎を、過去の心の經驗で說明する。

 

註二 スペンサー「心理學原理」中「感情論」の一節。

譯者註 カナダ生れの英人、十九世紀の著述家。

[やぶちゃん注:「グラント・アレン」チャールス・グラント・ブレアフィンディ・アレン(Charles Grant Blairfindie Allen 一八四八年~一八九九年)はカナダ生まれのイギリスの作家(推理小説が有名)で自然科学者。「心理的美學」(Physiological Æsthetics)は彼が一八七七に書いた科学論文で、後の「色彩感(カラーセンス)に就ての興味ある論文」というのは、恐らく一八七九年に書かれた論文「色彩感覚――その起源と発達」(The Colour-Sense: Its Origin and Development)であろう。

『スペンサー「心理學原理」中「感情論」の一節』一八五五年刊の「心理学原理」(Principles of Psychology)の英語原文全文は英文サイトのこちらで読めるが、それで見ると、この引用は“CHAPTER VIII.: THE FEELINGS.”ではなく、その前の“CHAPTER VII.: REASON.”(「理性」)の終りの方で、小泉八雲の誤りである。]

 

       

 霊魂は無限數の合成體であるといふ觀念は、西洋流の意味での宗敎といふ觀念を、全く不可能ならしむるだらうと、考へる人も多いに相違ない。又舊來の神學上の槪念を棄つる事の出來ぬ人は、疑ひもなく、佛敎國に於てさへ、又佛典の證明あるにも拘らず、普通民の信仰は、靈魂は一個體であるといふ觀念を基礎として居ると想像するに相違ない。併し日本には、其反對の著しい證據がある。無敎育の民衆、佛敎哲學を硏究した事のない、尤も憐れむべき田舍漢でも、自己の複體なることを信じて居る。更に驚くべきは、原始的の宗敎なる神道にも、同樣の敎義が存在する事である。それから支那人、朝鮮人の思想にも、變つた形の同じ信念が存在する。極東の住民は凡て、佛敎の意味でか、或は神道が代表する原始的の意味でか(一種の分裂繁殖說)、或は支那の九星學[やぶちゃん注:占術の一つ。古代中国の「洛書」の図にあるとする九つの星(一白 ・二黒 (じこく)・三碧・四緑・五黄(ごおう)・六白・七赤 (しちせき))・八白・九紫)を陰陽道 で五行と方位に配し、それと個人の生まれた年とを相当させ、運命の吉凶を占うもの。]で作り上げられた怪奇な意味でか、禮魂を複體と考へる樣である。日本では此信念は一般的に行はれて居る事を、自分は十分に見屆けて居る。ここに佛典を引用するの必要はない。何となれば佛敎哲學をいふ迄もなく普通一般人の信念だけで、宗敎的熱誠は、複體禮魂の觀念と兩立して相悖らぬ[やぶちゃん注:「あひもとらぬ」。二つの対象の両立は道理に反していない。]といふ證明を供給し得るからである。日本の百姓は自分の心を、佛敎哲學が考へる程、若しくは西洋の科學が證明する程、複雜なものと考へて居ぬのは確である。併し彼は彼自身を複體と考へるのである。彼が心中に起こる善なる衝動と惡なる衝動との間の衝突は、彼の『我』を構成する樣々の祕密な意志の間の爭鬪と解釋する。そして彼は此善なる自己を惡なる自己から引き離すことを精神的な希望として居る――涅槃卽ち最高の幸福は、ただ最善の自己の遺留によつてのみ到達し得るものと信じて居るから。かくして彼の宗敎は、科學の思想から餘り離れてない所の――我々の故國の民衆が抱く傳習的の靈魂觀程離れてない所の心靈の進化といふ、自然な見解に基づいて居る樣に思はれる。勿論此等の抽象的な題目に就ての彼の考へは、漠然として何等の組織を有せぬものではある。併し其考への一般性質と傾向とは明らかである。そして彼の信仰の誠實なること、又は其信仰が彼の德性に及ぼす感化に就ては何等の疑もない。信仰が敎育ある階級の間に殘存する場合には、其思想は定義と理論とを附與せられるが常である。自分は其例として、二十三歲と二十六歲とになる學生が書いた作文中から各一節を引用する。引用する例は幾らでもある。併し自分の意味する所を示すにはつぎの二例だけで十分であらう。――

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では四字下げで最小のポイント落ちである。前後を一行空けた。]

 

 「靈魂の不死を云ふより愚なるはなし。靈魂は合成物なり、其要素は永久不滅ならんも、二度と同一なる割合に組み合はせらるゝことなし。凡ての合成物は其性質と樣式とを變ぜざるなし」

 「人間の生命は集成物なり。勢力(エネルギー)の結合に依つて靈魂は成る。人死すれば彼の靈魂は、其結合せるものの性質に依り、或は變じ或は變ぜず。或る哲學者は靈魂は不滅なりと云ひ、或る者は然らずといふ。何れも眞なり。靈魂は之を構成する組み合はせの變化に依つて、或は滅び或は滅びず。靈魂を構成する要素たる勢力は實に不滅なり、然れども靈魂の性質に、之が構成に要せらるゝ勢力の、結合の性質に依つて決せらる」

 

 さて此二篇の作文に表明された思想は、西洋の讀者には一見疑もなく非宗敎的と見ゆるであらう。併し實は尤も眞摯な尤も深厚な信仰と相悖らぬのである。さういふ誤つた印象を與へるのは『靈魂(ソール)』といふ英語が、我々の了解するものとは、全く違つた意味に用ゐられてあるからである。右の若き文章家に依つて用ゐられた意味の『靈魂(ソール)』は、善き幷に惡るき傾向の殆ど無限の組み合はせを意味する――卽ち靈魂は一種の合成物で、合成物であるといふ事實其者に依つて、のみならず又精神進化の永久の法則に依つて、崩潰の運命を有するものである。

 

       

 東洋の思想生活に於て、數千年間かくも重大な要素であつた此觀念が、西洋に於ては今日に至る迄發展し得なかつた理由は、西洋の神學に依つて十分說明せられる。併し神學が前世といふ槪念を、西洋人の心に全く浸透せしめざらしめたと云ふのは、正鵠を得たものでない。靈魂は一々新しく生まれた身體に賦與する爲めに、特に新たに作られたものであると信ずる基督敎の敎義は、公然前世を信ずることを許さなかつたが、一般の常識は遺傳の現象に於て此敎條(ドグマ)の矛盾を認めた。同樣に、神學は動物は本能と呼ばる〻一種不可解の機關で動かさる〻、自動木偶[やぶちゃん注:「でく/もくぐう」。人形。]に過ぎずと論じて居るのに、人民は一般に動物も理性を有することを認めた。三四十年前に流行した、本能及び直觀の說も、今日は全く不合理に思はれる。此等の說は、解釋としては用を爲さぬ樣に感ぜられたが、敎條(ドグマ)としては思索を中止せしめ、異說を禁ずる用を爲した。ウヮーズウァースの『忠實(フヰヂリチー)』及び不思議にも買被(かひかぶ)られた『不死の暗示(インチメーシヨン・オブ・インモタリチー)』は、十九世紀の初期に於てさへ、かかる題目に就ては、西洋の思想の極度の因循と幼稚さとを證して居る。犬の主人に對する愛は、實際人間の臆測を超越する程大である。併しそれはウヮーズウァースの夢想だもしなかつた理由でである。それから小兒の新鮮な情緖は、確にウヮーズウァースが與へた不死の觀念よりもより驚くべき或る者の暗示であるけれども、それを歌つた彼の有名な句が、ジヨン・モーレー氏に依つて無意味(ノンセンス)として斥けられたのは尤もである。神學の衰亡せぬ中は、心的遺傳、本能の眞の性質、生の統一等に關する合理的な觀念が、一般の承認を贏ち[やぶちゃん注:「かち」。「勝ち」に同じい。]得る筈はないのであつた。

[やぶちゃん注:「ウヮーズウァース」イギリスの代表的なロマン派詩人ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth 一七七〇年~一八五〇年)。湖水地方の光景をこよなく愛し、自然と人間との霊交を謳い、平易な表現で純朴且つ情熱を秘めた自然讃美の詩を書いた。

「忠實(フヰヂリチー)」“Fidelity”はワーズワースが一八一五年に出版した「詩集Ⅱ」(Poems Volume II)に載る。英文「ウィキソース」のこちらで読める。

「不思議にも買被(かひかぶ)られた」どうも小泉八雲はワーズワースがお嫌いらしい。

「不死の暗示(インチメーシヨン・オブ・インモタリチー)」一八〇四年に完成し、第二巻が一八〇七年に出版されたウィリアム・ワーズワースの長大な詩篇“Ode: Intimations of Immortality”(「オード(頌歌(しょうか))――不死の暗示」。邦訳では「霊魂不滅の歌」とも訳されている)。

「ジヨン・モーレー」ジョン・モーリー(John Morley 一八三八年~一九二三年)イギリスの自由主義政治家で作家・新聞編集者。]

 併し進化論の承認と共に、舊式の思想は崩潰した。擦(す)り切れた敎條(ドグマ)に代はるべく、到る處に新思想が現出した。そして東洋の哲學と妙に並行した方角に、一般の知的運動が始まるの觀を呈した。最近五十年間の科學の進步の未曾有の速さと複雜さとは、非科學者の間にも等しく未曾有の知的發展を促した。尤も高尙な尤も複雜な有機體も、尤も低級な尤も簡單なものから發達したといふ事、唯一の物質的基本譯者註が全生物界の基本なる事、動植物の間には限界線を劃する事を得ざる事。生物と無生物との差は、唯だ程度の差にして、種類の差にはあらざる事。物質も心靈と同じく不可解で、未知の同一な實在の、形を異にせる表現に過ぎざる事――こんな事は既に新哲學の常套語となつて了つた。神學が一度物質的進化を承認した以上、心靈的進化の承認も、無期限に延期すること能はざるは、豫見するに難からずである。人間をして後ろを顧ることを得ざらしむる古敎義の墻壁は、既に毀たれた[やぶちゃん注:「こぼたれた」。]のである。そして今日科學的心理學の硏究者には、前世といふ觀念は、學說の域を脫して事實の境に入り、自(おのづか)ら佛敎の解說は、合理的であることを證して居る。『遽てた思想家の外は』故[やぶちゃん注:「こ」。わざわざ入れてあるのは、彼の死が本作品集刊行の前年、則ち、作品集執筆の最中であったと想定される一八九五年六月二十九日とごく直近であったからであろう。次の「第十三章 コレラ流行時に」の素材は一八九五年七月である。]ハツクスリー敎授は書いて居る、『本來の不合理といふ理由で、之を排斥する者はないであらう。進化論其者の如く、輪𢌞の說は實在界に根抵を有する、從つて類推論が與へ能う[やぶちゃん注:「あたへあたう」。与えることが可能な。]だけの擁護を受け得るであらう』

 

註 「進化と倫理」六十一頁――一八九四年版。

譯者註 原形質の意味か。

[やぶちゃん注:「ハックスレー」生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。小学館「日本大百科全書」より引く。『ロンドンで医学を修めたが、もともと物理学に関心があったために、生体機能の物理・化学的側面を扱う生理学に興味をもった。生計をたてるために海軍の軍医となり、ラトルスネーク号でオーストラリア方面に航海し』(一八四六年から一八五〇年まで)、とくにクダクラゲ類』(刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目 Siphonophorae)『について優れた研究を行った。帰国後、王立鉱山学校教授となり、化石の研究や生理学、比較解剖学に従事。王立学会員となり』、一八八三年からは『同会長を務めた。腔腸』『動物の内・外胚葉』『が、高等動物の内・外胚葉と相同であることを示し、また』、従来の『頭骨は脊椎』『骨の変形したものであるとする「頭骨脊椎骨説」の誤りを正した』。『ダーウィンとは、航海から帰国後まもなく知己となり、終生』、『親交を結』び、彼の「種の起原」(一八五九年)が『出版されるや』、『ただちにダーウィン説に賛同し、ダーウィン自身にかわってこの説の普及者となることを決意し、「ダーウィンのブルドッグ」とよばれた。とくに』一八六〇年に『イギリス学術協会において、ダーウィン説の反対論者であった』司教サミュエル・ウィルバーフォース(Samuel Wilberforce 一八〇五年~一八七三年)を『論破したことは、その後の進化論の受容に大きな影響を与えた。しかしハクスリーは、ダーウィン説を無批判に受け入れたわけではなく、その欠陥も鋭く指摘し、またダーウィンが避けた人間の起源の問題にも言及した』とある。

「進化と倫理」“Evolution and ethics, and other essays”。一八九三年にオックスフォード大学で行われた彼の同題の講義にエッセイを附した刊本。引用部はここの右ページ(“Internet archive”の当該原書の画像)の十行目から。]

 

 さてハツクスリー敎授に依つて述べられた此擁護は甚だ强大である。それに依つて我々は幾億萬年を通じて、闇から光へ、死から生へと飛ぶ魂を見る譯でもなけれど、前世といふ主なる觀念は、殆ど佛陀自身が說明した形に確立されるのである。東洋の敎理では、心理的人格は、個體の如く崩壞の運命を有する集合體なのである。ここに心理的人格と云つたのは、心と心とを――『我』と『汝』とを區別する所のもの、我々が自己と呼ぶ所のものを意味する。佛敎ではこれは一時的の幻影の集合とされて居る。そして之を成立せしむるものは業(ごふ)である。業で再生する所のものは無數の前世に於ける行爲と思想の統計である――そして其の各個は此總計を取る爲めに加へたり減じたりする神祕な計算法に於ける整數として、自餘のものに影響する。業は磁氣の樣に體から體へ、現象から現象へと傳達され、組み合はせ次第で狀態を決めるのである。併し業が集成し創造する結果は、結局神祕にして測る可からずと佛敎信者は認めて居る。併し結果を維持する總合力は、シヨウペンハワー[やぶちゃん注:ショーペンハウエル。]の所謂生きんとする『意志』に相當する『渴愛(タンヘイ)』[やぶちゃん注:原文“tanhā”。「タンハー」(パーリ語:Taṇhā)。ヴェーダ語(サンスクリット語の古形)では「トリシュナー」(tṛṣṇā)と呼ばれ、「渇き・欲望・願望」を意味する。肉体的・精神的「渇き・欲望・憧れ・欲求」を指し、典型的には「渇愛」(craving)と訳される。「欲愛」(パーリ語(以下同じ): kāmataṇhā:感官によって得られる刺激・快楽(カーマ)への渇愛)・「有愛」(bhavataṇhā:存在することへの渇愛)・「無有愛」(vibhavataṇhā:存在しなくなることへの渇愛」の三種に分類され、この力によって生きとし生けるものは輪廻に於いて死と再生を繰り返すとされる、とウィキの「タンハー」にある。]といふ、生の欲望に依つて生ずると稱せられる。我々はハアバアト・スペンサーの『生物學』に於て、此思想と不思議と近似する思想を認める。彼は性向と其變態(ヴアリエーシヨン)との遺傳を兩極性(ポラリチー)[やぶちゃん注:“polarities”。]に依つて說明する――生理學的單位の兩極性に依つて。此兩極性と佛敎のタンヘイ說との間には、相違よりも相似が著しい。業或は遺傳、タンヘイ或は兩極性は何れも其終極の性質に至つては說明すべからざるものである、此點は佛敎も科學も一である。注意を値する事實は、兩者とも異つた名の下に同じ現象を認めて居る事である。

[やぶちゃん注:「ハアバアト・スペンサーの『生物學』」とは“Principles of Biology”(「生物学原理」)で一八六四年に第一巻が刊行されている。]

 

       

 鴛くべく複雜な方法に依つて、科學は東洋の古い思想と奇妙に調和する結論に達したのであるが、其事はやがて其結論は西洋の大衆の心に明瞭に理解せしめ得べきかといふ疑問を提起する。佛敎の實際の敎理が、只だ形式に依つて信者の大多數に敎へ得られる如く、科學の哲理も、只だ提示(サヂエツシヨン)に依つて――性來理智的の頭腦を刺激するに足る樣な事實、若しくは事實の配合の提示に依つて――大衆に敎へ得られるだらうとも思はれる。科學の進步の歷史は此方法の有効な事を保證する。そして高尙な科學の論議は非科學的民衆の理解を超越するが故に、其科學の結論も亦一般に了解せられぬだらうといふ推論には、決して强い理由はない。遊星の大いさと重さ、恒星の距離と構造、引力の法則、光、熱、色の意義、音響の性質、其外科學が發見した無數の事實は、此等の知識に到達した過程の詳細には全く無知な民衆にも、熟知されて居るのである。又我々は十九世紀中に於て、科學の大進步があつた每に、續いて民衆の信念も[やぶちゃん注:底本は「信念」と「も」の間に一字空けがあるが、誤植と断じて詰めた。]、大變化が起こつたと云ふ證據を有して居る。敎會も既に、尙ほ靈魂は一々殊別に作られるといふ舊說に縋りながらも、物質的進化論の大綱を認め、且つ將來とても、舊信仰の墨守、若しくは知的退步は當分豫想せられない。却つて更に宗敎的觀念に變化を生ずべきことが期待される。そしてそれも徐々にといふよりも、寧ろ急激に成就されるらしく思はれる。勿論其變化が如何なる性質のものであるかは豫言されぬ。併し現今の知的傾向より察すれば、心靈上の進化說も認められるに相違ない――たとひ直に神學學的思索に最終の限界を劃する程ではないにしても。そして『我』といふ槪念も、遂には此結果として發展した前世の觀念に依つて、變更されるに相違ない。

 

       

 此等の蓋然性(プロバビリチー)[やぶちゃん注:probability。元来は「確からしさ」の意。「必然」に対応する語で、「事物・現象の生起や、その知識の確からしさの度合い」を指す。それらの生起や知識そのものについては必然的であって偶然の入る余地はないものの、その場(時空間)に於ける必然的因果関係やそれに附随するところの条件が未知の場合、その確からしさの度合いは「偶然的である」とも言える。故にそこから「蓋然性」を「可能性と偶然性の絡み合った状態」と謂うことも出来る。蓋然性は経験的に法則化することが可能で、それが数量的に表わされる際には「確率」と成る。]は、もつと精しく考察する事も出來る。ただ科學を以て改造者に非らずして破壞者なりと考ふる人には、此蓋然性も蓋然性と認められぬであらう。併しかかる思索家は、宗敎的感情が敎條(ドグマ)よりも遙かに深いものであることを、又それはあらゆる形式の宗敎が死滅しても、後に遺るものであることを、又それは知力の擴張と共に、擴まり深まり强まるものであることを忘れて居る、ただ敎理としては、宗敎は遂に死滅すべきことは、進化論の硏究が到達する結論である。併し感情としての宗敎、或は人間をも星辰をも等しく造り上げる未知の力の信仰としての宗敎が、全く死滅すべしとは、今の處想像する事が出來ぬ。科學はただ現象の誤れる解釋を破壞するので、寧ろ宇宙の神祕を擴大し、萬物は如何に微小のものでも、限りなく驚くべく、又不可解のものであることを證する計りである。そして此信仰を擴大し宇宙情緖を擴張するといふ、科學の疑ふ可からざる傾向こそ、西洋の宗敎的觀念が、過去に前例なかりし程の變更を受け、西洋の自己といふ槪念が、東洋の自己觀に似寄つたものに固まり、そして現在の人格とか個人とかは、それだけで存在する實體だといふ憐むべき心理學的觀念は消滅するだらうといふ推察を許すのである。既に科學の敎ふる通りに、遺傳の事實や一般が了解し始めた事は、少くとも此等の變化の幾分かが行はるべき道を指示するものである。心靈進化の大問題に就ての將來の論議に於ては、一般人は科學に導かれて、尤も抵抗の少い道を進むであらう。そして其道は疑もなく遺傳の硏究であらう、其故は此現象は夫れ自身は難解だが、一般人の親しく經驗する所であるからである。そしてこれが無數の古い謎に、幾分の解答を與へるであらう。かくして將來の西洋の宗敎の形式は、總合的哲學の全力を擧げて擁護せられ、佛敎と異る所は、主として槪念の非常に精確なる所に存するのみにて、靈魂を合成體として認め、そして業(ごふ)の說に似た、新しい精神的法則を說くならんと想像するを得るのである。

 併しかういふと直に首肯し難いと考へる人が多數あるであらう。それ等の人はつぎの樣に云ふであらう、かういふ信仰の變更があるとすれば、それは思想が感情を咄嗟の間に征服し變更するものであらねばならぬ。然るにハアバアト・スペンサーも『世間は思想に依つては支配されぬ、感情に依つて支配せられるのである、思想は感情の案内役に過ぎぬ』と云つて居るではないか。論者の云ふやうな變化は、西洋に現存する宗敎心と宗敎的情操の力とを考ふれば、迚も有り得べきこととは思はれぬと。

 前世及び複體としての靈魂の觀念が、眞に西洋の宗敎心に背反するならば、滿足なる解答は爲し能はぬ。併し果たして背反して居るだらうか。前世の觀念は確に背反して居らぬ。西洋人の心には既に其準備が出來て居る。尤も崩潰の運命を有する合成體としての我といふ槪念は、物質的な絕滅といふ觀念にいくらも優らぬ[やぶちゃん注:「まさらぬ」。]やうに見ゆる――少くとも舊式の考へ方を棄つること能はざる者には。併し公明に反省して見ると、『我』の崩潰を恐る〻べき情的の理由がない事が分かるであらう。實際は無意識的にではあるが、基督敎徒も佛敎徒も、永久に祈禱をするのは此崩潰があればこそである。己が性質の惡るき部分を、己が愚と過失との傾向を、不親切な言動を爲さんとする衝動を――凡て己の高尙な部分に絡まり、最上の抱負を低下せしむる下劣な性能を抛棄したしと屢〻願はぬ者があらうか。けれども我々がしかく[やぶちゃん注:「然く」。そのように。]熱心に分離、除却、廢滅を願ふ所のものは、貴い理想の實現を助ける役天的も大なる能力よりも、寧ろ父母より傳承した心靈、我其者の一部分であるのである。我の崩潰といふことは、恐ろしい滅亡ではなく、我々の努力を注ぐべき目的物の一なのである。如何なる新しい哲學も、我中の最善の要素は、一層高尙な聯合を求め、益〻偉大な組み合はせに入り、遂に最高の啓示に接し、而して我々は無限の幻影を透して――凡ての自我を減却して――絕對實在を見るに至るを、欣求するものであると、思ふことを抑止する譯に行かぬ。

 我々は所謂原素なるものでさへ進化しつつあることは知つてるが、どんなものでも全く死滅するといふことの證據を有せぬのである。我々が現在在るといふことは甞て在つたこと、及び將來も在るであらうといふことの保證である。我々は無數の進化にも、無數の宇宙の興亡にも堪へて生存したのである。我々は全宇宙を通じて凡てが法則に支配せられることを知つて居る。如何なる原子が遊星の核心を構成するか、如何なる物が太陽の恩德を受くべきか。如何なる物が花崗岩や玄武岩中に入り、如何なる物が植物に入り、さては動物に入つて繁殖すべきかは、決して偶然が決するのではない。理性が類推法に依つて推論し得る限りでは、心理的にも物理的にも、凡ての最終の單位の宇宙に於ける歷史は、佛敎の業の說に於けるが如くに、確實に精密に決せらるべきものであらう。

 

       

 科學の影響が西洋の宗敎的信念の變更に與る[やぶちゃん注:「あづかる」。]唯一の要素ではない。東洋哲學もたしかに之に與るであらう。サンスクリット、支那語、パリー語の硏究、其他東洋各地に於ける言語學者の倦まざる努力は、急激な勢で東洋思想のあらゆる顯著なものを歐米に紹介しつつある。佛敎は西洋中に興味を以て硏究されつつあり、そして此等硏究の結果は、最高文化の心的產物となつて、年々益〻明確に現はれつつある。哲學の諸派は、時代の文學に於ける程眼に見えて影響を受けて居ない。『我』の間題の建て直しが到る處西洋人の心に侵入しつつある證據は、啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]當代の思想的散文のみならず、詩歌小說の上にも見出され得る。一時代前には有り得なかつた觀念が時代思潮を變更し、舊趣味を破壞し、より高尙な感情を發展せしめつつある。より大なる靈感の下に動きつつある創作的藝術は、前世の觀念の承認で、如何に全く新しい優れた感情が、又如何に從來想像し得なかつた感情が、又如何に驚くべき情緖の力の深まりが、文學に於て其地步を進めつつあるかを語つて居る。小說に於てさへ、我々は從來只だ一半球上にのみ生活しりつつあつたことを、又我々は半分の思想だけを考へつつあつたことを、又我々は現在といふ此半球截斷面上に過去と將來とを結び附け、かくして我々の情緖世界は初めて完全な球體に完成されるといふ、新しい信念を要することを學ぶのである。我は複體であるといふ明確な信念は、如何に珍奇な說に見えようとも、衆(メニー)は一(ワン)なら、生(ライフ)は統一(ユニチー)なり、有限なるものなし、ただ無限あるのみといふ、より大なる信念に達する、絕對必要な徑路である。『我』唯一無二と想像する盲目的な驕慢心が瓦解し、自己及び我執の念が全く破壞される迄は、無窮としての――大宇宙と同樣に――自我の知識は決して到達されぬ。

[やぶちゃん注:「パリ―語」南伝上座部仏教の経典(「パーリ語経典」)で主に使用される言語。古代インドの中西部で用いられた「プラークリット」(俗語)を代表する言語。]

 

 疑ひもなく、我は一であるといふ考は我執の見であるといふ、知的信念が到達せられる前に、先づ我々は過去にも生活したといふ情感的信念が發展するであらう。併し兎に角遂には、我の複合的性質は認められるに相違ない、――尤も神祕は神祕として遺るであらう。科學は生理的單位を假定すると同樣に、心理的單位をも假定する。併し何れの假定された單位も、數學的計量の極度の力を以てして、尙ほ計算する事が出來ない、――全く幽眇[やぶちゃん注:「ゆうべう(ゆうびょう)」。奥深く優れていること。「玄妙」に同じい。]の境に入つて了ふやうに見ゆる。化學者は硏究の目的の爲めに、極微の原子を想像せぬばならぬ。併し其想但したる原子が象徵する事實は、ただ力の中心であるかも知れない――否佛敎の思想に於けるが如く、無、渦(うづ)、空であるかも知れない『形は空である空は形である形なるものは空である空なるものは形である知覺と思想名と知識――凡てこれ等は空である』科學にも佛敎にも同樣に宇宙は一大幻影と化する――ただ知る可からず測る可からざる力の假の現はれと化する。とはいへ佛敎は『何處から』及び『何處へ』の問に佛敎一流の答を與へる――そして進化の大周期每に、前世の記憶蘇生(よみがへ)り、あらゆる未來が同時に眼前に展開せられ――天上の天迄も見渡さる〻程の精神的膨脹の時期の來るべきを豫言して居る。科學は此點に就ては沈默して居る。併し其沈默はグノスチツク敎徒の祕密な沈默である――奈落の女(むすめ)、靈鬼の母なるシゲーである。

[やぶちゃん注:「奈落の女(むすめ)、靈鬼の母なるシゲー」原文“Sigé”。「沈黙・静寂」の意で、別名を「エンノイア」(「思考・思い」の意)。プトレマイオス派グノーシス主義に於ける至高のアイオーン(グノーシス主義での高次霊の総称)の筆頭プロパトールの伴侶。]

 科學の十分なる承認を得て、我々が信じ得べきことは、驚くべき啓示が未來に我々を待つて居るといふ事である。近代になつて發達した新しき感覺と力とがある――音樂の感覺と數學者の生長して止まぬ能力である。尙ほ一層高尙な、今想像し得ざる能力が我々の子孫に進展するであらうと豫期するのは不道理でない。又疑もなく遺傳した或る心的能力は老年に及んで初めて發達するといふ事も知られて居る。然るに人類の平均年齡は確實に高まりつつあるのである。長壽の增進と共により大なる未來の腦髓の出現に依つて、前世を記憶する能力に劣らぬ能力が、突然發生する事があるかも知れぬ。佛敎の夢想は深遠にして容易に凌駕することが出來ぬ、何となればそれは無窮に觸る〻からである。併し誰れが其夢想は實現されぬと斷言し得るであらうか。

[やぶちゃん注:以上で本文は終わるが、本篇にはこの後に非常に長い“NOTE.”が付随している。底本ではそれを二行空けて「備考」と題し、全体を四行下げ最小のポイント落ちで訳してあるが、以下、完全に引き上げて同ポイントで示す。各段落の頭に字下げがないはママである。]

 

 

  備 考

右の一文を通讀せられた諸君に、御注意致し置く必要を感じた事は、自分は靈魂(ソール)、自己(セルフ)、我(エゴ)、輪𢌞(トランスミグレーシヨン)[やぶちゃん注:transmigration。]、遺傳(ヘレヂチー)[やぶちゃん注:heredity。]などいふ語を遠慮なく使用したが、此等の英語に佛敎哲學には全く不通の意味を有するといふ事である。英語の意味での靈魂(ソール)は佛敎にない。自己(セルフ)は幻影若しくは幻影の束(たば)である。或る身體から他の身體へ轉移するものとしての輪𢌞は、明らかに出處明確なる佛典の中で否定されて居る。故に業(ごふ)の說と科學上の遺傳の事實との間に存する類似は、迚も完全なものとは云うはれぬ。業は同一の複體我の生存を意味するのではなく、其傾向性(テンデンシー)[やぶちゃん注:tendencies。]の生存を意味するのである。そして此傾向性が新たな組み合はせをして、新複我を形成するのである。かくして形成された新しい存在は必らずしも人間の形を取らぬ、卽ち業は親から子に行くものではない。生の形態は業に因るものであるが、遺傳の系統とは關係がない。乞食の業體[やぶちゃん注:「ごふたい」。]は國王の肉體に生まで替はるかも知れない、又國王のそれが乞食の肉體に生まれ替るかも知れない。併し生ま替はつた者の狀態は何れにしても業の力で決せられるのである。

というふとかう云ふ疑問が發せられるであらう――「そんなら變はらずに繼續する各人の精神的要素――云はば業と云ふ殼(から)の中にある精神的の仁(たね)――正道に精進する力――は何であらう。靈魂も肉體も同樣に此世だけの組み合はせで、業(それも此世だけのものなる)が人格を作る唯一の原因であるとすると、佛敎の敎義の價値は何に在るか又何の意義があるか。業に依つて苦しむものは何か。幻影の中にあるもの――進步するもの――涅槃に到達するもの――涅槃に到達するもの――は何か。それは自己ではないか」否、英語の意味の自己ではない。我々が自己と呼ぶむのは佛敎では實在でないとしてある。業を結んだり解いたりするもの、正道に精進するもの、涅槃に到達するものは、我が西洋語の意味の我(エゴー[やぶちゃん注:ママ。])ではない。そんなら何かといふに、それは各人の佛性である。日本語では「無我の大我」――我欲なき大なる自己――と呼ばるる。此外に眞の自己はない。此自己が幻影に包まれてゐる狀態を如來識――胎内に在るが如くに未だ生まれざる佛陀――と云ふ。各人には永遠なる者が潜在して居る。それが實在である。も一つの自己は虛僞である――詐僞である――蜃氣樓である。死滅說はたゞ幻影の死滅を意味する。肉體的生活にのみ屬する所の情緖、感覺、思想等も、此複雜な幻影的自己を作る幻影に過ぎない。此虛僞なる自己の完全なる分解に依つて――恰も被膜を引きちぎりたる如くに、無窮の洞觀力[やぶちゃん注:ママ。]が現はれる。所謂靈魂(ソール)なるものはない。無窮の全大靈が凡ての生物の唯一無窮の要素である。其他のものは皆夢である。

涅槃に達した時、其處に殘るものは何か。佛敎の或る宗派の說に依ると永遠に於ける潜在性の同一自己(アイデンチチー)である――それ故に佛陀となつたものも又此世へ歸る事が出來ると。又他の宗派の說によると、潜在性以上の同一自己である、併し我々の意味する肉體的の同一自己ではない。或日本の友人は云石ふ――「ここに一塊の金を取つてこれを一個と云ふ。併へこれに眼にの印象を生ずると云ふ意味である。實際は之を構成する原子の群であつて、各原子は皆別々のものであり、各[やぶちゃん注:「おのおの」、]他の原子から獨立して居る。佛陀の境地に達したる者に在つても無數の心靈的原子が其通りに結合されてゐる。其無數の原子が一個の狀態を爲してゐる――けれども各原子は各獨立の存在を有する」と。

併し日本では原始的の宗敎(神道)が、平民級の佛敎の信仰に影響して多少の變化を生じて居るから、持別に日本人の『自己觀念』と云つても間違ひではない、たゞ一般の神道の思想を併せ考ふることが必要である。神道の靈魂の槪念に就ては極めて明瞭な證跡がある。併し神道の靈魂も複雜である――業體の樣に、單なる情緖、知覺及び意志の束ではなく、一人格を作る爲めに幾つもの靈魂が結合したものである。死人の靈は唯一として現はるゝこともある、數個として現はるゝこともある。靈は其單位を分離させることが出來る、そして單位の各個は特殊の獨立した行動を取る事が出來る。とはいへ此分離は一時的で複雜を構成する種々の靈魂は死後でも當然聯結するし、自發的に一時分離した後も又結合する。日本人民の大多數は佛敎信者であり同時に神道信者である、併し自己に關しては原始的の信仰(神道)の方が有力で、二信仰の混合せる中にもそれを明瞭に識別する事が出來る。多分これはの說のむつかしさを民衆の心に判かりよく簡易に說明する役目を爲したのであらう――どの程度迄とは自分は云ひ兼ねるが。要するに佛敎に於ても神道に於ても、自己はから子に傳へらるゝ要素でない――常に生理的血統に依る遺產でない。

此等の事實は、右の一文の題目に就て、東洋の觀念と我々のそれとの間の差が如何に大なるかを示すであらう。又此等の事實は、極東の二つの信仰の不思議な結合を成せるものと、十九世紀の科學的思想との間に眞の類似が存在するといふ槪念も、自己といふ觀念に關する用語に於て嚴密な哲學的精確さで會得せしむる事は殆ど出來ぬ事を示すであらう。實際佛敎哲學に屬する佛敎用用語の精確な意味を飜譯し得べき歐洲語は一つもない。

 

ハツクスリー敎授が「感覺及び感覺傳達機關」に就てなる論文中にて簡明に陳べられたるつぎの論旨から遠ざかるのは不當と思はれるかも知れない――「論じ詰めると感覺は、感覺中樞の物質の運動の樣式に對する意識上の等價物(エクイバレント)[やぶちゃん注:equivalent。]であるらしい。併し若し硏究を更に一步進めて、物質及び運動とは何ぞやと云へば、之に對する答に唯だ一つしかない。我々の知る限りでは引導とは我々の視覺、觸覺、筋覺に於ける關係の或る變化を指す名である。そして物質とは物理的現象の臆定的官實質で、此臆定は心の實質の臆定と同じく全く形而上的思索である」併し形而上學的思索は、終極の眞理が人間の知識の極限外にあるといふ科學的認定がおつむからとて決して止むものではない、寧ろ其理由で、却つて永續するであらう。全く止むやうな事は決してあるまい。形而上學的思索が無かつたら宗敎上の信念の修正が起こらない。修正がなかつたら、科學的思想と調和を保つ宗敎的進步が起こり得ない。であるから自分には、形而上學的思索は至當であるのではない、必要であるやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「ハツクスリー敎授」の「感覺及び感覺傳達機關」原文は“Sensation and the Sensiferous Organs”であるが、正しくは“Sensation and the unity of structure of sensiferous organs”(「感覚と感覚器官の構造の統一性に就いて」)で一八七九年発表のエッセイ。英文サイトのこちらで全文が読め、引用はその末尾から四段落目にある。]

我々は心の實質を肯定するとも或は否もするとも、或は思想とは、風が琴の糸に當たつて音樂が生ずる樣に、腦髓の細胞に或る不明の要素が作用して生ずるものであると想像するとも、或は運動とは腦細胞に固有にして振動の或る特殊なる樣式であると考ふるとも――神祕は尙ほ無限に神祕である。そして佛敎は尙ほ人知の憧憬に適(かな)ひ、道德的進步と唱和する貴い道德上の有効(ワーキング)な假說(ハイポセシス)[やぶちゃん注:working-hypothesis。「作業仮説」。更なる研究を行う基盤とするために暫定的に受け入れられるところの仮説。 最終的にはその仮説自体は放棄・否定されるとしても、その仮説を叩き台として批判に耐え得るよい強固な理論が生み出せることを期待して受け入れるに足る仮説を指す。]である。我々は物質的宇宙と呼ばるゝ實在を信ずるとも信ぜぬとも、尙ほ說明し得ざる遺傳の法則の――特殊化せざる生殖細胞に於て種族並に個人の性向の傳達せられる事實の――倫理的意義は、業の說の存在を肯定する。意識を構成するものは何であらうとも、之が凡ての過去及び凡ての未來への關係は疑ふ可くもない。又涅槃の說か公平な思索家の深厚な尊敬を失ふことはあり得ない。科學は既知の物質は心と同じく進化の產物である――我々の謂はゆる四行(地水火風)は「未だ分化せざる原始的の形の物質」から進展したといふ證明を發見した。而して此證明は佛敎の分出(エマネーシヨン)[やぶちゃん注:emanation。「発散・流出・放射」。]及び幻影(イリユージヨン)の敎義に含まるゝ或る眞理を猛烈に暗示して居る――乃ち凡ての形態は無形から、凡ての物質的現像は非物質的の統一體から進化せるものなる事――凡ての者は結局「欲情も惡意も倦怠もない狀態――個性の刺戟が最早存在せず、從つて太虛と呼ばれ得る狀態」に復歸することを暗示して居る。

 

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