芥川龍之介 釈迦 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(正字正仮名ブログ版)
[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『釋迦』に拠った。本篇には末尾推定クレジットがなく、平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」にも目ぼしい書誌情報は全く載らない。但し、底本は、パート内での配列は葛巻氏によって推定された逆編年構成にするという特徴あり、前の「出師表を読みて孔明を論ず」が推定で明治四一(一九〇八)年とし、本篇の次の「夜行の記」が明治三十九年で、こちらは確定であることが判っている。従って、本篇は明治三十九年から明治四十一年夏以前の閉区間が葛巻氏の考える推定執筆年代と推定し得る。ということは、芥川龍之介満十二、十三、十四歳、東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の一~二年或いは三年生ということになる。
短文であること、しかも整然と整序されてあることから、何らかの授業の作文の下書き或いは清書であるようにも見える。]
釋 迦
迦毘羅の王家に男子あり。長じて成(ひととな)れり。幼にして俊明、武に長じ文に通ず。父王その勇を稱し母后その才を讚え、めとらしむるに美姬を以てす。
紫雲三百の高樓をこむるのあたり、香煙三千の侍女をめぐるの邊、榮華の中に生れたる彼は又榮華の中に歿するを得たりし也。
然れども彼は是を欲せず、富貴を見て浮塵の如く榮華を見る浮雲の如し。實に彼が胸裡に往來せるは如何せば生老病死を免れ得べき乎の大問題なりき。
月冴えて光水の如くなる夜、人生の歸趨に苦しめる彼は遂に孤影飄然、愛馬に鞭(むちう)ちて遠く王城を逃れ出でぬ。爾來六星霜、或は雪山高く雲をぬく所、或は恆河深く藍を流す所、彼は慘澹たる苦業に身を委ねたるなりき。然れ共無上の正覺は却つて彼が跋提河畔なる沙羅雙樹の下に趺座せるとき、忽然として彼に一道の明光を與へし也。於是彼始めてその素志を貫きぬ。婆羅門一派の難業の愚なるを知りぬ。
[やぶちゃん注:「迦毘羅」は「かびら」で、「迦毘羅衞(衛)」(かびらえ(歴史的仮名遣「かびらゑ」):サンスクリット語ラテン文字転写(以下同じ)「Kapilavastu」(カピラバストゥ)の漢訳語)のこと。紀元前六世紀頃にネパール中央部でヒマラヤ山脈の南麓にあった釈迦族の都城及びその部族国家の称。釈迦、ガウタマ・シッダールタ(Gautama Śiddhārtha/パーリ語:Gotama Siddhattha では「ゴータマ・シッダッタ」/漢訳:瞿曇悉達多(くどんしっだった)の出生地。「迦毗羅衛」「迦毘羅城」などとも漢音写する。
「恆河」(こうが)はガンジス川(英語:Ganges)の漢音写。ヒンドゥー語やサンスクリットでは「ガンガー」(Gaṅgā)と呼び、これはヒンドゥー教の川の女神の名でもある。
「正覺」(しやうがく(しょうがく))は「無上正等覚」「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」の漢訳語の略で、「正しい仏の悟り」を指す語。
「跋提河」(ばつだいが)は「阿恃多伐底河(あじだばつていが)」の略。古代インドのマラ国の首都拘尸那掲羅(クシナガラ)を流れる川の名の漢訳で、釈尊は、この川の西岸で涅槃したことが「大般(だいはつ)涅槃経」に記されてある。
「沙羅雙樹」「沙羅」は「さら」若しくは「しやら(しゃら)」と読み、仏教の聖樹フタバガキ科の娑羅樹(さらのき)、則ち、アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta のこと。但し、本邦には自生しない。本邦の寺院ではツバキ目ツバキ科ナツツバキ Stewartia pseudocamelli が「沙羅双樹」と称して植えられていることが多いが、全くの別種である。]
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