小泉八雲 涅槃――總合佛敎の硏究 (田部隆次譯) / その「二」
[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 涅槃――總合佛敎の硏究 (田部隆次譯) / その「一」』の冒頭の私の注を参照されたい。]
二
『世尊に申す、我相の觀念は觀念にあ
らず、人相、衆生相、壽者相の觀念
は觀念にあらず。その故は、尊き佛
菩薩は一切の觀念を脫したればなり』
――『金剛經』
[やぶちゃん注:「離相寂滅分第十四」の最後の釈迦の台詞の掉尾部分の以下の英訳であろう。
*
我相、卽是非相。人相、衆生相、壽者相、卽是非相。何以故、離一切諸相、則名諸佛。
*]
そこで今度は死ぬ物は何であるか、再生する物は何であるか、――過[やぶちゃん注:「あやまち」。]を犯す物は何であるか、罰を受ける物は何であるか、――不幸の狀態より幸福の狀態に到る物、――自覺の絕滅のあとで涅槃に入る物、――『寂滅』のあとに殘つて、涅槃から歸る力のある物、――凡て似の感情が滅したあとで、四つの無限大の感情を經驗する物は何であるか、それを理解する事を試みよう。
[やぶちゃん注:「四つの無限大の感情」「四無量心」のこと。仏が四種の方面に余すところなく心を限りなく配ること。慈無量心(あらゆる人に深い友愛の心を限りなく配ること)・悲無量心(あらゆる人と苦しみをともにする同感の心を限りなく起すこと)・喜無量心(あらゆる人の喜びを見て自らも喜ぶ心を限りなく起すこと)・捨無量心(いずれにも偏らない平静な心を限りなく起すこと)の四つ。]
涅槃に入る物は感覺のある、又自覺せる自我ではない。我とはただ無數の煩惱の一時の集合、空しきまぼろし、破れるにきまつて居る泡に過ぎない。それは業が作つた物、――或はむしろ佛敬の人の主張するところでは、それは業その物である。この意味を充分理解するためには、讀者は、この東洋哲學に於ては、行爲と思想は、物質的及び精神的現象と、――私共の所謂客觀的及び主觀的外見と――結合する力である事を知らねばならない。私共の踏む土地その物、――山と森、河と海、世界と月、要するに目に見える世界は行爲と思想の結合である、業或は少くとも業によつて定まつた存在である註。
註 『今我が現生は過去の業影なり。業影を執て自身と思ひ內にして眼耳鼻舌身外にして園林田宅僕婢妾、我が所有の思ひをなす。而して造業無量牽纏相引て窮極むることなし。過去の過去際を推すもその始めを知らず。……』――黑田眞洞『大乘佛敎大意』
[やぶちゃん注:黒田真洞(くろだしんとう 安政二(一八五五)年~大正五(一九一六)年)は仏教学者で浄土宗の僧。江戸生まれ。号は大蓮社精誉学阿。明治五(一八七二)年、東京増上寺で石井(いわい)大宣から法を享ける。智積院の弘現らに学んだ明治二十年、浄土宗学本校初代校長、明治三十年、浄土宗宗務執綱となり、宗務を刷新、宗憲を制定した。明治四〇(一九〇七)年、宗教大学(現在の大正大学)学長。「大乗仏教大意」は明治二六(一八九三)年仏教学会刊(東京)。引用は同書の、ここの左ページ最終行から(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)。意味は難しくないが、一部の推定読みと、読点等を附して再掲する。
*
今、我が現生(げんしやう)は過去の業影(がふえい)なり。業影を執(とり)て自身と思ひ、內(うち)にして眼・耳・鼻・舌・身、外にして園林・田宅・僕婢・妾、我が所有の思ひをなす。而して、造業無量(ざうがふむりやう)、牽纏(けんてん)、相引(あひひき)て窮-極(きは)むること、なし。過去の過去際(かこざい)を推(お)すも、その始めを知らず。
*
この「業影」は、「業」が影(=姿)となって仮に現われたものに過ぎない、の意。「牽纏」は「纏(まつ)わり附くこと・付き纏(まと)うこと」で、「過去際」過去世の煩悩(=無明)の始まり。「推す」は「探す」で、前の「一」で注した「十二因縁」の輪廻にある通り、その煩悩は無始のものなのである。]
『草、木、土――凡てこれ等の物は佛になる』――『中陰經』
[やぶちゃん注:涅槃部経典の一つに数えられる「佛說中陰經」。竺仏念漢訳は上下二巻。全十二品からなり、七日毎に生まれ変わるという中陰の様子を印象づけたものという。]
『劍でも金屬でも精神の發現である、そのうちに凡ての力が充分に發達し完成して存する』――『祕藏寳鑰』
[やぶちゃん注:「祕藏寳鑰」(ひぞうほうやく)は空海著。全三巻。天長七(八三〇)年頃の成立。「祕密曼荼羅十住心論」(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん:天長七(八三〇)年に淳和天皇が法相・三論・律・華厳・天台・真言の六宗に、それぞれの教義を述べた著述を朝廷に提出することを命じた際、それに応じて空海が真言宗の教義を纏めたもの。「大日經」の「住心品」に説かれた人間の心の向上してゆく様子、則ち「心品轉昇」の次第を当時存在した各宗に配当して真言宗の教判として十住心に体系化したもの。初めて開板されたのは、鎌倉時代の建長六 (一二五四) 年であった)を自ら要約したもので、「十住心論」を「廣論」と称するのに対して「略論」と呼ばれる。十住心の教判を立て、真言宗が一切諸教の上に立って、総てを包括するものであることが説かれてある。]
『有情と云ふも無情と云ふも、物質は法身なり』――『智勝祕疏』
[やぶちゃん注:「智勝祕疏」不詳。この手の謂いは大乗の一部で耳にすることのある説だが、ネットでこの書名の仏典は見当たらない。識者の御教授を乞うものである。]
『顯敎では四大(地水火風)を無情として取扱つて居る。しかし密敎ではこれを三昧耶身、卽ち如來の應身と云ふ』――『卽身成佛義』
[やぶちゃん注:空海撰。これ以前の仏教では「三劫成仏(さんこうじょうぶつ)」や「歴劫成仏(りゃくこうじょうぶつ)」と称し、極めて長時空間の輪廻転生を経た結果、仏に成ることが出来ると説かれてきたのを、空海はこの書で「現在のこの身のままで仏に成ることが出来る」という意味での「即身成仏」を説いている。
「三昧耶身」は「さんまやしん」で「三昧耶形(さんまやぎょう/さまやぎょう)」のこと。密教に於いて仏を表わす象徴物を指し、「三形(さんぎょう)」とも略称する。「三昧耶」とはサンスクリット語で「約束」・「契約」などを意味する「サマヤ」(samaya)から転じた語で、どの仏をどの象徴物で表わすかが経典によって、予め取り決められていることに由来する。
「應身」「おうじん」と読む。法・報・応の三身の一つ。この世に姿を現した仏身の意。広義には歴史上で悟りを成就した釈迦牟尼仏なども結果して応身である。]
『我々の心のどの形でも、佛の心と一致する時は、……その時は他界に入らない塵一つもない』――『圓覺疏』
[やぶちゃん注:唐代の僧で華厳宗第五祖の宗密(しゅうみつ 七八〇年~八四一年:四川省出身。禅と華厳とを統合した教禅一致を唱えた)の主著の一つである「円覚経疏(えんがくきょうしょ)」。正式には「円覚経大疏釈義鈔」。「円覚経」は大乗経典で一巻。唐の仏陀多羅(ぶっだたら)訳とされるが、偽経ともされる。大乗円頓(えんどん)の教理と観行(かんぎょう)の実践を説いたもの。注釈書も多い。正式には「大方広円覚修多羅了義経」。]
私共が自我と呼ぶ業の我は心であり又體である、――二つとも衰へる、二つともたえず新しくなる。知られない始めから、この主觀客觀の二重の現象は代る代る分解し結合して居る、結合は生であり、分解は死である。成形か事情かで、業の生死する外に、生も死もない。しかし再生の度每に、再結合は決して同一の現象の再結合ではない、――丁度生長から生長が起り、運動から運動が起るやうに、――別に起つた結合である。それで幻影の自我は、形と事情に於て變るばかりでなく、又新しき合體と共に、實際の人格に於ても變る。一つの實在はある、しかし永久の個性、變らない人格はない、ただ幻影の自我、生と死の物すごい海の上の、うねりにつぐうねりのやうな、ただまぼろしの自我につぐ自我があるだけである。そして海のあれるのでも、うねりの運動であつて、變形ではない、――動くのは波の形だけで、波その物ではない、――その通り生命の生死はただ形、――精神の形、物質の形、の出現と消散しかない。測られない實在は變らない。『金剛般若波羅密經』に『凡ての形は眞でない、凡ての形よりも上に上る者は佛である』と書いてある。しかし體の全分解と精神の最後の消散のあとで、凡ての形の上に上る何物が殘つて居るのだらう。
[やぶちゃん注:「金剛經」の「如理實見分第五」に、
*
佛告須菩提、「凡所有相、皆是虛妄。若見諸相非相、卽見如來。」。
(佛、須菩提に告ぐ、「凡そ有(あら)ゆる相は、皆、是れ、虛妄なり。若(も)し諸相は相に非ずと見ば、卽ち、如來を見ゆ。」と。)
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とある。]
不完全なる人の誤れる意識のうしろに、――感覺、知覺、思想の向うに無意識に存在して、――私共が魂と呼ぶ物(それも實は厚く織つてある迷の幕に過ぎない物)に包まれて、永久の神聖な物、絕對の實在がある、魂でも、人格でもない、ただ自我のない我、――無我の大我、業のうちに包まれた佛がある。各のまぼろしの我のうちにこの聖い物が潜んで居る、しかも無數の物はただ一つである。生ある物には悉く無限の叡智が眠つて居る、――それは未だ進化しない、隱れた、未だ知られない、未だ感じない物であるが、最後にあらゆる無窮から覺めて、煩惱のすさまじき蛛巢[やぶちゃん注:「くものす」。]を拂つて、永久に肉の蛹(さなぎ)を捨てて、時間空間の最上の征服をするやうに定まつて居る。それで『華嚴經』に書いてある、『佛の子よ、如來の智慧をもたない者は一人もない。凡ての者がこれをさとらないのは、ただ迷へる思想と感情のためである。……自分は彼等に聖い道を敎へて、愚かなる思想を捨てさせ、彼等の心に潜んで居る廣大深遠なる叡智は佛自身の智慧と違つてゐない事を示さうと思ふ』
[やぶちゃん注:「華厳經」「大方廣佛華嚴經」のこと。サンスクリット語で書かれた完全な形の原典は未発見であるが、恐らくは四世紀頃、中央アジアで成立したものであろうとされる。謂わば、小経典を集成して「華嚴經」と称したもので、最初から纏まって成立したものではなく、各章が各々、独立した経典であったと考えられている。この内、最古のものと考えられる章は、菩薩の修行の段階を説いた「十地品」で、一~二世紀頃の成立である。漢訳では、それぞれ六十・八十・四十巻より成る「六十華嚴」「八十華嚴」「四十華嚴」等があり、最後のものは、前二者の中の「入法界品」に相当する。思想的には、現象世界は互いに働きかけつつ交渉し合い、無限に縁起し合うという「事事無礙(じじむげ)の法界(ほっかい)縁起」の思想に基づいており、菩薩行を説くことを中心としている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。以上の引用は、「華嚴如來出現品」の、
*
復た、次に佛子、如來の智慧、處として至らざることなし。何を以ての故に、一衆生として、如來の知慧を具有せざることなし。但だ、妄想顚倒執着を以て、而も證得せず。若し、妄想を離るれば、一切智、自然智、無礙智、則ち、現前することを得ん。
*
なお、後の部分は、平井呈一氏の恒文社版「涅槃 大乗仏教の研究」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)の訳によれば(仮名遣はママ)、
*
『我(われ)爾(なんじ)に其(そ)の道(みち)を教(おし)へん。衆生(しゆじやう)をして煩悩(ぼんのう)を捨(す)てしめ、心(こころ)に没在(もつざい)せる深甚無量(しんじんむりれう)の智慧(ちゑ)の、よく仏智(ぶつち)に異(ことな)ることなきを示(しめ)さん』
とあるが、「華厳経」の一致する、このフレーズを、私は、見出せなかった。]
ここで私共はこれ等の佛敎の根本的敎理と西洋の將來の槪念との關係を考へて見よう。佛敎がこの浮幻世界の實在を否定するのは、現象としての現象の實在を否定するのではない、或は客觀的或は主觀的に現象を生ずる力を否定するのでもない事は明白である。業としての業を拒否する事は全部の佛敎系統を拒否する事になるからである。眞の意味はかうである、卽ち、私共の知覺する物は決して實在その物でない、それから知覺する我と雖もそれ自身不定にして煩惱の性質を有せる感情の集合の不安定な叢[やぶちゃん注:「さう」。集まり。]である。この立場は科學的には强い、――恐らく難攻不落である。本體その物については私共は全く何物をも知らない、私共は宇宙は廣大なる力の働きである事をのみ知つて居る、そしてそれ等の力の働きに現れた法則の一般相對的意味を識別しても、一切の非我なる物(外物)は、如何なる二人の人間にも決して同一ではない神經構造の振動によつてのみ、私共に現れるのである。それでもこんな變化のある不完全な知覺によつて、私共は凡ての形――凡ての客觀的或は主我的聚合物の永續性のない事を十分に會得するのである。
實在をためす物は永存性である、そして佛敎徒はこの見ゆる宇宙に於てただ永久に流轉する現象を見て、物質的聚合物を實在でないと云つたのは、無常であるから、――少くとも、泡の如く、雲の如く、蜃氣樓の如く實在性をもつてゐないからである。それから、相對は思想の宇宙的形式である、しかし相對は永久性をもたないとすればどうして思想は永存性をもつ事ができよう。……かう云ふ見地から判斷すれば、佛敎の敎理は非實在論でなくて、眞の變形實在論である、正しくハーバート・スペンサーの言葉にそれと同じ意味がある、――『凡ての感情と思想はただ一時的であるから、――こんな感情や思想から成立して居る一生も亦同じく一時的であるから、――否、その間を人生が通過する對象も、それ程一時的てはないが、早晚、時々別々にその個性を失ふ途中にあるのだから、――私共は永久の物は凡てこれ等の變化する物の下にかくれた不可知的實在である事を知る』
[やぶちゃん注:「ハーバート・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戶川明三譯。原題は“ Japan: An Attempt at Interpretation ”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。以上は、ハーバート・スペンサーの全十巻から成る『総合哲学体系』(“ System of Synthetic Philosophy ” )の第一巻の「第一原理」(“ First Principles ”:初版は一八六二年刊)の最終章「第二十四章 概括と結論」(CHAPTER XXIV.: SUMMARY AND CONCLUSION.)からと思われる(但し、一九〇〇年の改訂版か)が、実に、この部分は、まさに「小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(43) 大乘佛教(Ⅱ)」の終りの部分でも再度、引用されているのである。]
その通り、私共の自我と云つて居る物は一時的の聚合物、――感覺的迷妄であると云ふ佛敎の敎は、――もし丁寧に調べたら、如何に眞面目な哲學者も拒否する事は殆んどできない事が分るであらう。科學的心理學者に知られたところでは、精神は色々の感情と、それから色々の感情の間の色々の關係からできて居る、そして感情は、生理學的に微細な神經の衝動と同一の簡單な感覺の單位から成立して居る。凡ての感情機官[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]は、同じ形態學的要素の進化的變形であるから、根本的には相似て居る、――そして凡ての感官は觸覺の變化である。或は、この上もなく簡單な言葉を使用すれば、感覺の機官――視覺、嗅覺、味覺、聽覺でも、――皆皮膚から發達したのである。人間の頭腦その物と雖も現代の組織學及び發生學の證明によれば、『その最初はただ眞皮の層の包みに過ぎない』そして思想は、生理學的及び進化論的に見れば、このやうに觸覺の變化である。視覺機官を通じて働く或振動は、頭腦のうちにその運動を起す、それによつて光と色の感覺が續いて起る、――別の振動は聽覺の構造に働いて音の感覺を起す、――別の振動は特別の組織に變化を起して、味、香、觸の感覺を起す。凡て私共の知識は、直接間接、肉體的感覺から、――觸覺から得られて發達する。勿論これは究極の說明にはならない、何故なれば何人も何がその觸覺を感ずるかを說明する事ができないからである。『形而下の物は一切又同時に形而上である』と云つたシヨウペンハウエルの言は至當である。しかし科學は充分に佛敎の立場、卽ち私共の所謂自我は凡て人種及び個人の肉體的經驗に關する感覺、情緖、感念、記憶の束(たば)である事、及び私共の不滅の願はただこの感覺的及び自己的な意識を無窮に續けたい願である事を正しく認めて居る。そして科學は、佛敎が感覺的自我の永久を否定する事にさへ加勢して居る。ヴントは云ふ、『心理學は私共の感覺のみならず、その感覺を新しくする記憶の心象も、その源は感覺と運動の機官の働きによる事を證明する。……この感覺的意識が永續すると云ふ事は經驗の事實と調和ができないやうに見えるに相違ない。そしてたしかに私共はこんな永續は倫理的要件であるかどうかを疑ふ、殊にこの永續の願が、もし成就するとしたら、堪へられない運命になりはしないかと一層疑ふ』
[やぶちゃん注:ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer 一七八八年~一八六〇年)であるが、この謂いに相当する彼の哲学論文を探し得ないらしい。Q&Aサイトのここの質問(消滅することが多いのであるが、今回は特異的にリンクする。何故なら、この質問者は小泉八雲の本篇の翻訳を担当していると宣うているからである。二〇〇八年十二月の質問である)の回答によれば、彼の代表作である「意志と表象としての世界」( Die Welt als Wille und Vorstellung :初編は一八一九年刊)の「続編」(一八四四年)の第二の十七章に『記述があり』、『ショーペンハウエル自体は、「学としての形而上学とは何か」と自問し』、『自然が我々に与える手がかりを解析(entziffern)し、先見性と後天性とを哲学者が主体的に明白如実な自己現象として結びつけること(芸術的創作)で成り立つと解釈してい』るとあった。しかも驚くべきことに、他の回答には――ショーペンハウアーがこう言っているなどというザレ言は、まさにここで小泉八雲がかく言ったのが元凶なのだ――として、小泉八雲を糞味噌に批判している回答まで下方にあったのである。ただ、この――小泉八雲はただの「知ったかぶり」の糞だ――と指弾している人物の叙述を見たら、調子に乗って口を滑らさなけりゃいいのに――『ここ』は夏目漱石の『「坊ちゃん」の一節にヘーゲルが出てくることになぞらえて(ネタの応用・自分流に消化)ただ書いてる』だけなのだ――とまあ、有りがたくも例まで引いて鼻高々に批判しているんだが、しかし、一言、言っとくわな。「坊つちやん」は明治三九(一九〇六)年の発表だぜ? 本作品集は明治三〇(一八九七)年刊だがねぇ? 英語・哲学・日本文学に万事精通していると「知ったかぶり」しているこの回答者の程度が知れるってぇもんだぜ?!……にしてもだ……こんな質問しておいて、それをまあ恥ずかしくも晒したまま、平然と訳して、注附けて、さてもこれが万一、有料書籍として出版されているんだとしたなら……オソロシヤ! 俺は、絶対、買わねえぜ!…………【2019年12月4日改稿・追加】昨日の夕刻、何時も各種テクストの疑問箇所に御教授を戴くT氏により、
――本ショーペンハウアーの発言の引用元が発見され――示された。
T氏曰く、小泉八雲はフランス語は得意であったが、ドイツ語が読めたとは考えにくいことから、原本で読んだとは思われず、小泉八雲の引く英文そのもので調べられた由。
その結果、これは、
◎「生の哲学」・新カント派・ユングなどに影響を与えたドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマン (Karl Robert Eduard von Hartmann 一八四二年~一九〇六年)の代表的著作「無意識の哲学」( Philosophie des Unbewussten :一八六九年)
を、
◎イギリス在住の哲学者で翻訳家のウィリアム・チャタートン・クープランド(William Chatterton Coupland 一八三八年~一九一五年)
が、
◎英訳
して、
◎一八八四年にニュー・ヨークのマクミラン社から初版を刊行した“ Philosophy of the unconscious ”
(こちらの彼の英文書誌データに拠った)
の
◎ここ(“Internet archive”の当該ページ画像。但し、これは一八九三年(ロンドン)刊の第二版)
の
◎“ A. THE MANIFESTATION OF THE UNCONSCIOUS IN BODILY LIFE. ”
(A 人生に於ける無意識の表明)
というパート標題の添え辞である、
*
" The Materialists endeavour to show that all, even mental phenomena, are physical : and rightly ; only they do not see that, on the other hand, everything physical is at the same time metaphysical. " — SCHOPENHAUER.
*
の末尾部分の引用であることが判るのである! 以下に小泉八雲の本文の引用部を示しておく。
*
"Everything physical," well said Schopenhauer, "is at the same time meta-physical."
*
但し、ハルトマンがショーペンハウアーのどのような著作から引用したのかは判らない。しかし、かくして、先のQ&Aサイトの回答の内、少なくとも出所は不明であるが、
★ショーペンハウアーの言葉としてハルトマンが「無意識の哲学」( Philosophie des Unbewussten :一八六九年)に引用している事実
が確認された。同時に、
★同サイトの回答の一部の、おぞましい小泉八雲に対する誹謗中傷は――その悉くが――言われなき無智蒙昧の「知ったかぶり」の大嘘であることが証明された
のである。T氏に心より御礼申し上げるものである。
「ヴント」ドイツの生理学者・哲学者・心理学者で実験心理学の父と称されるヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt 一八三二年~一九二〇年)。引用は一八六三年刊の“ Vorlesungen über die Menschen- und Tierseele ”の英訳“ Lectures on Human and Animal Psychology ”(「人間と動物の心理学に関する講義」)の一節であることが、グーグルブックスのこちらで判明した。]
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