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« 小泉八雲 旅行日記より (石川林四郎訳) | トップページ | 小泉八雲 戦後雑感 (石川林四郎訳) »

2019/12/10

小泉八雲 阿彌陀寺の比丘尼 (石川林四郞譯)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“THE NUN OF THE TEMPLE OF AMIDA”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)及びロンドンの「オスグッド・マッキルベイン社」(OSGOOD, MCILVAINE & CO.)から出版)の第五話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎については、『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳) / その「一」』の私の冒頭注を参照されたい。

 原注及び訳者注は、底本ではポイント落ちで全体が五字下げであるが、行頭まで引き上げ、注群は前後を一行空けた。

 なお、諸資料によれば、本篇は島根県松江市上東川津町にある標高三百三十一メートルの嵩山(だけさん)(国土地理院図)に纏わる伝承がもとであるという。個人サイト「おしどり登山隊の山便り・風便り」のこちらの画像を読む前に見ておかれるのも、一興か、と存ずる。]

 

      第五章 阿彌陀寺の比丘尼

 

       

 お豐の夫は遠緣の者で、好いた同志で婿に來たのであるが、彼が領主に呼ばれて京へ出た時は、お豐は末の事など案じはしなかつた。唯だ悲しいばかりであつた。二人が一緖になつてから、斯うして離れて暮らすのは初めてであつた。然し父や母[やぶちゃん注:原文に拠ればお豊の実父母である。]も一緖にゐるし、またそれとは人には愚か我が心にさへ明かしはすまいが、誰れよりも可愛い、いたいけな男子があつた。その上いつも用事の多い體であつて、家の事もせぬばならぬし、絹や木綿の着料を織る仕事もあつた。

[やぶちゃん注:「またそれとは人には愚か我が心にさへ明かしはすまいが、」奇体な日本語である。“― though she would never have confessed it even to herself, —”で、「また、それを彼女は自身でさえおくびにも出さなかったけれども」の謂いである。]

 每日定めの時刻に、お豐は出てゐる夫の爲めに、お馴染みの座敷へ、可愛い漆塗りの膳に何もかも調へた少量の食事(先祖の靈前や神棚に供へる樣な眞似事の食事)を据ゑた。此食事は座敷の東側に供へられ、主人の座蒲團が其前に敷かれた。東の方に据ゑた譯は主人が東の方へ旅立つたからである。食事を下げる前に、お豐はいつも小さい椀の蓋を取つて見た。それは漆塗りの蓋の内側に湯氣がついてゐるかどうか見るためで、出した吸ひ物の蓋の内側に湯氣がかかつてゐれば、出てゐる人が無事だといふからである。若し湯氣が見えなければ其人は死んてゐる、それは其人の靈魂が食物を求めて歸つて來た徵である、と云ふのである。お豐は每日每日漆塗りの蓋に湯氣の珠が厚くかかつてゐるのを見た。

 

註 斯うして愛する不在者の靈に供へる食事を「かげぜん」(影の盆の義)と云ふ。『膳』といふ語は小さい卓子の樣な脚のある漆塗りの盆に載せた食事を指すにも用られる。それ故「影の御膳」といふ愈味に英譯するが「かげぜん」の適譯であらう。

 

 かの幼兒はいつも側に居る喜びの種であつた。滿三歲で、神々でなければ本當には答へられぬ樣な問をかけるのが好きであつた。この兒が遊びたいと言へば、お豐は仕事を措いて相手をした。子供が休まうとすれば、お豐は面白い話をして聞かせたり、誰れも到底分からない樣な事柄に就いて子供の問ふがままに、可愛い敬虔な返答をしたりする。夕方佛壇や神棚に小さい燈明が上がると、まはらぬ舌に父親の無事を祈る言葉を敎へた。子供が寢つくと側に針仕事を持つて來て寢顏の愛らしもを見戍つた[やぶちゃん注:「みまもつた」。]。時によると夢を見てにつこりすることもある。すると觀音さまが子供と夢の中に遊んでゐるのだと心得て、世人の祈願の音を常住觀じ給ふ彼の乙女の菩薩に向つて口の中に經文を唱へた。

 

 時には、晴天の續く頃、坊やを背に負つてダケヤマ、(嶽山)に登ることもあつた。かうした遊山を坊やは大層喜んだ、面白いものを見せて貰へるばかりでなく、色々なものを聞かせて貰へるので。坂道は木立の中や森の中を拔け、草の生えた斜面や、形の面白い岩の側をまはつて往く。そこには胸に物語を祕めた花や、木の精を宿した樹木があつた。山鳩はコロッコロッと啼き、鳩はオワオ、オワオと鳴く。蟬はヂーヂーと啼いたりミンミンと啼いたり、カナカナと啼いてゐた。

 大事に思ふ人の不在を待ち佗びる者は、往かれさへすれば、皆この『だけ山』と呼ぶお山へお詣りをする。これは市(松江)の何處からでも見える。又その頂上からは幾箇國も見晴らせる。頂上には大方人の丈ほどの石が垂直に立てられてゐて、その前とその上とに小石が積まれてある。その傍に神代のさる姬宮を祀つた小さな神社が建つてゐる。この姬宮が懷かしき人の歸りを茲の[やぶちゃん注:「この」。]山の上に待ち焦れて、遂に石に化した。そこでこの處にお宮を建てたので、出てゐる人を案ずる者は今も此處に來てその無事に歸ることを祈願する。そしてそこに積んである小石を一つ持つて歸る。案じた人が歸つた時は、山の上の石の積んであつた舊の[やぶちゃん注:「もとの」。]場所に、その小石の外に今一つの小石を、お禮と記念との印として置いて來ることになつてゐる。

 お豐と坊やとお詣りをして家に歸り着くまでには、いつも夕闇が靜かに四邊をこめた。道も遠い上に、往きも還りも、町を圍む水田の間を、小舟に乘つて渡らねばならず、隨分時のかかる事であつた。星や螢が逍を照らすこともあり、月さへ上ることもあつた。するとお豐は小さい聲で月を詠じた出雲の童謠を坊やに歌つて聞かせるのが常であつた。

 

    ののさん(或はお月さん)いくつ。

    十三 ここのつ譯者註一

    それはまだ 若いよ、

    わかいも 道理譯者註二

    赤い色の帶と

    白い色の帶と、

    腰にしやんと結んで、

    馬にやる いやいや、

    牛にやる いやいや。

 

註 派手な色の帶は子供だけが締めるので斯ういふ。

譯者註一 「十三ここのつ」は有りふれた「十三七つ」に比して口調も惡しく數の感じも異樣ながら、出雲では今も斯く歌つてゐる由。

譯者註二 原文のローマ字をその儘に譯せば「若いも道理」となるが、原文の「いえ」の二音は松江の方言の『い』の間のびしたのを、著者がその儘音譯したものである、との落合貞三郞氏の攝明を附記して置く。

 

 藍色の夜の空には幾里も續く水田から、實に土より湧く聲と謂ふべき、聲高くも亦靜かに、泡立つ樣な合唱――啼き交はす蛙の聲――が立ちのぼる。お豐はそれを『メカユイ、メカユイ』『眼が痒ゆい、睡むくなつた』といつてゐるのだ、といつも坊やに言つて聞かせた。

 さうしてゐる間は楽しい時であつた。

 

       

 さうしてゐる中、三日の間に二度までも、永遠の攝理に屬する攝理によつて生死を司どる者が彼女の心を擊つた。初には幾度となく無事を祈つた優しき夫が己が許には歸られぬ、一切の形體の成り出でた元の塵に還つたと知らされた。その後間もなく坊やが、唐土[やぶちゃん注:「もろこし」と訓じておく。但し、原文は“the Chinese physician”で「漢方医」のことであろう。]の醫者も醒ますことの出來ぬ深き眠に就いたことを知つた。斯ういふ事實をお豊が覺つた[やぶちゃん注:「さとつた」。]のは電光によつて物の形が認められる樣な束の間であつた。この二つの電光の閃きの合間も、其から先きも、これぞ神々の慈悲なる一切無明の闇であつた。

 その闇は過ぎて、お豐は記憶と呼ぶ仇[やぶちゃん注:「かたき」。]に立ち向つた。他の者の前には、ありし日の如くに樂しく笑ましげな[やぶちゃん注:「ほほえましげな」。]顏をしてゐたが、この記憶の前には堪へ得なかつた。疊の上に玩具を並べたり、小さい着物を擴げたりして、小さな聲で話しかけたり、無言で微笑んだりした。併し微笑の果てはいつも激しくわつと泣き伏しては、頭を疊にすりつけて、他愛もない問を神々にかけるのであつた。

 

 或る日のことあやしき慰めを思ひ立つた。それは世に『とりつぱなし』と呼ぶ、死んだ人の靈魂を呼びかへす事であつた。ほんの一分でもよいから、坊やを呼びかへす事は出來まいか。それは坊やの靈魂をなやますことにならうが、母親のために少時[やぶちゃん注:「しばし」。]の苦痛は喜んで辛抱せぬことはあるまい。たしかにさうであらう。

 

 〔死んだ人を呼びかへすには、死靈を呼び出す呪文を知つてゐる坊樣か神主の許に往かなければならぬ。さうして故人の位牌をその人の許に持つて出ねばならぬ。

 それから齋戒の式が行はれ、位牌の前に燈明を點じ燒香をなし、祈禱または經文を唱へ、花や米の供物をする。但しこの時の米は生でなくてはならぬ。

 萬事整つた時に祭主は左手に弓の形をしたものを持ち、右手で手早く打ちながら、死んだ人の名を呼ぶ。其から大聲で『來たぞよ、來たぞよ、來たぞよ』と云ふ。そして斯う叫んでゐる中に彼の聲音が段々に變はる。終には死んだ人の聲そつくりになる。その靈魂が彼に乘り移るからである。

 

註 自分の來た事か知らせようと幾度も案内するものの事を、出雲の諺で「とりつぱなしのような」といふのは是からである。

 其から死んだ人が、口早に尋ねられることに答へるが、その間も『早く早く。歸つて來るのは辛いぞや、斯うして永くは居られぬ』と叫び續ける。そして答がすむと精靈は去つて往く。行者は氣が遠くなつて俯伏して了ふ。死んだ人を呼び戾すことは宜しくない。呼び戾されるとその人等の境遇は一段と辛くなる。冥府に歸ると前より低い所に落ちねばならぬ。

 今日では斯の樣なお呪ひ[やぶちゃん注:「おまじなひ」。]は法律で禁止されてゐる。昔はそれが慰めになつたものだ。併しこの禁制は良い掟で正當である。人心の中にある神性を侮蔑せんとする人もあるから〕

[やぶちゃん注:「とりつぱなし」原文は“Toritsu-banashi”で「とりっばなし」であるが、私はこのような「名」の招魂法を知らない。民俗学でもちょっと私は聴いたことがない。漢字も想起出来ない。近似した呪法をご存じの方は是非御教授願いたい。「執り離し」で冥界の死霊から魂を引き離して呼び返す執行法、魂振(たまふ)り、反魂(はんごん)の術か? 小泉八雲の説明によるなら、出雲独特のもので、しかしそれは明らかに後に出るように「いたこ」の「口寄せ」に酷似している。

「法律で禁止されてゐる」明文化された法律による禁止ではなく、明治新政府が慶応四年三月十三日(一八六八年四月五日)に発した悪名高き太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)及び明治三年一月三日(一八七〇年二月三日)に出された詔書「大教宣布」などの国家神道政策の中で、廃仏毀釈に代表されるような仏教・修験道排撃と、民間の呪法及び「淫祠邪教」政策レベルで取り締まったことを指していよう。]

 

 そこで或る晚のこと、お豐も町外づれの淋しい小さな寺に往き、子息の位牌の前に跪き、口寄せの呪文を聞いてゐた。やがて行者の肩から覺えのある樣な聲が聞こえた。誰れのよりも好きな聲であつたが、風の戰ぎ[やぶちゃん注:「そよぎ」。]の樣に微かで細かつた。

 その紬い聲はお豐に向つて言つた。

 『母樣、早く聞いて下さい。路は暗く長いのでゆるゆるしては居られません』

 お豐は慄き[やぶちゃん注:「をののく」。]ながら尋ねた。

 『何故私は子供を亡くして悲しい思ひをしなければならないのですか。神々の思召しはどういふのでせうか』

 すると其に答があつた。

 『母樣、私の事をそんなに歎いて下さるな。私の死んだのは、母樣が死なないためです。年まはりが病氣のはやる悲しい年で、母樣が死ぬ事になつてゐたのが分かりました。それで、願をかけて母樣の代りに死ぬことが出來たのです。

 

註 「身代り」といふのが宗敎的の用語である。

 

 『母樣私の事を泣いて下さるな。死んだ者を悼むのは供養にはなりませぬ。冥府への道は淚の川を越えて往きます。母樣たちが歎くとその河の水が增して、精靈は通ることが出來ず、あちこちとさまよはねばなりませぬ。

 『それゆゑ、お願ひですから、お母樣、泣かないで下さい。唯だ折ふし水を手向けて下さい』

 

 

 

       

 その時からはお豐が泣いてゐることはなかつた。以前の通りにかひがひしく、娘としての孝養を盡くした。

 秋さり春來たつて、父親は新しく婿を迎へようと思つた。母親に向つて斯ういつた。

 『内の娘にもまた男の子でも出來たら、それこそ、娘にも自分等一同にも、此上ない喜びであらう』

 が、物の分かつた母親は答へた。

 『娘は別に悲しんでは居ませぬ。苦勞も惡い事も少しも知らぬほんのねんねえになつて了ひました』

 お豐が其の苦痛を知らぬやうになつたのは事實であつた。極々小さな物を妙に好く樣になつてゐた。初には寢床が大き過ぎて來た。大方子供を亡くしたあとの空虛の感じからであらう、それからは日一日と他の物が皆大き過ぎる樣に思はれて來た。家も馴れた座敷も床も、そこらにある大きな花瓶も、終には膳椀までも。御飯も子供の使ふ樣な小さな椀から、雛道具の樣な箸で、食べると言つてゐた。

 斯うした事には親達は優しく娘の氣任せにして置いた。して又外の事には別に變つた注文もなかつた。老夫婦はいつも娘の事を談り合つた。たうたう父親が切り出した。

 『うちの娘には餘所の人と一緖に居るのは辛からう。が、自分たちも寄る年で、その中[やぶちゃん注:「うち」。]娘を後に殘さねばなるまい。それで娘を尼にしたらば、先きの心配もをゐるまい。小さなお堂を建ててやつてもよいな』

 翌日母親はお豐に尋ねた。

 『お前尼さんになつて、小さな護摩壇や小さな佛樣のある小さい小さいお堂で暮らす氣はないかえ。私達はいつも近い所に居ますがね。若しその氣なら、お坊樣を賴んでお經を敎へて貰ふ樣に仕よう』

 お豐はそれを望んだ。そして極小さな尼の衣を拵へるやうに賴んだ。が尙母は言つて聞かせた。

 『外のものなら何でも小さく拵へさせて差支はないが、衣だけは大きいのを着なくては良い尼樣にはなれません。それがお釋迦の律ですよ』

 それで漸くい豐は外の尼達と同じ衣を着る氣になつた。

 

       

 兩親はお豐のために、阿彌陀寺といふ大きな寺のあつた境内に、一棟の尼寺、卽ち尼の寺を建てた。この尼寺も亦阿彌陀寺と呼んで、阿彌陀如來を本尊に、その他の佛樣をも招じた。至つて小さい護摩壇に玩具の樣な佛具を備へ、小さな經机には小さな經文を載せ、何れも小さな、衝立や鐘や掛軸があつた。お豐はここで兩親の歿後も永く暮らした。人々は彼女を阿彌陀寺の比丘尼と呼んだ。

 門前から少し離れて、一體の地藏尊があつた。この地藏は子供の病氣を直すといふ變つた地藏であつた。この地藏の前にはいつも小さな餅が上げてある。是は病氣な子供のために願をかけてゐる徵で、餅の數は子供の年齡を示してゐる。大抵は二つか三つで、稀には七つから十もあることがある。阿彌陀寺の比丘尼はこの地藏等の番をして、香を絕やさず、お寺の庭に咲いた花を上げた。庵寺の裏に小さな花園があつたのである。

 每日朝の間の托鉢を了へて歸ると、小さい機臺[やぶちゃん注:「はただい」或は「はた」。]の前に坐つて布を織るのが例であつた。物の役に立たぬほど狹いものであつたが、彼女の手織りは、身の上を知つてゐた方々の店屋に買ひ取られた。彼等は小さい茶椀だの小さい花瓶だの、庭に置く樣に變つた盆裁などを贈つた。

 彼女の何よりの娛樂は子供等を相手にすることで、それに不自由はなかつた。日本の子供の幼少時代は大抵社寺の境内で過ごされる。それで阿彌陀寺の庭で樂しく遊び暮らした子供も數多かつた。同じ通[やぶちゃん注:「とほり」。]に住む母親等は子供等をそこで遊ばせるのが好きであつた、唯だ比丘尼さんを莫迦にせぬ樣にと注意した。『時によると變な事をしても、それは一度可愛い坊やを有つてゐたのを亡くして、その悲みが母親の胸に耐へられなくなつたのです。それゆゑ尼さんには本當に大人しく、失禮の無い樣にしなくてはいけないよ』

 子供等は皆大人しくはあつたが、崇敬の意味で敬意を表したとは謂へなかつた。彼等はよく心得てゐて、そんな堅くるしい事はしなかつた。いつも彼女をお比丘尼さんと呼んで丁寧にお辭儀をしたが、それ以外には自分等の仲間の樣に隔てなく遇(あし)らつた。彼等は彼女と遊びをし、彼女は子供に可愛い茶椀でお茶を出したり、豆の樣に小さな餅を澤山に拵へたり、子供等の人形の着物にとて、綿布や絹布を織つてやつたりした。こんな風で彼女は子供等に肉親の姉の樣になつた。

 子供等は、每日每日彼女と遊んてゐる中に、もうさうして遊んでゐられないほど成人して、お寺の庭に來ないで浮世の仕事をする樣になり、やがては父となり母となつて、自分等の子供を遊びによこすやうになつた。さういふ子供等が又親達と同じ樣にお比丘尼さんを好くやうになつた。斯うして比丘尼はお寺の建つた時の事を覺えてゐる人達の子や孫や曾孫館と遊ぶまで長命した。

 人々も彼女が不自由をしないやうに心懸けた。いつでも自分一人で入るだけより多くの寄進があつた。それで彼女は子供達に大方仕たいだけよくしてやつたり、小さな生物などに有り餘るほど餌をやることが出來た。小鳥がお堂の中に巢を作つて、彼女の手から餌を食べた、そして佛樣の頭などに止まらぬやうになつた。

 

 この比丘尼の葬式があつてから、幾月か經つて、大勢の子供が自分の家にやつて來た。九歲ばかりの少女が一同に代つてつぎの樣に述べた。

 『をぢさん、私達は亡くなつたお比丘尼さんの事でお願ひに參りました。お比丘尼さんのお墓に大變大きなお石塔が立ちました。大さう立派なお石塔ですの。けれど、私達は小さい小さいお石塔を今一つ立てたいと思ひます。生きてゐた時に極小さいお墓が好きだとよく言つて居られましたから。石屋さんがお金さへ出せばお石塔をこさへて大變綺麗にして吳れると言つてゐます。それでをぢさんも何程かお出し下さるかと思ひました』

 『出しますとも。だがこれからは遊ぶ所がないでせう』と自分が言つた。

 娘は笑ひながら答へた。

 『やつぱり阿彌陀樣のお庭で遊びますよ。お比丘尼さんはそこに埋まつてゐます。私達の遊んでゐるのを聞いて喜ぶでせう』

 

[やぶちゃん注:エンディング――「自分」とは――最早――小泉八雲自身――であることは言うまでもない――この掌品の極め付けの素晴らしさは、まさにこの最後の現在時制との合致という点にこそあると言ってよい――

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