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2019/12/26

芥川龍之介 出師表を読みて孔明を論ず 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『雜感』に拠った。最後に葛巻氏によるクレジットが丸括弧で示されてあり、それは明治四一(一九〇八)年である。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」にも目ぼしい書誌情報は全く載らない。同年は三月一日を以って芥川龍之介満十六歳、東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の三年或いは四年生である。

 「出師表」(すいしのへう(ひょう))は一般名詞としては、臣下が出陣する(軍隊(「師」)を「出」す)に際して君主に奉る上奏文(「表」)を指すが、歴史上では普通、三国時代の蜀の丞相で軍師であった諸葛亮孔明(一八一年~二三四年)が、皇帝劉禅(二〇七年~二七一年:在位/二二三年~二六三年)に魏への北伐出陣に際して二二七年に奏上したものを指す。著名であり、特に述べられない場合、「出師表」とはこれを指す。 参照したウィキの「出師表」によれば、その内容は、『自分を登用してくれた先帝劉備に対する恩義を述べ、あわせて若き皇帝である劉禅を我が子のように諭し、自らの報恩の決意を述べた文である。陳寿の』「三国志」の『本文にも引用されている』ほか、「文選」・「文章軌範」・「古文真宝」等にも『収められており、諸葛亮の真作と考えられている』。『古来』、『名文中の名文とされており』、『「諸葛孔明の出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」』(「箋解 古文眞寶」の安子順の評釈部分)『と言われてきたほど、諸葛亮の蜀に対する忠義が如実に描写されていると言われてきた。北宋代の詩人蘇軾は「簡而盡』、『直而不肆」(簡素であって出し尽くされている。真っ直ぐであって乱雑ではない)と』、「老子」の五十八章にある『「是以聖人~直而不肆」を引用して高く評価し』ている。『なお「前出師表」は、漢代の古文の文体で書かれており、この時代に確立し』、『六朝から隋唐に流行した、駢文の装飾的な文体とは異なる趣を持っている。この為、唐代・宋代の古文復興運動でも三国時代の文章としては唯一重んじられていた』。東洋史学者『狩野直禎によれば、諸葛亮が尊敬していた楽毅の「燕の恵王に報ずるの書」の影響が見られ、楽毅の文章の本歌取りを行なっている所もあるという』。『諸葛亮が北伐(魏への遠征)に出発する前に、国に残す若い皇帝劉禅を心配して書いたという前出師表の内容は次の通りである』。『まず、現在天下が魏・呉・蜀に分れており、そのうち』、『蜀は疲弊していることを指摘する。そういった苦境にもかかわらず、蜀漢という国が持ちこたえているのは、人材の力であるということを述べ、皇帝の劉禅に、人材を大事にするように言う』。『さらに』、官僚の郭攸之(ゆうし)・費禕(ひ)・董允(とういん)・向寵(こうしょう)と『いった面々の名をあげ、彼らはよき人材であるから、大事にしなくてはならないと言い、あわせて後漢の衰退の原因は、立派な人材を用いず、くだらない人間を用いていたからだ』、『とも指摘する』。『最後に、自分が単なる処士に過ぎなかったのに、先帝である劉備が』三『回も訪れて自分を登用してくれたことにとても感謝していると述べ、この先帝の恩に報いるために、自分は中原に進出し、逆賊たる魏王朝を破り、漢王朝を復興させようとしているという決意を述べ、全文を次のように結ぶ』。『臣不勝受恩感激 今當遠離臨表涕泣不知所言』(『私は恩を受けた事の感激に打ち克つことが出来ません。今、正に遠く離れるに当たり涙を流し、言葉もありません』)とある。なお、孔明は二三四年春二月に第五次の北伐を行い、司馬懿(しば い)と長期に渡って対陣したが、同時に出撃した呉軍が荊州(現在の湖北省一帯)及び合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し、諸葛亮の挑発に乗らず、五丈原での対峙が続く中、孔明は病に倒れ、秋八月に陣中に没している。享年五十四であった。なお、「出師表」の原文・訓読・訳は個人サイト「I think; therefore I am!」こちらが非常によい。  

 ここで断っておかねばならぬが、私は「三国志」に至って冥い。されば、異様に注を附けざるを得ななかった。高校教師時代、漢文の試験ではろくに点数がとれない男子生徒で、「先生! 三国志を是非、授業でやって下さい!」と懇願する連中が何人もいたのを思い出す。恐らくは、横山光輝の「三国志」の愛読者達であったものと思う。判っておられる読者は私の小五月蠅い注は飛ばして読まれたい。

 なお、この強力な〈諸葛亮論〉は、同じ中学時代の最後にぶち上げた明治四三(一九一〇)年二月十日発行の『學友會雜誌』所収の、かの芥川龍之介の力作「義仲論」(「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」を髣髴させ、酷似させるものがある(以上のリンク先は私の全オリジナル注附きのブログ三分割版)。或いは、本篇は「義仲論」のためのプレ練習用素材ででもあったのではないか? とさえ強く感じられるほどである。

 

   出師表を讀みて孔明を論ず

 

 杜子美の句に曰、「三顧頻繁天下計。南朝開濟老臣心。出師未捷身先死。長使英雄淚滿襟。」と。吾人、出師表を讀で諸葛孔明の胸裡を思ふ。遂に一滴の淚なき能はざる也。將星、一度五丈原頭に落つるや、斗筲の輩空しく天下の大軍を誤り、漢家四百年の炎光一朝にして散じ、忽ちに豎子司馬昭をして英雄の名を成さしめたる、蜀の亡滅の何ぞ悲慘なるや。而して彼の一生の如何に壯烈なるや。請ふ、彼を泉下より起して、少しく語る所あらしめよ。

[やぶちゃん注:「杜子美」杜甫の字(あざな)。以下の引用は、以下の「蜀」の丞「相」諸葛亮の廟に謁した際の七律「蜀相」(しよくしやう(しょくしょう))から。

   *

 蜀相

丞相祠堂何處尋

錦官城外柏森森

映堦碧草自春色

隔葉黃鸝空好音

三顧頻繁天下計

兩朝開濟老臣心

出師未捷身先死

長使英雄淚滿襟

  蜀相

 丞相の祠堂 何れの處にか尋ねん

 錦官城外 柏(はく) 森森たり

 堦(かい)に映ずる碧草は 自(おの)づから春色にして

 葉を隔つる黃鸝(こうり)は 空しく好音(こういん)

 三顧 頻繁なるは 天下の計

 兩朝 開濟するは 老臣の心(こころ)

 出師 未だ捷(か)たざるに 身(み) 先(ま)づ死す

 長く英雄をして 淚 襟(きん)に滿たしむ

   *

少し語釈すると、「錦官城」は成都の西の城の名。「堦(かい)」は彼を祀った廟堂の階段・階(きざはし)。「柏」は裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis。中国では古くから墓地に植えられることで知られる。「森森」は立ち並んで生い茂っていること。「黃鸝」スズメ目コウライウグイス科コウライウグイス属コウライウグイス Oriolus chinensis。漢詩では「黃鳥」などとも書いて、よく登場する。本邦では日本海側に渡りの途中で稀に飛来する。「空しく」その人(孔明)はもうこの世にいないから言う。「三顧」次の注を参照。「天下の計」天下を安んぜんがための行為であったことを指す。ここの主語は劉備。「兩朝」劉備とその子劉禅の二代を指す。「開濟するは」参考にした一九六六年岩波文庫刊(全六冊)の「杜詩」(鈴木虎雄・黒川陽一訳注)の第四冊の注では、この表現は腑に落ちる注が見当たらぬとし、『開ㇾ心済ㇾ事の意であろうか』とされ、『親子二代の君に対してあますところなく胸のうちをひらいて仕事をなしたというのは』と訳しておられる。「捷(か)たざるに」勝利を得ることがないままに。以下、「五丈原の戦い」での戦病死を指す。

「斗筲」(とさう(とそう))は「一斗を入れる枡」と「一斗二升を入れる竹の器」の意で、 度量の狭いこと、器量の小さいこと。「としやう(としょう)」とも読む。

「豎子」(じゆし(じゅし)は「小僧っこ」「青二才」「未熟者」の意の卑称。ほら! 漢文の「鴻門之会」で劉邦を殺す気を失った項羽を見て、范増が吐き捨てるように項羽を指して罵っ言ったでしょが!

「司馬昭」(二一一年~二六五年)は魏の晋王(爵位)で相国となった政治家。孔明の没して二十九年後の二六三年、蜀漢討伐の軍を興し、蜀を滅ぼした。]

 始め、彼の隆中の臥龍窟に蟄して、靜に星雲の來るべきを待てるや、襄陽の司馬德操劉備に語つて曰、「儒王俗士豈知時務、知時務者在乎俊傑、諸葛孔明臥龍也。」と。

[やぶちゃん注:「隆中」(りゆうちゆう(りゅうちゅう))は若き頃の諸葛亮が住んでいた村の名。当時の荊州の州都襄陽県(現在の湖北省襄陽市襄州区)から約十三キロメートルのところにある小村(現在は襄陽市襄城区)。「三国志演義」では後に蜀漢を建国することになる劉備が彼を軍師として迎えるために諸葛亮の庵まで三度も足を運んだ。所謂「三顧の礼」の舞台となった場所。

「臥龍窟」(ぐわりようくつ(がりょうくつ))は「龍が潜んでいる岩穴」の意から転じて、ゆくゆく優れた人物として世に出る人が一先ず隠れ住んでいる所、大人物の隠れ家の意。次注参照。

「司馬德操」後漢末期の司馬徽(しば き ?~二〇八年)。徳操は字(あざな)。鋭い人物鑑定家として名を博した。諸葛亮を「臥龍」と呼んだのは彼であるともされる(但し、彼が従った同じ人物鑑定家龐徳公(ほうとくこう 一六三年~?)が既に名づけていたともされる)。やはり次注参照。

「儒王俗士豈知時務、知時務者在乎俊傑、諸葛孔明臥龍也」「三國志」の「蜀志」の「諸葛亮傳」の一節にやや手を入れたもの。但し、「王」は「生」の誤り。葛巻氏の誤判読の可能性が高いか。

   *

儒生俗士、豈識時務、識時務者在乎俊傑、此間自有伏龍、鳳雛。

(儒生・俗士、豈(あ)に時務を識(し)らんや。時務を識る者は俊傑にこそ在り。この間、自(おの)づから「伏竜」・「鳳雛(ほうすう)」有り。)

   *

「時務」とは、その時その時に応じた重要な仕事・急務の謂い。「鳳雛」は「臥龍」と同じで、孔明と同じく劉備に仕えた武将で政治家の龐統(ほうとう 一七九年~二一四年)のことを指して言ったもの。]

 是豈、彼が達眼を道破せる言に非ずや。

 彼は實に時務を知れり。襄陽城邊、靑山悠々として江水素絹の如き處、紅卷靑帙[やぶちゃん注:「こうくわん(こうかん)せいちつ」。多くの書物。]の中に起臥し、黃隴碧蕪[やぶちゃん注:「くわうろう(こうろう)へきぶ」。黄土の丘と緑の平野。]の間に耕せる、渺然たる二十七歲の一白面書生は、既に其胸裡に天下三分の大計大畧を抱きし也。

 而して彼は其企圖したるが如く、北、曹操を防ぎ、南、孫權に使し、よく漂泊の劉備をして、南面帝號を唱へしめたり。何ぞ、カブールがサルヂニアの小朝廷をして、伊太利統一の大業を企てしめしに似たる。

[やぶちゃん注:「曹操」(さうさう(そうそう) 一五五年~二二〇年)は魏の始祖。字(あざな)は孟徳。後漢末に「黄巾の乱」の鎮圧を機に勢力を伸ばし、中国北部を統一、南下を試みたが、「赤壁の戦い」に敗れ、呉の孫権・蜀の劉備とともに天下を三分した。魏王となり、死後、武帝と追尊された。

「孫權」(一八二年~二五二年)呉の初代皇帝。字は仲謀。二〇〇年、兄孫策の急死により、跡を継ぎ、土着豪族及び北から南下した名士の支持を得、巧みな政治的外交的手腕を揮って江南支配を達成した。劉備と連合し、曹操の南下を食止めた「赤壁の戦い」はその間に起ったものであった。二二二年に呉王となり、建元して「黄武」と称したが、当時はまだ魏の封策を受けていた。二二九年に皇帝の位について独立し、建業を首都とした。

「カブール」イタリア王国(一八六一年成立)初代首相カミッロ・カヴール(Camillo Cavour 一八一〇年~一八六一年:但し、「カブール」は爵位名であって、家名(姓)は「ベンソ」(Benso)である)でガリバルディ、マッツィーニと並ぶイタリア統一運動(リソルジメント)に於ける「イタリア統一の三傑」の一人(中世以降のイタリアは小国に分裂し、各国家はオーストリア・スペイン・フランスの後ろ楯で以って権力争いが続いていた)。

「サルヂニア」サルデーニャ王国(Regno di Sardegna)は十八世紀から十九世紀にかけて存在したサヴォイア家(Casa Savoia)が支配していた国家。領土は現在のイタリアとフランスに跨り、サルデーニャ島・ピエモンテ・サヴォワ・ニース伯領(アルプ=マリティーム県)を統治していた。その存続期間の大半において、王国の本拠はサルデーニャ島ではなく、大陸のピエモンテにあり、首都はトリノに置かれた。この王国は、十九世紀のイタリア統一運動に於ける中核となり、近代イタリア王国の前身となった。先のカミッロ・カヴールは元サルデーニャ王国首相であった。]

 しかも、氣鋭の年少政治家たる周瑜を動して、赤壁の水戰に曹操八十萬の大軍を破り、詩人をして「東風燒盡北軍湮滅長江不見痕」と歌はしめたる、其深謀に至りてはスタインと雖も彼に一步を讓らざるべからざるが如し。

[やぶちゃん注:「周瑜」(しゅうゆ 一七五年~二一〇年)は呉の孫権に従った武将。二〇八年冬の「赤壁の戦い」では、呉の孫権と蜀の劉備が連合して魏の曹操と戦い、魏に勝利した

『詩人をして「東風燒盡北軍湮滅長江不見痕」と歌はしめたる』これは中国の詩人と思って調べると時間を無駄にする(実は私も十五分ほど浪費した)。これは本邦の歴史家で漢詩人としても知られた頼山陽(安永九(一七八一)年~天保三(一八三二)年)の、「詠三國人物十二絕」の「周瑜」である。但し、引用に一部不備があり、これは芥川龍之介或いは編者葛巻氏の判読の誤りの両方が考えられる。

   *

 周瑜

東風燒盡北軍船

煙滅長江不見痕

怪得頻頻曲邊顧

煙滅長江不見痕

還無一顧向中原

   周瑜

 東風 燒盡す 北軍の船

 煙 滅して 長江に痕を見ず

 怪しみ得て 頻頻として曲邊に顧みるも

 還た一(いつ)として 顧りみて中原に向かふ無し

   *

以上は『立命館大學白川靜記念東洋文字文化硏究所』第七号(二〇一三年七月発行)所収の岡本淳子氏の論文「日本に於ける周瑜像についての一考察――江戸時代を中心に――』(抜刷・PDF)に載る原文と訓読にほぼ従った。芥川龍之介の本篇には「東風燒盡北軍船」の「船」がなく、「煙滅長江不見痕」の「煙滅」が「湮滅」となってしまっている。

「スタイン」プロイセンの政治家でナポレオン支配の時代に農奴制廃止・国民皆兵制・行財政改革に尽力し、ドイツ近代化の基礎を創ったとされるハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタイン(Heinrich Friedrich Karl, Reichsfreiherr vom und zum Stein 一七五七年~一八三一年)のことか? ナッサウの帝国騎士の出身で、ゲッティンゲン大学で法学を修め、一七八〇年、プロイセンの官吏となった。一八〇四年、商工業担当大臣となったが、国王の側近政治を批判し、一八〇七年一月に罷免された。しかし同年十月、「ティルジットの和約」直後,国家再建のために登用され、翌年十一月まで、事実上の首相としてプロイセン改革に着手した。在任中に「十月勅令」で農民の人格的自由を、都市条例で市民の自治を、行政改革で集権的内閣制度を実現したが、反フランス蜂起画策の廉(かど)でナポレオンの圧力により罷免された。しかし、内政改革はハルデンベルクに継承された、と平凡社「世界大百科事典」にはある。ちょっと、それ以外のここに出して比較になりそうな「スタイン」は私は他に知らない。]

 彼はかゝる眼の人たりしと共に、又大なる手の人なりき。一葉落ちて天下秋を知るの炯眼を、有せしと共に、又よく狂瀾を既倒に囘すの手腕を有したりき。

[やぶちゃん注:「狂瀾」(きやうらん(きょうらん))「を既倒」(きとう)「に囘」(めぐ)ら「す」は「崩れかけた大波を、もと来た方へ押し返す」の意で、比喩的に「情勢が乱れに乱れて、手のつけようのないほど、すっかり悪くなったのを、再びもとに返す」ことを言う。韓愈の文「進学解」に基づく。]

 彼に比ぶれば、荀或の如きは、小數を好む謀主のみ。張昭如きは、徒に剛直なる迂寒儒のみ。周瑜の如きは、輕敏濶達なる俊才のみ。治國平天下の大道に至つては遂に彼が獨擅場たらずばある可らず。

[やぶちゃん注:「荀或」(じゆんいく(じゅんいく) 一六三年~二一二年)は後漢朝の実権を握った曹操の下で数々の献策を行い、その覇業を補佐した政治家。曹操の魏公就任に反対したことから曹操と対立し、晩年は不遇であった。

「小數を好む」ちまちまとした小細工染みた権謀術数のことか。

「張昭」(一五六年~二三六年)は、呉の政治家。後漢の孫策の丁重な招きに応じて配下となった。孫策は死に臨んで、弟の孫権に「国内のことは張昭に問え」と遺言しており、「赤壁の戦い」の際には、曹操への降服を唱え、やがて孫権と対立するようになった。孫権は丞相を置く際、百官が推薦した張昭の任命を二度に亙って拒否し、皇帝としての即位の場では張昭の降服論を非難した。しかし、張昭は呉を代表する名士として尊敬を集め、江東の名士や豪族の支持を背景に、孫権に諫言を続けた。遼東の公孫淵の帰順を受け入れるべきではないと厳しくいさめた際には、無視されると、出仕しなくなった。公孫淵が張昭の諌言通りに裏切ると、孫権は張昭の家に謝罪に行ったが、出てこない。孫権は門に火をつけて張昭を脅し、漸く宮中に連れ帰って謝罪したとされる。「三国志演義」では降服論者の筆頭として論戦を挑み、孔明に言い負かされている(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 彼が當時の史家をして、「科敎嚴明、賞罰必信、惡として懲さざるなく、善として顯さざるなし。」と稱嘆せしめたる、彼が雲の如き幾多の人材を操縱して、よく蜀の小をして吳魏に對峙するを得しめたる、はた彼が干戈[やぶちゃん注:「かんか」。武器。転じて、戦争。]動かざるなき時に於て、蜀の邊隅に別乾坤を打開し、蒼生をして塗炭を免れしめたる、何ぞ彼が經綸の見るべきものある多きや。

[やぶちゃん注:ウィキの「諸葛亮」によれば、「三国志」の撰者である陳寿の評によれば、『「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている』とある。

「蒼生」人民。]

 陳震曰、「盡忠有於時譽者雖讐必賞、犯法怠惰者雖親必罰。」と。彼はかくの如く法を重じたり。法を重ぜしに非ず、法の精神を重ぜし也。瑣々たる形式を脫して、其處に至大至嚴の精神を認めし也。法の精神は「公」の一字にあり。而して彼は一點の私なかりき。彼は淚を揮つて、馬謖を斬れるに非ずや。彼は自ら責をひきて、職三等を下せるに非ずや。而して彼は劉備が孤を託せる李嚴をだにも罰するに、遠流を以てしたるに非ずや。

[やぶちゃん注:「陳震」(?~二三五年)は孔明と同時期に活躍した蜀の政治家。孔明は陳震を「老いてますます誠実な性格である」と賞賛している。

「盡忠有於時譽者雖讐必賞、犯法怠惰者雖親必罰。」勝手流で訓読しておく。

 忠を盡くし時に譽れ有る者は、讐(あだ)と雖も、必ず賞し、法を犯して怠惰なる者は、親と雖も、必ず罰す。

「馬謖」(ばしよく(ばしょく) 一九〇年~二二八年)は劉備に仕えた政治家で軍人。ウィキの「馬謖」によれば、『成都の県令・越巂太守を歴任した。並外れた才能の持ち主で、軍略を論じることを好み、その才能を諸葛亮に高く評価された。ただ劉備は彼を信頼せず、白帝城で臨終を迎えた際にも「馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要な仕事を任せてはならない」と諸葛亮に厳しく念を押したといわれる。しかしながら「才器、人に過ぎ、好みて軍計を論ず」と、俊英な馬謖の才能を愛した諸葛亮は』、『劉備の死後に彼を参軍(幕僚)に任命し、昼夜親しく語り合った』。二二四年の『春に、建寧郡の豪族の雍闓』(ようがい)『らが西南夷の有力者の孟獲を誘って謀反を起こした。馬謖が「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」と諸葛亮に助言したため、これが』「七縦七擒」(しちしょうしちきん:孔明が敵将の孟獲(もうかく)を捕らえては逃がしてやることを七回繰り返した末に、孟獲を心から心服させたこと。「蜀志」の「諸葛孔明伝」の注にあり、ここから「相手を自分の思いどおりに自由自在にあしらうこと」の故事成句ともなった)『などの作戦に繋がり、南征の成功と蜀の後背地の安定に寄与することになった』。二二八年春三月、『諸葛亮は第一次北伐に際し、彼に戦略上の要所である街亭(現在の甘粛省天水市秦安県)の守備を命じた(街亭の戦い)。諸葛亮が道筋を押さえるように命じたが、馬謖はこれに背き』、『山頂に陣を敷いてしまった。このため』、『副将の王平がこれを諫めたが、馬謖は聞き入れようとしなかった』。『その結果、魏の張郃』(ちょうこう)『らに水路を断たれ』、『山頂に孤立し、蜀軍は惨敗を喫した。同年』五『月、諸葛亮は敗戦の責任を問い』、『馬謖を処刑した。諸葛亮はこのために涙を流し、これが後に「泣いて馬謖を斬る」と呼ばれる故事となった』。裴松之(はいしょうし)『が注に引用する習鑿歯』(しゅうさくし)の「襄陽記」に『よると、馬謖は処刑される前、諸葛亮に宛てて「明公は私めを我が子のように思ってくださり、私も明公のことを父のように思っておりました。舜が』聖帝の血を引く鯀(こん)を誅し、『その子の禹を採り立てたように(私の遺族を遇し)、生前の交遊を大切にしてくださるなら、私は死すとも恨みはいたしませぬ」と手紙を書き残した。諸葛亮も馬謖の才能を愛し、目をかけていただけに、彼の処刑に際し』、『涙を流した。馬謖の遺児は処罰されることなく、以前と同様に遇されたという』。『習鑿歯は、諸葛亮が馬謖の起用法に失敗したことや、失敗したにもかかわらず起用され続けて』、『功績を挙げた過去の将軍を例に挙げ、諸葛亮が馬謖を処刑して、有用な人材を失ったことを批判している』。なお、「晋書」の「陳寿伝」では、「三国志」の『撰者である陳寿の父は馬謖の参軍であり、この時』、『馬謖に連座して髠刑(』こんけい:『剃髪の刑で宮刑に次ぐ厳重な処罰だという)に処されたという逸話が載る』。「三国志演義」では、『魏で曹叡(明帝)が即位した際、司馬懿が涼州への赴任を志願し、蜀への対策を行なっているという話を聞くと、司馬懿が謀反を起こすという噂を流すべきだと諸葛亮に進言する。その噂を信じた曹叡らが司馬懿を疑ったため、司馬懿は役職から外されることにつながっている。これを聞いた諸葛亮は出師表を出し、北伐を行なうことになる』という筋立てになっているらしい。

「李嚴」(?~二三四年)は三国時代の政治家で武将。ウィキの「李厳」によれば、『劉備に投降して重用され、諸葛亮とともに遺詔を受け高官に昇るも、晩年に失脚した』。『若い頃に郡の官吏となり、才幹の良さで賞賛を得た。劉表に取り立てられ、郡県の長をいくつか務めた』。二〇八年、『益州との境に近い秭帰県令を務めていたが、曹操が荊州に侵攻したため、劉表死後の混乱する荊州を見限り、益州へ逃れた。劉璋にも取り立てられ』、『成都県令となり、そこでも有能だとの評判を得た』。二一三年、『劉璋の要請により』、『益州入りしていた劉備が劉璋と仲違いを起こし、成都に侵攻した。この時、李厳は劉璋から護軍に任じられたため、軍を率いて綿竹関の守備に就くことになったが、すぐに劉備軍へ投降した。劉備から裨将軍に任じられた』。『劉備が成都に入城すると、犍為』(けんい)『郡太守・興業将軍に任じられた。諸葛亮・法正・劉巴・伊籍と共に蜀科』(法律)『の制定に尽力したという』。二一八年、『反乱を起こした盗賊の馬秦・高勝らの勢力』が『数万人に膨れ上がり、資中県まで到達した。李厳は郡管轄の兵五千の指揮を執』って『討伐し、馬秦・高勝らを処刑して晒し首にした。一方で、反乱に参加した人達は再び戸籍に復帰することを許された。また、越巂』(えつすい)『郡の賊の高定が反乱を起こし、新道県を包囲したとき』に『は、李厳は城を救援し』、『反乱軍を四散させた。この功績により、郡太守のままで輔漢将軍の地位を与えられた』。二一九年、『劉備は漢中を平定すると、群臣達に推挙され』、『漢中王となった。この群臣達の中に、興業将軍の李厳の名がある』。二二二年、『即位した劉備は荊州を占領した呉を討つため』、『東征したが、陸遜に大敗した。劉備は成都に戻ることが出来ず、白帝城を永安宮と改名し』、『そこに留まっていた』。『李厳は永安宮に呼び寄せられ、劉備から尚書令に任命された』。二二三年の『劉備臨終の際には』、『枕元に呼ばれ、同じく成都より呼び寄せられた諸葛亮と共に、太子の劉禅を補佐するよう遺詔を受けた。李厳は中都護となり』。『内外の軍事を統括し、永安に留まり鎮撫に当たる任務を与えられた。劉禅が即位すると、都郷侯・仮節となり、光禄勲の位を付加された』。『このころ、李厳は諸葛亮に手紙を送り、王を称して九錫を受けるよう勧めたことがあったという。これは諸葛亮に、将来の簒奪を勧めたものとも取れる行為であるが、諸葛亮は返書で「魏を滅ぼし、あなた方と共に昇進の恩恵にあずかることにでもなれば、その時には九の特典どころか十でも受けますよ」と、李厳の申し出を受け流す形で拒絶している』。二二六年、『前将軍に昇進した。諸葛亮は北伐のため』、『漢中に陣営を移したので、後方を李厳に任せるべく、彼の駐屯地を江州に移動させた。永安には陳到を置いたが、引き続き』、『李厳が統括するものとした。同年春、李厳は江州に大城を築いている』。『このころ、李厳は魏に投降していた新城の孟達に手紙を送り、諸葛亮とともに劉備から「遺詔を受けたことへの責任感を痛感している」と、胸の内を語った上で「良き協力者を得たい」と述べている。諸葛亮も孟達に手紙を送り、李厳の仕事振りを賞賛している』。二三〇年の秋八月、『魏の曹真が三方の街道から漢水に向かおうとしたため、諸葛亮の命により兵』二『万の指揮を執り漢中に赴き、政務を取り仕切った。江州は子が都督督軍に任じられ、留守の職務を執ることが許されている。諸葛亮は曹真を撃退した後も、再度の北伐に備えるため』、『李厳を漢中に留め、中都護の官位のまま全ての政務を取り仕切らせた』。なお、この頃、『「李平」に改名し』ている。二三一年『春、諸葛亮は再び北伐を行なった』が、『この時、李厳は軍糧輸送監督の任務についた。しかし』、『長雨による兵糧輸送の滞りを理由に、馬忠と督軍の成藩を派遣し、遠征中の諸葛亮にそのことを報告した。ところが諸葛亮が撤退して来た後、李厳は撤退したことを諸葛亮の責任にしようと謀った。さらに、劉禅にも上奏し』、『「丞相(諸葛亮)は敵を誘うために撤退した振りをしているだけでございます」と嘘をついた。このため』、『諸葛亮は李厳の出した手紙を集め、李厳の発言や要旨の矛盾を追及した。李厳はこの追及に敵わず、罪を認め』、『謝罪した。諸葛亮は劉禅に対し、これまで自らが李厳のいい加減さを知りつつも、才能を惜しみ任用し続けてきたことを率直に陳謝した上で、李厳を弾劾し』、『罪を明らかにすることを、上奏して求めた。李厳は免官となり庶民に降格され、梓潼』(しとう)『郡に流された。同年秋』八『月のことであ』った。『李厳と同郡出身である陳震が、呉へ使いに赴く前、諸葛亮に対し』、『「李厳は腹に棘をもっているため、郷里の者からも近付かれておりません」と説いた。陳震は李厳の欠点を棘と例え、諸葛亮はこれに対して棘には触れさえしなければよいと考えていた』。二三一年、『李平(李厳)が失脚すると、諸葛亮は蘇秦・張儀の様な事態が起こるとは思わなかったとして』、『陳震に』、『この事態を知らせるよう』仲介者へ『手紙を送っている』。『諸葛亮は李厳の地位を剥奪したが、子の李豊は罪を問わず、手紙を送って父の汚名を返上すべく仕事に励むよう』にと『諭している。李厳は失脚後、諸葛亮ならばいずれ自分を復帰させてくれると期待していた。しかし』、二三四年、『諸葛亮の死を聞くや否や、諸葛亮の後継者たちでは自分が復職することは二度とあるまいと嘆き、まもなく発病し』、『死去した』。子息の『李豊の官位は朱提太守にまでなった』とある。]

 彼の眼中唯「公」の一字あるのみ。彼は實にソロンの心を以てドラゴンの法を行ひし也。堯舜の行を以て、韓非の令を施きし[やぶちゃん注:「しきし」。]也。

[やぶちゃん注:「ソロン」(紀元前六三九年頃~紀元前五五九年頃)は古代アテナイの政治家・立法者・詩人、ウィキの「ソロン」によれば、『当時のアテナイにおいて、政治・経済・道徳の衰退を防ごうとして法の制定に努めたことで有名である。この一連の法制定は』「ソロンの改革」と『呼ばれ、短期間のうちに失敗したが、アテナイの民主主義の基礎を築いたとして、しばしば高い評価を受けている』とある。

「ドラゴンの法」荒御霊(あらみたま)を持った、龍のように強力にして厳格な「韓非」子の規矩的矯正的な「法」の公使の謂いであろう。]

 然れども彼は法を重ずると共に、又人を重んじたりき。彼は江海の如き度量と、淸月の如き襟懷とを有したりき。彼、王安石の嚴正あるに非ず、又司馬光の德望あるに非ず。しかも彼のよく人を容れ、人を用ふる瀟洒たる本領は、彼の逝くや、廖化をして、「我終爲左袵」と歎かしめしに非ずや。彼が遠く瀘を渡つて不毛に入り、南蠻の痒煙を犯して孟穫を七擒七縱したるが如き、讙詐百出、陰忍老骨なる曹猛德と對照し來れば眞に其徑庭も啻[やぶちゃん注:「ただ」。]ならざるを覺ゆ。參軍馬謖の誅せらるゝに臨で、「丞相常に我を見る子の如し。我黃泉の下に至つて何をか恨まむ。」と慟哭したる、豈是偶然ならむや。

[やぶちゃん注:「王安石」(一〇二一年~一〇八六年)は宋の政治家・文人。新法を開始して審議実施し、神宗の信頼の下、政府首班として新法を推進し、宋朝政治の積弊を改革した。「唐宋八大家」の一人に数えられる文章家で,詩人としても優れた。

「司馬光」(一〇一九年~一〇八六年)は王安石と同時期の宋の学者・政治家。地方官を歴任したのちに央政府に入ったが、革新派の王安石と合わず、退いて歴史書「資治通鑑(しじつがん)」の編集に専念した。哲宗が即位すると、その宰相となり、王安石の新法を廃し、旧法に復し、保守派の信望を集めたが、まもなく逝去した。その思想は儒学に老荘を交えたものであった。

「廖化」(れうか(りょうか) ?~二六四年)は蜀の軍人。ウィキの「廖化」によれば、『劉備が崩御すると』、『諸葛亮の参軍とな』って、魏北伐戦で活躍したが、二六三年、『魏が攻めてきた時、姜維・張翼と共に剣閣を守備し』、『最後まで鍾会軍に抵抗した』ものの、『先に成都が陥落したため降伏した(蜀漢の滅亡)』。二六四年、『洛陽に連行される途上で病死した』。『没年齢は』七十『歳代だった』模様である。「三国志演義」では、『黄巾賊の残党ながら、仲間の杜遠が拉致してきた劉備の妻妾に無礼を働いたため、 首を斬って関羽に差し出す。その際、賊出身の人物を家来にすることを嫌った関羽に拒絶されている。劉備が荊州を手中にした頃に物語へ復帰し、関羽の主簿(幕僚長)となる。 関羽が呂蒙に攻められ麦城へ逃げ込んだ時、上庸の劉封・孟達へ援軍を求めに走ったが、要請を拒否されて成都に走っている。関羽死後に劉封らの処罰を劉備に訴え、これが孟達の脱走と劉封の処刑につながっている』。『北伐の際には、諸葛亮指揮下の将として活躍する。あるとき、諸葛亮の策により魏の司馬懿を追い詰めるが、司馬懿が』、『わざと逃げ道の別方向に兜を落としたのを真に受け、誤った方向を追ったため』、『後一歩の所で取り逃してしまう。諸葛亮は廖化の戦功を評価したものの、もし関羽なら』、『司馬懿を捕らえることが出来ただろうと、思い耽ることになる』。『最期は正史と同様である』。同書では、『特に老将としての描写はないものの、物語の設定都合で、黄巾の乱から蜀漢滅亡まで』八十『年余の間、戦乱を生き抜いた』設定『になっている』とある。

「我終爲左袵」「我れ、終(つい)に左袵(さじん)と爲(な)す」。衣服の前を打ち合わせる際に左の襟を内側にして着ること。所謂、「左前」。中国では右衽を中華の風とし、左衽を夷狄(いてき)の習俗とした。ここは自身を心から信用してくれた貞節の人がいなくなった、だから私はこの場にあって異邦人だ。野蛮人だという意味であろうか。]

 經世家として、然り、經世家としての彼は、又將畧に於ても優に第一流たるに恥ざりき。吾人は彼が端倪すべからざる戰畧について、多く語るを要せず。唯、彼が敵手にして、しかも彼が知己たる司馬仲達が祁山[やぶちゃん注:「きざん」。]渭水の空營に投じて、「眞に天下の奇才也。」と歎賞したるを以て、彼が霸才を證せむのみ。誰か、公論の反つて敵讐の口に出づるを疑ふものぞ。

[やぶちゃん注:「經世家」(けいせいか)政治家。

「將畧」(しやうりやく(しょうりゃく))は「大将としての知略・将軍としての軍事上の計略」であるが、どうも前の「經世家として、然り、經世家としての彼は」とのジョイントが頗る悪い。

「司馬仲達」既に注で出てきた敵将である魏の政治家司馬懿(しば い 一七九年~二五一年)の字(あざな)。]

 然れども彼が偉なるは、彼が縱橫突破の軍畧の爲にもあらず。彼が治國平天下の政治的辣腕の爲にもあらず。人を容るゝ、光風の如くなる雅量の爲にもあらず。唯彼が義の存する所、身命を輕しとする、鴻毛の如きによるのみ。

 出師表は實に彼が此獻身的精神の結晶せる也。彼が滿腔の熱血の凝血せる也。感淚の滂沱として滴る所、謬奬の聲の自ら起れる也。

[やぶちゃん注:「謬奬」(べうしやう(びゅうしょう))。恐らくは、「謬」は通ずる「繆」の意「あざなう・からみつく」であり、「奬」は「すすめる・助け励ます」で、この二字で「集い結する」の謂いではないかと私は推察する。]

 吾人は之に烈々たる殉道殉義の大精神を見、炎々たる精進不屈の大雄心を見、而して又節操、峨眉天外なる諸葛孔明其人の英姿颯爽として現はるゝを見るを覺えざる不能る也。

 彼云はずや。「臣本布衣、躬耕於南陽、苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯、先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於艸廬之中、諮臣以當世之事、由是感激、遂許先帝以驅馳。」何ぞ其言の眞率なるや。彼は山陽が「有魚頳尾泣窮冬。枯轍無人憐嶮遇。」と歌へるが如く、隆中の艸廬に橫はれる眠獅なりき。而して劉備、龍種の尊を以て、三度之を野に顧るや、彼は彼自らの云へるが如く、其知遇に感激したり。「君ならで誰にか見せむ、梅の花、色をも香をも知る人ぞ知る」とは彼が劉備に對する眞情也。而して其深甚なる感激は、途に彼をして江畔、柳綠にして梅花、雪の如くなる、南陽の春色にそむいて彼が十有餘年の久き[やぶちゃん注:「ひさしき」或いは「ながき」。]に及びて、秋月に對しては洞簫を吹き、春雨に對しては琴を彈じて、靜に天下の風雲を洞觀したる彼が懷しき草廬を捨てしめたり。

[やぶちゃん注:「臣本布衣、躬耕於南陽、苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯、先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於艸廬之中、諮臣以當世之事、由是感激、遂許先帝以驅馳。」勝手流で訓読する。

   *

臣は本より布衣(ほい)、躬(みづか)ら南陽に耕(たがや)す。苟くも亂世に性命(せいめい)[やぶちゃん注:生まれながらに天から授かった性質と運命。]を全うし、聞達(ぶんたつ)[やぶちゃん注:世間に名が知れ渡ること。]を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙(ひひ)なるを以つてせずして、猥(みだ)りに自ら枉屈(わうくつ)し、臣を草廬の中に三たび顧(かへり)み、臣に諮(はか)るに當世の事を以つてす。是れに由りて感激し、遂に先帝を許すに、驅馳(くし)を以つてす。

   *

「山陽」先に注した頼山陽。

「有魚頳尾泣窮冬。枯轍無人憐嶮遇。」頼山陽の「詠三國人物十二絕句」(「三國」人物を詠ずる十二絕句)の「孔明」。

   *

   孔明

有魚頳尾泣窮冬

涸轍無人憐噞喁

誰料南陽半溝水

養渠忽地化爲龍

    孔明

 魚(うを)有り 頳尾(ていび) 窮冬に泣く

 涸轍(こてつ) 人として噞喁(けんぐう)を憐れむ無し

 誰(たれ)か料(はか)らん 南陽 半溝の水

 渠(かれ)を養ひて 忽地(たちまち)化して 龍と爲(な)る

   *

以上は、加藤徹氏の「頼山陽」「が三国志を詠んだ漢詩」というPDFファイルを参照した。その注に「頳尾」は「詩経」の「魴魚頳尾、王室如燬」に基づくもので、『魚が病気になると尾が赤くなる、という』とあり、「噞喁」は『魚が空気や餌を求めて、水面に口を突き出すこと』とされる。以下、加藤氏の訳。

   《引用開始》

 若いころの諸葛孔明は、道路の水たまりの中の魚だった。貧乏と寒さに苦しみ、誰からもかえりみてもらえなかった。南陽の狭い田舎は、小さなどぶのようだったが、そこで暮らしていた彼が龍のように飛躍して天下に名を轟かせると、一体だれが予測できたろう。

   《引用終了》

「君ならで誰にか見せむ、梅の花、色をも香をも知る人ぞ知る」これは「古今和歌集」の「巻第一 春歌 上」の紀友則の一首(三八番)。

   *

    梅の花を折りて人におくりける

 君ならで誰(たれ)にか見せむ梅の花色をも香をもしる人ぞしる

   *]

 於是、彼は漢室の興復を以て、彼が天職と信じたりき。死而後已は彼の本分也。中原[やぶちゃん注:「ちゆうげん」。]を掃蕩するは彼の使命也。彼は十字軍を起したる殉敎徒の如し。彼が灼々たる大理想の赤熱の前には、利害なく、富貴なく、黃金なく、紫綬なく、成敗なく、利純なければ也。

[やぶちゃん注:「死而後已」音読みするなら「シジコウイ」、訓読するなら「死して後(のち)已(や)む」。]

 彼が昆山の玉の如き節操を抱きて、大義の存する所、堂々として屈せざりしを以て、孫權が荆州を襲ひたる、はた曹操が河北に袁紹と對したると比す、孟德仲謀の擧は誠に双牛の角爭と選ぶ所なきを、思はずばあらず。曰、「庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還于舊都、此臣所以報先帝、而陛下之職分也。」と。又曰、「臣不勝受恩感激、今當遠離、臨表涕泣、不知所云。」と。何ぞ其言の惻々として人を動かすや。彼の偉大なるは實に是にあり。是を措いて、東吳の遊說を語り、木牛流馬を語り、蜀民が淚を垂れて私絮するを語る、孔明を知らざるの甚しと云ふべきのみ。

[やぶちゃん注:「昆山」中国古代の伝説上の山岳である崑崙山(こんろんざん)か。中国の西方にあって黄河の源とされ、玉を産出し、仙女西王母がいるとされた仙界。

「荆州」荊州に同じ。

「袁紹」(ゑんせう(えんしょう ?~二〇二年)は後漢末の群雄の一人。霊帝の没後に宮廷の宦官勢力を一掃し、献帝を擁した董卓(とうたく)を倒した。後、曹操と対立し、

官渡の戦い」で大敗して病没した。

「孟德」曹操の字。

「仲謀」孫権の字。

「庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還于舊都、此臣所以報先帝、而陛下之職分也。」「出師表」の一節。訓読すれば、

   *

 庶(ねが)はくは、駑鈍(どどん)を竭(つ)くして姦凶を攘(はら)ひ除き、漢室を興復して舊都に還(かへ)さん。此れ、臣の先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり。

   *

訳すなら、

   *

 冀(こいねが)はくは、我が愚鈍の智慧を使い尽くし、悪しき存在を毀(こぼ)ち払い除け、漢室を復興し、旧都洛陽に戻らんことを。これこそ、私が先帝の御恩に報い、陛下に忠心を尽くすところの務めにて御座る。

   *

「臣不勝受恩感激、今當遠離、臨表涕泣、不知所云。」同前であるが、やや表記が異なる。

   *

 臣不勝受恩感激。今當遠離。臨表涕零、不知所言。

   *

同前の仕儀で示す。

   *

 臣、恩を受けて感激に勝へず。今、當に遠く離(さか)るべし。表するに臨みて涕(なみだ)零(こぼ)ち、言ふ所を知らず。

   *

 臣たる吾、御恩を受け、感激に耐え得ませぬ! 今こそ、さあ、遠征に、いざ、出でんとすべき時! さても……この表に向かっておりますと……自ずと、涙が、こぼれ落ち、最早、申し上げるべき言葉も……忘れております。

   *

「惻々」可哀想に思うさま。憐れみ悲しむさま。

「木牛流馬」(ぼくぎうりうば)は孔明の創案とされる牛馬の形に似た機械仕掛けの兵器・食糧運搬車のこと。

「私絮」不詳。読みは「しじよ(しじょ)」だろうが、くだくだしい個人的な彼への追慕を語ることか?]

 出師表を讀でこゝに至り、孔明を憶ふてこゝに至る、吾人亦涕泣して云ふ所を知らざらむとする也。

 

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