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« 小泉八雲 業の力 (戶澤正保譯) | トップページ | 小泉八雲 保守主義者 (戶澤正保譯) / その「五」・「六」・「七」・「八」/ 保守主義者~了 »

2019/12/15

小泉八雲 保守主義者 (戶澤正保譯) / その「一」・「二」・「三」・「四」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“ A CONSERVATIVE ”。「或る一人の保守主義者」)は来日後の第三作品集「心」(原題“ KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の第十話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。【2025年5月13日:底本変更・正字化不全・ミスタイプ・オリジナル注全補正】時間を経て、国立国会図書館デジタルコレクションに本登録し、現行では、以上の第一書房版昭和五(一九三〇)年十月に刊行した「學生版小泉八雲全集」(全十八巻)の第五巻が、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてある。前掲の底本と本篇の内容は同じものであるが、やはり、外国のサイトのそれを底本とするのは、日本人小泉八雲に失礼であると考えた。されば、こちらで、再度、以下の「心」の作品群を改めて校正することとする。これが――私の小泉八雲への「義」――である。なお、これよりも前の元版の全集等が先行しているものの、私がそれらと比べた結果、実は先行する同社の「小泉八雲全集」のそれらは、訳が一部で異なっており、訳者等によって、かなりの補正・追加がされていることが、今回の正字補正作業の中で、はっきりと判って来た。そうした意味でも――完全な仕切り直しの総点検――が必要であると決したものである。従って、旧前振りの括弧・鍵括弧の問題も、拡大とガンマ補正で確認し、正確を期する。本篇の大標題はここ、本篇本文はここから。

 標題後の添え歌は、ややポイント落ちで、上句九字下げ位置であるが、引き上げ、同ポイントで示した。また、文中の途中に入る注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、前後を一行空けた。

 訳者戶澤正保(底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している)氏については、私の「小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保譯)」の冒頭注を参照されたい。

 なお、本篇は一種のモデル小説であり、そのモデルは本作品集冒頭で本書が献呈されている、雨森信成(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)その人である。再掲すると、彼はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバーの一人で、ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きで』ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis 一八四三年~一九二八年:アメリカペンシルベニア州フィラデルフィア出身の理科教師・牧師・日本学者・東洋学者。ニュージャージー州のオランダ改革派教会系の大学ラトガース大学を卒業したが、同大学で同時期に福井藩から留学していた福井藩士日下部太郎(弘化二(一八四五)年~一八七〇年五月十三日(明治三年四月十三日):卒業二ヶ月前に結核で現地にて急逝)と出会って親交を結び、その縁で来日した。明治四年七月に「廃藩置県」によって十ヶ月滞在した福井藩が無くなったが、翌年、フルベッキや由利公正らの要請により、大学南校(東京大学の前身)に移り、明治七(一八七四)年七月まで物理・化学及び精神科学などを教えた。明治八(一八七五)年の帰国後は牧師となったが、一方でアメリカ社会に日本を紹介する文筆や講演活動を続け、一八七六年には“ The Mikado's Empire ”を刊行している(構成は第一部は日本通史、第二部が滞在記)。以上はウィキの「ウィリアム・グリフィス」に拠った)『が化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師S・R・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『M・N・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のT・A・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友』(八雲より八つ年下)『として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある人物である。

 彼が本篇のモデルであることは、例えば、モト氏のサイト「日本式論」の「小泉八雲『ある保守主義者』」にも記されてある。但し、リンク先は本篇の簡略梗概となっているので、「第一節 ある保守主義者 雨森信成」をお読みになった後は、本篇に戻られ、後の部分は本篇読後に読まれんことをお薦めする。なお、それによれば、平川祐弘氏の「破られた友情――ハーンとチェンバレンの日本理解」(一九八七年新潮社刊)の「日本回帰の軌跡」に彼についての解説が載るらしい(私は未見)。なお、中川智視氏の論文『ある「西洋の」保守主義者 ラフカディオ・ハーンと一九世紀のアメリカ』(PDF)が非常に良い。やはり、読後に読まれたい。

 やや、長い(全八章)ので二分割して示す。]

 

        第十章 保守主義者

 

 あまさかる日の入る國に來てはあれと

           やまと錦の色はかはらし

[やぶちゃん注:原文のローマ字表記に概ね従うと(「きては」は「きてわ」であるが、従わない)、

  あまざかる日の入る國に來てはあれど

     やまと錦の色はかはらじ

である。雨森の欧米遊学から帰還した際の詠歌であろうか。]

 

       

 彼は內地の或る市に生まれた。其處は三十萬石の大名の城下で、外國人の來た事のない處であつた。高祿の武士であつた彼の父の屋敷は、城主の城を繞る濠の外にあつた。屋敷は大分廣く、後ろの方と周圍には、自然の風景を模した庭園があつて、其中に軍神の小さい祠があつた。今から四十年前には、かういふ屋敷が澤山あつたのである。藝術家の眼には、今でも殘つて居る少數のかういふ家屋は、仙女(フエーリー)の宮殿の樣で、其庭園は佛敎の極樂の夢のやうに見ゆる。

[やぶちゃん注:「三十萬石」モデルの雨森の生まれた時の福井藩は、三十二万石であった。石高には推移があるが、。享保六(一七二一)年に支藩松岡藩(福井県吉田郡永平寺町)の再併合により三十万石に復し、文政二(一八一九)年にさらに二万石加増をされている。詳しくは、参照したウィキの「福井藩」を見られたい。]

 併し武士(サムラヒ)の子は當時は嚴酷に訓練された。自分の書かうとする彼にも空想に耽る時間などはなかつた。父母の愛撫を受ける期間は痛ましくも短かつた。袴着の式――當時の大禮――もせぬ中から、出來るだけ乳臭い恩愛の手から引き隱し、子供氣の自然な衝動を制へる[やぶちゃん注:「おさへる」。]樣に敎養された。家庭で母の傍に居られる間だけは、好(すき)な程母に甘へようとも、母に連れられて戶外(そと)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を步んで居るのを見附けられると、『まだ乳を飮むか』などと、遊び仲間からからかはれるのが常であつた。しかも母の傍に居られる時間は決して長くはなかつた。凡て優長な娛樂は敎養上嚴禁されて居た、そして病氣の時の外、衣食の滿足すら許されなかつた。殆ど目が利(き)けだすと直ぐ、義務を生存の指針と考へ、自制を行爲の第一要件と考へ、苦と死とを、一身に取つては輕いものと考へる樣に指導された。

 家庭內の眼につかぬ安居[やぶちゃん注:「あんきよ」。]に於ての外、靑年期の間中、決して弛まない冷やかな沈着を養成しようといふ、此スパルタ的訓練には、更に一層凄い方面があつた。男の子は血を見ることにならされたのである。彼等は死刑の執行を見る爲めに連れ行かれ、そして何等の感動を表はさぬやうに仕込まれた。又歸宅すると、梅干の汁を混(ま)ぜて血の色に染めた飯を十分に喫して、潜んで居る恐怖の念を消すやうに仕向けられた。それよりももつとむつかしい事さへ、幼い男兒に要求せられる事があつた。――例へば、深夜刑場に獨りで行つて、勇氣の證據として、生首を持ち歸ることなどである。武士の間では、死者を恐れることは、生ける人を恐れると同樣に、輕蔑すべきものと考へられたのである。武士の子は何物をも恐れぬと證明されねばならなかつた。その證明に强要される態度は、完全なる冷靜さであつた。空威張[やぶちゃん注:「からいばり」。]も臆病の態度と同樣に擯斥された。

[やぶちゃん注:「擯斥」(ひんせき)は「退けること・除(に)けものにすること。「排斥」に同じい。]

 男の子が生長すると、快樂は重に、武士が不斷の戰爭準備である體力の練習――弓術、乘馬、相撲、劍術等に求めねばならない。遊び相手が幾人か彼の爲めに選ばるる。併しそれは彼よりも年嵩(としかさ)な家來の子で、武術の練習を補助する能力を有せぬばならぬ。彼等は又水泳、小舟の漕法をも敎へて、彼の筋力を發達せしめねばならない。彼は每日の大部分をこんな體育と、支那古典の硏究とに費やさしめらる〻のである。食物は潤澤であつても美味ではない。衣服は儀式の時の外は、薄くて質素である。そして暖を取る爲めに、火を用ふる事は許されぬ。冬の朝稽古に筆が握れぬ程手が冷えると、氷の樣な水に手を突込んで、血行を恢復するやうに命ぜられる。足が寒氣で凍(こご)えると、雪の中を走り𢌞はつて、暖める樣にと命ぜられる。武家特殊の儀禮の訓練は、更に一層嚴であつた。そして彼の帶に挾める小さい刀は、伊達や玩具でない事を早くから敎へられる。又其用ひ方や、武家の掟(おきて)が命ずる時には、びくともせずに、何時でも、直に我が命を斷つ術を敎へられる

 

註 「それは眞實其方の父の首か」と或る領主が七歲になる或る武士の子に問うた。其子は直に事情を推察して仕舞つた、彼の前に据ゑられた斬り立ての首は、實は父の首ではなかつた。領主は騙されて居たのだつた。併し更に騙すのが必要であつた。それで小兒は死せる父に對する樣な悲嘆を表にして、生首を拜した後、次に自分の腹を切つた。其殘酷な孝心の表現で領主の疑は消えた。其間に勘氣を蒙つた父は、首尾克く[やぶちゃん注:「しゆびよく」。]逃げおほせた。此子供の話は日本の劇や歌に今でも仕組まれてある。

[やぶちゃん注:この話、何なのか判らない。ただ、シチュエーションは異なるが、話しとして似ている浄瑠璃「近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)」(近松半二らの合作。明和六(一七六九)年大坂竹本座初演。「大坂冬の陣」を鎌倉時代に移し変えたもの。全九段)の八段目「盛綱陣屋」が似ている。小学館「日本国語大辞典」に拠れば、『主人時政から弟高綱の首実検を命じられた盛綱は、高綱の子小四郎の命を』賭けた『けなげさに感じ入り、にせ首と知りながら高綱の首だと答える』というシークエンスである。以上の実話を御存知の方は、是非、御教授下されたい。]

 

 又宗敎に關しても、武士(サムラヒ)の子の敎育は特殊なものであつた。彼は先づ古神道の神々と、祖先の靈を崇(あが)めることを敎へられ、つぎに支那の經書[やぶちゃん注:「けいしよ」。]を讀ませられ、つぎに又佛敎の哲理と敎義の幾分を敎へられた。併し同時に極樂地獄は、ただ無智の者への寓話で、優越の士は、ただ正道の爲めの正道の愛と、普遍の法則としての義務の會得とに依つてのみ、行ひを正し、卑吝の心を抱くべからざる旨を敎へられた。

[やぶちゃん注:「卑吝」「ひりん」。卑(いや)しくて吝嗇(けち)なこと。]

 少年期から靑年期に移ると、段々彼の行爲は監督を受けなくなる。自己の判斷で行動するの自由が次第に與へられる――併し過失は決して看過されず、重き犯罪は決して恕せられる[やぶちゃん注:「ゆるせられる」。]事はなく、理由(いはれ)ある非難は死よりも恐れねばならぬ、といふことを十分承知の上でである。他の一方に於て、靑年の武士が大いに警戒すべき樣な、道德上の危險は甚だ少かつた。娼妓は多くの地方の城下には嚴禁されて居た。そして小說や劇に反映されて居た樣な、道義に關係のない俗界の俗事にさへ、若い武士は通じて居なかつた。彼は柔弱な情愛とか戀情とかに訴へる小說稗史を、全く男らしからぬ讀物として排斥する樣に敎へられた。それから觀劇も彼の階級には禁ぜられて居た

 

註 武家でも女子は、少くとも多くの地方では、芝居に行くことが出來た。たゞ男子は出來なかつた――行けば武士の作法を破ることになる。併し武士の家庭では、或は屋敷內では、特殊の私的興行が演ぜられることもあつた。其場合には旅稼ぎの役者を雇ふのである。自分は、今迄芝居へ行つた事がないと云つて、觀劇の招待に決して應じない溫良な老士族を多く知つて居る。彼等は今でも武士作法を守つてゐるのである。

 

 かう云ふ譯で、舊日本の善良な地方的生活では、若い武士は類稀なる[やぶちゃん注:「たぐひまれなる」。]純心純情の人となる事が出來た。

 

 自分が描き出さうとする若い靑年武士も、此の[やぶちゃん注:「かくの」。]如くに生ひ立つたのである――勇敢にして禮儀正しく、克己心に富み、悅樂を排し、そして、愛の爲め忠義の爲め名譽の爲めには、卽座に一命を捨つるを辭せざる男となつたのである。併し體骼と精神に於ては、既に一角[やぶちゃん注:「ひとかど」。]の武士ではあつたが、まだ年齡に於ては殆ど子供に過ぎなかつた。其頃の事である、初めての黑船の來舶で國を擧げて驚倒する椿事が起こつたのは。

[やぶちゃん注:アメリカ合衆国海軍代将マシュー・ペリー率いる同国海軍「東インド艦隊」の蒸気船二隻を含む艦船四隻が浦賀(現在の神奈川県横須賀市浦賀)沖に来航した「黒船来航事件」は、嘉永六年六月三日(グレゴリオ暦一八五三年七月八日)に発生した。艦隊は浦賀に停泊、一部は「測量」と称して江戸湾奥深くまで侵入した。結局、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の「日米和親条約」締結に至ることになった。しかし、この年、モデルの雨森は、数え六歳に過ぎず、以上の最終行の謂いには、齟齬する。八雲による四、五歲増しの創作が加えられている。]

 

       

 海外に航する者は死に處すといふ家光の政策は、二百年の間、日本國民をして外國の事に全く無智ならしめた。海の彼方に發展しつつあつた巨大な强国に就ては、何も知られてなかつた。長崎には蘭人の居留地が永らく存在して居たが、日本の眞の地位――十六世紀式の東洋の封建制度が、三百年の先輩なる西の世界に壓迫されて居る狀態――に就ては何等啓發せしめる處がなかつた。其西の世界の驚くべき實況は、話して聞かせても日本人の耳には小兒を喜ばせる爲めの作り話の樣に聞こえたであらう、若しくは蓬萊宮の昔噺と一緖に考へられたであらう。『黑船』と呼ばれた米國艦隊の來舶に至つて、初めて政府は自國の防備の手薄さと、外患の切迫とに目を覺ましたのであつた。

 やがて第二次の黑船來航の報道に依る國民の興奮は、間もなく幕府の外國と戰ふの力なきことの暴露に依る驚愕に伴なはれた。これは北條時宗の時の蒙古來襲よりも、更に大なる危險の迫つた事を意味するに外ならない。蒙古の時は國民は神助を神に祈り、天子も親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]伊勢の大廟で、祖先の靈に擁護を乞うたのであつたが、其祈りは聽き屆けられ、天地晦蒙、雷鳴電閃、神風[やぶちゃん注:原文は“the coming of that mighty wind still called Kami-kaze,—"the Wind of the Gods," ”であるから、「かみかぜ」と訓読みしてよい。]吹き起こつて、忽[やぶちゃん注:「たちまち」。]必烈[やぶちゃん注:「クビライ」。元王朝初代皇帝。]の艦隊は沈沒せしめられた。此度[やぶちゃん注:「このたび」。]とても、神助を乞ふ祈禱の捧げられぬ筈はなかつた。事實無數の家庭、幾千の神社で祈禱が行はれた。併し此度は神々も應じない、神風は起こらなかつた。我が主人公の少年武士も、父の庭內にある八幡の小さい祠に祈つたが、しるしがないので、神々も力を失つたか、或は黑船の異人は、より强い神々の擁護の下にあるかと疑つた。

[やぶちゃん注:「天子も親ら伊勢の大廟で、祖先の靈に擁護を乞うた」但し、ウィキの「亀山天皇」によれば、『院政中には』二『回の元の対日侵攻(元寇)が起こり、自ら伊勢神宮と熊野三山』『で祈願するなど積極的な活動を行った(当時の治天であった亀山上皇か、天皇位にあった後宇多天皇の父子いずれかが「身を以って国難に代える祈願」を伊勢神宮に奉った。父子のどちらにその祈願を帰すべきかは、大正年間に学者の間で大論争を呼ん』だが、『いまだ決着のつかない問題である)』とあった。]

 

       

 間もなく、夷秋は驅逐されぬに決定した事が明らかになつた。彼等は西からも東からも、幾百人となく入り込んで來た。そして彼等を保護するあらゆる手段が講ぜられた。彼等は日本の土地に、彼等自身の珍妙な市街を建てた。政府は更に、凡ての學塾に於ては、西洋

 

註 德川幕府。

 

の學問を學ぶべきこと、英語の講習は公敎育の重要課程たるべきこと、公敎育其者[やぶちゃん注:「そのもの」。]も、西洋流に改造せらるべきことを命令した。政府は猶ほ國家の將來は、懸かつて外國の國語と科學との、硏究練達にあるべきことを宣言した。卽ち此等の硏究が良好な結果を生み出す迄の間は、日本は實際上外人の支配に委ねられるといふ譯である。尤も事實はかう宣言せられた譯ではないが、此政策の歸着する所は明らかであつた。此事情が分かつた爲めに起こつた猛烈な感動の後に――民衆の大沮喪、武士の制へ附けた憤激[やぶちゃん注:“the suppressed fury of the samurai”。「武士階級の激怒」。]の後に――强い好奇心が起こつた。それは優勢な武力を見せただけで欲するものを得ることの出來た、無禮な外人の外貌性格に就てであつた。此一般的な好奇心は、夷狄の風習と居留地の異樣な市街を圖にした、安價な彩色版の大量な刊行と配付とに依つて、幾分か滿足せしめられた。外人の眼には其のけばけばしい木版畫は、諷刺畫(カリカチユア)としか見えなかつた。併し畫工の目的は、決して諷刺畫の積りではなかつたのである。彼は實際彼の眼に映つた通りに描かうと試みたのであるが、眼に映つた處は、猩々の樣な赤い毛の生えた、天狗の樣に鼻の高い、變痴奇[やぶちゃん注:「へんちき」。「へんてこ」に同じい。主に歌舞伎批評で明治期に生まれた語のようである。]な形と色の衣服を着、倉庫か牢屋の樣な建物に住んで居る、綠眼の怪物であつたのである。國內に幾百千と賣られた此等の版畫は、色々の不思議な觀念を與へたに相違ない。併し見馴れぬものを描き出さうとする試みとして、決して惡意あるものではなかつた。我々が其頃の日本人の目にどういふ風に映つたかといふ事――いかに醜惡に、怪奇に、滑稽に見えたかといふのを了解する爲めには、此等の古版畫を硏究するがよい。

 城下の若武士達は、問もなく西洋人を見る機會を得た。それは藩侯に依つて、彼等の爲めに召し抱へられた敎師で英國人であつた。彼は藩兵に護衞せられて來た。そしても士として彼を厚遇せよとの命が下つた。彼は木版畫の外國人の樣に、全く醜くはなかつた。尤も毛は赤く眼の色は變つて居た。併し顏はさういやな顏ではなかつた。彼は直に倦まざる觀察の目標となり、又永くさうであつた。どれ程彼の一擧一動が注視せられたかは、西洋人に關する明治以前の珍妙な迷信を知らぬ者には推察されない。西洋人は知的で恐ろしい動物とは考へられたが、一般に普通の人間とは思はれなかつた。彼等は人間よりも、寧ろ動物に近いものと考へられた。彼等の身體は毛深く珍奇な形態を有し、齒は人間の齒とは異り、内臟は特殊なもので、道念[やぶちゃん注:「だうねん(どうねん)」。道義心。]は動物の道念であると考へられた。武士(サムラヒ)はさうでもないが、民衆が外人を見て畏懼したのは、形態上からではなく、迷信からの恐怖であつた。日本人は農民でも決して臆病ではなかつたのである。併し彼が當時の外人に對する感情を知るには、日本兩國に共通であつた、超自然力を備へて、人間の形態を裝ひ得る動物に就て、又は半人半神の動物の存在、又は古い繪本にある荒唐な動物――脚の長い、手の長い、そして髯のある怪物(足長手長)で[やぶちゃん注:原文“—goblins long-legged and long-armed and bearded (ashinaga and tenaga) ”。]、怪談の挿畫に描かれたり、或は北齋の筆で滑稽に描かれたりして居るものに就ての、古い信念を若干知悉することを要する。實際新來の異人等の容貌は、支那のヘロドタス[やぶちゃん注:歴史家の換喩。]に依つて語られた架空談に確證を與ふる樣に見え、彼等が着けた衣服は、人間ならぬ部分を隱蔽する爲めに、考案された樣に思はれたのである。それで新來の英國人敎師は、幸にも、自分は其事實を知らずに居たが、珍獸を觀察する樣な態度で內々觀察されて居た。それにも拘らず、學生からはただ鄭重に禮遇されて居た。彼等は『師に對しては影を蹈むこともならぬ』と敎ふる支那の經典に從つて彼を遇した。兎に角武士(サムラヒ)の學生には、師が苟くも敎へ能ふ[やぶちゃん注:「あたふ」。]限りは、其完全に人間たると否とは問題でなかつた。義經は天狗から劍法を授けられたのである。其外、人間ならぬ者が學者であり、詩人であつた例がある

[やぶちゃん注:「足長手長」「あしながてなが」。中国及び日本に伝わる妖怪。一種のみでなく、足長人と手長人という人形怪人二種を指す総称。ウィキの「足長手長」を引く。『足長人は「足長国」の住民、手長人は「手長国」の住民。その名の通り、それぞれ脚と手の長さが』、『体格に比較して非常に長いとされる。海で漁をする際には、常に足長人と手長人の』一『人ずつの組み合わせで海へ出て、足長人が手長人を背負い、手長人が獲物を捕らえるという』。『これらの存在は、中国の古代の』幻想地誌である「山海經」(せんがいきょう)に『記されている長股(ちょうこ)』・『長臂(ちょうひ)という足の長い・手の長い異国人物の伝説が起原であると考えられている』。明の『王圻』(おうき)とその次男王思義『が編纂した中国の類書』(百科事典)「三才圖會」(全百六巻。一六〇九年成立)にも出、その記述等をもとに医師寺島良安によって江戸時代中期の正徳二(一七一二)年頃に成立した「和漢三才圖會」では巻第十四「異國人物」に「足長」が「長脚(あしなが)」、「手長」が「長臂(ちやうひ)」として所載し、それぞれ脚の長さは一丈余(一丈は三・〇三メートル。実は「三才圖會」では前者が二丈、腕の長さが二丈とするのを、良安は「難信」(信じ難し)として、孰れも「謂丈餘而可矣」(丈餘と謂ひて可ならん)と訂している)。『また、長脚人が長臂人を背負って海で魚を捕るということも記されており』(「長脚」の条に「三才圖會云長脚國在赤水東其國人與長臂國近其人常負長臂人入海捕魚」(「三才圖會」に云はく、『長脚國、赤水の東に在り。其の國人、長臂國と近し。其の人、常に長臂人を負ひ海に入りて魚を捕る』)とある(続く後半を略した)。以上は所持する「和漢三才圖會」原本に拠って私が書いた)、『日本ではこれを画題とした絵画が御所の中に設置されている「荒海障子」(あらうみのしょうじ)にも描かれている』。室町時代の「塵添壒囊抄」(じんてんあいのうしょう:行誉らによって撰せられた百科辞書「塵添壒嚢鈔」には、『中国の王宮には奇仙・異人・仙霊のあやしき人といった画題の絵画を描く風習があったというので』、『それにならって我が国の皇居の荒海障子も描かれたのでは無いだろうかと記してある』。『また、中世ころの仏教説話では龍宮に足長と手長が存在してるという物語があったようで、そこでは龍王の眷属として登場している』。江戸時代にも『風来山人(平賀源内)の戯作』「風流志道軒傳」(卷四)『には足長と手長が登場して』おり、『挿絵にも描かれており、そこでもやはり足長人が手長人を背負っている』。『また、葛飾北斎、歌川国芳、河鍋暁斎といった画家が戯画などに描いているほか、都市部などで興業がおこなわれていた生人形(いきにんぎょう)の題材としても取り扱われ、製作されていた』(引用先に画像有り)。また、『江戸時代に書かれた松浦静山による随筆』「甲子夜話」の「卷之廿六」の第六条目の「平の海邊にして長脚を見る事」には(原本を確認して追記した。【追記】後年、『甲子夜話卷之二十六 6 平戶の海邊にて脚長を見る事』を電子化注したので見られたい)、『平戸のある武士が月の綺麗な夜に海で夜釣りをしていたところ、九尺』許り(二メートル七十三センチほど)の『脚を持つ者が海辺をさまよっており、ほどなく天候が急転して土砂降りに遭ったという逸話が語られている。その者の従者の語るところによれば、それは足長(あしなが)と呼ばれる妖怪で、足長が出没すると必ず天気が変わるとされている』。「甲子夜話」の『原文では前半に』先の「和漢三才圖會」の『文を引いて長脚と長臂について述べているが、この平戸に現われた「足長」は特に俗にいわれる中国の伝説にもとづいた「足長手長」と同一のものであるわけではなく、足の長い点から「足長」と呼ばれているもので、「手長」のようなものも付き添っていない』とある。また、本邦のそれについては別に独立したウィキの逆転した巨人異人或いは鬼神「手長足長」があるので、それも引いておく。『手長足長(てながあしなが)は、秋田県、山形県、福島県、長野県、福井県などに伝わる伝説・昔話に登場する巨人』異人。『その特徴は「手足が異常に長い巨人」で各地の伝説は共通しているが、手足の長い一人の巨人、または夫が足(脚)が異常に長く妻が手(腕)が異様に長い夫婦、または兄弟の巨人とも言われ、各地で細部は異なることもある。手の長いほうが「手長」足が長いほうが「足長」として表現される』。『秋田では鳥海山に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていた。鳥海山の神である大物忌神』(おおものいみのかみ)『はこれを見かね、霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされる』。『それでも手長足長の悪行は続いたため、後にこの地を訪れた慈覚大師』円仁『が吹浦』(現在の山形県の鳥海山大物忌神社)『で百日間』、『祈りを捧げた末、鳥海山は吹き飛んで手長足長が消え去ったという』。『また消えたのではなく、大師の前に降参して人を食べなくなったともいわれ、大師がこの地を去るときに手長足長のために食糧としてタブノキ』(クスノキ目クスノキ科タブノキ属タブノキ Machilus thunbergii :八~九月頃、球形で黒い果実が熟す。果実は直径一センチほどで、同じクスノキ科 Lauraceae のアボカドに近い味がする)『の実を撒いたことから、現在でも三崎山にはタブノキが茂っているのだという』。『福島の会津若松に出現したとされる手長足長は、病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま。磐梯山の古名)の頂上に住み着き、会津の空を雲で被い、その地で作物ができない状態にする非道行為を行い、この状態を長期にわたり続けたという。その地を偶然訪れた旅の僧侶がことの事情を知り、病悩山山頂へ赴き、手長足長を病悩山の頂上に封印し、磐梯明神として祀ったとされている』。『このことをきっかけに、病悩山は磐梯山と改められ、手長足長を封印した旅の僧侶こそ、各地を修行中の弘法大師だったと言われている』。『福井の雄島にある大湊神社には、安島に最初に住んでいたのが手長と足長だったと伝わる。足長が手長を背負って海に入り、手長が貝』『をその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという』。『上記のような荒ぶる巨人としての存在とは別に、神・巨人・眷属神としての手長足長、不老長寿の神仙としての手長足長もみられる』。『室町時代に編纂された』「大日本國一宮記」(だいにほんこくいちのみやき:日本国内の一の宮の一覧)に『よると、壱岐(長崎県)では天手長男神社が国の一の宮であった』『とされ、天手長男(あめのたながお)神社と天手長比売(あめのたながひめ)神社の』二『社が存在していた』。『長野の上諏訪町(現・諏訪市)では、手長足長は諏訪明神の家来とされており』、『手長と足長の夫婦の神であるといわれ、手長足長を祀る手長神社、足長神社が存在する』。『この二社は記紀神話に登場している出雲の神である奇稲田姫(くしなだひめ)の父母・足名稚(あしなづち)と手名稚(てなづち)が祭神とされているが、巨人を祀ったものだという伝承もある』。『また、建御名方神』(たけみなかたのかみ)『が諏訪に侵入する以前に、諏訪を支配していた神の一つで、洩矢神』(もれや(もりや)のかみ)『と共に建御名方神と戦ったとされる』。『これら社寺に関連する「てなが(手長)」という言葉について柳田國男は、給仕をおこなう者や従者を意味していた中世ころまでの「てなが」という言葉が先にあり、「手の長い」巨人のような存在となったのは後の時代でのことであろうと推論している』。「大鏡」(十一世紀末成立)の第三巻の「太政大臣伊尹(これただ/これまさ)」(藤原伊尹(延長二(九二四)年~天禄三(九七二)年:平安中期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣藤原師輔の長男))伝には、硯箱に『蓬莱山・手長・足長などを金蒔絵にして作らせたということが記されており、花山院』(十世紀末)『の頃には、空想上の人物たる手長・足長が認知されていたことがわかる。これは』先に出た王圻の「三才圖會」などに『収録されている中国に伝わる長臂人・長股人(足長手長)を神仙図のひとつとして描くことによって天皇の長寿を願ったと考えられる』。『天皇の御所である清涼殿にある「荒磯障子」に同画題は描かれており、清少納言の』「枕草子」(第二十段)にも、既に『この障子の絵についての記述』(「淸涼殿の丑寅(うしとら)の隅の、北の隔てなる御障子(みさうじ)は、荒海の繪(かた)生きたるものどもの恐ろしげなる手長、足長などをぞ描(か)きたる、上(うへ)の御局(みつぼね)[やぶちゃん注:弘徽(こき)殿。]のをおしあけたれば[やぶちゃん注:いつも開けっぱなしにしているので。]常に目に見ゆるを、にくみなどして笑ふ。」)『が見られる』。『物語文学のひとつである絵巻物』「宇治橋姬物語繪卷」には、『主人公のひとりである中将を取り囲んで現われる異形の存在(「色々の姿したる人々」)として、みるめ・かぐはな・手なが・あしながという名が文章上では挙げられている』。『岐阜県高山市の飛騨高山祭の山車装飾、市内の橋の欄干の彫刻など手長足長のモチーフが多く見られ』、『これは嘉永年間』(一八四八年~一八五五年)『の宮大工が彫刻を手名稚と足名稚として高山祭屋台に取り付けたものが由来』『とされている。手長足長に神仙としてのイメージと、』「山海經」(せんがいきょう)や『浮世絵などの絵画作品を通じての異民族・妖怪としてのイメージ、双方からのイメージが江戸時代後期には出来上がっていることがわかる』とある。]

 

註 かういふ話がある。菅原道眞(今天神として祀らるゝ)の師であつた、 大詩人都良香が、京都の御所の羅生門[やぶちゃん注:原文はちゃんと“Ra-jo-mon”なのであるから、正しく「羅城門」と訳すべきところである。]を通る時、丁度其時浮かんだ詩の一句を高らかに誦した――氣霽れて[やぶちゃん注:「はれて」。]風新柳の髮を梳る。[やぶちゃん注:「けづる」。]――すると直に門內から重い嘲る樣な聲が唱和して云つた――氷融けて波舊苔鬚を洗ふ――都良香は見𢌞はしたが誰も居ない、家に歸つて弟子達に顚末を告げて、二句を反復唱へて聞かした。すると菅原道眞は第二句を讃めて[やぶちゃん注:「ほめて」。]曰つた――「實に第一句は人語である。併し第二句は鬼語である」と。

[やぶちゃん注:「都良香」(みやこのよしか 承和元(八三四)年~元慶三(八七九)年)は貴族で文人。主計頭(かずえのかみ)都貞継の子。最終官位は文章博士(もんじょうはかせ:大学寮紀伝道の教官(令外官)。文章生に対して漢文学及び中国正史などの歴史学を教授した。唐名は翰林学士)従五位下・大内記・越前権介。ウィキの「都良香」によれば、『清和朝初頭の』貞観二(八六〇)年、『文章生に補せられ』、『文章得業生を経て』、貞観十一年に『対策に及第し、翌』貞観一二(八七〇)年、『少内記に任官』した。『同年に菅原道真が対策を受験した際、その問答博士を務め』ている(この事蹟から小泉八雲の「師」という表現は正しい)。また、その翌貞観十三年の太皇太后『藤原順子の葬儀に際して、天皇が祖母である太皇太后の喪に服すべき期間について疑義が生じて決定できなかったために、儒者たちに議論させたが、良香は菅原道真と』とも『に日本や中国の諸朝の法律や事例に基づき、心喪』五『ヶ月・服制不要の旨を述べた』。貞観一四(八七二)年には式部少丞・平季長と』とも『に掌渤海客使』(渤海使の接待係)『を務める一方、自ら解文を作成して言道(ことみち)から良香への改名を請い、許されている』。貞観一五(八七三)年、『従五位下・大内記に叙任され』、貞観一七(八七五)年『以降は文章博士も兼ねた』。貞観十八年に『大極殿が火災に遭った際、廃朝』(天皇が服喪や天変地異などのために朝務に臨まないこと。但し、諸官司の政務は平常通り行われる)『及び群臣が政に従うことの是非について、明経・紀伝博士らが問われた際、良香は同じ文章博士の巨勢文雄と』とも『に、中国の諸朝において』、『宮殿火災での変服・廃朝の例はないが、春秋戦国時代の諸侯では火災に対して変服・致哭の例があることから、両者を折衷して廃朝のみ実施し、天皇・群臣は平常の服を変えるべきでないことを奏し、採用されている』。『陽成朝初頭の』元慶元(八七七)年には『一族の御酉』(みとり)らとともに『宿禰姓から朝臣姓に改姓した』。『詩歌作品を作る傍ら』、『多くの詔勅・官符を起草し』、貞観一三(八七一)年より編纂が開始された「日本文德天皇實錄」にも関与したが、完成する前』享年四十六で逝去した。『漢詩に秀で歴史や伝記にも詳しく、平安京中に名声を博していた。加えて立派な体格をしており』、『腕力も強かった。一方で貧しくて財産は全くなく、食事にも事を欠くほどであったという』。家集に「都氏文集」があり、『詔勅や対策の策問などの名文がおさめられている。漢詩作品は』「和漢朗詠集」・「新撰朗詠集」などに入集しており、勅撰歌人でもあって、「古今和歌集」に一首が収められてある。また、各種の伝承を記した』「道場法師傳」・「富士山記」・「吉野山記」等の作品もある。「富士山記」には『富士山頂上の実情に近い風景描写があ』り、『これは、良香本人が登頂、または実際に登頂した者に取材しなければ知り得ない記述であり、富士登山の歴史的記録として重要である』。『漢詩にまつわる説話が複数伝えられており、後世においても、漢詩人として評価されていたことが窺われる』。『ある人』(ここで小泉八雲が言っている本人ではない)『が羅城門』『を通った時に、良香の詠んだ漢詩を誦したところ、門の鬼が詩句に感心したという』(「江談抄」「本朝神仙傳」)。『良香が晩夏に竹生島に遊んだ際に作ったという「三千世界は眼前に尽き。十二因縁は心裏に空し。」の下の句は竹生島の主である弁才天が良香に教えたものであるという』(「江談抄」)。『また、活躍時期がやや異なるにもかかわらず、良香と菅原道真が一緒に登場する説話・逸話が見られる』。『良香の家で門下生が弓遊びをしていた際、普段勉学に追われていることから』到底、『うまく射ることはできないであろうと道真に弓を射させてみたところ、百発百中の勢いであった。良香はこれは対策及第の兆候であると予言し、実際に道真は及第したという』(「北野天神緣起」)。『菅原道真に昇進で先を越されたことから、良香は怒って官職を辞し、大峰山に入って消息を絶った』。百『年ほど後、ある人が山にある洞窟で良香に会ったところ、容貌は昔のままで、まるで壮年のようであったという』(「本朝神仙傳」)。なお、ここで澤が示している漢詩は表記がおかしく、

氣霽風梳新柳髮 氷消浪洗舊苔鬚  都

 氣 霽(は)れては 風 新柳の髮を梳(けづ)る

 氷 消えて 波 舊苔(きうたい)の鬚(ひげ)を洗ふ

で、「和漢朗詠集」上の「早春」に御覧の通り、良香の詩句として載るものである。孰れも擬人法を用いたもので、事実、古来より賞讃され、二句目は鬼神の作と呼ばれた。

 

 併し禮節の假面を少しも外づさずに、外人敎師の習性は精細に視察された。そして其視察を比較しあつて、出來た最終の判斷は全く喜ばしいものではなかつた。敎師自身は兩刀手挾んだ弟子達から、己れにどんな評釋が下されたかは夢想だも爲し得なかつた。又敎室で作文を監督して居る中に、つぎのやうな會話の行はれて居るのを了解し得たとて、彼[やぶちゃん注:ここ以下では、この第「三」章の終りまで「彼」(かれ)は外人教師を指す。]が心の平和は增進される事はなかつたらう――『彼(あ)の肉の色を見給へ、柔らかさうではないか。造作もなく一擊で首は落ちるだらう』

 或る時彼は、彼等の相撲の取り方を試みさせられた。それはただ慰みの爲めと彼は想像した。併し實は彼等が彼の體力を測る企てであつた。そして彼は力士として高い評價を贏ち[やぶちゃん注:「かち」。「勝ち」に同じい。]得なかつた。『腕は確に强い』一人が云つた。『併し腕を使ふ時、身體(からだ)の使ひ方を知らぬ。そして腰が甚だ弱い。片附けるのに骨は折れぬ』

 『外國人と』他の一人が云つた。『戰ふのは樂だと僕は思ふ』

 『劍で戰ふのは樂だらう』も一人[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]が答へた。『併し彼等は鐡砲や大砲の使用法は、我々よりも上手だよ』

 『我々だつて上手になれるさ』最初の一人が云つた。西洋の戰法を習つて仕舞へば洋兵は恐る〻に足らん』

 『外人は』はも一人が云つた。『我々の樣に丈夫でない。直ぐ疲れる、そして寒氣に弱い。我々の先生も冬中室にどつさり火をおこして置くぢやないか。我々は五分間も其處に居ると頭痛がして來る』

 

 こんな事があるにも拘らず、若者等は敎師に對しては親切であつたので、敎師も彼等を愛した。

 

       

 大地震の樣に、豫告なしに大變事が起こつた。大名制度は郡縣制に變更される、武士階級は癈止される。全社會組織が改造される事になつた。我が靑年武士は、敢て忠勤を領主から天子に移すを困難とも思はず、又彼[やぶちゃん注:ここでは戻って主人公の青年を指す。]の一家の富は、此瓦解の爲めに損はれることもなかつたが、此出來事は彼の心を悲痛に滿たしめた。彼は此改變に依つて國家の危機の大なることを知り、又古來の高い理想と、あらゆる大切と考へた物の消滅を感じた。併し徒に懊惱することの無益な事をも知つた。今は自己改造に依つてのみ國民は其獨立を救ひ得る。國家を愛する者の明瞭な義務は、此必要を認め、將來の舞臺に男らしい演出を見せる爲めに、己れを適當に訓練するに在る。

 武士の學校で、彼は大いに英語を學び、どうやら英人と話し得る自信を得た。そして長い髮を切り、兩刀を棄て、英語の稽古を、有利な狀況の下に繼續する爲めに、橫濱に出た。橫濱では凡てが見馴れ聞き馴れぬ物だらけで、初めは不快の感を懷いた。日本人さへ其處では外人との接觸で變つて居た。皆が皆野鄙で粗豪[やぶちゃん注:「そがう(そごう)」。荒っぽく、猛々しいこと。]で、彼の故鄕では平民もせぬ樣な言動を平氣でして居た。外國人に至つては、更に不愉快な感を與へた。折しも新居留民は、被征服者に對する征服者の態度を取り得た時で、開港場の生活は、今日よりずつと放慢であつた。煉瓦や漆喰塗りの木造建築物は、例の彩色版の異國風習圖の、不愉快な思ひ出を新たにした。そして西洋人に關する少年時代の空想を、容易く拂ひ退ける事が出來なかつた。廣い知識と經驗に基礎を置いた理性は、十分に彼等の何者たるかを理解したが、感情の上からは、彼等も同じく人類であるといふ感がしつくりと起こらなかつた。人種的感情は知力の發展よりも古い、そして人種感に伴なふ迷信は容易に取り除き難い。其上彼の武士魂も、時に見るもの聞くものの醜惡さに搔き立てられる――强さを挫き弱きを助けようといふ、父祖傳來の熱血を湧き立たせる出來事が多かつた。併し彼は知識の妨害物として、こんな反感を征服しようと努めた、國家の敵の眞相を靜かに攻究するのは、愛國者の義務であつたから。彼は遂に偏見なしに周圍の新生活を觀察するやうに自己を訓練した――其缺點と同樣に其美點をも、其短處と同樣に其長處をも。すると、彼は其處に仁愛を發見した、理想への憧憬をも發見した――其理想は、彼自身の理想とは異つて居るが、彼の祖先の宗敎と同樣に、幾多の戒律を要求するので、尊敬すべきものであることを知つた。

 此了解から、彼は敎育と敎化の事に沒頭して居る、一人の老牧師を愛し且つ信ずるに至つた。其老宣敎師は此若き武士には非凡な適合性があるのを見拔いたので、特に彼を改宗せしめたいと思つた。そして彼の信賴を得る爲めの勞を惜しまなかつた。彼は何くれと彼を助け、佛蘭西語、獨逸語、希臘語、拉典語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]までも少しづつ敎へた上に、可なり大量の書籍を悉く彼の自由閲讀に提供した。歷史、哲學、旅行記、小說を含む外國の書籍を涉獵することは、日本の學生に取つて容易に得られぬ特權であつた。彼は感謝を以て之に酬いた。それで書籍の所有主は後に苦もなく此祕藏弟子に、『新約全書』の一部を讀ませることに成功した。若者は『邪宗』の敎義の中に、孔子の說に似たる道義を發見し、驚嘆した。彼は老宣敎師に向つて云つた。『これは我々には新しい事ではありません、確に善い敎です。私はこれから此本を讀んで、そして熟考しませう』

 

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