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2019/12/07

第一書房昭和一二(一九三七)年三月刊「家庭版小泉八雲全集」(全十二卷)第六卷「あとがき」

 

[やぶちゃん注:以下は本ブログで作品集「佛の畠の落穗」「異國情趣と囘顧」と、「日本お伽噺」群(私の底本全集で訳されていない“ The Fountain of Youth ”(「若返りの泉」)を除く)底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月2日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和一二(一九三六)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。(リンクは扉だが、「家庭版」の文字はない。しかし、奥附を見て貰うと『家庭版』とあり、『昭和十二年三月一五日 發 行』とあることが確認出来る)、これが、前掲の底本と同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「骨董」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。いや、同じ「家庭版」と名打ったネット上の画像データでも、驚いたことに、有意に異なっていたのである。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本「あとがき」はここから。 字のポイントや字配は再現していない。便宜を考え、私の電子化を本文内でリンクさせた(分割版は最初の公開分に)。]

 

   あとがき

 

 『蟲の樂師』は譯者が明治三十年[やぶちゃん注:一八九七年。]十月に提供した材料に據つて物されたのである。原著者がに述べて居る事は、社會事彙にも依つたのであるが、上野廣小路の松坂屋の向側に居た文中の所謂『蟲源』といふ蟲屋に就いて譯者が聽いたものにも依つて居る。引用の歌は、他の文で原著者が爲して居るやうに、羅馬字で原歌を示すことはしないで、ただその自由譯だけ揭げてあるのであるが、譯者はその原歌を知つて居るから、その自由譯の逐字譯はしないで、原歌を揭げることにした。そして譯文には、序に、憶ひ出せる限りその作者又は出處を添へて記すことにした。

[やぶちゃん注:以上については、既に『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信譯) / 「三」・「四」』の「三」の私の注の中で細かに述べておいたので、必ず、そちらを参照されたい。

 

 『死者の文學』は譯者が明治三十年七八兩月に亘つて蒐集した材料を使用して物されたのである。當時その材料を書留めるのに使用した雜記帳が不思議にも殘つてゐたので、文中引用の經語及び戒名は、それに參照して、多くは苦も無く復譯が出來たが、中に原著者が餘りに自由譯にした爲め、これがそれと突とめかねるのが一二あるのは遺憾である。

 序に原著者の戒名は正覺院淨華八雲居士であることを附記してよからう。

 

 『蛙』は譯者が明治三十年十二月に提供した材料に主として依つて物されたものである。引用の俳句で、今その原句の憶ひ出せぬのがあるのは遺憾である。原英文にはその作者の名は揭げて無いが、判知し得たものだけ、添へてしるして置いた。

 

   大正十五年十月   大 谷 正 信

 

 

 

 『佛の畠の落穗』は一八九七年ボストンのハウトン・ミフリン會社とロンドンのコンスタブル會社とから出版された。初めの五篇は『大西洋評論』で發表された物である。『佛土』と云ふ成語はあるが、多數の意見によつてこの譯語『佛の畠』を用ふる事にした。

 「生神」のうち濱口に關する記事は大阪朝日の記事によつた物、勿論精神は傳へてあるが、事實に違つたところがある。濱口五兵衞は紀州廣村濱口梧陵(七代目濱口儀兵衞)の事、津浪は安政元年十一月五日の夕方の出來事、被害者千四百餘人、行方不明者は三十餘人あつた。當時濱口は老翁ではなく、三十五歲の壯齡であつた。明治維新の際開國論を唱へて國事に奔走し、維新後紀州藩の權大參事となり、後中央政府に入つて驛遞頭(後の遞信大臣)となつた。再び鄕里に歸つて和歌山縣大參事となつた。縣會開設と共に最初の議長にもなつた。明治十七年米國に行き、翌年ニユヨークで胃癌で歿した。六十六歲であつた。津浪後窮民に職を與へ、大堤防を築き、學校を建て(後の耐久中學もその一つ)、廣村のためにつくす事一方ならなかつたので、村民感激の餘り、濱口大明神と云ふ神社を建てようとしたが、梧陵翁は許さなかつた。前の歿後勝海舟の筆になつた石碑が建てられた。今和歌山縣會議事堂構内に銅像がある。令息濱口擔[やぶちゃん注:「たん」。]氏が英國留學當時、(ヘルン在世の頃)ロンドンの亞細亞協會で講演をした時、この文章を讀んですでに濱口の名を知つた多數の紳士淑女が、この講演者が濱口の令息である事を發見して、驚喜の餘り、湧くやうな拍手と歡呼を贈つたので、濱口擔氏も意外の面目を施したと云ふ禮狀をヘルン家に送つて居る。梧陵翁のあとは令孫濱口儀兵衞氏(山サ醬油釀造元)である。杉村廣太郞氏著『濱口梧陵傳』ラツド博士著“Rare Days in Japan” 參照。

[やぶちゃん注:サイト「稲むらの火」のこちらの稲垣明男著『「稲むらの火」余聞――八雲宛の礼状が八戸図書館に残っていた――』PDF)でその礼状を見ることが出来る。

「杉村廣太郞氏著『濱口梧陵傳』」大正九(一九二〇)年刊。恐らくそれを簡略化したものと思われる「濱口梧陵小傳」ならば、同じくサイト「稲むらの火」のこちらPDF)で読める。

「ラツド博士著“Rare Days in Japan”」 アメリカの心理学者・教育学者であったジョージ・トランブル・ラッド(George Trumbull Ladd 一八四二年~一九二一年:アメリカの実験心理学に大きく貢献し、また、日本の心理学の基盤を担った人物としても知られる)が一九一〇年に刊行した紀行文集。ウィキの「濱口梧陵」によれば、彼は嘉永五(一八五二)年に同じ醬油製造業者らとともに広村に稽古場「耐久舎」(現在の和歌山県立耐久高等学校)を開設して後進の育成を図ったが、この『耐久舎の伝統は、現在の耐久高校や耐久中学校に受け継がれている。当時の耐久高校は(校長は寳山良雄)、国内に留まらず』、『韓国等からの留学生も受け入れる等』、『革新的な校風であったようで、文部大臣・小松原英太郎や伊藤博文の補佐を勤めたイェール大学教授』『ジョージ・トランブル・ラッド(外国人として初めて旭日勲章を授かる)らの訪問を受けた。ラッドは、当時の広村を訪れた紀行文等を記した』「日本の稀日」を一九一〇年(実際の訪問は明治四〇(一九〇七)年)に『アメリカで出版している』とある。]

 「涅槃」――

[やぶちゃん注:以上はママ。謂い添えることはないということか。だったら書かなきゃいいのに。後に訳者分担表(電子化は省略)が載るのに。

 「人形の墓」は熊本で雇入れた「梅」と云ふ子守の身の上話であつた。その後八年間小泉家に仕へて後鄕里で嫁して幸福に暮らして居ると聞いて居る。「人形の墓」は熊本の習慣、最後に人の坐つたあとの疊をたたいて坐ると云ふのは出雲の俗說である。

 

 『異國情趣と囘顧』は一八九八年ボストンのリッツル・ブラウン會社とロンドンのサムスン・ロウ會社から出版された。へルンがリッツル・ブラウン會社から引續いて四册出版した物の第一册である。その初版は日本風のへちまの圖案のある裝釘の綺麗な書物である。橫濱の醫師ハウル氏に捧呈してある。ただ一篇『帝國文學』に出た「靑色の心理」[やぶちゃん注:訳文(岡田哲蔵訳)では「蒼の心理」である。]を除いて全部新しい物である。

[やぶちゃん注:「橫濱の醫師ハウル氏に捧呈してある」『「異國情趣と囘顧」始動 / 献辞・序』を参照。

「その初版は日本風のへちまの圖案のある裝釘の綺麗な書物である」『「異國情趣と囘顧」始動 / 献辞・序』の冒頭注で画像を掲げてあるので参照されたい。]

 「禪の一問」――

[やぶちゃん注:以上はママ。不審は同前。]

 「月の願」は長男一雄君との問答から始まつて居る、勿論屋根へ上つて竿で月を落す事は日本の昔ばなしから思ひついたのであらう。

 

 『日本お伽噺』[やぶちゃん注:リンクは冒頭の「化け蜘蛛」。]一九〇二年東京、長谷川の出版にかかる繪入りの日本お伽噺叢書の第二十二册から第二十五册までになつて居る物である。

[やぶちゃん注:リンク先の冒頭注で私が述べた通り、全部の収録でないこと、“The Fountain of Youth”(「若返りの泉」)が取り上げられていないことを、何故、言わないのか? 甚だ不審と言わざるを得ない。

 

   大正十五年十月  田 部 隆 次

 

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