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2019/12/28

芥川龍之介 十月二日発火演習記事 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈡〕』に載る「十月二日發火演習記事」に拠った。

 葛巻氏は特に注していないが、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の同篇解説や新全集の宮坂覺氏の年譜によって、本篇は前の「編輯を完りたる日に」等と同じく、明治四三(一九一〇)年二月発行の府立第三中学校学友会の雑誌『淡交會學友會雜誌』第十五号に『五甲 芥川』の署名で載ったもので、同校五年次の明治四十二年十月二日(土曜日)に行われた、同校の「発火演習」(「芥川龍之介作品事典」によれば、『火薬だけを使って』実弾を込めずに『空砲を打つ射撃演習のことであるが、ここでは所謂』、『軍事教練と考えてよいだろう』とある)に参加した際の報告記事である。文中に出る「中隊長」「砂岡豐次郞」というのは無論、軍人ではなく、生徒である。この後に電子化する同月二十二日の発火演習の芥川龍之介の記録では、龍之介自身が中隊長のとして参加している。【 】で括った部分は底本では二行割注で前後に括弧はない。

 それにしても、同誌には実に、芥川龍之介による「義仲論」(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」。以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)・一學期柔道納會「十月二日發火演習記事」「前號批評」「編輯を完りたる日に」が載るというのは「編輯を完りたる日に」で、『本號は投稿の數が極めて多かつた。このすべてを揭載するのは到底不可能な事であつた。止むを得ず、其爲に投稿の全數の約三分の二を此號に揭げる事にした』と言っているのを、やや不快に感じた同誌の読者もいたであろうことは想像に難くはない気がする。少なくとも私ならそう思う。芥川龍之介のそれらが優れた文章群であることは認めるにしても、である。

 

   十月二日發火演習記事

 

○ 南軍靑山を發す。午前七時。十月の光、白秋の空にあふれて、農家の庭にコスモスの紅に咲き亂れたる、蕎麥の花白き畑に農夫の歌の聞ゆる、初秋の思自ら湧くを覺ゆ。軍既に澁谷をすぐれば、稻田の黃なるあなた、落葉せる林の上に國境の山々、紫にそびゆるを見る。

○ 澁谷を去る里餘にして、溫厚沈着の砂岡中隊長、命令を下して曰。

[やぶちゃん注:以下の中隊命令は底本では全体が一字下げで、二行に亙る場合は一字下げとなっているが、行頭まで引き上げ、前後を一行空けた。最後の署名も下三字上げインデントであるが、引き上げてある。]

 

  ○中隊命令 【十月二日午前八時四十分澁谷村西端に於て】

一、情報によれば敵は多摩川二子の渡しを通過しつゝあり。我大隊は敵の渡河を妨害する目的を以て、大山街道を二子方面に派遣せられたり。

一、我中隊は左側衞となり。下馬引澤村方向に出發せむとす。

一、第三小隊前衞、第二第一小隊本隊、本隊は第一小隊長之を指揮せよ。

一、余は前衞と共に行進す。

           中隊長 砂岡豐次郞

[やぶちゃん注:「多摩川二子の渡し」ここ(グーグル・マップ・データ)

「大山街道」大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の内の「青山通り大山道」。ウィキの「大山道」によれば、「矢倉沢往還」の別名で、江戸から大山へ向かう経路上で青山を通ることから、東京都内の一部箇所にて局地的に「青山通り大山道」と呼ばれる。江戸時代には江戸からの参詣道として盛んに利用され賑わった。その経路は赤坂――青山――渋谷――三軒茶屋――二子の渡しで、この演習ルートと完全に一致する。なお、私は大学のある教授の授業で(誰の何の授業だったかは忘れた)、『今の「青山通り」なんてえのは、昔は本当は「大山通り」だったのだが、格好つけて「青山通り」に代えただけだ』と教わった。しかし、ウィキの「青山通り」には、「大山」由来の記事はなく、『江戸時代には厚木街道と呼ばれていた。五街道に次ぐ主要な街道の一つであった』とある。しかし、厚木方面に向かう江戸庶民の大半は「大山詣で」であったはずだから、私は「大山通り」説を今も信じている。

「下馬引澤村」東京都世田谷区下馬。因みに、ここには源頼朝所縁の「葦毛塚」があることで私は知っている。私の『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(1) 「葦毛ノ駒」(1)』を参照されたい。また、三年後の明治四五(一九一二)年の国土地理院図との対比で見られる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを見られよ。「下馬引澤」の旧地名が記されてあり、その北に後に出る「砲兵練兵場」、「駒沢練兵塲」が広がり、その西端には「砲兵旅團司令部」が記されてあるのが判る。

「小岳」不詳だが、前の注の「今昔マップ」を見ると、練兵場東外に「宿山」、その南西に「蛇崩」の地名が認められ、この辺りが、丘陵状になっていた可能性を窺わせる。]

 

 令、既に下り、士氣大に振ふ。再落葉をふみて、林の道を辿れば、露草の花夢の如くさき出たる、戎衣の身にもうれしかりき。

[やぶちゃん注:「戎衣」(じゆうい(じゅうい)」は軍服のこと。この場合の「戎」は兵(つわもの)の意。]

○ すゝみて稻田を橫り、小岳の下に出づれば機を見ること石火の如き宮崎小隊長は、直に斥候を渡して敵情を窺はしめぬ。

○ 機は來れり。宮崎小隊先進み、西川中山の二小隊次いで手に唾して戰機を待ち、令一度下らば將に突破、敵陣を碎かむとす。しかも敵の臆病なる、未一彈を交へざるに悉く退却し、宮崎小隊をして、直に下馬引澤村砲兵練兵場の南端に出でしめたり。我軍既に地の利を得たり。宮崎小隊長の得意や知るべきのみ。

○ 然りと雖も、敵軍豈、空しく退かむ哉[やぶちゃん注:「しりぞかむや」。]。我先鋒、曠野の遠緣に出づると共に敵は、忽扇形の散兵線をひらき一擧にして我軍を破らむとする。砂岡中隊長、是に於て、秋水一閃、宮崎小隊をして、直に敵の中堅にむかはしめ、鳴彈始めて原頭の寂寞をやぶれり。

[やぶちゃん注:「秋水一閃」(しうすいいつせん(しゅうすいいっせん))は「秋水」が「切れ味鋭い研ぎ澄まされたような居合いの名刀」で、その眼にも止まらぬ一振りを言う語で、ここは果敢にして素早い判断を指している。

「原頭」(げんとう)野原のほとり。]

○ 敵亦之に應じて、猛射益急。敵兵の白帽の陰見する、敵將校の長劍の日に輝く、既に我軍の指顧にあり。顧て我軍を望めば、砂岡中隊長、從容として迫らず。中原〔一字不明〕準士官亦莞爾として其傍にあり。將に是サドワ原頭、ビスマークとモルトケとが、相見、相笑つて、墺太利[やぶちゃん注:「オーストリア」。]の竪軍を擊破せるの槪あるもの。我軍の意氣愈昂る。

[やぶちゃん注:「サドワ」一八六六年六月から八月にかけて起こったプロイセン王国とオーストリア帝国との普墺(ふおう)戦争に於いて、七月三日にボヘミア(ベーメン)中部のケーニヒグレーツ(現在はチェコの都市フラデツ・クラーロヴェー)とサドワ村(Sadová /ドイツ語:Sadowa:現在はチェコ)の中間地点で発生した「ケーニヒグレーツの戦い」(ドイツ語:Schlacht bei Königgrätz)が行われた場所。分進合撃(分散した部隊が集中するように機動・攻撃する軍略)に成功したプロイセン軍はオーストリア軍を包囲して決定的な打撃を与え、戦争終結を決定づけた。「サドワの戦い」とも呼ぶ。詳しくはウィキの「ケーニヒグレーツの戦い」を参照されたい。

「ビスマーク」言わずと知れたプロイセン王国及びドイツ帝国の「鉄血宰相」(Eiserne Kanzler)オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen 一八一五年~一八九八年)。

「モルトケ」プロイセン及びドイツ帝国の軍人で軍事学者。「芥川龍之介 一学期柔道納会」に既出既注ウィキの「ケーニヒグレーツの戦い」によれば、『部隊の前進により、プロイセン首脳(ヴィルヘルム』Ⅰ『世、ビスマルク、大モルトケ等)は』六月二十九日に『ベルリンを発して、ギッチン経由で戦場に接近し』、七月三日朝、『プロイセン王太子の率いる第二軍は未着であったが、地勢に有利なクルム高地のオーストリア軍』二十四『万に対し、第一軍とエルベ軍の約』十四『万のプロイセン軍が攻撃を開始し』て会戦、『前夜の雨は上がっていたが』、『泥濘の中で、優勢なオーストリア軍の抵抗にあい』、『プロイセン軍は進むことが出来なかった。特にオーストリア軍左翼に配置されたザクセン王国軍は高所の布陣により』、『プロイセン軍右翼のエルベ軍を苦戦させた』。『午前』九『時から午後』一『時まで』四『時間が経過したが』、『戦局を打開するはずのフリードリヒ』Ⅲ『世王太子の率いるプロイセン軍第二軍は現れず、本営では度重なる救援要請の伝令に観戦していたビスマルクが焦り出したが、葉巻のケースを差し出されたモルトケが、良い葉巻を選り好みしている様を見て「作戦を立てた人間がこれだけ落ち着いておれば大丈夫だ」と安心したという。このとき、ヴィルヘルム』Ⅰ『世も自ら総攻撃を命じようとしたが、モルトケに諫められたという』。『午前中からの戦闘はオーストリア軍が優勢であったが、午後になって約』十二『万人のプロイセン第二軍が戦場に到着し、作戦通りの三方からの包囲攻撃が成立』するや、形勢が『一転し、第二軍が攻撃したオーストリア軍右翼が崩れはじめると、中軍も動揺して退却が始まった。オーストリア軍司令官のベネディクは総予備を投入して一時クルム高地を奪回したが』、『大勢は覆せず、再度陣地を放棄して退却することとなった。プロイセン軍では奪取した高地に砲兵を挙げて退却するオーストリア軍を砲撃するだけでなく、騎兵と歩兵による追撃を続けた。オーストリア軍はエルベ川へ追い落とされて全滅する危機にあったが、砲兵』二百『門と騎兵師団』一『万が殿軍』(でんぐん:しんがり)『となって抵抗し、犠牲になることで退却を助けた』。『こうして戦闘は一方的な結果となり、プロイセン軍の死傷者は』九『千人に留まったのに対し、オーストリア軍の死傷者約』二万四千人、捕虜二万人、大砲の損失百八十七『門を数えた。モルトケはヴィルヘルム』Ⅰ『世に向かって「陛下は本日の戦闘に勝たれたのみならず、今回の戦争にも勝たれました」と言ったという』とある。芥川龍之介の謂いは、まさにその葉巻のシークエンスであろう。

槪[やぶちゃん注:「ガイ」。「おもむき」でもよいが、やはりここは音読みだろう。]

○ 戰酣[やぶちゃん注:「せん、たけなは」。]にして、西川中山兩小隊第一線に加はり、彈を飛ばす雨の如し。敵亦必死 銃火を我に加へ、銃聲地を搖りて拒守益嚴。時に令あり。「交互に着け劍」。

[やぶちゃん注:「敵亦必死 銃火を我に加へ」の字空けはママ。読点なし。]

○ 機既に熟す。然りテルモビレーを陷るべきの機は既に熟す。南軍の勝敗此一擧にあり。忽ち見る、白煙濠々として霧の如くなる中より、砂岡中隊長の長劍、白虹[やぶちゃん注:「びやくこう」と読みたい。]を吐いて、突擊に前への號令下ると共に、健兒一百 蹶然として奔流の如く突進するを。

[やぶちゃん注:「兒一百 蹶然として」の字空けはママ。読点なし。

「テルモビレー」紀元前四八〇年、ペルシャの三百万の大軍に対し、スパルタがレオニダス王以下、僅か四千の兵で戦い、激戦の末にスパルタが全滅した「テルモビレーの戦い」(「ピ」であることに注意)の戦地。世界戦史に於ける代表的玉砕戦として知られる。音写は「テルモピュライの戦い」とも。編集時の誤り、芥川龍之介或いは葛巻氏の判読の誤りともとれる。ウィキの「テルモピュライの戦い」によれば、『テルモピュライは、古くからテッサリアから中央ギリシアに抜ける幹線道路で、峻険な山と海に挟まれた街道は最も狭い所で』十五『メートル程度の幅しかなく、ペルシア遠征軍は主戦力である騎馬部隊を展開することが出来なかった。クセルクセスの命によってテルモピュライに突入したメディア・キッシア連合軍は、大量の戦死者を出しながらも』、『終日に渡って戦ったが、ギリシア軍の損害は軽微なもので、彼らを敗退させることができなかった』。『スパルタの重装歩兵を先陣とするギリシア軍の強さを目の当たりにしたクセルクセスは、ヒュダルネス率いる不死部隊を投入したが、優れた装備と高い練度を誇るギリシア軍を突破できなかった。ギリシア軍は、右手にペルシア軍のものを超える長さ』二・五『メートル以上の長槍、左手に大きな丸盾を装備し、自分の盾で左側の味方を守り、右側の味方に自分を守ってもらうファランクスを形成してペルシアの大軍と戦った。狭い地形を利用したファランクス陣形はまさに無敵であり、ペルシア軍の重圧をものともせずに押し返した。この時のスパルタの戦術は、敵前で背中を見せて後退し、ペルシア軍が追撃してきたところを見計らって向き直り、正面攻撃を行うというものであった』。『翌日もペルシア軍はギリシア軍と激突したが、状況は一向に変わらなかった。ペルシア軍の損害は増える一方で、ギリシア軍を突破する糸口すら見出せなかった。クセルクセスは状況を打開できずに苦慮したが、ギリシア人からの情報によって』、『山中を抜けて海岸線を迂回するアノパイア間道の存在を知り、これを利用してギリシア軍の背後に軍を展開することを命じた。ペルシアの不死部隊は土地の住民を買収し、夜間この山道に入った。この道を防衛していたポキスの軍勢』一千兵『は、ペルシア軍に遭遇すると』、『これに対峙すべく』、『山頂に登って防衛を固めたが、防衛する軍がスパルタ軍ではないことを知ったペルシア軍は、これを無視して間道を駆け降りた』『(一説に拠ると、夜道を登り来る不死部隊を見たポキスの軍勢は自国が襲撃されると思い、守備隊全員が帰国してしまったとも言われる)。夜が明ける頃、見張りの報告によってアノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは作戦会議を開いたが、徹底抗戦か撤退かで意見は割れた。結局、撤退を主張するギリシア軍は各自防衛線から撤退し、スパルタ重装歩兵の』三百人・テーバイ四百人、テスピアイ兵七百人の合計千四百人(又はスパルタの軽装歩兵一千人を加えて二千四百人)は、『共にテルモピュライに残った』。『朝になると、迂回部隊はギリシア軍の背後にあたるアルペノイに到達した。クセルクセスはスパルタ軍に投降を呼び掛けたが、レオニダスの答えは「モーラン・ラベ(来たりて取れ)」であった』。『決して降伏しないスパルタ軍に対して、クセルクセスは午前』十『時頃に全軍の進撃を指示』して、『レオニダス率いるギリシア軍もこれに向かって前進を始めた。それまでギリシア軍は、戦闘し終えた兵士が城壁の背後で休めるように、街道の城壁のすぐ正面で戦っていたが、この日は道幅の広い場所まで打って出た』。『凄まじい激戦が展開され、広場であってもスパルタ軍は強大なペルシア軍を押し返した。攻防戦の最中にレオニダスが倒れ、ギリシア軍とペルシア軍は彼の死体を巡って激しい戦いを繰り広げた。ギリシア軍は王の遺体を回収し、敵軍を撃退すること』、四『回に及び、スパルタ軍は優勢であった。しかし、アルペノイから迂回部隊が進軍してくると、スパルタ・テスピアイ両軍は再び街道まで後退し、城壁の背後にあった小丘に陣を敷いた』。『彼らは四方から攻め寄せるペルシア軍に最後まで抵抗し、槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯で戦った。ペルシア兵はスパルタ兵を恐れて肉弾戦を拒み始めたので、最後は遠距離からの矢の雨によってスパルタ・テスピアイ軍は倒された。テーバイ兵を除いて全滅した。ヘロドトスによれば、この日だけでペルシア軍の戦死者は』二『万人にのぼったとされる』。『この戦いでスパルタ人の中ではアルペオスとマロンの兄弟そしてディエネケスが、テスピアイ人の中ではディテュランボスが特に勇名をはせたという。また、重い眼病によってスパルタ軍のエウリュトスとアリストデモスが一時戦場を去った。エウリュトスは再び戦場に戻って戦って討ち死にしたが、アリストデモスは戦場には戻らず、その時は生きながらえた。翌年のプラタイアの戦いで彼は恥を雪(すす)がんと奮戦し討ち死にした』とある。場所はここ(同ウィキのの地図)。]

○ 步一步。躍一躍。銃劍霜の如く閃いて、遇進する、江河の堤を決するが如し、凛乎[やぶちゃん注:「りんこ」。きりっとして勇ましいさま。りりしいさま。凜然。]として聲あり。「乘込め。」喊聲大に起る。再考あり。「乘込め。」喊聲更に起る。三度聲あり。「突込め。」健兒大呼して劍戟をかざす、敵を去る僅に三十米。創尖相觸れむとして忽に休戰の令下る。

○ 休戰の令既に下る。南北兩軍の豼貅、野に滿ちてしかも野靜なる[やぶちゃん注:「の、しづかなる。]事人無きが如し。時正に十一時四十分。次いで渡邊小川兩先生の講評あり。演習是に終る。

[やぶちゃん注:「貔貅」「ひきう(ひきゅう)」はは伝説上の猛獣の名。一説に「貔」が♂、「貅」が♀ともされる。転じて「勇ましい兵卒」の譬え。]

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